万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世界を混乱させる米中ロの三つ巴-『1984年』のディストピア?

2019年10月31日 15時14分10秒 | 国際政治
 今日のアメリカと中国との関係は、米中貿易戦争に象徴されるように対立関係として捉えられています。米ソ間の冷戦に擬えて‘新冷戦’という言葉も聞かれるようになりましたが、両国の対立は、経済分野に限らず、世界観、あるいは、価値観の相違も相まって政治・軍事レベルにまで及んでします。しかしながら、その一方で、ロシアを含めた米中ロの三か国の関係に注目しますと、そこには、奇妙な三つ巴を見出すことができます。

 アメリカとロシアとの関係については、少なくともトランプ大統領に関しては、同氏が勝利を収めた前回の大統領選挙戦において既に疑惑が寄せられていました。同大統領とロシアとの協力関係、並びに、ロシアの選挙介入の真偽のほどは分からないのですが、個人的な感情であれ、トランプ大統領がロシアに好意的であるのは確かなことのようです。先日、全世界を驚かせたシリアからの米軍撤退の決定も、もしかしますとロシアへの配慮である可能性も否定はできないように思えます。今日の国際社会にあって米ロが鋭く対立する場面は殆ど見られず、米ロの両国は一先ずは良好な関係を維持しているようなのです。

 次に、ロシアと中国との関係を見ますと、対米共闘を目的とする軍事同盟の可能性さえ囁かれるほどに、近年、政治・軍事面での協力を深めています。両国は直接的な軍事同盟条約は結んではいないものの、1996年4月に中国、ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの上海ファイブと称される5ヶ国を原加盟国として発足した上海協力機構が、両国の絆を強める枠組みとして機能しています。そして、最近に至り、日本国近海において実戦を想定した共同軍事訓練も実施され、中ロ関係は新たな段階に入ったとする説も唱えられています。

 かくして、米中ロの三大軍事大国は、アメリカ対中国・ロシアの国家体制を軸とした対立構図の輪郭を見せながらも、きれいに二つの陣営に分かれているとは言い難く、三国が絡み合う三つ巴のようにも見えます。しかも米中関係も、しばしばトランプ大統領が習近平国家主席に対して親近感を示しているように、大統領の一存で軟化する可能性も残しているのです。いわば、三国間の複雑な三つ巴が、国際社会を不安定化していると言っても過言ではありません。

 そして、ここで思い出されるのがジョージ・オーウェルの著した『1984年』というディストピア小説です。同作品については、近年のITの発展を背景に、テレスクリーンといった高度なテクノロジーを用いた国民監視システムとの類似性が指摘されてきました。その一方で、『1984年』には、全世界が何者かによってコントロールされている様子をも描かれています。主人公であるウィンストンはオセアニアの国民ですが、同小説では、全世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの国によって三分割されています。これらの三者は頻繁に同盟を組み換えており、‘昨日の敵は今日の友’の状態が続いています。常に防衛体制が敷かれており、これを理由にオセアニアにも、得体のしれないビッグ・ブラザーが独裁者として君臨しているのです。全世界を俯瞰しますと、ビッグ・ブラザー、並びに、他の二国の指導者も‘操り人形’に過ぎず(その実在すら疑わしい…)、背後には、これら三国を操って人類を巧みに支配している何者かの存在が窺われるのです。

 テクノロジーの発展が『1984年』の世界を髣髴させるのと軌を同じくして、全世界もまた同小説に描かれた状況に似通ってきているのは偶然の一致なのでしょうか。三すくみの米中ロの三大国がその底流において気脈を通じているとしますと、人類にとりましては、危機の時代の到来となるかもしれません。全世界が全体主義化されるという…。ディストピアを実現させないためにも、自由を奪われかねない一般の人々こそ、詐術の罠を見抜き、そこから脱するための知恵を働かせなければならないのではないかと思うのです。

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量子通貨‘goo’が最強の通貨となるのか?

2019年10月30日 16時47分57秒 | 国際政治
先日、アメリカのIT大手のグーグル社の研究チームが量子超越性を実証する実験に成功したとするニュースが全世界を駆けめぐりました。量子コンピュータを用いれば、スーパーコンピュータが1万年かかる計算を僅か3分20秒で解いてしまうのですから、この技術が人類に与える衝撃は計り知れません。アナログからデジタルに移ったばかりなのに、そのデジタルも旧式になりそうなのです。

 時代が急速にデジタルから量子に向かうとしますと、現在、リブラやデジタル人民元といった民間企業や国のレベルで発行が検討されているデジタル通貨も、その誕生を見る前に、政治ではなく技術的な理由によって‘お箱入り’となる可能性もあります。ビットコインに始まる仮想通貨とは、ブロックチェーンといった暗号技術によってその価値が支えられていますが、量子コンピュータが実用化されれば、量子通貨の発行も当然に現実味を帯びてきます。

上述したグーグルの実証実験において最も懸念されたのは、既存の暗号化されたデータが全て解かれてしまうリスクです。このことは、反面、量子通貨が発行されれば、同技術を有さない以上、国であれ、民間企業であれ、デジタル通貨を発行しても、その信頼性や安全性はもはや維持できないことを意味します。グーグルによる実験成功の報が伝えられた途端、ビットコインの市場価格が急落しましたが、それは、現行の仮想通貨システムへの信頼が大きく揺らいだためです。技術上の信頼性の高さを評価基準とすれば、量子通貨には、最強の仮想通貨の地位が約束されているとも言えましょう。

そして、ここでもう一つ考えるべきは、量子通貨とデジタル通貨との管理体制の違いです。現行のブロックチェーンの特徴は、誰もが‘台帳’をチェックできる分散型データベースにあり、管理者のいないフラットなシステムが広く支持を集める要因ともなってきました。そして、この分散性とオープン性こそが、データの改竄や不正等を防ぎ、通貨としての信頼性をあたえてきたのです。その一方で、量子コンピュータが実用化され、かつ、量子通貨が発行されれば、発行された同通貨は全て中央集権型データベースによって一元的に管理されるかもしれません。量子コンピュータは、全世界におけるマネー・フローの管理に耐えうる能力を有するからです(もしかしますと、全世界のビッグデータの一元的な管理も可能であるかも…)。言い換えますと、量子コンピュータ技術が確立すれば、もはや分散型のデータベースを用いる必要性は低くなり、国家レベルとは別の次元の中央管理型データベースによる通貨発行が行われるに至るかもしれないのです。

量子通貨の優位性からしますと、現時点において、最も量子通貨の発行体として有力視されるのは、他に先んじて量子超越性の実証実験に成功したグーグル社と云うことになりましょう。グーグル社が発行する通貨の名称は‘goo’であるかもしれません。フェイスブックのリブラよりも、量子コンピュータを擁するグーグル社の方が遥かに信頼性の高い通貨を発行することができますし、IT事業の世界では他に先んじてネット空間にプラットフォームを構築した企業が独占的な地位を得ることもできます。‘goo’こそ、グローバル通貨に最も近い位置にあると言えましょう。

 もっとも、グローバルレベルでの‘goo通貨圏’の成立を、金融・通貨覇権を狙う中国が黙認するとも思えません。分散性とオープン性に注目すれば、中国の習近平国家がブロックチェーン技術において世界最先端を目指すのは矛盾しているようにも思えますが、実のところ、ブロックチェーンには、分散性とオープン性を特徴とするパブリックチェーンとは別のプライベートチェーンと呼ばれる形態があり、中央管理型データベースは現状でも可能なそうです。デジタル通貨発行のシステムはマイニングを要するビットコインとは異なりますので、中国は、デジタル通貨であれ、量子通貨であれ、ブロックチェーンを全通貨の取引データのトレースのためにのみ応用するかもしれません(ハッシュ値を次のブロックに埋め込む際に何らかのマーキングを行う?)。ましてや量子コンピュータであれば、最小単位に至るまで取引履歴のデータをリアルタイムで収集し、全マネー・フローを把握することもできましょう。

 グーグル社の量子コンピュータ開発はNASAとの協力の下で行われていることから、あるいは、アメリカの‘仮想(隠れ・クリプト)国家プロジェクト’であるの可能性もないわけではありません(この意味では、中国の仮想通貨も同国をコントロールする勢力のクリプトかもしれない…)。あらゆる分野において新たなテクノロジーが、支配の道具となるリスクを伴いながら否応なく既存のシステムを揺るがし、人々の生き方をも問う今日、既成事実に押されることなく、先端的なテクノロジーの使用目的については、国際レベルでの議論と幅広い合意の形成が必要とされているように思えるのです。

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リブラとデジタル人民元は風林火山?

2019年10月29日 14時19分49秒 | 国際政治
 フェイスブックのモットーは、‘Move fast and break things」(素早く行動し破壊 せよ)’なそうです。同社の創設者であるマーク・ザッカ―バーグ氏は、同モットーの実践によって若くしてデジタル時代の寵児となりました。逸早く会員制交流サイトのアイディアを以ってSNSのプラットフォームを構築し、全世界に24億を超えるユーザーを得たのですから、同モットーこそ、フェイスブック躍進の原動力であったことは疑いようもありません。しかしながらこのモットー、実のところ相当に謀略的であり、現代と云う時代にはそぐわず、乱世にこそ相応しいのではないかと思うのです。

 もっとも、リブラ構想ではこのモットーは通用せず、逆風の中でストップせざるを得なくなりましたが、同モットーは中国にも当てはまります。フェイスブックのモットーに最も近い行動原則を探してみますと、それは、風林火山のように思えます。風林火山とは、日本国内では甲斐の武田信玄が旗指物に掲げられたことで知られていますが、この出典は、『孫子』にあるとされます。風・林・火・山の4文字のうち、‘動’に関する風と火は、まさしくフェイスブックの‘素早く行動し破壊せよ’の行動原則と凡そ一致します。乃ち、‘早ききこと風の如く’、‘侵掠すること火の如く’なのです。因みに、‘静’の二文字である林と山は、‘しずかなること林の如く’、‘動かざること山の如し’です。現代にあっても中国は、春秋戦国時代に書かれたとされる戦略指南書、『孫子』の忠実な信奉者であるように思えるのです。

 『孫子』が春秋戦国時代に書かれた兵法書であったことは、同書に記された行動原則が、戦乱の世を前提にしていることを意味します。乃ち、この世界には、法やルール、あるいは、合意を尊重する精神は宿っておらず、力とそれに基づく行動力が凡そ全てを決定します(一方的に自らの意思を他者に強制できる…)。そして、無法世界で勝者となるためには、誰よりも先に素早く行動し、攻撃の目的と定めた対象を破壊しなければならないのです。フェイスブックを事例にとれば、全世界に張り巡らされたネット上にSNSのプラットフォームを逸早く構築することであったのでしょう。プラットフォームは空間の掌握ともなりますので、他のインフラと同様に独占や寡占の利益を永続的に享受することができます。こうした‘先手必勝’にも通じる既成事実による覇権の掌握は、乱世におけるオフェンス側の基本的な策の一つです(法秩序が整っている‘平和な世界’では、スタートの位置や時間等が公平なルールによって定められている…)。敵に熟考や準備を整える暇を与えず、一気に攻め入るという…。

 ネット上の交流サイトの運営は、全く新しいビジネスモデルですので、破壊’とまでは行かないまでも、それが、デジタル通貨の発行ともなりますと事情は大きく違っています。何故ならば、送金や決済システムを備えたデジタル通貨の発行は、国家レベル並びに国際レベルにおいて既存の金融システムを‘破壊’するからです。つまり、国内の金融インフラのみならず、国際公共財である国際通貨システムがその‘破壊’の対象なのです。そして中国も、‘風’の如く他の諸国に先駆けてグローバル通貨を発行し、‘火’の如く他国の通貨圏を‘侵掠’し、国際基軸通貨の地位をも奪うつもりなのでしょう。リブラであれ、デジタル人民元であれ、特定の主体による一方的な行動が公共財を破壊するのですから、国際社会にとりましては重大な脅威なのです。

 デジタル時代を迎えた今日、オフェンス側の基本戦略に対するディフェンス側の基本戦略もあるはずです。そして、この後者の対抗戦略こそ、破壊をともなう乱世ではなく、人々が理性や知性を働かせ、合意や法が重んじられる現代という時代に相応しいものであるべきです。そして、金融・通貨の分野におけるディフェンス側の戦略とは、時間をかけて理性的かつロジカルに考え、今後の国際通貨制度については誰もが納得する制度設計を志すと共に、国際的なコンセンサスを形成することなのではないでしょうか。

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デジタル人民元は貨幣の私物化?

2019年10月28日 14時11分18秒 | 国際政治
今日、数多くの仮想通貨が登場すると共に、政府の後押しの下に、急速にキャッシュレス決裁も普及しています。中国では、習近平国家主席がブロックチェーンの開発に取り組むよう外為当局に指令したとも報じられており、デジタル人民元発行の動きを加速させています。10月下旬には、全人代が暗号資産に関する法律案を成立させており、来年1月1日に施行される予定なそうです。こうした動きの背景には、‘紅い通貨’によって全世界を紅色に染めようとする通貨覇権の野望が隠れているのでしょうが、既成事実化による国際通貨制度の‘合意なき変更’、あるいは、中国による‘乗っ取り’も起きかねないリスクを指摘することができます。そこで、将来の国際通貨制度を考えるに当たっては、まずは、貨幣とは何か、という原点に帰った議論も必要なように思えます。

 貨幣の三大機能とは、支払い手段、価値尺度、並びに、価値貯蔵手段の三者です。発生史から見れば、貨幣とは、人々が自らの必要とするものを手に入れるに際して間接交換の手段として誕生しており、‘必要は発明の母’の観点からすれば、支払い手段が最も基本的な原初的な機能でした。価値尺度や価値貯蔵手段としても機能するのは、間接交換の手段である以上、貨幣には交換価値が備わっている必要があったからです。乃ち、それを交換手段として使用する人々が、共に貨幣として使用される‘もの(物質)’に対して価値を認める状態を必要としたため、誰もが価値があると認める‘もの(物質)’が貨幣として自然に選ばれたのです。古代にあっては、タカラガイや石なども貨幣として使用された時代もありますが、最も一般的な貨幣の素材は金や銀と言った希少金属でした。

 ところが、希少金属を貨幣の原材料とする場合、その高温で融解する性質上、銅といった他の金属を混ぜることができますので、必ずしも価値が一定するわけではありません。今日でも18金もあれば24金もあるように、一枚の金貨とは言っても金の含有量によって価値に違いが生じてしまうのです。この状態では、価値尺度や価値貯蔵のみならず、貨幣の第一義的な役割である支払手段の役割さえ十分には果たせません。例えば、ある商品に‘1金貨’と値が付いていたとしても、使用された金貨の金含有量によって、受け取る側の利益も全く違ってくるからです。価値が不安定な状態では、商工業も発展を望めません。

そして、ここに、国家が貨幣に関する権限を有するに至る理由を見出すことができます。国家は、国営の貨幣鋳造所を設けたり、貨幣に含まれる希少金属の含有比率を公式に決定し、固有名詞を付した通貨単位を定めることにより、コインの価値を安定化させる役割を担うようになったからです。最古の国家公認のコインは、紀元前660年頃にリディア国のギュゲス王が発行した金貨でしたが、国家の刻印が付された貨幣は、最も信頼性の高い通貨として広く使用されることとなるのです(このケースでは、良貨が悪貨を駆逐している…)。

ただし、国家は、必ずしも民間の貨幣需要に応え、かつ、商工業の発展を支えるために、通貨価値の安定を最優先として貨幣を鋳造したわけではありませんでした。国庫の財政状況、-得てしてその目的は巨額の軍備の調達や君主の贅沢等に伴う財政赤字なのですが-、国家は自らの都合に合わせて通貨の改悪を行ったため(金等の含有率を下げる…)、しばしば、一般の国民は、貨幣価値の下落に伴うインフレに悩まされることともなったのです。

 以上に政府と貨幣との関係の始まりを確認しましたが、ここでまず注目すべきは、デジタル人民元は、発行体である中国と云う特定の国家と直接的に結びついているという点です。長くなりますので紙幣の時代の到来については後日に譲ることといたしますが、原点に帰れば、デジタル時代に至っても、政府と貨幣の関係が消滅するわけではなく、それ故に、デジタル人民元が全世界で使用される事態に至れば、全世界の金融・通貨政策に関する権限が中国の手中に収められるに等しくなるのです。そして、政経を一体として捉える共産主義を堅持する中国が、自らの国益のために同権限を行使することは目に見えています。貨幣が世界支配の道具とされるかもしれないのです。

 もっとも、フェイスブックのリブラ構想や中国のデジタル人民元発行計画は、改めて人類に対して通貨の在り方や国際通貨制度の将来ヴィジョンを問う機会を与えているように思えます。少なくとも、ひとつだけはっきりと言えることは、個人であれ、企業であれ、特定の国家であれ、貨幣に関する権限を私物化してはならないということなのではないでしょうか(中国人民銀行は国内にあっては公的機関ですが、国際社会では違う…)。貨幣とは、日々、社会に必要とされる様々な活動を行っている、全ての人々のためにこそ誕生したのですから。

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宋銭とデジタル人民元は違う

2019年10月27日 16時01分58秒 | 国際政治
日本国には、12世紀から14世紀にかけて中国の宋が発行していた銅銭を大量に輸入し、自国で使用していたという歴史があります。日本国内では皇朝十二銭が途絶え、実質的に‘絹本位経済’となっていたため、市中の取引需要に応えるだけの貨幣供給がなく、また、金属貨幣の鋳造にもコストがかかったことから、宗からの大量輸入を選択したのでしょう。かくして宋銭こそ日宋貿易の‘主力商品’となったのですが、如何に大量に宋銭を輸入しても、日本国の経済が中国の宋朝に牛耳られたり、政治的なコントロールを受けることはありませんでした。何故ならば、貿易船に積み込まれて宋の地を離れた途端、宋銭と宋朝の関係は切れたからです。過去の宋銭使用の歴史からしますと、現代の中国がデジタル人民元を発行した場合、日本国内で同通貨が流通しても構わないとする意見も聞こえそうですが、宋銭とデジタル人民元とでは、著しい違いがあるように思えます。

 第一に、宋銭の価値を支えているのは、基本的には銅という金属です。このため、輸入された宋銭は、鋳型で同一質量に整えられた円形銅片に過ぎず、それ故に日本国内において一般的に流通したと言えます。この点は、しばしば発行国以外でも使用された金貨や銀貨と変わりはありません(宋銭は、広くアジア一帯で使用され、遠くはアフリカでも使われた国際通貨でもあった…)。一方、デジタル人民元は、金準備を基礎とする金本位制を採用するとの説もありますが、中国の金準備高、並びに、予測される発行額の膨大さから、同方法には無理があります。このため、今日の一般的な形態である管理通貨制度のもとでデジタル人民元が発行されるのでしょう。即ち、デジタル人民元も既存の人民元と同様に不兌換通貨として発行されることとなりますので、その価値は、宋銭よりもはるかに不安定となります。

 第二に、宋の時代には、中国人民銀行といった近代的な中央銀行は存在していませんでした。宋銭自体は宋という当時のアジア屈指の大国によってその信頼性が支えられていたとしても、宋朝の通貨政策が宋銭の使用を介して日本国内に及ぶことはなかったのです。しかしながら、デジタル人民元は、その発行体である中国人民銀行、否、中国共産党の金融政策の影響を受けます。しかも、渡航が困難であった中世とは違って、今日では、日本国内には200万人を越える中国人が居住しているのみならず、中国との間で取引を行っている企業も存在しています。デジタル人民元に直接的な送金・決済機能を持たせるとしますと、個人レベルにまで中国の金融政策の影響下に置かれるのです。

 第三に、デジタル人民元の中核的な技術は、ビットコインが開発したブロックチェーンとされています。既存のシステムでは、中央銀行は、自らが発行した貨幣の‘その後’をトレースすることはできませんが、ブロックチェーンの仕組みであれば、コンピュータによってデジタル人民元のマネー・フローを把握することができます。このことは、日本国内におけるデジタル人民元の流れまでも、データとして中国人民銀行に独占的に掌握されることを意味するのです。共産主義イデオロギーによって政治と経済が一元化している中国が、日本国内のみならず、独占的に収集した全世界のデジタル人民元のフローに関する膨大なデータを自国の国家戦略の達成のために使用するとしますと、それは、他国にとりまして政治的な脅威ともなりましょう。ブロックチェーンとは、貨幣を永遠にその発行国の‘ひも付き’とする技術なのです。

 以上に述べましたように、デジタル人民元のリスクは宋銭の比ではありません。宋銭は宋を離れますとおよそ‘無色’となりましたが、デジタル人民元とは、発行体である中国の色に染まった‘紅い通貨’であり、それを使用する他国の内部に巣食ってしまうのです。否、中世の宋銭には政治色が薄かったからこそ、アジア一帯に広がったとも言えましょう。もっとも、日本国内を見ますと、日宋貿易をおよそ独占していた平家が宋銭に関する利益や権限をも握るに至ったため、後白河法皇との間で宋銭流通をめぐる激しい対立が起きています。やがてこの対立が平家を滅亡へと導くのですが、通貨をめぐる対立が宋との間ではなく、宋銭権益(事実上の通貨発行権…)を私物化しようとした平家の横暴によって、むしろ国内で起きている点が、興味深いところではないかと思うのです(私物化によって反発を招いた側面は、フェイスブックのリブラ構想の顛末に近い?)。

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デジタル人民元の最大のライバルはデジタル米ドルでは?

2019年10月26日 11時31分31秒 | 国際政治
 先日、フェイスブックのマーク・ザッカ―バーグ氏は、議会の公聴会の席で、雨や霰の批判を受けているリブラ構想を擁護するためか、中国人民銀行によるデジタル人民元の発行の脅威を訴えていました。リブラ構想を潰せば、ライバルが消えた中国が発行するデジタル人民元によって世界経済が乗っ取られると言わんばかりです。しかしながら、この主張、いささか自らを買い被っているようにも思えます。

 フェイスブックの利用者は、2019年7月の時点にあって全世界で24.14億人を数え、数からしますと中国の人口13億人を遥かに上回っています。海外の華僑人口を含めても人的な規模ではフェイスブックに軍配が上がるのですが、仮に中国自身が、リブラと同様に既存の銀行間決済システムを介さずに国境を越えた送金・決裁が可能となる仕組みを以ってデジタル人民元を発行するとしますと、その脅威は、フェイスブックに優るとも劣りません。否、軍事や政治面まで含めますと、デジタル人民元構想の方が遥かに深刻な脅威を全世界の諸国に与えることとなりましょう。何と申しましても、中国と云う大国が発行主体なのですから。

 中央銀行によるデジタル通貨構想は、中国に限られているわけではなく、キャシュレス化が進んでいるスウェーデンもデジタル通貨を発行する計画を温めているそうです。スウェーデンが独自の国際送金・決裁システムまで構想しているか否かは分からないのですが、中国では、アリババ集団の子会社であってアリペイを運営しているアント・フィナンシャルがフィリピンとの間で送金実験を行っていますので、デジタル人民元構想に同システムが含まれるのはほぼ確実です。スウェーデン・クローネは国際通貨とは言い難い点をも考慮しますと、新たな国際通貨システムをめぐる闘いは、リブラとデジタル人民元による一騎打ちの様相を呈しているのです。上記のリブラか、デジタル人民元かの二者択一を迫るようなザッカ―バーグ氏の発言も、こうした現状を踏まえてのことなのでしょう。

 しかしながら、よく考えても見ますと、両者が新国際通貨システムの両雄として注目を集めるのは、それが、構想の計画と公表において他に先んじているからに過ぎないように思えます。今日、ビットコインをはじめ、フィンテックの成果として様々な‘仮想通貨’が登場しており、こうした技術は、一部の国や企業が独占しているわけではありません。ネット上の交流サイトの運営を本業とするフェイスブックが早々とリブラ構想に打って出たのも、おそらく、技術的な障壁はそれほどまでには高くないからなのでしょう。デジタル通貨構想は、リブラとデジタル人民元によって独占されているわけではなく、その他の国や企業も参入可能ということになります。

  このように考えますと、国際送金・決裁機能をも備えたデジタル米ドルの発行もあり得ると言うことになります。今のところFRBは米ドルのデジタル化に乗り気ではないようですが、仮に米ドルがデジタル化され、かつ、個人向けの即時送金・決済機能をも備えるとしますと、その信用力からしましても、人々は、既に国際基軸通貨の地位にあるデジタル米ドルを選択するのではないでしょうか。乃ち、デジタル人民元の最大のライバルはデジタル米ドルとなるのです。この結果、中国は、先行プラットフォーマーとしてのアドバンテージを失い、世界大に人民元圏を拡げようとする野望や潰えるかもしれません。

 デジタル米ドルの圧倒的な優位性からすれば、ザッカーバーク氏は、米議会議員に対して自社への支援を訴えるよりも、中国のデジタル人民元に対抗するために、デジタル米ドルの発行を訴えるべきでした。もっとも、中央銀行によるデジタル通貨発行には慎重に考えるべき様々な面がありますので、国際通貨制度全体に関わる問題は、国際的な議論やコンセンサスの形成が必要なように思うのです。

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中国がデジタル人民元の発行を急ぐ理由とは?

2019年10月25日 11時01分58秒 | 国際政治
フェイスブックによるリブラ構想が関心を集める中、中国もデジタル人民元の発行を急いでいるそうです。ブルームバーグが流した11月11日説は否定され、時期こそ先延ばしとなりましたが、デジタル人民元発行計画は着々と進行しているのでしょう。それでは、何故、中国は、かくも人民元のデジタル化を急いでいるのでしょうか。

 メディアの説明に依りますと、リブラ構想に触発された面もあるようですが、そればかりではないようです。一帯一路構想を打ち上げた当初から、ユーラシア大陸一帯、さらには全世界に人民元圏を拡大する野望を抱いていたとされており、通貨のデジタル化を可能とするフィンテックの開発の背景には、野心的な人民元圏構想があったことは否定のしようもありません。もっとも、一帯一路構想が停滞する中、通貨のデジタル化のみは先行させようとしている背景には、別の理由も隠されているかもしれません。その理由とは、中国の官民が抱える膨大な額の対外債務問題ではないかと思うのです。それでは、デジタル通貨の発行には、どのような‘債務低減効果’、あるいは、‘デフォルト回避効果’があるのでしょうか。

 第1の効果は、海外からの送金を介した外貨の獲得です。リブラと同様にデジタル人民元の利用目的の一つが送金の簡便化、あるいは、低コスト化であるとしますと、海外の利用者は、まずはオンライン上にウォレット、あるいは、口座を開設することとなります。アリぺイやウィーチャットペイ等の民間ネット金融事業者が間接的に関与する可能性もありますが、中国人民銀行が直接に個人向け口座を設ける方法を採用するかもしれません。そして、利用者は、保有している米ドルやユーロ等の国際通貨とデジタル人民元とを交換してから、ウォレット、あるいは、口座を介して送金するのです。つまり、この交換作業において、中国は、既存の銀行システムを介さずして個人から直接に外貨を吸収することができるのです。外貨準備が増加するほどデフォルトリスクが低下しますので、デジタル人民元には巨額債務問題を低下させる効果が期待できます。

 第2に、デジタル人民元を他国に先んじて発行すれば、その利便性から同システムを利用する民間企業の増加が見込めます。例えば、現状では米中間の貿易決済や投資の大半は米ドルで行われていますが、デジタル人民元のシステムが国際通貨システムとして高く評価されれば、同システムに乗り換える企業も増加します(人民元決裁や人民元投資への移行…)。この結果、長期的には債務問題の縮小が予測されるのですが、この場合、貿易黒字や対中投資として中国に流入する外貨は減少しますので、短期的には債務問題が悪化する可能性も否定はできません。

 第3に、海外投資家からマネーを呼び込むことができます。中央銀行がコール市場で銀行間取引に金利を設定するように、デジタル人民元システムにおいて個人取引にも政策金利を設定する、あるいは、民間ネット事業者が個人ウェレットに預金金利を設けるならば、海外からの資金の流入を金利操作でコントロールすることができます。つまり、これらの金利を他の低金利諸国よりも高く設定すれば、中国への資金流入を促すことができるのです。上述した送金ルートに加え、高金利操作を用いれば、中国のデフォルトリスクはさらに低下します。

 上述したように海外からの送金や高金利政策により、同通貨への需要が高まれば、為替相場は人民元高に振れる可能性があります。今般の米中貿易戦争の結果として対米輸出が減少に転じていますので、債務国である中国政府としては、米ドルに対する人民元高を望むはずです。これまで、アメリカは貿易赤字の拡大を憂慮して人民元安を警戒してきましたが、対米輸出の減少を機に、中国は、人民元高容認に転じるかもしれません。すなわち、人民元高による実質的な債務の軽減が、第4に期待される効果です。

 第5の効果とは、既に中国の官民が負っている外貨建て債務を人民元建てに変換させるための、債務者に対する動機付けとしてのデジタル通貨化です。仮にデジタル人民元が、中国の狙い通りに米ドルに替って国際基軸通貨の地位を獲得し、フィンテックを活用して人民元圏を世界大に拡大させた場合、海外投資家や金融機関等の債務者は、人民元建てでの償還や借り換え等に応じる可能性があります。人民元建てでの債務返済が可能となれば、中国は、コンピュータの操作によって無制限に人民元を発行するかもしれません。輪転機で紙幣を刷り続けたように…(もっとも、この場合、人民元相場の下落とインフレを招くことに…)。

 以上に述べたように、デジタル人民元の発行は、対外債務問題のみを取り上げましても中国にとりまして良いとこ尽くしなのですが、中国のみを利するシステムを、来るべき時代の国際通貨制度として他の諸国が易々と受け入れるとは思えません。否、これらのメリットは、逆から見ますと、中国の致命的な弱点を示しているとも言えます。つまり、計画通りに人民元のデジタル化に失敗しますと、中国経済は崩壊局面を迎えるかもしれないからです。そして、リブラ構想に内在するリスク、並びに同構想に対する各国の拒絶反応からしますと、その可能性は決して低くはないように思えるのです。

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天皇陵発掘調査とDNA鑑定の意義

2019年10月24日 15時15分29秒 | 日本政治
 宮内庁は、これまで、歴代天皇陵の発掘調査には極めて消極的でした。しかしながら、この態度はどこか矛盾していますし、日本国民に対していささか高飛車のようでもあります。宮内庁は陵墓を‘神域’とみなし、発掘調査は皇祖皇霊に対する不敬や毀損行為に当たると考えているのでしょう。しかしながら、神社の修繕等の際に行われるように、神事によって皇祖の御霊を一時的に他所に移すこともできますので、この説明は説得力に欠けております。矛盾と申しますのは、天皇陵の指定は明治期に行われているために間違いが多く、それこそ皇霊を蔑にしておりますし、高飛車と申しますのは、天皇陵は、皇室の私的財産でも宮内庁の独占物でもなく、日本国民の共有財産であるからです。

 国民には知る権利がありますので、自らの来歴を知ることも国民の重要な権利の一つです。この点、天皇陵の発掘調査と現皇族に至るまでのDNA鑑定の実施は、実のところ、皇統の継続性の科学的検証に加え、日本国や皇室の来歴を国民が知るという重大な意義があります。何故ならば、DNAの解析データは、今日に伝わる史料からでは分からない歴史の謎を解くための重要な鍵を提供するからです。否、諸説が入り乱れ、歴史学上において学説が対立する際に、唯一、これらの論争に決着を付ける証拠となるケースもあるかもしれません。DNA解析で得たデータとは、天皇家をめぐる歴史的な事実、即ち、日本国の歴史の一端を明らかにする情報が詰まった貴重な宝庫なのです。

 日本国の土壌は酸性であるため、御骨が埋葬時のままに残っている可能性はそれ程には高くはないのですが、戦前に発掘された中臣鎌足の墳墓とされる阿武山古墳のように、保存状態がかなり良好な骨が発掘される場合もあります(ミイラ化?)。古代天皇陵から骨片でも出土すれば、人類の遺伝子の分布マップに照らして天皇家の由来や騎馬征服民族説等の真偽を確かめることができます。また、仮に歴代天皇の間でY染色体の継続性がなく、客観的なデータによって万世一系説が否定されたとしても、何故、そのような事態が起きたのか、文献史学の成果を踏まえつつ検証することもできます。持統天皇や淳和天皇のように火葬に付された天皇の場合もありますが(損傷のためDNAの採取が難しいかもしれない…)、少なくとも継体天皇、後白河天皇、後醍醐天皇といった皇統の危機や時代の転換点に生きた諸天皇、並びに、江戸初期の後水尾天皇から昭和天皇まではみな土葬で埋葬されています。盗掘されている陵墓もありましょうが、スパコン等の能力からすれば、相当に精緻なDNA解析が可能なはずです。歴代天皇の御骨は、テクノロジーの力を借りて2000年以上に亘る日本国の歴史を語り始めるかもしれないのです。

 皇統に対する疑義が呈される今日、最も国民の関心を集めるのは、何と申しましても万世一系説の真偽となりましょう。この場合、DAN解析と云うよりも親子関係を確認するDNA鑑定と表現した方が適切であるかもしれません。調査結果は今後の日本国の国制の在り方に多大なる影響を与えることとなりましょうが(仮に万世一系が証明されたとしても、天皇の国制上の在り方については見直しを要するかもしれない…)、その結果が如何なるものであれ、日本国民には事実を知る権利があります。事実を直視する国民の精神的なタフさ、あるいは、それを受け止める柔軟な心こそ、閉塞感に覆われている日本国の現状を打破する力となるのではないかと思うのです。

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皇統と合理主義-遺伝学の衝撃

2019年10月23日 15時43分13秒 | 日本政治

メンデルによる遺伝の法則の発見は、人類が生命の不思議を解明する入口に立つと共に、社会の在り方にも多大なる影響を与えることとなりました。その衝撃性において、メンデルはダーウィンにも優るかもしれません。何故ならば、遺伝学上の見地は、世襲に関する伝統的な考え方を覆してしまったからです。日本国の皇統に関しても例外ではなく、以下に述べるような問題を提起しています。

 母親は‘借り腹’に過ぎず、子は父親のいわばクローンであるとする考え方は、今日、遺伝学によって完全に否定されています。ランダムな染色体の組み換えためにその比率に違いがあろうとも、いずれの子も、両親の双方から染色体を引き継いでおり、もはや母親は‘無関係’とは言えなくなりました。このことは、側室を母とする大正天皇のように、戦後の正田家からの入内以前に遡って皇統が希薄化していたことを意味します。その一方で、Y染色体のみが父親から男子に確実に継承されるため、46本の染色体の1本に過ぎないにせよ、遺伝学に立脚した新たな父系主義も登場したのです。

 遺伝のメカニズムが明らかになるにつれ、さらにはっきりしてきたことは、建国の祖の遺伝子は、婚姻を同一血族間に限定しない限り、残りの大多数の遺伝子は、代を重ねる度に急激に減少するという事実です。平安時代にあっては藤原氏が皇后や中宮の地位を独占しましたし、その後も戦国大名等の女子が入内していますので、万世一系が保たれているとすれば、天照大神の子孫とされる神武天皇の遺伝子は、おそらくY染色体のみかもしれません(ただし、天照大神は女神であり、しかも皇孫とされる瓊瓊杵尊は、素戔嗚尊の佩く剣と、天照大神のみずらと腕に巻かれた首飾りから生じていることから、皇統男子特有とされるY染色体の特定自体がそもそも困難…)。

 また、遺伝学によって皇族が受け継ぐとされる‘神の血脈’を証明することは殆ど不可能となりました。DNA配列とは暗号のような記号であって、しかも、分離可能な情報パーツです。すなわち、一個の統合された人格や身体であっても、遺伝子レベルで見れば、分解可能な膨大な情報パーツによって構成されているのです。何故、生物は一個の意思を有するのかは未解明の謎ですが、建国の祖やその後継者のみが排他的に有するDNA配列は存在せず、しかも、何らかの固有なDNA配列を有していたとしても、それが他の人類とは全く異なる‘神’のものであるはずもありません。

 そして、ヨーロッパの王室では、男子優先の継承ではなく性別をなくして長子継承に切り替えましたが、遺伝学的見地に基づけば、この継承法は合理的ではありません。仮に、建国の祖、あるいは、先代君主の血統を後世に残そうとすれば、全ての子のDNA検査を実施し、その中から最も多く正統性の根拠となる人物のDNAを継承している子、あるいは、親族を即位させるのが、最も合理的な方法であるからです。この点に鑑みれば、現皇室に皇位継承権を独占的に認める必要性はなくなります。

 以上に述べてきた遺伝学的な見地からしますと、今日の皇族と他の一般の日本国民とを区別することは極めて難しくなります。しかも、皇統の希薄化に留まらず、唯一の拠りどころとされるY染色体の継承に疑義があるとすれば、国民の多くは、皇族を‘神の子孫’や貴人として素直に敬うことはできなくなります。それは、理性に反する、あるいは、自らの心に嘘を吐くことになるからです。国のトップの一挙手一動に全国民が一喜一憂するよう強いられる、北朝鮮のようなパーソナルカルトの世界に住みたい人は、殆どいないのではないでしょうか。

 全国民に崇敬を要求する皇室の現状は、合理的に物事を考える人であるほど、精神的な苦痛として感じることとなりましょう。こうした混沌とした状況から脱するためには、先ずは、天皇陵の発掘と現皇室のDNA鑑定を実施する必要があるかもしれません。歴代天皇のDNA鑑定は、日本国の歴史を明らかにする上でも重要な作業ですが、遺伝的継承の有無やY染色体の一致・不一致による万世一系を検証することができます。そして、戦国時代に布教を試みた宣教師が評したように、元来日本人は合理的な考え方をしますので、たとえ、教科書の説明とは違う結果が判明したとしても、国民の多くは、それを、事実として受け入れることでしょう。

カルト的な手法で国民を北朝鮮的世界へと誘導しようとする政治家やメディアよりも、一般の日本国民の方がはるかに精神的に成熟し、かつ、冷静に皇室を見つめているように思えます。事実が判明すれば、もやもやしていた感情が晴れ、むしろ未来に向けて新たな一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。

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混乱する‘皇統’

2019年10月22日 13時40分44秒 | 日本政治

本日、10月22日、皇居では即位の礼が行われました。昭和や平成時の代替わりとは違い、様々な情報がネット空間を飛び交う今日にあって、少なくない国民が皇室の在り方に不安や違和感を覚えているようにも思えます。知っているのか、知らないのかによって、物事に対する判断は正反対になることもあるからです。特に重大となるのは、皇統の問題です。本記事では、今後の議論のために、皇統問題について一先ず整理を試みたいと思います。

 日本国の公式の見解であり、天皇の存在意義、並びに、正統性を説明する際に唱えられてきたのが、所謂万世一系論です。皇統とは、天照大神に由来する神聖なる血統を意味します。皇位継承法に変遷はあったとしても、神武天皇以降の歴代天皇が今日に至るまで絶えることなく父系の血脈として天照大神の血統を引き継いでいるとする点が、皇位の正統性の源にあるのです。建国の祖の子孫が、代々国家のトップの座や統治権を世襲する制度は、古今東西を問わず、世襲制の王制として普遍的に見られますが、日本の場合は、これらとは些か違い、建国の祖が、天の世界の神様、即ち、天照大神の子孫であるということを特徴としています(もっとも、昭和天皇による所謂人間宣言や、今日の科学的な見地からは、同血脈の神聖性は否定せざるを得ない…)。皇統に関する第一の立場は、万世一系論です。

 ところが、国家としての公式見解である万世一系論が存在するものの、同見解は、歴史的な事実とは必ずしも一致はしません。第二の立場は、皇統は断絶しているとする立場です。日本国の皇統についても、既に古代から疑義が呈されており、現代のようにDNA鑑定といった科学的手法がない時代にあっては、皇統の乱れや入れ替えを確認することはできませんでした。『源氏物語』では光源氏もまた皇統を継いでいますので、厳密には王朝交替とはならないのですが、秘かに他家の血脈に入れ替わってしまうケースはあったと考えられるのです。室町時代にあって北朝は足利系に替ったとする説もありますが、近現代にあっても天皇すり替え説は存在します。政治的な‘宮中クーデタ’であれ、個人的なアフェアであれ、内乱なくして新たな王朝交替が起きてしまっていた可能性はあります。明治天皇すり替え説もよく知られております。この立場にあっては、上述した万世一系論は建前に過ぎず、秘密裏に王朝交替が起きていたとする説は、皇統断絶論、あるいは、皇統すり替え説と称することができます。

 そして、第三の皇統に対する疑義は、婚姻による正統性の希薄化です。父系のみに皇位継承の正統性を認める万世一系論では母系は無視されるものの、天皇の配偶者が皇統に影響を与えることは歴然とした事実です。古代にあって、皇后の条件が皇統を継承する女子とされた時期もあり、こうした事例は母系が無視されてきたわけではないことを意味しており、否、むしろ重視されてきたと言えるでしょう。例えば、平安期の藤原氏のように母系を介して‘天皇の祖父’の座を独占し、摂関政治の基礎を築いた事例もあります。政略結婚もまた古今東西を問わずに散見されますが、近年に至ると、皇族の自由婚姻という別の形での‘天皇の祖父’問題も起きています。何れにせよ、生殖細胞の減数分裂により皇統は確実に希薄化しますので、Y遺伝子、即ち、父系のみで繋がってはいても、婚姻には皇統の他家による支配や私物化のリスクがあるのです。また、代を重ねる度に皇統が半減してゆけば、もはや一般国民とは違う特別の血脈でもなくなりますので、天皇の権威低下も否めません(現代人の感覚からすれば、むやみに有難がったり、頭を下げるのは馬鹿馬鹿しい…)。

 本日の即位の礼も、建前としては万世一系論に立脚しておりますが、実のところ、何れかの時点で皇統が断絶している可能性は極めて高く、それが明治期といった近現代に起きた陰謀であれば、海外勢力による日本支配の問題とも直結します。過去の歴史上の出来事ではなく、今日なおも、日本国は、自国の歴史に埋め込まれてしまった皇統問題に苦しめられているように思えるのです(皇室の血統上の機密情報を入手した諸外国から脅迫されるリスクもある…)。そして、第三に指摘した婚姻による私物化リスクもまた、皇族の配偶者の出自が詳らかではない以上、国民にとりましては重大な不安材料です。新天皇の即位を慶事として祝うべきなのか、躊躇う国民が現れても不思議はありません(また、真の多様性の尊重と自由に鑑みれば、皇室については、批判を含めた様々な意見や捉え方があってもよい…)。

 以上に述べた皇統に関する諸点を考慮しますと、‘皇統’につきましては、現皇室による世襲、並びに、‘現代に合わせた新たな皇室像’の模索は、きっぱりと諦めた方が潔いのかもしれません。むしろ、古来の祭祀、並びに、朝廷に伝わる伝統文化こそ、後世に伝承すべきものの本質と見なすべきなのではないでしょうか。

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中国デジタル通貨発行に潜む野望

2019年10月21日 13時54分18秒 | 国際政治
 民間企業であるフェイスブックが打ち上げたリブラ構想が国家の規制と云う巨大な壁に阻まれる中、中国がデジタル通貨を発行するのではないかとする憶測が流れています。デジタル人民元はリブラとは違って国家の後ろ盾があるものの、この構想に潜むリスクはリブラと何らの変わりはないように思えます。

 デジタル人民元の発行日を11月11日と報じた米フォーブス誌に対して、中国の中央銀行である中国人民銀行の情報筋はこれを憶測にすぎないとして否定したそうですが、ブロックチェーンといった先端的なフィン・テック開発に国家を挙げて取り組んできた中国のことですから、デジタル通貨の発行は技術的には可能なのでしょう。その一方で、発行形態や制度運営といった面については不明な点が多く、この不透明感はリブラ構想と共通しています。しかしながら、漏れ伝わる僅かな情報からしますと、以下のような計画が推測されます。

 発行形態については、同情報筋によれば、まずは政府が指定した7社にデジタル人民元が配分されるそうです。7社とは、アリババ、テンセント、ユニオン・ペイといったIT大手、並びに、中国工商銀行や中国銀行などの大手民間銀行です。この際、既存の発行済み紙幣と交換するのか、それとも、新規に7社に分与するのかは分かりませんが、今日、ネット取引やスマホ決済が日常化した中国では、同7社がデジタル通貨を一斉に使用するとなれば、消費者レベルにまで一気にデジタル通貨が拡がります。もっとも、デジタル通貨の流通が中国国内に限定されているのであれば、他の諸国が同通貨に神経を尖らせて警戒する必要はありません。問題は、次の段階、即ち、デジタル人民元の国際化、並びに、人民元圏形成のステージに移る時に生じます。

 中国人民銀行は「通貨が最終的に米国の消費者にまで利用可能になることを望んでいる」と述べており、中国の場合、当初から自国デジタル通貨の使用は国内のみを想定しているわけではないことを示しています。むしろ、同国の世界戦略の一環であり、紙幣時代には叶えることができなかった人民元の国際基軸通貨化、さらには、人民通貨圏を世界大に実現することこそ、人民元のデジタル化の最終目的なのです。それでは、何故、デジタル化すれば、実現不可能であった‘中国の夢’が達成されるのでしょうか。

 その答えは、リブラと同様に、デジタル人民元が既存の銀行間決済システムを経ずして国境を越えることができるように設計されている点にあります。2018年6月、アリババの子会社であるアント・フィナンシャル(アリペイを運営…)は、ブロックチェーン技術を使ってフィリピンへの即時送金システムの実験を行っています。上述した‘米国の消費者まで利用可能’という発言も、デジタル人民元がアメリカ国内で流通する時代の到来を期待してのことなのです。そしてこの懸念は、アメリカに限られたことではなく、日本国を含む全ての諸国に共通しています。国際基軸通貨の地位と云う他の諸国にはない重大問題を抱えつつも、アメリカは、米中貿易戦争において中国と距離を置き始めていますので、他の中小諸国の方がチャイナ・リスクを恐れるべきかもしれません。

具体的には、他国の消費者が、世界大に張り巡らされた中国系IT大手のオンライン事業を介して売買を行うに際し、デジタル人民元の使用を義務付ければ、中国通貨はいとも簡単に非中国人同士の取引にまで使用可能となります。既に諸外国には、華僑ネットワークが存在すると共に移民として中国系の人々が多数居住していますし、スマホ決済は、人民元圏による他国の通貨圏の侵食を後押しすることでしょう。また、貿易決済のみならず、中国系企業と何らかのビジネス関係があったり、資本、業務、技術開発の面において提携している民間企業も少なくありません。こうした取引にもデジタル人民元が使用されれば、人民元圏の拡大は加速します。さらに国家レベルでは、中東諸国において既にこの動きが指摘されているように、天然資源等の国家貿易の決済通貨としてデジタル人民元が使用されたり、外貨準備としての需要も高まることでしょう。

かくして、デジタル人民元は、個人レベルの送金や支払、企業レベルの貿易決済、取引、投資、並びに、国家レベルの経済関係といった重層的なルートを介して全世界を人民元圏に塗り替える可能性があり、デジタル人民元は、国際基軸通貨と言うよりは、‘グローバル通貨’と表現した方が適しているかもしれません。一見、実現可能な構想のように見えるのですが、中国が熱望する‘夢’は、その野望通りに実現するのでしょうか。

リブラ構想が各国から激しい抵抗を受けたように、中国のデジタル人民元構想に対しても、他の諸国が黙っているとは思えません。何故ならば、この構想が実現すれば、各国は、自国の通貨発行権のみならず、金融政策の権限まで失いかねないからです。否、リブラ構想が世に問われたことで、今日、むしろ、それが内包する問題点も人々が明確に認識するところとなりました。リブラかデジタル人民元かの二者択一の選択を迫られる状況は、どちらを採っても悲劇が待ち受ける二頭作戦であるかもしれず、国際通貨の地位を脅かされるアメリカや中国との間に経済関係を有する日本国をはじめ、全世界の諸国は、リブラ構想の影で進行しているデジタル人民元構想に対しても、同等、あるいは、それ以上に警戒すべきではないかと思うのです。

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皇室をサポートする中国の不思議

2019年10月20日 15時05分54秒 | 日本政治
人類史上初の共産主義革命であったロシア革命がロマノフ王朝を倒して達成されたことから、共産主義者は世襲王朝を不倶戴天の敵と見なしていると考えられてきました。理論にあっても、カール・マルクスの著書をひっくり返して探してみても、少なくとも明示的には世襲王朝を認める根拠を見出すことはできません。日本共産党も、皇室を脅かす存在として広く認識されており、近年の皇室容認論への転換も‘戦略的変節’として冷ややかな目で見られています。

 共産主義と世襲王朝は人々が一般的に描くイメージとしては水と油のような関係なのですが、現実は、そうとばかりは言えないようです。カンボジアでは北朝鮮兵がシアヌーク殿下の護衛を任されていたことはよく知られていますが、序列社会である点において、案外、両者は共通しているのかもしれません。民主的選出制度なき共産主義国家での権力闘争は、如何にして‘雛壇’の上位に上るのかをめぐる熾烈な闘いです。階級を否定し、その徹底的な破壊を唱えながらより極端な序列社会に行き着いてしまったのですから、共産主義革命もまた、メビウスの輪の典型例となりましょう。

 共産党と‘王室’との関係は、あるいは、20世紀初頭にあってユーラシア大陸でロシアとグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスの一部勢力がロシア革命を支援していた点にその起源を求めることができるのかもしれませんが(もしくは、二頭作戦を画策した国際財閥によるマルクスへの支援?)、‘共産党=王室・皇室の敵’とするステレオタイプの見方は禁物なようにも思えます。この見解を裏付けるかのように、近年、中国共産党政権は、日本国の皇室に対して並々ならぬ好意を示すようになりました。

 特に注目されるのが、懸命に皇室の権威維持に努めようとしている態度です。昨日も、ネット上で、即位の礼において韓国が文在寅大統領ではなく李洛淵首相の派遣を決めた件について、日本の皇室の格下げを意味するものではないと主張する記事を発見しました。王室・皇室の世界とは、上述したように厳しい序列社会故に‘格’が重要なのであり、とりわけ序列に敏感な中国らしい記事とも言えます。そしてそれは同時に、日本国ではなく、何故、中国が皇室の序列を上げようと必死になるのか、という素朴な疑問をも投げかけるのです。共産主義理論に立脚すれば、世襲の皇室制度は否定されるべきなのですから…。

 先立ってアメリカは、当初予定されていたペンス副大統領に替えてイレーン・チャオ(趙)運輸長官の派遣を決定しています。チャオ(趙)運輸長官は、台湾系とされながら父親は中国の上海出身の海運事業者であり、極めて中国色が強いのです。序列はナンバー14との指摘もあり、相当に‘格下’となるのですが、アメリカは、この奇妙な人選に何らかのメッセージを込めているようにも思えます。おそらく、それは、日本国民には知らされていない極秘の情報に基づくものなのでしょうが、皇室、中国(上海…)、海運(因みに現皇室の中心的サポーターである創価学会も運輸関連の国土交通相のポストに執着している…)、女性?…といったキーワードを繋ぎますと、そこに一体に何が見えてくるのでしょうか。

 この謎解きについては推論の域を出ませんのでここでは控えることとしますが、中国による皇室利用、あるいは、皇室による中国利用のリスクについては、十分な警戒を要するように思えます。上述した皇室擁護のみならず、中国は、新天皇の即位を以って日中関係がさらに改善するものと強い期待を寄せています。この期待にはそれなりの根拠があるのでしょうから、中国共産党政権の皇室接近は、一般の日本国民にとりましてはリスクとなりましょう。安倍政権につきましても親中への急転換も指摘されていますが、皇室の政治的リスクについては十分に注意を払うべきではないかと思うのです。

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メビウスの輪を解く方法とは?-皇室の伝統と革新

2019年10月19日 13時48分42秒 | 日本政治
 近代以降、メビウスの輪戦略は、世界各地で猛威を振るってきたように思えます。進化しているように見えて退行し、善のはずが悪に落ちているという…。もちろん、意図せずして逆の結果を招くのも世の常なのですが、意図的に逆の方向に誘導する手法は悪意のある詐術という他ありません。そこで、人類は、自らを救うためには、まずはこのメビウスの輪を解く方法を見つけ出す必要があります。そこで本記事では、22日の即位の礼を前にして、皇室における伝統と革新についてメビウスの輪から考えてみたいと思います。

 明治維新を思い起こしますと、そこにも、メビウスの輪の可能性を見出すことができます。王政復古の大号令と共に敢行された明治維新は、古代の国制への回帰という復古主義を看板に掲げながら、その実、日本国を西欧化して近代化させる大変革となりました。英語ではrevolutionと表現されるように、‘維新’が過去を否定する‘革命’の一種であったことは疑いようもありません。しかも戻るべき古代の国制とは唐に倣って一時的に導入された中央集権体制であり、権力と権威を分ける二元体制を日本国の伝統的な政体であるとしますと、明治維新には伝統破壊の側面が強いのです。つまり、明治のケースは、過去に戻ったはずが近代へと進み、日本の固有性を強調しながら外来志向が強いという、メビウスの輪として描くことができるのです(但し、明治時代の人々は多分に理性的であったことから、明治維新を機に統治制度や教育制度等の整備、並びに、産業の振興といったプラスの要素を取り入れており、明治維新には光と影がある…)。

 明治維新に組み込まれてしまったメビウスの輪の構図は、今日の日本国の保守主義に混乱をもたらす原因としても指摘できます。おそらく、倒幕派の人々は、日本国民に新たな体制を受け入れさせ、日本国を近代国家として纏めるための手法として、メビウスの輪戦略を採用したのでしょう。たとえ、明治維新が海外勢力によって仕掛けられたものであっても、日本古来の‘正しい在り方’への回帰であるとアピールすれば、日本国民は安心しますし、その支持をも容易に得られるからです。しばしば、明治維新は、アジアにおいて日本国が植民地化されずに独立を保ち得た偉業として称賛されていますが、メビウスの輪戦略の存在を知れば、この評価も怪しくなります。‘おだて’も、同戦略の基本戦術の一つなのですから。‘保守’と申しましても一括りにすることはできず、‘保守’には立憲君主制を支持する明治派と明治維新以前に伝統を求める非明治派との両者が混在しているのです。

 今般の即位の礼においては、一先ずは、それが明治期に創られたものであれ、‘伝統’が強調され、政府もメディアも‘国民あげての祝賀ムード’を造ろうとしています。しかしながら、前例があるだけに、こうした‘上’からの同調圧力に不安を感じたり、身構える国民も少なくないはずです。国民が知らない間に皇統も失われ(出自不明者の血脈が流れているとすれば、‘表看板’が万世一系ですのでこれもまたメビウスの輪に…)、かつ、その背後には、外国勢力や創価学会といった特定の新興宗教団体が潜んでいるリスクさえあるのですから。とりわけ、新天皇の即位以降、中国が露骨なまでに日本国の皇室に期待し、持ち上げている点も気になるところです。今日の日本国も、メビウスの輪に嵌められそうになっているのかもしれません。そして、独裁者であれ、誰であれ、絶対的な権威を纏う超越的な人物をトップに据える国家体制は全体主義との間に親和性が高く、国民の自由にとりましては重大な脅威ともなるのです。

 それでは、どのようにすれば、メビウスの輪から抜け出ることができるのでしょうか。まずは、仕掛ける側がその行く先として描くヴィジョンを鵜呑みにするよりも、現実に起こり得る結末や結果を合理的に予測する必要がありましょう。行く先が違っていれば、即座にその‘バス’から降りる、あるいは、行く先を変更する必要があります。また、伝統と革新の観点からすれば、アピールされている‘伝統’が本物であるのか、客観的な立場から史実を探求すると共に、科学的検証を行う態度も重要です(皇室の場合、皇統に疑義が生じている…)。特に、変革を訴える‘保守’が現れた時には注意を要します。‘伝統’も時代と共に変わるとは申しますが、その本質的な部分までも変えますと、‘革新’以外の何ものでもなくなるからです。時代に合った、即ち、物事を合理的に考える人々が増えた時代に合った姿を求めるならば、国制上の地位についても天皇の役割は古来の祭祀にとどめ、政治と切り離した上で縮小の方向に動いた方が国民の理解を得られたかもしれません。

 皇室をめぐっては、左右を問わず、自由な議論が行われているとは言い難く、こうした息苦しい言論空間を創り出すことこそ、全体主義を志向するメビウスの輪を仕掛ける側の狙いの一つなのでしょう。天皇の代替わりが、日本国民の閉塞感を強めているとしますと、令和という元号もまた、政府の説明とは逆の方向へと向かうメビウスの輪と化すかもしれません。そして、こうした危惧が強まればこそ、メビウスの輪から抜け出すために最も必要とされるのは、神話にあってしばしば呪いを解く勇者が示すような、人々を救うために悪しきタブーを破る勇気なのではないかと思うのです。

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相互主義の罠-中国による言論統制リスク

2019年10月18日 15時17分37秒 | 国際政治
 本日の日経新聞朝刊に、「中国の言論統制海外にも」というタイトルで中国の言論弾圧が海外にまで拡大している現状を憂うる記事が掲載されておりました。筆者はフィナンシャルタイムズのチーフ・フォーリンアフェアーズ・コメンテーターのギデオン・ラックマン氏なのですが、同氏が危機感を募らせた切っ掛けは、米プロバスケットボール協会(NBA)と中国との間で起きた軋轢です。NBAに属する「ヒューストン・ロケッツ」の幹部が香港支援のメッセージをツウィートしたことから、これを問題視した中国当局がNBAの放映を一部中止すると言った圧力をかけたのです。また、仏ディオール社も、台湾を描いていない中国地図を用いたことから謝罪に追い込まれています。

 同記事に依りますと、かこくも露骨な介入を行いながら、習近平国家主席は、アフリカ諸国の首脳を前にして「5つのNO」を提唱し、内政不干渉を掲げているそうです。この言葉は、一般的な理解からすれば、‘中国は他国の内政に干渉しないかわりに、他国の中国の内政には干渉しないでほしい’という意味に聞こえます。しかしながら、ラックマン氏も「中国政府が解釈する不干渉」に過ぎないと注意を促すように、この言葉の言い回しは中国独自のレトリックであり、むしろ、中国の干渉を許すリスクが潜んでいるというのです。

 そこで、「中国政府が解釈する不干渉」について何処にまやかしがあるのか考えてみたのですが、まずもって、相互主義の罠に気が付く必要があるように思えます。相互主義とは、対等の立場から一般的にはお互いの言い分や立場を認め合うことを意味しますので、誰からも受け入れられやすい原則として一般的には理解されています。しかしながら、相互主義で合意する段階にあっては対等でありながら、必ずしもその結果までもが公平であるとは限らならいケースもあります。

 ある特定の相手方に害を与える行為をめぐって、‘私もそれをしませんので、あなたもそれをしないでください’という合意が成立いたしますと、以後、双方ともがその同一行為を控えるのですから、相互主義は、双方に同等の禁止効果を及ぼします。こうしたパターンでは、双方にとって公平な結果がもたらされますので、お互いに何らの不満も残りません。

 しかしながら、相互承認の対象が考え方や価値観であり、かつ、その及ぶ範囲も曖昧な場合には、「相互主義」という言葉はレトリックに転じ、その結果は対等でも公平でもなくなります。例えば、それは、「わたしは、この他害行為を禁止すべきではないと考えているが、あなたは、逆に禁止すべきと考えている。意見は違うけれども、相互に相手の言い分を認め合おう」という表現の罠です。このケースでは、確かに双方ともがお互いの意見や立場を認めるのですから平等なように見えますが、その結果を見ますと思わぬ落とし穴に気付かされます。何故ならば、この手の相互主義を認めますと、他害行為の禁止を主張する側は、それを容認する側による他害行為の実行によって自らが害を受けることを甘受せざるを得なくなるからです。つまり、結果は対等でも公平でもなく、本来相互に禁止されるべき他害行為が、それを容認する側にのみ許されることとなるのです。

 トラップとしての相互主義が存在することを考慮しますと、「中国政府が解釈する不干渉」とは、‘相手国に対する干渉を認める中国の立場に対して他国は干渉してはならない’という意味かもしれません。しばしば中国は、‘国家間の体制の違いに拘わらず、相互に互恵的な関係を構築すべき’と訴えていますが、その実、他国に対して自らの覇権主義を受け入れるよう迫っているのかもしれないのです。自由主義国が全体主義国の在り方や価値観をそのまま認めることは、自殺行為に等しい結果を招きかねず、こうしたトリッキーな相互主義もまた、メビウスの輪戦略の一つではないかと思うのです。相互主義のはずが一方的な侵害に行き着くという…。

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トルコ大統領即位の礼訪日中止―政治家の参列問題

2019年10月17日 13時00分38秒 | 国際政治
今月の22日、日本国では即位礼正殿の儀がおこなわれます。この日、世界各国から参列者が訪れる予定ですが、報道によりますと、トルコのエルドアン大統領は、シリアにおける軍事行動を理由として訪日を中止するそうです。この一件は、以下の諸点から日本国の皇室行事の在り方をも問うているように思えます。

 第1の問題は、新天皇即位の儀式は、あくまでも日本国内の行事である点です。現在の儀式は、基本的には明治時代に創作されたものです(正殿の前に地球儀を置くという奇妙な演出も創作されていた)。江戸時代以前にあっては、大嘗祭において真床御衾に包まれて瓊瓊杵尊が天孫降臨する場面を再現した儀式がメインであり、高御座から新天皇が即位を宣言するという形態ではありませでした。もちろん、江戸時代までは海外からの参列者もなく、また、内外に向けて積極的に発信するべき事柄ではなく、宮中における神事として粛々ととりおこなわれたのです。内外の賓客を招待して華々しく戴冠式を行うのはヨーロッパの君主制の伝統なのでしょうが、日本国が、西欧の慣習を真似る必要はないように思えます。

 第2の理由は、日本国憲法では、天皇に対して政治的権能を認めていない点を挙げることができます。海外からの出席者の顔ぶれをみますと、王室が存在しない諸国からは主として政治家が参列します。各国の要人が東京に集うため、日本国政府も、即位の礼を外交に利用する方針のようですが、政治家による‘皇室利用’ あるいは、批判も強い‘皇室外交’の機会となる恐れがあります。

 第3の理由は、相手国に対する配慮です。今般、エルドアン大統領は、自国の政治事情を優先して訪日を見送りましたが、即位の礼への参列は、諸外国の政治に多かれ少なかれ政治的空白を作り、相手国にマイナスの影響を与える可能性があります。数日間ではあれ、相手国において重大な事件が発生しないとも限らず、特に大統領といった国家の最高責任者であればあるほどこのリスクは格段と高まります。

 第4に挙げるべき点は、海外諸国から参列者を招きますと、相当の費用を要する点です。今般の経費は平成時を上回るそうですが、日本国が公式に招待する以上、宿泊所から食事まで最高の‘おもてなし’を準備せざるを得なくなります。今般も二度の水害により甚大な被害を受けましたが、日本国は自然災害の多い国ですので、即位の礼に多額の予算を費やすことには声なき批判もあるはずです(本来、天皇は、天神地祇に祈りを捧げて災害を防ぐ役割がある…)。

 即位の礼の招待状は既に諸外国に向けて送られており、予定を変更することはできないのでしょうが、今後の皇室行事については護るべき日本古来の伝統とは何かを踏まえ、以上の諸点から再考を試みてもよいのではないかと思うのです。

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