万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

陰謀説とは合理的な作業仮説では

2024年04月18日 13時01分36秒 | 日本経済
 自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、いかなる学問分野にあっても、研究とは、事実(真実)の探求に他なりません。もっとも、事実の探求やそれの証明の仕方や手法には違いがあり、自然科学の場合には、観察結果や実験によって証明するという方法が採られます。自らの唱える説は、事後的に他者によって再現性が確認できれば、事実であることが客観的に証明されます。演繹法であれ、帰納法であれ、自然科学の証明方法は極めて合理的、かつ、明晰ですので、近代以降、学問に‘科学’を付すときには、仮説の提起、観察や実験によるデータの収集(今日の実験は、コンピューターによるシミュレーションの場合も・・・)、データの分析・解析、仮説の真偽の検証というプロセスを伴う研究手法を意味することとなったのです(帰納法の場合には、最初に現象の観察が置かれる・・・)。

 観察機器や実験装置の長足の進歩もあって、近代とは、まさに科学の時代とも称されるのですが、社会科学の分野にあっても、自然科学の分析的な手法を取り入れる動きが強まります。早くも19世紀にあって、カール・マルクスの盟友であったフリードリッヒ・エンゲルスは、その著書『空想から科学へ』において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、シャルル・フーリエなどの社会主義の理論家達を理想論者として批判しています。そして、とりわけ第二次世界大戦前後にあっては、アメリカを中心に、よりシステマティックで分析的な研究方法が広がったのです。かくして社会科学における科学的手法の導入は、一見、政治学を合理化し、発展させたようにも見えるのですが、現実の政治の世界は、未だに非合理性に満ちているように思えます。

 それは、‘過去や現在において人間が行なった、あるいは、行なっている事実の解明’という、政治学や歴史学において特有となる研究課題において顕著となります。人や集団は自らの意思や目的をもって行動しますので、事実を突き止め、何が起きた、あるいは、起きているかを正確に理解するためには、これらの行動主体やそれらが抱く目的を明らかにしなければならないのです。こうした意思や目的の解明と言った作業は社会科学に固有のものであり、それらが人々に与える影響が大きいほどに、その解明は、人類にとりまして重大な課題となりましょう。

 同課題の重要性に照らしますと、今日の状況は、退行的ですらあります。例えば、昨今、政治の世界において起きた不可解な事件や出来事については、その不審点や辻褄の合わない点を指摘しただけで、‘陰謀論’として嘲笑される風潮があります。自然科学にあっては、何らかの既存の知識では説明できない現象や事象が観察されますと、詳細に調査した上で、先ずもって、その現象が起きる原因を合理的に解明するための仮説が提起されます。自然科学においては、当然のアプローチであり、これを愚かで非合理的な態度と見なす人はいません。ところが、政治の世界では、不可解な現象を素直に不可解と見なし、その原因や因果関係などを仮説として提起しても、‘陰謀論’として頭ごなしに否定されてしまうのです。

 合理的な根拠(矛盾や物理的な不可能性・・・)に基づいて推論として陰謀や謀略の実在性を主張することは、科学的な論証のプロセスにおいては、作業仮説に当たります。不可解な諸点は現実に観察されているのですから、それを合理的に説明することのできる仮説を提起することは、科学的なアプローチなはずです。たとえ情報の隠蔽や捏造等によって現時点では証拠を示すことができなくとも、やがて明らかとなる日が来るかも知れません。その間は仮説のままであったとしても、事実である可能性の高い仮説が存在し、人々がそれを意識していることがリスク対策の上でも重要なのです。

 科学の時代を称しながら、その実、今日の政治を取り巻く状況は、合理的で科学的なアプローチを許さず、政府やマスコミの見解や公表内容を疑うことなく‘信じる’ように強要されているかのようです。人々が‘事実を知る’ことよりも、‘事実と信じさせること’に力点が置かれているのですから。そして、‘信じない者’に対する迫害は、中世の異端審問にも通じるのです。

 なお、この点、上述した『空想から科学へ』におけるエンゲルスの科学に対する認識に、既にこの問題の萌芽が見られます。エンゲルスは、マルクス主義を擁護するために、ヘーゲルの弁証法が分析的であることを理由に科学的手法として評価したに過ぎないからです。しかしながら、ヘーゲルの弁証法そのものが観念的な運動法則の図式である以上、今日的な視点からは科学的とは言えず、‘空想から空想へ’、あるいは、‘空想から信仰へ’という表現の方が相応しいとも言えましょう。過去の歴史から普遍的な運動法則を見出し、未来にまでそれを適用しようとすれば、絶対法則に反する事象は全て否定されるか、無視されてしまいます。国家イデオロギーにまで昇格した主観的法則の絶対化は、今なお、共産党一党独裁体制をもって多くの人々を苦しめていますが、自由主義国における‘陰謀論’に垣間見える‘支配者’の精神性も、似たり寄ったりなのです。

 現代という時代は、先端的なテクノロジーとしての科学は飛躍的に進歩しながら、物事の探求において基本となる‘科学的な論証方法’については冬の時代と言えましょう。そしてそれは、人類の精神性や知性の発展を著しく阻害し、国家レベルであれ、国際レベルであれ、未来に向けた善き社会の構築を妨げているのではないかと思うのです。

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ウクライナ支援継続も天文学的な負担になるのでは?

2024年02月22日 13時54分57秒 | 日本経済
 一昨日の2月20日付けの日本経済新聞の一面には、「断念なら「天文学的な負担」」と題する記事が掲載されておりました。「平和のコスト」という欄においてウクライナに対する「支援疲れの代償」を論じたものです。同記事には、昨年12月に米戦争研究所が公表したロシア勝利のシナリオに関する予測が紹介されております。‘断念なら天文学的な負担’とは、ウクライナ支援を断念し、ロシアが勝利した場合におけるアメリカにのしかかる防衛費のコストを意味しているのです。しかしながら、ウクライナ支援を継続しても、やはり‘天文学的な負担’が生じるように思えます。

 米戦争研究所の予測は、ロシアの勝利⇒ロシアがEU各国国境の軍備増強⇒NATOも防衛費増額⇒天文学的なコスト・・・ということになります(因みに、既に決定されている600機のF35の配備にしても、一機およそ100億円・・・)。予測される巨額の防衛費を考えれば、ウクライナが敗北しないように支援を継続した方が望ましいという提言なのです。アメリカ国内では、一般世論を含めてウクライナ支援に対する逆風が吹いていますので、同研究所は、より‘悪い予測’を示すことで世論の流れを変えたかったのでしょう。

 しかしながら、同予測は、無限にあり得る将来の展開にあって、最もウクライナ支援の継続にとって説得材料となるシナリオを選んでいるに過ぎないのかも知れません。コスト面で説得しようとするならば、むしろ、即時停戦を提案した方が、より多くの人々が納得したことでしょう。これ以上、ウクライナに巨額の資金を投入する必要もなくなり、かつ、復興費用も抑えることができるのですから。戦闘が停止されれば、後に再建や修復が必要となる居住施設やインフラ等の公共施設の破壊も止まりますし、しかも、現在ロシアが一方的に併合し、主要な戦場となった地域の復興費用は全額ロシアの負担となります。

 ロシアにしてみても、自国が勝利すれば、‘戦後復興’のために多額の予算を費やす必要性も生じるのですから、NATO諸国を震撼させるほどの規模の軍を、ヨーロッパ諸国との国境線に配備する余力があるとも思えません(翌日の21日に同欄で掲載されたロシアに関する「原油収入で継戦能力向上」という記事は、あるいはロシア脅威論に説得力を与えるために配されたのかも知れない・・・)。また、ウクライナに対する‘特別軍事行動’に際して主張した口実、即ち、東西間の内戦も、ロシア系住民に対する虐殺や弾圧といった固有の事情も存在しないのですから、ロシアがヨーロッパ諸国に対して戦争を挑もうとする説は、相当に疑わしいのです。この論法は、ゼレンスキー大統領が事あるごとに支援を引き出すために訴えていたロシア脅威論ですので、一種の常套句なのでしょう。

 その一方で、停戦に持ち込めず、通常兵器による戦闘が続くとすれば、そのコストは莫大です。仮に通常兵器においてウクライナが勝利する状況に至っても、ロシアは躊躇なく核兵器を使うでしょうから、振り出しに戻されてしまうのです。あるいは、アメリカ並びにウクライナ側は、ロシアに核兵器を使わせないために、敢えて膠着状態のまま戦争を続けてゆくという、愚かしい選択を余儀なくされるかもしれません。このケースでも、停戦の見通しも決定的な勝利も見えぬままに、戦費だけは天文学的な額に積み上がってゆくことになりましょう。

 さらに同記事では、日本国の負担増についても語っています。ロシアが勝利した場合、アメリカは、ヨーロッパ諸国の防衛を優先させるため、アジアへの兵器等の配備が手薄になり、中国の脅威に晒されるという説です。しかしながら、この説も、説得力に欠けているように思えます。何故ならば、このまま長期に亘り、外部から言われるがままにウクライナに巨額の支援を続けるよりも、その予算は、対中国を想定した防衛力の強化に向けた方が余程、対中抑止力となるからです。さらに言えば、日本国も核の抑止力で中国を抑えた方が、遥かに低コストかつ高効果となりましょう。

 ウクライナ紛争自体がロシアをも‘駒’とした戦争ビジネスのための茶番である疑いが濃い点を考慮しましても、ウクライナ支援の継続は、日本国を含む全支援国の膨大なる国費の無駄遣い、あるいは、世界権力への‘貢納’になりかねません。日本国政府は、累積支援額が天文学的となる底なし沼に嵌まらぬように、イスラエル・ハマス戦争と同様に、ウクライナ紛争にあっても停戦の実現にこそ努めるべきではないかと思うのです(なお、停戦は、ロシアによるウクライナ領併合の容認を意味するわけではない・・・)。

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規制緩和という名の‘新しい規制’

2023年07月05日 14時14分21秒 | 日本経済
 世界経済フォーラムの理事でもある竹中平蔵氏の主導の下で自公政権が推進してきた新自由主義政策の基本方針の一つに、規制緩和があります。規制緩和とは、従来の日本国の規制レベルの高さが経済成長の阻害要因であるから、規制を緩めれば企業活動の自由度も増し、‘失われた20年’から脱却して成長軌道に乗ることができるというものです。‘規制’という言葉には、人々の行動を縛るものとするイメージがありますので、多くの人々が、新自由主義者の規制緩和論に理解と賛意をしめしたことでしょう。しかしながら、果たして規制緩和によって、日本企業の自由度は高まった、あるいは、高まるのでしょうか。

 自公政権の来し方を見ますと、‘岩盤規制を打ち破れ’とばかりに政府が拳を振り上げたのですから、実際に、様々な分野において規制が緩和されています。特に新自由主義者が狙いを定めた分野の一つが、インフラ事業を含む公的分野でした。通信や郵便事業といった目立つ事業のみならず(第二次小泉内閣において竹中平蔵氏が郵政民営化担当大臣を務めた・・・)、細かな点に注目しますと、中央官公庁や地方自治体の行政業務の民間委託も広がっています。

 しかも、民営化は同時に、公共性の高い事業に海外資本が流入し、経営参入に道を開くことともなりました。民営化には証券市場への上場をも伴もないますので、海外投資家等も株主としてステークホルダーとなりましたし、再生エネ事業に至っては、海外事業者の直接参入も見られたのです。すなわち、日本国のグローバル化とは、自国のインフラ市場や政府調達部門を‘規模の経済’で日本企業を圧倒する海外勢力に明け渡す結果を招いたと言えましょう。国境を越えたマネーの自由移動がグローバル企業のM&Aを活発化し、公的分野のみならず、民間にあっても日本企業の‘海外売却要因’となったことは言うまでもありません。

 なお、アメリカのGAFAMや中国のBATをはじめIT大手の大半は海外企業ですので、行政のデジタル化は、情報漏洩のリスクのみならず、世界権力の配下にあるグローバル企業への依存度を高めています。この依存性は、日本国の統治機構が‘世界政府’のデジタル・ネットワークに取り込まれるリスクをも意味しています。

 そして、もう一つ、新自由主義者がターゲットとしたのは、日本国の労働慣行でした。これまで派遣業は中間搾取的な事業であるために規制が設けられてきましたが、規制緩和の波に乗って同雇用形態も解禁となり、日本国の労働市場では非正規雇用が激増することにもなりました。今日では、正規採用者も安泰ではなく、非正規社員化ともされる日本型雇用からジョブ型雇用への転換も迫られています。

 規制緩和の結果、今では中央官庁でも、地方自治体のお役所でも、国民や市民に応対するのは業務を受託した民間企業の社員であったとするケースも耳にします。コロナ・ワクチン接種事業を請け負ったのは、竹中氏が代表取締役会長を務めるパソナグループでしたし、民営化の現実とは、むしろ、非正規社員を多数雇用しつつ、公金に頼る、あるいは、群がる巨大な企業群を生み出したとも言えましょう。

 以上に日本国における規制緩和の顛末を簡単に描いてみましたが、新自由主義者の説明どおりに、行政の縛りから解放された日本企業が活発に経済活動を展開し得る自由な市場が出現したわけではなかったようです。逆に、グローバル・スタンダードという新たな規制の導入により、日本国政府並びに日本企業が独自の雇用形態を維持したり、あるいは、新たな形態を生み出してゆく機会が一切失われてゆく過程として理解されるのです。‘新しい規制’とは、世界権力に富も権力も集中させるための規制であり、その基本原則は、‘政府は、法人を含めて自国の国民を保護してはならない’というもののように思えるのです。すなわち、政府は、規制緩和によって自国の市場も国民も世界権力に差し出さなければならないのです。

 規制には、強者による横暴を制御するという意味で保護の役割を担う側面と、自由を束縛する側面がありますが、全てとは言い難いものの前者の側面が強かった日本国の規制を緩和した結果、グローバル・スタンダードとして束縛型の規制が新たに導入されたようなものです。SDGsが猛威を振るい、自己責任の原則の下でジョブ型の導入が正規社員の雇用も不安定化する中、世界権力が推進するグローバリズムとは、一体何であったのか、日本国政府も国民も、改めて問い直してみる時期に差し掛かっているように思えるのです。

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「分厚い中間層」の再構築の詭弁

2023年06月09日 11時46分54秒 | 日本経済
 近年、グローバリズムがもたらした経済的格差の拡大やそれに伴う中間層の崩壊は、先進国と称されていた自由主義諸国において反グローバリズムを生み出す土壌ともなりました。アメリカにおけるトランプ前政権の誕生もグローバリズムへの逆風なくして説明できないのですが、日本国にあっても、グローバリズムの見直しを求める世論は無視できない状況に至っています。こうした‘国民の声’を察知したのか、岸田政権は、経済財政運営と改革の基本方針の骨太原案として「分厚い中間層」の復活を掲げることとなりました。

 日本国内では、グローバリズムに対する批判は、グローバリズムそのものよりも新自由主義批判として表現される嫌いがあります。新自由主義とは、世界経済フォーラムの理事でもある竹中平蔵氏を指南役として推進された規制緩和・民営化促進政策を凡そ意味します。ここで言う‘自由’とは、個人の自由ではあるのですが、その実態を観察しますと、‘グローバリストの自由’の最大化を目指したと言っても過言ではありません。そして、その他多数の個人に対しては、個人の尊重を盾に、厳しく自己責任を求められることとなったのです。個人主義に基づく徹底した強者の論理が、新自由主義の特徴とも言えましょう。

 因みに、政治学では、社会契約説をはじめとする個人主義の政治理論の主要テーマは、個人の基本的な自由と権利の保護にあり、政府の存在意義を国民保護機能に求めています(およそすべての人が合意し得る政府の基本的な役割を理論的に説明しようとした・・・)。政治学の個人主義と比べますと、経済における個人主義には‘すべて’の個人の保護という役割がすっかりと抜け落ちています。このことは、政治家や政府が新自由主義に基づいて政策を遂行しますと、果たすべき国民保護機能が欠落することを意味します。自らの基本的な自由や権利が護られないどころか、利己的な強者の‘自由’によって被害を受けかねないのですから、新自由主義が国民から嫌われるのも当然と言えば当然なのです。

歴代の自民・公明連立政権による新自由主義の政策化は、日本国内では終身雇用を特徴とする日本型雇用システムの‘改革’が迫るものとなりました。今日、同主義は、中間層を破壊した元凶として批判されています。非正規社員の劇的な増加(派遣業による‘中間搾取’も・・・)、企業の社員に対する福利厚生の低下、株主配当の偏重、年功序列の是正による実質的生涯所得の低下などなど、数え上げたら切がありません。今日、最重要の政治課題とされる少子化問題も、その原因を辿れば新自由主義政策による国民生活の不安定化に行き着くのです。

中間層の崩壊に関する原因と結果の因果関係ははっきりしていますので、政府が、「分厚い中間層」の再構築を目標に設定したと聞きますと、政府は、遂に新自由主義からの決別を決意したと思うかもしれません。しかしながら、その内容を読みますと、日本国政府は新自由主義の一層の推進を決断したとしか言いようがないのです。何故ならば、改革の基本方針は、日本型雇用からグローバル・スタンダードへの転換であり、しかも、国民生活の安定化の方向性とは真逆であるからです。

例えば、賃上げ政策の一つとしてジョブ型雇用の導入促進を挙げ、デジタルなどの成長産業への人材誘導を図るとしています。高賃金のジョブ型専門職での雇用が増えれば、賃金が上昇するとする論理ですが、同ポストが高額なのは、デジタル技術者や同分野での専門家が極めて少ない、即ち、不足状態であるからに他なりません。しかも、外国からの人材誘致も視野に入れていることでしょうから、ポストをめぐる競争も激しく、到底、中間層を復活させるほどの効果があるとは思えません。否、少数の高給のジョブ型デジタル職とそれ以外の大多数の職との間の所得格差が広がり、中間層の破壊に拍車がかかりかねないのです。

また、日本型の雇用制度についても、終身雇用を前提とした退職一時金の税制優遇制度を見直すとしています。同制度改革も、転職促進効果が理由として付されています。しかしながら、この改革も、中間層にダメージを与えることは言うまでもありません。すんなりと転職ができ、かつ、前職よりも所得が増える人は少数に過ぎず、多くの人々は転職による所得の減少に見舞われることでしょう。しかも、老後の生活の安定を支えてきた退職金も減らさせるのですから、後者の人々にとりましては踏んだり蹴ったりです。

転職促進の裏側には、解雇を容易にしたいとするグローバリストの思惑が隠されているのですが、新自由主義が主張する自己責任論は、被雇用者に対して一切の責任もコストも負いたくないとするグローバリストの意向の現れでもあります。今般の政府による労働市場改革にあっても、‘学び直し支援’の対象は個人であり雇用主ではありません。これまで、日本企業は社内教育によって人材を育成してきましたが、今後は、個人が自らのコストで自身の再教育あるいはスキルアップを行なうか、あるいは、政府からの支援を受けるしかなくなるのです。これでは、所得格差は縮むどころか広がる一方となりましょう。

昨今、政府に対する信頼性は低下の一途を辿っていますが、看板と中身がかくも乖離しますと、国民の政府に対する疑心暗鬼は深まるばかりなのではないかと思うのです。

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物価目標2%目標は国民には過酷では

2023年02月15日 12時47分52秒 | 日本経済
 異次元緩和に踏み出したことで、アベノミクスの象徴ともなってきた黒田日銀総裁。今般、同総裁の後任として政府から選任されたのが、経済学者の植田和夫氏です。同氏の就任に先立って議論されているのが、現在、日銀が掲げている物価上昇率2%の目標です。

 正式な日銀総裁就任には国会の承認を経るものの、植田次期総裁は、過去の発言などから金融緩和政策を維持するものと推測されています。金融緩和策の維持と2%目標がどのように関連するのか、と申しますと、現在、円安等に起因した輸入インフレ状態にあり、既に同目標値を超えてしまっているからです。一般的には、2%を超えるとインフレ抑制策として政策金利を上げるところなのですが、植田氏は、量的緩和維持の立場から、金融引き締めへの政策転換に否定的なのです。そこで、2%目標が修正されるのではないか、とする憶測が飛び交っているのです。

 こうした理由から、植田新総裁の下ではインフレ率2%目標が取り払われる可能性が指摘されているのですが、そもそも、インフレ率2%目標は、妥当なのでしょうか。不思議なことに、2%という目標率については深く議論されてこなかったように思えます。そこで、何故、2%なのか、という理由を探ってみますと、実のところ、合理的な根拠は見当たらないようなのです。

 国民の立場からすれば、物価上昇率2%が過酷であることは言うまでもありません。賃金上昇率が2%以下の現状では、物の値段が毎年2%上昇することは、年々、生活が苦しくなることを意味します。預金者にとりましても、預金額の目減りとなり、生涯設計が狂うことにもなります(もっとも、政府を含めて債務のある人には有利・・・)。今般、デフレから一気にインフレに転じたため、電気料金の高騰を含む物価高に国民が悲鳴を上げることとなりましたが、物価上昇は、たとえそれが2%であったとしても、大半の国民にとりましてはマイナス影響となりましょう。

 それでは、何故、2%なのかと申しますと、この2%という数値は、中央銀行による国債引き受けにより10%台といった高インフレ率に苦しんできた諸国の経験から、インフレ率の上限として設定されたものです。単一通貨であるユーロ導入に際して、欧州中央銀行が、南欧諸国の放漫財政によるインフレの抑制を目的にこの数値を定めたのが始まりと言えるかもしれません。その一方で、日本国の場合には、デフレ脱却のための目標値として2%目標が導入されましたので、その始まりからして目的が逆です。このことは、必ずしも2%という数値に拘る必要はないことを示していると言えましょう。

  2%が絶対的な数値ではないないとしますと、何%が最も妥当な物価上昇率なのでしょうか。敢えて設定するならば、貨幣の機能、並びに、中央銀行の役割に照らしますと、その数値は0%なのではないかと思うのです(2%目標とは、金本位制であれば、毎年、2%金貨が改悪されることに・・・)。貨幣の三大機能は、支払手段、価値尺度、価値貯蔵手段ですが、特に価値尺度は安定していたに越したことはありません。このため、中央銀行の主要な役割も通貨価値の維持とされています。国民にとりましては、日々、物の値段が上がってゆくよりも、一定に保たれていた方が暮らしやすいのです。

そして、金融政策において目標値を設定するならば、インフレには輸入インフレのように外因性のタイプもありますので、要因が多方面にわたる物価上昇率ではなく、国民の豊かさを示す指標のほうが望ましいと言えましょう。例えば、経済成長率や賃金上昇率などが考えられますが、日銀は、消費活動指数を作成していますので、こうした数字でも構わないのかもしれません。

植田次期総裁において予測されている量的緩和維持をめぐっては、その真の意図を、国際金融勢力の意向やFRBの動向にまで踏み込んで見極める必要があるのでしょうが、少なくとも、物価上昇率2%の目標については、金融政策の基本に帰るような見直しを要するのではないかと思うのです。

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「ジョブ型」雇用の未来とは?

2023年01月04日 12時55分35秒 | 日本経済
 新たな年を迎え、時計の針は未来に向けて絶え間なく時を刻んでいます。時の経過と共に、経験の積み重ねや歴史の教訓、並びに、学問や技術の発展に伴って、人類はよりより賢くより豊かになると信じられてきました。時間とは、長さという量で計ることができますので、時間の蓄積が多い人々、即ち、後の世に生きる人々に恩恵をもたらすことは紛れもない事実です(能力が全く同じであれば、時間と知識量並びに脳の発達は比例する・・・)。生物学にあってもダーウィンが、単純で低度なものから複雑で高度なものへの発展を必然的なプロセスとする進化論を唱え、多くの人々が賛同したのも、その大前提として時間の効用に対する確信があったからなのでしょう。誰もが人類の進歩を信じて疑わないのですが、近年の状況を観察しますと、精神性を含めた人類の成長は、今日、その行く手を巨大な壁に阻まれているように思えます。そこで、今年は、人類の成長や発展の問題を強く意識しつつ、記事をしたためて参りたいと思います。常々拙い記事となり、心苦しい限りではございますが、本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 2023年1月1日の朝刊一面左を飾ったのは、「日立、37万人ジョブ型に」という見出しでした。日本国を代表する大手企業の一つである日立製作所の全グループが、従来の日本型の雇用形態からジョブ型へと転換するとする記事です。同社では、昨年7月までに既に国内本社社員の3万人を対象に「ジョブ型」導入しており、今般の拡大の対象は国内外の子会社社員の37万人にも及ぶそうです。

日本国内の上場企業では連結従業員数が2位ですので、その影響は計り知れません。他の企業にもこの動きが広がれば、新卒採用、年功序列、手厚い福利厚生を特徴としてきた日本型の雇用形態は総崩れとなる事態も想定されましょう。日本型雇用には、悪しき平等主義の蔓延や個人の能力の低評価などの欠点があり、激しい競争を強いられるグローバル時代にあって日本企業の没落原因としてもしばしば指摘されてきました。グローバル企業としての競争力を取り戻すための策として、欧米諸国で一般化している「ジョブ型」への転換を決断するに至ったのでしょうが、この欧米の後追い、日本国の未来に希望を与えるのでしょうか。

 同社の新卒向けのホームページを見ますと、‘人事制度として日本がジョブ型を採用する必然的な流れ’とした上で、同制度の長所を積極的にアピールしています。職種やジョブ型を導入した大凡の理由とは、(1)「メンバーシップ型(日本型)」はもはや通用せず、「ジョブ型」がグローバル・スタンダードである、並びに、(2)個人の多様なライフスタイルやワークスタイルにマッチするというものです。しかも、意欲のある社員に対しては、自らが人材開発プログラムとして開設している数千に及ぶ講座を受講することでプロフェッショナルスキルを磨き、職種(ジョブ)の転換にもチャレンジできるとしていますので、ジョブ型の閉鎖的で固定的なイメージを払拭しようとする姿勢が見られます。しかしながら、日本型の雇用形態にも長所があるように、ジョブ型にも短所があるように思えます。

 第1に、国や社会全体の福利から総合的に評価しますと、前者には、社会保障を民間企業が担ってきたという側面があります。その一方で、働くことを契約に基づく限定された職務の遂行と見なすジョブ型には、社員のスキルアップをサポートすることはあっても、社会保障の機能は期待できません。年功序列制度は失業のバッファーとなってきましたし、社員の長年の労に報いるために支給される退職金なども公的年金と共に国民の老後の生活の安定を支えていきました。近年、法人税の税率もグローバル・スタンダードに合わせて低下していますが、「ジョブ型」が一般化すれば、企業の公的負担がさらに軽くなる一方で、政府の社会保障分野への支出は増えることも予測されます。「ジョブ型」は、国や社会全体の視点からしますと、必ずしもプラス面ばかりではないこととなります。

 第2に、「ジョブ型」は個人の能力を正当に評価し、人生設計やキャリアなどに関する個人の選択肢を広げるとされますが、個人にとりましてもメリットばかりではありません。雇用の安定性から評価すれば、「日本型」の方が優れています。目下、デジタル化の推進により、企業が欲する人材とは「デジタルの専門人材」であり、「ジョブ型」の導入によりITやAI関連の職種の社員は高い報酬を期待することができます(デジタル時代が長く続けば、若者も必ずしも有利とは言えなくなる・・・)。その一方で、それ以外の職種については低報酬しか望めませんし、仮に、企業の経営側が同職種を不要と見なした場合には、即、解雇されてしまうことでしょう。雇用期間は短期化し、いわば、正社員が非正規社員化されてしまうのです。この点、デジタル人材も安泰ではなく、新しい技術が開発されれば旧技術に関連した職種はお払い箱となり、‘ジョブ’を失うかもしれません。新卒採用の慣行もなくなれば、欧米諸国と同様に若年層の失業率が上昇しますし(少子高齢化にも拍車が・・・)、第1点に関連して述べれば、雇用対策のための予算増額は国民の税負担を重くすることでしょう。

 第3に、日経新聞の記事に依りますと、国籍等を問わないために「ジョブ型」導入の主要な目的は‘海外から登用しやすく’するためと説明されています。海外からの人材登用が目的であれば、「ジョブ型」への転換は、日本企業のグローバル企業への‘脱皮’をも意味するのですが、これは、社名は日本語であっても日本企業ではなくなることを意味します。日立では、つい先日となる1月1日に昨年退任したイギリス人のアリステア・ドーマー氏が副社長に復帰したばかりですが、経営陣も社員もその殆どが外国人という未来もあり得ましょう(近い将来、同氏の社長就任もあり得るかもしれない・・・)。欧米系であればグローバル人脈(世界権力)と繋がっていますので経営陣に抜擢され、中韓系であれば同社のデジタル関連職を占める未来も絵空事ではありません(アジア系はネポチズムも強いので同朋を呼び寄せてしまう・・・)。一つ間違えますと、「ジョブ型」は、新たな植民地主義の到来を告げることともなりましょう。なお、全世界の企業が「ジョブ型」を採用した場合、最優秀のグーバル人材は、報酬や待遇の良い欧米や中国企業に集中するのではないでしょうか。

 そして、第4に挙げるべきは、企業と社員との関係です。「日本型」では、経営陣には、創業家世襲のケースを除いて、一般的には新卒で採用された平社員が様々な職種を経験しながら実績を積み上げ、出世階段を上り詰めた末に就任する形となります。その一方で、「ジョブ型」では、‘会社に勤める’というよりも‘特定の職に就く’形態となりますので、社員と経営陣との関係が今一つはっきりしません。否、「ジョブ型」とは、企業の事業に必要な人材を集めるのに適した形態ですので、あくまでも経営者の視点から考案された採用形態なのです。「ジョブ型」で雇用された社員が経営陣に加わる道が閉ざされているとすれば、社員の勤労意欲を削ぐことになり、企業全体の業績にもマイナス影響を与えることとなりましょう。

 以上に主要な問題点を挙げてきましたが、外部的な経営者視点からは望ましい転換ではあっても、「ジョブ型」の雇用形態には明るい未来が描けそうにありません。そもそも、グローバル競争において日本企業が劣勢にあるのであれば、起死回生のために‘イノベーション’を起こすべきは雇用形態そのもののはずです。旧来の「日本型」でも欧米の‘まね’の「ジョブ型」でもない、働く人本位であり、かつ、国民の豊かな生活に資する新たな雇用スタイルを独自に開発してこそ、日本企業のみならず国も国民も活路を見出すことができるのではないでしょうか。今年こそ、日本企業の優れた開発力を、その製品のみならず会社組織においても、是非、発揮していただきたいと思うのです。

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中国の不動産バブルは日本国に波及する?

2021年09月27日 12時40分14秒 | 日本経済

ここ数日、中国の大手不動産である中国恒大集団の株価の値動きが全世界の注目を集めています。それもそのはず、総額で33兆円を超えるともされる莫大な債務を抱えている同社が利払いに行き詰れば、デフォルトの事態も予測されるからです。しかも、リーマンショック時におけるリーマンブラザーズ社と同様に、同社は、中国の不動産バブルの象徴でもあります。近年、中国の不動産価格は一般市民の手の届く範囲を遥かに超えており、広東省深圳市に至っては平均年収の凡そ58倍に跳ね上がっているそうです。中国のシリコンバレーとも称される深圳市ですので、IT富豪や高所得エリート社員等が居住しているのでしょうが、都市部への不動産投資の集中は、投資ではなく’投機’によるバブルの状況を呈していたのです。

 

そして、恒大集団問題の背景の一つとして、習近平国家主席が唱え始めた「共同富裕論」が指摘されています。貧富の格差拡大が留まるところを知らない中国では、大多数の国民が不動産価格の高騰を含めて現状に不満を抱いており、それが、何時、共産党批判へと向かうか分からないからです。つまり、政治介入によるバブル崩壊の足音が聞こえてきていると言えましょう。

 

 それでは、中国の不動産バブルとその崩壊は、日本国にも波及するのでしょうか。先ずもって、近年の中国の不動産バブルは、日本国内の不動産市場にも及んでいるようです。例えば、長引く不景気によって売れ行きが鈍っていた首都圏のタワーマンションや高級マンションの空き室の多くが、海外資産として中国人富裕層によって購入されているそうです。また、コロナ禍にあっては、移動規制によって観光客が減少した観光地が狙われており、京都の老舗旅館や町家、並びに、熱海等の温泉地などの多くが、中国人の手に渡ったとされています。大挙して押し寄せてきた中国人観光客は激減しても、マネーは国境をたやすく越えますので、日本の不動産市場にも中国の不動産バブルが押し寄せていたと言えましょう。

 

 中国不動産バブルが日本国内にも波及していたとしますと、同バブルが崩壊した場合、当然に、日本国内にも影響が及ぶはずです。中国人富裕層によって買われていたマンション等には売却の動きが広がるとも予測され、都市部を中心にマンション価格も下落傾向に転じることでしょう。そして、観光地において買い漁られていた宿泊施設や温泉地なども、手放さざるを得なくなるかもしれません。もっとも、こうした影響は、日本国民からしますと、入手しやすいレベルまで不動産価格が下がることを意味しますし、日本らしさが資源となる観光地の保全にとりましても、旧経営者による安値による買戻し、あるいは、日本人事業者による購入のチャンスともなりましょう。

 

 その一方で、中国の不動産市場に投資を行ってきた日本の金融機関は、戦々恐々とならざるを得ないかもしれません。先ずもって恒大集団の破綻問題で明るみになったのは、GPIFによる同社の株式保有です。運用額としては凡そ96億円程度とされていますが、日本国民の命綱である年金基金が中国企業をも投資先としていたことは、多くの国民にとりましては寝耳に水ではあったことでしょう。GPIFの判断の是非については今後議論すべき課題となりますものの、同社が破綻すれば、当然にGPIFの損失となります(日本国民の損失でもある…)。加えて、投機目的で中国の不動産バブルに’参加’していた日本国の民間金融機関があれば、中国の金融機関ほどではないにせよ、バブル崩壊による損失を被ることになります(不良債権問題の発生…)。なお、中国発の世界恐慌の再来も懸念されていますが、日本国内の一般企業にまで及ぶ連鎖的なマイナス影響については、日本の金融機関による対中投資額、諸外国の金融機関が被る損失、バブル崩壊後の中国経済の下落レベルなどによって、違ってくることでしょう。

 

 これまでのところ、恒大集団は利払い期限を延期するなど、軟着陸を目指す様子を見せており、株価も持ち直しを見せています。もっとも、急落の直前には、投資家による逃避の時間稼ぎのために安心材料が報じられるとの指摘もあり、楽観視はできない状況にあります。言い換えますと、日本国もまた、中国マネーの国内不動産市場への流入、並びに、日本の金融機関による対中投資によって、それが、プラスであれ、マイナスであれ、バブル崩壊の影響を受けざるを得ないこととなりましょう。

 

なお、ここで若干、注意を要する点は、中国における不動産バブルの主役が金融機関ではなく不動産会社である上に、バブル崩壊の‘下手人’が国家主席である点です。この側面は、日本のバブル崩壊とも、リーマンショックとも異なっているのですが、先日、ロイター?配信の記事にあって(配信元の記憶が定かではありません…)、恒大集団に対して不動産の引き渡しを要求しているものがありました。誰が要求しているのか、といった点に関する詳細な説明はなかったのですが、不動産取引に際する融資には、通常、抵当権が付されます。このことは、恒大集団の破綻に伴って、土地の‘所有権の大移動’が発生する可能性を示唆しています(中国の場合は、正しくは土地の所有権ではなく使用権…)。果たして、中国の膨大な不動産に関する権利は、最終的に誰の手に渡るのでしょうか。上述した「共同富裕」の一環としての習政権による私権消滅の兆しなのでしょうか、共産党幹部の一部がほくそ笑むのでしょうか、それとも、外資系金融機関の餌食になるのでしょうか。舞台が共産党一党独裁国家である故に、バブル崩壊の行く先を見極めないことには、日本国への長期的な影響にてついては、正確に予測することは難しいのではないかと思うのです。


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日本経済を襲うコロナ緩和マネー?

2021年04月09日 12時48分28秒 | 日本経済

イギリスの投資ファンドCVCによる東芝に対する買収提案は、日本国内に静かなる衝撃をもたらしております。日本の代表的な企業が外資の手に渡るという事態を前にして、これまで関心の薄かった人々もようやく事の重大さに気が付くに至り、現代の’黒船来航’の観もあります。日立製作所の子会社である日立金属も米投資ファンドのベイン キャピタルと日本系の日本産業パートナーズを軸とする日米ファンド連合への売却も報じられています(日本産業パートナーズには、資本関係はないものの、米コンサルタントであるベイン・アンド・カンパニーも出資…)。

 

 日本国の産業の空洞化は今に始まったわけではなく、シャープや東芝の家電部門をはじめ、日本企業の多くは海外企業によって買収されています。これらの買収劇は、海外の同業者が事業規模の拡大を目的に行ったケースが多いのですが、今般の傾向にあって特徴となるのは、買い手の多くが海外ファンドである点です。

 

 海外投資ファンドとは、しばしば’ハゲタカ・ファンド’とも揶揄されてきたように、’安値で買い叩いて高値で売る’をモットーに活動する、利ザヤ狙いの強欲集団と見なされてきました。’餌食’となる日本企業にとりましては恐るるべき存在なのですが、この時期に至り、海外の投資ファンドの活動が活発化してきている背景には、一体、何があるのでしょうか。

 

 推測されるのは、新型コロナウイルス禍の影響です。目下、国民や事業者等への給付金の支給を含めたコロナ対策費を調達するために、各国政府とも、巨額の国債を発行しています。大規模な財政出動によって赤字国債が積み上りますと、何れの政府も財政危機が懸念されることとなるのですが、同事態を回避するために、各国中央銀行は、公開オペレーションによる量的緩和策を実施しています。つまり、コロナ禍⇒政府の国債発行増額⇒民間金融機関による国債購入⇒中央銀行による民間金融機関からの保有債券・株式の買取⇒民間金融機関へのハイパワード・マネーの供給という回路により、各国の金融界には巨額の緩和マネーが流れ込んでいることとなります。

 

潤沢な投資資金を手にしたのですから、当然に、投資ファンドも勢いづき、海外への投資額を増やそうとすることでしょう。そして、そのターゲットとなるのは、コロナ禍のマイナス影響により経済が弱体化した国にあって、割安感が強まっている企業や事業であり、日本企業もその対象に含まれているものと推測されます。今般、相次ぐ海外ファンドによる日本企業の買収案件は、コロナ禍とそれに付随するコロナ緩和マネーに起因しているのかもしれないのです。

 

そして、投資ファンドが企業の事業再編をも手掛けている点を考慮しますと、事態はさらに深刻です。上述した日本産業パートナーズは、現在にあっては既に全株式を売却しているものの、みずほ証券を中心に設立された投資ファンドであり、主に日本企業を対象に事業再編、否、ソニーのパソコン部門をはじめ大手企業の一部事業を傘下に収めています。同ファンドにおけるベイン・アンド・カンパニーの出資率は不明なのですが、仮に、同社の影響力が強まるとしますと、同ファンドの事業対象も日本国内のみならず、‘グローバル市場’に拡大するかもしれません。

 

そして、イギリスの投資会社であるCVCに至っては、事業再編の対象が‘グローバル市場’であることは容易に想像されます。つまり、一旦、東芝がCVCの傘下に組み込まれれば、東芝は、同ファンドの’グローバルな事業再編’の目的に沿った役割を担わされることになりましょう。つまり、従来の経営組織や事業の継続は難しくなり、最悪の場合には、中国企業に売却される未来が予測されるのです。CVCの背後には、’チャイナ・マネー’、あるいは、’チャイナ利権’が潜んでいるかもしれないのです。

 

日立金属を手放す一方で、1兆円を投じてアメリカのIT企業を買収する日立の方針については、将来性のある分野に事業を絞り込む’選択と集中’を評価する声もあります。しかしながら、海外に支城を広げた結果、本丸が落とされてしまう可能性も否定はできません。過去の事例を見ましても、日本企業による海外企業のM&Aについては失敗例も少なくないからです(東芝の躓きの原因が米ウェスティングハウス社の買収であるように、大枚をはたいて買収しても、最終的には重荷となったり、手放す展開にも…)。安全保障も絡むため、東芝の買収には日本国政府の承認も必要となるそうですが、政府も企業も、そして国民も、長期的かつ多面的な視点から日本国の経済を護る手段を講じてゆくべきではないかと思うのです。ポスト・コロナ、あるいは、ウイズ・コロナの時代が、日本消滅の時代とならないように。


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’上級国民論’より創価学会の方が脅威では?

2021年04月03日 11時16分17秒 | 日本経済

 昨今、’上級国民’という言葉が流行っているそうです。池袋暴走事件の被告が元官僚であったことから、とりわけ注目されるようにもなったのですが、先日、厚生労働省の職員によるマスク無しの宴会に際しても、批判的に使われています。即ち、権力や既得権益側にいる人々を’上級国民’と呼んでいるようなのです。今や日本国民は’上級国民’とそれ以外の’下級国民’に分断されてしまったかのようなのですが、日本国の真の脅威は、別のところにあるように思えます。

 

 ’上級国民’という言葉は、それが特権階級を含意する故に、批判的に使用されています。法の前の平等という、近現代憲法の大原則に反して特定の集団に属する人々を優遇するのですから(平等に法を適用しない…)、この批判点は理に適っています。しかしながら、’上級国民’は具体的に誰なのか、という問いに対しましては、漠然とした答えしか返ってきません。冒頭で触れたように、元官僚、政治家、企業幹部…等々などが含まれているのでしょうが、その線引きは曖昧です。実際の生活ぶりを見ましても、かつての’上流階級’とは違い、一般の人々との間に天と地ほどの違いがあるようにも見えないのです。

 

 その一方で、属性に基づく公的な特別扱い、並びに、他の国民との格差という側面からしますと、日本国にとりましては創価学会の方がよほど脅威です。’上級国民’はイメージ的な括りであってその存在も分散的であり、相互に連携や連帯しているわけでもありません。一方、創価学会員は’指揮命令系統’を有する組織であり、一つの宗教団体、あるいは、教祖の許にあって一致団結しています。しかも、同教団は、政界に公明党を送り込むと共に、’創価官僚’や’創価警察’の存在も指摘されています。言い換えますと、日本国よりも創価学会の利益のために日本国の国権が私物化され、利用されている現状があるのです。しかも、中国との間には密接な繋がりがありますので、尖閣危機の要因も、海保を擁する国土交通大臣職の公明党による独占に求めることができるかもしれません。

 

経済にあっても創価系企業が数多く散見され、しばしば、政界との繋がりを介したこれら企業への利益誘導も見られます。教育現場でも学会員の多くが教職を得ております。日教組はしばしば思想的な偏向や洗脳が批判されますが、’創価教師’についてはこうした指摘がないのは不思議なところなのです。芸能界でも’創価芸能人’しか出演できないともされ、大手メディアも’創価マネー’には抗しようもありません。’創価天皇’の誕生もあり得ないお話ではないのです。書き始めればきりがないのですが、自由で民主的な日本国にあって’総体革命’を目指していたというのですから、その最終目的は、日本国を中国のような一つのイデオロギー(創価学会の場合には、教祖独裁主義や拝金主義的教義?)の下で国民が監視される全体主義国家に変えることなのでしょう(’総体’とは、全体主義の意味では…)。

 

こうした創価学会の’総体的な脅威’に注目すれば、’上級国民’説は、意図的ではないにせよ、真の脅威から国民の目を逸らそうとする’目くらまし’のようにも思えてきます。ヨーロッパや中国には秘密結社文化がありますが、日本国民には馴染みがないために、兎角にこうした組織に対して無頓着になりがちです。創価学会につきましても、強い排他性と秘密主義が見られ、誰が学会員であるのか、一般の人々には殆ど分かりません(創価学会員以外の人々は平和会館に立ち入ることもできなければ、内部で何が行われているのかも分からない…)。しかしながら、ウイグル人弾圧問題で明らかとなったように、創価学会は、もはやその本性、すなわち、全体主義志向と海外勢力との結託を隠さなくなりました(拝金主義を中国共産党とも共有…)。同組織の背後には、古代にまで遡る世界レベルでの歴史的な経緯があるのでしょうが、今日、日本国民は、創価学会問題について真剣に対策を講じるべき時に至っているように思えます。何時の間にか創価学会が’中国共産党’に衣替えをし、日本国もまた、自由も民主主義も、そして法の支配もなき’一党独裁体制’に変貌しかねないのですから。

 

お知らせ

 

 本日より、ブログ記事の更新は、月曜日から金曜日までの平日のみといたしたく存じます。リモート講義用のビデオ作成に時間を要しますこと、並びに、読書といったインプットの時間や休息の時間も必要なのではないかと考えたからでございます。急いで書かなければならないテーマがあります時には、土日祝日でも記事を更新する予定でおりますので、どうぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。


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テレワークが問いかける‘職住の境界線’―‘仕事部屋’の出現?

2020年06月19日 11時19分55秒 | 日本経済

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、企業をはじめ自宅での勤務、即ち、テレワークという勤務形態が急速に広がることとなりました。満員電車における感染を防止するのみならず、毎日の通勤に疲れる果てることもなくなりますので、一先ずは、テレワーク導入に好意的な意見が多いようです。その一方で、テレワークは、職住の境に関する重要な問題を問いかけているように思えます。

 ‘職住の境界線’とは、‘公私’、あるいは、‘内と外’の区別と言い換えることができるかもしれません。日本国では、古来、公私の区別を重んじる傾向が強く、私事を公事に持ち込むことは固く戒められてきました。とりわけ近代以降にあって、雇用契約による勤務形態が広がり、国民の多くが自宅から職場へと通うようになりますと、‘内と外’の峻別する感覚は広く国民に共有されるところとなったのです。つまり、日本国では、職場と家庭は、‘別空間’であったのです。例えば、以前、子供を職場に連れて行く‘子連れ出勤’が話題となり、政府もその導入を後押ししてきたのですが、アンケート調査の結果では、凡そ8割が否定的な回答を寄せたそうです。

ところが、今般の新型コロナウイルス禍は、一瞬のうちにこの職住の境を消し去ってしましました。寛ぎの場であるはずの家庭が、突然、ビジネス用語も飛び交う職場になってしまったのです。テレワークの形態は、コロナ禍が収束した後も継続する方針の企業も少なくないそうですが、職住の境界が融解してしまうとなりますと、今後、どのような変化が起きてくるのでしょうか。

職場化した家庭内では、リビングや居間にあって家族全員がパソコンを前にして座り、大人たちは画面越しに仕事をこなし、子供たちは遠隔授業で学習する、といった光景が広がるのかもしれません。しかしながら、テレ会議などでは音声を発する必要もありますし、高い集中力を維持しなければこなせない仕事もありましょう。子供たちは、子供部屋があれば自らの空間を確保することができますが、問題は、大人たちです。今日の標準的な家屋の間取りでは、子供部屋ならぬ‘大人部屋’は想定されていないのですから。

そこで、テレワークにあっても家庭内で仕事に集中できるように、‘屋内テント’なる製品も販売されているとも報じられています。仮に、今後、テレワークが勤務形態として一般化するとすれば、予測されるのは、‘大人部屋’を備えた間取りの出現です。この点、思い起こされますのは、‘書斎’という存在です。現在では、書斎を有する家屋は少ないのですが、家庭にあっても仕事をする、あるいは、家庭に仕事を持ち込む場合を想定しての書斎という部屋があります。家庭にあっても公私を区別するために工夫でもあるのですが、コロナ禍による家庭の職場化は、書斎のような大人用の仕事部屋の需要を高めるのではないかと思うのです。

書斎が比較的珍しくなかった時代は、一軒当たりの敷地面積も比較的広く、家屋の間取りにも余裕のあった時代です。また、テレワークの普及が進む欧米諸国のように、人々が客間まで備えているような広い住宅に住んでいるわけでもありません。しかも、かつての書斎は‘一家の大黒柱’のために設けられていましたが、共働き世帯が一般化した今日では、仕事部屋も二人分用意する必要もありましょう。今日の日本国の住宅事情に鑑みますと、‘仕事部屋’を設けようとしますと、日本国の家屋は、家族の一人一人に小部屋を割り当てた、細分化された空間となるかもしれないのです(もっとも、仮に、家族全員に個室を設けるならば、人口減少は必ずしもマイナス要因とはならない…)。

個人によって性格は異なりますので、内向的な性格であれば、むしろ、狭い閉鎖空間で仕事に集中した方がオフィスといった開放空間よりも能力を発揮するかもしれませんし、あるいは、逆に外交的な性格であれば、閉塞感に苛まされて鬱状態となるかもしれません。日本人は比較的内向性が強いとされていますので、こうした細分化傾向は歓迎されるかもしれないのですが、ポスト・コロナにあってテレワークへの全面的な移行を既定路線とするよりも、個々人の性格や志向、あるいは、家屋事情に合わせた、より柔軟な‘職場’の選択が可能な勤務形態を目指すべきではないかと思うのです。

 


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「ジョブ型」は企業の生命力を奪うのでは?

2020年06月18日 12時40分36秒 | 日本経済

 本日6月18日の日経新聞朝刊の一面に、新型コロナウイルスの感染対策として導入が広がったテレワークと関係づけながら、「ジョブ型」と呼ばれる社員評価制度に関する記事が掲載されておりました。「ジョブ型」とは、職務内容、並びに、それに必要となる能力を管理職の社員に事前に提示し、その達成度を基準として報酬を決定するというものです。近年、推奨されてきた年功序列主義から成果主義への転換の一環として理解されるのですが、この方式、どこか社会・共産主義を思い起こさせるのです。そしてこの問題は、‘人にとって働くこととは何か’という根本的な問題をも問いかけているように思えます。

「ジョブ型」とは、社員の能力や成果が報酬にストレートに反映されるのですから、勤労意欲を引き出しこそすれ、社会・共産主義批判は的外れのように聞こえることでしょう。労働と報酬との間の比例性のみに注目すれば、フェアな関係が成立しているようにも見受けられます。しかしながら、それ以前の問題、即ち、職務内容と要求能力の側面に視点を移しますと、社員は、経営戦略を立案し、それに沿って人員を配置する権限を有する企業中枢側の計画に従うだけの存在ということになります。社員は組織の歯車の一つに過ぎず、企業中枢の関心は、‘如何にして組織全体が円滑に動かし、自らの目的を社員を以って達成させるのか’ということにしかないのです。成果主義の導入も、歯車を円滑に動かすための誘導装置なのでしょうが、この仕組み、政府が排他的に経営計画を決定し、その命令の下で国民が労働を強いられる社会・共産主義の統制経済と似通っているのです。

唯物論よろしく、人を機械の一部と見なすのですから、そこには、かつての日本企業に見られた村落共同体的な温かみは見当たりません。職場とは、個々人がノルマをこなすだけの場となり、横の繋がりも断ち切られてゆくことでしょう。そして、AIやテレワークの普及は、この傾向にさらに拍車をかけるかもしれません。何故ならば、社員各自の評価はAIに任せれば一瞬のうちに済みますし、テレワークがグローバルレベルで導入されれば、空間の制約を受けることなく、全世界から自らの計画に最も適した人材を採用できるからです。かつて、ローマ帝国は、‘分割して統治せよ’という手法を編み出し、支配地が結託してローマに抵抗することを阻止しようとしましたが、今日の‘企業統治’は、社員を全世界に分散雇用することで、ますます企業の経営権を専有する中枢部による‘独裁体制’を強めるかもしれないのです。因みに、社会・共産主義国にあっても、‘労働者が団結する’ことは、あってはならないことでした(イデオロギーにおいて矛盾する…)。

近年、グローバリズムにも逆風が吹くようになり、17世紀以来の資本主義も修正を迫られております。多様なステークホルダーの利益を考慮する方向へと向かってはおりますが、日本企業における「ジョブ型」の導入拡大は、この方向性にも逆行しているように思えます。そして何よりも、「ジョブ型」という経営者と個々の社員が経て方向にのみ結びつくような雇用形態は、企業としての生命力を失わせてしまうことでしょう。行き着く先は、かつての社会・共産主義諸国のような冷淡な官僚主義の蔓延であり、組織自体が硬直化してしまうかもしれないのです。デジタル化社会は、多様な人々の意見がぶつかり合い、そこから新たなアイディア、さらには、イノヴェーションが次から次へと生まれ出るような自由、かつ、活気にあふれた社会としてその未来像が描かれています。しかしながら、「ジョブ型」の仕組みにあっては、個々の社員の豊かな発想が事業に生かされる余地は見当たらず(発想のユニークさを求めるならば、職務内容や能力の事前設定は、むしろ枠を嵌めてしまうこととなる…)、企業中枢部を中心に個々の社員が同心円状に直接的に繋がるか、あるいは、中間管理が‘官僚化’する企業形態となりかねないのです。

年功序列型への完全なる回帰が100%正しいとは言わないまでも、「ジョブ型」への移行は、人々の根源的な働く意欲や生き甲斐を喪失させるかもしれず、この意味においても、社会・共産主義体制と共通しています(もっとも、ソ連邦にあって軍事部門のみが突出したように、上意下達の徹底による目的達成には長けているかもしれない…)。そして、ソ連邦が崩壊したように、やがては救い難い停滞に沈み、同モデルは歴史から消え去ってゆくかもしれないのです。

見方によっては「ジョブ型」の‘ジョブ’とは、予め決められた仕事を上からの指令通りに実行すること、即ち、人のロボット化ともなりかねないのですから、ITやAIの普及が予測される今日であればこそ、企業は、人に相応しい組織造りに努めるべきではないかと思うのです。新たな企業モデルを世に問う起業が待たれるところですし、既存企業組織にあっても、社員の参加意識を高めるための‘自由化’や‘民主化’が必要なのかもしれません。

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ヤフー・LINE統合で日本市場は踏み台に?

2019年11月21日 16時36分22秒 | 日本経済
検索大手のヤフーとメッセージアプリをほぼ独占しているLINEとの統合案は、両社トップによる公式発表により、現実味を帯びてきました。同統合案の背景にはソフトバンク・グループの世界戦略も控えているため、統合案は複雑さを増しています。こうした中、日本国の公正取引委員会は、一般論として断った上で、同統合案の審査に際して海外市場をも勘案するとする方針を示しました。それでは、海外市場の勘案とは、一体、何を意味するのでしょうか。

 ヤフーとLINEの両業者は同一の事業を営み、かつ、ライバル関係にある同業者ではなく、事業分野が異なる異業者です。しかも、IT産業は誕生してから日が浅く、シェア・ビジネスなどの様々な新しいビジネスモデルも登場してきています。黎明期にある規模の小さなスタートアップ企業の買収等に対しては競争法の規制も弱いため、IT大手は、その莫大な資金力を以って様々な新種の事業分野に進出することができたのです。すなわち、デジタル社会の到来によって将来的に有望となる様々な事業を、IT大手が既存のビジネスを潰しながら独占してしまう可能性があり、先進諸国では既にこの問題が顕在化しているのです(デジタル時代の‘財閥化’…)。日本国内では、中国にWeChatを基盤に幅広い事業を展開するテンセント等が存在するため、日本国にも“すわ‘スーパー・アプリ’の登場か”と騒がれていますが、アメリカで活発になっているGAFA分割論も、IT大手による経済の囲い込み、否、経済支配に対する懸念がその根底にあり、自由主義国の流れは集中に対する規制強化に傾いています。

その一方で、両者とも、IT大手にしてプラットフォーマーという共通点があり、両者が構築したプラットフォームをインフラに喩えれば、共にユーザーのデータ収集が可能な同業者とする見立てもできなくもありません(両者の統合により、個人情報を含むデータ収集力が格段にアップ…)。同統合のメリットとして、両者がスマホ決済の分野での協力も指摘されていますが、プラットフォームの規模拡大は、他の‘スーパー・アプリ’化を目指すプラットフォーマーのみならず、既存の事業者、そして、アプリの使用により情報が筒抜けになりかねない個人ユーザーにとりましても脅威となるのです。

以上に述べたように同統合によるリスクは、従来型の単なる市場のシェアの問題ではなく、事業範囲の拡大とデータ収集を基盤となるプラットフォーム規模の拡大との相乗作用による経済支配ということになるのですが、ソフトバンク・グループの世界戦略としては、GAFAに匹敵するようなIT巨人をアジアからも誕生させる、ということのようです。公正取引委員会がこの主張をそのまま認めますと、同統合案が審査を通過する可能性は高いと言えましょう。何故ならば、グローバル市場を判断基準とすれば、たとえ両者が統合したとしも‘弱小連合’に過ぎないからです。同グループが、殊更にGAFAや中国IT大手による独占状態を打ち破る対抗馬としての姿勢をアピールするのは、グローバル市場における競争促進効果を訴えることで自らの統合案を正当化したいのでしょう。しかしながら、この説明には注意が必要です。

注意を払うべき理由は、第1に、メッセージアプリ事業には、この説明は通じ難い点です。プラットフォーム型の事業は、消費者のスマートフォンやPCを‘端末’とする広域的なネットワークによって構成されています。ところが、メッセージアプリ事業については言語による制約がありますので、ユーザー間のコミュニケーションを介する国境を越えた事業展開は容易ではないのです。LINEもタイにおいては相当数のユーザーを獲得しているそうですが、他の諸国では伸び悩んでいるそうです。つまり、表向きは海外展開を掲げながら、現実には、LINEがメッセージアプリ事業をほぼ独占している日本国においてこそ、‘スーパー・アプリ’競争に際して、圧倒的に優位なポジションを占める可能性が高いのです(他の事業者は、メッセージアプリのプラットフォームを保有していない…)。

第2の理由は、ヤフーとLINEの統合は、日本国の国益に適うとは言い難い点です。かつて、日本国では、国際競争力の向上の観点から、当事企業が両社とも鉄鋼大手でありながら新日鉄と住友金属との合併を認めました。グローバル時代における最初の大型合併承認の事例となったのですが、同判断には、グローバル時代を生き抜く規模を備えた‘日の丸企業’の誕生への期待があったと指摘されています。ところが、ヤフーとLINEの合併によって誕生する新会社の資本関係は、ソフトバンク・グループが親会社となるとはいえ、同グループの決定権を握る孫正義氏は韓国系ですし、かつ、LINEの親会社である韓国のネイバーが50%を出資するそうです。つまり、‘日の丸企業’というよりも‘大極旗企業’の色合いが強く、むしろ、LINEの利用者が8000万人に達している現状では、韓国の国益のために統合を認めるに近いのです。韓国が国策として自国市場を基盤としてグローバル市場に打って出るならば分かるのですが、これでは、日本市場が踏み台にされている感があります。米中のIT大手に対抗するために、今般の合併を認めたところ、別の外国企業、即ち、韓国系企業の日本経済への支配力が強まるのであれば、どこの国の利益ための政策であったのか、誰もが疑問に思うことでしょう。

 第3に指摘すべきは、日本国内での競争消滅のリスクです。ユーザーのスマートフォンやPCがネットワークの端末となるプラットフォーム型の事業は、プラットフォームの規模に比例して利便性も高くなるのですが、米中のIT大手に対する対抗勢力の結成を理由に同案が認められれば、今後とも、同様の理由によるIT企業間の合併案を承認せざるを得なくなりましょう。しかしながら、日本国内の企業規模からしますと、全てのIT企業が合併しても米中のIT巨大企業には到底及びません。結果として、日本国内での企業間競争が消滅する、あるいは、韓国系が認められるのであるならば、他の国の企業によって買収される可能性も否定はできないのです。

 以上に主要な問題点を述べてきましたが、これらの諸点からしますと、ヤフーとLINEとの統合計画には慎重にならざるを得ないように思えます(たとえ承認されたとしても、厳しい条件や制約が付されるかもしれない…)。果たして公正取引委員会は、どのように判断されるのでしょうか。

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ヤフー・LINE統合問題-デジタル時代は‘財閥支配’の時代?

2019年11月15日 18時30分00秒 | 日本経済
先日、ネット検索大手の一角を成すヤフーと日本国内のメッセージアプリ事業をほぼ独占しているLINEとの統合案が公表されました。統合の目的としては金融サービス部門での投資の効率化等が挙げられていますが、この統合案、スムースに実現するとは思えないのです。

 グローバル化の時代とは、民営化の時代であると共にデジタル化の時代でもありました。これらの3つの新しい波は一体化するかのように全世界を覆ったのですが、それは同時に、財閥化の時代でもあるのかもしれません。日本国では、戦後にGHQの手によって財閥解体がなされ、経済は‘民主化’されています。こうした経緯もあって、多くの人々は、集権的な財閥は過去の遺物であり、来るべき未来には、より自由で分散的であり、消費者や企業を含むあらゆる経済主体が伸び伸びと活動し得る経済ヴィジョンを思い描いていたことでしょう。そして、グローバリズムにこの未来の実現を託していたのです。

 しかしながら、しばしば理想と現実とは違うものです。否、メビウスの輪の如くに逆になることもあります。この点、近年の状況を観察しておりますと、グローバル化と共に分散化よりも集中化の方が遥かに高スピードで進展しており、新たな財閥が登場してきているのです。例えば、フェイスブックの行動を見ましても、デジタル通貨の発行を目論んだリブラ構想でも知られるように、本業のSNS事業で構築したプラットフォームを基盤として、他の事業へも幅広く進出しようとしています。一方、中国でも「スーパーアプリ」が急速な成長を見せており、テンセントの事業は、対話アプリ、ネット通販、決裁、動画配信、ゲームといったあらゆる分野に亘ります。

 こうしたプラットフォーマーの財閥化に関しては、データの独占問題もあり、近年、批判が頓に高まっています。アメリカでは、既に巨大IT企業であるGAFAに対する分割論も大統領選挙の争点に数えられ、日常的に利用される故に国民の関心が高いのです。競争法の世界では、一つ、あるいは、少数の企業が複数の分野に亘って広く事業を展開する‘財閥’の形態は、経済を支配し、競争を阻害する‘集中’として規制の対象となってきました(もっとも、日本国では財閥を解体した当のアメリカでは、既存の財閥に配慮して集中規制が緩いという問題もあったのですが…)。プラットフォーマーの強みを活かして事業分野を拡大し、そこから収集される様々なデータをも囲い込もうとする企業戦略は、公正公平であるべき競争において他の企業や起業家を不利な立場に置きますし、消費者を含む取引相手にも不利益を与えかねないからです。先日、ソフトバンクの孫正義氏が講演会においてデジタル社会は‘勝者総取り’と述べていましたが、実のところ、勝者による独り占めは競争法上の違法行為なのです。

かくして、少なくとも自由主義国における今日の潮流は、巨大IT企業に対する規制強化の方向性を示しているのですが、今般のヤフーとLINEの統合は、許されるのでしょうか。同統合には、アメリカがファウィエを排除した理由と同様に、LINE側が韓国企業であるネイバーの子会社であり、ソフトバンクグループのトップである孫氏も韓国系であることから、情報収集・管理に関する安全保障上の問題点もないわけではありません(ネイバーは反日を国是とする韓国政府に対して情報提供義務を負っている…)。政治的問題に加えて、やはり競争法上の集中が問題となる可能性は低くはありません。日本国でも持ち株会社が解禁され、持株会社が子会社を束ねる企業グループが多数出現しましたが、ソフトバンクグループは、携帯電話等の電気通信分野に加え、太陽光発電等の電力事業、投資事業など、企業買収を繰り返すことで既に巨大な‘財閥’と化しています(‘孫財閥’?)。LINEとの統合が実現すれば、SNSのプラットフォーム諸共LINE傘下の事業をも吸収することになりますので、経済支配力は一段と増すことになりましょう。

最近、日本国の公正取引委員会は、企業規模を主たる基準とする従来型の規制では十分には対応できないとして、データの価値を考慮するなど等の新たに審査指針を示し、デジタル・プラットフォーマーに対する審査を強化する方向性を示しております。事実上のソフトバンクグループによる買収を意味するヤフーとLINEとの統合案は(共同出資の新会社はソフトバンクの子会社に?)、金融サービス事業におけるライバル排除効果のみならず、経済支配を意味する集中問題をも含みますので、同委員会が、すんなりと承認するとは思えないのです。グローバル化がデジタルの世界における財閥支配を帰結するとしますと、警戒論が自ずと高まるのも無理もないのではないかと思うのです。

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最低賃金全国一律の効果はプラスかマイナスか?

2019年05月07日 17時59分52秒 | 日本経済
報道に拠りますと、厚労省の幹部が自民党議員連盟会合において業種別に最低賃金を全国一律化する考えを示したそうです。おそらく、ここ数年来、地方経済の活性化が叫ばれながら人口減やシャッター街の増加に歯止めがかからない現状に鑑みて、地方の賃金レベルを上げればこれらの傾向を止められると考えたからなのでしょう。しかしながら、今日における経済のグローバル化現象を考慮しますと、必ずしも同省の思惑通りには政策効果が現れない恐れもあります。

 首都圏等の都市部と比較しますと地方の物価水準は低く、この状況下にあって最低賃金を上げますと、地方への移住を考える都会の住民も多数現れるかもしれません。賃金が同一であれば、食品等の価格が安い地方で生活する方が豊かになるからです。この点に関しては、最低賃金の一律化は地方移住へのインセンティブを与えることでしょう。

 その一方で、企業の経営者の視線から見ますと、最低賃金の一律化は全く逆の効果、すなわち、地方への拠点の移転を抑制してしまう効果をもたらすように思えます。そもそも、地方経済の衰退の原因の一つとして上がられているのは、生産拠点の海外移転です。かつては都市部と比べて賃金水準が低いことを理由として、日本企業の多くが生産拠点等を地方に設けていました。企業の地方進出が地方経済を支え、かつ、全国レベルで日本経済を活性化させるという好循環が成り立っていたのです。しかしながら、グローバル化の時代を迎えますと、国内の生産拠点を維持するよりも、中国やその他の新興国に移転した方が人件費を低く押させることができるため、企業は、国内の地方から海外へと生産拠点を移転させたのです。

 こうした地方経済の衰退原因が生産拠点の移転にあった点を考慮しますと、最低賃金の全国一律化は、この傾向に拍車をかける可能性があります。各地方自治体とも、企業誘致に熱心に取り組んでいますが、地方における賃金レベルの上昇は、誘致にはマイナスの方向に作用します。すなわち、たとえ法定の賃金が数字の上で上がっても、雇用の場が確保される、あるいは、増加しなければ、政策効果としては意味がないこととなるのです。最悪の場合には、地方からのさらなる企業撤退と海外移転を促進しかねないのです。

 同政策は、上記の点の他にも様々な角度からその実現が危ぶまれておりますが、もしかしますと、真の意図は別のところにあるかもしれません。事実上の移民政策が4月1日から始まっていますが、本当のところは、外国人労働者を地方に誘導するための政策である可能性も否定はできないのです。政府は、都市部への外国人労働者の集中を避けるために、地方への分散移住をさかんに訴えていたからです。最近、政府が推進する政策には、表向きの理由とは異なり、国民の利益に反するケースが多々見受けられますが、最低賃金の全国一律化もまた、疑って然るべき政策のように思えるのです。

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G5が明かす過酷なグローバル時代の到来-策なき日本国政府?

2019年04月05日 13時43分22秒 | 日本経済
‘適者生存’はダーウィンの進化論におけるセントラルドグマですが、ある特定の環境において最もそれに適応した者が生き残るのは、あらゆる分野で通用する自然の理であるかもしれません。この観点から経済を眺めて見ますと、劇的な環境変化の末に現れつつあるグローバル市場にあっても、同環境において自らの有利性を発揮できる適者と不利な境遇に置かれる不適者の両者が生じるのは当然とも言えましょう。

 一般的には、グローバル時代の到来は、全ての国、企業、そして個人に対してチャンスを与える人類の理想郷として宣伝されています。しかしながら、現実には、チャンスは必ずしも全てに対して公平ではありませんし、‘適者生存’の結果として絶滅、即ち、淘汰される危機に直面する者もあり、結果の平等も望むべくもありません。グローバリズムの進展とともに格差が拡大したのも、環境の変化という要因によって説明できなくもないのです。もっとも、グローバリズムの効用として途上国における貧困の改善がしばしば指摘されますが、現象としてはファクトであっても、富裕層50%:先進国中間層45%:途上国貧困層0%の富の配分図が、富裕層90%:先進国中間層6%:途上国貧困層4%となったのであれば、全体を見ればやはり格差は拡大したこととなります。

 それでは、グローバル時代においては、どのような要素を有していれば‘適者’となれるのでしょうか。それは、言うまでもなく‘規模’です。グローバル市場とは、人類が到達したこれ以上の大きさはない究極の市場であり、そこでは、人口、資金、経営組織、人材…等において規模が大きければ大きい程に有利となるのです。規模を基準とすれば、13億の人口を擁する中国や資金力に優る米国にとりましては、グローバル市場は最適の環境とも言えるのです。

この点から見れば、日本国政府が、グローバル市場の実現に協力すべく自国を無防備に開放する政策は、規模に劣る日本企業にとりましては、過酷な環境に放り出されるに等しくなります。言い換えますと、日本国政府は、自国企業にとりまして生存が難しい環境を自ら造りだしていることを意味します。実際に、全世界レベルで導入が予定されているG5の政府調達の分野では、日本の通信機器メーカーは、絶滅寸前の状態にあります。政府の国家戦略の下で特許の大半を有する中国のメーカー、5Gの中核技術を押さえる米国企業、そして、ノキアやサムスンといった企業がシェアを寡占すると予測されており、日本の通信機器メーカーは、今や風前の灯なのです。

そして、規模に加えて、グローバル市場において優位性をもたらすもう一つ要素は‘スピード’です。‘スピード’にあっても‘規模’が関係する場合もありますが、特に時空の占有を伴うインフラ事業やプラットフォーム型のビジネスでは、‘先手必勝’の側面があります。また、新ビジネスはいわばフロンティアの開拓であるため、各国とも政府の規制がほとんどなく、一気に事業を広げるチャンスにも恵まれています。知的財産権の独占性も最大限に活かされるのであり、中国企業が、5Gの導入を機にグローバル・スタンダードの設定者の地位に上り詰めたのも、それが新規導入というフロンティアの分野であったからです。日本国政府は、スピード感をもった改革を訴えていますが、実のところ、この方針は、逆に自国経済の衰退を速めている可能性さえあるのです。

‘規模’と‘スピード’を兼ね備えれば鬼に金棒であり、ここに、グローバル時代における‘適者’の条件が見えてきます。そして、この条件を備えているのは、米中企業、並びに、極少数のその他のグローバル企業となるのですが、これまでの日本国政府の政策は、自国企業が敗者となることを忘却し、‘適者’のために立案されてきたように思えます。仮に、G5の分野において日本企業が‘絶滅’するならば、米中企業に対して支払われる特許の使用料だけでも膨大となり、エネルギー資源と同様に、構造的な知財依存体質が国際収支の悪化を招くかもしれません。中規模国家における成功例であるノキアやサムスンと比較しますと(ノキアは欧州市場を背景に独仏等の大手企業を買収し、サムスンには政府や国際金融の支援があった…)、技術立国であった日本国がG5においてグローバル市場から姿を消すとしますと、これは、日本国政府の産業政策上の失策であったとも言えるのではないでしょうか。かつて、保護主義の根拠として幼稚産業の保護が挙げられてきましたが、今日のIT大手がグローバル市場を瞬時に席巻してしまう状況を見ますと、この説にも一理があるように思えます。

上記の諸点を考慮すれば、日本国政府が今後において目指すべき方向性とは、徒に自己を不利にする極端なグローバリズムに同調するのではなく、内外両面において自国企業を保護・強化する必要があるように思えます。基本的には、(1)外部環境への働きかけにより、日本企業のサバイバル環境を整えること(この点については、他の中小諸国と連携できる…)、(2)独自技術を育成すべく、国家レベルでの情報・通信インフラに関する研究・開発体制を再構築する(3)自国の5G関連の政府調達に際しては日本企業を優先する(情報・通信分野であるために、安全保障を理由に認められる可能性がある…)(4)ポスト5Gを睨んだ新たな分散型システムの開発を促進する…といった方策が考えられます。不適者が苦境にあって適性を獲得してゆくことで生物に多様性がもたらされ、高い知性を有する人類をも誕生させたのであるならば、日本国もまた座して‘淘汰’を待つのではなく、その知恵を以って難局を乗り越えるべきではないかと思うのです。

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