今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

326 名護屋(佐賀県)・・・愚かなる強者どもが夢の跡

2011-03-25 20:06:33 | 佐賀・長崎

壮大な愚行の跡が、冬至の残照を浴びて静まり返っている。佐賀県唐津市鎮西町名護屋。深い入り江に守られた名護屋城跡である。日が落ちんとしている海は玄界灘で、壱岐、対馬と島を伝えばほどなく朝鮮半島に達する東松浦半島の岬の高台の、礎石だけが残る天守台に私たちはいる。破却され、放棄されてなお残った石垣を巡り、ここまで登って来た。権力とは、かくも馬鹿馬鹿しいエネルギーを産み出すものなのかと虚しさを憶えながら。

天守台には5層の天守閣が聳え、周囲には促成の城下が形成された。岬一帯は全国から招集された大名たちの陣屋で埋まり、この地にとって最初で最後の喧噪の巷が出現した。入り江からは14万人を超す将兵らが出陣して行き、それに数倍する朝鮮民衆を苦しめ、わずかな敗残兵が尾花打ち枯らして帰って来た。日本人が犯した愚行のなかで、あの15年戦争に匹敵する蛮行であった。

墓標のような木々が影を落とす石段で、彼女が「思い出したわ」と言った。彼女は日本語学校で日本語を教えているのだが、ある年の韓国からの留学生が自己紹介をする授業で「日本人はなぜあんなひどいことをしたのですか」と言って突然涙を流したことがあったという。

20世紀の朝鮮併合のことだと思い受け答えしたのだが、どうも話が噛み合ない。しばらく会話して、留学生が言っているのは秀吉の朝鮮出兵のことだと気が付いた。留学生は大学を出たばかりの若い女性だった。そんな世代が感情を高ぶらせるほど、秀吉軍の侵攻は朝鮮の人々に深い傷を残す蛮行だったのだと教えられたという。

私にも経験がある。慶州の国立博物館を訪ねた時のことだ。前庭に頭部の欠けた仏像が並んでいるのを見かけ「頭はどうしたのですか」と尋ねると、「それは日本にあるはずだ。秀吉の侵略軍が、全部は重くて運べないから、頭部を切り落として持って行ったのだ」と睨まれた。教科書問題で韓国の対日感情が極度に悪化している時期のことではあったが、ああやって展示することで、民族の屈辱を風化させまいとする意思が突き刺さって来た。

400年余の時を経て、なお若い娘さんに涙させる歴史の傷を刻んだ名護屋城跡は、日本人にもそのことを思い出させるため、枯れるに任せ、残しておいたらいい。城跡と向き合う丘に佐賀県立名護屋城博物館が建ち、文禄・慶長の役を中心にした日朝の歴史を解説している。そこを拠点に日韓文化交流活動が続けられ、韓国語講座も開かれているようだ。戦いのための城が、親善のための城にかわっている。せめてもの救いであった。

いっしょに歩む日本語教師は「こんなに大規模な城を築き、朝鮮半島に攻め入って行ったのね」とつぶやき、あの韓国からの学生のことを思い出しているようであった。私といえば「特別史跡・名護屋城ならびに陣跡」という説明板を読みながら、160もの大名が招集されたこの外征に、異を唱える大名が一人としていなかったとは何という日和見か! と勝手に憤っていた。

ほとんどの大名は嫌気がさしていたに違いない。それでも狂った独裁者を諌める者はいなかった。諌めれば自分の首が刎ねられることを知っていたからであろう。そうやって権力者に阿もね、盲従した者たちが大名として生きながらえて行く。後々、名家然と生きている者の先祖を一皮むけば、多くはその程度の出自なのだ。ただ名家の矜持が、人物を育てることはある。(2010.12.22)







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 325 中尾山(長崎県)・・・... | トップ | 327 呼子(佐賀県)・・・朝... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

佐賀・長崎」カテゴリの最新記事