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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

グローバル・スタンダードの欺瞞

2025年08月19日 11時25分56秒 | 国際経済
 8月15日は、日本国では、終戦の日としてその長きに亘る歴史に刻まれています。その8月15日付けの日本経済新聞の1面に、大変、興味深い記事が掲載されておりました。実のところ、先の戦争とは全く関係ないのですが、グローバリズムの実体、並びに、日本国の今後に進むべき道を考えるに際して、重要な判断材料を提供しているように思えます。

 この問題の記事とは、「量子・AI 国際規格主導へ」というタイトルのものです。サブタイトルとして「政府 海外認証機関 買収後押し」が付してあります。同記事は、「政府は先端技術や製品規格を審査する国内の認証・試験機関による海外の認証機関の買収を後押しする。」から始まっており、日本国政府が、政府系ファンドが国内の認証機関に買収資金を融資する方針を示したとする内容です。融資機関としての政府系ファンドは、産業革新投資機構(JIC)が有力とされ、国内の認証機関としては、‘日本品質保証機構(JQA)などの関連団体’としています。本決まりではないようなのですが、既に国内の認証機関への聞き取りが開始されているそうです。

 量子コンピュータ、脱炭素、AIといった先端技術の分野では、その先端性故に未だにグローバル・スタンダードが確立しているわけではなく、日本国政府としては、先手必勝といわんばかりに、他国に先んじることでグローバル・スタンダードを征しようというのでしょう。この筋書きを読みますと、読者は思わず納得してしまうかもしれません。しかしながら、グローバリストや新自由主義者達が、自己弁護のために説明してきたグローバル・スタンダード確立プロセスを思い起こしますと、頭の上に大きな疑問符が付くこととなります。

 何故ならば、グローバリストや同系統の経済学者達による説明では、グローバル・スタンダードとは、国境を越えた企業間のテクノロジー競争の結果として成立するとされているからです。各国、各地域の企業の夫々が、新たなテクノロジーを開発し、これらのテクノロジー間の優劣を軸とした競争がグローバルレベルで展開される結果、自ずと最優秀のテクノロジーが唯一のグローバル・スタンダードとして生き残るというものです。つまり、最も優れた技術が、最終的にグローバル・スタンダードの栄冠を獲得するというプロセスなのです。

 ところが、同記事から読み取れるグローバル・スタンダード確立のプロセスは、テクノロジー間の優劣に基づく競争の結果ではありません。他国の認証機関の買収が手段であり、グローバル・‘スタンダードは、M&A、即ち、お金で買える’と言っているようなものなのです。このことは、資金力に勝る国がグローバル・スタンダードを獲得できることを意味します。

 日本国政府は、自国の資金力に自信があり、日本企業も自らの技術開発力を自負していますので、この点を問題視する必要はないとする意見もありましょう。しかしながら、当然に、技術力ではなく、マネーがグローバル・スタンダードを制すとなりますと、必ずしもグローバル・スタンダードが最も優れているわけではなく、消費者やユーザーは、半ば強制的に同技術を用いた製品を使わされてしまうこととなります。

 また、資金力の規模がグローバル・スタンダードの決定要因であれば、‘買い負ける’ということもあり得ます。日本品質保証機構自体は一般財団法人の形態ですが、2022年に無線通信機器の認証機関である株式会社ディーエスピーリサーチを子会社化しています。同子会社化は、政府系認証機関による自国企業の買収ですが、他国の認証機関や認証事業を手がける民間企業によって自国の認証事業を行なう企業が買収されるケースもあり得ることを示しています。実際に、同記事に因りますと、既に、民間企業であるスイスSGSが温暖化ガス排出量やサイバー・セキュリティーの分野で、フランスのビューロベリタスもAI分野で買収を開始しているそうです。ルクセンブルクに本社を置くユーロフィンに至っては、既に日本市場に参入しており、環境関連の分野で日本企業を買収しています。

 何れも必ずしも製造業に強みを持つ国ではありませんので、他国の認証企業の買収は、自国産業のグローバル・スタンダードの後押しではなく、別の目的があるのでしょう。全世界の認証企業を傘下にしたグローバル・スタンダード制定機関ともなれば、全ての企業に対して優越的なポジションの獲得できるのですから。

 そして、かの中国が参入してくれば、グローバル・スタンダードの買取競争は、資金力に勝る中国に有利に働くことでしょう。中国は、既に「「中国標準2035」を公表し、チャイナ・スタンダードのグローバル・スタンダート化を目指していますが、目標年の2035年に向けて、この動きはさらに活発化してくることでしょう。

 かくして、同記事から、グローバル・スタンダードというものの問題性が浮かび上がってくるのですが、マネー・パワーをコントロールすべく、効果的な対策が必要であることは言うまでもありません。認証制度については、国際レベルでの見直しを要するのです。そして、同記事を深読みしますと、もう一つの問題も見えてくるのです(つづく)。

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グローバリストは人を育てたくない

2025年08月14日 12時21分27秒 | 国際経済
 先日、ウェブに掲載されたニュースにあって、Z世代が大量解雇の危機にあるとする記事を発見しました。Z世代には、他の世代よりもデジタル社会に馴染んでおり、AIをも難なく使いこなすスマートな世代というイメージがあります。近い将来、グローバリストが‘グレート・リセット’を実現したとすれば、その住民にもっとも相応しい人々、というイメージがあるのですが、このデジタル社会の申し子とも言うべきZ世代が解雇の標的になっているというのですから、これは、一体、どうしたことなのでしょうか。

 同記事では、その理由として五つの原因を分析しています。(1)AIやロボット等の導入による「仕事の削減」、(2)金利上昇にともないキャッシュ志向に転じた投資家の圧力による「金融状況の変化」、(3)孤立化をもたらした「リモートワークの影響」、(4)自分らしさ等を大切にする「Z世代の働き方の価値観の違い」、そして、(5)「Z世代が持たれているイメージ」の五つなのですが、特に人事担当者が抱いている「扱いづらい」「すぐ辞める」といった(5)として挙げたZ世代のイメージが最大の要因としています。

 細かに原因を分析した上で、同記事は、Z世代の大量問題の解決策として、企業側は従来通りの方法では人材が育たないと認識する一方で、Z世代側も、自己の価値観に固執せず、‘広い視点で働き方を捉える力’を備えるべきとしています。当たり障りのない凡庸な解決策なのですが、企業側とZ世代が同提案に従って自己改革に努めたとしても、この問題がすんなりと解決するとは思えません。何故ならば、(5)、並びに、(4)を主因と見なして対策を実行したとしても、(1)、(2)、(3)の原因を取り除くことはできないからです。

 本当のところは、Z世代の問題は、起きるべくして起きたようにも思えます。何故ならば、一種のマッチポンプであるからです。解決策を見る限り、同記事は、(4)と(5)に主因を誘導しようとしていますが、大量解雇が行なわれる真の原因は、(1)、(2)、(3)にあり、(4)と(5)は、Z世代が同大量解雇の標的となり易い理由に過ぎません。この流れを簡潔に述べるならば、(2)でも指摘されている投資家達が、積極的に(1)のロボットやAIの開発の普及や(3)リモートワークの導入を推進した結果、これまでの一般的な仕事がこれらに代替されるようになったため、若手の採用が必要なくなった、ということなのかもしれません。若手の仕事は、比較的スキルが未熟でもこなせるレベルですので、むしろ情報量やデータ処理等に長けたロボットやAIの方が‘優秀な若手社員’となり得るのでしょう。

 Z世代は、生まれたときからデジタル機器に囲まれており、他の世代よりも、スマホをはじめとしたこれらの機器への依存度が高くなる傾向にあります。デジタル的な思考回路にも慣らされている分、自らの思考力を鍛える機会には恵まれていない世代とも言えます。そうであるからこそ、簡単にロボットやAIに仕事を取られてしまうのであり、採用する側からすれば、何人ものZ世代の若手を採用するよりも、スキルも高く、自分の力で考えることのできるベテランの人材を長期雇用したり、一台のAIを導入した方がコストパフォーマンスに優れているとする判断に傾いてしまうのでしょう。

 こうした現象を目の前にしますと、グローバリストが進めてきたデジタル社会の未来とは、‘人が育たない社会’、あるいは、‘誰も人を育てない社会’と言えるかも知れません。時間とコスト、並びに、教育や訓練といった労力を費やして人を育てる必要がなくなるからです。そして、こうした状態が長期化すれば、縮小再生産の状態となり、人類の知的劣化という惨事が待っているかも知れません。

 根気よく人を育てるよりも‘買えば良い’という発想は、グローバリストの政策の至る所に見られます。外国人問題にも、自国民を育てるよりも、マネーの力で海外から外国人を連れてくれば良い、というグローバリスト、並びに、その下僕となった各国政府の短絡的な考え方が現われています。そして、この発想の延長線上に、ロボットやAIの普及促進があり、Z世代の大量解雇があるのでしょう。ジョブ型雇用の導入も、Z世代に対して自己責任を押しつけ、‘自分は自分で育てるように’と突き放しているようにも聞えます。

 もちろん、人間に苦痛を与えたり、不足する仕事等については、ロボットやAIを活用すべきなのでしょうが、人が人を育てなくなった社会に未来があるとは思えません。Z世代が大量解雇される現実を前にして見直すべきは、グローバリスト達の極端な利己主義、並びに、他者や社会を路頭に迷わせても構わないとする、冷酷さなのではないでしょうか(かくも早急にAI導入やデジタル化を進める必要はあるのでしょうか・・・)。人類は、ホモサピエンスの名に相応しく、如何なる場所や組織にあっても人が人を大切に育て、物質的に豊かな生活のみならず、精神性をも成長させることができる社会を目指すべきではないかと思うのです。

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対米81兆円投資の解釈不一致こそ最大の問題

2025年08月11日 10時11分10秒 | 国際経済
 日米関税合意における15%の関税率については、一先ずは、日米双方が、日本側の解釈、即ち、15%の上乗せではなく、下限一律15%の関税という解釈で一致したそうです(既存の税率が15%未満の品目は15%、15%以上の品目は相互関税の事実上の対象外・・・)。両国間での解釈の一致を見て日本国政府もひと安心なところなのでしょうが、真に深刻な解釈の不一致は、日本国側がアメリカ額に対して確約したとされる凡そ81兆円にも登る対米巨額投資なのではないでしょうか。

 日米関税合意に対する国民の不安感を払拭するために、対米交渉に当たった赤沢経済再生相は、国民への説明文書の作成を準備しているとも報じられております。しかしながら、15%関税の意味内容のみならず、対米投資に関してもアメリカ側との解釈を一致を見ないことには、膨大なページ数の説明文書を作成しても、日本側の解釈のみを記述したものに過ぎなくなります。これでは、国民が納得するはずもなく、先ずもって確認すべきは、そのスキーム全体を含めた対米投資81兆円の具体的な詳細ということになりましょう(確認後に、邦文英文併記で公表すべきでは・・・)。

 先日の赤沢虎正経済再生相の説明に因れば、投資収益をアメリカ側9、日本側1で分けるのは、凡そ81兆円の内、国際協力銀行の過去の投資実績を踏まえた1から2%に過ぎないそうです。その他の投資については日本企業の自主性に基づく民間主導の投資であり、直接的な政府や政府系金融機関の関与は想定していないかのような口繰りでした。しかしながら、アメリカ側の解釈は、これとは真逆と言っても過言ではありません。トランプ大統領の任期に当たる3年半の間に、日本側は政府主導で凡そ81兆円の資金をアメリカ側に対して無条件で提供し、同資金の使い道や個別の投資額等については、アメリカ大統領の裁量権に属すると理解されているからです。この解釈の隔たりは、額が額だけに看過できません。対米貿易黒字は、年間9兆円とされていますが、アメリカ側の解釈に従えば、日本国は、同黒字額を遥かに超える額をアメリカに提供しなければならなくなりましょう(単純計算すれば、凡そ50兆円が対米経常赤字として計上される・・・)。

 この対米巨額投資については、アメリカの財務長官と商務長官の顔ぶれを見れば、グローバリストやウォール街の金融筋が背後で動いたことは、容易に推測されます。先ずもって、スコット・ベッセント財務長官の経歴には驚かされます。イエール大学卒業後に勤務した企業は、何れも富裕層向けの資産運用会社であり、ソロス・ファンド・マネジメントのロンドン事務所のパートナーに就任すると共に、最高投資責任者にも就任していたのですから。しかも、自らもヘッジ・ファンドを設立しており、筋金入りの金融人なのです。金融畑の経歴についてはハワード・ラトニック商務長官も負けず劣らずす。同氏は、ユダヤ系でもあるのですが、大学卒業後に円と米ドルとの為替トレーダーとして出発したそうなのです。その後、B・ジェラルド・キャンターの知己を得てキャンター・フィッツジェラルドに入社し、1991年には社長兼CEOに就任しています。因みに、同社は早くより日本国の証券市場に参入しており、2004年9月には、キャンター・フィッツジェラルド証券会社東京支店が法令違反を問われて行政処分を受けています。こうした経歴からしますと、ラトニック商務長官は日本国との間に浅からぬ‘悪縁’がありそうなのですが、赤沢長官曰く、同長官は、同時多発テロで被害に遭った自社社員の家族を支援しつつ、自ら個人資産2500億ドルを築いた大富豪とのことです。さらに怪しいのは、利益相反が指摘されている同氏と中国との関係です。中国企業の米市場での上場を支援したのは、同氏が率いるキャンター・フィッツジェラルドというのですから。

 両長官の経歴からすれば、凡そ81兆円とされる対米投資にも、巨大な金融グループ、あるいは、これらの‘投資家’個人に利益が還元される仕組みが組み込まれていることでしょう。日本国民が細心の注意を払って警戒すべきは、日本国の政府系金融機関が発行する政府保証付きのドル建公債の引き受けなのでしょうが、その他にも、金融界の専門家にしか知られていない迂回的なルートがあるのかも知れません(関税率や巨額対米投資の情報を株価操作や空売り等に利用・・・)。

 赤沢経済再生相は、ベッセント財務長官を「ベッちゃん」、ラトニック商務長官を「ラトちゃん」と親しげに呼んでいますが、この親密さは、日本国政府がグローバリスト政権と化してしまった今日、同大臣も、グローバリストに手懐けられ、その利益のために働いているとする疑いを強めます(投資の利益は、グローバリストと日本国の政治家の間で9対1で分け合い、リスクと損失は、全額日本国民に負わせる?)。日米関税合意は、両長官の出身母体である金融界の思惑から理解すべきであり、ゆめゆめ日本国民が犠牲に供せられてはならないのではないでしょうか。日本国政府は、アメリカ側との間で巨額対米投資に関する解釈を一致させた上で、国民に改めてその是非を問うべきではないかと思うのです。

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対米巨額投資はアメリカでバブルを引き起こす?

2025年08月01日 11時57分08秒 | 国際経済
 今般のトランプ関税をめぐる各国との合意において顕著となる特徴とは、15%の関税率の適用を得るために、各国とも、アメリカに対して巨額の投資を約束したところにあります。日本国が凡そ80兆円、EUが88兆円、加えて韓国が52兆円とされます。合計で200兆円を越えてしまうのですが、一国にこれだけの巨額の投資が集中した場合、一体、何が起きるのでしょうか。

 これらの資金の投資先の決定権はアメリカにあるとされる一方で、日本国政府やEUは、民間企業に主導権があると説明しています。現時点では、何れが正しいのか判然とはしないのですが、アメリカとしては、老朽化したインフラ施設の更新、あるいは、新規建設の資金として活用したり、米企業の国際競争力を強化するために、半導体、AI、EV、製薬、ロボット、量子コンピュータ等の先端技術分野に重点的に振り向けたいところなのでしょう。

 一方、日本国政府の理解のように民間主導型であるとしますと、日本企業をはじめとした海外企業のアメリカ市場への参入となります(この場合、民間企業の投資収益から90%を納めさせるのは殆ど不可能では・・・)。後者の場合、製品輸入ではなく、海外企業に対して国内生産を促すことになりますし、アメリカ国内の雇用状況は改善されます。必ずしもアメリカにとりましてデメリットになるわけではないのですが、日本製鉄によるUSスチール買収の一件でも明らかとなったように、日本企業による米企業の買収といった形での投資には難色を示すかも知れません。あるいは、競争力に優る海外企業のアメリカ市場への上陸ともなりますと、米企業のシェアが浸食されたり、淘汰されかねませんので、このケースでも、アメリカは対米投資を歓迎はしないことでしょう。

 何れにしましても、アメリカにおいては、既に巨額投資を前提とした動きが始まっているはずです。そして、ここで思い出すべきは、1985年のプラザ合意なのではないかと思うのです。このときは、円安を背景として日本製品の輸出が好調に推移し、日本国が巨額の経常黒字を記録したことから、円高誘導に向けた国際的な合意が成立しました。その一環として、日本国政府が約束したのが、国内投資を伴う内需拡大政策への転換です。そして、公共事業分野への多額の資金の流入予測が引き起こしたのが、かの‘昭和のバブル’と言うことになりましょう。

 今般の日米合意については、‘令和版プラザ合意’とする見方もあるように、表面的な違いはあるものの、その本質において共通点を見出すことができます。両者とも、アメリカの経常収支の改善が主たる目的であるからです。もっとも、今般の場合には、先進諸国による国際的な多国間合意ではなく、アメリカが主導権を握る形での二国間合意の形態となりましたし、用いられた政策手段も、外国為替政策+金融政策と関税政策という違いがあります。そして、ここで注目されるのが、内需拡大策です。プラザ合意の場合には、日本国内の内需拡大、すなわち、投資先は日本国であったのですが、今般の関税合意では、投資先はアメリカです。このことは、アメリカにあっても、海外からの巨額の投資資金の流入を当て込んだ投機的なバブルが発生する可能性を示しているように思えます。

 対米投資資金が200兆円超えともなりますと、プラザ合意において日本国が約したとされる公共投資額とは桁違いです(日本国の場合、1兆円以下であった・・・)。インフラ建設等の公共投資の拡大期待は不動産バブルを起こしますし、証券市場にあっても投機マネーが流入することでしょう。米国民を悩ませている物価高にも拍車がかかるものと予測されます。そして、トランプ大統領の任期が切れた3年半を過ぎた当たりに、アメリカの狂乱のバブル経済は儚くも崩壊するかも知れないのです。

 バブルの発生を抑制するために、アメリカが何らかの投資コントロールを行なう可能性もありますが、何れにしましても、トランプ関税合意は、様々な面でリスクに満ちています。歪で不平等な関税合意の先も地獄であり、グローバリズムへの回帰も地獄であるならば、むしろ、関税率25%を前提とした上で、これを機に内需重視の経済システムへの切り替えを図った方が、長期的に見ますと得策のように思えるのです。

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日米関税不合意では?―違いすぎる両国の解釈

2025年07月28日 10時19分43秒 | 国際経済
 予定されていた25%の関税を15%まで引き下げたとされる日米合意は、少なくとも日本国政府とマスメディアはプラス方向に評価しているようです。しかしながら、この合意、前代未聞と言えるほど、日米間で解釈が異なっています。当事国の双方が‘勝利’を宣言している奇妙な戦争のような様相を呈しているのですが、これでは、‘日米合意’ではなく、‘日米不合意’という表現の方が適切に思えます。合意内容の双方の解釈に、天と地ほども隔たりがあるのですから。


 この一件は、如何にマスメディアが‘いい加減’であるのか、ということも示しています。そもそも、先日、マスメディアは、交渉妥結の一報に際して、両国政府の代表が何らかの文書に‘署名’をしたと報道していたはずです。ところが、日本国政府は、突然に合意文書は作成していないと言い始め、日本国内では、後者が‘正しい’とされています。それでは、一体、マスメディアは、どこから‘署名’の情報を得ていたのでしょうか。日本国政府か、あるいはマスメディアのいずれかが、虚偽の情報を国民に提供したことになります。


 こうした政府とマスメディアと間の情報の齟齬も国民の不信を招くに十分なのですが、アメリカ発の情報と日本国内での情報の違いも、情報化社会と称される時代にありながら、人々が当惑するほどの凄まじさです。双方の言語の違いを言い訳には出来ないほどに、解釈が全く違っているのです。この食い違いは、凡そ80兆円とされる対米投資の約束において顕著に表れています。


 アメリカ側の説明によれば、同80兆円は、日本国の政府系金融機関を介してアメリカに投資される資金の総額であり、同投資によって生じる利益も、その9割がアメリカの取り分とされます(日本の資金でアメリカが運用し、利益の大半はアメリカへ・・・)。しかも、投資先も分配された利益も、アメリカ大統領の裁量権に服するのであり、同プロジェクトの主導権はアメリカ側に完全に握られるのです。しかも、ベセント米財務長官は、「四半期ごとに合意が順守されているか精査する」と述べており、厳格なる監視付きでもあります(この点、石破首相も、実施に関する自らの関与を表明している・・・)。


 その一方で、日本国側の赤沢亮正経済再生担当相は、同80兆円の額を‘上限’の数字と解した上で、日本側からの‘出資’はこの内の1から2%に過ぎず、9対1の割合での利益の分配は同‘出資’に限るとする旨の説明を行なっています。日本側のマイナス面についても、日本側からの提案としての当初の利益配分率は五分五分であったので、「(9対1に)譲ったことで失ったのはせいぜい数百億円の下の方だ」とも釈明しています。加えて、対米投資のルートも、政府系金融機関が日本国の民間企業に対して融資を行なうとしており、対米投資の主導権は、日本国の民間企業にあるとしているのです。


 合意文書も存在しない状況にあって、仮に、報じられているように、アメリカ側が自らの解釈に基づいて8月15日から15%の関税率を適用した場合、日本国は、一体、どのような事態に直面するのでしょうか。アメリカ側は、当然に、日本国に対して約束通りに80兆円規模の対米投資を要求することでしょう。なお、昨日7月27日にあって15%で妥結したEUとの合意では、対米投資は6000億ドル越え(凡そ88兆円)であり、日本国一国とほぼ同レベルです。EUとの合意でも文書が作成されたのか、並びに、対米投資のスキームに関する詳細は分からないのですが(利益分配率も・・・)、今後のEU側の反応が注目されるところです。


 そして、アメリカが、対米投資の実施を迫った場合、日本国は、重大な選択を迫られることとなりましょう。つまり、アメリカ側の解釈通りに、トランプ大統領の就任期間の間に、アメリカ側の解釈に従って凡そ80兆円を差し出すのか、あるいは、関税率25%を受け入れるのか、のいずれかです。日本側の解釈が通るとすれば、それは、可能性は極めて低いながらも、対米投資が、トランプ大統領のアメリカ国民向けのパフォーマンスに過ぎなかった場合に限られましょう。そして、この展開には、金融勢力であるグローバリストが一枚絡んでいる気配も感じられるのです(つづく)。


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グローバリズムの罠-民営化+市場開放による植民地化のリスク

2025年07月04日 10時41分48秒 | 国際経済
 昨日7月3日付け日経新聞の12面に、「ラオス国営航空身売りを検討」とする記事が掲載されておりました。記事の内容は、ラオス国営航空が、中国の旅客機メーカーである中国商用飛行機(COMAC)の買収提案を受けて、‘身売り’を検討しているとするものです。この買収案件、グローバリズムに伴う植民地化リスクを端的に表しているように思えます。

 グローバリズムを国内政策としてみれば、凡そ、経済システムとしての所謂‘資本主義’をベースとした(1)市場開放政策(2)インフラ事業の民営化政策が、各国政府によって一体化された形で推進された時期と凡そ一致します。これらの二つの政策のうち、後者の民営化ばかりに気を取られますと、前者については見過ごされがちです。民営化には株式公開、即ち、株式の売却が伴いますので、民営化は、同時かつ自動的に市場開放を意味してしまうのです。このことは、潤沢な資金さえあれば、外資であっても株式を取得し、株主権を行使できることを意味します。

 日本国はまさにこのケースと言えましょう。度重なる民営化の結果、インフラ部門にあっても外資(グローバリスト)の影響が強まるのを目の当たりにして、ようやく事の重大さに気がつき始めてきたのですから。情報通信、鉄道、郵政等の分野のみならず、近年では、エネルギー分野でも再生エネ事業における外資系企業の事業権の取得が、電力料金の上昇のみならず、深刻な環境破壊をも招いています。また、米中の大手IT企業による日本市場を含むグローバルなプラットフォームの構築も、民営化政策なくしてあり得なかったことでしょう。グローバリズムでは規模に優る側が圧倒的に有利となりますので、これを放置すれば外資に席巻されてしまうのは、当然の成り行きなのです。しかも、グローバリズムの推進役となった日本国政府は、この状態を黙認するにとどまらず、積極的に日本国への‘投資’を呼びかけているのです(海外からの投資は、‘トロイの馬’になり得る・・・)。

 さて、ラオスの件に戻りますが、同件は、グローバリズムの幻影に惑わされて見えにくかった外資による経済支配、否、‘植民地化’のリスクを‘可視化’しているように思えます。何故ならば、公営事業の余りにもストレートで直接的な海外企業への売却であるからです。日本国の民営化の場合、株式会社への転換の後にその株式の全て、あるいは、一部を段階的に証券市場で公開する方法が採られていますが、ラオスの場合、両当事者間の交渉において株式の保有比率が決定されるのでしょう。COMAC側が全株を取得するのかもしれませんし、あるいは、過半数を超える比率で合意するかも知れません。前例としては、ラオスと中国の間で2021年12月に開通したラオス中国鉄道があり、この事業での出資比率は中国側が70%であったそうです。

 同件については、航空機メーカーによる航空会社の買収案であるため、異例性が注目されていますが、真に危機感をもって直視すべきは、民営化に伴う外国による経済支配のリスクであるのかも知れません。もっとも、民営化とは申しましても、ラオス国営航空の場合、国営企業から民間企業への転換を経ることなく、政府保有株式が海外企業に譲渡されるスキップ方式です。しかも、譲渡先は、民間企業とも言えません。COMACは、複数の民間企業を統合して設立された民間航空機製造会社ではあるものの、その主要な株主は、中国政府、上海、その他国営企業等で構成されており、株式は公開されてはいても、国営企業に近いのです。同社の会長は、もちろん中国共産党員です。

 おそらく、日本国内でも、より目立たず、よりソフトな形で‘ラオス化’が進行していることでしょう。目下、参議院選挙を控えて各政党とも、有権者の支持を求めて自らの政策を熱心に訴えていますが、今回の選挙は、日本国内でもグローバリズムがもたらす諸問題が本格的に争点として浮上してきた最初の選挙とも言えるかも知れません(少子化や物価高等もグローバリズムと無関係ではない・・・)。日本国の未来をグローバリズムに託してもよいのか、国民の一人一人が問われているように思えるのです。

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グローバリズムの最終段階は‘専制の時代’

2025年06月19日 11時49分59秒 | 国際経済
 グローバリズムの行き着く先につきましては、政府やマスメディアは先端テクノロジーが花開く‘明るい未来’のイメージを振りまいてはいるのですが、ムーンショット計画など見る限り、人々が生気も正気も失っている‘暗い未来’しか予測できません。それでは、グローバリズムの第三段階、即ち、国家間格差を基準とすれば‘均質’あるいは画一化の時代となる最終段階とは、どのようなものなのでしょうか。

 グローバリストとは、全世界の支配を目指す戦略家、少なくともその計画の立案者は戦略家であったはずです。その目的を達成するに際しては、行き当たりばったりでも、運に任せるのでもなく、緻密な計算の上で極めて高い確率で成功する見込みのある方法を編み出したはずです。全ての人類を自らの支配体制に追い込む必要があるのですから、心理作戦を含めて周到な計画を練っていたことでしょう。しかも、できる限り秘密裏に、一般の人々に知られることもなく・・・。人々が自発的に同支配体制を受け入れる状況を作り出すことこそ、彼らの理想であったのでしょう。

 さて、グローバリズムの第三段階とは、第二段階の大競争時代を経て国家間の格差がなくなり、グローバル企業と称される大企業、および、それを株式取得や融資等により背後でコントロールする金融財閥によってグローバル市場が独占、あるいは、寡占された状態です。この最終局面につきましては、競争法(独占禁止法)を根拠とした反論もありましょう。独占、寡占、集中、カルテルといった行為は法的に規制されているのであるから、あり得ないとする見解です。ところが、国際社会におきましては、GATTといった通商や関税に関する協定は制定されていますが、世界大での競争法は未だに存在していません。国内法として競争法が適用されているはずの国内市場にありましても、近年、当局の力不足(忖度?)や消極性が目に付きますし、表向きは複数の企業が競争状態を保っているように見えても、どの製品もサービスも変わり映えがしないのは、隠然たるマネー・パワーが背後で働いているようにも思えます。

 何れにしましても、グローバルレベルでの画一化が進み、最終的には人の自由移動によって民族や国民の枠組みも融解し、人々のアイデンティティーも失われてゆくことでしょう。この状態は、一見、個人間での格差がなくなるようにも見えます(‘文化’とは集団を枠組みとするため、人類が培ってきた多彩で固有な伝統や文化も失われてゆく・・・)。しかしながら、その一方で、一般の人々とグローバリスト並びにその利益に預かる少数の取り巻きの人々との間の格差は固定化し、一般の人々は、グローバリストが構築し、人々を追い込んだ‘支配の枠組み’の中でしか生きられなくなります。誰一人取り残さずに・・・。富や権力を掌握したグローバリストは‘自らを選ばれし者’として自認しているのでしょうが、その姿は、専制君主と変わりはないように思えます(独裁を忌み嫌い、共通善を求め、理性を重んじ、法と自由を愛した古代ギリシャ・ローマ文明の継承者でもない点において、その精神性はチンギス・ハーンに近いのでは・・・)。

 そして、近年、急速に発展したコンピュータやデジタル等の情報通信産業は、それが国境を越えて人々を直接的に支配する便利な道具となるからなのでしょう。因みに、新たに出現したテクノロジーを用いた新産業であるだけに(既存の競争者が存在しない・・・)、IT大手に対する競争法の適用は緩く、市場シェアの独占や寡占そのものでは違法とは判断されません。この結果、実際に、同分野は、グローバル企業の独断場ともなっているのです。テクノロジーとは、必ずしも人々の負担や苦痛を取り除き、生活や人生を豊かにするわけではなく、開発目的によっては悪魔にも奉仕します。また、地球温暖化問題が優先すべきグローバル・イシューとしてアピールされるのも、グローバルなレベルでエネルギー資源や各国の生産力をコントロールするのに好都合な口実となるからなのかも知れません。新型コロナウイルスやmRNAワクチン接種推進事業について陰謀説が絶えないのも、そこにグローバルな製薬企業の利益やデジタル管理体制の構築と結びついたグローバリストの冷酷な意図が垣間見えるからなのでしょう。

 かくしてグローバリズムは、今日、既に最終段階を迎えそうな勢いなのですが、それでは、国家とは、グローバリストにとりましてどのような存在なのでしょうか。ここに、国家権力をめぐるグローバリストと国民との間の対立という構図も見えてくるのです(つづく)。

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グローバリズムの第二段階は‘大競争時代’

2025年06月18日 11時45分24秒 | 国際経済
 グローバリストが目指す近未来ヴィジョンへの道は、‘移動利益’を特徴とする初期の格差段階に次いで、第二段階として‘収斂段階’が想定されていることでしょう。‘想定されている’というよりも、既に同段階を迎えているとも言えましょう。それでは、第二段階の‘収斂段階’には、どのような事態が発生するのでしょうか。

 ‘収斂段階’とは、漸次的に国家間の格差が収斂してゆく時代です。グローバリズムに伴う自由化は、水が高きから低きに流れるが如く、国家間の経済格差によってモノ(財)、サービス(企業・・・)、マネー(資本)、人(労働力)、テクノロジー(知的財産権・・・)、情報(データ・・・)と言ったあらゆる要素が国境を越えた移動を開始し、格差の幅が大きいほどに移動利益も大きくなります。暫くの間、この状態が続くのですが、やがて国家間の経済格差は縮小し、収斂させてゆくこととなります。

 格差の収斂は、先進国の経済レベルの低下と途上国の経済成長に因るのですが、この段階において、明確に自由貿易主義とグローバリズムとの相違が明白となります。前者にあっては、それが以下に不平等で不公平なものであったとしても、一先ずは、国家間にあって最も効率的であり最適な資源配分を伴う国際分業が成立することで落ち着くとしています。理論上は、何れの国も、自国が比較優位となる商品や製品の生産に特化する一方で、劣位産業についてはその淘汰を受け入れるからです。

 ところが、グローバリズムにあっては、国境を越えた移動はモノのみではありません。上述したようにサービスやマネーのみならず、テクノロジーや情報も自由に移動します。このため、高低差による先進国からの流入要素は途上国の経済を急速に発展させ、キャッチアップのチャンスをもたらすのです。途上国の経済発展は、先進国の優位性を揺るがしますので、比較優位説が唱えた国際分業による静止状態とは逆に、激しい競争時代を迎えることとなります。同状況下では、価格競争の側面からすれば、‘規模の経済(スケール・メリット)’において強みを持ち、低コストで大量生産できる側が優位となりましょう。新たに出現した広大な途上国市場にあっては、先進国ほどの高性能・高品質も要求されませんので、第二段階では、先進国側は不利な競争環境に晒されるのです。しかも、先端技術は途上国の方がむしろ導入しやすいケースもあります。

 さらに、同競争は、先進国と途上国との間のみならず、先進国間でも途上国間でも起きますので、競争は熾烈を極めます。例えば、先進国企業は、ライバル企業に対して優位となるために、製造拠点等の途上国への移転を加速させますし、途上国の側も、外資や先端技術を自国に呼び込むために優遇措置を設けることでしょう。この側面からしますと、日本国の長期に亘る経済の低迷は、一般的に信じられているようにグローバリズムの波に‘乗り遅れた’のではなく、‘乗りすぎてしまった’、あるいは、‘乗せられてしまった’ことによる必然的な結果であるとも言えましょう。

 かくして国家間の経済格差の収斂は、‘最後の秘境’がなくなるまで続くのですが、企業間、あるいは、個人間の経済格差は、必ずしもこれと平行して収斂するわけではありません。第一段階で始まった個人間及び企業間での格差は、さらに拡大してゆきます。グローバル競争にあっては、先進国企業であれ、途上国企業であれ、規模に優る側が市場を席巻しつつ、さらに企業規模を拡大させる一方で、中小規模の企業は、大企業による買収や企業グループへの傘下入りをも含めて主体性を失い、一つまた一つと姿を消してゆくのです(各国政府によるインフラ事業等の民営化は、この傾向にさらに拍車をかける・・・)。

 資本関係を見れば、表面的には生き残っているように見えても、グローバリストの中枢とも言えるマネー・パワーを握る金融財閥の支配下に置かれている企業も少なくはありません。収斂段階とは、規模が利益を左右する大競争の時代であり(第一段階が‘移動利益’の時代であるとしますと、第二段階は‘スケール(規模)利益’の時代・・・)、極めて少数のグローバリストに富が集中するプロセスとしても理解されましょう。(つづく)。

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グローバリズム第一段階は‘移動利益’の時代

2025年06月17日 12時12分56秒 | 国際経済
 今日、各国共に国境が消滅する寸前まで自発的に自国の市場開放、即ち、自由化が進められています。とりわけ、日本国政府のグローバリズムへの迎合は群を抜いており、あたかも、グローバリストの‘傀儡国家’のような様相を呈しています。しかしながら、その推進者達が未だに自由貿易主義を支えてきた比較優位説を表看板としている現状が、グローバリズムが脆弱な基盤の上に構築されている高楼であることを如実に示しているとも言えましょう。実際には、グローバリズムが自由貿易主義に引導を渡したにも拘わらず・・・。

 それでは、グローバリズムが目指す未来とは、一体、どのようなものなのでしょうか。グローバリストが自分たちだけで描いている未来像につきましては、自由化、すなわち、各国政府による対外開放政策からの時間の経過に伴って、凡そ3つの段階に分けて考える必要がありそうです。3つの段階とは、主として‘国家間’の経済格差の変化に沿って分けた(1)格差段階、(2)収斂段階、(3)均一段階の三者です。これらの格差は、あくまでも‘国家間’におけるものであり、‘個人間’並びに‘企業間’の格差は、むしろ逆の方向に向かいます。なお、これらの区分は、グローバリストが温めている一連の計画を外部から推測したものであり、人類の未来が必ずしもこの三段階のプロセス経て進むとは限りません。

 さて、第一段階の格差段階とは、様々な要素における国家間の格差の要因となってきた国境が開放され、移動の自由が生じ始めた初期段階を意味します。この段階において最大の利益の源泉となるのは、‘移動利益’です。この表現が適切であるかどうかについては自信はないのですが(‘格差利益’でもよいかも知れない・・・)、‘移動利益’とは、稀少性等に基づく国家間の価値の違いから、何かを移動させるだけで生じる利益です。人類史を振り返りますと、古来、商業や貿易が営まれており、 ‘移動’もまた利益を生み出してきました。蛇足かも知れませんが、日本国の‘鎖国時代’さえ例外ではありません。江戸時代の鎖国政策は、完全なる通商の断絶があったわけではなく、オランダ東インド会社並びに中国商人に独占権を与えた国家貿易の一種でした。その実態は、中国商人から仕入れた絹等をオランダ東インド会社が大型商船で日本国に運んで売り渡し、帰路には漆器や陶磁器等の日本製品を積み込んでヨーロッパに持ち込むという、いわば三角貿易であったのです。財を移動させるだけで莫大な利益を期待し得たのは、過去の歴史が示すとおりです。

 このことは、移動要素が増え、かつ、格差が大きいほど、利益獲得のチャンスも広がることを意味します。移動の自由化を促進するグローバリズムが‘移動利益’を飛躍的に増大させたことは想像に難くありません。金融や投資もまたお金を‘移動’させることで利益得る事業の一つです。製造拠点さえ、より安価で製造し得る条件を備えた地域に移転できますし、研究拠点も移転することができます。移民の増加も、前貸し制度と結びついた移民ビジネスが横行しているからなのでしょう。

 移動利益の主たる受益者は、生産者でも消費者でもなく、商人や貿易業者といった中間取引業者や仲介者です。しかしながら、その一方で、グローバル時代における格差段階における‘移動利益’は、中間者のみに限定されるわけではありません。例えば、先進国から途上国への製造拠点の移動は、企業にとりましては収益アップを意味しますし、製品価格が低下すれば消費者利益にも叶います。また、移民につきましても、移民ビジネスを手がける事業者にチャンスを与えると共に、所得水準の高い国での就労は、移民個人には利益となります。政府としましても、法人税であれ、所得税であれ、税収が増え、予算も拡大します。政府も含めて受益者の幅が比較的広くなりますので、格差段階は、グローバリズムにおいて最も高い評価を受ける時期ともなります。

 その一方で、‘個人間’並びに‘企業間’の格差を見ますと、何れもグローバリズムの波に乗ったグループと、乗れなかったグループとの間での格差は拡大します。個人レベルでは、先進国では生産拠点の移動により失業者が増加する一方で、海外投資に収益の場を求めることができるようになった金融分野の人々は、高い所得水準を維持することでしょう。また、途上国でも先進国に移住したり、外資系の事業者に従事する人々の所得水準が向上する一方で、生活様式の変化も加わって、従来型の産業に携わってきた人々は生活の糧を失うかも知れません。格差の拡大は企業間にも見られ、先進国であれ、途上国であれ、事業の海外展開をし得る規模の大きな企業はチャンスを掴む一方で、資金力の乏しい中小の企業は、淘汰の危機に直面することとなりましょう。あるいは、無理にでも海外に進出しようとすれば、資金調達のために株式や社債を発行したり、巨額の借金を背負い込むことになります。何れにしましても、外部経済、否、グローバリズムへの依存度が高まり、‘同体制’に組み込まれてしまうのです(つづく)。

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自由貿易主義を葬り去ったのはグローバリズム

2025年06月16日 11時58分54秒 | 国際経済
 ‘自由貿易主義を葬り去ったのはグローバリズムである’と主張しようものなら、おそらく、誰からも真剣に受け止めてもらえないことでしょう。今日に至るまで、自由貿易主義とグローバリズムは凡そ‘同義’に使われてきましたし、自由貿易主義の‘進化形’こそグローバリズムであるとするイメージも広がっています。しかしながら、少なくとも理論的な側面からしますと、後者が前者を崩壊させたとしか言いようがないのです。

 自由貿易主義とグローバリズムとの最大の相違点は、前者は国家の枠組みを前提としている一方で、後者は、国境を取り払ったグローバル市場を想定しているところにあります。自由貿易主義の祖とされるデヴィット・リカードの比較優位説も、‘二国二財モデル’と称されたように二つの国家の間でのモデルとして提唱されており、そこには、前提条件として‘国家’という枠組みが設定されています。自由貿易主義が全ての国家に対して互恵的に利益をもたらし、自ずと最適な国際分業が成立するとする自由貿易体制の理想像も、それがたとえ現実を無視した仮想の世界であったとしても、国家の枠組みがあってこそ成り立つのです。

 財のみの取引を想定している自由貿易主義に対して、国家の枠組みを想定しないグローバリズムでは、財の他にも、中間財(部品等)、マネー(資本)、サービス、人(労働力)、テクノロジー、情報と言ったあらゆるものが単一の‘世界市場’にあって自由に移動すべきものとされます。こうした移動が自由化される対象の数や種類等だけを見ますと、グローバリズムとは、自由貿易主義の延長させた先にあり、その拡大のようにも見えます。しかしながら、両者の間には、‘量’のみではなく‘質’の上での違いがあります。後者が、これらの要素移動の自由化によって国家の枠組み、あるいは、国家の存在そのものが‘消える’と考えているところに決定的な違いがあるのです。自由貿易主義ではかろうじて保たれていた国民国家体系も、グローバリズムでは‘なきもの’と見なされてしまうのです。

 両者の違いは、必然的に自由貿易主義が依拠する比較優位説の前提条件を崩壊させます。何故ならば、全世界から最も生産に適した要素を自由に移動させることができるのであれば、国別の比較による優位性が成立しなくなるからです。例えば、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化したヘクシャー・オーリンモデルを例に挙げれば、資本も労働力も国境を越えて自由に移動できるのであれば、双方共に優位性が成り立たなくなるのです。言い換えますと、グローバリズムこそ、自由貿易主義がより所としていた比較優位説を葬り去ってしまったと言えましょう。

 かくしてグローバリズムによって既に自由貿易主義が破綻を来しているのですが、それにも拘わらず、グローバリストもその最大の受益者となった中国も、兎角に‘自由貿易主義’の堅持をアピールするのは、互恵という幻影を人々に見せ続けたいためなのでしょう。日本国政府も、グローバリズムとは言わず、自由貿易主義という言葉を好んで使っています。両者の違いが明確になれば、誰もが、手放しのグローバリズム礼賛の姿勢を見直し、グローバリズムに対して懐疑的、あるいは、批判的にならざるを得なくなるからなのでしょう。そして各国の自由化政策によって圧倒的で無制限な自由’を享受し得るようになったグローバリスト達は、今やマネー・パワーをもって人々の自由を圧迫しているのです(つづく)。

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自由貿易主義という名の‘不自由’

2025年06月13日 11時31分27秒 | 国際経済
 自由という言葉の響きが耳に心地よいために、‘自由’と名の付くものは全て‘素晴らしいもの’に違いないと思いがちです。それが不条理な束縛からの解放であれば、なおさらのことです。しかしながら、自由というものも深く掘り下げて考察しませんと、逆の結果が待っているケースもないわけではありません。その最たる事例が、自由貿易主義やグローバリズムではないかと思うのです。自由が不自由に逆転してしまう場合には、凡そ二つの形態が見られます。

 その第一は、国家や社会において自由というものが、特定の人、あるいは、一部の人々にのみ許される場合です。例えば、ヨーロッパの近世で多々見られた絶対王制とは、‘絶対(absolute)’のラテン語の語源が‘あらゆる束縛のない状態’、すなわち‘完全なる自由な状態’にありますので、君主一人に無制限な自由が許されていた体制を意味します。誰もが、絶対王制の時代を君主のみが自由を謳歌した時代であったとして評価しないように、権力、権威、マネー・パワー等を独占あるいは寡占する人、あるいは、人々が、自らの意思を他者に押しつけ、圧迫する場合には、真の意味においての自由とは見なされないのです。

 第二の形態は、あらゆるルールや制限が存在しない、あるいは、撤廃されているため、個々人が自由勝手に振る舞える場合です。上述した第一のケースと比較しますと、自由という言葉の持つイメージとはより合致しています。もっとも、個人の自由を全面的に認める自由放任状態では、他者から攻撃を受けたり、生命や身体を含む自らの権利が一方的に侵害されてしまうリスクも最大化しますので、自由=理想郷とは言えなくなります。各自が自らの意思に従って自由に行動することはできても、自らの安全が保障されないのでは、決して‘自由な国家’や‘自由な社会’ではないのです。因みに、トーマス・ホッブスが‘万人の万人対する闘争’と表現したように、この問題は、古来、政治哲学者や理論家が論じてきたところでもあり、統治権力の存在意義をも説明してきました。

 日本国内では、自由に対する制限につきましては、‘自由には責任が伴う’とする見解が半ば定説化してきました。しかしながら、この説明では、上述した二つの不自由の形態が‘自由’を自称する時、それに論理的に抗う効果は期待薄のように思えます。何故ならば、独占的あるいは寡占的に自由を享受して得る立場の個人や集団に対しては、そもそも‘自由のない人々’が責任を問うことすら難しく、完全なる自由が等しく全員に許されているならば、他者に対して責任をとる必要もないからです。このため、責任付随論は、自己中心主義者に対する圧力程度にしか聞えてこないのです(‘勝手をしてもよいけれども、その結果に対しては責任をとってくださいね’という抑止的な効果・・・)。

 このような責任付随論では真の自由がもたらされるとは思えません。先ずもって、国家や社会にあって等しく全ての人々の自由を護るためには、‘他者の自由や権利を侵害してはならない’とする、自由に対する制限の必要性、否、それを設ける必然性を論理的に説いてゆく必要がありましょう。フランス革命に際して1789年に国民議会が発布した「人および市民の権利宣言」の第4条には、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存す。・・・」とあり、利己的他害性の有無が自由の制限に関する線引きの基準であったことを示しています。もっとも、同原則については、第2のパターンに対しては強い制限効果を発揮しますが、第1のパターンについては、効果は不明という問題があります。

 まさしく正論でありながら同原則が批判を受けたのは、フランス革命はブルジョア革命であったと評されるように、おそらく、第一のパターンに対する対応が抜け落ちていたからなのでしょう。合法的な手段で大富豪となった人々がその絶大なるマネー・パワーをもって自らの個人的な‘自由’を謳歌し、様々な手段や経路をもって自らに利益が集中する仕組みを作り上げたとき、他の人々はなすすべがないのからです。‘お金持ちになるチャンスは誰にもあるのだから、他者の自由を奪っているわけではない’とする反論が返ってくるからです。なお、一と二との関連性については、個人間であれ、集団間であれ、現実には様々な差異がありますので、二の状態が継続すれは、時間の経過によって自ずと一の状態を帰結してしまうということになりましょう。そしてこの問題は、今日に至るまで解決されていないのです。

 以上に個人的な自由が社会的な自由を葬ってしまう二つの形態について考えてきましたが、今日の自由貿易主義やグローバリズムは、まさしくこれら二つの側面を兼ね備えています。関税であれ、数量制限であれ、何であれ、貿易に対する一切の制限を‘ルール違反’とすることで第二の形態である無法状態を出現させ、かつ、第一の形態についても、その空間における個人の自由の絶対化がグローバリスト称される金融・産業財閥への権力と富の集中を許しているからです。

 加えて、自由貿易主義を原則とする限り、各国は、第三の不自由にも直面します。それは、貿易収支を均衡させるための‘犠牲’の提供です。今日、日本国の農業が存続の危機に晒されているのも、自国の貿易赤字を減らしたいアメリカや貿易黒字を増やしたいその他の米生産諸国からの、日本国に対する米市場自由化の要求があるからなのでしょう。果たして自由貿易主義をもって金科玉条とし、同体制を維持するのが正しいのかどうか、いよいよもって疑わしくなってくるのです(つづく)。

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自由貿易主義から保護主義へ-イギリスの実験

2025年05月20日 05時57分40秒 | 国際経済
 イギリスにおける1836年の穀物法の廃止は、自由貿易主義の正しさを歴史的に証明したとする見方は、1837年から1874年あたりまでの一時期だけを切り取った場合にのみ、言い得るように思えます。否、‘黄金時代’とされたこの時期でさえ、必ずしも‘輝かしい’ばかりではありません。中小規模の農家は没落の運命を辿るからです。1870年をもってイギリスの耕地面積は史上最大を記録しつつも、それは、大規模借地による農業経営規模の拡大に寄るものでした。いわば、規模の拡大と合理化によって、穀物法廃止後の自由貿易主義の時代を凌いだとも言えましょう。

 自由貿易主義者は、たとえ中小規模の農家を犠牲にしたとしても、先進的な農法の導入、農作業の機械化、並びに規模の拡大によって農業が生き残ることが出来れば、何も問題はない、と反論するかも知れません。ところが、この‘黄金時代’も長くは続きませんでした。中小農家の切り捨てという多大な犠牲を払ったものの、その後、イギリスの農業は苦境に立たされることとなるからです。それは、‘黄金時代’において農業の繁栄を支えていた要因や幸運が、全て失われてゆく過程でもありました。

 中でも特筆すべきは、国際競争における敗北です。規模においてはるかに優るアメリカやカナダ等の諸外国からの低価格な穀物が大量に流入するようになったからです。これらの諸国では、中西部の開拓等によって広大な穀倉地帯が出現し、農業経営が軌道に乗ると過剰生産を抱えるに至ります。この結果、自由貿易主義を貫くイギリスは、格好の輸出先となるのです。この局面では、イギリスにおける農地集約や経営の近代化等は、もはや自国産の穀物の競争力を支えることはできなくなります。農業事業者一件あたりの耕地面積には格段の差がありますので、‘規模の経済’においてイギリスは、アメリカやカナダ等に太刀打ちできなくなるのです。

 また、穀物法が廃止された頃には、大西洋における海上輸送力は脆弱でした。ところが、産業革命を背景とした造船技術や航海術の発展により、船舶による大量の穀物輸送が可能となります。このことは、海外からの輸入コストをさらに押し下げ、20世紀の初めには、パン用小麦粉の75%が輸入であったとする説もあります。そして、1870年をピークとして農地面積も減少を続け、1901年には半減してしまったとされているのです(約330万エーカー⇒約160万エーカー)。

 かくして、イギリスの食糧自給率は低下の一途を辿ることとなったのですが、この局面にあっても、イギリス政府は、自由貿易主義を‘国是’として堅持します。全世界に自由貿易体制を構築してきた手前、穀物法を復活させることはなかったのです。そして、イギリスがようやく同政策を転換するのは、第一次世界大戦を待たなければなりませんでした。ドイツの潜水艦による大西洋における輸送妨害等により、穀物の輸入が困難となり、自国で生産せざるを得なくなったからです。ここに来て、ようやくイギリス政府は、食糧増産の方向へと農業政策を転換させるのです。

 それでは、第一次世界大戦の終息をもってイギリスは、自由貿易主義に復帰したのでしょうか。実を申しますと、これを機に、同国の政府は、自由貿易主義という理念に殉じるよりも、現実を選択することとなります。1940年代から条件が不利となる耕作地に対する補助金の給付制度を開始し、EU加盟時代にあっても共通農業政策(CAP)の下で農業保護政策を実施しています。そして今日に至るまで、イギリスは、手厚く自国の農業を保護しているのです。

 以上に、穀物法廃止の顛末を見てきましたが、イギリスの農業保護政策については、農家への直接補償と関税とは違う、とする反論もあるかも知れません。因みに、現状にあっては、輸入穀物に対する関税率は0%であっても、畜産品や加工食品等に対しては関税を課しています。結局、自由貿易が全ての諸国にとりまして必ずしも利益となるわけではないことは、イギリスが自らの身をもって証明したとも言えるのではないでしょうか。地理的条件や気候条件等に起因する様々な格差や産業構造の違い、あるいは、テクノロジーのレベルが国際競争力における優劣と利益の不均等をもたらし、自由貿易理論が‘最適な国際分業’として容認する劣位産業の淘汰は、現実には容認できないことがあることを・・・。この側面は、グローバリズムとも共通しています。イギリスの事例は、歴史の教訓に満ちていますので、日本国政府、並びに、全ての諸国の政府は、今一度、経済や通商の在り方を見直すべきではないかと思うのです(つづく)。

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‘米市場自由化’の顛末とは-穀物法廃止の行方

2025年05月19日 12時13分17秒 | 国際経済
 1846年、イギリスでは、ナポレオン戦争を背景に1815年に制定された穀物法が廃止され、自国を中心とする自由貿易体制を確立させます。穀物法とは、輸入穀物に対して関税を課す政策であり、基本的には国内農業の保護を目的としたものです。同穀物法廃止については、教科書では、凡そ自由貿易主義の‘勝利’を決定づけた象徴的な出来事として説明されており、しばしば保護主義に対する自由貿易主義の優位性を実証したとも評されています。かのデヴィド・リカードも、穀物法の廃止を理論をもってして支えました。しかしながら、穀物法の廃止は、自由貿易主義の‘正しさ’を、事実によって証明したのでしょうか。この検証、今日の日本国における米の輸出拡大をめぐる議論を考えるに際して、極めて重要な判断材料を提供するのではないかと思うのです。

 穀物法の廃止が自由貿易の優位性を実証したとする主張が信じられてきたのは、穀物法の廃止後にあって、イギリス農業の‘黄金時代’が到来したからです。以下に、‘黄金時代’を迎えた幾つかの要因を挙げてみます。

 そもそも、イギリスでは、1760年から1840年にかけて第二次土地囲い込み運動が起きており、既に、農地の集約化が進んでいました。第一の要因は、土地の集約化です。この結果、同国の農業は、大土地所有者並びに大規模借地農業経営者によって担われる状況となり、穀物価格の高値安定、即ち穀物法による恩恵は、主としてこれらの人々に集中することとなったのです(このため、地主の利益を保護する方であったとも説明される・・・)。因みに、穀物法の廃止が実現したのも、珍しくも貿易自由化の徹底によって利益を得る‘産業資本家’と安価な穀物を求める都市‘労働者’の利害が一致したところにありました。

 第二の要因として、高度集約農業(ハイ・ファーミング)と呼ばれた新たな農法の普及があります。高度集約農業は、穀物法の撤廃を機に始まったわけではなく、1830年頃から既に姿を見せてはいたものの、その後、急速に全国に広がります。この農法は、ノーフォード農業とも称されるものであり、四輪作農業に畜産業を組み合わせた混合農業です。同農法を導入することで土地利用の効率化が図られ、収穫量も収益率もアップしたのです。

 第三に挙げられるのが、農地の排水事業の急速な拡大です。イギリスの農地は、所与の条件として排水に問題があり、この難点が収穫率を押し下げてきました。ところが、産業革命により工場生産方式が普及すると、排水事業に必要となる土管等も大量に生産・提供されるようになります。また、産業革命は、連鎖的に交通革命と農作業の機械化をもたらし、これらも輸送力並びに穀物生産の効率性を大幅に向上させたのです。もっとも、大規模な工事を要するため、排水事業には相当の設備投資を要します。土地の集約化も高度集約農業も同様ですので、これらの恩恵は、大土地所有者や経営規模の大きな農業事業者に限られ、中小規模の農家は廃業を余儀なくされてゆくのです。

 加えて、第4として外的要因を見れば、穀物法廃止後のイギリス農業は幸運にも恵まれています。ヨーロッパ諸国が不作であったことに加え、クリミア戦争(1853~56年)のために‘敵国ロシア’からの穀物輸入が途絶えます。また、アメリカもイギリスも、この時期には、太平洋を渡っての船舶による穀物輸出は高コストな状態にありました。何れの外的要因にあっても、イギリス農業に有利に働いたのです。

 しかしながら、この‘黄金時代’は永遠に続いたのでしょうか。仮に永遠に続いていたとしたら、貿易の例外なき完全なる自由化は、恐れるに足りないこととなりましょう。ところが、その後の展開を見ますと、そうとばかりは言えないことに気付かされるのです(つづく)。

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貿易が国民を犠牲にするケースの存在

2025年04月25日 11時23分45秒 | 国際経済
 今日、見直しの局面にあるとはいえ、誰もが、自由貿易主義やグローバリズムは、相互に利益をもたらすと信じがちです。否、国際競争による劣位産業の淘汰という‘多少の犠牲’を払ってでも、国境を撤廃して完璧なる自由移動を達成することこそ、人類の理想と信じている人も少なくありません。しかしながら、自由貿易が必ずしも全ての国民に利益をもたらすものでないことは、今になって初めて人類が気付いたことではないようです。

 モンテスキューの『法の精神』は、権力分立を唱えた政治制度論であり、かつ、風土と法文化との関係を論じた比較法学の書でもありますが、経済学の書でもあることはあまり知られてはいません。実のところ、同書では、貿易や外国為替等の問題をも扱っており、経済について極めて示唆に富む見解を示しています。近代とは、デヴィッド・リカードの比較優位説に基づく自由貿易主義が‘神聖不可侵’とでも表現すべき地位を確立し、理論的な基盤を与えたために、自由貿易主義をもって国際通商の基本原則となりました。しかしながら、それ以前の知識人は、同主義に縛られたり、惑わされることもなく、むしろ偏見や先入観のない客観的な立場から当時の貿易の状況を素直に観察しているのです。因みに、アダム・スミスの『国富論』が公刊されたのは1776年であり、リカードの『経済学および課税の原理』が公表されたのは1817年のことです。『法の精神』の出版された1748年は、イギリス発の自由貿易論が登場する凡そ30年から50年前に当たります。

 さて、関税をめぐる貿易摩擦が激化する中、『法の精神』の中で興味を引くのは、ポーランドを事例として語った以下の記述です。

「・・・何人かの領主が州の全部を所有している。彼らは、外国人に送ることができ、そして自分たちの奢侈に必要なものを手に入れることができるよう、より多量の小麦を収得するために耕作者を圧迫する。ポーランドがいかなる国民とも通商しなかったならば、その人民はもっと幸福であったろう。・・・(『法の精神』第4部第20編第23章、岩波文庫故版より引用)」

 この文章にあって、モンテスキューは、当時のポーランド国民の貧窮の原因が、貿易にあったと分析しています。少数の領主層が自らの贅沢な生活を支える、すなわち、輸入品(舶来品)を入手するために、ポーランドの唯一の‘国際商品’であった小麦の輸出拡大に努めたため、国民の多数を占める農民層が小麦増産のために酷使される状態にあると説明しているのです。

 同事例は、通商を永続的に続けようとすれば、貿易収支の均衡が必要であり、同バランスを強引に維持しようとすれば、国民の凡そ全て、あるいは、一部に犠牲が生じることを示しています。つまり、ケースによっては、むしろ貿易をしない方が多数の国民を豊かにすることがあり得ると語っているのです。リカードの比較優位説にあって無視されている貿易品目の価値の相違、貿易収支均衡の必要性、外国為替相場の存在、そして国内産業における人口構成等にこそ、現実を前にして同説が論破され得る最大の弱点があったとも言えましょう。

 現在に目を向けますと、18世紀とは様々な面で違いや変化があるもの、アメリカのトランプ政権が貿易赤字の削減を目指して実施している関税政策は、日本国内にありましても、政策論争を巻き起こしています。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムを堅持する限り、誰かが、あるいは、何かが‘犠牲’にならなければならないからです。自動車等の輸出産業を護るために農業を犠牲にすべきなのか、あるいは、後者を護るために前者を諦めるべきなのか、あるいは、前者を護るために、農業以外の分野で何らかの犠牲、もしくは、別の特別な利益を供するべきなのか、何れのケースであれ、死活問題ともなりかねないのです。これでは、あたかも泣く泣く村民が‘人身御供’を決めた時代に逆戻りしたかのようです。

 犠牲を要する体制が、善き体制であるはずもありません。この窮地を脱するためには、ここは、自由貿易主義、そして、さらに過酷なグローバリズムを基調とする今日の国際通商体制こそ、その根底から見直すべきなのではないかと思うのです。

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関税政策の復活をチャンスとするには-国内経済の復興

2025年04月10日 10時00分53秒 | 国際経済
 今朝方、驚くようなニュースが飛び込んできました。それは、アメリカのトランプ大統領が、中国を除く諸国に対して一律10%関税を維持しつつも、90日間、相互関税の一部を停止したというものです。この‘変心’については、‘最初に高く持ちかけつつ、後に下げることで相手に要求を受け入れさせる交渉戦術であるとする見方’や、‘高率の相互関税は、百戦錬磨のディーラーでもあるトランプ流の手段であって、そもそも本気ではなかった’、あるいは中国が除外、かつ、125%に上乗せされたことから、‘本丸は中国である(他の諸国はダミー)’とする見解もあります。経済界は、めまぐるしく変わるアメリカの関税政策に右往左往する状態なのですが、グローバリズムがその無慈悲な側面ゆえに退潮を見せる中、ここは、長期的な視点から今後の国際経済の在り方について考えるべきように思えます。

 短期的には、関税の復活は、それが何%であったとしても、アメリカを含む何れの諸国に対してもマイナス影響を与えることでしょう。先ずもって、アメリカ市場に製品や商品を輸出している諸国は、対米輸出依存度が高い産業や企業ほど強い打撃を受けます。今般の一時停止では、中国だけは125%という高率の関税率がかけられますので、一時的であれ関税率10%に留まった諸国の企業も、中国に生産拠点を移し、中国からアメリカに‘made in China’として自社製品を輸出している場合には、相当の対米輸出の減少を覚悟する必要がありましょう。アップル社をはじめアメリカ企業であったとしても、製造国が中国でアル場合には、マイナス影響を免れ得ないのです。

 その一方で、アメリカの消費者も、安価な輸入品を購入することがもはや叶わなくなりので、輸入インフレ、即ち、物価高に見舞われます。日用品や消耗品等の生活に必要不可欠な商品の供給を中国に頼っていた場合には、アメリカ人の家計を圧迫することともなりましょう。所得水準の低い世帯ほどマイナス影響が及びますので、バイデン政権から続いてきた物価高に対する国民の不満がさらに高まってしまうという懸念もあります。もっとも、為替相場がドル高であれば、国内の物価への影響は若干は低減されましょう。

 以上の内外両面におけるマイナス影響の予測から、世界大での景気後退や世界恐慌の再来まで予測される事態ともなったのですが、そもそも高関税率の設定とは、国内の産業を護るための保護主義政策の手段です。今日、行き過ぎた自由貿易主義、並びに、グローバリズムが、先進国にあっては‘産業の空洞化’を招く一方で、中国の一人勝ちを許し、‘最適な国際分業’や‘資源の効率的配分’の名の下で、国家が自己決定権を失い、モノカルチャー的な生産と不利な役割をグローバリストに押しつけられている現状を見ますと、関税を含めて国境を‘絶対悪’と見なし、強者必勝を原則とするグローバリズムへの回帰が‘正解’であるとは思えません。トランプ大統領の関税政策については、‘問答無用’とする批判がありますが、その一方で、グローバリストも‘問答無用’で国家に対して国境を取り払うように求めているのです。

 アメリカによる関税の設定は、関税の復活と言うよりも、国家の関税自主権、関税政策、あるいは、自立的な通商政策の決定権の復活と表現した方が適切なのかも知れません。この文脈からすれば、トランプ大統領は、通商に関する国家の権限の奪還に向けて狼煙を上げた、最初の人物とも言えましょう(仮に、パフォーマンスではなく、本気であれば・・・)。アメリカが、弱肉強食と所得格差の拡大を是とし、国家の消滅を目指すグローバリズムと決別し、自国の国内産業の優先と復興を基本方針とするならば、他の諸国も、高率の関税を嘆くよりも、自らも同方針に転換すべきなのではないでしょうか。

 同方針に基づく具体的な政策とは、先ずもって関税障壁によって減少する輸入品を国産品に代替するというものです。短期的にはマイナス影響が予測されたとしても、代替品の生産拡大は、長期的には当然にGDPの増加に寄与しますし、新しい雇用も生まれます。輸出に依存してきた産業も国内市場重視に転換し、適正な規模にダウンサイジングする(労働力人口の減少を理由とする移民政策も不要に・・・)、あるいは、高関税でも、相手国の製品と競合せず、一定の輸出量を確保できる個性的な製品の開発に努めるべきかも知れません。

 もっとも、内製化に際しては、エネルギー資源を含めて天然資源に乏しく、原材料を輸入に頼っている現状では、コスト高という壁が立ちはだかっています。この問題についても、発想を転換すれば解決が不可能なわけではありません。‘なければ造ればよい’のであって、代わりとなる新素材や新たな生産方法を開発すれば、資源不足の問題も乗り越えることができましょう。科学立国の復活でもあり、日本国の面目躍如ともなります。

 日本国のみならず、各国とも、自国経済に集中するほうが、相互に相手の市場を荒らし、弱肉強食となるグローバル時代の貿易戦争に巻き込まれ、敗北すれば‘植民地化’されるよりも、はるかに平和的で安定的です。未来の国際経済とは、各国が自国産業の実情に照らして適切かつ賢明な関税政策を実施し、農業を含めて自立し得る経済を整えた上で、相互利益となる品目や製品を中心に通商を行なう体制へと移行すべきではないかと思うのです。

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