今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

320 虹の松原(佐賀県)・・・唐津なる風は遥かに渡り行く

2010-12-27 16:51:13 | 佐賀・長崎

木漏れ日が松の長い影を下草に延ばしている。今日は冬至だというから、影は1年で最も長いのだろう。思い思いに延びた影と太い幹が、軽やかなリズムを刻む原を来るのは、これから《陶芸の道》を旅する私のパートナーである。焼物をはじめ、未知の土地に好奇心を寄せる彼女は運転を担当してくれる。黄花を咲かす足下の石蕗に気を配りながら「さあ、出発しましょうか」と言った。湿り気を含んだ《虹の松原》は芳しく、立ち去り難かった。

唐津湾を抱くように弧を描く松原は、対岸の道路から展望すると太い緑の虹である。8キロ(2里)も続くから《二里の松原》で、江戸のなかごろからそれを《虹ノ松原》と言い習わすようになったらしいと司馬遼太郎氏が書いている。「虹という多少甘ったるい言葉が、これほどありありと生きている例を他に知らない」と。

日本人はよほど松が好きなのだろう。そうでなければ《松原》という言葉だけで、人々が何がしかの感情を共有できるという、他国の人には理解し難い思いが生まれることはなかったであろう。高知県黒潮町(旧大方町)の入野松原を訪れた時のことだ、「第12回松原友好市町交流会議記念植樹」と書かれた杭とともに、参加した松原名が列記してあった。煩雑になるが書いておく。

入野松原(高知県大方町)、慶野松原(兵庫県西淡町)、気比の松原(福井県敦賀市)、三保の松原(静岡県清水市)、津田の松原(香川県津田町)、虹の松原(佐賀県唐津市)、風の松原(秋田県能代市)、天の橋立(京都府宮津市)、くにの松原(鹿児島県大崎町)、万里の松原(山形県酒田市)。以上がどこまで全国を網羅したものか知らないが、日本人の白砂青松への憧れは相当なものである。

しかしこれらの松原はもちろん、単なる都市景観を目的として造られ維持されて来たわけではない。風や津波から生活を守るために、多くの労役が注ぎ込まれて来たのだ。響きの美しい《虹の松原》にしても、唐津城初代城主の寺沢広高が防風林として造成したものだというから、領主にとって不可欠の公共工事だったのだろう。現代唐津市民は観光シンボルの唐津城(舞鶴城)以上に、この緑地が残ったことによる恩恵を享受している。

唐津は今回が3度目の訪問となる。このわずかな経験で言うのもおこがましいけれど、私はこの街が好きだ。唐津くんちの賑わいはまだ知らないが、城下町らしい落ち着いた住宅街、陶工が腕を競った窯街の痕跡、石炭の積み出しで活況を呈した栄華の跡、そして松原と島々に守られた唐津湾の空の広さ。訪問者にとって魅力は尽きないが、市民生活や気候も穏やかな街であるようだ。

唐津の石炭景気を象徴する旧唐津銀行ビルの化粧直しは、なお続いていた。間もなくオープンとなるようで、市民は旧市街地活性化の起爆剤になることを期待しているのだろう。他の地方都市同様、この街も賑わいは郊外のロードサイドに移行し、さらには1時間しか離れていない福岡商圏に飲み込まれつつあるのかもしれない。

朝8時半に羽田を飛び立って、昼前には唐津に到着した。博多湾、玄界灘を眺めながら那の津、糸島、松浦と続く地名は、魏志倭人伝を走り抜ける気分だ。カラツ自体が伽羅(唐、韓)の湊といった意味なのであろう。マツラ、ヒラトの「ラ」は「クニ」ということか。陶芸の旅を始める時が来た。唐津の渋みは捨て難いものの、目下の私は磁器のモダンに惹かれている。(2010.12.22)
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