万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

マネー・パワー時代のマスメディアに見る主客逆転

2024年04月24日 12時08分50秒 | 統治制度論
 ネットニュースを見ますと、大手新聞各社や通信社、あるいは、出版社等が発信している記事と、商業的な広告は基本的には区別されています。後者には、‘広告!’や‘PR’といった表示が付されていますので、ユーザーは、瞬時にそれがニュースであるのか、コマーシャルであるのか判断できるのです。時々、うっかり見落としてしまいますが、ネットのニュース欄については、宣伝マークの表示のある記事が加えられていることによって、ネット広告が運営する事業者の収益源となっていることが分かります。もっとも、広告が収益源となるのは、テレビ局や新聞社などメディア事業者に共通していますので、とりたてて目新しいことでもないのかもしれません。しかしながら、今日、世界経済フォーラムに象徴される世界権力のマネー・パワーが猛威を振るい、人類の未来をも牛耳ろうとしている現状を考慮しますと、企業と消費者との間に見られる主客逆転が、マスメディアの世界にも起きているように思えるのです。

 マスメディアについては、三権分立を構成する立法、行政、司法の三つの権力と並ぶ‘第四の権力’とも称され、あたかも独立した権力としてのイメージがあります。中立・公平な立場から他の三つの権力をチェックすると共に、国民が政治、経済、社会等の問題を考えるたり、判断するに際して必要となる重要な情報を、独立的な立場から提供する機関として理解されていると言えましょう。民間企業が大半を占めながら、‘社会の木鐸’という表現も、こうした公的な役割に由来しています。また、憲法や法律が報道の自由を保障するのも、マスメディアの独立性、並びに、中立・公平性を保ち、国民が必要とする情報の提供者としての立場を護る必要があるからに他なりません。

 しかしながら、その一方で、 ‘革命を成功させるには、先ずは放送局を占拠せよ’と言われるように、権力を掌握した‘支配者’が直接に‘被支配者’に対して自らの意思を伝えようとすれば、その手段として通信システムを使わざるを得ません。メディアは、支配の道具でもあります。この点、現代におけるラジオやテレビの発明は、直接且つ瞬時に伝達を可能とする好都合な手段を権力者に与えたのであり、インターネットやスマートフォンが普及した今日にあっては、さらに利便性が‘アップ’しているのです。

 マスメディアの二面性は、情報を発信する側と受け取る側との主客逆転をも意味しています。多くの国民は、マスメディアを自らの情報ニーズに応える存在、即ち、人々が‘主’であってマスメディアが‘客’であるとする構図において信頼を寄せ、その報道内容を客観的な事実と見なしがちです。ところが、現実には、マスメディアとは、権力を握る者の支配の道具であって、情報の発信者が‘主’となって受け取る側は‘客’に過ぎなくなるのです。

 世界権力も、人類に対する支配権を握ろうとすれば、上述した政権奪取の‘マニュアル’の通りに行動することでしょう。つまり、全世界のマスメディアや通信システムを自らのコントロール下に置こうとするものと推測されるのです。否、既にそれは現実の物となっており、マスメディアにおける主客逆転は、今日、その‘主’がマネー・パワーを握る者であるために、様々な不可解な現象を引き起こしているとも言えます。世界経済フォーラム礼賛一辺倒の報道、地球温暖化懐疑論やコロナワクチンリスクに対する言論封鎖、視聴者から好感を持たれていない人物の頻繁なる起用、○○ハラスメントとも称される特定の人物に関する記事の過剰発信、世論を反映しない世論調査の結果、第三次世界大戦への誘導が疑われるウクライナ支持傾斜の報道姿勢等など、数え上げたら切がありません。

 こうした目に余る主客逆転は、テレビ離れや大手メディアに対する国民の不信感が募る要因でもあります。逆に、SNSといった民間におけるコミュニケーション手段が一定の信頼性を得ているのも、一方向性を特徴とする既存のメディアとは違い、前者にはある程度の相互方向性が成立する余地があるのみならず、個々の自由意志に基づく情報発信が可能であるからなのでしょう。後者には、主も客も基本的には存在しないのです。

 上述してきたマスメディアの現状を考慮しますと、情報通信インフラについては、民間の事業者の所有物ではなく、自由な言論空間を護るための国民の公共インフラとしての位置づけをより明確にする必要がありましょう。そして、マスメディアそのものを、マネー・パワーによる支配から解放する、すなわち、その独立性が保障されるべく、制度的な工夫を凝らすべきではないかと思うのです。

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原爆投下の違法阻却事由の問題

2024年04月10日 13時17分08秒 | 統治制度論
 20世紀初頭に成立した「陸戦法規慣例条約」等の条文を読めば、連合国側による国際法違反行為があったことは明白です。今日、イスラエルによるガザ地区に対する攻撃が国際法違反であるのと同様に、民間人を大量に殺害する行為は、当時にあっても国際法、即ち、戦争法に反していたと言えましょう。とりわけ、一夜にして都市を焼け野原にし、住民の命を奪った都市空爆は、弁明の余地がないように思えます(違法阻却事由がない・・・)。

 違法阻却の事由とは、主として(1)正当な行為、(2)正当防衛、(3)緊急避難の三点ですが、都市空爆は、何れにも当たりません。戦争法とは、戦時下にあっても人類が野獣の如き野蛮な状況に墜ちないように、人道的な配慮から制定されていますので、‘皆殺し戦法’が、正当な行為に当たるはずもありません。また、当時にあって、アメリカは既に日本国から制海権も制空権も奪っていましたので、開戦時の真珠湾攻撃とは違い、正当防衛と言える時期も過ぎています(そもそも、アメリカ側が‘防衛’を主張できる状況にもない・・・)。ましてや、緊急避難であるはずもありません。また、仮に戦争の終結を早め、日米両国民の被害を最小限に留めることが目的であったならば、日本国側からの終戦交渉の動きを察知した時点で、連合国側も、即座にこの動きに対応すべきであったと言えましょう(もっとも、この点においては、日本国側にも、‘国体の護持’への強固なまでの拘りがあり、全く責任がないわけではない・・・)。さらには、対ソ威嚇手段としての使用であれば、なおさらに違法阻却の事由とはならないはずです。

 アメリカが戦後国際軍事法廷の場で裁かれなかったのは、法そのものは存在していても、公平・中立的な立場から事実を確認した上で、裁判を行なう国際司法制度が、1945年の時点では整っていなかったからなのでしょう。このため、‘勝者が敗者を裁く’形となり、対日都市空爆は不問に付されたままに今日に至っているのです。なお、日本国に対する違法な攻撃については、日中戦争時における日本軍による違法行為の主張をもって正当化されることがありますが、今日のイスラエル・ハマス戦争にあってハマスによるテロ行為がイスラエルのガザ地区住民に対するジェノサイドを正当化できないように、違法阻却事由とならないことは確かなことです。なお、仮に、中国が‘南京大虐殺20万人説’を主張するならば、第二次世界大戦時に行なわれた‘裁かれざる罪’の全てに対する裁判の実施を主張すべきであり(もちろん、厳正なる証拠集め等も必要・・・)、それには、勝者となった連合国も含めなければ、近代司法制度の要件を著しく欠くこととなりましょう。

 かくして、都市空爆は‘裁かれざる罪’となるのですが、ここで一つ、考えなければならない点は、新型兵器の開発競争という核兵器のみが有する側面です。実のところ、同問題を複雑にしている要因は、まさにこの側面にあります。アメリカによる原爆投下を正当化するに際して、しばしば日本国も原子爆弾の開発に着手していた、とする指摘があるからです。自らも原子爆弾を投下する可能性があったにも拘わらず、先に開発に成功したアメリカばかりを糾弾するのはフェアではない、という主張です。この主張の先には、上述した違法阻却事由の否定を覆す根拠が持ち出されることも推測されます。即ち、日本国がアメリカよりも先に原子爆弾を製造し、それを使用するのを未然に防ぐための正当防衛行為である、あるいは、日本国による開発が目前であったために、緊急避難的な措置として開発に先んじて成功したアメリカが使用した、というものです。核兵器には、通常兵器とは桁違いの、戦局を逆転させるだけの破壊力が理論上予測されていましたので、こうした正当化論もあり得ないわけではないのです。

 原爆投下正当論の一角としての日本国による原子爆弾開発の主張については、戦争末期にあって、その‘脅威’がどの程度であったのか、すなわち、違法阻却事由の有無を判断するためには、日本国側の研究開発の進捗状況を事実として確認する必要がありましょう(一説に依れば、核兵器の運搬手段として、日本国は、潜水艦発射型すなわちSLBMの先駆けともなる技術も開発していたとも・・・)。何れにしましても、この問題は、核兵器の保有における非対称性という今日的な問いをも含んでおり、人類を核戦争から救ったとする、結果論としての見解とも繋がってくるのです(つづく)。

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現時点の民主主義の制度化は初期段階に過ぎない

2024年04月05日 14時33分48秒 | 統治制度論
 組織の基本モデルは、独裁のみならず、今日の諸国家における民主主義の制度化が、如何に不十分で初期的段階に過ぎないのかを説明します。否、今日、あらゆる諸国の国民を苦しめ、悩ませている問題の多くも、未熟な統治制度に起因しているのかも知れません。政治腐敗や権力の私物化、さらには、グローバルレベルで進行している世界権力による国家主権の侵害等も、元を訊ねれば、その原因は国民の声が届かない現行のシステムにあるとも言えましょう。

 統治機能の起源とは、分散、かつ、集団を成して生きてきた人類のニーズに求めることができます。危険に満ちた自然の中で生きてゆく、あるいは、他の集団からの攻撃に対処するためには、集団が結束して自らの安全を護る必要がありましたし、公共物の建設などは、資材や労力を分かち合いながら皆で協力しながら行なう必要もありました。また、個々の生命や身体等が相互に護られなくては、暴力が支配する‘この世の地獄’となってしまいます。統治機能とは、人々が生きてゆく上で必要不可欠であり、それは、一つではなく複数存在していたのです。統治の諸機能を人々に提供するために要する権力こそ‘統治権力’と言うことになりましょう。

 統治の諸機能の起源を振り返りますと、民主主義とは、机上の空論ともなりかねない特別の価値ではなく、理に適った当たり前のことなのです(民主主義は始まりであって終わりでもある・・・)。ところが、一端、統治権力が成立しますと、それを誰が行使するのか、という問題が生じます。古今東西を問わず、この統治権力は、実力、通常は武力に勝る者によって握られるのが常でした。この現象を、提案、決定、実行、制御、人事、評価の機能から成る組織の基本モデルに照らしますと、人事権は、力によって特定の個人により掌握され、決定権は、実力で統治者となった人物によって凡そ独占される形となります。そして、実行は、決定権を握る人物の配下の者達が務めたのでしょう。その一方で、当時にあっては、他の組織上の諸機能、即ち、提案、制御、評価については、その存在は意識にさえ上っていなかったかも知れません。つまり、人類史における統治システムは、昨日の記事で掲載した独裁モデルと同様に、決定機関と実行機関の二者からなるシステムが大半を占めてきたのです。

 統治権が建国や王朝の始祖からその子孫に受け継がれてゆく世襲制度もまた、統治者の座の獲得が武力に依らないという点において違いはあるものの、人事権は決定者、あるいは、その近親者の手にあり、両者は融合しています。民主主義が、何より先に選挙制度において制度化されたのも、人事権を介して決定権を国民の元に戻したいという、人々の願望があったからなのでしょう。そして、それは、決定権と人事権の分立をも意味したのです。

 かくして民主的な普通選挙の導入は、民主化のメルクマールとされたのですが、同制度をもって民主主義が十分に実現しているのか、と申しますと、そうではないようです。何故ならば、決定権をはじめ、提案や制御、そして、評価の機能に関する権限については、国民は蚊帳の外に置かれているのが現状であるからです。決定権については、国民投票制度が導入されている国は僅かですし(全ての政策や法案について国民投票に付すことは不可能であっても、国民全員が関わる重大な決定については国民投票が相応しい・・・)、提案権に関しても、たとえ国民発案の制度が設けられていても、この制度はほとんど機能していません。国民が提案し得るルートの欠如は、民主主義を実現する上で致命的な欠陥となりましょう(国民のニーズに応えることができない・・・)。また、国民による制御の相対的な脆弱さが、今日、権力の濫用や私物化、並びに、腐敗を招いていることも疑いようもなく、国民の評価が政治にフィードバックされる経路もありません。しかも、肝心の人事権さえも、不正選挙疑惑が持ち上がるように、常に、グローバルな独裁体制の樹立を志向するマネーパワーに脅かされているのです。

 組織の基本モデルに照らしますと、現行の統治機構の構造的な諸問題が自ずと明らかになってまいります。民主主義の制度化は、今日、初期的段階に過ぎないのです。このように考えますと、同モデルは、国民が未来に向けて国家体制や統治機構の改革や改善を志すに際して、その進むべき道をも示しているのではないかと思うのです。

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組織の基本モデルが説明する独裁体制が無理な理由

2024年04月04日 12時13分18秒 | 統治制度論
 世の中には、共産主義というイデオロギーをもって一党独裁体制を正当化する共産主義者や、カリスマ性あるいは卓越した指導力を備えた人物が救世主の如くに登場することを待望する人々がおります。また、近年、別格化された教祖をトップに戴く新興宗教団体の政治介入が公然と行なわれていますし、グローバリストによる隠れた世界支配も独裁体制の典型例と言えましょう。現代という時代にあっても、独裁体制は、陰に日向に蔓延っているのです。こうした独裁体制に心から憧れ、心酔している人々に対して、独裁体制の根本的な欠陥を説得する作業は困難を極めます。言葉を尽くしても、その頑な心を変えることはできないかもしれません。それでは、半ば信仰化した独裁擁護論に対しては、打つ手はないのでしょうか。

 古代ギリシャのポリス世界では、僭主(独裁者)の出現は、市民達が最も恐れた政治的な危機でした。アテネに至っては、僭主となりそうな危険人物を投票によって追放するという、陶片追放制度まで設けて僭主の出現を未然に防ごうとしたほどです。古代人のほうが、余程、一人の人物に公権力を独占されてしまう体制の弊害について熟知しており、陶片追放制度も、それが自由であるはずの市民達の身に迫る現実的な危険であったことをよく表しています。共和制ローマにあっても、独裁官は戦時における臨時のポストであり、しかも、独裁体制の固定化を防ぐために任期は半年に限定されていました。

 一人の人物に全メンバーの生殺与奪の権を握られてしまう恐怖は、古今東西を問わず、人類が経験してきた災難です。世界史の教科書でさえ、近世ヨーロッパの絶対主義体制は、君主が何らの拘束もなく絶対的な権力を振るい得る忌まわしき国家体制として記述されています。理性に照らして常識的に考えれば、独裁体制を擁護する理由も根拠も見出せないのですが、何故か、現代の政治の世界を見てみますと、上述したように右にも左にも独裁容認論が散見されるのです。

 洗脳等によって内面の価値として独裁が心を捉えている場合、確かに言葉で説得することは難しいのですが、一つ、効果的な方法があるとしますと、それは、分かりやすい図で説明することです。“視覚による認識と理解”という別の物事の把握ルートを使ってみるのです。この点、昨日の記事でアップしました組織の基本モデルは、独裁の問題を視覚おいて把握する上で役立つかも知れません。

 如何なる組織にあっても、その健全性と発展性を備えるためには、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価の諸機能を分立させる必要があります。とりわけ、提案、制御、人事、評価の四者は外部に設けませんと、同組織のメカニズムは働かなくなります。この観点からしますと、独裁体制では、組織に備えるべき機能の内、健全性と発展性を保障する重要な外部的な諸機能が、一人の人物に溶け込むことで、消滅してしまうからです。つまり、独裁体制とは、‘決定’と決定事項の忠実な‘実行’の二者のみからなる、極めて単純なるシステムなのです。外部的諸機能の不在は、独裁者による暴走や権力の私物化等を、誰も止めたり、変更させたりすることができず、評価のフィードバックの経路がない以上、組織としての発展性も望めないことを意味します。その仕組みが欠けているのですから。

 ここに分立体制としての基本モデルと独裁モデルとを並べて掲載してみましたが、両者を比較した場合、圧倒的多数の人々が、分立モデルの方を支持するのではないでしょうか。両者を比較してみれば、共産主義者をはじめとした独裁擁護論者の人々でも、独裁者の無誤謬という現実にはあり得ない条件を挙げない限り(この条件を満たすことはできないので、他者を説得することはできない・・・)、基本モデルに対する独裁体制の優位性を論理的に述べることは難しいのでしょうか。


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最善の制度設計を求めて

2024年04月03日 11時22分42秒 | 統治制度論
 戦争であれ、政治腐敗であれ、貧困化であれ、世の中で何か良からぬ出来事が発生した際には、常々、その原因を当事者個人に求める見解とその出来事が起きた外部環境を問題にする見解とに分かれがちです。もちろん、原因が複合的であるケースも少なくないのですが、特に何らの罪もない人々が被害者となってしまう場合には、後者、すなわち、制度や仕組みに何らかの欠陥があるケースの方が多いように思います。

 ところが、制度設計の善し悪しがこの世の不幸の大方の原因となっているにも拘わらず、善き制度や組織の在り方が真剣に探求されてきたわけではありません。政治の世界では、むしろ、現状に対する人々の不満は、平等を掲げる共産主義といったイデオロギーが吸い寄せてきましたし、その反対に、国家主義や民族主義の高揚によって解消させようとする傾向もありました。伝統宗教、あるは、新興宗教を含めた思想による不満の解消方法は、得てして権力者に利用されがちであり、たとえその主張に傾倒して活動に協力し、革命やクーデタ等によってその‘理想’を実現したとしても、そこで直面するのは自らが目指していた理想とは逆の現実です。騙されたことに気がついても、‘後の祭り’となるのが常なのです。

 思想や宗教による解決の末路を知ればこそ、これらを歴史の教訓として、人類は、別の道を探るべきです。そして、その別な道こそ、力学的な視点を含めた構造全体のメカニズムを見据えた上での善き制度設計の探求ではないかと思うのです。そこで、ここに試案として、制度設計に際して役立つものと期待される基本モデルを作成してみました。決して難しいものではありません。

 同モデルは、組織の健全性並びに発展性を備えた組織に必要とされる諸機能によって構成されています。具体的な制度として実現可能であり、かつ、多くの人々が納得し得る合理性を追求している点において、上記の思想やイデオロギー等による解決方法とは大きく違っています。そして、こうした基本モデルがあれば、誰もが、同モデルに照らして制度の‘善し悪し’を判定できるようになるのです。

 ‘善き組織’にとりまして必要となる諸機能とは、およそ、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価となります。掲載した図で示されますように、これらは一つのフローなシステムを構成しています。何れが欠けても組織は機能不全に陥ったり、何らかの問題を抱えることになるのですが、ここで強調すべきは、同モデルは、権力分立の必然性をも説明していることです。何故ならば、一人の人物、あるいは、一つの機関がこれらの機能に関する権限を独占した場合、同組織のメカニズムが働かなくなるからです。つまり、これらの機能に関わる諸権限は、諸機能間の相互作用が効果的に発揮できるようにバランスを考慮しつつ、それぞれ別の機関に配置する必要があるのです。

 組織上の機能が複数存在することは、今日にあって定式化されている‘三権分立’に拘る必要はないことを意味するのですが、これらの権限は、‘一機関一権限’を原則とする必要もありません。組織の目的や決定事項の内容、あるいは、組織のメンバーや利害関係者によって権限を複数の機関やポストで分有させることもできます。基本モデルとは、あくまでも組織上の諸機能の流れと各々の役割を抽象化して図として表したものであり、具体的な制度の詳細については、基本を押さえさえすれば、それぞれの組織の個別的な状況や条件に合わせて、如何様にも設計できるのです。

 この基本モデルは、政治分野における国家や国際機関等の制度設計のみならず、企業の組織形態を含めてあらゆる組織に適用できます。そして、今日における諸問題の解決に際しても、万能ではないにせよ、大いに役立つのではないかと思うのです。

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世襲権力としての世界経済フォーラム

2024年04月02日 10時53分42秒 | 統治制度論
 民主主義体制が一般化した現代という時代にあって、政治権力の世襲は極めて困難となりました。一党独裁制を堅持している中国等の共産主義国家でさえ、北朝鮮等の極少数の国家を除いては、公式には世襲制は否定されています。もっとも、普通選挙によって国民から選ばれなければならない民主主義国家にあっても、政治の世界では世襲が横行しているのが現実です。日本国内でも、親や親族から‘地盤、看板、鞄’を引き継ぐ世襲議員は多々見られます。そして、そのより御し難く極端な事例こそ、世界権力の世襲なのではないかと思うのです。

 世襲とは、相続によって組織における特定のポスト、通常は、トップの座が継承される制度です。資産の相続であれば、それは家族や親族、あるいは、縁者といった私人間における所有権の移動に過ぎません。その一方で、世襲という制度には、組織が関わるだけに、それが民間組織であれ、私的な領域に留まらない‘公的’な側面があります。この世襲の‘公的’な性質こそ、適性や能力を欠いた政治家の出現のみならず、特定の一族による公権力の私物化や権力の濫用の懸念が常に付きまとう要因であり、実際に、世襲議員が、自らの私的な利権のために利益誘導を試みる事例は枚挙に暇がありません。

 世襲議員の存在は、平等を原則とする普通選挙が実施されつつも、民主主義国家にあっても、国民の参政権、とりわけ、被選挙権が著しい制約を受けていることを意味します。そして、それは、事実上、大富豪や利権屋しか立候補することが出来ないアメリカの大統領選挙に象徴されるように、しばしば‘お金のかかる選挙’が原因として指摘されてきたのです。かくして、民主主義の阻害要因として選挙資金の問題に注目が集まるのですが、グローバル化した今日にあっては、もう一つ、盲点ともなる政治権力の世襲があるように思えます。それは、金融・経済財閥の一族による隠れた権力の世襲です。

 国家レベルでの政治権力の世襲は、民主的選挙制度をもって公的には否定されており、政治家の子弟や親族とはいえ、国民の選挙権、即ち、人事権の行使の結果に服する必要があります。上述したように、この選挙という高いハードルは、‘マネー・パワー’を持つ者であれば、容易に乗り越えることが出来るのですが、世界権力を構成する金融・経済財閥には、選挙の場で国民の評価を受けなくても済む立場にあります。株式を遺産として相続しさえすればよいのです。社内やグループ内選挙を通して選出される必要もありませんし、他の組織のメンバーから‘権威’の承認を求める必要もありません。ポストの無条件継承であり(唯一の条件は血縁関係・・・)、自動就任という極めて稀な形態となるのです。

 今日の株式制度は、経営権の全面的な掌握ではないにせよ、株主には経営への‘参加権’が伴います。この文脈においては、経済における事業組織としての株式会社の形態こそ、私人による経済支配が生じる主因とも言えましょう。そして、無条件継承であるからこそ、政治の世界で批判されてきた世襲の諸問題が、今日、世界権力という極端な形で表に現れているとも言えるのです。

 何故ならば、何と申しましても、資産の相続は他者の合意や承認を要せずして、世界権力のメンバー資格の‘無条件継承’を保障しますので、他者、即ち、非メンバーとなる他の人類を冷酷に扱うことができます。コロナ・ワクチンを利用した人口削減計画が信憑性を帯びるのも、ITやAI技術の普及によるデジタル全体主義化が懸念されるのも、所得格差が放置されるのも、一般の国民が望まない移民拡大策が推進されるのも、マスメディアが人類の低俗化を誘うのも、そして、戦争ビジネスのために戦争が画策されるのも、世界権力のメンバー達を外部から制御する仕組みが皆無に等しいからなのでしょう。しかも、他者から解任される心配もありませんので、終身の地位が約束されているのです。

 近年、大企業といえども、富裕層の道楽としか思えないような技術の開発に傾斜したり(空飛ぶ車や宇宙ビジネス・・・)、国民監視システムへの貢献が疑われるケースが増加したのも(顔認証やIoT家電・・・)、大株主としての世界権力の意向が強く働いたからなのでしょう(もっとも、株主の構成が分散している企業であるほどに、同リスクは低下する・・・)。あるいは、マネー・パワーによって、各国の政治家のみならず、‘一本釣り’のように企業のCEO等が取り込まれているのかも知れません。何れにしましても、経済の世界では、政治の世界を取り込みながら、無制御なパワーが猛威を振るっているのです。

 制度論並びに組織論からすれば、こうした暴走を許す仕組みは独裁体制の一種となりますので、人類にとりまして決して望ましいものではありません。今日、人類が直面している諸問題を解消し、世界権力の暴走を制御するためには、より個々人や各企業等の自律性や自由が活かされる組織形態や、制御可能な経済の仕組みを、未来に向けて考案する必要があるのではないかと思うのです。

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国際司法機関への単独提訴の道はある

2024年02月07日 13時41分24秒 | 統治制度論
 ICJ(国際司法裁判所)については、これまで、当事国の合意がなければ開廷されないとされてきました。特に竹島問題については、再三に亘ってこの点が指摘されており、同問題が司法解決できない理由とされてきました。訴訟手続きにあって当事国の合意を要件とするのは、司法制度としては致命的な欠陥となりますので、制度改革により、早急に是正すべきと言えましょう。犯罪者の同意がなければ、裁判に付すことも出来ないようなものです。その一方で、今般のウクライナ紛争にあっても、イスラエル・ハマス戦争にあっても、ICJは、ロシア並びにイスラエルに対して暫定措置命令を発しています。

 1945年6月26日に署名された国際司法裁判所規程の第40条では、ICJに対する事件の提起は(1)特別の合意の通知、並びに、(2)書面の請求によるものの二つとされます。この規程からしますと、(2)の書面による請求であれば、原告国による単独提訴が可能なように思えます。ところが、1978年4月14日に採択され、より詳細な手続きを定めた国際司法裁判所規則の第38条5には、「請求の相手国が当該事件のための裁判に同意するまでは、その請求を総件名簿に記載してはならず、また、手続き上いかなる措置ももってはならない」とあり、被告国の同意がなければ裁判手続きが先に進まない仕組みとなっているのです。こうした諸規定が存在するため、ICJは、単独訴訟を門前払いすると批判されてきたのです。

 その一方で、ICJは、‘国家の権利が回復不能の損害に陥る切迫かつ重大な危機に存している場合’を想定し、保全的、あるいは、救済的な措置を準備しています。先ずもって、国際司法裁判所規程の第41条には、暫定措置の条文が設けられており、ICJに対して、同裁判所が必要と認められる時には、各当事者のそれぞれの権利を保全するために暫定措置を指示する権利を与えたのです。この条文には、紛争当事国双方の同意を要件とする旨の規定は見られず、ICJの職権とも解されます。

 ところが、この暫定措置は、国際司法裁判所規則では、より制限的な表現が加わっています。規則の第73条1では、暫定措置の指示を求める要請は、‘その要請の関係する事件の手続き中いつでも’とあり、事件の受理と手続きの開始を条件としているようにも読めます。また、ICJの職権による指示を定めたとされる第75条1でも、‘暫定措置の必要性の有無の検討を決定することができる’とする曖昧な言い回しであり、‘検討の決定’が‘暫定措置の決定’と同義であるのかどうか、判然としません。続く第75条2も、暫定措置の要請があった場合の規程であり、同要請が事件の受理を前提とすると狭く解釈するならば、単独要請もできないことになってしまいます。

 それでは、この難題を、どのようにしてウクライナや南アフリカは乗り越えたのでしょうか。その方法とは、他の条約に定められている‘紛争解決手段の条文’を利用するというものです。今般の両国の要請は、いずれもジェノサイド条約違反を問うているのですが、同条約の第9条には、同条約の適用または履行に関する締約国間の紛争は、いずれかの紛争当事国の要請によりICJに付託されるとしています。つまり、この条文を足がかりにすれば、直接の紛争当事国ではない南アフリカであっても、イスラエルを提訴することが出来るのです。ロシアもイスラエルもジェノサイド条約締約国ですので、ウクライナや南アフリカの訴えは、締約国間の紛争となるからです。因みに、同手法は、南シナ海問題にあって、フィリピンが、国連海洋法条約に基づいて常設仲裁裁判所に対して中国を訴えた事例に類似しています。何れにしましても、他の条約の紛争解決の条文にICJへの付託が明記されている場合には、ICJは、単独提訴であってもこれを受理し、裁判手続きが開始されるのです。

 なお、ウクライナの提訴に対してロシアは応訴せず、不出廷を選択しています(事実上の単独提訴・・・)。裁判回避は、ロシアに弁明の機会を失わせますので、この判断は適切であるとは思えないのですが、ICJは、非公式ながらもロシアの主張を考慮しつつ、暫定措置を指示していました。その一方、南アフリカの要請については、イスラエルは同訴訟手続きに参加しています。

 以上に述べてきましたように、ICJの手続きは、それが迂回的なものであれ、より一般の司法手続きに近づいてきたと言えましょう。そして、規程の改定を急ぐべきは言うまでもないのですが、現状にあって領有権確認訴訟の形態が難しいのであるならば、この手法は、尖閣諸島や竹島問題等の日本国が抱える問題の解決にも応用できるかもしれないと思うのです(つづく)。

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イスラエル・パレスチナ連邦国家構想の行方

2023年12月04日 14時39分21秒 | 統治制度論
 『21世紀の資本』の著者として知られるフランスの経済学者トマ・ピケティ氏は、出口の見えないイスラエル・ハマス戦争を政治的に解決する方法として、一つの構想を提唱されております。それは、イスラエル・パレスチナ連邦国家構想です。もっとも、同構想は、ピケティ氏のオリジナルというわけではなく、イスラエル、パレスチナ双方が参加する市民団体「ア・ランド・フォー・オール」などが主張してきたそうです。しかしながら、この構想、実現するには、幾つかの高いハードルを越えなければならないかもしれません。

 ピケティ氏によれば、連邦構想とは、イスラエルとパレスチナの双方を主権国家として相互に承認した上で、両国の合意によって連邦国家を成立させるというものです。同連邦のモデルとして、各国の主権を残しながら国家が並立的に連合するEUを挙げていますので、アメリカやドイツのような連邦国家ではなく、国家連合と表現した方が相応しいかもしれません。何れにしましても、両国家を一つの統治の枠組みにおいて共存させようとする案です。

 この点、ピケティ氏は、「一国家二国民」と表現していますが、「ア・ランド・フォー・オール」の構想とは、基本的には、1947年11月の国連総会決議181号(Ⅱ)を下敷きにしています。同決議では、アラブ人とユダヤ人の各々に主権国家の建国を認め、両者間の国境線を引くと共に、経済統合に関する条文を置いているからです。むしろ、ECSC、EEC、ECといった経済分野での統合を経て今日成立しているEUの基本的モデルは、既に同分割に見られるのです。

 今日のEUでは、リスボン条約によってEUと構成国との間で政策権限が分けられています。およそ共通政策、両者による協調政策、並びに、構成国専属の政策三つに類型があるのですが、共通政策は関税同盟、競争政策、金融政策、通商政策、並びに、漁業政策の5つです。何れも経済分野の政策であり、政策の一本化によって加盟国を結びつける役割を果たしているのですが、イスラエル・パレスチナ連邦構想では、両国を統合する要となる政策領域は、「労働法」、「水資源の共有・分配」、「公共インフラ・教育インフラ・医療インフラの財源確保」の三領域です。これらの領域において、双方の国家にあって同一の政策が実施されることで、一先ず両国は、一部ではあれ政策統合された形となるのです。

 加えて、イスラエル・パレスチナ連邦構想では、EUと同じく四つの自由移動の原則が設けられているようです(もの、サービス、マネー、人の自由移動・・・)。双方の国民は、自由に相手国に移住することも、職を求めることもできるとされます。そして、上記の共通政策以外の領域については、双方の国民とも、居住国の国内法に従わなければならないとされます。

 しかしながら、両国における長年の対立関係、並びに、著しい経済格差からしますと、同構想の実現については悲観的にならざるを得ません。その理由は一つではないのですが、先ずもって、両者間において共通政策を決定し得るのか、という疑問があります。EUは、EU法を制定するための機構を備え、法的紛争に備えた司法制度も整えています。官僚的な行政機関としての委員会も設置されているのですが(競争法の領域では執行機関でもある・・・)、EUは、国境を越えてこうした政策形成や決定等を円滑に行える統治の仕組みがあってこそ機能していると言えましょう。

 一方、敵対関係にあったイスラエルとパレスチナ国の間にあっては、中立的な統治機構の構築には困難が予測されます。EUをモデルとすれば、共通議会の議員数や理事会での票数など、結局は多数決によって決定されますので、人口において若干であれパレスチナ人が上回わる現状からしますと、同モデルの採用は難しいかもしれません。また、交渉の末に共通の統治機構の設立にこぎ着け、両国合意のための合議機関や立法手続きが設けられたとしても、現実には、双方の反感から単一の政策や法の形成が困難を極め、実際に、一つの政策の策定に成功したとしても、それが双方の国にあって実際に実施されるかどうかは怪しい限りです。そして、そもそも一部の政策統合であれ、両国を一国の枠組みに押し込めることが解決策となるのか、疑問なところなのです(つづく)。

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政治力学とは何か-政治構造力学の薦め

2023年10月06日 11時18分56秒 | 統治制度論
 力とは、それが及ぶ対象に対して何らかの変化をもたらすものとして理解されています。たとえ外見的には変化が現れなくとも、圧力や温度が上がるなど、内部では力の作用によって何らかの目には見えない変化が起きているものなのです。このため、政治の世界でも、しばしば政治力学という言葉も使われています。

もっとも、政治力学という言葉が登場する時は、政治家同士の力関係が重要な決定要因となったり、有力政治家や団体等の発言が物を言うような場面が多数を占めます。例えば、法案の作成に際して、党内の有力幹部が自らの思惑や利害のために若手の意見をねじ伏せたり、ある業界において利権を有する政治家が口を挟むような場合、‘政治力学が働いたから仕方がない’といったような使われ方をします。また、政治家が関わらない純粋に民間の企業等にあっても、隠然たる影響力を有する内外の有力者からの圧力を、‘政治力学’として表現することも珍しくありません。何れにしましても、今日における政治力学という言葉の使われ方は、‘学’という文字によって惑わされがちですが、どこか密室的で不正なイメージが付きまとっているのです。

 こうした‘正式の手続きから逸脱した不当な力の行使’という政治力学のマイナスイメージの原因は、おそらく、その力がパーソナルな関係性において働いているからなのでしょう。正式な決定手続きにあって権限を有さない人物や団体等が、本来あるべき合理的な決定を歪めたり、妨げたりするからこそ、政治力学は忌み嫌われてしまうのです。‘○○議員には、△□でお世話になっている’、‘○△議員の言うことを聞いておけば損はない’、あるいは、‘△□議員は、頭の上がらない先輩である’といった、極めてパーソナルな関係が政治力学が働く経路なのです。言い換えますと、政治力学における力とは、正を不正に変化させてしまう作用として凡そ理解されているのです。

 かくして、政治力学という言葉は、時にして有力政治家にとりましては、自らの個人的な政治力を公式の職権を超えて行使し得る証でもありますので、いわば誇るべきことなのでしょうが、国民にとりましては、政治の公共性を損なう民主主義の阻害要因でしかありません。しかも、政治力学が日常用語となることで、政治における力はパーソナルな関係性といった狭い空間に閉じ込められてしまいがちとなります。こうした現状では、‘政治における正しい力の作用とは何か’といった根本的な問題も、影が薄くなってしまうのです。この風潮は、政治がイデオロギーと凡そ同一視されるようになった現代において、なおさら強まっているようにも思えます(共産主義が‘科学的’とは到底思えない・・・)。

 しかしながら、その一方で、政治における力の作用の研究は、現実の政治を改善する上でも有益なはずです。例えば、物理的な力の作用、すなわち、軍事の分野でも、力とその逆方向の抵抗力との関係は極めて重要です。国際社会における勢力均衡は、力のバランスに対する認識を欠いては成立しませんし、核の抑止力の問題も、突き詰めれば力のバランスの問題なのですから(この点、NPT体制は、力学的に見れば不均衡な構造である・・・)。物理的な意味において‘平和’が静止状態、すなわち、力の均衡を意味するならば、力学的なアプローチは欠かせないのです。

 そして、統治機構という構造物の設計に際しても、力学を避けて通ることはできないように思えます。そもそも、統治権力をその目的や機能に沿って複数の機関に分け、これらの機関に相互制御の作用を持たせるとする権力分立のメカニズムは、力の均衡に基づいています。政府や公的機関が国民から委託された公的職務や任務から逸脱したり、これらによる権力の濫用を未然に防ぐためには、制度設計において複雑に作用し合う権力のバランスを考慮しなければならないのです。漠然と権力と申しましても、決定権が最も重要な権限ではあるものの、提案、実行、制御、人事、評価などに関する権力も極めて重要な働きをします(2024年3月21日提案を加筆)。とりわけ制御の権力は、逸脱、濫用、暴走等を防ぐ抑止の役割を担い、悪政を防ぎ、かつ、統治機能を国民に安定的に提供するためには不可欠となりましょう。

 政治の分野に力学が必要となるとすれば、それは、パーソナルな関係に注目した一般的に用いられている‘政治力学’ではなく、より構造的なアプローチが望ましいように思えます。政治構造力学とでも表現すべきアプローチがあれば、今日の人類が抱えている様々な問題、即ち、権力の私物化、民主主義の形骸化、そして、独裁体制における人々の自由や権利の抑圧などの解決や未然防止に大いに貢献するのではないかと期待するのです。

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ネット・マッチング・システムの未来

2023年10月02日 11時34分21秒 | 統治制度論
 現代に繋がる経済活動の始まりが、平和的な‘交換’による相互利益の獲得にあるとしますと、双方のニーズの一致は人々を豊かにする基盤となります(狩猟・採取時代では‘配分’が基盤・・・)。言い換えますと、社会の中に様々なニーズがあり、同時に、そのニーズを満たすモノやサービス等を提供することができれば、それだけ、その社会全体が豊かになることができると言えましょう。この観点からしますと、今日のインターネットの普及は、双方のニーズが一致し、主体間の合意形成のチャンスを飛躍的に増加させるという意味において、経済発展に大いに寄与するはずでした。自らのニーズを情報化してネット上に公開すれば、ネット利用者という極めて広い範囲から相互的に自らのニーズを満たす相手方を探し出すことができるからです。
  
 もっとも、同システムでは、ニーズの情報をネット上に公開するだけでは不十分です。何故ならば、如何なるネット上のニーズ情報も、それを探し出す技術がなければ、浮遊物のように、ネット上を漂う誰にも利用されない情報の一つに過ぎないからです。この点に注目しますと、双方が、広大なネットの海にあって自らが必要としている対象を的確に見つけ出すためには、検索技術が必要不可欠なのです。このように考えますと、ネット・マッチング・システムとは、相互の条件付けによる検索を通してニーズを一致させるシステムと言えましょう。

 分散ネットワーク型の同システムでは、利用者の相互的なニーズの一致を目的として設計されているため、システムのメンテナンスや不正利用、虚偽情報のチェック等、あるいは、外部からのサーバー攻撃や情報盗取からシステムを防御する管理・維持機関を必要とはしても、組織全体の意思決定を行なったり、個々のマッチングに介入するような機関は要りません。利用者が、相互に直接にコンタクトをとり、交渉を行なうためのシステムですので、介在者を要さないのです。このことは、制度設計に際しては、独立性が確保されるべきことを意味しており、同システムの運営は、基本的には参加者達の自立性に委ねられるのです。

 また、多くの人々が安心して同システムを利用するためには、利用者間でトラブルや紛争等が発生した場合の解決手段を予め設けておく必要もあります。利用者の誰もが被害や損害の申し立てを行なうことができ、必要とあれば中立・公平な機関が調査を実施し、かつ、最終的な解決手続きとして司法制度と連結させれば、利用者も安心しますし、システムとしての信頼性も高まるからです。中には不法行為や犯罪もありましょうから、警察、検察、並びに裁判所を解決メカニズムに組み込むことも一案となりましょう(経費は国の予算から)。警察も関わるともなれば、犯罪者が同システムを悪用して詐欺を働こうとしたり、反社会的組織が自らのニーズを満たすために‘仕事’やメンバー探しに利用したりしようとは考えないはずです。

 多数の中小の一般事業者を傘下におさめ、高額の仲介料を要求する悪徳事業者やブラック企業まがいのネット事業者が横行している現状を考慮しましても(‘鵜飼いシステム’?)、ネットを利用したマッチング・システムについては、より安全で信頼性が高く、しかも救済措置も備えた高いオープンな制度設計が必要なように思えます。政府ではなくとも、○○事業者団体と言った同業者団体が、全ての同業者に開かれたシステムとして構築するという案もあり得るはずです。こうした方法ですと、サービス業であれば、検索条件に自宅との距離を加えれば、ご近所の○○屋さん’も生き残り、地方経済や地域コミュニティーも活性化するという副次的な効果も期待できましょう(中間マージンがないので価格も低下し、消費者にも恩恵が・・・)。

 経済発展の基盤が相互的なニーズの一致にある以上、公的マッチング・システムは、就職・求人のみならず、あらゆる分野において応用できるかもしれません。テクノロジーは、人類を豊かにするためにこそ活かされるべきであり、政治や経済において活用するに際しては、制度設計にこそ最新の注意を払う必要がありましょう。デジタル全体主義やIT大手による独占が懸念されている今日、技術の善用は、全ての分野に共通する人類が真剣に取り組むべき課題であると思うのです。

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政府が構築すべきは就職・求人プラットフォームでは?

2023年09月29日 11時37分45秒 | 統治制度論
 インターネットの普及は、様々な分野で地殻変動的な変化をもたらしています。新たなテクノロジーの登場は、しばしば時代や社会を変えてきたのですが、現代に出現したインターネットの特徴の一つは、従来とは異なるマッチング・システムを可能としたことなのかもしれません。それでは、インターネットが可能としたマッチング・システムとは、どのようなものなのでしょうか。

 マッチング・システムにおける最大の変化は、インターネットの開放性によって齎されました。例えば、旧来型の求人・就職のシステムでは、人材を求める側も応募する側も、程度の差こそあれ、自らが有するコネクション、人脈、あるいは、情報網等に頼る必要がありました。インターネットの登場以前の時代にも、新聞等で公募すると言った方法も確かにあることはありましたが、敢えて新聞公示の方法を選ぶのは、極一部の事業者に限られていましたし、募集情報が掲示された新聞の購読者でなければ、同公募の存在さえ知ることができなかったのです。旧来のシステムは、募集者と応募者双方における対象範囲の閉鎖性並びにパーソナル依存性を特徴としていたと言えましょう。

 ところが、インターネットは、同時並行的に発展した検索技術に支えられる形で、旧来型の限界を易々と突破できるようになりました。ネットを利用すれば、人材を探す側は自らの欲する人材を、条件や対価などの詳細を添えて公示し、広く募集することができるからです。その一方で、職を探す側も、自らの希望に添った職種や職場をネット上の情報から探し、相手方が提示している条件に合致していれば応募することができます。また逆に、職を探す側が自らの情報をネット上にアップしておけば、人材を探す側も、条件設定により絞り込みを行ない、直接に適任と見なした人材に対してオファーをかけることもできるのです。

 このように、インターネットが可能としたシステムでは、人材を求める側と職を求める側との間に双方向性及び対等性が成り立っております。雇用する側の人材選択の自由、並びに、個人の職業選択の自由の保障という意味においては、インターネットは、人類を理想に近づけたとも言えましょう。選ぶ範囲が広ければ広ほど、双方とも自らの要望や条件に叶った相手を見つけるチャンスが大幅に広がり、合意形成も容易となるからです。このシステムですと、自由意志の一致という個々人の選択の自由に伴う必要条件をも満たしており、主体間の関係性においても公平であると言えましょう。

 インターネットを用いたマッチング・システムの最大の利点が上述した相互的な対等性に基づく合意の形成にあることを踏まえて現状を見てみますと、ネット時代と称されながらも、この利点が十分に活かされているとは思えません。何故ならば、今日、就職側と求人側との間に介在することでむしろ人材を囲い込み、双方の自由を制約する中間的なシステム、即ち、人材派遣業者が出現しているからです。人材派遣業といった民間仲介事業者の存在は、インターネットの利点を帳消しにしてしまうのです。

 このように考えますと、政府のすべきことは、人材派遣業といった民間の仲介者を政策や公的システムに組み込むことではなく、個人であれ、企業であれ、誰もが安心して利用できる就職・求人システム、すなわち、公的なマッチングのプラットフォームを構築すべきなのではないでしょうか。如何なる介在者、ましてや政治的利権も存在しない、より直接的であり、かつ、個々の自由が尊重されるオープンなシステムとして(政治介入や私的介入を遮断し、独立性が保障された’運営者’もいない中立公平なシステム)。今日、政府が打ち出す政策を見ておりますと、方向性が逆なように思えるのです。

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新自由主義の真の姿とは?

2023年09月28日 13時15分19秒 | 統治制度論
 新自由主義には、‘自由’という言葉が含まれています。自由とは、凡そ心身において自らのことを自らで決定できることを意味します。自由は束縛や隷従の反対語とも解されますので、言葉そのものが持つイメージはいたって明るく、開放的であり、人類普遍の価値の一つにも数えられこそすれ、頭から自由を否定しようとする人は殆どいません。このため、新自由主義に対しても、多くの人々が‘何かよいもの’という漠然とした印象を持ったことでしょう。しかしながら、自由とは、誰の自由か、によって、大きく意味内容が違ってきます。

 自由とは、上述したように自己決定を意味するものの、自由を他者の心身にまで及ぼすのは許されるのか、という問題は、哲学者や思想家が思索してきたところでもあります。例えば、スピノザやホッブスは、自然状態という前置きの下で、自己保存を根拠とした他害的自由を認めています。もっとも、他者の命を奪うなど、利己的な他害行為までも認める一切の制限なき自由は、野獣の世界と異ならなくなります。すなわち、無制限な自由が許される世界、あるいは、自然状態では、誰もが自らの命の保障を得られなくなるのです。

 そこで、自己保存をより確かにするために、ホモサピエンスである人類は知性あるいは理性を働かせ、全ての人々に適用されるルールや法を生み出すこととなります。思想家や哲学者も、自然状態、即ち、弱者のみならず強者もまた自らの命、身体、財産等が危険に晒される状態を想定することで、全ての人々に適用される制約的な法、並びにそれを制定し、執行し得る国家の必要性を論理的に導いています。宗教上の戒律の多くが他害的行為の禁止である理由も、社会全体の安寧を願ってのことなのでしょう。

 ところが、新自由主義の‘自由’が、相互的な自由の保障という文脈における自由であるのかというと、この点については大いに疑問のあるところです。人類史を見ましても、強き者も弱き者も隔てなく自由に対して制約が等しく課せられるようになったのは、相互的な自由の価値が共通認識として定着した近年のことに過ぎません。現実の世界では、他者に優って圧倒的な武力や権力を持つ者、あるいは、グループが、自らはこれらに護られた安全な場所に身を置きながら、己の自由のみを無制限に拡大させ、他者の自由や権利を侵害してきた歴史の方が圧倒的に長いのです。

 新自由主義につきましても、それが意味する自由は、他の人々を圧倒する経済的強者による自由の拡大という側面があります。規制緩和の意味するところは、弱者を含めて全ての人々の自由を公平に護ってきた制御的な‘規制’の撤廃かもしれず、強者の自由の空間が広がる一方で、多くの人々が防御壁を失う結果を招きかねません。中間搾取として規制されてきた人材派遣業の解禁は、この側面を象徴していると言えましょう。また、インフラ事業の民営化も海外勢への市場開放がセットとなれば、巨大グローバル企業に参入機会を与えるに過ぎなくなります。宮城県、香川県、山形県などにおける水道の民営化に伴い、「水メジャー」とも称されるグローバル企業ヴェオリア・ウォーターがすかさず参入してきたことは記憶に新しいところです。結局、民営化の‘民’も、国民や一般市民ではなく、資金力、技術力、運営ノウハウ、及び、人脈等を含む規模において優る民間のグローバル企業を意味するのであって、その実態は、言葉のイメージとはほど遠いのかもしれません。インフラ事業の民営化とは、公共性の高い施設でありながら、その私的所有者に使用料を支払っていた時代への逆戻りとも言えましょう。

 新自由主義の自由とは、世界権力を構成するグローバル企業の自由であって、それは、その他の人類にとりましては、経済のみならず政治や社会を含むあらゆる分野における自由の剥奪や縮小、あるいは、法やルールといった個々の自由に対する保護壁の撤廃と同義となりかねません。岸田政権の政策にも新自由主義者の戦略がちりばめられており、同政権が掲げる‘新しい資本主義’とは新自由主義の別名ではないかと疑うのです。

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人材サービス会社と新自由主義

2023年09月27日 15時45分07秒 | 統治制度論
 厚生労働省が新設を予定している中高年デジタル人材インターン制度では、人材サービス会社が介在します。否、同制度の最大の特徴は、仲介役として人材サービス会社を絡ませている点にあるといっても過言ではありません。それでは、政府による人材派遣業界への利益誘導という政治腐敗の問題の他に、人材サービス会社の介在は、一体、何を意味するのでしょうか。

 同システムは厚労省の発案とされていますが、おそらくその背後にあっては、世界権力を構成するグローバル金融・経済財閥が強く後押ししていることでしょう。真の設計者は、日本国外に居るのかもしれません。中高年デジタル人材インターン制度は、‘リスキング’や‘学び直し’、あるいは、短期雇用を要求する「ジョブ型雇用」の導入促進とも歩調を合わせていますし、先ずもって、同勢力が個々人に対する支配力を強める手段ともなり得るからです。

 中高年デジタル人材インターン制度では、インターン先企業と派遣契約を結ぶのは人材サービス会社とされています。インターン期間の終了後においては、同人材の一部は、DX人材としてインターン先企業に雇用されるとしていますが、インターン先に転職できなかった人々に対する支援は、人材サービス会社が行なうとしています。同仕組みは、人材サービス会社が就職先を見つけてくれるのですから、表面上は転職を希望する制度利用者にとってメリットとなるようにも見えます。

 しかしながら、他の派遣事業と同様に、同システムには、雇用者と被雇用者との関係において圧倒的に前者が後者に対して有利になる、あるいは、前者によって就職先の選択権利を握られてしまうという問題点があります。通常の就職にあっては、人材を探す側と雇用者と働く場を探す被雇用者の合意の成立を前提としています。いわば、両者共に、選択の自由が確保されている状態と言えましょう。ところが、派遣の雇用形態では、両者間の対等性は崩れます。派遣事業者と結んだ契約に基づいて、同社の被雇用者となった‘派遣社員’の職場は、派遣事業者が契約した派遣先企業に限定されるからです。

 派遣のシステムでは、雇用者と職場は分離しております。この分離こそが、実のところ、派遣事業者が企業に対しても、また、職を探す個々人に対しても、自らの戦略や意向に沿った形での一定の人事上の支配力を及ぼすことを可能とします。グローバリストの理想が、自らが必要とする人材を思いのままに集め、かつ、資本関係等により自らの支配下や利権を有する企業に提供し得る状況であるならば、派遣システムほど好都合なものはないのです。その一方で、派遣雇用の形態が拡大すればするほど、不必要と判断した人材、あるいは、不都合な人材を排除することも思いのままとなるのです。そしてもちろん、‘中間搾取者’として、企業と個人の双方から利益を吸い上げることができます。

 このように考えますと、新自由主義の旗手として颯爽と登場しながら、今では、非正規雇用の増加による少子化の元凶とまで見なされるようになった竹中平蔵氏が、世界経済フォーラムの理事にして、大手人材派遣事業者であるパソナグループの取締役会長の座にあった理由も自ずと理解されてきます。

 しかも、支配力の及ぶ範囲は、民間のみではありません。民営化の名の下で同グループをはじめとした人材派遣事業者が政府から様々な分野における事業を受託してきたのも、世界権力の計画通りであったのかもしれません。今般の中高年デジタル人材インターン制度にも顕著に窺えるように、永続的に利益が自らの懐に転がり込むように、巧みに政府の政策やシステムに自らを組み込んできたものと推測されるのです。

 かくして、人材派遣事業者は、自らは労せずして企業や個人、並びに、政府からも利益を吸い上げつつ、経済全体に対して支配力を浸透させていったのでしょう。人材派遣事業者にスポットライトを当ててみますと、今日、日本国、否、人類全体が抱えている隷属化の危機の全容が、おぼろげながらも見えてくるように思えるのです。

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疑問に満ちた中高年デジタル人材インターン制度

2023年09月26日 10時12分19秒 | 統治制度論
 目下、厚生労働省が導入を進めている中高年デジタル人材インターン制度につきましては、同制度の設計からしますと、中核的機関として位置づけられている人材サービス会社への利益誘導が強く疑われます。その他にも、同制度には、様々な問題点がありそうです。

 デジタル人材は凡そ7年後の2030年において最大で80万人不足するとされています。制度新設の根拠として人材不足がアピールされているのですが、デジタル人材の養成は、新制度を設けなければならないほどに困難かつ深刻な課題なのでしょうか。ウェブで調べてみますと、デジタル人材として転職を目指す場合、およそ二つの道があるようです。その一つは、民間のプログラミングスクールに入学するルートであり、もう一つは、厚労省が設けている職業訓練(ハロートレーニング)に参加するルートです。

 受講者が負担する費用を見ますと、前者は民間ですので、入学者は受講料を支払うことになるのですが、後者は無料で訓練を受けることができます。職業訓練の最大の特徴とメリットは、受講者負担がないところにありましょう。もっとも、前者の民間プログラミングスクールについては、その多くが厚労相が設けている専門実践教育訓練給付金の対象校ですので、最大で70%が政府からの補助金として支給されます。このため、15万円から90万円とされる受講費用も大幅に軽減されます。政府は、官民問わずデジタル人材育成には予算を投じているのです。

 それでは、デジタルに関する専門知識や技術を身につけるためには、どの程度の時間がかかるのでしょうか。民間のプログラミングスクールですと、訓練期間は10週間から16週間、ハロートレーニングのITコースでは4ヶ月(16週間)なそうです。他の理工系の分野において専門的なエンジニアになろうとすれば、大学院や研究機関等の施設で実験を行なうなど、長期にわたる教育と訓練を要するのですが、IT分野では、学歴も職歴も関係なく、比較的短期間でエンジニアになれるのです。

 しかも、デジタル人材が不足している現状にあっては、転職後に給与アップに繋がるケースも多く、少なくない人々がトレーニングに参加するインセンティブともなっています。2021年のデータでは、ハロートレーニングに設けられている19分野の内、IT分野は営業・販売・事務分野に次いで第2位ですので、トレンドな人気の高さが窺えます。

 かくして、IT分野でのトレーニングの需要も供給も高まる傾向にあるのですが、受講者数を見ますと、民間のプログラミングスクールと公営の職業訓練とでは、雲泥の差があります。前者については、一校だけで運営実績6万人を誇るスクールもあり、全数ではゆうに10万人を超えることでしょう。その一方で、職業訓練の受講者数は、上述したように分野ランキング2位とはいえ、全国で2万人弱です。民間プログラミングスクールに受講生がより多く集まる要因としては、(1)オンライン形式の受講スタイル(公営職業訓練は募集人数や期間に制限がある・・・)、(2)講師の質の高さ、(3)転職実績などが挙げられています。今般の厚労省による中高年デジタル人材インターン制度でも、公営職業訓練受講者の転職等の就職率を上げることも目的とされています。

 以上にデジタル人材の養成に関する現状を見てきましたが、今日の様子からしますと、政府が敢えて新制度を設ける必要性がそれ程に高いとも思えません。人材養成期間が短期であり、かつ、民間のプログラミングスクールも乱立する状況下にあって、7年後に80万人ものデジタル人材不足が生じるとは考え難いからです。また、今後、AIの導入が広がれば、デジタル人材の需要がどれほど伸びるのかも未知数と言えましょう。

 となりますと、仮に、政府が支援策を行なうとすれば、人材サービス会社を介在させるシステムではなく、民間のプログラミングスクールであれ、公的な職業訓練であれ、先ずもって訓練内容の質の向上を図るのが優先課題となりましょう。特に、ハロートレーニングの受講者の就職率が低い原因が訓練内容のレベルや専門性の低さにあるならば、なおさらのことです。そして、官民のトレーニング修了者と転職先の企業との関係については、公的システムとして、中間搾取なきより直接的なマッチングが可能となる、就活ネットワークやマッチング・プラットフォームを設計すべきではないかと思うのです。

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中高年デジタル人材向け企業インターン制度は人材サービス会社への利益誘導?

2023年09月25日 13時38分57秒 | 統治制度論
 今月9月21日の日本経済新聞の一面に、「中高年デジタル人材に 企業インターン新制度」という見出しが躍っておりました。‘2030年には最大80万人’のデジタル人材が不足することが予測されることから、厚労相が中高年の他業種のデジタル社員向けの制度を新設目指しているというものです。同システム新設への予算は、既に2024年度の概算要求に含まれていますので、国会や国民レベルでの十分な議論もなくスタートしてしまいそうです。しかしながら、この新制度、政治利権の絡む露骨な新自由主義的な利益誘導ではないかと疑うのです。

 同制度の流れの概略は、凡そ以下となるようです。
  1. 政府(厚労相)による人材サービスの選定(4社)並びに委託費の支払い
  2. 別業種に就業していた転職希望の中高年に対するデジタル化の職業訓練(40歳から50歳代:2年間で凡そ2400人)
  3. 人材サービス会社とインターンとの雇用契約並びに給与の支払い
  4. 人材サービス会社がインターン先企業を開拓し、派遣契約
  5. 人材サービスによるインターン先企業へのメンター経費の支給
  6. インターン期間終了後におけるインターン先企業による雇用、もしくは、人材サービス会社による就職支援(インターン期間最大6ヶ月:60社程度)

 同システムの一連の流れを見ますと、人材サービス会社を中核とする制度であることが分かります。否、同制度は、人材サービス会社の新たなビジネスチャンスとして設計されたとも推測されるのです。

 インターンとはいえ、人材サービス会社とは雇用契約が結ばれますので、一定額の給与は支払われます。しかしながら、他の人材派遣業、並びに、就活の一環としての学生インターンと同様に、その額は正社員のレベルには及ばないことでしょう。人材サービス会社への政府が支払う委託費は雇用費用の一部に充てるとされますので、失業給付金の額と同程度となるのではないでしょうか。このため、同制度の利用者は、インターン期間にあっては、低賃金に甘んぜざるを得なくなるかもしれません。

 その一方で、メンター経費については人材サービス会社持ちとはいえ、人材サービス会社とインターン先企業との派遣契約には、他の派遣契約と同様に、後者の前者に対する支払いも含まれているものと想定されます。仮に、インターン先企業からの支払いがなければ、同制度は、人材サービス会社は、即、赤字経営となります。あるいは、無償でインターンを派遣してもなお同社に利益が残るとすれば、それは、全ての国費、即ち国民負担と言うことになりましょう。

以上の諸点から、人材サービス会社は、雇用契約を結んだインターンから‘中間搾取’する一方で、政府からも委託金を受け取ることができる立場に自らを置くことができることとなります。このため、4社とされる人材サービス会社の選定に際しては、背後にあって政治家が暗躍することでしょう。人材サービス会社関連事業には、自民党の麻生太郎副総裁や竹中平蔵氏をはじめ、有力政治家や政策アドバイザーなどの名がしばしば挙がります。

 そして、転職や‘学び直し’の促進策としての側面からしますと、同制度は、「ジョブ型雇用」の流れとも一致しています。「ジョブ型雇用」とは、必要職種対応型の短期雇用を想定しているのですから。経営戦略上、あるいは、新たなテクノロジーの登場により不要とった人員を抱える企業にとりましても受け皿となりますのでメリットとなるのでしょうが、人材サービス事業者に利益を誘導する一方で、リスクやコストを国民に押しつける制度ともなりましょう。

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