万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

反ユダヤ主義の原因はユダヤ人にある

2024年01月31日 10時08分15秒 | 国際政治
 第二次世界大戦最中の1945年1月27日は、ポーランドに設けられていたアウシュヴィッツ収容所は、ソ連軍によって解放された日です。この日は、特にユダヤ人にとりまして重要日となるのですが、国際ホロコースト記念日にも選ばれています。ところが、今年の1月27日は、ユダヤ人を取り巻く空気は例年とは大きく違っています。ホロコーストの犠牲者を悼み、ナチスドイツへの怒りが新たにされるはずが、今年は、イスラエルによるガザ地区に対する蛮行を背景に、ユダヤ人の側が批判の矢面に立たされているのです。

 この日、アントニオ・グテーレス国連事務総長も、動画メッセージを配信して反ユダヤ主義の高まりに警戒感を示しています。同メッセージにあって、「ネット上で反ユダヤ主義が周縁から主流のコンテンツになった」と述べているそうですので、ユダヤ系に牛耳られている主要メディアは別としても、一般のネット世論やSNSでは、圧倒的にユダヤ人に批判的な意見が多数を占めているのでしょう。反ユダヤ主義が再びユダヤ人迫害へと向かうことがないよう、非ユダヤ系の人々に対して自制を求める発言とも解されるのですが、同発言は、ユダヤ人に対する警告でもあるように思えます。

 ディアスポラ以来、流浪の民となったユダヤ人は、世界各地にあってマネーの力で影響力を伸ばしてきました。古来、利益率の高い遠隔貿易や高利貸しがその主たる生業であったのでしょう。キリスト教における宗教的な禁忌に加え、借金が返済できずに身を滅ぼす人も少なくなく、ユダヤ人が恨みを買ってしまったり、マネー・パワーによる政府腐敗や堕落、独占や乗っ取り等の問題によって怨嗟の的になったことも容易に理解されます。かくして、反ユダヤ主義は、古代より燻っていたのですが、戦前のドイツにおける反ユダヤ主義の激化には、戦争利権や戦争利得が関わったことも指摘されましょう。第一次世界大戦におけるドイツの敗北は、戦争のみならず戦後のハイパーインフレーション等により一般のドイツ人を没落させる一方で、ユダヤ人の金融家や実業家にさらなる富をもたらしたからです(また、マルクスがユダヤ人であったため、キール湾の水平の反乱は、ユダヤ人に責任を帰する主張もあった・・・)。つまり、ユダヤ人に対する反感には、それを引き起こした‘原因’があったと言えましょう。

 物事の是非を判断するに際して、‘原因’の存在、つまり、因果関係は極めて重要です。‘結果’ばかりを問題視し、その問題の解決には、‘結果’をなくせばよい、とする主張も見られます。しかしながら、たとえ‘結果’を消滅させたとしても、‘原因’の方が残っていれば、何度でも同じ問題が再発します。今般の反ユダヤ主義もその原因がユダヤ人自身の行動にあるならば、それを改めないことには、反ユダヤ主義が収まるはずもないのです。

 物事の因果関係を考慮しますと、今、ユダヤ人がすべきことは決まっています。第一にすべきは、原因の究明と因果関係の自覚であることは言うまでもありません。客観的な視点から自らの来し方を振り返ると共に、現状の行いを自で検証するという作業です。この作業を行なえば、非ユダヤ系の人々が、何故、ユダヤ人に対して怒りや反感を抱くのか、明確に理解できるはずです。怒りや嫌悪は、‘悪(利己的他害行為)’に対する人間の当然の心理的な反応ですので、自己の悪しき行為に原因がある場合、これを除去しなければないのです。

 同作業にあって、ユダヤ人は、今日の反ユダヤ主義を引き起こした原因となる行為が、イスラエルによるガザ地区のパレスチナ人に対する非人道的、かつ、国際法に違反する行為であることに思い至るはずです。既に南アフリカからの提訴を受けたICJがジェノサイドを防止する手段を講じるよう暫定命令を下していますが、イスラエルが、人類が普遍的に‘悪’と認識する残虐行為を止めないことには、ユダヤ人に対する批判が高まりこそすれ、決して沈静化することはないでしょう(ハマスを育成したのはイスラエル自身であり、かつ、たとえハマスの行為が違法であったとしても、イスラエルのジェノサイドを正当化しない・・・)。今日のユダヤ人の一般のパレスチナ人に対する仕打ちは、ホロコーストよりもなお一層残虐ですし、しかも、パレスチナ人は、‘約束の地’に住んでいるという理由だけで‘民族浄化’の対象にされているのですから。これは、人類共通の倫理道徳観に照らしてイスラエルに罪があり、ユダヤ人が真に信心深いならば神からの罰を恐れるレベルです。

 このように考えますと、反ユダヤ主義への対応は、ユダヤ人を批判する側に要求すべきことではなく、原因を作っているユダヤ人の側に求めるべきではないでしょうか。そして同様のことが、ユダヤ系の金融・産業財閥・マスメディアの人々が中心となって推進している‘グレート・リセット’という名の世界支配構想にも言えるのではないかと思うのです。

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ミス日本問題から読む政治化するコンテスト

2024年01月30日 11時46分34秒 | 国際政治
 先日、ミス日本に両親ともにウクライナ人であり、5歳で日本国に移住してきた女性がミス日本に選ばれるという出来事がありました。人種・民族、即ち、容姿はコーカサイド系で遺伝的にはウクライナ人なのですが、出場資格となる日本国籍は取得しており、審査員並びにご本人自身も、内面は日本人であると主張しています。美の基準、人種、民族、居住国、国籍、国民性、当事者のアイデンティティーといった複数の要素が複雑に絡むため、内外にあって議論を呼ぶこととなったのです。

 この問題、ジレンマやトリレンマどころではない、‘マルチレンマ’となりますので、‘ある国で最も○○な人’を選ぶことが、殆ど不可能なほどに難しくなったことを示しています。今般のコンテストで賛否両論が渦巻いたのも、複数の基準が混在しており、しかも、それが相互に矛盾するからなのでしょう。

 そもそも美の基準は一つではなく、民族、国、地域、年代さらには個人などにより違いがあり、これらに審査者の主観も加わるのですから、‘最も美しい人’を選ぶのは難しい作業です。とは申しましても、同コンテストが、グローバル・スタンダードを美の基準としたことは容易に想像されます(コーカサイド系の方が、普遍的な比例美としての黄金律に近いのかも知れない・・・)。ここに、ナショナル・チャンピオンをグローバル・スタンダードを基準にして選ぶと、その国の人が悉く落選してしまうという問題が生じます。各国のマラソンの選手がアフリカ系で凡そ独占され、卓球の国際大会が、殆ど中国系の選手で占められてしまうのと同じ現象です。

 仮に、同コンテストの美の基準をナショナル・スタンダード、すなわち日本基準に変えるとしますと、平安時代や鎌倉時代の引目鉤鼻とは言わないまでも、上村松園、鏑木清方、伊東深水等が描いた日本画の美人画あたりが基準となるのかも知れません。江戸期の浮世絵を引き継いで明治以降に描かれた美人画は、およそ日本美人の表現が形式化されており、色白の細面に切れ長の目、細くて筋の通った高い鼻、そして、富士額に小さな口元といった共通の特徴をもった顔立ちで描かれています。どこか儚げな着物姿も、日本美人の基準と言えましょう。こうした美人画の要素を美の基準としますと、外国人からは、同コンテストは差別的として糾弾されるのでしょうか。一方、上述したように、グローバル・スタンダードが採用されますと、美人画風の日本代表は逆差別を受けかねないのです。

 そして、この問題をさらに複雑にしたのは、審査員の判断並びにミス日本の自己認識です。ミス日本に選ばれたウクライナ出身の女性は、5歳から日本に住み、日本社会に慣れ親しんでいるため、自らのアイデンティティーを日本人に定めています。審査員も、同女性の日本人らしさを強調しています。しかしながら、美人コンテストの第一の基準は、上述したように美ですので、内面は二の次なはずです。内面が評価基準であるならば、他の出場者達は、‘日本人らしくなかった’ということにもなりますし、‘日本人ではないのに日本人らしい’と言う点が特に評価されたならば、やはり、外国にルーツを持つ出場者の方が有利となりましょう。

 また、優勝者の方は両親ともにウクライナ人ですので、家庭における日常生活は、ウクライナ語が話され、ウクライナの伝統的な慣習や習俗を継承したものであったものと推測されます(もっごも、ウクライナには、ロシア系やユダヤ系をはじめ異民族も多いので、‘ウクライナ人’とは限らない・・・)。自己のアイデンティティーの形成期においてウクライナ人の両親からの影響が全くなく、親子間でアイデンティティーが断絶してしまうということは、現実にあり得るのでしょうか。優勝者の女性は、今後、何かにつけて‘日本人’であることを強く求められますので、むしろ、自らのウクライナ・ルーツを意識して消さなければならなくなるかもしれません。

 以上に、主要な矛盾点並びに疑問点を述べてきましたが、ある程度は理屈で同コンテストが混乱要因を分析できるものの、やはりどこか違和感が残ります。そして、この違和感こそ、政治的意図なのではないかと思うのです。この政治的意図とは、定住者としてのウクライナ難民の日本国による受け入れです(加えて、親ウクライナ国としての日本国のアピール・・・)。否、ウクライナ難民のみならず、その他全ての移民や難民も含まれているのかも知れません。目下、イスラエルが、諸外国に対してパレスチナ難民の受け入れを要求していますので、来年の優勝者は、パレスチナから来日した女性となるシナリオもあり得ましょう。国籍と主観的な自己認識が重視された理由も、移民受け入れ政策の一環とすれば説明が付くのです。

 今年の芥川賞も生成AIを用いた作家が受賞しており、最近のコンテストは、世界経済フォーラムが目指す‘グレートリセット’に象徴される未来ヴィジョンの方針に沿った選考が行なわれているように見えます。美人コンテストについては、既に時代錯誤とする批判もあるのですが、選考にあって政治色が強まるほどに、かつての‘権威’も輝きも色褪せてゆくように思うのです。

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現実は「君は祖国のために戦うことになる」なのでは

2024年01月29日 12時03分35秒 | 国際政治
 「若者に問う!君は祖国のために戦えるか?」という、ジャーナリストの櫻井よし子氏による若者への問いかけは、賛否両論を含めて大きな波紋を投げかけることとなりました。自らは安全地帯に身を置きながら、若者達を戦争へと扇動する発言として、批判的な意見が多数を占めたようなのですが、この問いかけは、現実を映してはいないように思えます。


 この祖国のために戦う覚悟は、若者への問いという形で提起されています。質問の形をとった背景には、いざ、日本国が他国から攻撃を受けた際に、闘わずして逃げる、あるいは、白旗を挙げる若者が続出する事態が予測されたからなのでしょう。実際に、同問いかけに対して、‘自分は戦うつもりはない’とする拒絶反応も少なくなかったはずです。言い換えますと、戦うか、戦わないかの選択は、問いかけられた若者の判断に委ねられていることとなります。


 しかしながら、現実において他国から攻撃を受けた場合、戦わない、という選択はあり得るのでしょうか。防衛戦争ですから、自衛隊が出動することは疑い得ず、日本国は、戦争当事国とならざるを得ません。戦争とは、一方の意思のみで始めることができますので、たとえ憲法第9条があろうとも、攻撃を受けた場合には応戦せざるを得ないのです。尖閣諸島問題に端を発した対日攻撃のみならず、日本国内には、日米同盟の下に米軍基地も設けられていますので、中国による台湾侵攻が米中戦争に発展すれば、中国から攻撃を受ける可能性は飛躍的に高まります。櫻井女史の発言も、その背景には近い将来において直接的な‘武力攻撃事態’や‘存立危機事態’の発生が想定されているからなのでしょう。


 否応なく日本国が戦争当事国となった場合、当然に、日本国政府の首相も、ウクライナのゼレンスキー大統領と同じように、国民に向けて祖国防衛を強く訴えることは想像に難くありません。それは、国民が感涙するような感動的で迫力のある演説かも知れませんし、どこか芝居がかっている凡庸な演説かも知れません。何れにしましても、マスメディアも総動員して国民の愛国心を鼓舞し、日本国内の空気も一変することが予測されるのです。それが、たとえ巨大な戦争ビジネス勢力による誘導、あるいは、シナリオであったとしても、自国が攻撃を受ける事態に直面しては、如何なる国民が、戦争反対あるいは即時降伏を唱えることは極めて難しくなるのです。


 この状況は、極めて強い‘同調圧力が社会全体に生じることを意味します。最近でも、ワクチン接種率と同調圧力との関係が指摘されています。日本国民の新型コロナウイルスワクチンの接種率が飛躍的に上昇した要因は、職場や学校などにおける集団接種方式が導入されるのと同時に、政府による同調圧力の利用があったからともされます。同ワクチンに対する異論やリスク指摘の声は殆ど消し去られ、ワクチン非接種者=反社会的人物という風潮が醸し出されるのです。おそらく、内心において疑問や反発を感じた人も少なくなかったことでしょう。一端、歯車が回り始めますとそれに抗することは難しく、結局は、足を波にすくわれるように巻き込まれてしまいます。先の戦争でも、アメリカを相手の戦争に勝算がないことを知りながら、祖国のために命を捧げた国民がどれほど多かったことでしょうか。内心の疑問を押し殺し、あるいは、心に葛藤を抱えながらも無理にも自らを納得させ、戦地に赴いた若者達が・・・。


 有事に際しては、国民の選択肢が失われてしまう点を考慮しますと、櫻井氏の問いかけは、若者達に戦争を意識させる切っ掛けとはなれ、若者たち、否、国民が置かれる状況からはかけ離れているように思えます。現実には、若者には選択の余地はなく、戦わざるを得なくなるからです(徴兵制も復活するかもしれない・・・)。このことは、戦争回避の努力は、戦争への歯車が動き出す前に全力でなすべきであり、かつ、平時にあってこそ、歯車が動き出さないようにしっかりと止めておく抑止力が重要であることを物語っているのです。


 台湾有事が予測されるからこそ、戦争回避のために議論を尽くし、そのための具体策を採るべきなのですが、マスメディアの政治関連の報道も、およそ自民党内の派閥解消及び‘政治とカネ’の問題で持ちきりです。一方の野党側にも、戦争回避のための議論を提起しようとする気配はありません。国民の命が危険にさらされていながら、日本国の政治家は、自らの責務を忘却している、あるいは、国民から戦争回避の要求が上がらないよう外圧によって放棄させられているかのようなのです。流れに逆らうことは難しいとはいえ、多くの国民が巨大な戦争ビジネスや背後の世界権力による戦争誘導シナリオに気がつき始めていますので、国民は、政治家に対して強く戦争回避を求めるべきと言えましょう。今の時点であれば、まだ間に合うのではないかと思うのです。


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地下シェルター設置の重大問題

2024年01月26日 11時26分33秒 | 日本政治
 東京都は、北朝鮮や中国からのミサイル攻撃を想定し、地下シェルターの整備に乗り出すと報じられております。しかしながら、このプロジェクト、費用対効果を含め、様々な角度からの検討を経ているのでしょうか。地下シェルターという避難方法は、以下の理由から、実のところ、殆ど実現不可能なのではないかと思うのです。

 第一に、地下シェルター方式では、ミサイル攻撃を受ける範囲にいる全ての住民を施設内に収容できないことは明白です。ミサイルは、発射から短時間で飛来しますし、予め攻撃地点が正確に分かるわけでもありません。このため、仮に、全員を確実に収容できる地下シェルターを建設しようとすれば、莫大な費用と労力、並びに、時間を要します。

 そこで、地下シェルター利用者の人数を限定する必要が生じるのですが、ここで、第二の問題点として、トリアージの問題に類似する収容者の選別が不可避となります。誰の命を救い、誰の命を諦めるのか、という命の選択の問題ですので、これは深刻です。‘早い者勝ち’とすれば、幼児、高齢者、女性、身体に障害のある人々を見捨てるに等しくなります。また、警報の発令と共にシェルターの入り口に人々が一斉に殺到し、将棋倒しで命を失う人もありましょうし、運良くシェルターに入れても、後から押し寄せる人々に押されて圧死してしまうかも知れません(実際に、東京大空襲の際に起きている・・・)。また、定員数に達した際には、涙を飲んで断腸の思いでシェルターの扉を閉じることになりましょう。東京都は、一体、何を基準として選別をしようとしているのでしょうか(ノアの箱船の逆パターンとなる可能性も・・・)。なお、予め選別を行なっていたとしても、いざ、ミサイルが飛んでくるとなりますと、同選別は無視され、暴力を手段としてもシェルターに入ろうとする人も現れるかも知れません。

 第三に、今般の能登半島地震における避難所の状況からも容易に推測できるように、長期に亘って地下シェルターで集団避難生活を送るとなりますと、一時的避難とは比較にならないほどの困難が待ち受けています。相当量の食料や飲料水の備蓄のみならず、衛生状態を維持する必要性も生じてきましょう。ましてや、より狭い空間となるシェルターでは、個々のプライバシーも守られず、閉所恐怖症に留まらず、長期に亘って極限状態に置かれることにより精神を病んでしまう人も少なくないはずです。また、極度のストレスから、避難民の間では些細なことからトラブルが発生したり、深刻な対立が生じるかも知れません。何れにしましても、長期避難を想定するとなりますと、さらに収容可能な人数が少人数となり、地下シェルターの設置のハードルも高くなるのです。また、人間が生存するには、シェルター内部が暗闇にならず、窒息しも避けるために、大型発電機を設置し、排気口等も設ける必要もありましょう。

 加えて、地下シェルターは、必ずしも安全ではないという重大なリスクもあります。今般のイスラエルが実行したガザ地区の地下トンネルの壊滅作戦も、地下シェルターの運命を予感させます。イスラエルは、地下トンネルに海水を流し込むという、極めて残忍な方法まで試みたのですから。仮に、敵軍に地上を占領された場合には、入り口から毒物や爆発物を投入されたり、出口を塞がれてしまう事態も十分に予測されます。また、今日では、地下深くまで到達するミサイル(大型貫通爆弾・・・)も開発されていますので、地下シェルターの建設は、全くもって無駄になりかねないのです。

 以上の諸点を考え合わせますと、東京都民の多数が地下シェルター設置を支持するとは思えません。自らは排除される可能性が極めて高い上に、たとえ使用できたとしても、命が保障されるわけでもないからです。これらの重大な問題に対して都民が納得するような説明が殆ど不可能な以上(収容人数と収用対象者を発表した時点で、落胆と反対の声が上がるのでは・・・)、地下シェルターの設置は断念すべきではないかと思うのです。

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地下シェルターより核の抑止力では?

2024年01月25日 09時43分13秒 | 日本政治
 東京都は、北朝鮮によるミサイル発射並びに台湾有事に備えるために、地下シェルターの整備を進めるそうです。ミサイル攻撃に対する防御施設ですので、専守防衛の基本方針からしますと、国民の命を守る地下シェルターの建設に対しては、多くの国民が賛同することでしょう。しかしながら、その一方で、国民の命を守るという政府の基本的な役割を考えますと、作業の順番が違っていると思うのです。

 先ずもって、地下シェルターの設置は、他国、あるいは、外部勢力からのミサイル攻撃を受忍する政府の基本姿勢を示唆しています。有事になれば、ミサイルが飛んできますが、戦争なので致し方なく、国民の避難場所として地下シェルターを設置することで対処します、という、政府のどこか諦めたような、あるいは、冷めた心根が伝わってくるのです。地下シェルターを造るのだから、これで我慢して、という・・・。

 同地下シェルターの設置を報じる記事では、ウクライナやガザ地区にも地下シェルターが設置されている点を強調し、あたかも国民の命を守るための重要施設のように開設しています。しかしながら、地下シェルターの設置より先に政府ができることがあるはずです。それは、ミサイル攻撃を受けない、あるいは、戦争に巻き込まれないための努力です。こちらの方が、シェルター建設よりも、日本国民にとりましては何倍も何十倍も重要であり、必要としていることなのです(そもそも都心部の住民を全て収容できるシェルターを建設することは、不可能であり、一部の人々のみの避難所になるか、もしくは、圧死などの大混乱が予想される・・・)。

 戦争回避が最重要課題であるならば、合理的に判断すれば、すべきことは決まっています。それは、現時点で可能な手段で言えば、昨日の記事で指摘したように、抑止力を強化するための核兵器の保有・配備をおいて他にありません。将来的には、指向性エネルギー兵器等のミサイル迎撃を確実に実行できる先端兵器となりましょう。ウクライナもガザ地区も、NPTの拘束もあって、核兵器を保有もしていなければ、配備もされていません。ブダペスト覚書による核放棄がロシアの軍事的介入を招いた要因とされるように、ウクライナは、核の抑止力を持たない状態にありました。また、核保有国であるイスラエルが、非核地帯であるガザ地区に対して殲滅作戦を実行し得ることは周知の事実です。東京都の地下シェルターー建設について、喜々として国民の安全を強調する人々は、日本国が、ウクライナやガザ地区のような惨状となることを想定しているのでしょうか。

 安全保障上の危機が目前に迫りながら、NPT条約を遵守するとしますと、座して死を待つようなものであり、非合理・不条理この上ありません。たとえ、同条約を遵守し、中国等の核保有国が不使用に徹したとしても、通常兵器による戦争も凄惨を極めます。ウクライナのようにだらだらと戦争状態が長期化し、その間、自国民の犠牲と国土の破壊が続いていくのですから。しかも、通常兵器に限定した闘いで日本国が有利となった場合には、核保有国は、容赦なく核ミサイルを日本国に向けて発射することでしょう(戦局は、核兵器の使用によって簡単にひっくり返されてしまう・・・)。

 日本国は唯一の被爆国ですので、核保有には抵抗感のある国民も少なくありません。しかしながら、危機に遭ってこそ、合理性に徹するべきです。先の戦争では、世界権力によって合理的判断が歪められ、戦争に巻き込まれることとなりましたが、二度と同じ誤りを繰り返してはならないと思うのです。
 


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戦争回避兵器の保有・配備を

2024年01月24日 09時47分20秒 | 国際政治
 第二次世界大戦に至るまでの経緯、並びに、その展開を注意深く辿りますと、連合国枢軸国を問わずに、‘何故、ここでこの判断をするの!’という場面に何度も遭遇します。日ソ中立条約、真珠湾攻撃、ヒトラーによる対米宣戦布告、そして、二度の原子爆弾の使用など、不可解で非合理的な出来事の連続なのです。この不可解さは、第二次世界大戦の計画性を十分に疑わせるのですが、意図的な世界大戦の危機は、同戦争をもって地球上から消え去ったわけではないようです。

 今日の世界情勢を見ても、ウクライナ紛争にせよ、イスラエル・ハマス戦争にせよ、不審点に満ちています。戦争回避のチャンスがありながら、何れの政治家も組織も、意図的にチャンスを逃した、あるいは、敢えて開戦に協力したとしか考えられないのです。ウクライナのゼレンスキー大統領についても、‘凶暴なる独裁者プーチンの侵略から祖国を護る英雄的指導者’というイメージが内外に振りまかれていますが、その実態は、世界権力のために演技をする戦争協力者なのかも知れません。イスラエル・ハマス戦争に至っては、EUのジョセフ・ボレロ外交安全保障上級代表が、ハマスを創設したのも資金援助したのもイスラエルであると暴露しており、同戦争もおそらく‘造られた戦争’であるのでしょう。

 そして、今日の極東に目を向けますと、戦争の火種は既に蒔かれているようです。戦争リスク、あるいは、軍事行動を起こす可能性が最も高い国は中国であることは疑いなく、既に台湾有事への導火線が引かれている気配があります。その一方で、日本国内でも、能登半島地震や羽田空港衝突事件といった不審な出来事が連鎖的に起きています。地震発生から時を経ずして、北朝鮮が核兵器を用いた人口津波の発生実験を行なった旨を公表しており、人工地震も人工津波も既に確立している技術なのでしょう。能登半島地震も、人工地震であった可能性は否定はできないのです。そして、羽田空港衝突事件も、報道されているような偶発的な事故なのでしょうか。

 戦争も災害も人為的な計画に基づくものであるならば、止めることができます。如何なる預言(予言)があろうとも、未来は決まってはいないのですから、変えることができるのです。それでは、日本国は、どのようにすれば戦争を回避することができるのでしょうか。

 物理的な方法としてまず考えられるのは、核保有です。昨今、中国では、対日核攻撃の議論がなされているそうですが、中国が攻撃手段として核使用を選択肢に含めている以上、日本国は、NPTを遵守する必要はなくなります。同条約に定められた脱退の手続きに従って合法的に脱退できますし、仮に、手続き完了に先立って核を保有し、他国の訴えによりICJ等で違法性を問われたとしても、事情を説明すれば、正当防衛の行為として事後承認されるはずです。

 強力な抑止力を有する核による武装の方が、アメリカから巡航ミサイルの「トマホーク」を大量に購入するよりも、高い抑止力を発揮することでしょう。先ずは、自前の核の傘を準備すれば、高くそびえる堅固な外堀を築くようなものであり、他の防衛設備の拡充は、後回しでも構わないのです。もちろん、核攻撃に備えた核シェルターの建設も含めて。

 なお、仮に、核保有よりも高い抑止力が期待できる手段があるとすれば、それは、指向性エネルギー兵器の実戦配備となりましょう。イギリスでは、既に実験に成功したそうですが、同兵器の存在は、核兵器と同様に相手国の攻撃意欲を大幅に削ぐこととなります。如何なるミサイルもドローンを含む攻撃機も無力化されるからです。

 かくして高い抑止力を備えた兵器の保有・配備は、たとえ世界権力が戦争を計画したとしても、この計画の遂行を物理的に不可能にしてしまいます。そして、何よりも、この物理的な抑止方法の重要性は、戦争や災害等の計画性への疑いを‘陰謀論として嘲笑する人でさえ、頭から否定できないところにあります。陰謀の実在性の如何に拘わらず、戦争回避手段として高い効力を有するからです。むしろ、この方法に反対する、あるいは、無視する人ほど、戦争協力者である疑いが濃くなるとも言えましょう。果たして、日本国、否、台湾をふくむ非核兵器国の政治家達が、核武装、あるいは、指向性エネルギー兵器等の戦争回避兵器の配備に動くのでしょうか。少なくとも、戦争リスクに直面している国民は、戦争抑止兵器の保有・配備を強く政府に求めるべきではないかと思うのです(つづく)。

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「政治家に問う!あなたは戦争回避のために闘えますか」では

2024年01月23日 10時17分57秒 | 国際政治
 ジャーナリストの櫻井よし子氏によるXへの投稿が、目下、炎上しているそうです。炎上を招いた投稿とは、「若者に問う!君は祖国のために戦えるか?」と映し出されたパソコン画面を前にして微笑む同氏の画像、並びに、その補足説明となる文章です。このキャプション自身は、櫻井氏によるものではないようなのですが、“自身には戦う意思があるのか?”といった批判を一斉に浴びることとなったのです。


 戦争については、尊い自己犠牲の精神が賞賛される一方で、勇ましい言葉で愛国心に訴えるのは自らは安全地帯に身を置いている老練な政治家達であり、実際に戦地で戦い、命を落とすのは純真な若者達である、とも囁かれてきました。櫻井氏の投稿が炎上したのも、まさにこの言葉を地でゆくからであり、反感を抱いた人々の多くも若者であったのかも知れません。おそらく、戦前であればSNSで炎上することもなかったのでしょうが(もちろん、戦前にはSNSもないのですが・・・)、同Xの投稿への否定的な世論の反応は、ある意味において、戦後の日本国民の多くが、先の戦争から教訓を学んだ結果とも言えましょう。時勢の赴くままに流され、単純なスローガンに誘導されるのではなく、国民が、愛国心を煽る行為の背景や思惑までも考えるようになった証でもあるからです。


 それでは、今の時期に、どのような意図があって「若者に問う!君は祖国のために戦えるか?」という、あまりにも“率直”とも言える言葉が若者に投げかけられたのでしょうか。この言葉から読み取れるのは、先ずもって、日本国民を対象とした戦争への心理的な準備です。つまり、若者に対し、来るべき戦争に際して、兵士として戦う覚悟を持つように促そうとしていると推測されるのです。


 ‘来るべき戦争’、それは、高い確率で中国が起こす、否、少なくとも中国が実行者となって遂行される極東における戦争なのでしょう。最も可能性が高いのは台湾有事であり、近々、中国の習近平国家主席によって台湾侵攻のシナリオが実行に移されるのかもしれません。そして、同主席のさらに背後には、巨大な戦争利権を有する世界権力が蠢いているのでしょう。戦争、革命、災害、疫病、そして、デジタル等の先端技術を用いて世界支配構想を進めてきた勢力の工程表にあって、2024年のスケジュールには戦争が書き込まれている可能性は低くはないのです(陰謀論として嘲笑していると、何度でも騙されて戦争路線に引き込まれてしまう・・・)。


 純粋な侵略戦争であれば、櫻井氏の呼びかけは、同氏の愛国心の発露として受け止められ、若者の多くもこれに熱意を持って呼応したかも知れません。しかしながら、戦争というものの現実が、世界の歴史を裏から操る巨大利権による人為的な災難であることが判明してきた今日、祖国防衛を訴える愛国心高揚の試みも、どこか胡散臭さく、むしろ、世界権力の戦争計画に対する国民の警戒心を強めてしまいます。台湾総統選挙における民進党の候補者の当選も、誘導を疑われずに台湾有事を引き起こすには好都合であったからなのかも知れません。


 しかも、開戦に関しては国民は何もできず、いざ、政治家の決断によって戦争が始まれば、否が応でも戦争に巻き込まれてしまいます。防衛戦争ともなれば、応戦一択となりかねなません。この点、グローバリスト集団である世界権力は、各国の政治家、とりわけ、首脳クラスの政治家を自らのネットワークに組み込むことで全世界に支配力を浸透させています。言い換えますと、戦争を起こしたい世界権力は、配下にある各国の政治家に対してカバー・ストーリーとして作成されたシナリオ通りに自らの役割を忠実に演じるように指令を発していると推測されるのです。


 日本国の岸田首相も、その言動からしますと世界権力の代理人である可能性が極めて高いのですが、日本国並びに日本国民の運命も、政治家が戦争回避に動くか否か、にかかっています。建前とはいえ、日本国は民主主義国家ですので、あからさまに首相や政府が戦争に向けて動き出せば、世界権力の手下であることが白日の下にさらされます。つまり、政治家が、世界権力、あるいは、自らの保身のために自国民を犠牲に供する‘裏切り者’あるいは‘売国奴’であるか否かは、戦争に対する態度でも判別できるのです。


 世界権力によって密かに進められている戦争計画を止めるために国民に出来ることがあるとすれば、それは、岸田首相をはじめとした政治家に対して、強く戦争回避を求め、戦争回避の世論を喚起することなのではないでしょうか。つまり、「あなたは戦争回避のために闘えますか」を問うのです。しかも、世界権力をも相手として。戦争ともなれば、戦勝国であれ、敗戦国であれ、国民には甚大なる被害が生じます。政治家も国民も真に闘うべきは、自らの利益や支配欲のために戦争を引き起こそうとする勢力なのではないかと思うのです。


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イスラエルがアブラハムに倣うなら

2024年01月22日 11時32分25秒 | 国際政治
 聖典の民には、しばしば原理主義者が出現する傾向があります。イスラム原理主義者をはじめ、キリスト教原理主義者、そして、シオニストを含むユダヤ教原理主義者も・・・。原理主義者とは、聖典の記述をそのまま信じ、今日において忠実にそれを実行しようとする人々です。聖典に記された全知全能の神の言葉は絶対であるとみなしますので、聖書の記述に違うことを行なえば、それは、神に対する背信行為である考えるのです。

 聖典の記述が普遍性のある道徳律の啓示であったり、その全てが過去の出来事の記述であれば、現代における負の影響は深刻に懸念するほどではなかったかも知れません。ところが、聖典には、未来に関する記述が含まれているという問題があります。『新約聖書』の最後に記されている「黙示録」の内容は、誰もが読んだり、耳にはしたことがあるはずです。実のところ、「黙示録」にようによく知られた預言書のみならず、聖典には、神が未来について語った言葉がちりばめられています。『創世記』にあっても、それが‘ナイル川からユーフラテス川’までであれ、‘カナンの地’であれ、神は、ユダヤ人に対して‘約束の地’を与えたと記されています。‘約束の地’とは、神が語った時点ではなく、将来において起きる出来事として示されているのであり、それ故に、‘約束’と表現されているのです。

 ところが、この神の未来語りが、紛争の原因とになるのは疑うべくもありません。当時にあってユダヤ人の土地ではない、他の民族の住む土地を、神は、将来においてユダヤ人の土地とすると‘約束’したのですから。この約束は、当然に、既にその地に住んでいる他の民族から土地を奪はないことには成就されません。実際に、『旧約聖書』によれば、その後、ユダヤ人は、‘約束の地’を手にすべく、カナンの地に住む先住の民達に対して戦いを挑んでゆくのです。

 ここに、過去における神の未来をめぐる預言(予言)を、現代において実現しようとする原理主義者の行動が理解されてきます。原理主義者とは、単に聖書の一文一句を信じ、現代において神から授かった戒律を厳格に守り、過去の時代の生活に戻ろうとしている人々であるのではなく(特にイスラム原理主義)、過去における神の未来に向けた預言を今日にあって実現しようとする人々なのです(人為的に災いや災難を起こし、「黙示録」の記述を実現しようとする人々も存在するという・・・)。しかも、預言(予言)の成就はメシア思想とも結びつくことで、熱量を帯びて半ば狂信化しています。

 現代にあっても、パレスチナ紛争とは、神との約束を成就させようとするユダヤ教原理主義者の信念と行動が招いた紛争と言っても過言ではありません。ネタニヤフ首相を始め原理主義者達は、パレスチナの地をユダヤ人国家の地とする正統性を聖書に求め、第二次世界大戦後のイスラエル建国に際して国連の総会決議が定めた国境線に満足せず、パレスチナ全域を自らの領域に含めるべきと主張しているのです。

 紛争の原因が神による未来の預言(予言)という問題に行き着く場合、原理主義者の信仰や信念を制御することはできるのでしょうか。先日の記事でも述べたように、それは、聖書を人類史的に理解するしかないのかも知れません。神が示したのは、不安定で危険に満ちた放浪状態をよしとせず、各々の民族が領域を有することの意義であり、ユダヤ人もその一つに過ぎないという(何処の土地かは問題ではない・・・)。

 そして、なおもユダヤ教原理主義者が聖書に忠実であろうとするならば、見習うべきは、『創世記』の第25章と言えましょう。同章の30にはアブラハムの死と埋葬に関する記述があり、アブラハムの埋葬地について「・・・すなわち、アブラハムがヘテ(ヒッタイト)の人々から買い取った畑地であって・・・」とする下りがあるからです。この文章は、アブラハムが、異民族から土地を買い取っていたことを示しています(なお、この記述は、アブラハムの時代が、中近東一帯に領域を拡大させていたヒッタイト帝国の最盛期であることを示唆しているかもしれない・・・)。今日のパレスチナ紛争も、もしイスラエルがパレスチナの地を法的国境線を越えて欲するならば、合法的に‘買い取る’べきです(本来であれば、建国に際しても償いを要したのでは・・・)。適正な対価をパレスチナ国に支払う、あるいは、補償を行なうという基本方針において解決した方が、神の平和に相応しいのではないかと思うのです。

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‘約束の地’を人類史的に解釈する

2024年01月19日 11時15分50秒 | 国際政治
 『旧約聖書』の『創世記』には、神とアブラハムとの契約が記されています。その一つは、「わたしはわたしの契約を君と君の後の代々の子孫との間に、永遠の契約として立てる。それは君と君の後の子孫に対して神たらんためである。わたしは君とその後の子孫に、君が今やどっているカナンの全地を、永遠の所有として与える。わたしは彼らの神たらんとするのである。(『創世記』第17章)」という下りです。それでは、この記述は、人類史に照らしますと、どのように解釈できるのでしょうか。

上記の内容を要約しますと、‘アブラハム系諸民族が’神‘を唯一神として崇拝するのと引き換えに、‘神’は、アブラハム系の諸民族を増やすと共にカナンの地を与える、というものです。永遠の契約ともされますが、この契約も、アブラハムが生きた時代の人類の願望が投影されているとする解釈もあり得るように思えます。この願望とは、定住地の取得です。同契約に先立って、‘神’はアブラハムに対して、将来においてその子孫達が諸国家を建国し、王国が誕生することを約しています。この文脈からしますと、アブラハムを単なる部族的分岐による複数の民族の共通の祖先として位置づけるのではなく、‘国父’、すなわち、国家というものの祖と見なしていることになります。つまり、‘神’が、強く‘国家’というものを強く意識する記述となっているのです。

今日の国際法では、法人格を有する独立国家として承認される要件として、国民、領域、主権の凡そ三者が挙げられています。これらの法的要件としての成立は、ヨーロッパにあって近代以降に形成された国民国家体系の成立と軌を一にしているとされるものの、文明の時代を迎えた人類の多くにとりましても、求められた国家成立の要件であったはずです。とりわけ、古代文明は農業と共に出現しますので、民族集団が、自らの社会を維持し、安定した生活を営もうとすれば、農地並びに定住地を要します。古代文明が誕生したユーフラテス川流域からナイル川流域にかけての地域では、各民族が、縄張り的に土地を囲い込み、自らの領域とした領域国家が数多く出現していたものと推測されるのです。おそらく、アブラハムの出身地であり、シュメールの一都市であったウルをはじめとした古代の都市国家の多くも、周囲を農地に囲まれた、農民達が安全に集住地できる場所であると共に、農産物の集積地でもあったのでしょう(そこから商業や様々な手工業が生まれ、都市がさらに発展してゆく・・・)。

アブラハムの時代にあって、国家の建設と土地の取得とが不可分に結びつくようになっていた点を理解しますと、アブラハムに対して一定の土地の取得を約束したとする記述も、ユダヤ人国家の建国という意味を持ってきます。そして、もう一つ、注目すべきは、上述した『創世記』第17章に先だつ第15章でも、‘神(ヤハウェ)’は、アブラハムに対して土地取得を約束している点です。ところが、‘約束の土地’は、第17章ではカナンの地としているのですが、第15章では、「エジプトの河から大河すなわちユーフラテス河まで」としているのです。

約束の地を‘ナイル川からユーフラテス川まで’とするこの地理的範囲の記述が、シオニストをして大イスラエル主義を唱える根拠ともなるのですが、‘神’すなわちヤハウェは、出現の度にいささか供述、すなわち“約束”の内容を変えていることとなります。ナイル川からユーフラテス川までの地域一帯であれば、アブラハムの出身地であるウルを含む中東地域一帯となりますし、カナンであれば、今日の凡そパレスチナの地に狭く限定されるからです。ここに、‘神’とは誰なのか、という問題も提起されるのですが、第15章の記述が、メソポタミアの王にしてエジプトまでをも支配されたとする伝説を有するメネス王の支配領域と凡そ一致するのも気にかかるところです。おそらく、今日では忘れ去れている古代人の記憶が関連しているのでしょうが、何れにしましても、必ずしも‘約束の土地’が明確な国境線をもって指定されているわけではないのです。

‘神’が、絶対神にして全知全能であるならば、‘約束の地’が曖昧なはずもありませんので、『創世記』の記述を文字通りに解釈することはできないはずです。そこで、人類史において同文章の意味を読み解くとしますと、それは、今日の国民国家の存在意義と然して変わりはないのかもしれません。すなわち、民族が領域国家を持つことで得るメリットであり、具体的には、安全な社会空間並びに住空間の確保や土地に付随する各種資源(水利や鉱物資源など)の利用などを挙げることが出来ます。領域を持たない場合には、四方八方から攻撃を受け、民族滅亡や奴隷化を余儀なくされるかも知れないからです。領域が定まることで、他の隣接する民族を牽制することもできますので、防御や安全保障の強化にも貢献したのでしょう。

このように考えますと、『創世記』の記述をもって‘約束の地’を特定しようとする行為は、紛争を招きこそすれ、今日にあって意味のあることではないように思えます。人類史的な解釈は、ユダヤ人にあっては解釈をめぐる対立を解消させると共に、他の人類をも、聖書の利己的解釈がもたらすリスクから解放するのではないかと思うのです。

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アブラハムの子孫問題―聖典の解釈リスク

2024年01月18日 13時04分21秒 | 国際政治
 『旧約聖書』の記述は、しばしば権力や権威の正統性の問題と結びつくため、現代という時代に至るまで少なくない影響を与えてきました。とりわけ、『創世記』では、ウルの地に住っていたアブラハムを神がカナンの地に連れ出すという物語が記されており、アブラハムはユダヤ人にとりましては特別な存在です。このため、ユダヤ教原理主義者やキリスト教原理主義者の中には、アブラハムの血脈に君主の地位の正統性を求める人々も現れることとなったのです。

 こうしたアブラハム正統説、並びに、シオニスト達のカナンを神授とする主張の根拠となったのは、『創世記』18の第17章に見られる以下の文章です。重要な文章ですので、長くはなりますが以下に掲載します。

「「わたしは全能の神である。
君はわたしの前に歩み 全かれ
わたしは君との間にわたしの契約を与える。
わたしは君の子孫を大いに増し加える。」

 そこでアブラムは平伏した。神はまた彼に語って次のように言われた。「よいか、君に対するわたしの契約というのは、君が多くの民の父となるということだ。・・・わたしは君を多くの国父とするからだ。わたしは君の子孫を大いに増し加え、君をもろもろの国民にまで発展させる。もろもろの王が君から出で来るであろう。わたしはわたしの契約を君と君の後の代々の子孫との間に、永遠の契約として立てる。それは君と君の後の子孫に対して神たらんためである。わたしは君とその後の子孫に、君が今やどっているカナンの全地を、永遠の所有として与える。わたしは彼らの神たらんとするのである。」

 この文章を読みますと、(1)アブラハムを祖として多くの民族・国民が派生すること、(2)これらの民族にあってはアブラハムの血を引く人物が王となること、(3)神とアブラハムとの間の契約の内容とは、‘神’を唯一神としてアブラハム系諸民族が崇拝するのと引き換えに、‘神’は、アブラハム系の諸民族を増やすと共にカナンの地を与えたことが分かります。(3)の矛盾点については別に論じるとして、先ずもって注目されるのは、(1)と(2)の解釈です。アブラハム正統説を唱える人々の中には、同文章をもってユダヤ人による全世界の支配権にまで拡大解釈する人も見られるのですが(大ユダヤ主義)、この文章を人類史に沿って理解しますと、別の解釈が成り立つように思えます。

 それは、文明の黎明期にあって人類の人口が未だに極少数であり、かつ、部族や民族の分岐が盛んであり、人口規模が民族や国家のパワーと凡そ比例していた時代を背景とした記述ではなかったのか、というものです。人類史を振り返りますと、アフリカ単一起源説であれ、多起源説であれ、また、全人類のDNAの分岐状況からしますと、初期の人類が少数であったことは確かなことなのでしょう。こうした時代には、野生動物から身を守るためにも人口増加が望まれたことでしょう。アブラハムの時代にありましても、人口増加は望まれながらも、人口が乗数的に増加していった場合には、集団の一部が分かれ出て、食料や水、住居や農業に適した地の不足等から他の地に移住するということは、決して珍しいことではなかったはずです。こうした時代には、人口増加のみならず、部族の分岐的増加は、‘神からの祝福’として捉えられるほどに望ましいことであったことでしょう。‘国父’という表現も、神の存在論は別に置くとしても、アブラハムの子孫達同族部族の分岐増加を‘神から約束された’と解されるのです。

 となりますと、諸国の‘王’という表現も、アブラハムを祖とする同族分岐部族が建国した諸国の王ということになりましょう。即ち、ユダヤ系国家という前提条件が付されるのであり、この条件に照らして適っているのは、今日ではイスラエルのみとなります(もっとも、現在のイスラエルは君主制ではなく共和制の国家・・・)。ユダヤ人の祖がアブラハムであれば、そのユダヤ人で構成される国家の王もアブラハムの子孫であるのは当然のことでもあります。仮に、非ユダヤ系の諸国にあってユダヤ系の‘王’が出現するとすれば、それは、ユダヤ系の部族が異民族の国家を征服する、あるいは、他国の王家を乗っ取ることを意味します。そしてそれは、他の非ユダヤ系の諸国にとりましては、自国の存亡に関わる重大な脅威に他ならないのです。

 以上にユダヤ人の祖とされるアブラハムについて、国父並びに諸国の王に関する解釈を述べてきましたが、信仰上の聖典であっても、それが現代の政治に影響を及ぼし、リスク要因となる以上、その内容については、客観的かつ学術的な検証を行なう必要があるように思えます。どのような目的、背景、経緯などがあって聖典は記述されたのかを探求し、すなわち、その時代背景を踏まえながら人類史上に位置づけてこそ、人類滅亡を引き起こしかねない聖典解釈のリスクを取り除くことができるのではないかと思うのです(つづく)。

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選民思想の自己矛盾―神の評価基準とは?

2024年01月17日 13時08分29秒 | 国際政治
 選民、それは、文字通りに解釈すれば、神に選ばれた民を意味します。数多ある民族の中から敢えて神が選んだのですから、選ばれた民族は、自らを特別な存在として誇ることでしょう。優越感に浸ると言うこともあるのでしょうが、選民思想には、解きがたい自己矛盾が潜んでいるように思えます。

 選民思想にも、アドルフ・ヒトラーが唱えた‘アーリア民族優越主義’などもあるのですが、とりわけよく知られているのが、ユダヤ人の選民思想です。『旧約聖書』の記述を根拠として、ユダヤ人は、古来、自らを神から選ばれた民として自認してきました。今日、イスラエルがパレスチナ人を迫害し、その地を奪おうとしているのも、その根底には選民思想があってのことなのでしょう。また、アメリカの福音派のように、聖書の一文一句を絶対視して信仰の対象とする故に、イスラエルを支持する人々も少なくありません。しかしながら、信仰の対象ではなく、人類の道徳や倫理の側面から選民思想を考察しますと、同思想には、以下のような問題が提起されましょう。

 選民という限り、‘神’は、多数の中から特定の民族を選ぶという行為を行なっています。選択や選抜には、必ずや選ぶ基準があるものですので、‘神’は、何らかの評価基準に照らして人選(民選)を行なったはずです。『旧約聖書』の『創世記』では、幾つかの神による選択の場面があるのですが、先ずもって、ユダヤ民族の始祖とも言えるアブラハムと言うことになりましょう。それでは、‘神’は、明記はされていないものの、アブラハムが道徳・倫理面において優れており、清らかで正しく、公平な心をもち、‘神’に最も近い義人あるいは聖人であったから選んだのでしょうか。しばしば、‘神から愛された人’と言う言葉は、こうした人々に贈られています。

 ところが、この人選(民選)に関しては、はっきりとした評価基準が示されていません。しかも、アブラハム自身は、自らの保身のために嘘もついていますので、必ずしも清廉潔白な人物であったとも言い切れない側面があります。仮に、‘神’が気まぐれでアブラハムを選んだとすれば、その‘神’は、‘善なる神’とは言えなくなります。むしろ、大洪水に際してノアが選ばれた理由の方が、道徳・倫理的な側面が強調されており、善人のみが神によって選ばれるという、誰もが納得するストーリー展開なのです。

 また、‘神’によるモーゼへの十戒の授与は、当時のユダヤ人社会が、道徳律を要するほどに乱れていたことの反証でもあります。禁止は、その行為が行なわれていなければ必要ありません。つまり、一般に信じられていることとは逆に、悪がはびこっていたからこそ、ユダヤ人は、これを憂いた‘神’から‘選ばれた’とも解されるのです。‘神’が善なる存在であったとしても、その神から選ばれたユダヤ人は、必ずしも善ではないことになります。

 今日、イスラエルのシオニスト達は、『旧約聖書』の記述を根拠として、ヨシュアの如くにパレスチナ人を残酷なまでに虐殺していますが、ユダヤ人が自らを‘神から選ばれた民’と称するならば、ユダヤ人が信じる神の方が、善性を失い、悪、すなわち、ユダヤ人に利己的他害行為を許す悪魔あるいは邪神と言うことになりましょう。人には善悪を区別し得る能力があり、しかも、利己的他害性の有無が誰もが否定しがたい善悪に関する普遍的な判断基準でもありますので、論理的に考えるならば、神が善性を基準として選だとすれば、残忍なユダヤ人を選ぶはずはない、という結論に至るのです。つまり、現実にあって悪他害他害行為を行なうユダヤ人が、それでも自らを‘神から選ばれた民’と称するならば、善の根源としての‘神’を否定することになるのです。あるいは、自らはその善良さをもって神から選ばれたのではないことを、認めざるを得なくなりましょう。

 もっとも、『創世記』では、神は、善悪を知る木の実を食べてはならないにも拘わらず、それを食したアダムとイヴをエデンの園から追放しているため、戒めを破り、善悪を判断する能力を備えてしまった人類を、神は滅亡させようとしている、とする解釈もあり得るかも知れません。つまり、この解釈では、ユダヤ人は、‘神’による人類滅亡の願望を叶えるためにその実行者として選ばれたこととなるのですが(最後は、自らもこの世から消え去らなければならない・・・)、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といった経典の民以外の他の人類にとりましては、この解釈は悪魔崇拝に他なりません。また、こうした曲解とも言える解釈が正統派となるはずもなく、仮に同解釈が正統とさ、神は人類の滅亡を望んでいると説くならば、信者は一人もいなくなることでしょう(大多数の人々は、神は悪人を懲らしめ、善人を救うと信じているからこそ信仰心を持つのでは・・・)。

 また、さらに根源的な問題を提起するならば、それは、‘神’は、特定の民族を選び、特別の地位を与えるのか、という問いかけです。悪人の改心を条件に据えつつも、神という存在が全ての人類を愛する博愛の神であるならば、選民思想は‘神’の分け隔てのない博愛性とも矛盾します。言い換えますと、神の前の平等を否定しなければ、選民思想は成り立たないのです。選民思想そのものが、普遍的な超越神の存在とは両立せず、同思想を含むユダヤ教とは、人類の一部に過ぎないユダヤ人固有の自己優越感を満たすための部族的な宗教と言えましょう。

 以上の諸点を考えますと、現代という時代を生きるユダヤ人は、選民思想そのものを客体化し、理性をもって疑うべきです。そして、仮に、何としても善なる神と選民思想との間の論理的な矛盾を解消しようとするならば、自らも神の如くに善行に徹し、パレスチナ人を含む非ユダヤ人の存在や諸権利を認め、等しく愛を注ぐ博愛精神を示すしかないことを理解すべきではないかと思うのです。

*ノアに関する記述の誤りを発見し、2023年1月18日に訂正いたしました。心よりお詫び申し上げます。

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世界経済フォーラムは‘資本主義のコミンテルン’?

2024年01月16日 14時46分35秒 | 国際政治
 全世界のグレートリセットを目指す世界経済フォーラムの年次総会には、毎年、各国からトップクラスの政治家が参加しています。今年も、フランスのマクロン大統領、アメリカのブリンケン国務長官、中国の李強首相、EUのフォン・デア・ライエン欧州員会委員長などの他にも、紛争当事国のウクライナからは、ゼレンスキー大統領も出席したそうです。日本国からの出席者としては、河野デジタル相の名が挙がっています。グローバル化と称される時代にあって、国家体制の違いにも拘わらずに世界各国から出席者を集める同会議については、マスメディアなどは好意的な書き方をもって報じてます。しかしながら、世界経済フォーラムとは、いわば、‘資本主義のコミンテルン’なのではないでしょうか。

 先ずもって、世界経済フォーラムと世界各国の共産主義者が集ったコミンテルンとの共通点として挙げられるのは、両者とも、自らのヴィジョンに基づく‘新世界支配体制の確立’という、明確な目的を有している点です。近年、世界経済フォーラムは、グレートリセット構想を打ち出し、グローバル・ガバナンス・システムの構築に乗り出しています。グレートリセット構想は、グローバリストがこれまで温めてきた支配構想を、デジタル技術の発展に沿った形で未来ヴィジョンとして纏めものなのでしょうが、世界全体を包摂する、一つの思想、価値観、世界観に基づく体制構築を目指している点で、両者は、同類と言えましょう。

 第2に、ヴィジョン共有型の組織であることは、参加メンバーには、独自、あるいは、新しいヴィジョンや政策を提案する立場にはなく、実行者に過ぎないことを意味します。もちろん、国益を背負って国際会議に出席する‘国家の代表’でもありません。決定権は組織の中枢に握られており、いわば、‘手下’や‘駒’、もしくは、よくて活動要員としての役割が期待されているのです。このことは、同組織に参加する政治家や公人は、自らが属する国家やその国民よりも、世界組織の利益を優先させる可能性を強く示唆しています。

 第3に、コミンテルンも世界経済フォーラムも、国家に対する基本的な姿勢は否定的です。共産主義にあって、カール・マルクスは、国家の将来的な消滅を予言しましたが、世界経済フォーラムが掲げるグローバル・ガバナンス構想でも、国際機関を含む政府の存在は、グローバル企業及び選ばれた市民団体(CSOs)と並ぶ、三つの構成要素の一つに過ぎません。しかも、クラウス・シュワブ会長の言葉の端はしに現れているように、国家の存在は、構想実現の障害物と見なされているのです。言い換えますと、国家に対する否定的な見解は、主権平等や民族自決等を基本原則とする今日の国民国家体系の否定でもあり、この側面も、両者の共通点となっているのです。

 そして、以上の三つの共通点は、共産主義インターナショナルと同様に、世界経済フォーラムが、国家の独立性、並びに、国民自治の別表現としての民主主義にとりまして、看過し得ない脅威となっていることを意味します。戦前にあってコミンテルンは、共産主義革命を恐れる各国政府から厳しい監視を受けたのですが、今日にあって世界経済フォーラムが、自国の国家体制を内部から脅かしながら、政府は、迎合こそすれ警戒しようともしません。あるいは、この不可思議な現象は、既に日本国政府をはじめ多くの諸国にあって‘グローバル革命’が起きてしまっている証左なのかも知れません。世界経済フォーラムは、1943年5月15日に解散されたコミンテルン以上に、‘世界同時革命’に成功しているのかも知れないのです。革命とは、左翼の専売特許ではないのですから。

 実際に、日本国政府の政策の大半は、同フォーラムの方針に沿っており、近い将来、仮に河野政権が誕生すれば、日本国に対する支配は強化されることでしょう。自民党をはじめ保守政党の正体が世界権力の代理人であるならば、「日本共産党」のように、「日本世界経済フォーラム党」、あるいは、「日本グローバリスト党」と名乗った方がよほど正直です。共産主義と資本主義は同根ともされていますが、日本国民を含む各国の国民は、グローバリストによる‘世界同時革命’が進行している現実を直視すると共に、ダボス会議に出席している政治家に対しては、大いに警戒すべきではないかと思うのです。

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‘偽確定情報’の悪意の流布のみが‘デマ’では

2024年01月15日 11時54分15秒 | 日本政治
 近年、生成AIの登場もあって、‘偽情報’のリスクが声高に叫ばれるようになりました。かの世界経済フォーラムも、2024年版の報告書では、短期的なリスクとして「誤報と偽情報」を挙げています。同フォーラムの場合には、自らに対する批判を‘偽情報’としてかわしたい思惑が透けて見えるのですが、コロナ・ワクチンをはじめ、能登半島地震や羽田空港衝突事故などにあっても、政府がデマと断言するケースが散見されます。しかしながら、政府による‘デマ断定’に対しては、国民が慎重であるべきは言うまでもありません。何故ならば、そこには、‘政治的’な意図が隠されている場合が多いからです。

 それでは、‘デマ’とは、一体、どのような情報なのでしょうが。‘デマ’はギリシャ語由来の略語であり、英語ではデマゴキーです。もともとは政治的扇動を意味しますので、必ずしも虚偽性を含んだ言葉ではありません。英語圏では、政治的先導者を示すデマゴーグは頻繁に使われるものの、デマという表現については、日本国ほど日常的に使用されているわけではないようです。半ば和製英語とも言えるのですが、少なくとも日本国内にあっては、デマは、政治的扇動の意図の有無に拘わらず、偽情報一般を意味します。しかも、不特定多数の人々を騙したり、惑わす意図をもって流された悪意の偽情報というニュアンスを帯び、批判的な言葉として理解されているのです。因みに、誤情報という表現の場合には、悪意性が著しく薄まります。

 このため、政府が一度‘デマ’と断定しますと、国民の多くは、デマとされた情報の発信者に対して批判的になりがちです。多くの国民が偽情報と認識し、同情報の情報価値を否定するようになります。しかしながら、その一方で、政府によるデマ認定には、世論を萎縮させたり、国民を思考停止に至らせる心理的な効果もありますので、仮に、政府が、デマ、即ち、偽情報ではない情報をデマと決めつけた場合、これは情報統制、あるいは、世論操作が疑われることとなります。さらに、後日、デマ認定した情報が事実であることが判明した場合には、政府の方の信頼が失墜してしまうのです。

 例えば、コロナ・ワクチンについては、当時の河野ワクチン接種推進大臣が同ワクチンに対するマイナス情報を‘デマ’と決めつけながら、その後、健康被害を否定し得なくなる状況に直面したために、国民からの信頼を失った事例があります。政府によるデマ認定が政治的な意図をもった政策(コロナ・ワクチンの場合は国民のワクチン接種の推進・・・)であった実例となったのですが、ワクチンのケースでも、医科学的な根拠のある疑問さえもデマとして葬り去られたため、ワクチン被害の拡大が放置される結果を招いたとも言えましょう(もっとも、未だに政府は健康被害とワクチンとの関連性を公式には認めていない・・・)。

 政府の‘デマ’の一言でリスクが見逃されてしまうリスクは、過去の経験からしても由々しき問題です。そこで、こうした事態を防止するためには、政府によるデマ認定には、条件を付すべきではないかと思うのです。言い換えますと、不確定情報については、基準を設けて分類を行なうのです。

 先ずもって、デマ、即ち、偽情報と明確に分類される情報とは、文字通り、全く事実とは異なる創られた情報です。例えば、宇宙人の襲来と言ったSFのような情報なのですが、このケースでも、政府は、誰もが納得する証拠を添えて、それが事実無根の虚偽であることを説明する必要がありましょう(もっとも、国民の大半は、あまりの荒唐無稽さにパニックに陥ることなく冷静に受け止めることでしょう・・・)。

 また、政府による情報提供が不十分な場合、推測部分が‘尾びれ’となって結果的に偽情報となってしまうケースもあります。この場合には、政府による説明不足も原因していますし、また、災害時などでは被災者を慮っての政府批判もありましょう。付加的推測のケースでは、政府は、正確かつ詳細な情報の提供によって‘尾びれ’部分を否定すべきとなります。

 その一方で、注意を要するのが、必ずしも虚偽とは言い切れない情報です。例えば、真偽が客観的に検証されていない類いの情報です。こうした真偽不明の情報をめぐっては、(1)事実が未確認の情報、(2)技術的に起こり得るリスク、並びに、(3)物理的に起こり得るリスク・・・といった種類があります。事実に立脚した推理であったり、合理的な推測に基づく意見やリスクの指摘は、むしろリスク管理の観点から有益である場合があるからです。

(1)の事実が未確認の情報に対しては、政府は、現時点では事実が確認されていない状況にあることを正直に国民に伝える必要がありましょう。危険情報が未確認の状態であることを国民が承知していれば、国民の多くは自ずと警戒し、自衛に努めるからです。

(2)のケースは、ワクチン被害や人工地震等、今日の科学技術のレベルでは発生し得るリスク情報です。確認情報としてではなく、リスク情報として発信された場合には、むしろ、政府には、国民の命を守るために事実の確認を急ぐ義務が生じます。上述したmRNAワクチンについては、医科学的な根拠を有する専門家によるリスクの指摘もありましたので、政府によるデマ断定は、国民保護の義務を放棄したに等しくなります。また、人工地震やその他先端技術の攻撃的な使用の可能性についても、「環境改変技術敵対的使用禁止条約」も制定されているぐらいなのですから、政府にこそ、真摯な対応が求められるリスクと言えましょう。

 加えて(3)の物理的に可能なリスク情報とは、所謂謀略や陰謀、あるいは、外部からの工作活動によるリスクの指摘を意味します。例えば、羽田空港衝突事故については、公表されている公式の情報でさえ幾つもの不審点があり、単なる事故であるのかどうか、疑いがあります。過去を振り返っても、安部元首相暗殺事件のように不審点が残る事件は多く存在していますので、こうしたリスクについては、(2)の情報と同様に、政府にこそ、国民の安全のために厳正な調査を行なう義務がありましょう。

 以上に政府によるデマ断定について述べてきましたが、明らかなる‘嘘’ではなく、リスク管理を要する情報については、然したる根拠を示すこともなくデマとして頭から否定するのではなく、政府が責任を持って調査を実施し、事実を確認して公表する方が、余程、国民は安心し、政府に対して信頼を寄せることでしょう。この当然とも言える対応を怠る政府の態度こそ、如何にも幕引きを急いでいるように見え、リスクを指摘する情報の信憑性をより高めているのではないかと思うのです。

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あるグローバリストの告白―世界経済フォーラム会長の寄稿文

2024年01月12日 12時09分00秒 | 国際政治
 本日1月12日の讀賣新聞オンラインには、大変興味深い寄稿文が掲載されていました。寄稿文と言うよりも、今日まで全世界に多大なる影響を与えてきた一グローバリストの告白と言ってもよいかも知れません。何故ならば、同グローバリストは、グローバリズムというものの正体を自らの言葉で語っているからです。

 あるグローバリストとは、世界経済フォーラムの創設者として知られるクラウス・シュワブ会長です。今年もスイスでは同会議が主催する年次総会(通称ダボス会議)が開かれ、フランスのマクロン大統領やアメリカのブリンケン国務大臣の出席が予定されています。グローバリズムへの批判が高まったため、‘ダボス詣で’とも称されたほどの一時期の賑わいはないものの、未だに一定の影響力を保持していることが窺えます。同会議の代表者とも言えるシュワブ会長のことですから、日本国の新聞に寄稿文を寄せた目的は、おそらくグローバリズムへの賛同を得るためであったのでしょう。

 しかしながら、何故、会長自らによる宣伝活動が逆効果となってしまったのかと申しますと、寄稿文の内容が、理路整然とした論理的な主張ではなく、一種のファンタジーであったからに他なりません。しかも、ファンタジーであればどこか微笑ましいのですが、その行く先を見据えますと、ディストピアへと言葉巧みに誘っているようにも思えるのです。それでは、同会長の寄稿文には、どのような‘マジック’が仕組まれているのでしょうか。

 第一に、同会長は、今日の人類が直面している危機の特徴を「分断の拡大、敵意の高まり、紛争の急増」の三者として表現しています。その上で、根本的な原因を追及すべきとしています。ここまでは、誰もが納得する文章の流れです。ところが、‘根本原因’として同会長が挙げているのは、国家による‘時代遅れの解決策’なのです。言い換えますと、同会長は、真の原因を追及するのではなく、‘根本原因’から発生した問題に対する解決策が‘根本原因’であるとする一種のトートロジーに読者を誘い込むことで、根本原因の探求から逃げてしまっているのです。

 こうした逃避的な態度は、おそらく、根本原因を追及すれば、自らに行き着くからなのでしょう。上述した分断、敵意、戦争の多くは、グローバリズムがもたらしてきたからです。例えば、先進国の産業の空洞化による中間層の崩壊、国境を越えたマネーの自由移動による富の偏在と集中、外資や先端技術の導入による中国の軍事大国化、移民の増加による社会的亀裂や対立の激化・・・など枚挙に暇がありません。なお、同会長は、グローバリズムが人類の多くを貧困から救ったとして評価しておりますが、そもそもの貧困の原因は、苛烈な植民地支配であったり、社会・共産主義体制の導入に求められますので、ここにも、根本原因からの逃避という問題が見られます。

 第二に、同会長が提示している‘時代に即した解決策’も、首を傾げざるを得ません。同寄稿文では、要約すれば(1)経済のグリーン・デジタル化による雇用創出・購買力の向上、(2)再生エネルギーの拡大による気候変動並びに紛争の解決、(3)AIの人類再生の触媒化、の三者が解決策として提言されているのですが、何れもが説得力に乏しく、ファンタジーの域を出ていないのです。強いて言えば、エネルギー技術の発展が資源争いを原因とした紛争の発生を消滅させる可能性はありますが、何故、提案した解決策が‘望ましい結果’をもたらすのか、その詳細なメカニズムについては空白なのです。

 第三に指摘し得るのは、これらの解決方法を実行するのは、グローバル、国家、地域としており、とりわけ、国家に対しては障害物と見なしています。国家の存在に紛争や戦争の原因を押しつけたいのでしょうが、現実を見ますと、大多数の国民が戦争を望まずともこれに引き込まれるのは、グローバルな戦争ビジネスや戦争利権が存在しているからです。今般の能登半島地震のような災害等が発生した場合、責任をもって国民を救助できるのは国家の政府を置いて他にありません。今日の人類が直面している危機とは、国家の統治能力の低下や政治家の‘グローバル化’にあり、むしろ、国民自治の精神を表す民主主義の価値に照らしますと、国家機能の強化の方が問題解決には相応しいとも言えましょう。

 そして、極めつけが最後の一文です。「危機に主導される力関係から脱却し、協力と信頼、そして、明るい未来に向けた共通のビジョンを育むには、この歴史的な転換点がもたらす機会を解き放つ、前向きなストーリーを創造しなければならない。」とする一文で結んでいるのですから。告白、あるいは、自白と言えるのは、‘前向きなストーリーの創造’、この一言に尽きます。この一言、グローバリズムとは、人々に夢を抱かせるような物語を創ることで自らが描く世界支配の未来ヴィジョンを実現するための、特定の金融・経済財閥、即ち世界権力とも称される私的団体によるプロパガンダであったことを、図らずも吐露しているように思えるのです。

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能登半島地震最優先は当然の政治判断

2024年01月11日 13時48分57秒 | 日本政治
 本年1月1日に大規模な地震が発生した能登半島では、今なお、行方不明となられている方々の懸命な救助並びに捜索活動が続いています。厳しい冬の寒さに晒されながら、避難所での生活を余儀なくされている被災者の方も多く、なぎ倒されたよう街並みや倒壊家屋の映像も見るに忍びありません。能登半島の惨状は、国民の誰もが早急かつ大規模な復興支援を必要としていえることを語っています。

 日本国民の誰もが、甚大なる被害を受けた能登半島の被災地復興のための予算を当然の支出と見なしているのですが、予算は泉の如くに無限に湧き出るわけではありません。総額には自ずと有限の‘枠’があることを考慮しますと、復興に必要な予算を捻出するためには、他の予算を削る必要が生じていきます。ここで、‘どの予算を削るのか’という問題が持ち上がるのですが、凡そ99.9%の国民が、迷わずに不要、あるいは、無駄な予算を削る、と回答することでしょう。そこで、削減対象となる予算として真っ先に挙げられることとなったのが、大阪万博とウクライナ支援の両者です。何れもが、削減対象となるに十分な根拠があるからです。

 そもそも、万国博覧会というコンセプトは、既に時代錯誤となりつつあります。インターネット社会では、個人であってもPCやスマホ等を介して簡単に国境を越えることができ、海外の文物に触れることができます。万国博覧会の魅力は、テーマ・パークの如くに自国にいながら海外の諸国を訪問した気分になれる、しかも、開催地の会場一カ所をめぐれば世界を一周できるところにありましたので、インターネットがこれを実現している今日では、その存在価値が著しく低下しているのです。このため、各国とも出展には消極的であり、パビリオンの建設も遅々として進んではいないようです。しかも、2025年大阪万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」であり、豊かで多彩な各国のお国柄を披露する場ではなく、SFチックな未来技術の見本市のようなのです。これでは、世界に誇る技術に乏しく、技術力に自信のない国は、万博への参加に余計に尻込みすることとなりましょう。

 加えて、今日の万博は、オリンピックにも通じる金権あるいは腐敗体質を露呈しています。当初の見積もりを超えて予算が膨れ上がっても、それを止めることが出来ないのです。いわば悪徳商法のようなもので、何かと理由を付けられては追加予算を請求されてしまうのです。一種の国際的な集金マシーンと化しており、万博の開催に固執している人々は、何らかの金銭や便宜供与を受けているのかもしれません。大阪府の吉村知事も、災害復興と万博開催は両立し得ると主張しておりますが、予算がゼロサムの世界である限り、同発言は、吉村知事が国際的な万博利権側に与していることを示唆しているとも言えましょう。国民の利益を第一に考え、かつ、国民の大多数が万博に対して冷めている現状からしますと、万博は中止あるいは縮小が最も適切で合理的、かつ、民意に添った政治判断なのではないでしょうか。

 そして、ウクライナ支援も、不要な予算と見なされる尤もな根拠があります。この予算についても、そもそも何故、日本国がウクライナを支援しなければならないのか、国民の多くが納得するような説明はありません。しばしば、ロシアの特別軍事作戦は国際法違反の侵略であるため、国際法秩序を維持するために日本国はウクライナを支援すべき、あるいは、ロシアによる対日侵略を未然に防ぐため、とも主張されますが、前者であれば、国連等の国際機関を介して全国家が負担を分かち合うべきですし、後者についても、ウクライナ一国を相手に苦戦しているロシアが二正面戦争の挙に出るとは考えられません。ウクライナにおける戦後の復興景気を日本企業のビジネスチャンスと捉える説もありますが、自国内の能登半島の復興事業のほうが余程期待がもてるはずです。何れにしましても、合理性にも説得力にも欠けているのです。あるいは、来る台湾有事に備えた自由主義国の結束強化のためとする見解もありますが、中国リスクが高いのであれば、他国への軍事的支援よりも自国の軍備増強に予算を費やすのが筋というものです。

 震災直後、6500億円という巨額のウクライナに対する資金提供を公表し、戦後復興への協力も安請け合いしながら、能登半島地震に対する支出が僅か数十億円とした日本国政府の姿勢が世論の批判を浴びましたが、納税者は国民なのですから、この批判は当然すぎるほど当然の批判です。そして、こうした不可解な政府のウクライナ優先の姿勢にも、日本国の政治が世界権力による一種の搾取システムの中に位置づけられている様子が窺えるのです。負担だけを押しつけられるのですから。

 人工地震が強く疑われる大規模な災害が発生しながら、今では存在意義が問われている万博といったイベントや他国に予算をつぎ込もうとしている日本国政府の非常識かつ‘海外ファースト’の姿勢は、むしろ、その異常さ故に世界権力による世界支配の実態を浮き上がらせているとも言えましょう。政府の予備費も、予期せぬ災害といった非常事態に備えるために設けられているのですから、最優先で被災地の支援や復興に充てられるべきはずです。優先順位の決定という政治家として当たり前の判断ができない日本国の政治家とは、一体、何者なのでしょうか。

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