万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

富裕層の道楽となったグローバル企業

2024年04月23日 14時12分25秒 | 国際経済
 今日の世界情勢を観察しておりますと、人類は、あらゆる面においてグローバリストに翻弄されているように見えます。全世界を裏からコントロールし得るパワーを握るグローバリストの出現については、株式取得を勢力拡大の手段とする‘資本主義’の問題を抜きにしては語れないのですが、グローバリストによる経済支配は、企業の役割を大きく変えつつあります。

 企業の規模が拡大するのには、凡そ二つのタイプの手段があるように思えます。第一の手段は、当該企業が提供する製品やサービスが優れているために、多くの消費者が購入・利用するようになった結果、市場のシェアが拡大し、生産量の増加に伴い企業規模も大きくなるタイプです。自由主義経済において教科書的に説明されているのは、主として同タイプです。この拡大経路にあっては、企業は、できうる限り消費者に選んでもらえるような製品やサービス、すなわち、低価格・高品質を目指して企業努力を惜しまないこととなります。もっとも、発展性を伴う経済成長や多様性を維持するためには、常に競争状態が保たれる必要があるために、一社や数社による独占や寡占は競争法によって禁じられています(無制限な拡大は×)。

 第二の規模の拡大手段は、競争関係にある同業企業が発効している株式の取得です。企業合併やM&Aと称される手段であり、友好的買収であれ、敵対的買収であれ、他者を取り込むことで規模を拡大させることができます。同タイプでは、消費者の志好やニーズ、あるいは、価格や品質等にも関係なく、事業規模が拡大します。つまり、企業の経営戦略が拡大の決定要因なのです。

 もちろん、上記の二つのタイプが結びつくハイブリット型もあります。むしろ、規模の拡大はコスト逓減効果がありますし、製品の品質向上にも有利となりますので、市場における価格競争に勝つために他社を合併しようとするケースも少なくありません。否、産業革命以降、ハイブリット型で事業を拡大した企業が大量消費社会を牽引し、消費者に対して安価で高性能な製品を大量に提供した結果、大企業が出現したとも言えます。しかも、グローバル化のかけ声と共に各国政府ともに自由化の旗印の下で資本市場を含めて自国市場を開放したため、企業規模の拡大は国境を越えて全世界に広がるようにもなったのです。今日、グローバル企業と称される世界市場において事業を展開している企業の大半は、こうしたプロセスを経て今日の地位を築いたとも言えましょう。

 M&Aといった目に見える形での企業統合の他にも、資本提携などの他社をコントロールする手段はあるのですが、何れにしましても、マネー・パワーが、巨大なグローバル企業を生み出す原動力であったことは確かなようです。加えて、巨額の開発資金を要する先端テクノロジーとプラットフォーム構築における‘早い者勝ち’や‘勝者総取り’的な性質が競争法をもかいくぐりかねないデジタル分野では、一部のIT大手による独占や寡占が経済のみならず、ユーザーとなる、あるいは、利用せざるを得なくされた個々人にまでコントロ-ルを及ぼしているのが現状と言えましょう。

 かくして、グローバル化の時代における経済とは、1%の富裕層ともされる極一部の‘株式を握る者’、すなわち、グローバリストとその恩恵に浴する配下の人々にコントロールされる世界となったのですが(現実には、1%ではなく一億分の1以下かもしれない・・・)、ここに、企業経営において一つの大きな変化が生じることとなります。それは、グローバリストのコントロール下に置かれた企業は、もはや消費者のニーズや志好に対して関心を持たない、もしくは、意に介さなくなる、という現象です。

 戦争ビジネスや環境ビジネス等には余念がない一方で(これらの分野では計画化・・・)、実際に、今日のグローバル企業が自らの持てる資源をつぎ込んで熱心に開発を急がされているのは、SFの世界を追い求めるような宇宙旅行や有人宇宙ステーション、あるいは、空飛ぶ車などです。多くの一般消費者が購入・利用できるとは考え難い分野ばかりであり、一部の富裕層向けの製品やサービスに関連する近未来技術開発に集中しているのです。また、より身近な事例に目を向けましても、衰退が懸念される日本国内にあって豪華なホテルが新設あるいは改装されるという報道があったとしても、それは、富裕層向けなのです。あたかも、消費者は、富裕層しか存在しないかのように。その一方で、グローバリストは、自らの‘夢’の実現や道楽に対する投資に加えて、人類支配の手段となる技術開発には投資を惜しみません。監視装置ともなりかねないIoT家電を開発するぐらいならば、むしろ、より利便性が高く、かつ、プライバシーが保護される遮断型の製品を売り出したほうが、よほど一般消費者は安心して購入・利用するのではないでしょうか。

 一般消費者向けに手頃な価格で高品質な製品を提供することで企業規模を拡大させてきた大企業は、今や、上位者となった富裕層に奉仕するための存在と化しているかのようです。この状態では、消費と生産の好循環となる回路は断たれ、成長の原動力が失われることとなりましょう。人々の経済活動はいつの間にか富裕層への奉仕となり、自らを含めた人々の生活を豊かにする方向には向かわないのです。人類史において経済の果たしてきた役割に照らしますと、現状は決して望ましいとは言えず、消費者牽引・主導型への経済への回帰、転換こそ、同問題解決の鍵となるのではないかと思うのです。

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計画経済化するグローバリズム-EV普及政策の問題

2024年04月22日 13時46分44秒 | 国際経済
 近年、ガソリン車から電気自動車、即ち、EVへの流れは加速化されています。EVへの転換の背景には、脱炭素を目指す世界的潮流が指摘される一方で、ハイブリット車や軽自動車を含めてガソリン車に強みを持つ日本車潰しの隠れた狙いがあったとする説もあります。もっとも、世界経済フォーラムや国連が脱炭素の旗振り役を務めているところからしますと前者である可能性が高く、全世界は、EVに向かって一斉に走り出した観がありました。

 イギリスでは、早くも2030年をガソリン車廃止の目標年に定める一方で、EUも、2035年を目処にガソリン車を全廃する方針を示しています。EV転換を自国自動車産業のチャンスとみた中国政府も、2035年には、新車販売の全数をEV並びにハイブリット車とする目標を掲げています。日本国にありましても、2021年の施政方針演説においてカーボンニュートラルを宣言した当時の管首相が、2035年を目標年としたガソリン車の事実上の禁止を公表したのです。

 各国ともにEVの普及促進政策を重要な‘国策’として位置づけたのであり、2035年が凡その‘キー・イヤー’となっている点を見ましても、そのグローバルな同調ぶりには目を見張らされます。そして、これらの目標を達成するために、各国政府ともに、相次いでEV普及促進政策を導入したです。その主たる手段となったのが補助金制度であり、EVの購入時やEV充電器の設置等に際して補助金が支給されることとなりました。ドイツでは、EV購入時にあって9000ユーロの補助金が支給され、ヨーロッパでは群を抜いていました(フランスは7000ユーロ、オランダは4000ユーロ・・・)。アメリカ政府も、EV購入者に対して最大7500ドルの税額控除を設け、税制上の優遇策を以てその普及に努めています。日本国政府も、EVの購入に際して補助金を支給すると共に、充電設備にも予算を付けたのです。

 グローバルレベルで未来の自動車がEVに決定されたことで、民間レベルでも日本やドイツなどの既存の自動車大手が対応を迫られると共に、イーロン・マスク氏が率いるステラ社や自動車産業にあっては後発組となる中国勢といった新興企業も、新市場でのトップを目指して開発競争に鎬を削ることとなりました。同開発競争は、政府主導で開発を急いだ中国が頭一つ抜きん出た観があるのですが、ここに来て、EV市場は、変調を来しています。テスラ株も2023年夏のピーク時から半値ほどに下落しており、EVの販売数も伸び悩むに至るのです。

 EV失速の原因としては、各国政府の補助金制度の打ち切りなどが指摘されており、上述したドイツでも、昨年末をもって補助金制度は終了しています。また、ガソリン車と比較した場合のEVの燃費の良さも、近年の電力料金の高騰の影響を受けてメリット面が低下しています。加えて、バッテリーの生産に際しての電力の大量消費や廃棄に伴う環境汚染問題(マンガンの毒性・・・)など、解決すべき問題も山積しています。EV志向の‘意識高い系’の購入が一巡したとの見方もあり、EVの失速から、メディアが喧伝するほどには消費者が積極的に購入を急いではないという実情が浮かび上がってきたのです。

 ところが、日本国政府は、他の諸国とは違い、補助金制度の見直しを行なうつもりはなく、充電設備に対する補助金も、今年度予算では昨年度の2倍に当たる380億円に増額すると報じられています。国土交通省が率先して新築住宅への設置などを促すとのことですが、果たして、EVの販売数が停滞している中、政府の思惑通り、充電施設の拡充はEVの普及を促進するのか疑問なところです。

 全世界で一斉に始まったEVの普及促進は、世界権力主導で進められてきましたので、いわば上からの‘計画’に基づいています。一般消費者のニーズに応えて出現したものではありません。この上意下達の側面は、グローバルレベルにおける自由主義経済から計画経済への移行をもたらしているとも言え、中国が、EV市場において成功した理由も、一党独裁体制が集中投資的な技術開発に適していたからなのでしょう。そして、全世界を包摂するグローバルな計画経済化によって、各国とも共産主義国家の失敗を繰り返すリスクを抱えることになったように思えます。

 EV市場で先端をゆく中国も、都市部の高層住宅街がゴーストタウンと化したように、供給過剰がEVの在庫の山を築き、マンガン汚染問題をより深刻化するかも知れません。あるいは、中国の生産過剰による中国EVの廉価輸出がライバル企業を市場から追い出してしまう可能性もありましょう(太陽光パネルで既に同様の問題が発生・・・)。日本国も、消費者の志好やニーズを無視した政府主導型のEV普及促進は、税金の無駄遣いとなりかねないのです(しかも、日本国は電力不足に悩まされている・・・)。不思議なことに、常々政府の補助金を市場の成長メカニズムを阻害するとして批判している新自由主義者の人々も、EVについては、黙り込んでいるのです。そして、グローバルレベルでの計画経済化の問題は、EVに限ったことではないように思えるのです(つづく)。

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経済学の大いなる矛盾-自由貿易論あるいはグローバリズムの重大問題

2024年03月22日 11時52分44秒 | 国際経済
 今日の自由貿易体制を今なお支えている基本理論は、デヴィッド・リカードが唱えた比較生産費説(比較優位説)とされています。リカードは、18世紀末にロンドンにて生を受けたユダヤ系イギリス人であり、経済学者ではありながら、ケンブリッジ大学中退後にロンドン証券取引所の仲買人となり、その後、庶民院の代議士として活躍した異色の経歴をもつ人物です。比較生産費説とは、下院議員時代に自らが主張していた自由貿易論に理論的な根拠を与えるために編み出された理論とも言えましょう。

 しかしながら、考えてもみますと、19世紀初頭、すなわち、大英帝国を中心とする自由貿易体制がその頂点を迎えた時期に主張された理論が、現代にあっても国際経済体制の基本理論とされているのは奇異なことでもあります。時代で言えば江戸時代の理論を、そのまま維持しているようなものなのですから。アメリカではトランプ前政権の時代に自由貿易体制からの離脱が試みられましたが、日本国を見ましても、2018年末にTPP11が発足すると共に、2023年7月にはイギリスの加盟が正式に決定されています。また、中国を含むRCEP協定も、2022年1月をもって発効しているのです。

全世界の市場の単一化を目指すグローバリズムが広がった今日では、自由化の対象は‘物(財)’だけではなく、サービス、資本、技術(知的財産)、そして、労働力にまで及んでいますが、その幹となる部分が、あらゆる国境における障壁の撤廃、即ち、市場開放を伴う自由化であることには変わりはありません。国際経済の世界では、200年以上の長きに亘って、同一の理論が不動の地位を占めてきたと言えましょう。あたかも‘自由貿易教’のような様相を呈しているのですが、本当に、‘信じる者は救われる’のでしょうか?

リカードの比較生産費説とは、簡単に述べれば、ある国が相手国と比較して低コストで生産できる産品に特化して相互に交易すれば、当事国の双方が利益を得られるという説です。同説が唱える互恵性の成立は、諸国家間の国際分業にも理論的な根拠を与えており、自由貿易体制の構築は、資源の最も効率的な配分を実現させる理想的な国際貿易体制として位置づけられたのです。貿易を介して全ての国が同体制に加わるだけで、どの国にも利益をもたらすと唱えたのですから、いわば、国際経済における予定調和説とも言えましょう。

 しかしながら、現実には貿易戦争は頻発してきましたし、また、富める国と貧しい国との格差も見られ(比較優位となる貿易品を産出できない国も存在する・・・)、リカードの掲げた理想とはほど遠く、現実が理論を実証的に否定してしまったとも言えるかも知れません。そして、この現実と理想との乖離は、経済学における大いなる矛盾をも提起しているように思えるのです。

 この矛盾とは、主として関連する二つの側面から指摘することができましょう。その一つは、自由貿易理論は、国内経済を主たる対象とした経済学’からは否定されてきた自由放任論やレッセフェール論を是認してしまう点です。今日、国内市場にあって自由放任状態となれば独占や寡占に至るとする認識は広く共有されており、凡そ全ての諸国にあって、市場の競争メカニズムを阻害する行為として法律をもって禁じられています。自由が自由を消滅させてしまうからです。実際に、競争政策は、何れの国でも重要な政策分野であり、自由を護るためにこそ、独占や寡占をもたらす規制が必要とされるのです。仮に、この国内市場の当然の道理が世界経済にも当てはまるとすれば、当然に、自由貿易も規制を受けるべきはずなのです。

 第二の矛盾点は、自由貿易論と称しながら、その実、実際に水平であれ垂直であれ国際分業が成立すれば、そこにはもはや自由はない、というポジションの固定化並びに体制の拘束性の問題です。比較優位を原則とする国際貿易体制が成立した時点で、各国は、‘資源の効率的配分’を基準として自らに割り振られた生産品に特化して製造を行なう国へと移行し、この固定化された体制から抜け出せなくなるのです。この側面は、第一点として述べた競争の消滅とも関連するのですが、自由貿易主義あるいはグローバリズムの未来は、国境を越えて物品が自由に取引される軽やかな空間ではなく、むしろ諦観が漂う陰鬱とした管理貿易体制に近い姿なのかもしれません。自由貿易主義にも、いつの間にか目指す方向とは逆となってしまう‘メビウスの輪’が伺えるのです。

 今日、新自由主義が多くの人々から忌み嫌われるのも、自由貿易主義の矛盾点を顧みることなく、この自由放任主義的な論理を国内市場の原理原則として持ち込み、押し通そうとしたからとも言えましょう。世界経済フォーラムに代表されるグローバリストが言う自由とは、自らの無制限な自由なのです。グローバルレベルであれ、国内レベルであれ、自由放任を是認する自由主義についてはその欺瞞性を認識し、日本国政府をはじめ各国政府とも、企業を含む国民経済の自立性(自由)の相互尊重という意味において、真に‘自由’が尊重される国際体制の構築を急ぐべきではないかと思うのです。

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「資産運用特区」は現代の租界地?-止まらない岸田首相の日本植民地化

2023年09月22日 09時34分12秒 | 国際経済
 報道に依りますと、日本国の岸田文雄首相は、アメリカを訪問中の9月21日に「ニューヨーク経済クラブ」にて講演し、「資産運用特区」の創設案を公表したそうです。同特区を設置する目的は、国民の資産形成の促進と説明されているのですが、この説明、本当なのでしょうか。

 「資産運用特区」が特区と表現される理由は、他の特区と同様に日本国の国内法の適用が緩和されたり、優遇措置等が設けられることに依ります。いわば、特権を与えられた特別地区となるのですが、今般の「資産運用特区」についても、海外の優秀なファンドマネージャーを招くために「英語のみで行政対応が完結できるよう規制改革し、ビジネス環境や生活環境の整備を重点的に進める」としています。英語対応の対象がビジネスや生活環境にまで広く及びますので、日本国内に英語が事実上の公用語扱いとなる外国人の居住空間が出現することとなりましょう。「資産運用特区」は、いわば現代の租界地と言っても過言ではないのです。日本国内にあっては、金融機関の本店は首都に集中していますので、「資産運用特区」候補の最有力地は東京となりましょう。

 岸田首相は、2022年に策定した「資産所得倍増プラン」で掲げた貯蓄から投資への流れにあって、「資産運用特区」は、日本国民の資産形成に資するとしています。しかしながら、同特区を公表した場所が、日本国内ではなく、グローバル金融の中心地とも言えるニューヨークであり、しかも、「ニューヨーク経済クラブ」の会長はNY連銀のジョン・ウィリアムズ総裁というのですから、首相の説明は怪しいものです。消費税率上げの前例もあるように、日本国の重要な政策が海外にあって、あたかも‘国際公約’の如くに公表されることが少なくありません。‘国民の資産形成促進’も日本向けの説明であって、真の目的は、同クラブに参集した世界屈指の金融ファンドや投資家達を前にして、ビジネスチャンスを提供しようとしたのかもしれません。国民のための政策であれば、国会や首相会見の形で公表するでしょうから、その実像は、日本国民の資産を投資資金としてグローバル金融に捧げるための、抜本的な環境整備であったかもしれないのです。

 同特区新設の目的がグローバル金融への奉仕であるとしますと、事実上の‘租界地化’の意図も見えてきます。岸田首相の説明では、海外の優秀なファンドマネージャーの活動を支えるためとしていますが、極めて少数、おそらく一桁か二桁ぐらいの数となる外国人ファンドマネージャーのために英語を事実上の公用語とする特区を設けることは、費用対効果からしますとあり得ないことです。家族の帯同をも考慮しますと、警察署や交番並びに消防署等を含む行政機関のみならず、交通機関、病院、学校、図書館、美術館等の公共施設でも英語対応が迫られ、その費用は膨大となりましょう。しかも、その全費用は、日本国民が納税という形で負担するのです。

 となりますと、特区における英語の準公用語化は、外国人ファンドマネージャー向けなのではなく、より広い範囲の海外ファンドの呼び込み政策であるとも解されます。‘外国人ファンドマネージャー’と説明すれば、雇用者として日本国の金融機関が想定され、国内金融市場の開放策という色合いが薄まります。競合関係となる国内金融機関やファンドをはじめとする警戒論も抑えることができますので、敢えて‘外国人ファンドマネージャー対策’を表向きの口実としたのでしょう。「資産運用特区」では、有利な条件の下で海外ファンドや投資家がビジネスを展開できますので、‘海外から投資を呼び込む’という名目で日本の資産を売却されると同時に、国内からの資金流出は加速されることでしょう。実際に、首相は、報道での華々しい特区案の陰で、金融市場における新規参入を促すとも述べています。

 日本国内では早期の首相退陣を望む国民の声が高まっていますが、岸田首相の支持率低下の最大の原因は、露骨なまでの海外重視・国内軽視の姿勢にあるように思えます。特区の新設に留まらず、「ニューヨーク経済クラブ」では様々な施策を公表しており、その中には、「投資家の意見を政策に反映させるため、日米を主体とした「資産運用フォーラム」を立ち上げる」というものもあります。そして、首相による海外優遇政策が世界権力への奉仕に対する見返りとしての首相の座の維持であるならば、国を売り渡した政治家として、日本国の歴史に悪名を残すのではないかと思うのです。

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グローバリストの‘つまらない世界観’

2023年06月22日 12時57分23秒 | 国際経済
 最近、web記事において田中真紀子氏の発言に「人間には、敵か、家族か、使用人の三種類しかいない」とする言葉があることを知りました。政治家一族の立場からの人間観であるため、多くの人々が共感を寄せるとは思えないのですが、この言葉、今日の世界経済フォーラムに集うグローバリストの世界観を理解する上では大いに役立つように思えます。

 田中角栄氏が政界で活躍していた70年代頃にあっては、今日よりも政治家=支配者とする概念が強く残っていたことでしょう。民主主義という価値観が国民に広く浸透しながらも、真紀子氏にも、政治家は一般国民とは違う特別の存在であるとする意識が染みついていたとしても不思議ではありません。なお、同氏に代表される政治家の特権意識、あるいは、支配者意識は、日本国にあってなおも世襲議員の比率が高い要因の一つとも言えましょう。

 他者とは一線を画する立場として生まれた人々は、自ずとその育った特別の環境によって他者を見る目も違ってくる傾向にあります。同等の者は、地位や権力、あるいは、富を脅かすライバルであり、‘敵’として認識されます。その一方で、身内である家族は、自らの富や権力を私的に独占するための特別な存在です。そして、他の大多数の人々に対しては、常に一般社会から離れた一段上がったところから、自らのへの奉仕者として位置づけているのです。それ故に、田中氏の分類には、隣人や友達、仲間と言った対等で相互尊重的な関係を表す人間のカテゴリーが抜け落ちているのでしょう。他者とは、邪魔な存在として排除すべき敵か、特権の共有者として護るべき家族か、あるいは、自らの命に忠実に従うべき使用人の三種類しかいないのです(為政者にとりましては、国民は‘使用人’のカテゴリーに・・・)。

 これらの三つのカテゴリーには、徹底した自己中心主義という共通点を見出すことができます。否、政治家一族という極めて狭い世界に生きているために、他の類型の人間、即ち、対等な立場にある人々がいることすら、気が付いていないのかもしれません。実際に、自らの周囲にはこれらの三種類の人間しかいないのですから。

 こうした人間観は、古今東西を問わず、政治家や王侯貴族と言った主として為政者に見られる傾向でもあったのですが、今日ではマネー・パワーを牛耳る人々の精神性にも観察されるように思えます。グローバリズムに伴う格差問題としても指摘されているように、全世界の富と権力がごく一部の血族集団に集中し、各国の政治権力を裏から操っているからです。そして、家族以外の他者を‘敵’か‘使用人’とみなす人間観は、そのまま世界観にも投影されているのであり、世界経済フォーラムの方向性やそれに従う各国政府の動きも、これらの人々を除く大多数の人類が、‘敵’か‘使用人’と見なされている現実を見せつけているのです。

 例えば、日本国政府は、岸田首相の言動が示すように、グローバリストの‘使用人’に成り下がっています。また、健康被害を無視した情報統制を伴うワクチン接種の推進やジョブ型雇用の導入促進、あるいは、国民に対するデジタル管理の強化などをはじめ、日本国政府の政策を見ても、世界権力にとりまして、日本国民は、滅ぼすべき‘敵’、あるいは、敵認定をした上での支配や搾取の対象に過ぎないことが分かります(‘移民政策’でも、‘使用人’の帯同を想定した外国人の滞在に関する規制緩和が行なわれている・・・)。

 世界権力の支配力が各国に及びながらも、グローバリストの人間観も世界観も、彼らが身を置いている極めて少数のグループの間でしか通用しない特殊なものです。今日、地球上に生きる人類の大多数の人々は、民主主義、自由、法の支配、平等・公正並びに平和といった諸価値を認め、かつ、尊重しています。これらの諸価値は、個々の人格の間の対等性や自己決定権の尊重なくして実現しませんし、現代国家にあっては、統治の正当性をも支えてきました。一方、自らをヒエラルヒーの頂点に座す支配者であると一方的に主張する今日のグローバリストの世界観は、これらの諸価値とは真逆です。このため、他の大多数の人々は、世界権力の世界観によって、‘敵’として攻撃を受けるか、あるいは、‘使用人’として酷使にされてしまうリスクを内包する危険思想として認定せざるを得なくなるのです。世界支配を主張する人々は、常識を備えた一般の人々の目には根拠のない自己全能感に囚われた‘狂人’にしか映らないことでしょう。

 こうしたグローバリストの選民的な世界観が多くの人々から支持されるはずもなく、このため、自らの世界観を受け入れさるための誘導作戦として巨額のマネーをマスコミに投入されているのでしょう。例えば、テレビやアニメなどでは、一時期、執事やメイドを主人公とするストーリーが流行ったのですが、こうした奇妙な‘トレンド’も、‘使用人’という存在を受け入れさせるための策略であったのかもしれません。しかしながら、執事やメイド等は富裕層のみが家内で私的に雇用する限定的な職業ですので、否が応でも現実離れした違和感が漂ってしまうのです(双方が頭を下げる対等な日本式のお辞儀からコンスへの変化にも日本人使用人化の疑いが・・・)。

 世界権力が目指す世界とは、隣人も友達も仲間もいない‘つまらない世界’でもあります。因みに、アガサ・クリスティー原作のテレビ・ドラマ『名探偵ポアロ』は、脇役にもヘイスティング大尉やミス・レモンといった味のある人物が登場し、大時代的な雰囲気のある面白い作品であったのですが、新シリーズでは、執事のジョージにポアロの相棒役が移ってしまい、途端にどこか陰鬱でつまらない作品になってしまったのでした。

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‘資本主義対共産主義’という二頭作戦の罠―必要なのは新しい経済システム

2023年06月14日 12時21分04秒 | 国際経済
 第二次世界大戦後の国際社会では、アメリカを盟主とする自由主義陣営とソ連邦を中心とした社会・共産主義陣営が政治的に鋭く対峙する冷戦構造が成立しています。同対立の背景には、資本主義対共産主義のイデオロギー対立があったことは、否定のしようもありません。そして今日なおも、新冷戦という言葉が登場したように、共産党一党独裁体制を敷く中国がロシアをも凌ぐ軍事大国として台頭したため、資本主義対共産主義の対立構図が再生産されているのです。

 これまでの記事で述べてきたように、資本主義には企業の自由が保障されず、株主の権利が企業の主体性を侵害しています。主体性なき自由はないからです。また、経営と組織内に働く人々との間に分断があり、このため、利益配分においても後者は不利な立場に置かれます。19世紀や20世紀初頭にあっては、カール・マルクスが唱えた資本家による労働者の‘搾取’あるいは‘過酷な労働’も、誰もが目にする日常的な光景であったのでしょう。資本家が肥え太る一方で貧困に喘ぐ労働者という構図が、マジョリティーとなる労働者の間に共産主義者が広げたと言っても過言ではありません(プロレタリア文学等が資本家の無慈悲さを強調し、マイナス・イメージがさらに増幅・・・)。その一方で、共産主義の活動家の人々は、労働者を資本家から解放し、資本主義に替わるのは、唯一共産主義しかないとするイメージを吹き込んだのでしょう。かくして資本主義の貪欲な悪辣さを嫌悪し、義憤にかられた知識人や若者達の多くも、共産主義に惹きつけられていったのです。

 しかしながら、今になりまして冷静に両者の対立を見直してみますと、資本主義と共産主義は、世界権力による二頭作戦であった可能性は否定し得ないように思えます。何故ならば、両者とも、行き着く先は個人であれ、組織であれ、他者への‘隷従’であるからです。資本主義では、政治権力をもマネー・パワーで掌握し得る極一部の富裕者が個人や企業を支配する一方で、共産主義では、これもまた極一部の共産党幹部が権力も富も独占します。

後者の方が、プロレタリア独裁というイデオロギー上の根拠がありますので、強固な独占体制が成立しますが、資本主義にあっても、競争法が存在しながらも十分に機能しているわけではありません。株式取得による企業買収は、かろうじて自立性を保ってきた企業の数を徐々に減らしてゆきます。中小の商店の多くも大手の傘下となりチェーン店化し、全国どこでも町並に変わり映えがしなくなりました。また、近年では、IT大手による独占や寡占が情報並びにそれに基づく経済支配の問題として問題視されています。政財界共にイノヴェーションの担い手としてスタートアップを奨励していますが、その多くは時を経ずして大手に吸収されてしまうか、特定の‘株主’の収益源とされるのです(例えば、チャットGPTを開発したオープンAIの大株主はマイクロ・ソフト社・・・)。

 資本主義と共産主義双方の共通性に鑑みますと、一般の人々は、どちらを選択したとしても結局は地獄を見ることとなります。加えて、民主主義国家では、‘入れ子’の如く、国家の内部にあって保守対革新の対立構図が意図的に造られ、二項対立による国民の追い込みが図られていたとも推測されるのです。

 上述したように、近現代の経済構造が、世界権力による資本主義と共産主義の両者を操る挟み撃ち作戦であったとしますと、人類は、何れをも選択してはならず、新たな道を探るべきと言うことになりましょう。そして、新たなる経済システムでは、企業形態にも多様性が認められると共に、企業間の関係については、資本を介した支配・被支配の関係ではなく、自発的かつ並列的な協力関係を原則とし(契約の自由の徹底・・・)、世界権力による人類支配やデジタル全体主義に奉仕するような特定の分野を偏重するのではなく、様々な分野が調和的に発展しつつ、個々人や各企業の自立性が尊重される体制が望ましいこととなります。このために、例えば株主の権利を融資者としての利益に預かる程度に縮小したり、株式を社債化すといった方法などもありましょう。そして、各国の政府には、世界権力の‘使用人’となるのではなく、私的マネー・パワーの横暴を制御する役割を担わせるべきではないかと思うのです。今日、日本国民のみならず人類が必要としているのは‘新しい資本主義’でも’グレート・リセット’でもなく、‘新しい経済システム’なのではないでしょうか。

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日本政府の円買いドル売り介入の意図とは?

2022年09月23日 10時29分17秒 | 国際経済
 昨日、9月22日、日本政府は、一向に歯止めがかからない円安傾向を止めるために、外国為替市場において24年ぶりに円買いドル売り介入を実施しました。円安が物価高の一因となっているだけに支持する声も聞かれます。しかしながら、この介入、手放しに歓迎できるのかと申しますと、いささか慎重に見る必要があるように思えます。

 政府は、今般の市場介入の理由について投機による急激な円安に対抗するため、と述べています。この説明に従えば、現在の円安は、投機筋による積極的な円売りドル買いに主要な原因があることとなります。その一方で、円安傾向が止まらない理由は、日米間の金利差にあるとする有力な指摘があります。アメリカのFRBは、物価上昇を抑えるという名目でゼロ金利政策から脱却し、相次いで利上げを実施しています。日本政府の介入も、FRBが075%のさらなる利上げを発表した直後であり、このタイミングもこの説を裏付けているようにも思えます。3ヶ月の間で3%以上となるFRBの利上げは、そのまま日米金利差の拡大となりますので、円安の加速化と軌を一にしているのです。

日米金利差によるマネーの流れ、即ち、円を売ってドルで運用して3%以上の利ざやを得る戦略は、必ずしも投機家に限ったことではなく、一般の金融機関でも行なわれています。金利差主因説が正しければ、円安の是正には、むしろ日銀による利上げの方が効果的であるかもしれません。日米金利差が開くほどに、円売りが加速されて円の相場が下落してしまうからです。

このことは、日米金利差が長期化する場合、日本政府による介入効果は一時的なものに過ぎず、長期的な流れを変えることはできないことを意味します。言い換えますと、日本政府は、円安介入を繰り返すたびに積み上げてきた外貨準備を吐き出さなければならず、仮に、米ドル外貨が枯渇するまで継続するならば、より緩慢ではあれ、1992年のポンド危機と同様の事態に直面するリスクもありましょう。かの悪名高きジョージ・ソロス氏であれば、このチャンスの到来を虎視眈々と狙っているようにも思えます。ポンド危機から30年を経た今日にあって円危機が起きれば、今度は、イングランド銀行ならぬ「日本銀行を潰した男」と呼ばれるかもしれません。

以上に金利差主因説に沿って述べてきましたが、それでは、日本政府が説明するように、投機が主たる要因と言うこともあり得るのでしょうか。日米金利差による長期的な流れが円安に振れている限り、それを見越した資産家やヘッジファンド等が投機的な行動に出てもおかしくはありません。否、既に上述した‘円の売り浴びせ’を仕掛けている可能性もありましょう。となりますと、日本国は、既に通貨危機の淵に立たされていることとなります。

 その一方で、もう一つ考えられるのは、日本国政府が、政府介入はないとみて投機に走る投機筋の利潤獲得のチャンスを意表を突く形で阻止したというものです。先物の金融取引では、契約日から1ヶ月や半年後といった、ある一時点における相場に基づいて決済されます。この一時点の相場こそ重要なのですが、決済時の相場を政府が市場介入によって操作することができれば、投機筋の目論見を意図的に外すことができます。今回の介入は、将来的な円安の更なる亢進を見越して先物取引やヘッジ取引を行なった投資家やファンドに対して、日本国政府が、‘日本円を投機の対象にはさせない’という意思表示の意味を込めて敢えて損失を被らせる、あるいは、利益幅を縮小させたことになります(過去にも、財務省には投機筋を唖然とさせた伝説的な人物がいたとも・・・)。投機主因説が正しければ、今般の介入は円安を利用した投機が利益にならない前例となり、投機筋の動きを牽制したことにもなりましょう。仮にこの説が正しければ、今後は、円相場の下落は鈍化するかもしれません。

以上に金利差主因説と投機主因説の両者について述べてきましたが、魑魅魍魎も徘徊する金融界のことですから、別の思惑も絡んでいるのかもしれません。あるいは、これらの要因が複合的に作用した結果、あるいは、相乗効果とも考えられましょう。何れにしましても、今般の政府介入については、通貨危機を招くリスクも認識されるだけに、複雑かつ連鎖的な波及効果をも考慮しつつ、より掘り下げた多面的な考察や分析が必要なように思えます。そして、常々、海外の金融財閥勢力の顔色を伺っている岸田政権が、ゆめゆめ同勢力に利益を提供するために市場介入したのではないことを願うばかりなのです。

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ウクライナ危機で露呈する電力自由化のリスク

2022年09月21日 10時46分32秒 | 国際経済
ウクライナ危機に端を発したエネルギー不足の問題は、今日、世界的な電力価格の高騰をもたらしています。電力価格の上昇は国民生活を圧迫するため、各国政府とも対策に乗り出しているのですが、もう一つ、欧州市場の統合に伴っていち早く電力自由化を進めた欧州では、思わぬ問題を引き起こしているそうです。それは、電力企業の財務危機です。

それでは、何故、エネルギー資源不足が電力企業に財務危機をもたらすのでしょうか。たとえ発電コストが上昇しても電力価格に上乗せすれば、深刻な危機には陥ることはないはずです(最終的に消費者に転嫁されるため、必ずしも望ましいわけではありませんが・・・)。実のところ、財務危機発生の要因は、欧州電力市場の自由化にあります。電力企業が直面している危機とは、ヘッジ取引における追加証拠金の調達難にあるからです。

電力の自由化とは、発電事業の新規参入の自由化のみを意味するわけではありません。自由化政策に伴い、発電した電力を売買する卸売市場、小売市場、並びに、先物取引市場における売買も自由化されるのです。この結果、電力価格は市場取引によって変動することになりますので、価格変動による損失を回避するために、電力事業者は、先物取引市場においてヘッジ取引を行なわざるを得なくなるのです。そのヘッジ取引に際して要する証拠金は、総額1兆5000億ユーロ(凡そ150兆円)を越えるとされており、簡単に調達できる額ではないのです。

ウクライナ紛争における戦局によって将来の電力価格が左右されるとなりますと、電力事業者のみならず、国民にとりましても電力の自由市場は脅威となりましょう。ヘッジ取引が絡むという点で、背後にジョージ・ソロス氏などの金融勢力の存在も疑われるものの、投機的なマネーも流入すれば、先物市場におけるバブル崩壊もあり得る展開となります。しかも、各国政府が電力事業者への支援を始めているともなれば、政府の‘介入’を見越した外国為替市場におけるポンドの売り浴びせに類似した事態が発生するかもしれません(1992年9月16日に発生したポンド危機・・・)。すなわち、その結末は、公的支援を行なった政府が巨額の損失を被る形で、ヘッジファンドが大儲けをするというものであったのです。金融・経済財閥連合がウクライナ紛争、つまり、ロシアとウクライナの両国を上部からコントロールしているとすれば、同シナリオは、予め仕組まれていた可能性も否定はできなくなります。

エネルギー資源産出国が当事者となる紛争は、電力市場を介して金融危機をももたらすリスクがあるのですが、これは、化石燃料を使用している電力事業者のみの問題ではありません。先ずもって、自由市場で自社の電力を取引している再生エネ事業者には、化石燃料部門での資源高騰の影響が波及してきます。現状では、電源をコスト・フリーの自然から得ている再生エネ事業者は‘棚ぼた状態’にあり、紛争利得者の一人に数えることができます。しかしながら、電力市場で売買を行なう限り、ヘッジ取引に要する証拠金は、これらの事業者にも求められます。また、再生エネ事業者への補助金制度であるFIP(Feed-in Premium)にあっても、市場価格と連動する参照価格が高くなるため、プレミアム単価は政府から受け取れないこととなります。なお、欧州ではカーボンニュートラルが世界に先駆けて強力に推進されながら、化石燃料部門における供給不足が甚大な危機をもたらしている現状は、図らずも、同地域の化石燃料資源への依存度の高さを露呈しているとも言えましょう。

日本国内にありましては、電力事業者の資金調達問題は海の向こうのお話として扱われていますが、近い将来、日本国も同様の危機に見舞われる可能性があります。電力自由化に伴い、日本国内でも90年代後半から自由化が進み、2003年11月には、電力のスポット取引や先渡取引などを行う日本卸電力取引所が開設されました。欧州をモデルとして上述したFTPも2022年4月から運用が開始されており、資源エネルギー庁も再生エネの自由取引拡大を基本方針としています。

しかしながら、江戸時代の飢饉の原因の一つが、米市場での取引を優先した藩政であった事例を思い起こしましても、人々の生命や生活の維持に必要となる‘必需品’を自由市場に委ねるのは危険です。今日では、金融勢力に絶好のビジネスチャンスの場を提供することにもなりかねないのですから。今日、ウクライナ危機に始まる電力価格の高騰は、電力自由化の是非、あるいは、限界をも問うているように思えるのです。

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’ガラパゴス’でも悪くないのでは?

2021年12月16日 13時59分19秒 | 国際経済

 グローバル化の時代にあって、日本経済が衰退した主たる原因の一つとしてしばしば指摘されているのが、’ガラパゴス化’です。このガラパゴス化という言葉、否定的なニュアンスを含むのですが、行き過ぎたグローバリズムを前にしますと、必ずしも悪いとは言い切れないように思えます。

 

ガラパゴス現象とは、『種の起源』の著者として知られるチャールズ・ダーウィンが、調査のためにガラパゴス諸島を訪れた際の観察に因んで命名されています。大陸から900㎞離れた東太平洋上にある同諸島は、他の種と隔絶されてきたため、独自の生態系を発展させていたからです。独自性は強いのですが、その分、外部からより凶暴で繁殖力のある生物が上陸すると、あっと言う間に淘汰されてしまう運命が待ち受けているのです。

 

もっとも、ガラパゴス化は、ガラパゴス諸島といった小さな孤島に限った現象ではなく、比較的大きな島嶼においても観察することができます。例えば、日本列島の生態系にあっても、アメリカ大陸からブラックバスやブルーギル等が上陸したことにより、日本古来の淡水魚が危機に瀕する事態となりました。琵琶湖では、アユ、ビワマス、ホンモロコ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナ、ビワヒガイ等の淡水魚がブラックバスの餌食となり、その生息数は激減してしまったそうです。外来種による従来種の駆逐の事例は枚挙に遑はなく、‘強者生存’も、生物界の宿命のようにも思えてきます(‘適者生存’では、環境に変化がない場合における、外来種が従来種を淘汰するケースについては説明できない…)。かくしてガラパゴス諸島での観察と未来予測はテクノロジー等にも応用され、孤立状態において進化してき技術や製品の生存危機を表す用語として広く使われるようになったのです。

 

しかしながら、生存競争に優る’強者’が、必ずしも’良いもの’とは限りません。巨大魚のブラックバスは、フィッシングを趣味とする人々にとりましてはエキサイティングな釣りを味わえる’良いもの’ではあっても、他の多くの人々は、鮎や本諸子、鱒に鮒といった従来種や固有種を愛でるのではないでしょうか。食材としておいしさのみならず、絵に描かれたり、詩歌に詠われたり、季語として使われるなど、日本の文化や日本の食生活に溶け込んできたのですから。海外から日本を訪れる人々も、外来種しか生息していない日本の湖水など、面白くも何ともないことでしょう。文化や生活の豊かさや奥行きの深さ、そして、人々の繊細な感覚を呼び起こし、感受性を育む環境は、強者が弱者を無慈悲に駆逐してしまう状況下においては成立し得ないのです。

 

外来種が生態系に与えるマイナス影響は、やがて人々に危機感を齎すこととなり、政府もまた、従来種や固有種の保護に取り組むと共に、外来種の規制に乗り出すに至ります。今日では、外来生物法が制定され、生態系に悪影響を与える外来種の飼育、運搬、売買、放流、そして輸入が禁じられたのです。このことは、野生生物であれ、完全に国境を越えた移動を自由化すれば、人為的な介入によってしか、生態系は保護され得ないことを示しています。否、生物の多様性の保護のためには、ガラパゴス状態を保つ方が望ましいと言えましょう。

 

以上に生態系におけるガラパゴス問題を見てきましたが、生物の世界と経済の世界とを同列に論じることはできませんが、今日の経済のグローバル化、あるいは、デジタル化の行く先には、どこを見回しても凶暴性と繁殖力のあるブラックバスやブルーギルしか生息しない世界が待っているような予感がします。そして、強者による独占や寡占化の末、もはや進化の余地のない行き詰まり、あるいは、人類文明が退化しまうようにも感じられるのです。こうした停滞した未来が予測し得るからこそ、敢えてガラパゴス化を目指すという方向性もあって然るべきように思えます。それは、真の意味での多様性の尊重であり、独自に発展した別系統のテクノロジーや知の系譜があればこそ、人類は、隘路から脱出、あるいは、これを事前に回避することができるかもしれないのですから。


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経済成長=デジタル化ではないのでは?

2021年11月08日 16時44分45秒 | 国際経済

 発足間もない岸田政権の経済政策におけるキーワードは、’成長’と’分配’なそうです。もっとも、18歳以下を対象とした10万円給付策などの具体的な政策を見ますと、’分配’への偏りがあり、’成長’を促す戦略が描かれていないとする指摘もあります。このままでは、再分配を主たる統治機能とする国家体制、即ち、社会・共産主義国家に向けて変質しかねないことから、成長戦略の欠如はとりわけ問題視されることとなったのです。

 

 しかしながら、考えても見ますと、日本国のみならず、全世界を眺めましても、成長戦略はデジタル化の一択となっているように思えます。あるいは、デジタル化+脱炭素であるのかもしれません。何れにしましても、成長=デジタル化という構図が既に固定化されており、政府もマスメディアも、デジタル化、あるいは、DX(デジタルトランスフォーメーション)こそ経済成長をもたらす唯一の道として喧伝しているのです。この構図から抜け出すことは難しく、多くの人々の思考に、既定路線としてしっかりと刷り込まれてしまっていると言えましょう。

 

しかも、この構図は、政権に拘わらず、不変です。日本国内にありましても、安倍政権、菅政権、そして、岸田政権と推移してきましたが、何れの政権にあっても、デジタル化は成長戦略の要に位置づけられています。’デジタル化にあらずんば成長にあらず’の如きなのです。このことは、言い換えますと、成長戦略は存在しないのではなく、凡そデジタル化一つしかないのです。

 

しかしながら、現実を見ますと、デジタル化が経済成長をもたらしているのか、と申しますと、怪しい限りとなります。何故ならば、先ずもってここ数年来、急速にデジタル化は進みましたが、経済成長率がデジタル化率と正比例して上昇しているわけではないからです。長期経済停滞からの脱出するためにはデジタル化は必須とされながら、実際にデジタル技術が浸透しても、誰もが、デジタル化の恩恵を実感している状況とは程遠いのです。

 

それでは、何故、デジタル化は経済成長と結びつかないのでしょうか。デジタル技術とは、その本質において管理や手続きの合理化、あるいは、省力化の手段です。AIによって雇用が奪われるとする警戒論がありますが、この側面は、AIに限ったことではなく、IT全般にも言えましょう。経済成長の意味するところが、GDPの増加率を意味するとしますと、デジタル化は、むしろGDPの低下要因として働く可能性の方が高いのです。例えば、スマホ一台あれば、かつての電話、ラジオ、テレビ、カメラ、レコーダー、カセットデッキ、辞書…といった多種多様な機能が全て提供されるのですから、デジタル化は、製品の多様化の方向ではなく、単一化の方向に作用することとなりましょう。また、近未来像として、仮想空間におけるサービス事業が数十兆円規模の市場に成長するとする説もありますが、仮想空間において自らのアバターが活動したとしても、実体経済に実需をもたらすとも思えません。仮想空間においてアバターが何らかのサービスを受けるとしても、それは、’人’ではなく、あくまでもデジタル画像に過ぎないからです。やがて、人々は、自らは自室に閉じ籠り、外部的な活動は、すべてパソコン、あるいは、スマホ等のIT機器の操作によって仮想空間で行うようになり、それと反比例するかのように、現実空間においては多くの職業が消えてゆくかもしれません。仮想空間における将来的な事業規模の試算は、同事業の拡大によって淘汰されてしまう事業分野については計算に入れていないのです。

 

このように考えますと、経済成長=デジタル化の等式において経済戦略を定めるよりも、デジタル化、並びに、AI導入の促進によって発生が予想される失業や淘汰にどのように対応すべきか、という問題にこそ真剣に取り組むべきかもしれません。そしてそれは、’現実経済’の再活性化策ともなるのではないでしょうか。


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資本主義が古くなった時代の’新しい資本主義’とは?

2021年11月05日 13時15分33秒 | 国際経済

 今般、岸田内閣が発足するに際して提唱されたのが、’新しい資本主義’という政策方針です。’新しい’という形容詞は、従来には存在していないものに付されるのですが、この’新しい資本主義’という表現には、いささか戸惑いを感じざるを得ません。何故ならば、今日、’資本主義’という言葉自体がもはや死語になりつつあるからです。

 

 この問題を考えるに当たっては、先ずもって’資本主義’とは何か、という言葉の定義から論じなければならないのですが、一般的には、共産主義に対する’反対語’として理解されてきた節があります。このため、’新しい資本主義’とは共産主義ではないか、という穿った見方も生じるのですが、歴史を振り返りますと、産業革命を背景とした’資本家’による労働者搾取の問題が共産主義を生み出していますので、一般的な理解とは逆に、実のところは共産主義が’資本主義’の対抗思想なのでしょう。否、マルクスこそ、自らの理論を正当化し、’敵’を明確化するために、’資本主義’という概念を造り出したと言っても過言ではないかもしれません。

 

この流れからしますと、共産主義が登場する以前にありましては、通商政策や金融政策、あるいは、農業政策などの方針に違いがあったとしても、国家体制と結びつく形での〇〇主義というものは存在していなかったのかもしれません。経済は経済であって、とりたてて体制としての区別があったわけです。しかしながら、共産主義の登場は、世界を凡そ資本主義と共産主義の二つに分断してしまいました。そして、共産主義国家である中国までもが経済にあって同主義を放棄している今日、資本主義の意味するところはいよいよもって曖昧となり、掴みどころがなくなっているのです。

 

 それでは、資本主義とは、経済史において何らの特筆すべき特徴もなければ、意味もなさないのでしょうか。資本主義が漠然とした経済というものの中に融解してしまいますと、今日の経済が抱えている問題点も理解し難くなります。そこで、仮に、資本主義を共産主義から切り離して定義するとすれば、’資本’という言葉を含む以上、資本家牽引型、金融牽引型、あるいは、株主至上主義の経済としてその特徴を描くことができるかもしれません。

 

 歴史的に見ますと、経済が資本家や金融に牽引されるようになるのは、17世紀以降であり、それは、オランダ東インド会社に始まるとされる株式会社、否、証券の登場と無縁ではないように思えます。証券の登場により、株主は、単なる債権者や融資者に留まらず、企業に対する株主の権利を有するようになったからです。この結果、いつの間にか、企業は株主の所有物となり、売買の客体として扱われると共に、最悪の場合には、配当という名で’搾取’される立場となりました。今日、M&Aが盛んとなり、敵対的買収や売買益を見込んだファンドによる買収が頻繁に見られるのも、株主の権利が重すぎることによります。グローバルな時代では、表看板は自国企業であっても、その実験は海外の株主に握られていることは珍しくはないのです(政治家も、海外資本に’買収’されているケースも…)。この傾向は、グローバル化と共にさらに強化され、直接金融を担う銀行に対しても、BIS規制により、貸出量を預金ではなく自己資本を基準とする方向に転じました。そして、メディアもまた、企業に対して、株式配当率を上げることこそ資金集めと成長のカギとなると説き、株主優先主義の宣伝に努めているのです。

 

 もっとも、こうした株主至上主義に対しては、格差の拡大や’隠れた植民地化’のリスク等から漸く批判的な意見が出現するようになり、2019年のアメリカの経営者団体、ビジネス・ラウンドテーブルに続き、翌2020年には、かの悪名高きダボス会議でさえ、資本主義の見直しを提起することとなりました。株主の利益を最優先する企業経営から、従業員、取引先、地域社会といった他のステークホルダーの利益をも考慮するものへと…。もっとも、これらの提言は経営者視点ですので自ずと限界はあるのでしょうが(もしかしますと、企業側の資本家、あるいは、金融勢力からの‘独立宣言’なのかもしれない…)、少なくとも、株主が様々なステークホルダーのうちの一つに過ぎなくなるのであれば、‘資本主義’という表現は最早相応しくはなくなります。

 

 このように考えますと、’資本主義’の先は’新しい資本主義’ではなく、別の表現であるべきとなりましょう。古いものに’新しい’という言葉を添えても、決して’新しく’はならないのですから。


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’一億総中流’は復活するのか?

2021年10月13日 13時35分33秒 | 国際経済

 

 この結果、今日、所得格差の問題は、与野党を越えた共通認識に至っています。発足間もない岸田内閣も’新しい資本主義’の名の下で労働分配率の向上を訴えていますし、立憲民主党もまた、’一億総中流復活’を掲げて来る衆議院選挙を闘うと報じられています。いわば、新自由主義からの脱却と格差の是正は、左右何れの政党にあっても、国民に対する最大のアピール要因となっているのです。

 

 しかしながら、ここで注意を要するのは、70年代と今日とでは、時代状況が著しく違っている点です。高度成長期の日本国とは、旧通産省が主導した輸出牽引型の経済が日本国全体を潤す好循環が続いた時期に当たります。この時代、安価で高品質な日本製品は凡そ全世界の市場を席巻し、かのエズラ・フォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称したように、’向かうところ敵なし’の状況にありました。官主導の輸出産業の育成⇒円安政策⇒輸出拡大⇒貿易黒字の積み上げ⇒国内マネー供給量の増加⇒民間企業の収益+国民所得の上昇⇒消費+投資の拡大⇒ハイテク分野等の開拓⇒技術力の向上⇒新製品の開発⇒輸出の拡大…というように、国民皆が富む理想的な好循環が実現した時代とも言えましょう。

 

しかしながら、日本経済が栄華を極めた時代は1985年のプラザ合意とその後に続くバブル崩壊によって終焉を迎え、先述したように’一億総中流’も、グローバリズムとマッチした新自由主義に道を譲り、格差容認へと転換してゆきます。そして、今日、再び一億総中流が叫ばれているのですが、上述したメカニズムが働く条件が揃っているとは思えません。何と申しましても、グローバリズムが押し寄せているからです。日本経済の敗因は、グローバリズムの波に乗り遅れたからなのではなく、グローバリズムは、日本国民を豊かにしたメカニズムを根底から揺さぶり、ゲーム・チェンジが起きたからなのでしょう。

 

少なくとも、今日の日本国には70年代のような輸出競争力は備わっていませんし(円相場も遥かに円高に振れている…)、’世界の工場’の椅子には中国が座ったままです。日本企業の多くも生産拠点を海外に移しておりますし、米中の巨大グローバル企業と比較すれば、日本の大企業でさえ中小企業となります。即ち、国内生産と輸出を原動力とする好循環は、働きがたく、国内消費が拡大したとしても、逆に輸入が増加するかもしれません。条件や状況が等しくないのですから、当然に、今日にあって’一億総中流’を唱えたとしても、それは、70年代の引き写しではないはずです。それでは、どのようにしたら’一億総中流’は実現するのでしょうか。

 

中国でも、習国家主席が示した「共同富裕」という新たな政策目標に対して”共同貧困”ではないかとする指摘もありますが、日本国もまた、政策次第では’一億総下流’となるかもしれません(あるいは、’一億総中華化’?もしくは徹底した平等化の果ての全体主義化?)。岸田政権下がアピールしている’成長と分配の好循環’も、成長なき単なる所得移転政策、あるいば、再分配政策に終わる可能性もありましょう(ばらまき政策…)。また、民間企業の労働分配率を上げたとしても、成長産業とされる分野においてIT大手が日本国内にプラットフォームを敷き、凡そ独占・寡占状態で有利にビジネスを展開している現状では、成長戦略の一環としてデジタル化やIT化を進めれば進める程、日本国からの富の流出は増加の一途を辿る未来も予測されます(日本企業の国内シェアが低下し、企業収益も減少すれば、労働分配率を上げても国民は豊かにはなれない…)。

 

内外を問わず、政治家は、兎角に’新しい〇〇主義’、あるいは、’〇〇ノミクス’という言葉を使う傾向にありますが、手を変え品を変えているだけで、本質的なメカニズムの部分は何も変わっていないように思えます。このように考えますと、’一億総中流、即ち、健全な良識を備えた厚い中間層の再形成’を目指すならば、あらゆる国境障壁を完全に取り除き、全世界を’総デジタル社会化’へと方向づける資本家牽引型のグローバリズムの見直しは不可避なのではないでしょうか。そしてそれは、70年代とも違い、国境の調整機能をも備えた国民還元型のメカニズムとなるのではないかと思うのです。


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自由貿易主義とグローバルズムが’別物’である問題

2021年09月30日 15時02分33秒 | 国際経済

 今日、多くの人々は、グローバリズムは自由貿易主義の延長線上にある、あるいは、前者は後者の拡大版であると考えているようです。実際に、両者を明確に区別する政治家は少なく、二国間、あるいは、多国間で自由貿易協定や経済協力協定などの通商協定を締結するに際しても、古典的な自由貿易論を以って相互利益を国民に説いています。しかしながら、両者は、似て非なるものなのではないかと思うのです。

 

 EUなどを見ましても、1957年のEEC設立以来、‘財’、‘サービス’、‘資本(マネー)’、‘人(労働力)’といった移動要素は同列に扱われており、この表現からしますと、主として貿易を意味する‘財’と他の3つの要素との間に然したる違いは見受けません。貿易に際して各国が設けている関税が撤廃されますと、‘財’が国境を越えて自由に移動するようになりますので、人々は、自由貿易=関税障壁の撤廃とするイメージを持つようになります。そして、このイメージから類推して、グローバリズム=非関税障壁の撤廃と見なすようになるのです。言い換えますと、同構図により、財と他の3つの要素の自由化における質的な違いが見え辛くなったと言えるでしょう。

 

 しかしながら、’自由移動’という言葉の魔力に惑わされがちなのですが、移動には、それを決定する’主体’というものが存在しているはずです。財の移動、即ち、貿易の場合には、売買、即ち、交換を行う双方が決定者となります。つまり、双方の経済圏における相対的希少性に基づく価値の違いにより相互利益を生み出すのが貿易のメカニズムですので、輸出入取引を行う双方の事業者の意思の一致がない限り、貿易は成立しないのです(もっとも、輸出入のバランスが保てないと貿易収支の不均衡問題が生じ、貿易の継続が困難となる…)。相互利益が最も確かなのは、相互に自国の’特産品’を輸出品とするパターンですが、経済格差が存在する場合には、相対的に低価格となる産品(リカード流に言えば、生産性において比較優位性のある商品…)が輸出品となります。何れにしても、関税撤廃を意味する自由貿易主義は、基本的には、’交換’の概念で説明されましょう。

 

 その一方で、’サービス’、’投資(マネー)’、’人(労働力)’に関する非関税障壁の撤廃につきましては、別の作用が強く働くように思えます。何故ならば、これらは’モノ’ではなく、意思決定能力を有する主体の自由移動ですので、海外企業、海外資本、並びに、外国人労働者などが、国境という障壁なく国内に流入し、内部化されることとなるからです。この場合、市場の競争メカニズムにあっては、規模の経済が優位に働きますので、国内に競争力を有する企業が存在しない場合には、米中等のIT大手をはじめとしたグローバル大企業が国内市場にあって有利なポジションを占めることでしょう。その決定権は、もちろん、日本市場を含むグローバル市場で事業を展開している海外企業側にあります。投資につきましても、自国企業への融資のみならず、株式保有等を介して自国企業の経営にも影響を与えます。海外投資ファンドが、キャピタルゲインの獲得を目的に自国企業を買収したり、国内不動産を買い漁るケースもあり得ます。加えて、海外労働力の移入は、グローバル企業を含む国内の雇用主と海外被雇用者との契約に基づきますので、他の国民の意思は全く考慮されないのです。

 

サービス、資本(マネー)、人(労働者)などの自由移動を前提としたグローバル化とは、国境を隔てた主体間のモノの’交換’の論理ではなく、全世界を対象に利益の最大化と拠点の最適化を目指すグローバル戦略の論理によって説明されます。そして、この国家レベルの市場開放による多様な要素の流動化は、グローバルレベルでの意思決定が国内に及ぶことを意味しており、それは、その国の政府や国民の合意を最早要さないのです。国家にとりまして、同状態は、超国家権力体による’現代の植民地化’、あるいは、’属国化’のリスクともなり得ましょう。今日、自由貿易主義とグローバリズムの違いを明確化することは、同時に、グローバリズムのリスクの認識をも意味するのではないかと思うのです。


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日本も金融国際センターは幻か?-海外ファンド優遇策への疑問

2021年06月16日 14時55分51秒 | 国際経済

 先日、6月13日の日経新聞の朝刊一面に「ファンド日本参入迅速に」というタイトルの記事が掲載されておりました。どのような内容の記事かと申しますと、日本国の金融庁が、海外にあって既に実績のある海外のファンドに対しては、財務状況等の厳しい審査や手続きを撤廃するというものです。その目的は、’成長資金や金融人材の獲得を巡る激しい競争の中で、日本も国際金融センターの実現を目指す’ことにあります。

 

 実を申しますと、このフレーズ、随分と前からしばしば耳にし、既に使い古されてしまった感もあります。日本国政府が、自国の金融市場を開放する、あるいは、外資誘致政策を実施する度に、’日本も国際金融センターに’という理由がもっともらしく付されてきたからです。しかしながら、現実に目を向けますと、国際金融センター化は永遠に叫び続けられている空虚な掛け声に過ぎないように思えてきます。

 

 民主党政権の時代から菅直人首相の下で日本国は’第二の開国’と称し、国内市場の開放政策を積極的に推進してきました。この方針はアベノミクスにも引き継がれ、海外から資金を呼び込むことを以って、日本経済のバブル崩壊以来の長期低迷から脱出策としようとしたのです。そして今日も、新自由主義の強い影響もあって’海外ファンドウェルカム’の姿勢は強まるばかりであり、今般の海外ファンドに対する優遇策もその延長線上において理解されましょう。かくして、海外ファンドは、日本国政府が率先して丁重に’おもてなし’をすべきお客様となったのですが、果たして海外ファンドの呼び込みは、日本国に国際金融センターの地位をもたらすと共に、経済にとりまして成長要因となるのでしょうか。

 

 そもそも、ロンドンやニューヨークが国際金融センターの地位を獲得したのは、英ポンドや米ドルが国際基軸通貨として貿易決済に使用されていたからに他なりません。同条件からしますと、かつての輸出大国ぶりは影を潜め、黒字幅も縮小傾向にある日本国が、今後、自国通貨の円を以って国際金融センターの地位を確立し得るとは思えません。現実には、国際金融センターではなく、’国際金融サテライト’、即ち、国際金融勢力がその資金を運用並びに調達すると共に、自らのグローバル戦略に基づいて日本企業や日本国内のマネー・フローをコントロールする拠点として機能する可能性の方が余程に高いのではないかと思うのです。

 

 とりわけ、日本経済の復活などは海外ファンドの眼中にあるはずもなく、その目的は、事業のグローバル展開における収益の最大化です。当然に、日本国内に投資するとは申しましても、資金力にモノを言わせる、あるいは、自らが流行らせた’選択と集中’によって日本企業が手放した事業部門を買収し、グローバルレベルで事業再編を図ることにあるのかもしれません。つまり、日本企業、あるいは、その一部事業を買収した後、それを中国企業等他のアジア諸国の企業に売却する可能性も否定はできないのです。また、東芝が海外ファンドなどの’物言う株主’によって翻弄されているように、海外ファンドが大株主となった日本企業の多くは、海外株主からの経営介入に苦慮することともなりましょう。そして、その介入方針が日本経済にプラスに作用するとは思えないのです。巨大ファンドによる事業買収は、今日、国際レベルにおける’新たな集中’、即ち、経済支配の問題をも提起しているのかもしれません。

 

 果たして海外ファンドは、優遇措置を与えるに相応しい日本経済の’救世主’なのでしょうか。既にグローバリズムは曲がり角を迎え、どの国も地域も守勢に転じてきております。このように考えますと、日本国政府は、海外ファンドへの優遇一辺倒の方針につきましては見直すべきではないかと思うのです。

 


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日中互恵関係は幻想では?

2020年10月13日 11時44分37秒 | 国際経済

 グローバリズムでは、企業規模であれ、市場規模であれ、規模に優る側が圧倒的に有利となります。スケールメリットが強く働く限り、中小規模の企業は淘汰されるか、規模の大きな側に買収されて消え去る運命が待ち構えているのです。グローバリズムにおける主要な勝因は‘規模’ということになるのですが、この側面からしますと、ロジカルに考えれば日本と中国との間の互恵関係はあり得ないという結論に達せざるを得ないのです。

 

 日本国と中国とを比較しますと、市場規模において凡そ10倍程の差があります。人口14億人を擁する中国にあっては、生産量、消費量、労働人口、貿易額など、あらゆる数値において日本国を上回ります。グローバル時代ともなれば、モノ、サービス、労働力、資本などが国境を越えて自由に移動できますので、自国の国内市場を基盤として政府主導でグローバル企業を育てた中国は、市場規模をさらに広げることができるのです。

 

また、広大な領土を有する中国は、レアアースなどの鉱物資源にも恵まれていますし、面積の広さは、インフラ事業等においてもスケールメリットを追求することができることを意味します。例えば、高速鉄道の事業にしても、中国企業は、自国内における高速鉄道網建設プロジェクトに際して構築した大量生産体制を以って、海外諸国に対しても安価に輸出することができます。工業生産品のみならず、中国は、インフラ事業においても強がみを持つのです。

 

以上に簡単に述べたように、グローバル時代にあって、中国は、その自然条件からして圧倒的に有利な立場にあります。市場規模において中国に匹敵するのは、人口が同国と同程度の14億人に迫るインドぐらいしかないかもしれません。言い換えますと、グローバル時代にあって、日本国は、中国に対して勝ち目はなく、‘互恵関係’が成立するとすれば、それは、決して両国対等なものではなく、中国中心の‘グローバル経済圏’において日本国に対して一定の下請け的な分業が割り当てられた状況を意味するのでしょう(たとえ、画期的な技術を日本国のスタートアップなどが開発しても、資金力に優る中国企業に買収されてしまう…)。おそらく、中国側の構想としては、国際分業における日本国の役割とは、中国人向け観光地、高級農産物の生産地、並びに、ハイテク製品の素材提供地(もっとも、中国が内製化できるまでの間…)なのかもしれません。実際に、日本国政府も、この方向に向けて動いているように見えます(インバウンド歓迎、農産物の輸出拡大政策、並びに、プランテーション化を想定した?移民労働者の受け入れ拡大…)。

 

規模を軸にグローバリズムの行く先を予測しますと、日本国の将来は暗いとしか言いようがないのですが、こうした悲観的な予測に対しては、中国が自国市場を完全に開放し、中国企業と他国の企業との間に競争条件を等しくすれば問題はない、とする反論も返ってくるかもしれません。しかしながら、中国は、今日、最先端のITを用いて徹底した国民監視体制を敷いていますので、一党独裁体制の崩壊はますます見込みが薄くなっています。また、イデオロギーにあって政経が一致していますので、中国共産党が、経済に関する権限、否、利権を放棄するはずもありません。しかも、中国の技術力に裏打ちされた経済力は軍事力と直結しているのですから、日本国は、軍事的な脅威にも直面することとなりましょう。つまり、グローバリズムを推進すればするほど、権力と富は共産党、並びに、中国に出資している国際金融組織に集中し、‘暴力とテクノロジーとマネー’によって同体制が強化されてしまうのです。

 

言い換えますと、‘日本国は経済分野にあっては中国との結びつきを強化すべき’と唱えている親中派の人々は、‘中国は変わらない’が現実であれば、日本国に対して、自滅に向けてアクセルを踏むように勧めているようなものです(もっとも、中国から特別に‘分け前’をもらっている少数の人々や企業にとりましては、‘私的な互恵’が成りたつ…)。日本国の未来は中国と結託したグローバリズムの先にはなく、むしろ、中国とのデカップリングを含む保護主義的な方向への転換こそ模索すべきではないかと思うのです。


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