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『善の研究』(読書メモ)

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫

日本を代表する哲学者・西田幾多郎の主著である。そのスケールの大きさに感動した。

本書を読んで印象に残ったのは「個人性」という言葉。個人性とは「他人に模倣のできない自分の特色」(p.208)である。どんな人間でも、その人しかできない何かを持っており、偉大な人はこの個人性を発揮した人であるという。

この個人性を発揮することが、善の第一歩となる。だから、まず「自分」を大切にしなければならない。西田さんは「自己の本分を忘れいたずらに他のために奔走した人よりも、よく自分の本色を発揮した人が偉大であると思う」(p.208-209)と言っている。「個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ」(p.209)という言葉は重い。

しかし、個人性は善のスタートではるけれども、そこには「」がなければならない(p.203)。愛とは、自分のことだけでなく、他人の人格を認めることだ。自己の私を捨てて無私になればなるほど愛は大きくなり深くなる(p.260)。

善は「小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達する」(p.216)。「我々が内に自己を鍛練して自己の真体に達すると共に、外自ら人類一味の愛を生じて最上の善目的に合う様になる、これを完全なる真の善行という」(p.220)。

つまり、自らを鍛えて個人性を発見し、人類のために働くことが「真の善」なのだ。極めつけが次の文章。

「凡ての人が各自神より与えられた使命をもって生まれてきたという様に、我々の個人性は神性の分化せる者である、各自の発展は即ち神の発展を完成することである」(p.254)

西田さんによれば、神とは「宇宙の根本」であり、私たちは宇宙と同一の根底を持っている。だから、真の自己を知ることは、神を知ることとつながっている。

では、そのためには何をすればいいのだろうか?

我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇る」(p.221)ことが必要になる。「基督教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」(p.221)

要は、自分のオリジナリティを追求しつつも、「自分が自分が」という自己中心の気持ちを抑え、他者や社会に目を向けて働くことが「善」や「神」に近づける秘訣なのだろう。


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