万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

区別の難しい二つのタイプの若者達-グレタさんはどちら?

2019年12月31日 15時35分31秒 | その他
若者には、果敢なチャレンジャーであって、純粋な正義感、あるいは、悪習に囚われない斬新な感覚から既存の社会を変えようとする変革者のイメージがあります。しかしながら、フランス革命以降、若者には、二つの異なるタイプが存在しているように思えます。

 古今東西を問わず、伝説であれ、神話であれ、若者には勇敢なヒーローや聡明なヒロインといった主役が与えられており、悪の帝王的な配役はあっても、中高年の主人公が大活躍する物語は稀です。こうした固定概念が染みついているためか、世間一般でも、伝統的な慣習などを変える際にも、どこか若者に譲ってしまう風潮があります。‘今の若い人は○○だから、仕方がない…’とつぶやいて…。この点、若者は、その年齢だけで、社会の変革者として常に有利な立場にあるのです。

 その一方で、より善き社会を切り開く存在としての若者に対する一般的な期待は、別のタイプの若者群を生み出してきたように思えます。それは、‘大人’によって洗脳された、あるいは、操られた若者たちです。このタイプの若者たちは、その行動だけを見ますと、確かに社会的な変革運動に参加しています。しかしながら、自らが考えて自発的に行動しているわけでもなく、‘大人’から特定の思想や価値観、あるいは、宗教を信じ込まされている若者たちなのです。

 古くは、悲劇的な結末を迎えた子供十字軍の事例もありますが、特に近代以降では、政治団体が若者を組織するケースが散見されます。ナチスが組織したヒトラー・ユーゲントや中国共産党の紅衛兵などがその典型例であり、これらの組織は、上部の命令に従って行動する軍隊のような存在でした。上部の‘大人’は、これらの‘若者部隊’に自らが属する団体の目的実現に貢献するよう若者たちを洗脳し、同団体に批判的な‘大人’を糾弾する、あるいは、暴力を以って排除するように命じたのです。つまり、これらのタイプの若者たちは、全体主義体制の成立のために準備された‘鉄砲玉’、もしくは、‘駒’であったと言えましょう。そして、若者たち自身は、自らがその団体に属していることを誇りにこそすれ、‘大人’に利用されていることには気が付かないのです(‘大人’は、若者たちに思考停止による無自覚さこそ求めている…)。

全体主義型の若者たちには自由はなく、仮に、自由に思考してその目的や活動に疑問を呈するような発言でもすれば、即座に粛清されたことでしょう。‘大人’から求められているのはむしろ組織に対する従順なる忠誠心であり、決して組織に盾をつく自由な‘変革者’であってはならないのです。かくして上部の‘大人’は、若者組織を陰から操りつつ、時代の潮流は自らにあるかのような世相を作り上げてゆくのです。

 ヒトラー・ユーゲントや紅衛兵は、制服や腕に巻かれた腕章等を見れば誰もが識別できますが、今日、自由なる精神を宿した若者と全体主義の手先と化した若者とを区別することはますます難しくなっています。知略に長けた狡猾な‘大人’は、前者をも騙したり、利用したりしますし、後者をあたかも前者のように装わせたりもします。環境少女として注目を集めているグレタ・トゥンベリさんの活動に対して不信感を抱く人々が多いのも、両タイプの判別が困難であるからに他なりません。しかも、グレタさんには強力な‘大人’の組織的なバックが控えていることは疑いようもなく、批判者をつるし上げるような激情を伴う態度は、どこか紅衛兵を思い起こさせてしまいます。果たして、グレタさんは、どちらのタイプの若者なのでしょうか?二つのタイプの若者の区別が難しい時代にあるからこそ、人々は、若者の活動の背後についても警戒心を以って考えてみる必要があるように思うのです。

 本年は、つたなき記事ながら本ブログをお読みくださいまして、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。皆さまがたが良いお年をお迎えなされますようお祈り申します。

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地球が‘猿の惑星’に変貌する危機

2019年12月30日 19時06分44秒 | 国際政治
 つい最近まで、ハリウッドでは『猿の惑星』という名の映画が連作として製作されていました。何れも世界的なヒット作品ともなり、誰もがその名を知るようにもなったのですが、SFを装いながらも現実を風刺しつつ人類に対する警告の意味が込められているともされ、深読みすると議論の尽きない映画でもありました。

 同作品をめぐる解釈にあって争点となったのは、‘猿’とは一体何を意味するのか、という点です。第一作が製作された1968年がまさしく米ソが激しく対立した冷戦期に当たることから、核戦争?で人類が文明を崩壊させた後に類人猿が進化したものとする見解が主流であり(進化したチンパンジーやオラウータンが人間を支配している…)、凡そ公式の見解ともされています。その一方で、 ‘猿の惑星’では、猿たちの思想までをも厳格に統制する全体主義体制が敷かれているため、自由主義陣営側からは、人々から自由を奪うソ連邦を揶揄している、あるいは、社会主義側からは、‘赤狩り’を行ったアメリカを暗に批判しているとの説もあります。また、原作者であるピエール・ブールが第二次世界大戦にあって日本軍の捕虜になっていたとする誤った情報が流れたことから、一時は、‘猿は日本人’とする、日本人にとりましては心穏やかではない説もありました。

‘猿’のモデル探しは興味深いのですが(連作なので作品ごとに違った議論が生じる…)、少なくとも第一作については、むしろ、人とは何か、つまり、動物である猿の社会と人間社会とを区別するのは何か、を問うているようにも思えます。猿の惑星では、進化した猿たちも言葉でコミュニケーションをはかり、衣服も着ており、高度な科学技術も使いこなしています。これらの諸点からしますと、進化した猿と人間との間には、然したる違いはないように見えます。しかしながら、猿の世界では、宗教裁判、あるいは、政治裁判が存在し、異端者に対しては容赦ない処罰が待っているのです。

猿の社会には1200年前に書かれた聖典が存在し、喩え事実であったとしても、それに反する説を唱えることは決して許されません。同聖典では猿が至高の存在であって、人間は‘知能も低く、文化や言葉を持たない野蛮な下等動物’であり、奴隷狩りの対象なのです。ところが、実際には‘現在の猿の文明は、過去の人類文明の遺産’であり、猿の当局はこの事実をひた隠しにし、自らが定めた‘真理’に対して異議を唱える者を弾圧しています。しかしながら、宇宙船の船長である人間のテイラーが、猿たちの前で言葉を発したことから、この‘真理’が虚偽であることが証明されてしまい、他の猿の学者たちも事実に辿りついたがために、犯罪容疑で法廷に立たされるのです。因みに、同作品は、逃亡に成功したテイラー船長が立ち入りを禁じられてきた禁断地帯の海岸で半ば砂に埋もれた自由の女神像を発見して涙するところで幕となります。

 「猿の惑星」の状況設定は、ジョージ・オーウェルのディストピア小説である『1984年』とも共通しており、人々が知性を働かせて思考し、自由に自らの意見を述べることができず、思考犯罪が存在し、そして、事実を知ることも追求することも許されない世界として描かれています。嘘やフィクションが‘真理’とされ、それに異を唱える者は公権力を以って排除されるのです。そして、今日の世界を見渡しますと、人類は、なおも地球が‘猿の惑星’と化す危機に晒されているように思えます。

中国や韓国、そして、北朝鮮といった諸国では政府がフェイクニュースを臆することなく流していますし、イランをも含む全体主義国家では、国民に対する思想統制を徹底しています。また、全体主義国家のみならず自由主義国にあっても、IT大手企業等が、その先端的なテクノロジーを以って人々を支配しようとするかもしれません。地球上のあちらこちらに、既に‘猿の小惑星’が出現しているのでしょうか。最近では、思想統制体制の厳格さからかモデルは中国ではないかとする指摘も登場してきていますが、その高い知性を自由に活かすことができる人間ならではの“社会とは何か”という視点を失いますと、地球は、核戦争を経なくとも‘猿の惑星’へと変貌してしまうのではないかと危惧するのです。

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北朝鮮との交渉は徒労では?-期限を設ける意味

2019年12月29日 17時32分37秒 | 国際政治
 アメリカに対して交渉の期限を年内と決めて決断を迫ってきた北朝鮮。この期限も残すところ後僅かとなり、アメリカの反応を見る限り、期限切れとなるのはほぼ確実なように思えます。こうした中、同国では、28日から首都平壌において、金正恩委員長主催の下で朝鮮労働党中央委員会総会が開かれているそうです。国際社会の関心は、同総会において金委員長が表明すると予測される新たな対米方針に集まっていますが、北朝鮮の一連の行動をからしますと、交渉による解決には最初から無理があったように思えるのです。

 外交交渉による解決とは、双方がお互いに妥協しながら受け入れ可能な解決策を見いだせる場合にのみ有効な手段です。ところが、今般問題とされている核・ミサイル問題は、外交交渉による解決には適さない事案のように思えます。何故ならば、現状にあっては国際社会においてNPT体制が成立しており、核保有国であれ、非保有国であれ、核兵器の不拡散が行動規範となっているからです。このことは、現行のNPT体制を維持したいのであるならば、国際社会の選択肢は、北朝鮮による完全なる核廃棄の一択であったことを意味しています。同問題は、米朝二国間のみに限定されているのではなく、国際社会における安全保障体制全体に関わりますので、北朝鮮に対して核保有を許すという選択肢はなかったのです。

 その一方で、仮に金正恩委員長が先代の遺訓を継承しているならば、北朝鮮には、核放棄という選択肢はあり得ないはずです。しかも、核保有やICBMの開発が、同国がアメリカと対等の立場で交渉できる唯一のカードであるとしますと、このカードを手放すとは考えられません。北朝鮮にとりましての対米交渉とは、できる限り有利な条件の下で核を保有する、あるいは、核のみならずICBM等の運搬手段を開発するまでの時間稼ぎに過ぎないのでしょう。

 かくして、問題の性質上双方の主張がかみ合うはずもなく、また、当初から双方ともに妥協の余地はなかったはずです。仮に、アメリカ、あるいは、国際社会が、如何なる形であれ北朝鮮の核保有を認めるとすれば、それは、NPT体制の放棄と引き換えとなるのであり、北朝鮮が核を放棄するのか(核の軍事的な強制排除であれ…)、国際社会がNPT体制を放棄するのか、どちらか一方しか選べないのです。

 もっとも、金委員長が先代の遺訓を継承せずに独自路線に転じるとすれば、核放棄と同時に朝鮮戦争を終結させてアメリカに核の傘を提供してもらう、もしくは、朝鮮戦争の延長線上において中国との同盟関係を維持し、同国の核の傘に入るという選択肢もあったはずです。この決断ができれば、一先ずは、NPT体制は維持されることとなりましょう。しかしながら、今般、北朝鮮は、年内における交渉妥結を一方的に要求しています。交渉期限を設けて決断を迫る行為は相手国に選択肢を与えているようにも見えますが、これは、事実上の交渉打ち切り、いわば、戦争に至るプロセスの一つである‘最後通牒’の通告に近い行為として理解されます。相手国に対して、自国の要求を呑みのかどうか、‘イエス’か‘ノー’かのどちらかの回答を迫っているのですから。

 ‘最後通牒’とは、一般的には大国が中小国に対して突き付けるものですので、北朝鮮が超大国のアメリカに対してこうした強圧的な態度をとるのは奇異なことではあります(中国やロシア、あるいは、国際組織がバックに控えている可能性も…)。しかしながら、軍事大国を相手にかくも自信に満ちた態度で臨んでいるとしますと、同国は、既に核を保有し、かつ、ICBMも実戦配備の段階に達しており、対米核攻撃が可能な状況にあるのかもしれません。となりますと、今後注目されますのは、北朝鮮の対米政策よりも、トランプ大統領の対北政策なるのではないでしょうか。交渉による解決が徒労に終わろうとしている今、残された選択肢は、軍事力による強制排除か、あるいは、NPT体制の終焉かの二者択一となるのですから。

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韓国司法の判断はオウンゴールでは?

2019年12月28日 17時11分26秒 | 国際政治
 昨日の12月27日、韓国では、ソウルの憲法裁判所は2015年末に日本国政府と韓国政府との間で成立した慰安婦問題に関する日韓合意について、法的拘束力を認めない判決を下しました。ネット上では既に‘異常’という言葉が躍っていますが、この判断、慎重に考えてみる必要があるように思えます。

 「合意は守られなければならない」とする格言は、国際社会における条約を律する条約法条約の前文にも見受けられ、人類普遍の行動規範とされています。この規範は、国際社会のみならず社会一般において共通しており、合意の遵守はあらゆる関係に安定性を与える基礎でもあります。この大原則からしますと、韓国の憲法裁判所の判断は国際法の原則から逸脱しており、裁判所が法の基本原則を公然と否定した前代未聞の珍事とも言えましょう。この意味で、韓国の憲法裁判所は司法機関としての適性が疑われますし、合意を反故にされた日本国側が憤慨するのも同然のことです。

その一方で、‘原則の例外をどのような場合に認めるべきか’という問題に視点を移してみますと、日本国側にも、若干、韓国司法の判断を肯定的に考えてみる余地があるようにも思えます。この薦めは、韓国側の肩を持っているのでは決してなく、日本国側にもメリットとなるからです。‘例外なき原則はない’とする言葉もありますが、時と場合によっては、合意の誠実な履行が‘不可逆的’、かつ、‘不当’なる不利益を当事者の一方に与える場合があるからです。

例えば、ロシアが北方領土の領有を主張する際に根拠とするヤルタ協定は、ルーズベルト米大統領の独断によるものであり、上院の承認なき密約です。また、村山談話をも凌ぐ過剰な贖罪表現に満ちた日朝平壌宣言も、国会での批准手続きを経たわけではなく、当時の小泉純一郎首相が北朝鮮の金正日委員長と結んだ政治的な合意に過ぎません。国家の首脳や独裁者が勝手に結んだ合意がその国を無条件に法的に拘束するとなりますと、国益が著しく損なわれかねないのです。そして、政治の世界では、しばしばトップ間合意の形態は民主的手続きをスルーする抜け道となり、国民世論を無視する手段となってきいたのです。

2015年末の日韓合意についても、実際には、韓国側に極めて有利な内容であったにもかかわらず、韓国では対日譲歩とする批判が噴出する一方で、日本国内でも徹底的な事実追求と国際司法による解決を求める声がありました。しかも、それが、韓国が主張する日本軍による朝鮮人女性の強制連行説を国際社会において定着させるならば、日本国を永遠に不名誉な地位に貶めることになりましょう。結局、双方が不満を残す解決となり、どこかすっきりしない、賛否が分かれる合意内容であったのです。

 こうしたトップ合意のリスクからしますと、韓国の憲法裁判所が日韓合意を書面の交換や国会の承認を要する条約とは違う政治的な合意に過ぎないとし、政府間合意と条約とを区別した点については、頭から否定する必要はないのかもしれません。韓国司法としては、日韓合意の履行義務から逃れるためにこうした区別を行ったのでしょうが、韓国司法の自己中心的な思惑は別としても、政治的合意、特に、民主的手続きを経ない合意と国民多数の支持の下で正式なる批准手続きの下で成立した条約との区別そのものは、可逆的な安全装置ともなり得るからです。

このように考えますと、一先ずは、政治的合意と条約を区別することには一定の意義はあるとは言えましょう。それでは、政治的な合意が崩壊した慰安婦問題は、どのように解決すべきなのでしょうか。

第1の案は、今般、韓国の憲法裁判所は条約については法的拘束力を認めていますので、1965年の日韓請求権協定を法源として国際司法の場で解決するというものです。事実としては、当事、朝鮮半島出身の職業婦人たちが多く存在しており、その未払い分の給与なども同協定の内容に含まれていたはずです。同協定が定める仲裁委員会であれ、他の国際司法機関であれ、この点を裁判の争点とすることは可能です。

第2の案は、日本国政府が、韓国に対して同問題を国際司法裁判所、あるいは、常設仲裁裁判所に共同で提訴するよう要請することです。おそらく、韓国側は、人権問題として提訴するのでしょうが、法廷の場における事実認定に際して曖昧にされてきた事実関係が明るみになりますし(慰安婦被害の大半は民間事業者による犯罪…)、日本国政府の国際法上の法的責任の有無もはっきりします(例えば、韓国側が国家権力による強制性を証明できなければ、強制労働ニ関スル条約も適用できない…)。

そして第3の案は、改めて慰安婦問題の解決に関する‘条約’を韓国と締結することです。もっとも、この方法では双方に不満が残るでしょうから、最も可能性が低い案と言えましょう。

以上に幾つかの解決案を述べみましたが、実のところ、韓国側が政治的合意の法的拘束力を否定したことは、日本国に取りましては渡りに船であったかもしれません。政治的に解決できなければ、国際紛争の解決手段として残された道は、国際司法解決しかないからです。韓国側は、何としても国際司法解決を避けようとしてきましたが、今般の憲法裁判所の判断は、この意味において、オウンゴールではなかったかと思うのです。

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共産主義は何故神を否定するのか?

2019年12月27日 18時27分49秒 | 国際政治
‘宗教は麻薬’と断じたカール・マルクスの思想は、今日、共産主義国家中国において宗教弾圧の根拠として猛威を振るっています。ウイグルでは公然とイスラム教徒が迫害され、仏教徒も法輪功に対する警戒から白眼視され、キリスト教徒も共産主義との妥協を強要されています。最近、習近平国家主席が全ての宗教に対して共産主義との調和?を求める演説を行ったとされていますので、これらの宗教の教義は早晩換骨奪胎され、そのそれぞれが○○教系共産主義に堕して行くことでしょう。それでは、何故、共産主義は、神を否定するのでしょうか。

 何らかの価値体系を信じ込むという人間の精神的傾向を以って‘宗教は麻薬’という言い方ができるならば、当然に共産主義をはじめとした全てのイデオロギーなるものも‘麻薬’と言えましょう。あるいは、宗教が狂信者を生み出してきた歴史を以って‘麻薬’と評するならば、革命と云う名の大量虐殺を正当化した共産主義こそ、理性や良識に対する破壊効果が最も高い最悪の‘麻薬’かもしれません。この意味で、マルクスは自己矛盾しているのですが、共産主義が宗教をこの世から抹殺しようとした最大の理由は、宗教が内包する神の視座の超越性にあるのではないかと思うのです。

不毛の神学論争になりますので、ここでは神の存在論には踏み込みませんが、宗教は、人類と動物とを明確に区別する重要なメルクマールです。この見解に対する反論としては、動物である象がお葬式をしたり、犬が人間には見えない‘何か’に向かって吠えるといった‘霊魂’に対する反応とも解される現象が数多く報告されてはいます。しかしながら、自己を超えた超越的な存在の視座を思考できたのは、人類の他にはいないのです。神の存在が科学的に証明できなくとも、様々な差異にも拘わらず、あらゆる人から中立公平な立場にあって、社会全体を上部から見渡して善を志向する存在を認識し得たのは最も高い知性を有する人類にしかできなかったのです(ニーチェが述べた‘神は死んだ’も、この点からすれば誤っている…)。

もっとも、宗教と一言で言っても様々なタイプがあり、動物等を信仰する原始的なアミニズムもあれば、血縁共同体の絆となる素朴な先祖崇拝や教祖その人を崇拝するパーソナル・カルトなどもあります。共産主義では指導者の遺体が永久保存され、ロシア革命の指導者であったレーニンや北朝鮮の金親子を安置した廟が聖地化されましたので、共産主義は、イデオロギーと云うよりもパーソナル・カルトの一種であるのかもしれません。また、中国の道教のように、生きている人々が現世における個人的な利益を願う宗教もあります。霊魂や死せる者に対する崇拝は、もしかますと象のお葬式に近いのかもしれませんし、人間を崇拝の対象とするパーソナル・カルトも、個人レベルから脱してはいませんので、こうしたタイプは、超越性と云うよりも超自然性として区別すべきかもしれません。

このように宗教のタイプを超越性と超自然性とに大まかに区別するとしますと、共産主義がとりわけ敵視するのは、前者の超越性のタイプと言えましょう。何故ならば、独裁者に上位する神の存在が独裁者にとっては邪魔であることに加え、超越的な神の視座からすれば、革命に伴う暴力や無慈悲なる他者の虐殺は許されない行為となるからです。階級闘争やプロレタリア独裁も、一部の人、あるいは、集団のみによる権力や富の独占を意味しますので、そこには、全ての人々を包摂した善の実現を志向する神の視点はありません。また、仏教が教える慈悲の心やキリスト教が説く‘汝の敵を愛せ’の垂訓も、共産主義者にとりましては自らの目的実現の前に立ちはだかる精神的な‘邪魔者’でしかないのでしょう。

実際に、中国の宗教政策を見てみますと、超越的な視座を有する普遍宗教に対して特に厳しい姿勢で臨んでいるようにも見受けられます。中国の一般民衆による伝統的な道教崇拝に対してはそれが現世利益に対する祈願であれば比較的寛容ですし、日本国の靖国神社に対しても同国の歴史認識から批判はしますが、特に八百万の神々を奉じる神道そのものに対しては必ずしも攻撃的ではありません(高天原の天照大神に対しては否定的であるかも…)。全知全能にして善なる神に対してのみ、邪な殺意を抱いているかのようなのです。そして、この中国のポジションは、神を否定する悪魔、あるいは、サタンと云うことにもなりましょう。

神の存在の有無にかかわらず、超越的な神の視座こそが人類全体を善へと方向づけている点を考慮しますと、中国による神の否定は、同時に人間性の否定でもあります。最先端のテクノロジーをも手にした中国が、軍事や経済、さらには、グローバルなプラットフォームを含むあらゆる手段を駆使して共産主義思想を全世界に浸透させようとしている今日、人類は、超越的な視座を保持すべく(それが特定の宗教と結びついていなくとも…)、倫理や道徳、そして、価値の面における防衛をも考えてゆくべき時期に至っているように思えるのです。

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中国は何故音声識別技術を開発したのか?

2019年12月26日 18時44分34秒 | 国際政治
 毎年、キリスト教国ではない日本国を含め、世界の街角ではクリスマスソングが聞こえ、どこか華やかな雰囲気に包まれますが、キリスト教を敵視している中国では、この時期、どのような光景が広がっているのでしょうか。人々の思考までをも徹底管理しようとする全体主義国家では、現世にも神にも救いを求めることは許されないのです。

 全体主義国家の特徴の一つは、国民の画一化にあります。国家的な目的のために必要な才能は高く評価し、その育成には熱心な一方で、その他一般の国民については人格や個性などはないほうが望ましく、ロボットのように‘同一規格’を求めているのです。毛沢東時代にあって中国では、平等の実現を建前に男女問わずに国民の凡そ全てに、同一デザインの人民服が着せられ、人民帽をかぶらされていましたが、服装が自由化された今日でも、やはり個々に個性と云うものが感じられないのは、国家からの無言の圧力がかかっているからなのでしょうか。

 このような国民各自の人格や個性を消し去りたいとする中国共産党の願望は、今日の同国における急速なIT発展の原動力となっているのかもしれません。中国が先駆的とされる技術の殆どは、個人識別テクノロジーに集中しています。スマートフォンを介した個人情報の収集に加え、GPSによる位置情報の把握、並びに、全土に隈なく設置した監視カメラと顔認証システムの結合によって、今や、中国国民は、公私を問わず当局による完全監視下にあります。ここまで徹底すれば完璧とも思われるのですが、これでも飽き足らず、今度は、音声認識システムの開発にも成功したと報じられています(開発したのは民間のアイフライテックですが、その実体は、国家主導のプロジェクトの一環では…)。彼らの最終目的は、マイクロチップ等の体内への埋め込みによる脳機能を含む人体のロボット化なのかもしれません。何れにしましても、際限なき個人認識に対する拘り同国は、狂気に憑りつかれているかのようにも見えます。

 それでは、こうした国に対しては、他の諸国はどのように接するべきなのでしょうか。狂気に囚われた人々に対しては、客観的な視点こそが重要なように思えます。そこで、本記事では、何故、中国が、個人識別技術の開発に血眼になっているのか、という点について考えてみることとします(中国共産党を操る冷酷なる人々は、案外、冷静、かつ、合理的に人民支配を考えているかも知れない…)。

 第一の理由は、もちろん、国民監視のさらなる徹底です。位置情報では、対象者がスマートフォンを携帯していなくては正確な情報を得ることはできません。当局の監視を逃れたり、あるいは、当局を攪乱させるために、敢えて別人にスマートフォンを保持させる人物が現れるかもしれません。また、顔認証システムもしばしば誤認が発生するとする報告もあり、100%の信頼を置くことはできないのでしょう。現段階では完璧ではないとすれば、中国当局が、声認証による多重チェックを目指しても不思議ではありません。しかも、声認証技術が確立すれば盗聴の効果も倍増します。近い将来、中国全土では、監視カメラのみならず盗聴器が家庭内を含めた至る所に設置されることでしょう。

 声認証技術の開発理由の第一が国民監視体制の強化としますと、第二の理由は、統治者の側にあるかもしれません。統治者の替え玉やすり替えは小説の中のフィクションではなく、現実にも起きてきたことです。北朝鮮の歴代トップには、何人もの替え玉が用意されていたことはよく知られていますが、独裁者には、常に暗殺のリスクがあります。習近平国家主席に関しても、過去には暗殺未遂説が囁かれた時期もありました。独裁国家にありがちな暗殺を通してのすり替えに備え、自らのアイデンティティーを不動のものにしたい、即ち、替え玉を不可能にしたいとする願望が潜んでいるのかもしれません。あるいは、逆に、政敵や当局にとって都合の悪い人々などを排除するための偽者つくりのために顔認証技術や声認証技術を開発しているという推測も成り立ちます。顔認証や声認証によって同一人物と認識されるとなりますと、その認証にさえパスすれば、別人でも本者と認証されてしまうことになるからです。偽者に整形や発声訓練を施して認証機をパスさせれば、もはや誰も、偽者であることを疑うことができなくなるのです。

そして、もう一つ、可能性があるとすれば、仮に海外の要人が替え玉や偽者であった場合、それを判別するために用いると言うものです。おそらく、中国の古典にもしばしば替え玉作戦が登場しますが、中国の統治者は、自国が行っていることは他国も同じことをするに違いないと考えていることでしょうし、実際に、過去に替え玉が送り込まれてきたケース、あるいは、入手した要人の発言とされる音声テープが贋物であったケースがあったのかもしれません。

以上に幾つかの動機について推測してみましたが、何れにおいても共通しているのは、徹底した自己愛と他者に対する恐怖心です。自身が国民から愛されていないとする自覚があるからこそ国民を秘かに怖れ、自らに対する嫌悪や憎悪の感情が発露するのを封じ込めたいのでしょう。あるいは、愛されるよりも怖れられことを勧めたマキャベリズムを実践しているのかもしれませんが、この指南は、民主主義はもとより共産主義に照らしてさえ時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ません。そして、最先端のテクノロジーを活用すれば、国民の人格や個性を消し去って、命令一つで操縦できるロボットと化すことができると信じているのでしょう。

中国派、そのサイコパスの域に達するほどの過剰なる自己愛ゆえに、国民を完全にコントロールし、虐待することで快感に浸りこそすれ、国民を心から愛することもできないようです。このように考えますと、中国に対する適切な対応とは、科学的な観察の対象としてその病理を理解した上で、その精神的な健全化を図る方が賢明かもしれません。ゆめゆめ同国に同調し、その狂気に呑み込まれてはならないと思うのです。

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日本国は‘元徴用工問題’で韓国に譲歩したのか?

2019年12月25日 16時31分58秒 | 日本政治
日本国の安倍晋三首相と韓国の文在寅大統領は、昨日、中国の成都で1年3か月ぶりに首脳会談の形で顔を合わせることとなりました。直前の世論調査では、日本国民の対韓感情は過去最低を記録しており、両国間の関係悪化は政治や経済に留まらず、民間レベルにも及びつつあります。両首脳としても、今般の会談を機に関係改善の糸口を掴みたかったのかもしれません。

 もっとも、同首脳会談を以って日韓関係が好転するとする予測には乏しく、会談後のマスメディアの論調も、会談が双方譲らずに平行線に終わった結果をあたかも織り込み済みかのように淡々と報じています。しかしながら、同会談の内容を伝える文面の行間を丁寧に読みますと、日本国側が韓国側に対して譲歩した疑いがないわけではないのです。

 確かに、‘元徴用工問題’、GSOMIAの延長問題、日本製素材の輸出管理規制問題、さらには北朝鮮問題など、両国間に横たわる難題のどれ一つをとりましても、解決に向けた具体的な合意がなされたわけではなく、双方が従来の立場を主張するに留まっています。全く以って接点さえも見出せそうにもなく、マスメディアが多用している‘平行線’という表現に嘘偽りはないように思えます。ところが、両首脳の間では、一つだけ、一致点があったと言うのです。それは、問題の解決方法です。

 韓国大統領府の関係者は、同会談について「互いの肉声を通じて相手方の立場の説明を聞く席だった。対話での問題解決に両首脳が合意をしたことに大きな意味がある」と説明したと伝わります。日本国のマスメディアも同様の論調であり、主張については平行線をたどったものの、今後については、話し合い解決で合意した点については強調しています。それが、同会談の唯一の成果のように…。

思い出してもみますと、つい最近まで、日本国政府は、韓国に対して国際司法裁判所への単独提訴といった国際司法解決をも視野に入れながら、‘元徴用工問題’については、日韓請求権協定において明記されている調停による解決を求めていたはずです。仮に、日本国政府が、今般の会談において同案を取り下げ、話し合い路線に転じたとしますと、これは、明らかに韓国に対する決定的な譲歩となりましょう(仮に、安倍首相が、国際法や日本国民の民意を無視して‘対話での問題解決’を決めたとなりますと、法の支配や民主主義の危機…)。韓国側が最も恐れていた事態とは、同問題が国際司法解決に持ち込まれることであったのですから(韓国側に勝ち目がない…)。

もちろん、対話路線に関する両首脳の合意については、韓国側がとりわけ強くアピールしていますので、実際には、どの程度の合意であったのかは正確には分かりません。しばしば、何れのレベルの協議であれ、日韓両国間での会談内容については、発言の内容や解釈についてしばしば食い違いが生じるからです。今般の話し合い解決に関する一件も、韓国側の主観的な解釈であることを祈りたいところなのですが、あるいは、韓国が譲歩したGSOMIAのケースとバランスさせるために、アメリカ等から日本国側に圧力がかかったのかもしれません(もっとも、アメリカとしては、事実上の仲介者として日韓請求権協定に関しては責任があるので、同協定が定めた原則を曲げることには反対なはず…)。

何れにしましても、日本国政府は国際司法解決のカードを手放すべきではなく、このカードを失えば、対韓交渉の立場は一気に弱体化します。また、話し合い路線は、双方とも一ミリたりとも情報誌得ない平行線の状態に既に陥っているのですから、これ以上の進展も望み薄です。問題解決の順序としては、先ずは、中立・公平な機関を介した司法解決が可能な元徴用工問題を司法解決の手続きに付すべきなのではないでしょうか。

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日本国政府が習主席の国賓待遇に条件をつけるならば

2019年12月24日 16時05分59秒 | 国際政治
 来春に予定されている中国の習近平国家主席の国賓待遇による訪日ついては、香港の民主化運動やウイグル人に対する中国の非人道的な対応に対する批判から、反対や疑問の声も少なくありません。ましてや、同盟国であるアメリカと中国との関係は悪化傾向著しく、日本国の対中接近は、‘背信行為’ともなりかねないリスクもあります。

 日本国内の世論の反発、並びに、米中対立の狭間にあって、安倍首相は、日中韓首脳会談の席に望んだわけですが、報道に依りますと、幾つかの要求を中国に対して提示したと伝わります。どれも中国側が受け入れそうにもない要求ばかりなのですが、そのうちの一つが、尖閣諸島周辺海域における中国公船の活動自粛です。しかしながら、この要求もまた無意味、かつ、リスクに満ちたものもないのではないかと思うのです。

 その理由は、中国の約束は、全く当てにならないからです。中国と云う国は、たとえ合意文書を作成しても、決してその内容を遵守しようとはしませんし、都合が悪くなる、あるいは、自国の戦略的目的実現のチャンス到来と見れば、あっさりと‘紙くず’にして捨ててしまいます。両国関係の基礎となる日中友好平和条約ですら空文化していますし、ましてや口約束ともなれば、その有効期間は言葉を発したその一瞬に過ぎないかもしれません。

今般のケースでも、日中首脳会談の最大の関心事は、習主席の国賓訪日の成否なのでしょう。そうであればこそ、日本国側も、中国側が、日本国内で反中デモ等が起きる懸念を抱いている点を見越して、今回は、珍しくも中国に注文を付けるという強気の態度で臨んだのかもしれません。近年、尖閣諸島付近の海域での中国公船の活動が活発化してきており、新聞等の紙面では連日のようにこの件に関する報道があります。日本国政府としては、中国側の同海域での活動が目に見えて減少すれば、国内世論も習主席の国賓待遇に対して好意的な方向に転じるかもしれないと考えたのかもしれません。しかしながら、この要求、どちらに転んだとしても、最悪の結果を招きそうなのです。

仮に、中国側が同要求を受け入れたとしても、それは、習主席が帰国の途につくまでの期限付きです。中国側の関心時は習主席の国賓待遇での訪日の成功なのですから、この目的が達成された途端、日本国に対して過去の約束を守る理由も必要性を失います。乃ち、同主席の離日と同時に、尖閣諸島周辺海域の状況は以前の状態に戻り、日本政府の要求は元の木阿弥となることでしょう。この点は、香港情勢やウイグルでの人権問題といった他の要請も同様です。自らの目的を達成するまでのポーズや仮の譲歩は、中国のお家芸なのです。

 一方、日本国政府は、中国から譲歩を引出す、尖閣諸島海域での活動を自制したことを評価して、全力で習主席の訪日成功に向けて万全の体制を期すことでしょう。そして、この目的を実現するためには、日本国政府は、同主席の訪日中における対中批判を抑えるために、日本国民に対する厳しい言論統制を実施し、言論や表現、そして集会の自由をも束縛するかもしれません。それが期限付きであることを知りながら…。

それでは、中国が、同要求を撥ねつけた場合には、日本国政府は、どのように対応するのでしょうか。何らの対中要求も実現しない状態で習主席を迎えるようでは、日本国民のみならず、同盟国であるアメリカをはじめ、国際社会の信頼を失う事態ともなりかねません。共産党一党独裁体制を堅持する全体主義国と手を結ぶとすれば、ナチス・ドイツと結んだ戦前の誤りを繰り返すこととなりましょう。しかも、日中共に‘新時代’を強調しておりますが、令和の時代とは、中国にとりましては従来とは違う時代なのでしょうか…。

以上に幾つかのシナリオを予測してみましたが、何れも日本国にとりましては、自らを危機に追い込むようなシナリオばかりです。歯の浮いたような美辞麗句を並べ、三国の首相が薄ら笑いで握手を交わす日中韓首脳会談の光景は、一般の日本国民の感覚からしますと、友好よりもどこか陰気な気味の悪さが漂います。どのような選択であれ、日本国の将来に暗い影を投げかけるのであるならば、むしろ、ストレートに、尖閣諸島の日本領有を認め、同諸島に対する領有の主張を取り下げるよう、訪日に条件を付けた方が、すなわち、中国側から訪日を断らせる方が、遥かに‘まし’であり、筋も通っているのではないでしょうか。

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日本国のIR構想は中国の戦略か?

2019年12月23日 16時57分33秒 | 国際政治
 最近の日本国政府の観光政策の方針を見ておりますと、その最大の課題は中国富裕層の取り込みのように思えます。先日、菅官房長官も、富裕層向けの豪華ホテルの建設計画を公表しましたが、官主導の観光政策は、悉く中国富裕層向けと言っても過言ではないように思えます。

 IRについても同様です。今般、秋元司元IR担当副大臣が汚職の疑いで検察当局から操作を受けましたが、中国系企業がIRに食指を動かすのも、自国の富裕層に海外で自由に遊べる場を提供したいからに他なりません。目下、カジノのメッカであったマカオでも、カジノ頼りからの脱却が進められており、中国の富裕層は新たなギャンブルの場を当局の目が届かない海外に求めたかったのかもしれません。そこで白羽の矢が立ったのが、地理的に近いに日本国であり、特に中華街のある横浜や中国系住民の多い大阪などがターゲットとなったのでしょう。

しかも、中国の観光振興策は、‘国策’と言っても過言ではありません。今月19日の環球時報は、イギリスのTravelmoleサイトの記事を引用する形で、一帯一路構想に関連して、「文化や経済活動が旅行業界の中に溶け込む中で、シルクロード沿線の旅行業界は中国人の好みに合わせる必要がある。例えば、カザフスタンの国内やその周辺では、ラスベガス型の大型カジノと冬季スポーツセンターを建設すべきとの声が出ており、さらに多くの計画が出てくるだろう」と述べています。日本国のIR構想や北海道でのスキー場開発などはまさにこの路線に沿ったものであり、日本国の政治家が、中国の意向を受けて行動している忌々しき現状を示しているとも言えましょう。

 一方、IRの誘致に名乗りを上げた日本国の諸都市も、中国人富裕層が巨額のお金をカジノで落とすのであるならば大歓迎なのでしょう。先日、横浜市で配布された「広報よこはま」ではIRの効果が説明されており、運営時の効果として6300億から1兆円を見込んでいるそうです。IRの運営収益により、横浜市も820億から1200億円ほどの増収になるとしています。そして、この数字は、主として中国の富裕層が、1兆円ものお金を海外でのカジノで浪費することを意味するのです。

因みに、日本国の対中貿易赤字の額は、凡そ年間で1兆円ともされます。つまり、日中間の国際収支は、カジノにおける中国人富裕層の散財によってバランスされることともなるのですが、果たして、この現象を、一般の中国人はどのように感じるでしょうか。中国では貧富の格差は未だに著しく、先進国並みの生活を送ることができるのは、共産党員や都市籍を有する一部の国民に限られています。こうした中、対日貿易黒字に匹敵するマネーを日本におけるギャンブルで使い果たし、日本経済に貢いでいるとなりますと、自ずと政権批判も高まるものと予測されます。しかも、共産主義の建前では、ギャンブルはご法度なはずです。それにも拘らず、上述したように一帯一路構想に含まれる諸国にもカジノを設けようとしているのですから、中国の産業戦略は、工業製品の輸出による黒字をギャンブルでバランスさせるという非道徳的で腐敗臭の漂う悪策なのかもしれません。この手法は、逆の意味で、アヘンの輸出に対中貿易赤字の解消の活路を求めた19世紀のイギリスに類似しています。

もっとも、米中戦争の影響が深刻化すれば中国の富裕層も減少しますし、中国当局が外貨の海外持ち出しに制限を加えれば、IR誘致都市の試算は‘とらぬ狸の皮算用’となるかもしれません。箱ものプロジェクトでは、当初見積もりと現実とには大きな隔たりがあるのは世の常です(大概が赤字経営となる…)。しかも、中国人富裕層のギャンブル頼りでは、IRを誘致した都市の財政は不安定化しますし、青少年の教育にも悪影響を与えることになりましょう。既にカジノは衰退産業とも指摘されています。IRはあだ花となる可能性は高いのではないかと思うのです。

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大学入試改革-問われる改革者の発想力

2019年12月22日 14時01分20秒 | 国際政治
 2121年1月からの実施が予定されている「大学入試共通テスト」については、英語試験の民間の資格・検定試験の活用が頓挫したのに続き、国語・数学の試験でも、記述式によるテストが見送られることとなりました。両科目とも、公平性の確保に重大な難点があったことが主たる理由ですが、従来のマークシート方式にあっても工夫次第では、大学入試改革の目的を達成することができるのではないかと思うのです。

 デジタル化時代を迎え、記憶媒体の容量が増大し、端末の普及でデータへのアクセスが容易になるのと比例するかのように、暗記の重要性も低下してきています。暗記が不要になったわけではないものの、知識詰め込み式の「暗記力」の良さを問うテストよりも、「思考力」、「判断力」、並びに、「表現力」を試す試験の実施が求められるようになりました。大学入試改革もこの流れにあるのですが、暗記力以外の知力を量ろうとするばかりに、特に国語に関しては、記述式に変更しようとしたのはいささか短絡的であったかもしれません。既に批判を浴びているように、記述式であれば採点者の主観が入り込む余地が大きくなり、評価基準を一定に保つことが難しくなるからです。

 しかも、出題によっては、必ずしも「思考力」や「判断力」等が評価できるとは限りません。先日、NHKのニュース番組で出題例を紹介しておりましたが、確か、‘ある駐車場が女性と契約を結んだところ、同女性は、一ヶ月を経たずして解約を求めてきました。契約書には一ヶ月以内での解約はできないと定められていますが、この女性の立場に立って反論を考えなさい’というような内容であったかと記憶しています。この設問に対しては、‘契約は守られなければならない’とする社会一般の普遍的な法原則に誠実に従う受験生は、言い訳を考えること自体を不快に感じ、‘違約金を払う’と回答するかもしれませんし、同様の考え方の採点者は、如何なる‘言い訳’に対してもゼロ評価を下すでしょう。逆に、契約違反に寛容な受験生、あるいは、テストと割り切った受験生は、真剣に契約違反を正当化しようとすることでしょう。そして、同様の思考傾向にある採点者も、巧みな反論を思いついた‘狡賢さ’を高く評価することでしょう。そして、後者の場合には、常識的な道徳心や倫理観を損ないかねないのです。そもそも、契約違反の事例を出題する同問題の作成者の感覚を疑うのですが、受験者、並びに、採点者の双方、あるいは、一方の価値観が問われる問題ともなれば、採点には天国と地獄ほどの違いが生じてしまうのです。

 記述式による採点は、価値観が関わる設問であるほどに、その採点の信頼性が低下するのですが、ここで考えるべきは、「思考力」、「判断力」、並びに、「表現力」といった非暗記能力の評価は、マークシート方式では無理なのか、という点です。実のところ、必ずしも不可能とは言えないように思えます。例えば、ランダムに提示された幾つかの独立した文章を、設定された結論を導くために最も適した順番に並べ替える論理構成を問う問題とか、ある事を証明するために必要不可欠のものや備えるべきものは何か、複数の選択肢の中から選ぶ問題、あるいは、ある状況を仮定した場合、最も問題解決に貢献する対策を選択する、といった工夫も考えられます。こうした出題であれば、「暗記力」ではなく、「思考力」や「判断力」を試すことができますし、これまで蓄積してきた知識を応用することにもなります(必要な知識を適宜に使う能力をも問う…)。残るは「表現力」なのでしょうが、この能力も、絵図や詩歌などを掲載し、そこから生じた心の動きを表すのに最も適した言葉を複数の選択肢から選ばせるといった方法もありましょう。

 大学入試試験とは、それが全国一律に実施される試験であればこそ、公平性の確保は至上命題です。公平性が欠けた状態では必ず結果に不満が残り、制度そのものの信頼性を揺るがすからです。大学入試改革は、改革者の知恵や発想力こそ問われているように思えるのです。

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IR疑獄にみる新たなる利権政治-植民地化への道?

2019年12月21日 13時07分03秒 | 国際政治
 国民の大多数が反対しながらも、何故か、実現に向けて歩が進められてしまうIR構想。日本国の民主主義が機能していない証ともなるのですが、今般、IR担当の内閣副大臣であった秋元司衆議院議員に対する中国系企業による贈賄疑惑が浮上したことで、同問題は、‘令和の疑獄事件’に発展しそうな様相を呈してきました。裏で動いたお金は比較的には少額かもしれませんが、その意味するところは決して小さくはないように思えます。

 直接的な嫌疑は不正に現金を日本国内に持ち込んだ外為法違反なのですが、最大の問題はその使途にあります。言わずもがな、使途に関する疑いは、中国系IR企業は北海道の留寿都村にIRを誘致すべく、秋元議員に同現金を賄賂として渡したのではないかと云うものです。実際に同議員は、同村や国土交通省において同中国系企業の関係者と面会するなど、留寿都村への誘致に向けて動いていたとも報じられ、疑いは濃くなるばかりです。横浜市による不意を突いたようなIR誘致発表も、菅官房長官が背後で働きかけたとする指摘もあり、IR誘致には、何やら政界と関連した黒い影が見え隠れするのです。

 そして、この事件において注目すべきは、日本国の利益誘導型政治が、新たな形態に変化してきていることです。利権政治と評されたかつての日本国の政治風土は、地方出身の政治家が、自らの選挙地盤に対して特別の便宜を図ろうとしたために生じた腐敗構造です。新幹線の停車駅の選定などはその最たるものであり、有力政治家の政治力が事業の合理的な判断さえ捻じ曲げる事例も少なくありませんでした。そして、関連する事業者から政治家へのキックバックや贈収賄もセットとなっており、政治腐敗の元凶とされたのです。最近は、地元への利益誘導に対する批判が高まったために政治改革が叫ばれ、政治家による露骨な行動は影を潜めたのですが、―ただし、桜を見る会問題はある- 今般の事件は、旧来の利益誘導型とは異なるタイプの腐敗が生じつつある現状を露呈しています。それでは、旧型の利益誘導と新型の利益誘導とでは、どのような違いがあるのでしょうか。

 第一に挙げられる相違点は、贈賄側が、日本企業ではなく海外の事業者や利益団体である点です。かつての旧型の利益誘導における当事者は、贈収賄の双方ともが日本の政治家であり、日本の事業者です。このため、誘致された事業から生まれる利益は、それが政治家の地盤となる地方に限定されたものであれ、少なくとも日本国内に還元されました。ところが、今般のIRに参加を表明している企業の多くは海外企業です。言い換えますと、日本国の政治家が、海外に対して利益誘導している構図となるのです。

 第一に関連して指摘すべき点は、贈賄側が海外企業となる場合には、本国の腐敗体質が日本国内に持ち込まれる可能性が高くなることです。政治腐敗は普遍的な現象とは言え、今般の事件では、中国系企業が贈賄の当時者です。これも、中国の特徴とも言える利権がらみの政治腐敗の体質が日本国に及んでいる徴候です。おそらく、中国では、政治家や官僚等に対する贈収賄は日常茶飯事であり、日本国にあってもお金の力があればいとも簡単に誘致を実現できると考えたのでしょう。賄賂文化の発祥地、あるいは、賄賂戦略の本拠地が海外にある点において、村社会の延長線上にある旧来の利益誘導と海外由来の新型の利益誘導との間に違いを見出すことができます。

 第三の相違点は、収賄側の政治家は、必ずしも地方を地盤とする地元名望家タイプの議員ではない点です。秋元議員は東京15区選出であり、出身地も江東区ですので、都市型の政治家です。第一の相違点として述べたように収賄側は海外事業者ですので、贈収賄双方の間に地縁や血縁的な繋がりはなく、秋元議員がターゲットになった理由は、同議員がIR担当の内閣副大臣であったからに他なりません。つまり、新型には職権と結びついた‘汚職’の色合いが強いという特徴があるのです。

 以上に主要な相違点を三点ほど挙げてみましたが、ここから見えてくる新型利益誘導の特徴は、植民地化の手法とも似通っているように思えます。植民地支配は、圧倒的な軍事力を以ってアジア・アフリカ諸国を屈服させたとするイメージが強く、植民地化した側のみに一方的に批判が集中する傾向にありますが、その過程を具に観察しますと、必ずしも武力が行使されたわけではなく、植民地化された側にも問題がないわけではないことが分かります。何故ならば、植民地化された側にも、海外勢力から賄賂を受け取って自国の権限や利権を売り渡した君主や有力者が必ずと言ってよい程に存在していたからです。植民地支配は、第一義的に植民地化した側に非があるものの、売国者の出現が、その国の運命を決定付けたこともあったのです。

 グローバル化の流れの中で公共調達の分野にまで海外企業が参入し得るようになり、かつ、グローバル化の推進者として中国系企業の進出が著しい今日、日本国は、新たなタイプの政治腐敗の危機に直面しているように思えます(IRの一件は、氷山の一角かもしれない…)。そして、今般の事件が、IRは日本国民にとりまして真に必要なものなのか、あらためて問うてみる機会とすべきではないかと思うのです。

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大学と民間企業の研究協力は競争法の‘抜け道’では?

2019年12月20日 18時36分11秒 | 日本政治
 先日、東大とソフトバンクが共同でAIの基礎研究を行う研究機関「Beyond AI研究所」の設立が発表されました。そして、本日の日経新聞朝刊の一面にも、東大と米IBMが量子コンピューターの分野で連携するとする記事が掲載されていました。こうした一連の基礎研究における国立大学と民間企業との間の協力について疑問に感じるのは、それが、競争法の‘抜け道’になりかねない点です。

 昨今、グローバルに事業を展開するIT大手企業の出現により、競争当局も、‘新しい独占’の問題に直面しています。従来の競争法の世界では、市場のシェアが独占や寡占等を判断する重要な基準でしたが、今日の‘新しい独占’にあっては、シェアよりも市場の支配力に問題の重点が移ってきています。その理由は、テクノロジー、並びに、それを用いたプラットフォームの構築において圧倒的な優位性を確立したIT大手は、情報通信分野のみならず、ありとあらゆるサービス事業において新たなタイプのビジネスを展開し始めているからです。イノヴェーションをも独占する勢いであり、ITやAIといった先端技術を以って事業を始めたベンチャー企業やスタートアップをも貪欲に買収して取り込んでいます。言い換えますと、デジタル時代の到来とともに、新たな形態の財閥が出現しつつあり、多様な主体による自由な活動の場であるべき市場が、少数のIT大手企業によって支配されかねない状況にあるのです。

 こうした懸念に対して、日本国でも公正取引委員会は、IT大手によるスタートアップの買収に際して審査を強化する方針を示しており、政府も、法整備を急いでいます。時代の流れは規制強化なのですが、この観点からしますと、今般の東大と民間企業との共同研究プロジェクトは、競争法に違反する疑いが濃いのではないかと思うのです。

 競争法の取締対象は、主として民間の事業者であるために、東大といった大学や研究機関の活動が競争法において問題になるとは誰もが思いも付かないかもしれません。しかしながら、近年の一種の民営化方向による改革により、‘稼げる大学’が良い大学とする評価が定着しつつあります。確かに、日本国の大学の問題点として、研究室で開発された高度な技術が日本の産業力強化に繋がらない点が挙げられており、大学と企業との連携強化は有効な改善策ではありました。しかしながら、その実体はどうかと申しますと、日本国の産業の基盤となる基礎研究が特定の民間企業にのみ独占的に提供され、競争上、特別に有利な立場を与えることとなるのです。しかも、提携相手は、「Beyond AI研究所」の設立の発表の場に、中国のアリババのジャック・マー氏が登場したように、日本企業と云うよりも中韓系企業といってもよく、米IBMも同盟国とは言えアメリカの企業です。大学改革は、この意味において、日本企業の国際競争力強化に繋がらないばかりか、技術流出ともなりかねないのです。

そこで、第一に考えられる同問題の解決方法は、大学が民間に近い営利活動を行うに至った現実を直視すれば、大学もまた、競争法の対象に含めるというものです。「Beyond AI 研究所」では、スタートアップの起業支援をも行うそうですが、この行為は、まさに競争当局が取締りに乗り出した理由に通じています。否、プレ・スタートアップの段階で、イノヴェーションが特定の大手IT企業に取り込まれてしまうのです。大学との連携は、スタートアップのM&Aと然して変わりはありませんので(「Beyond AI 研究所」には、ソフトバンクから200億円が支出されるらしい…)、競争当局の許可を要するものとすべきなのではないでしょうか。

第二の解決策は、特に国費が投入されている国公立の大学の場合にはその公益性に配慮し、民間企業との連携には一定の歯止めをかけるというものです。特に汎用性の高い基礎研究については、連携企業にのみ研究成果が独占される状況では、他の企業や国民は納得しないことでしょう(基礎研究と応用研究とを分けて対処する方法も…)。公平な公開入札制度を導入する方法もありましょうが、これでも、落札企業による基礎的技術の独占が生じますので、最適な解決方法とは言えないかもしれません。

第三の解決策は、大学側の研究資金の不足を解消することです。政府が予算を増額するのがベストであり、基礎研究の分野であれば、なおさらのことでしょう。もっとも、それでも足りない場合には、民間から広く出資を集めたオープンな基金を設立するのも一案です。

 なお、今日の‘新しい独占’は、‘技術の独占’をも伴います。厄介なことに、‘技術の独占’とは、知的財産権を意味しますので、基本的には競争法の適用除外なのです。‘新しい独占’への対応が一筋縄ではいかないのも、知的財産権が絡んでいるからです。知的財産権の問題については、詳述は後日に譲るとしますが、少なくとも、大学と民間企業との研究については、それが競争法の‘抜け道’になる可能性があるのですから、早急に対策を講じるべきなのではないかと思うのです。

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株主至上主義が見直される当たり前の理由

2019年12月19日 15時49分57秒 | 国際政治
‘会社は誰ももの?’という質問に対して、一昔前は、‘株主のもの!’という答えが即座に返ってきたものです。株主の所有物とする見方が‘正解’とされてきたのですが、今日、近代以降、定着してきた株主至上主義が曲がり角に差し掛かっています。今年の8月19日、アメリカの経営者団体であるにあたるビジネス・ラウンドテーブルは新たな企業の行動原則を発表し、その中で、従来の株主至上主義を見直し、従業員、取引先、地域社会などの利益を尊重した事業運営に取り組むと宣言したのですから。つまり、株主は、数あるステークホルダーの内の一つに格下げとなったのです。

 これまで株主至上主義が‘定説’の地位にあったのは、資本家、あるいは、投資家こそ、企業利益の最大化に貢献する功労者と見なされてきたからです。つまり、貪欲、かつ、無制限に利益を求める資本家こそ‘神の見えざる手’の担い手であり、彼らの判断に任せていれば、企業も経済も自然に発展すると信じられていたのです。しかしながら、現実は、グローバリズムの最大の批判点が格差の拡大にあるように、資本牽引型の経済成長は人々の生活を必ずしも豊かにするわけではなく、時には、投機マネーが金融バブルとその崩壊をもたらし、人々を奈落の底に突き落としてもきたのです。今般の企業の行動原則の見直しも、ウォール街に対する強い風当たりをかわすためとの見方もあるほどです。

  現実の反証を受けて資本主義の権化ともされてきたアメリカにおいて同主義の見直しが始まったことともなりますが、考えてもみますと、同方向転換は、当然と言えば当然とも言えるように思えます。何故ならば、株主至上主義には、全ての人々を納得させるような正当な根拠が備わっていたわけではないからです。否、よりシンプルに考えれば、お金を出した人の利益が、働いている人、あるいは、そのサービスを受ける人々の利益よりも優先されるはずはありませんし、出資は企業をまるまる買い取る行為でもないからです。

 当たり前のことが何故当り前ではなかったのか、その原因を探ってみますと、資本主義対共産主義の二項対立の構図が、人々の理性を曇らせてきたからなのかもしれません。プロレタリア独裁を唱える共産主義は労働者の利益を最優先しますので、株主至上主義の対極にある労働者至上主義となります。そして共産主義者たちは、資本家階級を搾取者としてその打倒を叫び、資本の公有化を唱えましたので、‘労働の評価⇒私有財産の否定’の定式がイメージとして定着してしまったのです。

ところが、この定式、必ずしも必然性があるわけではなく、全く逆の立論を試みた自由主義の思想家もいないわけではありません。例えば、ジョン・ロックの労働価値説に従えば、所有権とは、それの開発に自らの労働を投じた者に生じることになります。ロックは、土地の開拓者による所有権取得の正当性を説明するためにこの説を唱えましたが、土地に限らず、労働を投下した者に所有の権利を認める考え方は珍しいわけではなく、古今東西を問わず、人類史において普遍的に見られます(日本国では、墾田永年私財の法など…)。貨幣の所有もまた、それが報酬や給与と云う形態であれ、労働が評価された結果とも言えましょう。余談ですが、定住民族に領域を含む国家保有の権利を認める今日の国際社会の原則も、国家の建設と発展を担ってきた定住民族に対する既得権の保障と言えなくもありません。何れにしましても、歴史的にみても、一般的な理性に照らしても、‘労働の評価⇒私有財産の肯定’の図式の方が遥かに理に適っているとも言えましょう。

しかしながら、上述した労働の評価が共産主義と結びついたことにより、資金の貸し手、あるいは、出し手に過ぎない資本家よりも働く人々を評価し、労働分配率を上げるべきとする意見は、あたかも経済成長の足を引っ張る共産主義者、あるいは、私有財産否定論者のレッテルが貼られるようになりました。また、資本主義対共産主義の対立構図は、社内にあっても経営側と労働側の二項対立をももたらしてきのです。両者とも、共通の目的を実現するために協力関係を築くべきにも拘わらず…。そして、この間、深い議論がなされることもなく、何時の間にか企業は株主のものであって、企業の目的は、収益の最大化を求める株主に利益を還元することにあるとする見解が、経済学においても定説の如くに扱われるようにもなったのです。従業員を冷たくリストラしたり、途上国で搾取的な労働を強いる経営の方が、株主利益を最大化する見習うべきモデルとして評価されてもきたのです。

圧倒的大多数の人々が資本家ではないにもかかわらず、人々が株主至上主義を受け入れてきたことは、考えても見ますと不思議な現象でもありました。株主至上主義の問題点が明らかとなった今日、先ずは、固定化されてきた資本主義対共産主義の対立構図から抜け出ることが必要なようにも思えます。そして、AIが実用化の段階に入り、人々の働き方にも根本的な変革をもたらしかねない時代にあってこそ、働くこととその報酬のバランスを含め、人間らしさを失わない調和のとれた経済の在り方を原点に帰って考えてみるべきなのかもしれないと思うのです。

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プラットフォーマーに私的検閲権を認めるべきか?

2019年12月18日 14時58分13秒 | 国際政治
 本日の日経ビジネスの電子版に、「グーグル幹部が力説するプラットフォーマーの責任」と題するインタヴュー記事が掲載されておりました。話し手は、グーグルでトラスト&セーフティ統括バイスプレジデントを務めるクリスティ・カネガッロ氏なのですが、記事の内容を読みますと、どこか歯切れが悪いのです。

 とりわけ首を傾げてしまうのは、「国のトップがフェイクニュースを流すことへの対策はどうしているのか。」とする問いに対する回答です。冒頭で「我々は何が真実で何が真実でないかを判断する立場にいるとは思っていない。」と述べた後で口を濁してしまい、その後は、グーグル社で推進している「グーグルニュースイニシアチブ」の説明に話題を移してしまうのです。因みに、「グーグルニュースイニシアチブ」とは、報道機関との連携を強める協力枠組みであり、カネガッロ氏によれば日本国内でも、既に4000人以上の人々が‘トレーニング’を受けているそうです。‘トレーニング’という表現からしますと、双方向的で対等な‘協力’というよりも、‘イニシャチブ’という言葉が表すようにグーグル社が報道関係者に何らかの‘技’や‘ノウハウ’を一方的に教え込んでいるイメージが浮かんできます。何れにしましても、政府発のフェイクニュースに対する具体的な対策については語っていないのです。

 グーグル社がインタヴューに応じた理由は、おそらく、データの独占や私的検閲等の問題で高まるプラットフォーマーに対する風当たりを和らげたかったのでしょう。プラットフォーマーも、社会的責任を誠実に果たしている点を強調すれば、あるいは人々の猜疑心を晴らすことができると考えたのかもしれません。しかしながら、この狙い、回答をはぐらかしたのでは逆効果となるのではないかと思うのです。読者たちは、‘真摯に回答しようとしないグーグル社は、やはり怪しい’と思うようになるからです。

 そもそも、プラットフォーマーが国家発の‘フェイクニュースの真偽を判断する立場にない’とすれば、民間の一般の人々が発信した情報についても真偽の判断はできないはずです。情報の真偽を確認する作業は決して簡単なことではなく、ネット上にアップされたその瞬間に真偽を判別するのは人の能力を超えています。裁判のプロセスを見ても分かるように、事実認定を行うまでの間には、現場検証、証拠集め、関係者からの事情聴取など、時間を要する様々な手続きを要します。誰もが分かるような明確な嘘ではない限り、情報局の分析官ですら情報の真偽の判別は難しいのです(情報のプロでもしばしば偽情報を掴まされてしまう…)。AIであればできる!とする主張もありましょうが、判断材料としてインプットされたデータがフェイクであったり、あるいは、判断に不可欠となる重大な情報が欠けていたりすれば、真偽の判断を誤ることでしょう。データの取捨選択を人が主観に基づいて恣意的に行えば、結果を操作することもできるのです。

 加えて、フェイクニュースの発信者は、必ずしも悪意があるわけでもありません。特に危険回避のための情報、あるいは、知るべき事実ではあっても言葉にするのが憚られるような情報等については、善意や正義感からネット上で拡散されているもの少なくないのです。しかも、上述したように、プラットフォーマーによる真偽の判別が不可能、あるいは、不正確であれば、フェイクニュースを否定した側がフェイクニュースの流し手として罪を問われるケースもあり得ます。

 そして、同インタヴューで考えさせられるのは、質問者もそれに答える側も、国家のトップ、あるいは、政府が嘘を吐くことを認めていることです。政治的プロパガンダの大半は嘘混じりですし、特に日本国は、中国、北朝鮮、韓国等の近隣諸国の国家ぐるみの嘘に苦しめられてきました。国家の嘘が自明の事実であれば、グーグル社の上記の逃げ腰の回答は、‘弊社では、国家のトップの嘘についてはフェイクニュースの判定はしません’ということなのでしょう。そうであるならば、むしろ、正直に本音を述べた方が誠実な態度であり、人々の信頼をも勝ち得たのではないでしょうか。

 しかも、政府の嘘も然ることながら、同インタヴューでは、‘正規のソースから出てくる情報を優先的に提供する’とも語っております。この‘正規のソース’とは、マスメディアを意味するのでしょう。日本国内ではマスメディアに対する不信感が拡がっており、世界レベルでみても、国家のトップや政府のみならず、マスメディアも嘘をつきます。意図的ではないにせよ、誤報もあるのですから、‘正規のソース’が必ずしも事実であるとも限りません。

以上のインタヴュー内容を考慮しますと、プラットフォーマーは、国家とマスメディアの嘘は黙認すると言うことになりましょう。それでは、プラットフォーマーが国家とマスメディアの嘘を野放しにする一方で、社会的責任のみが強く求められるとなりますと、どのような事態が起きるのでしょうか。予測されるのは、一般の人々は、情報の発信者ではなく、ネット時代以前の受け手の立場に押し戻される共に、プラットフォーマーが私的検閲権を行使する社会の出現です。ネット時代とは、既存のマスコミを経由せず、人々がバイアスのかかっていない様々な情報に自由にアクセスし得る時代として歓迎されてきましたが、フェイクニュース対策を根拠としてプラットフォーマーとメディアがタッグを組むことにより、時代は過去に向かって逆転しかねないのです。

考えてもみますと、フェイクニュースに関する真の責任者は情報の発信者であって、それらの伝達手段をサービス業として提供しているプラットフォーマーが責任を負うべき問題ではないはずです。例えば、ある人が公衆の前でフェイクニュースを公言すれば、その責任は発言者自身に帰せられます。ところが、ネット時代の今日では、プラットフォーマー責任論が主流なのです(もっとも、最近公表されたデータ管理に関する国際ルールの試案では、プラットフォーマーの責任は軽減されている…)。逆説的に言えば、SNS上の書き込みに関してプラットフォーマーの責任を問わなければ、私的検閲権を認める必要もないと言うことにもなりましょう。このように考えますと、プラットフォーマーの私的検閲権に関しては、責任の解除による縮小の方向性での議論もあってよいはずなのです。

 なお、最後にグーグル社に対する不信感を強めたもう一つの理由を述べるとすれば、同インタヴューは、日本国内の一般ユーザー向けではなく、中国に向けたメッセージであった疑いがないわけではないからです。上述した「グーグルニュースイニシアチブ」も情報統制の手段に転じかねませんし、同インタヴューでは、‘(善悪の判断については)文化圏によって白黒が付きにくい状況が生じる’とも述べております。中国といった全体主義国では、メディアの嘘は日常茶飯事なのではないでしょうか(サーチナやレコードチャイナの記事にも明らかな嘘が多数混じっている…)。グーグル社は、中国市場への再参入を目指しているとも伝わりますが、逆効果を承知の上での有耶無耶な回答であるならば、それは日本国民向けの説明ではなく、メッセージの宛先は中国ではなかったかとも思うのです。

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温暖化の真の原因は地球のヒートアイランド化では?

2019年12月17日 16時11分28秒 | 国際政治
 世界各地で異常気象が猛威を振るう中、スペインのマドリードで鳴り物入りで始まったCOP25。環境少女のグレタ・トゥンベリさんも現地入りしたものの、今回もまた玉虫色の決着に終わったそうです。人類の生存に適した地球環境の保全と云う目的においては全ての諸国は一致しながらも、かくも議論が紛糾し、見解の一致を得ない理由は、この問題が、各国のエネルギー政策や産業政策に多大、かつ、直接的な影響を与えるからです。乃ち、温暖化の原因は二酸化炭素の増加であると決めつけられているため、二酸化炭素の排出量削減という負担が各国の肩に重くのしかかるからです。

 しかも、環境問題に関しては産業界も一枚岩ではありません。二酸化炭素の削減義務は、巨大な環境ビジネスをも生み出しているからです。再生エネルギー事業者、原子力関連の事業者、並びに、排出権取引にビジネスチャンスを見出している事業者等は削減強化に賛成ですが、石油・石炭関連の事業者、燃料や原材料としてこれらに依存する産業に従事する人々、並びに、製造過程で二酸化炭素を排出する企業等は当惑気味です。加えて、環境問題は社会問題化もしておりますので、一般の人々の間にも同問題に対する思想やイデオロギー上の温度差も見られるのです。言い換えますと、政治、経済、社会の何れを舞台にしても、地球温暖化問題は分裂含みなのです。

 地球温暖化現象が報告され、それが世界大の問題として認識され始めた当初は、各国が解決に向けて協力し合い、国際社会、あるいは、人類が体となって取り組むことができるグローバルな課題として期待されていました。ところが、現実はと申しますと、むしろ国益が激しくぶつかり合う闘争の場と化しており、昨今のトゥンベリさんの登場により、国境を越えた世代間対立まで引き起こしているのです。‘怒れる若者たち’が、彼らの未来を潰す無責任な人々として‘大人たち’を糾弾しているのですから。

 マスメディアの基本的な方針もあって、今では、二酸化炭素の削減に消極的な人々は‘化石人’扱いされ、頭の固い悪者のレッテルを貼られているのですが、実のところ、どちらの頭が固いのか分からない側面はあります。何故ならば、温暖化ガス削減に血眼になっている人々は、地球温暖化を含む異常気象の原因の全てを二酸化炭素に負はしめているからです。二酸化炭素犯人説については、メディアの殆どは科学的に証明されていると力説していますが、異論がないわけではありません。過去の地球を振り返りますと、温暖期もあれば寒冷期もありますし、人類の活動の如何に拘わらず、自然的な要因によっても地球の気温は変動するからです。

 また、空気中の二酸化炭素の濃度がわずか0.05%であることを考えますと、科学者たちが如何にデータを並べて説得を試みようとしましても、一般的な感覚からしますと、二酸化炭素犯人説は俄かには信じられないようにも思えます(科学的な見地から疑問を呈する研究者もいる…)。そして、都会に住む人々が日常的に経験しているヒートアイランド現象の方が、地球環境問題の原因や対策を考える上でより参考となるようにも思えるのです。

 ヒートアイランドの原因として挙げられているのは、(1)地表の被膜の人工物化、(2)排熱の増加、(3)都市の高密度化、(4)気候の影響です。これらの原因を地球温暖化に当て嵌めますと、(2)のエアコン等の使用による排熱の増加の影響は微々たるものかもしれませんが(もっとも原子力発電所犯人説はある…)、(1)については全世界レベルで砂漠化と森林の伐採が進んでいますし、(3)についても、都市への人口の集中は全世界レベルで進行しています。また、(4)については、最も地球の気温に影響を与える太陽の活動に注目する必要もありましょう。

 ヒートアイランドと地球温暖化との関連については、都市部でのヒートアイランドが数千キロ離れた遠隔地の温度を上昇させるとする研究報告もあり、直接的な影響も指摘されています。主因ではないものの、地球温暖化の一因とも指摘されていますが、その一方で、仮に、一切の偏向を排した客観的なデータに基づいて実際に地球が温暖化しているならば、都市部に限らず、地球そのものがヒートアイランド化している可能性も否定はできないのではないでしょうか。仮にそうであるならば、ヒートアイランド対策と同様に、まずは、砂漠化や森林伐採を防止し、直射日光が地面に直接に当たらないよう緑化、並びに、森林保護に努めるべきとなりましょう。そして、二酸化炭素削減を声高に叫ぶ人々は、対立や分裂を煽りこそすれ、事実や真に有効な対策から人々の目を背けさせているのではないかと疑ってしまうのです。

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