万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多様性の尊重とデジタル化の単一性

2023年08月10日 11時55分41秒 | その他
 グローバリズムが全世界を覆うのと軌と一にして、一つの‘呪文’が唱えられることとなりました。それは、‘多様性の尊重’というものです。全世界には様々な人種、民族、宗教、慣習などがあるのだから、お互いに違いを認め合い、尊重し合おうというものです。人種等の違いに基づく差別や偏見は道徳や倫理に反する行為ともされてきましたし、多様性はイノヴェーションの源ともされますので、同呪文の威力は凄まじく、あらゆる諸国の経済や社会に広く深く浸透していったのです。

 企業や教育機関などでも‘多様性の尊重’が採用や入学の選考基準ともなり、異質性に価値が置かれることともなったのですが、今日、多様性の尊重とは、グローバリズムの本質を隠すための煙幕的なスローガンであった疑いは深まる一方です。そもそも、グローバリズム以前の時代の方が、世界は遥かに多様性に富んでいたことは言うまでもありません。100年前には、それぞれの国や地域にあって、それ固有の歴史の中で培われた伝統的な街や農村の風景が広がっており、民族衣装の姿で日常の生活を送る人々も稀ではありませんでした。今では、全世界のどこの都市を訪れても変わり映えがなく、農村でさえチェーン店が道路沿いに軒を並べています。

 グローバリズムの本質、それは単一化、あるいは、画一化なのでしょう。言葉とは裏腹に、現実には、多様性とは真逆の方向性を志向しているのです。そして、‘多様性の尊重’とは、単一化に至る過程に必要とされるミクシングのための‘呪文’であり(オムレツを作るためには予め卵を割って黄身や白身等を均一にかき混ぜなければならない・・・)、固有の文化や伝統等を背負う人々を一端ばらばらにして一つの坩堝に混ぜ込むには好都合であったのかもしれません。同言葉が内包する矛盾、あるいは、二重思考を熟知した上での戦略的な洗脳手段としても推測されるのです。

 それでは、グローバリズムの呪文が解けるときは訪れるのでしょうか。その時とは、案外、‘今’であるかもしれません。何故ならば、グローバリスト、即ち、世界権力が推進してきたデジタル化が普及すればするほどに、‘多様性の尊重’が上手に隠してきた画一化という‘真の顔’を、表面に浮かび上がらせてしまうからです。例えば、昨今、関心を集めている生成AIの先駆的モデルであるチャットGPTを見ましても、複数の回答が提示されていたとしても、その内容はほとんど同一です。入力データとアルゴリズムが同じであれば、同じ質問には同じ回答が返ってくるのです。質問に使用する言語が違っていても、内容が同一であれば、回答も言語が違うだけに過ぎないことでしょう。

 果たして人類は、今後とも未来に向けてデジタル化を伴う画一化の一本道を歩かされるのでしょうか。未来は未定ですので、人類が歴史において育んできた文化・文明の豊かさという意味での多様性が尊重される別の道もあり得るのではないかと思うのです。


*亡き母を偲んで

 母が身罷ってから、早、10日が経ちました。ブログ記事の更新をお休みいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。悲しみが癒えぬ日々ではありますが、本日より、ブログを再開いたしたく存じます。

 今日では共働きが標準的な家庭モデルとなった感がありますが、亡き母は、古き良き時代の家庭婦人であったと思います。学校から帰りますと、家の中にはパンやケーキの焼けるにおいがして、‘おかえりなさい!’と母が笑顔で台所からよく顔を覗かせたものです。お正月はお屠蘇から始まり、桃の節句荷にはお雛様を飾り、端午の節句には鯉のぼりを挙げ、七夕には笹の葉に願い事を書いた短冊を飾り、クリスマスにはツリーを飾って・・・、賑やかに楽しく家族で過ごした日々は、今はなつかしい思い出となりました。女性の生き方は決して一つではなく様々な幸せのありかたがある、と常々思うのも、自らの子供時代の溌剌とした母の姿があったからなのかもしれません。亡き母もまた、自らの人生を振り返って幸せであったと申しておりました。

 長じても、学究肌で一風変わり者でもあった父、並びに、私たち姉妹を支えていたのも社交上手な母でした。不治の病に蝕まれ、自らの命が消えゆくことを覚悟した時期に、私は、母の耳元で‘ベランダで残しておいてもらいたいお花はある?’とそっと尋ねたところ、母は、迷わずに夏水仙と応えておりました。毎日が危篤のような状態にありながら、少しばかり持ち直しますと、不思議なことに、既に一ヶ月ほど前に咲き終えたはずの夏水仙が一本、すっと長い茎を伸ばして花を咲かせたのです。息を引き取った翌日の朝にベランダを見ますと、夏水仙は頭を垂れて萎れておりました。一本だけ咲いた夏水仙が母の姿と重なり、涙が止まらなかったのです。その後、葬儀を終えた翌朝になりましてベランダに出ますと、驚くことに夏水仙の花がたくさん咲いているのです。亡き母が、悲しみに打ちひしがれている私たちを、夏水仙に託して励ましてくれたように思えてなりません。毎年、夏水仙が咲く頃には、やさしかった母を思い出すことでしょう。

 母君の かたみとなりし 夏水仙 あしたの庭に たおやかに咲く

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お知らせ

2023年07月31日 19時50分34秒 | その他
 本日7月31日、癌を患っておりました母が帰幽いたしました。常に家族に心を配り、家庭的なやさしい母でした。つきましては、暫くの間、本ブログの更新をお休みさせていただきたく存じます。どうが、ご容赦くださいますよう、心よりお願い申し上げます。

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ムーンショット計画の非現実性

2023年05月10日 13時36分52秒 | その他
 日本国政府が科学技術・イノベーション計画として推進しているムーンショット計画は、イノベーションと銘打ちながら、同計画自体は、おそらく世界経済フォーラムが作成した「グレートリセット」計画のコピー、あるいは、その工程表そのものなのでしょう。言い換えますと、何処にも日本国のオリジナリティーは見当たらず、陳腐なSF風ではあってもイノベーティヴな発想でもないのです(真に日本独自のイノベーションや独創性を求めるならば、目標設定の段階で公募すべきでは・・・)。スタート時点から既に矛盾を抱えているのですが、設定した目標について慎重に吟味し、深い考察がなされた形跡もありません。

 例えば、目標1の「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」を取り上げてみましょう。同目的を実現するためには、「誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティック・アバター 基盤」を構築する必要があるとされています。サイバネティック・アバター基盤が整備されれば、3D映像として分身のみならずロボットを遠隔で操作することができます。この結果、複数の人が遠隔で複数のアバターやロボットを操作して大規模で複雑なタスクを遂行したり、一人の人が10以上の自身のアバターを同時に操作することもできるようになるのです。

 即ち、時空の制約からの解放とは、分身テクノロジーの確立と言うことになるのですが、果たして、忍術のような分身テクノロジーは、時空の制約を取り除くのでしょうか。アバターの遠隔操作については、難病に指定されているALSを患っている方々が自らの分身を操作して社会生活を送ることができる技術としてしばしば紹介されてきました。ALSのみならず、自らの身体を動かすことができなくなった人々が社会生活を維持するための技術としては意義があるかもしれません(もっとも、同目標が目指すように、人の機能を最大限に拡張できるならば、ALSといった難病を治癒する方法を開発する方が早いかもしれない・・・)。しかしながら、サイバネティック・アバター基盤が想定しているのは、健康な一人の人が複数の多様な分野で活動できる未来なのです。

 ここに、人の意思の単一性不可分性の問題が提起されることとなりましょう。何故ならば、一人の人が複数の特定の場所、かつ、特定の時間に同時に複数の意思決定を行なうことは不可能であるからです。例えば、自らの分身となるアバターを遠隔で操作している人が、同時に異なる人から話しかけられた場合、その人は、同時に複数の人に返答することはできるのでしょうか。聖徳太子の逸話のように一度に多くの人々の話を同時に聞ける人は極めて稀です(稀であるからこそ伝説化が発生)。ましてや脳内の言語領域の活動と発声器官との基本的な対関係からすれば、同時に返答を返すことは殆ど不可能です。たとえ、アバターが複数存在し得たとしても、同時に異なる空間で同時に一つの行動を自らの意思で実行することはできないのではないでしょうか。

 機能拡張のテクノロジーによって一つの意思から複数の発声が可能となる装置が開発されたとしても、人の意思が一つである限り、それぞれの状況に合わせて異なる内容の発言をすることはできないことでしょう。他者との会話のみならず、アバター達が活動する現場のそれぞれの状況適した行動を伴わなければならないとすれば、乗り越えなければならない技術的なハードルはさらに高くなるのです。

 日本国政府、あるいは、世界権力は、達成目的の年を2050年に設定しておりますが、この年まで、あと僅か27年しかありません。この年限を以て目標を達成できると考えるのは、あまりにも非現実的です。しかも、人類は、生物の特徴でもある個々の意思の単一性を永遠に越えることができないかもしれないのです。仮に、意思を分裂させることができるとすれば、それは、一人の頭部の中に複数の脳が併存している状態ともなりましょう。誰が考えても非現実的で夢物語とでも言うべき目標を設定していることこそ、日本政府がカルト化している証しとも言えるのではないかと思うのです(つづく)。

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政治家こそ‘チャットGPT失業’の問題を真剣に考えるべきでは

2023年04月28日 10時55分41秒 | その他
 オープンAIが開発したチャットGPTをはじめとした生成系AIは、高い文章作成能力や応答能力を備えるために、あらゆる分野に破壊的な影響を与えるとされています。日本国内でも、オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者や同社に巨額の出資をしているマイクロソフト社のフラッド・スミス副社長が来日し、政府に導入促進を働きかけています。

マイクロソフト社は、本年1月に、オープンAI社に対する凡そ1.3兆円の追加出資を公表し、同社の投資が回収されるまでの間、オープンAI社の利潤の75%を獲得する権利を得たとされています。チャットGPTにあっては、マイクロソフトの存在感が増しており、将来的には、オープンAI社の49%の株式を保有する予定なそうです。この背景には、検索エンジン分野でグーグル社の後塵を拝しているマイクロソフト社としては、オープンAI社との連携により、新たに登場した‘AI検索エンジン’ビジネスにおいて先んじる思惑も指摘されています。

そして、日本国政府とビル・ゲイツ氏との親密な関係を考慮しますと、マイクロソフト社がチャットGPTの普及促進のために、日本国政府に白羽の矢を立てた理由も自ずと理解されるのです。なお、今日のレベルでは、生成系AIは、政界における力関係まで分析できるとされていますので、首相や閣僚、あるいは、自民党幹部といった「面会者リスト」は、マイクロソフト社がチャットGPTに「自社のサービスを日本国内で拡大するためには、誰に会うべきか?」という質問に対する回答に基づいて作成されたのかもしれません。

 マイクロソフト社並びにオープンAI社側の積極的な‘政治家詣出’が功を奏したのか、日本国政府並びに政治家の多くは、公務員の行政事務のみならず、国会の答弁にまでチャットGPTを活用する方針を示すようになりました。しかしながら、政治の領域での生成型AIの導入が、政治家という職業の自己否定になる可能性について、政治家の方々は気がついているのでしょうか。

AIの普及につきましては、近い将来、ホワイトカラー職の大量失業を招きかねないとする指摘があります。実際に、マイクロソフト社を含む大手ITは、他の分野に先駆けて、積極的な人員削減に乗り出しています(先んじて金融工学並びにDXが発展した金融業などでも、同様の動きが広がっている・・・)。政治家という職業も、知的活動ですのでホワイトカラーの一種ともいえ、失業問題は他人事ではないはずです。しかも国会答弁とは、チャットGPTが最も得意とするところの対話形式の‘お仕事’なのです。

今日の日本国の国会の風景を見ますと、国会議員に国民からの負託を自負する高い職業意識があるとは思えません。閣僚席に座る大臣であっても居眠りをしている姿が多々目撃されており、活発な議論が行なわれている様子もありません。古色蒼然とした形式的な議事進行のあり方にも問題があるのでしょうが、この状態では、チャットGPTの答弁の方が優れている可能性は否定はできません。少なくとも、「記憶にありません・・・」とか、といった回答はしないはずです(もっとも、チャットGPTであれば、如何にでたらめであっても、それらしい回答を作成しますので、国会での活用とは、この意味かもしれない・・・)。個人の能力を遥かに超える大量の情報がインプットされていますので、生成型AIには、少なくとも情報量の面では人間の政治家は太刀打ちできないのです。政治家がチャットGPTに劣るのであれば、政治家(国会議員)不要論が持ち上がっても不思議ではありません。

しかも、国会答弁に活用するならば、回答の精度を高めるために、あらゆる情報を入力しなければならなくなります。入力すべき情報は、個々の政治家の人脈や個人情報のみならず、国家機密等にも及ぶことでしょう。そして、チャットGPTに活用した結果、国会では、自動的に作成された回答を読み上げるだけの役割に堕した政治家が、ぺらぺらと国家機密をしゃべり始めるかもしれません。あるいは、国民は、「この政策は、○○大臣の親族の×△が、△□国からビジネス利権を保障されているために決定されました」とか、「同システムの採用は、△○大臣が同システムを開発した海外の□○社から○○億円の裏献金を受けたことによります」といった、チャットGPTによる正直な回答を聞くことができるかもしれません。さらには、海外の某勢力や組織からの指令であったという回答もあり得ないわけではありません。後者のケースであれば、国民の多くは、チャットGPTのオープンな回答に惜しみない拍手を送ることでしょう(もっとも、悪しき政府や政治家、あるいは、世界権力等が入力データを恣意的に改竄したり、取捨選択すれば、表面的な回答しか期待できない・・・)。

以上に政治分野に生成系AIを導入した場合に予想される事態を予測してみましたが、同サービスの導入に諸手を挙げて推進を表明した政治家の方々は、一体、自らの職業あるいは存在意義をどのように考えているのでしょうか。生成系AIの採用に際してリスク面を一顧だにしないで導入を進めますと、政治家自らに失業リスクが跳ね返ってくるように思えます。否、今日の政界の腐敗と劣化が、政治家の代替としての生成系AIの導入を正当化しかねないのです。この側面からしますと、むしろ、政治家は、‘チャットGPT失業’の問題を、自ら自身が直面している問題として真剣に考えるべきかもしれません。政治家は、常に国民に対しては過酷な変化に耐え忍ぶように求めながら、自分自身は、既得権益にしがみついて決して変わろうとはしないのですから。なお、本記事は、チャットGPTによって作成されたものではありませんので、ご安心くださいませ。

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データ面から見たチャットGPTの限界

2023年04月27日 16時44分06秒 | その他
 チャットGPTの強みは、その情報量にあります。ユーザーから新たな情報を入力され、かつ、自ら学習しますので、情報量は常に増大し続けます。しかしながら、収集されたデータが質の面で劣とる場合には、正確な回答を作成できないという弱点があります。そしてこの他にも、チャットGPTには幾つかの問題点があるように思えます。

 チャットGPTに初期段設定で入力されているデータは非公開とされております。その中には、おそらく、各国政府による公的な公開情報、事実としての報道情報、あるいは、ウィキペディアのような一般に公開されているweb辞書・辞典情報なども含まれているのでしょう。こうした誰もがアクセスできる情報であれば問題はないのですが、その一方で、情報の中には、法律によって厚く保護されているものもあります。

 保護されている情報としては、先ずもって個人情報があります。日本国でも個人情報保護法が制定されていますが、一般的には、一企業が勝手に個人情報を収集して利用することはできません。この問題は、他のIT関連のサービスとも共通しているものの、チャットGPTをはじめとした生成AI、否、全てのAIについても同様です。もっとも、同サービスの利用には個人情報の提供が求められていますので、ユーザーの合意を得れば合法的に収集も利用も可能です。しかしながら、チャットGPTのユーザーは年齢層や事業分野等によってまちまちであることから、個人情報にも自ずと偏りが生じます(例えば、高齢者の利用者は少数と推測されることから、データベースに空白部分や‘むら’が生じる・・・)。また、収集・利用を拒否するオプトアウトを選択するユーザーが増えれば、AIは、量の強みをも失うことにもなりましょう。

 そしてもう一つ、法律によって手厚く保護されている情報があります。それは、著作権が設定されている出版物などです。このため、既にチャットGPTについては、著作権侵害に当たるのではないか、とする指摘があります。著作権が設定されている出版物はデータとしては無許可には使ませんので、仮に、チャットGPTが法律を遵守しているならば、その初期データベースは使用フリーな情報のみによって構成されているはずなのです。このことは、チャットGPTの精度の高さが強調されるほど、著作権侵害の疑いが濃くなることを意味します。

 また、チャットGPTには、人種、民族、性別といった属性に基づくヘイト・スピーチや差別的表現等、あるいは、暴力誘発リスクへの対応としてアルゴリズムバイアスが組み込まれており、関連する特定の表現や言葉はデータベースから予め排除されています。このため、正確な回答にとりまして必要不可欠な情報をデータとして使うことができません。結果として、データが欠けているために実態を全く反映しないどころか、真逆であったり、逆差別となるような回答が返ってくることもあるのです。チャットGPTの回答を信じたことで不当な差別的な扱いを受ける人々も現れかねないのですから、本末転倒ともなりましょう。

 さらにアルゴリズムバイアスの存在は、チャットGPT側が恣意的にデータの取捨選択を行えることを示しています。仮に、チャットGPTが自らに不利なデータを排除する一方で、有利なデータを加えた場合、同サービスが提供する回答は、一種の詐欺的行為ともなりかねないのです。また、ビジネスの一環として、外部の組織や個人からの依頼を受けてデータを改竄したり、虚偽の情報を加えるリスクもありましょう。チャットGPTが普及すればするほど、こうしたリスクが現実化した場合の社会的な悪影響は計り知れなくなるのです。

 以上に、チャットGPTのデータに関する主たる問題点を述べてきましたが、これらの諸点は、回答の信頼性に大きく関わります。リスクを無視して導入を急ぎますと、人類の‘自殺行為’ともなりかねない危うさが認められましょう。そして、生物では、使わない機能は退化し、やがて機能喪失も起きるとされますので、AIに知的活動を任せてしまった人類は、近い将来、最早‘ホモ・サピエンス’の名にはふさわしくない存在になるのではないかと危惧するのです。

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チャットGPTのジレンマ-回答の正確さと機密情報の提供

2023年04月26日 13時50分42秒 | その他
 2022年11月にオープンAI社が公開したチャットGPTは、瞬く間に全世界に広がることとなりました。知りたいことに即答してくれる便利さ故に、ユーザー数は、公開から僅か2ヶ月足らずで全世界で1億人を超えました。日本国内でも、先日の記事でも指摘したように、早、政治家を旗振り役として、国会答弁や行政レベルでの導入が進められています。普及スピードは破竹の勢いなのですが、チャットGPTには、克服しがたい問題も山積しているように思えます。

先ずもって指摘し得るのは、ユーザーとチャットGPTとの間の非対称性です。同AIの利用が広がった背景には、両者の間の圧倒的な情報量の差があります。一人のユーザーが収集し得る情報は限られていますが、チャットGPTには、人間の記憶量を遥かに上回る巨大なデーターベースが備わっております。この情報量の差があってこそ、ユーザーとチャットGPTとの間に質問者と回答者という関係が成り立つのです。両者に同じ課題のレポートを書かせたとしたら、情報量に優る後者の方が、より広範囲に亘って課題に即した対象を探し出し、詳細で緻密な内容の回答を作成することでしょう。大半のAIがそうあるように、チャットGPTは、情報量の優位性に立脚したサービス・ビジネスなのです。

ところが、チャットGPTの優位性は、情報の量ではなく質に注目しますと、必ずしも当てはまらなくなります。誤った情報のみならず、回答の正確性や妥当性に決定的な影響を与える内容の情報が一つでも欠けていれば、必然的に誤った文章を作成してしまうからです。最悪の場合には、真逆の回答ともなりかねません(‘陰謀論’が事実であるケースや偽旗作戦が頻発している現状では、チャットGPTは大手メディアや政府による模範解答的な回答しか作成しないのでは・・・)。如何に大量のデータをインプットしていたとしても、情報の重要性や正確性おいては、チャットGPTはその優越性を保障されていないのです。

それでは、どのようにすれば、この弱点を克服できるのでしょうか。質の面においても優位性を確立しようとすれば、正確性の獲得に要する‘重要情報’を収集する必要があります。チャットGPTの使用に際して、ユーザーが個人情報の提供を求められるのも、回答の正確性を期するという理由もあるかもしれません。同サービスでの両者間の質疑応答の内容は、全てチャットGPTのデータに追加されるそうです。個人的な事柄についてより有益な回答や助言を求めよとすれば、自らの個人情報を包み隠さず伝え、チャットGPTに‘学習’させ訓練データ化されなければならないのです(教会ネットワークによる情報収集の手段となったとされるカトリックの懺悔室のよう・・・)。

そして、この問題は、民間企業がチャットGPTに対して消極的とならざるを得ない理由をも説明しています。例えば、Amazon社では、社員が誤って社外秘をチャットGPTに入力した可能性があるとして、「現在開発中のコード含むAmazonの極秘情報をChatGPTと共有しないよう」社員に対して通達したとされます。言い換えますと、チャットGPTに対して正確性を求めれば求めるほど、企業は、自社の機密情報を提供しなければならなくなるというジレンマがあるのです。

果たして、チャットGPTは、こうしたジレンマを乗り越えることができるのでしょうか。全てのAIにまつわるこの難しい問題を、是非、チャットGPTに問うてみたいと思うのです(チャットGPTの回答は、‘機密を護るためにはチャットGPTを使わないことを、あなたにお薦めします’かもしれない・・・)。

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精神転送の悲劇?-永遠の命のパラドックス

2023年04月24日 14時05分17秒 | その他
 秦の始皇帝の名を挙げるまでもなく、古来、不老不死を求める権力者は後を絶たず、今日では、グローバリストの富裕層がこの見果てぬ夢を追っているのかもしれません。古代にあっては、薬草や祈祷などに頼るしかしかなかったのですが、永遠の命を求める現代の権力者は、ITやAIというテクノロジーを手にしています。

 こうした身体の機能を機械化する研究につきましては、日本国政府も、2020年にムーンショット計画を打ち上げています。ムーンショット目標1には、「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」とあり、2050年も達成目標として、アバターとロボット技術の融合による「誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティック・アバター 基盤」の実現を目指すそうです。同目標では、一人の人が10以上の複数のアバターを捜査して多様な活動に参加できる社会を構想していますが、同目標をも超える技術として探求されているのが、精神転送です。ムーンショット計画の問題については後述するとしまして、本記事では、精神転送の結末について考えてみたいと思います。

精神転送とは、ウィキペディアの説明に依れば「人間の心をコンピュータのような人工物に転送すること」を意味します。ここで注目すべきは、転送されるのは、人間の‘心’である点です。このことは、ある個人の脳とそっくり同じ構造をもつ人工知能、あるいは、ロボットを作ろうと言うことではないことを意味します。後者であれば、クローン技術を用い得ればより容易に実現しますし、一卵性双生児の存在は、同一の遺伝子情報を有し、同一の脳構造を持っていたとしても、全くの別人格となることを示しています。つまり、精神転送とは、この世に一つしかないとされる個人の‘意識’を人工頭脳に移すのですから、遥かにハードルの高いプロジェクトなのです。

 これまでのところ、精神転送には、理論的には様々な方法が考案されているらしく、基本的には人間の脳の電気回路を完全に再現するコンピュータを作製した上で、特定の人の意識をそれにアップロードするというもののようです。生きている間に移転する方法も、死後に移転する方法もあるのでしょうが、一つ、重大な点を見落としているように思えます。それは、人体の様々な感覚というものです。

 現在において、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚等の感覚を取り戻すテクノロジーは未だに出現していません。このことは、感覚に関する身体の器官を全て再現できないことには、たとえ意識を移転できたとしても、その人は、暗闇の中で生き続けなければならないことを意味します。見ることも、聞くことも、匂いを感じることも、食べることも、触ってみることもできないのです。永遠の命と引き換えに、ヘレン・ケラー以上に不自由な生活を覚悟しなければならないことでしょう(なお、視覚を失えば、自らの分身であるアバターを見ることもできなくなる・・・)。

 また、たとえ人工頭脳によって思考できたとしても、発声器官が脳と繋がっており、言葉をもって他者と意思疎通を行なうこともできません。そもそも、聴力が備わっていなければ、他者の話を聞いて理解することもできないからです。もっとも、人工頭脳が発する電波の自動言語化、並びに、外部音声のデータ化等によってコミュニケーションをとることはできるかもしれません。実際に、今日、Chat GPTのように、AIを用いたチャットボットと音声で会話ができる時代を迎えています。しかしながら、入力された膨大なデータをベースとして反応するAIとは逆に、人工頭脳の基本データは、個人の転送された‘記憶’しかありません。生きている間に獲得した知識や情報に基づいて、人工思考回路を用いて他者と会話をしなければならないのですから、越えるべきハードルは、チャットボットより遥かに高いのです。

 そして、何よりも人工頭脳に転送された‘意思’が恐怖するのは、予期せぬ故障が起きたり、トラブルやミスで電源が切れてしまう、あるいは、他者によって切られてしまうことです。永遠の命を求めて機械化したところ、ここでも機械の‘寿命’という問題に直面してしまうのです。また、人為的な場合には、殺人罪が成立するのか、と言う問題も派生します。この問題も、全く同一の後継人工頭脳を作れば良い、というお話にもなるのですが、同一の頭脳が作製できるのであれば、理論上では、いくらでもコピーが作れることとなります。となりますと、一つであるはずの個体の意思が無限に分裂してゆくこととなり、人類は、未知の世界に足を踏み入れることとなりましょう。

 電源の供給をはじめ脳波の測定・出力からメンテナンスまで、あらゆる面で外部に全面的に依存し、無防備な状態にある転送された‘意思’は、果たして幸せなのでしょうか。暗闇の中で、毎日、誰かに突然に命を絶たれてしまう恐怖に苛まれるかもしれません。精神の転送とは、永遠の命ではなく、永遠の生き地獄なのではないかと思うのです。

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世界経済フォーラムは民主主義を無視する-‘非民主集中制’の問題

2023年04月05日 12時34分48秒 | その他
 世界経済フォーラムを財政的に支えているのは、グローバルに事業を展開する1000社あまりのグローバル企業です。この歴然とした事実からしましても、同フォーラムに民主主義の尊重を求めるのは困難です。考えてもみますと、今日の企業とは、基本的には非民主的な組織であるからです。

 世界経済フォーラムの‘奥の院’が、近代以降、グローバルレベルでネットワークを形成しつつ、貿易や投資(悪い意味での各種資源の権益や経営権の掌握等も含む・・・)、さらには戦争や麻薬等によって巨万の富を築いてきた金融・経済財閥であるとしますと、組織の決定権限並びに富の独占を志向こそすれ、企業を民主的な組織に変革しようとは考えなかったはずです。否、その逆に、自らの仲間内である大株主、創業者、CEOといった極一部の人々が上から命じ、利潤の大半が自らに流れる体制が永遠に続くことを望んだことでしょう。

 その一方で、政治の世界では、近代以降にあっては、大多数の国家において国民が参政権を有する民主主義体制が定着することとなりました。国際社会においても、民族自決、主権平等、内政不干渉等の原則の下で、主権国家が並立する国民国家体系が成立したのです。しかしながら、グローバルな経済勢力にとりましては、同体制は、いかにも不都合です。民主主義国家の政府や政治家は、有権者である国民によって選ばれるために、国民の信託に応える義務があるからです。そこで、経済全体の仕組みを自らの利益となるように、政治の分野も含めて再設計することが、同勢力の達成すべき重要な課題となったのでしょう。世界経済フォーラムが掲げる‘リデザイン’や‘リセット’といった言葉にも、国際体系をも含む既存の仕組みを根本的に変えようとする並々ならぬ野心が伺えます。

 そして、現状を見ますと、まさしく上記の推測どおりに進んでいるように思えます。グローバリズムが深化するにつれ、‘1%問題’とも称された所得・資産格差の拡大や中間層の崩壊が看過できないほどに深刻化してきました。増え続ける移民も、国民の枠組みを内側から揺さぶっていますし、日本国では、終身雇用制が崩壊に瀕し、非正規社員の増加が少子化問題のみならず、国民の貧困化と生活不安を引き起こしています。これらの現象も、経済全体の仕組みや企業の組織形態が、世界権力を頂点とする上意下達を是とする‘非民主集中制’が強まった現れなのでしょう。もっとも、自らに有利な経済システムの構築とその維持という側面に注目しますと、グローバリズムに先立って経済勢力によって試みられたのは、思想面における共産主義の拡散、並びに、労働者の組織化であったのかもしれません。

 カール・マルクスを祖とする共産主義につきましては、その真の狙いは、共産党一党独裁という政治権力も富をも独占する少数者支配体制にして全体主義集権体制の成立にあったのでしょう。共産主義は、資本家による搾取からの労働者の解放を掲げながら、その実、‘非民主集中制’を正当化するイデオロギーとして働いたのです。因みに、‘非民主集中制’は、共産主義体制では‘民主集中制’共産党と表現されており、共産党が権力を独占するために使った二重思考のレトリックです。共産主義を用いた手法は、ロシアや中国といった帝国支配の歴史を有し、自由の抑圧や貧困から多様性に乏しく、人民(農奴・・・)の画一化もある程度進んでいたような国や地域では、期待以上の効果を発揮したのかもしれません。

 その一方で、企業形態の民主化の回避は、産業革命以降、工業化に伴って経済発展を遂げた自由主義国では、労働組合方式において進められたのでしょう。同方式は、さらに幾つかの手法に分かれるように思えます。第一の手法は、工場など、劣悪な環境や条件の下での働く労働者を、労働組合に加入させて組織化するという手法です。この方法では、経営者と労働組合の両者が鋭く対立する一方で、労働者の不満は経営者にぶつけられるために、株主(資本家)は比較的安全な立場に居ることができます。また、政治面に注目しますと、労働組合は、政治イデオロギーとしては左派の中核をなしますので、自らにとって障害となる政府を攻撃するために動員し得る‘実行部隊’として利用することもできたのです。政治的にも両者が正面から対峙する構図では、企業の組織改革は二の次となりましょう。

 第二の手法は、労働組合の加入率が低下し、ホワイト・カラーが多数となった時代に採られる手法です。これは、挟み撃ち作戦とも言えるものであり、‘労働者の利益を護る組織’として労働組合が既に存在するため、むしろ、組織を持たない非加入のホワイト・カラーの人々が、自らの正当な利益や要求を訴える機会を失ってしまうのです。また、リベラルな労働組合は、地球温暖化問題、デジタル化、AIやロボットの導入、多文化共生主義、LGBTQ、移民受け入れといったグローバリストが推進する政策に対しては反対しません。このため、一般のホワイト・カラーの人々が大半を占めている中間層が失業や非正規社員化の危機に直面すると共に、国民の多くが慣れ親しんできた文化や伝統なども壊されてしまうのです。なお、世界経済フォーラムは、グローバル・ガバナンスの構想において労働組合との連携を提唱しています。

 そして、第三の手法は、労働組合方式を他の分野にも拡大させることです。今日、‘市民団体’と称される組織を数多く目にします(世界経済フォーラムでは‘選ばれた市民団体(CSOs)’がグローバル・ガバナンスの担い手として位置づけられている・・・)。その多くが労働組合と同様に地球温暖化やジェンダー問題等の社会問題やマイノリティー保護への取り組みをアピールしていますが、これらの団体の多くも、世界権力によって組織化されているのでしょう。
 
 何れにしましても、現在の経済システムは、それを構成する企業の組織形態からして非民主的であり、労働組合の存在も、働く人々が既存の仕組みを民主的な方向に変えてゆくチャンスを奪っているように思えます。報道によりますと、‘令和の若者’は出世したくない人が多いそうです。これも、単なる勤労意欲の低下とみるよりも、トップダウン型の経済システムや企業形態に対してどこか馴染めないところがあり、よりフラットな組織を求めているからなのかもしれません。固定概念や世界経済フォーラムが示す未来ヴィジョンに固執することなく、各企業がより自由で自立的であり(国家も企業も世界権力から’独立’すべき・・・)、かつ、その内部にあっても社員間の関係がより協働的な参加型の仕組みを考案すべきではないかと思うのです(つづく)。

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トライベイ・キャピタルに見る‘焼き畑’的な太陽光発電バブルの巨悪

2023年03月10日 12時53分25秒 | その他
 今般、三浦清志容疑者の逮捕により明るみに出た太陽光発電事業は、地球温暖化問題というグローバルな大舞台の上で繰り広げられてきた投資会社投資ファンド等の悪徳ビジネスの実態をも明らかにしているように思えます。

 報道内容が正しければ、三浦氏が手がけるトライベイ・キャピタルは、‘土地転がし’まがいのビジネスで利益を挙げていたそうです。例えば、固定価格買取制度を追い風として太陽光発電事業への参入を計画し、用地を準備した事業者がいたとします。この情報を入手した同社は、すぐさま同用地に隣接する土地を安値で買い占め、その後、同時業者に隣接地を買い取るように持ちかけるのです(土地の買取に応じない場合は、多額の通過料を請求・・・)。発電した電力を送るための送電線を引くためには、隣接する土地も必要として。そして、提案した土地の価格、驚くべきことに取得価格の10倍というのです。購入価格が1億円であれば売却時の価格は10億円となり、土地を転売するだけで、同社には9億円の利益が転がり込むのです。

 また、最初の容疑が投資詐欺であったように、同社には、詐欺罪の嫌疑もありました。住民の合意を示す書類を偽造して事業委託を受けながら、実際には、住民の反対で計画は頓挫しており、現地は更地のままであったというものです。しかも、出資金10億円の内、横領が疑われている2億5千万円は人件費とも述べていますので(トライベイ・キャピタルの社員は10名程度らしい・・・)、仮に同供述が事実であったとしても、法外な報酬も当然視していたことになります。

 三浦夫妻は揃って東京大学を卒業した学歴をもち、清志容疑者は元外務官僚であり、かつ、外資系大手コンサルティング会社であるマッキンゼーにも勤めた華々しいキャリアがあります。また、国際政治学者の三浦瑠麗氏もマスメディアへの登場により知名度が高く、かつ、政界や官界にも広い人脈がありました。しかも、同社が取得した事業は、低圧事業用太陽光発電所として固定価格買取制度の認定を受けていたそうです。多くの人々が同夫妻を信用し、投資話に引き込まれてしまうのも理解に難くはありません。そして、一件で数億円の利益が上がるのですから(2023年の目標は1000件・・・)、SNS等でも発信されてきた三浦夫妻のリッチな生活も頷けるのです(‘セレブ生活’の公開も、投資を呼び込むために太陽光発電事業の収益性の高さや有望性をアピールするための宣伝活動であったのかもしれない・・・)。

 しかしながら、この悪徳商法、結局は、行き詰まることとなったようです。トライベイの経営は‘自転車操業’であったとされているように、計画が行き詰まった事業も多く、多額の債務も抱えていたようです。その理由としては、太陽光発電所に吹きはじめた逆風によって住民の合意が得るのが難しくなったこと、固定価格買取制度において買い取り価格が下がったこと、そして、同社をはじめとした投資会社の強欲な体質、並びに、経営手法が、一般投資家や新規参入事業者にリスクとして認識されてきたこと、などを挙げることができましょう。実際に、今日では、太陽光発電事業から撤退する事業者や投資家も現れており、トライベイ・キャピタルの大手同業者も倒産しています。

 かくして、いよいよ太陽光バブルは終焉を迎えそうなのですが、同様のバブル崩壊は、実のところ、既に海外においては経験済みです。否、日本国が固定価格買取制度を開始した凡そ10年前の時点にあって、いち早く同制度を導入したスペインでは、太陽光発電事業におけるバブル崩壊が起きていたのです。このことは、日本国政府は、固定価格買取制度を導入すればバブルが発生するリスクを知りながら、敢えて同制度を取り入れたことを意味しています。コロナワクチンにつきましても、海外で健康被害の報告がありながら、日本国政府は、同ワクチンの接種を国を挙げて推進しており、リスク無視で海外の制度や政策を後追いする事例が後を絶ちません。

 日本国政府は、常々海外の政策をグローバル時代の先端的なモデルとして模倣してきましたが、既に失敗した事例まで模倣するのは、あまりにも愚かしいことです。制度的な欠陥が明白なのですから、せめてそれらを是正してから導入すべきです。しかしながら、こともあろうか、当時の民主党政権は、固定価格をドイツの2倍に設定し、欠陥、すなわち、バブル・リスクをさらに増強させる形で同制度をスタートさせているのです。

 ‘愚か’と言ってしまいますとそれまでなのですが、本当に、日本国政府は、欠陥に気がつかない愚かな政府であったのでしょうか。仮に、思慮に欠けた単なる判断ミスではないとしますと、これは、固定価格買取制度のバブル効果を十分に理解した上での計画的な導入であった可能性も捨て切れません。投資額が膨らむバブリングの時に十分な利益を吸い上げ、それが崩壊する前に逃げてしまうという作戦です(トライベイも香港、シンガポール、フィリピンに事業拠点を設けているので、既に海外に資産を移している可能性も・・・)。A国で制度を導入させてバブルを崩壊させた後、B国に移り、B国でも同制度を導入させることに成功すれば、同様の手法で莫大な利益を得ることができます。もちろん、所謂‘太陽光ビジネス’の計画者は、同制度に“政治家の利権”を組み込むことも忘れてはいなかったようです。つまり、太陽光発電事業は、グローバルな視点からすれば‘焼き畑’ビジネスであると見立てれば、日本国政府が制度導入を急いだ理由にも説明が付くのです。

 地球温暖化問題につきましては、科学的な見地からの懐疑論がありながらも二酸化炭素犯人説が定説化し、何れの政府も強引に太陽光発電促進政策を推し進めてきました。しかしながら、本当のところは、この政策、一体、‘誰の利益’のためなのでしょうか。リベラルなグローバル・エリートも保守的なエリートも偽善者か‘偽旗者’であり、政治家やマスコミ、並びに、内外の宗教団体とも結託した巨悪の一味(金融・経済財閥系の世界権力・・・)であるのかもしれません。このままでは、未来永劫にわたって国民は重い負担や損失に耐えねばならなくなりますので、再生エネ事業に組み込まれた反社会的なビジネスや仕組みは、何としても取り除かなければならないのではないかと思うのです。

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悪魔に魂を売らないためには

2023年03月03日 13時41分46秒 | その他
昨今、‘悪魔に魂を売る’という言葉が、目に付くようになりました。その理由は、政治家をはじめ、悪魔に魂を売ったとしか考えられないような人々の姿が、ここかしこに見られるからです。国民が物価高や増税に苦しむ中、権力を私物化し、公金で豪遊する政治家、公的制度を悪用して私服を肥やす実業家、果てには権威の衣をもらって悪魔に媚びた思想を吹聴する知識人など、例を挙げたら切がありません。国民を騙して戦争に誘導する人々も、自らの魂を悪魔に売っているのでしょう。‘良心はないの?’と言いたくもなるのですが、こうした‘悪魔に魂を売った人々’には、重大な見落としがあるように思えます。

悪魔に魂を売るお話は、ゲーテの『ファウスト』でも知られておりますが、一般的には、悪魔との交換契約を意味しています。その契約の内容とは、この世においてあらゆる欲望が満たされる代わりに、死後は、魂が消滅してしまう、あるいは、悪魔の奴隷になるというものです。いわば、この世の天国とあの世の地獄とが交換条件となる契約なのです。合理的に考えれば、あの世での永遠の地獄よりも、たとえ現世で一時的な地獄に会おうとも、悪魔に魂を売らない方が遥かに‘まし’なはずです。しかしながら、そもそも、神や悪魔、そして、魂の存在は不可知ですので、これらが存在しないと仮定すれば、この世での欲望の成就や享楽を選択する人がいてもおかしくはありません。特に無神論者が増えている現代にあっては、この世での‘天国’の方が合理的な選択となり得るのです。

そして、悪の本質が利己的他害性にある限り、悪魔との約束の具体的な意味は、他者を犠牲にした自らの利得や欲望の追求となります。言い換えますと、現代において悪魔に魂を売る行為とは、犯罪者や違反者であったり、自己利益のために他者を犠牲にしても構わない人と言うことになりましょう。そして、それは、得てしてマネー・パワーに負けて良心を売ってしまう背信行為となります。この点、人々を悪事へと誘う現代の悪魔とは、巨大なマナー・パワーを有する金融・経済財閥を中枢とする世界権力と言えるのかもしれません。富を独占した上で、人類全体を管理し、自らが奴隷であることに気がつかない‘無自覚な奴隷’の状態に置こうとしているのですから。

それでは、悪魔を‘ぎゃふん’と言わせる方法はあるのでしょうか。実は、これは、それ程難しいことではないように思えます。喜んで悪魔と契約したものの、この世で地獄を経験してしまった人が一人でも現れればよいのです。一つでも悪魔との契約が不履行となった事例がありますと、悪魔の甘言に対して疑いが生じ、人々は、悪魔は詐欺師ではないかと警戒するようになります。人々が悪魔の万能性が信じられなくなったとき、悪魔と契約しようとする人は激減してしまうのです(もっとも、真の悪魔は、人間との契約を誠実に護るとは思えませんので、悪魔に誠実な契約の履行を期待した時点で判断を間違えているのでは・・・)。

ゲーテの『ファウスト』での神と悪魔の勝負の勝者は、ファウスト博士をめぐる‘賭け’において、魂を売る契約を結ぶことに成功した悪魔(メフィスト)ではなく、グレートヒェンの純真な心をもって悪魔に売られた魂を救い出した神の勝利として描いています。今日の‘悪魔に魂を売った人々’も、同小説の筋書きと同じく、あるいは魂が救われる道が残されているかもしれないのですが、先ずもって、悪魔の万能神話が崩壊こそ、ファウスト博士個人のみならず、多くの人々の魂を救う道となりましょう。そして、現代の悪魔に魂を売った人々、即ち、腐敗した政治家や国民を犠牲に供して自己の野望を達成しようとする人々の目を覚まさせるのは、人々の良心や良識であり、かつ、警察や検察、そして、裁判所を含む現代国家の統治機構なのではないかと思うのです。

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‘批判者の嫉妬心’という魔法の反論術

2023年02月21日 12時37分30秒 | その他
 昨今、不祥事、失言、違法行為、犯罪等に対する批判への反論として、批判する人々の嫉妬心を指摘するという手法が見受けられます。‘その批判は、貴方の私に対する嫉妬心です!’という・・・。この反論術には、実のところ、魔法のような効果があるようです。

 第一に、同論法を利用しますと、自らの責任を回避することができます。たとえ批判や非難を受ける原因となった出来事が事実であったとしても、批判の原因を、相手方の心理に求めることができるからです。つまり、批判を引き起こした原因は、自らの不良行為や不適切な発言にあるのではなく、相手方の心の内にあることになりますので、自らは責任を負わなくても済むのです。‘私ではなく、嫉妬心を起こした貴方に原因がある’ということになりましょう。

 第二に、自らを批判してきた人々に対して、上からの目線で諭す立場に立つことができます。‘批判や非難という行為は、不正を糺そうとする正義感からではなく、批判する側の深層心理にまで踏み込んで理解すべきである’とする‘高説’を垂れられますと、批判する側も、一瞬、立ち止まることになるからです。人々から糾弾され、平身低頭、身を低くしていなければならない状況下にありながら、嫉妬論を打ち出した途端に立場が上昇し、批判者との間の位置関係が逆転してしまうのです。

 第三に、責任回避や立場の逆転のみならず、責任を転嫁することもできます。‘嫉妬心は、人間の悪しき感情の一つである’とする一般的な共通認識があります。何故ならば、嫉妬心とは、その人自身に何の落ち度や問題がなくとも、自分にはないものを持っていたり、何らかの点で優れていたりする場合、その人を不快な存在と見なす心の動きであるからです。嫉妬を受けた側は、一方的に悪意をもたれてしまいますので、一般的には、自らの欠如や相対的な劣位に起因する嫉妬は、嫉妬する側が悪いとされるのです(時には、嫉妬を受けた側に危害が加わることも・・・)。

このように嫉妬という行為は、‘悪’と見なされがちですので、嫉妬心を指摘する反論術を用いれば、批判する側を逆批判することもできます。批判の原因となっている事実を棚に上げて、相手を悪者に仕立て上げることも不可能ではありません。批判を受ける側が、実際に社会的地位が高かったり、富裕者であったり、高学歴であったり、知名度が高いなど、他者から羨望され、嫉妬されるような立場であればあるほど、この効果は強まります。つまり、自らに対する批判には耳を塞ぎつつ、‘私ではなく、嫉妬深い貴方が悪い’と言い返すことができるのです。

 さらに第4点として挙げるとすれば、正当な根拠に基づいて批判する人々をも萎縮、あるいは、自粛させてしまう効果です。嫉妬心の一般的な理解は‘悪’ですので、誰もが、嫉妬深い人とは見られたくないと思うことでしょう。このため、この論を持ち出されますと、自己保身の心理が働いて批判を控えてしまう人も少なくないのです(本稿も、嫉妬心から書かれていると逆批判されるかもしれない・・・)。

 以上に述べてきましたように、嫉妬心を用いた反論は、批判される側を窮地から救い出す魔法の杖のようなものです。この杖を一振りすれば、善悪を逆転させ、自らを高みに上げることができるのですから。しかしながら、この反論術の魔法が解けてしまう日も近いのかもしれません。何故ならば、その‘からくり’が分かれば、それが、魔法ではないことを多くの人々が知ってしまうからです。日常のみならず、同手法は、政治の世界でも頻繁に見られますので、大いに警戒すべきではないかと思うのです(しばしば、‘巨悪’を隠そうとして使われるケースも・・・)。

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価値の‘先取り’こそ人々を騙す手法-二重思考への誘導

2023年02月17日 11時03分21秒 | その他
 web上のニュースを見ておりますと、しばしば目にするフレーズがあります。気付かれた方もおられると思うのですが、それは、王室・皇室並びに芸能人等に関する記事において散見されます。多い時には毎日のように掲載されておりました。それは、‘○○の△△に、□□の声’というものです。例えば、‘××さんの装いに、賞賛の声’といった表現です。何故、こうした表現に違和感があるのかと申しますと、報道される以前の段階では、撮影者や周辺のほんの少数の人しか見ていないはずなのに、既に多くの‘賞賛の声’が寄せられているかのように報じているからです。時系列的に考えれば前後が逆であり、冷静になって考えてみればあり得ないのです。

 常々その不自然さを訝しく思っていたのですが、この奇妙な報道方法は、人々を二重思考へと誘導するテクニックの応用なのではないかと考えるようになりました。オーウェルの『1984年』にあってゴールドスタインの言葉として説明されているように、二重思考の主たる手法とは、虚を実の前に置くところにあります。‘前’とは、主として時系列における前後関係を意味しており、‘虚’‘を先手とするいわば‘先手必勝’を原則としているのです。

 最初に‘虚’を宣伝する、あるいは、人々の脳裏にすり込みますと、実態との違いが曖昧となります。あるいは、実態と虚との違いに気がついたとしても、それを言い出しづらくなるのです。この手法は、政治の世界でも頻繁に用いられているように思えます。近年では、DX、GX、SGDsそしてコロナワクチンなどにおいて顕著に見られます。安全保障の分野における国連やNPT体制もその一つとも言えるかもしれません。何れにおきましても、最初の段階でこれらを‘絶対善’とするプロパガンダが徹底的に行なわれるため(価値を先に付与する・・・)、事実が逆であったとしても異論が許されない空気がもたらされてしまうのです。

 例えば、地球温暖化とそれに付随するGXにしても、太陽光発電施設の乱開発による自然破壊、悪しき環境利権の温床化、太陽光パネルの大生産国である中国へのエネルギー依存、電気料金の高騰、企業対策コストの負担増、反社会組織の事業参入、産業の空洞化など、二酸化炭素の排出量が一向に減らないどころか、本末転倒とも言える現状があります。しかも、世界各地で記録的な寒波が報告されており、地球温暖化二酸化炭素説も科学的に証明されているわけでもありません。挙げ句の果てに、地球を護るため、という大義名分の下で、寄生虫、細菌、ウイルスなどによる健康被害も懸念される昆虫食まで強いられるのでは、壮大なる地球環境詐欺を疑わざるを得ません。

 コロナワクチンにしても、政府は十分な安全性が確かめられていないにも拘わらず、ワクチンは安全である、ワクチンには効果があると国民に吹き込み、河野ワクチン担当相に至っては、健康被害に関する情報は全てデマであると言い切っていました。ところが、ここでも現状を直視しますと、超過死亡者数20万人以上ともされているように、‘大切な人のためにワクチンを打ちましょう’という政府の宣伝文句に騙されて、自らの命を失ってしまった心優しい国民も少なくないのです。最近に至り、具体的な健康被害やワクチン接種者の感染が報じられ、mRNAワクチンの危険性に関する研究も注目されてきたことから風向きが変わってきたものの、ワクチンによる健康被害や効果を疑う声は、それが現実のものでありながら、政府が先置きした‘虚’の前にかき消されてきたのです。

 こうした事例は、日本国内のみならず世界各地に見られますので、先手を打って‘虚’に絶対的な価値を与える手法は、おそらく、世界権力が各国の権力を不当に手にする過程で最も頼りとするものであったのでしょう。しかも、‘虚’を権威付けできれば、その効果は倍増されるはずです。ノーベル賞をはじめ各種の賞や影響力のあるポジションの人々の肯定的な発言も、‘虚’に信憑性を与えるために利用されてきたことでしょう(全ての歴代受賞者が利用されている訳ではないものの、2021年の物理学賞は二酸化炭素の地球温暖化への影響をモデル化した真鍋淑郎氏であった・・・)。各国の政治家をマネー・パワーで自らの仲間内として育成し、全世界のマスメディアをコントロールできれば、この手法は、絶大な効果を発揮するのです。

 それでは、世界権力による二重思考作戦は、今後ともその効果を維持することができるのでしょうか。‘過ぎたるは及ばざるが如し’とも申しますように、同手法の濫用は、手の内を明かしてしまう事態を招いているように思えます。多くの人々が、あまりの不自然さに、既に虚実の間の綻びや矛盾に気がついてしまっています。国民が二重思考へと誘う先取り作戦に騙されなくなったとき、それは、世界権力が構築してきたバベルの塔のレンガが一枚づつ剥がれ落ち、静かに崩れ始めるときなのではないかと思うのです。

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歴史が示す戦争の経済的要因-危ない現状

2022年10月31日 13時09分11秒 | その他
 戦争とは、領土争いといった政治的な国家間の対立のみを原因としているわけではありません。とりわけ、近代以降の戦争の背後には、経済的な利益追求や利害関係が分かちがたく絡んでおり、どちらが主因であるのか判然としない、あるいは、本当のところは定説とは逆に後者が主因であるのかもしれません。何れにしましても、戦争を抑止しようとすれば、経済的要因にも注目する必要がありましょう。

 例えば、戦前のドイツにおけるナチスの台頭は、第一次世界大戦における敗北そのものよりも、同戦争の対独講和条約であるヴェルサイユ条約がドイツに課した天文学的な賠償金の支払い問題にあります(第一次世界大戦も、主たる要因は世界大での権益争い・・・)。支払いに窮したドイツは、国内においてハイパー・インフレーションを起こすことで債務の負担軽減を試みた結果(凡そ1921年~23年)、ドイツ経済は崩壊の危機に瀕し、資産を失い、失業の憂き目にあった国民の不満を吸収したナチスが、民主的選挙にあって躍進します。その一方で、第一次世界大戦後にあって戦勝国となり、国土も殆ど無傷であったアメリカは、戦間期にあって未曾有の好景気を謳歌しますが、投機ブームに踊ることになったアメリカも、遂に証券市場のバブルが崩壊し、運命の1929年9月4日を迎えるのです。全世界に広がった大恐慌による長期不況が資源をめぐるブロック経済化をも招来し、第二次世界大戦の遠因、あるいは、主因であったことはしばしば指摘されるところです(不況に伴って発生した大量の失業者は徴兵と軍需産業が吸収・・・)。

 現代史を紐解いても経済が如何に戦争と密接に結びついているのかが理解されるのですが、上記の二つの関連する歴史的出来事は、深刻なインフレーション、バブル崩壊、長期不況、資源の供給減、失業の増加などが、国境を越えた連鎖反応を起こして戦争への道を敷くことを示しています。こうした諸点に照らしますと、今日もまた、戦争リスクが高まっているように思えます。

 その発端は、今年の2月に始まるウクライナ危機にあるのですが、ロシアに対する経済制裁は、各国の経済・金融政策の不調和によって上記の要因を揃えつつあります。アメリカやEU諸国をはじめとする対ロ制裁は、禁輸措置によりエネルギー資源の供給不足を招いております。近年のカーボンニュートラル政策と相まって、エネルギー資源市場における価格上昇が、凡そ全ての諸国にあって物価高の要因となっていることは言うまでもないことです。物価の上昇は国民生活を圧迫しますので、アメリカのFRBは、まずはインフレ抑制を名目として金利を上げる措置をとっています。しかしながら、この教科書的な国内向けの対策は、世界経済全体を見ますと、絶壁の崖へと続く危うい道となりかねません。

 そもそも、アメリカにおける物価高の原因は、資源価格の上昇による輸入インフレとは言いがたい側面があります。シェールガス革命によりアメリカは資源輸入国ではなくなりましたし、むしろ、エネルギー価格の上昇は、アメリカ経済にプラスの効果をもたらすはずです。となりますと、FRBの金利上げは、輸入インフレ対策というよりは、輸出増にともなって海外から流入するお金の流通量の増大に対応するための‘輸出インフレ対策’と表現した方が適切かもしれません。リーマンショック以来の低金利政策、並びに、近年のコロナ対策としての財政支出増に加え、コロナワクチンや治療薬を製造しているファイザーやモデルナといった米国大手製薬会社にも、日本国政府を含む外国政府から兆単位の支払金が流れ込んでいることも注目されるでしょう。こうした側面からしますと、FRBの高金利政策は、複合的な要因によって生じている‘お金余り’によるインフレ抑制として理解されましょう。

 しかしながら、輸出入に起因するインフレに対しては、中央銀行による金利操作の効果は期待薄であり、否、逆効果となるリスクもあります。何故ならば、教科書的には、インフレ対策としての中央銀行による金利上げは、民間における融資全般を抑制することで過熱気味の景気を抑える、あるいは、各種市場におけるバブルの発生を防止すると説明されているからです。このため、外因性のマネーサプライの増加には、殆ど政策効果が及びません。若干の効果があるとすれば、自国通貨高による国際競争力の低下による輸出減なのですが、エネルギー資源のように産出国が限られている場合には、輸出インフレを抑制する効果にも限りがあります。つまり、政策手段と政策効果との間に不一致が見られるのです。

それどころか、アメリカの高金利政策への転換は、低金利国から同国へのマネーの流れを加速化しています。とりわけ、止まらない日本国の円安の主因は、おそらく拡大する一方の日米の金利差にあるのでしょう。円を売ってドルに換え、利回りの高いアメリカでこれを運用した方が、遙かに高い収益あげることができるからです。言い換えますと、インフレ抑制のための政策が、逆にそれを亢進したり、あるいは、バブルを発生させてしまう可能性も否定できなくなります。しかも、アメリカの実体経済を見ますと、近年、急速なITの普及やデジタル化による合理化が進んでいますので、起業、雇用、消費などがマネー量に比例して増加し、急激に経済が成長・拡大するとも思えませんし、金利が上昇すれば、借り手も減少します(一部のIT大手、資源関連企業、製薬会社などに資金が集中する一方で、経済全般は冷え込むのでは・・・)。

中国では習近平独裁体制の長期化が同国の経済の減速要因となるとの指摘がありますが(国民の不満を外部の敵、即ち、戦争に逸らすかもしれない・・・)、アメリカへのマネーの集中にも、戦争を引き起こしかねない危うさがあります(因みに、欧州中央銀行は075%の利上げを実施して政策金利を2%とし、対米金利差を縮めてる・・・)。現状を放置しますと、過去の二度の世界大戦と同様の状況に陥りかねず、戦争の経済的要因を事前に取り除くという意味においても、日米両国の政府を含む各国政府は、理論的な対応よりもより現実的で効果的な対策を急ぐべきではないかと思うのです。

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邪な者に‘正義’の看板を与えてはならない-歴史の教訓

2022年08月23日 12時19分09秒 | その他
 人類の歴史を振り返りますと、‘正義’の名の下で目を背けたくなるような残虐行為が行われていたり、犯罪がまかり通ってしまう事例を多々見出すことができます。そもそも、旧約聖書では、カナンの地を神が与えた‘約束の地’と捉えたユダヤ12支部族は、神が絶対善であることから、自らを‘正義の者’と見なし、策略を巡らして異民族から同地を奪っています。この事例に示されるように、神=正義という構図は、他者の土地の武力による簒奪という侵略行為さえ肯定しかねないのです。神が絶対善であるならば、ユダヤ人のみに侵略や略奪等を容認するはずもなく、これは、旧約聖書最大の矛盾となりましょう(もっともカナンの地が‘約束の地’となった理由として、エルサレムとアブラハムの祖先との間に何らかの歴史的繋がりがあった可能性もある)。

 このように、善性や道徳・倫理の源泉であるはずの宗教が悪行を容認してしまう事例は枚挙にいとまがないのですが、近代に至っても、宗教に限らず、様々な思想やイデオロギーが同様のお墨付きを与える事例が後を絶ちません。例えば、‘ブルジョア革命’とも称されたフランス革命では、自由、平等、博愛という、何れも否定しがたい普遍的な価値を掲げつつ、反体制派とみなした人々を無慈悲にも虐殺してしまいました。また、‘プロレタリア革命’として体制を転覆させたロシア革命でも、共産主義の‘正義’をもって虐殺と破壊を正当化しています。中国を含む共産主義諸国では、‘正義’を独占した共産党が今なおも反体制派の人々を弾圧し続けると共に、国民の生殺与奪の権を握っているのです。否、もはや、これらの諸国では、‘正義Justice’とは何か、という根本的な問いかけさえ、なされてはならないのかもしれません。

 ‘正義’を唱える者に対して、無条件、あるいは、思考停止状態となって不正行為や犯罪行為を認めるのは、人類の悪しき旧弊と言えましょう。今日なおもこの問題は燻っており、新興宗教団体や政治思想集団の存在についても、改めて‘正義’との関係からその存在意義を疑うべきかもしれません。例えば、平和統一家庭連合(統一教会)はキリスト教団体を名乗り、創価学会も日蓮宗から破門・分離した仏教系の教団であり、新興宗教団体の多くは、伝統宗教の正義や神聖性を借りることで自らの悪行を正当化しています(売国行為も平然と行ってしまう・・・)。また、新興宗教団体の教祖達は、世俗の欲にまみれた人物も多く、霊感商法、並びに、信者の多額献金やお布施の社会問題化も、これらの教団が拝金主義に堕している証かもしれません。パーソナリティーとしてのカリスマ性は、人格としての善良さや純粋な人柄を保障してはいないのです。しかも、宗教という‘衣’は、これらの悪行を上手に誤魔化しますので、世界支配を目論む超国家権力体にとっては好都合な道具ともなりましょう(神や仏を自らの欲望達成のために悪用するのですから、神罰や仏罰があたるのでは・・・)。

 そして、国際主義やグローバリズム、さらには、脱炭素、デジタル化やSDGsといった未来志向の’思想’にも注意を要しましょう(パトリオティズムやナショナリズムも、悪用されれば偽旗作戦に・・・)。これらの言葉もまた、今日にあっては、‘正しさ’に関する深い考察もなく‘正義’とされるからです。脱炭素が錦の御旗となれば、緑豊かな森林やそれに付随する生態系の破壊も許されてしまいますし、デジタル化を持ち出せば、プライバシーの侵害や情報漏洩のリスクも‘気にしてはならないもの’とされます。アメリカ大統領選挙における不正選挙問題は、民主的選挙における投票や開票システムのデジタル化が悪用された最たる事例かもしれません。民間企業の投資判断や評価基準もあっても、国連が推進しているSDGs(ESG投資・・・)一色となっている今日の現状は、世界支配の陰が疑われるだけに、どこか疑わしさがあります。事例を挙げればきりがないのですが、WHOの主要な出資者がビル&メリンダ財団であり、かつ、テドロス事務総長が中国の‘代理人’として批判されている現実も(中国ではなく、本当は超国家権力体の代理人?)、同組織が、人類の生命や健康を守るという正義を掲げながら、その実、真逆となりかねないリスクを示していると言えましょう(ワクチン接種奨励の真の狙いとは?)。

 以上に‘正義’というものが悪用されるリスクについて述べてきました。歴史的事例の多様性からしますと、‘正義’という言葉は、それぞれのケースに合わせて神聖性、正当性、合理性といった言葉に読み換えるべきかもしれません。何れにしましても、宗教的な教義のみならず、平和、自由、平等、人権、環境など、それがたとえ人類普遍の価値とされるものであったとしても、これらを絶対的な‘正義’として掲げる人物や組織に対しては、冷静なる警戒が必要です。とくに、邪悪な心を持つ者、荒くれ者、利己的で強欲な者に‘正義’の看板を掲げることを許しますと、悪しき暴力的な行為や詐欺的な行為の免罪符となりかねないからです。‘正義’をかざせば何でもできるならば、罪のない人々に対する情け容赦ない迫害や残虐行為がまかり通ることになりましょう。‘邪な者に‘正義’という看板を与えてはならない‘、これこそ決して繰り返してはならない、人類が歴史から学んだ教訓なのではないではないかと思うのです。

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政党政治が民主主義を損ねる?

2022年06月22日 17時08分48秒 | その他
 7月10日に予定されている参議院選挙は、本日、6月22日に公示されます。530人が立候補すると報じられておりますが、近年、’政党政治が、むしろ民主主義を損ねているのではないか?’とする疑いが濃くなってきているように思えます。

 これまで、政党政治、あるいは、複数政党制は、議会制民主主義を具現化する基礎的な制度として理解されてきました。複数の政党が議席、さらには、政権を競う複数政党制では、有権者である国民による自由かつ民主的な選挙の実施を前提としているため、一党独裁体制や独裁体制に対する’反対語’としても解されてきたのです。’複数の政党が存在しているのだから、自分の国は民主的国家である’とする安心感を国民に与えていたかもしれません。しかしながら、今日、この固定概念を覆すような現象が頻発しているのです。

 先ずもって、前回のアメリカ大統領選挙にあって、政権の正当性まで問われる選挙不正疑惑が起きました。たとえ複数政党制の下で民主的選挙が実施されたとしても、裏にあって巧妙な選挙不正が行われていたのでは、民主主義は一瞬にして消えてしまいます。デジタル投票制度の導入が進むほど、外部からのサイバー攻撃のみならず、内部者による数値改竄といった新手の手口も登場しますので、不正が行われやすい状況となるのです。

 第二に、政党という存在自体がマイノリティー化している点です。与党の支持団体として統一教会や創価学会などの新興宗教団体が指摘される一方で、野党側には、共産主義者やリベラル活動家が集っています。これでは、政治は民意や国民の一般的常識から遠のくばかりであり、政治は、人口比において数パーセントにも満たない少数派の人々によって凡そ独占されてしまうのです。しかも、グローバル化に伴って与野党ともに海外勢力のコントロール下に置かれるともなれば、民主主義国家にあっても、政治は、ますます国民の手から離れてゆきます。

第三に、与野党間における二頭作戦の疑われる現象もみられます。政党政治とは、国民の各自が、政治信条に基づくものであれ、何であれ、自らが支持する政策を掲げた政党を自由に選ぶことを前提としています。ところが、近年、与野党間の政策的違いが希薄化する一方で、どの政党を選んでも、国民が何らかの形で不利益を受ける結果を招きかねない事態が生じています。例えば、現政権に対して国民が不満であったとしても、野党側の公約にあってより望ましくない、あるいは、同様の政策が含まれている場合には、国民は、何れにしても’悪い選択’しかできないのです。このため、棄権も増えてしまうのですが、無党派層の拡大は、民意に沿った政党が存在しない現状の表れであると言えましょう。

第四に懸念すべきは、一党優位体制による歪です。報道によりますと、今般の選挙にあっては、32の一人区全てにおいて、野党側は候補の一本化を見送ったそうです。政党支持率からしますと、自民党が40%弱で他の政党を大きく引き離しています。この状態であれば、32区はすべて自民党が獲得するものと予測されます。参議院の一人区、並びに、衆議院の小選挙区では大政党が有利となりますので、日本国のような一党優位体制では過半数以上の票が死票となり、民主主義を歪めてしまうのです。

第五に問題とすべきは、政党間の談合です。上述した一人区における与野党の選挙方針にも談合が疑われるのですが、与党間の’談合’も深刻です。例えば、衆議院の小選挙区では、自民党が公明党に議席を譲るために、自らは候補者を擁立するのを控えている選挙区もあります。自民党と公明党との間には、政策的な相違点のみならず、宗教的な立場の違いもありますので、政党間談合は国民の選択肢並びに自由を奪っているに等しくなります。

そして、第六に指摘すべきは、政党政治、並びに、それを支える政党中心の選挙制度では、候補者の個人的な資質や能力が問われていない点です。議会において法案を可決させる要件は、過半数の賛成を得ることです。このため、’政治は数’となる傾向が強く、知名度の高さが候補者の選定基準となりがちなのです。タレント候補が乱立するのも、各政党とも、個々の議員に対して政治家としての仕事を期待していないからなのでしょう。

以上に、主要な忌々しき現象について述べてきましたが、果たして、今般の選挙において、政治制度そのものの改革を訴える候補者は登場するのでしょうか。船底の板が壊されそうな船にあって、甲板では乗客に沈没の危機に気が付かれぬように、船長をはじめ船員たちが政治劇を演じているようでは、乗客となる国民は心配でいたたまれないのではないかと思うのです。

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