今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

319 牛込(東京都)・・・文豪は殺風景に遇されて

2010-12-09 15:47:17 | 東京(区部)

夏目漱石の東京における「地名」を問われたら、あまり詳しくない私などは《千駄木》と《牛込》くらいしか思い浮かばない。千駄木は『猫』であり、牛込は生誕と終焉の地、そして旧牛込区早稲田南町の《漱石山房》だからである。その跡地が公園として整備されているというので出かけてみる。住宅街の入り組んだ路地から、丹前姿の苦沙弥先生が懐手をして現れそうな街の気配なのだが、漱石公園の殺風景さには唖然とさせられた。

千駄木の「猫の家」から駒込西方町の生活を経て、漱石家は明治40年(1907年)、この地に転居して来た。40歳だった。それから約10年間、大正5年(1916年)に没するまでここで暮らすことになる。毎週木曜日の夜には多くの弟子が集った漱石山房は、日本近代文学史における記念碑的土地であろう。門前に続く道は現在「漱石山房通り」と名付けられている細い坂道だ。

芥川龍之介は『漱石山房の秋』でこう書いている。《夜寒の細い往来を爪先上りに上つて行くと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともつてゐるが、柱に掲げた標札の如きは、殆ど有無さへも判然しない。》当時の牛込界隈は、住宅街といっても東京の街はずれといった風情で寂しいものだったろう。そして現在は高層マンションに埋まっているこの地に、一般の住宅よりは幾分、部屋数が多い程度の木造平屋建ての漱石山房があった。

《机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々と光を放つてゐる。傍には瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くやうに沸つてゐる。もし夜寒が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後、二枚重ねた座蒲団の上には、何処か獅子を想はせる、脊の低い半白の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本の詩集を飜したりしながら、端然と独り坐つてゐる》

その半白の老人が漱石その人であり、《漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであつた》という。

この家は空襲で焼け、土地は都営住宅の時代を経て現在は新宿区の公園になっている。胸像が建つ入口を入ると「道草庵」と書かれた簡単な建物が在り、簡単な解説パネルと漱石の復刻本が簡単に並べられている。これが文豪の東京におけるすべてかと「蕭條たる」気分になる。

文学はおよそ視覚の芸術ではないから、記念館を創ろうとしてもどうしてもモノトーンになる。それでも森鴎外は故郷・津和野に立派な記念館が建ち、いささか地味な上林暁だって、土佐・黒潮町に記念室があり、熊野の新宮には佐藤春夫、そしてわが家の近くには山本有三記念館がある。熊本や松山などの街が、漱石に嫌われ揶揄されたにも拘らずその記憶を大切にしているというのに、ホームグラウンドの東京は余りに冷淡ではないか。

木曜会のメンバーである内田百﨤によると、後世に名を残すことを前提に生きていたらしいゲーテを漱石は嫌っていたようなことを書いている(漱石山房の記)から、記念館の建設を持ちかけられたら、漱石先生は「まっぴらだ」と切り捨てるかもしれない。だからといって漱石公園の殺風景さが、免責されるわけではなかろう。

折りしも近くの小学校はマラソン大会で、父母たちが安全を確保する走路を、元気に発育した子供たちが駆けて行った。だいぶ歩いて入り組んだ路地を抜けようとしたら、「夏目」という表札が目についた。(2010.11.30)
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