暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

立礼の茶事 (1) 神無月に

2010年10月17日 | 思い出の茶事
神無月の或る日、久しぶりに立礼の茶事へまいりました。
夏期講習会へ向けて激励(?)のため招いてくださった
仙桃庵の茶事以来なので、張り切って出かけました。
茶友のNさんも申し込まれたと伺い、お会いできるのを楽しみにしていました。

立礼の茶事は、明治5年(1872)5月に
裏千家十一代玄々斎によって発表されました。
玄々斎は、明治5年春に京都博覧会が催される際に、
いずれ国際交流が盛んになり、外国の方を茶席へお招きすることを考え、
椅子テーブルで点茶を行う立礼の式を考案されたのです。

玄々斎の行った立礼の式は、大書院に高麗縁の畳を敷き、
点茶盤に台子皆具を荘り、客席には喫架(テーブル)と円椅(椅子)を備えました。
点前は、台子の濃茶、薄茶に準じる格式のあるものでした。
点茶盤の中棚に炭斗を荘るようになっていて、茶事を前提に
考えられています。

文明開化の嵐が吹いていた時代とはいえ、いちはやく立礼を考案された
玄々斎の進取の気概と強い意志に心打たれます。
昨年の横浜開港150周年を祝う茶事で、不肖、暁庵も
立礼の茶事をさせて頂き、そのたびに玄々斎の先見の明に驚き、
「これからは益々立礼の茶事の時代」という思いを抱きました。

               

さて、立礼の茶事ですが、ご案内に
「お正客さまをお申し合わせでお決めください」とありました。
常の如く正客あらそいで、最初からゴタゴタしました。
「膝を悪くして正座ができず、年に一度の立礼の茶事を楽しみにしております」
という最も年配と思われる方に、お正客を引き受けいただきました。
私は詰をさせていただき、隣がNさんでした。

お正客が決まると、皆様、何事もなかったかの如く、お正客を助け、
一座建立へ気持ちを集中するところは、流石でございました。

待合の寄付は
「きりぎりす 自在をのぼる 夜寒かな   蕪村」

待合の軸は、十三夜を詠んだ和歌のようですが
最後の十三夜以外は読めませんで、稲架の画が描かれています。
汲出しは、義山に美しく映えるコケモモのジュースでした。

腰掛待合で心を整えて板木へ向いました。
「カーン・・カーン・・・・」
乾いた木の音が辺りの気を引き締めて、気持ちがすっきりしました。

ご亭主が迎付けに出てこられたので、お正客へお知らせしました。
ここで、ご亭主がN先生と始めて知りました。
Nさんと私は別の先生と思い込んでいたので、ハプニングでした。

          (2)へ続く
                                
                              

箱根仙石原  ススキと埋蔵金

2010年10月14日 | ハイキング・ぶらり散歩
ススキ(薄)は秋の七草の一つで、別名を尾花、茅(かや)とも言います。
10月11日にススキで有名な箱根・仙石原を訪ねました。

夏の暑さが異常だったせいで、ススキの穂が出るのが
例年より1週間から10日遅いそうです。
同窓会の頃に、銀の穂波が一番美しいといいなぁ~。

仙石原高原でススキの散歩道を往復2キロくらい歩きました。
緩やかな登りの一直線の道で、そこ以外は入れないように保護されています。
ススキを愛でる人たちの列が延々と続いていました。

               

ススキの穂はヒトでいうと十三歳くらいでしょうか。
一斉に穂を出した様子なので、1週間後が見ごろです。
十一月上旬には早や枯れ尾花になっているのでしょうか?

ススキの散歩道の途中で
「ここは黒澤明監督が姿三四郎の決闘シーンを撮影したところだ!
 間違いない・・!」
と、主人が興奮気味に言い出しました。

「柔道の決闘中、敵に締め上げられて遠のく意識の中で
 蓮の花が開くのを夢見て、突如意識が戻り、
 一気に敵を投げ飛ばした」・・・シーンだそうです。

映画「姿三四郎」を見ていませんが、確かにロケに使いたくなる景色です。

風が少し出てきて、ススキが揺れ始めました。
もっともっと風が吹いて、薄ケ原が一斉に唸り出すような
風の強い日にまた来てみたい・・・そんなことを話し合いました。

               

仙石原近くの福風(ふくふう)という、好い風の名前の店で
昼食を食べました。
なんと、そこのメニューに埋蔵金のことが書かれていたのです。
仙石原に埋蔵金が隠されているという話は初めてなので、
お宝に興味をそそられ、調べてみました。

  徳川家康配下の大久保長安は、佐渡、岩見、伊豆で
  金山や銀山奉行を勤めました。
  この間に莫大な財宝を着服したとして、
  死後の慶長十八年に死骸が磔となり、
  一族もことごとく切腹させられました。

  長安磔刑の後に、家康は残った者たちを尋問し、
  着服金の一部にあたる七十万両が家宅で発見されましたが、
  残りの大部分は仙石原の箱根山中に埋まっている
  ・・・と言い伝えられています。

 その場所は
 「箱根仙石原から南に数町行った富士山のよく見える場所、
  黒い花の咲くつつじの木の根元」・・だとか。

ススキよりもロマンを感じますよねぇ~。
「ち、血が騒ぐっ・・」
                                

箱根湯本 早雲寺

2010年10月12日 | ハイキング・ぶらり散歩
10月11日、同級会の打ち合わせで箱根へ出かけました
三連休の最後の日は、雲ひとつない快晴で、
富士山、大山、丹沢、箱根の山々がくっきりと聳え、
手招きしているようでした。

箱根湯本でホテル近くにある早雲寺(そううんじ)へ寄りました。
早雲寺は、大永元年(1521)、北条早雲の遺言で二代・北条氏綱が
京都大徳寺第83世以天宗清を招いて創建した寺院です。
小田原北条氏の菩提寺で、北条五代の墓があります。

大徳寺を模した七堂伽藍の威容を誇っていた早雲寺ですが、
天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城に立て籠もる
北条氏を滅亡せんと、箱根山を越え、早雲寺に本陣を構えました。
しかし、6月中旬に石垣山一夜城が完成すると
早雲寺とその一帯を焼き払ったそうです。

小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇がおこりました。
千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられています。

               

天正10年(1582)11月、天下人となった秀吉は
山崎の妙喜庵で茶会を催しています。
この時、今井宗久、千利休、津田宗及と共に、山上宗二も招いており、
秀吉は茶人として宗二を厚遇しています。
しかしその後、はっきり意見を述べる激しい気性の宗二は
口が災いして秀吉の怒りを蒙り、追放されました。

畿内にいられなくなった宗二は各地を転々とし、
天正16年(1588)頃、茶の湯が盛んだった小田原へ
北条氏規(伊豆韮山城主)を頼ってやってきたようです。

小田原へ下った宗二は、利休が早雲寺にいることを知り、
密かに利休を訪ね、再会します。
利休のとりなしで一度は秀吉の勘気が解かれましたが、
茶会の席で再び秀吉へ暴言を吐き、即日、耳鼻をそがれ、
惨殺されたのです。天正18年1590)4月11日のことでした。

その1年足らずの天正19年(1591)2月28日、
利休は秀吉から死を賜り、切腹して果てました。
いったい何が、秀吉と宗二、秀吉と利休の間にあったのでしょうか?
・・・これは永遠の謎であり、関心事です。

                

                                
早雲寺とお茶に関係することで、忘れてはならないのが
「早雲寺文台裂(ぶんだいぎれ)」と呼ばれる名物裂の存在です。

「早雲寺文台及び硯箱」に張られていた裂(布)で、
文台と硯は室町時代から江戸時代初めにかけて盛んだった
連歌の会席に用いられたものです。
当時の文台の装飾は蒔絵が多く、裂が張られたものは
早雲寺文台だけという貴重品です。

「早雲寺文台裂」は、銀糸を縦糸に、萌黄・海老茶・薄紅の横糸を使って、
ナデシコやキキョウのような草花紋を蔓紋でつなぎ合わせて
織られた銀襴です。
絢爛豪華ですが、上品な落ち着きがあってお気に入りの名物裂です。

先生が仕覆(龍村複製)を持っていらして
「仕覆の裂地は?」
「早雲寺文台裂でございます」
と、時々稽古や問答に登場するのですが、
今、本歌は東京国立博物館に収蔵されています。

                                

    写真は上から、「早雲寺本堂」
             「山上宗二追善碑」
             「境内の苔庭と木漏れ日」
             「早雲寺文台裂(龍村複製)」

鎌倉円覚寺  四ツ頭之式 (3)

2010年10月09日 | 茶道楽
食事の後に茶菓がでました。
四人の給仕が、四人の頭へ菓子と台にのった天目茶碗(抹茶入り)を
運んだ後、他の和尚様へは黒縁高に入った菓子を角盆に、
次いで台にのった天目茶碗を円盆にのせて運び出しました。

湯を入れた浄瓶(じんびん)で茶碗へ湯を注ぎます。
客は茶碗と天目台を高くかかげ、茶碗をしっかり押さえます。
給仕は立ったまま浄瓶を右脇へ抱え、茶筅を上から茶碗を目指して下ろし、
片手で茶筅を振って茶を点てました。

11時50分頃に32名の和尚様の席入から始められた
「四ツ頭」之式ですが、席入、会食、茶菓を頂き、全てが下げられ、
退席するまで、たった1時間でした。
古式にのっとり整然と合理的に進行し、見ごたえがありました。

             
                 
その後、参列者は別室にて斎座と同じお膳で昼食を頂きました。
献立は、
 ご飯、汁(豆腐、麩、ほうれん草、味噌)
 向付(菊菜、きのこ、人参、柚子、酢の物)
 小鉢(切干大根、人参、シイタケ、油揚げ、煮物)
 皿(豆腐、麩、昆布巻など4種、栗)
 煮物椀(湯葉)
 小鉢(胡麻豆腐)
 香の物(タクアン二切)

関東風のしっかりしたお味の精進料理で、全部美味しく頂きました。
お坊様の給仕で湯斗やほうじ茶が出されたのですが、
客二人が同時に椀をだす、「充分です」という合図、タクアンで器を清めるなど、
早速「四ツ頭之式」の作法をみんな応用しました。

赤、白、緑の饅頭を頂き、抹茶が配られました。
小振りのこげ茶色の天目茶碗に抹茶の緑が美しく映えています。
四ツ頭之式のような立礼の点茶ではなかったのですが、
美味しく点てられていて、茶銘をお尋ねしたいほどでした。

              

それから、コスモス、芙蓉が美しい東慶寺へ行きました。
水月観音を拝観しながら御住職から「未敷(みふ)の蓮華」の法話を伺いました。

とても充実した爽やかな秋の一日でした。 合掌。

      (2)へ        (四ツ頭之式トップへ)

                             ときどき 
   
   写真は上から、 「円覚寺山門へ」
             「四ツ頭之式と同じ膳です」
             「コスモス・・・東慶寺にて」

プラネットベービーズ「ブータン “幸せ”の国の子育て」

2010年10月07日 | ブータンの旅-2010年9月
今日(10月7日)午後9:30~午後10:00、BSHiのプラネットベービーズで
「ブータン “幸せ”の国の子育て」 を放映します。

この番組は、ブータンの旅でお世話になったシデ・ブータンの
青木薫さんが番組作成に協力しています。
ブータンでこの番組のお話を伺って、いつ放映されるのか、楽しみにしていました。
今朝、番組を見つけ、お知らせします。
見逃さなくて良かった! ご一緒に見てください・・・。

チャンネル:BShi
放送日: 2010年10月7日(木)
放送時間:午後9:30~午後10:00(30分)
ジャンル:ドキュメンタリー/教養 > ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 > 歴史・紀行

番組HP: http://www.nhk.or.jp/baby/

「番組内容」
 国民の9割が幸せを感じているという国ブータン。
 米農家のゲムさん。長女ジャンベ11歳は、家族の中で初めて
 隣村の学校まで通い始めます。支え合うブータンの子育て

「詳細」
 国民の9割以上が幸せを感じているという国、ブータン。
 棚田で米を作っている農家のゲムさんの家族を取材。
 村には学校が無く、親の世代までは学校教育を受けたことがない。
 長女ジャンベさん(11歳)は、家族で初めて隣村の学校まで通い始めた。
 たがいに支えあって生きるブータンの人々の幸せを知る子育てを読み取る。