今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

910 京都(京都府)駆けつけて陶彫に浸る至福かな

2020-11-22 09:35:56 | 滋賀・京都
こういう状況を「矢も盾もたまらず」、あるいは「取る物も取り敢えず」というのだろうか。NHKの「日曜美術館」で「辻晉堂展」の紹介を観た途端、私(の気分)は京都に向けて駆け出していた。「あゝ、私がやりたかったのはこうした陶芸なのだ」と胸が高鳴り、強い衝撃に矢も盾もたまらなくなったのである。京都駅の美術館で開催中の展覧会はあと1週間ほどで終了する。コロナ禍は全国的に第3波を迎えていることも忘れ、京都を目指す。



10年続けた陶芸道楽にピリオドを打つと決めた途端、こうした出会いがあるとは皮肉なものだが、この高名な「陶彫家」の存在を知らなかったのだから仕方ない。全国の焼き物産地を行脚し、多くの陶芸家の図録に目を通してきたのに、なぜこれまで辻晉堂(1910-1981)に出会えなかったのか不思議だけれども、この作家が「彫刻家」であるからからかもしれない。素材を木から土に替えて、「陶彫」に取り組んだのは40歳になるころからだ。



抽象化された造形もさることながら、私が最も惹きつけられたのはその土の肌あいである。例えば登り窯で焼かれた高さが1.2メートルと巨大な「寒山拾得」の、特に鉄分の多い土を用いた「拾得」の背は、何年も使われ続けてきた古窯の壁そのもののように焼き締められ、土が太古の石に還って行くかの味わいを漂わせている。無釉の土は荒々しく無数の傷で傷められ、そのことがかえって内部を流れる血を思わせ、体温さえ感じさせる。



荒土にシャモット(焼成済みの土の粉末)を加えた土で大きな造形を築き、登り窯で焼くという大胆な制作に挑んだ辻の技法は、ちまちまとした「用の美」を愛でる陶芸の世界とは異質な造形を生んだ。辻が「陶彫」という新世界を伐り拓いた同時代の京都・東山には、河井寛次郎(1890-1966)がいたし八木一夫(1918-1979)が走泥社を立ち上げてもいた。「陶」のエネルギーが、登り窯から立ち上る黒煙となって渦巻いていた時代だ。



陶芸好きにとっては目が眩む世界である。伯耆国で生まれた辻が、彫刻家として注目を浴びた後に京都にやってきて陶に着目したのは、京焼の伝統がその才能を招き寄せたのだろうか。私のような「泥遊び道楽者」には、その残り香を求めて界隈を彷徨うだけでも嬉しいのである。それでもこの道楽者は、元来が用の美には関心が薄いうえに、ここ2、3年は釉薬によるヌメヌメとした艶が鬱陶しく感じられ、知らずに陶彫を目指していたらしい。



しかし市販の粘土や釉薬をそのまま使い、電気窯での焼成は他人任せというやり方は、陶芸などと口にするのもおこがましい素人の泥遊びである。辻の作品に向き合っていると、的外れであるかもしれないけれど、彼の創作時の気分や狙いが想像できるような心持ちになる。そして「あゝ、私はこうしたものを作りたかったのだ」と気持ちが高ぶるのである。自分の作品を、先達と比べるほど私は傲慢ではないけれど、この高揚感は悪くない。



「取る物も取り敢えず」京都までやってきて、私は十分に満たされている。これは10年の道楽が、私の内に養ってくれた「土の感触」の賜物だろう。日帰りするつもりだったのだが、ひたすら観たかった作品を堪能して、もうしばらく余韻に浸っていたくなった。山科にあるという「清水焼団地」に行ってみることにする。陶芸への未練は消えていないのだろう。しかし私が再び土に親しむことはもうないと思う。潮時ということである。(2020.11.17)








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