(真珠菴へ)
4月26日に大徳寺本坊に続いて、真珠菴(しんじゅあん)を訪ねました。
真珠菴は本坊のすぐ北側に位置し、永享年間(1429年-1441年)に、
一休宗純を開祖として創建されました。
応仁の乱(1467-77年)により焼失しましたが、
延徳3年(1491年)に堺の豪商・尾和宗臨によって再建され、
寛永15年(1638年)に京の豪商・後藤益勝により方丈が造営されました。
真珠菴というステキな名前の由来ですが、
臨済宗の祖師の一人、楊岐方会(ようぎほうえ)が雪の夜に
中国楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、
部屋の中へ雪が降り込んできました。
その時、床に積もった雪が月光に照らされて真珠のように輝いた
・・・という故事にちなんで一休禅師が名付けたそうです。
ウム・・・なにやら我が古家・灑雪庵と似たようなお話ですが・・・。
(ハナミズキが満開でした・・大徳寺本坊にて)
荷物をあずけ、方丈へ進みました。
方丈中央の奥殿(何似塔・かじとう)には木造一休禅師像が安置されています。
何似塔の前には一休禅師の遺偈(ゆいげ)と、二幅からなる一行書が
大徳寺棒と呼ばれる長い棒に掛けられていました。
遺偈(ゆいげ)とは、高僧が死に臨んで弟子への教訓などを記した漢詩をいい、
一休禅師の遺偈は、
「須弥(しゅみ)の南畔(なんばん)誰か我が禅を会(え)す
虚堂(ぎどう)来るも 半銭に直(あたい)せず」
その意味するところは教訓などではなく、
死に臨んで恐れるものなし、我こそ真の禅者なり・・・という気概でしょうか。
「この世の中でわたしの禅をわかる人間はいるだろうか(否、いない)
中国の祖師・虚堂智愚(きどうちぐ)が来たところで 半銭の値打ちもない」
二幅から成る一行書は
「諸悪莫作(しょあくまくさ)」と「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」。
七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)の初めの2句で、
「悪いことはするな、よいことをせよ」という意味です。
一休禅師の書を拝見するのは、畠山美術館に収蔵されている
「応無処住 而生吾心」
以来なので、これだけでも特別拝観の価値ありです。
(大徳寺仏殿)
方丈東庭は村田珠光の作と伝えられ、15個の石を7・5・3に配しているので
「七五三の庭」と呼ばれています。
方丈北側にある書院・通僊院(つうせんいん)と茶室・庭玉軒へ行く廊下近くに
村田珠光所持と伝える蹲と伝・紫式部産湯の井戸があり、必見です。
特に蹲は仏と梵字が彫られ、その彫りが薄くなってしまって時の流れを感じます。
書院・通僊院は、正親町天皇女御の化粧殿を移築したもので、
天井が低く、どこか華やかな作りなど、この御殿に住んだであろう女人を彷彿させます。
方丈の襖絵も蘇我蛇骨、長谷川等伯の水墨画があり、見ごたえがありましたが、
通僊院の襖絵もまた、墨斎禅師、伝宗阿弥、狩野元信らの水墨画、
土佐光起の花鳥図など、名筆揃いでお勧めです。
いよいよ、茶室・庭玉軒ですが、ゆっくり書きたいので次回にします。
京の茶所-1 大徳寺へ 京の茶所-3 茶室・庭玉軒へ
4月26日に大徳寺本坊に続いて、真珠菴(しんじゅあん)を訪ねました。
真珠菴は本坊のすぐ北側に位置し、永享年間(1429年-1441年)に、
一休宗純を開祖として創建されました。
応仁の乱(1467-77年)により焼失しましたが、
延徳3年(1491年)に堺の豪商・尾和宗臨によって再建され、
寛永15年(1638年)に京の豪商・後藤益勝により方丈が造営されました。
真珠菴というステキな名前の由来ですが、
臨済宗の祖師の一人、楊岐方会(ようぎほうえ)が雪の夜に
中国楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、
部屋の中へ雪が降り込んできました。
その時、床に積もった雪が月光に照らされて真珠のように輝いた
・・・という故事にちなんで一休禅師が名付けたそうです。
ウム・・・なにやら我が古家・灑雪庵と似たようなお話ですが・・・。
(ハナミズキが満開でした・・大徳寺本坊にて)
荷物をあずけ、方丈へ進みました。
方丈中央の奥殿(何似塔・かじとう)には木造一休禅師像が安置されています。
何似塔の前には一休禅師の遺偈(ゆいげ)と、二幅からなる一行書が
大徳寺棒と呼ばれる長い棒に掛けられていました。
遺偈(ゆいげ)とは、高僧が死に臨んで弟子への教訓などを記した漢詩をいい、
一休禅師の遺偈は、
「須弥(しゅみ)の南畔(なんばん)誰か我が禅を会(え)す
虚堂(ぎどう)来るも 半銭に直(あたい)せず」
その意味するところは教訓などではなく、
死に臨んで恐れるものなし、我こそ真の禅者なり・・・という気概でしょうか。
「この世の中でわたしの禅をわかる人間はいるだろうか(否、いない)
中国の祖師・虚堂智愚(きどうちぐ)が来たところで 半銭の値打ちもない」
二幅から成る一行書は
「諸悪莫作(しょあくまくさ)」と「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」。
七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)の初めの2句で、
「悪いことはするな、よいことをせよ」という意味です。
一休禅師の書を拝見するのは、畠山美術館に収蔵されている
「応無処住 而生吾心」
以来なので、これだけでも特別拝観の価値ありです。
(大徳寺仏殿)
方丈東庭は村田珠光の作と伝えられ、15個の石を7・5・3に配しているので
「七五三の庭」と呼ばれています。
方丈北側にある書院・通僊院(つうせんいん)と茶室・庭玉軒へ行く廊下近くに
村田珠光所持と伝える蹲と伝・紫式部産湯の井戸があり、必見です。
特に蹲は仏と梵字が彫られ、その彫りが薄くなってしまって時の流れを感じます。
書院・通僊院は、正親町天皇女御の化粧殿を移築したもので、
天井が低く、どこか華やかな作りなど、この御殿に住んだであろう女人を彷彿させます。
方丈の襖絵も蘇我蛇骨、長谷川等伯の水墨画があり、見ごたえがありましたが、
通僊院の襖絵もまた、墨斎禅師、伝宗阿弥、狩野元信らの水墨画、
土佐光起の花鳥図など、名筆揃いでお勧めです。
いよいよ、茶室・庭玉軒ですが、ゆっくり書きたいので次回にします。
京の茶所-1 大徳寺へ 京の茶所-3 茶室・庭玉軒へ