グローバル化の時代にあって、日本経済が衰退した主たる原因の一つとしてしばしば指摘されているのが、’ガラパゴス化’です。このガラパゴス化という言葉、否定的なニュアンスを含むのですが、行き過ぎたグローバリズムを前にしますと、必ずしも悪いとは言い切れないように思えます。
ガラパゴス現象とは、『種の起源』の著者として知られるチャールズ・ダーウィンが、調査のためにガラパゴス諸島を訪れた際の観察に因んで命名されています。大陸から900㎞離れた東太平洋上にある同諸島は、他の種と隔絶されてきたため、独自の生態系を発展させていたからです。独自性は強いのですが、その分、外部からより凶暴で繁殖力のある生物が上陸すると、あっと言う間に淘汰されてしまう運命が待ち受けているのです。
もっとも、ガラパゴス化は、ガラパゴス諸島といった小さな孤島に限った現象ではなく、比較的大きな島嶼においても観察することができます。例えば、日本列島の生態系にあっても、アメリカ大陸からブラックバスやブルーギル等が上陸したことにより、日本古来の淡水魚が危機に瀕する事態となりました。琵琶湖では、アユ、ビワマス、ホンモロコ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナ、ビワヒガイ等の淡水魚がブラックバスの餌食となり、その生息数は激減してしまったそうです。外来種による従来種の駆逐の事例は枚挙に遑はなく、‘強者生存’も、生物界の宿命のようにも思えてきます(‘適者生存’では、環境に変化がない場合における、外来種が従来種を淘汰するケースについては説明できない…)。かくしてガラパゴス諸島での観察と未来予測はテクノロジー等にも応用され、孤立状態において進化してき技術や製品の生存危機を表す用語として広く使われるようになったのです。
しかしながら、生存競争に優る’強者’が、必ずしも’良いもの’とは限りません。巨大魚のブラックバスは、フィッシングを趣味とする人々にとりましてはエキサイティングな釣りを味わえる’良いもの’ではあっても、他の多くの人々は、鮎や本諸子、鱒に鮒といった従来種や固有種を愛でるのではないでしょうか。食材としておいしさのみならず、絵に描かれたり、詩歌に詠われたり、季語として使われるなど、日本の文化や日本の食生活に溶け込んできたのですから。海外から日本を訪れる人々も、外来種しか生息していない日本の湖水など、面白くも何ともないことでしょう。文化や生活の豊かさや奥行きの深さ、そして、人々の繊細な感覚を呼び起こし、感受性を育む環境は、強者が弱者を無慈悲に駆逐してしまう状況下においては成立し得ないのです。
外来種が生態系に与えるマイナス影響は、やがて人々に危機感を齎すこととなり、政府もまた、従来種や固有種の保護に取り組むと共に、外来種の規制に乗り出すに至ります。今日では、外来生物法が制定され、生態系に悪影響を与える外来種の飼育、運搬、売買、放流、そして輸入が禁じられたのです。このことは、野生生物であれ、完全に国境を越えた移動を自由化すれば、人為的な介入によってしか、生態系は保護され得ないことを示しています。否、生物の多様性の保護のためには、ガラパゴス状態を保つ方が望ましいと言えましょう。
以上に生態系におけるガラパゴス問題を見てきましたが、生物の世界と経済の世界とを同列に論じることはできませんが、今日の経済のグローバル化、あるいは、デジタル化の行く先には、どこを見回しても凶暴性と繁殖力のあるブラックバスやブルーギルしか生息しない世界が待っているような予感がします。そして、強者による独占や寡占化の末、もはや進化の余地のない行き詰まり、あるいは、人類文明が退化しまうようにも感じられるのです。こうした停滞した未来が予測し得るからこそ、敢えてガラパゴス化を目指すという方向性もあって然るべきように思えます。それは、真の意味での多様性の尊重であり、独自に発展した別系統のテクノロジーや知の系譜があればこそ、人類は、隘路から脱出、あるいは、これを事前に回避することができるかもしれないのですから。
発足間もない岸田政権の経済政策におけるキーワードは、’成長’と’分配’なそうです。もっとも、18歳以下を対象とした10万円給付策などの具体的な政策を見ますと、’分配’への偏りがあり、’成長’を促す戦略が描かれていないとする指摘もあります。このままでは、再分配を主たる統治機能とする国家体制、即ち、社会・共産主義国家に向けて変質しかねないことから、成長戦略の欠如はとりわけ問題視されることとなったのです。
しかしながら、考えても見ますと、日本国のみならず、全世界を眺めましても、成長戦略はデジタル化の一択となっているように思えます。あるいは、デジタル化+脱炭素であるのかもしれません。何れにしましても、成長=デジタル化という構図が既に固定化されており、政府もマスメディアも、デジタル化、あるいは、DX(デジタルトランスフォーメーション)こそ経済成長をもたらす唯一の道として喧伝しているのです。この構図から抜け出すことは難しく、多くの人々の思考に、既定路線としてしっかりと刷り込まれてしまっていると言えましょう。
しかも、この構図は、政権に拘わらず、不変です。日本国内にありましても、安倍政権、菅政権、そして、岸田政権と推移してきましたが、何れの政権にあっても、デジタル化は成長戦略の要に位置づけられています。’デジタル化にあらずんば成長にあらず’の如きなのです。このことは、言い換えますと、成長戦略は存在しないのではなく、凡そデジタル化一つしかないのです。
しかしながら、現実を見ますと、デジタル化が経済成長をもたらしているのか、と申しますと、怪しい限りとなります。何故ならば、先ずもってここ数年来、急速にデジタル化は進みましたが、経済成長率がデジタル化率と正比例して上昇しているわけではないからです。長期経済停滞からの脱出するためにはデジタル化は必須とされながら、実際にデジタル技術が浸透しても、誰もが、デジタル化の恩恵を実感している状況とは程遠いのです。
それでは、何故、デジタル化は経済成長と結びつかないのでしょうか。デジタル技術とは、その本質において管理や手続きの合理化、あるいは、省力化の手段です。AIによって雇用が奪われるとする警戒論がありますが、この側面は、AIに限ったことではなく、IT全般にも言えましょう。経済成長の意味するところが、GDPの増加率を意味するとしますと、デジタル化は、むしろGDPの低下要因として働く可能性の方が高いのです。例えば、スマホ一台あれば、かつての電話、ラジオ、テレビ、カメラ、レコーダー、カセットデッキ、辞書…といった多種多様な機能が全て提供されるのですから、デジタル化は、製品の多様化の方向ではなく、単一化の方向に作用することとなりましょう。また、近未来像として、仮想空間におけるサービス事業が数十兆円規模の市場に成長するとする説もありますが、仮想空間において自らのアバターが活動したとしても、実体経済に実需をもたらすとも思えません。仮想空間においてアバターが何らかのサービスを受けるとしても、それは、’人’ではなく、あくまでもデジタル画像に過ぎないからです。やがて、人々は、自らは自室に閉じ籠り、外部的な活動は、すべてパソコン、あるいは、スマホ等のIT機器の操作によって仮想空間で行うようになり、それと反比例するかのように、現実空間においては多くの職業が消えてゆくかもしれません。仮想空間における将来的な事業規模の試算は、同事業の拡大によって淘汰されてしまう事業分野については計算に入れていないのです。
このように考えますと、経済成長=デジタル化の等式において経済戦略を定めるよりも、デジタル化、並びに、AI導入の促進によって発生が予想される失業や淘汰にどのように対応すべきか、という問題にこそ真剣に取り組むべきかもしれません。そしてそれは、’現実経済’の再活性化策ともなるのではないでしょうか。
今般、岸田内閣が発足するに際して提唱されたのが、’新しい資本主義’という政策方針です。’新しい’という形容詞は、従来には存在していないものに付されるのですが、この’新しい資本主義’という表現には、いささか戸惑いを感じざるを得ません。何故ならば、今日、’資本主義’という言葉自体がもはや死語になりつつあるからです。
この問題を考えるに当たっては、先ずもって’資本主義’とは何か、という言葉の定義から論じなければならないのですが、一般的には、共産主義に対する’反対語’として理解されてきた節があります。このため、’新しい資本主義’とは共産主義ではないか、という穿った見方も生じるのですが、歴史を振り返りますと、産業革命を背景とした’資本家’による労働者搾取の問題が共産主義を生み出していますので、一般的な理解とは逆に、実のところは共産主義が’資本主義’の対抗思想なのでしょう。否、マルクスこそ、自らの理論を正当化し、’敵’を明確化するために、’資本主義’という概念を造り出したと言っても過言ではないかもしれません。
この流れからしますと、共産主義が登場する以前にありましては、通商政策や金融政策、あるいは、農業政策などの方針に違いがあったとしても、国家体制と結びつく形での〇〇主義というものは存在していなかったのかもしれません。経済は経済であって、とりたてて体制としての区別があったわけです。しかしながら、共産主義の登場は、世界を凡そ資本主義と共産主義の二つに分断してしまいました。そして、共産主義国家である中国までもが経済にあって同主義を放棄している今日、資本主義の意味するところはいよいよもって曖昧となり、掴みどころがなくなっているのです。
それでは、資本主義とは、経済史において何らの特筆すべき特徴もなければ、意味もなさないのでしょうか。資本主義が漠然とした経済というものの中に融解してしまいますと、今日の経済が抱えている問題点も理解し難くなります。そこで、仮に、資本主義を共産主義から切り離して定義するとすれば、’資本’という言葉を含む以上、資本家牽引型、金融牽引型、あるいは、株主至上主義の経済としてその特徴を描くことができるかもしれません。
歴史的に見ますと、経済が資本家や金融に牽引されるようになるのは、17世紀以降であり、それは、オランダ東インド会社に始まるとされる株式会社、否、証券の登場と無縁ではないように思えます。証券の登場により、株主は、単なる債権者や融資者に留まらず、企業に対する株主の権利を有するようになったからです。この結果、いつの間にか、企業は株主の所有物となり、売買の客体として扱われると共に、最悪の場合には、配当という名で’搾取’される立場となりました。今日、M&Aが盛んとなり、敵対的買収や売買益を見込んだファンドによる買収が頻繁に見られるのも、株主の権利が重すぎることによります。グローバルな時代では、表看板は自国企業であっても、その実験は海外の株主に握られていることは珍しくはないのです(政治家も、海外資本に’買収’されているケースも…)。この傾向は、グローバル化と共にさらに強化され、直接金融を担う銀行に対しても、BIS規制により、貸出量を預金ではなく自己資本を基準とする方向に転じました。そして、メディアもまた、企業に対して、株式配当率を上げることこそ資金集めと成長のカギとなると説き、株主優先主義の宣伝に努めているのです。
もっとも、こうした株主至上主義に対しては、格差の拡大や’隠れた植民地化’のリスク等から漸く批判的な意見が出現するようになり、2019年のアメリカの経営者団体、ビジネス・ラウンドテーブルに続き、翌2020年には、かの悪名高きダボス会議でさえ、資本主義の見直しを提起することとなりました。株主の利益を最優先する企業経営から、従業員、取引先、地域社会といった他のステークホルダーの利益をも考慮するものへと…。もっとも、これらの提言は経営者視点ですので自ずと限界はあるのでしょうが(もしかしますと、企業側の資本家、あるいは、金融勢力からの‘独立宣言’なのかもしれない…)、少なくとも、株主が様々なステークホルダーのうちの一つに過ぎなくなるのであれば、‘資本主義’という表現は最早相応しくはなくなります。
このように考えますと、’資本主義’の先は’新しい資本主義’ではなく、別の表現であるべきとなりましょう。古いものに’新しい’という言葉を添えても、決して’新しく’はならないのですから。
この結果、今日、所得格差の問題は、与野党を越えた共通認識に至っています。発足間もない岸田内閣も’新しい資本主義’の名の下で労働分配率の向上を訴えていますし、立憲民主党もまた、’一億総中流復活’を掲げて来る衆議院選挙を闘うと報じられています。いわば、新自由主義からの脱却と格差の是正は、左右何れの政党にあっても、国民に対する最大のアピール要因となっているのです。
しかしながら、ここで注意を要するのは、70年代と今日とでは、時代状況が著しく違っている点です。高度成長期の日本国とは、旧通産省が主導した輸出牽引型の経済が日本国全体を潤す好循環が続いた時期に当たります。この時代、安価で高品質な日本製品は凡そ全世界の市場を席巻し、かのエズラ・フォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称したように、’向かうところ敵なし’の状況にありました。官主導の輸出産業の育成⇒円安政策⇒輸出拡大⇒貿易黒字の積み上げ⇒国内マネー供給量の増加⇒民間企業の収益+国民所得の上昇⇒消費+投資の拡大⇒ハイテク分野等の開拓⇒技術力の向上⇒新製品の開発⇒輸出の拡大…というように、国民皆が富む理想的な好循環が実現した時代とも言えましょう。
しかしながら、日本経済が栄華を極めた時代は1985年のプラザ合意とその後に続くバブル崩壊によって終焉を迎え、先述したように’一億総中流’も、グローバリズムとマッチした新自由主義に道を譲り、格差容認へと転換してゆきます。そして、今日、再び一億総中流が叫ばれているのですが、上述したメカニズムが働く条件が揃っているとは思えません。何と申しましても、グローバリズムが押し寄せているからです。日本経済の敗因は、グローバリズムの波に乗り遅れたからなのではなく、グローバリズムは、日本国民を豊かにしたメカニズムを根底から揺さぶり、ゲーム・チェンジが起きたからなのでしょう。
少なくとも、今日の日本国には70年代のような輸出競争力は備わっていませんし(円相場も遥かに円高に振れている…)、’世界の工場’の椅子には中国が座ったままです。日本企業の多くも生産拠点を海外に移しておりますし、米中の巨大グローバル企業と比較すれば、日本の大企業でさえ中小企業となります。即ち、国内生産と輸出を原動力とする好循環は、働きがたく、国内消費が拡大したとしても、逆に輸入が増加するかもしれません。条件や状況が等しくないのですから、当然に、今日にあって’一億総中流’を唱えたとしても、それは、70年代の引き写しではないはずです。それでは、どのようにしたら’一億総中流’は実現するのでしょうか。
中国でも、習国家主席が示した「共同富裕」という新たな政策目標に対して”共同貧困”ではないかとする指摘もありますが、日本国もまた、政策次第では’一億総下流’となるかもしれません(あるいは、’一億総中華化’?もしくは徹底した平等化の果ての全体主義化?)。岸田政権下がアピールしている’成長と分配の好循環’も、成長なき単なる所得移転政策、あるいば、再分配政策に終わる可能性もありましょう(ばらまき政策…)。また、民間企業の労働分配率を上げたとしても、成長産業とされる分野においてIT大手が日本国内にプラットフォームを敷き、凡そ独占・寡占状態で有利にビジネスを展開している現状では、成長戦略の一環としてデジタル化やIT化を進めれば進める程、日本国からの富の流出は増加の一途を辿る未来も予測されます(日本企業の国内シェアが低下し、企業収益も減少すれば、労働分配率を上げても国民は豊かにはなれない…)。
内外を問わず、政治家は、兎角に’新しい〇〇主義’、あるいは、’〇〇ノミクス’という言葉を使う傾向にありますが、手を変え品を変えているだけで、本質的なメカニズムの部分は何も変わっていないように思えます。このように考えますと、’一億総中流、即ち、健全な良識を備えた厚い中間層の再形成’を目指すならば、あらゆる国境障壁を完全に取り除き、全世界を’総デジタル社会化’へと方向づける資本家牽引型のグローバリズムの見直しは不可避なのではないでしょうか。そしてそれは、70年代とも違い、国境の調整機能をも備えた国民還元型のメカニズムとなるのではないかと思うのです。
今日、多くの人々は、グローバリズムは自由貿易主義の延長線上にある、あるいは、前者は後者の拡大版であると考えているようです。実際に、両者を明確に区別する政治家は少なく、二国間、あるいは、多国間で自由貿易協定や経済協力協定などの通商協定を締結するに際しても、古典的な自由貿易論を以って相互利益を国民に説いています。しかしながら、両者は、似て非なるものなのではないかと思うのです。
EUなどを見ましても、1957年のEEC設立以来、‘財’、‘サービス’、‘資本(マネー)’、‘人(労働力)’といった移動要素は同列に扱われており、この表現からしますと、主として貿易を意味する‘財’と他の3つの要素との間に然したる違いは見受けません。貿易に際して各国が設けている関税が撤廃されますと、‘財’が国境を越えて自由に移動するようになりますので、人々は、自由貿易=関税障壁の撤廃とするイメージを持つようになります。そして、このイメージから類推して、グローバリズム=非関税障壁の撤廃と見なすようになるのです。言い換えますと、同構図により、財と他の3つの要素の自由化における質的な違いが見え辛くなったと言えるでしょう。
しかしながら、’自由移動’という言葉の魔力に惑わされがちなのですが、移動には、それを決定する’主体’というものが存在しているはずです。財の移動、即ち、貿易の場合には、売買、即ち、交換を行う双方が決定者となります。つまり、双方の経済圏における相対的希少性に基づく価値の違いにより相互利益を生み出すのが貿易のメカニズムですので、輸出入取引を行う双方の事業者の意思の一致がない限り、貿易は成立しないのです(もっとも、輸出入のバランスが保てないと貿易収支の不均衡問題が生じ、貿易の継続が困難となる…)。相互利益が最も確かなのは、相互に自国の’特産品’を輸出品とするパターンですが、経済格差が存在する場合には、相対的に低価格となる産品(リカード流に言えば、生産性において比較優位性のある商品…)が輸出品となります。何れにしても、関税撤廃を意味する自由貿易主義は、基本的には、’交換’の概念で説明されましょう。
その一方で、’サービス’、’投資(マネー)’、’人(労働力)’に関する非関税障壁の撤廃につきましては、別の作用が強く働くように思えます。何故ならば、これらは’モノ’ではなく、意思決定能力を有する主体の自由移動ですので、海外企業、海外資本、並びに、外国人労働者などが、国境という障壁なく国内に流入し、内部化されることとなるからです。この場合、市場の競争メカニズムにあっては、規模の経済が優位に働きますので、国内に競争力を有する企業が存在しない場合には、米中等のIT大手をはじめとしたグローバル大企業が国内市場にあって有利なポジションを占めることでしょう。その決定権は、もちろん、日本市場を含むグローバル市場で事業を展開している海外企業側にあります。投資につきましても、自国企業への融資のみならず、株式保有等を介して自国企業の経営にも影響を与えます。海外投資ファンドが、キャピタルゲインの獲得を目的に自国企業を買収したり、国内不動産を買い漁るケースもあり得ます。加えて、海外労働力の移入は、グローバル企業を含む国内の雇用主と海外被雇用者との契約に基づきますので、他の国民の意思は全く考慮されないのです。
サービス、資本(マネー)、人(労働者)などの自由移動を前提としたグローバル化とは、国境を隔てた主体間のモノの’交換’の論理ではなく、全世界を対象に利益の最大化と拠点の最適化を目指すグローバル戦略の論理によって説明されます。そして、この国家レベルの市場開放による多様な要素の流動化は、グローバルレベルでの意思決定が国内に及ぶことを意味しており、それは、その国の政府や国民の合意を最早要さないのです。国家にとりまして、同状態は、超国家権力体による’現代の植民地化’、あるいは、’属国化’のリスクともなり得ましょう。今日、自由貿易主義とグローバリズムの違いを明確化することは、同時に、グローバリズムのリスクの認識をも意味するのではないかと思うのです。
先日、6月13日の日経新聞の朝刊一面に「ファンド日本参入迅速に」というタイトルの記事が掲載されておりました。どのような内容の記事かと申しますと、日本国の金融庁が、海外にあって既に実績のある海外のファンドに対しては、財務状況等の厳しい審査や手続きを撤廃するというものです。その目的は、’成長資金や金融人材の獲得を巡る激しい競争の中で、日本も国際金融センターの実現を目指す’ことにあります。
実を申しますと、このフレーズ、随分と前からしばしば耳にし、既に使い古されてしまった感もあります。日本国政府が、自国の金融市場を開放する、あるいは、外資誘致政策を実施する度に、’日本も国際金融センターに’という理由がもっともらしく付されてきたからです。しかしながら、現実に目を向けますと、国際金融センター化は永遠に叫び続けられている空虚な掛け声に過ぎないように思えてきます。
民主党政権の時代から菅直人首相の下で日本国は’第二の開国’と称し、国内市場の開放政策を積極的に推進してきました。この方針はアベノミクスにも引き継がれ、海外から資金を呼び込むことを以って、日本経済のバブル崩壊以来の長期低迷から脱出策としようとしたのです。そして今日も、新自由主義の強い影響もあって’海外ファンドウェルカム’の姿勢は強まるばかりであり、今般の海外ファンドに対する優遇策もその延長線上において理解されましょう。かくして、海外ファンドは、日本国政府が率先して丁重に’おもてなし’をすべきお客様となったのですが、果たして海外ファンドの呼び込みは、日本国に国際金融センターの地位をもたらすと共に、経済にとりまして成長要因となるのでしょうか。
そもそも、ロンドンやニューヨークが国際金融センターの地位を獲得したのは、英ポンドや米ドルが国際基軸通貨として貿易決済に使用されていたからに他なりません。同条件からしますと、かつての輸出大国ぶりは影を潜め、黒字幅も縮小傾向にある日本国が、今後、自国通貨の円を以って国際金融センターの地位を確立し得るとは思えません。現実には、国際金融センターではなく、’国際金融サテライト’、即ち、国際金融勢力がその資金を運用並びに調達すると共に、自らのグローバル戦略に基づいて日本企業や日本国内のマネー・フローをコントロールする拠点として機能する可能性の方が余程に高いのではないかと思うのです。
とりわけ、日本経済の復活などは海外ファンドの眼中にあるはずもなく、その目的は、事業のグローバル展開における収益の最大化です。当然に、日本国内に投資するとは申しましても、資金力にモノを言わせる、あるいは、自らが流行らせた’選択と集中’によって日本企業が手放した事業部門を買収し、グローバルレベルで事業再編を図ることにあるのかもしれません。つまり、日本企業、あるいは、その一部事業を買収した後、それを中国企業等他のアジア諸国の企業に売却する可能性も否定はできないのです。また、東芝が海外ファンドなどの’物言う株主’によって翻弄されているように、海外ファンドが大株主となった日本企業の多くは、海外株主からの経営介入に苦慮することともなりましょう。そして、その介入方針が日本経済にプラスに作用するとは思えないのです。巨大ファンドによる事業買収は、今日、国際レベルにおける’新たな集中’、即ち、経済支配の問題をも提起しているのかもしれません。
果たして海外ファンドは、優遇措置を与えるに相応しい日本経済の’救世主’なのでしょうか。既にグローバリズムは曲がり角を迎え、どの国も地域も守勢に転じてきております。このように考えますと、日本国政府は、海外ファンドへの優遇一辺倒の方針につきましては見直すべきではないかと思うのです。
グローバリズムでは、企業規模であれ、市場規模であれ、規模に優る側が圧倒的に有利となります。スケールメリットが強く働く限り、中小規模の企業は淘汰されるか、規模の大きな側に買収されて消え去る運命が待ち構えているのです。グローバリズムにおける主要な勝因は‘規模’ということになるのですが、この側面からしますと、ロジカルに考えれば日本と中国との間の互恵関係はあり得ないという結論に達せざるを得ないのです。
日本国と中国とを比較しますと、市場規模において凡そ10倍程の差があります。人口14億人を擁する中国にあっては、生産量、消費量、労働人口、貿易額など、あらゆる数値において日本国を上回ります。グローバル時代ともなれば、モノ、サービス、労働力、資本などが国境を越えて自由に移動できますので、自国の国内市場を基盤として政府主導でグローバル企業を育てた中国は、市場規模をさらに広げることができるのです。
また、広大な領土を有する中国は、レアアースなどの鉱物資源にも恵まれていますし、面積の広さは、インフラ事業等においてもスケールメリットを追求することができることを意味します。例えば、高速鉄道の事業にしても、中国企業は、自国内における高速鉄道網建設プロジェクトに際して構築した大量生産体制を以って、海外諸国に対しても安価に輸出することができます。工業生産品のみならず、中国は、インフラ事業においても強がみを持つのです。
以上に簡単に述べたように、グローバル時代にあって、中国は、その自然条件からして圧倒的に有利な立場にあります。市場規模において中国に匹敵するのは、人口が同国と同程度の14億人に迫るインドぐらいしかないかもしれません。言い換えますと、グローバル時代にあって、日本国は、中国に対して勝ち目はなく、‘互恵関係’が成立するとすれば、それは、決して両国対等なものではなく、中国中心の‘グローバル経済圏’において日本国に対して一定の下請け的な分業が割り当てられた状況を意味するのでしょう(たとえ、画期的な技術を日本国のスタートアップなどが開発しても、資金力に優る中国企業に買収されてしまう…)。おそらく、中国側の構想としては、国際分業における日本国の役割とは、中国人向け観光地、高級農産物の生産地、並びに、ハイテク製品の素材提供地(もっとも、中国が内製化できるまでの間…)なのかもしれません。実際に、日本国政府も、この方向に向けて動いているように見えます(インバウンド歓迎、農産物の輸出拡大政策、並びに、プランテーション化を想定した?移民労働者の受け入れ拡大…)。
規模を軸にグローバリズムの行く先を予測しますと、日本国の将来は暗いとしか言いようがないのですが、こうした悲観的な予測に対しては、中国が自国市場を完全に開放し、中国企業と他国の企業との間に競争条件を等しくすれば問題はない、とする反論も返ってくるかもしれません。しかしながら、中国は、今日、最先端のITを用いて徹底した国民監視体制を敷いていますので、一党独裁体制の崩壊はますます見込みが薄くなっています。また、イデオロギーにあって政経が一致していますので、中国共産党が、経済に関する権限、否、利権を放棄するはずもありません。しかも、中国の技術力に裏打ちされた経済力は軍事力と直結しているのですから、日本国は、軍事的な脅威にも直面することとなりましょう。つまり、グローバリズムを推進すればするほど、権力と富は共産党、並びに、中国に出資している国際金融組織に集中し、‘暴力とテクノロジーとマネー’によって同体制が強化されてしまうのです。
言い換えますと、‘日本国は経済分野にあっては中国との結びつきを強化すべき’と唱えている親中派の人々は、‘中国は変わらない’が現実であれば、日本国に対して、自滅に向けてアクセルを踏むように勧めているようなものです(もっとも、中国から特別に‘分け前’をもらっている少数の人々や企業にとりましては、‘私的な互恵’が成りたつ…)。日本国の未来は中国と結託したグローバリズムの先にはなく、むしろ、中国とのデカップリングを含む保護主義的な方向への転換こそ模索すべきではないかと思うのです。
古来、人々は、凡そメンバーの全員が価値あるものとして認める‘モノ’を、交換に際する価値判断基準=貨幣として使用してきました。そもそも他者との交換を要しない自給自足の生活や物々交換で事足りるような小規模な村落であれば、貨幣は必要とはされません。しかし、人間社会が発展するにつけ、価値判断基準が必要とされるようになり、古代にあっては、希少金属の金や銀(金や銀の重さ)、特別な石やタカラガイなどの自然界で採取し得る‘モノ’も使われてきたのですが、最も多く貨幣として使われてきたのは、金、銀、銅などから鋳造される貨幣です。このように、人類は長きにわたり鋳造貨幣をコインとして使用してきたことから、紙幣が登場してきた後にも、金本位制や銀本位制といった金銀を担保とした紙幣制度も登場してきたのです。しかしながら、もとをただせば、貨幣とは、価値として共通して認められる‘モノ’、あるいは、信用に足りる対象であれば、何でもよかったのです。
何故、今になって、貨幣の起源まで議論を掘り下げなければならないのかと申しますと、新政権において実施が取りざたされている二度目の給付金の配布や消費税率引き下げ論等も、実のところ、貨幣の本質に迫らない限り、莫大な国民負担になりかねないからです。新型コロナウイルスの発生により、今年の4月には一律10万円を給付する「特別定額給付金(約12.5兆円)」を含む凡そ25.5兆円の第一次補正予算が成立し、6月には、補正予算としては過去最高となる31兆9114億円の追加歳出が決定されました。第二次補正予算には、第一次補正予算と合わせますと一般会計総額は60兆円ほどとなり、日本国のGDPの4割に上るそうです。
これらの予算に必要となる費用は、建設国債と赤字国債によって賄われますので、当然に、日本国の財政状況は悪化します。公債の残高は増加傾向に歯止めがかからず、現状にあって、既に900兆円に迫っています。従来の財務省の財政再建優先の立場からしますと、新型コロナ対策によりさらに赤字が積み増すのですから、将来的には大幅な増税が予測されます。コロナ以前の昨年11月、IMFのゲオルギエバ専務理事が訪日した際に、2030年までには消費税率15%、2050年までには20%への引き上げを提言していますので、今後は、消費税率上げに向けた‘外圧’もさらに強まることでしょう。国民各自が10万円の給付を受けても、その分、将来において納税という形で‘返済’することになるのですから(利払いもありますので、‘返済’が済んでも税率は引き下げにはならないかもしれない…)、同政策は、朝三暮四とも言えるかもしれません。
財政をゼロ・サム関係として理解しますと、現在の赤字は、将来の増税で埋め合わされることとなります。菅首相は、ここ10年間は消費税率を据え置くと述べていますが、裏を返しますと、IMFの提言に従い、2030年には突然に15%に上げる方針を示しているのかもしれません。何れにしましても、ゼロ・サム発想では増税は避けられず、国民も戦々恐々とした面持ちとなりましょう。所得水準が低下する中での重税ともなれば、生活水準も落とさざるを得なくなりますし、消費の低迷による景気のさらなる悪化も予測されます。失業率も上昇することでしょう。
しかし、貨幣の起源、あるいは、貨幣の中心的な役割を、個々の提供物がモノであれ、サービスであれ、人々の間の交換に必要となる共通価値基準の提供として捉えますと、政府は、金や債券といった何らかの準備や税収に縛られることなく、歳出を行うことができるようになります。つまり、通貨発行権を行使し、国家の統治機能を含めた経済・社会全体の交換の量=活動に見合った通貨を供給できることになるのです。このことは、通貨におけるゼロ・サム発想からの離脱を意味すると共に、通貨供給量は、人々が必要とする統治機能を含むあらゆる活動に比例することを意味します。
そもそも、金銀といった自然界の埋蔵する共通価値基準は、埋蔵量という制約あり、経済成長に限界を与えます。この制約的側面は、金を本位とする兌換紙幣制度においても変わりはありません。また、最初の所有者は金鉱のマイニングによって決まりますので、政府発行の通貨よりも公平でもなければ(この点、ビットコインも同じ…)、正当性において優っているわけでもないのです。紙幣を詐欺的として害悪視する見解もありますが、こうした考えに基づけば、政府の赤字国債の残高は、国民に必要となる通貨を供給したに過ぎず、返済義務を要する‘債務’ではなくなるのです。すなわち、増税する必要はなくなるのです。この見解は、資本主義の問題とも不可分に関連するのですが、増税の議論も起きている折、貨幣の根源を確認いたしませんと、莫大な債務によって経済が押し潰され、国家自体が崩壊するという愚を繰り返すことになるのではないかと危惧するのです。
小さな政府とは、政府の事業範囲が狭く、財政規模の小さなコンパクトな政府もモデルとして理解されています。政策としては、公益事業の民営化とセットとされており、グローバリズム、並びに、新自由主義の同伴者でもあります。郵政民営化を進めたかつての小泉政権を初め、民営化を叫んだ政治家の人々は‘官から民へ’をスローガンとして掲げ、あたかも、民間企業が伸び伸びとと活動する自由な経済の到来というイメージを振りまいてきたのです。
しかしながら、よく現実を観察してみますと、小さな政府論には、パラドックスがあるように思えます。その理由は、民営化によってもたらされた結果とは、公共サービス分野における大手企業による独占や寡占でしかなかったからです。多くの人々が民営化に対して寄せていた期待とは、公共事業分野が民間事業者に広く開放されることで、多くの企業が同市場に参入し、そこでは公平なルールの下で自由な競争が行われ、利用者が、安価で良質のサービスを受けられる状態であったはずです。実際に、民営化の根拠として強調されたのは、硬直化した公共事業分野に民間の競争メカニズムを導入することで、国民の利益や利便性の向上に資することでした。民営化による最大の受益者は、自由競争の果実を享受し得る国民とされたのです。
ところが、いざ、蓋を開けてみますと、期待とは裏腹に、ソフトバンクグループの孫正義氏のように、‘政商’とも称される、政府と癒着するIT起業家も現れるようになりました(LINEなどのIT大手も、常々、公的事業に入り込もうとする…)。確かに、事業主が国や自治体から民間企業が代わったものの、それは、公平で自由な競争の結果ではなく、むしろ、資金力において優位にあり、かつ、政府に取り入った一部事業者による事業の独占や寡占であったのです(分割後に民営化された事業体は別として…)。それもそのはず、公共事業分野とは、もとより事業の性質上、極めて公共性の高く(その多くはインフラ事業…)、自由競争が働かない分野であるからです。公共サービス分野については、その殆どは独占禁止法の適用除外の対象です。
ここに、小さな政府のパラドックスが自ずと明らかになります。それは、小さな政府政策、即ち、民営化を推進すればするほど、国レベルであれ、地方自治体レベルであれ、政府の許認可権を含む利権や監督権限が肥大化するというパラドックスです。財政規模を基準として分類しますと、小さな政府は、確かに予算規模の‘小さな政府’なのですが、民営化した公共サービス分野における利権や監督権限を含めれば、‘大きな政府’と言わざるを得ません。小さな政府の結果として現れた経済は、それが一部であれ、法の支配に基づくルール型の経済ではなく、むしろ、政府が介在する配分型の経済なのです。
しかも、アメリカではGAFAが積極的に政府や政治家に対してロビー活動を展開しているように、IT大手の資金力や人脈は、政府の政策をも方向付ける力を有します。かくして、様々な事業上の権利を付与する側にある政府(政治家や官僚)は、民間事業者から賄賂攻勢を受けやすい立場となり、腐敗しやすい体質を抱え込むこととなるのです。この側面は、改革開放路線によって、一党独裁の下で権力を独占する共産党幹部が、利権配分によって大富豪となった中国とも共通しています。そして、民営化とは、得てして海外企業への自国市場開放を伴いますので、政府は、中国企業をも含む海外企業からの働きかけをも受けることになりましょう。
小さな政府とは、その実、大きな政府であったというパラドックスは、今後、改めて官民の線引き問題を考えてゆく必要性を示唆しております。そして、小さな政府の実像が、政府と政商企業との癒着体制、即ち、悪しき‘マネー支配’を意味するとしますと、それは、民主主義にとりましても脅威となるのではないかと思うのです。
日本国の財政は、戦後、長らく‘優等生’と評されていた歴史があります。財政赤字とそれに伴うインフレに悩まされてきた諸外国と比較しますと、歳出入のバランスがとれており、財政赤字も採るに足りない程度でした。それが1990年のバブル崩壊を境に一変し、今では世界最大の財政赤字国に一気に転落することとなったのです。今般のコロナ対策費に充てるための国債発行が加われば、近々、その残高は1000兆円を超えることでしょう。
バブル崩壊の過程における日本国の財政赤字の急激な膨張の原因は、その‘補填的’な性格にあります。財政赤字の補填という意味ではなく、バブル崩壊に伴う日本経済の損失補填(経済補填?)と表現した方がよいかもしれません。当時の日本国政府は、拓銀、長銀、日債銀、山一證券等の倒産は許したものの、総額200兆円ともされる大量の不良債権を抱え込んだ金融機関に対して、積極的な資本投入を試みます。ケインズ主義的な政府による有効需要の創出、即ち、公共事業への積極的な財政支出に加え、金融救済に多額の予算をつぎ込んでおり、これらが日本国の財政赤字を急速に膨張させたのです(バブル崩壊後の財政赤字のバブル化?)。
しかしながら、この手法、底なし沼にはまるようなものであったようです。バブルにおける損失額は1500兆円にも達したとする説もありますが、金融や企業から家計に至るまでの全般的な損失に対して、政府の赤字国債発行によって賄う方法には限界があります。そもそも、巨額となる政府支出を国民や企業から徴収する税収では賄えるはずもなく、経済ショック後のリセッションにあっての大幅な増税は致命傷ともなりかねません。となりますと、政府が赤字国債を大量に発行して資金を調達するか、もしくは、中央銀行が‘最後の貸し手’としの役割を果たす、あるいは、買いオペを増額して量的緩和策を実施することとなるのですが、日本国政府は財政的手法を選択し、国債の大量発行を以って危機を乗り越えようとしたのです。
この結果、今日、日本国政府は、財政健全化を理由に消費税率を上げるに至ったのですが、10%上げによる歳入増加分が他の目的で使用され、かつ、今般のコロナ対策での歳出分が加わるとしますと、近い将来、国民には増税ラッシュが待ち構えているかもしれません。IMFも消費税率を20%程度まで上げるように提言しております。コロナ対策にあって日本国政府は、バブル崩壊後の手法を基本的には踏襲していますので、今後、増税不可避論が高まりかねないのです。
そして、この問題は、日本国のみならず、コロナ対策として経済補填政策を実施した全ての諸国が抱える問題でもあります。欧米諸国の中には、政府による補填の対象が、全額とまではいかないものの、個人や事業者に対してコロナ禍による収益や賃金の減少分にまで及んでいますので、その総額は膨大です。因みに、EUでは、新たな基金を設立してコロナ共通債を発行し、将来的にデジタル課税や環境税等の共通税を以って同債権の償還費に充てるとする構想が議論されています。同構想では、最終的な負担者はグローバルに事業を展開するIT大手や大企業等となりますので、一般のEU市民としましては賛同しやすい構想なのでしょうが、それでも、EUが、巨額の財政赤字を抱え込むことには変わりはありません(発行額が大きいほど、信用不安から公債の利率を上げざるを得ず、利払いが増えるかもしれない…)。
このように考えますと、経済ショックに対して財政的な手法、つまり、‘国債の発行による財源の確保と増税による償還’という方法を用いることには、相当の無理があるように思えます。とりわけ、今般のコロナ禍のように、経済活動をストップしなければならず、かつ、停止状態が長引くことにでもなれば、財政破綻は目に見えています。あるいは、日本国のように、一度のバブル崩壊により、その後、長期にわたり財政問題に悩まされることとなりましょう。となりますと、別の手法を考案しなければならないのですが、それは、案外、旧来の手法への回帰かもしれません。つまり、政府紙幣の発行とはでいかないまでも、政府発行が無利子で発行した国債を中央銀行が直接引き受けるのです(長期的には、政府紙幣の発行を含め、新たなシステムが必要なのかもしれない…)。
いわば、‘なかったことにする’方法となるのですが、この方法ですと、政府は、国債発行に伴う償還や利払いの義務を負いませんので、当然に、国民は、間接的な‘借金返済の義務’から逃れることができます。つまり、増税圧力に晒されなくても済むのです。いささか‘開き直った’ような案なのですが(国民の共通財源としての通貨発行益を認める…)、中央銀行引き受けを前提とした方が、国民の多くは、今般の大規模な財政出動に対しても余程安心していられるのではないでしょうか。