ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

長谷川豊の主張にのっとれば、香川伸行は世間に迷惑をかけなかったということになるのだろう

2017-10-21 00:00:00 | 社会時評

拙ブログでは、長谷川豊の名前を記事に出したことはありませんでした。チェックしましたらありませんでした。ただ1度彼の記事を引用していますね。

赤字の会社がそのような資金援助を行うのってのは、完全な背任じゃないのという気がする

>>さて、まとめておきますと、フジテレビの営業赤字は私はさほど気にしません。ちゃんと不動産業に着手しているし、内部にいた私は、そもそもあの局が「支払わなくてもいいお金」を支払いまくっていることを存分に知っているので、これでいい感じに支出を圧縮できるはずです。このニュースはネガティブなものではなく、ポジティブに受け取っています。

フジテレビは儲かりすぎていたのです。なので、色んな人々が群がってきました。その結果、本来であれば支払う必要のないお金が山ほどあるのです。今回のニュースでフジテレビは「こういう訳で赤字ですから…」と言ってそれらの金を切ることが出来るでしょう。

名前は出しませんでしたが(ていいますか、たぶんこの記事の引用に際しては、筆者の名前もろくに確認していなかったと思います)、この記事の筆者は長谷川豊です。

私が引用した媒体は「BLOGOS」ですが、これは単にそこで記事を読んだためなので特に他意はありません。が、このあと彼はここから契約を打ち切られます。よって私が引用したリンクはすでにありません。そしてテレビ番組などの出演契約も打ち切られました。その理由は、こちらの記事です。

 自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!

というのはタイトルを変更して、現在こちら。

医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!

これはさすがによろしくないと関係各所が考えたようで、そういう事態になったというわけです。

さて現在彼は、選挙に出馬しています。それでinti-solさんの記事でこのようなものを読みました。 

維新候補の長谷川豊氏「警察の呼び出しはデマ!」⇒夕刊紙が報道!「60キロを92キロで走っただけ」

長谷川からすれば「選挙妨害しやがって」ということなのかもですが、事実の指摘ですからね。そういう話をしてもしょうがないでしょう。

それで長谷川がフジテレビを退社した事情は、もっぱら金銭問題だとされています。ご当人否定しているのでしょうが、そもそもそういう人物を選挙の候補としてスカウトする維新の見識の問題でしょう。それもどうかです。

で、inti-solさんが長谷川について書いた過去の記事とコメントで興味深いくだりがありまして、それは私が過去に書いた記事とリンクする部分があると思いました。

>つまり、人工透析は確かに医療費がかかりますが、その人工透析患者の中では、「自業自得」な人たちは相対的にあまり医療費がかからないのです。そんな人たちはすぐに死んでしまうからです。人工透析を受けつつも5年10年と長生きできるのは、食生活についてある程度自らを律することができる人です。
ということは、莫大な医療費を槍玉に挙げて人工透析患者を非難するなら、実は「自業自得ではない人」をこそ槍玉に挙げなければならない、ということになってしまいます。どうやって槍玉に挙げるんでしょうか。透析患者の分際で、つましく食生活を律して長生きなどするから医療費がかかる、暴飲暴食でもして、とっとと死ね - とでも言うのでしょうか。まさかねえ。

>透析を受けている人の生存率は1年後で90%、5年後60%、10年後は36%なのだそうです。世の中の平均よりははるかに短命でしょう。その中で20年生きながらえたというのは、幸運だったのではないでしょうか。

自分の肉体管理に甘い部分があったのだと思う(香川伸行)

記事でご紹介した香川は、拙記事中で引用した新聞記事を再引用しますと、

>> 香川氏は3年前から受けている人工透析治療をこの日も受け、自宅に戻っていた。野球をやめた後、腎不全などを患っていた。家族によれば昨年1月にも1度、心筋梗塞で倒れていた。その際は回復していたが、医師に「次、倒れたら危ないかも」と告げられていたという。

とあります。死の3年前から透析を始め、前年に心筋梗塞、そして再度の心筋梗塞で死亡してしまったのですから、まさに透析患者の早死にの典型だと思います。

それで長谷川の主張を敷衍すると、たぶん香川は世間に迷惑をかけずに死んだということになるのでしょうね。香川は少なくとも高校生のころから太っていましたが、プロ野球に入ってからも、そして引退後もさらにひどくなりました。子どものころからの食生活を改善できなかった、経済的な苦労などでストレスが激しかったとかいろいろあるのでしょうが、長谷川が非難する長命の透析患者はむしろ自己を律せる人間であり、そういったことが難しい人間(一例香川)は早死にする可能性が高いわけです。こういうことに長谷川がどう考えて記事を書いたのか、疑問が生じます。実際香川の人工透析後の状況はこのようなものです。

>晩年の香川さんは現役時代110キロだった体重が138キロに。心配する家族に「なるようにしかならん」と言い放ち、07年には糖尿病の悪化から腎不全に。医師からは「余命1か月」を診断され、身体障害者1級となり一生、人工透析が必要な体になってしまった。

 それでも「ええんちゃうか」と食事制限もせず、子供の将来の心配もしない香川さんに弘美さんの怒りが爆発。「子供じゃないんだから、自分でやれることはやってよ」と言い放ってしまったという。

これじゃあ申し訳ないですが、自業自得の部分があるとしか言いようがないですね。

ところで長谷川は、自分が何らかの理由で人工透析を余儀なくされたらどうするんでしょうね。かなり興味深いですね。自分は絶対人工透析などすることはないと(根拠のない)自信があるのかもですが、ご当人だけでなく家族、身内、親しい友人などがなったらどうなるか。辛坊次郎が70歳になったらどのような言論活動をするのか興味があるのと同じです。長谷川やその関係者が人工透析をする可能性よりは、辛坊が70歳を迎える可能性のほうが高いでしょうから、彼のほうが窮地に陥る可能性は高いでしょう。たぶん自分の発言を「なかったこと」「自分は別」で逃げるだけでしょうが、こういう連中のほざくことをあんまり評価はできませんね。

それで長谷川は、議員に立候補することを決めてからは透析患者に謝罪して歩いたようですが、そして上の記事もたぶんに炎上商法なのかもですが、でも謝罪して歩かざるをえないようなことを書くなです。そんなことも理解できないほどの馬鹿でもないでしょうに。

今回の記事は、inti-solさんの上に引用した記事とコメントを参考にしました。感謝を申し上げます。

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シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(11)

2017-10-20 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

このあたり、やはりこのような建物をこれからも活用してくれればなあと(無責任に)考えます。

別に美人というわけでもないですが、わざわざ両方の顔を写真で記録するのが私らしいところです。

これはいかにも中国っぽい建物です。

心配はいらないでしょうが、こういう通りを歩くのは怖そうです。いや、通る必要がないから通りませんけど。

フットマッサージ屋ですかね。時間がないから行きません。

ランドマーク的な建物ですかね。

シンガポールの歴史を象徴するような写真・・・かも。

ようやく某ガイドブック(この時は、事情があって「地球の歩き方」をもっていきませんでした)ご推奨のホーカーズへたどり着きます。

こんな感じです。

写真を見て改めて感じたのですが、客は観光客以外は中国系の人ばかりですね。

もう店は閉まりつつある時間です。日曜なので営業していない店もあるのでしょう。

この店がご推奨でしたが、けっきょく食べられませんでした。

観光客(らしき人)もけっこういました。

けっこう広いでしょ。

この店で牛肉麺を頼みます。

昨日は飲めなかったので、今日はビールをいただきます。

写真が悪くてごめんなさい。おいしくいただきます。

では次なるところへ行く・・・

つもりでしたが、やはり鶏肉を食べないわけにはいかないので、まだ営業している店で注文をします。

 鶏のほかに砂肝もいただきます。別にこの店というわけではなく、読者の皆さまもシンガポールに行かれたらホーカーズで鶏を注文されるといいかもです。

(つづく)

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拙職場であったちょっとした事件

2017-10-19 00:00:00 | 身辺雑記

私の職場は、高層ビルの十何階にあるのですが、過日、私の職場に用事があって来た男性が、とつぜん声を上げて倒れてしまいました。「ドタン」とけっこう大きな音がしたので、私も席を立って見てみます。

男性はあおむけに倒れていました。対応していた職員が、すぐそばで声をかけています。男性はかすかに声を上げているので意識不明ではないようです。

誰かが、救急車を呼べといいました。電話する人もいます。医療関係者と連絡を取る職員もいましたが、ちょっと不在でした。

男性の顔を私も見ましたが、ひどく汗をかいていました。その日は特に暑いわけでもなく、もちろん建物の中ですからそんなに暑いわけもないのですが、倒れる前にその人は「暑い」と言って一回しゃがみこんだそうです(私はそれは見ていません)。で、立ち上がったのですが、また倒れてしまい、今度は立ち上がれる状態ではなくなりました。

それで男性は起きられないので、職場の人間が「救急車呼びますよ」といったのですが、大丈夫だとその男性は言います。

倒れて起き上がれないのに「大丈夫だ」もないものですが、でも人間ってそういうことを言ってしまうのかもしれませんね。もちろん私たちは、「いや医者に行って診察してもらったほうがいいですよ」と言って説得します。そもそも立って歩ける状態ではないので、どっちみち救急車か何かの世話にならないとどうしようもありません。まさか住所を確認してタクシーに押し込むわけにもいかないでしょう。

そうすると救急隊員が到着しました。簡単に血圧を測定してそれで確認をしていました。職場のすぐ近くはわりと大きな病院なのですが、たぶんそんなに重篤な状態ではないという判断でしょう、遠い病院になるかもしれないみたいなことを隊員は言っていました。

それでストレッチャーに運ばれて男性は去っていきました。大事にはならないとは思いますが、それにしても外で単独行動しているときにこのように倒れると大変です。屋内だからまだ対応が早かったのでよかったのですが、屋外で、しかも暑い夏や雨や雪、悪天候の日、酷寒の冬なのでは一刻を争う事態になります。もちろんこんなのは、「気を付ける」という次元のことでもないですが、やはりこのような事態にはならないようにしたいものだと考えました。

それにしても人間て、大丈夫でないときに大丈夫だと考えてしまうところがあるのかもです。酔いがさめていないのにさめたと考えたり「大丈夫だ」と考えて車を運転して人身事故を起こして会社を首になるなんてのは、こちらの記事でもご紹介しました。呪われた合コンに参加した元同僚の人も、聞いてはいませんが、まあそんなものだったのでしょう。

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シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(10)

2017-10-18 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

また駅まで向かいます。

このあたり、私たちがイメージするシンガポールよりだいぶ下町というか、庶民的(?)な雰囲気があります。

携帯電話関係の店舗は、世界中どこでも人気があるようです。

日曜のせいでしょうが、出店もいろいろ出ています。

立派な木です。

なかなかいい建物です。

暑い日でしたから、冷たい飲み物もずいぶん売れたでしょう。

地下鉄の中は当然冷房が効いているので助かります。

こういう白人の女性は、当然写真を撮ります。

チャイナタウンです。今日の夕食は、ここのホーカーズで食事をするつもりです。

シンガポールでは、右の人のような民族衣装を着ている人はあまり見かけません。旅行者か現地住民かは不明ですが、左の後ろ姿の女の子たちのように、わりと短いスカートが目立つのもシンガポールらしいところです。

日曜の夕方ですからにぎわっています。ていうかにぎわっていないと困ります。

旅行者向け(?)のシーフードの店です。

今日は無理ですが、再訪したときは行ってみたいと思います。

ね、外国人が多いでしょ。現地在住かもですが。

こういう店で食事するのはあまり好みではないので、私はホーカーズへ向かいます。

日本語の案内表記もあります。

このような写真を自宅PCの壁紙にするわけです。

土産物屋も軒を連ねています。

だいぶ暗くなってきました。

左の建物のようなカラフルな建物は、あまり日本では見かけません。

(つづく)

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シンガポールほか2か国2都市紀行(ついでに北京も)(2017年3月)(9)

2017-10-17 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

シンガポールはやはり清潔というか機能的な雰囲気があります。まさに「先進国」の雰囲気です。

このような写真を見ても、やはり大変豊かな国であることがわかります。

この駅でも、扇風機はがらがら天上で回っています。

右側の女の子、きれいな脚をしています。こういう写真を堂々と撮るのが、私のような写真愛好家のやることです。

乗り換えます。

地下鉄の中の写真を撮るようになり、その国、都市、路線、時間で、驚くほど車両の中も乗っている人も、つり革も広告も異なるという(当然といえば当然の)ことを痛感するようになりました。

そうこうしているうちに、またゲイラン最寄りの駅に到着します。

カバンを引っ張っていると、昨日買ったカバンがもう金具他が壊れました。激怒します。

昨日の朝見かけた建物を再確認しながら宿に向かいます。

洗濯物が堂々と干してあります。

うーん、この魚新鮮だろうか・・・。

シンガポールに八百屋というのはちょっとイメージと違うというのは私の偏見?

ようやくホテルに着きます。手前のクリームの建物と、奥のブルーの建物(私が最初の夜に泊まったホテル)の間にある建物がそうです。

規定の時間より若干早かったような気もするのですが、チェックインできました。

おとといの宿よりこちらのほうが安いので、こちらのほうがお得です。

なかなかいい宿でした。他の宿と比較の上でですが、安ければこちらのほうがコストパフォーマンスがいいと思います。それはともかくまた外に出ます。

(つづく)

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アンヌ・ヴィアゼムスキーの死を知る

2017-10-16 00:00:00 | 映画

一昨日の橋本力氏に続き、今日も映画関係者の追悼記事です。モーリヤックの孫で、ジャン=リュック・ゴダールの奥さんでもあった女優・映画監督・小説家のアンヌ・ヴィアゼムスキーが亡くなりました。 私は、やや遅れて10月12日木曜日に知りました。いつもの通り記事を。

>アンヌ・ビアゼムスキーさん死去=フランスの女優、作家

 アンヌ・ビアゼムスキーさん(フランスの女優、作家)5日、がんのためパリで死去、70歳。家族が仏メディアに明らかにした。
 ベルリン生まれ。後にパリに移り住み、66年に映画デビューした。翌年にはゴダール監督の作品「中国女」や「ウィークエンド」に出演。同監督と結婚したが、約5年後に離婚した。
 80年代からは映画から次第に遠ざかり、執筆活動に専念。文学賞の受賞歴もある。52年にノーベル文学賞を受けた仏作家のモーリアックは祖父に当たる。(2017/10/06-00:17)

やっぱり「ビアゼムスキー」はだめですね。「ヴィアゼムスキー」でなければ。ビビアン・リーではやっぱりだめです。ヴィヴィアン・リーでなければいけないのと同じです。一番上の写真は、それなりのご年齢の時の写真ですが、やはり彼女のイメージは、20代のこのとろんとした目つきの頃だと思います。これは「中国女」ですかね。

前にも記事に書きましたが、ゴダールというのは女性の好みが非常に分かりやすい人です。最初の奥さんが、デンマーク出身の女優アンナ・カリーナ、次がポストカリーナのゴダールのミューズであるヴィアゼムスキー、結婚はしませんでしたが、80年代になって3作にわたってゴダール作品に出演したミリアム・ルーセルも、2人に(ものすごく)似ています。

顔の系統がよく似ているでしょ。

ヴィアゼムスキーは67年にゴダールと結婚しましたが、彼がジガ・ヴェルトフ集団を解散した72年にはすでに結婚生活の実態はありませんでした。しかし離婚が成立したのは79年です。ゴダールはこの時点では、スイス人のアンヌ=マリー・ミエヴィル をパートナーにしていて、彼女がゴダールの最高の同伴者となります。

しっかし上の2枚スカートが短いですね。時代かな。 

ヴィアゼムスキーは、女優活動から徐々に作家活動にシフトするようになり、小説などを出版するようになります。いくつかは日本でも発売されています。

私は彼女の本の日本語訳は持っていませんが、原書は1冊持っています。まだ読んでいませんが。これは読みとおさないといけませんね。

前に、ゴダール研究家でありゴダールの著書を数冊翻訳している奥村昭夫氏について、

>奥村氏はゴダールより10歳以上年下なわけで、たぶん自分がゴダールより早くこの世を去るなんて想像もしていなかったのでしょうが、しかしゴダールは今日でもお元気です。いまだ映画製作を続けるゴダールについての奥村氏の評論をこれからも読んでみたく思いました。

書いたことがありますが、ヴィアゼムスキーも自分がゴダールより先に死ぬなんて想像していなかったと思います。奥村氏はゴダールより13歳くらい年下ですが、ヴィアゼムスキーは17歳下で、しかも彼女は一般に男性より長命な女性です。たぶんですが彼女は、ゴダールが死んだあとに彼女なりのゴダール論、あるいはさらなるゴダールとの想い出を書く用意があったのではないかと思います。実際のところは分かりませんが、あまりうまくいった結婚生活ではなかったとはいえ、ゴダールなくして良かれ悪しかれいまの自分はいないという認識を彼女も(当然ですが)持っていたということでしょう。やはり私も、彼女の出演した映画と著書を鑑賞しなければな。本は、1冊は原書で読まないとね。

最後の写真は、「ワン・プラス・ワン 」撮影時のヴィアゼムスキーです。この写真ではフレーミングから除かれていますが、右で手を伸ばしている人物がゴダールです。

アンヌ・ヴィアゼムスキーさんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。

Anne Wiazemsky

(1947-2017)


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昨日がトニー谷の生誕100年目の日だった(幼児期の虐待経験が、彼の芸風にも影響を与えたのだと思う)

2017-10-15 00:00:00 | 映画

bogus-simotukareさんのブログのこの記事を読んでいて、Wikipediaの「トニー谷」のページが引用されていました。

私は年齢的にも芸能人の好みとしても、トニー谷は観てもいないし、また伝えられる芸風ではとても彼のことを好きになれないというところがありますが、彼の場合芸風だけでなく実際も芸のような傲岸不遜な人間だったようです。Wikipediaからの引用です。注釈の番号は削除します。

>無礼な芸風の芸人については「しかし舞台裏では礼儀正しかった」というようなエピソードが語られることが多いが、トニーは舞台裏でも一貫して無礼だった。
人気絶頂期は傲慢そのもので、柳家金語楼や古川ロッパ等先輩芸人への敬意が欠け、喜劇人仲間からも反感を持たれていた。そろばんを使った芸も本来は坊屋三郎のアイデアで、坊屋は芸を盗まれたことに激怒していたという。伴淳三郎は、トニーに映画出演の仕事を紹介したが、撮影の朝、トニーが首筋に大きなキスマークをつけて現れたため、トニーを怒鳴りつけた。 唯一の例外は榎本健一であり、榎本はトニーを「生意気だ」と言って怒りつつも、やがてトニーへの風当たりがあまりに強くなると「トニーを慰める会」を自ら率先して催した。このため榎本にだけは一定の敬意を払っていた。後の子息誘拐事件の際にも榎本だけはトニーをかばい、トニーの側でも榎本を信頼していた。

女性芸能人に対しては舞台裏でもセクハラを仕掛け、日劇の楽屋に乱入してはヌードダンサーたちに抱きつき、触りまくった。また、NETテレビの公録でも、同じ番組に出る女性漫才師の楽屋に乱入しては「おい! おまんちょ見せろ!」と大声で怒鳴った。この時のトニーは酒など入っておらず、しらふだった(山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』)。このことから女性芸能人たちはトニーを心底嫌い、共演を拒否した。これはトニーの活動の場が徐々に減り、人気が失速する一因ともなった。

放送局のエレベーターで女学生と乗り合わせたトニーは、その女学生が彼の顔を見てクスリと笑ったことに激怒し、「なんで笑った、オレの顔がそんなにおかしいか、ここは舞台じゃねえぞ、笑いたけりゃゼニを払って笑え! オタフクめ!」と暴言を吐き、彼女を泣かせてしまった。そのことがあとで新聞の投書欄で明らかにされ、トニーは世間から指弾された。その一般人は安藤鶴夫の娘だったという説がある(詳細不明)。

小林信彦は、「私の友人(コメディアン)は、トニー谷が客の頭を蹴とばすのを目撃している」と述べている。1954年6月、大阪の劇場に出ていたトニー谷は「芸が古い」と新聞で批判されたことに立腹し、「もっと古いのがいるざんショ、アジャパーなんてのが」と舞台で叫んだところ、折悪しく向かい側の劇場に伴淳三郎が出ていたため、もめ事に発展したこともある。

また、無名時代の花登筺はOSミュージックホールで幕間コントの構成演出を担当していた頃、当時人気の絶頂期にあったトニーの出演に際し、徹夜で新しいギャグを考えて脚本を書き上げ持参したが、トニーはそれを読みもせずに「客は君の脚本でくるのじゃない。トニー谷の名前で来るのだ。脚本なんていらないよ」と花登の目の前で脚本を破り捨てた。花登は後年、このときのことを「劇場側の誰かがそばにいたら、私は恐らくそろばんで、トニー谷さんを殴っていたに違いない。私はその紙くず箱の破られた原稿の紙片を拾い集めながら、「こん畜生め」と心で罵っていた」と怨念を込めて回想している。

さらに内藤陳は、日劇ミュージックホール出演中のトニーの楽屋に遊びに行ったところ、理由も告げず突然「この野郎!」とひっぱたかれたことがあった。その原因は、椅子に腰掛けた化粧前のトニーの横に内藤が立ったとき、その位置が期せずしてトニーのハゲ頭を真上から覗き込む形になったからであった。トニーがハゲ頭をカツラで隠していることは芸能界では公然の秘密だった。

トニーと同じ店でコメディアンとしてデビューしたミッキー安川は、英語を使う芸人が珍しかったためトニーから「お前、この野郎! ちょっと英語しゃべれるからって」と敵視され、いじめを受けたという。このときミッキーが「ちょっとじゃねえ、俺はアメリカまで行ってきてんだよ!」と言い返すと、東宝に雇われている暴力団から脅しを受け、暴力団の用心棒とミッキーの間でケンカに発展した。

トニーは大阪ミナミのヌード劇場「南街ミュージックホール」に出演した折、普通ショー(ヌードショーと違い、裸体を見せないダンス)専門の踊り子の大津翠ら4人が楽屋風呂に入っているところへカメラを持って乱入し、彼女たちの裸体を勝手に撮影したことがある。このとき、舞台監督の竹本浩三に啖呵を切られるとトニーは土下座して謝ったが、撮影したフィルムについては「もう写真屋に出した」と言って引渡しを拒否。竹本から「フィルムをよこさないなら、トニー先生がかつらだと世間に公表します」と脅されると、渋々ながらフィルムの引渡しに応じたという。その事件の後、トニーの化粧前の引き出しから命の次に大切なかつらが行方不明になったため、トニーは竹本の仕業と信じて怒り狂ったが、実際は竹本の仕業ではなく、トニーにいびられたコメディアンかダンサーの意趣返しだったという。

昭和30年代、東京新橋でみずから経営していたバーに客としてトニーをたびたび迎えていた団鬼六は、「私は正直言って、トニー谷の人柄も芸風もあまり好きではなかった。店には伴淳三郎とか殿山泰司とか、芸能人がよく来店していたけれど、みんな仲間と来ていた。なのにトニー谷はいつも一人で、ほかの芸能人がいたら帰ってしまう。店の客にもよく喧嘩をふっかけていたし、傲慢で孤立した感じで、なんだか異様だった。自分の生い立ちや過去の話は一切したがらなかった。そういう質問をすると、すぐに怒り出した。コンプレックスも強い人だったのではないか」と語っている。

プロレスラーなんかでも、悪役のほうが実は性格が良かったりするなんて話もありますが(実際のところは何とも言えませんが)、確かに上のような話はかなりやばい
エピソード満載です。現在ではちょっとどうしようもないというレベルです。

それで団鬼六のこの発言はなるほどなと思います。

>コンプレックスも強い人だったのではないか

内藤陳が、

>椅子に腰掛けた化粧前のトニーの横に内藤が立ったとき、その位置が期せずしてトニーのハゲ頭を真上から覗き込む形になったからであった。トニーがハゲ頭をカツラで隠していることは芸能界では公然の秘密だった。

というのも、ハゲだろうが何だろうが、自分にコンプレックスが強いからそのような不始末をしでかしたのでしょう。自分に自信があれば、ハゲだろうがなんだろうが、そんなことはしないでしょう。

それで彼のこのような非常識な行動の背景には、やはりWikipediaでも指摘されているこのような点が大きな部分としてあったのだろうなと思います。

>家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されていた。

東京市京橋区銀座に生まれ、日本橋区小伝馬町に育つ。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。

子供のころは下町で有名なそろばん塾「大堀塾」でそろばんを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。

そのため、家を出て自活を開始。1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。1938年、召集令状が来て近衛歩兵第1連隊に入隊。1940年に除隊して第一ホテル東京(新橋)に就職。ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、時には自ら出演して人気者となった。1942年に最初の妻と結婚したが、1か月後に再度出征。その妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になっている。

 それで次のような部分があります。太字も原文のままです。

>トニーは芸人になったとき、以上の過去をすべて封印した。有名人になった後、少年時代の遊び友達から「正ちゃん!」と呼びかけられても「人違いでしょう」と平然と答えた。軍隊時代の戦友から訪問を受けても門前払いを食わせて「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴られた。継父と二人の妹から自宅に訪問を受けても、「かねて申し上げてある通り『過去のどなた』ともお付き合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば訪ねてもこないのに。重ねて申しあげます。一切お付き合いしません。楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」と冷然と拒絶した。

彼が継父を嫌がったのはわかりますが、少年時代の遊び友達や戦友までも拒否したのは、たぶんかれの前半生が、まったくもって苦しいものでしかなかったのだと思います。遊び友達や戦友といえども、過去の苦しい記憶を思い出させる苦しみでしかなかったのでしょう。

もちろん虐待を受けた人間がみな彼のようになるわけはありませんが、しかし彼の場合少なくともある時期までは芸能界で成功したので、そういったやり方を直すという必要がなかったということなのでしょう。それで、有名な子息の誘拐事件の件では、

>しかし、当時は芸人仲間の多くがトニーを信じず「これは事件などでなく、話題作りのためにトニー自身が引き起こした狂言誘拐だ」として冷ややかな目で見ていた(実際は狂言誘拐などではなく、本当に起こった誘拐事件だった)。

とまで冷たい扱いをされたくらいですし、またこの事件の動機が、もちろん金目当てではあったのですが

>犯人は長野県の雑誌編集者で、地元で雑誌の発行を計画していたが、資金がなかったためにリンドバーグ事件にヒントを得て身代金誘拐を企てた。犯行の動機について「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語り、事前にとある雑誌でトニーの長男の写真を見ていたため、顔を知っていたことで事件を実行に移していた。

というものであり、さらに

>「誘拐の真因はトニーが世間から嫌われることをやっていたからだ」という論調でジャーナリストの大宅壮一花森安治などからも非難され

など、いくらなんでもこれは彼が気の毒ですが、つまりはそこまで嫌われていたということです。テレビ時代に彼の人気が凋落したのも必然だったのでしょう。

今年は彼が生まれて100年目、死んでから30年目です。彼は石原裕次郎の死の前日に亡くなり、しかも同じ肝臓がんだったわけです。一世を風靡したということは一緒でも、日本人から好かれて取り巻き、仲間に恵まれた裕次郎と、そういうことを完全に拒否したトニー谷とは、激しいコントラストがあります。年齢はトニー谷のほうがずっと上ですが、時代の違いだけでないいろいろな部分が彼の影を増幅させたのだと思います。

bogus-simotukareさんに感謝して、この記事を終えます。

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「ドラゴン怒りの鉄拳」で悪役日本人を演じた橋本力氏が亡くなったとのこと

2017-10-14 00:00:00 | 映画

ブルース・リーの映画「ドラゴン怒りの鉄拳」で、日本人の悪役である鈴木を演じたことで有名な橋本力氏が亡くなったとのことです。私はこちらの記事で知りました。

訃報・橋本 力さん

>角川から電話があり、橋本力さんの死を知らされました。10月11日の未明に永眠、
    享年83歳、肺がんだったそうです。

この記事を書いている13日午後9時50分ごろのWikipediaでは、まだこの件は反映されていません。またネットでもほとんど報道されていませんね。私は見つけることができませんでした。

橋本氏は勝新太郎の取り巻きみたいな立場で、「ドラゴン怒りの鉄拳」の出演も、勝プロに「誰か日本人俳優をよこしてくれ」と香港から依頼があり、それで橋本氏に役が回ったというわけです。ただ香港映画なので、台本もないくらいの撮影状況であり、内容もよく理解できなかったようです。もちろんこの撮影時、彼は、自分の出演した映画が世界映画史に残るような作品になるなんて予想もしませんでした。橋本氏のWikipediaにもけっこう詳しく書かれていますが、これはこちらの記事をもとにしています。

新装版 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進 李小龍生誕70周年記念限定版 (映画秘宝COLLECTION 43) 

 

リーに蹴りで吹っ飛ばされる橋本氏のスタントをつとめたのがジャッキー・チェンである、なんてのは映画雑学のイロハのイですから、読者の皆さまもご存じでしょう。つまりこの映画でのジャッキーとブルース・リーの関係は、橋本氏と勝新太郎みたいなものだったわけです。スターと取り巻きの関係ですかね。

最後の写真は2010年の橋本氏です。橋本力氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。なお現在13日の22時10分過ぎですが、今日はやや早めに14日分として記事を更新します。また橋本氏逝去の記事を書いてくださった先方のブログ管理人様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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政治についての記事を書くのが馬鹿らしくなったので、しばらく記事を書くのをやめることにした

2017-10-13 00:00:00 | 社会時評

私の書きたいことはタイトルの通りです。よってしばらく政治の記事を書くのをやめます。

といいつつ月曜には書くかもしれません(土日は旅行の記事ですので、よほどのことがない限り書きません)。このあたりは情勢と私の気分しだいです。ただし政治とは関係ない社会時評の記事(たとえばこちらの記事など)はまた別です。もっともこれもあんまり書く気しないな。

というわけで、私の「社会時評」と「北朝鮮・拉致問題」の記事を楽しみにしている方がいましたら、しばらく記事には期待しないでください。さようなら。

あれ、今気づいたけど、今日は13日の金曜日じゃないですか。やっぱりろくな日じゃありませんね。あのキャンプ場だって、なんで閉鎖されないのかさっぱりわかりません。

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ハノイに行きたい

2017-10-12 00:00:00 | 旅(東南アジア―ミャンマー以外)

ハノイに2泊3日の旅行をしたいと考えています。ホー・チ・ミン主席の遺体を見学しようとか、ホーチミン市(旧サイゴン)とは違ったこの街を楽しみたいと思います。

どうでもいい話ですが、日本では、都市名としては「ホーチミン」と表記し、人名はホー・チ・ミン」とするということが多いようですね。なかなかうまい分け方だと思います。

ベトナムはご存知の通り南北に細長い国土ですから、北と南では文化もものの考え方も、周辺文化との関係や周辺諸国双方が与え合う影響などもずいぶん異なります。北は中国の存在が圧倒的だし、南はカンボジアなどとの関係が深いわけです。

ホーチミン市は、13年12月~14年1月に(プノンペン滞在をはさんで)訪れまして、新年カウントダウンも経験できました。全く文化の違うであろうハノイを私なりに探求したいと思います。

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