万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国もジェノサイド条約に加わるべき

2021年01月31日 12時54分12秒 | 国際政治

 先日、日本国内では、アメリカが中国によるウイグル人弾圧をジェノサイドと認定した件に関連して、日本国政府がジェノサイド認定を否定したとするニュースが報じられました。日本国政府による公式見解ではなく、政府高官の一人による発言に過ぎなかったものの、中国が言質を取ったと言わんばかりに歓迎の意を表明したことから、日本国政府の人権問題に関する意識の低さが改めて問われることともなったのです。

 

 これを機に、ジェノサイドという言葉にも関心が寄せられることにもなったのですが、同高官がジェノサイドとして認定を避けた理由として、日本国が、ジェノサイド条約に署名もしていなければ、批准もしていない現状があったとされています。ジェノサイド条約とは、人種、民族、宗教、国籍といった人的集団に対する大量殺戮や抹殺を防止し、かつ罰することを目的として制定された条約であり、第二次世界大戦後の1948年12月9日に国連総会において決議として採択されました。成立の背景には、ナチスドイツによるユダヤ人迫害があったとされますが、同条約は1951年1月20日に発効し、現在、152か国が締約国となっています。因みに中国も、中華民国として1949年7月20日に署名し、中華人民共和国としては1983年4月18日に批准していますので、同国も、一先ずはジェノサイド条が定める法的な義務を負っています(もっとも、同国が、締約国として同条約を誠実に遵守していれば、チベット問題やウイグル問題等は起きるはずもない…)。

 

 それでは、何故、日本国政府は、ジェノサイド条約に対して背を向けているのでしょうか。日本国は、ジェノサイドを容認するような非人道的な国家なのでしょうか。その阻害要因として挙げられているのは、日本国憲法第9条です。日本国憲法は平和主義のイメージが強いのですが、同イメージの根源とも言える第9条が、その実、ジェノサイド条約への参加の最大障壁となっているのですから皮肉なことです。

 

 憲法第9条が、何故、ジェノサイド条約加盟への道を塞いでいるのかと申しますと、同条約の第1条には、「締約国は、集団殺害が、平時に行われるか戦時に行われるかを問わず、国際法上の犯罪であることを確認し、かつ、これを防止し処罰することを約束する」とあるからです。つまり、締約国は、ジェノサイドが発生した場合、防止と責任者の処罰の義務が生じますので、仮に、海外において発生したジェノサイドを防止、あるいは、責任者を捕縛して処罰しようとする場合、軍隊の派遣が必要になる場合も想定されるからです。憲法第9条は、海外派兵を禁じているとも解されますので、違憲行為ともなりかねないジェノサイド条約には加盟できないというのです。しかしながら、以下の点において、憲法第9条は、もはや同条約への参加を拒む障壁とはならないのではないかと思うのです。

 

 第一に、第9条に対する日本国政府の公式の見解を要約すれば‘自衛を目的とした実力行使であれば、憲法の禁じるところではない’とするものです。言い換えますと、憲法は、侵略戦争のみを禁じており、他国に対する侵略を目的としない軍事力の行使は許されることとなります。上述したジェノサイド条約に対する政府の解釈は、ジェノサイドの防止・処罰のために行使される軍事力も憲法の禁じる‘侵略戦争’に含まれるということになるのでしょうが、同軍事力は、国際犯罪の取り締まり行為を意味しますので、あくまでも被害者を救い、犯罪を排除するための警察力、あるいは、国際法上の強制執行力です。

 

この点に鑑みますと、国際平和、あるいは、人道のための軍事力の行使が、即、憲法に違反するとは言い難く、国際秩序の維持の観点からしますと、広義には、防衛の一環としても解されましょう(因みに、国際法の父とされるグロチウスも、人道的介入としての戦争を正戦と見なしていた…)。国際社会の治安が乱れることは、即、自国の安全も脅かされることを意味するからです(とりわけ、中国による異民族弾圧は、周辺諸国にとりましては他人事ではない…)。仮に、あらゆる軍事力の行使を違憲としますと、国連等を枠組みとした従来の自衛隊による平和維持活動への参加も憲法違反ともなりましょう。

 

 第二に、ジェノサイド条約の第9条には、紛争の解決に関する規定が置かれています。この条文には、同条約に基づいて締約国間で紛争が発生した場合、紛争当事国の要請により、国際司法裁判所に解決が付託されるとあります。つまり、紛争化した場合には、平和的な司法解決の道も準備されているのです。このため、たとえ条約上の義務履行のために日本国が軍事力を行使したとしても、国際社会にあって‘侵略戦争’として見なされるわけではありません。日本国政府は、過度に‘戦犯’となる事態を恐れる必要もないのです。

 

 以上に主要な2点を述べましたが、ウイグル人に対する中国による非人道的行為は目を覆うばかりです。それにも拘わらず、中国には反省の色は見えないのですが、日本国政府がジェノサイド条約への加盟に転じますと、それは、中国に対する強い牽制ともなりますし、自衛隊の派遣に至らずとも、虐待を受けているウイグル人を救う圧力ともなりましょう。また、異民族に対するジェノサイドを平然と実行する中国という国は、近い将来において、日本人に対しても同様の抹殺計画を実行に移すことも予測されます。日本国が、全締約国に対して防止と処罰の義務を課すジェノサイド条約の枠組みに加われば、日本人がジェノサイドの標的となった場合、それが僅かな希望の灯に過ぎないにしても、外部による救済の道を残すことともなりましょう(集団的人権安全保障体制…)。自民党外交部では、人権外交プロジェクトチームを発足させるそうですが、是非とも、ジェノサイドへの加盟に向けた積極的な議論をお願いしたいと思うのです。


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‘デジタル・グリーン・コロナ’の三点セットがもたらす脅威とは?

2021年01月30日 12時38分13秒 | 国際政治

 今日、途上国から先進国まで、地球上のあらゆる国家は、デジタル化、地球温暖化、並びに新型コロナウィルス禍による急速な経済・社会の変化に直面しております。これらの三つの問題は同時進行しているのですが、それは、時間的な同時性のみならず、ある一つの共通点が見出せるように思えます。これら三者に共通する特徴とは、その何れもが、非人類主導型である上に、強制力を秘めている点です。

 

 まずデジタル化を挙げてみますと、この現象は、テクノロジー主導型です。近年、急速に発展したITを牽引力とするものであり、必ずしも一般の人々が心から望んだ結果ではありません。この側面は、AIによって近い将来、知的職種までもが奪われるとする失業懸念によって端的に表されています。また、デジタル化は、人々の言動の自動的、かつ、全面的なデータ化をも意味しますので、人々は、管理される側として位置づけられてしまうのです。ITの普及は、経済活動やコミュニケーションにおいて利便性を高めたとはいえ、どちらかと申しますと、多数の人々のデータをシステマティックに収集して管理する管理ツールとしての側面が強いのです。ITが普及し、社会の隅々にまで浸透するにつれ、人々が、外部から監視されているような感覚を覚えるのは、同テクノロジーのこうした特性に因るのでしょう。

 

 第2番目に挙げた地球温暖化は、地球主導型です。気候観測の結果、地球の表面気温の上昇が観測され、その主要な原因が二酸化炭素を含む温暖化ガスと認識されたことから、地球規模の課題として位置づけられることとなりました。二酸化炭素の排出規制は人類に対する生産活動規制をも意味するため、‘地球を救うために人類は犠牲になるべし’という見解もあり得ます。地球が滅びれば、同時に人類も滅びます。このことから、同見解は、二酸化炭素犯人説に従えば正しいのですが、同説の真偽のみならず、排出量を‘ゼロ’にする必然性や必要性については科学的な検証を経ているわけでもありません。従いまして、急激、かつ、過激な対策を主張する地球温暖化原理主義には、人々の経済活動や生活を一変さえかねないある種の強制力が認められるのです。

 

 そして第3番目の新型コロナウィルス禍は、前二者とは発生の突発性においては異なっていますが、ウィルス主導型という点で人類主導型ではありません。疫病とは、古来、災害の一つに数えられてきましたので、人々が望んだ結果ではないことは明白です。しかしながら、人々は、感染拡大を防ぎ、自らの健康と命を守るために、自由に対する制限を受け入れざるを得ない状況に置かれてしまいます。移動の制限のみならず、マスクの着用や手洗いや消毒の習慣化も強いられます。その内、‘黙食’という言葉も登場してきているように、対面での会話さえ自粛が迫られるかもしれません。民間にあっても‘○○警察’が現れており、ここにも強制力が強く働く余地が見られるのです。

 

 以上に今日の人類に降りかかってきた三つの問題の共通点について述べてきましたが、どれ一つをとりましても、民主主義の観点からしますと、人類の危機と言わざるを得ません。そして、今般、これらは三点セットとなって同時進行し、相乗効果によりますます強制力を強めているようにも見えます。コロナ対策はデジタル化の起爆剤と見なされ、システマティックな一体化が模索されていますし、地球温暖化対策も、あらゆる機器の電化を伴うことでデジタル化を促進させることでしょう。人々は、自らの望まぬ方向、つまり、データを握る外部から徹底的に監視・管理される側の立場に追い込まれてしまうかもしれません。

 

 昨日、1月29日にオンラインで開催された「ダボス・アジェンダ」に出席した菅首相の演説では、これらの三点セットが漏れなく語られていたそうです。ダボス会議は、常々、かの‘ディープ・ステート’のフロント会議と見なされてきました各国の政治の優先的なアジェンダがこれらの問題に集中しますと、それぞれの国が抱える政治問題は後回しにされると共に、反対論や異論を含め、同問題に対する国民の声も政治の場には届かなくなりましょう。民主主義は、‘先端的なデジタル未来を築こう’、‘地球を温暖化から救おう’、そして、‘コロナに立ち向かおうといった’誰もが簡単には否定できないようなスローガンの許に静かに侵食されてゆくのです。

 

人類は、美辞麗句で飾られたこれらの問題の表面のみを見るのではなく、その裏側にある問題に対してもよく観察し、民主主義、そして、自由を護るための対処方法を考案すべきではないかと思うのです。これらの3点セットは、あるいは‘ディープ・ステート’とも称される超国家権力体が支配する世界への誘導装置かもしれないのですから。


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‘2050年CO2排出ゼロ目標’で地球温暖化が加速?-自己矛盾の問題

2021年01月29日 12時29分22秒 | 国際政治

 カーボンニュートラルへのグローバルな圧力が全世界の諸国に迫る中、バイデン政権の登場により、最後の砦でもあったアメリカも今や陥落しつつあります。同大統領は、就任早々にパリ協定への復帰に関する大統領令に署名したとも報じられており、2060年に目標年を設定した中国を含め、少なくとも主要な産業国はカーボンニュートラルで足並みを揃えることとなったのです。しかしながら、このドミノ倒しのようなカーボンニュートラル化には、重大な自己矛盾が認められるように思えます。

 

 その矛盾とは、全世界の諸国が一斉に再生エネや原子力発電への転換に走った場合、逆に、二酸化炭素の排出量が増加してしまうという問題です。地球温暖化問題の解決策として温暖化ガスの排出規制が叫ばれるようになった際に、その背景として指摘されてきたのが、‘産業潰し’というものです。地球温暖化問題は、人類が政治的な対立関係を越えて協力し合える数少ない平和的な課題というイメージがありますが、その実、国際会議の舞台裏では、自国の産業を護るための熾烈な国家間の闘いが繰り広げられておりました。何故ならば、温暖化ガスの削減は、即、生産力の削減を意味したからです。

 

地球温暖化の‘大義’にヒロイックに殉じる、あるいは、外圧に負けて迂闊に削減を受け入れてしまいますと、自国の経済力は削がれてしまいます。それ故に、各国とも、他国には高い削減率を要求する一方で、自国に対しては低い削減率に留めることに躍起となり、遂に、トランプ政権下のアメリカのように国際的枠組みそのものからの離脱を選択する国も現れたのです。しかも、二酸化炭素犯人説は科学的に証明されているわけでもありませんので、地球環境問題とは、‘きれい事’では済まされない、極めて政治的できな臭い側面があるのです。

 

 国際的な合意によって決定された二酸化炭素の排出枠、即ち、国家ごとの生産量をも決めてしまう手法は、配分型の経済を特徴とする社会・共産主義の統制経済に類似しており、同分野においてリベラル勢力が主導権を握ってきた理由も、その近似性にあるのでしょう。そして、地球環境問題もまた、その政治性において‘ポリティカルコレクトネス’の色彩をも帯びているのです。

 

 ところが、今般、日本国の菅政権をはじめ、各国や地域とも、‘逆転の発想’と言わんばかりにカーボンニュートラルは経済成長のチャンスとする立場を表明しています。これまで二酸化炭素削減は生産量の削減やコスト増を意味しますのでマイナス影響が強く懸念されていたのですが、どの政府も、マイナスイメージの払拭、あるいは、産業界や国民からの反発や抵抗の回避を狙ってか、カーボンニュートラルを、デジタル化と並んで新な成長戦略の一環として位置づけたのです。経済成長と結びつけた点においても、全ての諸国の政府が足並みを揃えています。

 

 カーボンニュートラルの目標は、先進国のみならず、新興国や後進国にも押し付けられるでしょうから、仮に、全ての諸国が、今後30年から40年という短い期間でエネルギー源の大転換を図るとすれば、この間、全世界において、太陽光発電所、風力発電所、原子力発電所など、膨大な数の発電所をキューピッチで建設する必要が生じます(たとえ火力発電の使用が継続されても、二酸化炭素を排出するタイプは建て替えや除去装置等の設置が必要…)。自動車のEV化をはじめとしたオール電化やデジタル化が同時進行するとしますと、必要発電所数はさらに増加することでしょう。加えて、同プロセスにあっては、電化やデジタル化によって旧式の機器は使用できなくなりますので、‘電化製品’あるいは‘デジタル製品’の大量生産も予測されます。つまり、ここに、二酸化炭素排出量の削減を進めた結果、逆に、同ガスの排出量を増やしてしまうという自己矛盾が見出せるのです。

 

 そもそも、排出規制を誠実に順守しながら、同生産に応える能力を有する国は存在しているのでしょうか。生産国として有利となるのは、クリーンで安価な電力を安定的に大量に供給し得る国となるのですが、中国でさえ今冬に大規模停電を起こしていますので、カーボンニュートラルの時代に‘世界の工場’を維持し得るかどうかは定かではありません。もっとも、同国の2060年目標の設定は表向きに過ぎず、二酸化炭素の排出量規制を実施しなければ、同国は、生産拠点として高い国際競争力を得ることとなりましょう。現状にあってさえ、太陽光パネルや風力発電機などの再生エネ関連の企業は中国生産が大半を占めていますので、カーボンニュートラルの流れは、中国の‘一人勝ち’を帰結するかもしれないのです。

 

 何れにしましても、2050年、あるいは、2060年までの間にカーボンニュートラル関連の生産が集中しますので、むしろ、同期間の間に二酸化炭素の排出量が急増することも予測されます。百歩譲って二酸化炭素犯人説が科学的にも正しいならば、この期間に地球は激しい気温上昇と気候変動に見舞われるかもしれないのです。地球を救おうとした結果、地球が破滅するという皮肉な結果にもなりかもしれません。同問題については急いではならず、科学的議論も含め、より慎重であるべきではないかと思うのです。


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サバイバル戦略としてのワクチン非接種という選択

2021年01月28日 12時22分06秒 | 国際政治

メディアの報道によりますと、アメリカやヨーロッパ諸国ではワクチン争奪戦の最中にあるそうです。新型コロナウィルス感染症を罹患する恐怖から逃れるべく、多くの人々がワクチン接種に殺到したために供給不足が生じ、政府も対応に追われているとされます。実際に、アメリカもEUもワクチンの輸出に規制を設ける方針を示しています。‘ワクチンナ・ショナリズム’とも称されていますが、国民並びに市民全員の接種を目指す方法は、果たして、賢明なのでしょうか。

 

 実のところ、アメリカでは相当数のワクチン懐疑派や忌避派がおりますし、ヨーロッパでも、とりわけフランスにおいてこれらの率が高いそうです。ですから、個人の自由な判断に任せれば‘全員接種’とはならないのでしょうが、それでも、各国政府が揃ってワクチン接種を推進する姿には首を傾げてしまいます。その理由は、本ブログでも再三指摘いたしましたように、今般の新型コロナウィルスワクチンは、先端的な遺伝子工学が用いられているからこそ、潜在的リスクの高さも否定できないからです。

 

 アメリカのファイザー社やモデルナ社の製品は、m-RNAワクチンであり、今般、日本国内で9000万回分の製造が報じられているイギリスのアストラゼネカ社の製品も、ウィルスにm-RNAを運ばせるウィルス・ベクターワクチンです。こうした遺伝子ワクチンは、遺伝子操作による病原体ウィルスのm-RANの人工的な作成により、体内の細胞内において抗原ペプチドの産生が可能となるため、従来のタイプのワクチンよりも、迅速、かつ、大量に生産できますし、将来的にはあらゆる有害ウィルスに対応し得る可能性をも秘めています(なお、同タイプのワクチンに万能性があるならば、HIVやSARS、さらには風邪といった他の感染症にも応用できるはず…)。今般の新型コロナウィルスのようなパンデミックに対しては高い対応能力を有していますので、遺伝子ワクチンに期待する声が高いのも理解に難くはありません。

 

高い有効性が期待される一方で、前2社における接種後のm-RNAの解体プロセスは秘密事項ですし、後者に至っては、半永久的にm-RNAが消滅することなく体内に留まるとする指摘も見受けられます(抗体の持続期間と関連?)。また、今日、免疫学が目覚ましい発展を遂げているとはいえ、人体の免疫システムについてはまだまだ多くの謎が残されているそうです(制御性T細胞等にも影響?)。現在の知識や知見の範囲を超えた未発見の‘何か’が作用している可能性もあり、今般の遺伝子ワクチンの安全性については、明確に‘絶対に安全’と言い切れる人は、これらの製薬会社の開発者でさえ少ないのではないでしょうか。

 

日本国民の多くも、ワクチン接種については、アレルギーによるアナフィラキシーショックの発生、並びに、局所的な腫れ、痛み、倦怠感といった従来型のワクチンにも見られる一般的な副反応ではなく、先端的なワクチンである故の、長期的な身体への影響なのではないでしょうか。この点を鑑みますと、先行して接種した諸国や地域の事例は参考にはならず、長期的なリスクはリスクのままで残ってしまうのです。

 

以上に遺伝子ワクチンの問題について述べてきましたが、仮に、これらの新型ワクチンに長期的な副反応があり、しかも、それが相当程度に高いレベルである場合には、全国民への接種は、最悪の場合、‘国民全滅’を意味しかねなません。人類を恐怖のどん底に突き落としたペスト禍にあって人類が生き残ったのは、抗ペスト菌作用を持つ遺伝子を有する人々が存在していたからなそうです。新型コロナウィルスにあっても抗コロナ体質の人もおり、全員が発病するわけではなく、自然免疫の段階でウィルスを撃退してしまうケースもありましょう。しかしながら、全員がワクチンを接種しますと、その全ての人が致命的な副反応のリスクを負うことになりますので、ペスト禍で観察されたサバイバルのチャンスさえ失われてしまうのです。‘ワクチン警察’が登場すれば、非接種者は‘非国民’扱いされてしまうのでしょうが、今般のワクチンには‘国民全滅’のリスクもありますので、逆に‘ワクチン警察’の方が‘国家滅亡’への加担者として批判される可能性もないわけではないのです(‘偽旗’かもしれない…)。

 

こうした点を考慮しますと、政府も国民も、サバイバル戦略として新型コロナワクチンを敢えて打たない、という選択があって然るべきように思えます。現状では、全てを‘安全’の方に賭けてしまっており、仮に将来にあって‘リスク’の方が現実化した場合には、全てを失うという悲惨な状況に至ります。リスクが認められる以上、それは分散すべきであり、国民全員のワクチン接種に奔走するよりも、政府も国民も、ここは将来を見据えた冷静なリスク管理に努めるべきではないかと思うのです。


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‘ワクチン差別’システムの行方

2021年01月27日 11時49分52秒 | 日本政治

 日本国政府、あるいは、その指南役は、国民がワクチン接種を忌避する事態に備え、接種キャンペーンに続く二の矢として、‘ワクチン差別’という手法を検討している節があります。他者に対して自らの意思を押し付けようとする時、得てして、‘脅し’という手段が採られるものです。今般のワクチン接種のケースでは、ワクチン接種を拒んだ国民を対象として、移動や各種サービスの利用に制限を設けることで、ワクチン接種の方向に誘導しようとしているようです。

 

 ワクチンの接種証明が実質的に‘免疫パスポート’として機能するとなりますと、それは、‘デジタル・ディストピア’の到来を意味することは本ブログにおいても既に指摘しております。接種記録はスマートフォン等を介してチェックされ、ワクチン接種のデータ記録を持たない人は、海外渡航はおろか、自由に国内を旅行することも叶わず、商店、飲食店、並びに、各種サービス店への入店も断られてしまいます。職場への出勤も止められ、一切の外出もできないともなれば、普段通りの社会生活も日常生活も望むべくもありません。非ワクチン接種者は、表に出ることができない‘影’の存在に貶められてしまいましょう。

 

‘免疫パスポート’のシステムには、個々の自由に対する強い制約が課せられますので、この手法は、非接種者に対して‘自由か、ワクチン拒否か’の二者択一を迫ることを意味します。もっとも、新型コロナウィルス・ワクチンは、何れのタイプでも安全性は保障されてはいませんので、ワクチンに懐疑的な人々にとりましては、この選択は、無意味な選択となりましょう。自由を選んでも真に自由になるわけではなく(接種者となったとしても全員が、常に監視・管理されている…)、ワクチンを打てば、以後、死に怯えながら生きることになりますので、選択者にとりましては、‘どちらがより悪くないか’の問題でしかないのです。

 

それでは、この計画、発案者の思惑通りとなるのでしょうか。幾つかの障壁を前にして、同計画は、挫折するかもしれません。第一の障壁は、政府のダブル・スタンダードに対する批判です。非接種者は、政府容認の‘ワクチン差別’に直面することとなるのですが、考えても見ますと、この差別、民間にあって見られたコロナ罹患者等に対する‘差別’に対する態度と真逆です。政府もメディアも‘コロナ差別’に対しては声高にこれを糾弾し、それをなくすよう訴えてきました。一方、‘ワクチン差別’の対象者は、他者に感染させるリスクの殆どない人々に対するものである上に、疫学的に隔離する必要性もない健康な人々です。それにも拘わらず、ワクチンを接種しないという理由のみで、政府は、公的な差別をむしろ積極的に進めようとしているのですから、こうした差別容認は、国民に対する過剰な自由の制限として、憲法違反を問われる可能性さえありましょう(立法による義務化は困難では…)。

 

 第2の障壁は、非接種者が多数に上るケースにおいて発生します。ワクチン接種を以って移動や利用の条件としますと、非接種者が人口の大半を占める場合には、事業者は、顧客や利用者の大半を失うことになるからです。つまり、‘ワクチン非接種者お断り’の張り紙を入り口に貼りますと、入店できる人は少数に限られてしまうのです。接触を伴うサービス業の市場が大幅に縮小することになりますし、事業者は、減益を覚悟しなければならなくなります。このため、たとえ政府が容認する、あるいは、民間事業者に同システムの導入を要請したとしても、読み取り機などの購入コストも経営を圧迫しますので、同要請に応じる民間事業者は限られてしまうことでしょう。

 

第3に挙げられる点は、同システムの導入が、日本国の分断を招いてしまうリスクです。非接種者は、非接種者も受け入れる事業者を利用することとなりますので、接種者と非接種者とでは‘住む世界’が違ってしまう可能性があるのです。日本国内はパラレルワールド化し、接種者であれ、非接種者であれ、国民はどこか、気の重い状況に置かれることとなりましょう。

 

そして、第4の障壁は、ワクチン効果の持続性です。政府は、ワクチンの普及により、事実上の集団免疫が成立することを期待しているのでしょうが、ワクチン効果の持続期間によっては、半年ごとに大規模なワクチン接種事業を実施しなければならなくなります(医療機器の大手メーカーは欧米企業で占められているものの、中国に製造拠点を移している企業も少なくない…)。集団免疫状態は短期間しか持続せず、接種者も数か月も経過すれば非接種者に戻りますので、両者の境界線が曖昧となる可能性もありましょう。ワクチン効力が短いほど、非接種者の数も増加することが予測されるのです。

 

以上に4点ほど予測される主な障壁を挙げてみましたが、自由を制限することで国民をワクチン接種に追い込む手法は、同手法に納得しない国民からむしろ反感を買ってしまうのではないでしょうか。恐怖政治を想起させる手法が通用した時代は、既に過ぎ去っているのではないかと思うのです。


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国民にもワクチン接種を拒む合理的な理由がある

2021年01月26日 12時34分45秒 | 日本政治

 日本国政府が全国民の新型コロナウィルス・ワクチンの接種に前のめりになる一方で、国民の多くは同ワクチンに対して懐疑的です。本来であれば、同ワクチンはコロナ禍に苦しむ国民の‘救世主’となるはずなのですが、歓迎一色とは程遠いようです。

 

 その第一の理由は、医科学的な見地からの不安です。今般、日本国民に接種されるのは、アメリカのファイザー、並びに、モデルナ社が開発・製造したmRANワクチンであり、過去にあって実用化に失敗してきた新しいタイプのものです。つまり、十分な治験を経ていないのですから、両製薬会社でさえ、1年後や10年後、あるいは、50年後といった長期的な副反応については知る由もありません。今般、全世界で相次いで報告されている変異株の存在も不安材料の一つです。これらの製薬会社が薬害発生時の免責を供給先政府に求めたのも、新型のワクチンが、既存のワクチンレベルの安全性を満たしていないリスクを認識していたからなのでしょう。

 

こうした基本情報は、デマでもフェイクニュースでもなく、既に国民の間で広く共有されています。そもそも、発生から1年足らずで開発されたワクチンですので、誰もが、‘人体実験’に供されているような感覚を覚えるのは当たり前のことです。しかも、凡そ生涯にわたって効力を維持するワクチンもあり、全てではないにせよ、ワクチンには、一度の接種が後戻りのできない影響を人体に与えるという、それ特有の不可逆性のリスクもあります。健康や生命にも関わるともなれば、国民は、余計に慎重にならざるを得ません。たとえ、ウィルスや免疫システムのメカニズムを含め、政府が詳細、かつ、科学的な説明に努めても(そもそも、新型コロナウィルス自体が未知のウィルス…)、逆に疑問点が増えてしまい、国民の懐疑心が一層深まってしまうかもしれないのです。

 

因みに、本日の産経新聞の朝刊一面には、ワクチン接種に関する世論調査の結果が報じられていました。同調査の結果によれば、69.2%がワクチンを‘接種する’と回答したそうです。オープン型の世論調査やネット上のコメント等では、接種消極派が圧倒的多数でしたので意外な印象を受けたのですが、‘接種する’の回答には、‘安全性が確認された場合’という、他の世論調査で設けられていた条件別の選択項目がありませんので、この高い数字は、接種に向けた同調圧力を醸し出すための印象操作なのかもしれません。‘安全性が確認されたら接種する’、並びに、‘接種しない’を合計すると、およそ7割となりますので、他の世論調査の結果とも一致します(因みに、「すぐに摂取する」と回答した人は、20%にも満たない)。

 

そして、第二の理由は、政治的なものです。新型コロナウィルスのパンデミック化を前にした段階で、日本国政府は、ワクチン普及の功績によりマイクロソフト社の共同創設者であるビル・ゲイツ氏に旭日大綬章を贈ることを決定しています。この叙勲、少なくとも、同氏が日本国内のワクチン普及に貢献したわけではありませんので、国民に奇異な印象を与えたものです。同氏はビル・アンド・メリンダ財団を創設し、各国の製薬会社に積極的に投資を行っていることから、ワクチン事業は、途上国支援や福祉目的というよりも、ビジネスの一環なのでしょう。しかも、ここ数年、ネット上では、‘同氏は全人類の人口削減計画を目論んでいる’、あるいは、‘全人類の管理のために、ワクチンにマイクロチップを混入している’とする陰謀説も拡散されてきました。

 

これらの説の真偽は判断できないのですが、菅首相が同氏との会見直後から、ワクチン接種に向けてのプロジェクトが急速に動き出した点を考慮しますと、同氏、あるいは、投資先企業のワクチン・ビジネスへの利益誘導も自ずと疑われてしまいます。また、デジタルとワクチンを結び付けた同氏のアイディアに倣って、日本国政府も、ワクチンをマイナンバー制度とシステマティックに一体化することで、国民監視体制(‘デジタル・ディストピア’)の構築のチャンスにしようとしているとする疑いも湧いてきます。このように推測するのも、新型コロナウィルス・ワクチンに限って、政府が一元的に国民の接種状況を管理しなければならないのか、その合理的な理由が見当たらないからです。

 

以上に2点ほど主たる理由を挙げてみましたが、現状では、政府やメディアが声高に安全性を強調しても、国民の多くは二の足を踏んでしまうことでしょう。国民の側にも、ワクチン接種を拒む合理的、かつ、正当な根拠がありますし、自己の生命や身体に関する決定権もあるからです。‘先に接種した人の状況を見てから’、あるいは、監視体制の強化を含め、‘諸外国の成り行きを確認してから’とする、‘様子見’の人、あるいは、積極的に拒絶する人が大半を占めることとなりましょう(相当、長期間にわたって‘様子見’となることも…)。政府としては非協力的な国民に苛立つことでしょうが、国民を責めたり、‘愚民’扱いするのではなく、先ずは、国民のワクチン不信を招いた責任は自らにあることを自覚すべきですし、国民の賛同が得られない以上、諦めも肝心なのではないかと思うのです。


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尖閣諸島と‘2050年CO2ゼロ目標’

2021年01月25日 11時39分12秒 | 国際政治

 中国による尖閣諸島に対する領有権の主張は、国連により、同諸島近辺の海域における石油や天然ガス埋蔵の可能性が報告されたことに始まります。同国の目的が資源目当てであったことは、日中国交正常化の交渉過程における周恩来氏の発言で確認できるのですが、埋蔵が指摘されている天然資源が石油や天然ガスといった化石燃料の原料である点を考慮しますと、今般、菅首相が表明した2050年までに二酸化炭素の排出量を実質ゼロにするとする目標は、尖閣諸島問題にも影響を及ぼす可能性を秘めています。

 

 二酸化炭素の排出量をゼロとする目標につきましては、習近平国家主席もまた、その達成年を2060年に設定しています。菅政権よりも10年ほど先とはなるものの、かの中国も、カーボン・ニュートラルを国家目標としているのです。アメリカを除き、地球温暖化防止を建前として、ヨーロッパ諸国並びに日中韓もカーボン・ニュートラルで足並みを揃えている、あるいは、グローバリズムを推進してきた超国家権力体からの圧力によって‘揃えさせられて’いるのが、今日の国際社会の現状です。しかしながら、各国とも、実際に‘ゼロ’を達成するかどうかは、怪しいところです。パリ協定に先立つ京都議定書にあっても、合意事項を律義に順守したのは、日本国ぐらいであったと言います。罰則規定があるわけではありませんので、リップ・サービス、あるいは、ポーズであっても構わないのです。

 

 それでは、中国は、本気で2060年までにカーボン・ニュートラルを実現するつもりなのでしょうか。この問いに関しましては、否定的な見方が大半を占めるのでないかと思います。そもそも、中国が国際公約を誠実に遵守した事例は乏しく、同国の‘口約束’は反故にされるケースが後を絶ちません。それ程、中国の約束は当てにはならず、カーボン・ニュートラルの実現を口にするのは、それが中国共産党並びに超国家権力体の利益に叶っているからなのでしょう。国際的に再生エネが主流となれば、他国への再生エネ機材や施設の輸出、並びに、中国系エネルギー企業の他国市場への進出促進できますし、自由主義国の企業は、環境アクティビストの圧力やESG投資等の流れにより、石油開発から手を引きつつあります。つまり、中国にとりましては、エネルギー分野にあって世界覇者となるチャンスの拡大を意味しますし、グローバル金融にとりましても融資のチャンスが広がります。

 

また、現実問題としては、今冬、北京をはじめ中国では大規模停電が発生しており、その原因として、オーストラリアによる石炭の禁輸措置、並びに、三峡ダムといったダムの水力発電能力の低下が挙げられていました。これが事実であれば、自国自身も石炭産出国ではあるもののエネルギー自給率が低下傾向にあり、国内のエネルギー需要を満たすことができない現状を示しています。この点を考慮すれば、中国が‘世界の工場’を維持し、かつ、急速に電化が進む14億人の国民生活を支えるための全エネルギーを(人口規模が大きな分、消費エネルギーも莫大…)、2060年までに全て再生エネ、原子力、並びに、水素エネルギーに置き換えることができるとは思えません。中国のゼロ目標達成は、日本国以上に困難なはずなのです。

 

 そして、尖閣諸島問題を見ましても、中国は、自国の利益のためのカーボン・ニュートラルの問題を利用・悪用しようと考えているのかもしれません。今般、日本国政府は、尖閣諸島に対する日米同盟の適用をアメリカと再確認しましたが、鉱物資源の価値が‘ゼロ’となれば、日本国政府は、同諸島の領有権に対して執着しなくなると読んでいるかもしれないからです。あるいは、親中派の意向を受けた日本国政府が、海警法を制定した中国が尖閣諸島を侵略した場合、カーボン・ニュートラルの方針を国民に対する言い訳にしてこれを許す可能性も否定はできなくなります。なお、東シナ海の天然ガスにつきましては、最近、報道が途絶えていますが、日本国政府は、中間線付近における中国の採掘事業を黙認することで、同海域に埋蔵されている天然ガス資源を中国に譲ってしまったのでしょうか。

 

 その一方で、こうした中国の自己中心的な立場からのシナリオは、逆の立場から見ますと、カーボン・ニュートラルに対する中国の真の方針を見極める判断材料とはなりましょう。上述したように、中国の尖閣諸島に対する領有権主張の目的は、天然資源の簒奪あります。仮に、2060年までに石油や天然ガスを不要とする脱炭素社会を実現するならば、中国こそ、尖閣諸島に対してその領有を主張する動機を失うからです(にも拘わらす尖閣諸島への執着を深めている点は、中国政府は、カーボン・ニュートラルを進めるつもりは毛頭なく、むしろ、逆走している可能性を示唆しているのでは)。

 

尖閣諸島問題は、エネルギー資源に端を発していますので、今般のカーボン・ニュートラルの流れとは無縁ではありません。日本国政府は、カーボン・ニュートラルの呪文に惑わされることなく、この美名に隠された真の意図こそ見抜くべきではないかと思うのです。


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警戒すべき強制と同調圧力―ワクチン接種問題

2021年01月24日 13時01分32秒 | 日本政治

マスメディアでは、支持率の低下が止まらない菅政権の起死回生のチャンスとして、国民へのワクチン接種を掻き立てています。あたかも、政府と国民の総力を挙げた‘国家プロジェクト’の如くに扱っているのですが、日本国政府と一般の国民との間には大きな温度差があるように思えます。

 

 その理由は、国民の中には新型コロナウイルス・ワクチンに対して懐疑的な見方が大半を占めているからです。仮に、国民全員が接種すべきとされるワクチンが、天然痘ワクチンやBCGなど、十分な治験と長期の使用によって安全性が既に証明されているワクチンであれば、多くの国民は政府の要請に然したる疑問もなく応じたことでしょう。しかしながら、今般の新型コロナウイルス・ワクチンは、パンデミックから1年足らずで開発され、しかも、新型コロナウィルスの特性さえ十分には解明されていない状況にあります。また、アメリカのファイザー製であれ、モデルナ製であれ、mRNAのワクチンは動物実験も経ずして緊急使用が許可されたものです。

 

ヒトの体内へのmRNAの移入⇒マクロファージ(樹状細胞?)による取り込み⇒mRNAの翻訳による抗原(スパイク部分のペプチド)の産生⇒ヘルパーT細胞の活性化⇒キラーT細胞の活性化(新型コロナウィルス撃退)・B細胞の活性化(抗体の産生)、とする一連のメカニズムには、一見、リスクはなさそうに見えます。しかしながら、mRNAワクチンの安全性については未知な部分があり、ウィキペディアによれば、2020年以前にあっては、他の疾患の治療や感染症予防のためにバイオテック企業等によって開発されたものの、同方式のワクチンは副反応が強すぎて実用化が難しく、半ば放棄された状態にあったそうです。

 

上記のメカニズムが説明通りに働けば、過去の試みが失敗した理由が説明できませんし、また、抗原を産生した後のmRNAがどのように細胞内で解体されるかも企業秘密として公表されていないそうです。mRNA が体内に残ってしまったり、mRNAが獲得免疫系に作用する前に自然免疫の段階で破壊されたり、マクロファージ以外の細胞に取り込まれるといった場合、どのような事態が起きるのでしょうか(素人の疑問なので、的外れかもしれません…)。同ワクチンは、今般出現した変異株にも効果があるとされていますが、今後出現する全ての変異に有効とも限りません。免疫が強化されますと、感染時に重症化する抗体依存性感染増強のリスクも高まりましょう。

 

中国製のワクチンに至っては弱毒化ワクチンとのことですので(恐ろしいことに、逆算すると、中国は、2019年8月から既に同ワクチンを開発していたことになるらしい…)、新型コロナウィルスが、後年に帯状疱疹を引き起こすような種類のウィルスである場合には、後年にあって新型コロナウィルスを発病したり、免疫系に異常をきたすリスクもありましょう(新型コロナウィルスは、Ⅰ型インターフェロンの生成を阻害するらしい…)。菅政権が親中政権である点を考慮しますと、中国からの輸入に踏み切るかもしれず、国民の不安は募るばかりです。

 

 加えて、同ワクチンは超低温で保管しなければmRNAは破壊されとされ、接種段階にあって効果が失われるリスクもありますし、何よりも、仮に5か月程度で抗体が消滅するとしますと、全国民は、5か月ごとにワクチンを接種しなければならなくなります。たとえ政府が副反応に備えた専門機関を設けたとしても、家畜のようにワクチン接種を待つ列に並ばされる国民にとりましては、これは、苦痛以外の何ものでもなくなりましょう。

 

 このような現状にあって、国民の多くが不安を抱くのは当然のことです。デマやフェイクニュースに惑わされた結果ではなく、自ら調べ、知識や情報量を得るほどに懐疑的にならざるを得ないのです。少なくとも、10年後や20年後、そしてその後の副反応については、同ワクチンの製薬会社さえも知り得ないのですから。かくして、国民の大半は、ワクチン接種を選択しない可能性が高いのですが、この空気を察してか、政府は、法改正によるワクチン接種の義務化に動く、あるいは、国民を接種に追い込もうとする気配が感じられます。先日、本ブログにあって‘デジタル・ディストピア’として指摘しましたように、ワクチン接種を移動や各種サービスの利用条件とすることは大いに予測されましょう。

 

おそらく、マスメディアや宗教団体や政治団体等の各種民間団体を動員して同調圧力をかけてくるのでしょうが(ワクチン警察?)、国民は、同調圧力には同調しないように心して構えるべきように思えます。そして政府がワクチン接種に血眼になればなるほど、期待どころか国民の猜疑心も深まる現状は、払拭し難い政治不信の現われでもあると思うのです。


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バイデン政権は日本国の対米不信を理解すべき

2021年01月23日 12時25分56秒 | アメリカ

アメリカでは一先ずはバイデン政権が発足し、日本国を含め、全世界の諸国の人々がとりわけ対中政策の行方に関心を寄せています。トランプ政権における対外戦略の成果の一つが、オバマ民主党政権下にあって軍事大国に伸し上がった中国の封じ込めであったため、同政策が引き継がれるのか否か、誰もが無関心ではいられないのです。今後のバイデン大統領の対中政策については、凡そ、2つのシナリオが想定されるかもしれません。

 

第1のシナリオは、深刻な分断が指摘されているとはいえ、反中においては結束しているとされる上下両院、並びに、アメリカ国民の世論に応え、トランプ路線を引き継ぐというものです。仮にバイデン大統領がその就任式で高らかに‘民主主義の勝利’を宣言したように、同政権が、アメリカ国民の世論を最大限に尊重し、これを最優先に政策決定を行うとするならば、前政権の対中強硬路線は継続されることとなりましょう。

 

第2のシナリオとは、就任直後にパリ協定への復帰に転じたように、反中政策から親中政策へと180度、舵を切り替えるというものです。バイデン大統領は、中国を増長させたオバマ政権下にあって副大統領を務めています。また、今般、民主党陣営を応援した金融やIT大手、並びに、米グローバル企業の多くは、中国に多額の金融利権を有したり、中国に製造拠点や開発拠点を設けるなど、半ば、中国と‘利益共同体’を形成する、あるいは、取り込まれている企業も少なくありません。フェースブックのザッカーバーグ氏のように個人的な血縁関係や交友関係にあって中国との間にコネクションを有する企業のCEOもおります。これらはアメリカの枠を超えた‘超国家権力体’のメンバーでもあるのでしょうが、バイデン政権が、国民よりも同権力体や一部企業の利益を優先するならば、バイデン政権は、アメリカ経済が衰退しようとも、中国との協調路線を選択することでしょう。

 

しかも、同職あって、同大統領は、訪中時に子息のハンター氏を同伴し、巨額の中国利権を獲得するチャンスを与えており(しかも、同氏が関わった中国企業は顔認証システムの提供によりウイグル人のジェノサイドにも関与…)、今なおもチャイナ・スキャンダルの渦中にもあります。事実である以上、否定のしようもない汚職疑惑なのですが、同大統領側が正当な報酬であったと主張したとしても、おそらく、中国側は、同大統領を脅迫する材料として同スキャンダルを利用することでしょう。

 

以上に二つのシナリオを挙げてみましたが、バイデン政権は、第2のシナリオを選択する可能性の方が高いように思われます。チャイナ・スキャンダルが示すように、同大統領が高い政治倫理を自らに課しているとは考え難く、マネーの力や暴力に対して人一倍弱いことは明白であるからです。しかしながら、‘民主主義の勝利’を打ち出し、‘中間層の擁護’に言及した手前、あからさまに第2のシナリオを遂行することは憚られることでしょう。そこで、同政権は、おそらく、アメリカ国民や全人類を騙そうとするのではないかと推測されるのです。その際のシナリオも、およそ二つ考えられます。

 

第1のシナリオは、中国がお得意とするサラミ作戦と同様に、国民に気付かれないように漸次的、かつ、目立たぬように反中路線を切り崩してゆくというものです。この目的のためには、国際機関を利用し、アメリカの対中強硬策を撤回させようとするかもしれません。アメリカのWHOへの復帰は、ワクチンを含む中国製の医薬品の国際的な販路拡大を援けるためかもしれませんし、WTOに対しましても、中国の主張を認め、現行の対中制裁関税をルール違反と認定するよう圧力をかけるかもしれません。バイデン政権であれば、自らの路線変更が世論の批判を浴びないよう狡猾に手をまわし、責任を巧妙に他者に転化させないとも限らないのです。

 

そして、第2のシナリオは、上述した第1のシナリオを利用するというものです。トランプ政権に対する評価の一つとして、‘戦争をしない大統領であった’というものがあります。この結果、アメリカの軍需産業が利益を得る機会を失い、軍産複合体とも称されてきた同業界がバイデン政権を支持する理由となったというものです。近年、中国による先端兵器の開発により平時における抑止力としての防衛力強化の必要性も増しているため、同説の説得力は薄いのですが、バイデン政権の対中強硬姿勢、あるいは、米中軍事衝突の裏側で、米中が密かに手を結んでいる可能性も否定はできなくなります。

 

第2のシナリオにおいて最も不利益、否、甚大な被害を受ける可能性が高いのは、実のところ、日本国からも知れません。オバマ政権下にあって‘ジャパン・ハンドラー’の一人とされたジョセフ・ナイ氏は、かつて、米中戦争に日本国を巻き込みながら(もっとも、尖閣諸島が発火点となれば、表向きは、日本国が米国を戦争に巻き込んだ形に…)、その途中で米軍を撤退させ、日本国を中国に明け渡すとする極秘シナリオを練っていたと噂されていました。同噂の真偽のほどは不明ですが、表面的な敵対関係とは裏腹に米中が結滞している場合には、日本国は、再度、国土が焦土と化すのみならず、人民解放軍が進駐してくる事態もあり得るのです。

 

バイデン政権の行方につきましては憶測の域を出ませんが、日本国政府は、政治の表面のみならず裏の裏までを読みませんと、形は違っても第二次世界大戦時の再来となりましょう。そして、バイデン政権も、その発足時の経緯からして同盟国から信頼されていない現状を理解すべきではないかと思うのです。もしかしますと、バイデン大統領がその就任式の演説で修復を訴えた‘同盟関係とは、過去の政権が構築した隠れた’米中同盟‘であったかもしれないのですから。


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どちらが嘘を吐いているのか?-大統領就任演説が提起する大問題

2021年01月22日 12時18分20秒 | アメリカ

 第46代アメリカ大統領の就任式は異例尽くしであったようです。首都ワシントンD.C.には兵士等によって厳重な警備体制が敷かれ、紅潮した面持ちの観衆で埋め尽くされるはずの国会議事堂前の広場には、国旗や各州の州旗のみが並んでいます。恒例のパレードも10分ほどで終えたと報じられており、まるで現実味のないバーチャルな世界の出来事のようです。

 

 今般の大統領就任式がかくも異様な様相を呈した理由としては、新型コロナウイルスの感染拡大の阻止と並んで、直前に発生した国会議事堂占拠事件が挙げられています。トランプ派の過激派による襲撃を恐れたというのですが、こうした異常事態の背景に選挙不正問題があることは否定し得ない事実です。仮に、軍事力を以ってしか鎮圧し得ないほどの大規模な暴動や攻撃を想定しているとすれば、歴史上の一揆や反乱が常々そうあるように、そこには、国民の多くが共感し、支持するような正当、あるいは、合理的な‘怒り’や‘不満’が認められるからです。米民主党が最も恐れたのは、不正選挙に対する一般米国民の‘義憤’であったのでしょう。

 

こうしたアメリカ国内の空気を読んでか、バイデン大統領は、大統領就任演説では、「真実(truth)もあれば、嘘(lies)もある。権力と利益のために嘘がつかれた」と述べています。さすがに自分自身を糾弾しているとは思えませんので、おそらく、トランプ前大統領の主張を全て権力維持のための嘘であったと主張したかったのでしょう。そして、この言葉が発せられた以上、アメリカ国民は、一つの難題を抱え込むことになりました。それは、トランプ前大統領とバイデン大統領のうち、‘嘘吐きはどちらか?’という大問題です。両者ともに大統領としてアメリカ史にその名が刻まれますので、どちらが嘘つきであってもアメリカ国民にとりましては不名誉この上ないのですが(もちろん、歴代大統領の中にも嘘吐きは存在してはいましたが…)、これ程はっきりと現職と前任者との間で二者択一の問題として示されたのは、前代未聞のことかもしれません。

 

そして上述した言葉の後に、‘我々は、真実(truth)を護り、嘘(lies)を打ち破る義務と責任を負っている’とも語られています。ここで言う‘我々’とは、同部文の中には‘指導者として(as leaders)’という言葉も見えることから、バイデン政権を支える民主党、並びに、その配下にあるマスメディア等のリベラル勢力全体を意味しているのでしょう。同政権が、自らの責任としてトランプ陣営の主張がフェイクであることを証明する決意表明にも聞こえ、この方針通りにバイデン大統領が行動すれば、米国民は、‘どちらが嘘つきか’の問題は新政権の下で厳正に事実関係が検証され、解決されるとする期待を抱くこともできそうです。

 

 しかしながら、バイデン政権下における同問題の解決が期待薄であることは、誰もが感じるところです。容疑者・被告人が裁判官を兼ねるようなものですし、政権発足後に独立的な調査権を付与された中立・公平な機関が設置され、徹底した調査がなされたとしても、その結果、同政権を‘嘘吐き’であったことが判明すれば、その時点で、バイデン大統領、並びに、議員を含め、不正選挙に加担した全ての民主党系の公務員は、通常の裁判であれ、弾劾裁判であれ、職を追われることとなるからです。つまり、バイデン大統領は、就任演説にあって自らに課した義務を果たそうとはしないかもしれないのです。

 

 しかも、さらに疑わしいのは、同演説では、真実(truth)という言葉が選ばれており、決して事実(facts)ではない点です。真実(truth)と事実(facts)は同義語のように思われながら、いささかニュアンスが異なっており、昨今、前者には主観性を帯びる傾向があります。そして、かのオーウェルの問題作『1984年』にあって、虚偽情報の発信源となり、また、事実の改竄を任務とする省庁の名称が‘真理省(ministry of truth)’であったことを思い起こしますと、戦慄さえ覚えます。もしかますと、バイデン大統領は、今日の中国や『1984年』の世界のように、自らを‘真実(truth)’の絶対的な決定者とし、強権を以って実際に起きた出来事としての‘事実(facts)’を抹殺してしまうかもしれないのですから。

 

 ‘どちらが嘘つきなのか’という問題は、アメリカ国民にとりましては、全体主義体制への移行の危機を意味するのですから、誰もが無関心ではいられないはずです。この点、退任を前にして弾劾裁判が決定されていたことは、不幸中の幸いであったと言えましょう。トランプ陣営にも、公の場で自らの主張を証明するチャンスが保障されていることを意味するからです。日本国民を含む全人類が知りたいのは、‘真実(truth)’ではなく、‘事実(facts)’なのです。


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バイデン大統領の行方―米上院の弾劾裁判に注目を

2021年01月21日 12時40分46秒 | アメリカ

 2021年1月20日、混乱の内にようやくホワイトの執務室の椅子に座ったバイデン大統領。公式には‘大統領’ではあっても、内心、これを認めたくない国民も多いのではないかと思います。水面下における選挙結果の容認派と否定派との分断とも言える状況を敏感に察してか、同大統領自身も、就任式の演説において‘民主主義の勝利’や‘国民の団結’を訴えています。しかしながら、これらの美辞麗句も、払拭し得ない不正選挙問題がある限り白々しく響くのみなのです。

 

 メディアでは、否定派を過激なトランプ支持者や狂信者のように報じていますが、分断が起きているのは一般国民の間でのことです。これは、バイデン大統領が演説で国民の団結を訴えている点においてむしろ証明しています。否定派の中核を成しているのは、常識や良識を備えたアメリカの中間層なのでしょう。ワシントン・ポストとABCニュースが実施した世論調査によれば、今般の大統領選挙が不正選挙であったとみなすアメリカ国民は3分の1程度と報じられておりますが、一貫してバイデン陣営に有利な報道に終始してきたメディアのことですから、この数字も怪しいものです。

 

 何故ならば、一般的な人としての理性を働かせれば、熱狂的なトランプ支持者ではなくとも、今般の選挙に不正があったことは、認めざるを得ない事実であるからです。実際に、ナヴァロ報告書等が示した証拠や証言のみならず、トランプ陣営から提起された訴訟に対する裁判所の却下理由の中にも、‘選挙結果を覆す程の影響はなかった’として不正行為の事実を認めているものもあります。不正選挙とは、‘勝つ’ために行われるのですから、‘選挙結果に影響がない’ということは、その実行者の状況判断や動機を推測しても、本来、あり得ないはずです。バイデン陣営が実際に国民からの圧倒的な支持を得ていたならば、不正を行う必要は全くなかったはずなのですから。

 

 それにも拘らず、不正問題の真相の究明なくしてバイデン大統領が誕生したのですから、納得しない人が出現するのは当然のことです(しかも、中国や超国家勢力も絡み、安全保障上の問題でもある…)。この状況下で、同氏が‘民主主義の勝利’や‘国民の団結’を訴えたとしても、当の本人がこれらを破壊した張本人なのですから、否定派がその声に素直に耳を傾けるとは思えません。否、選挙結果を認めてしまえば、自らの良心に恥じる行為として自責の念に駆られることになりましょう(悪の容認…)。米民主党は、過激なトランプ支持派の蛮行とし、全責任を負わせることで事態の収拾を図ろうとしていますが、真に恐れるべきは、一般の人々の良心なのではないでしょうか。自己の内面の良心を問うことは、政治的意見の相違、利害対立、そして個人的な好悪の感情を越えたところにあるからです。

 

 バイデン大統領が全国民から正当な大統領として受け入れられるには、トランプ陣営の主張に対して動かぬ証拠を以って反証し、身の潔白を証明する以外には道はありません。トランプ陣営側から提供された情報が全てがフェイクであったことを立証しなければならないのです。この点に鑑みますと、まずもって注目されるのは、今後、上院で開かれる弾劾裁判です。同弾劾裁判にあって何が明らかにされるのか、バイデン大統領の行方も、同裁判における事実の開示にかかってくるのではないかと思うのです。そしてそれは、与野党問わず、全ての米上院議員の良心をも問うこととなるのではないでしょうか。


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日本国も‘デジタル・ディストピア’に?-ワクチン接種をめぐる政府の動き

2021年01月20日 11時08分38秒 | 国際政治

 ワクチンの接種をめぐる政府の動きは、何処となく不審者のように国民の目には映ります。何故ならば、ここ数日、政府は、ワクチン接種に向けて慌ただしい動きを見せており、突如としてワクチン相なるポストまで新設しているのですから。突然の暴走は菅政権の特徴なのですが、その先には、‘デジタル・ディストピア’が待っているようにも思えます。

 

 ジョージ・オーウェルのディストピア小説、『1984年』には、テレスクリーンと呼ばれるテレビ型の監視カメラが主たる国民監視の手段として登場します。その一方で、同小説が執筆された時代よりも遥かにテクノロジーが発達し、個人の個体識別や位置情報までも収集し得る今日のITのレベルは、同小説を遥かに凌ぐディストピアを現実のものとする力を既に十分すぎるぐらいに備えています。‘デジタル・ディストピア’とは、デジタル化が非民主的な支配と不可分に結びつき、高度に発達したIT、あるいは、AIを自らの道具として私的に独占する、隠れた‘権力者’によって全人類が支配される世界であり、一党独裁体制を敷く中国にあっては既にその姿を現わしています。そして、自由主義国もまた、‘デジタル・ディストピア’の脅威に直面していると言えましょう。

 

 新型コロナウイルスのパンデミック化と共に、治療薬や治療方法、そして、ワクチンの開発は緊急を要する課題とされてきましたが、これと同時に人々の関心を集めたのが、‘免疫パスポート’とも称されたワクチン接種履歴の管理システムです。そして、同システムが‘デジタル・ディストピア’への道を開くとして警戒論が提起されたのも、それが、個人管理に留まらず、国民統制の手段として使用されるリスクを秘めていたからに他なりません。同警戒論とは、デジタル記録としてワクチンの接種履歴を持たない人は、金融機関に口座を開設できないどころか、あらゆる商店からも締め出され、社会的に排除されるというのです。

 

 新型コロナウィルス・ワクチンの安全性が100%保障されているならば、‘デジタル・ディストピア論’はかくも警戒されはしなかったかもしれません。しかしながら、医科学的な見地からしても同ワクチンの安全性は保障されておらず、専門家でさえ、ウィルスの出現からわずか1年足らずで実用化されたワクチンの安全性を疑っております。このため、先進国を中心に根強いワクチン懐疑論があり、その接種も任意とされてきました。日本国内にあっても、オープン型の世論調査によれば、安全性が確保されてから、あるいは、そもそもワクチンは接種しないとする人が多数を占めています。全国民が揃ってワクチンの登場を待望しているわけではなく、強制接種など‘もっての他’と考えている国民も少なくないのです。ワクチン接種のイメージとしては、希望者だけが病院に出向いて接種を受ける、毎年のインフルエンザ・ワクチンと同様の光景を思い浮かべていたことでしょう。

 

 ところが、今般の政府方針は、このイメージを一転させています。ワクチン相の強力な指導の下で全国レベルの大規模なワクチン接種プロジェクトを推進しようというのですから(‘プロジェクトX’に喩えているとも…)。新設のワクチン担当相には、行政のデジタル化の旗振り役を任されてきた河野太郎行政改革相が、突破力を評価されて抜擢されたそうですが、同人事には、‘デジタル’と‘ワクチン’との一体化を見出すことができます。また、同人事は親中派として悪名高き二階幹事長のお墨付きとも報じられており、懸念は増すばかりです。

 

さらに国民に恐怖心を抱かせるのが、平井卓也デジタル改革相が公表したマイナンバーとの紐づけ案です(同改革相は中国のファウェイと懇意…)。ワクチンの接種履歴をデジタル・データとしてマイナンバー・カードで読み出せるとすれば、国民は、マイナンバー・カードの携帯を義務付けられ、接種履歴のない人は、民間にあって入店やサービスの利用を拒否されたり、公共交通機関も利用できなくなるかもしれません。まさしく、上述した懸念が現実のものとなるのです。つまり、感染症の拡大措置を口実に、‘デジタル・ディストピア’へと、また一歩近づいてしまうのです。

 

 菅政権が掲げるキャッチフレーズは、「国民のために働く内閣」です。『1984年』に描かれたビッグ・ブラザーが支配する独裁国家オセアニアの政府では、あらゆる物事があべこべでした。過去に遡って行政文書を改竄し、フェイクニュースばかりを垂れ流す官庁は「真実省」と命名されおり、「平和省」は戦争を管掌しています。デジタルは人々の生活を豊かにし、社会全体の効率性を高めるためのテクノロジーとして期待されていますが、それが支配欲に駆られた人、あるいは、組織に悪用されますと、表看板とは真逆の方向に強力に作用してしまいます。日本国政府、否、全世界の政府の多くが‘デジタル・ディストピア’への入り口へと国民を追い込んでいるとしますと(EUでも渡航条件としてコロナワクチン接種証明書の発行が議論されている…)、国民は注意深くと現状を観察し、危険性を感知した場合には拒絶や反対の意思をしっかりと示すべきではないかと思うのです。

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‘ディープ・ステート’は‘ディープ思考’の結果では?

2021年01月19日 12時37分29秒 | 国際政治

 今般のアメリカ大統領選挙にあって、ネット上に頻繁に飛び交った言葉に‘ディープ・ステート’があります。‘ディープ・ステート’とは、政治の表舞台には現れず、陰にあってアメリカののみならず、全世界の諸国を操っている超国家的、かつ、邪悪な権力体とされています。Qアノンと称されている謎の情報発信体によれば、米民主党は‘ディープ・ステート’の配下にあり、トランプ大統領は、アメリカ国民のために同権力体に闘いを挑む‘正義の味方’という構図となります。

 

 ディープ・ステート論は、SNSやネットを介して瞬く間の間にアメリカ国民の間に広がり、日本国内でも拡散されていることから、今や、この言葉を知らないアメリカ国民の方が珍しいかもしれません。そして、かくも急速にディープ・ステート論が多くの人々の間で共有されるようになった理由は、おそらく、同説が現実の現象と合致していたからなのでしょう。つまり、現実に対する高い説明力を有していたからこそ、多くの人々が、この説を信じたのです。

 

その一方で、ディープ・ステートの手先として名指しされた米民主党やメディア等のリベラル勢力は一斉に反発し、この論の火消しに回ります。ディープ・ステート論を信じる人々は、すぐにデマを信じてしまう愚かで騙されやすい人々(‘デュープ’…)であり、同論はまじめに取り上げる価値もない陰謀論であると主張したのです。Qアノンの正体が不明であったこともあり、‘ディープ・ステート論’には、確かに‘怪しい’と見なされる理由はあります。発信源が特定できないのですから。

 

しかしながら、裏舞台にあって歴史を動かしてきた超国家的な組織の存在に関する疑いは、今に始まったことではありません。フリーメイソンやイルミナティ―といった名称を以ってその存在が指摘されておりましたし、イエズス会や東インド会社等も超国家的な権力体として活動してきました。アジア諸国の植民地化のプロセスを観察すれば、陰謀や謀略が支配のための常套手段であったことは一目瞭然です。また、19世紀にはロスチャイルド家がワーテルローの戦いで大儲けをし、20世紀には裏から共産主義を支援してロシア革命を誘導したのも歴史的な事実です。戦争も革命も、その背後には同権力体の影が見えるのです。

 

リベラル派は、戦後、一貫して戦争の責任を国家に負わせ、平和の破壊者としての罪を着せることで国家の存在を否定し、国際秩序としての国民国家体系をも破壊すべき対象と見なしてきました。しかしながら、実際に世界史を動かしてきたのは必ずしも国家のみではありません。呼び方には違いこそあれ、超国家的な権力体は実存しており、リベラル勢力が主張するような幻影ではないのです。

 

このことは、教科書に記載されている歴史と現実の歴史とは違っていることを意味します。そして、歴史の裏側を丹念に調べ、その裏側まで探り、事実に迫ろうとすればするほど、超国家的な権力体に行き着いてしまうのです。むしろ、圧倒的な資金力と金融財閥ネットワークを有する同権力体が自らの利益の最大化を目指す団体であれば、各国の政治に介入しようとするのは当然の行動ともいえましょう。政党や政治家への資金面での支援(与野党両者に…)、メディアやSNSの支配、権威の利用、手段やルートには事欠きません。政府をコントロール下に置き、政府に自らが命じる政策を実施させればよいのです。しかも、より迅速に目的を達成するためには、中央集権的な独裁体制の方が望ましく、国も地方自治体も全てデジタル化されれば、政府並びに国民を含めて全情報を掌握することもできます。

 

リベラル勢力は、ディープ・ステートの存在を信じる人々を愚か者として嘲笑していますが、メディアの発信する情報しか信じず、歴史の表面しか見ようとしない人のほうが余程物事を深く観察しておりません。ディープ・ステートの存在を信じる人々こそ、ディープに思考するする人々であるかもしれないのです。そして、こうした超国家的な権力体の水面下での私的欲望、あるいは、私益追及の活動が、国民から参政権を奪い、民主主義を蔑ろにする行為であることは言うまでもないことです。近年、不正選挙の手段まで手に入れたとしますと、事態は深刻です。そうであるからこそ、ディープ・ステート論を陰謀論で片づけてはならず、人類に対する現実的な脅威として真剣に取り組まなければならない大問題と言えるのではないでしょうか。

 

昨日の菅首相の施政方針演説を聞いてみますと、脱炭素社会の実現、2035年までの全新車EV化、行政機構のデジタル化の推進など、選挙公約にも記載はなく、国民が頼んでもいない政策が並んでいます。不正選挙もあり得るのですから、超国家的な権力体については、その呼称が何であれ、その実態や全世界に張り巡らした組織について詳細に調査すると共に、日本国民も大いに警戒すべきではないかと思うのです。


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メディアやSNSの言論規制が暴力を誘発する矛盾

2021年01月18日 17時06分36秒 | アメリカ

国会議事堂占拠事件を待つまでもなく、メディアやSNS各社は、アメリカ大統領選挙にあって積極的な干渉を行ってきました。メディアは、トランプ大統領に対しては、それがフェイクニュースであってもネガティヴ情報の流布を放置しましたし、自らフェイクニュースを堂々と報じることもあったのです。SNSも負けてはおらず、政治的主張や事実の指摘に対しも書き込みを制限したり、ユーザーに対して警告を付してきました。遂に、ツイッター社は、同大統領のアカウントを永久に停止する措置を採ったのですが、その一方で、バイデン氏に対しては、それがたとえ事実であり、政治生命を失うような重大な不正行為や売国行為であったとしても、メディアもSNSも全力でネガティヴ情報の拡散を妨害し、‘バイデン押し’一辺倒で報じたのです。

 

こうした行為は、誰の目から見てもアンフェアですし、メディアやSNSの存在意義さえ問われる事態です。一体、メディアやSNSとは、何を目的として設立されているのでしょうか。メディアとは、判断材料や事実を知りたい国民一般に対して情報を収集し、それ等を提供するサービス事業者です。そして、SNSとは、一般の人々のコミュニケーション空間にあって意見交換や対話、あるいは、情報の発信ツールを提供するという、これもまたサービス事業者と言えましょう。

 

つまり、メディアもSNSも不特定多数の受け手やユーザーが存在しなければ成立し得ない事業であり、この一般的理解に従えば、メディアもSNSも事実のみを誠実に報じると共に、人々のコミュニケーションや情報発信に対して介入してはならないはずです。しかしながら、現実には、上述したように特定の政治的立場の宣伝機関、あるいは、世論誘導機関でしかなく、本来のサービス事業者としての役割を果たしているとは言い難い状況にあります。その理由は、これらの企業の経営方針には、スポンサーや株主の影響が強く反映されるからです。メディアが仲介者の意味を持つように、これらの企業は、資金力や政治力に優る特定勢力と一般大衆の間にあって、どちらの側にも転びうる立場にあるとも言えましょう。そして、近年、とりわけ前者への傾斜が著しく、特定勢力、すなわち、超国家性を有するリベラル勢力の‘所有物’となっていると言わざるを得ないのです。

 

メディアやSNSが特定の勢力によって私物化されているとしますと、これは、れっきとした陰謀です。そして、言論の自由を損ない、私的検閲にまで及んでいるとしますと、批判を受けても致し方ないと言えましょう。そして、国会議事堂への乱入事件に際し、暴力を煽ったとしてトランプ陣営を糾弾し、これに便乗するかのように米民主党側の不正選挙に関する発言や情報まで消し去ろうとしています。‘バイデン勝利’に対する異議申し立ての声を封殺し、‘なかったこと’にしようとしているのです。

 

 こうした民主党側による言論の抑圧は、暴力の阻止を根拠として行われているのですが、言論を封殺する行為こそ、暴力、否、力による抗議を誘発してきた歴史を忘れているようです。何故ならば、言葉によって権力者を批判したり、不正に対して抗議する道が塞がれてしまいますと、人々は、実力行使に訴えるしかなくなるからです。平和的に国制を改善したり、不正を糺すためには、自由な言論空間を要します。民主主義の発展も言論の自由の保障と軌を一にしており、公的な問題についてオープン、かつ、自由闊達に議論し、悪しきは悪しきとして指摘し得る言論空間こそ、力ではなく理性や知性によって問題を解決してゆくための必要不可欠の条件とも言えましょう。

 

この点に鑑みますと、マスメディアやSNSによる言論規制は、やはり、民主主義を損ねていると言わざるを得ないように思えます。‘ペンは剣よりも強し’とも申しますが、言論の自由を保障してこそ、剣に依らずして善き政治や社会が実現するのですから。


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フランス革命とアメリカ大統領選挙

2021年01月17日 11時10分10秒 | 国際政治

アメリカは、どこに向かおうとしているのでしょうか。今や民主党は、左派の‘革命政権’としての本領を発揮しつつあります。しばしば、今般の国政の混乱は、フランス革命に擬えられる見解が散見されますが、ネット上には、「トランプの忠臣、上院8人衆が断頭台に」というタイトルの記事が目を引きます。選挙人確定作業において異議を唱えた8人の共和党議員が‘吊し上げ’に遭っている現状は、フランス革命時におけるアンシャン・レジーム側の人々に対する‘大量虐殺’を彷彿とさせます。

 

フランス革命において留意すべき点は、革命後にあってフランスに訪れたのは、一般の民衆が‘革命’に託した民主的で自由な国家ではなく、ロベスピエールによる恐怖政治であったことです。同時期にあって、フランスでは粛清の嵐が吹き荒れ、フランスでは多くの無実の人が‘反革命’を理由に投獄され、断頭台の露に消えています。フランスの伝統や慣習は悉く否定され、暦の名称まで革命政権の命令一つで変えられてしまったのです。そして、国民を震え上がらせたロベスピエールの恐怖政治を終わらせたのは、‘民衆の力’でも‘民主主義’ではなく、ナポレオン・ボナパルトによる軍事独裁であったのですから、フランス革命の歴史は矛盾とアイロニーに満ちているのです。

 

フランス革命の経緯を思い起こしますと、歴史は繰り返しているようにも思えます。否、同一のシナリオが現代という時代を舞台として再演されているのかもしれません。もっとも、フランス革命と今般のアメリカ大統領選挙には、違いがあるようにも見えます。‘現代版フランス革命’は、広範な国民の支持がない‘奇妙な革命’であるからです。

 

アメリカ大統領選挙では、不正選挙の問題を別としても、国民の凡そ半数がトランプ大統領に投票しています(民主党側による不正選挙があったのであれば、さらに多くのアメリカ国民が共和党トランプ政権を支持しているはず)。アメリカの分断が指摘されているように、フランス革命時のような‘国民の熱狂と団結’は見られないのです。バイデン氏は、アメリカ史上最高の得票率を以って当選したと報じられていますが、実際には、国民的な人気はなく、米民主党内にあってさえ支持率は低いそうです。むしろ、不正選挙問題のみならず、ハンター氏のチャイナ疑惑もありますので、‘ご祝儀相場’として高支持率など期待できるはずもありません。マスコミは、トランプ大統領の支持率低下を嬉々として報じていますが、バイデン氏に対する支持率の報道は殆ど見られないのも、こうした事情があるからなのでしょう。不正選挙が事実であれば、米民主党こそ‘国民の敵’となりますので、米民主党は、フランス革命のように‘民衆の勝利’を自称することができないのです。

 

両者の間で見られるこうした相違点も、近代史に刻まれた歴史的事件の多くが同一の母体によって仕向けられていたと想定しますと、あるいは、辻褄の合うのかもしれません。今日に至り、フランス革命もまた、超国家組織の主体となる特定の金融・産業財閥グループとその‘鉄砲玉’となる過激派が結託した歴史劇であった実態が明るみになりつつあります。しばしば、犯罪の捜査にあって、警察には‘犯人の目星を付けるには、先ずはその手口を見よ’と言う教えがあるそうですが、得てして犯罪者というものは、同一の手法を繰り返す傾向にあるからなそうです。アメリカ大統領選挙を通しても、こうした構図は明らかにされたとも言えるかもしれません。真犯人は決して表に出ることはなく、シナリオ通りに事態を誘導するよう宣伝・煽動機関を設けると共に、密かに過激派を結成し、その暴力を以って相手を攻撃する口実や既成事実を造ってしまうのです。この‘過激派’は、敵対構図にあってどちらの側の勢力として演出しても構わず(偽旗作戦もあり得るし、それは、過激派集団ばかりではなく国家である場合もある…)、要は、最終的には暴力で歴史を動かすことこそが重要なのです。

 

 そして、革命も戦争も超国家組織によって仕組まれているとするならば、アメリカ大統領選挙をめぐる一連の動きも注意深く観察する必要がありましょう。そして、くれぐれもアメリカ国民が、そして人類が、18世紀のフランス国民と同じ運命を辿らないよう、気を付けなければならないと思うのです。


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