万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

マッチポンプな自公政権―中国に対日攻撃の口実を与えた罪

2022年11月17日 11時19分43秒 | 日本政治
 先日、11月13日、岸田首相は、カンボジアの首都プノンペンで開催された東アジアサミットにおいて、「中国は日本の主権を侵害している」として名指しで批判したと報じられています。尖閣諸島並びに東シナ海のガス田問題を念頭に置いた発言であり、同首相は、頓に対中強攻策への転換姿勢を鮮明化しています。その背景として、近年の米中対立の先鋭化も指摘されるのですが、そもそも今日の脅威を造り出した責任は自公政権にあるのではないかと思うのです。

 故安部元首相の功績としてしばしば語られるのは、「自由で開かれたインド・太平洋構想」を提唱し、中国封じ込め政策の基本的な枠組みを構築したことです。このため、安倍政権については、国葬に際してもアピールされたように対中強硬派としてのイメージが強調されています。

しかしながら、その反面、連立政権を組む公明党が親中派であり、かつ、自民党内にも親中派の二階元幹事長や中国利権を有する政治家の影響力が伸張したこともあり、自公政権は、中国を利する政策を遂行してきたことも事実です。その最たる政策が中国に対する日本市場の開放であり、とりわけ、中国観光客の積極的な誘致のみならず、開放の対象は、製造業分野、情報通信分野、サービス分野に留まらず、農業分野にまで及んだのです。もちろん、金融市場並びに不動産市場も開放されており、中国資本による買収や買い取りにより、北海道の水源地買収問題など、遂に‘乗っ取り’問題まで発生する事態に至りました。中国では日本メディア閉め出されている一方で、本日も、当然のことのように新華社通信発のニュースがウェブに流されています。

しかも、中国からの移民増加問題は、安全保障にも直結します。第二次安倍政権にあって、日本国政府は、国民に是非を問うこともなく、移民政策への歴史的転換とも称された事実上の労働市場の開放政策を決断しましたが、それ以前から、中国系住民の数は増加傾向にありました。おそらく、中国残留孤児の帰還事業が転機となったのでしょう。この頃から、日本国内では在日中国人が増加の一途を辿り、今では80万人迫っています。日本国籍取得者も加えますと、さらに中国系人口の数は多いことでしょう。

かくして中国人コミュニティーが日本国内で形成されると共に、社会各層にも浸透しているのですが、移民増加が重大な問題であることは、第一に、今般のウクライナ紛争が住民の人口構成問題に起因しており、外国からの軍事介入を招いたことに明示されています。ロシアは、ロシア系住民の保護を口実として、内戦状態にあったウクライナに軍事介入しているからです。日本国内にありましても、ある一部の地域において中国人の人口比率が上昇したり、あるいは、中国人が日本人から‘迫害’を受けたと訴えて、本国に支援を求めるケースもあり得ることです。自民党の中には、対中強硬派も見られますが、中国に対して軍事介入の口実を与えるための扇動である可能性もあり、この点は、注意を要しましょう。

第二に、これも、しばしば指摘されることですが、中国は「国防動員法」を制定していますので、尖閣諸島問題等を発端として対日攻撃が行なわれた場合、日本国内において大量の中国人民兵が出現して蜂起する、あるいは、工作員が動き出す事態も想定されます。中国は、超限戦を公言しておりますので、日本国内の経済や社会を麻痺させることを目的に、テロを含む様々な攻撃や破壊活動を躊躇なく実行することでしょう。この側面は、台湾有事に際してもあり得るリスクであり、同法の発動によって米軍基地の無力化を狙うかもしれません。

 以上に述べたように、中国によって内外から脅かされるという日本国の現状は、自公政権が招いたといっても過言ではありません。中国の軍事並びに経済的覇権の確立を暗に助け、かつ、対日攻撃の口実を与える一方で、その脅威が国民の目に見える段階に至ると、勇ましく反中政策をアピールするのですから。これでは、はマッチポンプなのではないかと疑われても仕方がありません。世界権力の計画に基づく意図的なものであったのかどうかは分かりませんが、故安部元首相並びに自民党と世界平和統一家庭連合(元統一教会)との密接な関係も、同疑惑を深めています。

これまで自公政権を支持してきた保守派の人々は、この事態をどのように捉えているのでしょうか。また、保守政党を自認してきた自民党、並びに、連立相手である公明党は、国民に対して何と申し開きをするのでしょうか(少なくない国民が、‘偽旗作戦’に騙されたと感じている・・・)。少なくとも、保守政党といえども全幅の信頼を置くことはできないのですから、日本国は、煽られないように気をつけながら、民間を含めたより冷静な中国依存からの脱却、並びに、中国離れを試みるべきではないかと思うのです。

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東京都火葬場の中国系企業独占は独禁法違反では?

2022年10月14日 12時31分26秒 | 日本政治
 人は必ず死を迎えますので、誰もが火葬や埋葬を避けて通ることができません。このため、公益性が高く、いわば、社会インフラと言っても過言ではないのですが、東京都では、目下、思わぬ事態が発生しているそうです。それは、9カ所ある火葬場のうちの6カ所が、中国系資本の手に握られてしまったというものです。しかも、全9カ所のうちの7カ所が民営であり、そのうちの6カ所というのですから、民営部分がほぼ中国系に独占された状況となるのです。

 それでは、何故、このような事態が発生してしまったのでしょうか。中国系企業の独占は、日本企業の株式取得によって生じています。六カ所の火葬場は、これまで広済堂ホールディングスを親会社とする東京博善という会社によって運営されてきました。‘初代東京博善’は、明治20年に民間の実業家によって設立されものの大正期に一端解散となり、再出発後は僧侶による経営が戦争を挟んでおよそ60年間続いたそうです(株主の多くも寺院や僧侶・・・)。ところが、1983年には広済堂(旧名廣済堂)のオーナーの櫻井氏が株式を取得して筆頭株主となり、1994年には大規模な増資を経て東京博善を子会社化します。桜井氏の死後は廣済堂の経営は傾くものの、独占的事業による優良企業であったことから、ここに同社株の買い取り合戦が始まります。同合戦劇の舞台を見ますと、三井住友銀行、米ベインキャピタル系ファンド、村上ファンド、麻生グループなど、そうそうたる事業者の名が連なっています(なお、2019年には東京博善は完全子会社化される・・・)。

麻生グループが一歩リードする中、2019年7月に、一族から買い受けて同社株の12%を保有していた「エイチ・アイ・エス」澤田秀雄会長は、羅怡文氏をトップとするラオックス・グループの傘下にある人材派遣会社「グローバルワーカー派遣」に保有株のすべてを売却します。その後、同社は、麻生グループが手放した株を買い取るなど買い増しを続け、2022年1月には、広済堂グループが羅氏関連の投資会社に対して第三者割当増資を実施したことにより、遂に保有率は40%を越えるに至るのです。中国企業による買収の背景には、同社が有する高い火葬技術の獲得にあるとする指摘もあります(人口問題を抱える中国共産党は、古来の土葬から火葬へと転換を図る方針を示している・・・)。

 かくして、東京都の火葬場全体の凡そ3分の2、民間部門の7分の6が中国系企業によって占められることとなったのですが、問題はこれに留まりません。東京博善は、今年の7月から自らエンディング(葬儀)事業にも乗り出すこととなったからです。新規参入の理由は、火葬場の経営よりも葬儀事業の方が利益率が高いからなそうです。エンディング事業への参入は2019年における完全子会社化に際して既に決定されていたのですが、これに伴い、同社は、他の葬儀社に対して、'東京博善の斎場をウェブでの宣伝に用いることを禁じた'というのです。この結果、他の葬儀社の売り上げが激減するという危機を招いているのです。以上の経緯から、幾つかの問題点が見えてきます。

第1に、社会インフラとも言える火葬業は民営でもよいのか、という問題があります。全国の火葬場の99%は公営であり、東京都の民営維持には有力政治家や政治的利権の介在も指摘されています。火葬事業の高い公益性を考慮しますと、公営化した方が望ましいかもしれません。

第2に、民営事業には事業者間において競争が働くという利点がありますが、民間火葬市場が東京博善によって独占されている現状では、競争のメカニズムは殆ど働いていません。市場の占有率からしますと、市場を独占している東京博善は、独占禁止法に違反している疑いがあるのです。しかも、上述したように、東京博善は、自らエンディング事業を手がけ、かつ、競争関係にある他の事業者に対して不利な条件を課しています。これは、本来、不可欠施設(火葬場)を保有する事業者による、ライバル企業に対する排除行為に当たります(プラットフォームを有するIT大手による自社サービス事業の優遇による排除行為と同じ・・・)。つまり、東京博善は、水平並びに垂直の両者において、私的独占行為並びに優越的地位の濫用が問われることとなりましょう。

そして、第3に指摘すべきは、外資によるインフラ事業の独占問題です。テレビ局等のマスメディアにありましても、法律によって株式保有率を制限する外資規制がかけられています。東京都のような民間火葬業者の存在自体が極めて例外的な事例であるために法規制が遅れた側面もあるのでしょうが、日本国民、特に東京都民の多くは、中国資本による‘乗っ取り’を防ぐ法的措置を求めているのではないでしょうか。

第1と第3については具体的な立法措置を講じるには時間がかかりましょうから、即応を求めるならば、公正取引委員会の対応に期待すべきかもしれません(公営化、あるいは、法規制に関する議論も同時進行・・・)。排除措置命令によって、同委員会は、東京博善に対して事業分割やエンディング事業の切り離し等を命じることもできましょう。多死社会の到来が予測される中、日本人の死が中国のビジネスチャンスとなり、利益が国外に流れる現状は、何としても改善されなければならないと思うのです。

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安部元首相を評価する‘若者層’の謎

2022年09月28日 10時59分18秒 | 日本政治
 昨日、武道館で行なわれた安部元首相の国葬は、テレビで報道された画像を見る限り、軍服姿の自衛官の姿が目立ったこともあって、どこか北朝鮮のような一種異様な空気が漂っていました。とりわけ、勲章を並べた深紅の台の赤色がおどろおどろしく、白と黄色の菊とのコントラストの不調和もあって、日本らしさを全く感じさせないのです。もちろん、この違和感は個人的な印象なのですが、メディアやネットの報道ぶりはその逆です。「終わったら、反対していた人たちも、必ず良かったと思うはず。日本人なら」と述べた二階元幹事長の‘予言’が的中したと言わんばかりなのです。果たして、管幹事長の弔辞に全国民が心から涙し、安部元首相の国葬を評価する側に転じたのでしょうか。それとも、国民の7割以上とされた事前の世論調査の結果のほうが、調査主体であるメディアによる数字の操作であったのでしょうか。

一般献花台にも、事前の予想を超えて2万人以上の一般の国民から花束が供えられたとも報じられています。特に、高校生と言った若い人の姿も見られ、安部元首相に対する評価は若年層ほど高いというイメージを振りまいています。世論調査でも国葬反対のパーセンテージは年齢に比例して上昇するとされており、海外メディアからも、反対派には高齢者が多いとする指摘があります。もっとも、後者については、実際にデモを組織して反対しているのは社会・共産主義の活動家でしょうから、目に入るのは自ずと高齢者となるのでしょう。しかしながら、若者層=安部元首相支持者という定式化された構図には、疑問を感じざるを得ないのです。

第1に、若者層であっても、安部元首相と世界平和統一家庭連合(元統一教会)との関係を知っているという点です。ネット情報の収集に長けている若者層の方が高齢者よりも情報量が多く、かつ、詳細な情報を入手しているはずですので、日本国の政治家や政党と反日カルト教団との癒着を許すとは思えません。情報リテラシーのレベルが問われるフェイクニュースでもないのですから。仮に、同癒着を知りながらなおも国葬を支持するとなりますと、今日の日本国の若者は、理性を失っているか、半ば洗脳によって世界平和統一家庭連合の信者となっていることとなりましょう。あるいは、世界平和統一家庭連合や創価学会等の工作により、何らかの同調圧力がかかっているのかもしれません(なお、国葬における‘長蛇の列’には、SNSにおけるインスタ映えを狙った行為とも・・・)。

第2に、上述したように、今般の国葬の儀式は、現代的に洗練されているわけでも、シンプルさを好むとされる若者のセンスに応えるものでもありません。人情劇のような‘お涙頂戴’のナレーションに対しても、ドライで感情に乏しい面が懸念されている今日の若者が共感を覚えるのでしょうか。祭壇に仰々しく並べられている勲章を見ても、古老の議員達の弔辞を聞いても、心から感動する若者がそれほど多いとも思えないのです(なお、管前首相の弔辞に対して異例の拍手が起きたとされますが、葬儀における拍手は世界平和統一家庭連合の慣例とも・・・)。むしろ、日本の伝統とも異質なその妙な演出に、共産社会主義国の指導者の葬儀、あるいは、別世界にでもワープしたような感覚に襲われるかもしれません。

第3の疑問点は、安倍政権の政策は、必ずしも若年層にとりまして望ましいとは言い切れない点です。同政権が推し進めた新自由主義に基づく政策は、派遣業界への利益誘導の形で雇用の不安定化を招きましたし、少子高齢化の根本的原因も、突き詰めれば非正規社員の増加を伴う同政策に行きつきます。世界平和統一家庭連合の教祖が唱えてきた日本人の奴隷化に先鞭を付ける政策とも言えましょう。また、防衛面での評価は高い一方で、安倍政権が徴兵制導入への道を開いたとなれば、若者世代こそ、先ずもって徴兵の対象とされましょう(世界権力の‘鉄砲玉’、あるいは、‘捨て駒’にされる可能性も・・・)。日本国の若者も、近い将来、兵役が既に課されている韓国の若者と同じ境遇に置かれるかもしれません。

第4に、安部元首相は、自由、民主主義、法の支配等の価値観外交を展開しましたが、国葬自体の岸田政権の決定に至る経緯は、民主的手続きを無視した独断であるとする強い批判があります。国葬の式典も、伝統を継承したわけではない‘創作’でありながらも、上述したように権威主義的な色合いが濃いものでした。また、安倍政権自身も、日本国の民主主義を深化させたとも言いがたく(安倍政権の‘自由’も新自由主義の自由であったかもしれない・・・)、戦後教育にあって自由や民主主義といった諸価値に馴染んできた若者層が積極的に支持する理由に乏しいのです。

以上の諸点からしますと、マスメディアが描く若者層=安倍政権の支持者という構図には、どこか不自然さがあります。否、仮に熱烈な支持者が存在するとすれば、安倍政権を支持する若者には、若さ故にカリスマに惹かれるヒトラーユーゲント、紅衛兵、あるいは、かつてのSEALSの姿さえ浮かぶのです。言い換えますと、思考停止した一群の若者像です(いささか厳しい言い方ですが・・・)。もっとも、‘ユース’には(YとJの置き換え)、ユダヤに通じる響きがありますので、‘若者の支持’とは、ユダヤ勢力の暗喩なのかもしれません。何れにしましても、動員疑惑も含めて、若者層=安倍政権の支持者という構図につきましては疑ってしかるべしと思うのです。

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日本人の‘逆ファクターX’はコロナ・ワクチンでは?

2022年09月22日 11時22分10秒 | 日本政治
新型コロナウイルスが全世界を未知の感染症の恐怖に陥れ、各国ではロックダウンなど強硬措置が続く中、日本人のみが同ウイルスへの感染率、重症化率、死亡率とも極めて低いという不思議な現象が起きていました。何故、日本人だけが新型コロナウイルスに対して耐性を備えているのか、医科学的な議論も盛んとなり、‘ファクターX’探しが始まったのです。BCG接種説、過去のコロナウイルスとの交差免疫説、高い無毒化遺伝子の保有率、あるいは、非接触性の慣習など様々な説が唱えられたのですが、今では、この時の‘日本人最強説’は、殆ど忘れられてしまったかのようです。

今日、新型コロナウイルス感染症に対する認識は、潮目が変わるかのように変化しています。かの悪名高いWHOのテドロス事務総長も、パンデミックには終わりが見えてきたと発言していますし、アメリカのバイデン大統領に至っては、‘アメリカのパンデミックは終わった’として、早々と終了を宣言しています。如何なる感染症も一定の時間が経過すれば自然に収束に向かうものですし(より致死率の高いペストでさえ収束している・・・)、実際に、度重なる変異の結果としてウイルス自体も弱毒化しています(通行人が当然にバタバタと路上で倒れ、病院のロビーにまで搬送されてくる感染者を寝かせなければならない光景は、今やどこにも見られない・・)。世界的に見れば、パンデミックが終わりを迎えているのは確かであり、先日、イギリスで行なわれたエリザベス女王の国葬にあっても、マスクを付けている参列者は一人もいませんでした。

仮に、パンデミック初期の状態のまま今日を迎えていたとすれば、日本人の多くは、殆ど何の変化も感じることなく、世界史年表に記載された凡そ2年半の‘コロナの時代’を過ごしたかもしれません。ところが、現状を見ますと、日本国は、今や世界で唯一、新型コロナウイルス感染症の恐怖が煽られ、未だに感染の波が襲ってくる国なのです。街ゆく人々は皆マスクを着装し、食事の時以外はそれを外そうとはしません。今冬における第8派の到来を予測する政府も、オミクロン株対応のワクチン接種については、5ヶ月間隔を3ヶ月に短縮する念の入れようです。松野官房長官が述べたように、現時点ではと断りながらも、終了宣言は論外のようなのです。それでは、何故、2年半の間に、日本国の感染状況は、真逆と言える程までに逆転してしまったのでしょうか。

その最大の要因として指摘されているのが、コロナ・ワクチンの接種です。mRNAワクチン(核酸ワクチン)については、遺伝子工学上の先端技術を用いて作製されたことから、当初から安全性に関する強い疑義がありました。しかしながら、感染拡大防止と経済活動の再開という政治的目的が優先され、急遽、その使用が承認されることとなったのです。日本国政府も、世界的な潮流となったワクチン接種推進政策に追随し、医療従事者や高齢者、並びに、基礎疾患のある人のみならず、接種対象者を段階的に広げてゆき、今では、5才から11才までの幼児や児童も接種対象に含まれるようになりました(通常、ワクチンというものは、免疫獲得に適した乳幼児期に接種するものであり、高齢者に奨励される理由や根拠の説明も不十分・・・)。ワクチン接種に対する異様なる日本国政府の熱意は、改めて一日100万人接種を目標に掲げる岸田首相の言葉からも窺えます。

その一方で、収集された感染データの解析や学術的研究等からワクチン接種の危険性が裏付けられてきたこともあり(有害性や自然免疫の弱体化等・・・)、欧米諸国ではワクチン接種者数が激減しています。同タイプのmRNAワクチンは回数を重ねるほど死亡リスクが高まることは、日本国内にあっても指摘がありましたが、イギリスでは、既にワクチン接種禁止へと舵を切り替えたとの情報もあります。全ての情報が国境を越えて自由に行き交うはずのグローバルな時代を迎えたはずなのに、日本国では、ワクチンに関する危険性については未だに怪しい陰謀論扱いされており、政府もマスコミも、コロナ・ワクチンの安全性に関する議論を封じているのです(厚労省の公式の発表でも、ワクチンとの関連が疑われる志望者数は1800人を越えている・・・)。

自由な言論空間が確保されているならば、先ずもって、ワクチン接種率の高い日本国のみ、何故、コロナ禍が収束しないのか、その要因を科学の視点から客観的に追及すべきです(百歩譲ってワクチンが主要要因ではないとしても・・・)。かつて、多くの人々が‘ファクターX’を、先を競うように見つけ出そうとしたように・・・。すなわち、ワクチン接種こそ、‘ファクターX’を消滅させ、現在に至って感染者を増加させている可能性もあるのです。超過死亡が戦後最高値を記録している今日、‘逆ファクターX’に関する議論に蓋をしようとしている政府やマスメディアの抑圧的な態度こそ、怪しんで然るべしと言えましょう。人口削減論がまことしやかに囁かれるのには、それなりの理由があるのです(状況証拠・・・)。

コロナワクチンメーカーの一つであるモデルナ社は、日本国をアジアにおける臨床試験の研究拠点にする方針を示していますが、同社の申し入れには、‘日本人をモルモットにするのか’との批判もあります。また、インドでは、日本国から「旭日大綬章」を授与されたビル・ゲイツ氏が、COVID-19ワクチンに関して殺人罪で訴えられています。果たして、日本国民は、今日の政府、否、岸田政権に自らの命を預けることができるのでしょうか。

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安部政権のもう一つのアキレス腱-保守による新自由主義の推進

2022年09月20日 12時27分54秒 | 日本政治
 安部元首相の国葬に対する反対世論の主要な要因は、日本国の独立性を損ねかねない世界平和統一家庭連合との関係にあることは、多くの人々が認めるところではないかと思います。その一方で、経済分野におきましては、民主党政権下における日本経済の危機を、日銀による異次元緩和を主力の矢とするアベノミクスが救ったとする評価があり、同元首相の功績の一つに数えられています。しかしながら、8年8ヶ月に及ぶ長期安倍政権の全体を見ますと、アベノミクスが国民に幸せをもたらしたとは言い切れない負の側面もないわけではありません。そしてその負の側面こそ、新自由主義の強力な推進であったように思えるのです。

安倍政権にあって経済政策の指南役を務めていたのは、新自由主義者で知られる竹中平蔵氏です。国葬に対する風当たりが強まるのを見かねてか、同氏は、世界平和統一家庭連合をめぐる世論の批判に対して、‘統一教会=悪=自民党’という単純な構図は、法治国家ではあり得ないと述べ、国葬擁護論を試みています。氏の説を纏めますと、「日本にはフランスのようなセクト法が存在しないのだから、宗教の自由は完全に認められている。故に、統一教会を悪いと決めつけることはできない。法律に基づかないバッシングは、法治国家にあるまじき行為である。」ということになりましょう。‘法律がなければ何をしてもよい’というのですから、いかにも新自由主義者らしい発言です。それでは、竹中氏の擁護論には、国葬反対へと傾く世論を抑えるほどの説得力があるのでしょうか。

竹中氏は、自由を強調し、「宗教の自由があって、宗教をやりながら政治活動をするのは自由ですよ。」と述べ、日本では創価学会・公明党の事例を挙げて問題視しない姿勢を示しています。しかしながら、同氏は、政教分離を定めた憲法第20条を忘れてしまっている、あるいは、故意に無視しているようです。如何なる宗教団体も、政治権力を行使してはならないと憲法は明白に定めているのです。ですから、先ずもって、‘セクト法が存在しないからと言って、宗教団体には政治活動をする自由もある’と主張することはできないはずなのです。むしろ、憲法に違反する行為が白昼堂々と行なわれているのですから、公明党の存在が既成事実化している現実の方が、余程、‘法治国家にあるまじき行為’なのです。

第2に、竹中氏は、「宗教の自由、信仰の自由と政治の自由っていうのはちゃんと守らなきゃいけない」とも語っているのですが、政党とは、政治的信条や価値観、あるいは、政策方針を共にする政治家並びに国民の組織ですので、国民に対しては、自らの立場を明確に示す必要があります。ドイツのキリスト教民主同盟は、ヨーロッパの伝統宗教であるキリスト教の価値観に基づいて設立されており、それは誰もが知るところです。一方、自民党と世界平和統一家庭連合との関係は、それがたとえ政策に影響を与えていたとしても、国民に隠されてきました。公明党にしても、その利権体質や支配欲、名誉欲、金銭欲を是とする行動様式は、無欲や慈悲の心を説く仏教とは真逆と言っても過言ではありません(公明党が仏心を説いている姿を一度も目にしたことはない・・・)。しかも、世界平和統一家庭連合であれ、創価学会であれ、その政治思想は、独裁体制を容認する全体主義を特徴としていますので、いわば、自民党が、ナチスや共産党と密かに手を組んでいるようなものなのです(ドイツでは、キリスト教民主同盟は認められていても、ナチスは法律で禁じられている・・・)。既存の法律には触れないとしても、自民党並びに公明党共に、国民に対する秘匿性、隠蔽、あるいは、保守や仏教の偽装性において、国民を欺いた罪は問われて当然です。

以上に述べてきましたように、宗教並びに政治的自由を以てしても、今般の政党と新興宗教団体との癒着を擁護できないように思えます。竹中氏は、自らを重用してきた自民党に対する恩義から擁護論を張っているのでしょうが、むしろ、同氏の指南の元で実施されてきた数々の破壊的な自由化政策にも国民の関心が向き、世論は国葬反対に一層傾くかもしれません。自公保守政権の下で公約外の移民政策が推進され、非正規社員が劇的に増加し、中国企業が日本市場を荒らし、北海道をはじめ日本の土地が外国人に買い取られ、そして、今日、国民はスタグフレーションに見舞われているのですから(これらの他にも国民が被った不利益は計り知れない・・・)。安倍政権の真の姿が、世界権力が推し進めたグローバリズムと呼応した新自由主義政権であったことも、同政権を評価する上でのもう一つアキレス腱であったのではないかと思うのです。

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二階元幹事長の‘日本人なら’発言の危うさ

2022年09月19日 09時42分33秒 | 日本政治
二階元幹事長の安部元首相の国葬に関する傲慢発言は、さらにエスカレートしているようです。先の発言は、‘国民の批判など無に等しく、自民党は安泰’と高をくくったことで世論の批判を浴びたのですが、今度は作戦を変えています。無視を決め込むと火に油となることに気がついたのか、敢えて‘日本人なら’と表現することで、同調圧力を作り出そうとしています。両者には‘無視’と‘誘導’という違いはあるものの、政治家(権力者?)としての上から目線で‘国民世論など自らの発言でどうにでもできる’と見下している傲慢な姿勢においては共通しているのです。
 
 かくして、安部元首相の国葬に関連して二度目の炎上が起きてしまったのですが(通算では数え切れない・・・)、二階元幹事長は、‘日本人なら’という言葉の効果については熟知していたように思えます。かねてより、国際ジョークとなるくらい日本人は同調圧力に弱いとされてきました。他人を海に飛び込ませようとする場合、アメリカ人には‘あなたはヒーローになれます’、イギリス人には‘ジェントルマンとはこうするものです’、ドイツ人には‘法律で定められています’、そして、日本人には‘皆がこうしています’と言えばよい、というものです(いささか不正確かもしれません・・・)。おそらくワクチン接種促進においてその絶大なる効果を実感した元幹事長は、‘日本人なら’を魔法の呪文と考えたのかもしれません。

 それでは、‘日本人なら’の呪文は、世論誘導の効果を発揮したのでしょうか。結果はその逆であったと言わざるを得ません。安部元首相の国葬に対して疑問を抱くのは、全員とは言わないまでも、日本人に限らず、人としての当然の心の動き、あるいは、反応です。何故ならば、国葬反対の世論が圧倒的である最大の理由は、安部元首相を筆頭とする自民党と世界平和統一家庭連合との癒着にあるからです。

同教団は、『旧約聖書』を自己に都合よく曲解しつつ、過去の植民地支配による韓国人の‘恨’を晴らすためには日本を韓国に従属させるべき、と説いてきた反日カルトの新教宗教団体です。霊感商法や信者に対する高額の寄付要求も、‘アダムの国である韓国にエバの国である日本は貢ぐべし’、‘韓国人が日本人を搾取しても償いであるから神が許している’という発想に起因しているのでしょう。世界平和統一家庭連合とは、信者を動員して様々なサービスを提供するのと引き換えに、自民党に対して裏から教義に基づく反日政策を実行させようとしてきたのですから、いわば、日本人から見れば、日本支配を目論む‘敵性集団’なのです。

世界平和統一家庭連合が反日組織であることは明白な事実ですので、二階元幹事長が、日本人の特質である‘同調圧力’を以て安部元首相の国葬決定に従うよう恫喝したとしても、国民の多くは反発するのみです。何れの国でも、自国の支配を目的に掲げてきた隣国のカルト教団と自国の政権与党が密接な関係にあれば、国民は憤慨するでしょうし、公安上の外患誘致事件として刑法上の罪に問われるかもしれません。世界平和統一家庭連合が、日本国と同盟関係にあるアメリカのCIA、さらには中国をもコントロールする世界権力と繋がりがある故に、破壊活動防止法等の適用を逃れているのかもしれないのです。

半数をゆうに超える国葬反対の世論は、保守政党を装って長期にわたり日本国を‘支配’してきた自民党並びに公明党に対する国民の深い失望と政界に対する不信感の現れとも言えましょう。否、今般の一連の事件により、漠然として抱いてきた‘売国疑惑’は、ついに確信に変わったのかもしれません。人民解放軍を熱烈歓迎しかねない二階元幹事長ならば、中国に侵略され、日本人が大量に虐殺されたとしても、「終わったら(侵略が完了したら)、反対していた人たちも、必ず良かったと思うはず。日本人なら」と発言しそうなだけに(ここにも悪しき二重思考が・・・)、元幹事長の傲慢発言には、大いに警戒すべきと思うのです。

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公明党の論点すり替えに注意を-分けるべきは‘カルトと宗教’ではなく‘政治と宗教’

2022年09月05日 12時45分19秒 | 日本政治
 政教分離の原則が憲法第20条に明記されていながら、自民党と世界平和統一家庭連合とが長年にわたって癒着してきた実態は、今日、政治と宗教との関係を改めて問うこととなりました。当然に、同問題は創価学会を母体とする公明党にも波及するはずなのですが、報道によりますと、同一件について自民党の岸田総裁が公明党の山口代表に謝罪したというのですから唖然とさせられます。

それでは、あたかも他人ごとのように振る舞う公明党の居丈高で傲慢な態度は、どこから来ているのでしょうか。まずもって、創価学会員に観察される行動様式の特徴の一つとして、‘自信に満ちた態度をとる’というものがあります。それは、如何なる批判を受けたとしても決してひるんではならず、たとえ内心において動揺していたとしても、決してそれを表に出してはならない、というもののようです。新興宗教団体が、低い自己評価に悩む信者に対して‘自信’を与えているケースが少なくなく(権威主義の一種・・・)、所属する教団はしばしば‘虎の衣’となります。同行動様式は、創価学会に限らず新興宗教団体一般にも見られるのですが、超越的で絶対的な存在である神や仏と自己を同一化し、その名の下で自らの教団の無誤謬を信じる狂信的なメンタリティーの現れなのでしょう。

公明党の‘上から目線’の無反省な態度は、神や仏の権威を借り自らを特別視したい、あるいは正当化したい信者特有の行動様式として理解されるのですが、こればかりが要因ではないようです。昨今の公明党側の発言や説明からしますと、同党は、論点を巧妙にすり替えることで、この問題から逃げおおせることができると考えていると推察されるのです。論点をそれとなく移したり、はぐらかす作戦は、窮地に立たされた政治家が頻繁に用いる詐術的な手法でもあります。今般、公明党もまた、この手法で切り抜けようとしているようなのです。

 それでは、公明党による論点ずらしの作戦とは、どのようなものなのでしょうか。それは、おそらく、論点を、‘政治と宗教の分離’から、‘カルト教団と一般の宗教団体との区別’とにすり替えるというもののようです。本問題が表面化した際に、最初に注目を集めることになったのが、フランス等で制定されている「反カルト(セクト)法」です。公明党は、フランスの手法に着想を得て、世界平和統一家庭連合をカルト教団と認定する一方で、自らは一般の宗教団体とみなして‘問題なし’としたいらしいのです。もっとも、カルト認定の基準次第では、自らもカルトと認定されかねません。そこで、世界平和統一家庭連合において問題視されている‘‘霊感商法’の悪質性を強調し、その有無を唯一の基準に定めようとしたのでしょう。‘創価学会は霊感商法を行なっていない’と主張すれば、創価学会がカルト認定から逃れる道が開かれるのです。しかも、‘何れの宗教にも非合理性が認められるため、カルト教団と一般の宗教団体とを明確に区別するのは難しい’とする専門家の意見も聞かれ、同問題を有耶無耶にする環境は整えられつつあります(基準の設定が不可能ともなれば、世界平和統一家庭連合もカルト教団ではなくなってしまう・・・)。

 もっとも、この公明党の論点すり替え作戦は、‘やぶ蛇’ともなりかねません。そもそも、「反カルト法」が制定されているフランス等では、カルト認定基準はきちんと明確化されています。しかも、創価学会は監視対象とされるカルト教団のリストに記載されているのです。何故ならば、カルト教団として認定する第10番目の基準に「公権力への浸透の企て」があり、創価学会は、みごとに同基準に当てはまってしまうのです。

 かくして、公明党のカルト認定の基準を‘操作’することで自らを不問に付そうとする作戦は、多くの国民がフランス基準の情報を知るところとなれば、成功する見込みは薄いように思われます。そして、論点のすり替え作戦に気づいたが故に、今般の問題の核心が政治と宗教との分離にあるとする認識を、より一層深めることとなりましょう。そもそも、事の発端は、政治家である安部元首相と新興宗教団体との密接な関係にあるのですから。

政治と宗教との癒着に関しては、信者数を考慮しても、公明党を介して政治権力を公然と行使している創価学会のほうが余程深刻、かつ、一般の国民にとりましては危険な存在と言えましょう。宗教団体による権力行使や教団や信者等への利益誘導を証明さえできれば、法改正を待つまでもなく、現行の憲法や公職選挙法上の違反行為を罪として問うことができるレベルなのです。日本国の民主主義を歪めてきた要因を一つずつ取り除かないことには、国民を軽視し、社会をアンフェアなものとし、さらに、自国の富を海外に貢いでしまう悪しき政治は終わらないのではないかと思うのです。

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急がれる公職選挙法等の改正-新興宗教団体の組織票対策

2022年09月02日 11時25分12秒 | 日本政治
 メディアの報じるところによれば、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに、公明党と創価学会との癒着は、政治家サイドの‘組織票ほしさ’に起因していると説明されています。そのさらに深奥には、カルト的世界支配の構想や巨大な利権が潜んでいるのでしょうが、信者を束ねる組織票という存在についても、今一度、考えてみる必要があるように思えます。

 新興宗教団体の組織票については、それが既成事実化しているだけに、国民多数が疑念を抱くことなく今日に至っています。政党も政治家も、新興宗教団体の組織票とは最も安定した固定票であり、選挙戦においてこれを確保しますと当選確率が上がると信じていることでしょう。組織票の存在は、伝統宗教と新興宗教とを区別するメルクマールでもあり、前者にあっては、信者に対して特定の政党や政治家に投票するよう支持することは殆どありません。多くの国民は近隣の神社の氏子であったり、先祖代々、縁あるお寺の檀家であったりするのですが、伝統宗教団体の薦めに従って自らの投票先を決めるわけではないのです。有権者の30から40%を占めるとされる無党派層が、伝統宗教団体が投票行動に殆ど影響を及ぼしていない現状を示していると言えましょう。

 それでは、何故、宗教団体は、鉄壁の組織票を纏めることができるのでしょうか。安部元首相は、世界平和統一家庭連合の組織票の割り振りを行なっていたとも報じられていますが、信者の票は組織の票として自動的にカウントされています。新興宗教団体が信者の個人的な票を‘自らのもの’とし得るのは、言わずもがな、教団と信者との間に命令者とその忠実な実行者という関係が成り立っているからです。教団、否、教祖の指令は絶対であり、信者は、教祖の指令のままに、何らの疑いをも抱くことなく一致団結して行動するのです。この側面は、宗教団体の影響力の源泉ともなる大量動員においても見られます(‘さくら’活動?)。

 こうした教団による信者に対する投票指令は、政教分離を定める憲法第20条に照らしますと、違憲と判断される可能性があります。憲法違反の問題について、政府は、政党は、たとえ与党として政府の一角を担っても憲法が禁じている「政治上の権力の行使」に当たらないと解釈しているようですが(1988年の竹下内閣時における質問主意書への内閣の回答・・・)、日本国は政党政治を基盤とする議院内閣制を採用しておりますので、同政府解釈は詭弁としか言いようがありません。そして、議会選挙、とりわけ衆議院議員選挙は国民による政権選択の役割をも担うのですから、宗教団体による信者に対する投票支持は、宗教政党による「政治上の権力行使」を間接的に導くものとなります。

 政教分離の原則に加え、民主主義の観点から本質的な問題となるのが、教団による信者票の‘囲い込み’は、国民の政治的自由、並びに、政治的権利の侵害に当たるのではないか、という問いかけです。特定の教団への入信が、信者個人の参政権の自由な行使を著しく制約し、国民としての権利の教団への事実上の移譲を意味するならば、民主主義の基盤を揺るがしかねないからです。国民の政治的自由、並びに、政治参加の権利の保障なくして民主的国家体制は成り立ちません。信者の方々は、この点を、一体、どのように考えているのでしょうか(洗脳されている、あるいは、‘背信者’や‘裏切り者’と見なされるので、協力せざるを得ない?)。新興宗教団体は、憲法でも保障されている信教の自由を盾にとって自らの政治活動を正当化していますが、信者個人の自由については全く眼中にないようなのです。

しかも、拝金主義に堕した教団が、票を提供した‘見返り’として、政党や当選した政治家を介して政治的利権を信者に配っているならば、これは、公職選挙法第221条並びに第222条において禁止されている‘買収および利害誘導罪’の様相を呈してきます(第222条は多数人を対象とした規定・・・)。今日、減少傾向とは言え、創価学会の信者数が増加したのも、政府調達等に際して信者やその周辺の人々が、何らかの政治的・経済的な恩恵を受けてきたからなのでしょう。

 以上に述べたように、新興宗教団体の組織票には、民主主義を歪めかねない様々な問題が潜んでいます。政治レベルでの早急な対応が望まれるのですが、こうした諸問題点に対しては、新たに反カルト(セクト)法を制定するよりも、現行の法律を改正したほうがより迅速に解決できるかもしれません。例えば、公職選挙法を改正し、宗教団体による信者への投票支持や運動員の派遣等を違法とすれば、宗教団体の組織票は消滅します。あるいは、所轄官庁による宗教法人の認証審査の基準として非政治性を設けると共に、仮に、教団による投票指示と言った行為が行なわれた場合には、認証の取り消しや解散を命じ得るといった方向での宗教法人法の改正も考えられましょう。

 今日、新興宗教団体の組織票、並びに、動員力が民主主義を脅かす存在として国民の多くが認識するところとなっております。それは、迫り来る世界支配の脅威でもあるのですが、政治的自由も含めた国民の基本的な自由や権利を護ることこそ、政治本来の使命なはずです。真に国民のための政党並びに政治家であるならば、先ずもって上述した法改正に着手すべきではないかと思うのです。

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日本国における‘上下挟み撃ち作戦’とは?

2022年08月31日 12時07分03秒 | 日本政治
世界支配を目論む超国家権力体(グローバルな金融・経済財閥連合体)が、自らの描く未来を手にするために、世界各国において中間層を抑圧する装置として上部と下部の双方に下部組織を設置したとする仮説は、強ち否定はできないように思えます。いわば、‘挟み撃ち作戦’なのですが、上下何れの組織も、超国家権力体の主要な収益源に麻薬密売やギャンブルなどが含まれているために、反社会的な活動と密接に関わることとなります。それでは、日本国の場合はどうなのでしょうか。

 先日、最高裁の判決によって自民党野田聖子議員の配偶者が暴力団員であった事実が確定したとするニュースが報じられていました。同議員は、日本初の女性内閣総理大臣を目指していただけに驚きの声もあったのですが、むしろ、配偶者のバックを知りながら自らを総理大臣の座に相応しいと考えていた同議員の感覚に驚かされます。一般的な国民の常識ではあり得ないからです。もっとも、政界と‘裏社会’との繋がりは以前より指摘されており、政治家には選挙で見せている表の顔とは異なる裏の顔があることを知る国民は少なくはないのかもしれません。

 日本の政治と裏社会との関係については、フランス人ジャーナリストであるフィリップ・ポンス氏の『裏社会の日本史』(筑摩書房、2006年)が、タブーを排して客観的な視点から詳述している点において大変参考になります。同書は、政治学の古典書を100冊読むよりも日本政治の闇、あるいは、政治家の不良化問題の理解には役立つと言っても過言ではありません。目からうろこが落ちるような記述も多く、自らの不明を恥じたのですが、同書は、民主主義国家の裏側、否、世界支配の構図をもそれとなく描き混んでいます。そして、同書は、本ブログの仮説を裏付けているようにも思えます。

 何故ならば、GHQやCIAによる対日政策についても触れているからです(KCIAも関連・・・)。因みにCIAは、アメリカという国家の情報機関ではあるものの、その実態は、超国家権力体の出先機関とされています。戦後、敗戦国であった日本国の占領に当たって、GHQが、日本国の治安を維持するために「やくざ」を使ったことは事実のようです。当時の「やくざ」とは、親分子分関係が厳しく律せられている任侠の世界を生きる人々であったため、賭博を中心に反社会的な活動に従事しながらも、メディアによる美化の影響もあって‘保守的な組織’として、当時は大衆からも好意的に受け止められていたとされます。自民党、否、政界には、児玉誉士夫や小佐野賢治、あるいは、笹川良一といったフィクサー等を介したものであれ、これらの組織との関わりの深い議員も少なくありません。東京裁判で有罪判決を受けたものの、後に釈放された岸信介の名はしばしばGHQとの関連で登場してきますし(何らかの‘司法取引’が疑われる・・・)、60年代にあっても、佐藤栄作、河野一郎、田中栄一、木村篤太郎などの保守政治家たちも親交があったとされます。今日にあっても、二階元幹事長など、その行動や発言を見ておりますと、到底‘かたぎ’とは言いがたい政治家も見られます。

 こうしたGHQ、並びに、その後のCIAとの結びつきは、暴力革命を目論む共産主義者との闘いにおける‘必要悪’として説明されています。‘暴力は暴力を以て制す’、という戦略となりましょう。戦後、民主主義国家として再出発したはずの日本国は、そのスタート地点から、既に戦勝国による暴力の容認という真逆の政策に翻弄されることとなるのです。なお、超国家権力体が麻薬密売やギャンブル等の‘元締め’である点を考慮しますと、冷戦期における‘共産主義の脅威’という根拠は、自らの利益を温存させるための方便であったのかもしれません(冷戦という二項対立構造もまた、超国家権力体による‘分断作戦’の一つである可能性も・・・)。

 おそらく、戦後の間もない頃から1990年あたりまでは、日本国における‘挟み撃ち作戦’は、1955年に保守合同により設立された自由民主党を上部とし、「やくざ」とも重なる極右団体を下部とする構図によって遂行されていたのでしょう。もっとも、この時期は、東西冷戦期にありましたので、分断作戦の主戦場は保守と革新の左右のイデオロギー対決にありました。このため、右翼団体が動員されたのは、主として、労働争議や反政府デモといった革命勢力と目されていた社会・共産主義者との闘いの場です。しかも、上下の‘挟み撃ち作戦’の構図は、下部の「やくざ」が自らを‘はぐれ者’と認識して一般人には危害を加えないとする掟を固く守る一方で、一般大衆からは一目置かれる存在であったため(終戦直後には、これらの組織が韓国・朝鮮・中国系のマフィアから市井の日本人のみならず、警察をも護っている・・・)、中間層に対しては殆ど抑圧装置としての効果は及ぼしていません。すなわち、冷戦期における上下による‘挟み撃ち作戦’のターゲットは、左翼勢力であったと考えられるのです。

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民主主義と自民党は両立しない?-二階元幹事長の国民軽視発言

2022年08月25日 14時31分11秒 | 日本政治
 昨日8月24日、自民党の二階俊博元幹事長の講演会での発言が、多くの国民から猛反発を受けることとなりました。特に批判が集中したのは、世界平和統一家庭連合と自民党との関係に関連して述べた「自民党はびくともしないから」というくだりです。この発言、国民にけんかを売っているようにしか聞こえません。国民からの批判など、自民党には関係ないと・・・。同発言が自民党の国民軽視の本音であるならば、‘自民党と民主主義は両立しない’という結論に至ることとなりましょう。

 もっとも、同発言に先立って二階元幹事長は「問題があればどんどん出して、修正をしていくべきだ。」と前置きしており、‘びくともしない’という表現は、条件付きであるのかもしれません。元幹事長は、曖昧な表現に留まっていますが、同条件をより詳細かつ具体的に記述しますと以下のようになりましょう。

  1. 政党並びに政治家と宗教団体との関係について徹底的な調査を実施する。
  2. 調査結果を報告書(「政党と宗教団体との関係に関する調査報告書(仮題)」)として纏める。
  3. 同報告書を国民に公表し、詳細の説明並びに質疑応答を行う。
  4. 報告書において指摘された諸点について、立法措置を含む有効かつ具体的な対策を講じる。

 調査の対象を自民党と世界平和統一家庭連合との関係に限定しなかったのは、同教団との関係が指摘されている政党は、自民党のみではないからです。一方、宗教団体による政治介入は、世界平和統一家庭連合のみではなく、創価学会と言った他の宗教団体にも同様の問題があります。国民からしますと、政治と宗教との問題は、政界全体を蝕む民主主義の危機なのです。

そして、調査の中立・公平性を確保するためには、問題が政治案件であるだけに、工夫を要することとなりましょう。同調査委員会の委員には、現職、あるいは、同職の経歴を有する検察官や裁判官を委員に任命し、高い独立性を付与するといった方法が考えられます(捜査のノウハウを有する専門家である必要性からすれば、警察官も適任かもしれないし、公安事案であれば、実際に警察が捜査を行なうかもしれない・・・)。もっとも、同調査委員会の設置については、政党並びに政治家が調査の対象になりますので、国会での委員会設置決議が成立しない可能性があります。そこで、政府が同委員会を設ける道もないわけではないのですが、岸田改造内閣の顔ぶれを見ますとその大半が世界平和統一家庭連合との関係が指摘されていますので、同方法も期待薄です。

加えて、国会並びに政府の両者によってブロックされてしまうリスクは、対策の段階にも認められます。たとえ中立・公平な調査委員会によって事実を洗いざらいにした報告書が作成され、それが包み隠さずに公表されたとしても、反カルト法の制定や個別の議員に対する処分については、政府提出法案であれ、議員提出法案であれ、身を切る改革に恐れをなした政党や政治家によって見送られてしまうかもしれません。また、政党レベルでの自浄作用や内部改革についても、与党のみならず、野党にあっても自己改革に挑むほどの熱意は感じられません。立憲民主党を始め、野党側にもカルト教団との関係を指摘されている議員も少なくないからです。

国民の多数が反対している安部元首相の国葬についても、同幹事長は、「当たり前のことで、やらなかったら馬鹿だ」と啖呵を切っています。国民世論を頭から無視する発言からしますと(元幹事長の‘常識’は国民の非常識・・・)、‘びくともしない’発言も、本心にあっては国民の批判は無駄であると述べていると推測されます。その一方で、上述してきたように‘びくともしない’発言が条件付きであるとしましても、二階幹事長の発言は自民党にとりまして致命的な意味を持ちましょう。条件を満たせない場合、自民党は、もはや安泰ではないことを、暗に認めたことになるのですから。今後、自民党は、そして、日本国の政界がどの方向に動くのか、国民の多くは、固唾をのんで見つめているのではないかと思うのです。

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自らの足元を見ていない公明党-「反カルト法」の対象に

2022年08月24日 12時39分31秒 | 日本政治
 自民党と平和統一家庭連合(元統一教会)との関係について、国民の多くが絶縁を強く求める中、連立政権の一角を占める公明党の山口代表は、「岸田政権として国民の不信や疑念を招かないよう、しっかりと今後の対応を明確にしていく必要がある」と述べたと報じられています。同発言を聞いて、あまりにもとぼけた反応に唖然とさせられた国民も少なくなかったのではないでしょうか。全くもって自分自身のことは棚に上げているのですから。

 自民党と平和統一家庭連合との癒着がかくも大問題に発展したのは、現行の日本国憲法が定める政教分離の原則に反するからに他なりません。政教分離の原則は、外部的存在である特定の教団によって政治が動かされてしまうリスクを排除する、即ち、民主主義を損ねる迂回ルートとなる道を遮断する役割を果たしています。宗教団体とは、国民の一部に過ぎない信者のための組織ですので、国益=教団益ではありませんし、信者=国民でもありません。信者が忠誠を誓う対象も教祖個人(文鮮明氏や池田大作氏・・・)ですので、政治と宗教を分離させませんと、政治権力が、特定の教団によって私物化されてしまう恐れがあるのです。

 政教分離の原則が、国民主権並びに民主的国家体制を支える重要な基盤となっている点を考慮しますと、特定の教団を母体とする宗教政党は否定されるべき存在となります。憲法第20条において「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と明記するのも、民主主義体制を擁護する目的があってのことなのです。

 ところが、公明党の山口代表は、上記の発言において「宗教団体が政治活動をすることなどは、憲法上、完全に保障されていることであり、こうしたことと明確に区別をしながら、議論を進めていくことが大切だと思う」とも述べています。おそらく、憲法第20条の冒頭に記されている「信教の自由は、何人に対しても保障する」の部分を恣意的に拡大解釈したのでしょうが、憲法の条文には宗教団体に対する政治活動の自由の保障という表現は見えません。否、政治活動の自由が保障されているのであれば、そもそも、憲法が政教分離を定める理由がなくなってしまいましょう。

たとえ戦前の国家神道を強く意識して設けられた条文であったとしても、第20条の条文は、同原則の本質的な意義に鑑みて「いかなる宗教団体も」と念を押しています。むしろ、仮に特定の宗教、例えば国家神道を否定するのであれば、「国は神道には特権を与えない」、あるいは、「国教制度はこれを設けない」と記載したことでしょう。全ての宗教団体に適用される条文なのですから、当然に、創価学会にも、それを母体とする公明党にも適用されます。

また、百歩譲って川口代表の悪しき拡大解釈を認めるとしても、今度は、第20条が支離滅裂な条文となってしまいます。同解釈に従えば、憲法第20条は、「宗教団体は政治活動を行う自由が保障されているけれども、政治権力を行使することはできない」と述べていることになるからです。それでは、創価学会は、政治活動を‘行う’のみの宗教団体なのでしょうか。仮に、創価学会が同解釈をとるならば、公明党は解散すべきです。しかしなら、現実には、政党として公明党を設立し、公明党議員を国会に送り出すのみならず、連立政権の与党として政治権力を行使しています。しばしば、議会と政府は異なるので、前者の議員であれは政治権力の行使には当たらない、とするアクロバティックな擁護論も聞かれますが、公明党は、国土交通大臣のポストの長期独占が問題視される与党ですので、この弁明も通用しません(自民党憲法改正案において政治権力の行使の禁止を削除したのは、創価学会や世界平和統一家庭連合への配慮では・・・)。

1980年代頃からカルト教団の問題が深刻化したために、フランスの国民議会は調査委員会を設け、1995年12月に『フランスにおけるセクト』という同委員会が作成した報告書を採択しています。同報告書は、カルト(セクト)と判断する10の基準を示したことでも知られており、その第10番目の基準には、「公権力への浸透の企て」とあります。同報告書、並びに、1999年の報告書において調査対象となったセクト教団のリストには、創価学会、並びに、統一教会の名称も見えます。その後、2000年2月に反セクト法が制定され、カルト教団は公的監視の下に置かれることとなるのです。ヨーロッパでは、フランスの他にもベルギーなどでも同様の対策が行われていると共に、EUレベルでの取り組みも見られます。

公明党の山口代表は、自民党に対して国民の不信感を払拭するように求めていますが、国民の大多数は、世界平和統一家庭連合のみならず、創価学会に対しても強い不信感を抱いています。否、同団体が日本国の公権力に浸透し、憲法に反して政治権力を半ば私物化していると見なしているのです。今般の問題の核心は、霊感商法と言った刑法上の問題ではなく、政治と宗教団体との関係、即ち、政教分離にあるのですから(宗教団体は世界支配ネットワークの一部である可能性も高い・・・)、公明党は、自民党への批判は自らにも向けられたものであることを自覚すべきなのではないでしょうか。そして、国会は、国民の要望に応え、カルト教団を政治から排除すべく、政教分離を徹底する対策と法整備を急ぐべきではないかと思うのです。

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緊急事態条項への尽きない懐疑

2022年08月18日 12時16分24秒 | 日本政治
 憲法改正と申しますと、先ずもって誰の頭にも浮かぶのは、日本国憲法第9条ではないかと思います。同条は、戦争放棄を定める故に日本国憲法の最大の特徴であり、この条文があってこそ、戦後長らく日本国の平和が守られてきたと信じる国民も少なくありません。その一方で、冷静崩壊後の中国の急速な軍事的台頭や北朝鮮の核・ミサイル開発問題は、日本国の安全を脅かしております。日本国を取り巻く国際情勢が著しく変化しているため、国民世論も、憲法改正賛成に大きく傾いてきています。このまま憲法改正の流れが加速し、政治レベルでも改正手続きに入る勢いであったのですが、ここに来て、雲行きが怪しくなってきています。何故ならば、コロナ禍を機に緊急事態条項の新設という、新たな問題が浮上してきたからです。

 ‘新たな問題’とは申しましても、平成24年に公表された「自民党憲法改正案」には、既に緊急事態条項は、第98条並びに第99条(第9章)として書き込まれています。新設されたこれらの条文を読みますと、いささか背筋が寒くなります。何故ならば、これらの緊急事態条項は、政府またはその‘雇い主’である超国家権力体によって濫用、あるいは、悪用されかねない‘隙’に満ちているからです(これらの‘隙’は、敢えて意図的に設けられているのでしょう・・・)。

 なお、自民党は、今般の憲法改正に際して強調している「4つの変えたいこと」の一つに「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」を挙げています。現在公開されている自民党のウェブサイトでは、同条項新設の必要性について将来における南海トラフ大地震や首都直下地震への備えとして説明しています。その一方で、「自民党憲法改正案」では、想定される事態として「我が国に対する外部からの攻撃」を一番目に挙げており、地震等の災害時については二番目の「内乱等の社会秩序の混乱」に続いて三番目となります。この順序からしますと、2012年にあって想定されていた緊急事態とは安全保障上の有事であったことが分かるのです。

このことは、10年前と今日では緊急事態に関する認識の比重に順位に変化が生じており、今日にあっては、災害時における同条項の活用が現実味を帯びてきていることを示唆しています。マスメディアも、頻繁に南海トラフ地震の発生が近づいているといった警戒報道を繰り返しています。あるいは、多くの国民が懸念しているように、大地震の想定は国民を納得させるための‘表看板’に過ぎず、真の狙いは、今般のコロナ禍といった疫病の蔓延をも緊急事態に含めることで、ロックダウンの強行やワクチンの強制摂取に憲法上の根拠を与えたいのかもしれません。

いささか回り道をしましたが、憲法改正後に緊急事態の宣言がなされる事態として、安全保障上の有事に加え、自然災害という想定されていることを踏まえ(内乱等については、中国や北朝鮮系の国内居住者による蜂起、あるいは、政府に対する国民の反乱への備え?)、以下に、同条項の危険性について検討してみることにしましょう。

先ずもって確認すべきは、緊急事態宣言が発令されますと、日本国の統治権力は、内閣総理大臣に集中するということです。第99条1項には、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効果を有する政令を制定できるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とあります。

この条文からしますと、緊急事態宣言が発せられた場合、国会による立法措置を経ることなく、内閣総理大臣は、内閣に諮りつつも自らの独断で法律を制定し、命令を発することができます。加えて、地方自治体の長は内閣の指示に従う義務が生じますので、地方自治も事実上停止されます。結果として、日本国の統治機構における権力分立が、垂直(中央・地方)・水平(立法・行政)の両レベルで消滅することでしょう(司法の独立性も人事等を介して風前の灯火に・・・)。いわば、首相独裁体制とでも言うべき体制が出現することとなります(有事にあっては、何れの国も戦時体制に移行する・・・)。

こうした集権体制は、国民の側の義務の強化によって完成されます。同条の3項には、「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体、財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関が発する指示に従わなければならない」とあり、政府の指示に従う国民の義務が定められています。ここに国民の義務が明記されていますので、同体制下では、国家と国民との間に命令と服従という関係が成立するのです。

緊急事態における強制措置については、自国の存亡に関する危機的な状況、即ち、敵国からミサイル攻撃を受けたり、自国に敵軍が上陸するような場合には一定の根拠を認めることはできます。国民を避難誘導したり、攻撃を受けた場合、被弾に際して被害拡大の可能性のある施設などを撤去する必要があるからです。この点、局所的となる自然災害の方が必要性が高いとは言えないかもしれません。否、今般のコロナ禍のように、ロックダウンが経済活動を停止させたり、ワクチンの効果や安全性に疑いがある場合には、政府による強制的な措置は、むしろ国家が自国民の生命、身体、財産を損ねかねないという問題も生じます。

同宣言の発令条件の曖昧性からすれば、首相による恣意的な決定もあり得ますので、首相への権力集中に対する懸念の声が強まるのも当然です。もっとも、こうした批判や懸念に対しては、国会の関与を根拠とした反論もないわけではありません。確かに、緊急事態宣言の発令に際しても、国会による事前・事後の承認等が定められており、内閣に対して国会の制御機能が働くように設計されています。しかしながら、これらの安全装置も、実際に働くのかどうかは怪しい限りなのです(つづく)。

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政教分離を‘骨抜き’にする自民党の憲法第20条改正案-カルト国家化への道?

2022年08月17日 11時16分54秒 | 日本政治
 平成24(2012)年に公表された「自民党憲法改正案」を読みますと、天皇の神聖性が失われ、皇族の俗人化も急速に進む時代にありながら、天皇を中心とした‘神の国’の建設を目指しているように思えます。‘神の国’、あるいは、‘神聖国家’と申しますと、国民の多くは、日本国の伝統宗教である神道に基づき、現人神である天皇を国家祭祀の長とする戦前の国家体制を思い浮かべるのでしょう。しかしながら、世界平和統一家庭連合や創価学会等の新興宗教団体による活発な政治活動をからしますと、自民党が改正案で示している方向性は、必ずしも明治憲法下の国家体制への回帰ではないようです。

 それでは、自民党が理想とする国家像にあって、政治と宗教とは、どのような関係となるのでしょうか。「自民党憲法改正案」は、政教分離の原則を定めた現行憲法第20条についても、改正案を記しています。この改正、実のところ、政教分離原則の骨抜き案なのです。何故ならば、現行の憲法第20条に明記されていた「いかなる宗教団体も、・・・政治上の権力を行使してはならない」とする政教分離の核心となる箇所が削除されているからです。即ち、憲法が同草案通りに改正されるとなりますと、特定の宗教団体が政治権力を行使することが憲法上許されることとなり、近代国家の統治上の原則ともされてきた政教分離の原則が日本国から消滅してしまうのです。

 政治の領域を宗教的非合理性から守る防波堤の役割を担ってきた政教分離の原則が失われるのですから、この問題は重大です。国民も危機感をもってより強い関心を寄せるべきなのですが、マスメディアを始め、政治サイドにあっても同改正案については積極的に触れようとはしません。その背景には、‘寝た子を起こすな’と言わんばかりに、国民が睡眠状態にある間に改正案を通してしまいたい同党の思惑が推察されるのです。

宗教であれ、政治的イデオロギーであれ、権威の絶対化や洗脳は、国民を自らに服従させ、強力な支配の手段となるのは、中国や北朝鮮の国家体制を見れば一目瞭然です。神やイデオロギーを持ち出せば、如何なる人物でも権威を纏うことができますし、人々もその言葉に従わざるを得なくなるからです(凡庸な‘おじさん’でも、ひとたび教祖を名乗ると人々がひれ伏す権威となってしまう・・・)。それ故に、権威主義体制における儀式は、国民の心理操作のための舞台装置であり、大げさな演出が施されるのでしょう。

しかも、宗教的権威者の言葉が‘神の言葉’として発せられますと、人々は、世俗の政治問題や政策であっても、自由に議論することが難しくなります。今般、自民党の改正案が実現すれば、国民が民主的選挙によって選んでもいない人物が、宗教団体の長という立場から日本国の政治を左右する光景を目にすることとなりましょう。否、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに、公明党と創価学会との関係を見れば、この懸念は、既に現実のものとなっています。公明党は、連立与党の一角として政治権力を行使していながら解散を命じられないのは、違憲訴訟が起こされ、違憲判決が下されていないからに過ぎないからです。図らずも、今般の自民党の改正案は、現憲法下にあって公明党や世界平和統一家庭連合等の活動が違憲であることを示すことにもなったのですが(改憲しなければ合憲性を得られない・・・)、この手法は、悪しき行為を犯罪と認定されないために犯罪リストから外し、同悪質行為を野放しにするようなものです。

人々を内面からも支配したい者の側からすれば、政教分離の原則は自らの目的達成には障害となるのであり、自由や民主主義と並んで取り除きたい原則の一つです。そして、この改正案は、保守政党の立場から自民党が伝統宗教である神道を重んじたいのではなく、公明党や世界平和統一家庭連合、あるいは、超国家権力体からの要請なのでしょう。公的団体による宗教活動の禁止については、社会的儀礼や習俗的行為の範囲を越えなければ許容されるとする一文が加筆されていますが、この基準はいかにも曖昧です。超国家権力体の‘工程表’には、第一段階において新興宗教系の宗教政党を既成事実化し、第二段階においてはこれらを合憲・合法化し(今般の改正案・・・)、最終段階では、これらの新興宗教団体が天皇家に浸透する、あるいは、乗っ取ることで‘神の国’としたいのかもしれません。実際に、‘天皇’という名称だけは継承されつつも、新興宗教団体等からカルト的要素が既に流入し、今日の皇室は、著しく変質した‘別物’となりつつあるようにも見えます。

憲法改正に際しては、自民党は、目下、「4つの変えたいこと」として「「自衛隊」の明記と「自衛の措置」の言及」、「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」、「参議院の合区解消、各都道府県から必ず1人以上選出へ」、並びに、「教育環境の充実」の4項目を挙げています。国民の関心もこれらの項目に集まりがちですが、カルト国家への道となる政教分離の原則の骨抜きにつきましても、それが日本国の国家体制や独立性にも関わるだけに、日本国民は十分に警戒すべきではないかと思うのです。

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自民党憲法改正案にみるカルト的要素

2022年08月16日 14時34分05秒 | 日本政治
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、日本国の隷従化を公言して憚らない韓国系新興宗教団体である上に、教祖独裁とも言うべき神政政治を目指していただけに、同教団と密接な関係を築いてきた自民党は、目下、保守政党としてのイメージ崩壊という危機に直面しています。しかも、新興宗教団体による政治介入の問題は、連立を組む公明党にも波及しており、政界全体に対する国民の政治不信を決定的なものとしています。国民から湧き上がる真相究明を求める声に対して、自民党は、政治家個人の問題、あるいは、霊感商法や献金などの反社会的活動の問題に矮小化しようとしていますが、同党の弁明の通り、組織全体としての影響は全く受けていないのでしょうか。

 この問題を考えるに当たって、注目されるのは自民党の憲法改正案です。同案は平成24年4月27日に「日本国憲法改正草案」として公表されています。憲法改正に際して、同等は、現行の憲法を下敷きにしながらも全文を書き換えるという方式を採用しており、実際に、自民党の改正箇所は、前文から補足を定める第11章にまで及んでいます。憲法というものは、国家体制そのものを定める最高法規である以上、全文改正とは、それが如何に微少であれ、国家体制の変更という意味合いを持ちます。このことから、自民党案には日本国の国家体制を変えようとする強い‘意思’が窺えるのです。

例えば、改正案の前文にあって「天皇を戴く国家」という表現が見られることに加え、その第一条では、天皇を元首として位置づけています。さらに、第102条では、その第1項で国民の憲法尊重擁護義務を明記する一方、第2項では天皇をその義務の主体から外しています。第102条については、自民党は、「日本国憲法改正案Q&A(増補版)」において「政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すことはできない」と説明していますが、憲法は政治的権能のみについて記しているわけではありませんので、同党の説明で納得する国民は多くはないことでしょう。

そして、天皇が‘国民ではない’とすれば(同問題については見解が分かれている・・・)、天皇は、憲法によって憲法を遵守する義務から免除された特別の存在となります。近年、自公連立政権下にあっては、安部元首相の国葬をはじめとして、憲法や法律に根拠がないからこそ、超法規的な決定が行われる事例が目立つようになりましたが、悪しき反対解釈が蔓延れば、憲法を遵守する義務がないのですから、天皇が憲法において禁じられている政治的権能をその権威において行使する可能性も否定はできなくなります。

‘不可侵’な存在として君主を法の枠外に置く形態は、プロシア憲法などかつての立憲君主制の国の憲法にしばしば見られるのですが、自民党の目指す国家像とは、国民から超越した頂点において天皇が君臨する戦前の明治憲法下の体制に逆戻りしているようにも思えます。国体というものが、天皇と日本国とを一体化した国家体制を意味するならば、日本国は、‘天皇の国’ということになりましょう(森元首相も、「日本は天皇中心の神の国」と発言・・・)。

戦前であるならば、あるいは、自民党の国家間に対して賛意を示す国民も少なくなかったかもしれません。神武天皇を初代とする皇統の万世一系が固く信じられ、天皇は、現人神とされていたのですから。しかしながら、今日にあっては、皇統の継続性に関する懐疑論に加え、民間から皇妃を迎えるのが一般化するにつれ、血統における皇族と一般国民との違いは急速に薄らいでいます。天皇については、地位と血統との乖離が生じており、伝統に根ざした国民的な信仰の対象とは言い難くなっているのです。むしろ、メディアの報道ぶりからしますと、北朝鮮をも彷彿させるパーソナル・カルト化が懸念される状況にありましょう。

こうした天皇や皇族を取り巻く今日的な状況に鑑みますと、天皇並びに皇族のパーソナル・カルト化は、世界平和統一家庭連合との接点としても理解することもできます。何と申しましても、同教団の教祖である文鮮明氏は、「日本の天皇と韓国の王とが交差結婚をしなければならない。」「日本の皇室と(文教祖の)孫たちが結婚する時が来て、すべての国の王権の代表者たちと結婚する時代に入る。」とも述べているのですから。

憲法改正を改正することによって自民党が描く日本国の未来像は、世界平和統一家庭連合の文鮮明の子孫による日本国支配というカルト国家構想とそれほどには離れてはいないかもしれません。そして、この両者の近似性は、背後に姿を隠している超国家権力体の世界支配構想においてこそ説明されるように思えるのです。

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岸田政権の防衛費増額方針への懸念-通常兵器では勝てない

2022年08月15日 13時42分42秒 | 日本政治
 本日8月15日は、昭和天皇が玉音放送により連合国が発したポツダム宣言の受け入れを表明した日として人々の記憶に刻まれています。毎年、決まって青い空が広がる蒸し暑い日となるのですが、先の大戦において失われた尊い命への思いから、どこか厳粛な空気に覆われます。鎮魂と平和への祈りの日でもあるものの、今年は、例年といささか様子が違っているように思えます。ウクライナに続き台湾にあっても有事が絵空事ではなくなり、戦争というものが、再びリアルな情景として迫ってきているからです。

先日、岸田文雄首相も、今般の内閣改造にあたり、対中防衛力強化を目的とした防衛費増強の方針を重ねて強調していました。ペロシ米下院議長の訪台を機とした台湾海峡の緊張の高まりを受けた、国際情勢の変化への迅速なる対応として国民にアピールする狙いもあるのでしょう。あるいは、中国脅威論をもって故安部元首相の‘遺志’ともされる憲法改正への追い風としたい思惑もあるのかもしれません。同方針に異を唱えるマスメディアも殆どなく、あたかもシナリオ通りに既定路線を歩いているかのようです。

戦前であれば、政府やマスメディアによる煽りに乗せられて、国民の多くも‘時代の潮流’に抗うこともなく、突然に舞い込んできた‘開戦の報’に狂喜さえしたのでしょう。しかしながら、今日の日本国民の多くは、同大戦が残した歴史の教訓に学んでいますし、かつ、核時代を生きています。岸田政権が誘導する方向に国民が動くかどうかについては、すこぶる疑わしいのです。

そもそも、真珠湾攻撃という奇襲については、当時、イギリスがアメリカの参戦を渇望していた点を考慮しますと、‘嵌められた戦争’という見方も強ち否定はできません。また、国際社会全体が地政学的戦略思考という魔に取り憑かれていた時代でもあり、不要な戦争を、二項対立を経た世界支配の段階的プロセスにおける必然、あるいは、合理的な行為として遂行されていた側面もありました(ヘーゲル哲学の影響?)。戦後は、世界各地において植民地の独立もあり、民族自決(民主主義)、主権平等、内政不干渉等の原則に基づく現代国民国家体系が成立しましたが、戦後にあっても、しばしば世界支配の思惑がグローバルな経済利益と結びついて顔を見せるのです。そして、第三次世界大戦、並びに、核戦争のリスクが現実的な危機として認識される今日もまた、超国家権力体が描くシナリオが発動される危険な局面にあると言えましょう。

 それでは、日本国が得た歴史の教訓と核兵器の存在は、岸田政権の防衛力増強方針にどのような疑問を投げかけているのでしょうか。先ずもって、通常兵器の増強は、仮想敵国が軍事大国、かつ、核保有国である中国である以上、結局、財政上の無駄となるどころか自国に破滅的な被害を招きかねないのではないか、という重大な懸念があります。たとえ、中国が、核兵器の先制不使用の原則を堅持し、双方が通常兵器のみで戦う場合、戦場となるのは日本国となる公算は極めて高いと言わざるを得ません。台湾をめぐり米中開戦となった場合でも、中国は、米軍基地が置かれている日本国に対して攻撃を仕掛けるでしょうし、尖閣諸島に対する人民解放軍による直接的に軍事侵攻が発端となって日中戦争に至る場合にあっても、主たる攻撃の対象は日本国となりましょう。そして、先の戦争にあって、仮に原爆投下がなければ本土決戦となり、一億玉砕を覚悟しなければならなかったように、今日の対中戦争でも、通常兵器による攻撃は日本国を焼き尽くかもしれません。ロシアの軍事介入によって占領されているウクライナ東部は、主戦場となったために破壊し尽くされ、廃墟と化しているとも報じられています。

 また、本ブログで再三指摘しているように、一方が核保有国であり、かつ、もう一方が非核保有国である場合には、戦う前から戦争の結果は分かっています。核兵器の使用が勝敗の決定要因となる点も、第二次世界大戦の経験を得た教訓です。先の大戦では、日本国側が著しい劣勢にある状態での米軍による使用でしたが、日本国も、起死回生を期して原子爆弾の開発に取り組んでいました。核兵器を前にしては通常兵器における闘いは無に等しく、非核保有国にとりまして核の非対称性は越えることができない限界を意味するのです。

 もっとも、日本国は、日米同盟の下でアメリカから核の傘の提供を受けていますので、アメリカが日本国を見捨てない限り、上記の懸念は杞憂に過ぎないと言うことになります。しかしながら、自国が中国から核攻撃を受けるリスクを覚悟しつつ、日本国のために核のボタンを押すとは考えられず、上記の懸念は現実のものとなる可能性は決して低くはありません。アメリカが同盟国を信頼していれば、日本国が核を独自に保有することには抑止力を増強こそすれ何らの問題もなく、むしろ、肩の荷が降りるはずです(日米間にも核の相互抑止が働きますし、今日にあって、原爆投下の復讐のためにアメリカに対して核攻撃すべきと考える日本人は殆ど皆無では・・・)。

 合理性に徹して予測すれば、岸田政権による防衛力増強の具体的な内容には、核保有が含まれる必要がありましょう。通常兵器だけを増強しても、核という強力な後ろ盾がなければ、防衛力のみならず、抑止力としての効果も自ずと限られてしまいます。また、アメリカとの核シェアリングではなく、核の単独保有でなければ、核の非対称性に陥るリスクから逃れることができません。NPTにあっても合法的に脱退できますので、日本国は、独自に核武装をし得る状況下にあります。それにも拘わらず、岸田政権が、非核化の路線に固執し、核武装を政策オプションから外すのであれば、日本国民の多くが薄々気付いているように、岸田内閣が、超国家権力体の傀儡政権である可能性は俄然高まりましょう。先の戦争における悲劇を繰り返さないためには、国民こそ、“時代の潮流”なるものに迂闊に流されることなく、知恵を絞って罠から逃れる術を探るべきではないかと思うのです。そして、この問題は、‘世界大戦’並びに‘世界支配’と不可分に結びついているだけに、日本国のみの問題ではないのかもしれません。

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