今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

315 人見(東京都)・・・新田の末裔たちの並木道

2010-11-21 14:22:35 | 東京(都下)

東西に細長い東京都の、地図でいえばそのほぼ中ほどの限られた区間を、やはり東西に延びる道がある。人見街道だ。江戸時代、府中と杉並の大宮八幡を結び、周辺の畑地から江戸へ野菜を運ぶ牛車が往き交った生活道路である。その街道を今も街の主要路としているのが三鷹市で、市役所など行政機能はこの街道沿いに多い。だが昔サイズの街道だから道幅は狭く、歩道を十分に取る余裕はない。ところが最近、立派な並木が出現した。

人見(ひとみ)は中世、府中の台地を指した地名であったらしいが、現在は街道名にその記憶を留めるだけである。いま街道の西端は府中市若松町で終わっているけれど、自衛隊基地に分断される前は大国魂神社あたりで甲州街道に吸収されていたのだろう。家康が江戸の街を設計する段階で、府中滞在時の居館とした府中御殿が起点かもしれない。以後、将軍たちの鷹狩りの道として、武蔵野台地の雑木林に街道が形成されたのではないか。

その街道筋、野崎2丁目交差点に私はいる。道路の両側に、ケヤキの巨木が見事に立ち並んでいる。しかもその内側には歩道がゆったりと確保され、江戸時代の脇往還は現代のゆとりある通りに変身しつつある。ケヤキは長い樹齢を刻んだ大木ばかりで、他所からの移植ではなくずっとそこに立っていた樹々であることは明らかだ。なぜこんなにうまい具合に並木道が造成できたのだろうか? ヒントは道路沿いの家々の垣根にあった。

道路に面したどの家も、広い敷地を真新しい塀が囲っている。いっせいに新調するとは珍しい。つまりそれぞれの家が歩道を造成するために土地を提供し、その舗道上にケヤキが残った(残した)ということなのだろう。屋敷林だったケヤキをうまい具合に活用したものだと感心する。だからこれだけの歩道を確保するために、いかほどの税金が投入されたかなど詮索しないでおこう。

        

人見街道を東から西に向かうと、江戸の農地開拓の歴史を辿ることになる。水が乏しく、耕地としては不毛であった武蔵野台地が、江戸の人口増をまかなう食料生産基地として注目され、新田開発が幕府の政策になる。江戸開府以前は牟礼、仙川、大沢などに細々と人の気配を漂わせていたこの地が、野川、連雀、野崎と村が増え、さらに井口、深大寺などの新田へと西進して行く。私がいるあたりは古新田と新田の接点あたりだろう。

新田開発は、意欲ある豪農などに任されたらしい。井口新田などの一帯を請け負ったのは、練馬区関町辺りに基盤を持っていた旧家・井口家で、その名残りは町名や神社名として今も残っている。そして私がいまいるあたりは、やたらと「吉野」姓が多い。マンションも農園もヨシノだらけだ。吉野という庄屋が仕切っていた土地らしい。時は流れ、一族の末裔は分家して根を張り、そして遂にはケヤキ並木を残した、ということなのだろう。

街道を少し外れたところに、奇妙でカラフルな集合住宅が建っている。三鷹天命反転住宅という世界初の「死なないための住宅」なのだそうだ。賃貸入居ができるようだが、死ねなくなるというのも何だか空恐ろしい。

        

人見街道をさらに下って野川を渡ると、近藤勇の墓所・龍厳寺や、生家跡だという近藤神社がある。街道を挟んで神社の向かいに崩れ落ちそうな木造家屋が建っている。勇の父が天然理心流を教えた道場・撥雲館だといい、敷地の表札には「近藤」とあった。「天命」とか「天然」とか、人見街道は散歩人を飽きさせない。(2010.11.12)
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