「正面の山並みは安達太良連山で、中央の山頂が尖っている峰が安達太良山です」。私は「二本松 春さがし号」という市内循環の臨時バスに乗り、一人だけの乗客であることをいいことに、運転手さんとの会話を楽しんでいる。道路の先を塞ぐお城山を、淡いピンク色に染めているのは満開の桜だ。まるで丘にたなびく霞か雲で、二本松城が霞ヶ城と呼ばれる所以がよくわかる。二本松は「智恵子の街」である。だとすればあの空が「ほんとの空」か。
福島県の中通りに、二本松という街があることは知っていた。ただ郡山と福島の間にあって、阿武隈川の対岸を新幹線で通過することが常だから、印象は何もない。三春で滝桜を見物した帰り、どこかで1泊しようと地図を眺めて見つけたのだ。何の縁もない街だけれど、どこかで聞いたことがあるような、引っかかるものがあると考えて「智恵子の街だ」と気がついた。書架で埃にまみれている『智恵子抄』を取り出し、数十年ぶりに読み返してみる。
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。安多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だといふ」と綴る高村光太郎の『あどけない話』は、今でも諳んじることができる。その空の下にやってきたわけである。早朝は濃い霧に覆われていた街は、すでに完璧に晴れ上がり、智恵子の生家を経由したバスは霞ヶ城公園を目指して中心市街地を進んで行く。土曜の朝の二本松はいたって静かで、桜だけが饒舌である。
バスは頂の本丸跡を目指して急坂を登って行く。先ほど市中から見えていた桜だろうか、今度は分厚い花の絨毯となって眼下に広がっている。城跡公園には2500本の桜が植わっているそうで、何とも贅沢な街である。戊辰戦争で落城し、徹底して焼かれた城跡は、残された石垣がかえって往時の規模の大きさを物語っている。西に安達太良山が聳え、眼下には人口51000人の街が一望される。往古にはこの一帯を安達ヶ原と呼んだのだろうか。
「桜の樹の下には死体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎だが、霞ヶ城界隈を歩いていると「丹羽一学自刃の地」「安田才次郎戦死の地」「弔少年隊戦死墓」といった碑がやたらと目につく。そして城正面の箕輪門には、戊辰戦争の少年隊の群像が建つ。劣勢の兵力を補おうと志願した12歳から17歳の62人が戦火に散った記憶である。会津の白虎隊に似た悲劇が、二本松にもあったのだ。基次郎の言う「桜の樹」は、ここのことかと考えてしまう。
城郭内に建つ小学校は、丹羽家の直違紋をあしらった校章と藩校の「敬學」の文字を掲げる。街は今も丹羽家11代の治世を誇りとする空気に満ちている。しかしもう敗残の歴史は薄れさせていいのではないか。城跡を駆けて行く高校生も、母親に手を引かれた幼児も、すれ違う私に「こんにちはー」と声をかけてくれる。幼児は「じいじとばあばと遊びに来たんだよ」と実に可愛い。子孫はみんな立派に育っている。街も肩の力を少し抜いたらどうか。
巨大な岩に「爾の俸は民の膏」といった言葉が彫ってある。5代藩主が「人々の汗の結晶をいただいていることを忘れるな」と藩士を戒める「二本松藩戒石銘」だ。政治資金の不正発覚に慌てる自民党議員に教えてやりたいと思って帰宅すると、二本松商工会のメンバーが銘文を印刷して首相官邸に届けたというニュースが流れた。よくやったとは思うものの、堕落する政治家を支えてきたのも皆さんではないかと、つい考えてしまう。(2024.4.12-13)
福島県の中通りに、二本松という街があることは知っていた。ただ郡山と福島の間にあって、阿武隈川の対岸を新幹線で通過することが常だから、印象は何もない。三春で滝桜を見物した帰り、どこかで1泊しようと地図を眺めて見つけたのだ。何の縁もない街だけれど、どこかで聞いたことがあるような、引っかかるものがあると考えて「智恵子の街だ」と気がついた。書架で埃にまみれている『智恵子抄』を取り出し、数十年ぶりに読み返してみる。
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。安多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だといふ」と綴る高村光太郎の『あどけない話』は、今でも諳んじることができる。その空の下にやってきたわけである。早朝は濃い霧に覆われていた街は、すでに完璧に晴れ上がり、智恵子の生家を経由したバスは霞ヶ城公園を目指して中心市街地を進んで行く。土曜の朝の二本松はいたって静かで、桜だけが饒舌である。
バスは頂の本丸跡を目指して急坂を登って行く。先ほど市中から見えていた桜だろうか、今度は分厚い花の絨毯となって眼下に広がっている。城跡公園には2500本の桜が植わっているそうで、何とも贅沢な街である。戊辰戦争で落城し、徹底して焼かれた城跡は、残された石垣がかえって往時の規模の大きさを物語っている。西に安達太良山が聳え、眼下には人口51000人の街が一望される。往古にはこの一帯を安達ヶ原と呼んだのだろうか。
「桜の樹の下には死体が埋まっている」と書いたのは梶井基次郎だが、霞ヶ城界隈を歩いていると「丹羽一学自刃の地」「安田才次郎戦死の地」「弔少年隊戦死墓」といった碑がやたらと目につく。そして城正面の箕輪門には、戊辰戦争の少年隊の群像が建つ。劣勢の兵力を補おうと志願した12歳から17歳の62人が戦火に散った記憶である。会津の白虎隊に似た悲劇が、二本松にもあったのだ。基次郎の言う「桜の樹」は、ここのことかと考えてしまう。
城郭内に建つ小学校は、丹羽家の直違紋をあしらった校章と藩校の「敬學」の文字を掲げる。街は今も丹羽家11代の治世を誇りとする空気に満ちている。しかしもう敗残の歴史は薄れさせていいのではないか。城跡を駆けて行く高校生も、母親に手を引かれた幼児も、すれ違う私に「こんにちはー」と声をかけてくれる。幼児は「じいじとばあばと遊びに来たんだよ」と実に可愛い。子孫はみんな立派に育っている。街も肩の力を少し抜いたらどうか。
巨大な岩に「爾の俸は民の膏」といった言葉が彫ってある。5代藩主が「人々の汗の結晶をいただいていることを忘れるな」と藩士を戒める「二本松藩戒石銘」だ。政治資金の不正発覚に慌てる自民党議員に教えてやりたいと思って帰宅すると、二本松商工会のメンバーが銘文を印刷して首相官邸に届けたというニュースが流れた。よくやったとは思うものの、堕落する政治家を支えてきたのも皆さんではないかと、つい考えてしまう。(2024.4.12-13)
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