万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

’ガラパゴス’でも悪くないのでは?

2021年12月16日 13時59分19秒 | 国際経済

 グローバル化の時代にあって、日本経済が衰退した主たる原因の一つとしてしばしば指摘されているのが、’ガラパゴス化’です。このガラパゴス化という言葉、否定的なニュアンスを含むのですが、行き過ぎたグローバリズムを前にしますと、必ずしも悪いとは言い切れないように思えます。

 

ガラパゴス現象とは、『種の起源』の著者として知られるチャールズ・ダーウィンが、調査のためにガラパゴス諸島を訪れた際の観察に因んで命名されています。大陸から900㎞離れた東太平洋上にある同諸島は、他の種と隔絶されてきたため、独自の生態系を発展させていたからです。独自性は強いのですが、その分、外部からより凶暴で繁殖力のある生物が上陸すると、あっと言う間に淘汰されてしまう運命が待ち受けているのです。

 

もっとも、ガラパゴス化は、ガラパゴス諸島といった小さな孤島に限った現象ではなく、比較的大きな島嶼においても観察することができます。例えば、日本列島の生態系にあっても、アメリカ大陸からブラックバスやブルーギル等が上陸したことにより、日本古来の淡水魚が危機に瀕する事態となりました。琵琶湖では、アユ、ビワマス、ホンモロコ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナ、ビワヒガイ等の淡水魚がブラックバスの餌食となり、その生息数は激減してしまったそうです。外来種による従来種の駆逐の事例は枚挙に遑はなく、‘強者生存’も、生物界の宿命のようにも思えてきます(‘適者生存’では、環境に変化がない場合における、外来種が従来種を淘汰するケースについては説明できない…)。かくしてガラパゴス諸島での観察と未来予測はテクノロジー等にも応用され、孤立状態において進化してき技術や製品の生存危機を表す用語として広く使われるようになったのです。

 

しかしながら、生存競争に優る’強者’が、必ずしも’良いもの’とは限りません。巨大魚のブラックバスは、フィッシングを趣味とする人々にとりましてはエキサイティングな釣りを味わえる’良いもの’ではあっても、他の多くの人々は、鮎や本諸子、鱒に鮒といった従来種や固有種を愛でるのではないでしょうか。食材としておいしさのみならず、絵に描かれたり、詩歌に詠われたり、季語として使われるなど、日本の文化や日本の食生活に溶け込んできたのですから。海外から日本を訪れる人々も、外来種しか生息していない日本の湖水など、面白くも何ともないことでしょう。文化や生活の豊かさや奥行きの深さ、そして、人々の繊細な感覚を呼び起こし、感受性を育む環境は、強者が弱者を無慈悲に駆逐してしまう状況下においては成立し得ないのです。

 

外来種が生態系に与えるマイナス影響は、やがて人々に危機感を齎すこととなり、政府もまた、従来種や固有種の保護に取り組むと共に、外来種の規制に乗り出すに至ります。今日では、外来生物法が制定され、生態系に悪影響を与える外来種の飼育、運搬、売買、放流、そして輸入が禁じられたのです。このことは、野生生物であれ、完全に国境を越えた移動を自由化すれば、人為的な介入によってしか、生態系は保護され得ないことを示しています。否、生物の多様性の保護のためには、ガラパゴス状態を保つ方が望ましいと言えましょう。

 

以上に生態系におけるガラパゴス問題を見てきましたが、生物の世界と経済の世界とを同列に論じることはできませんが、今日の経済のグローバル化、あるいは、デジタル化の行く先には、どこを見回しても凶暴性と繁殖力のあるブラックバスやブルーギルしか生息しない世界が待っているような予感がします。そして、強者による独占や寡占化の末、もはや進化の余地のない行き詰まり、あるいは、人類文明が退化しまうようにも感じられるのです。こうした停滞した未来が予測し得るからこそ、敢えてガラパゴス化を目指すという方向性もあって然るべきように思えます。それは、真の意味での多様性の尊重であり、独自に発展した別系統のテクノロジーや知の系譜があればこそ、人類は、隘路から脱出、あるいは、これを事前に回避することができるかもしれないのですから。


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経済成長=デジタル化ではないのでは?

2021年11月08日 16時44分45秒 | 国際経済

 発足間もない岸田政権の経済政策におけるキーワードは、’成長’と’分配’なそうです。もっとも、18歳以下を対象とした10万円給付策などの具体的な政策を見ますと、’分配’への偏りがあり、’成長’を促す戦略が描かれていないとする指摘もあります。このままでは、再分配を主たる統治機能とする国家体制、即ち、社会・共産主義国家に向けて変質しかねないことから、成長戦略の欠如はとりわけ問題視されることとなったのです。

 

 しかしながら、考えても見ますと、日本国のみならず、全世界を眺めましても、成長戦略はデジタル化の一択となっているように思えます。あるいは、デジタル化+脱炭素であるのかもしれません。何れにしましても、成長=デジタル化という構図が既に固定化されており、政府もマスメディアも、デジタル化、あるいは、DX(デジタルトランスフォーメーション)こそ経済成長をもたらす唯一の道として喧伝しているのです。この構図から抜け出すことは難しく、多くの人々の思考に、既定路線としてしっかりと刷り込まれてしまっていると言えましょう。

 

しかも、この構図は、政権に拘わらず、不変です。日本国内にありましても、安倍政権、菅政権、そして、岸田政権と推移してきましたが、何れの政権にあっても、デジタル化は成長戦略の要に位置づけられています。’デジタル化にあらずんば成長にあらず’の如きなのです。このことは、言い換えますと、成長戦略は存在しないのではなく、凡そデジタル化一つしかないのです。

 

しかしながら、現実を見ますと、デジタル化が経済成長をもたらしているのか、と申しますと、怪しい限りとなります。何故ならば、先ずもってここ数年来、急速にデジタル化は進みましたが、経済成長率がデジタル化率と正比例して上昇しているわけではないからです。長期経済停滞からの脱出するためにはデジタル化は必須とされながら、実際にデジタル技術が浸透しても、誰もが、デジタル化の恩恵を実感している状況とは程遠いのです。

 

それでは、何故、デジタル化は経済成長と結びつかないのでしょうか。デジタル技術とは、その本質において管理や手続きの合理化、あるいは、省力化の手段です。AIによって雇用が奪われるとする警戒論がありますが、この側面は、AIに限ったことではなく、IT全般にも言えましょう。経済成長の意味するところが、GDPの増加率を意味するとしますと、デジタル化は、むしろGDPの低下要因として働く可能性の方が高いのです。例えば、スマホ一台あれば、かつての電話、ラジオ、テレビ、カメラ、レコーダー、カセットデッキ、辞書…といった多種多様な機能が全て提供されるのですから、デジタル化は、製品の多様化の方向ではなく、単一化の方向に作用することとなりましょう。また、近未来像として、仮想空間におけるサービス事業が数十兆円規模の市場に成長するとする説もありますが、仮想空間において自らのアバターが活動したとしても、実体経済に実需をもたらすとも思えません。仮想空間においてアバターが何らかのサービスを受けるとしても、それは、’人’ではなく、あくまでもデジタル画像に過ぎないからです。やがて、人々は、自らは自室に閉じ籠り、外部的な活動は、すべてパソコン、あるいは、スマホ等のIT機器の操作によって仮想空間で行うようになり、それと反比例するかのように、現実空間においては多くの職業が消えてゆくかもしれません。仮想空間における将来的な事業規模の試算は、同事業の拡大によって淘汰されてしまう事業分野については計算に入れていないのです。

 

このように考えますと、経済成長=デジタル化の等式において経済戦略を定めるよりも、デジタル化、並びに、AI導入の促進によって発生が予想される失業や淘汰にどのように対応すべきか、という問題にこそ真剣に取り組むべきかもしれません。そしてそれは、’現実経済’の再活性化策ともなるのではないでしょうか。


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資本主義が古くなった時代の’新しい資本主義’とは?

2021年11月05日 13時15分33秒 | 国際経済

 今般、岸田内閣が発足するに際して提唱されたのが、’新しい資本主義’という政策方針です。’新しい’という形容詞は、従来には存在していないものに付されるのですが、この’新しい資本主義’という表現には、いささか戸惑いを感じざるを得ません。何故ならば、今日、’資本主義’という言葉自体がもはや死語になりつつあるからです。

 

 この問題を考えるに当たっては、先ずもって’資本主義’とは何か、という言葉の定義から論じなければならないのですが、一般的には、共産主義に対する’反対語’として理解されてきた節があります。このため、’新しい資本主義’とは共産主義ではないか、という穿った見方も生じるのですが、歴史を振り返りますと、産業革命を背景とした’資本家’による労働者搾取の問題が共産主義を生み出していますので、一般的な理解とは逆に、実のところは共産主義が’資本主義’の対抗思想なのでしょう。否、マルクスこそ、自らの理論を正当化し、’敵’を明確化するために、’資本主義’という概念を造り出したと言っても過言ではないかもしれません。

 

この流れからしますと、共産主義が登場する以前にありましては、通商政策や金融政策、あるいは、農業政策などの方針に違いがあったとしても、国家体制と結びつく形での〇〇主義というものは存在していなかったのかもしれません。経済は経済であって、とりたてて体制としての区別があったわけです。しかしながら、共産主義の登場は、世界を凡そ資本主義と共産主義の二つに分断してしまいました。そして、共産主義国家である中国までもが経済にあって同主義を放棄している今日、資本主義の意味するところはいよいよもって曖昧となり、掴みどころがなくなっているのです。

 

 それでは、資本主義とは、経済史において何らの特筆すべき特徴もなければ、意味もなさないのでしょうか。資本主義が漠然とした経済というものの中に融解してしまいますと、今日の経済が抱えている問題点も理解し難くなります。そこで、仮に、資本主義を共産主義から切り離して定義するとすれば、’資本’という言葉を含む以上、資本家牽引型、金融牽引型、あるいは、株主至上主義の経済としてその特徴を描くことができるかもしれません。

 

 歴史的に見ますと、経済が資本家や金融に牽引されるようになるのは、17世紀以降であり、それは、オランダ東インド会社に始まるとされる株式会社、否、証券の登場と無縁ではないように思えます。証券の登場により、株主は、単なる債権者や融資者に留まらず、企業に対する株主の権利を有するようになったからです。この結果、いつの間にか、企業は株主の所有物となり、売買の客体として扱われると共に、最悪の場合には、配当という名で’搾取’される立場となりました。今日、M&Aが盛んとなり、敵対的買収や売買益を見込んだファンドによる買収が頻繁に見られるのも、株主の権利が重すぎることによります。グローバルな時代では、表看板は自国企業であっても、その実験は海外の株主に握られていることは珍しくはないのです(政治家も、海外資本に’買収’されているケースも…)。この傾向は、グローバル化と共にさらに強化され、直接金融を担う銀行に対しても、BIS規制により、貸出量を預金ではなく自己資本を基準とする方向に転じました。そして、メディアもまた、企業に対して、株式配当率を上げることこそ資金集めと成長のカギとなると説き、株主優先主義の宣伝に努めているのです。

 

 もっとも、こうした株主至上主義に対しては、格差の拡大や’隠れた植民地化’のリスク等から漸く批判的な意見が出現するようになり、2019年のアメリカの経営者団体、ビジネス・ラウンドテーブルに続き、翌2020年には、かの悪名高きダボス会議でさえ、資本主義の見直しを提起することとなりました。株主の利益を最優先する企業経営から、従業員、取引先、地域社会といった他のステークホルダーの利益をも考慮するものへと…。もっとも、これらの提言は経営者視点ですので自ずと限界はあるのでしょうが(もしかしますと、企業側の資本家、あるいは、金融勢力からの‘独立宣言’なのかもしれない…)、少なくとも、株主が様々なステークホルダーのうちの一つに過ぎなくなるのであれば、‘資本主義’という表現は最早相応しくはなくなります。

 

 このように考えますと、’資本主義’の先は’新しい資本主義’ではなく、別の表現であるべきとなりましょう。古いものに’新しい’という言葉を添えても、決して’新しく’はならないのですから。


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’一億総中流’は復活するのか?

2021年10月13日 13時35分33秒 | 国際経済

 

 この結果、今日、所得格差の問題は、与野党を越えた共通認識に至っています。発足間もない岸田内閣も’新しい資本主義’の名の下で労働分配率の向上を訴えていますし、立憲民主党もまた、’一億総中流復活’を掲げて来る衆議院選挙を闘うと報じられています。いわば、新自由主義からの脱却と格差の是正は、左右何れの政党にあっても、国民に対する最大のアピール要因となっているのです。

 

 しかしながら、ここで注意を要するのは、70年代と今日とでは、時代状況が著しく違っている点です。高度成長期の日本国とは、旧通産省が主導した輸出牽引型の経済が日本国全体を潤す好循環が続いた時期に当たります。この時代、安価で高品質な日本製品は凡そ全世界の市場を席巻し、かのエズラ・フォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称したように、’向かうところ敵なし’の状況にありました。官主導の輸出産業の育成⇒円安政策⇒輸出拡大⇒貿易黒字の積み上げ⇒国内マネー供給量の増加⇒民間企業の収益+国民所得の上昇⇒消費+投資の拡大⇒ハイテク分野等の開拓⇒技術力の向上⇒新製品の開発⇒輸出の拡大…というように、国民皆が富む理想的な好循環が実現した時代とも言えましょう。

 

しかしながら、日本経済が栄華を極めた時代は1985年のプラザ合意とその後に続くバブル崩壊によって終焉を迎え、先述したように’一億総中流’も、グローバリズムとマッチした新自由主義に道を譲り、格差容認へと転換してゆきます。そして、今日、再び一億総中流が叫ばれているのですが、上述したメカニズムが働く条件が揃っているとは思えません。何と申しましても、グローバリズムが押し寄せているからです。日本経済の敗因は、グローバリズムの波に乗り遅れたからなのではなく、グローバリズムは、日本国民を豊かにしたメカニズムを根底から揺さぶり、ゲーム・チェンジが起きたからなのでしょう。

 

少なくとも、今日の日本国には70年代のような輸出競争力は備わっていませんし(円相場も遥かに円高に振れている…)、’世界の工場’の椅子には中国が座ったままです。日本企業の多くも生産拠点を海外に移しておりますし、米中の巨大グローバル企業と比較すれば、日本の大企業でさえ中小企業となります。即ち、国内生産と輸出を原動力とする好循環は、働きがたく、国内消費が拡大したとしても、逆に輸入が増加するかもしれません。条件や状況が等しくないのですから、当然に、今日にあって’一億総中流’を唱えたとしても、それは、70年代の引き写しではないはずです。それでは、どのようにしたら’一億総中流’は実現するのでしょうか。

 

中国でも、習国家主席が示した「共同富裕」という新たな政策目標に対して”共同貧困”ではないかとする指摘もありますが、日本国もまた、政策次第では’一億総下流’となるかもしれません(あるいは、’一億総中華化’?もしくは徹底した平等化の果ての全体主義化?)。岸田政権下がアピールしている’成長と分配の好循環’も、成長なき単なる所得移転政策、あるいば、再分配政策に終わる可能性もありましょう(ばらまき政策…)。また、民間企業の労働分配率を上げたとしても、成長産業とされる分野においてIT大手が日本国内にプラットフォームを敷き、凡そ独占・寡占状態で有利にビジネスを展開している現状では、成長戦略の一環としてデジタル化やIT化を進めれば進める程、日本国からの富の流出は増加の一途を辿る未来も予測されます(日本企業の国内シェアが低下し、企業収益も減少すれば、労働分配率を上げても国民は豊かにはなれない…)。

 

内外を問わず、政治家は、兎角に’新しい〇〇主義’、あるいは、’〇〇ノミクス’という言葉を使う傾向にありますが、手を変え品を変えているだけで、本質的なメカニズムの部分は何も変わっていないように思えます。このように考えますと、’一億総中流、即ち、健全な良識を備えた厚い中間層の再形成’を目指すならば、あらゆる国境障壁を完全に取り除き、全世界を’総デジタル社会化’へと方向づける資本家牽引型のグローバリズムの見直しは不可避なのではないでしょうか。そしてそれは、70年代とも違い、国境の調整機能をも備えた国民還元型のメカニズムとなるのではないかと思うのです。


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自由貿易主義とグローバルズムが’別物’である問題

2021年09月30日 15時02分33秒 | 国際経済

 今日、多くの人々は、グローバリズムは自由貿易主義の延長線上にある、あるいは、前者は後者の拡大版であると考えているようです。実際に、両者を明確に区別する政治家は少なく、二国間、あるいは、多国間で自由貿易協定や経済協力協定などの通商協定を締結するに際しても、古典的な自由貿易論を以って相互利益を国民に説いています。しかしながら、両者は、似て非なるものなのではないかと思うのです。

 

 EUなどを見ましても、1957年のEEC設立以来、‘財’、‘サービス’、‘資本(マネー)’、‘人(労働力)’といった移動要素は同列に扱われており、この表現からしますと、主として貿易を意味する‘財’と他の3つの要素との間に然したる違いは見受けません。貿易に際して各国が設けている関税が撤廃されますと、‘財’が国境を越えて自由に移動するようになりますので、人々は、自由貿易=関税障壁の撤廃とするイメージを持つようになります。そして、このイメージから類推して、グローバリズム=非関税障壁の撤廃と見なすようになるのです。言い換えますと、同構図により、財と他の3つの要素の自由化における質的な違いが見え辛くなったと言えるでしょう。

 

 しかしながら、’自由移動’という言葉の魔力に惑わされがちなのですが、移動には、それを決定する’主体’というものが存在しているはずです。財の移動、即ち、貿易の場合には、売買、即ち、交換を行う双方が決定者となります。つまり、双方の経済圏における相対的希少性に基づく価値の違いにより相互利益を生み出すのが貿易のメカニズムですので、輸出入取引を行う双方の事業者の意思の一致がない限り、貿易は成立しないのです(もっとも、輸出入のバランスが保てないと貿易収支の不均衡問題が生じ、貿易の継続が困難となる…)。相互利益が最も確かなのは、相互に自国の’特産品’を輸出品とするパターンですが、経済格差が存在する場合には、相対的に低価格となる産品(リカード流に言えば、生産性において比較優位性のある商品…)が輸出品となります。何れにしても、関税撤廃を意味する自由貿易主義は、基本的には、’交換’の概念で説明されましょう。

 

 その一方で、’サービス’、’投資(マネー)’、’人(労働力)’に関する非関税障壁の撤廃につきましては、別の作用が強く働くように思えます。何故ならば、これらは’モノ’ではなく、意思決定能力を有する主体の自由移動ですので、海外企業、海外資本、並びに、外国人労働者などが、国境という障壁なく国内に流入し、内部化されることとなるからです。この場合、市場の競争メカニズムにあっては、規模の経済が優位に働きますので、国内に競争力を有する企業が存在しない場合には、米中等のIT大手をはじめとしたグローバル大企業が国内市場にあって有利なポジションを占めることでしょう。その決定権は、もちろん、日本市場を含むグローバル市場で事業を展開している海外企業側にあります。投資につきましても、自国企業への融資のみならず、株式保有等を介して自国企業の経営にも影響を与えます。海外投資ファンドが、キャピタルゲインの獲得を目的に自国企業を買収したり、国内不動産を買い漁るケースもあり得ます。加えて、海外労働力の移入は、グローバル企業を含む国内の雇用主と海外被雇用者との契約に基づきますので、他の国民の意思は全く考慮されないのです。

 

サービス、資本(マネー)、人(労働者)などの自由移動を前提としたグローバル化とは、国境を隔てた主体間のモノの’交換’の論理ではなく、全世界を対象に利益の最大化と拠点の最適化を目指すグローバル戦略の論理によって説明されます。そして、この国家レベルの市場開放による多様な要素の流動化は、グローバルレベルでの意思決定が国内に及ぶことを意味しており、それは、その国の政府や国民の合意を最早要さないのです。国家にとりまして、同状態は、超国家権力体による’現代の植民地化’、あるいは、’属国化’のリスクともなり得ましょう。今日、自由貿易主義とグローバリズムの違いを明確化することは、同時に、グローバリズムのリスクの認識をも意味するのではないかと思うのです。


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日本も金融国際センターは幻か?-海外ファンド優遇策への疑問

2021年06月16日 14時55分51秒 | 国際経済

 先日、6月13日の日経新聞の朝刊一面に「ファンド日本参入迅速に」というタイトルの記事が掲載されておりました。どのような内容の記事かと申しますと、日本国の金融庁が、海外にあって既に実績のある海外のファンドに対しては、財務状況等の厳しい審査や手続きを撤廃するというものです。その目的は、’成長資金や金融人材の獲得を巡る激しい競争の中で、日本も国際金融センターの実現を目指す’ことにあります。

 

 実を申しますと、このフレーズ、随分と前からしばしば耳にし、既に使い古されてしまった感もあります。日本国政府が、自国の金融市場を開放する、あるいは、外資誘致政策を実施する度に、’日本も国際金融センターに’という理由がもっともらしく付されてきたからです。しかしながら、現実に目を向けますと、国際金融センター化は永遠に叫び続けられている空虚な掛け声に過ぎないように思えてきます。

 

 民主党政権の時代から菅直人首相の下で日本国は’第二の開国’と称し、国内市場の開放政策を積極的に推進してきました。この方針はアベノミクスにも引き継がれ、海外から資金を呼び込むことを以って、日本経済のバブル崩壊以来の長期低迷から脱出策としようとしたのです。そして今日も、新自由主義の強い影響もあって’海外ファンドウェルカム’の姿勢は強まるばかりであり、今般の海外ファンドに対する優遇策もその延長線上において理解されましょう。かくして、海外ファンドは、日本国政府が率先して丁重に’おもてなし’をすべきお客様となったのですが、果たして海外ファンドの呼び込みは、日本国に国際金融センターの地位をもたらすと共に、経済にとりまして成長要因となるのでしょうか。

 

 そもそも、ロンドンやニューヨークが国際金融センターの地位を獲得したのは、英ポンドや米ドルが国際基軸通貨として貿易決済に使用されていたからに他なりません。同条件からしますと、かつての輸出大国ぶりは影を潜め、黒字幅も縮小傾向にある日本国が、今後、自国通貨の円を以って国際金融センターの地位を確立し得るとは思えません。現実には、国際金融センターではなく、’国際金融サテライト’、即ち、国際金融勢力がその資金を運用並びに調達すると共に、自らのグローバル戦略に基づいて日本企業や日本国内のマネー・フローをコントロールする拠点として機能する可能性の方が余程に高いのではないかと思うのです。

 

 とりわけ、日本経済の復活などは海外ファンドの眼中にあるはずもなく、その目的は、事業のグローバル展開における収益の最大化です。当然に、日本国内に投資するとは申しましても、資金力にモノを言わせる、あるいは、自らが流行らせた’選択と集中’によって日本企業が手放した事業部門を買収し、グローバルレベルで事業再編を図ることにあるのかもしれません。つまり、日本企業、あるいは、その一部事業を買収した後、それを中国企業等他のアジア諸国の企業に売却する可能性も否定はできないのです。また、東芝が海外ファンドなどの’物言う株主’によって翻弄されているように、海外ファンドが大株主となった日本企業の多くは、海外株主からの経営介入に苦慮することともなりましょう。そして、その介入方針が日本経済にプラスに作用するとは思えないのです。巨大ファンドによる事業買収は、今日、国際レベルにおける’新たな集中’、即ち、経済支配の問題をも提起しているのかもしれません。

 

 果たして海外ファンドは、優遇措置を与えるに相応しい日本経済の’救世主’なのでしょうか。既にグローバリズムは曲がり角を迎え、どの国も地域も守勢に転じてきております。このように考えますと、日本国政府は、海外ファンドへの優遇一辺倒の方針につきましては見直すべきではないかと思うのです。

 


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日中互恵関係は幻想では?

2020年10月13日 11時44分37秒 | 国際経済

 グローバリズムでは、企業規模であれ、市場規模であれ、規模に優る側が圧倒的に有利となります。スケールメリットが強く働く限り、中小規模の企業は淘汰されるか、規模の大きな側に買収されて消え去る運命が待ち構えているのです。グローバリズムにおける主要な勝因は‘規模’ということになるのですが、この側面からしますと、ロジカルに考えれば日本と中国との間の互恵関係はあり得ないという結論に達せざるを得ないのです。

 

 日本国と中国とを比較しますと、市場規模において凡そ10倍程の差があります。人口14億人を擁する中国にあっては、生産量、消費量、労働人口、貿易額など、あらゆる数値において日本国を上回ります。グローバル時代ともなれば、モノ、サービス、労働力、資本などが国境を越えて自由に移動できますので、自国の国内市場を基盤として政府主導でグローバル企業を育てた中国は、市場規模をさらに広げることができるのです。

 

また、広大な領土を有する中国は、レアアースなどの鉱物資源にも恵まれていますし、面積の広さは、インフラ事業等においてもスケールメリットを追求することができることを意味します。例えば、高速鉄道の事業にしても、中国企業は、自国内における高速鉄道網建設プロジェクトに際して構築した大量生産体制を以って、海外諸国に対しても安価に輸出することができます。工業生産品のみならず、中国は、インフラ事業においても強がみを持つのです。

 

以上に簡単に述べたように、グローバル時代にあって、中国は、その自然条件からして圧倒的に有利な立場にあります。市場規模において中国に匹敵するのは、人口が同国と同程度の14億人に迫るインドぐらいしかないかもしれません。言い換えますと、グローバル時代にあって、日本国は、中国に対して勝ち目はなく、‘互恵関係’が成立するとすれば、それは、決して両国対等なものではなく、中国中心の‘グローバル経済圏’において日本国に対して一定の下請け的な分業が割り当てられた状況を意味するのでしょう(たとえ、画期的な技術を日本国のスタートアップなどが開発しても、資金力に優る中国企業に買収されてしまう…)。おそらく、中国側の構想としては、国際分業における日本国の役割とは、中国人向け観光地、高級農産物の生産地、並びに、ハイテク製品の素材提供地(もっとも、中国が内製化できるまでの間…)なのかもしれません。実際に、日本国政府も、この方向に向けて動いているように見えます(インバウンド歓迎、農産物の輸出拡大政策、並びに、プランテーション化を想定した?移民労働者の受け入れ拡大…)。

 

規模を軸にグローバリズムの行く先を予測しますと、日本国の将来は暗いとしか言いようがないのですが、こうした悲観的な予測に対しては、中国が自国市場を完全に開放し、中国企業と他国の企業との間に競争条件を等しくすれば問題はない、とする反論も返ってくるかもしれません。しかしながら、中国は、今日、最先端のITを用いて徹底した国民監視体制を敷いていますので、一党独裁体制の崩壊はますます見込みが薄くなっています。また、イデオロギーにあって政経が一致していますので、中国共産党が、経済に関する権限、否、利権を放棄するはずもありません。しかも、中国の技術力に裏打ちされた経済力は軍事力と直結しているのですから、日本国は、軍事的な脅威にも直面することとなりましょう。つまり、グローバリズムを推進すればするほど、権力と富は共産党、並びに、中国に出資している国際金融組織に集中し、‘暴力とテクノロジーとマネー’によって同体制が強化されてしまうのです。

 

言い換えますと、‘日本国は経済分野にあっては中国との結びつきを強化すべき’と唱えている親中派の人々は、‘中国は変わらない’が現実であれば、日本国に対して、自滅に向けてアクセルを踏むように勧めているようなものです(もっとも、中国から特別に‘分け前’をもらっている少数の人々や企業にとりましては、‘私的な互恵’が成りたつ…)。日本国の未来は中国と結託したグローバリズムの先にはなく、むしろ、中国とのデカップリングを含む保護主義的な方向への転換こそ模索すべきではないかと思うのです。


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給付金も減税も通貨発行権の問題

2020年10月01日 12時23分57秒 | 国際経済

 古来、人々は、凡そメンバーの全員が価値あるものとして認める‘モノ’を、交換に際する価値判断基準=貨幣として使用してきました。そもそも他者との交換を要しない自給自足の生活や物々交換で事足りるような小規模な村落であれば、貨幣は必要とはされません。しかし、人間社会が発展するにつけ、価値判断基準が必要とされるようになり、古代にあっては、希少金属の金や銀(金や銀の重さ)、特別な石やタカラガイなどの自然界で採取し得る‘モノ’も使われてきたのですが、最も多く貨幣として使われてきたのは、金、銀、銅などから鋳造される貨幣です。このように、人類は長きにわたり鋳造貨幣をコインとして使用してきたことから、紙幣が登場してきた後にも、金本位制や銀本位制といった金銀を担保とした紙幣制度も登場してきたのです。しかしながら、もとをただせば、貨幣とは、価値として共通して認められる‘モノ’、あるいは、信用に足りる対象であれば、何でもよかったのです。

 

 何故、今になって、貨幣の起源まで議論を掘り下げなければならないのかと申しますと、新政権において実施が取りざたされている二度目の給付金の配布や消費税率引き下げ論等も、実のところ、貨幣の本質に迫らない限り、莫大な国民負担になりかねないからです。新型コロナウイルスの発生により、今年の4月には一律10万円を給付する「特別定額給付金(約12.5兆円)」を含む凡そ25.5兆円の第一次補正予算が成立し、6月には、補正予算としては過去最高となる31兆9114億円の追加歳出が決定されました。第二次補正予算には、第一次補正予算と合わせますと一般会計総額は60兆円ほどとなり、日本国のGDPの4割に上るそうです。

 

 これらの予算に必要となる費用は、建設国債と赤字国債によって賄われますので、当然に、日本国の財政状況は悪化します。公債の残高は増加傾向に歯止めがかからず、現状にあって、既に900兆円に迫っています。従来の財務省の財政再建優先の立場からしますと、新型コロナ対策によりさらに赤字が積み増すのですから、将来的には大幅な増税が予測されます。コロナ以前の昨年11月、IMFのゲオルギエバ専務理事が訪日した際に、2030年までには消費税率15%、2050年までには20%への引き上げを提言していますので、今後は、消費税率上げに向けた‘外圧’もさらに強まることでしょう。国民各自が10万円の給付を受けても、その分、将来において納税という形で‘返済’することになるのですから(利払いもありますので、‘返済’が済んでも税率は引き下げにはならないかもしれない…)、同政策は、朝三暮四とも言えるかもしれません。

 

 財政をゼロ・サム関係として理解しますと、現在の赤字は、将来の増税で埋め合わされることとなります。菅首相は、ここ10年間は消費税率を据え置くと述べていますが、裏を返しますと、IMFの提言に従い、2030年には突然に15%に上げる方針を示しているのかもしれません。何れにしましても、ゼロ・サム発想では増税は避けられず、国民も戦々恐々とした面持ちとなりましょう。所得水準が低下する中での重税ともなれば、生活水準も落とさざるを得なくなりますし、消費の低迷による景気のさらなる悪化も予測されます。失業率も上昇することでしょう。

 

 しかし、貨幣の起源、あるいは、貨幣の中心的な役割を、個々の提供物がモノであれ、サービスであれ、人々の間の交換に必要となる共通価値基準の提供として捉えますと、政府は、金や債券といった何らかの準備や税収に縛られることなく、歳出を行うことができるようになります。つまり、通貨発行権を行使し、国家の統治機能を含めた経済・社会全体の交換の量=活動に見合った通貨を供給できることになるのです。このことは、通貨におけるゼロ・サム発想からの離脱を意味すると共に、通貨供給量は、人々が必要とする統治機能を含むあらゆる活動に比例することを意味します。

 

 そもそも、金銀といった自然界の埋蔵する共通価値基準は、埋蔵量という制約あり、経済成長に限界を与えます。この制約的側面は、金を本位とする兌換紙幣制度においても変わりはありません。また、最初の所有者は金鉱のマイニングによって決まりますので、政府発行の通貨よりも公平でもなければ(この点、ビットコインも同じ…)、正当性において優っているわけでもないのです。紙幣を詐欺的として害悪視する見解もありますが、こうした考えに基づけば、政府の赤字国債の残高は、国民に必要となる通貨を供給したに過ぎず、返済義務を要する‘債務’ではなくなるのです。すなわち、増税する必要はなくなるのです。この見解は、資本主義の問題とも不可分に関連するのですが、増税の議論も起きている折、貨幣の根源を確認いたしませんと、莫大な債務によって経済が押し潰され、国家自体が崩壊するという愚を繰り返すことになるのではないかと危惧するのです。


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小さな政府のパラドックス―利権配分型の大きな政府へ

2020年09月12日 11時43分43秒 | 国際経済

 小さな政府とは、政府の事業範囲が狭く、財政規模の小さなコンパクトな政府もモデルとして理解されています。政策としては、公益事業の民営化とセットとされており、グローバリズム、並びに、新自由主義の同伴者でもあります。郵政民営化を進めたかつての小泉政権を初め、民営化を叫んだ政治家の人々は‘官から民へ’をスローガンとして掲げ、あたかも、民間企業が伸び伸びとと活動する自由な経済の到来というイメージを振りまいてきたのです。

 

 しかしながら、よく現実を観察してみますと、小さな政府論には、パラドックスがあるように思えます。その理由は、民営化によってもたらされた結果とは、公共サービス分野における大手企業による独占や寡占でしかなかったからです。多くの人々が民営化に対して寄せていた期待とは、公共事業分野が民間事業者に広く開放されることで、多くの企業が同市場に参入し、そこでは公平なルールの下で自由な競争が行われ、利用者が、安価で良質のサービスを受けられる状態であったはずです。実際に、民営化の根拠として強調されたのは、硬直化した公共事業分野に民間の競争メカニズムを導入することで、国民の利益や利便性の向上に資することでした。民営化による最大の受益者は、自由競争の果実を享受し得る国民とされたのです。

 

 ところが、いざ、蓋を開けてみますと、期待とは裏腹に、ソフトバンクグループの孫正義氏のように、‘政商’とも称される、政府と癒着するIT起業家も現れるようになりました(LINEなどのIT大手も、常々、公的事業に入り込もうとする…)。確かに、事業主が国や自治体から民間企業が代わったものの、それは、公平で自由な競争の結果ではなく、むしろ、資金力において優位にあり、かつ、政府に取り入った一部事業者による事業の独占や寡占であったのです(分割後に民営化された事業体は別として…)。それもそのはず、公共事業分野とは、もとより事業の性質上、極めて公共性の高く(その多くはインフラ事業…)、自由競争が働かない分野であるからです。公共サービス分野については、その殆どは独占禁止法の適用除外の対象です。

 

 ここに、小さな政府のパラドックスが自ずと明らかになります。それは、小さな政府政策、即ち、民営化を推進すればするほど、国レベルであれ、地方自治体レベルであれ、政府の許認可権を含む利権や監督権限が肥大化するというパラドックスです。財政規模を基準として分類しますと、小さな政府は、確かに予算規模の‘小さな政府’なのですが、民営化した公共サービス分野における利権や監督権限を含めれば、‘大きな政府’と言わざるを得ません。小さな政府の結果として現れた経済は、それが一部であれ、法の支配に基づくルール型の経済ではなく、むしろ、政府が介在する配分型の経済なのです。

 

 しかも、アメリカではGAFAが積極的に政府や政治家に対してロビー活動を展開しているように、IT大手の資金力や人脈は、政府の政策をも方向付ける力を有します。かくして、様々な事業上の権利を付与する側にある政府(政治家や官僚)は、民間事業者から賄賂攻勢を受けやすい立場となり、腐敗しやすい体質を抱え込むこととなるのです。この側面は、改革開放路線によって、一党独裁の下で権力を独占する共産党幹部が、利権配分によって大富豪となった中国とも共通しています。そして、民営化とは、得てして海外企業への自国市場開放を伴いますので、政府は、中国企業をも含む海外企業からの働きかけをも受けることになりましょう。

 

 小さな政府とは、その実、大きな政府であったというパラドックスは、今後、改めて官民の線引き問題を考えてゆく必要性を示唆しております。そして、小さな政府の実像が、政府と政商企業との癒着体制、即ち、悪しき‘マネー支配’を意味するとしますと、それは、民主主義にとりましても脅威となるのではないかと思うのです。


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コロナ対策費は国債の中銀引き受けを前提に

2020年06月13日 12時07分56秒 | 国際経済

 日本国の財政は、戦後、長らく‘優等生’と評されていた歴史があります。財政赤字とそれに伴うインフレに悩まされてきた諸外国と比較しますと、歳出入のバランスがとれており、財政赤字も採るに足りない程度でした。それが1990年のバブル崩壊を境に一変し、今では世界最大の財政赤字国に一気に転落することとなったのです。今般のコロナ対策費に充てるための国債発行が加われば、近々、その残高は1000兆円を超えることでしょう。

 バブル崩壊の過程における日本国の財政赤字の急激な膨張の原因は、その‘補填的’な性格にあります。財政赤字の補填という意味ではなく、バブル崩壊に伴う日本経済の損失補填(経済補填?)と表現した方がよいかもしれません。当時の日本国政府は、拓銀、長銀、日債銀、山一證券等の倒産は許したものの、総額200兆円ともされる大量の不良債権を抱え込んだ金融機関に対して、積極的な資本投入を試みます。ケインズ主義的な政府による有効需要の創出、即ち、公共事業への積極的な財政支出に加え、金融救済に多額の予算をつぎ込んでおり、これらが日本国の財政赤字を急速に膨張させたのです(バブル崩壊後の財政赤字のバブル化?)。

 しかしながら、この手法、底なし沼にはまるようなものであったようです。バブルにおける損失額は1500兆円にも達したとする説もありますが、金融や企業から家計に至るまでの全般的な損失に対して、政府の赤字国債発行によって賄う方法には限界があります。そもそも、巨額となる政府支出を国民や企業から徴収する税収では賄えるはずもなく、経済ショック後のリセッションにあっての大幅な増税は致命傷ともなりかねません。となりますと、政府が赤字国債を大量に発行して資金を調達するか、もしくは、中央銀行が‘最後の貸し手’としの役割を果たす、あるいは、買いオペを増額して量的緩和策を実施することとなるのですが、日本国政府は財政的手法を選択し、国債の大量発行を以って危機を乗り越えようとしたのです。

 この結果、今日、日本国政府は、財政健全化を理由に消費税率を上げるに至ったのですが、10%上げによる歳入増加分が他の目的で使用され、かつ、今般のコロナ対策での歳出分が加わるとしますと、近い将来、国民には増税ラッシュが待ち構えているかもしれません。IMFも消費税率を20%程度まで上げるように提言しております。コロナ対策にあって日本国政府は、バブル崩壊後の手法を基本的には踏襲していますので、今後、増税不可避論が高まりかねないのです。

 そして、この問題は、日本国のみならず、コロナ対策として経済補填政策を実施した全ての諸国が抱える問題でもあります。欧米諸国の中には、政府による補填の対象が、全額とまではいかないものの、個人や事業者に対してコロナ禍による収益や賃金の減少分にまで及んでいますので、その総額は膨大です。因みに、EUでは、新たな基金を設立してコロナ共通債を発行し、将来的にデジタル課税や環境税等の共通税を以って同債権の償還費に充てるとする構想が議論されています。同構想では、最終的な負担者はグローバルに事業を展開するIT大手や大企業等となりますので、一般のEU市民としましては賛同しやすい構想なのでしょうが、それでも、EUが、巨額の財政赤字を抱え込むことには変わりはありません(発行額が大きいほど、信用不安から公債の利率を上げざるを得ず、利払いが増えるかもしれない…)。

 このように考えますと、経済ショックに対して財政的な手法、つまり、‘国債の発行による財源の確保と増税による償還’という方法を用いることには、相当の無理があるように思えます。とりわけ、今般のコロナ禍のように、経済活動をストップしなければならず、かつ、停止状態が長引くことにでもなれば、財政破綻は目に見えています。あるいは、日本国のように、一度のバブル崩壊により、その後、長期にわたり財政問題に悩まされることとなりましょう。となりますと、別の手法を考案しなければならないのですが、それは、案外、旧来の手法への回帰かもしれません。つまり、政府紙幣の発行とはでいかないまでも、政府発行が無利子で発行した国債を中央銀行が直接引き受けるのです(長期的には、政府紙幣の発行を含め、新たなシステムが必要なのかもしれない…)。

 いわば、‘なかったことにする’方法となるのですが、この方法ですと、政府は、国債発行に伴う償還や利払いの義務を負いませんので、当然に、国民は、間接的な‘借金返済の義務’から逃れることができます。つまり、増税圧力に晒されなくても済むのです。いささか‘開き直った’ような案なのですが(国民の共通財源としての通貨発行益を認める…)、中央銀行引き受けを前提とした方が、国民の多くは、今般の大規模な財政出動に対しても余程安心していられるのではないでしょうか。

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実体経済の再構築に投資を―新型コロナウイルス・ショックへの対応

2020年03月10日 12時39分58秒 | 国際経済

 新型コロナウイルの感染拡大は遂に全世界の株式市場に及び、ニューヨーク証券取引所では、ダウ平均が一日の下げ幅としては過去最高を記録しました。日本国も例外ではなく、日経平均も2万円台を割り込み、世界的な経済減速への不安感が広がっています。新型コロナウイルス・ショックは、全世界規模での株式市場の大暴落という表面的な現象としては、大恐慌やリーマンショックなどの過去に起きた金融危機の発生時と変わりはないのですが、その危機のメカニズムを観察しますと、今般の新型コロナウイルス・ショックには一般の金融危機とは著しく異なる点があるようです。

 第一の違いは、相場下落の原因です。一般の金融危機のケースでは、実体経済と離れた投機的な行動が金融危機を誘発しました。当時、金融機関や個人投資家を含む多くの人々は、値上がり益を期待して株式や金融商品等の買いに殺到していました。市場では所謂バブルが発生していたのであり、このバブル崩壊こそ相場下落の主因なのです(マネーの消失)。買いに走っていた人々が、上昇の限界を予感して売りに転じますと、雪崩を打つように相場の下落が起きたのです。

 一方、新型コロナウイルス・ショックの主たる原因は、中国の武漢に始まる感染症の世界レベルでの拡大です。世界の工場でもあり、かつ、14億の人口を擁する巨大な消費市場でもある中国では、目下、国民に厳しい移動制限や外出制限を課す封鎖が敷かれています。都市部での感染リスクもあって、農村の出稼ぎ労働者は職場に戻らず、工場も稼働停止、あるいは、一部稼働の状態が続いています。今日のグローバル時代にあっては、中国も、完成品のみならず部品等の製造拠点として海外企業のサプライチェーンに組み込まれていますので、生産縮小の影響は同国一国にとどまらず、全世界の企業に深刻な‘供給不足’をもたらすのです(‘供給不足’には、現地日本企業並びに中国企業が生産した完成品、及び、自国での生産に必要な中国製部品等の二つの側面がある…)。しかも、近年では、中国は巨大な消費市場に成長していますので、中国向けに輸出品を製造している、あるいは、現地でビジネスを展開している海外企業にも打撃を与えるのです(‘需要の喪失’)。

 第二の相違点は、連鎖的拡大経路の違いです。一般の金融危機では、金融機関、企業、そして、個人間の貸借関係の破綻が危機を拡大させます。平たく申しますと、‘貸借チェーン’の一部に欠落(債務不履行)が生じると、そこを起点に経営破綻が広がってゆくのです。特に留意すべきは、多角的に複数の貸借関係を構築している金融機関の破綻です。何故ならば、金融機関の破綻は、同心円状に危機が一気に企業から個人に至るまで広範囲に拡大してゆくことを意味するからです。しかも、近年の金融工学の発展とIT化により、危機拡大の速度は一段と速まっています。

 それでは、新型コロナウイルス・ショックの連鎖的拡大経路はどうでしょうか。感染という病理的な意味では、人から人への感染ということになるのでしょうが、経済ショックとしての感染経路はウイルスのものとは違っています。そしてそれは、一般の金融危機とも違っているようなのです。その違いとは、危機拡大の方向性が前者とは逆の点です。上述したように、今般のショックの主因は生産と消費の両面における不足の発生にありますので、実体経済から金融への方向で波及しています。また、集団心理に煽られた特定市場での投機行為を伴いませんので、バブル崩壊時ほどには回収不能、あるいは、不良債権を一気に金融機関が抱え込むこともなく、同機関を中心とした同心円状の危機拡大は発生し難いのです(もっとも、金融機関には株式保有による含み損は生じる…)。

 以上に二点ほど主要な違いを述べてきましたが、この違いは、今般の新型コロナウイルス・ショックに対する対応は、一般の金融危機とは異なる対応となすべきことを示しています。金融発となる後者では、公的資金の投入といった金融機関に対する救済策が主たる手段でしたが、今般のケースでは、実体経済の再構築、あるいは、再生こそが肝要となりましょう。むしろ、実体経済における需要と供給との関係に注目すれば、巨額のマネーが泡と消える金融危機よりも危機脱出は容易であるかもしれません。何故ならば、需給の両面における不足が原因ですので、不足分は補えば解決するからです。

 単純すぎるとする批判もありましょうが、中国からの輸入品の供給不足については、国内生産に切り替える、あるいは、代替輸入先を探すといった方法で対処することができます。それは、グローバルに事業を展開する大手企業にとりましてはサプライチェーンの組み換えとなりましょうし(国内回帰も選択肢に…)、部品や日用品等を製造してきた国内の中小企業にとりましては、失地回復、あるいは、新たなビジネスチャンスともなりましょう。また、中国市場における需要の不足につきましても、新製品や新サービスの開発により国内需要を掘り起こす、または、中国以外の海外市場に販路を求めることで対処し得るかもしれません。そして、金融機関も、株価下落に嘆くよりもこうした企業の経営戦略の見直しにおいてこそ、有望な投資先や財政支援のチャンスを見出すべきなのではないでしょうか(投資判断の基準はSDGsのみではない…)。

 行き過ぎたグローバリズムの歪が顕在化する今日、新型コロナウイルスは人々に禍をもたらしつつも、国内経済とグローバリズムとの関係を再調整し、両者の調和点を探る契機となるかもしれません。そして、今般の一件によって露わとなった一党独裁体制を敷く中国という国の恐ろしさは、たとえ同ウイルス禍が終息したとしても、将来に向けて中国離れの流れを方向づけたにしたのではないかと思うのです。


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‘資本主義’の変化が移民問題を解決する?

2020年01月23日 13時53分55秒 | 国際経済

毎年、この時期にスイスで開かれているダボス会議は、グローバリズムの全盛期に比べれば陰りが見えるとはいえ、その後の各国の経済政策をも方向づける絶大な影響力で知られています。先鋭的なグローバリストが集う総本山のようなイメージがあるのですが、今年の会議では、トランプ米大統領も顔を出したためか、‘資本主義’の見直しが重要なテーマとして位置づけられていたそうです。

 ダボス会議で提起された‘資本主義’の見直し論とは、株主の利益を最優先する株主至上主義から脱し、従業員、取引先、地域社会といった他のステークホルダーの利益をも考慮しようというものです。この方針は、昨年の8月に、アメリカの経営者団体であるビジネス・ラウンドテーブルで示された企業の行動規範とも一致しており、株主至上主義の見直しは時代の潮流でもあります。批判を浴びてきたグローバリズムの問題点は、株主至上主義にその主因が求められるからです。そして、資本主義の見直しは、格差拡大に並ぶもう一つの問題を解決する可能性を秘めているように思えます。それは、イギリスではEU離脱を招き、アメリカではトランプ政権を誕生させた移民問題です。

従来型の株主至上主義では、‘人’とは、単なる労働力に過ぎず、国境を越えた労働力の移動は、事業利益を最大化するための有効な手段でした。低賃金でも働く外国人労働者を大量に雇用すれば、人件費の大幅な削減に繋がるからです。アメリカ最大の社会問題とされてきた人種差別問題も、元を辿れば、大航海時代の到来とともにグローバルに奴隷を売買できるようになった奴隷商人達の利益第一の事業方針に求めることができましょう。この結果、移民を受け入れた国に深刻な社会問題が発生しようとも、外国人労働者への代替によって失業率が上がろうとも、外国人犯罪者の増加や外国の犯罪シンジゲートの上陸で治安が悪化しようとも、そして、外国人やその家族に対する生活支援等のために相当額の予算を要しようとも、企業側はお構いなしであったのです。むしろ、外国人労働者の受け入れに伴う負の部分については、国や地方自治体、そして地域の住民たちにその責任を押し付け、その解決や緩和策も丸投げしようとしてきたとも言えましょう。あたかも、それがグローバル時代における当然のことのように…。

一方、今般の見直しでは、地域社会といった企業が活動する場で生活している一般の人々をもステークホルダーと見なしています。このスタンスからすれば、コストのみを判断基準とした労働力の移動も同時に見直されるべきかもしれません。何故ならば、外国人の増加によって社会的変化や財政的な負担を一方的に強いられる地域の住民、あるいは、国民こそ、企業の経営判断によって多大な影響を受けるステークホルダーに他ならないからです。アメリカの人種差別問題のみならず、ヨーロッパにおいても古くはユダヤ問題から新しきはイスラム過激派によるテロ事件に至るまで、利益を求めた結果としての人の移動は、世界各地に解決困難な社会問題をもたらしてきました(もちろん、すっかりと同化した事例もありますが…)。ミャンマーのロヒンギャ問題なども根は同じであり、従来の‘資本主義’は、民族の違いや人々の心理に対して無神経、かつ、無頓着過ぎたのではないかと思うのです。否、現地社会に対する破壊的な影響を十分に理解しながらも、利益を優先させるために政治やメディアをも背後から動かし、教育方針や世論を誘導するなど、様々な手段を用いて地域の人々に順応、あるいは、変化の受容を強要しようとしたのかもしれません。

‘人は生まれた場所から絶対に移動すべきではない’とは申しているわけではないのですが、人とはモノとは違い、自らの意思と行動の能力を有するとともに、集団的な属性としての政治性、社会性、そして文化性をも宿しています。唯物論に立脚した共産主義もまた‘資本主義’以上に人を人とも思わぬ冷酷さがあるのですが、‘資本主義’が株主以外の人々をモノ扱いした結果として移民問題が発生したのであるならば(経済的な理由以外には、人が他の国に移住する動機はそう多くはない…)、最も解決、あるいは、緩和を期待し得る方策とは、企業がより人の多面性を尊重し、移民反対を訴える人々を‘ポピュリズム’の一言で一刀両断に切り捨てることなく、地域の人々や国民の声にも素直に耳を傾けることではなのではないかと思うのです。つまり、国境を越えた人の移動については、受け入れ側となる国家や国民の側の権利をも尊重し、より抑制的であるべきなのではないでしょうか。

 


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資本主義と自由主義は別もの?

2019年10月09日 15時40分55秒 | 国際経済
10月8日付の日経オンライン版に、ソフトバンクの孫正義氏のインタヴューが掲載されておりました。そのタイトルにおいて目に留まったのは‘ビジョンファンド、夢はヒーローたちの指揮者’というフレーズです。この表現が気になった理由は、それがあまりにも矛盾に満ちているからです。

 交響曲等を奏でるオーケストラを想起すれば誰もが気が付きますように、同形態の楽曲演奏では、‘ヒーロー’の役回りは一般的には指揮者であって個々の演奏者というわけではありません。舞台の前面中央の指揮台で白いタクトを振る指揮者が、楽団員全員に対して各パートの演奏を細かに指示してこそ全体がハーモナイズされ、一つの作品として仕上がるのです。このため、オーケストラによる演奏曲目は、‘○○指揮×△交響楽団による□☆交響曲’といった表現がなされています。その一方で、‘ヒーロー’にその行動を指導する指揮者が存在していたのでは様になりません。‘ヒーロー’とは自ら決断し、誰に命じられることなく自発的に、かつ、勇敢に行動してこそ‘ヒーロー’なのであり、‘ヒーロー’が同時に数十人もいては‘ヒーロー’らしくもないのです。

 同インタヴューを読み進めますと、孫氏は、投資家として情報化時代をリードする革新的なビジネスを支援し、AI企業集団(オーケストラ?)を造り上げたいとする自身の‘夢’を語っているようなのです。しかしながら、その発想自体にどこか違和感があるのは否めません。この違和感、どこから来るのかと申しますと、おそらく、同氏の発想に‘ソフトな全体主義’の影が見え隠れするからなのでしょう。北朝鮮といった全体主義国では、独裁者の一声で参加者に配られたパネルが瞬時に切り替わり、全体の図画が一変するマスゲームが好んで行われていますが、これ程までに厳格ではないにせよ、全体を統括する指揮者の存在を認め、その地位にありたいとする孫氏の個人的な願望が、ある意味において、個々による自立的、かつ、自由な経済活動を認める自由主義経済にとりまして脅威となるのです。つまり、その孫氏の経済観は、経済独裁、あるいは、経済全体主義と表現できるかもしれません。

 戦後、長らく続いたイデオロギーを軸としたアメリカ対ソヴィエトの政治的な対立は、経済分野にあっては資本主義対共産主義の対立として読み替えられてきました。そして、共産主義が政府による経済統制を是としたことから、その敵となる資本主義は、自由主義経済と凡そ同義とされてきたのです。しかしながら、グローバル化と情報化の同時進行を背景として登場してきたIT大手の思考パターンを見ておりますと、資本主義と自由主義は、別ものなのではないかと思うようになりました。

おそらく、上述した孫氏の経済観は投資家、特に、金融財閥を形成している投資家一般に共通しており、資本を有する投資家が経済全体を自らの望む方向に導き、投資先の個々の企業活動をもコントロールし得ると考えているのでしょう。資本主義というものが、一私人に過ぎない投資家が牽引する経済システムを意味するのであるならば、それは、政治的な民主主義とは両立しないに留まらず、真の意味での経済的な自由主義とも違っています。自由な活動主体であり、決定主体であるはずの企業を‘お金’で縛ってしまうのですから。

本来、社会には様々なニーズがありますし、科学技術の分野においても、資本家の関心を引かない人々に恩恵をもたらすテクノロジーは多々あります。また、彼らが切り捨てた、あるいは、潰すべき‘邪魔者’と見していても、人類全体にとりまして宝となる才能を有する人材も少なくないはずです。今日の投資家は、自らの描いたSFチックな未来像に沿ってITやAI分野に投資を集中し、企業に対しても、設備投資や研究開発費を同分野に注ぐように誘導し、かつ、自らのビジョンに賛同する人々しか支援しませんが、こうした利己的な態度はむしろ歪みであり、人類の可能性を狭めているのかもしれません。人類が目指すべきは、少数の資本家が経済のみならず人類の未来社会を決定する資本主義ではなく、個々が自立しており、かつ、指揮者が存在せずとも調和している、自然の生態系により近い形での自由主義経済ではないかと思うのです。

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共産主義が人類を家畜化する理由-配分と交換の違い

2019年08月11日 13時49分02秒 | 国際経済
かつて、ソ連邦では、その日の食卓に上るパンの配給を受けるために、凍てつく真冬の寒さに擦り切れた分厚いコートと帽子で身を包み、首を縮めながら街角で人々が長蛇の列をなして並ぶ姿が恒例の光景となっていたそうです。年金制度も整い、国家による衣食住の配給制度によって一先ずは生活が保障されつつも、その姿は、飼育員から餌をもらうために集まる家畜にも見えたのです。人としての尊厳が失われている点において。

 共産主義国家の特徴は、国家全体が配分マシーン化するところにあります。このシステムでは、国家はいとも簡単に‘家畜国家’に転じてしまいます。何故ならば、国家が一度国民を‘家畜’と認定しますと、国家全体が‘牧場化’するからです。家畜の飼育に見立てれば、国民は、国家経営の飼育場の中で飼われている家畜の立場に等しく、餌と同様に配給を受けることはできても、その成果は、国家に吸い上げられてしまいます。つまり、国家は、国民に対して徴収と分配を行う牧場の経営者なのです。

この仕組みでは、国家と国民の関係は垂直関係とならざるを得ず、家畜が経営に口を挟む権利やチャンスがないように、共産主義国家の国民は、民主主義国家のような参政権など付与されるはずもなく、一方的に支配される対象でしかありません。つまり、基本的な権利や自由を有する人としての人格が承認されないのです。そして、‘平等’という価値が実現するとしても、それは‘家畜の間の平等’に過ぎず、垂直方向に視線を転じますと、上部には国家、即ち、共産党が君臨しており、両者の間には歴然とした境界線が引かれているのです。

 その一方で、自由主義諸国における経済システムは、配分よりも交換に重点が置かれています。配分と交換とでは、人と人との関係の基本構図において決定的な違いがあります。配分を基盤とする経済システムの基本構図は、上から下への一方向的な垂直関係となりますが、交換の基本構図では、双方が対等な立場となる並列関係を構成します。そもそも交換は、相互的な相手の人格承認を前提としてこそ成り立つ行為です。交換が成立するには、双方の合意、即ち、意思の一致を要するからです。双方が、自らの意思を自由に表現した結果こそが交換ですので、双方の人格は対等なままに保たれているのです。一方、仮に、一方が他者の人格を認めなない場合には、その人が、自らの一方的な意思によって相手方から何かを奪ったとしても何らの罪の意識を感じないかもしれません。たとえそれが、命であったとしても…。

 もちろん、如何なる国家にあっても財政という名の配分機能を要しますが、共産主義の国家モデルでは、国家全体が配分マシーンと化していますので、交換のシステムが働く余地がありません。もっとも、今日の中国は、鄧小平氏が開始した改革開放路線以来、市場経済のメカニズムを導入しており、一定の範囲で交換の要素を取り入れています。しかしながら、習近平政権におけるITの統治機構における国民監視を目的とした積極的な活用は、同国を再び配分型国家へと回帰させているようにも見えます。あるいは、自由主義国でも、IT大手によるプラットフォームの建設は、人々を牧場に囲い込むための柵を造りなのかもしれないのです。また、AIの普及とセットとなるかのように、配分型の政策であるベーシックインカム論が浮上してきている現状も気になるところです。

 何れにいたしましても、経済に対する考え方の違いは、様々な分野で対立や摩擦として表面化しているように思えます。米中貿易戦争の根底にも両国間の経済観、否、価値観に基づく国家体制の相違があるのかもしれません。遠回りのようにも思われますが、経済につきましては、一からその仕組みを問うてみることも無駄ではないように思うのです。

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アメリカは韓国に対して司法解決を要請すべきでは?

2019年08月03日 15時16分55秒 | 国際経済
 時事通信社が発信した記事に依りますと、米政府高官は、悪化する一途の日韓関係について双方に責任があるとする見解を示したそうです。その背景には、韓国による日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄、即ち、中国、ロシア、北朝鮮の動きを睨んだアメリカ政府の安全保障上の懸念があるのでしょうが、日韓対立激化の発端は韓国側の所謂‘徴用工訴訟判決’にありますので、日韓両国を比較しますと、韓国側により重い責任があるように思えます。日本国側としては、同米高官の発言は釈然としないのですが、仮に、アメリカが日韓関係の改善を試みようとするならば、先ずは、韓国に対して、‘徴用工問題’の解決を国際司法の場に委ねるように説得すべきではないかと思うのです。

 実のところ、その解釈をめぐり紛争となっている日韓請求権協定に関しては、アメリカも無関係ではありません。同協定を含めて1965年に日韓関係が正常化される過程にあって、アメリカは、常に日韓交渉の裏方、あるいは、仲介者としての役割を果たしていたからです。この時、両国政府は、日韓間で対立が生じ、交渉が暗礁に乗り上げる度にアメリカに打診し、その意向を窺っております。その際、朝鮮戦争によって韓国の国土が破壊され、経済も疲弊していたこともあり、アメリカ政府は、どちらかと言えば韓国側の主張に寄り添っていたように見えます(この時期がベトナム戦争中に当たる点を考慮すれば、あるいは、韓国軍のベトナム派兵も絡んでいるかもしれない…)。難航していた交渉は、結局、アメリカの鶴の一声によって日本国側が大幅に譲歩する形で妥結し、正当な根拠を有する請求額を遥かに越える巨額の支援金を韓国側に提供することとなったのです(日本国政府は、韓国に譲歩したというよりは、アメリカに譲歩している…)。

 当時の日韓交渉の過程を振り返りますと、アメリカは、同協定成立の影の立役者であると共に、その場に立ち会った‘証人’でもあったことが分かります。否、日韓請求権協定の真の草案作成者はアメリカかもしれず、65年の日韓関係の正常化は、日本側が一方的な不利益を被ったとはいえ、アメリカの外交成果の一つとも言えるかもしれません。となりますと、先日、日本国政府が証拠として提示したように、韓請求権協定における日韓両国間の合意内容に徴用工の給与未払い分を含む全ての請求権が含まれていることは、アメリカ政府もまた十分に認識しているはずなのです。

こうした事情があればこそ、同協定に対して責任の一端を負うアメリカは、日韓対立の要因となっている同協定について、誠実なる遵守を韓国側に求め得る立場にあります。そして、日韓請求権協定の第三条が、紛争の解決手段として仲裁委員会の設置を設けている以上、アメリカ政府には、先ずもって同手続きに従うよう韓国政府を説得していただきたいと思うのです。当時の日本国政府は、自国に不利であることを承知の上で、個人を含む全ての請求権の放棄を条件として、同協定に署名したのですから。

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コメント (8)
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