万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日中互恵関係は幻想では?

2020-10-13 11:44:37 | 国際経済

 グローバリズムでは、企業規模であれ、市場規模であれ、規模に優る側が圧倒的に有利となります。スケールメリットが強く働く限り、中小規模の企業は淘汰されるか、規模の大きな側に買収されて消え去る運命が待ち構えているのです。グローバリズムにおける主要な勝因は‘規模’ということになるのですが、この側面からしますと、ロジカルに考えれば日本と中国との間の互恵関係はあり得ないという結論に達せざるを得ないのです。

 

 日本国と中国とを比較しますと、市場規模において凡そ10倍程の差があります。人口14億人を擁する中国にあっては、生産量、消費量、労働人口、貿易額など、あらゆる数値において日本国を上回ります。グローバル時代ともなれば、モノ、サービス、労働力、資本などが国境を越えて自由に移動できますので、自国の国内市場を基盤として政府主導でグローバル企業を育てた中国は、市場規模をさらに広げることができるのです。

 

また、広大な領土を有する中国は、レアアースなどの鉱物資源にも恵まれていますし、面積の広さは、インフラ事業等においてもスケールメリットを追求することができることを意味します。例えば、高速鉄道の事業にしても、中国企業は、自国内における高速鉄道網建設プロジェクトに際して構築した大量生産体制を以って、海外諸国に対しても安価に輸出することができます。工業生産品のみならず、中国は、インフラ事業においても強がみを持つのです。

 

以上に簡単に述べたように、グローバル時代にあって、中国は、その自然条件からして圧倒的に有利な立場にあります。市場規模において中国に匹敵するのは、人口が同国と同程度の14億人に迫るインドぐらいしかないかもしれません。言い換えますと、グローバル時代にあって、日本国は、中国に対して勝ち目はなく、‘互恵関係’が成立するとすれば、それは、決して両国対等なものではなく、中国中心の‘グローバル経済圏’において日本国に対して一定の下請け的な分業が割り当てられた状況を意味するのでしょう(たとえ、画期的な技術を日本国のスタートアップなどが開発しても、資金力に優る中国企業に買収されてしまう…)。おそらく、中国側の構想としては、国際分業における日本国の役割とは、中国人向け観光地、高級農産物の生産地、並びに、ハイテク製品の素材提供地(もっとも、中国が内製化できるまでの間…)なのかもしれません。実際に、日本国政府も、この方向に向けて動いているように見えます(インバウンド歓迎、農産物の輸出拡大政策、並びに、プランテーション化を想定した?移民労働者の受け入れ拡大…)。

 

規模を軸にグローバリズムの行く先を予測しますと、日本国の将来は暗いとしか言いようがないのですが、こうした悲観的な予測に対しては、中国が自国市場を完全に開放し、中国企業と他国の企業との間に競争条件を等しくすれば問題はない、とする反論も返ってくるかもしれません。しかしながら、中国は、今日、最先端のITを用いて徹底した国民監視体制を敷いていますので、一党独裁体制の崩壊はますます見込みが薄くなっています。また、イデオロギーにあって政経が一致していますので、中国共産党が、経済に関する権限、否、利権を放棄するはずもありません。しかも、中国の技術力に裏打ちされた経済力は軍事力と直結しているのですから、日本国は、軍事的な脅威にも直面することとなりましょう。つまり、グローバリズムを推進すればするほど、権力と富は共産党、並びに、中国に出資している国際金融組織に集中し、‘暴力とテクノロジーとマネー’によって同体制が強化されてしまうのです。

 

言い換えますと、‘日本国は経済分野にあっては中国との結びつきを強化すべき’と唱えている親中派の人々は、‘中国は変わらない’が現実であれば、日本国に対して、自滅に向けてアクセルを踏むように勧めているようなものです(もっとも、中国から特別に‘分け前’をもらっている少数の人々や企業にとりましては、‘私的な互恵’が成りたつ…)。日本国の未来は中国と結託したグローバリズムの先にはなく、むしろ、中国とのデカップリングを含む保護主義的な方向への転換こそ模索すべきではないかと思うのです。

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給付金も減税も通貨発行権の問題

2020-10-01 12:23:57 | 国際経済

 古来、人々は、凡そメンバーの全員が価値あるものとして認める‘モノ’を、交換に際する価値判断基準=貨幣として使用してきました。そもそも他者との交換を要しない自給自足の生活や物々交換で事足りるような小規模な村落であれば、貨幣は必要とはされません。しかし、人間社会が発展するにつけ、価値判断基準が必要とされるようになり、古代にあっては、希少金属の金や銀(金や銀の重さ)、特別な石やタカラガイなどの自然界で採取し得る‘モノ’も使われてきたのですが、最も多く貨幣として使われてきたのは、金、銀、銅などから鋳造される貨幣です。このように、人類は長きにわたり鋳造貨幣をコインとして使用してきたことから、紙幣が登場してきた後にも、金本位制や銀本位制といった金銀を担保とした紙幣制度も登場してきたのです。しかしながら、もとをただせば、貨幣とは、価値として共通して認められる‘モノ’、あるいは、信用に足りる対象であれば、何でもよかったのです。

 

 何故、今になって、貨幣の起源まで議論を掘り下げなければならないのかと申しますと、新政権において実施が取りざたされている二度目の給付金の配布や消費税率引き下げ論等も、実のところ、貨幣の本質に迫らない限り、莫大な国民負担になりかねないからです。新型コロナウイルスの発生により、今年の4月には一律10万円を給付する「特別定額給付金(約12.5兆円)」を含む凡そ25.5兆円の第一次補正予算が成立し、6月には、補正予算としては過去最高となる31兆9114億円の追加歳出が決定されました。第二次補正予算には、第一次補正予算と合わせますと一般会計総額は60兆円ほどとなり、日本国のGDPの4割に上るそうです。

 

 これらの予算に必要となる費用は、建設国債と赤字国債によって賄われますので、当然に、日本国の財政状況は悪化します。公債の残高は増加傾向に歯止めがかからず、現状にあって、既に900兆円に迫っています。従来の財務省の財政再建優先の立場からしますと、新型コロナ対策によりさらに赤字が積み増すのですから、将来的には大幅な増税が予測されます。コロナ以前の昨年11月、IMFのゲオルギエバ専務理事が訪日した際に、2030年までには消費税率15%、2050年までには20%への引き上げを提言していますので、今後は、消費税率上げに向けた‘外圧’もさらに強まることでしょう。国民各自が10万円の給付を受けても、その分、将来において納税という形で‘返済’することになるのですから(利払いもありますので、‘返済’が済んでも税率は引き下げにはならないかもしれない…)、同政策は、朝三暮四とも言えるかもしれません。

 

 財政をゼロ・サム関係として理解しますと、現在の赤字は、将来の増税で埋め合わされることとなります。菅首相は、ここ10年間は消費税率を据え置くと述べていますが、裏を返しますと、IMFの提言に従い、2030年には突然に15%に上げる方針を示しているのかもしれません。何れにしましても、ゼロ・サム発想では増税は避けられず、国民も戦々恐々とした面持ちとなりましょう。所得水準が低下する中での重税ともなれば、生活水準も落とさざるを得なくなりますし、消費の低迷による景気のさらなる悪化も予測されます。失業率も上昇することでしょう。

 

 しかし、貨幣の起源、あるいは、貨幣の中心的な役割を、個々の提供物がモノであれ、サービスであれ、人々の間の交換に必要となる共通価値基準の提供として捉えますと、政府は、金や債券といった何らかの準備や税収に縛られることなく、歳出を行うことができるようになります。つまり、通貨発行権を行使し、国家の統治機能を含めた経済・社会全体の交換の量=活動に見合った通貨を供給できることになるのです。このことは、通貨におけるゼロ・サム発想からの離脱を意味すると共に、通貨供給量は、人々が必要とする統治機能を含むあらゆる活動に比例することを意味します。

 

 そもそも、金銀といった自然界の埋蔵する共通価値基準は、埋蔵量という制約あり、経済成長に限界を与えます。この制約的側面は、金を本位とする兌換紙幣制度においても変わりはありません。また、最初の所有者は金鉱のマイニングによって決まりますので、政府発行の通貨よりも公平でもなければ(この点、ビットコインも同じ…)、正当性において優っているわけでもないのです。紙幣を詐欺的として害悪視する見解もありますが、こうした考えに基づけば、政府の赤字国債の残高は、国民に必要となる通貨を供給したに過ぎず、返済義務を要する‘債務’ではなくなるのです。すなわち、増税する必要はなくなるのです。この見解は、資本主義の問題とも不可分に関連するのですが、増税の議論も起きている折、貨幣の根源を確認いたしませんと、莫大な債務によって経済が押し潰され、国家自体が崩壊するという愚を繰り返すことになるのではないかと危惧するのです。

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小さな政府のパラドックス―利権配分型の大きな政府へ

2020-09-12 11:43:43 | 国際経済

 小さな政府とは、政府の事業範囲が狭く、財政規模の小さなコンパクトな政府もモデルとして理解されています。政策としては、公益事業の民営化とセットとされており、グローバリズム、並びに、新自由主義の同伴者でもあります。郵政民営化を進めたかつての小泉政権を初め、民営化を叫んだ政治家の人々は‘官から民へ’をスローガンとして掲げ、あたかも、民間企業が伸び伸びとと活動する自由な経済の到来というイメージを振りまいてきたのです。

 

 しかしながら、よく現実を観察してみますと、小さな政府論には、パラドックスがあるように思えます。その理由は、民営化によってもたらされた結果とは、公共サービス分野における大手企業による独占や寡占でしかなかったからです。多くの人々が民営化に対して寄せていた期待とは、公共事業分野が民間事業者に広く開放されることで、多くの企業が同市場に参入し、そこでは公平なルールの下で自由な競争が行われ、利用者が、安価で良質のサービスを受けられる状態であったはずです。実際に、民営化の根拠として強調されたのは、硬直化した公共事業分野に民間の競争メカニズムを導入することで、国民の利益や利便性の向上に資することでした。民営化による最大の受益者は、自由競争の果実を享受し得る国民とされたのです。

 

 ところが、いざ、蓋を開けてみますと、期待とは裏腹に、ソフトバンクグループの孫正義氏のように、‘政商’とも称される、政府と癒着するIT起業家も現れるようになりました(LINEなどのIT大手も、常々、公的事業に入り込もうとする…)。確かに、事業主が国や自治体から民間企業が代わったものの、それは、公平で自由な競争の結果ではなく、むしろ、資金力において優位にあり、かつ、政府に取り入った一部事業者による事業の独占や寡占であったのです(分割後に民営化された事業体は別として…)。それもそのはず、公共事業分野とは、もとより事業の性質上、極めて公共性の高く(その多くはインフラ事業…)、自由競争が働かない分野であるからです。公共サービス分野については、その殆どは独占禁止法の適用除外の対象です。

 

 ここに、小さな政府のパラドックスが自ずと明らかになります。それは、小さな政府政策、即ち、民営化を推進すればするほど、国レベルであれ、地方自治体レベルであれ、政府の許認可権を含む利権や監督権限が肥大化するというパラドックスです。財政規模を基準として分類しますと、小さな政府は、確かに予算規模の‘小さな政府’なのですが、民営化した公共サービス分野における利権や監督権限を含めれば、‘大きな政府’と言わざるを得ません。小さな政府の結果として現れた経済は、それが一部であれ、法の支配に基づくルール型の経済ではなく、むしろ、政府が介在する配分型の経済なのです。

 

 しかも、アメリカではGAFAが積極的に政府や政治家に対してロビー活動を展開しているように、IT大手の資金力や人脈は、政府の政策をも方向付ける力を有します。かくして、様々な事業上の権利を付与する側にある政府(政治家や官僚)は、民間事業者から賄賂攻勢を受けやすい立場となり、腐敗しやすい体質を抱え込むこととなるのです。この側面は、改革開放路線によって、一党独裁の下で権力を独占する共産党幹部が、利権配分によって大富豪となった中国とも共通しています。そして、民営化とは、得てして海外企業への自国市場開放を伴いますので、政府は、中国企業をも含む海外企業からの働きかけをも受けることになりましょう。

 

 小さな政府とは、その実、大きな政府であったというパラドックスは、今後、改めて官民の線引き問題を考えてゆく必要性を示唆しております。そして、小さな政府の実像が、政府と政商企業との癒着体制、即ち、悪しき‘マネー支配’を意味するとしますと、それは、民主主義にとりましても脅威となるのではないかと思うのです。

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コロナ対策費は国債の中銀引き受けを前提に

2020-06-13 12:07:56 | 国際経済

 日本国の財政は、戦後、長らく‘優等生’と評されていた歴史があります。財政赤字とそれに伴うインフレに悩まされてきた諸外国と比較しますと、歳出入のバランスがとれており、財政赤字も採るに足りない程度でした。それが1990年のバブル崩壊を境に一変し、今では世界最大の財政赤字国に一気に転落することとなったのです。今般のコロナ対策費に充てるための国債発行が加われば、近々、その残高は1000兆円を超えることでしょう。

 バブル崩壊の過程における日本国の財政赤字の急激な膨張の原因は、その‘補填的’な性格にあります。財政赤字の補填という意味ではなく、バブル崩壊に伴う日本経済の損失補填(経済補填?)と表現した方がよいかもしれません。当時の日本国政府は、拓銀、長銀、日債銀、山一證券等の倒産は許したものの、総額200兆円ともされる大量の不良債権を抱え込んだ金融機関に対して、積極的な資本投入を試みます。ケインズ主義的な政府による有効需要の創出、即ち、公共事業への積極的な財政支出に加え、金融救済に多額の予算をつぎ込んでおり、これらが日本国の財政赤字を急速に膨張させたのです(バブル崩壊後の財政赤字のバブル化?)。

 しかしながら、この手法、底なし沼にはまるようなものであったようです。バブルにおける損失額は1500兆円にも達したとする説もありますが、金融や企業から家計に至るまでの全般的な損失に対して、政府の赤字国債発行によって賄う方法には限界があります。そもそも、巨額となる政府支出を国民や企業から徴収する税収では賄えるはずもなく、経済ショック後のリセッションにあっての大幅な増税は致命傷ともなりかねません。となりますと、政府が赤字国債を大量に発行して資金を調達するか、もしくは、中央銀行が‘最後の貸し手’としの役割を果たす、あるいは、買いオペを増額して量的緩和策を実施することとなるのですが、日本国政府は財政的手法を選択し、国債の大量発行を以って危機を乗り越えようとしたのです。

 この結果、今日、日本国政府は、財政健全化を理由に消費税率を上げるに至ったのですが、10%上げによる歳入増加分が他の目的で使用され、かつ、今般のコロナ対策での歳出分が加わるとしますと、近い将来、国民には増税ラッシュが待ち構えているかもしれません。IMFも消費税率を20%程度まで上げるように提言しております。コロナ対策にあって日本国政府は、バブル崩壊後の手法を基本的には踏襲していますので、今後、増税不可避論が高まりかねないのです。

 そして、この問題は、日本国のみならず、コロナ対策として経済補填政策を実施した全ての諸国が抱える問題でもあります。欧米諸国の中には、政府による補填の対象が、全額とまではいかないものの、個人や事業者に対してコロナ禍による収益や賃金の減少分にまで及んでいますので、その総額は膨大です。因みに、EUでは、新たな基金を設立してコロナ共通債を発行し、将来的にデジタル課税や環境税等の共通税を以って同債権の償還費に充てるとする構想が議論されています。同構想では、最終的な負担者はグローバルに事業を展開するIT大手や大企業等となりますので、一般のEU市民としましては賛同しやすい構想なのでしょうが、それでも、EUが、巨額の財政赤字を抱え込むことには変わりはありません(発行額が大きいほど、信用不安から公債の利率を上げざるを得ず、利払いが増えるかもしれない…)。

 このように考えますと、経済ショックに対して財政的な手法、つまり、‘国債の発行による財源の確保と増税による償還’という方法を用いることには、相当の無理があるように思えます。とりわけ、今般のコロナ禍のように、経済活動をストップしなければならず、かつ、停止状態が長引くことにでもなれば、財政破綻は目に見えています。あるいは、日本国のように、一度のバブル崩壊により、その後、長期にわたり財政問題に悩まされることとなりましょう。となりますと、別の手法を考案しなければならないのですが、それは、案外、旧来の手法への回帰かもしれません。つまり、政府紙幣の発行とはでいかないまでも、政府発行が無利子で発行した国債を中央銀行が直接引き受けるのです(長期的には、政府紙幣の発行を含め、新たなシステムが必要なのかもしれない…)。

 いわば、‘なかったことにする’方法となるのですが、この方法ですと、政府は、国債発行に伴う償還や利払いの義務を負いませんので、当然に、国民は、間接的な‘借金返済の義務’から逃れることができます。つまり、増税圧力に晒されなくても済むのです。いささか‘開き直った’ような案なのですが(国民の共通財源としての通貨発行益を認める…)、中央銀行引き受けを前提とした方が、国民の多くは、今般の大規模な財政出動に対しても余程安心していられるのではないでしょうか。

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実体経済の再構築に投資を―新型コロナウイルス・ショックへの対応

2020-03-10 12:39:58 | 国際経済

 新型コロナウイルの感染拡大は遂に全世界の株式市場に及び、ニューヨーク証券取引所では、ダウ平均が一日の下げ幅としては過去最高を記録しました。日本国も例外ではなく、日経平均も2万円台を割り込み、世界的な経済減速への不安感が広がっています。新型コロナウイルス・ショックは、全世界規模での株式市場の大暴落という表面的な現象としては、大恐慌やリーマンショックなどの過去に起きた金融危機の発生時と変わりはないのですが、その危機のメカニズムを観察しますと、今般の新型コロナウイルス・ショックには一般の金融危機とは著しく異なる点があるようです。

 第一の違いは、相場下落の原因です。一般の金融危機のケースでは、実体経済と離れた投機的な行動が金融危機を誘発しました。当時、金融機関や個人投資家を含む多くの人々は、値上がり益を期待して株式や金融商品等の買いに殺到していました。市場では所謂バブルが発生していたのであり、このバブル崩壊こそ相場下落の主因なのです(マネーの消失)。買いに走っていた人々が、上昇の限界を予感して売りに転じますと、雪崩を打つように相場の下落が起きたのです。

 一方、新型コロナウイルス・ショックの主たる原因は、中国の武漢に始まる感染症の世界レベルでの拡大です。世界の工場でもあり、かつ、14億の人口を擁する巨大な消費市場でもある中国では、目下、国民に厳しい移動制限や外出制限を課す封鎖が敷かれています。都市部での感染リスクもあって、農村の出稼ぎ労働者は職場に戻らず、工場も稼働停止、あるいは、一部稼働の状態が続いています。今日のグローバル時代にあっては、中国も、完成品のみならず部品等の製造拠点として海外企業のサプライチェーンに組み込まれていますので、生産縮小の影響は同国一国にとどまらず、全世界の企業に深刻な‘供給不足’をもたらすのです(‘供給不足’には、現地日本企業並びに中国企業が生産した完成品、及び、自国での生産に必要な中国製部品等の二つの側面がある…)。しかも、近年では、中国は巨大な消費市場に成長していますので、中国向けに輸出品を製造している、あるいは、現地でビジネスを展開している海外企業にも打撃を与えるのです(‘需要の喪失’)。

 第二の相違点は、連鎖的拡大経路の違いです。一般の金融危機では、金融機関、企業、そして、個人間の貸借関係の破綻が危機を拡大させます。平たく申しますと、‘貸借チェーン’の一部に欠落(債務不履行)が生じると、そこを起点に経営破綻が広がってゆくのです。特に留意すべきは、多角的に複数の貸借関係を構築している金融機関の破綻です。何故ならば、金融機関の破綻は、同心円状に危機が一気に企業から個人に至るまで広範囲に拡大してゆくことを意味するからです。しかも、近年の金融工学の発展とIT化により、危機拡大の速度は一段と速まっています。

 それでは、新型コロナウイルス・ショックの連鎖的拡大経路はどうでしょうか。感染という病理的な意味では、人から人への感染ということになるのでしょうが、経済ショックとしての感染経路はウイルスのものとは違っています。そしてそれは、一般の金融危機とも違っているようなのです。その違いとは、危機拡大の方向性が前者とは逆の点です。上述したように、今般のショックの主因は生産と消費の両面における不足の発生にありますので、実体経済から金融への方向で波及しています。また、集団心理に煽られた特定市場での投機行為を伴いませんので、バブル崩壊時ほどには回収不能、あるいは、不良債権を一気に金融機関が抱え込むこともなく、同機関を中心とした同心円状の危機拡大は発生し難いのです(もっとも、金融機関には株式保有による含み損は生じる…)。

 以上に二点ほど主要な違いを述べてきましたが、この違いは、今般の新型コロナウイルス・ショックに対する対応は、一般の金融危機とは異なる対応となすべきことを示しています。金融発となる後者では、公的資金の投入といった金融機関に対する救済策が主たる手段でしたが、今般のケースでは、実体経済の再構築、あるいは、再生こそが肝要となりましょう。むしろ、実体経済における需要と供給との関係に注目すれば、巨額のマネーが泡と消える金融危機よりも危機脱出は容易であるかもしれません。何故ならば、需給の両面における不足が原因ですので、不足分は補えば解決するからです。

 単純すぎるとする批判もありましょうが、中国からの輸入品の供給不足については、国内生産に切り替える、あるいは、代替輸入先を探すといった方法で対処することができます。それは、グローバルに事業を展開する大手企業にとりましてはサプライチェーンの組み換えとなりましょうし(国内回帰も選択肢に…)、部品や日用品等を製造してきた国内の中小企業にとりましては、失地回復、あるいは、新たなビジネスチャンスともなりましょう。また、中国市場における需要の不足につきましても、新製品や新サービスの開発により国内需要を掘り起こす、または、中国以外の海外市場に販路を求めることで対処し得るかもしれません。そして、金融機関も、株価下落に嘆くよりもこうした企業の経営戦略の見直しにおいてこそ、有望な投資先や財政支援のチャンスを見出すべきなのではないでしょうか(投資判断の基準はSDGsのみではない…)。

 行き過ぎたグローバリズムの歪が顕在化する今日、新型コロナウイルスは人々に禍をもたらしつつも、国内経済とグローバリズムとの関係を再調整し、両者の調和点を探る契機となるかもしれません。そして、今般の一件によって露わとなった一党独裁体制を敷く中国という国の恐ろしさは、たとえ同ウイルス禍が終息したとしても、将来に向けて中国離れの流れを方向づけたにしたのではないかと思うのです。

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‘資本主義’の変化が移民問題を解決する?

2020-01-23 13:53:55 | 国際経済

毎年、この時期にスイスで開かれているダボス会議は、グローバリズムの全盛期に比べれば陰りが見えるとはいえ、その後の各国の経済政策をも方向づける絶大な影響力で知られています。先鋭的なグローバリストが集う総本山のようなイメージがあるのですが、今年の会議では、トランプ米大統領も顔を出したためか、‘資本主義’の見直しが重要なテーマとして位置づけられていたそうです。

 ダボス会議で提起された‘資本主義’の見直し論とは、株主の利益を最優先する株主至上主義から脱し、従業員、取引先、地域社会といった他のステークホルダーの利益をも考慮しようというものです。この方針は、昨年の8月に、アメリカの経営者団体であるビジネス・ラウンドテーブルで示された企業の行動規範とも一致しており、株主至上主義の見直しは時代の潮流でもあります。批判を浴びてきたグローバリズムの問題点は、株主至上主義にその主因が求められるからです。そして、資本主義の見直しは、格差拡大に並ぶもう一つの問題を解決する可能性を秘めているように思えます。それは、イギリスではEU離脱を招き、アメリカではトランプ政権を誕生させた移民問題です。

従来型の株主至上主義では、‘人’とは、単なる労働力に過ぎず、国境を越えた労働力の移動は、事業利益を最大化するための有効な手段でした。低賃金でも働く外国人労働者を大量に雇用すれば、人件費の大幅な削減に繋がるからです。アメリカ最大の社会問題とされてきた人種差別問題も、元を辿れば、大航海時代の到来とともにグローバルに奴隷を売買できるようになった奴隷商人達の利益第一の事業方針に求めることができましょう。この結果、移民を受け入れた国に深刻な社会問題が発生しようとも、外国人労働者への代替によって失業率が上がろうとも、外国人犯罪者の増加や外国の犯罪シンジゲートの上陸で治安が悪化しようとも、そして、外国人やその家族に対する生活支援等のために相当額の予算を要しようとも、企業側はお構いなしであったのです。むしろ、外国人労働者の受け入れに伴う負の部分については、国や地方自治体、そして地域の住民たちにその責任を押し付け、その解決や緩和策も丸投げしようとしてきたとも言えましょう。あたかも、それがグローバル時代における当然のことのように…。

一方、今般の見直しでは、地域社会といった企業が活動する場で生活している一般の人々をもステークホルダーと見なしています。このスタンスからすれば、コストのみを判断基準とした労働力の移動も同時に見直されるべきかもしれません。何故ならば、外国人の増加によって社会的変化や財政的な負担を一方的に強いられる地域の住民、あるいは、国民こそ、企業の経営判断によって多大な影響を受けるステークホルダーに他ならないからです。アメリカの人種差別問題のみならず、ヨーロッパにおいても古くはユダヤ問題から新しきはイスラム過激派によるテロ事件に至るまで、利益を求めた結果としての人の移動は、世界各地に解決困難な社会問題をもたらしてきました(もちろん、すっかりと同化した事例もありますが…)。ミャンマーのロヒンギャ問題なども根は同じであり、従来の‘資本主義’は、民族の違いや人々の心理に対して無神経、かつ、無頓着過ぎたのではないかと思うのです。否、現地社会に対する破壊的な影響を十分に理解しながらも、利益を優先させるために政治やメディアをも背後から動かし、教育方針や世論を誘導するなど、様々な手段を用いて地域の人々に順応、あるいは、変化の受容を強要しようとしたのかもしれません。

‘人は生まれた場所から絶対に移動すべきではない’とは申しているわけではないのですが、人とはモノとは違い、自らの意思と行動の能力を有するとともに、集団的な属性としての政治性、社会性、そして文化性をも宿しています。唯物論に立脚した共産主義もまた‘資本主義’以上に人を人とも思わぬ冷酷さがあるのですが、‘資本主義’が株主以外の人々をモノ扱いした結果として移民問題が発生したのであるならば(経済的な理由以外には、人が他の国に移住する動機はそう多くはない…)、最も解決、あるいは、緩和を期待し得る方策とは、企業がより人の多面性を尊重し、移民反対を訴える人々を‘ポピュリズム’の一言で一刀両断に切り捨てることなく、地域の人々や国民の声にも素直に耳を傾けることではなのではないかと思うのです。つまり、国境を越えた人の移動については、受け入れ側となる国家や国民の側の権利をも尊重し、より抑制的であるべきなのではないでしょうか。

 

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資本主義と自由主義は別もの?

2019-10-09 15:40:55 | 国際経済
10月8日付の日経オンライン版に、ソフトバンクの孫正義氏のインタヴューが掲載されておりました。そのタイトルにおいて目に留まったのは‘ビジョンファンド、夢はヒーローたちの指揮者’というフレーズです。この表現が気になった理由は、それがあまりにも矛盾に満ちているからです。

 交響曲等を奏でるオーケストラを想起すれば誰もが気が付きますように、同形態の楽曲演奏では、‘ヒーロー’の役回りは一般的には指揮者であって個々の演奏者というわけではありません。舞台の前面中央の指揮台で白いタクトを振る指揮者が、楽団員全員に対して各パートの演奏を細かに指示してこそ全体がハーモナイズされ、一つの作品として仕上がるのです。このため、オーケストラによる演奏曲目は、‘○○指揮×△交響楽団による□☆交響曲’といった表現がなされています。その一方で、‘ヒーロー’にその行動を指導する指揮者が存在していたのでは様になりません。‘ヒーロー’とは自ら決断し、誰に命じられることなく自発的に、かつ、勇敢に行動してこそ‘ヒーロー’なのであり、‘ヒーロー’が同時に数十人もいては‘ヒーロー’らしくもないのです。

 同インタヴューを読み進めますと、孫氏は、投資家として情報化時代をリードする革新的なビジネスを支援し、AI企業集団(オーケストラ?)を造り上げたいとする自身の‘夢’を語っているようなのです。しかしながら、その発想自体にどこか違和感があるのは否めません。この違和感、どこから来るのかと申しますと、おそらく、同氏の発想に‘ソフトな全体主義’の影が見え隠れするからなのでしょう。北朝鮮といった全体主義国では、独裁者の一声で参加者に配られたパネルが瞬時に切り替わり、全体の図画が一変するマスゲームが好んで行われていますが、これ程までに厳格ではないにせよ、全体を統括する指揮者の存在を認め、その地位にありたいとする孫氏の個人的な願望が、ある意味において、個々による自立的、かつ、自由な経済活動を認める自由主義経済にとりまして脅威となるのです。つまり、その孫氏の経済観は、経済独裁、あるいは、経済全体主義と表現できるかもしれません。

 戦後、長らく続いたイデオロギーを軸としたアメリカ対ソヴィエトの政治的な対立は、経済分野にあっては資本主義対共産主義の対立として読み替えられてきました。そして、共産主義が政府による経済統制を是としたことから、その敵となる資本主義は、自由主義経済と凡そ同義とされてきたのです。しかしながら、グローバル化と情報化の同時進行を背景として登場してきたIT大手の思考パターンを見ておりますと、資本主義と自由主義は、別ものなのではないかと思うようになりました。

おそらく、上述した孫氏の経済観は投資家、特に、金融財閥を形成している投資家一般に共通しており、資本を有する投資家が経済全体を自らの望む方向に導き、投資先の個々の企業活動をもコントロールし得ると考えているのでしょう。資本主義というものが、一私人に過ぎない投資家が牽引する経済システムを意味するのであるならば、それは、政治的な民主主義とは両立しないに留まらず、真の意味での経済的な自由主義とも違っています。自由な活動主体であり、決定主体であるはずの企業を‘お金’で縛ってしまうのですから。

本来、社会には様々なニーズがありますし、科学技術の分野においても、資本家の関心を引かない人々に恩恵をもたらすテクノロジーは多々あります。また、彼らが切り捨てた、あるいは、潰すべき‘邪魔者’と見していても、人類全体にとりまして宝となる才能を有する人材も少なくないはずです。今日の投資家は、自らの描いたSFチックな未来像に沿ってITやAI分野に投資を集中し、企業に対しても、設備投資や研究開発費を同分野に注ぐように誘導し、かつ、自らのビジョンに賛同する人々しか支援しませんが、こうした利己的な態度はむしろ歪みであり、人類の可能性を狭めているのかもしれません。人類が目指すべきは、少数の資本家が経済のみならず人類の未来社会を決定する資本主義ではなく、個々が自立しており、かつ、指揮者が存在せずとも調和している、自然の生態系により近い形での自由主義経済ではないかと思うのです。

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共産主義が人類を家畜化する理由-配分と交換の違い

2019-08-11 13:49:02 | 国際経済
かつて、ソ連邦では、その日の食卓に上るパンの配給を受けるために、凍てつく真冬の寒さに擦り切れた分厚いコートと帽子で身を包み、首を縮めながら街角で人々が長蛇の列をなして並ぶ姿が恒例の光景となっていたそうです。年金制度も整い、国家による衣食住の配給制度によって一先ずは生活が保障されつつも、その姿は、飼育員から餌をもらうために集まる家畜にも見えたのです。人としての尊厳が失われている点において。

 共産主義国家の特徴は、国家全体が配分マシーン化するところにあります。このシステムでは、国家はいとも簡単に‘家畜国家’に転じてしまいます。何故ならば、国家が一度国民を‘家畜’と認定しますと、国家全体が‘牧場化’するからです。家畜の飼育に見立てれば、国民は、国家経営の飼育場の中で飼われている家畜の立場に等しく、餌と同様に配給を受けることはできても、その成果は、国家に吸い上げられてしまいます。つまり、国家は、国民に対して徴収と分配を行う牧場の経営者なのです。

この仕組みでは、国家と国民の関係は垂直関係とならざるを得ず、家畜が経営に口を挟む権利やチャンスがないように、共産主義国家の国民は、民主主義国家のような参政権など付与されるはずもなく、一方的に支配される対象でしかありません。つまり、基本的な権利や自由を有する人としての人格が承認されないのです。そして、‘平等’という価値が実現するとしても、それは‘家畜の間の平等’に過ぎず、垂直方向に視線を転じますと、上部には国家、即ち、共産党が君臨しており、両者の間には歴然とした境界線が引かれているのです。

 その一方で、自由主義諸国における経済システムは、配分よりも交換に重点が置かれています。配分と交換とでは、人と人との関係の基本構図において決定的な違いがあります。配分を基盤とする経済システムの基本構図は、上から下への一方向的な垂直関係となりますが、交換の基本構図では、双方が対等な立場となる並列関係を構成します。そもそも交換は、相互的な相手の人格承認を前提としてこそ成り立つ行為です。交換が成立するには、双方の合意、即ち、意思の一致を要するからです。双方が、自らの意思を自由に表現した結果こそが交換ですので、双方の人格は対等なままに保たれているのです。一方、仮に、一方が他者の人格を認めなない場合には、その人が、自らの一方的な意思によって相手方から何かを奪ったとしても何らの罪の意識を感じないかもしれません。たとえそれが、命であったとしても…。

 もちろん、如何なる国家にあっても財政という名の配分機能を要しますが、共産主義の国家モデルでは、国家全体が配分マシーンと化していますので、交換のシステムが働く余地がありません。もっとも、今日の中国は、鄧小平氏が開始した改革開放路線以来、市場経済のメカニズムを導入しており、一定の範囲で交換の要素を取り入れています。しかしながら、習近平政権におけるITの統治機構における国民監視を目的とした積極的な活用は、同国を再び配分型国家へと回帰させているようにも見えます。あるいは、自由主義国でも、IT大手によるプラットフォームの建設は、人々を牧場に囲い込むための柵を造りなのかもしれないのです。また、AIの普及とセットとなるかのように、配分型の政策であるベーシックインカム論が浮上してきている現状も気になるところです。

 何れにいたしましても、経済に対する考え方の違いは、様々な分野で対立や摩擦として表面化しているように思えます。米中貿易戦争の根底にも両国間の経済観、否、価値観に基づく国家体制の相違があるのかもしれません。遠回りのようにも思われますが、経済につきましては、一からその仕組みを問うてみることも無駄ではないように思うのです。

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アメリカは韓国に対して司法解決を要請すべきでは?

2019-08-03 15:16:55 | 国際経済
 時事通信社が発信した記事に依りますと、米政府高官は、悪化する一途の日韓関係について双方に責任があるとする見解を示したそうです。その背景には、韓国による日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄、即ち、中国、ロシア、北朝鮮の動きを睨んだアメリカ政府の安全保障上の懸念があるのでしょうが、日韓対立激化の発端は韓国側の所謂‘徴用工訴訟判決’にありますので、日韓両国を比較しますと、韓国側により重い責任があるように思えます。日本国側としては、同米高官の発言は釈然としないのですが、仮に、アメリカが日韓関係の改善を試みようとするならば、先ずは、韓国に対して、‘徴用工問題’の解決を国際司法の場に委ねるように説得すべきではないかと思うのです。

 実のところ、その解釈をめぐり紛争となっている日韓請求権協定に関しては、アメリカも無関係ではありません。同協定を含めて1965年に日韓関係が正常化される過程にあって、アメリカは、常に日韓交渉の裏方、あるいは、仲介者としての役割を果たしていたからです。この時、両国政府は、日韓間で対立が生じ、交渉が暗礁に乗り上げる度にアメリカに打診し、その意向を窺っております。その際、朝鮮戦争によって韓国の国土が破壊され、経済も疲弊していたこともあり、アメリカ政府は、どちらかと言えば韓国側の主張に寄り添っていたように見えます(この時期がベトナム戦争中に当たる点を考慮すれば、あるいは、韓国軍のベトナム派兵も絡んでいるかもしれない…)。難航していた交渉は、結局、アメリカの鶴の一声によって日本国側が大幅に譲歩する形で妥結し、正当な根拠を有する請求額を遥かに越える巨額の支援金を韓国側に提供することとなったのです(日本国政府は、韓国に譲歩したというよりは、アメリカに譲歩している…)。

 当時の日韓交渉の過程を振り返りますと、アメリカは、同協定成立の影の立役者であると共に、その場に立ち会った‘証人’でもあったことが分かります。否、日韓請求権協定の真の草案作成者はアメリカかもしれず、65年の日韓関係の正常化は、日本側が一方的な不利益を被ったとはいえ、アメリカの外交成果の一つとも言えるかもしれません。となりますと、先日、日本国政府が証拠として提示したように、韓請求権協定における日韓両国間の合意内容に徴用工の給与未払い分を含む全ての請求権が含まれていることは、アメリカ政府もまた十分に認識しているはずなのです。

こうした事情があればこそ、同協定に対して責任の一端を負うアメリカは、日韓対立の要因となっている同協定について、誠実なる遵守を韓国側に求め得る立場にあります。そして、日韓請求権協定の第三条が、紛争の解決手段として仲裁委員会の設置を設けている以上、アメリカ政府には、先ずもって同手続きに従うよう韓国政府を説得していただきたいと思うのです。当時の日本国政府は、自国に不利であることを承知の上で、個人を含む全ての請求権の放棄を条件として、同協定に署名したのですから。

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IMFは誰の味方?-報告書の「リブラ」分析の問題点

2019-07-17 13:27:49 | 国際経済
今月15日、IMFは、デジタル通貨に関する報告書を発表しました。念頭にあるのはフェイスブックが発行を予定している「リブラ」なのでしょうが、同報告書の分析には首を傾げたくなる部分も少なくありません。本日の日経新聞朝刊によれば、IMFは、デジタル通貨に関するシナリオとして、「共存」、「補完」、「乗っ取り」の3つのケースを想定しているそうです。

「乗っ取り」のシナリオとは、通貨システムの脆弱な新興国等において「リブラ」が自国通貨を駆逐し、通貨発行権から金融政策の権限に至るまで全てを‘乗っ取る’というものです。可能性は低いとしながらも、通貨崩壊に見舞われたジンバブエのみならず、自国通貨の信用下落によって外国通貨が国内で流通するに至ったケースがないわけではありません。また、経済規模の小さなミニ国家などでは、協定などに基づいて近隣の大国の通貨を自国通貨として使用する事例もあります。こうした事例を考慮すれば、「乗っ取り」は、決して可能性の低いシナリオではないように思えます。また、「リブラ」の基本コンセプトは国境を越えた送金の円滑化にありますので、新興国や途上国から先進国への移民が増加すればするほど、同シナリオの実現性は高まることでしょう。

かくして「乗っ取り」シナリオはあり得るのですが、「共存」と「補完」についても、IMFの認識は甘いようにも思えます。デジタル通貨が登場すれば、既存の銀行預金の一部がデジタル通貨に換金されて流出する、あるいは、主要な預入先がデジタル通貨の発行主体に移るため、民間銀行の融資機能が低下することが予測されます。このことは、民間金融機関とネットワークで繋がることで金融政策を実施してきた国家の中央銀行の影響力も低下することをも意味します。そして、デジタル通貨の発行主体が獲得した既存通貨を直接に運用する、即ち、‘銀行業’を開始すれば、既存の銀行は存亡の危機に立たされるのです。こうした‘銀行淘汰’の事態を避けるために、同報告書では、デジタル通貨の発行主体がユーザーから得た既存通貨を銀行に預け入れる、すなわち、還流させれば、両者は「共存」あるいは「補完」し得るとしています。

実のところ、銀行への再預金案は、IMFによる既存銀行とデジタル通貨発行主体の両者に示した‘妥協案’であるのかもしれません。しかしながら、この‘妥協案’よく考えても見ますと、やはりまやかしがあるようにも思えます。何故ならば、既存の銀行に再預金するのは、あくまでもデジタル通貨の発行主体であり、ユーザー自身ではないからです。つまり、既存銀行の口座はデジタル通貨の発行主体の名義となりますので、既存通貨との交換で得た巨額の通貨発行益の運用を、デジタル通貨発行主体が既存の銀行に任せるに過ぎないのです。この案では、民間企業であるデジタル通貨発行主体が、誰もが納得するような合理的な根拠もなく、莫大な通貨発行益を得る点においては変わりはありません。

IMFは、ビット・コインが登場した際にも、国際社会に対して積極的に議論を喚起することもなく、既成事実としてその存在を黙認してしまいました。今般のリブラ構想にあっても、IMFは、もっともらしい‘妥協案’を提示しつつ、ビット・コインと同様に民間企業によるデジタル通貨の発行を認めようとしているように見えます。今般、フランスでG7財務相・中央銀行総裁会議が開催されますが、国際機関であるIMFのスタンスとは異なり、自国経済や国民生活を預かる国家の視点から、民間企業への通貨発行権や政策権限の移譲に伴うリスクについて議論を尽くしていただきたいと思うのです。

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情報通信と金融は切り離すべきでは?-競争法の出番

2019-06-30 13:34:08 | 国際経済
スマートフォンといった携帯端末の出現は、社会におけるコミュニケーションの在り方を一変させてしまいました。今では、IT大手が運営するSNSが他者と関わる主たる手段となっている人も少なくありません。しかも、SNSといったネットサービスは無料であるものの、それと引き換えに、ユーザーは利用規約によって位置情報や交友リストなど自らに関する個人情報の一切を事業者に提供する義務を負わされています。このため、IT大手は、個々のユーザーの行動や思想傾向のみならず、人間関係をも全てデータ化して管理することができるのです。

 IT大手は、情報・通信サービス事業と云う名において社会全体をコントロールする手段を手に入れているのですが、社会分野に留まらず、その支配的な野心は、今や経済の分野にまで及びつつあります。IT大手の中には、GAFAの一角を成すアマゾンのように人々の消費行動を把握し得る通販ネットワークを構築した事業者もおりますが、今般、これらの事業者は、本業の事業展開に伴ってグローバルレベルに広げた自社のネットワークを金融分野に転用しようとしています。中国の通販大手のアリババは、既にブロックチェーン技術を用いた国際決済サービス事業に着手していますし、フェイスブックもリブラ構想への参加を打ち上げています。

単一通貨を想定するこれらのケースでは、従来民間の銀行が行ってきた送金や決済業務のみならず、将来的には通貨発行権の掌握をも視野に入れているかもしれません。例えば、リブラは、米ドルやユーロ、あるいは、安定的な公債を準備として発行される予定であり、マイニングを要するビットコインとは異なる‘ステーブルコイン’とされているものの、よく考えても見ますと、ブレトンウッズ体制にあっては金・ドル本位制と称されたように、米ドルの準備高がその国の通貨発行量とリンケージしていました。管理通貨制度に移行した今日でも、為替決済を通して中央銀行は通貨を供給しています。また、特に公開オペレーションの買いオペは、債権を準備とした通貨供給の一面がないわけではないのです。つまり、リブラの発行機関は、事実上、国家の中央銀行と同様の機能を有しているということができるのです。通貨供給量を人為的に調整できる点において、リブラは、ビットコインよりも国家が発行している既存の公定通貨に近いとも言えましょう。なお、仮にリブラが許されるならば、如何なる私人、あるいは、民間団体であっても、独自に通貨を発行することが可能となります。

IT大手が個々人の消費行動、所得、金融資産、投資行動といった経済に関わるおよそ全ての情報を掌握すると共に、自らが既存の銀行や中央銀行の役割をも兼任するとなりますと、IT大手は、民間事業者でありながら、経済全体を支配する強力な手段を手に入れることとなります。それでは、IT大手による国境を越えた経済支配を防ぐことはできるのでしょうか。

 最も有効性が高いと期待できる手段とは、競争法の活用です。競争法上の取締行為の類型の一つに‘集中規制’と呼ばれるものがあります。これは、財閥や企業グループが経済全体を支配するほどに巨大化しないように歯止めをかけるための規制なのですが、これらが参入し得る事業数や業種に対して制限を設けています。‘集中規制’の観点からすれば、IT大手による異業種への参入は、競争法によって規制されて然るべきように思えます。つまり、社会のみならず、経済をも同時に支配する恐れのあるIT大手による金融事業に対しては、その参入を認めないというのも一案です(現行の競争法では難しいのであれば、法改正も必要かもしれない…)。そして、こうした規制は、情報の収集を伴う交通インフラの支配という側面において、中国IT大手のBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)、並びに、アップルやグーグルによる自動運転システムの開発についても適用すべきようにも思えるのです。

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中国による‘金融自爆テロ’に警戒を

2019-06-17 13:30:30 | 国際経済
鄧小平氏による改革開放路線への転換により、中国は、極めて短期間に世界第2位の経済大国に伸し上がりました。同国の急成長を支えてきたのは外資や先端技術の導入であり、このため、中国は、輸出攻勢で一帯一路構想を打ち上げる程に外貨準備を積み上げ、周辺諸国を‘借金漬け’にしながら、自らも膨大な額の外貨建ての債務を抱えることとなったのです。

 冷戦期にあっては、西側諸国はソ連邦をはじめとした東側に対する資金や技術の流出に殊の他警戒し、神経をすり減らしていたことに鑑みますと、冷戦後の中国に対する態度は寛容すぎる程に寛容でした。あるいは、同国が堅持した共産党一党独裁体制は、西側諸国の金融・産業界にとりましては、投資リターンを最大化するには好都合ですらあったかもしれません。共産党の強力な統制力の下で、低賃金・低価格の生産が実現するのですから。かくして、軍事・政治的リスクは脇に追いやられ、両者の対立を絶対視した共産主義思想にあってはあり得ない、‘資本主義国’と‘共産主義国’との蜜月時代が到来したのです。

 しかしながら、アメリカにおけるトランプ政権の誕生は、こうした両者間の関係が終焉に向かう重大な転機となりました。そして、米中対立の長期化が予測される中、中国が米ドルに代わって金準備を積み増して金本位制への移行を目指すと同時に、米ドル基軸通貨体制の崩壊を狙っているとする指摘も聞かれるようになりました。仮に、このシナリオが存在するとすれば、中国は、‘金融自爆テロ’とでも称すべき戦略を選択する可能性もないわけではありません。

 ‘金融自爆テロ’とは、自国の債務の大半が外貨、即ち、米ドルであることを逆手にとった習近平政権によるデフォルトの容認です。そのトリガーとなるのは、アメリカの銀行ではなく膨大な対中債権を抱えるドイツ銀行ではないかとする憶測もありますが、この結果、全世界の金融機関が抱える対中債権の大半が不良債権化、あるいは、回収不能となる可能性があるのです。リーマンショックでも観察されたように金融の世界は複雑なヘッジ関係で連鎖しており、多重的なデリバティブを介して金融危機は全世界に波及します。つまり、中国は、デフォルトを容認することで自らの債務を消滅させ、借金という頸木を振り払うと同時に、アメリカをはじめとした自由主義国の金融システムに破壊的なダメージを与えるかもしれないのです。

 金融危機が発生すれば、自由主義諸国の金融機関の融資能力は著しく低下すると共に、FRBによる救済的な量的緩和策から米ドル相場の下落も予測されます。これを機に中国が金本位制へと移行すれば人民元の信用は一気に上昇し、米ドルに代わる貿易決済通貨としての立場を得ることもできるかもしれません。アメリカは、暫くの間は金融危機への対応に忙殺され、中国脅威論に対する国民の関心も薄れることでしょう(ただし、中国が金本位制に耐えうるほどの金を保有することができるか否かは不明ですし、このシナリオは失敗に終わる可能性が高い…)。

 そして、さらに厄介な点は、国際基軸通貨としての米ドルの地位の凋落を望んでいるのは、中国のみならず、国際金融勢力の中にも存在していることです。となりますと、同シナリオは、中国単独なのか、それとも、合作なのか判断が難しくなるのですが、少なくとも日本国政府、並びに、金融機関や企業は、同シナリオの可能性をも考慮しながら、対中政策や経営戦略を見直し、中国発の金融危機にも動じないよう、‘いざ’と言う時に備えるべきではないかと思うのです。

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米中貿易戦争-TPPが招く思わぬ日本国の危機

2019-05-16 12:47:22 | 国際経済
 一時は合意観測が流れたものの、中国側の翻意によって対立が再燃し、米中貿易戦争に未だに終息の兆しは見えません。長期戦が予測される中、アメリカ政府によって引き上げられた中国製品に対する高関税を嫌い、中国から製造拠点を東南アジア諸国に移す動きが企業間で広がっているそうです。こうした米中貿易戦争に対応したサプライチェーンの再編は、中国市場に対米輸出拠点を設けた日本企業を含む海外企業の対応と思われがちですが、驚くべきことに、当の中国企業もまた、製造拠点を自国から周辺諸国に移しているというのです。

 中国の習近平国家主席は、自由や民主主義に対する国民の関心を逸らすが如くに、事あるごとに愛国心の高揚に努めてきました。同政権の愛国路線からしますと、製造拠点を海外に移す自国企業に対して厳しい姿勢で臨みそうなものです。外資系企業の撤退によって雇用状態が悪化する中、自国企業も工場を海外に移転してしまえば、失業者が溢れる事態に陥りかねないからです。中国は、法律によって共産党が企業各社の経営に口を挟める体制を整えていますので、拠点移転の動きも共産党の消極的な黙認、あるいは、積極的な奨励の下で行われているものと推察されるのです。

習政権は、自国企業のサバイバルと国民の雇用不安を天秤にかけた結果、前者を選択したのでしょう。この選択は、共産党と企業利権が密接に結びついている証でもあるのですが、一般の中国国民にとりましては職場を失うことを意味しますので、同政権、さらには、共産党一党独裁体制に対する不満は高まることでしょう。言い換えますと、米中貿易戦争は中国政府が自国民を犠牲に供したことで、その国家体制をも揺るがしかねないのです(もっとも、暴動や反乱等の発生を防ぐために、政権側は先端的なIT技術を駆使して国民の情報・言論統制を強化している…)。

米中貿易戦争をめぐる中国企業の海外移転は政治分野にも波及するものと予測されますが、日本国も‘蚊帳の外’というわけにはいかないようです。まずもって警戒すべきは、TPPなのではないかと思うのです。その理由は、中国企業の移転先には、ベトナムといったTPP加盟国が含まれているからです。TPP加盟国における製造拠点の設置には、中国企業にとりまして、グローバル戦略上において二重のメリットがあります。主要なメリットは、対米輸出において高率関税を逃れることができる点ですが、このメリットは、TPP非加盟国に製造拠点を移しても同じです。その一方で、TPP加盟国への移転には、もう一つのメリットがプラスされます。それは、TPP協定に定められた原産地基準を充たしていれば(付加価値基準の例では55%…)、中国企業は生産国の製品として無関税でTPP加盟国に輸出できるメリットです。

 この仕組みを考慮すれば、中国企業が、アメリカ市場のみならず、日本市場をも自国製品の輸出先としてターゲットに定めることは十分に予測されます。国民感情は別としても、日中両国政府は、両国間の冷却期間は去って‘関係は正常化した’と盛んにアピールしています。特に中国の‘微笑外交’に押され、日本国政府は、同盟国であるアメリカに同調することもなく、中国からの輸入品に対する関税率は現状を維持しているのです。かくも対中融和的な傾向にあって、果たして、日本国政府は、TPP経由で中国企業の製品が日本国内に無関税、あるいは、低関税で大量に流れ込んできた場合、どのように対処するのでしょうか。日本企業は、リスク含みの中国市場からは撤退したとしても、国内にあって中国企業との厳しい価格競争に晒されるかもしれないのです。

トランプ大統領が就任後、真っ先にTPPからの離脱とNAFTAの再交渉に取りかかったように、自由貿易圏の形成には、域内の先進国にとりまして不利な側面があります(非加盟国企業による加盟国生産拠点からの輸出の増加…)。米中貿易戦争は、TPPのマイナス面を増幅させる可能性がありますので、日本国政府は、米中貿易戦争の長期化を見据え、最低限、TPP加盟諸国に対して中国企業による迂回輸出の拠点化の問題を提起すべきではないでしょうか。

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株式会社は人類の理想の企業モデルか?

2019-04-28 13:21:00 | 国際経済
 株式会社は自分自身が生まれる前から存在しておりますので、誰もが至極当たり前の企業の組織形態であると見なしがちです。しかしながら、人類史を振り返りますと、株式会社の誕生はヨーロッパ各国において東インド会社が設立された17世紀初頭に過ぎず、その歴史は400年ほどでしかありません。

 しばしば、‘常識を疑え’と言われますが、何かしらの解決し難い問題を抱えたり、改善を探るに際して、原点に帰ってその根本を疑ってみることは重要です。そこで、ここでは、今日、経済における主要プレーヤーである企業の最も一般的な形態である株式会社について疑ってみたいと思います。株式会社とは、今日の経済にとりまして最適の形態なのでしょうか。

 世界最初の株式会社はオランダ東インド会社とされ、それは1602年3月の出来事です。もっとも、最初から一つの‘株式会社’として設立されたわけではなく、当時、航海会社(貿易会社)の乱立から生じた東方貿易品の仕入れ価格の高騰と値崩れに対する危機感から、政府が独占権を与える形で複数の会社を統合したものでした。つまり、同社の資本も民間商人等を含む‘寄せ集め’とならざるを得なかったのです。また、そもそも、海洋貿易は、貿易船の調達や水夫の雇用等のための元手がかかる上に嵐による遭難や沈没といったリスクも高く、それ故に、一人の商人が個人的に手掛けるには荷が重すぎる事業でした(一夜にして破産する可能性も…)。このため、複数の商人や金融家が資金を出し合う形態の方が適しており、資本を証券化するという分散的な手法はリスク管理の面からは理に適っていたとも言えます。

 加えて、東インド会社が設立された時代とは、欧州各国がアジアやアフリカの植民地支配を強める時期でもありました。このことは、政府から独占の特許状を付与された東インド会社にあっては、純粋なる貿易会社ではなく、植民地経営をも担う組織体としての政治的な側面を与えることとなります。株式会社の形態において、株主に対して総会での議決権といった経営に介入する権限を付与している理由は、案外、その出発点における政治性に求めることができるかもしれません。東インド会社にあっては、経営者、株主、並びに政府が混然一体化しているのです。

 株式会社誕生の経緯にはそれ独自の時代背景を見てとることができるのですが、同形態は、起業に際して多額の資本の調達を要する事業にとりましては好都合であったため、貿易会社以外の事業にも用いられるようになり、今日、最も一般的な企業形態として定着します。しかしながら、その出発点を検討してみますと、当時の時代背景を引き摺っている故に、必ずしも、現代という時代の経済に適合しているわけではありません。例えば、強すぎる株主権、あるいは、経営と株主との未分離は、幾つかの問題を提起しています。

通常、債務者が債権者に対して債務を返済すれば、両者の関係は完全に切れます。ところが、株式会社の発行済みの株券には、証券取引所の登場もあって、社債や直接融資とは異なる永続性という特徴があるのです。このため、企業は、常に株主から経営介入を受ける立場にあり続けます。つまり、株式会社の形態は、株主側に有利な条件を与えているのです。

また、株券の保有が経営権と結びついているため、過半数以上の株式の購入、あるいは、主要株主の地位を手にすることが、同企業の取得と同義に解されています。今日、敵対的買収であれ、友好的買収であれ、M&Aが極めて活発なのもこの仕組みによるものです。今般、日産と仏ルノーとの統合問題で注目を集めているように、複数の企業の上部に持ち株会社を設ける方式は、企業結合の一つのスタイルともなっています。いずれにせよ、株式取得による企業買収は、企業側からしますと、自社の主体性、あるいは、独立性を失うことを意味します。人身売買とまでは言わないまでも、たとえ相手企業が抵抗しても、‘お金で買い取る’ことは可能なのです。この側面は、競争法の観点からすれば、独占・寡占のみならず、個々の企業の自由な経済活動を阻害する集中の問題をも提起しています。

加えて、証券市場を舞台とした投機行為がバブルとその崩壊を、幾度となく引き起こしてきました(金融家による仕掛けや八百長もあり得るかもしれない…)。経営に問題がなくとも、金融危機の発生によって経営が傾いたり、株式の暴落で企業が潰れるケースもあるのですから、経済や人々の生活の安定という側面からしますと、罪深い面でもあります。

グローバル化の中で経済大国に成長した中国の巨大企業は‘現代版東インド会社’とも言え、政治と経済が混然一体化しています。株式会社の制度が株主に有利である点を考慮しますと、この形態は、中国、あるいは、同国の債権者の世界支配戦略にも有利に働くことでしょう。共産主義はもっての他としても(究極の独占であり、改悪にしかならない…)、政治と経済の両面において様々な問題が噴出する中、その原因探求と解決への道を探るにあって、株式会社の形態を、そのプラス面とマイナス面の両面を含めて一から見直してみる作業も決して無駄ではないように思えるのです。

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ゴーン前日産会長の報酬は低い?-役員報酬日本異質論への疑問

2018-12-01 15:10:35 | 国際経済
本日の日経新聞朝刊の一面には、日産のゴーン前会長の逮捕事件に関連し、事件の背景として日本企業の役員報酬が諸外国と比較して低い現状を指摘する記事が掲載されておりました。‘日産からの報酬額は低すぎる!’とするゴーン容疑者の不満が、同氏をして不正行為に走らせた心理的要因と言うことになります。しかしながら、この説明、幾つかの点で疑問があるように思えます。

 第1に、同記事では、役員報酬のみに注目し、国際人材獲得競争において日本企業が劣位になると説明しております。しかしながら、企業収益とは、基本的には、社員(非正規雇用も含めて…)、経営陣、株主の3者において分けられますので、仮に、役員報酬を増額しますと、ゼロ・サム関係にある他の二者に対する配分を減らす必要があります。人材獲得競争の面からすれば、社員報酬を減らせば優秀な社員が集まらなくなり、企業全体としての競争力が低下する恐れがあります(全ての企業が役員報酬の比率を高めれば、同時に消費マインドも冷え込み不況に…)。となりますと、減額対象は株主配当となるのですが、今度は、株価が下落する別のリスクが発生します(もっとも、企業収益への貢献度からすれば、社員>株主では…)。そこで、最後の手段となるのは報酬ではなく経営にかかる費用の節減なのですが、役員報酬の増額を目的とした人員削減では現場が悲鳴を上げますし、現状でも低レベルにある研究・開発費を削れば成長の芽を摘み、製品やサービスの国際競争力は低下することでしょう。日本企業が役員報酬を上げた結果国際競争力が低下し、プラスよりもマイナス面が上回るようでは本末転倒となります。

 第2に挙げられるのは、ゴーン容疑者自身が報酬の不正隠蔽の動機として説明したように、巨額の役員報酬は社員の士気を下げるマイナス効果がある点です。今でこそGAFAといった情報通信分野での新興米企業がプラットフォーマーとして全世界においてトップランナーの地位にありますが、巨額報酬の慣行は、必ずしも米企業全体の業績アップに貢献してきたわけではありません。逆に、米企業の競争力の低下要因として、経営陣の巨額報酬が指摘されるケースもあるのです。日産の救世主として登場した仏ルノーをみましても、その収益の半分は日産に依存しているのですから、巨額の役員=企業業績の等式には疑問があります(巨額の役員報酬は仏ルノーにとってはプラスですが、日産にとっては利益が吸い取られてしまう要因に…)。否、役員報酬が低い会社ほど社員の士気が高くなり、企業業績にはプラスの作用する可能性もあるのです。

 第3に疑問となるのは、役員報酬に関する日本企業に対する批判は、海外企業との比較によるものであり、その大前提に、海外から優秀な外国人人材を呼び込むという発想がある点です(日本人には経営の才能がない?)。しかしながら、ゴーン元会長の行動が示すように、外国人の企業トップはグローバル戦略で経営判断を行いますので、日本企業を‘捨て石’、あるいは、‘踏み台’にする戦略をも躊躇なく選択することでしょう。グローバリストの立ち位置にある外国人トップは、日本人社員のみならず、日本国や日本国民に対しても何らの責任意識もありませんので、如何なる非情な決断をも下せるのです。乃ち、今後、日本企業の多くが率先して外国人をCEO等の幹部として招くとすれば、日産と同様の事態が多数生じるものと予測されるのです。因みに、現在、参議院では入国管理法改正案が審議されておりますが、単純労働者も外国人、経営者も外国人という企業が日本国内で増加し、さらには、対日投資という名の外国企業による買収件数も増えれば、日本経済はその枠組みを失いやがて融解してゆくことでしょう(民間企業や外国が入り混じった共同植民地化?)。

 そして、第4点として挙げられるのは、多様性を尊重すればこそ、企業文化も国ごとに個性があり、違いがあっても良いのではないか、という点です。日本国の協力や調和を重んじる企業文化は、幸せの共有を是とする‘一億総中流’を実現してきました。競争が激化したグローバル化の時代にあって、‘一億総中流’は古びた考え方とされておりますが、国民の皆が一定の生活レベルを確保できたのですから、人類史上稀にみる偉業であったとする評価もあり得るはずです。無理をしてまで画一化されたグローバル・スタンダードに合わすことなく、多様な企業文化の一つとして日本型モデルを維持することこそ、長期的に見れば人類の発展に寄与することになるかもしれません。企業文化や企業モデルについては、結論を急ぐ必要はないように思えるのです。

 役員報酬の問題は、企業収益の適正な配分はどのようにあるべきか、といった問題に留まらず、企業文化の多様性に如何に対応すべきか、あるいは、人は何のために働くのか、さらには、経済の存在意義といった根本的な問いをも含んでおります。ゴーン日産前会長の逮捕事件は、行き過ぎたグローバリズムの問題点を洗い出すチャンスとすべきではないかと思うのです。

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