万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

コロナワクチン集団訴訟に見る政府の無責任

2024年04月26日 11時04分18秒 | 日本政治
 新型コロナウイルス感染症の出現は、人類史上初めてmRNAワクチンが実用化される機会となりました。パンデミックへの対応を理由とした緊急承認によるものですが、同ワクチンをめぐる政府の対応は、国民に拭いがたい政府不信を残すことにもなったのです。何故ならば、同ワクチンを接種する人が増えるにつれ、健康被害を疑う声が広がりつつも、政府は、アナフィラキシー等の一般的なワクチンの副反応については認めたとしても、頑としてmRNAワクチンと健康被害との因果関係を認めようとはしなかったからです。今なおこの頑迷な姿勢は続いており、岸田政権の支持率低下の一因とも言えましょう。
 
 国民の政府に対する不信感が募る中、今月の4月17日に至り、ようやくコロナワクチンによる健康被害を訴える集団訴訟が起こされることとなりました。政府は同ワクチンの危険性に対して十分な情報を提供せず、同情報隠蔽は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の尊重を定めた憲法第13条に違反するとして損害賠償を訴えたのです。

 もっとも、同条は、‘公共の福祉に反しない限り’とする制限付きではあります。このため、政府は、おそらく国民多数の命を守るため、すなわち、集団免疫の成立を目的とした政策であって、公共の福祉により正当化し得ると主張するのかも知れません。しかしながら、百歩譲って集団免疫を実現させるための政策であったとしても、リスク情報の隠蔽が正当化される事由となるとは思えません。人体に対してmRNAワクチンには不可逆的な影響を与えるリスクが既に指摘されていたのですから、実際にワクチンに死亡リスクや健康被害リスクがあれば、政府が掲げた目的とは逆に、国民多数の命を危険に晒す可能性もあったからです。すなわち、リスク情報の隠蔽は、国民の判断を接種の方向に誘導しますので、殺人の罪や傷害の罪となりかねないのです(故意、あるいは、未必の故意・・・)。否、そもそも、如何なる場合であれ、政府による情報隠蔽や情報操作が許されるはずもなく、政治責任に留まらず、刑事責任を問われても致し方ないと言えましょう。

 なお、集団訴訟を受けて林官房長官は、「不可避的に生じるリスクがあること、健康被害については、予防接種法に基づく健康被害救済制度があることなどについて周知を行っていると承知している」と述べています。如何なるワクチンであっても、多少のリスクは付きものであるから、救済制度を利用すればよし、ということなのでしょう。実際に、損害賠償を訴えている13人は、政府から因果関係を認められた方々です。賠償請求額の総額は凡そ9100万円であり、同額には、慰謝料や未払いとなった死亡給付金が含まれているそうです。救済制度の対象と認められる場合には、裁判所が賠償金の支払いを政府に対して命じ、かつ、政府もこれを認める可能性もあるのですが、問題は、政府に誘導されてワクチンを接種してしまったその他の国民の被害です。

 同訴訟は、政府の情報隠蔽行為を憲法第13条違反とするものですので、実のところ、国民全員が原告となり得る性質のものです。とりわけ、今日、超過死亡者数の急激な増加、並びに、万単位の健康被害が報告されており、漠然とした体調不良を訴える人々を含めますと、表に出ないまでも水面下では相当数の被害が発生しているものと推測されます。しかも、世代を超えてマイナス影響を与える可能性もありますので、実際の被害がどの程度であるか、皆目見当も付かない状況なのです。今後、医科学的にmRNAワクチン、あるいは、同ワクチンの‘内容物’の有害性が証明されれば、政府も因果関係を認めて被害を認定せざるを得なくなりましょう。仮に、全ての被害者が国に対して賠償するとしますと、その額はかなりに上るものと推測されるのです。ワクチン救済制度は、極めて少数の健康被害を想定していますが、それが多数となるのですから、政府の義務的支出は膨れ上がることになります。

 国の責任は重いものの、賠償金は国庫より支払われますので、政治家や厚生労働省といった政府の構成メンバーの懐が痛むわけではありません(もっとも、刑事責任が問われる可能性はある・・・)。河野太郎氏をはじめ、政治家は、しばしば‘私が責任をとります’といった言葉を軽々しく口にしますが、実質的に失政の責任を負わされるのは、国民自身なのです。救済予算確保を口実として、岸田政権は、今度は‘ワクチン救済増税’を言い出すかも知れず、国民は、踏んだり蹴ったりなのです。

 今日の状況を見る限り、政府が強力に推進したワクチン事業は、真に国民のためのものであったのか、疑問になります。無料接種とはいえ、その費用は全て国民の負担ですし、被害が生じれば、その賠償も国民の負担となります。肝心のワクチン効果につきましても(政府の説明も二転三転している・・・)、接種しなかった場合との比較は悪魔の証明ともなりますので確証はなく、自身、あるいは、身近な人々にも健康被害が疑われる症状が散見されるとなりますと、武漢に始まる一連のコロナ禍とは、一体何であったのか、否が応でも疑いは深くなるばかりなのです。何れにしましても、政府や政治家が自らが責任をとりきれないような政策を国民に押しつける現状のシステムは、制御機能を強化する方向において、改革を要するのではないかと思うのです。

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河野太郎氏の罪はワクチンリスクを否定したデマ発言では

2024年04月25日 13時00分16秒 | 日本政治
 今般、コロナワクチンについては重大なる健康被害があったとして、国に対して損害補償を求める集団訴訟が起こされることとなりました。コロナワクチンは、mRNAワクチンという人類史上初めて登場した新種ワクチンであり、当初より、医科学的な見地からもそのリスクが指摘されておりました。しかしながら、新型コロナウイルス感染症の脅威のみが強調されると共に、政府側による国民に対する強力な接種圧力があり、感染率も重症化率も死亡率も極端に低かった日本国が、事もあろうことか、新型ワクチン接種率にあって世界トップレベルに躍り出てしまったのです。

 日本人のみがCovid19に対して強い免疫あるいは抵抗力を示す現象については、ファクターXの存在が取り沙汰され、同ファクター探しの方がむしろ人々の興味をかき立てていた観さえありました。アメリカやヨーロッパ諸国ではパニック状態にありましたので、日本国は、比較的安定した状況にあったと言えましょう。こうした中でのワクチン接種率の飛躍的な上昇は、日本国政府のワクチン接種促進政策を抜きにしては説明できません(同調圧力の利用とも・・・)。このため、今般の集団訴訟でも、同政策に責任を負う政府に対して損害賠償が求められることとなったのです。

 ワクチン被害における政府に対する責任追求において、とりわけ批判が集中することとなったのは、河野太郎現デジタル大臣です。同氏は、当時にあってワクチン接種推進担当相を務めていたからです。今般の集団訴訟が報じられますと、SNS等において同氏に対して‘新型コロナワクチン後遺症の責任はとらないのか’とする声が殺到し、河野氏自身も、Xにて回答せざるを得ない状況に追い込まれたのです。

 責任を問う声に対する同氏のXでの回答を読みますと、その基本姿勢は、担当大臣としての‘職務上の責任’の如何に限定されているようです。担当大臣として、ワクチンを無駄にしないための指示を行なったことや(無駄にしないために接種すべしとする発想自体が恐ろしい...)、地方自治体に対して裁量権を承認したことなどに対する責任に限られているのです。その狙いは、自らの責任を一部の職務内容に矮小化する、あるいは、自らを政策の実行者に位置づけることで政策の決定責任を回避することなのでしょうが、もう一つ、意図があるとしますと、それは、‘デマ発言隠し’なのではないかと思うのです。

 回答で述べている職務上の責任については、国民の多くが知り得ない事柄ばかりです。このため、当時の職務上の細かな判断を尤もらしくつらつらと述べられると、デマ発言を忘れてしまう人も少なくないかも知れません。しかしながら、当時にあって最も国民に強いインパクトを与えたのは、医科学的な根拠のある指摘を含めてワクチンリスクをデマと断定した‘デマ発言’なのではないでしょうか。同発言によって一種のワクチン安全神話が誕生し、同氏の発言を信じた国民の多くがワクチン接種を決断したことでしょう。その一方で、ワクチンリスクを指摘する情報は、悉く封じられてしまうのです。

 ワクチン接種とは、正当行為となる治療行為ではなく、感染の予防を目的に健康な人々に打ちますので、ワクチンが有毒である場合には、他者の生命や身体を害する他害行為となりかねません。コロナワクチンの場合、ワクチンと健康被害との間に因果関係が存在しながら、それを政府側が全面的に否定し、接種を一方的に推奨したとなりますと、政府が国民を‘騙し討ち’にしたと見なされても致し方がないのです。とくに日本国の場合には、リスクとメリットとの比較考量では、前者の方が高い可能性が極めて高いのですから。

 ここに、政府による危険なワクチン接種の推進事業が刑法上の違法行為となる可能性が生じることとなります(日本国憲法第21条並びに第25条違反の可能性も・・・)。そして、同時に、WHOや政府によるパンデミックや緊急事態の認定は、違法性阻却の事由となるのか、という問題も提起されることとなりましょう(因みに、昨日4月24日に日本国政府が有識者会議に提出した新型インフルエンザ等対策政府行動計画の改定案では、より強い措置がとれるとしている・・・)。そして、医科学的な見地からのワクチンリスクを政府は知っていたのか、という点も、故意であるのか、過失であるのかを判別する論点ともなりましょう。

 刑事責任や違憲性等については今後の議論を要するものとなりますが、少なくとも、当時にあって河野氏は、ワクチン接種が建前として任意である以上、判断材料としてリスク情報も徹底的に収集し、ワクチン接種推進担当相として国民に提供する義務があったはずです。職務上の責任とは、事務的な作業指示のみではありません。政治家として当然に果たすべき国民に対する説明責任を怠ったのであり、しかも、調べもせずに安全宣言を行なったのですから、その罪は重いと言えましょう。政治家は結果責任を問われますので、コロナワクチンと健康被害との因果関係が証明された時点で、河野氏は国民に対して潔く責任をとり、閣僚職のみならず、国会議員の職も辞するべきではないかと思うのです。

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マイクロソフトのAIデータセンター対日投資の先にあるもの

2024年04月19日 10時56分59秒 | 日本政治
 先日、日本経済新聞においてアメリカのマイクロソフト社が、AIデータセンターを拡充するために凡そ4400億円の対日投資を行なうとの記事が掲載されていました。生成AIの利用拡大を見越した大型投資であり、日本国内に置かれることで個人情報や機密が護られるとして概ね好意的に紹介されています。しかしながら、同記事も指摘しているように、データセンターが稼働すると大量の電力を消費するという大問題があります。

 生成AIの電力消費量は、検索等の利用の数倍ともされますので、同サービスの普及は、電力問題と直結します。‘AIが奪うのは仕事ではなく電力ではないか’とする指摘が既に見られますが、2024年1月にIEA(国際エネルギー機関)が公表した試算によれば、2022年に約460TWh(テラワット時)であったデータセンターの消費電力量は、4年後の2026年には凡そ倍となる約1,000TWhに跳ね上がるそうです(同電力量は、日本国の総消費電力に匹敵・・・)。つまり、生成AIの利用拡大と比例して、電力使用量も増大してゆくことが予測されるのです。

 この問題に対しては、新たなテクノロジーの開発による省力化によって克服できるとする見解もあります。実際に、NTTが開発中のtsuzumihaはChatGPTと比較して学習時で300分の1、推論時で70分の1にコストダウンできるとされます。しかしながら、一端、データセンターが建設されますと、省力テクノロジーの発展に合わせて頻繁に設備を更新するのも難しくなりますので、日本国内におけるAIデーターセンターの設置は、電力問題と切り離すのは困難です。目下、日本国政府は、マイクロソフト社のみならず、国内で事業を行なう海外IT企業に対して安全保障や国民の情報保護の観点からデータセンターの国内設置を求めていますが、電力の問題に注目しますと、必ずしも‘問題なし’とは言えなくなるのです(もちろん、国内データセンターが設けられていたとしても、必ずしも情報が海外に漏洩・流出しないとは限らない・・・)。

 生成AIの利用増加に伴うデータセンター数の増加とそれに伴う電力消費量の急速な伸張が予測される一方で、日本国内では、原発再稼働の遅れ、再生エネルギーの普及、急激な円安、ウクライナ紛争などの要因が重なって電力料金の高騰に見舞われると共に、電力需要の増加する夏期や冬期では電力不足も懸念されています。この状態にあって、データセンターが続々と日本国内に建設されるとしますと、一体、何が起きるのでしょうか。

 今日、電力市場の自由化が進み、電力市場が開設されていますので、電力料金もおよそ市場の需要と供給のバランスで決まるようになっています(再生エネの買取制度も、FIP制度の導入により一先ず市場価格を織り込むように改革・・・)。供給不足が予測されている以上、生成AIの利用拡大は、さらに電力事情を逼迫化させ、価格の上昇を招く要因ともなりましょう。

 電力逼迫に伴い、電力供給量が一定であるとすれば、水利と同様に、電力の配分に関する議論が生じる可能性もあります。仮に、政府が国民生活を重視し、家庭向けの電力供給を優先するとしますと、データーセンターの設置数を制限する、同センターの電力使用量に上限を設ける、省力型への転換を義務付ける、生成AIのサービス提供を制限する、あるいは、国民や企業に対しても生成AIの使用の自粛を呼びかける・・・といった対策を講じるかもしれません。その一方で、政府は自ら積極的にデジタル化やAI導入を推進してきましたので、IT大手の事業拡大や利益を優先し、国民向けの電力供給を制限しようとすることでしょう(家庭用電力料金のみの値上げなど・・・)。近年の国民軽視グローバリスト重視の姿勢からしますと、後者の可能性の方が高いようにも思えます。

 そして、電力料金の高騰と電力不足は、中国国営企業のロゴ発覚問題で取り沙汰されることとなった「アジアスーパーグリッド構想」の推進に口実を与えるかもしれません。同構想は、今では中国の一帯一路構想に組み込まれていますが、おそらく、世界経済フォーラムに象徴される世界権力が狙っている全世界を対象としたエネルギー戦略の一環なのでしょう。同構想の存在を想定しますと、日本国内の電力問題は、あるいは、同構想への参加を迫る‘追い込み作戦’であるとも考えられます(あるいは、ワクチンビジネスから推測すれば、次世代型の原子炉開発に乗り出しているビル・ゲイツ氏の先行投資?)。

 このように考えますと、マイクロソフト社による対日巨額投資は、岸田首相が語るほど歓迎すべきことではなく、むしろ、警戒すべき予兆のようにも思えてきます。もっとも、生成AIは期待されているほどには使い勝手も利便性も高くはなく(所謂‘コスパ’が悪い・・・)、EVと同様に失速してしまう、という展開もあるかもしれません。その一方で、最も恐れるべき未来は、マイクロソフト社の生成AIサービスにおける最大の顧客が、国民監視を目的とした日本政府、否、その背後に控えている世界権力であるというものです。このケースでは、対日巨額投資は、エネルギー分野を超えて世界支配の問題へと広がってゆくことになりましょう。

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自国民ファーストこそ民主主義に適っているのでは

2024年03月25日 12時03分46秒 | 日本政治
 トランプ前大統領が、‘アメリカン・ファースト’のスローガンを掲げて2016年の大統領選挙戦に打って出たとき、リベラル派を筆頭に批判の嵐が吹き荒れることとなりました。リベラル派の博愛精神からしますと、利己的で差別的、と言うことであったのでしょう。もっとも、同大統領が当選したことにより、同スローガンは各国の選挙戦で模倣され、流行り言葉ともなりました。その一方で、先日も、‘政治は日本人だけのものではない’とする旨の発言が日本国の政治家の口から飛び出し、物議を醸しています。かつて鳩山由起夫元首相も. 「日本列島は日本人だけのものではない」と述べて衝撃を与えましたが、国家とは、一体、誰のものなのでしょうか。

 仮に持ち主がいれば、その人、あるいは、その人たちが‘ファースト’であっても、何らの不思議はありません。むしろ、当然のことと言えましょう。この当たり前の視点から国家の所有について見てみますと、今日の民主主義国家では、国家の所有者は、集団としての国民と言うことになります。それでは、日本国はどうでしょうか。

 日本国憲法の前文は、「日本国民は・・・」で始まり、「・・・正当に選挙された国会における代表を通じて行動し、・・・ここに主権が国民に『存することを宣言し、この憲法を確定する」とあります。古今東西を問わず、世襲君主制が一般的であった時代には君主が主権者でしたが、この前文は、日本国民が主権者であると謳っています。すなわち、上記の問いについては、日本国民が、日本国の所有者であると定めていると言えましょう(なお、主権という言葉には多面性があり、統治権のみならず、国家としての法人格をも意味しますので、国家の所有主体となる・・・)。現代という時代では、民主主義体制の国家であれば、何れの国であっても、主権は国民にあるのです(国民主権)。

 主権者が国民である以上、国家の統治機能は、それに属する国民自身によって、国民のために統治機能が提供されることとなります。「人民の、人民による、人民のための政治」というアブラハム・リンカーンのゲティスバーグ演説(1863年)を引くまでもなく、民主主義の本質的な意義とは、国民自身による自治であることは、自明の理と言えましょう。この点に鑑みますと、‘日本は日本人だけのものではない’という言い方は、民主主義を否定しているに等しくなります。また、日本国憲法第九九条では、憲法尊重擁護義務を国会議員にも課していますので、鳩山元首相等の政治家の発言は、同義務に反する憲法違反ともなりかねないのです。

 しかも、憲法には、国民の権利のみならず、義務をも定めています。権利と義務との関係は、通常、当事者を相互に拘束する契約関係として理解されます。政治思想では、中世以来、しばしば社会契約説が唱えられ、近代に至っても、ホッブス、ロック、ルソーといった著名な思想家達が同説に基づいて国家構成理論を展開していますが、歴史的事実を伴わないとする批判を受けつつも、憲法が明記する統治諸機関と国民との関係を見る限り、社会契約説は、国家と国民との本質的な関係を、民主主義を支える普遍的な理論として描き出したと言えましょう。そして、憲法が社会契約説においても説明される‘契約’であるならば、国民は、法的な義務や責任を負う契約の当事者の立場となるのです。この点、改めて‘自国民ファースト’が唱えられる現状は、如何に民主主義の本質が忘却されてきたかを如実に表しているとも言えましょう。

 そして、この問題は、以上の考察を踏まえて、‘日本国が日本国民のものでないとすれば、一体、誰のものなのか’という問いに置き換えてみますと、より明確に理解されるかもしれません。日本国民以外の人のものでもあるならば、日本国民は、主権を他国の人や外部勢力に侵食、あるいは、奪われていることになりますし、何らの公的義務も責任も負わない人々、つまり、‘契約’を結んでいない人々に対して権利だけを認めることとにもなるからです。リベラルな立場からの博愛主義は、実のところ、外国や外部者による主権侵害や内政干渉を容認してしまうリスクが認められるのです。このように考えますと、国家と国民との関係については、感情論よりも、より論理的に説明した方が、余程、多くの人々が納得するのではないかと思うのです。

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皇族の存在と国民のメンタリティー

2024年03月20日 10時29分06秒 | 日本政治
 日本国の歴史において天皇が担ってきた国家祭祀の継承については別に議論するとしましても、少なくとも象徴天皇並びに皇族という存在については、その必要性が著しく低下していることは、否めない事実のように思えます。政界では、皇位の安定的な継承や皇族の人数の減少を‘国家的危機’であるかのようにアピールしておりますが、多くの国民は、既に皇族に冷めてしまっているのではないでしょうか。

マスメディアの多くが‘皇室推し’をする背景には、トップの権威を利用したい世界権力の思惑が蠢いていることは、容易に推測されます。三角錐型の国家体制であれば、その頂点さえ手中にしていれば、簡単にその国民ごとコントロールできるからです。古来、政治的実権は、天皇以外の万機摂政、関白、上皇、将軍等によって担われ、御所が荒れ果てようとも、天皇は日本国の最高権威であり続けてきました。しかも、明治維新後は、国家を挙げて天皇への崇敬心を高めるべく、直接に御影を見ることも許されない神聖なる現人神としたのです。第二次世界大戦にあっては、天皇が御座します神国日本は決して負けない、とする不敗神話の下、多くの国民が戦地に赴き、そして命を落とすことともなりました。

もっとも、昭和天皇による人間宣言がありながら、戦前の天皇への国民の崇敬心が戦後も変わることなく引き継がれたのは、占領統治を円滑に進めたいGHQの思惑もあったとされます。そして、今日、国民の前に明らかとされつつある明治維新の実態からしますと、おそらく世界権力は、戦前から天皇を政治的に利用してきたのでしょう(真珠湾攻撃誘導説も・・・)。この視点からしますと、戦後にあって、むしろ天皇を失いたくなかったのは、世界権力のほうであったのかも知れません。今日にあってもマスメディアが、熱心に皇室を‘よいしょ’し、歯の浮くような言葉で礼賛する理由も理解されてくるのです。トップの権威は、利用価値があるからです。

一方、この体制は、日本国民にとりましては望ましいのか、甚だ疑問があります。権力欲や金銭欲にまみれ、かつ、背後に世界権力とも繋がる非日本系の新興宗教団体の陰さえ見えてくるにつれ、国民の意識も大きく変化してきています。そもそも神の座を降りた時点で、天皇の超越性をもって求心力の頂点としてきた三角錐型の構図も崩れてしまうのは当然のことなのです。現実において同構図が成り立たないにも拘わらず、マスメディアが懸命に持ち上げたとしても(北朝鮮のような虚偽報道も混じっている・・・)、それは、既に失われた世界を演技や演出によって再現しているようにしか見えなくなります。皇族を出迎える分別も立場もあるはずの人々が、緊張した面持ちで恭しく頭を下げている姿も、どこか時代劇の演出のような時代錯誤に映るのです。

 そして、皇族に対する特別待遇は、日本国民のメンタルにも悪影響を及ぼしているように思えます。先ずもって、現代に封建時代のような序列を持ち込みますので、卑屈な精神が植え付けられるリスクがあります。封建時代における序列は、上位の主君が下位の家臣の領地を安堵する責任も義務も負いましたので、それなりの理由があるのですが、現代の皇族への忠誠心や崇敬心の国民に対する要求は、それが、メディアによる演出であれ、理由のない不条理なものです。否、国民が納税によって皇族の生活を支えているという意味では、依存・被依存関係は逆でもあります。しかも、現代の皇族は、世界権力による‘メビウスの輪作戦’によって高貴な血筋とも言えず、皇族を前にして一斉に頭を下げるなどの封建的な儀礼の要求は、国民に屈辱を与えてしまいかねないのです。

また、皇族は世襲制ですので、生まれながらにして特権を持つ人々の存在は、若い世代の人々の士気を削ぎ、希望を挫いてしまうかも知れません。生まれだけで特権を享受し、国家予算も好き勝手に使う皇族の姿は、‘親ガチャ’の実例を見せつけるようなものですので、皇族の存在は、日本国民に停滞感をもたらしこそすれ、伸びやかな心を育てるとは思えないのです。

天皇に心酔し、皇族を熱狂的に支持する人々は、しばしば世界最古の王家である天皇家が存在するからこそ、全世界の人々から日本国が尊敬されていると主張しています(しかしながら、明治維新を考慮しますと、世界最古の王家と言えるのかは怪しい。また、そもそも、現代にあって王室や皇室が存在すること自体が誇るべきことなのかも怪しい・・・)。しかしながら、この言葉は、日本国は、天皇が存在しなければ、取るに足りない価値のない国であると言っているに等しく、国民に対して失礼ですらあります。否、現代を生きる日本国民は、天皇に依存するのではなく、一人一人の行動によって尊敬を得るべきなのであり、一強主義的な天皇依存の薦めは、国民弱体化の薦めともなりましょう(一強主義はあらゆる分野に見られ、世界権力の好むところ・・・)。

 天皇制廃止論と表現しますと共産革命が思い起こされ、何か暴力的な響きがありますが、現代という時代に照らした多面的な考察の結果としての皇族不要論であれば、一つの意見として議論するだけの価値も意義もあるように思います。天皇並びに皇族につきましては、“菊のカーテン”を開けて事実を正確に把握し、如何なるタブーも廃して国民的な議論に付すべきなのではないかと思うのです。

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提案者不明の日本国の政治-皇室典範改正問題

2024年03月19日 09時35分41秒 | 日本政治
 今般、日本国の政界では、皇室典範改正の動きが活発化してきているようです。昨日の3月18日には、自民党にあって総裁直轄とされる「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」が開かれ、皇族確保策の一つとして議論されてきた女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する案について党内で異論はなかったと報じられています。皇室典範改正は、日本国の統合に関する問題である点に鑑みますと、現状には幾つかの問題点があるように思えます。

 第一に、同会議を取り仕切る会長は皇族の姻族となる麻生太郎副総裁ですので、皇室問題の利害関係者の立場となります(しかも、世界権力の中枢とされるユダヤ系財閥とも姻戚関係がある・・・)。皇室典範の改正は日本国の統合政策の一つですので、当然に、他の政策分野と同様に中立性並びに公平性が求められるはずです。近親者の麻生副総裁が議長を務めるともなれば、表向きは党内組織であっても、同懇談会は、実質的には、皇族あるいはその支援勢力による立法過程への介入機関ともなりましょう。仮に、当事者の立場からの皇族の意見を聴く必要があるとすれば、それは、党内組織とは別に意見表明や発言の機会を設けるべきと言えましょう(国会の方が相応しい・・・)。

 第二に、麻生副総裁は、同会議において「「皇室の在り方は国家の根幹をなす、極めて重要な課題だ。限られたメンバーで、静かな環境で議論を深めたい」と述べております。この発言については、既に批判の声がかなり寄せられており、改めて指摘するまでもないのですが、現行の日本国憲法の第1条には、「この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」と明記されていますので、‘限られたメンバー’という表現は、同条文に反することとなりましょう。主権者である国民の排除し、国民的議論の回避を求めているとしか解釈し得ないからです(同発言は、‘‘限られたメンバー’は、日本国、並びに、日本国民を実質的にコントロールし続けたいから、皇室の在り方もそのメンバーのみに都合がよいように決定したい‘という傲慢な発言に聞えてしまう・・・)。

 そして、第三に挙げるべき点は、真の提案者が誰であるのか、国民には知らされていないという不透明性です。同懇談会の議題は政府が設置した有識者会議からの提案とされていますが、実際に、誰が、何時、どのような論拠をもって提案したのか、定かではないのです。女性皇族の皇籍維持案の他にも、「養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする」、並びに、「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とする」の二案があるそうです。これらの発案者についても、国民は、政府から説明らしい説明を受けてはいません。

 そして第三の問題点からも、皇室典範の改正については、国民不在の議論としたい政府の意向が透けて見えます。その背景には、皇室利権や宮内庁利権、さらには、世界権力の意向も働いているのでしょう。仮に、同提案に沿って皇室典範が改正されたとすれば、国民負担は跳ね上がることも予測されます。女性皇族が婚姻後に独立した家庭を持つともなれば、皇族費を増額する必要もありますし、その子孫達も母系にあって皇籍を維持するともなれば、代を重ねる度に、皇室維持費は国民の肩にのしかかります。また、今般の女性皇族皇籍維持案と男系男子養子案並びに皇族復帰案は相互に排他的ではありませんので、三つの案が同時あるいは複数実現すれば、さらに国民負担は増えることとなりましょう。しかも、皇族男子継承案と長系女子(長子)継承案では世論が分かれる中、三つの案のどの案であれ、次期天皇が誰になるのか、明確に国民に示しているわけでもないのです。皇位継承の行く先が不透明なまま、しかも、将来的な財政負担の問題も伏せ、国民を置き去りにしたまま、政府、否、政界は、皇室典範の改正に邁進しているのです。

 考えてもみますと、そもそも、政府が三つに案に絞ってしまっている時点で、国民は、巧妙に一定の方向に誘導されているとも言えましょう。どれを選んでも、国民には不利益になるという・・・。天皇や皇室が不可逆的に変質し、国民多数の精神的なよりどころや道徳的模範でもなくなり、世俗のセレブに過ぎなくなった今日、天皇の存在に依拠した日本国の統合の形態を維持したいと願う国民は、政府が決めつけ、メディアが報じるほどの多数派なのでしょうか。サイレント・マジョリティーを含めますと、‘そんな声は一切ない’と断言して無視できるほどに小さい声とも思えません。そして、提案(発案)権という政策決定過程の入り口における国民の声の遮断は、皇室典範改正問題のみならず、あらゆる政策領域に共通して見られる日本国の政治システムにおける重大かつ致命的な欠陥であると思うのです。

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統合の象徴は人ではないほうが良いのでは

2024年03月18日 12時41分12秒 | 日本政治
 日本国憲法の第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく。」とあります。世界広しといえども、天皇という地位を国家・国民の象徴と定め、合わせてその地位の保障を主権者である国民に委ねている憲法は、おそらく日本国憲法のみでありましょう。

 同条文では、本来両立が殆ど不可能な世襲制と民主主義との間のアクロバティックな折衷が見られるのですが、その背景には、ポツダム宣言の受託に際しての、日本国側からの‘国体の護持’という要求があったとされています。当時の日本国政府は、終戦を遅らせ、戦争を長引かせてでも天皇の地位だけは守りたかったこととなります。この揺るぎない天皇死守の決意は、国民の身を危うくする戦争被害のさらなる拡大の許容を意味しますので、戦後の天皇の地位は、国民の命と引き換えであったと言っても過言ではありません。そしてこの姿勢は、必ずしも政府のみの認識ではなく、国民の多くも天皇陛下のためならば自らの命をも捨てる覚悟で絶望的な戦争に臨んでいたのです。

 昭和天皇のカリスマ性もあって、戦後暫くの間、少なくとも昭和の時代までは、共産主義者を中心とする左派を除いては、概ね天皇の地位は安定していたように思われます。民間出身の皇妃の誕生も、天皇家と国民との間の垣根をなくし、より近しい存在として概ね国民から歓迎されました。‘親しみのある天皇家’の姿がメディアを通してアピールされ、国民の多くも所謂‘象徴天皇’を受け入れてきたのです。しかしながら、平成そして令和へと年号が移るにつれ、皇室を取り巻く雲行きが怪しくなってきたように思えます。様々な情報がネット等を介して明らかになるにつれ、根本的な疑問も沸いてくることにもなったのです。

 この問題は、そもそも明治維新とは何であったのか、という問いかけにもなるのですが、世界戦略をもって海を渡ってきた戦国期のイエズス会の活動もさることながら、江戸末期にあって、倒幕勢力の背後で英国に拠点を置くユダヤ系経済勢力が蠢いていたことは最早公然たる秘密と化しています。ジャーディン・マセソン商会のサポートによって英国留学した長州ファイブをはじめ明治の元老の多くも、同勢力の息がかかっていたのでしょう。となりますと、これらの勢力の支援の元で擁立された明治天皇、あるいは、明治の国家体制にも疑問符が付くこととなります。植民地化を防ぎ、独力で近代国家化を成し遂げたとして高く評価されながらも、明治維新後の国家体制とは、同勢力にとりまして極めて好都合であったことが強く示唆されるのです。世界権力は、外部から操るのに便利な‘一個人への権力や権威の集中’を好むからです。

 かくして、明治維新の実態を解き明かすという課題が見えてくるのですが、この問題は、戦後に始まる権威、あるいは、形式的であれ国事行為を介して政治的な行為をなし得る現行の‘象徴天皇’の問題にも行き着きます。そもそも、日本国や日本国民とは、天皇という存在がなければ纏まることはできないのでしょうか。パーソナルな人格を統合の要とする形態は、独裁者の神格化を伴う独裁体制においてしばしば見られます。超越的な一点に特別なポジションを設け、同ポジションにある人物の下に全国民が等距離に置かれるという円錐形の球心型の統合形態です(円錐のトップに特別の人物が君臨する・・・)。この形態は、権威主義体制とも親和性が高く、全ての国民がトップに対して忠誠を誓い、崇敬心を捧げることで、全体主義的なその“理想像”が完璧となるのです。

 象徴天皇を頂点とする戦後の国家体制も、それが実質的な政治的権能を伴わない権威のみであれ、球心型をモデルとしているとしますと、このモデル自体を維持することが将来の日本国並びに日本国民にとりまして望ましいことなのか、考えてみる必要があるように思えます。しかも、そもそも、神の如き無誤謬の存在ではない、一人の人間に国家や国民の統合の象徴を担わせる制度には無理があるとも言えましょう。人間である限り、必ずや過ちや失敗もしますし、トラブルにも巻き込まれたり、時には国民の反感を買ったり、反発されることもあります(統合の機能を果たせない・・・)。そして、何よりも国民が恐れるべきは、内外の私的勢力による政治的利用です。プライベートを含めて制度的に天皇を他の如何なる勢力や人脈から遮断しない限り、このリスクは常に国民に付きまとうのです。

 このように考えますと、国家並びに国民の象徴は、人ではなく、人格を持たないものである方が安全ということになります。他の諸国では、国旗や国歌などがこの役割を担っているのですが、長きに亘る日本国の歴史に鑑みれば、三種の神器という案もありましょう(三種の神器とは、古代の日本を形成していた三大国の統合の象徴かも知れない・・・)。非人格的なものであれば、欲望に起因する人間的問題とは無縁になりますし、外部勢力に乗っ取られたり、支配の道具として私的に利用される心配もなくなります。客観的な制度論からしても、論拠のある合理的な案となりましょう。政界が急いでいる皇位継承問題や女性宮家の創設よりも、今日、未来に向けて議論すべきは、より無理もリスクもなく、国民の心理的な負担も軽い自然な形での日本国の統合のあり方なのではないかと思うのです。

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伝統的権威と世界権力とのメビウスの輪

2024年03月15日 11時45分10秒 | 日本政治
 目下、政界の周辺では、女性天皇の容認や女性宮家の創設等について議論が活発化してきているようです。この現象、ここ数年来、繰り返されているようにも思えますが、なかなか結論には達していません。もっとも、同議論は、象徴天皇、並びに、それに付随する皇室制度の継続を前提としており、議題は上記の女性問題に絞られています。

 それでは、何故、今の時期に女性問題に集中するのでしょうか。おそらく、その背景には、LGBTQと同様の外圧があるのではないかと推測されます。不可解なことに、英王室でも、世論調査の結果、王室内において人気が一位となったのは、女性、かつ、民間出身にしてユダヤ系のキャサリン妃であったと報じられています。昨今、日本国内で実施されたとする世論調査の結果は、女性天皇の容認が圧倒的多数を占めているのですが、英国同様に、世論調査の高い数字については、疑ってかからなければならないのかも知れません。政治家と同様に、王室や皇室のメンバーも、その伝統的な権威は、世界権力にとりましては世界支配のための極めて効果的な手段となり得るからです。

 世界権力が支配のネットワークをグローバルに広げてきた近現代という時代では、一般の国民は、密かなる‘乗っ取り’が行なわれても、気がつかぬままでいます。今般、あまりにも不自然、かつ、露骨な言動によって岸田首相は‘悪代官’という自らの正体を明かしてしまいましたが、皇室もまた、世界権力の手中にあると見た方が、より現実に近いのではないでしょうか。陰謀の存在を否定する‘陰謀論’こそが陰謀であるとする説も、信憑性を増しつつあります。もしかしますと、皇室に海外勢力が浸透したのは、明治よりもさらに歴史を遡り、イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが来日した戦国時代頃からであったのかも知れません(織田信長が御所の制圧を試みたとされる本能寺の変も、この文脈から見直してみる必要があるかもしれない・・・)。

 皇室のみが、今なおも、古代から絶えることなく連綿と続く神武天皇の血脈を受け継ぎ、かつ、昔も今も変わらずに国家護持のために祈りを捧げている神聖なる祭祀者であると、信じるには無理があります。そもそも、明治維新に際しての天皇取り替え説を持ち出すまでもなく(大室天皇説を考慮すれば、‘小室’という姓名にも何らかの示唆的な意味合いがあるのかもしれない・・・)、『源氏物語』等に描かれている平安時代の貴族の婚姻形態からしましても、万世一系も相当に怪しくなります。しかも、戦後は、昭和天皇の人間宣言に加え、民間出身の妃が何代も続いています。

 世論調査では、皇室に対する国民の懐疑心は、一切、存在していないかのようですが、理性に照らせば、天皇の正当性に対して確証を持てない人の方が多いのではないでしょうか。事実としての証明を欠いている事柄に対して、それを信じるように求めることは、それは、殆ど宗教の強要に近くなります。内面において自らの理性が強く反発し、真偽を疑う状況にあって、天皇を国家・国民の統合として見なし、一般国民と変わらない皇族をも無条件で崇敬すように求められても、それは自らの心に嘘をつくことになりますので、苦痛でしかありません。

 しかも、万世一系を信じることは、世界権力が巧妙に構築した日本国民支配のための装置を受け入れることを意味しかねないリスクも伴います。否、現下にあって、マスメディアを介して皇族や皇室のパーソナルな行動に関する記事が数多く発信されているのも、メディアを支配する世界権力が、情報のシャワーを国民に浴びせることで‘当然の存在’のように思い込むように洗脳し、各国のトップを利用する‘世界支配の体制’を維持したいからなのでしょう。間接支配のためには、各国の国民には、常に自らが配置した‘トップ’の一挙手一投足を意識してもらわなければ困るのです。そして、ナショナルな伝統的権威とグレートリセットをもって未来を支配したいグローバルな隠れた権力との結合による‘メビウスの輪’は、いよいよもって、その著しい捻れによってちぎれてしまいそうに見えるのです(つづく)。

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一般参賀の傘現象は美談なのか

2024年03月14日 13時51分14秒 | 日本政治
 今年の2月23日の天皇誕生日には、皇居で一般参賀が行なわれ、小雨の降る中を凡そ1万5千人の人々が訪れたそうです。気温も2度という寒さであったのですが、このとき、稀に見る奇跡的な現象が起きたとの報道がありました。どのような現象かと申しますと、長和殿のベランダに皇族方が姿を見せると、誰ともなく傘を閉じ始め、皇居前広場には一本の傘も見られなくなったと言うものです。最後に閉じたのは、外国人であったそうなのですが・・・。

この現象、最初に報じられた際には美談とされていました。傘を閉じた理由は、前の歩とが傘をさしたままでは視界を遮られて後ろの人が見えなくなるので、他者への配慮が広がったとする見方であり、先ずは日本人の思いやりの精神の現れとするものです。もっとも、‘一般参賀’という特別の場であることを前提としますと、そこには、皇族に対する日本国民の崇敬心の高さやその神聖性や超越性に対する信仰にも似た感情への賞賛が垣間見られます。傘をさし続けることさえ不敬となる、絶対的な存在に対する崇拝が全員一致の行動によって現れたかのように。

明治以来、天皇は現人神として国民から崇められてきましたので、同現象に感動した人々は、おそらく令和の時代に至っても日本人の天皇に対する気持ちが変わっていないことに安堵を覚え、美談として紹介したかったのでしょう。しかしながら、皇室を取り巻く状況が昭和までの時代とは著しく変化し、皇室自身も変質している今日にあって、国民の天皇や皇族に対する意識が全く変化していないとするのは、いささか現実離れしているようにも思えます。全員が傘を閉じた現象は、別の角度から見れば、必ずしも美談ではないからです。それでは、どのような点において由々しき現象となってしまうのでしょうか。

第一に、参賀に訪れた人々の全員が傘を閉じたとしますと、皇族方は和やかに微笑みながら、冷たい雨の中に傘も差さずに自らを見上げている人々の姿を目にしていたこととなります。一般参賀ともなれば、高齢者の方が多いことでしょうから、この光景は、褒められたものではなくなります。冷たい水で衣服が濡れたままでいれば、直ぐに風邪をひいてしまうことは誰もが経験で知っています。真に‘国民思いの皇族’であれば、むしろ、傘を差すように促すべきであったと言えましょう(少なくとも、宮内庁は参賀者に向けて放送すべきであったのでは・・・)。

 第二に、周囲の空気を読んで全員が傘を閉じた現象は、同調圧力に弱いという日本国民の弱点を象徴しているとも言えます。コロナ・ワクチンの接種に際しても、政府は、国民の同調圧力を大いに利用したと指摘されています。今般の一般参賀での同調圧力も、自らの身体を顧みず、皇族あるいは他の参加者のために自己犠牲を払ったこととなるのですが、同調圧力への弱さが克服すべき課題として認識されている今日、同現象の美談化は、課題克服に逆行しているようにも見えます。そしてそれは、全体主義体制に向けて敷かれているレールにもなりかねない危うさがあります。なお、仮に今回の現象が前例となれば、‘一般参賀では傘を差してはならない’という新たな慣行が生まれることでしょう。

そして、第3に指摘し得るのは、一般参賀に集まった1万5千人の内の多くは、何らかの組織による動員ではなかったのか、という疑いです。かつて宮内庁職員の30%程度は創価学会員であるとする説がありましたが、皇室行事では、常々新興宗教団体が動員されているとする濃厚な疑惑があります(‘お声がけ部隊’などが配置されているとも・・・)仮に動員説が正しければ、皆が一斉に傘を閉じた行動も頷けます。組織を統率する現場のリーダーの行動に信者達が従ったのであれば、あたかもマス・ゲームのパネル如くに傘は閉じられてゆいったのでしょう。そして、それは、周囲の一般参賀者に対しても、強力な同調圧力となったと推測されるのです。

今日、日本国の皇室のみならず、英王室を始め各国の王室には異変が起きているようです。世界権力による既存の権威の利用も疑われる中、パーソナル・カルトともなりかねない現状をどのようにすべきなのか、抜本的な見直しや廃止をも選択肢に含めながら真剣に考えてみる時期が訪れているように思えます(国家や国民の統合の象徴は、人ではなく非人格的な存在の方が適している・・・)。皇室や王室と国民との双方において不可逆的な変化が既に起きてしまい、かつ、もはや統治において君主というものを必要としない時代にあって、世襲的な権威や権力は、世界権力に悪用こそされ、国民にとりましては、戦時体制を含む全体主義へのリスクをもたらすと共に、人類の知性や精神における成長や発展の阻害要因ともなりかねないのではないかと思うのです。

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自由主義国における学問の自由の危機とは

2024年03月08日 10時26分28秒 | 日本政治
 日本国をはじめとした自由主義国では、一見、学問の自由の保障には何らの問題もないように見えます。ネットの普及も手伝って、誰もが好きな時に好きな分野について学ぶことができます。しかしながら、その一方で、近年の動向からしますと、自由主義国でも、共産主義諸国と見紛うような極端な歪みを持つ政策が行なわれているように思えます。

 この歪みは、とりわけ教育機関や研究機関にあって起きている現象です。学問とは、これまで謎とされてきたり、分からなかったことを知ろうとする純粋な知的好奇心によって発展してきました。発見者や発明者本人の目的はどうあれ、学問の成果は、人々の心や生活を豊かにし、国際レベルであれ、国家レベルであれ、地域レベルであれ、より善き社会の実現に貢献してきたのです(もっとも、悪用されることもありますが・・・)。様々な分野にあって多くの人々が探求という作業に加わり、試行錯誤を繰り返したからこそ、途絶えることなく発展してきたと言えましょう。この側面は、自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ変わりはありません。

 この発展過程にあってとりわけ重要となるのは、開かれた可能性としての学問の自由です。権威を以て通説や定説とされた説に拘ることは、得てして真実に到達する上では障害になるものであり、実際に、発見や発明の時点にあっては正しいように思えた説でも、後に科学的証明をもって否定されるケースもあります。否、固定概念を脱した別の角度からアプローチすることで、突破口を見つけることも少なくないのです。今では流行り言葉ともなっているイノヴェーションも、本来、過去とは全く異なる発想から生まれるのであって、これを起こすためには、通説や定説と言った‘限界’を設けてはいけないはずなのです(ポッパーの言う反証可能性のようなもの・・・)。

 学問の自由を、学問にあって開かれた可能性を自由に追求することとして捉えますと、今日の学問を取り巻く状況は、危機的な様相を呈しているように思えます。何故ならば、政府が、積極的に‘限界’を設けると共に、ある特定の分野にしか予算を配分しようとはしないからです。共産主義国家であったソ連邦が軍事技術に集中投資をしたように、自由主義国でも、凄まじいまでの集中投資が行なわれているのです。

 自由主義国における集中投資の対象とは、環境、宇宙、デジタル、遺伝子工学等の生命科学なのでしょう。それは、国連のSDGsの方針とも一致していますし、また、日本国政府が推進しているカルトとしか思えないようなムーンショット計画とも軌を一にしています。新設される学部や学科も凡そこの方針に沿っており、先日も、東大が文理融合した5年制の新しい学部を創設すると発表していましたが、この構想も、生物多様性や気候変動といったグローバルな問題への取り組みという制限付きなのです。そして、これらの大本には、おそらく世界経済フォーラムが提唱するグレートリセット構想があるのでしょう。

 かくして、今日の学問の現場では、世界権力が勝手に決めた自らの未来ヴィジョンの実現に貢献する分野のみが優遇され、本来、学問の発展のために確保されるべき開かれた可能性が閉ざされています。他者にはイノヴェーションを求めつつ、自らがその最大の阻害要因となっていることに、世界権力は、気が付いているのでしょうか。学問の自由が保障されているように見えながら、その実、教育、科学技術、研究開発の政策分野において予算配分の権の握る政府は、学問を極めて狭い世界に閉じ込めているのです。しかもその費用の大半は、国民負担なのです。

 これでは、搾取的な構造が出来あがってしまっているかのようです。この結果、一部の世界権力関連の分野にあっては潤沢な資金が国庫から流れ込む一方で、他の非関連分野や世界権力の支配体制の維持に不都合となるような研究、あるいは、ビジネスからは遠い位置にある基礎研究は疎かにされ、研究者の生活は不安的な状態を余儀なくされています。これでは、たとえ純粋な知的好奇心から研究者を志したとしても断念せざるを得ず、広い視野からすれば、学問を衰退させているとしか言い様がないのです。

 日本国民は、こうした状況を望んでいるのでしょうか。民主主義が制度的に機能していれば、政策の方針転換によって国民の声は現状の是正へと向かうはずです。しかしながら、今日の政府を見ている限り、国民の声に応えるとしてたとえ教育・研究開発分野への予算を増額したとしても、上述した世界政府関連分野に吸い取られてしまいことでしょう。そして、現状の打破には、人類の叡智を結集し、世界権力を凌ぐ知性が必要とされることに気付くとき、何故、世界権力が人類の知性を潰そうとするのか、その理由も自ずと理解されてくるのです。

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世界権力は知性や学問が嫌い?

2024年03月07日 10時47分19秒 | 日本政治
 今日、技術大国を自認し、科学立国を目指してきた日本国に、異変が生じてきているように思えます。戦後、焼け野原から再出発した日本国は、自国の再起をあらゆる産業の基盤となる技術力の発展にかけ、政府も国民も科学技術の研究や開発に熱心に取り組んできました。

 かくして日本国は数々の先端技術を世に送り出してきたのですが、学問好きで向学心が強い日本の国民性は戦後に始まったわけではなく、江戸時代には寺子屋が広く普及し、世界的に見ても国民の識字率が群を抜いて高かったことを考えますと、それ以前の時代に遡ります。また、実利的な学問に限らず、本質や本源まで突き詰めて探求しようとする姿勢は、宗教も含めた哲学や思想などの精神的な学問分野にあっても顕著に見られます。そして、こうした国民性が醸成されたのは、自由な知的探求を許す寛容な空気が日本国にはあったからなのでしょう(ただし、多神教の国とはいえ、江戸時代は、イエズス会等の政治的介入を恐れ、キリスト教は禁教とされた・・・)。内向的で飽くなき探究心を持つ学究肌のタイプの国民が多く存在していたからこそ、技術力による戦後復興もあり得たのかもしれません。

 学問に対する寛容は、ヨーロッパに始まる近代国家では学問の自由とも表現され、今日では、憲法等によって手厚く保障する国も少なくありません。公的な保障対象となっていること自体が、学問が弾圧されやすい傾向にあることの証左でもあり、キリスト教の教義が絶対化された中世ヨーロッパにおける‘不自由さ’は、天動説から地動説への転換が命がけであったことが示しています。それが宗教であれ、特定の思想が国家や社会体制を支えている場合、科学的事実は、この‘絶対化’された思想によって葬り去られてしまうのです(火あぶりの燃えさかる炎は科学的事実をも焼き尽くしてしまう・・・)。

 やがて合理性を尊ぶ啓蒙の時代が到来すると、中世の世界の学問の弾圧は過去の忌まわしき行為と見なされ、学問の自由が広く行き渡るようになります。その一方で、必ずしも学問が全面的に自由を得たわけではありませんでした。例えば、宗教に代わって思想が学問を弾圧する事例も見られるようになるからです。その最たるものが共産主義であり、同思想を国教ならぬ国家イデオロギーとして採用するする国では、同思想に反する学問を追求することは許されないのです。

 今日の中国を見ましても、共産党一党独裁体制の下で習近平思想の学習が国民に義務付けられており、学問の自由は保障されておりません。否、もはや学問ですらなく、国家による国民に対する思想の強制、あるいは、洗脳と言っても過言ではないでしょう。端から見ますと習近平思想の学習は、時間と労力の無駄としか思えないのですが、同国では、ヨーロッパ中世と同様に、体制の維持こそが最優先されるのです。かくして、中国では倫理性や人間性を閑却した非人道的な科学技術の研究開発が‘中国の夢’を実現するとして許される一方で、それが如何に中国国民に資するとしても、権力分立や民主的制度研究といった、一党独裁体制を根底から揺るがすような政治学の研究が許される余地はありません。かつてのソ連邦も、国民が家電製品さえ贅沢品となるロー・テクノロジーの生活を強いられる一方で、一時はアメリカと張り合うほどに軍事技術だけは突出していたのです。

 共産主義諸国では、学問の自由が存在しないことは誰の目から見ても明らかなのですが、今日の危機は、むしろ学問の自由が保障されているはずの自由主義国にあるように思えます。日本国政府を見ましても、基本方針に据えられているかのように反知性、反学問の姿勢が顕著であるからです。そしてそれは、古来、学問好きであった日本国民のみならず、グローバル・レベルでの‘同調圧力’として人類に迫ってきているように思えるのです(つづく)。

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竹島問題はサンフランシスコ講和条約に基づいても解決できる

2024年02月19日 12時14分08秒 | 日本政治
 竹島問題については、紛争発生以来、アメリカ政府の勧めもあって、日本国政府はICJ(国際司法裁判所)による解決の道を模索してきました。しかしながら、日本国側から解決付託を提案する度に韓国側が拒絶してきたため、同案は実現することなく今日に至っております。ICJの規程並びに規則によれば、紛争当事国の合意がなければ訴訟は原則として受理されないからです。このため、単独提訴も検討されていますが、どうしたことか、日本国政府は、その一歩を踏み出せないでいたのです。こうした中、フィリピンの単独提訴を常設仲裁裁判所が受理し、実際に判決も下されるという事例が、単独提訴の先鞭を付けることとなりました。日本国政府にも、国連海洋法条約を活用するという選択肢が現実味を帯びてきたのです。領土問題に直接に踏み込まないまでも、竹島問題を司法解決する道が見えてきてきたのですが、近年の国際司法の動向から、もう一つ、竹島問題の司法解決の道が現れてきているように思えます。

 もう一つのアプローチとは、紛争解決の手続きを記したサンフランシスコ講和条約第22条に基づくICJへの解決付託です。尖閣諸島と同様に、竹島問題も、日本国の領土権の放棄を定めた同条約第2条の問題です。同条の(a)には、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。」とあります。同条文は、今日の韓国という国の国際法上の基本的な法的根拠は同条約にあると同時に、領域までをも定めたことを意味しているのです。

 さらに、サンフランシスコ講和条約の第21条には、中国と朝鮮が有する受益権が明記されており、「・・・朝鮮は、この条約の第二条、第四条、第九条及び第十二条の利益を受ける権利を有する」と明記されています。このことは、韓国は、同条約において法的権利を有し、同講和条約が定めた日本国の領土権放棄の直接的な利害関係国であることを示しています。戦後にあって、韓国は、自らを連合国の一員と見なすように連合国側に求めながら、この要求は却下されています。しかしながら、締約国ではないものの、上記の条文からしますと、同国が、サンフランシスコ講和条約の‘事実上の当事国’であることは明白です。この点に鑑みますと、日本国政府が、同講和条約第22条を援用してICJに竹島問題、即ち、日本国が放棄した領土に竹島が含まれるのか、否か、という問題に対して判断するように求めることは不可能なことではないのです。

 しかも、同講和条約の作成過程にあって、草案の内容を知らされた韓国の李承晩大統領は、アメリカに対して間で竹島等の扱いに対してクレームを付けています。この時の米韓間の往復書簡は既に公開されており、アメリカのダレス国務長官は、韓国の要求を竹島に関する自国の調査の結果として退けています。「ダレス書簡」と呼ばれ、日本国内ではよく知られた書簡なのですが、韓国側が、サンフランシスコ講和条約の草案に意義を申し立てていたことは、決定的な証拠のある疑いようもない事実なのです。

 また、1965年に成立した日韓基本関係条約の前文にも、「一千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定及び一千九百四十八年十二月十二日に国際連合総会で採択された決議第百九十五号(Ⅲ)を想起し、・・・」とする下りもあります。日本国と韓国間の国交樹立は同条約を前提としているのであって、韓国側も、この点については承知しているはずなのです(なお、同時に日韓紛争解決交換公文では両国間の紛争の解決には調停に付すとしているものの、この合意も韓国側によって反故にされた・・・)。

 以上の諸点を踏まえますと、本来であれば、サンフランシスコ講和条約による領域の決定に意義を申し立てていた韓国側が、ICJに対し提訴すべき立場にあったと言えましょう。上述したように、実際に、草案作成段階にあって、同条約の草案作成に際して主導的な役割を果たしたアメリカに対して竹島に対する領有権を主張しているのですから。そして、その訴訟の相手国は、日本国ではなく、むしろ、アメリカを初めとした連合国諸国であったはずなのです。もっとも、韓国側による提訴は、独立間もなく、しかも、朝鮮戦争が既に始まっていた時期にあっては、非現実的な選択肢であったのでしょう。そして、竹島問題を韓国側の違法行為として認識しながら、サンフランシスコ講和条約に基づくのではなく、日韓二国間の領土問題の解決としてのICJへの共同付託を提案したのも、韓国と共に朝鮮戦争を戦わざるを得なかったアメリカの‘事情’とも考えられましょう(米韓の対立に・・・)。あるいは、仮に、アメリカが竹島問題について韓国の立場を支持する、もしくは、中立的立場を表明するならば、日本国は、アメリカに対して第2条(a)の解釈並びに運用をめぐる問題としてICJに解決を要請するという方法もあったはずなのです(この方法は、今日でも試みることが出来るかも知れない・・・)。

 ジェノサイド条約の紛争解決条項に基づいてICJがウクライナの訴えを受理したように、竹島問題についても、日本国政府は、サンフランシスコ講和条約第22条に基づく単独提訴という新たな選択肢を手にしています。韓国は、同講和条約の締約国ではないものの、直接的な利害関係国ですので、ICJが受理する可能性は極めて高いと言えましょう。また、「ダレス書簡」が存在する以上、韓国も、サンフランシスコ講和条約に関する争いであることは否定できないはずです(もちろん、韓国側の応訴の有無に拘わらず、法廷は開かれる・・・)。さらには、韓国側が一方的に竹島を占領している現状にありますので、日本国政府は、ICJに対して退去を命じるように暫定措置を要請することもできるかもしれません。国連海洋法条約に基づく単独提訴と並んで、サンフランシスコ講和条約によるアプローチも、試みるだけの価値は十分にあると思うのです。

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竹島問題でも国連海洋法条約は活用できる

2024年02月16日 13時38分49秒 | 日本政治
 国連海洋法条約は、南シナ海問題においてフィリピンが中国を常設仲裁裁判所に提訴するに際して用いられた条約です。「九段線」論など、欠席した中国が主張してきた根拠をも精査し、中国以外の凡そ全て諸国が納得する内容の判決が下されたのは、同条約にあって仲裁手続きについては単独提訴を定めていたからに他なりません。当事国双方の合意を絶対要件としたのでは、法廷が開かれることすらなかったことでしょう。

 そして、この手法は、尖閣諸島問題のみならず、竹島問題にも活用することができます。これまで、日本国政府もアメリカも、竹島問題の司法解決機関として想定してきたのはICJ(国際司法裁判所)でした。ICJの手続きでは、他の条約の解決手段としてICJが指定されていない限り、当事国間合意の要件を満たさなければ受理されないため、韓国側の拒絶の前にこの道を閉ざされたに等しい状態にあったのです。このため、日本国政府には、敢えて単独提訴に踏み切り、韓国側の拒絶理由の提示を引き出すことで圧力をかけるといった方法しか残されていませんでした。この圧力さえ、韓国への配慮からか、日本国政府は二の足を踏んでいたのです。

 かくして、竹島問題の司法解決は足踏み状態となっていたのですが、竹島が‘’島であることに注目しますと、新たなアプローチが見えてきます。ブレークスルーとなるのが上述した国連海洋法条約です。日本国もまた、竹島問題について韓国側の合意を得なくとも、同条約の第287条5項に基づいて、付属議定書Ⅶに定めた仲裁に付すことができるのです。日本国が同条約に基づいて竹島問題を仲裁裁判に付すとすれば、日本国政府には、韓国の行動を違法とする幾つかの主張すべき点がありそうです。

 第一の訴えは、竹島の海岸線を基線として設定されている領海の侵犯と言うことになりましょう。しかも、1954年6月から竹島に常駐している韓国沿岸警備隊の出入港、並びに、海洋警備庁の警備艇等の活動は、無害通航でもありません。公権力の行使ですので、同条約に対する違反行為と見なされます。

 第二の主張は、EEZ内の漁業権を争点とするものです。EEZとは、1996年に国連海洋法条約が発効すると同時に設定し得るようになった、沿岸の基線から200海里の水域であって、領海ではないものの沿岸国には資源等に関する主権的権利が認められています。日韓両国間の境界線の線引きについては、竹島問題を抱えていたため、一先ず竹島を存在しないものと見なしつつ、日本国側が不利となる変則的な境界線が暫定的に引かれることとなりました。かくして、日韓漁業協定が1998年11月28日に署名され、1999年1月22日に発効したのです(旧協定は1965年に締結・・・)。
ところが、その後、韓国側の日本側海域での違法操業が悪質化したため、両国間の関係は悪化します。協定内容の更新交渉が試みられたのですが、同交渉は決裂状態となって今日に至っているのです。目下、双方が自国のEEZにおいて相手国の漁船を閉め出す状態が続いています。しかも、竹島周辺海域では、韓国海上警備庁の警備艦等によって日本漁船は全て排除されているのです。

 こうした中、2018年には韓国の海上警備庁の警備艦が日本海域の大和堆周辺にあって日本漁船に退去を求める警告を無線で送る事件も発生しており、漁業権問題は、竹島問題も絡む形で深刻化しています。現行の日韓漁業協定は、上述したように竹島を存在しないものとして扱っていますが、国連海洋法条約上の権利の争いとして仲裁を求めるという方法もありましょう。もっとも、仲裁裁判所が、二国間協定の優先を理由として受理しない可能性もありますので、日韓漁業協定を一端終了させた上で、改めて竹島周辺海域の漁業権を争う必要があるかも知れません(ただし、日韓漁業協定は、国連海洋法条約の発効を受けて成立しているので、終了を要さない可能性もある・・・)。

 そして、第三の主張も、EEZに関連します。近年、韓国は、竹島周辺海域において積極的に資源調査を実施しています。この行為は、国連海洋法条約第56条で定める日本国のEEZにおける主権的権利の侵害行為に該当しましょう。仮に、海洋の科学的調査を実施するにしても、沿岸国の許可を要するからです(同条約第246条2項)。竹島周辺海域の海底には、良質のメタンハドレーども埋蔵されているとする指摘もあります。

 以上に述べてきましたように、尖閣諸島問題のみならず竹島問題についても、国連海洋法条約上の諸権利の争いとして、日本国政府には司法解決の道が開かれています。第287条5項に基づく仲裁であれば、日本国政府による単独提訴であっても受理されるのですから、ICJへの単独提訴よりも現実的で効果的な手段とも言えましょう。そして、国際社会にあって法の支配の確立を訴えてきた日本国であればこそ、言葉のみではなく、明確な政策方針に基づく司法解決を目指すことを、その行動で示すべきではないかと思うのです。

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尖閣諸島問題で日本国は世界に模範を

2024年02月15日 12時34分01秒 | 日本政治
 尖閣諸島問題の解決については、国連海洋法条約を活用するという方法もあります。それでは、同条約では、紛争の解決についてどのように定めているのでしょうか。

同条約の第15部では、紛争の解決に関する条文を置いています。その第279条では、全ての締約国に対して紛争を平和的手段によって解決する義務を定めており、当然に、日本国も中国も共に同規定に従う締約国としての義務があります。即ち、尖閣諸島問題について日本国が中国に対して平和的な解決を求めた場合、中国側は、この要請に誠実に応える法的な義務があることを意味します(平和的解決の拒絶や軍事的解決は違法行為となる・・・)。

 もっとも、同条約では、解決の付託機関としてICJを指定しているわけではありません。平和的手段については幅広い選択肢を設けており、締約国が紛争の性質や内容にそって解決手段を選べるように設計されています。第一義的には紛争当事国間相互の合意による解決を想定しており、紛争が発生した場合の意見の交換も義務づけています。しかしながら、当事国間による解決が得られない場合には、第三者を介する次の手段に進むこととなります。なお、一般協定、地域協定並びに二国間協定に基づく解決も選択できますので、日本国政府には、サンフランシスコ講和条約や日中共同声明、並びに、日中平和友好条約に基づく解決を中国に対して求めるという選択肢もあります。

 同国連海洋法条約に基づく紛争解決手続きとしては、先ずは調停が挙げられていますが(第284条)、紛争解決機関として(a)付属書Ⅵよって設立される国際海洋法裁判所、(b)国際司法裁判所(ICJ)、(c)付属書Ⅶによって組織される仲裁裁判所、(d)付属書Ⅷに規定する1又は2以上の種類の紛争のために同付属書によって組織される特別仲裁裁判所の4者を挙げています。いずれの国も、これらの手段のうち、1または2以上の手段を自由に選択することが出来るとされています(第287条)。

 ただし、(a)国際海洋法裁判所に関する付属書Ⅵ第24条1項が定める手続きを見ますと、特別の合意の通知と並んで書面による申立てにより手続きが開始されるとありますので、単独提訴も可能なように読めます。しかしながら、上述した第287条の5項には、「紛争当事者が紛争の解決のために同一の手続きを受け入れていない場合には、当該紛争については、紛争の当事者が別段の合意をしない限り、付属書Ⅶに従って仲裁にのみ付すことができる」とあります。この規定があったからこそ、フィリピンは、2016年に南シナ海問題をめぐる解決を常設仲裁裁判所に託さざるを得なかったのです。しかも、常設仲裁裁判所の規程にあっても、一方の当事者による単独提訴を認めているのです。

 以上より、国際司法制度の現状からしますと、日本国政府が中国に対して尖閣諸島問題の平和的な解決を求めるに際して、手続き上、最もハードルが低く、容易な方法とは、フィリピンと同様に常設仲裁裁判所に中国の違反行為を提訴するという方法となりましょう。領有権問題に直接に踏み入らなくとも、他の周辺的な権利上の争いとして判決を得る事はできます。

 その一方で、仲裁では、暫定措置が必要となる場合に、手遅れになる怖れもあります。何故ならば、同条約第290条の5項では、仲裁裁判所が構成されるまでの間、国際海洋法裁判所が同仲裁裁判所の管轄権を推定して暫定措置を定めることができるとしているのですが、他方の当事国への通告から2週間経過する必要があるからです(同2週間の間は、中国に対して実力行使を止める暫定措置命令を発することが出来ない・・・)。もっとも、中国の公船が尖閣諸島周辺の領海内に侵入し、軍事的な威嚇をも繰り返している今日、既に、仲裁裁判に訴え、暫定措置を要請する段階に至っているとも言えましょう。全く当てにならない「海空連絡メカニズム」を日中間で構築するよりも、司法的な手段に訴えた方が余程抑止効果が期待されます。

 何れにしましても、日本国政府には、中国に対して尖閣諸島の平和的解決を要請する条約上の義務があり、同一の義務は、中国にも課せられています。しかも国連海洋法条約のみならず、日中間の二国間条約にあっても中国は平和的解決を拒否できない立場にあるのですから、日本国政府は、当事国の合意による国際司法機関への解決付託を中国に対して申し入れるべきと言えましょう。司法解決を拒絶する正当な理由は、中国にはないはずです。その間、他のアプローチも同時並行的に進める一方で、日中両国の合意による付託を拒絶された場合には、単独提訴の道に切り替えるといった複線的で柔軟なアプローチも必要となりましょう。

そして、何よりも先にすべきは、日本国政府は、領域に関する問題については司法解決を日本国の基本方針とする旨を内外に向けて明示することのように思えます。軍事力に訴える国が安易に戦争を起こす中、日本国政府は、国際社会における平和的解決のあり方の模範を示すべきではないかと思うのです。

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尖閣諸島問題-国連海洋法条約も活用できる

2024年02月14日 12時32分02秒 | 日本政治
 尖閣諸島問題については、サンフランシスコ講和条約、日中共同声明、並びに、日中平和友好条約等の国際法に基づいて平和裏に司法解決する道があります。台湾有事と連動する形で中国との間で戦争が起きる可能性がある以上、日本国政府は、戦争を未然に防ぐためにあらゆる司法的手段をも尽くすべき時とも言えましょう。そして、上記の諸条約の他にもう一つ、日本国政府が単独でも利用できる条約があるとすれば、それは、国連海洋法条約です。

 国連海洋法条約と言えば、2016年にフィリピンが中国を相手取って常設仲裁裁判所への単独提訴に踏み切った南シナ海問題が思い浮かびます。1982年4月30日に採択された同条約には、「海の憲法」とも称されるように169カ国が参加する一般国際法であり、日本国はもちろんのこと中国も締約国の一国です。双方共に同条約の下にあって自国の海域に関する諸権利が保障され、かつ、締約国としての義務をも負っております。このため、サンフランシスコ講和条約のような訴訟資格等に関する問題も生じないのです。

 それでは、尖閣諸島問題の解決について、国連海洋法条約は、どのように活用することができるのでしょうか。先ずもって確認すべきは、尖閣諸島が、海に浮かぶ‘島’であることです。島の領有権が争われる南シナ海問題において同条約に基づく提訴が選択されたのも、係争の対象が、領水、接続水域、排他的経済水域などの法的な水域を設けることができ、かつ、幾つかの権利の異なる地位に分類される‘島’であったからに他なりません。国際裁判所による領有権に関する直接的な判決を得ることはできなくとも、水域に関する法的権利が間接的ながら凡そ確定するのです。因みに、南シナ海問題では、‘欠席裁判’ながらも、中国が同海域一帯の領有権を主張するに際して用いてきた「九段線」は完全に否定されると共に、中国が同海域に一方的に建設した人工島についても、同条約の第60条八項に基づき、領海はおろか如何なる権利も認められませんでした(そもそも人工島の建設も違法・・・)。フィリピンが試みたこの方法は、日本国政府も用いることができます。それでは、日本国政府は、中国のどのような行為を違法として訴えることができるのでしょうか。

 第1の訴因は、国連海洋法条約が定める無害通航に関する中国の違反行為を訴えるというものです。同条約の第17条にあっては、他国の領海については無害かつ同条約に従うことを条件として通航が認められています。しかしながら、中国海警局の船舶による尖閣諸島領海内での行動は、無害とは到底言えません。否、第18条で定義している‘通航’にも当たらないのです。海上警備という公権力の行使のための侵入であり、他の目的地に向かうために領海に入って領海から出ていくわけでもないからです。

 こうした中国海警局の船舶が日本国の領海内で堂々と侵入してくる背景には、1992年2月25日に採択・施行された「中華人民共和国領海及び接続水域法」があります。加えて、2012年9月10日には、「釣魚島及びその付属島嶼の領海基線に関する中華人民共和国政府の声明」を公表し、尖閣諸島に対して直線基線を設定しています。即ち、尖閣諸島の周辺海域に自国の領海、接続水域並びに領海基線を一方的に設定しているのですから、これは、国連海洋法条約上の争いともなりましょう。とりわけ直線基線の設定については、アメリカの国防総省は、1996年に南シナ海で引いた基線と同様に、国連海洋法条約に違反すると指摘しています。第2のアプローチとは、中国の国内法に基づく措置を違法として訴えるというものです。

 そして、第3のアプローチは、排他的経済水域に関する権利の侵害です。尖閣諸島周辺海域には、中国の漁船が押しかける事件も発生し、日本国の漁船が閉め出されている状況が続いています。国連海洋法条約の第62条は、沿岸国に生物資源の利用として排他的な権利を認めていますので(漁獲量の決定権・・・、現状にあっては、中国によって同権利を奪われている状態にあるのです。

 以上に、三点ほどの主要なアプローチについて述べてきましたが、国連海洋法条約も存在しているのですから、日本国政府には、司法解決に向けて多くのカードを手にしていることとなりましょう。真に平和を願うならば、日本国政府には、躊躇する理由はないはずなのです(つづく)。

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