今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

161 舞鶴(京都府)・・・美しき「舞鶴」の名を引き揚げて

2008-09-12 21:04:37 | 滋賀・京都

日本で一番美しい名の街はどこか、と質されたら、まず思い浮かぶ有力候補は「舞鶴」であろう。鶴岡でも美浜でもそのようなことを書いたが、「鶴が舞う」舞鶴には敵わない。にも関わらず、私が舞鶴に抱くイメージは暗いのである。「引き揚げ船」も『飢餓海峡』(水上勉)も『神の火』(高村薫)も、この街を辛く悲しい舞台にしているからだ。本当はどんな街なのだろう。私は長年の謎に挑むような思いで東舞鶴駅に降りた。

軍都とは似るものだろうか。街を歩いて広島の呉を思い出した。日本海軍の拠点であり、軍艦を建造し、戦後は自衛隊や保安庁が海の守りの要にしていることが似ている。舞鶴のアーケード街はマリンブルーをイメージしたのか、濃紺に塗られて不思議な印象を醸し出しているけれど、街を覆っているのはむしろ「柳煤竹」か「利休鼠」であるかのような気分だ。艦船色というのだろうか、呉でも感じたあの色である。

舞鶴はそこに、赤茶けたレンガ色が加わる。港の一角に赤煉瓦の倉庫群が保存され、街に独特の風情を与えているのだ。明治のころに建てられた、旧海軍の兵器庫だということで、余分な装飾のない、時代が沈潜させた渋い赤色が何とも味わいがある。資料館やレストランに改装され、一部は現役の倉庫として使用されてもいる。日本の近代化遺産として、赤煉瓦は市民の自慢なのだろう、レンガ博物館まである徹底ぶりだ。

「明治」はこの街に赤煉瓦を残してくれたけれど、様々な無理も強いた。街も港も駅も、東舞鶴と西舞鶴の二つに分かれているのは、別々の生い立ちの街を無理に合併させたからだ。西舞鶴は旧田辺藩の城下町、東舞鶴は軍事要地として明治になって開発された街であり、歴史も市民気風も違ったらしい。「田辺市」と名乗ることが自然だったのだろうが、紀州・田辺と紛らわしいから田辺城の雅号「舞鶴」に改名させられたということも、明治政府の横やりらしい。

そんな俄知識を仕込んで現地を眺めると、東西の街は確かに山地でセパレートされており、市街地の雰囲気はまるで異なる。役所も警察署も、東西にそれぞれ設置されているようであったが、街の重心は西から東へ移転したようだ。東は軍人や役人など、他国の血が流入して勢いがあったのだろう。軍とともに栄え、軍事に翻弄されたような街の歴史である。

最盛時には20万人を超えたという人口は、今では9万人だ。私が子供のころ(引き揚げ船の入港が大きなニュースになっていたころ)に習った、「京都府で2番目に大きい街」というのは今は昔。しかしそんなことはどうでもいいと、潮路通り沿いの公園で海を眺めて思った。「静かに平穏に、過去の遺産を大切に守る暮らしがある。いい街ではないか」

かつてのインターハイ・バスケットボール宇部大会で、我々の初戦の相手は舞鶴何とか高校といった。選手たちは街の子の雰囲気を漂わせ、なかなか手強い京都代表だった。数えてみると45年ほども昔のことになる。だが今年は「引き揚げ船最終入港50周年」なのだという。そのポスターを見て、まだ50年しか経っていないのかと驚いた。(2008.8.29)

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