イギリスにおける1836年の穀物法の廃止は、自由貿易主義の正しさを歴史的に証明したとする見方は、1837年から1874年あたりまでの一時期だけを切り取った場合にのみ、言い得るように思えます。否、‘黄金時代’とされたこの時期でさえ、必ずしも‘輝かしい’ばかりではありません。中小規模の農家は没落の運命を辿るからです。1870年をもってイギリスの耕地面積は史上最大を記録しつつも、それは、大規模借地による農業経営規模の拡大に寄るものでした。いわば、規模の拡大と合理化によって、穀物法廃止後の自由貿易主義の時代を凌いだとも言えましょう。
自由貿易主義者は、たとえ中小規模の農家を犠牲にしたとしても、先進的な農法の導入、農作業の機械化、並びに規模の拡大によって農業が生き残ることが出来れば、何も問題はない、と反論するかも知れません。ところが、この‘黄金時代’も長くは続きませんでした。中小農家の切り捨てという多大な犠牲を払ったものの、その後、イギリスの農業は苦境に立たされることとなるからです。それは、‘黄金時代’において農業の繁栄を支えていた要因や幸運が、全て失われてゆく過程でもありました。
中でも特筆すべきは、国際競争における敗北です。規模においてはるかに優るアメリカやカナダ等の諸外国からの低価格な穀物が大量に流入するようになったからです。これらの諸国では、中西部の開拓等によって広大な穀倉地帯が出現し、農業経営が軌道に乗ると過剰生産を抱えるに至ります。この結果、自由貿易主義を貫くイギリスは、格好の輸出先となるのです。この局面では、イギリスにおける農地集約や経営の近代化等は、もはや自国産の穀物の競争力を支えることはできなくなります。農業事業者一件あたりの耕地面積には格段の差がありますので、‘規模の経済’においてイギリスは、アメリカやカナダ等に太刀打ちできなくなるのです。
また、穀物法が廃止された頃には、大西洋における海上輸送力は脆弱でした。ところが、産業革命を背景とした造船技術や航海術の発展により、船舶による大量の穀物輸送が可能となります。このことは、海外からの輸入コストをさらに押し下げ、20世紀の初めには、パン用小麦粉の75%が輸入であったとする説もあります。そして、1870年をピークとして農地面積も減少を続け、1901年には半減してしまったとされているのです(約330万エーカー⇒約160万エーカー)。
かくして、イギリスの食糧自給率は低下の一途を辿ることとなったのですが、この局面にあっても、イギリス政府は、自由貿易主義を‘国是’として堅持します。全世界に自由貿易体制を構築してきた手前、穀物法を復活させることはなかったのです。そして、イギリスがようやく同政策を転換するのは、第一次世界大戦を待たなければなりませんでした。ドイツの潜水艦による大西洋における輸送妨害等により、穀物の輸入が困難となり、自国で生産せざるを得なくなったからです。ここに来て、ようやくイギリス政府は、食糧増産の方向へと農業政策を転換させるのです。
それでは、第一次世界大戦の終息をもってイギリスは、自由貿易主義に復帰したのでしょうか。実を申しますと、これを機に、同国の政府は、自由貿易主義という理念に殉じるよりも、現実を選択することとなります。1940年代から条件が不利となる耕作地に対する補助金の給付制度を開始し、EU加盟時代にあっても共通農業政策(CAP)の下で農業保護政策を実施しています。そして今日に至るまで、イギリスは、手厚く自国の農業を保護しているのです。
以上に、穀物法廃止の顛末を見てきましたが、イギリスの農業保護政策については、農家への直接補償と関税とは違う、とする反論もあるかも知れません。因みに、現状にあっては、輸入穀物に対する関税率は0%であっても、畜産品や加工食品等に対しては関税を課しています。結局、自由貿易が全ての諸国にとりまして必ずしも利益となるわけではないことは、イギリスが自らの身をもって証明したとも言えるのではないでしょうか。地理的条件や気候条件等に起因する様々な格差や産業構造の違い、あるいは、テクノロジーのレベルが国際競争力における優劣と利益の不均等をもたらし、自由貿易理論が‘最適な国際分業’として容認する劣位産業の淘汰は、現実には容認できないことがあることを・・・。この側面は、グローバリズムとも共通しています。イギリスの事例は、歴史の教訓に満ちていますので、日本国政府、並びに、全ての諸国の政府は、今一度、経済や通商の在り方を見直すべきではないかと思うのです(つづく)。