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この地方では珍しいことではないのかもしれないが、波佐見町は集落を「郷」と呼び、それが正式な地名になっている。宿郷、金山郷、皿山郷など、いい響きである。東西に延びる主要路をはずれ、町の東南端に向かう道を登って行くと《陶郷・中尾山》と書かれたアーチ状のゲートが現れ、家並が密集し始めた。波佐見焼の窯元が集中する中尾郷に着いたのだ。私をここまで誘うきっかけを作った湯飲みの工房も、ここにあるはずだ。
三方を山に囲まれ、流れ下る川筋に添って家並が広がるという、典型的な窯業の里の構造である。里の中心と思われる広場に架かる橋には巨大な壷が飾られ、鍋島藩窯の里・大川内山を思いっきり鄙びさせたような風情である。波佐見は磁器の歴史では鍋島や有田と変わらぬ長さを有するが、庶民向けの安価な食器づくりに徹して来た産地であるから、むしろ鄙びた風情が似合うのだろう。
それにしても江戸から明治期にかけ、国内の生活磁器のほとんどを生産し、輸出用にも大量の製品が海を越えたという波佐見の、中心的窯場としてはずいぶん土地が狭いように見える。しかし近年の発掘調査で確認された中尾上登窯は、集落の裏山の斜面に160㍍に渡って33もの窯室をもつ世界最大級の登窯だ。郷内にはさらにもっと大規模な窯跡が眠っているらしいというから、この地で膨大な量の磁器が焼かれたのは確かなのだろう。
里で出会ったお年寄りが語るには「昔は谷が真っ黒に霞むほど黒煙が上がり、夕刻ともなると芸者さんが下駄を鳴らして三味線の音が響いて来たものだ。大きな窯元は風呂場を拡張して相撲取りを逗留させて自慢し、有田・伊万里へ荷を運んだ後はそのまま金を持って京都に繰り出し帰って来ないものだから、女将さんが迎えに行ったという話も珍しくなかった」のだという。
そしておばあさんは「いまはすっかり売れなくなって、窯元も減りました。でもね、いい時と悪い時は60年ごとに繰り返すものなんですよ」と笑い飛ばす。バブル崩壊で窯業は斜陽産業に加えられるほどの低迷期らしいが、またいいこともある、というのだ。このおばあさんが「コンドラチェフの波」をご存知とは見受けられなかったけれど、窯業の大産地には長い経験則に基づいて、そのような体感的景気循環の法則が伝えられているのだろう。
有田同様400年の歴史を持つ波佐見焼は、長く有田の大衆品生産基地として販路を維持して来た。今も東京のデパートでは、波佐見の磁器に「有田焼」のシールが貼られている。地域商社が流通を仕切っているという仕組みが、波佐見を下請け的安易さに堕して来たのかもしれないが、勝手に波佐見ファンを自称している私としては面白くない。ようやくHASAMI ブランドを育てようという気運が高まっているようで、期待している。
私を波佐見焼に目覚めさせた窯元は《陶房青》という小さな工房だった。この地で3代続く窯元だという。窯経営は難事業で、柿右衛門や今右衛門のように14代も続くのは大したことであるらしい。だが《青》のシンプルな形と絵付けに、私はHASAMI の明日を見た。山道を行くと、鬼木郷の棚田が一望できた。窯業も農業も、人間の勤勉さが産み出すものだと教えられる風景だ。
宿で聞いた通り、波佐見の人たちは皆さん親切だった。今度は町の伝習館に10日間泊まり込む窯業体験に参加できないか、帰宅早々思案している。(2010.12.23-24)
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