みどりの野原

野原の便り

8月27日 日本書紀 天武天皇6年

2021年08月27日 | Weblog

楽し、むつかし、日本書紀

今回もまた、あやふやな理解だが、自分のために、教えてもらったことを、主なことだけ書く。

*6年の1月17日「南門に射ふ(いくふ)」 「告朔(ついたちまうし)」と共に、よく出てくる。
「射ふ(いくふ)」は射礼(じゃらい)大射(おおゆみ)とも。
毎年正月の17日に宮中で行われた弓の競技。
官人の中から選ばれた射手が120人ぐらい? 的から36歩離れたところから弓を射る。(1歩70㎝として約25mぐらい?)
成績の優秀な者には天皇よりごほうびが出たらしい。
正月に弓を射る・・儀礼としてだけではなく、天皇を守る集団の武力を知らしめる意味もあったのか?

「射礼」の最古の記述は、仁徳天皇12年。
高句麗から献上された「鉄の盾と鉄の的」を射させたが、射通せる者はなく、ただ一人「盾人宿禰(たたひとのすくね)」のみが的を射通せた。
ご褒美に「的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)」の名を賜った。

清寧天皇4年 孝徳天皇 大化3年・・の時にも記述があるそうだ。
天武天皇期にはこの後も度々出る。

*2月には多禰嶋人等(種子島の人ら)が飛鳥寺の西の槻の木の下で饗宴をした。わざわざ書く意味は何?
*4月、天皇を非難した人が大逆罪で伊豆嶋に流されたり・・
*5月、大博士(おおきはかせ)の百済人「率母(そちも)」が大山下の位を授けられ、食封として三十戸を支給された。

懐風藻の記述の中に「風俗を調え、人民を教化するには学問より勝るものはなく・・」があるそうで、「学問」が重要視されるようになった。
教えたのは百済の人で、「率母」は五経に通じていた。
他に兵法や医学、書や算の博士もいたそうだ。
勉強方法は、先ずは音読ー次に暗唱ーそれからが勉強。  う~ん。頭が痛い。

百済の博士などによる教えが、日本の学問の基礎・基盤をつくっているのだ。 なるほど、そうだなあ。

ど素人ですので、間違いは教えてくださいね。

コメント
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