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連載 NO.26 3、四・一九学生革命 4、朴正熙とその時代  軍事独裁政権の下で

2019-12-30 | 3・1独立運動の伝統を受け継いで

NO.26

   3、四・一九学生革命 

 4・19 4月革命とは悪行の限りを尽くした李承晩大統領が国民の力で失職させられた事件です。当時最も大規模なデモが発生した日が4月19日で あったことから、4.19革命、とも言われています。

1、 四月革命に至る経過
 1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(85歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年の選挙では、与党民主党の大統 領候補・申翼煕が遊説中急逝し大統領は与党の李承晩候補が棚ボタ勝利となったものの、副大統領選挙については弔い票などを集め約20万票差で野党・民主党 の張勉候補に奪われ、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、大統領権限の強化と張勉副 大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。

 1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方野党・民主党も趙 炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中に趙炳玉が死去李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領には張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた。


 3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、学生と市民が大統領選の無効を主張して暴動を起こした。この暴動は鎮圧されるものの、4月11日に暴動に参加して行方不明になっていた学生が変死体で発見され反政府機運が高まった。

 4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告、デモ隊への発砲で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。それでも事態は収拾することなく4月24日には李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中という悲惨な結果となったのである。

 この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。

   4、朴正熙とその時代  軍事独裁政権の下で

 李承晩が退陣においこまれた「4月革命」のさなかに軍部の将校たちが政権奪取の謀議を進めていた。多数の国民は、新しい政治が始まると信じていた。「4月革命」の指導者だった学生たちが「南北朝鮮会談」を開こうと準備中に、突然軍事クーデターが引き起こされた。後に大統領になった朴正煕を中心とするグループだった。金チョンピル・全ドファン・蘆テウが含まれていた。

 彼らは直ちに戒厳令を出し、議会を解散・政治活動禁止、張勉政権の閣僚を逮捕した。

 国家再建非常措置法を出し、6月10日には、韓国中央情報部(秘密諜報機関・KCIA)をつくった。7月3日張都暎を失脚させ、権力を奪取した。当然の結果としてこれに抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、武力で押さえ込んだ。

 朴は、アメリカの支持を取り付けるために訪米しケネデイ大統領との会談を実現した。

 往路来日し、11月12日池田勇人首相と会談、早急な国交正常化で合意した。韓国国民の願いは銃剣で奪い取られた。朴正煕氏は1963年8月、軍を退役し大統領選に出馬し大統領の座に就く。

 1965年6月22日、日本との国交を回復(日韓基本条約)させた。国民は日本統治時代を清算するものでなく、僅かばかりの金で国を売るものであるとして、民主化活動家の大学生に市民も加わった韓国民と野党議員たちの激しい抵抗の中、日本との条約締結が強行された。また、日本国内でも、条約に基づく巨額の資金提供は独裁政権を利するとして大々的な反対運動が展開されていた。

 「日韓条約経済援助」「ベトナム戦争への参加」で財源を得て国内財界と手を組み、開発優先政治で経済を立て直していった。国内では頻繁煮民主化を要求する集会・デモが繰り広げられたが、釜山・馬山で大規模な民主化デモ(釜馬民主抗争)が起こされていた、1979年10月26日、朴正煕大統領はKCIA部長金載圭によって射殺された。(10・26事件)

          

 


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