万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

令和の時代に残された宿題-天皇の役割問題

2019年04月30日 14時01分33秒 | 日本政治
「最後まで全う」意思貫く=多忙な「天皇の旅」終わりに―皇位継承
5月1日を迎えるその瞬間、今上天皇の退位と新天皇の即位を以って日本国の元号は、平成から令和へと変わります。突然の生前退位(譲位)表明から始まる一連の流れは、今日を以って一区切りとなるのですが、日本国における天皇の役割とは何なのか、という根本的な問題については、次の年号の時代に先送りにされた感があります。

 1946年に制定された日本国憲法にあって、天皇は、その第一条において統合の象徴とされています。明治憲法由来の立憲君主制の流れを汲む国事行為は形式的には残されたものの、同憲法第20条が政教分離の原則を定めているため、古来の国家祭祀は憲法の条文に置かれることはありませんでした。ここに天皇が、(1)憲法にのっとった統合の象徴天皇、(2)明治以降の形式上の立憲君主、(3)古来の伝統を踏まえた非公式の国家祭祀の長という三つの役割が混在する、曖昧模糊とした存在として今日に至った要因を見出すことができます。

 三つの天皇像の中で最も曖昧なのは統合の象徴、すなわち、象徴天皇です。憲法第一条に明記されながらも、象徴天皇の具体的な役割について憲法は沈黙しているからです。憲法はあらゆる公職についてその権限と活動の範囲を定めるとする厳格な立憲主義に基づけば、天皇の役割は、憲法第7条が定める国事行為のみに限定されます。それ以上の公的な活動を行えば違憲となる可能性もあるのですが、古来、天皇の権威を支えてきた(3)の伝統的な役割を果たす必要もありましたので、厳密な立憲主義を天皇の活動に適用することはできず、天皇の活動における公私の線引きは不明瞭なままに今日に至ったのです。

 このため、スポットとなっている象徴天皇の役割とは何か、という問題について、国民の間でも意見が分かれるところとなります。その存在自体で十分であるとする説、伝統的な国家祭祀を以って象徴的行為とする説、さらには、立憲君主国の国家元首とみなす説など、様々な意見が湧き出たのです。こうした中、今上天皇は自らで象徴天皇の役割を探索する道を選んだようです。福祉活動に加え、内外の戦没者を慰霊するための旅や国内被災地への慰問はまさに探訪末に行き着いた象徴天皇の姿でした。

かくして、象徴天皇の役割はいわば天皇任せとなり、国民の多くも然程にはこの方針に違和感を覚えなかったのですが、令和の時代ともなりますと、果たして天皇任せで良いのかどうか、考えておく必要があるように思えます。何故ならば、中には、将来的な国家ヴィジョンとして天皇親政の実現を望む団体も存在しているからです。つまり、象徴天皇の役割の決定権を新天皇の個人的な’意思’に委ねるとすれば、日本国の民主主義が危機を迎えるリスクがあるのです。

旧弊を廃する転機として今般の令和への改元を歓迎する声も聞こえますが、改悪になるようでは、時代は暗転することとなりましょう。日本国において天皇の地位をどのように位置づけるのか、そして、天皇の役割とは何か、という根本問題については、国民のコンセンサスを形成すべく、十分な民主的議論を経て決めてゆくことこそ、現在を生きる我々すべてに託された課題ではないかと思うのです。

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自民党が日本の共産党になる日は来るのか?

2019年04月29日 15時14分54秒 | 日本政治
自民党は、戦後長らく、特に米ソが鋭く対立した冷戦時代にあっては、共産主義と闘う反共・親米政党の役割を果たしていました。自民党の保守党としてのイメージはこの時代に築かれたのであり、今日に至るまで、多くの国民がこの自民党像を以って同党を理解しています。しかしながら、自民党内部における親中派勢力の拡大は、従来の自民党像を覆しつつあります。

 候補者選定等の党内人事に絶大な影響力を保持している二階幹事長の度を越した親中姿勢は既に危険水域に達しているのですが、この状態が今後も継続するとすれば、やがて自民党は‘日本の共産党’、あるいは、‘中国共産党の日本支部’へと変貌してゆくことでしょう。そしてそれは、自民党が自発的にこの道を選んだと言うよりは、中国共産党の対日戦略の‘勝利’であるかもしれません。それでは、中国共産党は、どのような対日戦略を遂行してきたのでしょうか。

 日本国民の大半は、共産主義に基づく暴力革命を支持してはおらず、むしろ、日本国内で共産主義政権が樹立される事態を怖れています。このため、‘本物’の日本共産党ですら暴力革命の路線は放棄し、民主的選挙を経た平和的手段による政権奪取を殊更にアピールしているのです。中国共産党も、日本国民の‘共産党アレルギー’を熟知しており、‘万年野党’と化している日本共産党には共産化の役割を期待はしていないことでしょう。しかも、露骨に日本共産党を支援すれば、日本国民の反中感情に火を付けかねず、中国の日本国に対する政治的野望も表沙汰になります。

 日本共産党による革命は共産主義者の‘正道’であるとはいえ、この方法を利用できないとすると、次善の策として考えたのが、一時的には政権交代があったものの凡そ‘万年与党’の座を維持してきた自民党の内部に親中派の勢力を拡大させる作戦であったと推測されます。日本国民の多くは自民党を保守政党と信じていますし、長年の習慣で投票用紙に自民党の候補者名を記入する有権者も少なくありません。いわば、有権者の心理には‘自民党に任せておけば間違いはない’という一種の慣性の法則が働いており、自民党の支持基盤に見られる保守的心情を上手に利用すれば、日本国の政界に対して影響を及ぼすことができるのです。これは、一種の偽旗作戦です。

 自民党を籠絡する手段としては、多方面作戦が展開されたことでしょう。例えば、まずは、一党独裁体制にあっては中国共産党は唯一の‘与党’ですので、自民党の政治家に対して中国利権を独占的に提供するという方法があります。二階議員の地元である和歌山県の白浜アドベンチャーワールドには上野動物園を上回る頭数のパンダが供与されていますが、巨大な中国市場を背景としたビジネス関連の利権は相当数に上るはずです。白羽の矢を立てた議員を斡旋の窓口に据えれば、同議員の党内での地位を高めることもできます。また、所謂‘ハニートラップ’と呼ばれる手法もありますし、訪中時に際しての饗応といった古典的な手法もあるかもしれません。

 そして、間接的であれ、中国共産党が自民党内の人事権を掌握できれば御の字です。二階幹事長はまさにこのポストにあるのですが、かくして自民党が‘日本の共産党’と化した場合、どのような事態が起きるのでしょうか。現状が続くとすれば、親中政権の誕生は時間の問題となりましょう。もっとも、この段階に至りますと、日本国民も自民党の変質と異変に気が付くこととなります。この時、看板は‘自由民主党’であっても中身が‘日本の共産党’となった自民党に対して、日本国民、特に保守層は全幅の信頼を置いて同党を支持し続けるのでしょうか(偽旗作戦に騙されることに…)。

 こうした事態を受けて自民党が分裂したとしても、新自由主義派と親中派に分かれたのでは、どちらを選んでも日本国民は苦しむこととなりましょうし、野党各党を見ましても、親韓国・北朝鮮派、あるいは、イデオロギーに染まった極左ばかりのようです。元号が平成から令和へと移る今、日本国民も、政治に対して無関心ではいられない時代を迎えつつあるように思えるのです。

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株式会社は人類の理想の企業モデルか?

2019年04月28日 13時21分00秒 | 国際経済
 株式会社は自分自身が生まれる前から存在しておりますので、誰もが至極当たり前の企業の組織形態であると見なしがちです。しかしながら、人類史を振り返りますと、株式会社の誕生はヨーロッパ各国において東インド会社が設立された17世紀初頭に過ぎず、その歴史は400年ほどでしかありません。

 しばしば、‘常識を疑え’と言われますが、何かしらの解決し難い問題を抱えたり、改善を探るに際して、原点に帰ってその根本を疑ってみることは重要です。そこで、ここでは、今日、経済における主要プレーヤーである企業の最も一般的な形態である株式会社について疑ってみたいと思います。株式会社とは、今日の経済にとりまして最適の形態なのでしょうか。

 世界最初の株式会社はオランダ東インド会社とされ、それは1602年3月の出来事です。もっとも、最初から一つの‘株式会社’として設立されたわけではなく、当時、航海会社(貿易会社)の乱立から生じた東方貿易品の仕入れ価格の高騰と値崩れに対する危機感から、政府が独占権を与える形で複数の会社を統合したものでした。つまり、同社の資本も民間商人等を含む‘寄せ集め’とならざるを得なかったのです。また、そもそも、海洋貿易は、貿易船の調達や水夫の雇用等のための元手がかかる上に嵐による遭難や沈没といったリスクも高く、それ故に、一人の商人が個人的に手掛けるには荷が重すぎる事業でした(一夜にして破産する可能性も…)。このため、複数の商人や金融家が資金を出し合う形態の方が適しており、資本を証券化するという分散的な手法はリスク管理の面からは理に適っていたとも言えます。

 加えて、東インド会社が設立された時代とは、欧州各国がアジアやアフリカの植民地支配を強める時期でもありました。このことは、政府から独占の特許状を付与された東インド会社にあっては、純粋なる貿易会社ではなく、植民地経営をも担う組織体としての政治的な側面を与えることとなります。株式会社の形態において、株主に対して総会での議決権といった経営に介入する権限を付与している理由は、案外、その出発点における政治性に求めることができるかもしれません。東インド会社にあっては、経営者、株主、並びに政府が混然一体化しているのです。

 株式会社誕生の経緯にはそれ独自の時代背景を見てとることができるのですが、同形態は、起業に際して多額の資本の調達を要する事業にとりましては好都合であったため、貿易会社以外の事業にも用いられるようになり、今日、最も一般的な企業形態として定着します。しかしながら、その出発点を検討してみますと、当時の時代背景を引き摺っている故に、必ずしも、現代という時代の経済に適合しているわけではありません。例えば、強すぎる株主権、あるいは、経営と株主との未分離は、幾つかの問題を提起しています。

通常、債務者が債権者に対して債務を返済すれば、両者の関係は完全に切れます。ところが、株式会社の発行済みの株券には、証券取引所の登場もあって、社債や直接融資とは異なる永続性という特徴があるのです。このため、企業は、常に株主から経営介入を受ける立場にあり続けます。つまり、株式会社の形態は、株主側に有利な条件を与えているのです。

また、株券の保有が経営権と結びついているため、過半数以上の株式の購入、あるいは、主要株主の地位を手にすることが、同企業の取得と同義に解されています。今日、敵対的買収であれ、友好的買収であれ、M&Aが極めて活発なのもこの仕組みによるものです。今般、日産と仏ルノーとの統合問題で注目を集めているように、複数の企業の上部に持ち株会社を設ける方式は、企業結合の一つのスタイルともなっています。いずれにせよ、株式取得による企業買収は、企業側からしますと、自社の主体性、あるいは、独立性を失うことを意味します。人身売買とまでは言わないまでも、たとえ相手企業が抵抗しても、‘お金で買い取る’ことは可能なのです。この側面は、競争法の観点からすれば、独占・寡占のみならず、個々の企業の自由な経済活動を阻害する集中の問題をも提起しています。

加えて、証券市場を舞台とした投機行為がバブルとその崩壊を、幾度となく引き起こしてきました(金融家による仕掛けや八百長もあり得るかもしれない…)。経営に問題がなくとも、金融危機の発生によって経営が傾いたり、株式の暴落で企業が潰れるケースもあるのですから、経済や人々の生活の安定という側面からしますと、罪深い面でもあります。

グローバル化の中で経済大国に成長した中国の巨大企業は‘現代版東インド会社’とも言え、政治と経済が混然一体化しています。株式会社の制度が株主に有利である点を考慮しますと、この形態は、中国、あるいは、同国の債権者の世界支配戦略にも有利に働くことでしょう。共産主義はもっての他としても(究極の独占であり、改悪にしかならない…)、政治と経済の両面において様々な問題が噴出する中、その原因探求と解決への道を探るにあって、株式会社の形態を、そのプラス面とマイナス面の両面を含めて一から見直してみる作業も決して無駄ではないように思えるのです。

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危うい日産の独立性-持ち株会社型統合のリスク

2019年04月27日 13時31分39秒 | 日本政治
ルノー 日産との「対等な統合」計画か 仏メディア
日産の前会長であるカルロス・ゴーン容疑者が逮捕された際に、日産社内のみならず、日本国内にあっても、ゴーン独裁体制からの脱却のチャンスが到来したとする安堵感が流れました。しかしながら、ここに来て、仏ルノー側が新たな統合案を日産側に迫っていると報じられております。

 同問題に関連して来日したルノー側のスナール会長は、日産の独立性の尊重を明言し、統合案については消極的な見解を示していましたので、今般の提案の背後には、仏ルノーの筆頭株主であるフランス政府の意向が強く働いていたのでしょう。マクロン大統領がロスチャイルド財閥の代理人であるとしますと、日本国の日産とフランスのルノーの両者の経営を一手に握る同財閥の世界戦略の一環であるのかもしれません。

 ゴーン容疑者による仏ルノー、日産、三菱自動車の三社による連合の形成過程を見ますと、グローバル志向、あるいは、脱国家志向を見出すことができます。三社を統括する連合の本部はルノー本社の所在するパリでも、日産が本社を置く横浜でもなく、第三国となるオランダのアムステルダムに設けられていました。グローバル化の時代にあっては本社を最も条件が有利な国を選んで国外に置くことは当然のように見なされがちですが、ゴーン容疑者は、三社から離れたアムステルダムという地にあって日産や三菱自動車から資金を吸い上げ、中東人脈等を介して私的に流用していた疑いが濃いのです。ここに、グローバル化が、マネーロンダリング等の腐敗や不正の隠れ蓑になるリスクも見えてきます。

 この段階では、カリスマ性を纏っていたゴーン容疑者によるパーソナルな独裁体制の色彩が強く、それ故に、ゴーン容疑者の逮捕は、同体制崩壊の序曲としての期待が高まったとも言えます。しかしながら、今般のフランス側は、パーソナルな独裁体制から同体制の制度的固定化への移行を提案している可能性があります。つまり、ゴーン容疑者の位置に持ち株会社を据え、連合三社を子会社、あるいは、孫会社となせば、永続的に連合三社を配下に置くことができるのです。この意味においてゴーン容疑者の役割は既に終わっており、むしろ、中東人脈への偏重等からしますと、同統合案にとりましては邪魔な存在となっていたのかもしれません。

同統合案では、ゴーン容疑者が敷いてきた脱国家志向はさらに強化され、報道に拠りますと、フランス政府がルノーへの出資を引き揚げる可能性もあるようです。理由としては、表向きは対等性への配慮、即ち、フランス政府の影響力を懸念する日産、並びに、日本国政府への譲歩とされていますが、その真の狙いは、日仏両政府のチェックの行き届かない場所に本部を移すことにあるのかもしれません。第一候補地として挙がっているのはシンガポールであり、同地もまた、国際金融の影響力が強い国柄です。本部所在地の選定にも、中国、あるいは、華僑との間にコネクションを有するロスチャイルド財閥の影が見るのはいささか穿ちすぎでしょうか。

そして、ここで問題となるのは、三社連合の上に君臨する持ち株会社の問題です。同社の出資比率、あるいは、株主の顔ぶれ、並びに、意思決定手続きの如何によっては、三社とも持株会社レベルでの決定事項を忠実に実行する下部組織に過ぎなくなるからです。同社の理事については、日産とルノーが同数を指名するとされていますが、その人選、並びに、経営方針に対して株主権を背景とした介入がないとも限りません。

仮に、この統合案が実現すれば、念願の日産独立の夢は潰えてしまいますし、日本企業としての日産側の事情は全く考慮されなくなりましょう(日本人社員のリストラや国内生産拠点の海外移転もあり得る…)。日産は同案に対して否定的なそうですが、一旦、制度的に組み込まれますと、そこから抜け出ることは極めて困難となります。ここは、長期的なマイナス影響を考慮し、日本国政府も、日産も、経営の独立性を手放してはならないと思うのです。

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自民党は分党すべきでは?-二重人格化する自民党

2019年04月26日 10時38分34秒 | 日本政治
国民民主、未明の両院総会で自由党との合併了承
報道に拠りますと、昨日4月25日、日本国では国民民主党と自由党との合併が決定されたそうです。国民からしますと、これら両党の政治信条や政策における違いや特色は分かり難く、野党乱立の中での両党の合併は自然な流れのように思えます。敢えて別々の政党である必要性が感じられないからです。その一方で、日本国の政界には、分裂すべき政党も存在しているように思えます。それは他でもない、安倍政権の与党であり、日本国最大の政党でもある自民党です。

 本日の新聞の紙面を眺めて眩暈がした読者も少なくなかったはずです。紙面の一角に、欧州諸国を歴訪している安倍首相の動向を伝える記事として、訪問先で対中を軸とした結束を訴える姿が掲載されている一方、そのすぐ傍らには、中国を訪問している二階自民党幹事長が、中国の習近平国家主席と握手している写真が載せられているのですから。両者とも自民党に属しながら、首相であり自民党総裁である首相は反中の、そして、党内を取り仕切る幹事長は親中の方針を示しており、両者は全く以って逆方向を向いているのです。これでは自民党は、二重人格者となったかのようです(国家レベルでは二重外交…)。

 二階幹事長に至っては、日本政府としては慎重姿勢を崩していない一帯一路構想への参加について、党レベルでは協力が可能と言った言質まで中国側に与えているそうです。ここに政府と与党の不一致という問題も生じるのですが、二階幹事長の思考回路では、日本国も中国と同類の一党独裁体制、あるいは、複数の政党が存在しながら共産党のみに国家を指導する役割を保障していた旧東欧タイプの社会・共産主義体制とみなしており、自民党を‘日本の共産党’と勘違いしているのかもしれません(野党の日本共産党とは別の…)。それ故に、‘党レベルの協力’といった突飛な言葉が飛び出してくるのでしょう(あるいは、中国、あるいは、その支持勢力側が同氏に台本を渡してセリフをしゃべらせているのかもしない…)。

 それでは、この状態で、国政選挙が実施されるとしますと、どのような事態が起きるのでしょうか。端的に申しますと、自民党の内に“反中保守党”と“親中共産党”が一つの党の中で同居する二重人格化は、有権者に計り知れない混乱をもたらします。有権者は、投票用紙を前にして頭を抱えることになりましょう。何故ならば、自民党の候補者、あるいは、自民党の政党名を記入しようとしても、同政党の防衛・外交・安全保障上の基本方針が反中なのか、親中なのか、判断しかねるからです。従来、外政は票にならないとされながら、近年の中国や朝鮮半島における軍事上の緊迫化から、これらの分野に対する国民の関心が高まってきており、同分野における各党や候補者の政策方針を投票に際しての判断基準に据える有権者も少なくはありません。となりますと、自民党の二重人格状態は有権者から選択肢を奪うに等しく、民主主義の原則にも反してしまうのです。

 このように考えますと、自民党は、少なくとも親米路線を引き継ぐ一派と親中路線に切り替えた一派とに分かれるべきなのではないでしょうか。自民党が二つの政党に分かれれば有権者の対中政策を軸とした選択はより容易になります(もっとも、親米派が‘保守’とも限らない…)。また、幹事長は選挙に際しての立候補者の選定に一定の権限を有しますので、二階幹事長がその職にある限り、時間の経過とともに自民党は親中派一色に染まる可能性もないわけではありません(選挙の度に自民党の親中色が強まる…)。言い換えますと、自民党は、速やかに分党に向けた動きを開始しなければ、やがて親中派に占められ、手遅れとなるかもしれないのです。もっとも、党の分裂を回避するために二階幹事長を同職から解任するという方法もありますが、仮に同党が、自党をその名の通りに自由と民主主義を尊重する政党であると自認するならば、国民を惑わし、国家をも危うくする二重人格状態は放置するべきではないと思うのです。

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‘戦争ができる国’になった中国の脅威-米中半導体寡占体制の行方

2019年04月25日 14時41分14秒 | 日本政治
少し前まで、中国の軍事的脅威については同国の工業生産のすそ野の狭さを根拠とした不可能論が唱えられてきました。中国はハイテク兵器の能力においてアメリカに追いつきつつあるものの、これらの製造に不可欠となる部品を国内生産できないため、日米等からの供給網が断たれた途端、戦争を遂行することができなくなるとする説です。

 この説は、当時の中国の産業状況にある程度は合致していたためにそれなりに説得力もあり、周辺諸国にとりましては安心材料となってきました。しかしながら、この状況は、永遠に続くことはないかもしれません。本日も、日経新聞朝刊の一面に、5G時代を前にしたスマホ半導体の分野にあって、クアルコムとファウエイによる米中二大企業の寡占状態が出現する見通しを報じる記事が掲載されておりました。半導体は、かつては‘日本のお家芸’とも称され、日本製品が世界市場を席巻していたのですが、今ではその影も見られなくなりつつあります(東芝メモリも日米韓連合へ…)。

 日本国の半導体産業が躓く切っ掛けとなったのは80年代に熾烈を極めた日米貿易摩擦です。飛ぶ鳥をも射落とす勢いの日本製品の輸出拡大に危機感を覚えたアメリカは、同問題を含めた両国間の通商問題を外交交渉の場に上げ、1985年にプラザ合意に持ち込むことで日本国の産業力を抑え込みます。懸案とされてきた半導体分野についても、1986年に締結された日米半導体協定によって両国政府の管理下に置かれ、ここに日本国の半導体産業はトップランナーの座から降りることとなったのです。

 過去にあって日本国は苦い敗北を経験しているのですが、米中貿易戦争は、日米関係とは異なる展開を見せる気配がします。その主たる理由は、中国こそ、産業に不可欠となる基幹的な部品を押さえれば、全世界をコントロールできると信じているからです。日米貿易摩擦当時、日本国による半導体市場の独占状態にあって、それが日本国の世界支配のための国家戦略であると見なした国は皆無であったことでしょう。おそらく、日米交渉に乗り出したアメリカでさえ、政治的な意味においては日本国を危険視はしていなかったはずです。アメリカが容易に日本国の譲歩を引き出せたのも安全保障面において日本国がアメリカに依存していたからでもあり、日本国の政治面における脆弱さがアメリカをして対日強硬姿勢を貫かせたとも言えます。

 一方、今日の米中貿易摩擦をみますと、中国の立場は当時の日本国のそれとは全く違っています。中国は、安全保障をアメリカに依存していないどころか、政治・軍事的にあって対立関係にあります。この点を一つとってもアメリカが中国を屈服させることは難しく、中国側のしぶとい抵抗が予測されるのです。あるいは、たとえ表向きには米中合意が成立したとしても、中国は水面下では着実に重要部品の内製化を進める共に、先端性を維持すべく半導体等の研究・開発を維持することでしょう。そして、冒頭で述べた‘戦争ができない’状態から早々に抜け出し、自力で‘戦争ができる’国へと変貌することでしょう。そしてこの時、既に他の諸国が半導体といった重要部品を中国からの輸入に頼る状況に至っているとしますと、これらの諸国は‘戦争ができない国’、否、中国にコントロールされる国と化してしまうのです。‘半導体は産業のコメ’とも称されてもいますので、中国が自国製品の禁輸を決定すれば、他の諸国の産業はいとも簡単に麻痺し、戦争どころではなくなります。つまり、石油禁輸と同等の経済制裁効果が生じるかもしれないのです。

 日本国政府は、これまで、中国への安易な技術移転を許してきましたし、また、自国企業による独自の研究・開発を後押しすることも怠ってきました。’戦争ができる国’となった中国の軍事的脅威が高まる中、日本国政府は、安全保障を考慮した産業政策への転換を迫られているように思うのです。

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もしも世界が操られていたら?-ポスト安倍の候補者の選定

2019年04月24日 14時26分43秒 | 国際政治
 フランスのマクロン大統領は、ロスチャイルド銀行に勤務した職歴があることから、同財閥の‘代理人’ではないか、とする根強い疑惑が燻っています。既成政治との柵を断つと訴え、有権者に斬新さをアピールして大統領選挙に当選したものの、その実、同大統領がフランス革命以来、歴史の舞台裏で政治を操ってきたとされる金融財閥の操り人形であったとしますと、フランス国民はまたもや同財閥に騙されてしまったこととなりましょう。

 時には愛国心を煽りながら新自由主義的な政策を上から強引に推し進めてゆくマクロン大統領の‘前進’の姿勢は上記の疑いを一層強めるのですが、仮に、世界史の舞台裏にあって自らの利己的な野望のために世界を動かしている組織が存在するとしますと、当然に、日本国にもその支配の手は伸びているはずです。ここで、一先ずは作業仮説として全世界のコントロールを志向する新自由主義勢力(共産主義と表裏一体化…)が存在していると仮定しますと、日本国にあっで、安倍首相の後任としてどのような人物が選ばれるのでしょうか。

 安倍政権の経済運営も、その指南役の顔ぶれを見れば新自由主義勢力によって固められており、同政権の基本方針と言っても過言ではありません。移民政策をはじめ、‘開国路線’をひた走っていますし、グローバリズムに対しても無警戒なばかりか、中国系資本をも積極的に呼び込んでいます。その一方で、政治的には日本国の伝統や歴史を誇り、保守的なスタンスを見せています。こうした保守寄りの姿勢が国内の保守層を中心に安倍内閣が安定した支持基盤を確保している理由なのですが、いささか全体主義的な側面もないわけではありません。対外関係にあっては、日米同盟重視の姿勢は崩してはおらず、マクロン大統領と比較すれば対米関係は良好ですが、対中関係に注目すれば、アメリカのトランプ政権よりも遥かに宥和的です。政経両分野において米中が対峙する中での安倍政権の方針とは、経済においては中国との関係を維持しつつ、政治あっては先端兵器を中心にアメリカ製品を購入することで両者のバランスをとるというものであり、台湾の総統選挙で国民党から立候補を予定している鴻海精密工業の郭台薫会長の基本方針とも符合しているようにも思えます(郭氏の背景にも国際財閥の可能性も…)。

 ポスト安倍の後継者の選考に際しては、おそらく、同路線を引き継ぐ人物であることが必須条件となりましょう。日本国民の声に耳を傾けるよりも同財閥のトップの声を優先し、その指示通りに日本国を新自由主義の方針に沿って改変し得る‘能力’を有さなければならないのです。この点、スマートで颯爽としたイメージを纏うマクロン大統領は、フランスの世論を巧みに誘導する上でうってつけの人材であったのでしょう。日本国の政界を見ますと、同財閥が即断できるほど‘おめがね’に適う人材は見当たらないのですが(小泉進次郎氏あたりを‘日本のマクロン’として育てたかったのかもしれない…)、性格や政策面に注目しますと、後継候補となり得る政治家は散見されます。例えば、ポーカーフェイスで大胆な行動をとることができる菅官房長官などは、国民から警戒されずに同財閥の意向に沿う政策を実行し得る点で高い評価を得ることでしょう。ポスト安倍との下馬評に対してご本人は頑なに否定しておりますが、自らはあくまでも‘執事役’として裏方に徹したいのかもしれません。また、新自由主義的な経済政策を遂行する適任者の観点からしますと、世耕経済産業相の実績も負けず劣らずです。様々なもっともらしい理由を付けながらも、世耕大臣の‘日本版改革開放路線’は日本国の産業力を根底から弱体化し、海外に売り渡している、あるいは、計画された中国への技術移転促進策を実行しているとしか見えないケースが多いのです(この点、仏ルノー側から統合提案を受けている日産は警戒すべきでは…)。あるいは、親中派の筆頭とされる二階官房長官も(先端技術で国民監視体制の構築を急ぐ中国も同組織のコントロール下にある可能性が極めて高い…)、有力候補者となり得るかもしれません。認知症を患っているとする真偽不明な情報もあり、同氏の言動はスタッフ達が支えているそうです。仮に同氏にあって判断能力が欠如しているとしますと、‘操り人形’としては適任者となり得るからです。

 以上に国際謀略組織の実在を想定したポスト安倍の人選を予測してみましたが、こうした仮説を設けた方が、最近の政治の動きをより合理的に説明できるようにも思えてしまいます。政治家達がポスト安倍の地位を目指して国際謀略組織に阿り、歓心を買うために売国合戦を繰り広げているとしますと、日本国、並びに、国民は、近い将来悲劇的な事態を迎えることとなりましょう。危機を未然に防ぐためにも、こうしたシナリオが存在する可能性を常に意識しておく必要があるように思うのです。

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安倍首相の外遊が多い理由とは?

2019年04月23日 17時35分58秒 | 日本政治
 歴代の首相の中で、安倍首相は、特に外遊が多いのではないかと思います。連休を前にしてフランス、イタリア、そしてカナダの三国を訪問すると報じられておりますが、首相自らが海外諸国を訪問する形態は、従来の日本国の外交スタイルとは随分と違っております。

 今般の三カ国訪問の理由については、6月に大阪で開催が予定されているG20に向けた‘地ならし’と説明されています。しかしながら、途中、G20のメンバー国ではなくベルギーやスロバキアにも立ち寄るそうですので、G20の下準備が唯一の目的ではないようです。仮に、G20において予定されている諸議題について参加国間で合意を形成するための事前の打ち合わせが必要であるとすれば、それは外務省の仕事であり、トップではなく実務者レベルでの協議となりましょう。また、こうした合意に向けた事前協議の場には、G20の全参加国の担当者を集める方が合理的ですし、あるいは、日本国が独自に‘根回し’を試みるならば、首相は、三カ国以外の諸国をも訪問する必要があります。とりわけ、G20内の最大の抵抗勢力であるロシアや中国の説得こそ同会合を成功裏に導く鍵となりますので、両国の訪問は外せないはずなのです。

 また、コミュニケーション手段が発達した今日では、首相が自ら直接に相手国を訪問しなくとも、電話会談やメール等を利用すれば、相手国の首脳と意思疎通を図ることができます。メディアが報じる処に依れば、実際に、日米間では、頻繁に電話会談が行われているようです。首相が海外諸国を訪問するとなれば、身辺の警護や安全対策に加え、様々な関連の経費が双方の国にもかかります。

 日本国は自然災害の多い国ですので、首相が頻繁に自国を留守にすることは、国民にとりましては必ずしも望ましいことではないはずです。また、安倍首相には健康不安もあり、外遊は身体的には負担ともなりましょう。それにも拘らず、かくも安倍首相が海外訪問を政治日程に組み入れるのは、一体、どうしてなのでしょうか。推測される理由は、(1)官僚組織を介さずに、相手国のトップとどうしても対面で直接に話さなければならない何らかの問題がある、(2)電話会談等は傍受や盗聴されるリスクがあるので、相手国首脳と直接にコミュニケーションを取りたい、(3)相手国の首脳とのトップ会談をセッティングしながらも、表にできない別の人物との接触が訪問の真の目的である、(4)‘外遊’という言葉の通り、仕事と言うよりも観光が目的である、(5)政府専用機を利用して何かを訪問国に運んでいる…などが挙げられます。

 何れであるのかは分からないのですが、首相の外遊の頻度の高さは、どこか、国民を不安にします。国民のあずかり知らぬところで、諸外国と密約がなされる、あるいは、日本国が海外勢力から政治的介入を受ける可能性も否定はできないからです。首相の外遊に関しては、政府は国民により詳細な情報を伝えるべきですし、その必要性についても議論されて然るべきようにも思えるのです。

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政府の借金は‘善’なのか?-MMTが問いかける難題

2019年04月22日 13時28分39秒 | 国際政治
日本の消費増税「デフレ招く」=財政赤字膨張にひるむな―異端の米教授
 最近、アメリカではMMT(現代金融理論)なる理論をめぐり活発な議論が起きているそうです。‘常識を覆す理論’、あるいは、‘異端の理論’とも銘打たれ、その斬新さが強調されておりますが、些か疑問がないわけではありません。

 そもそも、同理論が前例のない‘新しい理論’なのか、と申しますと、そうでもないように思えます。同理論の主唱者であるニューヨーク州立大のステファニー・ケルトン教授は、政府の財政均衡よりも完全雇用や経済成長を優先すべきと主張しておりますが、この立場こそ、バブル崩壊後の日本国政府、並びに、不況に直面した各国政府が採用してきた政策でした。積極的な財政出動を是認したケインズ主義とも共通しており、財政再建vs景気対策の、従来の一般的な対立構図の延長線上に置くことできないわけもないのです。

 仮に、同理論において‘新しさ’があるとしますと、‘政府の借金は‘善’である‘と公言して憚らない点にあるのかもしれません。特に日本国の一般的な認識では、借金は可能な限り避けたい’悪‘、あるいは、’必要悪‘ですので、MMTは’善悪の逆転‘という強いインパクトがあるのでしょう。ケルトン教授は、自らの見解に基づいて、消費税率10%上げを前にして日本国の消費税増税にも反対しております(もっとも、日本国政府は、仮に増税によって税収が増加したとしても財政再建に注ぎ込むつもりはないようなのですが…)。

 もっとも、MMTには不透明な部分があり、政府の借金は‘善’とする結論に達しているのか疑問なところです。同理論の基本的な立場は、「通貨発行権を持つ政府は発行額の制約を受けない」というものですが、この立場に立脚するならば、政府紙幣をも肯定することとなります。政府紙幣とは、政府が法を以って紙幣の通用力を保障することで発行し得る通貨を意味します。政府紙幣の制度では、中央銀行が発行する銀行券とは違い、借金をせずに無制限に紙幣を発行することができるのです。

一方、今日の中央銀行制度にあっては、通貨供給量を増やそうとすれば、中央銀行は公開市場操作を実施し、市中の金融機関から債権等を買い取る買いオペを実施する必要があります。買いオペには、通常、一定の期間が経過した後に再売却する条件が付されていますので、いわば、中央銀行は、‘借金’をしているに等しくなるのです。言い換えますと、今日の通貨制度は、いわば、‘借金’をしなければ通貨を増やせない‘債権本位システム’なのです(なお、金本位制の場合には、通貨発行には金地銀を保有する必要があり、通貨発行額も金保有量の制約を受ける…)。

MMTが政府の借金は‘善’という時、こうした中央銀行の仕組みを念頭に置いています。つまり、中央銀行は買いオペを実施するに際して、通常、BISの評価にあってもリスクが低い国債を主たる対象としているため、政府の国債発行残高が高い程、通貨供給量も増やせるという側面があるのです(この他にも、中央銀行が政府から直接に国債を引き受けるケースもある…)。ここに、政府の赤字⇒通貨発行量の増加⇒景気上昇という構図が描かれるのであり、政府の借金は‘善’となるのです。

 以上に政府紙幣と銀行券の両者について通貨供給の観点から述べてきましたが、この両者を並べてみますと、MMTには論理が一貫していないところがあります。何故ならば、政府には無制限に通貨を発行する権限があるならば、政府紙幣を選択した方が‘借金’をしなくても済むからです。つまり、政府の通貨発行権を認めるならば、MMTの論者は、中央銀行制度から政府紙幣制度への転換を主張すべきとも言えましょう。

目下、MMTをめぐる論争の主戦場は財政問題ですが、同理論は、貨幣、延いては資本主義とも共産主義とも異なる経済システムの在り方をも問いかけています。そしてそれは、人類の将来をも左右するほどの重要議題なのではないかと思うのです。

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LINE不使用者は‘偏屈な方’?

2019年04月21日 11時55分37秒 | 社会
 グーグルの検索画面には注目ニュース記事や天気予報といったサービス欄があり、利用者に様々な情報を提供しております。世相を知る上でも便利なのですが、本日、「話題のトピックス」というエンターテイメントや生活についてプチ情報を報じる欄に‘「LINEをやっていない」隠された本音とは’というタイトルの記事が掲載されていました。‘隠された本音’という表現に魅かれて開けてみたのですが、この記事を掲載した‘隠された本音’こそ、探求すべきようにも思えます。

 同記事に依れば、LINEのユーザー数は2018年12月の時点で7900万人であり、この数字が正しければ、全人口の50%を越えますので、不使用者は少数派となります。私自身は、と申しますと、スマートフォンも使用していないのですから、絶滅危惧種なのかもしれません…。特に20代や30代では70%を越えるので、‘もはや使っていない人を探すほうが困難’なそうです。

 そこで、同記事は、‘連絡先を交換しようと思ったら「LINEをやってない’といわれたらどうするのか、という問題について、筆者が読者に対してアドヴァイスするという相談風に書かれています。文面からはおそらく女子を対象としているとのでしょうが、同欄の掲載記事は、不特定多数のグーグル・ユーザーの目に留まりますので、男性を含めた一般読者をも意識していると推測されます。

 それでは、上記の問題について同記事は、どのようにアドヴァイスをしているのでしょうか。同記事の大前提は、‘大多数の人々がLINEのユーザー’ですので、まずは、‘婉曲なるお断り表現’と回答しています。つまり、本当のところはLINEを利用しているものの、連絡を取りたくない口実としてLINEを使っていないと嘘を吐いているとしているのです。この場合、相手の意図を読み取って‘諦めよ’ということなのですが、問題となるのは、次なるケースです。それは、社交場の嘘ではなく本当にLINEを使っていない場合の回答です。同記事では、個人的な意見として断ってはいるものの、実際にLINEを利用していない場合、大勢に逆行するような人は‘偏狭な方’に違いないので、おつきあいしない方が良いとアドヴァイスしているのです。

 このアドヴァイス、幾つかの点で問題があるように思えます。第一に、同回答こそ、まさしく異質な者を排除する論理に他ならない点です。しばしば、学校等を舞台にLINEが虐めの道具と化しているとも指摘されておりますが、その理由が同回答を読んで分かったようにも思えます。‘LINEを使わない人とは偏狭だから付き合うな’というメッセージが広く伝われば、その人は、コミュニティーから仲間はずれにされてしまいます。いとも簡単に、この回答は、排除作用として働くのです。マスメディアでは、しばしば異質な者の包摂や多様性の尊重を謳い、社会的なモラルとして寛容を説いていますが、この方向性とは真逆と言えましょう(LINEの不使用者を‘偏狭’として貶めている同記事こそ‘偏狭’なのでは…)。

 第2の点は、LINEを使わない人は、必ずしも偏狭とは限らないことです。目下、全世界レベルで重要課題となっているのはIT大手による個人情報の独占問題です。GAFAに注目が集まるものの、反日政策を国策としている韓国の企業の子会社であり、日本国民の個人情報を独占的に集めているLINEもまた、当然に規制対象となる可能性があります。このことは、十分な個人情報の保護がなされていない現状を示しており、LINEの利用に対して懐疑的な立場の人も少なくないのです。つまり、情報弱者ではなく、‘情報強者’であるからこそ、LINEを敢えて使わない人もいるのです。この場合、LINEを使用していない人は、危機管理に優れた人として評価こそされ、‘おつきあい’を避けるべき人ではなくなります。

 第3として挙げられる点は、同記事が、日本社会におけるLINE使用の促進を目的として書かれたのではないか、とするステルス・マーケティング(ステマ)の疑いです。同記事を鵜呑みにした人には、‘他の人々から偏狭な人物とは見られたくない’とする心理的な圧力が加わることでしょう。つまり、同記事には、LINE使用に関する同調圧力が働くように作成されているのです。もしかしますと、第2点で述べたように、規制強化の方向性に危機感を感じたLINE側が、LINE離れが起きないように予防線を張ったのかもしれません。

 以上にLINE関連の記事について述べてみましたが、果たして、LINEの不使用者は、おつきあいすべきではない‘偏狭な方’なのでしょうか。それとも、同記事こそ、‘偏狭’なのでしょうか。日常のコミュニケーション手段としてLINEを愛用されておられる方々からしますと、本稿の指摘は不愉快に感じられるかもしれず、申し訳ない限りなのですが(ごめんなさい…)、あるいは、同記事に違和感を感じている私が‘偏狭’なのでしょうか。

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台湾に‘郭総統’が誕生するリスク-トロイの木馬疑惑

2019年04月20日 12時39分26秒 | 国際政治
台湾では、2020年1月に予定されている総統選挙に向けて、早、前哨戦が始まっているようです。与野党の候補者が乱立する中、4月17日には鴻海精密工業の郭台薫会長も、国民党からの立候補を表明しています。直近の世論調査では、現職の蔡総統を大きく引き離し、支持率においてトップに躍り出たそうですが、郭総統の誕生にはリスクが伴うように思えます。

 郭氏に関する最大のリスクが中国関連であることは、マスメディアが報じる通りです。郭氏は、‘台湾の政界’と柵のない新鮮さが人々から支持を集める要因となっていますが、‘中国の政界’との関係は周知の事実です。今年の年初に当たって中国の習近平国家主席は、台湾併合への並々ならぬ決意を内外に示しましたが、中国にとりましては、‘平和裏’に台湾を併合するためには親中政権を何としての誕生させる必要があります。2020年1年の次期総統選挙こそ、独立派の民進党から親中派の国民党への政権交代を実現する千歳一隅のチャンスとなるのであり、このプランを実現するために候補者として白羽の矢が立てられたのが、郭氏であったのではないでしょうか。

 この推測を裏付けるかのように、郭氏の立候補には、純粋な経営者としての判断から逸脱した別のベクトルが働いているように見えます。郭氏が総統に就任した場合、企業の会長職とは兼任できないため、シャープを含む鴻海グループの経営が危ぶまれているにも拘わらず、敢えて出馬を決意したのですから。もちろん、グローバル企業の経営者では飽き足らず、総統の地位を手にしたいという権力欲や名誉欲が働いたのかもしれませんが、何れにしましても、同氏は、経営よりも政治を選択しています(ゴーン容疑者もブラジル大統領選への出馬を試みようとしていた…)。中国側から秘かに立候補の打診を受けて応じた、あるいは、煽てられて野望に火が付き、その気になったのかもしれません。何れにしましても、郭政権が成立した場合、台湾は、総統が操られることで中国のコントロール下に置かれるリスクが極めて高いのです。もしかしますと、鴻海精密工業の設立の時点から事業資金の援助を受けるなど、既に中国共産党の息がかかっていた可能性も否定はできないように思えます(鴻海とは、台湾併合を目的に、‘トロイの木馬’となるよう台湾で中国が育てた企業かもしれない…)。

 第2のリスクは、国家運営と企業経営とは別物である点です。企業の場合、経営が傾けば、人員を整理したり、不採算部門を売却する、あるいは、コストカットを図るなど、リストラを徹底して業績の回復を図ることができます。一方、国家ともなりますと、国民や領域を対象としてリストラすることは許されません。逆に、企業のリストラによって失業者が増加すれば、これらの人々を社会保障政策や福祉政策等によって支援するのが国家の役割なのです。となりますと、郭氏が経営者感覚で台湾の国政を統べるとしますと、経費節減のために中国から安価な労働力や資材を大量に受け入れたり、M&Aの感覚で中国からの‘台湾合併案’に応じるかもしれないのです。第2のリスクは、第1のリスクに拍車をかけかねないのです。

 第3のリスクは、公約の反故です。郭氏は、日本企業であるシャープを買収するに際して日本国内の雇用確保、並びに、シャープ経営の独立性の尊重を約束し、日本国内の懸念の払拭に努めています。ところが、いざ買収が成立しますと、手の裏を返したように同約束を反故にし、今ではシャープの液晶技術の結晶とも言える亀山工場を閉鎖してしまいました。総統選挙にあっても、同氏は親中姿勢に対する警戒論に対して台湾ファースト’を強調し、有権者に対して反中的な政策方針を公約とすることでしょう。しかしながら、前例を見る限り、総統のポストに就いた途端、これらの公約は、反故にされてしまう可能性が高いのです。

 米中貿易戦争の最中にあって、台湾系企業は、中国から東南アジア諸国への製造拠点の移動を急いでいるそうです。郭総統が実現すれば、脱中国の流れをも止めることができると中国は秘かに期待しているかもしれません。安全保障問題にも与えるリスクを考慮しますと、郭総統の誕生は、台湾のみならず、日本国をはじめ国際社会にとりまして、歓迎すべき未来ではないように思えるのです。

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消費税増税は日本の独立性の問題?

2019年04月19日 10時52分18秒 | 日本政治
菅官房長官、消費増税方針は不変 萩生田氏の延期論否定
消費税率を5%から10%とする方針は、民主党政権時代の2011年11月に野田毅首相がカンヌで開催されたG20に出席した際に初めて公にされました。税負担の当事者である日本国民に先んじての異例の海外公表となったのですが、その背景には、何らかの国際圧力があったとも推測されます。現に、先日、OECDは、日本国の財政再建のためにはさらに26%まで消費税率を上げるべきとする、内政干渉まがいの提言をしています。

 消費税上げを求める海外圧力とは、バブル崩壊以来、日本国政府は金融救済や景気対策等を理由に国債発行額を増やし続けてきたため、日本国国債の値崩れによる損失を怖れた海外投資家や金融機関の要請であったのでしょう。もしくは、消費税率上げの経済に与える景気減速効果を期待した上での’日本経済の勢いを削ぐ’、あるいは、‘日本潰し’であったのかもしれません。何れにしましても、日本経済や日本国民の利益を優先的に配慮した親切な提言ではなかったはずです。

 海外での公表当時、野田首相は、‘2010年代後半までに段階的に消費税率を上げる’と説明しており、2019年を迎えた今日、延期を繰り返しつつも、消費税率上げのスケジュールが当初の計画通りに進められていることが分かります。このことは、民主政権から自民・公明連立政権へと政権が交代したにもかかわらず、消費税増税の基本方針が引き継がれていることを意味しています。民主主義国家では、各政党がそれぞれの政策綱領を作成して選挙に臨み、特に税制については与野党間の違いが際立つ争点ともなるのですが、2011年以降の国政選挙を見ましても、実施時期の延期や使途の変更が問われても、自民党が民主党との対立軸として消費税増税の完全中止を選挙公約として訴えたことはないのです。また、増税による景気後退に配慮してさらに財政規模を拡大させる予算を組むに至っては、全く以って意味不明の域に達しています。いわば、消費税率10%上げは‘国際公約化’しており、日本国政府は、日本国民ではなく海外に対して実施義務を負っているが如きなのです。

 ‘国際公約を守る’という態度は律儀で誠実なようにも見えるのですが、そもそも消費税率上げは国際法上の条約でもなければ経済協定でもなく、法的な拘束力のない‘口約束’に過ぎません。野田首相は、国内で増税の是非をめぐる政策論争を闘わせることも、国民的なコンセンサスを得ることもせず、国際会議の場で突然に同方針を打ち出しています。しかも、政府の税率に関する決定権、即ち、財政権限は国家の主権的な権限とされており、外部からの干渉が許されない国内管轄権に含まれているのですから、日本国政府は、国際圧力に屈しての‘口約束’を履行する義務を負っているわけではないのです。

 今般の日本国内の経済状況を見ますと、今年の10月に消費税率が10%に上げられるとしますと、消費税の税収は市場における売買数や取引回数に比例しますし、国民の可処分所得も減少しますので、景気は後退することでしょう。そして、消費税増税が、‘国際公約’、否、海外からの内政干渉を意味するならば、同問題は、日本国の独立性に関わる重大問題ともなるのではないでしょうか。

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個人情報の脅迫材料化のリスク-5G時代の備えを

2019年04月18日 14時06分02秒 | 日本政治
GAFA規制へ新法 自民が提言案
 ‘情報を制する者が世界を制す’と称されるように、情報は、権力の源泉ともなれば、富の源ともなります。他者に先駆けて逸早く情報を掴んだことで成功者となった事例は枚挙に遑がなく、ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、ナポレオン敗北となるワーテルローの戦いの情報を先んじて入手し、詐術的投機を仕掛けて巨万の利益をその懐に入れています。その一方で、情報が漏れたことで多大な損害を被る事例も少なくありません。情報の有無は運命をも決するのであり、徹底した情報管理を要する理由は、まさに歴史を動かすほどの情報の重要性にあるのです。

 こうした情報の重要性に鑑みますと、デジタル社会を迎えた今日の状況は、個人にとりましては薄ら寒いとしか言いようがありません。政府レベルでは海外勢力からのサイバー攻撃や盗取に備えて防御的な技術やシステムの開発に熱心に取り組み、特に5Gの整備に際しても政府調達からファウエイ製品の排除措置を決定していますが、国家機密を護ることはできても、個々の国民の個人情報が充分に保護されるのかと申しますと、これは怪しい限りです。そして、兎角に軽視される傾向にある個人情報の漏洩が、その実、国家を傾ける結果を招くケースがあることに思い至りますと、あらゆるモノが高速で繋がり、個々の行動が悉く情報化され得る5G時代に対する不安は一層募ることとなるのです。

 個人情報の漏洩が国家的危機を招いた事例としては、1990年代に発生した4人の女子小学生監禁事件であるプチエンジェル事件を挙げることができます。同事件は、皇室をも巻き込むスキャンダルとしてネット上では知られていましたが、日本国の政財官界等の所謂‘上層部’に対する脅迫として利用された可能性が否定できないそうです。顧客名簿には2000名にも上る各界の名士が名を連ね、フェイクニュースの可能性もあるものの、中には、その後、中央銀行総裁や宮内庁長官といった要職にまで上り詰めた人も少なくないというのです。

犯人の自殺にも疑わしい点があり、マスコミも大騒ぎするはずの一大スキャンダルにも拘わらず、警察当局による捜査が短期間で打ち切りとなり、有力な証拠となるはずの同名簿も消却されたとも言われています。捜査が打ち切られた理由は、同名簿に記された氏名は偽名であった、即ち、リストに記された顧客名は本人ではなかった、というものですが、偽名であれ、本名であれ、事件は事件なのですから、組織犯罪の可能性を含め、警察は徹底した捜査を行うべきでした。近年発生した座間市の連続殺人事件についても、組織犯の線は消されて個人的な犯罪として矮小化されていますが、警察の対応が不自然な場合、一般の国民は、外部から政治的圧力がかかったのではないかと疑うのです。

ネット上ではその真相をめぐって様々な憶測が飛び交い、外国の諜報機関等の関与等も取り沙汰されていますが、この事件が示すリスクとは、たとえ私的な行動であったとしても、同人物が政治家や高級官僚といった国家の要職にあったり、企業のトップのポストにある場合には、国家機密に匹敵、あるいは、それ以上に国家に危険を及ぼすという厳粛なる事実です。暴露を仄めかすことで、いとも簡単にこれらの要人をコントロールすることができるからです。言い換えますと、日本国にとりまして致命傷ともなる売国行為でも、脅迫によって為さしめることができるのです。

同事件の真相は不明であり、いわば、‘消された事件’なのですが、その真偽に拘わらず、個人情報が盗取される恐ろしさを余すところなく表しています。同事件が発生した1990年当時とは比較にならない程、5G時代は外部からの情報入手が可能となり、プチエンジェルといった犯罪組織兼情報収集網を裏社会に造らなくても、スマホや監視カメラ、顔認証システム等を介して容易に個人のスキャンダルを掴むことができるのです。その実行者は、国家の諜報機関や事業者であるIT大手のみならず、先端的なサイバー技術を有する犯罪組織であるかもしれません。高い情報・通信技術力を有する日本企業が存在しながら、LINEをふくめてSNSの運営事業者の大半が外資系である点も、脅迫といった何らかの外部圧力の結果なのかもしれません。

何らかの政策的対応がない限り、国民は、今後とも、個人情報盗取のリスクに対して無防備な状態に置かれたままとなりましょう。このようなリスクを考慮しますと、独占禁止法上の規制強化やプライバシーの保護の観点に加えて、国民の個人情報を脅迫材料として利用させないための措置が必要なのではないでしょうか。もちろん、公人や要人が品行方正であることに越したことはないのですが、国家的な損失をもたらす事態を防止するためにも、国家と国民の安全に責任を負う政治家こそ、自らの問題として積極的に取り組むべきではないかと思うのです。

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『「平成の天皇」論』が示唆する危うさ

2019年04月17日 13時34分18秒 | 日本政治
新聞の紙面を読んでおりますと、ある書籍の宣伝文が目に留まりました。伊藤智永氏による『「平成の天皇」論』というタイトルの新書であり、国民に対して‘あなたは天皇と美智子皇后の真意に気がついていますか?’と問いかけています。同書は、‘退位の本当の理由’を探る‘骨太の天皇論’なそうですが、同書の意図はどこにあるのか、全く以って首を傾げてしまいます。

同書を読んだわけでもなく、宣伝文のみで意見を述べるのはおこがましい限りなのですが、不特定多数の国民を購読者とする新聞紙上での宣伝には、販売促進の目的のみならず、プロパガンダを意図している場合も少なくありません。読者の目に宣伝文の文字が入った時点でサブリミナル効果が生じ、人々の深層心理や潜在意識に無意識の内に作用するからです。

字面を追って素直に読めば、同書は、5月1日の新天皇の即位を前に否が応でも国民の皇室に対する関心が高まる中、‘天皇皇后の真意’を明かすことで、国民に対して象徴天皇の在り方を示そうとした作品として理解されます。もちろん、明かされた‘真意’は著者の‘忖度’なのかもしれませんが、それが事実であった場合、実のところ、日本国は、戦慄を覚える程の極めて危うい状況に陥ることとなります。何故ならば、同宣伝文には、以下の添え書きが付されているからです。

「天皇の生前退位は、単なる高齢化に伴う公務負担の軽減の問題でも、ましてや「弱音」や「わがまま」でもない。象徴天皇制のあり方を国民に問うために、天皇と皇后が二人で造り上げた戦略である。」

この記述が事実であれば、日本国民の皇室に対する信頼は、根底から崩壊しかねません。

 第1に、仮に、‘真意’なるものがあるとすれば、2016年8月8日に公表された‘天皇陛下のお気持ち表明’は、国民に対して偽りの言葉を述べたこととなります。国民に自らの‘真意’を伏せ、表向きの理由を並べたに過ぎないこととなるのですから。著者としては、同ビデオに対して保守系論客等から寄せられてきた「弱音」や「わがまま」批判をかわすために、‘真意はここにある!’としてよりスケールの大きな‘大志’を国民の前に披露しようとしたのでしょうが、その狙いは、裏目に出てしまうかもしません。

第2に、上記の記述が正しければ、‘天皇と皇后が二人’だけの話し合いによって、次世代にも引き継がれる象徴天皇のあり方が決定され、それを国民に受け入れさせるために、綿密なる戦略をも練り上げたこととなります。つまり、生前退位を表明した突然のビデオ公開から今日至る一連のプロセスは両者によって計画されたのであり、そこには、これまでの天皇像とは全く異なる姿が浮かび上がってきます。御所の‘密室’にあって、国民を誘導するための謀議をめぐらす政治的で権謀術数に長けた天皇・皇后の姿です。これでは、穏やかで親しみやすい天皇と優しく慈悲深い皇后というイメージが打ち砕かれてしまうのです。そして、‘独自の戦略を以って上から国民を誘導しようとする策士としての天皇像’は、表向きの基本方針として表明されている‘国民に寄り添う’天皇像とは真逆なのです。

第3に、天皇・皇后主導による生前退位(譲位)であるならば、当然に、国政に関する権能を有さないと定めた憲法に抵触しかねない事態ともなります(第三・四条)。日本国政府は、今般の生前退位(譲位)の意思表示は憲法違反には当たらないとして懸命に弁明を繰り返してきましたが、同書の内容が事実であれば、この努力は水泡に帰してしまいます。政府も宮内庁も、両者の一存で動いたことになるのですから。一般の国民もまた、天皇・皇后のパーソナルな‘政治力’に立憲主義や民主主義を侵食しかねない危うさを感じることでしょう(制度としての天皇からの逸脱…)。

 同書の広告には、‘靖国神社は参拝せず’、‘天皇の象徴再定義’、‘女性が動かす皇室’といった主たる内容が列記されていましたが、とりわけ‘女性が動かす皇室’ともなりますと、憲法は天皇の地位しか定めていないのですから、必然的に憲法上の問題も生じます。そして、さらに背後の闇を探索して行くと、同書では‘天皇と皇后の真意’と銘打ちながら、実際には、別の何者かの‘真意’ではないか、という疑いも湧いてきます。本書は‘骨太の天皇論’と称されていますが、‘骨太’という表現が新自由主義者によって日本経済の構造改革論が打ち出された際にも使用されたことを思い出しますと、どこか示唆的なようにも思えてくるのです。

 同書の内容は、事実であるのか、‘忖度’であるのか、あるいは、筆者の願望に過ぎないのか、そのいずれかであるかは定かではありませんが、‘‘真意’を知った以上、国民は疑いを挟むことなくそれに従うように‘ということであれば、新天皇の即位は、日本国の全体主義体制への移行に向けた転機となるリスクともなります。果たして、『「平成の天皇」論』の宣伝文は、国民に対して暗に危険を知らせる警告なのでしょうか、それとも、世論の誘導なのでしょうか。同書には胸騒ぎを覚えるのですが、ここは、国民こそが冷静に見極める必要があるように思えるのです。

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独裁者礼賛と心の自由は両立しない

2019年04月16日 18時26分28秒 | 国際政治
北朝鮮が海外向けに発信する映像には、高揚した表情で独裁者を礼賛し、賛辞を並べ立てる国民しか登場しません。金正恩委員長が民衆の前に登場しようものなら、全ての国民が手に持つ紅色の華を折れんばかりに振って喜びを表現しています。同体制を支持する人々は、北朝鮮の国民は幸せであると主張するのでしょうが、他の諸国の人々から見ますと、我を忘れて独裁者に全てを捧げようとする北朝鮮国民は哀れにも見えます。

 しばしば、独裁体制の国民は慈悲深い指導者の下で皆が団結しており、幸せであるとする説があります。しかしながら、それは、人という存在の真実なのでしょうか。そもそも、人には好き嫌いの感情がありますので、全ての人から好かれる人は存在していません。利己的他害性が強い反社会的な人物は当然としても、たとえ才能に恵まれた人や性格の良い善人であったとしても、嫉妬によって嫌われるケースもあります。然したる理由もなく、なんとなく嫌いと場合もあり得るのです。全体主義体制の下に置かれている国民の中にも、独裁者が心の中では嫌いであったり、尊敬できない人が存在することは当たり前です。

 ところが、独裁体制擁護論者の人々は、指導者がどのような人物であれ、国民に対して忠誠と尊敬の念を捧げるように強要しようとします。そして、それこそが、独裁者への心酔こそが国民の幸せであると決めつけているのです。心の自由は人の幸せの源泉の一つですので、国民の心を独裁者礼賛に強制的に向けさせる体制が幸せをもたらすはずもありません。言い換えますと、独裁体制と心の自由は両立せず、現代という時代にあって、独裁体制が人々から嫌悪される理由もここにあるのです。仮に北朝鮮の国民が幸福感に浸っているとしますと、それは国家的な洗脳の成果であり、一般の自由諸国では、個人崇拝はパーソナル・カルトと認定されています。

 日本国内でも、天皇の代替わりを機に、北朝鮮に近い体制の樹立を目指す勢力が蠢いているようにも思えます。日本国と国民の安寧のために天神地祇に祈りを捧げるという伝統的なお勤めに対しては、国民が皇室に尊敬を払うことはあったとしましても、昨今の観劇といった私的な活動まで詳細に報道し、暗に国民に礼賛を求める姿勢は、どこかパーソナル・カルトの風味が漂います。今日の天皇の“神格化”は、日本国の神話に由来するのではなく、個人礼賛に比重を移しており、それは、一般国民の常識や良識からしますとどこか不気味にも感じられるのです。

 一旦、独裁体制が成立しますとそれを国民の力で覆すのは困難となりますし、‘国民の幸せ’は、国家が上から独善的に決定してしまいます。自由も、民主主義も、法の支配も、そして、基本権の尊重や公平平等と言った価値も、全て消し去られてしまうのです。北朝鮮を反面教師とし、日本国にあっては、ゆめゆめ同国と同様の体制へと移行するような‘静かなる革命’を起こしてならないと思うのです。

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