東京・調布市に「多摩川」という街がある。当然、多摩川の畔に広がっていて、真ん中を京王相模原線が走っている。マンションや住宅、競輪場、フラワーガーデンなどが無秩序に建ち並んでいるが、それでも堤防に出ると視界が広がり、心地よい風が川面を渡って来る。河原では郊外生活を存分に楽しもうとする都会人が、走ったり寝転んだり束の間の休日を貪っている。ただぶらぶらと歩いているのは、毎日が休日の私くらいのものだ。
梅雨の晴れ間の土曜日である。久しぶりの日差しが眩しい。娘のお供でこの街までやって来たのだが、4時間ほど私だけ用無しになった。この機会に、多摩川堤散歩をしようと思いついた。下流方向には確か「五本松」という「名所」があるはずだ。かつて調布で暮らした私も行ったことがない。下流に向かえばそのうち着くだろうと、ぶらぶら歩き始める。土手の道はジョギングやサイクリングで込み合っているので、私は川辺を歩く。
大きな堰があった。川幅の半分ほどを水門が塞ぎ、調布側の流れは段差を超えて水が流れ落ちている。帰宅後に調べると、対岸の川崎市側に農業用水を供給したニヶ領用水の取水口だという。建設を命じたのは徳川家康で、関ケ原の戦いの3年前に着工された資料が残っているらしい。そんなことを知ると、この川が潤してきた多くの人々の暮らしに思いが及ぶ。万葉集の「多摩川に曝す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」である。
堰のいちばん手前に魚道が設けられ、上流へ向かうための緩やかな段が続いている。溜まりのひとつに小魚が群れて黒っぽい塊になっている。すると数匹がぴょんと飛び上がり、コンクリートの堰を這うようにして遡り始めた。鮎だろうか? 速い流れに押し返されないように、懸命に身体をくねらせて進んで行く。頑張れ小鮎! 魚道の最上部には大きな鯉が悠然と泳ぎ、近くの中洲では、にっくき鵜と鷺が人の立ち去るのを待っている。
(2007.5.13.青梅市釜ケ淵にて)
私は1週間前、多摩川上流の青梅にいて、釜ケ淵に架かる鮎美橋を眺めていた。そこは大正2年に琵琶湖産の鮎の稚魚が放流されて、成魚に育てることに初めて成功した地なのだ。7年前、その河原で青梅の子供たちが稚魚を放流するのを見かけたことがある。多摩川は堰が多く、海からやって来る鮎が釜ケ淵にたどり着くのは難しい。だから調布付近で稚魚を捕獲し運んで来ると聞いたが、その捕獲地がこの堰あたりなのかもしれない。
さらに下る。いささかくたびれて来たころ「五本松」に着いた。わずかな広場があって、その川の淵に貧相なクロマツが数本立っている。なぜここが新東京百景に選ばれたのだろう。時代劇のロケがよく行われたというが、いまや対岸にはマンションが建ち並び、時代劇は無理だろう。「海から24キロ」とある。もう少し下って小田急線の鉄橋を潜ると、1974年の狛江水害の現場になるはずだ。「岸辺のアルバム」は今も生々しい。
私はすでに狛江市にいる。堤の下の住宅地に松平定信の手跡だという万葉歌碑が埋もれている。近くに「玉翠園と六郷用水入り口」を描いた案内板があり、「明治39年に公園が整備され、大正2年に園内に料亭《玉翠園》が開業した」とある。富士山と川魚料理を愛でる遊山客でにぎわったらしい。そのころの「五本松」は生き生きと、結構な風情を見せていたのだろう。悠々と流れる川の畔で、人の営みはめまぐるしく移ろう。(2014.6.14)
梅雨の晴れ間の土曜日である。久しぶりの日差しが眩しい。娘のお供でこの街までやって来たのだが、4時間ほど私だけ用無しになった。この機会に、多摩川堤散歩をしようと思いついた。下流方向には確か「五本松」という「名所」があるはずだ。かつて調布で暮らした私も行ったことがない。下流に向かえばそのうち着くだろうと、ぶらぶら歩き始める。土手の道はジョギングやサイクリングで込み合っているので、私は川辺を歩く。
大きな堰があった。川幅の半分ほどを水門が塞ぎ、調布側の流れは段差を超えて水が流れ落ちている。帰宅後に調べると、対岸の川崎市側に農業用水を供給したニヶ領用水の取水口だという。建設を命じたのは徳川家康で、関ケ原の戦いの3年前に着工された資料が残っているらしい。そんなことを知ると、この川が潤してきた多くの人々の暮らしに思いが及ぶ。万葉集の「多摩川に曝す手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」である。
堰のいちばん手前に魚道が設けられ、上流へ向かうための緩やかな段が続いている。溜まりのひとつに小魚が群れて黒っぽい塊になっている。すると数匹がぴょんと飛び上がり、コンクリートの堰を這うようにして遡り始めた。鮎だろうか? 速い流れに押し返されないように、懸命に身体をくねらせて進んで行く。頑張れ小鮎! 魚道の最上部には大きな鯉が悠然と泳ぎ、近くの中洲では、にっくき鵜と鷺が人の立ち去るのを待っている。
(2007.5.13.青梅市釜ケ淵にて)
私は1週間前、多摩川上流の青梅にいて、釜ケ淵に架かる鮎美橋を眺めていた。そこは大正2年に琵琶湖産の鮎の稚魚が放流されて、成魚に育てることに初めて成功した地なのだ。7年前、その河原で青梅の子供たちが稚魚を放流するのを見かけたことがある。多摩川は堰が多く、海からやって来る鮎が釜ケ淵にたどり着くのは難しい。だから調布付近で稚魚を捕獲し運んで来ると聞いたが、その捕獲地がこの堰あたりなのかもしれない。
さらに下る。いささかくたびれて来たころ「五本松」に着いた。わずかな広場があって、その川の淵に貧相なクロマツが数本立っている。なぜここが新東京百景に選ばれたのだろう。時代劇のロケがよく行われたというが、いまや対岸にはマンションが建ち並び、時代劇は無理だろう。「海から24キロ」とある。もう少し下って小田急線の鉄橋を潜ると、1974年の狛江水害の現場になるはずだ。「岸辺のアルバム」は今も生々しい。
私はすでに狛江市にいる。堤の下の住宅地に松平定信の手跡だという万葉歌碑が埋もれている。近くに「玉翠園と六郷用水入り口」を描いた案内板があり、「明治39年に公園が整備され、大正2年に園内に料亭《玉翠園》が開業した」とある。富士山と川魚料理を愛でる遊山客でにぎわったらしい。そのころの「五本松」は生き生きと、結構な風情を見せていたのだろう。悠々と流れる川の畔で、人の営みはめまぐるしく移ろう。(2014.6.14)
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