万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

天災が示す政治の国内回帰?-国家の存在意義

2019-10-16 11:04:40 | 日本政治
 記録的な暴風雨を伴って日本列島に上陸した台風19号の残した爪痕は痛ましく、河川の氾濫は多くの方々の尊い命を奪い、人々の生活の基盤を根こそぎにしました。この場を借りまして、犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、行方不明の方々の一刻も早い救出を願ってやみません。

 ここ数年来、異常気象と称される自然災害が世界各地で頻発しており、地球規模の気候変動の問題として認識されてきました。その多くは、温暖化ガス削減問題とリンケージされ、環境問題は、全世界が取り組むべきグローバルな政治課題の先端領域として位置付けられてきたのです。もっとも、温暖化の原因については科学的な見地から異論も多く、二酸化炭素の排出量を大幅に削減したとしても、異常気象が消えてなくなる保証はありません。太陽の活動を含む宇宙的な変動に原因があるならば、人の力は微々たるものであり、削減努力も全く無駄に終わってしまうかもしれないのです。

 仮に真の原因が不明であるならば、異常気象の問題は、グローバルな課題ではなく極めて国内的な政治課題へと転じます。何故ならば、自然災害から人々の命や生活を護ることこそ、統治の基本的な役割の一つであり、国家の存在意義でもあるからです。国家が誕生した理由については、古来、多くの思想家たちが思索を続けてきましたが、あらゆる物事がそうあるように、存在意義を理解するにはその‘必要性’を探るのが一番の近道です。

人類史を振り返りますと、農業と共に文明が誕生し、小規模ながらも国家も出現します。狩猟採取という移動形態から定住形態への移行は、土地、あるいは、空間の維持・管理という必要性を人々にもたらすのです。永続的に農業を営むためには、多数の人々の労力と組織化を要する治水や灌漑等が必要不可欠な作業となりますし、水利に関する権利を調整する必要も生じます。また、人々が集住するに至ると、衛生管理のための施設や道路や橋などの交通インフラの整備をも要するようになり、やがて、これらの公共施設を基盤として商工業といった新たな産業も生まれてきます。言い換えますと、人々の生活を豊かにし、公共の問題を解決するためにこそ統治機能を要したのであり、およそ定住地と一致する社会空間を範囲として国家の枠組が形作られ、そして、これらの機能を果たすための公的組織としての政府が設けられたと考えられるのです。このように国家の誕生を簡単にスケッチしますと、民主的政体こそが、最も国家の存在意義と合致する国家体制であることが自ずと理解されましょう。独裁者による権力と富の独占とは公共物の私物化であり、人々から統治権を簒奪する行為に等しいのです。

今般の自然災害の頻発は、今日の政治の在り方にも警鐘を鳴らしているように思えます。グローバリズムの掛け声の下で地方のみならず国土そのものが蔑にされ、自然の猛威に晒されるままとなりました。政府にとりましては、自国経済の衰退や国土の荒廃を防ぐよりも、親自由主義を基調とするグローバリズムへの迎合こそが優先課題であったのでしょう。政策運営をみましても、国土の保全に予算を厚くするよりも、水道事業やエネルギー事業をはじめインフラ事業の民営化や自由化に躍起になっています。本来、公共性の高いインフラ整備・保全こそ国民に利益が均霑し、それ故に国費を費やすべき事業なのにも拘わらず…。一方、リベラルを任じる人々も、LGBTやジェンダー・フリー、グローバルな地球環境問題、移民や多文化共生といった、特定の分野にしか関心を示しません。何れの政治家も、国家や統治が人々のために存在していることなど頭にないようなのです。

台風19号の被害状況が明らかになるにつれ、地震災害にも劣らず水害からの復興にも長期的期間と多大な費用を要することが判明してまいりました。相次ぐ天災は、グローバル偏重の果ての国民並びに国土に冷たい政治を憂い、あるいは国民と国土を護る政治への回帰を促す天からのサインであったのかもしれません。そしてそれは、日本国のみならず、全世界の諸国にも共通して言えることではないかと思うのです。

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日本国政府は北朝鮮に謝罪と賠償を求めては-密漁被害

2019-10-13 15:49:21 | 日本政治
 先日、日本海の大和堆において日本国の水産庁の漁業取締船と北朝鮮の漁船が衝突した件について、北朝鮮側は、日本国政府に対して謝罪と賠償を求めたと報道されています。同事件が発生した場所は日本国のEEZ内ですので、国際法に照らせば、日本国政府が北朝鮮に対して謝罪と賠償を求めるべき立場にあります。

 自らの立場を加害者から被害者に逆転させてしまう北朝鮮の倒錯した思考(メビウスの輪思考?)は今に始まったことではありませんが、北朝鮮は、日本国の権利を侵害していることは疑いなき事実です。EEZ内においては沿岸国が漁業権に関しても主権的な権利を及ぼすことができますので、北朝鮮の漁船による操業は違法行為、即ち、密漁なのです。本来、日本国の漁業者が得るべき漁業資源を‘盗取’、あるいは、‘横取り’したのですから、日本国側には実質的な損害が生じています。日本国政府には、沿岸国にEEZに対する権利を保障する国連海洋法条約を根拠として、北朝鮮政府に対して自国漁船の取り締まりを強化すると共に、密漁から発生した日本国側の損害について賠償するよう請求する正当なる権利を有するのです。

 もっとも、一つだけ問題があるとしますと、それは、北朝鮮が上述した国連海洋法条約を批准していない点です。想像されるのは、国連海洋法条約の非加盟国の立場を利用して、北朝鮮が他国のEEZを認めていないということです。この立場からしますと、‘全ての海域が北朝鮮の漁場’と云うことになり、EEZなどお構いなしなのです。近年、日本国のみならずロシアなど周辺諸国のEEZ内での北朝鮮漁船の操業が目立つのも、EEZの存在そのものを無視しているからなのかもしれません。北朝鮮という国家は、私的所有権を否定する共産主義を基盤に成立した国ですので、元より個々の権利保障に対する意識が低いのですが、国際社会においてこの立場を主張しますと、‘犯罪国家’、あるいは、‘無法国家’と認定されても致し方はありません。

 それでは、北朝鮮は、頭からEEZの存在を無視しているのでしょうか。この点に関して注目すべきは、近年、北朝鮮は、中国に対して自国の漁業権を売却してしまったとする情報です。同情報は、北朝鮮による密漁の増加に対する説明としてしばしば指摘されるのですが、北朝鮮が中国に売り払ってしまったと漁業権があるとすれば、それは、同国の沿岸から200カイリの水域、即ち、EEZに当たる水域における権利と想定されます。何故ならば、領海は僅か12カイリに過ぎませんので、中国漁船が北朝鮮周辺海域で操業を行うだけのメリットはないからです。乃ち、漁業権の売却行為は、北朝鮮が間接的であれ国連海洋法条約に基づくEEZを認めている証ともなるのです。

 北朝鮮は、毎年、深刻な飢餓に見舞われ、国民の栄養状態も劣悪でありながら、食糧供給源となる漁業権を中国に売り渡してしまいました(売却で得た外貨で核・ミサイル開発?)。漁業権を売却しながら金正恩委員長は水産業に力を入れており、違法操業は‘国策’なのかもしれません。一方、北朝鮮国民の‘生命線’の一本であることを知りながら、漁業権を同国から買い取った中国もまた、北朝鮮に負けず劣らず非道な国家と言えましょう(人道を理由に北朝鮮に支援を行うぐらいならば、漁業権を返還しては…)。周辺諸国のこうした行為に対する批判をも込めて、日本国政府は、漁業権売却による食料不足を密漁で補おうとする北朝鮮に対しては、司法的な措置を含め、厳しく対応すべきではないかと思うのです。

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あいちトリエンナーレ問題-芸術と政治

2019-10-10 12:53:06 | 日本政治
名古屋市美術館では、2010年から3年ごとに現代アートの祭典である‘あいちトリエンナーレ’が開催されています。開催年に当たる今年も「情の時代」をテーマに、映像プログラムやパフォーミングアーツ、音楽プログラムなど多彩な分野の作品が顔を揃えたのですが、その一部として企画された「表現の不自由展・その後 」が、日本国政府をも巻き込む大騒動へと発展しました。驚くべきことに、韓国人アーティストによる慰安婦像や昭和天皇の映像を燃やす映像なども展示されたのですから。

 現代アートの祭典なだけあって、トリエンナーレには‘芸術とは美の追求である’とする古典的な概念や常識的な美意識に挑むかのような作品が多く展示されており、人々の日常的な感覚を狂わす、あるいは、常識を覆すような効果を狙っているのでしょう。今年のテーマは、‘情’ですので、見る人の共感を呼ぶものであれ、逆に、神経を逆なでするものであれ、感情に対するインパクトを与えることが、作者にとりまして何よりも重要であったのかもしれません。何れにしても、現代アートの世界では‘何でもあり’であり、芸術とは何か、という定義付けさえ拒絶しているかのように見えます。

 こうした現代アート的な感覚からしますと、社会常識やタブーといった障壁などこの世には存在せず、アーティストが表現したいことを作品として仕上げることが至上命題となります。問題作品の作者である韓国人アーティストも、展示の地が日本であれ、‘自らが表現したいものを表現しただけ’なのかもしれません。しかしながら、この‘表現したいもの’が、自らの出身国の政治的な主張であった場合、‘同作者は芸術家なのか、それとも、政治的なアジテーター’なのか、という問題が発生します。

 もっとも芸術が政治的なプロパガンダの手段となる事例は今に始まったわけではなく、戦勝を記念した壁画や彫像などは、世界各地の古代遺跡から数多く出土しています。また、中世をみてもブリューゲルの作品には政治的な寓意が込められているとされていますし、現代絵画の巨匠であるピカソのゲルニカも反戦の意思表面として理解されています。プロレタリア芸術の多くも共産主義のプロパガンダの一環として作成されており、芸術とは、得てして政治性を含むケースが少なくないのです。

しかしながら、それらが、為政者の愚かさとか、平和を願う気持ちとか、労働者の過酷な境遇とか、人類社会に普遍的に見られる一面を抉り出すような場合には、人々はそれを芸術作品として受け止めることでしょう。その一方で、戦勝国による戦勝記念の作品や、特定の国によるプロパガンダ目的の作品は、芸術性が著しく低下します。今般の慰安婦像や昭和天皇の映像焼却といった韓国という具体的な国の反日政策を‘表現’しているともなれば、俄然、政治的な色合いが濃くなるのです。

 慰安婦像と言えば、韓国政府公認の下で在韓日本大使館の前に設置された少女像であり、その目的は、日本国に対する‘嫌がらせ’であることは疑う余地もありません。今般の出典作品も、新しくデザインされて製作されたものではなく、ブロンズ製であるソウルの慰安婦像のレプリカを作成し、それに彩色を施した作品です。そこには、歴史的事実はさておいて、慰安婦問題において日本国を糾弾したい、あるいは、世論を韓国寄りに導きたい韓国側の意図が透けて見えるのです。

 以上に述べてきましたように、‘表現の不自由展’に見られる濃厚な政治性、即ち、韓国の反日政策の影響を考慮しますと、公費の支出について疑問が寄せられるのも不思議ではありません(過激な脅迫はいただけませんが…)。会場は名古屋市の美術館等の施設ですので、少なくとも市の予算が注ぎ込まれていますし、取りやめになったとはいえ、例年であれば、国の支援も受けるはずでした。日本国民の多くが、慰安婦問題や同国の反日政策については強い反感と不信感を懐いていますので、民主主義に照らしますと、国民や市民のコンセンサスなき予算の投入は不当な公費の支出ともなりましょう。芸術という名がついていれば無条件に支援すべきというわけではなく、芸術が政治に利用されるケースもあることは、常に留意すべきなのではないでしょうか。芸術の秋とは申しますが、あいちトリエンナーレの一件は、芸術と政治との関係という問題までをも深く考えさせられたのでした。

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アメリカによる中国製監視カメラ禁輸措置の理由とは?

2019-10-08 14:04:42 | 日本政治
報道に依りますと、米商務省は、中国製の監視カメラの輸入を禁止する措置を発表しました。禁輸の対象となるのは中国企業28社と公安機関であり、これら企業と機関は、アメリカ製の部品やソフトウェア等を購入することはできなくなります。さらに、監視カメラ二大大手のハイクビジョンと浙江技術を含む民間8社に対しては、取引に商務省の許可を要する「エンティティ・リスト」に指定しています。

 商務省の説明によれば、同禁輸措置の理由は、中国政府によるウイグル人弾圧にあります。香港でも、香港行政府や北京政府に対する抗議活動の一環として街路に設置されていた監視カメラが破壊されましたが、ITが発展した今日、監視カメラは、中国政府や一党独裁体制に対して批判的な個人を見つけ出す顔認識システムの端末として機能しているからです。撮影した映像データをコンピュータで解析すれば、いとも簡単に個人を割り出すことができます。既に多くのウイグル人が同システムによって収容所に送られており、監視カメラは、徹底した国民監視を支配の手段とする全体主義国家にあっては、秘密警察以上の威力を発揮するのです。

 禁輸措置の表向きの説明理由はウイグル人弾圧なのでしょうが、上述したように商務省がブラックリストとも言える「エンティティ・リスト」に指定したところをみますと、中国企業に対するアメリカ企業からの調達禁止のみならず、逆方向の禁輸、即ち、中国企業によるアメリカへの輸出禁止にも含みを持たせているように思えます。ドイツ銀行のレポートに依れば、ハイクビジョンと浙江技術の二社のみで全世界の監視カメラ市場の3分の1を占めており、世界各国の企業、空港、学校、官公庁のみならず、アメリカでは陸軍基地、イギリスでは地下鉄や国会議事堂にも設置されているそうです。そして、ここで思い出されますのは、ファーウエイに対する禁輸理由です。

ファーウエイが禁輸措置を受けた理由は、同社製品にバックドア等の装置が組み込まれているとするスパイ疑惑、並びに、中国において2017年6月に施行された国家情報法にあります。合法、非合法の何れであれ、輸出先国を含めて膨大な情報を収集し得るIT大手は、自らが得た情報を中国政府に提供する法的義務を負っています。ハイクビジョンも浙江技術も立場はファーウエイと同じであり、既にアメリカでは、中国製監視カメラの禁輸を求める声が上がっているのです。すなわち、中国製カメラは、全米国市民にとりまして中国政府によって個々人の情報が掌握されるという深刻な脅威なのです。

アメリカでの相次ぐ中国製品禁止措置については、日本国内では、メディアを中心に米中貿易戦争の一環とする見方が広がっており、国会の場でも、中国製品に内在する安全保障、並びに、国民保護に関するリスクについて活発な議論がなされているわけではありません(2018年2月に野党側から質問主意書が政府に提出され、政府が答弁書として回答したことはある…)。中国がグローバリズムに乗じて世界支配を目論んでいる現状を考慮しますと、日本国政府もまた、中国の魔の手から国民を護るために、中国製品の輸出入や中国企業との取引に関する規制強化を含め、情報セキュリティーに万全を期するべきではないでしょうか。

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インパール作戦と元寇

2019-09-29 13:18:51 | 日本政治
 第二次世界大戦において日本軍にして最悪であり、かつ、最も愚かな作戦とされたインパール作戦。イギリス軍の蒋介石軍への補給路を強引に遮断しようとした同作戦が、時代を700年程も遡る元寇と関係があると申しますと、首を傾げる方も多いのではないかと思います。ところが、この作戦について少しばかり調べて見ますと、そこには、元寇の蔭が歴史を越えて重なってくるのです。

 ネット上で集めた情報ですし、現地調査を実施したわけでもなく、また、確認作業を済ませているわけでもないのですが、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将に注目しますと、両者を繋ぐうっすらとした線が見えてきます。インパール作戦が‘ジンギスカン作戦’と呼ばれ、同氏は自らを‘昭和のジンギスカン’と称していたというのですから。真偽のほどは分かりませんが、戦後、同氏が経営していた中華料理店の名称も、‘ジンギスカンハウス’であったとされます。

 牟田口中将は、戦争の発端となった盧溝橋事件やマレー作戦にも関わっており、先の戦争におけるキーパーソンの一人と言っても過言ではありません。それでは、何故、牟田口中将は、かくも‘ジンギスカン’に拘ったのでしょうか。その謎を解く鍵は、同氏の出身地である佐賀県に求めることができそうです。今日、佐賀県には‘モンゴル村’と云う名のテーマパークもありますが、佐賀の地に観光施設が設けられた理由は、同地が元寇の激戦地であったからです(ただし、‘モンゴル村’の開設は、日本国とモンゴルとの友好促進が目的とされている…)。元寇と申しますと、兎角に福岡県の方に関心が集まりますが、佐賀県もまた元軍の襲来を受けていたのです。牟田口中将の出生地については佐賀県とのみ記されており、詳細については不明なのですが、佐賀県において最も牟田口姓が多いのが佐賀市であり次いで神崎市なそうです。

 そこで、佐賀と元寇について調べて見ますと、神崎には、元寇において捕虜となった元軍の兵士達が拘留されたと言います。今日、一旦途絶えた尾崎焼が復活していますが、尾崎焼とは、捕虜となった元軍の兵士から伝わったとされています。元軍の捕虜たちが本国に送還されたのか、否かは分かりませんが、少なくとも、焼き物の技術を伝えるに十分な期間、日本国に居住していたことは確かなことです。モンゴル族には焼き物の技術はありませんので、この捕虜たちは、元の支配下に入った宋、並びに、高麗の人々ではなかったかと推測されています。あるいは、元軍の兵士達は、鍋釜持参で日本遠征に出発したとも伝わりますので、日本国を征服した後には定住を考えていたかもしれません(窯業の技術者が存在したことは民間人が徴兵された証でもあり、それは、植民計画であったかもしれない…)。

 牟田口中将は、元寇ゆかりの地で育ったが故に、自らの作戦に‘ジンギスカン’と命名したのでしょう。しかしながら、よく考えても見ますと、‘ジンギスカン’とは、日本国の敵国となった元の建国の父であり英雄です。破竹の勢いで世界帝国を築いた‘偉業’に因んだのかもしれませんが、日本国にとりましては必ずしも好感をもたれてきた人物ではありません。佐賀県でも、語り継がれているのは強大な元軍に立ち向かって壮絶な死を遂げた勇敢な武士たちのお話なはずです。それにも拘らず、何故か、同中将は自らを元軍の方に喩えているのです。

インパール作戦の結果だけを見れば、あたかも、日本国が内側から攻撃されたかのように、敵よりも味方に多大な犠牲者が生じています(NHKのドキュメンタリー番組によりますと、牟田口中将は、「5000人殺せばインパールを攻略できる」と発言していたそうですが、部下の日記によりますと、その5000人は敵兵ではなく、日本兵のことであったそうです)。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、日本国に関する記述として元軍による偽旗作戦の記述もあり、インパール作戦とは何であったのか、おもわず頭を抱え込んでしまいます。幕末にも、明治維新において暗躍した宣教師フルベッキは佐賀藩お抱えの英語教師でしたし、もしかしますと、薩長と一括りにされる長州藩や薩摩藩の両藩よりも、佐賀藩に注目した方が明治維新の真相に迫ることができるのかもしれません。日本国は、時代を越えてもつれにもつれた糸を解きほぐし、その関連性を明らかにしてこそ、はじめて内外両面から迫る危機、あるいは、秘かに仕掛けられる罠から脱する道を見出すことができるのではないかと思うのです。

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朝鮮半島は日本国の‘植民地’であったのか?

2019-09-22 14:58:37 | 日本政治
朝鮮半島の日本統治については、ネット上において‘植民地論争’が起きているようです。どのような論争なのかと申しますと、‘朝鮮半島統治は、併合であって植民地支配ではない’とする併合論と、‘朝鮮半島統治は植民地支配である’とする植民地論との対立です。この見解の対立、平行線を辿っているように見えるのですが、どこか、論点がズレているようにも思えるのです。

 ‘植民地’という言葉に双方ともが敏感に反応する理由は、この言葉に、宗主国による一方的な支配、搾取、暴力支配、現地住民の奴隷化、天然資源の強取…など、ありとあらゆる悪しき行為が含意されているからでしょう(植民地=悪)。おそらく、植民地論者が‘併合’という表現に拒絶反応を起こすのも、‘併合’という言葉を使った途端に、日本国の朝鮮半島統治=絶対悪とする構図が崩れることを怖れているのでしょう。対日断罪の根拠に関わる故に、植民地論者は、‘植民地’という言葉に強く拘っていると考えられるのです。

 確かに、植民地論者の言い分にも、その取り上げている根拠を見ますと一理はあるように思えます。例えば、一部ではあれ、戦前、並びに、戦後の政治家が共に朝鮮半島について植民地と表現していたこと、諸外国の百科事典の多くにも‘colony’と表現されていること、また、植民地におけるインフラ整備や大学の設置は当時の日本国に限られたわけではなかったこと…などは、歴史的な事実に基づいた反論です。

 それでは、日本国の朝鮮統治が‘植民地’と名目的に表現されれば、その実体までが変わるのでしょうか。上記の植民地論が示した論拠の大半は、イギリス、フランス、オランダ等の西欧列強による植民地支配にも‘良い点’があったというものです。乃ち、この場合、植民地=悪と云う固定概念を植民地=善の方向へと逆転換させることで、自らの植民地論に根拠を与えているのです(この見地に立ては、植民地支配を批判できなくなる…)。しかしながら、西欧列強がアジア・アフリカを植民地化した過程を具に観察しますと、植民地=悪の構図が定着する足りる要素を多々見出すことでできます。

 かくして、植民地とは、悪にも善にも解釈し得ることを植民地論者自身が示すこととなったのですが、となりますと、重要となるのは、個々のケースごとに良い面と悪い面を評価して見ることです。例えば、日本国の朝鮮統治の場合には、李朝が造った巨額の対外債務を肩代わりしたに留まらず、統治機構やインフラの敷設のための多額の財政移転、産業振興に資する官民の投資、法や司法制度の整備、教育制度の拡充など、朝鮮半島の近代化に努めています。朝鮮の人々の権利につきましても、日本在住の場合には、日本国民として選挙権・被選挙権共々参政権も付与されており、朝鮮半島出身の帝国議会議員もおりました。さらには、李朝の王族に対して準皇族としての地位を与えられており、イギリスやオランダなどの西欧列強の王室との違いを際立出せています。法的には、韓国併合条約に記された大韓帝国皇帝が統治権を日本国の天皇に移譲するという形態を見ますと、国家の合邦形態としては同君連合の色彩が濃いという特徴があります。併合説の論者は、こうした日本国の朝鮮統治の実態に注目し、他の西欧諸国の植民地化とは違うことを強調するために、‘併合’という言葉を使いたかったのでしょう。

 国際社会おいて民族自決の原則が成立したことは、異民族支配を終わらせると言う意味において人類の進歩の証です。今日の人類が到達した倫理・道徳的な視点からしますと、日本国の朝鮮半島統治も当然に批判の対象となりましょう。しかしながら、過去の日本国を断罪したいばかりに歴史の一部を恣意的に切り取って評価したり、況してや、植民地という用語の使用をめぐって言い争いをしても、未来に対して意味のあるものとは思えません。そのエネルギーがあれば、良い面も悪い面も含めた戦前の朝鮮半島統治の全体像を、反日政策に凝り固まっている朝鮮半島の両国に正確に伝えるべく、努力を払うべきではないかと思うのです。

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天皇をとりまく宗教事情の問題

2019-09-20 20:34:36 | 日本政治
天皇と神道との繋がりについては、しばしば批判的な意見が見受けられます。近代国家の政教分離の原則からしますと、天皇と云う公的な地位が特定の宗教と結びつき、国家祭祀を行う形態は前近代国家の‘残滓’と捉える向きも少なくありません。そこで、本記事では、天皇をとりまく宗教事情の問題について扱いたいと思います。

 仏教伝来以来、天皇は仏の道にも帰依しており、聖徳太子の『十七条憲法』に は「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」ともあります。京都の泉涌寺は皇室の菩提寺としても知られ、明治以前にあっては、皇族は仏教徒でもあったことは紛れもない歴史的な事実です。一神教ではなく多神教国家、否、多宗教国家であった日本国では、海外から伝わる宗教であっても、善き教えは積極的に受け入れて国造りに生かしてきたのであり、飛鳥時代に遡っては、ネストリウス派のキリスト教(景教)の影響も指摘されています。完璧な宗教は存在しておりませんので、仏教からは慈悲の心を、キリスト教からは博愛精神を学ぶなど、‘良いとこどり’をすれば、むしろより善き社会が実現するかもしれず、必ずしも多神教や多宗教を低く評価する必要はないようにも思えます。徹底的に仏教を排除しようとして廃仏毀釈を行った明治維新こそ、日本国の歴史からしますと‘異端’とも言えましょう(この他に、徹底的な他宗教の排斥を行ったのは戦国時代のキリシタン大名達…)。江戸時代までは、神社に社僧という神職が存在したように、神仏習合が当たり前であったのです。

こうした側面に注目すれば、確かに天皇との関係において神道を別格に扱う必要はないように思えます。その一方で、日本国における天皇と云う公的地位の正統化に注目しますと、神道以外の宗教には、この地位に正統性を与える教義上の根拠を持ち合わせていないように思えます。それがたとえ古代人が描いた想像であったとしても、日本国がイザナギノミコトとイザナミノミコトを父母として誕生し、そして、天皇が国生み神話に記された神々の子孫であるとする記紀神話こそが、天皇位を正統化していると言わざるを得ないのです。日本全国津々浦々の神社の多くには、『日本書紀』や『古事記』の神代に登場する神々が祀られており、神道は、天皇と共に日本国の過去と現代を結ぶ役割を果たしているのです。

日本国の宗教史を概観しますと、天皇と云う位そのものは、神道がその正統性を支えつつも、日本国の伝統的な多宗教性をも象徴してきたように思えます。しかしながら、明治期に成立した近代皇室をめぐっては、果たして、それ以前の皇室との間に継続性があるのかどうか、疑問を抱かざるを得ないのです。明治憲法下では、立憲君主に衣替えして軍服姿となりましたし、今日では、婚姻を介してカトリック、統一教会、並びに、日蓮宗から分かれた創価学会などの新興宗教の影響も強まることになると同時に、俗化が急速に進行しています。かくも皇族が、俗化した時代は日本史上において初めての出来事なのではないでしょうか。

そして、その理由は、今日、皇室に特に強い影響を与えている宗教団体が、純粋な意味での信仰集団ではなく、世俗の私利を追求する利益団体の性格を有していることに求めることができるように思えるのです。バチカン銀行を擁するカトリックの拝金主義は今に始まることではありませんし、創価学会もまた、宗教を麻薬と断じて否定する中国共産党と良好な関係を築いています(同学会の名誉会長の池田大作氏は、学会財産の金融投資で巨万の富を築き、私腹を肥やしたとも…)。社会の善性を高める方向に作用するならば、様々な宗教を取り入れてきた日本国の多宗教性は望ましいのですが、それが、天皇の俗化や拝金主義に堕し、さらには国際化も手伝って政治的な偏りをもたらす方向に向かうならば、伝統的な多宗教性は、今日、逆機能に転じていると言えるのではないでしょうか。

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IRを阻止する新たな方法はある?

2019-09-19 15:04:18 | 日本政治
 横浜市では、先日、林文子市長が突然のIR誘致を発表し、同計画に反対してきた横浜市民をいたく落胆させました。市議会でも、IR予算が審議されるそうですが、既成事実だけが独り歩きしかねない状況が続いています。それでは、IRに反対する有効な方法はあるのでしょうか。

 もちろん、公約違反を根拠とした市長のリコール、IR誘致を問うために市議会の解散、あるいは、直接に市民に判断を仰ぐ住民投票の実施を求めるといった方法もありましょう。その一方で、別の全く違った方面からの反対方法もあるように思えます。例えば、権力分立における司法の独立を活用する方法です。司法的な反対には、まずは以下の3つの方法が考えられます。

 第一の方法とは、「カジノ法」とも称される「特定複合観光施設区域整備法」の違法性を問うことです。刑法第185条及び186条では、常習的な賭博行為並びに賭博場の開帳が禁じられています。そもそも、内閣法制局が内閣に対して刑法との整合性から同法案の国会への上程を見送るべきと提言をすべきであったのですが、どうしたことか、不問に付されてしまいました。この刑法違反の件については、政府によるカジノ解禁方針公表の当初から、メディアのみならず、多くの国民からも疑問の声が寄せられてきました。残念ながら、立法手続きにあっては事前チェックが働かなかったのですが、権力分立の仕組みにあっては事後的な軌道修正が可能です。つまり、国民が同法の違法性、あるいは、刑法との不整合性を問う集団訴訟を起せばよいのです。

 第2の方法は、カジノの顧客による民間のIR事業者に対する集団訴訟です。アメリカでは、麻薬作用のある「オピオイド」を製造した大手医薬品メーカーに対して、一般市民が損害賠償を求める訴訟が起こされています。賭博にも麻薬と同様に脳内においてドーパミン等の神経伝達物質の分泌を促す作用があり、常連者は、自己管理能力を失い、中毒症状を来すようになります。麻薬も賭博もその作用が同じであれば、ギャンブル依存症に罹った顧客は、IR事業者に対して損害賠償を求めることができるはずです。

 第3の方法は、民間のIR事業者を相手取った費用返還訴訟です。地方自治体が麻薬対策として費やした予算分の金額を支払うように求める訴訟が起こされているそうです。この事例を参考とすれば、日本国のIRを誘致した地方自治体も、ギャンブル依存症等の対策をIR事業者に要求することができるかもしれません。横浜市では、専門的な調査分析やギャンブル依存症の実態調査費として2億6千万円ほどの補正予算案が定例市議会に提出されましたが、この費用、何故、一般の横浜市民が負担しなければならないのでしょうか。そもそも、上述したように日本国では、賭博場の開帳が刑法で禁じられていますので、カジノに関するノウハウや実績を有する日本企業が存在するはずもなく、IRの運営事業者は海外企業が予測されます。1兆円以上ともされる経済効果も、その大半は海外に流出することとなりましょう。特定の民間事業者のビジネス、しかも、反対者多数のプロジェクトに公費を支出するでは、受益と負担がバランスしません。アメリカでは地方自治体が原告となりますが、各都市が積極的にIR誘致に乗り出している日本国では、真の負担者である住民の側が、地方自治体を訴えるべきかもしれません。

 以上に3つほどの司法的手段について述べてきましたが、突然の横浜市によるIR誘致の公表の背景には、神奈川2区を地盤とする菅官房長官が暗躍していたとする情報もあり、悪しき政治的利益誘導も疑われます。政治家が率先して日本国の悪徳と退廃を招いているとすれば、世も末ではないかと思うのです。

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‘ポスト安倍’競争とは-評価者は誰?

2019-09-12 15:01:49 | 日本政治
 昨日9月11日、第4次安倍再改造内閣が発足しました。‘安定と挑戦の内閣’と銘打ち、憲法改正を成し遂げる長期政権の総仕上げとして位置付けられているようですが、その一方で、同内閣は、‘ポスト安倍’の試験期間ともされています。新たに任命された閣僚達のうち、誰が最も首相の座に相応しいのか、その政治手腕や実績が審査されると言うのです。

 これまで安倍首相の下で自民・公明両党による長期政権が続いてきたのですが、同首相については健康不安説がありながらも、‘安倍一強時代’とも称されましたように、代わりになる人物が見当たらない状況にありました。そこで、第4次内閣では、憲法改正を実現する傍ら、‘ポスト安倍’となる人材を準備しておこうと言うことなのかもしれません。しかしながら、ここで不自然に感じることは、閣僚の人選を恰も‘ポスト安倍’の候補者選びとして扱いしながら、マスメディアは、誰がそれを評価するのか、敢えて触れていない点です。

 通常であれば、日本国は民主主義国家ですので、評価者は参政権を有する国民のはずです。ところが、今般、ポスト安倍の候補として名が挙がっている閣僚達の就任に際しての談を聴きますと、見ている方角が国民ではないように思えるのです。例えば、再改造の‘目玉’ともされた小泉進次郎環境相に至っては、そのスタンスは明瞭です。何故ならば、環境問題は解決すべき国際的な課題であることを真っ先に述べつつ、最後の方で、取ってつけたかのように日本企業にもビジネスチャンスとなると語っています。しかも、本来の環境相の管轄は環境政策の分野なのですが、福島原発事故における放射能汚染問題に言及し(福島を訪問する予定…)、エネルギー政策にまで足を踏み入れようとしています。純一郎元首相共々、持論である脱原発政策への足掛かりとしたいのかもしれません。さらには、‘社会改革相’と名乗り、育休のみならず、夫婦別姓と言ったリベラルな政策にまで関与しようとしているように見えるのです。

 それでは、一体、こうした改革志向の政策は、誰のために行おうとしているのでしょうか。安倍首相も、何故か、新内閣発足に際して社会保障制度改革を訴えておりましたが(全世代型の社会保障は共産主義の発想では…)、リベラルな方向‘社会改革’に対し、その破壊的な効果故に警戒心を抱く国民も少なくありません。仮に、‘ポスト安倍’の候補者たちが、それぞれこうした破壊的な政策方針を以って政策運営に当たり、それが、‘ポスト安倍’に選出される実績となるならば、評価者は、有権者である一般の日本国民ではない、ということになりましょう。つまり、‘ポスト安倍’に選ばれるのは、日本国民の抵抗や反対を上手にかわし、日本国、並びに、国民に不利となる政策を実行した悪賢い政治家、ということになるのです。

 仮に、上記の推測が正しく、今後、候補者たちの間で激しい‘売国合戦’が繰り広げられるのであれば、日本国民は、忌々しき事態に直面していると言わざるを得ません。日本国民の評価と‘ポスト安倍’を選任する者の評価とが、全く以って正反対なのですから。‘改革’や‘前進’という言葉に聞き飽き、政治家の怪しさが表面化している今日、日本は独立国家と言えるのかどうか(得てして国民はより悪い状況に追いやられる…)、真剣に問うてみる必要がありましょうし、国民は、形骸化してしまった民主主義を取り戻す手立てを講じるべきなのではないかと思うのです。

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権威の脆さ-皇室の行方

2019-09-10 14:59:13 | 日本政治
皇族が何らかの公式行事に臨席する際には、参列者の人々はみな深々と頭を垂れてお辞儀をし、緊張した面持ちで敬意を表します。この光景は、これまで違和感なく国民に受け入れられてきました。しかしながら、皇室や宮内庁への特定勢力の侵食が進むにつれ、当然とされてきたこの構図は、その存立基盤を失いつつあるように思えます。

 権威は、それが人々の間で自然に成立している間は、物理的な強制力を用いたり、多大なコストを払うことなく、あらゆる抵抗を廃する威力を発揮します。権威を備えた人や団体は、心からの崇敬と厚い信頼を寄せられているため、人々の言動をも方向づけることができるのです。権威者の一声で、長らく紛糾してきた物事が瞬時に決まってしまうケースも少なくありません。軍事力を持たないローマ法王の仲介活動なども、国際社会にあって権威の力を存分に発揮してきた事例でもあります。また、‘不敬’の一言も伝家の宝刀であり、如何なる批判や反対もこの一言で封じることができるのです。

 このため、権威が権威であるためには、その持続性が必要不可欠と云うことになるのですが、それは決して簡単な事ではありません。何故ならば、権威であろうとしても、他の人々が権威として認めない限りは、権威者とはなれないからです。このため、権威には、持続性を可能とする何らかの‘裏付け’があるものです。大抵は、統治権力であったり、抜きんでた実績であったり、能力や才能、血脈、さらには神聖性やカリスマなど、誰もが否定できないようなものです。しかしながら、時間の経過による変化は、これらの‘裏付け’を失わせることがあります。

権威喪失の原因は一つではないのですが、一つだけはっきりしていることは、‘裏付け’を失った途端、権威もまた同時に消滅の危機を迎える点です。例えば、ローマ法王は、近年、明るみになったカトリック聖職者たちの不良行為によってその権威が大きく揺らいでいます。かつて無誤謬が宣言されたように、ローマ法王が語る言葉は絶対的な権威とされてきましたが、今では、ローマ・カトリックの頂点にあっても各方面からの批判に晒されています。あまりの腐敗ぶりに教会組織に愛想を尽かすカトリック信者も少なくないことでしょう(宗教改革もカトリックの腐敗が原因…)。そして、永続性のある組織よりもさらに権威の維持が難しいのが世襲制です。世襲とは、権威の‘裏付け’となる個人的な実績や資質をそのまま子孫の継承者に引き継ぐことができないからです。

それでは、今日の皇室はと申しますと、組織と個人の両面において、急激な権威喪失が起きているように思えます。日本国の天皇の権威は、古代が引き継がれてきた神道の祭祀者としての神聖性にその源がありますが、創価学会や統一教会といった全体主義を志向する新興宗教団体の影響下に置かれたのでは、その権威を保ち続けることはもはやできなくなります。国民の多くは、伝統が断ち切られ、皇室は‘乗っ取られた’と感じることでしょう。時を同じくして、神武天皇以来の皇統の継続性についても強い疑いが生じているのですから、なおさらのことです。ネット上で指摘されているように婚姻によって中国系や朝鮮系の血脈も流れ込んでいるとするならば、国民の皇族を見る目も自ずと違ってきます。自らが頭を下げなければならない皇族とは、一体、何者なのか、国民の頭は混乱しますし、もしかしますと、こうした慣習も、権威づけに体よく利用されているだけかもしれないのですから。

権威とは、あらゆる面で利用され易い一方で、人の心理に依拠するために本質的な脆さをも内包しています。そして、こうした権威の問題を考慮しますと、現皇室、即ち明治期に始まる近代皇室については、既に曲がり角に来ているように思えるのです。

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皇室報道の違和感-天皇と災害

2019-09-09 14:43:57 | 日本政治
最近の皇室報道を見ておりますと、その大半がパーソナルな行動に関するものが占めています。皇族のひとりひとりの動向について逐次細かな報道がなされており、昨日も、さながら実況中継の如くに上皇后の手術の経過が報じられておりました。その一方で、大型台風15号が日本列島に迫り、自然の脅威を前にして国民の多くは言い知れぬ不安に駆られていたのです。

マスメディアの皇室に関する報道ぶりには、全体主義化へと向かう気配さえ感じられます。何故ならば、どこか、北朝鮮風味に思えるからです。北朝鮮のマスメディアでも、金正恩氏をはじめ、事実上の‘王族’である金一族に対しては、その動向はあたかも極めて特別の事柄のように報じられます。全国民は、常に金一族に関心を向けていなければならず、金一族の慶事には全身全霊で喜び、凶事には全身全霊で悲しまなければなりません。全体主義国のメディアは、トップの権威を保つためにその行動を全国民に対して恭しく報じ、国民に対して同調を強いるのです。

こうした報道ぶりは、戦前の皇室にも見られたのでしょうが、自由主義国である現在の日本国に相応しいのか、と申しますと、どうも違うように思えます。皇統の血脈において今日の皇族は特別の存在ではなく、婚姻等を介して一般国民との違いも殆どなくなりました。日本国憲法において統合の象徴として位置付けられ、皇室典範が制定されているために公的な地位にあるものの、その存在意義を問われた時、国民の大多数が納得する理由を見出すことは困難です。

皇族が、‘神の子孫’であることを立証することは不可能ですし、むしろ、DNA検査を実施すれば、一般人と変わらないことが科学的に証明されてしまいます。また、2000年以上を遡る建国の祖の子孫が公的な地位を継承する世襲制度も、合理性を尊ぶと共に科学的知識を豊富に有する現代の人々の感覚からしますと、非合理な制度に思われることでしょう。しかも、婚姻による血統の希薄化と外部勢力の遺伝的参入に加えて、万世一系とされる皇統の継承も疑わしく、皇室は、時を経るにつれてその存在意義が揺らぐ運命を背負っているとも言えます。そして、一般の国民にとりましては、もはや皇室は‘信仰の対象’ではなくなり、敬意を表する理由も分からなくなってくるのです(実のところ、内面との葛藤はストレスになってしまう…)。しかも、多額の皇室予算を費やしながら(仙洞御所を含め15億円?)、伝統的な役割であった祭祀を疎かにするのでは、ますます意味不明となりましょう。

こうした国民の皇室に対する‘信仰心’の薄まりこそが、皇族報道をパーソナルな方向へと向かわせ、個人崇拝的な権威付け、並びに、カリスマ性を帯びさせるための演出に代替させている動機なのかもしれません。権威とは、それを権威と受け止める側の心理に依存しています。憲法の第1条に定められた‘統合の象徴’を具現化するために、伝統や神聖性に替って求心力を維持する方法として期待されたのが、パーソナルな側面を前面に打ち出す手法であったかもしれないのです。そして、この代替方法が、全体主義体制が好む手法であるからこそ、国民から警戒される要因となっているのではないでしょうか。特に、新天皇については、全体主義志向の強い創価学会との繋がりも報じられており、近年の顕著な皇室の国際化にも現れているように、政治利用される可能性も否定はできません。意図的であれ、無意識であれ、全体主義の手法と共通してしまう現象は、自由主義国にとりましては決して望ましいとは思えないのです。

それでは、自由主義国に相応しい皇室の在り方とはどのようなものなのでしょうか。それは、国民に同調を迫る北朝鮮のような全体主義的な個人崇拝では決してないはずです。自由主義国であれば、まずは、‘菊のタブー’をなくし、皇室に関する自由な議論を国民がし得る状況こそ重要なように思えます(国民のストレスも低下…)。今のところ、日本国の政界では、与党も野党も揃って‘皇位の安定的継承’以外に議論をしようとはしません。一択しかないような状況ですが、実のところ、国民の多くは、皇位継承問題よりも、日本国の国制における天皇の位置づけや役割についての、より深い議論を望んでいるのではないでしょうか。そして、古来、日本国は、度々自然災害に見舞われてきたのですから、大型台風の襲来が迫る昨日は、天皇が祭殿に籠もり、災禍が国土や国民に及ばぬよう天神地祇に祈りを捧げる姿を報道した方が、余程、国民から‘有難い’という感情を持たれたのではないかと思うのです。

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政治の世界の‘おじさん’は怪しい?

2019-09-03 13:08:30 | 日本政治
‘おじさん’とは、主として中高齢の男性方に対する親しみを込めた呼び方であり、しばしば氏名や職業を付けて‘○○おじさん’といった言い方もします。どこか憎めない響きがあり、誰もが日常的に使っている言葉でもあります。しかしながら、政治の世界で‘おじさん’が使われますと、どこか怪しさが漂うのです。

 今年の5月1日、新天皇の即位を以って年号が令和に改められました。突然の生前退位(譲位)の公表以来、令和の時代に向けてのお膳立てをし、裏方を仕切ってきたのは菅官房長官であったとされています。同長官が新元号を国民に向けて発表する姿が放映されたため、特に若い世代から‘令和おじさん’という愛称で呼ばれるようになったそうです。もっとも、メディアがこのように報じたに過ぎず、本当のところは不明です。何れにしても、気さくさや一般国民との距離の近さをアピールしたいためか、女性向け週刊誌などにも普段着姿で登場しているらしく、‘令和おじさん’キャンペーンが展開されているのです。

 それでは、‘令和おじさん’は誰からも愛される気が置けない好人物なのでしょうか。そもそも、天皇の生前退位は国民が望んだわけではなく、寝耳に水の出来事でした。言い換えますと、奇襲的な手法で生前退位を既定路線化し、国民からの疑問や反対を巧みに封じつつ新天皇の即位にまで持ち込んだ手腕が‘評価’されたのであり、むしろ、ポーカーフェイスの策士といった方が適切かもしれません。その後は、平成への改元に際しての小渕首相の前例に倣ってか、自らの首相就任への道筋を付けるべく渡米も果たしております。次期首相の候補にもその名が上がり、週刊誌等でも菅政権の誕生が取り沙汰されるようにもなりました。そして、今般の首相官邸における小泉進次郎氏の婚約発表も菅官房長官の提案とされ、横浜市における突然のIR誘致公表の裏にも同官房長官の強い意向があったそうなのです。

 ‘令和おじさん’の実像は、どうやら国民に振り撒かれているイメージとは違うようなのですが、菅官房長官は、自らの政治信条に従って行動したというよりも、何らかのシナリオに従って淡々と自らに命じられた役割をこなした観があります。つまり、上述した‘評価’とは、参政権を有する一般の日本国民からの実績評価ではなく、シナリオを描いた外部組織からの勤務評価である可能性も否定はできません。そして、日本国の政治を舞台とした推測され得るシナリオとは、中継ぎとして菅官房長官を一時的に首相に据えた後、安倍政権に替る長期政権として小泉進次郎首相を誕生させるというものです。メディアでも菅官房長官と小泉議員とのリンケージを指摘しており、同様のシナリオを描く予測も少なくなく、より確かな情報を得ているのかもしれません。その際、主たる戦法となるのは、小泉純一郎政権と同様にマスメディアの利用と‘サプライズ作戦’です。上述したように、この作戦は‘令和おじさん’も多用してきました。

しばしば、犯罪者の割り出しに際しては、警察はその手口を見れば分かると言いますが(犯罪者は得てして同じ手口を繰り返す…)、奇襲的手法による既成事実化という‘手口’からしますと、日本国の政治は、以前から何らかの外部組織によって操られているようにも思えます。小泉純一郎元首相も、国民のために‘既得権益をぶち壊す’と称しながら、その実、海外金融の利益のために郵政民営化を行ったとされていますし、進次郎議員が推進した農業改革や国会改革等も誰の利益のためか疑わしい限りです(平壌宣言も実行させたい?)。次期首相に相応しい政治家を問うた世論調査では進次郎氏への支持率は比較的高いのですが、メディアが煽ってはいても、一般国民の多くが同氏に期待を寄せているとは到底思えません。

中国でも、独裁者として君臨している習近平国家主席は、国家的なイメージ戦略として‘習おじさん’と呼ばれている、否、呼ぶように仕向けられているそうです(もちろん、この場合は中国語ですが…)。政治の世界における‘おじさん’の登場は、自由や民主主義の危機かもしれず、国民にとりましては要注意な現象なのではないかと思うのです。

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韓国の徴用工訴訟問題-‘植民地賠償’なるものは存在するのか?

2019-08-27 15:55:43 | 日本政治
所謂‘徴用工訴訟’をめぐり、日韓両政府は、互いを‘解決策を受け入れようとしない’として批判し合う状況が続いています。一見、双方が同じセリフを相手方にぶつけあっているように見えるのですが、その内容には雲泥の差があります。日本国側が、日韓請求権協定に従って仲裁に応じるように求める一方で、韓国側は、自国の解決案、即ち、両国の官民ファンドによる賠償支払い案を承諾するように求めているのですから。

両国の解決策の違いは明白です。日本国は、法による解決を求める一方で、韓国側は合意による解決を求めているからです。国際社会には、外交的な解決もありますので、一見、韓国の言い分にも理があるように聞こえます。しかしながら、人類史における紛争解決手段に関する発展過程―力⇒合意⇒法―を考慮しますと(最終的に、法的枠組みの内部に力と合意が包摂される…)、韓国の主張には正当性がないと言わざるを得ないのです。

しばしば、‘現代の価値観から過去を判断してはならない’と言われています。この言葉、時間の経過と共に人類が発展してきたという進化論的な前提があってはじめて意味を持ちます。そして、国際社会の来し方を振り返りますと、そこにははっきりと国際法の発展過程を見出すことができるのです。それでは、何故、国際法の発展過程が日韓間の‘徴用工訴訟’問題と関連するのでしょうか。

それは、実のところ、韓国の最高裁判所は、日本企業に賠償を命じた際に、その根拠として日本国による韓国併合の不法性に基づく賠償、即ち、‘植民地賠償(併合賠償)’なる新たな類型を持ち出したからです。第二次世界大戦にあって韓国が戦争賠償の対象国とはならない理由は明白です。両国は、干戈を交えてはいないのですから。この点については、サンフランシスコ講和条約は中国と朝鮮を明確に区別し、前者には残置財産の処分権(官民が現地に残した資産は莫大なので賠償の意味を持つ…)を認める一方で、後者には認めていません。つまり、韓国との間には賠償問題はなく、存在するのは請求権の相互清算の問題のみなのです。

ここで問題となるのは、韓国が主張する‘植民地賠償’という類型が存在するのか、否かです。韓国の最高裁判所がどのような意味で‘不法’という言葉を使ったのかは定かではありませんが、この表現には凡そ二つの解釈があり得るように思えます。その一つは、国際法への違反であり、もう一つは、正当なる法的根拠の欠如です。何れにしましても、冒頭で触れたように、韓国側は、現代の‘徴用工訴訟’問題の解決手段としては法的解決を拒絶しながら、過去の出来事については法の存在を前提とした主張を行っているのです。

それでは、日本国が韓国を併合した1910年の時点において、他国を植民地化する、あるいは、併合することを禁じる国際法が存在していたのか、と申しますと、そうではありません。国際社会において、民族自決の原則が提起されるのは第一次世界大戦時におけるウィルソン米大統領の講和原則に関する演説を待たなければなりませんし、実際に、この原則が一般国際法として定着し、アジア・アフリカを中心に植民地の大半が独立するのは第二次世界大戦後のことです。国連憲章でさえ、非自治地域に関する宣言(第11章)や国連信託統治制度に関する規定(第12・13章)を置いており、朝鮮半島もまた、当初は、国連の信託統治地域とされる予定でした。いわば、非自治地域、即ち、植民地の存在は、それが独立可能な状態に達するまでの暫定的なものであれ、合法的な存在であったのです。

ましてや1910年の韓国併合は、両国間で締結された条約に基づいており、戦争や軍事占領を伴う武力による併合ではありません。加えて、日韓請求権協定自体が、サンフランシスコ講和条約で定めた相互清算については双方の国家並びに国民(法人を含む)の請求権の相互放棄で解決した上に(同解決方法はより多額の請求権を有した日本国側に不利…)、法的根拠はないものの、道義な観点から日本国側が、巨額の経済協力費を韓国側に支払っています。つまり、過剰分は、如何なる国であれ他国による支配は不愉快なものですので、併合による朝鮮民族の精神的な苦痛に対する一種の‘慰謝料’を日本に求めたようなものなのです。事実はどうであれ。

以上の経緯を顧みますと、1910年当時、日本国による条約に基づく韓国併合を違法とする一般国際法は存在しておらず、韓国の最高裁判所こそ、法的な根拠のない‘不法’な判決を行ったこととなりましょう。つまり、人類史における法の支配への発展過程にあって、法の存在しない時代における出来事を不遡及の原則を無視して‘不法’として糾弾する一方で、法の支配が確立した時代にあって(少なくとも日韓請求権協定等が締結されている…)、正当なる法的解決を拒否しているのです。これも過去と現代を捩じって繋げる一種の‘メビウスの輪’戦略なのでしょうが、仮に、韓国側がこの主張を続けるならば、日本国のみならず、植民地化や併合の歴史を有する国が多数を占める国際社会に対して‘植民地賠償’の法的根拠の存在を立証すべきなのではないでしょうか。

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皇室は国際化すべきなのか?

2019-08-25 12:44:30 | 日本政治
報道に依りますと、今年の10月22日に予定されている新天皇の即位の礼では、平成の前例と比較して大幅に海外からの賓客数が増えるそうです。増加理由としては、日本国が承認している国の数が増えた点が挙げられていますが、承認国が劇的に増加したわけではありませんので、この説明には疑問符が付きます。即位の礼のみならず。最近、皇室の国際化が、既成事実を積み重ねつつ、急速に進められているように思えるのです。

 秋篠宮家の皇族の外遊数も目立って増えており、先日は、初の海外訪問として悠仁さんのブータン旅行が報じられていました。また、長女の眞子さんの異常なまでのブラジル訪問もどこか不自然です(後述する理由から、俗化した皇族にどこまで敬称を用いるべきか悩んでしまう…)。皇室の主たる活動が国際交流となり、その場も海外に移ったかのようなのです。御簾の中におられた伝統的な日本国の天皇の姿とは真逆であり、国家祭祀や国内での活動は、むしろ‘副業化’しているようにも見受けられます。‘国民と共に’という皇族の言葉もどこか空しく響くのです。

 それでは、何故、皇室は国際化へと向かっているのでしょうか。その理由は、明治の時代より、日本国の皇室とは、海外勢力によって擁立された可能性を指摘することができます。明治維新の背景には、イギリスという国家と云うよりも、イエズス会や東インド会社等の流れを汲む国際組織が暗躍していた事実は、教科書にこそ記載はなくとも、今日では国民の多くが知るところとなりました。孝明天皇暗殺説が実しやかに囁かれるのも、攘夷を訴えていた孝明天皇の存在は、日本国に開国を求める国際勢力にとりましては不都合であったからに他なりません。明治天皇の即位とは、近代化の幕開けを告げると同時に、日本国が海外勢力の影響下に置かれることをも意味したのかもしれません。

 こうした視点から明治以降の歴史を振り返りますと、これまで謎とされてきた出来事も案外説明が付くようになります。日本史上、最大の謎とされた本能寺の変もイエズス会関与説によっておぼろげながらもその実像が浮かび上がってくるように…。仮に明治以降の‘近代皇室’というものが、皇統や伝統に立脚しているように見えながら、その実、海外勢力によって巧みに利用されてきたとしますと、その絶対的な神聖化と権威化につきましても疑ってみる必要があるのかもしれません。そして、今般、あれよあれよという間に国際化に向けて変質して行く皇室につきましても、その背後に何らかの国際組織の意向が働いているかもしれないのです。

 新天皇と創価学会との関係につきましても、既にメディアが報じるところなり、皇族が憲法の枠を超えて政治の領域に足を踏み入れかねない‘皇室外交’の危険性も指摘されています。創価学会もまた統一教会と並んで国際志向が強く、創価学会インターナショナルに加えて、中国や朝鮮半島との間にも人脈と云うネットワークが築かれているようです。このため、これらの新興宗教団体は、明治維新を操った国際秘密結社の支部ではある可能性も否定はできません。結局、日本国の近代皇室は、国際組織が日本国、並びに、国民を操る道具に過ぎないのかもしれません。

 近年の英王室をはじめとした各国王室の変質ぶりも、こうした疑念を更に強めます。全世界的な潮流として、王室・皇室の国際化、あるいは、‘多様化’が進み、国民との間に精神的な側面においても深刻な溝が生じているのです。イギリス王室は、キャサリン妃もメーガン妃もユダヤ系であり、アフリカ系の血を引くメーガン妃に至っては、イギリス国民でもありませんでした。また、ブルボン家の末裔にはインド人との婚姻により、外観はすっかりインド人となった方もおられますが、仮に、同氏がフランスの王位を主張した場合、フランス国民はこの要求を受け入れるのでしょうか。

 かくして、多様化を金科玉条とするリベラル派からは熱狂的な歓迎を受けつつも、ネット上に実像が拡散されてしまう今日にあって、全世界の王室も皇室もかつての輝きを失いつつあるのですが、長期的な視点からしますと、国際組織の意向に沿って、王室や皇室を国際化するがままにまかせるべきかどうか、疑問なところです。少なくとも、日本国憲法では、天皇の地位は国民の総意に基づくと定めているのですから、天皇や皇室の在り方につきましては、国民的な議論に付すべきなのではないでしょうか。

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横浜市のIR誘致表明は‘騙し討ち’では

2019-08-22 17:38:06 | 日本政治
本日8月22日、横浜市民は、林文子市長から寝耳に水の発表を聴くこととなりました。それは、横浜港の山下埠頭にIRを誘致得ると言うものです。カジノ誘致については、横浜市の凡そ8割が反対しておりましたので、この決定の意味は深刻です。

 民主主義国家であるならば、市民の意見を尊重するべきは当然のことです。特にカジノの設置については圧倒的多数の市民が反対しておりましたので、計画案が浮上した当初は誘致に積極的であった林市長も、白紙撤回した経緯もあります。本音では誘致に賛成の候補者が多いためか、市長選挙や市議会議員選挙にあっても何れの候補も争点化を避けており、横浜市民の多くもIRの誘致の行方を不安視していた矢先だけに、林市長に対する市民の落胆と反発は必至となりましょう。あまりにも、政治家に‘騙された感’が強いのです。

 そして、ここで考えるべきは、常々、政治サイドがカジノ誘致に際して主張する経済効果です。横浜市に依れば、IRの経済効果について「建設時は1兆2千億〜7500億円、開業後は年1兆〜6300億円に上ると」試算しているそうです。しかしながら、この数字、ギャンブルであるカジノの性格を考慮しますと、そのままマイナス効果ともなりかねません。

第一に、建設費については、横浜市は建設予定地である山下埠頭の整備に要する費用を負担するのでしょうが、カジノ嫌い、あるいは、ギャンブルを趣味としない市民が多数を占める現状では、この予算は、一般市民にとりましては予算の‘無駄使い’に過ぎません。しかも、カジノそのものは民間経営ですので、公的資金を以って一部民間事業者に利益供与を行うこととなりましょう。また、人手不足の折、IR建設による雇用効果も期待はできません。むしろ、先の入管法改正により、建設分野も新資格の対象となりますので、外国人労働者を受け入れる口実ともなりましょう。横浜市では、とりあえず専門的な調査分析やギャンブル依存症の実態調査費として2億6千万円ほどの補正予算案が定例市議会に提出されるそうですが、世論の後押しによって反対派の議員が多数ともなれば否決される可能性もあります。

第二に、開業後に試算される1兆から6300億円の経済効果についても、横浜市民の目には‘赤字’に映ります。そもそもギャンブルでは顧客側が負ける確率の方が圧倒的に高く、事業者の収入とは凡そ顧客が負けた数字なのですから(海外事業者であれば、利益は国外へ…)。

第三に、行政側が弾き出した試算とは、得てして‘水増し’となるのが常です。これまでにも、行政主導で大型プロジェクトが進められたものの、実際に事業を開始してみると、収益が当初の試算を大きく下回り、最悪の場合には赤字事業となるケースも少なくありません。

そして、何よりも、一般の横浜市民の多くは、経済効果よりも住みやすい健全な都市を求めている点です。横浜市の予算を見ますと、IRの誘致を実現しなければ財政が破綻するといった危機的状況にはありません(市債の残高は減少傾向にある…)。一般の横浜市民は、IRの誘致を必要とはしておらず、林市長が、市民を騙し討ちにしてまでIR誘致を実現したいのか、全く以って理解に苦しむのです(贈収賄等の疑いも…)。横浜市民の世論が無視され、民主主義が蔑にされたのですから、横浜市民は、林市長のリコールや反対運動等を検討すべきなのかもしれません。カジノ誘致こそ、横浜市による’大博打’なのかもしれないのですから。

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