万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

生活保護引下げ-物質的貧困より怖い心の貧困

2013年08月24日 16時01分49秒 | 社会
「生活保護引き下げ反対」は“一部の人”の運動か?元厚生省官僚の弁護士・尾藤廣喜氏の思い(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
 今年の8月1日から、生活保護の給付額が引下げられたことから、受給者の中では、訴訟を起こす動きも見られるそうです。おそらくは、”生存権の侵害”ということなのでしょうが、この主張には、どこか説得力が欠けているように思えるのです。

 日本国憲法の第25条は、確かに、「全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記しております。しかしながら、どの程度の生活レベルを”最低限度”とみなすのか、という問題については、何も語ってはいません。生活保護の引き下げ反対する人々の声には、”旅行ができない”とか、”外食ができない”といったものもありますが、生存権の定義として、最低年○回旅行できるとか、外食ができる、といった規定はないのです。否、生活保護世帯のみならず、年に一度も旅行できない家庭もあるのです。生活保護の人々の中には、パチンコ等の遊興に保護費を使ってしまう人々も多く、贅沢を言っては限がありません。それよりも、こうした不満ばかりを述べる人々の問題点は、心の貧困が疑われることです。生活保護の増額を求めることは、物質的な豊かさを追求していることに他ならないのですが、貧しい中にも楽しみを見出すことはできます。江戸時代の長屋では、現在よりも物質的にははるかに貧しい生活を送っていましたが、狭い部屋にも一輪の野花を活けて風流を楽しみ、お互いに知恵や知識を持ち寄りながら、和気あいあいと暮らしていたそうです。現在の方が、図書館などの公共サービスも整っていますので、その気になれば、古今東西の文化に触れることはいくらでもできるのです。生活保護の受給者の多くが貧困ビジネスの”鴨”になり、あるいは、保護費の額に口を尖らせている現代の光景は、どこか、寒々しさを感じさせます。

 もちろん、国民の物質的な生活水準は向上すべきですし、皆が、仕事に就き、生き生きと働ける経済を目指すべきです。しかしながら、他者の負担をも、財政の逼迫をも顧みずに、自己の要求を当然の権利とばかりに主張する態度には、違和感を感じざるを得なません(負担者に申し訳ない、という気持ちもない…)。本当に怖いのは、心の貧しさなのではないかと、つい考えてしまうのです。

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コメント (2)
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