万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

怖すぎる「健康危機管理庁」の創設案

2022年05月31日 12時55分07秒 | 国際政治
 今般の新型コロナウイルス対策の反省点を踏まえ、日本国政府は、「健康危機管理庁」なる行政機関を創設する方針のようです。来年の通常国会での法案提出を目指しているそうですが、この案、空恐ろしい気がいたします。

 政府による表向きの説明は、新たに出現する感染症に迅速に対応するための司令塔の設置です。現行の組織では、内閣官房の「新型コロナ感染症対策推進室」と厚生労働省の「対策推進本部」に分かれており、両者を統合すれば、指揮命令系統が一本化されるというものです。政府は、デジタル庁の創設時に際しても全く同様の説明をしておりますので、‘統合による迅速化’は、新たな中央集権的な組織改革を実行する際の常套句なのでしょう(独裁体制化?)。しかも、‘司令塔’という呼称からも伺えるように、政府は、感染症を戦争に匹敵する‘有事’と見なしています。確かに、有事に際しては、指揮命令系統の一本化は迅速性において優るものの、中央集権体制の構築が真の狙いであって、感染症対策は口実であるという疑いが、どうしても拭い去れないのです。

 国民が気が付かぬうちに日本国の国制が独裁体制に近づいてしまうというリスクの他にも、「健康危機管理庁」には、幾つかの疑問点があります。第1に、何故、常設の機関とするのか、その必要性に関する説明が不十分です。新型コロナウイルス以前にあって地球規模でパンデミックが起きたのは、スペイン風邪です。凡そ100年ほど前の出来事なのですが、過去の歴史を振り返りますと、パンデミックはおよそ一世紀に一回ほどしか起きてきませんでした。しかも、今般の新型コロナウイルスはスペイン風邪よりも軽度です。仮に、近い将来、新たな脅威となる感染症が出現しなかった場合、同庁は、暇を持て余すことになりかねません。この点、急速に陰謀論が信憑性を増しているのも、サル痘といった不自然な感染症の流行が報告されているからなのでしょう。

 そして、第1の疑問点に関連して第2に疑問となるのは、「健康危機管理庁」が常設機関として構想されているならば、その真の姿は、’ワクチン庁’なのではないか、というものです。同庁創設の目的には、ワクチン接種体制の構築もあるのでしょうが、この作業自体は、必ずしも常設機関を要するわけではありません。となりますと、常設機関とした背景には、ワクチン接種の恒常化とそのデジタル管理が推測されるのです。近年、日本国政府はデジタル化に向けて邁進してきましたが、新型コロナウイルスワクチンのみならず、様々な感染症のワクチン接種状況がデータとして収集され、近い将来、政府によるワクチン管理社会が出現するかもしれません。政府にとりまして不都合な国民に対しては、ワクチンの接種が強制されるという忌まわしい光景も頭をよぎります。

 第3に、同庁の設置が恒常的なワクチン接種体制を前提としているならば、国民にとりましては、命に係わる危険性を有するものとなりましょう。当初の政府説明とは異なり、今般の新型コロナウイルスワクチンには期待されるほどの感染予防の効果はなく(時間の経過とともに激減…)、接種者でも死亡例がありますので、必ずしも重症化を防ぐわけでもありません。否、接種後の死亡例の報告は1500件を超えると共に、ワクチン後遺症に苦しむ国民も少なくないのです。mRNAワクチンは、十分な安全性の確認作業を経ずして緊急承認されましたが、今後とも、政府によって、安全性が十分に確立されていないワクチン接種の誘導または強要される可能性があります。ワクチンに対する風向きが変わり、世論も批判的な傾向が強まる中、同庁の設立案について国民の多くが不安を覚えることでしょう(政府に殺されてしまう、あるいは、生殺与奪の権を握られてしまうかもしれない…)。

 そして、第4に指摘できるのは、この動きは、世界戦略の一環である可能性です。アメリカのバイデン大統領は、5月23日に訪日した際に、日米首脳会談後の記者会見の席で、日本版CDCの設立を表明しています。唐突に公表された「健康危機管理庁」とは、実のところ、アメリカの要請に応じたものであり、それは、おそらく、アメリカ、否、その背後に同国のCDCをもコントロールする超国家権力体の意向に沿うものなのでしょう。つまり、日本国の統治機構は、世界支配のためのグローバル機構に密かに組み込まれる、あるいは、’統合’される寸前であるのかもしれません。

 以上に述べた疑問点からしますと、「健康危機管理庁」の創設案については、再検討を要するのではないでしょうか。「健康危機管理庁」の出現こそ、国民にとりましての最大の危機なのかもしれないのですから。

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銃規制問題が示唆する全諸国による核武装の合理性

2022年05月30日 13時29分47秒 | 国際政治
 アメリカではテキサス州のユバルディで発生した小学校での銃乱射事件を機に、銃規制の強化を求める声が高まっています。無差別乱射事件が発生する度に銃規制問題が持ち上がり、メディアや民主党支持者を中心に銃の危険性がアピールされるものの、なかなか進展は見られません。その理由の一つは、人間、すなわち、人々の自己保存の本能を取り去ることが極めて困難であるからではないかと思うのです。

 人とは、外部環境に関する情報処理能力に長けていますので、自らの理性に照らして自分自身の命が危うくなるような状況を受け入れようとはしないものです。否、全ての生物には生存本能が備わっていますので、それが直感であれ、動物であっても命の危険を避ける行動をとることでしょう。銃規制や核規制の問題とは、まさに生命に係わりますので、人々の生存本能を強く刺激してしまう問題領域なのです。

銃規制が遅々として進まない理由も、多くの人々が、実際に銃規制が行われたとしても、必ずしも自らの安全が護られるわけではないと疑っているからなのでしょう。そして、銃規制支持者の人々も、深層心理においてはその必要性を暗に認めているのかもしれません。何故ならば、銃規制を政策的に推進している人々も、自らは銃を放棄しようとはしていないからです。

例えば、バイデン大統領をはじめ銃規制に熱心に取り組んできた民主党の歴代大統領にあって、護衛やシークレットサービスを廃止した人はいません。先日の大統領訪日に際しても、首都東京では物々しい警戒体制が敷かれ、街角には普段より多くの警察官が配置されました。日本国では法律によって銃規制が行われていますので、本来であれば安全な場所なのですが、それでも厳重な警備を外そうとはしなかったのです。銃の所持が許されているアメリカ国内であれば、なおさらのことでしょう。もちろん、大統領や政治家は公人ですので、政治的なテロから身を護るという理由もあるのでしょうが、銃規制を訴えるGAFAMのトップ等をはじめ、民間の民主党支持者の多くも、銃を保持している、あるいは、自らは銃を身につけていなくとも、銃を携帯したボディーガードに自らの安全を護らせているはずです。

もっとも銃規制支持者が銃によって守られているという自己矛盾については、おそらく、犯罪者や暴力組織が銃を所有し、治安を脅かしている現状を以って正当化しようとすることでしょう。’銃を所持している悪人がいるのだから、仕方がない’と。しかしながら、この言い分では、そのままそっくり銃規制に反対する人々の主張と同じ、ということになってしまいます。正当防衛を主張しているのですから。

それでは、犯罪者や暴力組織といった悪人が銃を取り上げる一方で、警察のみが銃を保有する状態に至ることは可能なのでしょうか。論理上は、全ての悪人が銃を持たない状態に至れば、銃による忌まわし事件は消滅し、正当防衛論を唱える必要性はなくなることでしょう(この点、先に犯罪者や暴力組織を対象に銃規制を始めるのは順序としては正しい…)。しかしながら、先日の記事でも指摘したように、全ての悪人から銃を没収することは、必ずしも簡単なことではありません。必ずや隠し持つ者が現れ、無防備の人々を銃によって脅そうとすることでしょう。

そして、銃規制をめぐる状況は、まさしく核規制の問題と重なります。中国やロシアのみならず、北朝鮮といった暴力主義国家も核を保有し、他国に対する脅迫のみならず、先制使用も辞さない構えなのですから。しかも、’警察のみが保有し、危ない人物や組織から危ない攻撃手段を取り上げる’という銃規制の前提条件は、国際社会では既に崩れております。また、中国、ロシア、北朝鮮といった諸国から力づくで核を取り上げようとすれば核戦争となりますので、核規制の方が銃規制よりもはるかにハードルが高いと言えましょう。

核保有国が同盟国に提供する’核の傘’も、いざというときには開かない可能性もあり、中小の非核保有国は、自らの生存の危機に直面しています。このように考えますと、全諸国による核保有は、現実を直視すれば必ずしも’悪’と決めつけるべきものではなく、むしろ’善’であると同時に、極めて合理的、かつ、論理的な結論のように思えてならないのです。

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平和には世界政府よりも国際警察・司法機構が望ましい理由

2022年05月27日 11時15分41秒 | 国際政治
今日、グローバル富裕層さえも、平和の実現を人類共通目的とすることには表立って反対はできないことでしょう。言葉だけであっても、各国政治家、グローバリスト、並びに、’セレブ’と呼ばれるプロモーション係の人々も、メディアを介して戦争を糾弾し、世界平和を積極的にアピールしています。本心はどうであれ、人類共通の目標として平和の実現を設定することには異論はなさそうです。

それでは、国際社会においてどのようなシステムを構築すれば、平和は実現するのでしょうか。この問題を考えるに際して、大きく分けて二つの方向性があるように思えます。この二つとは、’世界(グローバル)のヴィジョン’と’国際機構のヴィジョン’として理解されます。以下に、両者を比べてみることとしましょう。

’世界政府のヴィジョン’にあっては、国家は消滅すべき存在であると認識されています。国家こそ、戦争の張本人であると見なしているからです。確かに、国家は戦争の行為主体ですし、地球の表面が国境線によって区切られ、大中小の様々な国家がひしめき合う今日の国際社会は、多数の紛争や戦争の発生要因を抱えています。この見解からしますと、諸国家から構成されている現行の国民国家体系は危険な状態であり、何れは消滅、あるいは、解消されるべきものとなるのです。分散的で並列的な国民国家体系を全面的に否定し、集権的で垂直的な全く別の体制への転換を訴えている点において、’世界政府のヴィジョン’は、ドラスティックな革命思想であるとも言えましょう。

一方、’国際機構のヴィジョン’は、今日の国民国家体系の延長線上にあります。国際機構とは、あくまでも国家の集合体ですので、’世界政府’のように、国境線で仕切られた国家の枠組みが消えるわけではありません。世界政府論では、戦争原因である国家の消滅が同政府の設立を正当化していますが、’国際機構のヴィジョン’では、その役割は、あくまでも国家から委託された範囲に限定されるのです。そして、この委託された役割とは、全ての国家の主権、領域、並びに、国民の安全の保障に他なりません。国内レベルにあって、警察や司法機関が個々人の基本的な権利や自由を護っているように、国際レベルにあっては、国際機関、即ち、国際警察・司法機構が、個々の国家の権利や自由を擁護するのです。

ここで重要となる点は、’世界政府のヴィジョン’では平和の実現という大義名分の下で国家の統治権限が召し上げられてしまいますが、’国際機構のヴィジョン’では、国家の統治権限は、ほとんどそのままに保たれていることです(国家の独立性の維持…)。国際機構の役割は安全保障の分野に限定され、しかも、その任務の具体的な内容も、’戦争’ではなく国際法の執行行為ですので、国家の政策権限を同機構に移譲する必要はないのです。否、国際機関が、世界政府のように既存の国家から政策権限を移譲させ、国境の廃止を強要する組織ともなれば、それは、自己矛盾、あるいは、自らに任務を委託している国家に対する背信行為ということになりましょう。そして、この側面は、世界政府が諸国家の’敵’となり得る理由をも示しています。

以上に二つのヴィジョンについて簡単に比較してきましたが、3つめのヴィジョン、あるいは、世界政府論の修正版として、‘世界連邦国家のヴィジョン’があるかもしれません。しかしながら、安全保障の分野に限定して言えば、‘世界連邦制のヴィジョン’、即ち、世界連邦政府の樹立構想にも論理的な矛盾があります。

現存する連邦国家における連邦政府と州政府との間の権限配分が示すように、歴史的に見て、連邦政府の権限は、主として対外政策の領域にあります。連邦国家とは、帝国の表向きの近代化という側面もありますが、複数の中小国が団結して対外的な共通の敵に立ち向かう必要性に迫られて建国されたケースも少なくないのです。このように、共同の防衛や安全保障の強化が連邦制の主要な存在理由であるとしますと、世界レベルにおいて連邦制を採用する理由は見出し難くなります。何故ならば、‘共通の敵’を失った世界連邦政府は、その設立と同時にその役割を失ってしまうからです。

今日、ネット上で宇宙人の実在論やSFの世界のような宇宙人来襲が流布されているのも、人類共通の敵が存在していた方が、世界政府論者や世界連邦政府論者にとりましては好都合であるからなのかもしれません。経済のグローバル化への対応として始まったEUに見られる国家連合の形態については別の角度からの考察を要するものの、少なくとも安全保障の分野においては、’国際機構のヴィジョン’の方が、現実的であると同時に合理的であり、かつ、全ての人類の未来像として望ましいように思えるのです。

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理想主義の独善問題

2022年05月26日 15時29分06秒 | 国際政治
 ’理想’という言葉は、常々肯定的に使われています。その理由は、おそらく、理想には本来、あるいは、将来において’あるべき姿’という意味が込められているからなのでしょう。’あるべき姿’とは、それが何であれ’正しさの基準となる姿’と想定されますので、理想には、価値判断が伴うのは疑い得ません。実のところ、’理想’という言葉は、善悪や価値の判断と不可分に結びついているのです。

 本ブログでは、新たな国際社会の安全保障体制について考えておりますが、同体制が、未来に向けて改善のメカニズムを備えたものであるならば、当然に、未来の体制は現状よりもより善いものでなければならない’はず’です。となりますと、目指すべきは未来像については、人々の間で善悪や価値判断において一定のコンセンサスを得ておく必要がありましょう。理想に向けて歩を進めるにしましても、その理想について人々の意見や見解がまちまちであれば、どこに向かったらよいのかわからなくなるのです。

 実際に、人類の過去も現在も多様性に満ちているように、理想的な未来像もまた、必ずしも全ての人類において一致しているわけではありません(未来にも多様性がある…)。例えば、ごく少数のグローバル富裕層が思い描く理想的な未来像と、その他大多数の人類が願う理想的な未来像とには大きな違いがありましょう。ましてや、個人的な立場や属する利益集団等によって、目指すべき方向性もさらに多岐にわたってしまいます。ディストピア計画としての陰謀論が信憑性を以って囁かれるのも、マネーという最大の資源を一部のグローバル富裕層が、自らの理想の実現のために自由に駆使できるからに他なりません。人口削減計画も、地球環境の維持という目的を掲げれば、’善行’となってしまうのですから。理想には、常に独善の問題が付きまとうのです。

全ての人々が、民間団体であるダボス会議や一私人であるイーロン・マスク氏等が目指しているような近未来を共有したいわけではないはずです。それにも拘わらず、政府もメディアも既定路線のごとくのように彼らの理想の実現への協力を惜しみません(ムーンショット計画などは、カルトにしか思えない…)ITやAIといったテクノロジーは、全人類に対して私的な未来ヴィジョンを合意なくして押し付けている点において、人類に対する未来の強制手段としても理解されましょう。特定の私人達によって人類の未来が決定され、テクノロジーを以って押し付けられる現状は、果たして望ましいのでしょうか(少なくとも、民主主義、自由、法の支配には反している…)。

それでは、どのようにしたら、人類の全てとは言わないまでも、凡そ全ての人々が自らの自由意思において同意するような理想を見出すことができるのでしょうか。’人類’と表現する限り、少なくともそれは、上述したようなごく少数の利益・あるいは、思想集団のものであるはずもありません。大多数の人々が支持し得るとしますと、それには理性一般に照らして首肯し得る普遍性が備えていることとなりましょう(政治における普遍的な価値とは民主主義、自由、法の支配…)。そして、政治、経済、並びに社会については別に論じるとしても、国際社会における新たな安全保障体制の模索という問題に絞って考えてみるとすれば、平和という価値の実現こそ、誰もが否定し得ない人類共通の目的となりましょう(もっとも、グローバル富裕層は、人口削減、あるいは、戦争利益のために常に国際社会を不安定な状態のままとし、戦争や紛争などが起こりやすい状態にしておきたいのかもしれない…)。

戦場にあっては、敵味方となった兵士たちが相互に殺傷しあい、一般の人々も、日々、自らの命が危ぶまれると共に、長い年月をかけて築き上げてきた文化・文明をも破壊しかねない戦争を望む人は殆ど存在していません。誰もが嫌がることを止められないのには、現在の安全保障体制に何らかの致命的な欠陥がある、あるいは、努力が足りないと考えざるを得ないのです。高度で先端的なテクノロジーを発展させておきながら、戦争を防止する仕組みさえ未だに開発していない人類の現状は、あまりにも歪でアンバランスなのではないかと思うのです。

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銃規制とNPT体制の共通性-抑止力の無視

2022年05月25日 11時20分36秒 | 国際政治
 アメリカでは、またもや銃乱射事件が発生したそうです。事件の現場はまたしても学校であり、米南部テキサス州ユバルディの小学校にあって児童14人、教師一人の尊い命が奪われています。銃乱射事件が発生するたびに、アメリカ国内をはじめ、日本国内でも銃規制を急ぐべきとの論調が沸き上がります。’銃を規制しないからこうした痛ましい事件が起きるのだ’と…。しかしながら、見方を変えますと、逆の見解もあり得るように思えます。そして、この問題、NPTや核兵器禁止条約に対する疑問とも共通していると思うのです。

銃規制を支持する人々は、銃=攻撃力(殺傷力)=悪という構図を頭の中で描いています。この構図からしますと、悪(殺人や強盗…)をなくすためには、銃そのものをこの世から消してしまうのは、ロジカルな結論となりましょう。銃規制支持者は、決して悪の味方ではなく、人々の安全を護りたい一心で銃規制を唱えているのかもしれません。

しかしながら、力の両面性―攻撃力と抑止力―に思い至りますと、上記の構図、すなわち、銃=殺傷力(攻撃力)という認識で銃規制の是非を判断することには疑問が生じます。銃が備えている抑止力に注目しますと、銃の保持は、必ずしも悪ではなくなるからです。アメリカにおいて銃を保有している大多数の人々は、自ら、あるいは、家族の護身用として購入しているはずです。仮に、全ての銃保持者が攻撃目的で所持しているとすれば、アメリカでは、今般の事件のような無差別殺人が日常茶飯事となり、日々殺人や強盗が起きるような’犯罪天国’なっていたことでしょう。銃乱射事件の低い発生頻度や治安状況からしますと、おそらく、銃を攻撃目的で使用しようとしている悪人は、数万人、あるいは、数十万人に一人なのかもしれません。

もちろん、日本国のように、法によって警察のみに合法的な銃器の携帯が許され、物理的な強制力において全ての犯罪者に優るように設計された制度の下では、一定の治安維持効果は期待できましょう。拳銃は、犯罪が実際に行われた場合には、その実行者の行動力を奪い、かつ、悪しき人々に対して犯罪を躊躇わせるからです。銃規制とは、警察以外の全ての人々から銃を取り上げた場合のみ、最も効果が高まると言えましょう(警察による銃の独占が必要不可欠の条件では…)。

その一方で、公的には銃規制が行われつつも、犯罪者が銃を隠れ持つ場合には、人々の身に危険が迫ることとなります。悪人ほど、法には従わず、抜け道を探そうとするものですし、他の人々が無防備な状態にあるほど好都合であり、一方的な攻撃が容易になるからです。実際に、銃乱射事件の犯人が学校を狙うのも、学童といった低年齢の子供たちであれば銃を保持しておらず、反撃や抵抗を受ける可能性が比較的低いからなのでしょう。しかも、警察と犯罪者との力関係において後者が優位する場合には、一般の人々が被る被害やリスクは計り知れません。メキシコのように犯罪集団の物理的強制力が警察のそれを上回る場合には、治安は最悪の事態を迎えるのです。

アメリカの銃規制が、国際社会における核規制と相似する問題である理由は、まさにこの点にあります。国際社会の現実は、国連安保理常任理事国が担当してきた‘世界の警察官’の役割が有名無実化するどころか、その一部が‘世界の暴力団’と化していることを示しております。また、イスラエル、インド、パキスタンがNPTに未加盟な上に、カルト的な個人独裁体制を敷く北朝鮮の核保有も既成事実化しています。‘警察’による独占状態が成立していない現状が、核を保有していない順法精神を備えた諸国を危険に晒していることは言うまでもありません。

このように考えますと、全ての諸国が護身用に核を保有することは、ベストではないにせよ、現実を直視した合理的な判断のように思われます。銃規制も核規制も、力の抑止力を無視することで、攻撃を受けるリスクを徒に高めているのですから。力の両面性は、銃=抑止力=善という半面の構図をも描くのですから、攻撃性のみに目を向けた一面的な理解に基づく主張は、どこかに誤魔化しがあるように思えてならないのです。

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バイデン大統領による日本国の常任理事国入り支持の真意とは?

2022年05月24日 13時59分23秒 | 日本政治
 政治の世界では、解釈によって意味内容が180度も変わってしまうことがままあります。昨日、5月23日に開かれた日米首脳会談の席にあって、アメリカのバイデン大統領は、岸田首相に対して日本国の国連安保理の常任理事国入りを支持したと報じられています。この発言も多分に漏れず、既に解釈論争を引き起こしているようです。

第1の解釈は、同発言は、訪日に際してのアメリカ大統領による日本国に対する外交的なリップサービスであったというものです(ネット上では優勢な見解では…)。言葉で常任理事国入りを支持したとしても、それが実際に実現するにはあまりにも高いハードルがあります。先ずもって国連憲章を改正する必要がありますので、同手続きをクリアするだけでも気の遠くなるような時間を要することでしょう。国連総会での改正案の採択には全加盟国の3分の2の賛成票を得る必要がありますし、たとえこの要件を満たしたとしても(賛成票と引き換えに何らかの便宜や利益供与を求められる可能性も…)、常任理事国を含む3分の2の加盟国が自国の憲法手続きに従って批准を完了しなければ効力が生じません。今般の北欧二カ国のNATO加盟申請に際しては、トルコが難色を示したことで、当初予測されていたような’スピード加盟’とはならないようですが、日本国の常任国入りには、改正手続き上のより厳しい難関が待ち構えているのです。アメリカ側も、この点は十分に承知しているでしょうから、リップサービス論に従えば、アメリカは現状維持を望んでいるということになりましょう。

第2の解釈は、ウクライナ危機を機にアメリカが国連改革に乗り出す意欲を示したという、最も常識的な見解です。同危機では、ロシアが常任理事国であっために国連は全く機能せず、その無力さを露呈することとなりました。国連の機能不全を解消するためには、国連における決定手続きを改革する必要がありますので、アメリカは、訪日に際して、以前から議論されていた安保理常任理事国のメンバー拡大問題を提起したことになります。

第3の解釈は、アメリカが、ロシアさらには中国を現行の国連から排除し、日本国とドイツを両国の代わり国連の常任理事国に据えたい意向を示したというものです。国際社会全体から見れば、それは、国連の普遍性の喪失、つまり、世界が分裂することを意味します(かのダボス会議でも「ロシア戦争犯罪観」が設置され、ロシアからの出席者はいない…)。ロシアが自国の除外を機に中国と共に独自にブロックを形成するとなりますと、世界は、アメリカブロック(クワッド+欧州?)と中ロブロックとに凡そ二分割されることとなりましょう。あるいは、ロシアと中国が別個に自国を中心としたブロックを構築するとしますと、世界は3分割され、オーウェルが描いた『1984年』の世界に近づいてゆきます。何れにしましても、国際社会は分割されるのです(分割統治?)。

そして第4の解釈は、常任理事国入りという表現を以って、アメリカが、日本国の核保有を認めたというものです。常任理事国には、事実上の拒否権が付与されているため、国連改革の議論は同権利をめぐるものが主流となるのですが、常任理事国は、同時に核保有国であるという共通点があります。’世界の警察官’を務める以上、他国加盟国(犯罪国家…)に優る物理的強制力を備える必要性が、同特権を正当化してきたのです。この構図に従うならば、常任理事国入りと同時に、日本国は、核保有国となる可能性が認められるのです。もっとも、NPTにあっては、常任理事国のみに核保有を認めるとする条文はなく、第9条3において核保有国を「1967年1月1日前に核兵器その他の核爆発装置を製造しかつ爆発させた国」として定義しています。この定義に従えば、NPT体制が存続する限り、日本国が常任理事国入りしても、核保有国となるのは困難となりましょう。また、仮に日本国が常任理事国となった場合には、国際社会に対する重い責任を伴いますので’(第三次世界大戦に参戦せざるを得なくなるかもしれない…)、日本国側としても、慎重な対応を迫られます。

以上に、主要な解釈について述べてきましたが、解釈が多岐にわたりますと、発言者の真意がわからなくなり、誤った対応をとりかねません。この観点からしますと、同発言は、日本国政府がバイデン大統領に対して詳細な説明を求める機会ともなりましょう。そして、この説明要求は、日本国政府が、アメリカに対して自国の意向を伝えたり、代替案を示すチャンスともなるかもしれません。何と申しましても、今後の国際社会の在り方を考えた場合、国連における特権的な常任理事国というポストやNPT体制の存続の如何も問題となるのですから。常任理事国入りの後押しは、日本国にとりましては‘ありがた迷惑’となるかもしれず、何れにしましても、バイデン大統領の発言の真意だけは確認しておくべきではないかと思うのです。

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日本国は対中ロ抑止力ならば通常兵器よりも核では?

2022年05月23日 14時13分10秒 | 日本政治
 アメリカのバイデン大統領の訪日については、その歴史的な意義を強調する論調が少なくありません。予定されている日米首脳会談では、ウクライナ危機を背景とした日米関係の強化のみならず、将来的な中国による台湾進攻を見越した対中協力の一層の強化を約することとなりましょう。経済分野においても、同会談にあって岸田首相はアメリカが主導するIPEFへの参加を表明する意向なそうです。

 今般のバイデン大統領の訪日には、抗ロシア・中国を目的とした軍・政・経の三方面からの陣営固めの観があるのですが、同大統領訪問に先んじて報じられた防衛費増額には、いささか疑問があります。何故ならば、防衛費増額の具体的な対象が通常兵器であるならば、それ程の抑止効果は期待できないからです。

 第二次世界大戦末期にあっては、日本国も、自軍の劣勢を挽回すべく、原子爆弾の開発に着手しています。この時の核開発には起死回生の期待が込められていたのですが、核兵器が形勢を逆転させ得るゲームチェンジャーとなることは疑い得ません。今日、北朝鮮やイランが、NPTに違反しても核兵器の開発保有を試みているのは、核兵器こそ、実のところ’弱者の兵器’であるからに他なりません。たとえ通常兵器において劣位していても、核兵器さえあれば、最強の軍事大国に対しても優位してしまうのです。仮に、先の大戦末期にあって、日本国やドイツが核兵器開発競争に勝利し、アメリカをはじめとした連合国諸国が未保有の状況にあったならば、人類の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

 核兵器とは、弱小国であっても、それを保有していれば平時にあって核保有軍事大国に対しても強力な抑止力として作用すると共に、非保有国に対しては、その軍事力のレベルに拘わらず、有事に際して絶大な攻撃力あるいは破壊力を発揮します。この側面からしますと、今般、日本国政府が対ロ中戦を想定して通常戦力を強化したとしても、中ロの両国が核保有国である限り、膨大な防衛予算は無駄になりかねないのです。

 開戦当初にあって通常戦力戦となる場合、世界屈指の自衛隊の戦闘力からすれば、ロシア軍や人民解放軍と対等に戦うことはできましょうし、米軍と共同防衛に当たれば、易々と人民解放軍の上陸を許すことはないかもしれません。とりわけ四方を海に囲まれている日本国の場合、近海の水域での侵入阻止が重要となるのですが、海上自衛隊は、世界最強とも称されるそうりゅう型潜水艦をはじめ、高性能の潜水艦を備えています。

水中戦にあって自軍が劣位するとなりますと、中国やロシアは、空の戦いに重点を置く可能性が高くなります(もっとも、サイバー攻撃や生物・化学兵器によるテロにも注意…)。初戦は日本国上空の制空権をめぐる戦闘機等による空中戦が行われ、仮に、相手国にこれを掌握された場合には、爆撃機のみならず大規模なドローン兵器の投入もあり得ましょう。

対抗策としては、地対空ミサイル等の増強も必要となるのでしょうが、第二次世界大戦時とは異なり、今日ではミサイルが主要な攻撃手段として使用されています。中ロからしますと、制空権を得るまでのコストや時間を考慮しますと、ミサイルの使用の方が合理的であると考えるかもしれません。しかも、ロシアや中国は核保有国ですので、当然に、核ミサイルによる攻撃もあり得ます。中国は、核の先制不使用を宣言しておりますが、中国の口約束ほど当てにならないものはありませんし、ロシアは、核の先制使用を現実的な選択肢として公言しております。通常兵器戦で劣勢であるほど、ロシアも中国も核使用の判断に傾くこととなりましょう。今日のミサイル防衛システムのレベルでは、核弾頭が空中で飛散するような最新型の核ミサイルに対抗することは極めて困難ですので、日本国は、核攻撃に対して無防備な状態にあるのです。

有事に際しての核攻撃があり得るとしますと、日本国は、アメリカの‘核の傘’による抑止力に期待するしかなくなるのですが、今般の日米首脳会談では、日本国が核攻撃された場合におけるアメリカによる核による報復攻撃は確約されたのでしょうか。ウクライナ危機を見る限り、同盟国といえども、他国のために自国が核攻撃を受けるリスクは回避したいのがアメリカの本音のように思えます。となりますと、岸田首相は、同会談において日本国の核武装こそ打診すべきなのではないでしょうか。

通常兵器における軍拡競争は何れの国にとりましても財政上の負担、すなわち、国民の税負担の増加、あるいは、公共サービスの低下を意味します。費用対効果や資源の有効利用を考えましても、核兵器の保有は検討に値しましょう。次回のG7は、非核化への願いから被爆地である広島で開かれるとする報道もありますが(米英仏は核保有の特権を手放したくないのでは…)、何れの国がNPT体制の見直しを言い出さなければならないのであるならば、中小国の立場を代表して国際社会に同問題を提起し得るのは、核の悲惨さをその歴史において経験した日本国こそ相応しいのではないかと思うのです。二度と原子爆弾が人類に対して使用されないために。

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ウクライナ危機の司法解決は時期尚早?

2022年05月20日 10時50分10秒 | 国際政治
本ブログでは、5月3日付の記事において新たな安全保障体制の構築の必要性について述べながら、その続きは後日とさせていただいておりました。この間、ウクライナ危機をめぐる各国の動きについて記事を認めてきたのですが、本日からは、新たな安全保障体制にテーマを戻しつつ、ウクライナ危機の解決方法についても考えてみたいと思います。

新たな安全保障体制とは、現実、即ち、世界の多様性に柔軟に対応し得る体制として理解し得るものです。これまでの記事で述べてきましたように、今日の世界には、侵略行為を容認するようなロシアや中国のように帝国意識を引きづっている国もありますし、核時代の軍事同盟関係は、兵器がハイテク化しているとはいえ中世の封建時代と類似しています。核保有国である軍事大国を盟主とする一種の’封建関係’が成立しているのです。

その一方で、近代以降の国際社会には、国家間の諸問題を、交渉を通して解決し得る外交システムが整備されています。外交システムは、相手国政府に対して交渉相手としての独立的な立場を認めている点において、主権平等の原則を基礎としています。加えて、近代における国際法の発展もまた、司法解決の道を開くこととなりました。中立・公平な警察力としての法の執行機関や判決内容を確実に実現するための強制執行力を働かせる仕組みは備えてはいないものの、今日では、法的に解決し得る範囲は格段に拡大しているのです。

今日の国際社会のこのような現状を見ますと、過去、現在、未来が混在しているかのようです。国際社会の多様性には時代感覚の違いも含まれており、この多様性は、力、合意、法の何れに重きを置くのか、という問題の解決手段の違いにも表れているのです(価値観の違いでもある…)。現代という時代を時代感覚の重層性を以って捉えるとすれば、新たな安全保障体制とは、多様性の現実を直視し、力、合意、法という三つの解決方法を上手に組み合わせる必要がありましょう。

 それでは、何故、組み合わせが必要であるのかと申しますと、いずれか一つに絞って制度設計をしますと、他のケースには対応できない、あるいは、現実との間に齟齬が生じて深刻な弊害、二次的被害、モラルハザードなどが発生してしかねないからです。例えば、力を信奉する帝国主義を行動原理としている国のみに合わせて対応しますと、時代は一気に数世紀前まで巻き戻しとなり、人類の知性を以って築き上げてきた外交システムや国際法秩序は捨て去られてしまうことになりましょう。これを得るために払われた先人達の努力や犠牲は無駄になってしまうのです。

 また、NPT体制がもたらしている封建体制を以って安全保障体制を固定化してしまいますと、主権平等の原則は崩れ、対等であるべき国家間の間に上下関係が形成されてしまいます。中小国の大半は、自国の安全確保と引き換えに、属国の立場に甘んぜざるを得ず、有事における軍事的な奉仕、即ち、自国軍隊の盟主国軍への戦略的統合のみならず、平時にあっても通商関係や国内の経済・産業政策にもあっても、盟主国の要求を受け入れざるを得ない立場に置かれるかもしれません。これらの諸国は、自立的な政策決定権限を失いますので、主権平等の原則や主権国家の独立性は名ばかりとなるのです。

さらに、国際司法制度が形成途上でありながら時代を先取りし、完成されたものと想定して対処しますと、思わぬ落とし穴が待っていることもあります。例えば、今般のウクライナ危機に際しては国連が機能しないため、’国際法違反の行為を断罪し、全世界の諸国が国際法の執行者となるべき’とする主張はまさしく正論なのですが、現状のレベルにあってこれを実行に移しますと、不十分な司法の独立性による冤罪のリスクのみならず、軍事同盟の連鎖を引き起こし、第三次世界大戦への引き金を引くことにもなりかねません。現状のままでの司法的対応は、時期尚早であるのかもしれないのです。

 このように、諸国間における時代感覚の多様性・多重性を考慮しませんと、国際社会の平和も安定も、むしろ遠のくこととなりましょう。そこで、国際社会にあって新たな安全保障体制を考えるに際しても、望ましい未来へと歩みつつも、過去や現代の時代感覚から生じる諸問題にも的確に対応し得る柔軟性を備えた体制を構築する必要がある、ということとなるのです。それは、固定された静止状態の体制ではなく、過去や現在の欠点や問題を是正しつつ、より善き方向へと歩を進めるという意味において動態性を備えた体制と言えるかもしれません。そしてこの組み合わせ、あるいは、仕切り直しの問題は、人類が目指すべき国際社会の未来とはどのようなものなのか、という根本的な問いかけをも含んでいるのです(つづく)。

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日本国政府は第三次世界大戦の回避に尽くすべきでは?

2022年05月19日 15時03分10秒 | 日本政治
 今般のウクライナ危機に際しては、多くの人々が、偶発的な事件を機に世界大戦に発展する事態を懸念しております。しかも、次なる世界大戦は核戦争を招きかねず、全人類の存亡危機と言っても過言ではありません。’その次がない戦争’、それこそが第三次世界大戦となりましょう(最終戦争?)。

第一次世界大戦では、’サラエボの一発の銃声’が軍事同盟の連鎖的発動によりヨーロッパ全域を戦場と化すことになりました。一方、第二次世界大戦は、独ソによるポーランド分割の合意―独ソ不可侵条約秘密議定書―に端を発しており、この大戦も、軍事同盟の連鎖性が戦火を世界大に広げています(日本国の真珠湾攻撃による日独伊三国同盟の発動…)。ヨーロッパほど、軍事同盟の連鎖性のリスクを痛いほど経験した地域はないのですが、今般のウクライナ危機に際しては、スウェーデンとフィンランドに続き、永世中立国として知られるスイスにあってもNATO加盟の議論が起きているそうです。

軍事力には攻撃力と抑止力の二面性がありますので、軍事同盟にあっても、ベネフィットとリスクの両面があります。今般のNATO拡大にあっても、ベネフィットとしては、’核の傘’の提供による新規加盟国の対ロ安全保障の強化、並びに、NATO側の戦略的行動範囲の拡大等を上げることができます。核の傘の下にあるNATO加盟国に対しては、さしものロシアも、国境を越えての自軍の進軍には躊躇することでしょう。その一方で、加盟リスクとしては、上述したように、軍事同盟国間における集団的自衛権の連鎖的発動によるヨーロッパ大戦、並びに、世界大戦化を挙げることができます。しかも、同大戦が、双方による核の応酬となる核戦争ともなれば、人類滅亡のリスクは一気に最大値まで上昇するのです。

それでは、核時代における軍事同盟のベネフィットとリスクとの間の比較衡量では、どちらに傾くのでしょうか。この問題、核の使用可能性のレベルによって比較衡量の結果が大きく違ってきます。例えば、NPT体制にあって国連常任理事国でもある核保有国がその先制使用を固く自らに禁じるならば、核は抑止力のみとして働くこととなります。また、イスラエル、インド、パキスタン、並びに、北朝鮮といった既成事実として核を保有している諸国があったとしても、これらの国との間に個別的な紛争要因がなければ、核攻撃を受けるリスクはそれ程には高くはありません。核使用の可能性が低いレベルにある場合には、軍事同盟は、主として通常戦力の相互的な強化を意味し、考慮すべきリスクは、相手国の通常兵器によって自軍が被る被害リスク、並びに、戦争に負けた際に生じる敗戦リスクに留まるのです。

ところが、今般、ウクライナ危機に際してロシアは核兵器の先制使用に言及しており、状況が一変しています。何故ならば、核兵器が攻撃兵器として使用された場合には、たとえ最終的に戦争に勝利したとしても、復興が極めて難しくなる程に国土が破壊され、国民の多くも命を失いかねないからです。目下、アメリカのCNNは、ウクライナにあって捕虜となったロシア兵が民間人の殺害を認めたため、戦争犯罪により終身刑の判決を受ける可能性があると報じていますが、核兵器の使用は、大規模な民間人殺害を意味します。国土や国民が被る損害は通常兵器の比ではなく、’核戦争には勝者はいない’と称されるのも、同兵器の桁違いの破壊力並びに殺傷力によります。核の攻撃兵器としての使用可能性は、それが高いほど、軍事同盟におけるベネフィットとリスクの天秤をよりリスク方面へと傾かせるのです。

実戦における核使用の可能性の高まりは、軍事同盟のリスクを比例的に高めることとなるのですが、対ロシア政策については、ロシアが、戦術核であれ、戦略核であれ、核兵器の先制使用を示唆している以上、第三次世界大戦に発展する可能性は否めません。そして、同大戦が人類滅亡を招きかねないとしますと、その回避こそ、最優先事項とすべきように思えます。つまり、紛争をロシア・ウクライナの二国間に留めることにこそ、各国政府とも、最大の努力を払うべきなのではないかと思うのです(第三次世界大戦は、超国家権力体との三次元戦争でもあるので、人類一般が敗者とならないためにも同戦争を阻止する必要がある…)。

目下、日本国政府も、ウクライナ支援を軸にNATOとの結束強化に向けて既に動き出しておりますが、戦時体制の整備のみに傾注するよりも、再発防止のための条項を組み込んだ中立的な立場からの調停案を提案した方が、よほど平和に貢献するかもしれません。人類が真に負けてはいけない’戦争’とは、第三次世界大戦を望む勢力との戦いなのですから。

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NPTは現代を封建時代にする?

2022年05月18日 14時37分47秒 | 国際政治
 今日、核兵器という存在が、戦争の勝敗のみならず、国際体制の決定要因となっている現実があります。核兵器が戦況を一変させる’切り札’となるとする認識は、先の戦争にあって、連合国諸国のみならず、劣勢におかれていた枢軸国諸国にあっても核兵器の開発競争に凌ぎを削っていた歴史からも伺えます。そこには、先に同兵器を手にした側が戦勝国になれるとする確信があるからです。そして、実際にそれが広島と長崎に対して使用されたとき、核兵器は、凄まじい破壊力のみならず、絶大なる抑止力をも持つこととなったのです(その抑止力により現に、以後凡そ70年にわたり世界大戦は発生していない)。

核兵器とは、いわば人類が手にしてしまった’魔物’なのですが、それ故に、人道的な見地から核の廃絶が訴えられるようになりました。核拡散防止条約も核廃絶に向けた流れの一つなのですが、現実には、核兵器が’魔物’であるために、NPTは、所期の目的とは異なる作用を国際社会にもたらしたように思えます。

どのような作用であるのかと申しますと、それは、現代における国際社会の封建体制化です。第一次世界大戦以来、普遍的な国際組織としての国際連盟や国際連合の設立もあって、国際社会は、主権平等の原則を基調とするフラットな体制に移ったかのように思われています。世界地図から植民地は姿を消し、保護国という形態も過去のものとなりました。国際法は各国の権利を等しく保障し、国際秩序は、位階を特徴とする縦型から横並びの並列型へと転換したのです。

表面的にはフラットな世界への移行が進む一方で、第二次世界大戦後の国際社会の現実を見ますと、国連には常任理事国という特別の地位が設けられておりますし、軍事力における国家間格差は拡大する一方です。冷戦期にあっては米ソ両大国が抜きんでた軍事力を保持する一方で、冷戦後にあっては、中国が急速に頭角を現してきました。そして、常任理事国の地位を軍事的にも不動のものとしたのがNPTであったかのもしれません。何故ならば、常任理事国は世界の平和を護る’世界の警察官’であるとする認識から、核兵器という’魔物’の保有を独占的に認めたからです。

この結果、安全保障上の脅威に晒されている非核諸国は、‘核の傘’を求めて核保有国と軍事同盟を結ばざるを得ない状況に置かれることとなります。両者の間で軍事同盟が結ばれるとなりますと、核保有国は、非核国に対して‘核の傘’によって安全を保障する代わりに、非核国は、核保有国の陣営の一員としてその戦略に従うという関係となります(戦略への参加のみならず、有形無形の‘奉仕’をもとめられることも…)。そして、この縦型の関係は、主君が家臣に対して軍事力を以ってその領地を安堵する代わりに、家臣は主君の戦いにはせ参じる義務を負う、中世の封建制度と類似しているのです。

核兵器出現以前の対等な関係における軍事同盟にあっては、締約国間の軍事的な支援は条約において条件や規模などが定められ、いざ戦争となれば、相互に援軍や武器を提供するという形態が大半を占めておりました。しかしながら、核保有国を中心としたブロックが形成され、ブロックが相互に対峙するとなりますと、戦略の一本化と一体的な運営が求められるようになります。第二次世界大戦にあっては、連合国側に共同作戦の走りが見られるものの(日独伊同盟はあったものの、実際には枢軸国諸国は‘ばらばら’であった…)、核時代の今日にあっては、アメリカの戦略に全ての同盟国が参加する形となりましょう。そして、仮に、アメリカブロック対中ロブロックが次なる世界大戦の対立軸となった場合、たとえ核が使用されなかったとしても、その戦いは過去に類を見ない程、凄惨を極めることでしょう。しかも、戦時国際法や人道法がもはや拘束力をもたないとすれば、テロやサイバー攻撃等により、人々の日常空間を含めて地球全体が戦場となりかねないのです(地球を破滅させるグローバル戦争…)。

NTP体制が現代にあって‘封建体制’を固定化し、ブロック間対立としての第三次世界大戦への道を敷いているとすれば、その見直しは急務なように思えます。アメリカにとりましても、NATO加盟国や同盟関係の拡大は、対中ロ戦略においては有利となるとはいえ、その反面、核の傘の提供対象国の増加を意味しますので、自国が核攻撃を受けるリスクも比例的に上昇します。

将来的には、NPT体制の放棄により国家間の対等性を回復した後に、必要とあらば、改めて軍事同盟を締結するという方法もあるのかもしれません(もっとも望ましい方向性は、平和的な解決を可能とする司法制度等の整備なのですが…)。何れにしましても、この体制、人類が未来永劫にわたって維持すべきものとも思えないのです。

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全諸国による核保相互抑止体制が望ましい理由

2022年05月17日 12時33分53秒 | 国際政治
 ウクライナ危機は、これまで曖昧にされてきた核の両面性、すなわち、破壊力と抑止力に関する判断を、現実における政策選択の問題として問うこととなりました。国連安保理の常任理事国であり、それ故に核を保有するロシアが同紛争の当事国であることにも依るのですが、どちらの側面をより高く評価するのか、そして、その国の立場、即ち、核保有国か否か、並びに、軍事力のレベルにより政策の結果が変わってしまうのです。本日は、幾つかの関係をパターン化して整理してみることとします。なお、関係のパターン化に際しては、国家を、核大国、核中小国、並びに、非核中小国の三者に分けています。

 先ずもって、軍事大国にとりまして核の寡占的保有は、他の中小の非核保有国に対して、絶対的な破壊力と抑止力のまさに両面の保有を意味します。大国による核保有は、国際社会において圧倒的な優位性と自国の安全性を約束するのです。この点、現行のNPTは、核を保有する大国に優越的な地位を認めると共に、核を保有しない非核中小国を軍事的に劣位な地位に固定化してしまうため、不平等な体制と言わざるを得ません。(パターン1 核大国>非核中小国)

その一方で、これらの軍事核大国間の関係にありましては、核保有は、破壊力並びに抑止力ともに相互に均衡関係が成立する基盤となり得ます(相互確証破壊論…)。冷戦期にあって超大国として君臨していた米ソが直接的に戦火を交える事態に至らなかったのも、核による力の均衡が保たれていたからなのでしょう。言い換えますと、相互確証破壊論では、核大国間の核の抑止力が平和を実現する作用としてより高く評価されているのです。(パターン2 核大国≑核大国)

それでは、核を保有している大国と核を保有している中小国との関係はどうでしょうか。合法的な核保有であれ、既成事実としての保有であれ、このケースでは、中小の核保有国は、絶対的ではないにせよ、軍事大国に対して一定の攻撃力並びに抑止力を働かせることができます。とりわけ、イギリスのようにSLBMを搭載した潜水艦等による反撃力を常備している場合には、より強い抑止力を得ることができるのです。(パターン3 核大国≧核中小国)

次に、核大国との関係を抜きにした核中小国相互間の関係を見てみましょう。相互に核を保有している核中小国の間では、小規模ながらも相互確証破壊が成立し得ます。核の使用は核による報復として自国の破滅をも招きかねませんので、核大国間と同様に相互的な抑止力が強く働くのです。仮に、核の拡散が人類を危険に晒すとしますと、それは、国民に責任を負う国家による核保有ではなく、テロ組織や暴力主義を行動原則と知る非国家組織体となりましょう。(パターン4 核中小国≑核中小国)

一方、中小国において核保有国と非核保有国に分かれている場合には、前者が後者に対して圧倒的な破壊力並びに抑止力を持つことは言うまでもありません。NPT体制にあって北朝鮮やイランによる核保有が軍事大国であるアメリカのみならず中小の周辺諸国に危機感をもたらす理由も、核保有による軍事バランスを逆転し得る攻撃的な破壊力の飛躍的な増強にあります。(パターン5 核中小国>非核中小国)

なお、現実の世界には軍事同盟が存在していますので、核大国が非核中小国に対して核の傘を提供しているケースもあります。自らは核を保有していなくとも、同盟国が核大国であれ、核中小国であれ、核保有国である場合には、その抑止力を借りることができるのです。もっとも、この場合、提供を受けた側における抑止力のレベルは、同盟国である核大国による報復核反撃の如何にかかってきます。しばしば指摘されているように、核保有国である同盟国が、自国への核による反撃を怖れて核による報復を躊躇する場合には、核の抑止力レベルは著しく低下するのです。しかも、同盟国のために核のボタンを押すか否かについては、人間の意思が介在しますので、核兵器という物理的な力の保有状態のみが関係性の決定要因とはならず、さらに不確実性は増します。(パターン6 核大国+非核中小国≧核大国or核中小国)

以上に6つのパターンに分けてみましたが、こうした類型化は、国際社会にあって最も平和維持に効果的な体制を見出すに当たって役立ちます。抑止力による均衡、即ち等式が最も多く含まれるパターンの組み合わせが最も安全な体制であると言えますし、逆に、これが最も少ないパターンの組み合わせは極めてリスキーな体制となるからです。この観点から評価しますと、最も危険な体制はパターン1+パターン5の組み合わせとなり、これは、まさしく今日のNPTを基調とした今日の核管理体制に当たります。そして、国家間に軍事力の差がある現状を前提とすれば(大国もあれば中小国もある…)、比較的安全な組み合わせは、パターン2+パターン3+パターン4となります。

つまり、合理的に考えれば、NPT体制よりも全ての諸国が核を保有し、相互に抑止力を働まかせる体制の方が平和への貢献度が高いこととなりましょう。いささか理屈っぽくなりましたが、パターン分類を用いたこの説明、いかがでしょうか。

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北欧二国のNATO加盟は望ましいのか?

2022年05月16日 12時52分56秒 | 国際政治
 報道によりますと、スウェーデンとフィンランドの北欧二国は、いよいよNATO加盟を正式に申請するそうです。非同盟政策を転換してのNATO加盟申請の理由としては、ウクライナ危機によるロシアからの軍事的脅威の高まりへの対応との指摘がありますが、メディアの報じ方からしますと、欧米諸国の動きは、あたかも第三次世界大戦への発展が織り込み済みなような印象を受けます。

 とりわけここ数日、ロシア側から’好戦的’と非難されても致し方ないような報道が続いています。今般の北欧二国のNATO加盟も、どちらかと申しますと、対ロ陣営の形成、あるいは、西側諸国の結束強化の流れの一環としての解説が少なくありません。あたかも、’ロシア相手に戦う体制が整った’とでも言わんばかりなのです(その一方で、奇妙なことに、ウクライナでの戦況についてはロシア軍の劣勢が連日のごとくに報じられている…)。

こうした中、メディアの論壇でも、NATOとロシアとが全面戦争に至った場合、ロシアによる核兵器の使用があり得るか、否か、という問題が、議論の主題の一つとして持ち上がっています。軍事の専門家によれば、ロシアによる核の先制使用の可能性は決して低くはないそうです。’窮鼠猫を噛む’とも言われますように、通常兵器にあってNATOに劣位するロシアは、核の使用を以ってしか勝利を得ることができないからです。また、前回の記事でも指摘したのですが、敗北後におけるプーチン大統領等の責任者に対する軍事裁判、並びに、天文学的な賠償金の支払いを怖れ、ロシアは、ウクライナ危機を’絶対に負けられない戦い’と見なすかもしれません。勝つためには手段を択ばず、となりますと、ロシアによる核兵器の使用も杞憂では済まされなくなります。

今後、ロシアが核を使用する可能性が高いとしますと、北欧二国が早期にNATOに加盟したとしても、両国の加盟を以ってしても核戦争を防ぐことはできないこととなります。見方を変えれば、北欧二国は、’核の傘’を得るという目論見が外れ、むしろ、NATO加盟により核戦争に巻き込まれる導火線を自国に引き入れてしまうことになりかねないのです。ロシアは、フィンランドに対して’軍事的脅威はない’と伝えたと報じられていますが、ウクライナ危機を機にフィンランドもスウェーデンも、ロシアから核攻撃を受けるリスクが高まります。ウクライナのために自国が壊滅しかねないのですから、NATO加盟の是非の判断はより複雑となるはずです(既に、政府は正式に加盟を申請してしまいましたが、議会での批准手続きもあり、引き返しは可能では…)。

北欧二国のNATO加盟表明に対しては、ロシアが報復を示唆するなど攻撃的な反応を見せており、事態がエスカレートする展開も予測されます。むしろ、危機が増幅される可能性も否定はできなくなるのですが、第三次世界大戦、あるいは、核戦争の回避という目的に照らせば、北欧二カ国は、別の方法を模索すべきかもしれません。

この目的のために最も望ましいのは、NATO加盟による‘核の傘’の獲得ではなく、同盟なき核武装、すなわち、北欧二国が単独で核を保有することなのでしょう(非同盟核武装中立政策)。同政策でも、ロシアによる核兵器の先制使用のリスクを100%防ぐことはできないにせよ、北欧二国とロシアとの間に武力衝突が発生していない現状にあっては、同状態を平和裏に維持することはできます(ロシアは、両国を攻撃する根拠がない…)。たとえウクライナ危機が世界大戦に発展したとしても、北欧二国には軍事同盟による参戦のドミノ倒しが及ばず、大戦の規模を限定する効果は期待できるのです。

NPT体制がハードルとなって非同盟核武装中立政策を選択することが難しい場合には、先日合意されたイギリスによる安全保障の提供を活用するという方法もありましょう。同合意は、北欧二国がNATOに加盟するまでの間の暫定的な措置とされていますが、イギリスから核の傘の提供を受けつつもNATO加盟に対するロシアの反発を和らげる、並びに、政府間合意の段階ですので、NATO対ロシアの戦争に発展した場合にも、合意破棄が比較的容易になる(第三次世界大戦からの迅速な逃避可能性…)、といったメリットがあります。両国の加盟に対してはトルコが難色を示しておりますので、意図せずして同状態に至るかもしれません。

 ウクライナ危機を目の当たりにして、北欧二国がNATO加盟を急ぐのは理解に難くありません。しかしながら、核の抑止力を求めているならば、NATO加盟が唯一の道とは限らないように思えます。第三次世界大戦、並びに、核戦争という人類滅亡の危機から脱する、あるいは、歩かされないためには、むしろ、別の道を選んだ方が賢明なようにも思えるのです。

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ウクライナ危機とキューバ危機との逆構図が意味するものとは?

2022年05月13日 18時30分42秒 | 国際政治
 今般のウクライナ危機は、国連安保理常任理事国であり、かつ、かつての超大国の一国が当事国となった点において、ポスト冷戦期の地域的な紛争とは違いがあります。人類を第三次世界大戦、並びに、それに付随する核戦争の淵に立たせている意味において。そして、過去において同じような人類滅亡に繋がるような危機があったといたしますと、それはキューバ危機であるかもしれません。今般の対立の構図は、どこか1962年のキューバ危機を彷彿させるのです。もっとも、ウクライナ危機発生の経緯をめぐっては米ロの立場は逆となっているようです。

 キューバ危機は、米ソ両国によるチキンゲームによって核戦争の瀬戸際まで駒を進めてしまった事件です。1959年にカストロ指導の下でキューバ革命を成し遂げたキューバは、その社会主義路線からソ連邦への接近をはかり、経済的支援のみならず、軍事的な支援を受けるようになります。一方、キューバ革命を脅威と見たアメリカは軍事侵攻を計画し、1961年には、カストロ政権転覆を狙ったピッグス湾事件を起こしています。同作戦は失敗に終わりますが、その後も、マングース作戦を計画するなど同政権の打倒を目指すのです。こうしたアメリカの方針に反発したソ連邦は、キューバに核兵器を配備することで、アメリカによる軍事侵攻を阻止しようと考えます。そして、1962年11月には、ソ連とキューバとの間で「キューバ駐留ソビエト軍に関する協定」を締結され、キューバにおいて核ミサイル基地が建設されることとなるのです。同協定は、軍事バランス上の劣勢を挽回したいソ連邦の対米戦略に、キューバが組み込まれることをも意味しました。

 キューバ危機におけるこの一連の流れをウクライナ危機に当てはめますと、状況は異なるものの、幾つかの共通点を見出すことができます。ロシアが深く懸念したのは、ウクライナの新欧米政権の成立であり(オレンジ革命…)、この点は、キューバにおける社会主義革命と共通しています。また、陸続きの隣国であるロシアからの軍事的脅威に晒されていたウクライナは、アメリカ並びに西側諸国に対して積極的にアプローチしています。この点も、アメリカに対する反発からソ連邦に接近したキューバの行動を思い起こさせます。そして、ソ連邦における核ミサイル基地の建設は、ウクライナのNATO加盟方針とも重なります。NATOにあっては核シェアリングが行われていますので、ウクライナへの核配備はあり得るシナリオなのです。さらにもう一つ、共通点があるとすれば、両者とも、相手国と関連のある人々を利用している点です。キューバ危機では、CIAによって軍事訓練を受けた亡命キューバ人が組織化され、作戦の実行部隊となりましたし、ウクライナ危機では、ウクライナ国内の新ロ派武装勢力が戦闘部隊となりました。

 しかしながら、ここまでの経緯においては両危機には共通性が多々見受けられるものの、その後の展開に違いがあることは重要です。キューバ危機では、ソ連邦側が先に折れ、ミサイル基地を自発的に撤去したことで、ケネディ政権はキューバに対する本格的な軍事侵攻は思い止まりました。一方、今般のウクライナ危機では、ロシアは、ウクライナとの国境線を越えてロシア軍を進軍させています。そして、キューバ危機から60年を経た今日では、国際社会において国際法の重要性が増したことにより、ロシアによる’軍事作戦’は、国際法違反行為としてその罪が厳しく問われることになったのです。

 国際社会に対する認識が冷戦期のものと変わりがないロシア側からしますと、アメリカ、並びに、自由主義諸国から自国のみが厳しく非難されているのか、理解に苦しむということになりましょう。今般の行動はキューバ危機におけるアメリカのそれと凡そ同じにも拘わらず、何故、アメリカは、自国の過去の行動を棚に上げして自国を糾弾するのか、と…。キューバ危機では、アメリカの行動を国際法違反として糾弾する声は殆ど皆無でした。

両者の時代感覚の違いは、ここに来て、重大な問題を人類に突き付けているように思えます。何故ならば、国際法秩序の維持を護ろうとすれば、第三次世界大戦に発展しかねないというジレンマが、より現実的な問題として浮上してくるからです。つまり、キューバ危機の時代には、米ソ両大国の駆け引きの結果として第三次世界大戦を回避し得ましたが、現在にあっては、’国際法に照らしてロシアの軍事行動は絶対に許されない’とする主張が理性的な根拠を有するからです(もっとも、ロシアの行動が違法行為となるか否かの認定については、中立・公正な機関による検証を要しますが…)。

第三次世界大戦を回避するためには、キューバ危機の時代にまで時計の針を巻き戻してロシアの違法性を問わず、交渉による妥結を許容すべきなのか、それとも、国際法秩序を維持するために、第三次世界大戦を覚悟してまでロシアを罰するべきなのでしょうか。’敗戦’により国際法廷に立たされ、プーチン大統領も犯罪人として裁かれ、第一次世界大戦時におけるドイツに対する天文学的な賠償金に匹敵するほどの賠償金支払いを命じられることを予測したロシアは、追いつめられた末に核兵器等を使用するかもしれません。この問題、なかなか回答を得るのが難しいように思えます。皆さま方は、どのようにお考えでしょうか。

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イギリスは北欧二国に’核の傘’を提供するのか?

2022年05月12日 12時55分19秒 | 国際政治
 迫りくるロシアの脅威を前にして、NATO加盟の行方が関心を集めてきたスウェーデンとフィンランドの北欧二国。報道によりますと、NATO加盟に先立って、イギリスが両国に対して安全保障を提供することを約したそうです。

 中立路線を転換しての北欧二国のNATO加盟申請の背景には、’核の傘’の必要性に関する現実的な認識があったことは疑い得ません。イギリスと北欧二国との間の合意内容は、どちらか一方が他国から攻撃を受けた場合、攻撃を受けた国の要請に応じてもう一方の国が軍事的支援を行うというものです。相互支援を約した双務性のある合意なのですが、同合意を報じる記事の見出し「英が北欧2か国に安全保障提供へ」とあるように、暗黙裏にはイギリスが安全を提供する側と見なされています。イギリスはNPT体制にあって合法的な核保有国ですので、イギリスによる軍事的支援は、北欧二国に対する’核の傘’の提供を意味すると解されるのです。

以前にも触れたように、イギリスの核戦略は、SLBMを搭載した複数の潜水艦の運用を中心とした、反撃可能性を備えた核抑止戦略ですので、北海やバルト海に面したスウェーデンやフィンランドをも自国の核の傘に納めることができます。否、イギリスは、同合意に基づいてフィンランド周辺海域においても自国の海洋核抑止戦略を展開することができるようになると想定されます。このため、イギリスの核シェアリング政策の拡大とする見方もあり得ましょう。

何れにしても、仮に、イギリス、並びに、北欧二か国の狙い通りに’核の傘’が対ロ牽制に絶大の効果を発揮するならば、たとえ早期のNATO加盟が実現しなくとも(必ずしも全NATO加盟国が両国の加盟を円滑、かつ、迅速に認めるとは限らない…)、凡そヨーロッパ全域の安全が、イギリスの核によって保障されることとなりましょう。このことは、中小国による小規模の核保有であっても、大国の軍事行動を抑えられる効果を有する可能性を示唆しています。

もっとも、日本国における核シェアリングの議論においても問題視されているように、北欧二国が実際に核攻撃を受けた場合、イギリスが反撃するかどうかは定かではありません。しかも、ロシアが戦術核を用いた場合には、さらにイギリスによる報復の可能性は低下することも予測されます。第二次世界大戦にあっては、9月17日の独ソによるポーランド侵攻に先立つ8月25日に、イギリスは、ポーランドの安全を保障するために相互援助条約を締結しています。その後の展開は、軍事同盟の締結が抑止力の役割を果たさなかった歴史的な事例ともなるのですが、今般のイギリスによる北欧二か国に対する安全の保障は、大戦末期に出現した大量破壊兵器、即ち、核という未曽有の破壊力を有する兵器の抑止力の威力を問う試金石ともなりましょう。

そして、仮に、イギリスが海洋に広げた核抑止力体制が機能しないとすれば、第二次世界大戦の二の舞となるリスクを考慮せざるを得なくなります。イギリス以外のNATO加盟国もまた、北欧二国との軍事同盟に起因するロシアによる対英攻撃によって集団的自衛権が発動され、対ロ戦争に巻き込まれる可能性が高まるからです。

以上に述べてきましたように、イギリスによるスウェーデン、並びに、フィンランドに対する安全保障の提供は、対ロ牽制という文脈においてプラスに働く可能性がある一方で、マイナス方向に作用するリスクも認められます。このことは、NPT体制が、思いもよらず、世界大戦化のリスクを招いているという’不都合な事実’を示しているのですが、マイナス方向、即ち、人類滅亡をもたらしかねない第三次世界大戦への拡大は何としても阻止しなければなりませんので、軍事同盟における集団的自衛権の発動に関しては、その連鎖性を制御する工夫が必要なように思えるのです(NPT体制を見直せば、イギリスの核抑止戦略は、他の諸国でも単独で実施できるはず…)。

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中国は台湾を主権国家として認めた?-「92年コンセンサス」のどんでん返し

2022年05月11日 13時18分30秒 | 国際政治
 ウクライナ危機にあって、ロシアが自らの軍事行動を正当化する根拠の一つとして挙げていたのが、NATOによる東方拡大、即ち、ウクライナのNATO加盟問題です。プーチン大統領は、東西ドイツの再統一に際してソ連邦とNATOとの間に非拡大が約されたものの、NATOが一方的に同合意を反古にしたと主張しているのです。加えて、ロシアは、2015年2月にウクライナにドイツとフランスの2国を交えて合意した停戦協定(ミンスク合意)にも、ウクライナ側が違反していると主張しています。NATO不拡大合意の存在については不確かなのですが、過去の合意反古が侵攻を正当化し得るとしますと、中国もまた、台湾に対して同様の口実を以って武力併合を試みる可能性がありましょう。

 それでは、中国と台湾との間には、同様の国際合意は存在するのでしょうか。実のところ、両国の間には「92年コンセンサス(「九二共識」)」というものがあるらしいのです。’92年’と銘打つように、同合意は、1992年に、香港において外交窓口として設けられた民間機関、海峡両岸関係協会(中国)と海峡交流基金会(台湾)との間で成立したとされています。もっとも、ドイツ再統一時のNATO不拡大合意の存在に懐疑説があるのと同様に同合意の存在についても異議があり、とりわけ台湾側では否定的意見が強い傾向にあります。

 しかも、「92年コンセンサス」をめぐっては、不在論に加えて、解釈の不一致という問題もあります。同合意の内容については、台湾側が「双方とも『一つの中国』は堅持しつつ、その意味の解釈は各自で異なることを認める」と解釈する一方で、中国側の解釈は、「双方とも『一つの中国』を堅持する」としているからです。中国側からしてみれば、同合意を持ち出せば、両国が’一つの中国’、つまり、一国であるならば台湾問題は国内問題となり、外部者、すなわち、アメリカの介入を阻止できるからです。しかも、台湾側も同意していたとなれば、鬼に金棒なのです。しかし、もっとも、「92年コンセンサス」は、必ずしも台湾にとりまして不利というわけではないように思えます。その主たる理由は、凡そ二つあります。

 第1の理由は、台湾国内にあって同合意の肯定論が国民党において強いように、国共内戦を戦った中国共産党と国民党との間の合意という側面が強い点です。つまり、同合意における「ひとつの中国」とは、中国は一つの国であるけれども、共産党系の北京政府と国民党系の台北政府の政府が併存しており、相互に政府承認を行ったという解釈も成り立つことになります(北京政府は国連に対して中国の代表権を有しているに過ぎない…)。国民国家のモデルからすれば、一国二政府論の形態は極めて例外的な存在ですが、世界にはアンドラのような稀なケースもあり、中国の一国二政府の形態もあり得ないわけではありません。しかも、台湾は、政府の独立性を以って国家としての独立性を主張する国際法上の根拠を備えたことにもなりますし、将来的に中国が、「一つの中国」を根拠に台湾の共産化を図ろうとした場合にも、逆に、台湾側から中国の民主化を試みることもできます。もう一つの’政府’である台湾政府の民主化、並びに、自由化の呼びかけに応じる中国国民も少なくないかもしれません。

 第2の理由は、中国が「92年コンセンサス」を国際合意として主張することが、台湾に対する国家承認を含意することになることです。国際法にあっては、一先ずは、’他国と関係を取り結ぶ能力’を国家承認の要件の一つと見なしています。中国は、近年、台湾と国交のある諸国に対して積極的に断交を促すべく外交攻勢を仕掛けているものの、「92年コンセンサス」は、中国が自ら台湾の国際法主体性を認める行為に他ならないのです。

 近い将来、中国が台湾に軍事侵攻した場合、台湾関係法によりアメリカによる台湾支援が予測されますので、ウクライナ危機同様に第三次世界大戦に発展するリスクがあります。こうした台湾危機を未然に防ぐためにも、台湾の国際法における地位をより確かにする必要がありましょう。この点、「92年コンセンサス」は、むしろ、台湾が独立主権国家として地位を確立する上で有利に働く可能性があるのではないかと思うのです。

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