暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

箱根湯本 早雲寺

2010年10月12日 | ハイキング・ぶらり散歩
10月11日、同級会の打ち合わせで箱根へ出かけました
三連休の最後の日は、雲ひとつない快晴で、
富士山、大山、丹沢、箱根の山々がくっきりと聳え、
手招きしているようでした。

箱根湯本でホテル近くにある早雲寺(そううんじ)へ寄りました。
早雲寺は、大永元年(1521)、北条早雲の遺言で二代・北条氏綱が
京都大徳寺第83世以天宗清を招いて創建した寺院です。
小田原北条氏の菩提寺で、北条五代の墓があります。

大徳寺を模した七堂伽藍の威容を誇っていた早雲寺ですが、
天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城に立て籠もる
北条氏を滅亡せんと、箱根山を越え、早雲寺に本陣を構えました。
しかし、6月中旬に石垣山一夜城が完成すると
早雲寺とその一帯を焼き払ったそうです。

小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇がおこりました。
千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられています。

               

天正10年(1582)11月、天下人となった秀吉は
山崎の妙喜庵で茶会を催しています。
この時、今井宗久、千利休、津田宗及と共に、山上宗二も招いており、
秀吉は茶人として宗二を厚遇しています。
しかしその後、はっきり意見を述べる激しい気性の宗二は
口が災いして秀吉の怒りを蒙り、追放されました。

畿内にいられなくなった宗二は各地を転々とし、
天正16年(1588)頃、茶の湯が盛んだった小田原へ
北条氏規(伊豆韮山城主)を頼ってやってきたようです。

小田原へ下った宗二は、利休が早雲寺にいることを知り、
密かに利休を訪ね、再会します。
利休のとりなしで一度は秀吉の勘気が解かれましたが、
茶会の席で再び秀吉へ暴言を吐き、即日、耳鼻をそがれ、
惨殺されたのです。天正18年1590)4月11日のことでした。

その1年足らずの天正19年(1591)2月28日、
利休は秀吉から死を賜り、切腹して果てました。
いったい何が、秀吉と宗二、秀吉と利休の間にあったのでしょうか?
・・・これは永遠の謎であり、関心事です。

                

                                
早雲寺とお茶に関係することで、忘れてはならないのが
「早雲寺文台裂(ぶんだいぎれ)」と呼ばれる名物裂の存在です。

「早雲寺文台及び硯箱」に張られていた裂(布)で、
文台と硯は室町時代から江戸時代初めにかけて盛んだった
連歌の会席に用いられたものです。
当時の文台の装飾は蒔絵が多く、裂が張られたものは
早雲寺文台だけという貴重品です。

「早雲寺文台裂」は、銀糸を縦糸に、萌黄・海老茶・薄紅の横糸を使って、
ナデシコやキキョウのような草花紋を蔓紋でつなぎ合わせて
織られた銀襴です。
絢爛豪華ですが、上品な落ち着きがあってお気に入りの名物裂です。

先生が仕覆(龍村複製)を持っていらして
「仕覆の裂地は?」
「早雲寺文台裂でございます」
と、時々稽古や問答に登場するのですが、
今、本歌は東京国立博物館に収蔵されています。

                                

    写真は上から、「早雲寺本堂」
             「山上宗二追善碑」
             「境内の苔庭と木漏れ日」
             「早雲寺文台裂(龍村複製)」