柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

唯物論

2006-05-11 08:39:17 | Weblog
ローリングストーンズのキースリチャーズが大変です!新聞によると再起不能だそうです。ええ~?なんて由々しきこと!この前日本公演して、この27日にワウワウで録画の放送があるというのに。4月の末にオーストラリアで木から落ちて頭の手術したそうです。怪我なら若いも年寄りもないのですが、布袋トモヤスが同じように開頭術して問題なく回復していますよね、あのタイプと違う重篤な外傷だということです。あらら、ローリングストーンズいよいよ存亡の危機ですか。40年をくぐってきたビッグネーム危うし。
 昨日TVで皇后様の御給桑(ごきゅうそう、蚕に桑を与えられる儀式)のニュースを見ました。初めて知りました。へぇ、まだこういう儀式が残っているのだと感心しました。これは皇室としての、祭主としての儀式(例えば大嘗祭とかの類)ではないです、きっと明治時代の富国強兵策を経済的に支えた絹糸絹製品生産に対する感謝と重大視の意思表示ですが(人に対して勲章与えるように)、この時代にも残っているという驚きです。こういうのは中止できないんでしょうねぇ、歴史的意味合いが付け加わってくると余計に。もちろん未だシルクには需要が大きいわけで、地場産業として養蚕が重要な地域はあるのでしょうし、なんてぶつぶつ思うわけですが、わざわざにこの時代になってまで皇后様が手づからに、という感想です。やはり昔を偲ぶ儀式化しているのですね。
 小児の移植医療専門に異国の地で先端を走る42歳医者の記事がありました。一度に五つの臓器移植するんだそうです。一度に五つ!ですよ、びっくりします。恩恵を受ける人達には最高の先端医療なのでしょうが、皆さんはどうお感じですか。私はとても違和感を覚えます。この手の記事の常で、またこういう医者のいつもの謂で、どうしてこういう医療が日本でできないのか?という憤り調でまとめられているのですが、日本でできないのはそれなりに理由があるからでしょうに。技術の問題ではなくて、手段としての問題、選択肢としての是非問題。いわば国民的感情論、文化的受容論。こういう問題の解決にはとにかく時間が要るのです、有識者とやら倫理学者とやら法律専門家とやらの硬直した解釈なぞ役に立たぬのです、実際何の役にもたっていないでしょう?私は移植医療には反対です。臓器の入れ替えを「最後の治療法」などと平気で素人さんに言い放つ医者のセンスの無さ、品の無さ、思慮浅さに嫌悪するからです。もちろんその前に、臓器の入れ替えは治療ではない、持って生まれた体で皆生きていく、それしかないから皆我慢し辛抱し生きていく、若くして死ぬ人があり、病に長く苦しむ人あり、長寿天寿を全うする人あり、そういう個人差も運命として受け容れるのは、受け容れざるを得ないのは自分の体は一つだからでしょう。いや、それは技術の進歩や、技術的に可能不可能の問題とは別次元のことと思います。技術があるから今までの不可能が可能になるのです、そういう真理を否定するのでもありません。でも、生殖医療に見られる如く、科学は技術は万能を傲ってはならぬと思うのです。触れてはならぬ、介入を許さぬ部分が無いのでしょうか。私はあると思います。人が生きていく上での、社会生活を営んでいく上での大原則。法律やその他諸々の規則規範を超えた原則、全ての規則の元になる原則。そう思われませんか?ううむ、技術に感情で対応する、具体に抽象で対応する憾みは大きいのですが、私は唯物論だけでは、還元主義だけでは人の世の中は処せないと思っています。
コメント
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