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『闇屋になりそこねた哲学者』(読書メモ)

木田元『闇屋になりそこねた哲学者』ちくま学芸文庫

哲学者である木田元さんが、自分の人生を振り返った書である。海軍兵学校のときに終戦を迎えた木田さんは、焼け野原のなかでテキ屋や、ヤミ米の運び屋をしながら食いつなぐ。そこで儲けたお金をもとに、農林専門学校に入り、その後、東北大学に入学し哲学の道に入った。

哲学をするにはいろいろな言語を知らなければならない。翻訳ではなく原書から著者の考えを感じとらなければならないからだ。最も印象的だったのは、木田さんが短期集中的に独学で語学を習得してゆく様子。

「一年目はドイツ語、二年目はギリシア語、三年目はラテン語、大学院に入って一年目にフランス語をやりました。みんな独学です。毎年四月一日から六月三十日までは、語学月間にしていました。一日八時間くらい、その語学の勉強に当てます。」(p.88)

なぜそんなことが可能だったのだろうか?木田さんは振り返る。

「あとから考えると、少し恥ずかしい気もしますが、そのころはやっと自分のしたいことが見つかったという気持ちで、勉強するのが楽しくて仕方がなかったのでしょうね。高等学校からぼんやり入ってきた連中とは気構えが違っていたと思います。大学なんて、本当に勉強したくなってから入った方がよさそうです」(p.90-91)

本書に一貫しているのが「哲学が楽しくてしょうがない」という感じである。木田さんのすごいところは、大学に入って学問に触れたときの感覚をその後もずっと持ち続けている点だ。その感覚を持ち続けることこそ、学びを持続させるポイントなのだろう。


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養われて、彼らは腹を満たし

養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。
(ホセア書13章6節)


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『「学び」の復権:模倣と習熟』(読書メモ)

辻本雅史『「学び」の復権:模倣と習熟』岩波書店

教育の仕方には「教え込み型」と「滲(し)み込み型」の二つがあり、日本は伝統的に滲み込み型で人間を教育してきた。しかし、現在の学校教育は欧米流の「教え込み型」になっている。今こそ、滲み込み型教育を見直して教育を再生すべし。

これが本書のメッセージである。

滲み込み型とは、職人の徒弟制などに見られるように、教える側がモデルを示し、教わる側はそれを真似して、自然に育っていく形の教育方法である。日本のお母さんと欧米のお母さんを比較すると、日本のお母さんの子育ては滲み込み型、欧米は教え込み型であったという。

本書では、江戸時代の寺子屋や藩校などにおける、滲み込み型の教育の実態が紹介されている。少し驚いたのは、今の学校で見られるような一斉授業はなかったということ。寺子屋でも藩校でも、教わる側は自分のペースで勝手に学び、教える側は個人の進度に合わせる形だったらしい。

さらに、著者は、滲み込み型の教育が機能するためには、師匠を選ぶことができることが大切になるという。なぜなら、生徒と教師の間には信頼感が欠かせないからだ。

企業における人材育成の問題を考えるとき、本書はいろいろとヒントをくれるように感じた。

たとえば今、職場でOJTが機能しないという話を聞く。

その理由の一つは教育観の違いかもしれない。年配層には「滲み込み型」の教育観が根強く残っているのに対し、若い人たちはどちらかというと「教え込み型」にシフトしているのではないか。滲み込み型教育が機能するためには、教える側と教わる側に教育観の一致が必要だと思うがそれがズレているのだ。

もう一つの問題は、滲み込み型で教育するためには、きちっとしたロールモデル(お手本)が必要になるのだが、環境変化が激しい現在、年配の人たちがお手本となることが難しくなっているような気がする。

一方、教え込み型にシフトしようとしても、日本人はそんなに慣れているわけではないので、教えるのが下手である。

滲み込み型の教育は日本の長所だから、これは守っていかねばならない。ただ、変化の速さについていくためには、教え込み型も無視できない。いかに両者を組み合わせるかがポイントになるだろう。

われわれ日本人の課題は、「滲み込み型教育が機能するような信頼関係をつくること」と「教え込み型教育が機能するように教え方を磨くこと」だと感じた。


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