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321 大川内山(佐賀県)・・・藩窯の里にコトリと響く音

2011-01-06 21:41:54 | 佐賀・長崎

かつての肥前国は、現在の佐賀・長崎両県のほぼ全域にあたる入り組んだ地形を持ち、まとまった平地といえば有明海に臨む佐賀平野がわずかに広がる程度の、山々の重なる土地柄である。そこは九州本島部から西に突き出した半島のようなもので、幕藩下では鍋島、唐津、平戸、大村などの各藩によって分割統治されていた。日本の磁器生産は、そうした山あいから始まった。とまあ、こんな貧弱な知識を頼りに陶芸三昧の旅を始めた。

肥前磁器の道を旅する者は、国道202号を行くことになる。博多を起点に唐津を経て伊万里に至り、佐世保に抜けるその道は「唐津街道」あるいは「平戸街道」と呼ばれた。唐津を発った私たちは、伊万里市街の手前で南の山中に分け入った。「秘窯の里」と喧伝される大川内山を目指しているのだ。鍋島藩が技法も人も門外不出とした窯場だから、そうした大仰なイメージが定着したのだろうが、おかげで《鍋島》という頂点も生まれた。

陶土を捏ね、あるいは磁石を砕き、形を整え文様を飾って焼く。陶芸はフォルムを産み出す作業としては彫塑に似ており、その表面をカンバスと考えれば絵画芸術のようでもある。しかもそれは生活のための器であり、同時に用を超えた美術品にも成り得る。破損によって形が失われることはあるけれど、焼き付けられた色は永遠に褪せることがない。土器、須恵器、陶器、磁器と続く焼き物の歴史は生活史そのもので、そこが面白い。

陶芸作品は、陶板やレンガなどごく一部を除けばあくまでも「容器」である。しかし実体は、いわゆる鑑賞陶磁と生活雑器に大別されるべきで、ナベシマは鑑賞陶磁の到達点であろう。博物館で対面すれば、姿・焼き・絵付けの完全さに目を奪われて、そこに注ぎ込まれた技量の限りなさに声を失う。とはいえ私は、それらのどれひとつ欲しいと思わない。私の部屋に置いたところで馴染むはずがないし、現代生活では扱い難いからだ。

幕藩体制が崩壊した後、大川内山の藩窯はどうなったのか。「葉隠」だけでなく「窯隠し」も続けた鍋島藩は解体され、藩主と藩の贈答用にだけ火が入れられた藩窯は無用となった。職人たちは関所の監視から自由になると同時にパトロンを失ったのである。ただ絵付けの技法は有田の今右衛門家に残った。ナベシマの系譜は、肥前磁器のどこかに沈潜しているはずである。

現代の大川内山は、欄干に巨大な壷が立つ藩窯橋を渡ると、緩やかな坂が背後の丘陵へ続いていて、藩窯坂と名付けられた石畳の通りの両側に30余の窯元が軒を並べている。点在する販売所は窯元の直営で、「ここは問屋を通さず、窯元が直接販売している」ことが特殊な産地らしい。「それだけあそこは誇りが高く、値も高い」というような話を他の窯場で耳にした。そうやって窯が維持できるなら、それはいいことではないかとも思う。

しかし買い手の嗜好は時代とともに遷ろう。デザインとは、そうした変化の先を読み、提案することだ。秘窯の里に時代をプロデュースする力は育っているか? 高度な技法をベースに、購買層の心をつかんで行かなければならない。なかなか難儀な道のりであろう。

橋の向こうに墓地が見えた。この山里には、陶工たちのおびただしい無縁塚があるそうで、高麗の人々も眠っているらしい。日本の窯業を担った職工たちは、果たしてどのような思いで生きていたのだろう。(2010.12.23)
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