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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日米関税交渉については国民的な議論を

2025年04月18日 10時09分39秒 | 日本経済
 今般、アメリカのドナルド・トランプ大統領が同席の上で、赤沢亮正経済再生担当大臣とベッセント長官との間で日米関税交渉が行なわれました。一体、どのような話し合いがなされたのか、現時点では詳細は分からないのですが、少なくとも、日本国側が自動車等の工業製品分野において関税率の引き下げを求めたことだけは確かなようです。もっとも、日米間で何らかの合意が成立するとすれば、日本国側が何らかの分野で一定の譲歩を約することになりますので、日本国内の産業各界では、戦々恐々の状況にあるものと推察されます。

 通商政策の分野では、相手国との交渉窓口を一本に絞る必要がありますので、否が応でも交渉自体は政府に任せざるを得ません。とは申しましても、海外の国や地域との通商上の合意がもたらす影響は、国内の凡そ全産業に及びます。しかも、国際競争力は全産業分野において均一ではありませんので、通常は、マイナス影響を受ける産業とプラスの影響を受ける産業に分かれます。とりわけ自由貿易協定や非関税障壁も含む経済協力協定等を締結するに際しては、国際競争力を有する優位産業ではプラスに、劣位産業ではマイナスの影響を受けるのです。国際競争力において敗北必至となる劣位産業にとりましては、消滅の危機にも直面しかねない事態と言えましょう。

 このように、通商上の取極には国内産業にあって利害が分かれますので、たとえ交渉役を政府が務めたとしても、政府の代表がテーブルに着くに先立って、国内的な議論並びに利害調整を行ない、かつ、一定の国民的なコンセンサスを形成しておく必要がありましょう。ところが、かつてのTPP交渉にあっても顕著に見られたように、近年の通商協定の交渉過程は厚いベールに覆われ、全くもって秘密主義です。今般の日米関税交渉にあっても、‘相手国に手の内を見せてはいけない’という‘理由’からか、日本国側の要求や条件等の内容は、国民には知らされていません。この結果、両国間で合意が報じられたときには、国民はその結果を受け入れざるを得ない状況に置かれてしまうのです。

 例えば、昨今の米価高騰の背景には、日本国に対して米市場の開放を求める要求があるとも囁かれています。米輸入を要求しているのは、カリフォルニア米を筆頭に米生産国であるアメリカとする説もありますし、あるいは、近年、ジャポニカ米の増産に乗り出している中国であるのかも知れません。もしくは、世界市場をコントロールし、農産物の価格形成における支配力を握りたいグローバリストの後押しの下で、生産過剰気味のタイやベトナム等の東南アジア諸国からの要請があったとも考えられます。

 何れにしましても、日本国側が、お米をはじめとした農産物の関税率を大幅に引き下げる措置をもって、アメリカ側が、対日関税率を下げるとする‘取引’も予測の範囲に入ります(あるいは、米国産米だけを対象に特別措置として関税を下げる?)。このシナリオでは、富裕層向けのブランド米等を除いて日本国民の主食である米の国内生産が立ちゆかなくなると共に、自給率のさらなる低下により、食糧安全保障もなお一層脆弱化することでしょう(なお、米価を下げることを目的として、今年の収穫期までの間に限定して米の関税率を下げるのであれば、日本国の農家への影響は限定されるので、許容されるかも知れない・・・)。これでは棄民政策となりかねませんし、一般の農家にとりましては死活問題ともなます。

 その一方で、日本国政府が、農業を死守するとするならば、他の分野にあってアメリカに利益を提供せざるを得なくなります。この点、交渉の取引材料として‘最有力候補’とされているのが、アメリカ製の兵器の購入です。日本国政府が、アメリカの軍需産業の利益に貢献すれば、同盟国として一定の関税率引き下げを勝ち取ることが出来るのではないか、とする案です。同取引であれば、日本国の防衛力強化には役立つことでしょう。しかしながら、台湾有事が現実味を帯び、かつ、ウクライナ戦争の戦闘地でも中国人の兵士の存在が報じられている現状からしますと、最悪の場合には、日本国が、グローバリストが描いている‘第三次世界大戦シナリオ’に巻き込まれかねないリスクもあります。アメリカ製兵器の大量購入につきましても、防衛政策や安全保障政策に直結しますので、この案も慎重な状況分析とそれに基づく議論を尽くすべき問題となりましょう。

 以上の他にも、様々な‘取引’が想定されるのですが、米中貿易戦争の様相をも呈する中、日本国の経済の進路については、やはり国民的な議論を要するように思えます。現行の秘密主義では、農家を含めて不利益を被る産業の事業者をはじめ、日本国民が犠牲に供されるか、あるいは、グローバリストの罠にはまってしまう事態も想定されます。これらのリスクを考慮しますと、長期的な視野からすれば貿易への依存度を低下させ、国民生活を豊かにする方向での自立型経済の構築に努めるとする方向性もあるはずです。選択肢を限定する、あるいは、グローバリズムの既定路線を歩む必要も必然性もないのですから、オープンで縛りのない議論こそ要するのではないでしょうか。自国の未来を決めるのは、国民であると思うのです。

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米価高騰から経済における‘自由主義’を考える

2025年02月05日 13時20分48秒 | 日本経済
 今般の米価高騰については、今後のさらなる値上がりや品薄も懸念されており、政府が備蓄米放出の方針を示しても、国民の不安が払拭されたわけではありません。食料品の全般的な値上がりもあって、国民生活は苦しくなるばかりです。この問題、実のところ、経済における自由主義に関する二つの‘思い込みの問題’を提起しているように思えます。その一つは、国内市場における一般的な自由主義であり、もう一つは、グローバリズムにも繋がる国際経済における自由貿易主義です。

 近代における経済自由主義の祖ともされるアダム・スミスは、その著書『諸国民の富』において自由主義経済の効用を論じています。‘神の見えざる手’は、人々の自由な経済活動が自然に富をもたらすことを上手に表現した言葉です。確かに、より豊かな生活を求めて多くの人々が経済活動に熱心になりますと、経済成長が促されて皆が豊かになるとする説には説得力があります。神様も登場するのですから、多くの人々はこの説を信じたことでしょう。しかしながら、その一方で、欲望には一定の制限を設けなければ他者に対する侵害となりかねないことは、自明の理でもあります(制限を設けなければ、殺人、人身売買、窃盗などの自由も許されてしまう・・・)。この理は、経済に限ったことではなく、人類社会における道徳倫理の根幹に位置しています。自由という価値は極めて重要でありながら、他者の自由や権利を侵害しないように自由に制限を設けることに反対する人は、殆どいないのではないでしょうか。

 この観点から今日の自由主義を見ますと、とりわけ新自由主義が主張する規制緩和や聖域なき自由化には、疑問符が付くこととなります。今般の米価高騰を見ましても、異常なまでの米価高騰は、人々の私益を求める自由行動に起因しているからです。しばしば、自由化に際しては、価格競争や品質をめぐる事業者間競争が促進され、消費者が利益を得ると説明されてきました。誰もが納得しがちなのですが、同説の主張通りに競争が働くには、一定の条件を満たす必要があることは忘れがちです。最低限、需給バランスにおいて十分な供給及びその可能性が条件となりましょう。

 需要に対して供給が減少すれば価格が上昇することは、価格決定のメカニズムとして経済学が述べるところです。このことは、市場の自由競争は、常に価格が競争的に低下するとは限らないことを意味しています。つまり、供給不足の状況下では、我先に値を上げようとする競争的な値上げという現象もあり得ることとなりましょう。とりわけ農産物は、工業製品のように供給不足に即応することが出来ません。後者であれば、供給不足は増産のチャンスともなるのですが、一年に一回しか収穫期のない農産物は、その年の収穫量がその後一年間の供給量を凡そ決定してしまうのです。

 実際に、今般の米価高騰を見ますと、その発端や真の原因が何であれ、集荷事業者や卸売業者等の人々が、より大きな利ざやを求めて競争的に価格を引き上げているように見えます。マスメディアが供給不足を強調すればするほど、さらなる供給不足を狙った買い占めや売り惜しみが誘発されるのです。しかも、自由化の場は、農業の生産から小売りまでの流通過程に限られてもいません。先物取引市場も開設されていますので、運用益を狙う投資家の欲望をも解き放つのです。

 かくして供給不足の局面では、‘神の見えざる手’は、‘悪魔の見えざる手’に転じてしまいます。国民生活が豊かになるどころか、私利私欲に走った一部の人々の欲望に巻き込まれ、富を吸い取られてしまうのですから。とは申しましても、経済モデルが極めて限られた条件下でしか成立しない問題はマルクスの『資本論』にも言えることであり、統制経済が望ましいわけでもありません。しかしながら、食料供給は生存条件でもありますので、自由放任であってはならないことは確かです。自由化がもたらした米価高騰の惨状からしますと、今後の農政改革は、農業者並びに消費者の自由を護るために、如何にして適切な規律や制限を設けるのか、という方向で進めるべきなのではないでしょうか。最初のステップとして、先ずは、日本国政府は、投機的な買い占め等の取締と共に、農産物市場への投機マネーの流入を遮断すべきではないかと思うのです(つづく)。

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米価高騰は農家を扶けているのか?

2025年01月30日 11時50分27秒 | 日本経済
 昨今の米価高騰については、現状の価格が農家にとりましては適正なのではないか、とする擁護論があります。政府が長期的に推進してきた減反政策とも相まって、お米の生産量が減少してきた理由は米価の低さにあるとする説です。採算が採れず、作れば作るほど赤字になるのでは、次世代の後継者が失われるのは当然であり、国民がこれまで通りに国産米の供給を望むならば、高価格は受忍すべきということになります。

 確かに、米価が採算割れを起こすような低価格であれば、日本国の農業はやがて衰退してゆくことでしょう。しかしながら、米作農家を一緒くたにして米価の高止まりをよしとするのは、いささか極論のようにも思えます。何故ならば、‘農家’には、既に農地の集約化を済ませた比較的規模の大きな農業事業者から山間部等の零細な農家まで様々であるからです。前者については、個人事業ではなく、農業を専業とする少数の農家に農地を委託して法人化した農業事業団体も見られるのです。

 農地の集約化を見ますと、2014年から農地バンクの取り組みも始まり、年々、農地の集約化率は上昇傾向を続けています。農林水産省のデータによりますと、2010年に48.1%であった集積率は、2019年には57.1%まで上昇しています。2025年現在では、さらにこの率は上がっていることでしょう。しかも、集積率には地方毎に大きな開きがあり、北海道が91.5%であるのに対して、中国四国地方は28.7%であり、凡そ3倍の開きがあります。同データは、比較的小規模となる日本国の農地の問題が、近年緩和されてきていることを示すと共に、米価が低価格であっても経営が成り立つ‘農家’もあれば、価格が上がらなければ赤字となる農家も存在することを意味しています。

 現状にあって農地の経営状態に違いがあるのであれば、一律に米価を高止まりさせる必要は低下します。棚田など、山間部にあって集積化が困難な農家を基準として米価を想定して‘基準米価’としますと、消費者を犠牲にする形で大規模農家の利益が膨れ上がることにもなりましょう。もちろん、若者が農業を志すに十分な所得を約束する、つまり、適正なレベルの価格を維持する必要はありましょうが、農村に贅を尽くした‘お米御殿’が乱立するほどの高値はさすがに行き過ぎとなりましょう。つまり、農地面積を根拠とした高値擁護論は、今日、説得力が薄れてきているのです。

 政府は、集約困難な農地については、‘地域の特性に応じた持続可能な土地利用への転換’を基本方針としています。これらの農地では、米作を諦めて、放牧地や農業再開可能あるいは森林化するように薦めているのです。後継者が現れない場合は致し方がないものの、この方針については疑問がないわけではありませんが(独立採算を目指すならば、観光資源化や有機栽培等の高級米やブランド米を生産する方向性も・・・)、少なくとも現状にあって、仮に採算割れが起きている零細農家が存在しているとすれば、これらの農家に対して重点的に補助金を支給すれば事足ります。国民にとりましては、手頃な価格でお米が購入できますし、ピンポイント式の農家支援制度であれば、予算も限られますので税負担も軽減されましょう。実際に、農地の用途変更を進めつつも、政府は、中山間地域等直接支払制度を2000年から実施しており、存続が危ぶまれる零細農家に対して財政的な支援策が講じられているのです。

 以上に述べてきましたように、農家の経営や農業の持続性を慮った高値容認論も多々あるのですが、現状からしますと他の対処法もありそうです。それどころか、今般の米価高騰に関しては、その恩恵は農家には還元されず、集荷事業や卸売業者等による利ざや狙いの買い占めを指摘する声も聞えてきます。JA以外にも集荷業者が農家から高値で買い漁っているというのです。一体、こうした‘集荷事業者’がどうのようにして湧いてしまったのか、米価高騰の真相を知るためにも、その背景を調べてみる必要はありそうです(農水省が免許を交付、あるいは、営業を許可している?)。何れにしましても、今般の米価高騰は、今後、国民レベルで議論すべき日本国の農業に関わる様々な問題を提起したのではないかと思うのです。

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米価高騰は「食料供給困難事態対策法」の対象になるのか

2025年01月29日 12時08分08秒 | 日本経済
 報道によりますと、昨年2024年6月に国会で可決成立した「食料供給困難事態対策法」が、今年の4月1日から施行されるそうです。同法の目的は、食料が不足する事態に備え、‘兆候の段階から、政府一体となって供給確保対策を講ずる’ことにあり、どこか、緊急事態宣言の食料版のような印象を受けます。「政府の意思決定や指揮命令を行う体制やその整備」するというのですから。有事を想定してか、食料をめぐる政府の動きが活発化している様子も窺えるのですが、同法は、今般の米価高騰の問題性をも明らかにしているように思えます。

 4月1日からの施行に先立って、政府は基本的な運用方針を明らかにしています。お米を含む対象12品目については、国内供給量が2割以上減少し、価格高騰が発生した場合などを「食料供給困難事態」と規定しており、今般の米価高騰が同法の適用対象となるのかは、微妙なところです。

 先ずもって、同法が想定している供給不足の原因を見てみましょう。‘供給を不安定化させている要因は多様化している’とした上で、「異常気象の頻発化、被害の激甚化」、「家畜伝染病や植物病害虫の侵入・まん延リスクの増大」、「地政学的リスクの高まり」、「新たな感染症の発生リスクの高まり」、「 穀物等の畜産需要や非食用需要の増加」並びに、「 輸入競争の激化」などを挙げています。今般の米価高騰の原因については猛暑説も唱えられていますので、仮に政府が‘異常気象’をもって供給不足が生じたと見なした場合、今般の米価高騰も、同法の適用対象となる可能性はあります。

 もっとも、食糧供給困難兆候・事態の認定については、平時の調査によるものとしています。つまり、政府は、「食料の需給状況、価格動向、民間在庫などの情報収集・分析」した結果をもって、事態の深刻度を判断するとしているのです。となりますと、今般の米価高騰についても、政府は、同法に従って厳正なる調査を開始することとなるのですが、この結果、上記とは全く別の要因によって供給不足が起きているとする結論に達したとしますと、政府は、どのように対応するのでしょうか。例えば、本ブログが推理するように、投機マネーの先物・現物取引市場への流入などが、供給不足を引き起こしていることが判明した場合です。

 投機が利ざやの獲得を目的とする限り、常々、値上がり効果を狙った‘買い占め’や‘買い惜しみ’が起きるものです。実際に、昨年の収穫量は6%アップでありながら、流通量事態は不足しているとする指摘があります。お米は、2年間程度は保存できますので、民間にあって大量に‘備蓄’され、倉庫に眠っている可能性も否定はできないのです。あるいは、先物取引であれば海外投資家も自由に参加できますので、何らかのルートで輸出されているのかもしれません(海外で日本米が安値で販売されているとする情報も・・・)。つまり、投機行為によって、小売り段階における供給不足もあり得ることとなります。

 実のところ、同法では、上述した‘2割以上の供給減少’の他に、「 国民生活・国民経済への支障の発生(買占め、価格高騰など)」が併記されており、ここに初めて‘買い占め’という言葉が登場します。そして、大きな影響が出る場合を想定し、深刻度によっては1割程度でも異常事態として認定されるとしているのです。ここで、再び、今般の米価高騰が同法の適用対象となる可能性が高まるのです。

 買い占めについては、戦後の昭和48年に政令として制定された「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律施行令(買占め等防止法)」が既に存在しているものの、米作は長期に亘り食糧管理法の下にあったこともあり、お米が同法の対象となるのかどうかは不明です。また、今般の対策法に関する説明として、既存の法律では「買占め又は売惜しみが行われるなど問題が明らかとなった場合しか対応を行うことができない」と記されていますので、目下のところ、政府は、米価高騰の原因を‘買い占め’にあるとは認めておらず、同法に基づく措置を取ってはいないのでしょう。しかしながら、仮に、食料供給困難兆候・事態に認定されますと、お米は、同法の対象となります。「事業者への要請など供給確保のための措置」にあって、「その他の食料供給困難事態対策(法第20条)」として買占め等防止法に基づく買い占めの防止を挙げているからです。

 仮に諸要件が当て嵌まれば、食料供給困難兆候であれ、食料供給困難であれ、事態同法の適用第一号は、‘令和の米価高騰’となりましょう。結果として、買い占めや売り惜しみを根絶する効果は期待できます。しかしながら、同措置法の内容は政府による統制色が強いという問題があり、必ずしも食料供給困難兆候・事態の認定が望ましいわけではありません。この点を考慮すれば、むしろ、既存の買占め等防止法の対象品目として米穀を指定した方が、供給不足の原因に拘わらず、幅広い範囲でこれらの行為を規制することが出来ましょう。あるいは、政府は、本当のところは同法での取締ができるにも拘わらず、買い占めや売り惜しみは行なわれていないと見なしているのでしょうか。何れにしましても、米価高騰には、先物取引の規制や政府備蓄米の放出のみならず、買い占めや売り惜しみ対策も必要なのではないかと思うのです。

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政府備蓄米放出と米相場の問題

2025年01月28日 12時08分05秒 | 日本経済
 米価高騰の原因については諸説が入り乱れているものの、何れも説得力に欠けています。このため、複合要因説も唱えられることにもなったのですが、本ブログでは、先物取引をはじめとした投機マネーの流入、並びに、それに便乗する形でのバブル現象ではないかと疑っております。仮に、異常な値上がりが一種のバブルであれば、政府による備蓄米の放出は米相場に影響を与えますので、幾つかの留意すべき問題があります。

 最初に、政府備蓄米の放出によるプラス面を挙げてみることとしましょう。昨年のお米の作柄は6年ぶりに収穫量がアップしていますので、流通していない保管分を合わせれば、現状はお米不足の状態ではありません。となりますと、仮に、消費者への小売り段階で品不足であるならば、それは、さらなる値上がりを期待して人為的に供給が制限されていることを意味します。つまり、集荷事業者、卸業者、生産農家、農協などのいずれかが(小売業者もあり得るものの、保管にコストがかかるので可能性は低い・・・)、が‘売り惜しみ’や‘囲い込み(買い占め)’を行なっていることになりましょう。第一のプラス効果は、政府備蓄米が市場に供給されることで、人為的であった供給不足が解消されるところにあります。

 第二のプラス効果は、もちろん、国民の大多数が待ち望んでいる米価の下落です。供給不足が解消され(売り惜しみや囲い込みを行なう動機も失われる・・・)、市場に十分な量の米が出回るようにならば、米価格の上昇はストップし、やがて下落に転じることでしょう。

 そして、第三のプラス効果があるとすれば、お米の先物市場でも先物価格が下ることです。先高に期待した資金の流入も止まることでしょう。‘買いヘッジ’に投じた人々は、米価下落により損失を被ることにもなるのですが、先物取引に付随する変動リスクですので致し方がないことになります。

 それでは、政府による備蓄米の放出には、マイナス面もあるのでしょうか。マイナス面とは、国民にとりましての不利益を意味します。プラス効果となるのか、マイナス効果となるのかは、偏に政府の政策目的、選択する放出方法、並びに、タイミングにかかってくるように思えます。政府性悪説をとれば、上述したプラス効果が現れず、逆効果となるケースも想定されるからです(性悪説の延長には、米輸入促進の隠れた意図も指摘されている・・・)。

 例えば、政府が放出する備蓄米の量が微々たるものであれば、品不足の状態は解消されません。‘売り惜しみ’や‘囲い込み’を止めさせるだけに十分な放出量がなければ、焼け石に水となってしまうのです。

 また、第二の価格下落効果についても、放出量が少なければ効果が限定されると共に、政府が集荷事業者に販売するに際して設ける価格次第では、米価は高止まりとなってしまいます。現状と同程度の価格で販売すれば、むしろ、政府が高値状態を追認したことにもなりかねません。その一方で、売り渡し先となる農協等が、小売り事業者に卸すに際して高値を維持する可能性もありましょう。仮に、米価高騰には農林中央金庫の巨額損失問題が絡んでいるとすればなおさらです。政府が卸売業者に対して安価での小売りへの卸しを条件付けない限り、米価下落効果も限られてしまうのです。

 そして、第三のプラス効果もマイナス効果が生じるリスクがあります。先ずもって、‘お米バブル’が崩壊すれば、急激な米価下落が生じるかもしれません。もちろん、消費者にとりましては、お米価格の低下は歓迎すべきことです。しかしながらその一方で、米価が著しく安値になりますと、経営が立ちゆかなくなる農家も現れるかもしれません。農業へのマイナス影響を考慮すれば、政府は、農業経営を揺るがすほどの大幅な下落を防ぐ手段を講じておく必要がありましょう。

 しかも、米市場に投じられてきた投機資金は、米価下落をも利益追求のチャンスにされるものと予測されます。政府が備蓄米を放出する時期を見計らって、‘買いヘッジ’から‘売りヘッジ’に切り替えるようとすることでしょう。この場合、政府による備蓄米放出は、外国為替市場における政府による‘市場介入’のような状況ともなり、どこか、投機筋との攻防戦のような様相も呈してくるのです(政府が付した買い戻し条件とは、価格低下時への備え?)。投機マネーについては、政府の介入実施のタイミングによって損得の差が生じるのですが、ここでポイントとなるのは、政府が投機筋には‘忖度’せず、国民の利益のために市場介入を行なうか否か、ということになりましょう。もっとも、今般の放出のケースでは売りに拍車がかかり、米価暴落ともなりかねませんので、先物市場は予め閉鎖しておいた方が安全であるかも知れません。

 以上に述べてきましたように、政府による備蓄米の売却に際しては、考慮すべき点が多々あります。何れにしましても、現状にあって米価高騰は国民の生活に深刻なダメージを与えていますので、政府は、お米放出による影響を十分に検討し、万全の準備を整えた上で、国民のために備蓄米を放出すべきであると思うのです。

*2025年1月30日修正 JAについては、表現を卸売業者から集荷事業者に変更しました。

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医療保険制度が蝕まれる理由

2025年01月22日 12時14分10秒 | 日本経済
 近年、日本国内に住所をもつ中国人の人口が増加するにつれ、国民が深く懸念する事態が生じています。マスメディア等でも取り上げられてきたのですが、それは、医療保険の利用を目的とした中国人の日本国への移住です。この問題は、2012年に、原則として3ヶ月以上に日本国に滞在する予定の外国人に対して、日本国の社会保険への加入を義務付けたことから始まります。義務づけという言葉に惑わされがちですが、同改正は、住民基本台帳に登録されている外国籍の人であれば、日本国の各種社会保険制度に加入し、これを利用することができることを意味します。

 このような問題が生じるのですから、現行の医療保険制度には、何か盲点があるはずです。先ずもって、日本国政府は、公的年金制度と医療保険制度の両者を基本的に社会保険として一括りに扱っているようです。「106万円の壁問題」で知られるように、年金と健康保険の加入要件はほぼ同一です。しかしながら、一方は老齢年金、もう一方は医療保険ですので、その目的もリスク・カバーの仕組みも著しく違っています。民間の金融機関では両者は明確に区別されており、本来、別物として考えるべき制度のように思えます。

 特に公的医療保険制度が狙われ、外国人によって‘フリー・ライドされてしまう理由としては、同制度は、公的年金制度よりも受益と負担のバランスが崩れやすい点を挙げることができましょう。年金制度の場合には、基本的には加入者本人が保険料を積立て、それに見合った年金が給付されます。納付期間や納付額が給付額に比例的に反映されるため、比例平等の原則を一先ずは保たれています。日本国の厚生年金に至っては、加入期間が僅か1ヶ月であっても、受給資格を満たす年齢に達しますと、その納付額は厚生年金分として支給されます(国民年金は、後述するように受給資格を得るには10年以上の加入が必要)。

 一方、医療保険制度は、必ずしも受益と負担が均衡するわけではありません。当然と言えば当然のことなのですが、医療費の負担が軽減されるのは、治療の必要な病気や怪我をした人のみです。このため、軽い風邪で受診した人と高額の先端医療を要した人とでは、同制度の受益の部分にあって雲泥の差が生じます。同制度では、加入者にあって受益格差が著しいのです。しかも、公的医療保険となりますと、上述したように外国人であっても日本国内に住所があれば、誰でも加入することができます。民間の保険会社ですと、病歴や年齢等が厳しくチェックされ、リスク面からの厳格な審査を通らなければ加入契約を結ぶことが出来ません(一定年齢以上の高齢者は加入対象から外されてしまう・・・)。将来の支給額が実際の納付額よりも上回ると判断される保険契約は徹底的に回避されるのです(精緻な確率計算が行なわれている・・・)。ところが、公的医療制度では、こうした病歴や健康状態のチェックはありませんし、高齢者でも加入できます。民間保険会社とは真逆なのです。

 おそらく、かくも加入に寛容であるのは、公的医療制度には、国民間の相互扶助の精神、並びに、国民が生涯に亘って日本国内に居住するものとする‘国民モデル’があるからなのでしょう。確かに、これらの前提に基づけば、同制度は国民にとりましては医療費負担のリスクを軽減する助け合いの制度です。しかしながら、日本国政府の移民受け入れ政策への転換もあって、外国人人口が増加する今日、同制度は、低コストで質の高い治療を受けたい外国人の目には、好都合な制度に映ることは理解に難くありません(なお、2020年から、外国に居住する被扶養者については適用から外している・・・)。僅かな加入期間でも、深刻な持病があったとしても、そして、高齢であったとしても、高額の医療費を賄ってもられるからです。実際に、日本国の公的医療保険制度に‘フリー・ライド’するために、日本国に移住する中国人も少なくありません(違法行為はないものの、‘確信犯’という意味では倫理において問題がある・・)。

 外国人による医療保険制度の利用がたとえ合法的な行為であったとしても、日本国民から見ますと、これは著しく不公平です。そして、その原因が上述したような制度上の欠陥にあるとしますと、同問題を解決するためには、現行の制度を変える必要がありましょう。例えば、医療保険についても、少なくとも受給条件については長期滞在を加えるべきです。この点、国庫負担のある国民年金の受給資格要件の期間は10年以上ですので、医療保険についても、受給に関しては同程度の要件を付すべきかもしれません(もしくは、加入に際して10年以上の滞在を予定している場合のみこれを認める・・・)。もっとも、この措置ですと無保険状態があり得るのですが、外国人に対する健康保険制度は別途設け、比較的高額となる保険料を設定する、あるいは、民間保険への加入を義務付けるといった方法もありましょう。また、外国人の高齢者については、本人であれ、被扶養者であれ、本国における加入期間があるはずですので、原則として、本国での制度利用を原則とするなど、様々な工夫があり得ましょう。

 さらには、国家間の公平性を確保するためには、相手国との協定の締結、あるいは、国際的なルール作りも必要となりましょう(今日、二重加入を防止するための二国間の社会保障協定が締結されているものの、中国との間の協定の対象は公的年金のみ・・・)。日本国民の社会保険料の負担が年々重くなり、家計を圧迫している今日、医療保険制度の特徴に鑑みて、日本国政府は、その改革を急ぐべきではないでしょうか。そして、この問題は、国境を越えた人の自由移動が時にして侵害性を有するという、グローバリズムの実態をも暴いているように思うのです。

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株式システムからの脱却―脱資本主義

2024年08月09日 12時19分46秒 | 日本経済
 「資本主義」については、資本家による労働力の搾取の問題に批判が集中しがちです。しかしながら、これは、共産主義を唱えたカール・マルクスによる一種の誘導であって、‘資本家’の魔の手は労働者のみに向かっているわけではありません。実のところ、企業もまた、労働者と同様に‘搾取のシステム’に組み込まれているかも知れないのです。つまり、株式システムそのものを見直さないことには、極少数の‘資本家’、即ち、今日で言えば世界権力を構成するグローバリストに富が集中する現状を変えることはできないのです。

 今日の会社法を読みますと、株式会社が企業の基本モデルとなっていることは一目瞭然です。事業を興そうとすれば、設立時に株式を発行し、外部者から出資を受ける必要があります(創業者が自社株を保有する場合でも、一先ずは、外部の‘株主’という立場となる・・・)。言い換えますと、企業とは、その誕生の時から自らに関する権利を他者である株主に与え、配当金等を支払う義務を負うのです。他者に対する法的義務を負って生まれてくるのですから、人間以上に過酷な条件下で誕生していることとなります。

 さて、こうした状況を変えるには、先ずもって、株式会社という形態をなくしてゆく必要があります。その方法については、本記事でも提案してきたのですが、第一に、自己株式消却があります。株式自体を消滅させれば、株主もいなくなります。もっとも、この方法ですと、発行株式数が多い場合には株式数が減少しますので、大株主の影響力が相対的に増し、企業に対する要求を強めるリスクがあります。実際に、株主の利益のために一株当たりの価値を高めることを目的に、自社株買いをする企業も見られます。また、全株式を消却した場合には資本金がゼロとなり、法的な会社の地位を失う可能性があります(因みに、2006年の法改正で、資本金1円でも会社設立は可能なので、資本金1円までの消却は可能?)。このため、自社株買いをした場合には、消却せずに金庫株として保有しておく方が、より安全な方法であるのかも知れません。

 これらの方法は、現状にあって実行可能なのですが、それでは、株式の社債への転換はどうでしょうか。こちらの方は、不可能ではないけれども、法改正が望ましいこととなります。企業の基本モデルの変更、すなわち、株式会社という形態の廃止、もしくは、会社形態の自由化を伴うからです。つまり、株式会社の形態を前提として制定されている会社法を改正する必要があるのです。

 現状でできる範囲での企業側の措置とは、社債への転換を株主に提案することです。今日の社債には転換社債という種類があり、一定の条件下において株式に転換できる権利が保有者に付与されています。株式から社債への転換は同社債とは逆方向になるのですが、法的に禁止されているわけではないようです(会社法の専門家ではありませんので、間違えましたならばごめんなさい)。企業側が社債への転換に際して株主側が応じ得る条件を提示すれば、全てとは言わないまでも、この申し出に応じる株主も少なくないはずです。また、株式の社債への転換案を株主総会に提示し、過半数の賛成票を得れば同案は通ることとなります(なお、全株式の転換となりますと、同方法も資本金ゼロの問題に直面・・・)。

 これらの方法は不可能ではないのですが、より確実性を求めるならば、上述したように法改正を要することとなりましょう。つまり、立法過程を経て、株式を社債に変換する法案を可決・成立させるのです。同法案は、株主の財産を没収するわけでもなく、事業業績等を基準に客観的に算定した妥当な額面価格であれば、国民のみならず株主の多くも受け入れることでしょう(なお、社債の額面価格の決定に際しては、高値転換を狙う投機の影響を排除する必要がある・・・)。あるいは、企業側による一定の配当金の支払い期間を設定し、同期限が到来した時点で、株式を消滅させるという方法も考えられましょう(消却を前提に配当額の上乗せも・・・)。

 全世界の諸国において株式会社という存在が消滅した時、それは、世界権力から人類が解放される時となるかもしれません。企業は資本金を必要とせず、個々人も株式の発行なくして会社を設立することができるようになるのです(将来的な企業の在り方については後日論じる予定・・・)。そして、この株式システムの消滅の影響は、経済全体に多大なる影響を及ぼすこととなりましょう。それは、独立した企業群の出現であり、真の自由主義経済が、ようやくその基盤を整えることを意味するのではないかと思うのです。

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株価暴落は自己株式消却のチャンス?―真の自由主義経済を目指して

2024年08月06日 09時02分24秒 | 日本経済
 所謂「資本主義」に対する批判として、しばしば投機に起因する恐慌の発生が挙げられてきました。それは、「資本主義」の宿命のように語られるのですが、近代以降の経済を振り返りますと、周期的とまでは言えないまでも、確かにバブル発生⇒バブル崩壊⇒経済危機が繰り返されています。とりわけ、ニューヨーク証券取引所の株価暴落が引き金となり、瞬く間に全世界に波及した1929年の世界恐慌は第二次世界大戦の遠因とされ、恐慌の発生は人類に禍をもたらしてきたのです。昨日、日本国の東京株式市場でも、リーマンショックの際のブラックマンデーを越える4451円28銭という過去最高の下げ幅を記録しています。

 下落の理由としては、アメリカの景気減速の観測並びに日銀の利上げに伴う円高傾向が輸出関連株の‘売り’を招いたとされています。同説明が現実を説明しているとすれば、今般の日本株価の暴落は、恐慌を懸念するほどのことではないということになりましょう。近年の超円安からしますと調整局面に入ったと見ることができますし、株価を下げたとしても超円高以前、あるいは、FRBの利上げ日米間の金利差が拡大する以前の状態に戻るに過ぎないからです。慌てる必要はないのですが、同暴落が、投機筋による‘仕掛け’であるとしますと、お話は別となりましょう(1929年の世界恐慌には、底値で株を買い漁った投機筋説があり、逆張りという言葉もあるように、投機筋が一般投資家の投げ売りによる安値買いを期待しているならば、売らない方が賢明・・・)。

 かくして、今日の経済は、株価の変動に振り回されているのですが、「資本主義」の最大の問題点は株式にあるのではないか、とする記事を、以前、本ブログに掲載いたしました。株式の問題は、上述した株価暴落による金融・経済危機を引き起こすのみではありません。かつては、‘企業は株主の所有物’とする見方も見受けられたのですが(封建時代における荘園の私有のごとくであり、一種の‘人身売買’ともなりかねない・・・)、株主、すなわち債権者(出資者)が、あまりにも過剰な権利を持つことが、自由な経済を著しく歪めているからです。

 否、株式制度は、自由主義経済を私的独占へと移行させてしまう元凶とも言えます。資本関係や買収等により企業の独立性を失わせ、結果として、自由競争による経済発展のメカニズムを機能不全にしてしまうのですからです。実際に、独立的なスモール・ビジネスは、大手に買収され、今では、変わり映えのしないグローバルなチェーン店の看板がグローバルな都市風景となっています(先端技術分野におけるスタートアップスも成功すれば大手に買収されてしまう・・・)。また、経済においては、とりわけ価格において規模が圧倒的な有利性を与えますので、規模の大きな企業、あるいは、プラットフォームを構築した企業はますます巨大化して競争力を増す一方で、不利な競争を強いられる中小企業は、市場から撤退するか、大手に吸収されるかの道を歩まざるを得なくなるのです。そして、同買収や合併には、株式取得という手段がしっかりと用意されているのです。

 加えて、株主権の行使は、株主が経営に介入するルートともなります。近年、メディア等では、物言う株主としてアクティビストの活動を好意的に報じていますが、部外者であるはずの株式の保有者は、それが誰であれ、株主として権利行使によって、企業の人事や運営にも口を出せるのです。同権利は、あまりにも過剰です。今日、グローバル企業の大半が一斉にDXのGXに向かって歩調を合わせるのも、‘グローバルな大株主’の意向を受けてのことなのでしょう(自由主義経済の計画経済化でもある・・・)。そして、グローバル市場に君臨するこの‘大株主連合’こそ、マネー・パワーで全世界の政治家達を絡め取っている世界権力なのでしょう。

 以上に、株式の問題について主要な点を述べてきました、悪しき「資本主義」とは、株主至上主義、あるいは、株式経済と言えるかも知れません。今後の経済システムの改革には、会社法の改正等も必要なのですが、現状にあって今般の株価暴落をチャンスに変えることができるとすれば、それは、企業による自己株式の消却です(2001年の商法改正により解禁)。株式が株主に権利を与えているのですから、その権利の源泉をなくしてしまえば、企業は株主から解放されて‘晴れて自由’になれるのです。真に自由な経済を実現するには、企業の独立性こそ確保されるべきであり、‘新しい資本主義’を目指すのではなく、先ずもって、悪しき「資本主義」の中核ともなる株式という存在事態を見直し、自由経済の名に相応しい経済システムへと方向転換を図るべきではないかと思うのです。

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陰謀説とは合理的な作業仮説では

2024年04月18日 13時01分36秒 | 日本経済
 自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、いかなる学問分野にあっても、研究とは、事実(真実)の探求に他なりません。もっとも、事実の探求やそれの証明の仕方や手法には違いがあり、自然科学の場合には、観察結果や実験によって証明するという方法が採られます。自らの唱える説は、事後的に他者によって再現性が確認できれば、事実であることが客観的に証明されます。演繹法であれ、帰納法であれ、自然科学の証明方法は極めて合理的、かつ、明晰ですので、近代以降、学問に‘科学’を付すときには、仮説の提起、観察や実験によるデータの収集(今日の実験は、コンピューターによるシミュレーションの場合も・・・)、データの分析・解析、仮説の真偽の検証というプロセスを伴う研究手法を意味することとなったのです(帰納法の場合には、最初に現象の観察が置かれる・・・)。

 観察機器や実験装置の長足の進歩もあって、近代とは、まさに科学の時代とも称されるのですが、社会科学の分野にあっても、自然科学の分析的な手法を取り入れる動きが強まります。早くも19世紀にあって、カール・マルクスの盟友であったフリードリッヒ・エンゲルスは、その著書『空想から科学へ』において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、シャルル・フーリエなどの社会主義の理論家達を理想論者として批判しています。そして、とりわけ第二次世界大戦前後にあっては、アメリカを中心に、よりシステマティックで分析的な研究方法が広がったのです。かくして社会科学における科学的手法の導入は、一見、政治学を合理化し、発展させたようにも見えるのですが、現実の政治の世界は、未だに非合理性に満ちているように思えます。

 それは、‘過去や現在において人間が行なった、あるいは、行なっている事実の解明’という、政治学や歴史学において特有となる研究課題において顕著となります。人や集団は自らの意思や目的をもって行動しますので、事実を突き止め、何が起きた、あるいは、起きているかを正確に理解するためには、これらの行動主体やそれらが抱く目的を明らかにしなければならないのです。こうした意思や目的の解明と言った作業は社会科学に固有のものであり、それらが人々に与える影響が大きいほどに、その解明は、人類にとりまして重大な課題となりましょう。

 同課題の重要性に照らしますと、今日の状況は、退行的ですらあります。例えば、昨今、政治の世界において起きた不可解な事件や出来事については、その不審点や辻褄の合わない点を指摘しただけで、‘陰謀論’として嘲笑される風潮があります。自然科学にあっては、何らかの既存の知識では説明できない現象や事象が観察されますと、詳細に調査した上で、先ずもって、その現象が起きる原因を合理的に解明するための仮説が提起されます。自然科学においては、当然のアプローチであり、これを愚かで非合理的な態度と見なす人はいません。ところが、政治の世界では、不可解な現象を素直に不可解と見なし、その原因や因果関係などを仮説として提起しても、‘陰謀論’として頭ごなしに否定されてしまうのです。

 合理的な根拠(矛盾や物理的な不可能性・・・)に基づいて推論として陰謀や謀略の実在性を主張することは、科学的な論証のプロセスにおいては、作業仮説に当たります。不可解な諸点は現実に観察されているのですから、それを合理的に説明することのできる仮説を提起することは、科学的なアプローチなはずです。たとえ情報の隠蔽や捏造等によって現時点では証拠を示すことができなくとも、やがて明らかとなる日が来るかも知れません。その間は仮説のままであったとしても、事実である可能性の高い仮説が存在し、人々がそれを意識していることがリスク対策の上でも重要なのです。

 科学の時代を称しながら、その実、今日の政治を取り巻く状況は、合理的で科学的なアプローチを許さず、政府やマスコミの見解や公表内容を疑うことなく‘信じる’ように強要されているかのようです。人々が‘事実を知る’ことよりも、‘事実と信じさせること’に力点が置かれているのですから。そして、‘信じない者’に対する迫害は、中世の異端審問にも通じるのです。

 なお、この点、上述した『空想から科学へ』におけるエンゲルスの科学に対する認識に、既にこの問題の萌芽が見られます。エンゲルスは、マルクス主義を擁護するために、ヘーゲルの弁証法が分析的であることを理由に科学的手法として評価したに過ぎないからです。しかしながら、ヘーゲルの弁証法そのものが観念的な運動法則の図式である以上、今日的な視点からは科学的とは言えず、‘空想から空想へ’、あるいは、‘空想から信仰へ’という表現の方が相応しいとも言えましょう。過去の歴史から普遍的な運動法則を見出し、未来にまでそれを適用しようとすれば、絶対法則に反する事象は全て否定されるか、無視されてしまいます。国家イデオロギーにまで昇格した主観的法則の絶対化は、今なお、共産党一党独裁体制をもって多くの人々を苦しめていますが、自由主義国における‘陰謀論’に垣間見える‘支配者’の精神性も、似たり寄ったりなのです。

 現代という時代は、先端的なテクノロジーとしての科学は飛躍的に進歩しながら、物事の探求において基本となる‘科学的な論証方法’については冬の時代と言えましょう。そしてそれは、人類の精神性や知性の発展を著しく阻害し、国家レベルであれ、国際レベルであれ、未来に向けた善き社会の構築を妨げているのではないかと思うのです。

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ウクライナ支援継続も天文学的な負担になるのでは?

2024年02月22日 13時54分57秒 | 日本経済
 一昨日の2月20日付けの日本経済新聞の一面には、「断念なら「天文学的な負担」」と題する記事が掲載されておりました。「平和のコスト」という欄においてウクライナに対する「支援疲れの代償」を論じたものです。同記事には、昨年12月に米戦争研究所が公表したロシア勝利のシナリオに関する予測が紹介されております。‘断念なら天文学的な負担’とは、ウクライナ支援を断念し、ロシアが勝利した場合におけるアメリカにのしかかる防衛費のコストを意味しているのです。しかしながら、ウクライナ支援を継続しても、やはり‘天文学的な負担’が生じるように思えます。

 米戦争研究所の予測は、ロシアの勝利⇒ロシアがEU各国国境の軍備増強⇒NATOも防衛費増額⇒天文学的なコスト・・・ということになります(因みに、既に決定されている600機のF35の配備にしても、一機およそ100億円・・・)。予測される巨額の防衛費を考えれば、ウクライナが敗北しないように支援を継続した方が望ましいという提言なのです。アメリカ国内では、一般世論を含めてウクライナ支援に対する逆風が吹いていますので、同研究所は、より‘悪い予測’を示すことで世論の流れを変えたかったのでしょう。

 しかしながら、同予測は、無限にあり得る将来の展開にあって、最もウクライナ支援の継続にとって説得材料となるシナリオを選んでいるに過ぎないのかも知れません。コスト面で説得しようとするならば、むしろ、即時停戦を提案した方が、より多くの人々が納得したことでしょう。これ以上、ウクライナに巨額の資金を投入する必要もなくなり、かつ、復興費用も抑えることができるのですから。戦闘が停止されれば、後に再建や修復が必要となる居住施設やインフラ等の公共施設の破壊も止まりますし、しかも、現在ロシアが一方的に併合し、主要な戦場となった地域の復興費用は全額ロシアの負担となります。

 ロシアにしてみても、自国が勝利すれば、‘戦後復興’のために多額の予算を費やす必要性も生じるのですから、NATO諸国を震撼させるほどの規模の軍を、ヨーロッパ諸国との国境線に配備する余力があるとも思えません(翌日の21日に同欄で掲載されたロシアに関する「原油収入で継戦能力向上」という記事は、あるいはロシア脅威論に説得力を与えるために配されたのかも知れない・・・)。また、ウクライナに対する‘特別軍事行動’に際して主張した口実、即ち、東西間の内戦も、ロシア系住民に対する虐殺や弾圧といった固有の事情も存在しないのですから、ロシアがヨーロッパ諸国に対して戦争を挑もうとする説は、相当に疑わしいのです。この論法は、ゼレンスキー大統領が事あるごとに支援を引き出すために訴えていたロシア脅威論ですので、一種の常套句なのでしょう。

 その一方で、停戦に持ち込めず、通常兵器による戦闘が続くとすれば、そのコストは莫大です。仮に通常兵器においてウクライナが勝利する状況に至っても、ロシアは躊躇なく核兵器を使うでしょうから、振り出しに戻されてしまうのです。あるいは、アメリカ並びにウクライナ側は、ロシアに核兵器を使わせないために、敢えて膠着状態のまま戦争を続けてゆくという、愚かしい選択を余儀なくされるかもしれません。このケースでも、停戦の見通しも決定的な勝利も見えぬままに、戦費だけは天文学的な額に積み上がってゆくことになりましょう。

 さらに同記事では、日本国の負担増についても語っています。ロシアが勝利した場合、アメリカは、ヨーロッパ諸国の防衛を優先させるため、アジアへの兵器等の配備が手薄になり、中国の脅威に晒されるという説です。しかしながら、この説も、説得力に欠けているように思えます。何故ならば、このまま長期に亘り、外部から言われるがままにウクライナに巨額の支援を続けるよりも、その予算は、対中国を想定した防衛力の強化に向けた方が余程、対中抑止力となるからです。さらに言えば、日本国も核の抑止力で中国を抑えた方が、遥かに低コストかつ高効果となりましょう。

 ウクライナ紛争自体がロシアをも‘駒’とした戦争ビジネスのための茶番である疑いが濃い点を考慮しましても、ウクライナ支援の継続は、日本国を含む全支援国の膨大なる国費の無駄遣い、あるいは、世界権力への‘貢納’になりかねません。日本国政府は、累積支援額が天文学的となる底なし沼に嵌まらぬように、イスラエル・ハマス戦争と同様に、ウクライナ紛争にあっても停戦の実現にこそ努めるべきではないかと思うのです(なお、停戦は、ロシアによるウクライナ領併合の容認を意味するわけではない・・・)。

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規制緩和という名の‘新しい規制’

2023年07月05日 14時14分21秒 | 日本経済
 世界経済フォーラムの理事でもある竹中平蔵氏の主導の下で自公政権が推進してきた新自由主義政策の基本方針の一つに、規制緩和があります。規制緩和とは、従来の日本国の規制レベルの高さが経済成長の阻害要因であるから、規制を緩めれば企業活動の自由度も増し、‘失われた20年’から脱却して成長軌道に乗ることができるというものです。‘規制’という言葉には、人々の行動を縛るものとするイメージがありますので、多くの人々が、新自由主義者の規制緩和論に理解と賛意をしめしたことでしょう。しかしながら、果たして規制緩和によって、日本企業の自由度は高まった、あるいは、高まるのでしょうか。

 自公政権の来し方を見ますと、‘岩盤規制を打ち破れ’とばかりに政府が拳を振り上げたのですから、実際に、様々な分野において規制が緩和されています。特に新自由主義者が狙いを定めた分野の一つが、インフラ事業を含む公的分野でした。通信や郵便事業といった目立つ事業のみならず(第二次小泉内閣において竹中平蔵氏が郵政民営化担当大臣を務めた・・・)、細かな点に注目しますと、中央官公庁や地方自治体の行政業務の民間委託も広がっています。

 しかも、民営化は同時に、公共性の高い事業に海外資本が流入し、経営参入に道を開くことともなりました。民営化には証券市場への上場をも伴もないますので、海外投資家等も株主としてステークホルダーとなりましたし、再生エネ事業に至っては、海外事業者の直接参入も見られたのです。すなわち、日本国のグローバル化とは、自国のインフラ市場や政府調達部門を‘規模の経済’で日本企業を圧倒する海外勢力に明け渡す結果を招いたと言えましょう。国境を越えたマネーの自由移動がグローバル企業のM&Aを活発化し、公的分野のみならず、民間にあっても日本企業の‘海外売却要因’となったことは言うまでもありません。

 なお、アメリカのGAFAMや中国のBATをはじめIT大手の大半は海外企業ですので、行政のデジタル化は、情報漏洩のリスクのみならず、世界権力の配下にあるグローバル企業への依存度を高めています。この依存性は、日本国の統治機構が‘世界政府’のデジタル・ネットワークに取り込まれるリスクをも意味しています。

 そして、もう一つ、新自由主義者がターゲットとしたのは、日本国の労働慣行でした。これまで派遣業は中間搾取的な事業であるために規制が設けられてきましたが、規制緩和の波に乗って同雇用形態も解禁となり、日本国の労働市場では非正規雇用が激増することにもなりました。今日では、正規採用者も安泰ではなく、非正規社員化ともされる日本型雇用からジョブ型雇用への転換も迫られています。

 規制緩和の結果、今では中央官庁でも、地方自治体のお役所でも、国民や市民に応対するのは業務を受託した民間企業の社員であったとするケースも耳にします。コロナ・ワクチン接種事業を請け負ったのは、竹中氏が代表取締役会長を務めるパソナグループでしたし、民営化の現実とは、むしろ、非正規社員を多数雇用しつつ、公金に頼る、あるいは、群がる巨大な企業群を生み出したとも言えましょう。

 以上に日本国における規制緩和の顛末を簡単に描いてみましたが、新自由主義者の説明どおりに、行政の縛りから解放された日本企業が活発に経済活動を展開し得る自由な市場が出現したわけではなかったようです。逆に、グローバル・スタンダードという新たな規制の導入により、日本国政府並びに日本企業が独自の雇用形態を維持したり、あるいは、新たな形態を生み出してゆく機会が一切失われてゆく過程として理解されるのです。‘新しい規制’とは、世界権力に富も権力も集中させるための規制であり、その基本原則は、‘政府は、法人を含めて自国の国民を保護してはならない’というもののように思えるのです。すなわち、政府は、規制緩和によって自国の市場も国民も世界権力に差し出さなければならないのです。

 規制には、強者による横暴を制御するという意味で保護の役割を担う側面と、自由を束縛する側面がありますが、全てとは言い難いものの前者の側面が強かった日本国の規制を緩和した結果、グローバル・スタンダードとして束縛型の規制が新たに導入されたようなものです。SDGsが猛威を振るい、自己責任の原則の下でジョブ型の導入が正規社員の雇用も不安定化する中、世界権力が推進するグローバリズムとは、一体何であったのか、日本国政府も国民も、改めて問い直してみる時期に差し掛かっているように思えるのです。

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「分厚い中間層」の再構築の詭弁

2023年06月09日 11時46分54秒 | 日本経済
 近年、グローバリズムがもたらした経済的格差の拡大やそれに伴う中間層の崩壊は、先進国と称されていた自由主義諸国において反グローバリズムを生み出す土壌ともなりました。アメリカにおけるトランプ前政権の誕生もグローバリズムへの逆風なくして説明できないのですが、日本国にあっても、グローバリズムの見直しを求める世論は無視できない状況に至っています。こうした‘国民の声’を察知したのか、岸田政権は、経済財政運営と改革の基本方針の骨太原案として「分厚い中間層」の復活を掲げることとなりました。

 日本国内では、グローバリズムに対する批判は、グローバリズムそのものよりも新自由主義批判として表現される嫌いがあります。新自由主義とは、世界経済フォーラムの理事でもある竹中平蔵氏を指南役として推進された規制緩和・民営化促進政策を凡そ意味します。ここで言う‘自由’とは、個人の自由ではあるのですが、その実態を観察しますと、‘グローバリストの自由’の最大化を目指したと言っても過言ではありません。そして、その他多数の個人に対しては、個人の尊重を盾に、厳しく自己責任を求められることとなったのです。個人主義に基づく徹底した強者の論理が、新自由主義の特徴とも言えましょう。

 因みに、政治学では、社会契約説をはじめとする個人主義の政治理論の主要テーマは、個人の基本的な自由と権利の保護にあり、政府の存在意義を国民保護機能に求めています(およそすべての人が合意し得る政府の基本的な役割を理論的に説明しようとした・・・)。政治学の個人主義と比べますと、経済における個人主義には‘すべて’の個人の保護という役割がすっかりと抜け落ちています。このことは、政治家や政府が新自由主義に基づいて政策を遂行しますと、果たすべき国民保護機能が欠落することを意味します。自らの基本的な自由や権利が護られないどころか、利己的な強者の‘自由’によって被害を受けかねないのですから、新自由主義が国民から嫌われるのも当然と言えば当然なのです。

歴代の自民・公明連立政権による新自由主義の政策化は、日本国内では終身雇用を特徴とする日本型雇用システムの‘改革’が迫るものとなりました。今日、同主義は、中間層を破壊した元凶として批判されています。非正規社員の劇的な増加(派遣業による‘中間搾取’も・・・)、企業の社員に対する福利厚生の低下、株主配当の偏重、年功序列の是正による実質的生涯所得の低下などなど、数え上げたら切がありません。今日、最重要の政治課題とされる少子化問題も、その原因を辿れば新自由主義政策による国民生活の不安定化に行き着くのです。

中間層の崩壊に関する原因と結果の因果関係ははっきりしていますので、政府が、「分厚い中間層」の再構築を目標に設定したと聞きますと、政府は、遂に新自由主義からの決別を決意したと思うかもしれません。しかしながら、その内容を読みますと、日本国政府は新自由主義の一層の推進を決断したとしか言いようがないのです。何故ならば、改革の基本方針は、日本型雇用からグローバル・スタンダードへの転換であり、しかも、国民生活の安定化の方向性とは真逆であるからです。

例えば、賃上げ政策の一つとしてジョブ型雇用の導入促進を挙げ、デジタルなどの成長産業への人材誘導を図るとしています。高賃金のジョブ型専門職での雇用が増えれば、賃金が上昇するとする論理ですが、同ポストが高額なのは、デジタル技術者や同分野での専門家が極めて少ない、即ち、不足状態であるからに他なりません。しかも、外国からの人材誘致も視野に入れていることでしょうから、ポストをめぐる競争も激しく、到底、中間層を復活させるほどの効果があるとは思えません。否、少数の高給のジョブ型デジタル職とそれ以外の大多数の職との間の所得格差が広がり、中間層の破壊に拍車がかかりかねないのです。

また、日本型の雇用制度についても、終身雇用を前提とした退職一時金の税制優遇制度を見直すとしています。同制度改革も、転職促進効果が理由として付されています。しかしながら、この改革も、中間層にダメージを与えることは言うまでもありません。すんなりと転職ができ、かつ、前職よりも所得が増える人は少数に過ぎず、多くの人々は転職による所得の減少に見舞われることでしょう。しかも、老後の生活の安定を支えてきた退職金も減らさせるのですから、後者の人々にとりましては踏んだり蹴ったりです。

転職促進の裏側には、解雇を容易にしたいとするグローバリストの思惑が隠されているのですが、新自由主義が主張する自己責任論は、被雇用者に対して一切の責任もコストも負いたくないとするグローバリストの意向の現れでもあります。今般の政府による労働市場改革にあっても、‘学び直し支援’の対象は個人であり雇用主ではありません。これまで、日本企業は社内教育によって人材を育成してきましたが、今後は、個人が自らのコストで自身の再教育あるいはスキルアップを行なうか、あるいは、政府からの支援を受けるしかなくなるのです。これでは、所得格差は縮むどころか広がる一方となりましょう。

昨今、政府に対する信頼性は低下の一途を辿っていますが、看板と中身がかくも乖離しますと、国民の政府に対する疑心暗鬼は深まるばかりなのではないかと思うのです。

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物価目標2%目標は国民には過酷では

2023年02月15日 12時47分52秒 | 日本経済
 異次元緩和に踏み出したことで、アベノミクスの象徴ともなってきた黒田日銀総裁。今般、同総裁の後任として政府から選任されたのが、経済学者の植田和夫氏です。同氏の就任に先立って議論されているのが、現在、日銀が掲げている物価上昇率2%の目標です。

 正式な日銀総裁就任には国会の承認を経るものの、植田次期総裁は、過去の発言などから金融緩和政策を維持するものと推測されています。金融緩和策の維持と2%目標がどのように関連するのか、と申しますと、現在、円安等に起因した輸入インフレ状態にあり、既に同目標値を超えてしまっているからです。一般的には、2%を超えるとインフレ抑制策として政策金利を上げるところなのですが、植田氏は、量的緩和維持の立場から、金融引き締めへの政策転換に否定的なのです。そこで、2%目標が修正されるのではないか、とする憶測が飛び交っているのです。

 こうした理由から、植田新総裁の下ではインフレ率2%目標が取り払われる可能性が指摘されているのですが、そもそも、インフレ率2%目標は、妥当なのでしょうか。不思議なことに、2%という目標率については深く議論されてこなかったように思えます。そこで、何故、2%なのか、という理由を探ってみますと、実のところ、合理的な根拠は見当たらないようなのです。

 国民の立場からすれば、物価上昇率2%が過酷であることは言うまでもありません。賃金上昇率が2%以下の現状では、物の値段が毎年2%上昇することは、年々、生活が苦しくなることを意味します。預金者にとりましても、預金額の目減りとなり、生涯設計が狂うことにもなります(もっとも、政府を含めて債務のある人には有利・・・)。今般、デフレから一気にインフレに転じたため、電気料金の高騰を含む物価高に国民が悲鳴を上げることとなりましたが、物価上昇は、たとえそれが2%であったとしても、大半の国民にとりましてはマイナス影響となりましょう。

 それでは、何故、2%なのかと申しますと、この2%という数値は、中央銀行による国債引き受けにより10%台といった高インフレ率に苦しんできた諸国の経験から、インフレ率の上限として設定されたものです。単一通貨であるユーロ導入に際して、欧州中央銀行が、南欧諸国の放漫財政によるインフレの抑制を目的にこの数値を定めたのが始まりと言えるかもしれません。その一方で、日本国の場合には、デフレ脱却のための目標値として2%目標が導入されましたので、その始まりからして目的が逆です。このことは、必ずしも2%という数値に拘る必要はないことを示していると言えましょう。

  2%が絶対的な数値ではないないとしますと、何%が最も妥当な物価上昇率なのでしょうか。敢えて設定するならば、貨幣の機能、並びに、中央銀行の役割に照らしますと、その数値は0%なのではないかと思うのです(2%目標とは、金本位制であれば、毎年、2%金貨が改悪されることに・・・)。貨幣の三大機能は、支払手段、価値尺度、価値貯蔵手段ですが、特に価値尺度は安定していたに越したことはありません。このため、中央銀行の主要な役割も通貨価値の維持とされています。国民にとりましては、日々、物の値段が上がってゆくよりも、一定に保たれていた方が暮らしやすいのです。

そして、金融政策において目標値を設定するならば、インフレには輸入インフレのように外因性のタイプもありますので、要因が多方面にわたる物価上昇率ではなく、国民の豊かさを示す指標のほうが望ましいと言えましょう。例えば、経済成長率や賃金上昇率などが考えられますが、日銀は、消費活動指数を作成していますので、こうした数字でも構わないのかもしれません。

植田次期総裁において予測されている量的緩和維持をめぐっては、その真の意図を、国際金融勢力の意向やFRBの動向にまで踏み込んで見極める必要があるのでしょうが、少なくとも、物価上昇率2%の目標については、金融政策の基本に帰るような見直しを要するのではないかと思うのです。

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「ジョブ型」雇用の未来とは?

2023年01月04日 12時55分35秒 | 日本経済
 新たな年を迎え、時計の針は未来に向けて絶え間なく時を刻んでいます。時の経過と共に、経験の積み重ねや歴史の教訓、並びに、学問や技術の発展に伴って、人類はよりより賢くより豊かになると信じられてきました。時間とは、長さという量で計ることができますので、時間の蓄積が多い人々、即ち、後の世に生きる人々に恩恵をもたらすことは紛れもない事実です(能力が全く同じであれば、時間と知識量並びに脳の発達は比例する・・・)。生物学にあってもダーウィンが、単純で低度なものから複雑で高度なものへの発展を必然的なプロセスとする進化論を唱え、多くの人々が賛同したのも、その大前提として時間の効用に対する確信があったからなのでしょう。誰もが人類の進歩を信じて疑わないのですが、近年の状況を観察しますと、精神性を含めた人類の成長は、今日、その行く手を巨大な壁に阻まれているように思えます。そこで、今年は、人類の成長や発展の問題を強く意識しつつ、記事をしたためて参りたいと思います。常々拙い記事となり、心苦しい限りではございますが、本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 2023年1月1日の朝刊一面左を飾ったのは、「日立、37万人ジョブ型に」という見出しでした。日本国を代表する大手企業の一つである日立製作所の全グループが、従来の日本型の雇用形態からジョブ型へと転換するとする記事です。同社では、昨年7月までに既に国内本社社員の3万人を対象に「ジョブ型」導入しており、今般の拡大の対象は国内外の子会社社員の37万人にも及ぶそうです。

日本国内の上場企業では連結従業員数が2位ですので、その影響は計り知れません。他の企業にもこの動きが広がれば、新卒採用、年功序列、手厚い福利厚生を特徴としてきた日本型の雇用形態は総崩れとなる事態も想定されましょう。日本型雇用には、悪しき平等主義の蔓延や個人の能力の低評価などの欠点があり、激しい競争を強いられるグローバル時代にあって日本企業の没落原因としてもしばしば指摘されてきました。グローバル企業としての競争力を取り戻すための策として、欧米諸国で一般化している「ジョブ型」への転換を決断するに至ったのでしょうが、この欧米の後追い、日本国の未来に希望を与えるのでしょうか。

 同社の新卒向けのホームページを見ますと、‘人事制度として日本がジョブ型を採用する必然的な流れ’とした上で、同制度の長所を積極的にアピールしています。職種やジョブ型を導入した大凡の理由とは、(1)「メンバーシップ型(日本型)」はもはや通用せず、「ジョブ型」がグローバル・スタンダードである、並びに、(2)個人の多様なライフスタイルやワークスタイルにマッチするというものです。しかも、意欲のある社員に対しては、自らが人材開発プログラムとして開設している数千に及ぶ講座を受講することでプロフェッショナルスキルを磨き、職種(ジョブ)の転換にもチャレンジできるとしていますので、ジョブ型の閉鎖的で固定的なイメージを払拭しようとする姿勢が見られます。しかしながら、日本型の雇用形態にも長所があるように、ジョブ型にも短所があるように思えます。

 第1に、国や社会全体の福利から総合的に評価しますと、前者には、社会保障を民間企業が担ってきたという側面があります。その一方で、働くことを契約に基づく限定された職務の遂行と見なすジョブ型には、社員のスキルアップをサポートすることはあっても、社会保障の機能は期待できません。年功序列制度は失業のバッファーとなってきましたし、社員の長年の労に報いるために支給される退職金なども公的年金と共に国民の老後の生活の安定を支えていきました。近年、法人税の税率もグローバル・スタンダードに合わせて低下していますが、「ジョブ型」が一般化すれば、企業の公的負担がさらに軽くなる一方で、政府の社会保障分野への支出は増えることも予測されます。「ジョブ型」は、国や社会全体の視点からしますと、必ずしもプラス面ばかりではないこととなります。

 第2に、「ジョブ型」は個人の能力を正当に評価し、人生設計やキャリアなどに関する個人の選択肢を広げるとされますが、個人にとりましてもメリットばかりではありません。雇用の安定性から評価すれば、「日本型」の方が優れています。目下、デジタル化の推進により、企業が欲する人材とは「デジタルの専門人材」であり、「ジョブ型」の導入によりITやAI関連の職種の社員は高い報酬を期待することができます(デジタル時代が長く続けば、若者も必ずしも有利とは言えなくなる・・・)。その一方で、それ以外の職種については低報酬しか望めませんし、仮に、企業の経営側が同職種を不要と見なした場合には、即、解雇されてしまうことでしょう。雇用期間は短期化し、いわば、正社員が非正規社員化されてしまうのです。この点、デジタル人材も安泰ではなく、新しい技術が開発されれば旧技術に関連した職種はお払い箱となり、‘ジョブ’を失うかもしれません。新卒採用の慣行もなくなれば、欧米諸国と同様に若年層の失業率が上昇しますし(少子高齢化にも拍車が・・・)、第1点に関連して述べれば、雇用対策のための予算増額は国民の税負担を重くすることでしょう。

 第3に、日経新聞の記事に依りますと、国籍等を問わないために「ジョブ型」導入の主要な目的は‘海外から登用しやすく’するためと説明されています。海外からの人材登用が目的であれば、「ジョブ型」への転換は、日本企業のグローバル企業への‘脱皮’をも意味するのですが、これは、社名は日本語であっても日本企業ではなくなることを意味します。日立では、つい先日となる1月1日に昨年退任したイギリス人のアリステア・ドーマー氏が副社長に復帰したばかりですが、経営陣も社員もその殆どが外国人という未来もあり得ましょう(近い将来、同氏の社長就任もあり得るかもしれない・・・)。欧米系であればグローバル人脈(世界権力)と繋がっていますので経営陣に抜擢され、中韓系であれば同社のデジタル関連職を占める未来も絵空事ではありません(アジア系はネポチズムも強いので同朋を呼び寄せてしまう・・・)。一つ間違えますと、「ジョブ型」は、新たな植民地主義の到来を告げることともなりましょう。なお、全世界の企業が「ジョブ型」を採用した場合、最優秀のグーバル人材は、報酬や待遇の良い欧米や中国企業に集中するのではないでしょうか。

 そして、第4に挙げるべきは、企業と社員との関係です。「日本型」では、経営陣には、創業家世襲のケースを除いて、一般的には新卒で採用された平社員が様々な職種を経験しながら実績を積み上げ、出世階段を上り詰めた末に就任する形となります。その一方で、「ジョブ型」では、‘会社に勤める’というよりも‘特定の職に就く’形態となりますので、社員と経営陣との関係が今一つはっきりしません。否、「ジョブ型」とは、企業の事業に必要な人材を集めるのに適した形態ですので、あくまでも経営者の視点から考案された採用形態なのです。「ジョブ型」で雇用された社員が経営陣に加わる道が閉ざされているとすれば、社員の勤労意欲を削ぐことになり、企業全体の業績にもマイナス影響を与えることとなりましょう。

 以上に主要な問題点を挙げてきましたが、外部的な経営者視点からは望ましい転換ではあっても、「ジョブ型」の雇用形態には明るい未来が描けそうにありません。そもそも、グローバル競争において日本企業が劣勢にあるのであれば、起死回生のために‘イノベーション’を起こすべきは雇用形態そのもののはずです。旧来の「日本型」でも欧米の‘まね’の「ジョブ型」でもない、働く人本位であり、かつ、国民の豊かな生活に資する新たな雇用スタイルを独自に開発してこそ、日本企業のみならず国も国民も活路を見出すことができるのではないでしょうか。今年こそ、日本企業の優れた開発力を、その製品のみならず会社組織においても、是非、発揮していただきたいと思うのです。

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中国の不動産バブルは日本国に波及する?

2021年09月27日 12時40分14秒 | 日本経済

ここ数日、中国の大手不動産である中国恒大集団の株価の値動きが全世界の注目を集めています。それもそのはず、総額で33兆円を超えるともされる莫大な債務を抱えている同社が利払いに行き詰れば、デフォルトの事態も予測されるからです。しかも、リーマンショック時におけるリーマンブラザーズ社と同様に、同社は、中国の不動産バブルの象徴でもあります。近年、中国の不動産価格は一般市民の手の届く範囲を遥かに超えており、広東省深圳市に至っては平均年収の凡そ58倍に跳ね上がっているそうです。中国のシリコンバレーとも称される深圳市ですので、IT富豪や高所得エリート社員等が居住しているのでしょうが、都市部への不動産投資の集中は、投資ではなく’投機’によるバブルの状況を呈していたのです。

 

そして、恒大集団問題の背景の一つとして、習近平国家主席が唱え始めた「共同富裕論」が指摘されています。貧富の格差拡大が留まるところを知らない中国では、大多数の国民が不動産価格の高騰を含めて現状に不満を抱いており、それが、何時、共産党批判へと向かうか分からないからです。つまり、政治介入によるバブル崩壊の足音が聞こえてきていると言えましょう。

 

 それでは、中国の不動産バブルとその崩壊は、日本国にも波及するのでしょうか。先ずもって、近年の中国の不動産バブルは、日本国内の不動産市場にも及んでいるようです。例えば、長引く不景気によって売れ行きが鈍っていた首都圏のタワーマンションや高級マンションの空き室の多くが、海外資産として中国人富裕層によって購入されているそうです。また、コロナ禍にあっては、移動規制によって観光客が減少した観光地が狙われており、京都の老舗旅館や町家、並びに、熱海等の温泉地などの多くが、中国人の手に渡ったとされています。大挙して押し寄せてきた中国人観光客は激減しても、マネーは国境をたやすく越えますので、日本の不動産市場にも中国の不動産バブルが押し寄せていたと言えましょう。

 

 中国不動産バブルが日本国内にも波及していたとしますと、同バブルが崩壊した場合、当然に、日本国内にも影響が及ぶはずです。中国人富裕層によって買われていたマンション等には売却の動きが広がるとも予測され、都市部を中心にマンション価格も下落傾向に転じることでしょう。そして、観光地において買い漁られていた宿泊施設や温泉地なども、手放さざるを得なくなるかもしれません。もっとも、こうした影響は、日本国民からしますと、入手しやすいレベルまで不動産価格が下がることを意味しますし、日本らしさが資源となる観光地の保全にとりましても、旧経営者による安値による買戻し、あるいは、日本人事業者による購入のチャンスともなりましょう。

 

 その一方で、中国の不動産市場に投資を行ってきた日本の金融機関は、戦々恐々とならざるを得ないかもしれません。先ずもって恒大集団の破綻問題で明るみになったのは、GPIFによる同社の株式保有です。運用額としては凡そ96億円程度とされていますが、日本国民の命綱である年金基金が中国企業をも投資先としていたことは、多くの国民にとりましては寝耳に水ではあったことでしょう。GPIFの判断の是非については今後議論すべき課題となりますものの、同社が破綻すれば、当然にGPIFの損失となります(日本国民の損失でもある…)。加えて、投機目的で中国の不動産バブルに’参加’していた日本国の民間金融機関があれば、中国の金融機関ほどではないにせよ、バブル崩壊による損失を被ることになります(不良債権問題の発生…)。なお、中国発の世界恐慌の再来も懸念されていますが、日本国内の一般企業にまで及ぶ連鎖的なマイナス影響については、日本の金融機関による対中投資額、諸外国の金融機関が被る損失、バブル崩壊後の中国経済の下落レベルなどによって、違ってくることでしょう。

 

 これまでのところ、恒大集団は利払い期限を延期するなど、軟着陸を目指す様子を見せており、株価も持ち直しを見せています。もっとも、急落の直前には、投資家による逃避の時間稼ぎのために安心材料が報じられるとの指摘もあり、楽観視はできない状況にあります。言い換えますと、日本国もまた、中国マネーの国内不動産市場への流入、並びに、日本の金融機関による対中投資によって、それが、プラスであれ、マイナスであれ、バブル崩壊の影響を受けざるを得ないこととなりましょう。

 

なお、ここで若干、注意を要する点は、中国における不動産バブルの主役が金融機関ではなく不動産会社である上に、バブル崩壊の‘下手人’が国家主席である点です。この側面は、日本のバブル崩壊とも、リーマンショックとも異なっているのですが、先日、ロイター?配信の記事にあって(配信元の記憶が定かではありません…)、恒大集団に対して不動産の引き渡しを要求しているものがありました。誰が要求しているのか、といった点に関する詳細な説明はなかったのですが、不動産取引に際する融資には、通常、抵当権が付されます。このことは、恒大集団の破綻に伴って、土地の‘所有権の大移動’が発生する可能性を示唆しています(中国の場合は、正しくは土地の所有権ではなく使用権…)。果たして、中国の膨大な不動産に関する権利は、最終的に誰の手に渡るのでしょうか。上述した「共同富裕」の一環としての習政権による私権消滅の兆しなのでしょうか、共産党幹部の一部がほくそ笑むのでしょうか、それとも、外資系金融機関の餌食になるのでしょうか。舞台が共産党一党独裁国家である故に、バブル崩壊の行く先を見極めないことには、日本国への長期的な影響にてついては、正確に予測することは難しいのではないかと思うのです。


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