8月7日。金曜日。晴れ。
今朝は少し気温が低め。
爽やかな、透き通るような空気の中で
ウォーク中の瞑想も深まります。
透き通る空気の中・・・ 『円筒埴輪』

まことに美しいのです
『埴輪』とは。
土器などの原料となる、きめの細かい黄赤色の粘土のことを『埴(はに)』と言い、
『埴』をひも状にして輪を作り、積み上げ形成したものが、『埴輪(はにわ)』である。
『日本書紀』によると、士師(はじ)氏の祖、野見宿禰(のみのすくね)が
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓に殉死者として生きた人を埋める代わりに、
『埴』で人・馬・種々の物の形を作り、陵墓に建てたことが、『埴輪』の起源である。
ネットよりお知恵拝借 よく分かりました
『人の埴輪』

以前に書いた・・・ 『スカーフを巻いた埴輪』 中央公園内
長年。 毎朝走りながら、中央公園で、お目にかかる 『埴輪群』 です。
今日は、中央公園内の『神戸市埋蔵文化財センター』に電話をして、教えて頂きました。
「あれらは、 『円筒埴輪』 と 『人埴輪』、 ですか?」 と私。
「大きい『円筒埴輪』に見える物は、『一芸術家さんのオブジェ』 です。 埴輪ではありません。」 とセンター員さん。
思い違い、勘違い、 そして 思い込みは、 多々あるものですね。 反省。

考えもしなかった『答』に、一日中ニヤニヤ。 楽しい一日になりました。
感謝!感謝!
そして。
今日は8月7日。年間第十八金曜日。
『今日の入祭唱』
『神よ、あなたは命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の手から永遠の喜びを頂きます。』
詩編 16章11節
そして。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 イエスは 弟子たちに言われた。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。
人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
人の子は、 父の栄光に輝いて 天使たちと共に来るが、

『最後の審判』 ミケランジェロ作品 バチカン・システィーナ礼拝堂
そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」』
マタイ福音書 16章24-28節
私の信仰生活の『指導者』は
世界中のすべての人たちです。
沢山のお人の考え方や生き様から学び、
私の信仰生活を豊かにしていただくのです。
中でも印象に残る『一人』がいます。
25歳で、終戦後近くに日本に渡り、61年間、
86歳までの生涯を、『日本の宣教』に尽くされた宣教師です。
その宣教師さんは、いつも、言われていました。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。』 と。
見事に、
イエスが弟子たちに言われた通りの、
『自分の十字架を背負って、イエスに従った生涯』でした。
『自分の命』を守られた生涯でした。
今日、イエスがおっしゃる 『自分の命』 とは何でしょうか?
聖書は語ります。
『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたの遣わしになったイエス・キリストとを知ることです。』
ヨハネ福音書 17章3節
私は考えます。
『自分の命』とは、
『この世での命』と
もう一つ。
キリスト来臨の時の 『最後の審判』で・・・
『それぞれの行いに応じて報い』与えられる、 『報いられる命』 なのです。
イエスはおっしゃるのです。
『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。』 と。
イエスご自身の 『自分の道』とは、
自分自身を棄てて『十字架を担う道』、 自分の考えではなく『御父・神の考えに従う道』 でした。
『苦しみ』を通して『人を救う道』でした。
弟子たちの『自分の道』も、
イエスと同じように『迫害』を受けても、 『苦しみ』を察知して自分なりの考えで『自分を救う』のではなく、
『苦しみ』を通して達成する『人を救う道』なのです。
『自分なりの考え』で、自分を救おうとするときには、
『本当の命・永遠の命』 を失うかもしれません。
『イエスに従って得る命』 を失う恐れがあるのです。
『イエスを離れた生活』は、 『本当の命』 を失うかもしれないのです。
『善いこと』をしても、『この世の報い』はないかもしれません。
それどころか。
『お人の世話をすること』が、 新たな『十字架』を担うことになるかもしれません。
それでも。
イエス様は、
あれこれ考えずに、 『お人の喜び』のみを考えて、生活をなさったのです。
『永遠の命・自分の救い』は、 父・神にお任せになったのです。
私の尊敬する宣教師様も、
『イエス様の生き様』 そのものでした。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。』
と、 『この世の命』 は 『お人の喜び』のために使い、
『永遠の命・自分の救い』は 父・神にお任せになったのです。
私たちも、
その方法はたとえ未熟であっても、『お人に尽くし』て『この世の命』を使いながら・・・
『自分自身の救い』は、 神にお任せしていたいものですね。
今日も、イエス様は、ご自分の『言葉』で、人々を教育なさるのです。
『今日の祈願』
『いつくしみ深い父よ、 あなたの民の力となってください。
私たちが、 古い人を脱ぎ捨て、 新しいいのちに生きることができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
夏休みに入る頃になって、今日は、全国のコロナ感染者数は最高の数字を示しました。
夏休みだからこそ、外出自粛を守り、コロナ収束の機会と致しましょう。 お元気で!
今朝は少し気温が低め。
爽やかな、透き通るような空気の中で
ウォーク中の瞑想も深まります。
透き通る空気の中・・・ 『円筒埴輪』

まことに美しいのです
『埴輪』とは。
土器などの原料となる、きめの細かい黄赤色の粘土のことを『埴(はに)』と言い、
『埴』をひも状にして輪を作り、積み上げ形成したものが、『埴輪(はにわ)』である。
『日本書紀』によると、士師(はじ)氏の祖、野見宿禰(のみのすくね)が
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓に殉死者として生きた人を埋める代わりに、
『埴』で人・馬・種々の物の形を作り、陵墓に建てたことが、『埴輪』の起源である。
ネットよりお知恵拝借 よく分かりました
『人の埴輪』

以前に書いた・・・ 『スカーフを巻いた埴輪』 中央公園内
長年。 毎朝走りながら、中央公園で、お目にかかる 『埴輪群』 です。
今日は、中央公園内の『神戸市埋蔵文化財センター』に電話をして、教えて頂きました。
「あれらは、 『円筒埴輪』 と 『人埴輪』、 ですか?」 と私。
「大きい『円筒埴輪』に見える物は、『一芸術家さんのオブジェ』 です。 埴輪ではありません。」 とセンター員さん。
思い違い、勘違い、 そして 思い込みは、 多々あるものですね。 反省。


考えもしなかった『答』に、一日中ニヤニヤ。 楽しい一日になりました。

感謝!感謝!
そして。
今日は8月7日。年間第十八金曜日。
『今日の入祭唱』
『神よ、あなたは命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の手から永遠の喜びを頂きます。』
詩編 16章11節
そして。
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、 イエスは 弟子たちに言われた。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。
人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
人の子は、 父の栄光に輝いて 天使たちと共に来るが、

『最後の審判』 ミケランジェロ作品 バチカン・システィーナ礼拝堂
そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」』
マタイ福音書 16章24-28節
私の信仰生活の『指導者』は
世界中のすべての人たちです。
沢山のお人の考え方や生き様から学び、
私の信仰生活を豊かにしていただくのです。
中でも印象に残る『一人』がいます。
25歳で、終戦後近くに日本に渡り、61年間、
86歳までの生涯を、『日本の宣教』に尽くされた宣教師です。
その宣教師さんは、いつも、言われていました。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。』 と。
見事に、
イエスが弟子たちに言われた通りの、
『自分の十字架を背負って、イエスに従った生涯』でした。
『自分の命』を守られた生涯でした。
今日、イエスがおっしゃる 『自分の命』 とは何でしょうか?
聖書は語ります。
『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、
あなたの遣わしになったイエス・キリストとを知ることです。』
ヨハネ福音書 17章3節
私は考えます。
『自分の命』とは、
『この世での命』と
もう一つ。
キリスト来臨の時の 『最後の審判』で・・・
『それぞれの行いに応じて報い』与えられる、 『報いられる命』 なのです。
イエスはおっしゃるのです。
『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。』 と。
イエスご自身の 『自分の道』とは、
自分自身を棄てて『十字架を担う道』、 自分の考えではなく『御父・神の考えに従う道』 でした。
『苦しみ』を通して『人を救う道』でした。
弟子たちの『自分の道』も、
イエスと同じように『迫害』を受けても、 『苦しみ』を察知して自分なりの考えで『自分を救う』のではなく、
『苦しみ』を通して達成する『人を救う道』なのです。
『自分なりの考え』で、自分を救おうとするときには、
『本当の命・永遠の命』 を失うかもしれません。
『イエスに従って得る命』 を失う恐れがあるのです。
『イエスを離れた生活』は、 『本当の命』 を失うかもしれないのです。
『善いこと』をしても、『この世の報い』はないかもしれません。
それどころか。
『お人の世話をすること』が、 新たな『十字架』を担うことになるかもしれません。
それでも。
イエス様は、
あれこれ考えずに、 『お人の喜び』のみを考えて、生活をなさったのです。
『永遠の命・自分の救い』は、 父・神にお任せになったのです。
私の尊敬する宣教師様も、
『イエス様の生き様』 そのものでした。
『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。』
と、 『この世の命』 は 『お人の喜び』のために使い、
『永遠の命・自分の救い』は 父・神にお任せになったのです。
私たちも、
その方法はたとえ未熟であっても、『お人に尽くし』て『この世の命』を使いながら・・・
『自分自身の救い』は、 神にお任せしていたいものですね。
今日も、イエス様は、ご自分の『言葉』で、人々を教育なさるのです。
『今日の祈願』
『いつくしみ深い父よ、 あなたの民の力となってください。
私たちが、 古い人を脱ぎ捨て、 新しいいのちに生きることができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
夏休みに入る頃になって、今日は、全国のコロナ感染者数は最高の数字を示しました。
夏休みだからこそ、外出自粛を守り、コロナ収束の機会と致しましょう。 お元気で!