万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

中立・公平な‘世論調査’を実施する方法とは?

2020年09月30日 12時49分00秒 | 日本政治

 メディア各社は、国民世論の動向を伝えるというジャーナリスティックな使命感からか、頻繁に世論調査を実施しています。しかしながら、その実施対象者となる母数は1000人ほどに限られてしまいますし、設問の取捨選択、順序、回答の選択肢などにより、結果を一定の方向、つまり、自社の望む方向に誘導することができます。また、実施者であれば、立場上、結果の数字の改竄も自由自在ので、メディアによる世論調査に対する信頼性は低下する一方なのです。

 

 ネットやSNS上での反応と世論調査の結果が真逆となるケースも散見されます。あまりの不自然さに、今では、メディアによる世論調査の結果が国民世論を正確に反映しているとは言い難く、世論調査とは、情報提供ではなく、情報操作の道具と見なす国民も少なくありません。メディア側が、政府の意向を‘忖度’すれば、中国といった共産主義国家と同様に、国民の自由な意思表明ではなく政府の決定に沿った‘官製世論’となりますし、逆に、政府の意向に反対する場合には、反政府活動の道具に堕してしまいます。何れにいたしましても、世論調査は、‘世論’という名の‘創り物’、‘まがい物’でしかなくなるのです。しかも、さらに悪いことに、一般国民の第三者がメディア各社に立ち入ることはできないのですから、国民自身も世論調査の真偽を確かめことができないのです。

 

 ‘世論’なるものがメディア側の政治色に染まっているとしますと、当然に、民主主義も危機に瀕することとなります。民主主義の理想は、民意に沿った政治が実現することなのですが、現行の制度では、個々の国民が意思表示できるのは、選挙といった数年に一度実施される限られた機会しかないからです。ところが、選挙では、個別に政策を選ぶことができず、しかも、将来に向けた政策綱領を羅列する‘セット・メニュー方式’ですので、日々、行われている政府の政治決定や法制定について、国民が事後的に評価したり、是非を判断することができません。つまり、国民各自が自らの‘意見’を表明することも、国民的な合意として‘世論’を形成することも難しいのです。

 

 不思議なことに、これまで、政治レベルを含め、積極的に国民世論の調査方法について改善を促そうとする動きは見られませんでした。その一方で、近年のデジタル化によって明らかとなったのは、不特定多数の国民を対象にオープンに調査を実施しているネット上の世論調査やSNSの方が、100%とは言わないまでも、比較的、国民の一般的な意向を現わしている点です。先述したように、メディアとネット上では結果がしばしば逆となるのも、調査方法が異なるからに他なりません。仮に、政府に民意に沿った政治を実現しようとする意志があるならば、政府こそ、積極的に新たな世論調査の方法を考案すべきなのです。今日の技術力をもってすれば、一億を超える国民を参加者とするオンライン民主主義は可能なはずです。

 

 幸いにして、新政権下ではデジタル庁も設置されることですので、昨日も本ブログにて提案いたしましたように、同技術を民主主義の進化に生かすのは重要な政治課題のように思えます。もっとも、国が世論調査を実施することに対しては、ITを徹底した国民監視、並びに、言論弾圧の手段として利用している中国の現状に鑑みて、危険視する声も聴かれるかもしれません。今般、政治不信が深刻化している日本国でも、この懸念の払拭は簡単ではなさそうです。

 

しかしながら、公平性と中立性を確保するために、権力分立、並びに、チェックアンドバランスの原則に基づいて世論調査機関を政府から分離し(司法機関に準じる…)、改竄を防ぐためにリアルタイムでの公開をシステム化した上で、政府や国会に世論調査の結果を反映させることを義務付ければ、比較的信頼性の高いフィードバック・システムを構築することができるかもしれません。つまり、緊急を要する事案を除いて、政府、並びに、国会は、事前に政策案や法案の概要を国民に対して公表し、世論に賛否や是非を問うと共に、事後的には、これらについて国民から評価を受けることとなります。

 

 こうした進化型のシステムが導入されれば、習近平国家主席の国賓来日や10月1日からの入国規制の緩和といった大半の国民が反対している政策は、真の世論の反対を受けてその実現は阻まれることでしょう。今日、日本国政府は国際金融勢力の‘悪代官’と化しているとの指摘もありますが(明治以降かもしれない…)、政府による国民に対する一方的な政策の押し付けを防ぐ手段を、国民は手にすべきなのではないでしょうか。日本国民が‘家畜化’されないように…。


デジタル庁はオンライン化で民主主義の進化を

2020年09月29日 14時07分27秒 | 日本政治

 今般、菅新政権が掲げる重要政策の一つとして、デジタル庁の設置があります。デジタル庁の主たる任務としては、マイナンバーカードの普及を介した政府と国民との間の直接的な関係の構築、官公庁における行政事務のデジタル化、並びに、民間企業のデジタル化促進などが挙げられております。しかしながら、新設される同庁の仕事がこれらに限られているとしますと、日本国の民主主義的な視点が抜け落ちているように思えるのです。

 

 実のところ、デジタル化は、民主的制度をより洗練された形に発展させる可能性をも秘めています。本人確認と秘密投票との両立が難しいという問題点はあるものの(今後のテクノロジーの開発に期待…)、選挙のオンライン化、オンライン国民投票、あるいは、オンライン・リコールも、安全性が確保され、かつ、不正防止が徹底されれば、将来的には導入が不可能なことではありません(デジタル通貨が可能であれば、民主制度のオンライン化も可能では…)。デジタル庁は、オンライン投票のシステム開発にも取り組むべきなのでしょうが、もう一つ上げられるのが、‘オンライン国民発案’といった国民から政治への新たなルートの開発です。

 

今日の政界は、献金企業、地元の後援会、支援団体、あるいは、宗教団体といった特定の組織による陳情や立法要請には耳を傾けますし、利益団体によるロビイングの影響も受けますが、国民一般の声を聴こうとはしないのです。選挙が終われば、公約違反のみならず、政府は、白紙委任を受けたかの如くに国民的なコンセンサスもないままに、公約には掲げていない政策を平然と遂行してしまいます。その一方で、国民の大多数が望んでいるような法案については、無視を決め込むのです。こうした事態が起きてしまう原因は、発案権を国会、並びに、政府が独占している現行制度上の不備にあり、民主主義を進化、あるいは、深化させるには、発案の段階に国民が参加し得るよう、国民から政治への流れを制度として造らなければならないのです。

 

 民主的制度の一つである国民発案は、海外では国政レベルでの導入が普及している一方で、日本国では、地方自治体レベルにおいては既に導入されているのみです。国民発案とは、立法過程に国民が参加する制度であり、一定数以上の住民の署名など、法で定められた要件を満たせば、国民が、法案の発案権を行使することができます。国民発案とは、英語では、イニシャチブ(initiative)と表記されるように、国民が立法に際して主導権を握ることなのです。もっとも、自筆であるために署名のチャンスは全ての住民に保障されているわけではなく、現行の自治体レベルの制度でも、必ずしも使い勝手が良いわけではないのです。

 

そこで、組織的な署名活動を要さなくとも、オンライン国民発案が可能となれば、全ての国民が他の国民に対して自ら案を提案したり、賛意を示すことができるのですから、政治と国民の距離が格段に縮まるとともに、双方向性が高まります。つまり、国家の統治機関の一つとしてデジタル国民発案を担当する独立的な機関を新設し、国民からの様々な提案を公開すると共に、一定数のデジタル署名が集まった案については、同機関に対して国会に提出する権限を与えるのです(あるいは、国家の運命を決めたり、国民全員に関わる重大な事案については、デジタル国民投票によって可否を決定する方法もある…)。

 

デジタル庁の設置は、菅新政権の看板政策ともされていますが、政府が国民を管理するツールとしての側面が強く、トップ・ダウン方式による上からの改革のように見えます(中国がモデル?)。デジタル技術、あるいは、ITとは、民主主義の進化をも促進させる可能性を秘めているのですから、デジタル庁は、新たな民主的制度の考案や開発をも担うべきなのではないでしょうか(憲法改正案となる可能性も…)。上記のデジタル国民発案もアイディアの一つに過ぎず、これまでに存在していなかったような様々な制度もデジタル技術を用いれば実現するかもしれません。デジタル化の遅れが指摘されておりますが、日本国は、民主的制度におけるデジタル技術の活用、並びに、イノベーションにおいて時代の最先端を行くべきではないかと思うのです。

 

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BLM運動の違和感

2020年09月28日 12時53分30秒 | アメリカ

 アメリカでは、白人警察官が黒人容疑者を死亡させた事件をきっかけとして、黒人差別反対を訴えるBLM運動が起きることとなりました。プロのテニスプレーヤーである大阪なおみ選手も、出場した全米オープンにおいて自らのマスクに7人の黒人の名前を記すことで人種差別反対をアピールしています。人種差別反対については誰もが異論はないものの、今般の黒人差別反対運動にはどこか違和感を覚えてしまうのです。

 

 その理由の一つは、今般の黒人差別問題に限って言えば、同問題は、アメリカの国内問題としての側面が強いからです。歴史的に見ますと、同問題が発生したのは、アメリカ大陸に奴隷商人を介してアフリカから多数の黒人の人々が連れてこられたからに他なりません。一つの国に複数の人種が混住することとなり、かつ、両者が主人と奴隷の関係となってしまったからこそ、人種差別問題が発生したのです。言い換えますと、国民の凡そ全員が黒人種であるアフリカ諸国では、黒人差別問題は起きようもありません。今般のBLMにあっても、アフリカ諸国から積極的にアメリカ政府に対して正式な抗議や改善要求が寄せられたわけではなく、日本国政府も含め、有色人種の国であるアジア諸国も静観しています。また、一部には街頭デモ等も行われましたが、国際的な社会運動としての広がりにも欠けたのも、アメリカの内部問題とする認識が強かったからなのでしょう。この点、日本国籍を有する大阪選手の行動は、自らのアイデンティティーをアメリカの黒人に置いて行動していることとなります。

 

 そして、人種差別が人類普遍の人権問題でありながら、今般の黒人差別問題に違和感があるもう一つの要因は、同国にあっては、既に人種間の差別が法的には撤廃されている点にあります(この点、中国政府によるチベット人、ウイグル人、モンゴル人に対する仕打ちはジェノサイドに等しく、国際人道法にも反している…)。況してやテニス界にあっては、ウイルアムズ姉妹が黒人選手として幾度となく全米オープンで優勝を飾っています。女子テニスの場合にはラリーが続くことが多いですので、テニスは、持久力に優れたアフリカ系の選手が比較的有利となるスポーツです。実際に、大阪選手も同大会で優勝しており、不当な差別的な扱いを受けているわけでもないのです。むしろ、現実のアメリカ社会では、イエール大学に対して違憲判決が下されたように、大学の入学、公務員の採用、そして企業の昇進等においては黒人の人々の方が優遇されています。アファーマティヴ・アクションによってむしろ白人側が不利益を被る逆差別が生じている現状にあって黒人差別を訴えても、どこか公平性に欠けているように感じてしまうのです。

 

 また、BLM運動の標的が白人警察官に絞られている点も、違和感が生じる要因です。死亡した黒人の人々の多くは犯罪容疑者ですので、状況としては、警察権力の下で拳銃を手にして取り締まる側と無防備な状況で取り締まりを受ける側との構図となります。物理的な力の強弱を基準とすれば、白人=強者と黒人=弱者との間の不平等な関係となり、そうであるからこそ、権力によって弱者が虐げられているというイメージが強調されがちです。しかしながら、死亡した黒人にはそもそも犯罪容疑がありましたので、警察の取り締まり方法の行き過ぎや乱暴さは理解し得ても、全くの無実を想定することはできませんし、一般の人々が、全面的に共感したり、擁護するには無理があります。しかも、何故か、警官ではない一般の白人が一般の黒人に対して危害を加えたとする事件は殆ど報告がないにも拘わらず(逆に、一般の黒人が暴動を起こし、一般の白人の商店等を襲い、商品を奪い去ったとする報道はある…)、警察批判や組織の改革要求のみがエスカレートしているのです。これでは、人種差別反対ではなく、警察の弱体化、あるいは、治安維持分野における黒人優遇が真の目的ではないかと疑われてもしかたがありません。

 

 加えて疑問に思うのは、仮に、大阪選手が同大会に優勝しなかったならば、どうなっていたのか、という素朴な疑問です。同選手が優勝したからこそ、BLM運動は一先ずは有終の美を飾ったのですが、途中で白人選手に敗退した場合を想定していたのか、疑問を感じざるを得ないのです。スポーツの試合に政治・社会問題を持ち込み、‘人種差別反対’といったメッセージを掲げて試合に臨みますと、観客やファンは、その対戦相手を応援することが難しくなります。観客にとりましても、対戦相手に対する応援は、‘人種差別主義者’への応援と見なされかねないからです。また逆に、‘人種差別反対’を掲げた側が敗れることも当然にあり得るのですから、これは、極めて危険な賭けであったはずです(一回戦で敗退すれば、BLM側が負けたことに?)。こうした点から、選手たちの政治・社会的なアピールが強まりますと、観る側は、スポーツとして純粋にテニスを楽しめなくなるのです。

 

 しかも、極めつけに、BLM運動の背景にはアメリカ社会を分断させ、混乱に陥らせることを目的とした中国の工作活動の存在を指摘する報道もあり、余計に怪しさが増してきます。安易にBLM運動に同調いたしますと、知らず知らずのうちに、アメリカに仕掛けられた社会の分断や国家分裂を狙う活動に協力することにもなりかねず、同運動に対しては、冷静に距離を置いて接するべきようにも思えるのです。

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二つの保守―日本系と大日本帝国系?

2020年09月27日 11時14分45秒 | 日本政治

 今般の菅義偉政権の成立は、自民党内における分断を表面化するきっかけとなったように思えます。田中角栄政権が誕生した頃から、国民の目には見えない処で鬩ぎあいが続いてきたのでしょうが、親中派と反中派との間で同じ党とは思えないほどのスタンスの違いが見受けられるのです。

 

 かねてより自民党は、保守政党の看板を掲げながらも、その実態は、共産主義者までもが混在する‘包括政党’とも称されてきました。‘清濁併せ呑む’、あるいは、無節操ともいうべき党内の多様性こそが、実のところ、長期政権を支える強みでもあったのです。しかしながら、親中派政党である公明党との連立が固定化する一方で、党内では二階俊博議員が総務会長や選挙対策局長といった重職を歴任し、2016年から今日至るまで幹事長職に居座り続けるに至ると、同党は、頓に親中色を強めてゆくこととなりました。安倍政権の末期には、習近平国家主席の国賓来日や春節における中国人観光客の大量受け入れなど、政経両面において多くの国民の危機意識が目覚めるような中国配慮の政策が目立つようになるのです。

 

 保守政党が共産主義国家と結託するのですから、これ程酷い矛盾もないのですが、日本国の保守、あるいは、右翼の歴史を紐解きますと、自民党が二つ、あるいは、三つに分断される理由も見えてくるように思えます。サンフランシスコ講和条約が成立し、日本国が主権を回復した後、アメリカは、日本国内での影響力を残す目的もあって、日本国の保守政党を支援したとされています。自民党は、1955年に、自由党と日本民主党との保守合同により誕生しており、当初より親米政党として発足しているのです。このため、今日に至るまで、自民党は、保守政党であると共に親米政党でもあったのです。

 

 それでは、何故、自民党は、今日、紅色に染まりつつあるのでしょうか。その理由は、おそらく、日本国の政治的保守には、二つの異なる系統が流れ込んでいるからなのかもしれません。その一つは、今日の国際社会における国家の枠組みに関する基本原則であり、かつ、国民国家体系を支えている‘一民族一国家’の原則を以って日本国とみなす、伝統派の保守です。伝統派の人々は、古代から連綿と続く日本の歴史や固有の慣習等を護ろうとすると共に、日本人一般の意識や意見、社会通念を尊重しようとします。急激な変化を嫌いますし、外来の文物を受け入れるにしても、その是非を極めて慎重に吟味しようとします。国民本位という意味において、同系統は、民主主義や自由、そして法の支配といった諸価値とも馴染みやすいとも言えましょう(日本国民の大半は、こちらのタイプなのでは…)。

 

 そして、もう一つの保守とは、明治以降に登場してきたものであり、帝国志向の系譜です。この系譜では、日本国の地理的な領域は、江戸時代の版図を越えてゆきます。‘日本人’の範囲も、古来の日本人のみならず、日清戦争以来、日本国が自らの版図に組み込んだ地に住む異民族の人々を含んでいるのです。いわば、大日本帝国こそが‘日本’なのであり、広域的な多民族国家であった時代に、日本国の理想を求めている人々とも言えましょう。同派の人々は、国家体制としては全体主義との親和性が高く(国家社会主義…)、‘五族協和’をモットーとした満州国をモデルとしている節もあります。満州国では、共産主義者も官僚として登用されており、また、敗戦を前にして、関東軍の中には、中国共産党と共に対米戦争を継続すべし、との意見もあったそうです。そして、帝国志向の保守は、広域的な経済活動による利益の最大化を目指して国境を撤廃しようとするグローバリズムとも相性が良いのです。

 

 このように、日本国の保守には二系統が混在しているとしますと、菅政権化にあって、入国規制の緩和やインバウンドの再開方針、そして、輸出志向の農政など、軌道修正することなくグローバリズム路線に邁進し、新自由主義的な政策を並べている理由も分かってきます(給付金の再配布やマイナンバーカードと紐づけされるデジタル化の推進も、国民監視制度、あるいは、‘パンとサーカス’政策とも言えるベーシック・インカム制度を導入するための下準備かもしれない…)。菅首相の父、菅和三郎氏は、戦前にあっては満州の地にあり、ソ連邦の侵攻を受けて命からがら秋田に逃げかえった経験から、‘世界は一つであるべき’としばしば語っていたそうです。悲惨な戦争体験からの言葉なそうですが、‘ワン・ワールド’とも言うべき思想を、同首相は受け継いでいるのかもしれません。少なくとも、新政権が掲げる諸政策を見る限り、伝統派の保守ではないようなのです。

 

 これまで、国民の多くは、保守というものを、一緒くたにしてきた感があります。しかしながら、自民党を観察いたしますと、その始まりにおいて二つの系統が流れ込んでおりますので、アメリカの影響力が後退する、あるいは、新自由主義と手を結んだ中国の力が伸長するにつれて、中国共産党と親和性の高い帝国志向の保守が、党内にあって伝統派の保守、並びに、親米派の保守に対して優勢となったとも考えられます。

 

このように、保守には全く正反対とも言うべき二つの系統が混在しているとしますと、米中関係の激化の最中にあって、国民も、伝統派の保守と大日本帝国派の保守とを区別し、政治家一人一人の真のスタンスを見極める必要があるのではないかと思うのです。

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中国を制止することが日本国の責任では?

2020年09月26日 11時46分14秒 | 国際政治

 昨日9月25日に設けられた日本国の菅義偉首相と中国の習近平国家主席との電話会談は、新政権の対中方針を見極める試金石とも目されてきました。とりわけ、国内から反対の声が上がっていた習主席の国賓来日の行方が注目を集めてきたのですが、一先ずは、同問題については双方とも一言も触れずに会談は終了したようです。

 

 同会談における沈黙を以って菅新政権が親米・反中に転じたとは言い難く、むしろ、国賓来日の確約による支持率の急落を恐れた首相側と、同政権の長期化を願う主席側とが結託し、一先ずは、同問題については‘双方触れず’で予め合意していた可能性もあります。新政権が一先ず安定化した頃を見計らって、国賓来日が突如として再浮上するかもしれず、今般の日中首脳の電話会談を以って国民は安心をしてはいられないのです。

 

 そして、もう一つ、同電話会談で気掛かりとなるのは、菅首相による「日中の安定は2国間だけではなく、地域、国際社会のために極めて大事だ。共に責任を果たしたい」という言葉です。この言葉、実現不可能ではないかと思うからです。何故ならば、日本国が、地域や国際社会のために責任を果たすとするならば、その役割は、対中制止に他ならないからです。

 

 日中を含むアジア地域を見渡しますと、その殆どの諸国が尖閣諸島問題を抱える日本国を含め、中国からの軍事的脅威に晒されています。東南アジア諸国の大半は、南シナ海の軍事基地化、しかも、核配備の危機に直面しており、中国における違法行為を止めない限り、東南アジアに安定や平和が訪れるはずもありません。ブータンに至っては、あからさまな侵略を受けていますし、昨今、中印紛争にも激化の兆しが見えています。中国が遂行している世界支配戦略は、国際法秩序を破壊する行為でもありますので、国際社会の安定もまた、中国の行動を抑え込まないことには、実現しないのです。香港、チベット、ウイグル、モンゴル等の問題は、アジアのみならず、国際社会における人類普遍の人道上の問題ともなりましょう。

 

 地域や国際社会が軍事大国化した中国の脅威に直面している現状を直視すれば、‘日中間の安定’は、いかにも虚しく響きます。傲慢な中国が、日本国政府からの要請を素直に受け入れ、これまでの違法行為の数々を反省して態度を改めるとは思もえず、中国にとりましての‘安定’とは、全ての諸国が自国に服従する状態を意味するのでしょう。むしろ、‘安定’を脅迫材料とする、すなわち、武力による威嚇を以って、周辺諸国に対して抵抗せずに中国の要求を受け入れるように迫るかもしれません。法の支配を基盤とする国民国家体系を葬り去り、各国の権利や自由を保障する国際法をも踏みにじって全世界に君臨する確固とした華夷秩序の構築することこそ、‘中国の夢’なのですから(犯罪者の夢…)。

 

中国流の解釈に基づく‘安定’に日本国も加担するとしますと、それは、‘共に責任を果たす’のではなく、中国の共犯者になることを意味しましょう。つまり、日本国が将来において、地域や国際社会において負う責任とは、犯罪国家としての加害責任であり、侵略や権利侵害が伴う以上、賠償責任さえ生じるかもしれません。

 

日本国民の大多数は、自国が犯罪国家に加担し、連帯責任まで負わされる事態を望むはずもありません。日本国政府は、中国と責任を共有するような事態は何としても避けるべきであり、日本国は、単独で地域や国際社会に対する責任を果たすべきなのではないでしょうか。そしてそれは、中国の暴力主義に抗して国際法秩序を護り抜くことであり、その覇権主義的な行動を止めることを置いて他にないのではないかと思うのです。


入国制限緩和措置の習主席国賓訪日のため?

2020年09月25日 12時47分17秒 | 国際政治

 発足間もない菅政権は、早々に、新型コロナウイルス対策として実施してきた外国人の入国制限を緩和する方針のようです。当面の間は、観光客を除く中長期の滞在者とし、入国人数も一日1000人に限定するそうですが、諸外国において感染の再拡大が報告されているだけに、国民の多くも、新政権の‘スピード感’には不安を感じていることでしょう。しかしながら、この措置には、幾つかの疑問点があります。

 

第一に、報道によれば、入国再開は全ての諸国を対象としているそうですので、今後、中国からもビジネス関係者や留学生等が多数来日することになります。米中対立の最中にあって、中国による積極的な対外工作活動が既に明るみとなっており、当然に、日本国内においても、書類上の来日目的とは異なる様々な活動が行われていることでしょう。日本国のファイブアイズ入りも取沙汰される折、アメリカの同盟国でもある日本国が中国に対して融和的な政策に傾けば、自由主義国からの信頼を損ねる結果を招きかねません。国際情勢から判断すれば、中国に対しては、防衛、並びに、安全保障の観点から特別に規制を設けるべきこととなりましょう。しかしながら、日本国政府は、あっさりと中国も入国再開対象に含めてしまったようなのです。

 

第二の疑問点は、新型コロナウイルス禍が未だ収束しておらず、変異型の拡散も懸念されている点です。国立感染症研究所によりますと、6月から突如、武漢株でも、欧州株でもない、新たなタイプの新型コロナウイルスが突然に出現して感染が広がったそうです。6月と言えば厳しい入国制限を敷いていた時期に当たりますので、入国禁止措置にも拘わらず、外国から変異した株が新たに持ち込まれた可能性を示唆しています。また、日本国内で変異したとしても、入国者が増加すれば、これらの人々が自国に‘日本株’を持ち帰るリスクも高まります。感染の拡大防止の観点からも、現時点での入国規制の緩和には疑問が呈されるのです。

 

第三に指摘し得る点は、全世界レベルにおいてリモート化が進んでいることです。留学生の入国も認められるそうですが、日本国内の大学の大多数が、現在、遠隔講義を実施しておりますので、海外の自宅にあってもパソコンやスマートフォン等があれば受講できるはずです(情報統制が徹底されている中国の場合には難しい?)。また、ビジネスの世界でもリモート方式が定着しており、日本国に入国せずとも、現地での在宅勤務のみならず、商談、ビデオ会議、業務上の支持などもオンライン上で事足ります。必ずしも国境を越えた人の移動を伴わなくとも、広域的な経済活動を維持することはできるのです。習主席の来日も、‘リモート訪日’を日本側から提案すれば、中国側は、どのように反応するのでしょうか。

 

規制緩和によって利益を得るのは、外国人研修生や労働者、研修生を雇用する事業者、並びに、その斡旋を生業とする派遣事業者等ということになるのですが(あるいは、中国共産党幹部等への便宜供与?)、コロナ失業が深刻化する中、むしろ、日本国の雇用対策として、これまで外国人への依存性の高かった事業分野への日本人の就業を促す方が、国民のための政策とも言えるように思えます。もっとも、コロナ不況下にあっては、観光業など、昨今、とみに外国人頼りであった分野でも人手は足りているかもしれませんが(むしろ、日本人であれ、外国人であれ、解雇が懸念される…)。

 

以上の諸点からしますと、積極的に入国制限を緩和する必要性は薄いのですが、それでは、何故、菅政権は、入国緩和を急ぐのでしょうか。新政権発足時から、自民党の二階幹事長の影響が懸念されていましたが、政府が入国再開を急いだ理由は、もしかしますと、習近平国家主席の国賓待遇での来日向けた‘環境整備’であるのかもしれません。安倍前政権にあって、今春に予定されていた習主席の国賓来日が先延ばしとなったのは、香港問題でも、ウイグル問題でもなく、新型コロナウイルス対策という公衆衛生上の理由からでした。否、日本国政府が、感染拡大のリスクを知りながら中国を対象とした入国禁止措置を躊躇したのも、同主席の国賓訪日に配慮したためとも指摘されています。自民党内でも、若手を中心に同主席の国賓訪日の中止を求める声もあり、昨日24日には、党内の保守派議員が国賓来日中止を決議したそうですが、菅首相は、同問題に対する態度は保留しています。本日予定されている日中首脳間の電話会談の内容が注目されるところですが、韓国は、中国からの圧力に屈してか、既に同主席の訪韓を認めていますので、日本国政府の対応も要注意なのです。少なくとも、今般の入国再開措置により、新型コロナウイルスは、国賓来日を阻止するカードとしては使えなくなるのは確かなことです。

 

政府が制限緩和を検討する要因として、報道では、‘欧州をはじめ各国からの要請が強く’、この傾向を‘世界の流れ’としておりますが、本当のところは、中国からの要請を受けてのことかもしれません(欧州の場合には、EUにおいて‘人の自由移動’を認めているところが大きいのでは…)。そして、新型コロナウイルスを理由に習主席の国賓来日を断れないとなれば、日本国政府は、習主席の国賓来日問題は、中国の非人道的な行為、そして、覇権主義に対する姿勢を、内外からストレートに問われることになるのではないでしょうか。この時こそ、自由主義国の一員なのか、全体主義国の一員なのか、日本国が、旗幟を鮮明にする時ともなるのではないかと思うのです(日本国民と政府が対立する可能性も…)。


中国は自ら仕掛けた‘オウム返しの術’に嵌まる?-習主席の国連演説

2020年09月24日 11時35分49秒 | 国際政治

 日本語には、‘お前が言うな’という言葉があります。インターネットスラングとして‘おまいう’という略語もあるほど、日常的にも頻繁に使われている表現です。自分のことは棚に上げて他者を非難する人に対して、‘自分が同じことをしているのに、他人のことを責める立場にあるのか(批判する資格はない!)’という意味であり、恥知らずな人に対する批判の言葉なのですが、今年の国連総会における中国の習近平国家主席の演説は、まさにこの言葉に相応しいものでした。対米批判を装いつつも、その実、演説の凡そ全てが自分自身の過去、並びに、現在の行為に対する批判で埋め尽くされていたのですから。

 

 今年の国連総会は、新型コロナ禍の影響によりテレビ会議の形式で開催されています。同演説に先立ってアメリカのトランプ大統領が、新型コロナウイルスのパンデミック化をめぐって中国を批判し、責任を追及していますが、習主席の演説は、同大統領の批判に対する直接、かつ、全面的な反論というわけではないようです。全世界に諜報網を張り巡らしている中国のことですから、米大統領のビデオの内容は予め中国側が入手していた可能性は高いのですが、習主席の演説は、逐次、トランプ大統領の批判点に一つ一つ応えるのではなく、具体的な国名を伏せたより抽象的な表現である上に、その主張も、将来における国際秩序の構想にまで広がっています。両者の原稿を比べると、習主席の方が高みから理想論を述べ、人類の道徳・倫理に照らして正論を説いているように聞こえます。そして、それ故に、‘お前が言うな’という反発が巻き起こるのです。

 

 それでは、何故、習主席は、国連総会にあって、即座に言行不一致を指摘されそうな演説を行ったのでしょうか。他の加盟諸国を見下し、偉そうにお説教を垂れるかのような態度は、異常なまでのプライドの高さに起因しているのでしょうが(大国中国は、他の諸国とは格が違い、世界のリーダーである?)、もう一つ、理由を挙げるとしますと、中国の伝統的な論争の手法にあるように思えます。それは、‘オウム返しの術’というものです。‘オウム返しの術’とは、論争となる場合に、相手からの批判をそのまま言い返す、というものです。自らが窃盗を働いた時には、相手方を‘泥棒’と決めつけて批判し、自らが嘘を吐いている時には、相手方を‘嘘つき’呼ばわりする、というものです(強者が弱者を虐げることが許される中国などの社会においては、強者は、言い分を通すため、こうした不合理で非道徳的な論法を常用するのかもしれない…)。

 

中国国内では日常茶飯事のことなのでしょうが、中国の風習が国際社会にまで持ち込まれるとしますと、他国にとりましては迷惑この上ありませんし、対中関係に、心底、疲れ切ることとなります。しばしば、加害者が被害を主張するのですから。朝鮮半島の二国も同様なのでしょうが、これらの諸国との間の外交関係が常々拗れ、不信感が増幅されるのも、‘オウム返しの術’が根付いているからなのかもしれません。同術が、中国の常套手段であるとしますと、国連演説を控えた時期に、中国側は、国際社会における自国に対する批判を事前に徹底的に調べ上げ、それをそのまま他国、即ち、名指しはしないものの主としてアメリカに対する批判文として準備したとも考えられます。

 

しかしながら、‘オウム返しの術’は、こうした慣習が存在してきたところでは通用するのでしょうが、理性を重んじる現代社会にあっては、‘お前が言うな’という反発が返ってくるのみです。そして、今般の習主席の演説が‘オウム返しの術’であることに気が付きますと、人類の進むべき道は、中国の実際の‘行動’の逆を行くことであることにも気づかされます。この意味で、中国の‘オウム返しの術’は破られたのであり、それは、今後、言行一致が求められることで、中国が自らの行動を道徳・倫理的に縛ると共に(中国の伝統では、道徳・倫理は他者を縛るもの…)、国際社会が‘危険国家中国’を包囲する方向に作用するのではないかと思うのです。


菅政権に対する高支持率の謎?-‘人から政策’の時代へ

2020年09月23日 12時43分07秒 | 日本政治

 メディア各社が実施した菅新政権に対する世論調査の結果を見ますと、支持率が軒並み60%を超えています。先日、本ブログにおいて指摘いたしましたように、この数字、かなり怪しいのですが、仮に、背後で二階幹事長が動き、旧態依然とした党内派閥の力学で誕生した政権でありながら、同政権の支持率が歴代の首相と比較して飛びぬけて高い数字をたたき出したとしますと、その理由は、首相個人に対する積極的な支持というよりも、別のところにありそうです。

 

 菅新首相は、安倍長期政権にあって脇役のイメージが強く、つい数か月前までは、誰もが菅政権が誕生するとは予想もしていなかったことでしょう。もっとも、小渕首相の前例もありますので、令和の新元号を発表する役割を担った政治家は後に首相に就任するという、国民には知られざる、密約的な慣例が政界には存在していたのかもしれません。真偽のほどは分からないのですが、少なくとも、菅新首相が国民の間で圧倒的な人気を博するようなカリスマ的な政治家であったとは言い難く、それ故に、発足時の支持率の異様な高さには違和感があるのです。

 

 メディア各社による誘導的な操作もあるのでしょうが、ここで注目すべきは、党内の総裁選挙にあって菅首相が掲げた諸政策です。新政権において推進すべき政策として、携帯電話料金の値下げ、並びに、給付金の再配布等が挙げられていたからです。その他の政策を見ますと、安倍前政権にあって構築してきた中国包囲網を壊すような対中融和政策や、弱者に冷たいどころか国民や企業一般に過酷な変化を強いる新自由主義的な政策が並んでいながらも、国民の誰もが反対しないような‘看板政策’が用意されていたのです。仮に、国民多数が菅政権を支持しているとしますと、これらの国民に直接的な利益を与える一種の‘ばらまき’政策に対する支持表明ということになりましょう。そして、この現象から、今日の政治に関する幾つかの側面が読み取れるように思えます。

 

 第一に、国民の多くは、政治家個人のパーソナリティーよりも、政策を基準として政権に対する支持・不支持を判断しているということです。仮に、菅首相以外の候補者が、国民の大半が支持するような政策を掲げて立候補し、当選した場合でも、同内閣の支持率は跳ね上がったことでしょう。国民の主たる関心は、自らの生活に直接、あるいは、間接的に影響を与える政策に向けられているのです。

 

 第二に指摘し得る点は、国民の大半が支持する政策が存在している点です。選挙とは、それが国政、地方、政党など何れのレベルであれ、一般的には候補者がそれぞれ異なる政策を国民に提示し、自らへの支持を競う形をとります。しかしながら、政策とは、必ずしも明確な対立軸を構成して賛否が分かれるわけではなく、誰もが実現を望むような政策もあるものです。現状を不条理な状態と捉える、あるいは、不合理な状況にあると認識する場合には、国民の大多数が、その改善を政策として求めるのは、至極、当然のことなのです。例えば、国際標準に照らして明らかに割高となっている携帯電話料金の値下げといった政策がこれに当たります(途上国でも、スマートフォンを使用している…)。また、NHKの受信料の値下げといった政策も、政治的な立場に拘わらず、国民の大半が支持することでしょう。こうした政策は、本来、与野党ともに実現すべき政策であり、全ての政党が公約として掲げるべきもとも言えます。現状では、国民が支持する政策を以って選挙における看板政策にしますと、‘早い者勝ち’、つまり、最初に言い出した候補者、あるいは、政党が有利となり、他の政党が同様の政策を打ち出すのが難しくなるのです。

 

 第三に指摘し得る点は、凡そ100%の国民の支持を期待し得る‘看板政策’以外の政策については、必ずしも、民意に沿ったものではない点です。いわば、公約が‘セット・メニュー方式’であり、‘支持する政策’と‘支持しない政策’が混在している場合、前者を優先しますと、同時に後者も認めたことになります。‘抱き合わせ販売’のような問題であり、有権者は、分野ごとに個別に政策を選択することができないのです。例えば、菅首相の場合には、「看板政策+親中政策+新自由主義政策」がセット化されています。もっとも、親中政策については、首相就任後に日米同盟の強化の方向に軌道修正しているようにも見受けられますが、外国人の入国規制も早々に一部を解除するとの報道もあり、無反省なグローバリズム迎合の方針は継続されるかもしれません。

 

 以上に述べてきましたように、菅政権の誕生は、奇しくも選挙において国民が選択をしているのは何か、そして、政策選択が主となるのであるならば、現行の制度は、国民の選択や要望に誠実に応える設計となっているのか、という制度上の根本問題を提起することともなりました。新政権は改革志向を表明しておりますが、政治制度改革こそ、日本国の民主主義体制を護るためにも急務の課題ように思えます。今日、‘人から政策’へと人々の政治的関心の重心が移動する時代にありまして、人類は、この変化に対応すべく、知恵を絞ってゆくべきではないかと思うのです。


日本国の野党は政権交代のチャンスを逃がすのでは?

2020年09月22日 12時30分41秒 | 日本政治

 日本国では、与党サイドにあっては、政権内交代として菅義偉政権が成立する一方で、野党サイドでは、旧立憲民主党と国民民主党等の議員が合流し、9月15日に立憲民主党の名称を引き継ぎつつも、新たな政党としてのスタートを切ることとなりました。発足から間もない21日には、同党に所属する小沢一郎衆議院議員が、早くも「1年以内に必ず政権を取る」と述べ、政権交代への強い意欲を示したと報じられております。

 

 小沢議員の談によれば、11月には社民党も加わる予定なそうですので、‘統一野党’を結成する青写真が既に出来上がっているようです。自民党が解散を急ぐ理由の一つもこの点、即ち、野党側の準備不足にあるのでしょうが、果たして、総勢150人を越える‘統一野党’は、総選挙にあって勝利をおさめ、政権交代を実現するのでしょうか。

 

 怪しいとはいえ、世論調査の結果を見ますと、立憲民主党に対する支持率は凡そ10%程しかなく、現状では、政権交代は‘夢のまた夢’の状況にあります。しかしながら、唯一、政権交代の夢が叶えられるとすれば、それは、菅新政権に対する国民の不信感に訴えるしかありません。新政権に対しては、外政においては親中政策への転換、内政においては新自由主義の影響力拡大が懸念されており、それは、有権者の多く、こうした政策に対する反対表明として、‘統一野党’に投票する動機となるからです。即ち、与党に対する批判票を集めるという作戦です。

 

 ‘統一野党’の選挙公約については、寄り合い所帯のため、今後、綿密な調整を要するのでしょうが、親中派のドンである自民党の二階幹事長の国民に対する背信的行為や公明党と中国、韓国、北朝鮮との人脈を攻撃材料とし、日本国の国家的な危機として訴えれば、多くの国民は、与党への投票を躊躇することでしょう。両者については、アメリカの有力シンクタンクであるCSISの報告書が指摘しており、外部からも調査済みです。‘自公政権が継続されれば、日本国はやがて中国の属国となり、チベット、ウイグル、そして香港の同じ運命を辿ることになる’と主張すればよいのです(残念なことに、この懸念が現実となる可能性は否定でいない…)。国土交通大臣の職が公明党によって独占されたことにより、公共交通機関の施設での表示やアナウンスに中国語やハングルが加えられ国勢調査の封筒の表面にも、何故か、中国語とハングルが印字されている…)、多くの国民が自国の異変に気が付いています。実感が伴うだけにこうした主張は説得力を持つでしょうから、政権交代も夢ではなくなります。また、新自由主義に警鐘を鳴らし、グローバリズム原理主義から内需重視への転換、中国とのデカップリングの推進、観光産業のインバウンド依存の見直し、移民受け入れ促進政策の放棄、国民本位の農政…といった政策を打ち出せば、国民の期待はさらに高まることでしょう。

 

 以上に述べましたように、実のところ、国民の懸念を払拭する政策を公約として掲げて選挙戦を戦えば、‘統一野党’は、1年以内であれ政権を奪取するチャンスがあるのですが、立憲民主党の来し方を見ますと、千載一遇とも言えるこのチャンスを逃してしまうようにも思えます。その理由は、‘統一野党’結成の裏方である小沢議員からして、親中・親韓政治家の一人であるからです。同議員は、かつて大訪中団を結成して北京に詣でた際に、‘私は、人民解放軍の野戦軍司令官’と自ら名乗ったのですから。立憲民主党が、反中政党のポジションに自らを置くとは思えないのです(もちろん、一時的に反中を偽装したり、言行不一致で国民を騙す可能性はありますが…)。

 

 中国からすれば、日本国において民主的な選挙が実施され、たとえ政権が頻繁に交代したとしても、与野党ともに親中政党であれば好都合ということになりましょう。否、日本国民が、親中政権以外の選択肢を失えば、日本国の民主主義は形骸化し、中国の手に落ちたと言っても過言ではないかもしれません。中国の魔の手から逃れる手段としては、まずは、自民党内での親中派とのデカップリングや公明党との連立解消等が期待されるのですが、反中派であっても新自由主義派であれば、一難去ってまた一難となりましょう。何れにしましても、国民の多くは、第二の親中政党としての‘統一野党’の誕生を望んでいないのでしょうから、日本国の政界は、反中政党、否、国民思いの政党の出現を望む国民の声にこそ、民主主義国家の政治家として応えるべきではないかと思うのです。


‘天安門ファイル’が語る日本外交失敗の教訓-その2

2020年09月21日 12時08分13秒 | 国際政治

「天安門事件外交文書ファイル」によれば、天安門事件後のサミット外交において、日本国政府は、7月15日に発表された「中国に関する宣言」において「中国の孤立化を避け」という文言を書き込むことに最終的に成功します。それでは、何故、かくも日本国政府は、中国に肩入れしようとしたのでしょうか。

 

同ファイルでは、宇野首相の「総理発言案」と並んで、三塚外相の「サミット発言案」も公開されていましたが、この文書にあっては、同外相がサミットに先立って会談したシンガポールのリー・クアンユー首相の「“怒って、いらだった中国”よりも、平和的な隣国としての中国であった方が良い」という発言も盛り込まれたそうです。同発言案から、日本国政府が、対中政策に関連してアジア諸国とコンタクトをとっていた、あるいは、先進国に対する要望を取りまとめていたことや、サミットでは、‘欧米とは異なる価値を有するアジア’を代表する声としてサミットで発言しようとしたことが分かります。

 

加えて、注目されるのは、サミット閉幕後の7月18日に、宇野首相の命で北京の中島敏次郎大使が宇野首相の指示で中国外務次官と面会している点です。この面会で中国側は、サミットにあって天安門事件が議題化したことに対しては不満を表明しつつも、「日本は他の西側諸国よりも慎重な態度をとっている」として評価しています。この面会から推測されるのは、外交文書としては記録されていないものの、天安門事件の発生からサミット開催までの時期にあって、両国の政治レベルで何らかの水面下での交渉があった、あるいは、日本国政府に対して中国側からの要請や要望があった可能性です。

 

そして、この流れは、あるいは、何らかの国際勢力のネットワークを介して作られていった可能性も否定はできないように思えます。宇野首相は、終戦後にあってソ連邦に拘留されており、かの地で共産主義の思想を吹き込まれた可能性もないわけではありません。同首相は、日本国と米欧諸国との価値観の違いを強調するよう指示していますが、これは、日本国ではなく、首相自身が‘隠れ共産主義者’であったことを意味するかもしれないのです。また、シンガポールの初代首相であり、同国の権威主義体制を確立させたリー・クアンユー氏も客家系華人の4世であり、中国との間の公私に亘るコネクションも推測されます。

 

さらには、上述したように、日本国の中国孤立化回避方針に対して批判を寄せたアメリカの高官もあったものの、6月26日に予定された三塚外相とアメリカのベーカー国務長官との会談に向けた極秘文書には、‘「我々は、過度に反応したり、いたずらに感情的になったりすることを避け」、「息長く」「温かい目」で中国側の状況を見守っていく、といった文言も見られるそうです。日米間にあっても、裏では既に合意が形成されていた節もあり、この推測は、ブッシュ大統領が表向きには天安門事件を厳しく批判する一方で、鄧小平氏に対して励ましの書簡を密かに送っている事実からもサポートされます。

 

 アルシュ・サミットの主催国であったフランスのミッテラン大統領が左派政治家であった点も影響したのかもしれませんが、サミットにおいて、日本国に対して他の参加国が1対6という構図にありながら、すんなりと中国の孤立化に反対する日本国政府の要求が認められたことも、不自然といえば不自然です。その後、日本国の宇野首相はスキャンダルが発覚して退陣に追い込まれ、8月には海部内閣が成立しますが、親中路線は修正されるどころかさらに強化され、年が明けた1990年1月には、早々と対中円借款凍結解除へと動き出します。1991年8月には海部首相が訪中し、翌1992年には4月の江沢民国家主席の訪問、そして、10月の天皇訪中と続き、多くの若者たちを無慈悲に虐殺した天安門事件は、中国共産党の思惑通りに国際政治の表舞台から消されてゆくのです。

 

 2001年に中国がWTOに加盟する頃には、中国の経済発展が民主化を促進するとする主張も幅を利かせるようになり、経済制裁どころか、欧米諸国の企業もまた、積極的に中国市場へと進出してゆきます。しかしながら、当時の期待は悉く裏切られており、「世界の工場」に成長した中国は、今や、世界最先端のテクノロジーを手に、内にあっては全国民徹底監視体制を敷きつつ、外に向かっては、‘中国の夢’という名の時代錯誤の‘帝国主義’を振りかざして領土的野心を隠そうともしていません(他国の侵略や支配を国際法上の違法行為とも考えていない…)。こうした現状を見ますと、たとえ、背後に潜む国際勢力の意向を受けたものであれ、当時の日本国政府の判断に誤りがあったことは認めざるを得ないところです。

 

そして、今日、過去の失敗から学ぶべきことは、ゆめゆめ民主主義、自由、法の支配、人権の尊重、そして、平和に対して、経済を優先させてはならないということです。優先順位付けの誤りは、取り返しのつかない負の遺産が将来の世代を窮地に追い込みかねないのですから。『強い中国』が平和への深刻な脅威となる今日、「天安門事件外交文書ファイル」は、今日を生きる全ての人々に、人類にとりまして何が最も大切なのかを、鋭く問いかけているように思えるのです。


‘天安門ファイル’が語る日本外交失敗の教訓ーその1

2020年09月20日 15時11分21秒 | 国際政治

今日、ようやく天安門事件後の日本外交の内幕が明らかにされつつあります。時事通信社の開示請求に外務省が応じ、秘密指定が解除された‘天安門事件外交文書ファイル’の9冊が公開されたからです。同ファイルが明らかにしたのは、自国民虐殺という非人道的な行為に対して毅然として批判するよりも、中国との経済関係を優先した当時の日本国政府の残念な対応でした。天安門事件から30年余りを経た今日、同ファイルは、今日の日本国に何を語り掛けるのでしょうか。

 

 天安門事件発生した1989年6月4日、当時の日本国の首相は宇野宗佑氏であり、外務大臣は三塚博氏が務めていました。時事通信社が報じるところによれば、同事件発生の報を受けた直後にあって、外務省は、「人道的見地から容認出来ない」と前置きしながらも、日中間の体制や価値観の相違を理由に中国の国内問題と見なし、「我々の対中国非難にも自ら限界あり」とする文書を作成していたそうです。

 

 初動体制において既に及び腰の姿勢が見受けられるのですが、事件発生から5日後の6月9日には、北京の在中日本大使館は、外相宛ての大至急電にて‘対中批判による逆効果’、並びに、‘中国政府の扇動による排外思想の拡大’に関る懸念を伝えており、同月22日には、民主主義や人権といった日本国の価値よりも‘長期的、大局的見地’を重視し、経済分野における中国の改革・開放政策を支持すべきとする対中政策の基本方針を固めています。そして、西側諸国の一致団結した対中批判による中国の孤立化は、‘得策ではない’として退けているのです。

 

日本国政府の同政策方針は、翌月の7月14日から16日にかけて開催が予定されていたアルシュ・サミットに向けて具体化してゆきます。宇野首相も、同サミットを前にした翌月7月6日には‘日本国と米欧との価値観の違いをアピールする’よう外務事務次官等に指示しております。省内にあっては、日本国政府の人道軽視や経済優先の態度に起因する西側諸国からの‘日本の孤立’が危惧され、7月8日には、実際にアメリカの高官から批判を受けながら、こうした声はかき消されたのです。

 

そして、アルシュ・サミットに関連する「中国問題に対する総理発言案(7月11日付)」において、まずもって驚かされるのは、日本国政府によるアジアの‘歴史認識’です。同案では、‘現在の中国は『弱い中国』である’、‘『弱い中国』は排外的になる’、‘排外的な中国は有害である’、故に、‘中国を孤立させてはならない?’とする三段論法まがいの非論理的な論法で、米欧諸国を説得しようとしたからです。この論法が‘非論理的’である理由は、‘排外的で『弱い中国』’であった方が、平和にとりましては遥かに望ましいからです。排外主義も、それが国内的な運動であれば有害とはなりません。日本政府としては、1919年の五四運動の再来を懸念したのかもしれませんが、同運動は、むしろ、‘帝国主義’とも称された当時のグローバリズムに対する抵抗運動の側面を持ちます(そもそも中国国内に多数の外国人や海外資本が存在しなければ、排外主義も起きようがない…)。

 

幾度となく中国の歴代王朝から周辺諸国が侵略を受けたアジアの歴史からしますと、‘『強い中国』は危険であり、『弱い中国』のままに孤立させておく’が、論理的には正しい結論となるはずです。非人道的な体制を維持したまま、厳しい対中制裁を科すことなく中国の経済成長を先進諸国が救ければ、長期的には『強い中国』が出現するのは自明の理であり、『弱い中国』の状態にあればこそ、天安門事件をきっかけとした対中封鎖政策こそ、平和のためには最善の策であったはずなのです。(次回に続く


世論の‘決めつけ’問題-異常に高い菅政権への支持率

2020年09月19日 12時59分30秒 | 日本政治

 菅新政権に対しては、何れのメディアのアンケートによる世論調査でも支持率が60%を超えており、数字の上では、‘悪夢の時代’とも評された民主党政権がようやく幕を閉じ、‘平常’への回帰が期待された第二次安倍内閣発足時の支持率をも上回るそうです。メディアは、圧倒的多数の国民からの支持を‘決めつけ’ていますが、鵜呑みにしてもよいのでしょうか。

 

  ‘決めつけ’とは、凡そ、本人が決めることであっても、他者が決めてしまうことを意味します。例えば、今月17日に開かれた石破派のパーティーの講演の席で、二階幹事長は、‘日中関係は、今や、誰が考えても春’と述べ、習近平国家主席の国賓訪日に期待を寄せています。中国の傍若無人ぶりが白日の下に晒されている今日、誰もが日中関係を‘春’と捉えているとは思えません。少なくとも、筆者のように日中関係は‘冬’と捉えている人が存在していることこそ、同幹事長の‘決めつけ’に対する反証ともなりましょう。全体主義に対してシンパシーの強い人ほど、自らの見解を他者に押し付けようとするものです。一党独裁体制を敷く中国でも、如何に実態とかけ離れていようとも、共産党の主張する世論が中国国民の‘世論’なのですから。

 

 もっとも、上述した日本国のメディアによる菅政権高支持率の‘決めつけ’は、一先ずは世論調査を根拠としていますので、主観的な願望に基づく全くの‘捏造’とも言い切れない側面があります。しかしながら、昨今、世論調査に対する信頼性は揺らいでおり、しばしば、その作為性が批判の的ともなっています。アンケートの対象、人数、設問の内容、質問の順番などの操作によって回答を誘導することができますし、有効回答率を見ましても、50%を下回る調査も少なくないからです(例えば、日経新聞社の世論調査では、有効回答率は凡そ47%に過ぎない…)。アメリカ大統領選挙でも、世論調査と実際の投票行動との間には違いがあり、メディアによる選挙予測が外れる要因として指摘されています。アメリカでは、正直に答えることによって社会的不利益を被ることへの懸念から、リベラルを装う風潮が世論調査と選挙結果との間の主たる乖離要因とされていますが、日本国にあっても、現政権に対して否定的な見解の人ほどアンケート調査の回答を拒む傾向にあるのかもしれません。

 

 かくして、政治家やメディアによる世論の‘決めつけ’には注意を要するのですが、正直申し上げますと、本ブログでも‘決めつけ’と批判されそうな表現が随所に使われております。例えば、菅新政権に対する国民の‘失望感’や‘不安’について、再三にわたり言及しています。これらの‘決めつけ’につきまして釈明をお許しいただけますならば、以下の二点を挙げることができます。

 

 第一点は、本ブログでの‘決めつけ’は根も葉もないものではなく、一般の人々によるネット上の意見やコメント等を読んだ上で、一般的な世論傾向として判断しております。菅政権については、積極的に支持したり期待する意見は少なく、むしろ、不安視する声の方が多数を占めておりました。実際に、YAHOOニュース上の「みんなの意見」を見ますと、支持・不支持ではなく、「菅内閣が発足、期待が大きい? 不安が大きい?」という設問ではありますが、56%の人々が‘不安が大きい’と回答しています。同アンケートの参加者数は凡そ13万人にも上り、凡そ1000人程度の規模で実施されるメディアの調査数とは雲泥の差があります。もちろん、工作員説や世代片寄り説もあるのでしょうが(もっとも、‘五毛’と称される中国系ネット工作員は菅政権を支持する回答を行ったのでは…)、同アンケート結果は、実施規模において説得力があります。

 

 第二の点は、菅政権の掲げる政策の多くが、国民の利益や望みに適っているとは言い難い点です。とりわけ、二階幹事長の影響力の拡大が指摘されているように、先ずもって親中傾向が強まることに対する警戒感があります。観光業に関しても、疑問や反対の声が少なくないにも拘わらず、コロナ禍も冷めやらぬ内にインバウンド再開への方針を示しております(早々に入国規制を緩和して、中国人観光客を呼び込むのでは…)。また、内政を見ましても、新自由主義への著しい傾斜が見受けられます。国民の多くがマイナンバーカードに対して懐疑的であり、発行数も低迷している現状にあって、デジタル庁の新設を以って政府に対する国民の信頼が劇的に改善されたとも思えません。また、農政につきましても、2030年を目度に農産物の輸出量を5倍に増やし、5兆円規模に引き上げる政府目標を打ち出していますが、輸出重視の政策では、自給率の改善や国民に対する安全な食料の提供は危うくなりましょう(農業の海外依存度が高まり、日本国は、中国富裕者層向けの高級食材供給地にされるのでは…)。加えて、強力に推し進めると宣言された規制緩和は、より一層の勤務形態や就労形態、延いては国民生活の不安定化を招くかもしれません。

 

 もちろん、携帯料金の値下げや給付金の再支給といった、国民受けのよさそうな政策もないわけではありません。しかしながら、そもそも寡占化による高水準の携帯料金は民営化の失敗、あるいは、値下げに消極的であった前政権の怠慢とも言えますし(あるいは、真の狙いは、中国のようにスマートフォンを国民監視システムの端末化することかもしれない…)、給付金支給は、政府からの‘施し’ではなく、納税者であり、かつ、日本経済を支えてきた国民の当然の権利でもあります。こうした‘目玉の政策’は、水面下にあって新自由主義的政策を推進するための‘目くらまし’であるのかもしれません。掲げている政策を見ますと、菅首相の庶民派イメージとは逆なのです。

 

 以上の諸点を考え合わせますと、60%以上の国民が菅政権を支持しているとは思えません。民主的手続きを経ずして誕生した現政権は、世論調査の結果をもって民意を反映していると演出したいのではないか、とする推測も成り立ちそうです。未だ発足したばかりの政権でもあり、国民の評価は今後の政策運営次第ということにもなるのでしょうが、真の国民世論とメディアの世論調査の結果は一致していないのではないか、と疑うのは、私のみなのでしょうか。


中国の「海外重要人物データベース」は何を意味するのか?

2020年09月18日 11時45分28秒 | 国際政治

 オーストラリアのメディアによりますと、中国の国有企業傘下にある「中国振華電子集団」グループが、240万人にも及ぶ海外要人の個人情報を収集していた実態が明らかとなったそうです。このリーク情報、一体、何を意味するのでしょうか。

 

 中国企業が保有する「海外重要人物データベース」の存在は、内部関係者から提供を受けたことから、オーストラリア側が知るところとなったそうです。入手された同データベースは、同国や欧米のサイバーセキュリティー企業、報道機関、並びに学者等によって分析され、政治家や外交官、企業経営者などの個人情報が含まれていることが判明しています。「中国振華電子集団」の主たる取引先は、中国共産党、並びに、人民解放軍であるためか、米海軍の幹部やミサイル専門家に関する情報も含まれていたそうです。中には英王室のメンバーの名もあり、主たるターゲットは、ファイブ・アイズの構成国であったのかもしれません。

 

 収集されていた情報の大半は、生年月日、ニュース記事、SNSのアカウントといった公開されている情報であったものの、中には、金融取引の記録や就職時の履歴書など非合法に収集された情報も含まれているそうです。また、汚職などの犯罪歴もあることから、同データベースを作成した中国の目的は、脅迫の対象を探すためではないかとする憶測も呼んでいます。何れにしましても、中国が、積極的に海外要人の個人情報を収集してきた実態が明らかにされたのです。

 

 もっとも、今日の国際情勢に鑑みますと、ファイブ・アイズをはじめ各国とも海外の要人については相当量の情報を収集しているものと推測されます。この点からしますと、中国ばかりを特別視する必要はないのでしょうが、何故、米中対立が激化する今、この時に、同データベースの存在が明るみされたのか、という問題を考えてみることには価値があるように思えます。

 

 第一の推測は、中国側は、敢えて同データベースの情報を自由主義国側に自発的に渡した、というものです。上述したように、情報自体は公開されているものが大半を占めますので、情報価値としてはそれ程には高くはありません。機密性が低い情報であるからこそ、‘メッセージ’として利用した可能性がないわけではないのです。それでは、どのような‘メッセージ’なのかと申しますと、中国は、同データベースに掲載されている内容を遥かに上回る詳細な個人情報を既に手中にしている、というものです。しばしばメディアがスキャンダルとして報じておりますように、中国は、賄賂やハニートラップなど海外要人を標的とした様々な工作を仕掛けてきました。中国政府当局による篭絡工作に関する情報は、同データベースにはあるはずもなく、脅迫に使用できる情報は、自由主義国には提供せずに国家中枢の奥深くに仕舞ってあると推測されるのです。つまり、中国の罠に落ちてしまった海外要人に対して、中国のために行動するように暗に圧力をかけているとも推測されるのです(反中の行動をとれば、秘密を暴露するぞ?)。

 

 第二の推測は、中国との間で緊張を高めているオーストラリア、あるいは、ファイブ・アイズによる自由主義諸国に対する対中警戒の喚起です。オーストラリアと中国との対立が激化した理由は、後者による‘静かなる侵略’が前者によって明確に認識されるに至ったからです。もちろん、中国よる対豪攻略作戦の最中にあって、個人情報の暴露を取引材料とした脅迫が行われていたことでしょう。脅迫に屈し、心ならずも中国に協力した‘海外重要人物’も少なくなかったはずなのです。自由主義陣営としては、中国に秘密を握られている人物を放置しておくことは、内部に‘敵’を抱え込むようなものですので、各国政府に対して暗に対処を求めているのかもしれないのです(「海外重要人物データベース」にリストアップされている人々が、既に親中派の人々であるのか、それとも、中国側にとって今後利用価値があると見なされている人々であるのか、その確認は重要)。

 

 そして、日本国に関連して気になるのは、他の諸国には見られない特色がある点です。それは、安倍首相を含む558人の政治家や財界人らが「重要公人」としてリストアップされている一方で、‘逮捕された暴力団組員ら358人もリスト化’されているというのです。政界や財界に親中ネットワークが既に形成されているとしますと、国家を危うくする一大事なのですが、中国が日本国内の暴力団員を‘海外重要人物’として扱っていることも、危険な兆候とも言えましょう。何故ならば、リストに掲載された暴力団員は、中国の‘手下’として活動する可能性が高くなるからです。入国規制に関わるブラックリストであれば別に作成しているでしょうから、中国が、日本国の暴力団員に利用価値を見出している証なのかもしれません(全体主義体制を日本国民に押し付けるための‘暴力装置’として利用?)。

 

 何れにいたしましても、日本国政府、メディア、そして、官民の研究機関等も(もっとも、政界には既に親中派が巣食っているような・・・)、暴露に至った経緯を含めて、中国の‘海外重要人物データベース’について、徹底的に調査を実施するべきではないでしょうか。もしかしますと、思わぬところから国際情勢を読み解く鍵が見つかるかもしれませんし、また、日本国にも忍び寄る‘静かなる侵略’の実態を知る貴重な情報となるかもしれないのですから。


憲法第68条も改正すべきでは-人事の首相一任方式は適切なのか?

2020年09月17日 11時23分18秒 | 日本政治

 昨日9月16日、菅義偉新首相の下で閣僚人事が行われ、皇居における認証式を経て新たな内閣が発足いたしました。自民党内の派閥力学によって擁立された政権であるだけに、‘派閥に配慮しない’との新首相の前言とは裏腹に、今般の組閣は、派閥間調整の産物に過ぎないとする手厳しい評も見受けられます。真相は藪の中なのですが、国民の多くが新内閣の顔ぶれを‘適材適所’と見なしているとは言い難く、親中派の二階幹事長を留任させた党内人事と相まって失望感も広がっています。

 

民主主義国家にあっても、人事とは、時にして国民が望む有能で善良な政府の出現を阻む阻害要因ともなってきました。とりわけ、日本国のような議院内閣制の国では、政党内での党首選出、衆議院選挙、国会での首相選出、首相による組閣…というふうに、二重三重の手続きを経ますので、国民の意向が、首相を含む統治機構の人事に反映されることは殆どありません。

 

また、先日も、菅首相は、官僚組織に関連して、自らの政策に反対する、あるいは、意見する官僚に対して異動を示唆し、人事権を以って上意下達のシステムへの転換を図る方針を示しましたが、この手法は、北朝鮮と然程変わりはありません。同国における最近の出来事として、金正恩委員長の政策を批判した有能なエリート官僚5人が処刑されたとする報道がありました。人事を握るトップが反対者の‘首を切ってしまう’、即ち、完全に排除し得るシステムという意味において違いはないのです(実際に、生かしているか、命を奪っているかの違いしかない…)。

 

 人事権とは、しばしば‘生殺与奪の権’ともなるのですが、これまで、同権限に対する国民の関心は薄かったように思えます。しかしながら、マスメディアやネット上では、しばしば‘○○が干された’とか、‘報復人事か’といったセンセーショナルな見出しを目にすることもあり、また、企業等の社会一般の組織にあっても、‘上司に反対したために左遷された’というようなお話はよく耳にします。実のところ、誰もが遭遇し得る身近な問題でありながら、何故か、等閑にされてきたのです。

 

 制度設計の観点からしますと、人事権とは、独裁者が真っ先に掌握したがる権限であるように、最も‘人の支配’に陥りやすい権限です。しかも、組織の目的や存在理由とも乖離が生じやすく、職務上に要する能力よりも、人事権を握る者の個人的な好悪の感情、賄賂の多少、自己に対する貢献度や忠誠心の高低、親密性の濃淡といった‘私的基準’によって人選がなさますと、組織の目的達成や役割を基準とした人選からは遠のくばかりとなるのです。結局は、本来、組織の目的や役割には適っている有能な人材がパージされ、やがて組織自体が傾くことにも少なくないのです。

 

このため、一般の企業や組織では、組織の目的に適った公平、かつ、最適な人事を心掛けるべく、中立的な人事評価制度を設け、客観的に能力や実績を評価し得るように努力を重ねてきました(AIの積極的導入も同観点から主張されている…)。その一方で、今日の統治制度を見ますと、現行の閣僚人事システムは、安全装置の欠如した危険極まりない状態のまま放置されてきたように思えます。

 

 現憲法の第68条では、組閣の権限は、首相の専権事項として定められています。憲法上の規定ですので、誰もがこの条文を前提として疑問を懐くこともなく現状を受け入れています。いわば、思考停止の状態にあるのですが、首相に人事権を一任する危険性が明らかとなった今日、制度の方を変えてみるとする発想もあって然るべきように思えます。民主主義国家の場合、民意に応えて善き統治機能を提供することが組織としての目的ですので、この目的から離れないような制度的な工夫を凝らす必要があるのです。

 

 例えば、アメリカのような大統領制を採用する国家では、大統領が各省庁の長官を任命するに際しては、議会両院の承認を要します。議院内閣制の場合には、首相が議会から指名されるため、こうした方式は採るのは難しいのですが、議院内閣制という間接的な選出方法であればこそ、首相を含めた内閣全体に対する承認権を国民に与えるという方法も一案となりましょう。また、各閣僚の任命権を首相に独占させるのではなく、首相と同様に、閣僚ポストをそれぞれ個別に国会で指名するという方法もないわけではありません。あるいは、自薦他薦を認めるといった方向での改革もあり得ます。小学校や中学校の学級委員の選出場面を思い起こしてみますと、学級委員長が人事権を独占し、他の○○委員を任命するという形式は殆どなかったのではないでしょうか(仮に、委員長一任方法であれば、子供達でもおかしいと言い出すのでは…)。むしろ、メンバーのコンセンサスを重視し、その職に適した人物を公平な評価基準に基づいて個別に選ぶ方が、人事の在り方としては理に適っているようにも思えます。

 

 憲法改正と申しますと、第九条ばかりが注目されますが、同条の改正問題が、第68条の改正を含めて日本国の統治制度の発展を阻んできた側面もないわけではありません。国民が蚊帳の外に置かれてしまう現状を脱するためには、まずは、自由な発想こそ尊重されるべきであり、統治制度につきましても民主主義をさらに強化すべく、抜本的な見直しにこそ着手すべきではないかと思うのです。


菅政権が目指すデジタル化とは?

2020年09月16日 11時26分01秒 | 日本政治

 国民の最も懸念していた事態は現実となり、自民党の幹事長のポストは二階俊博氏の再任という結果に終わりました。アメリカの報告書が名指しで親中派議員として名を挙げていただけに、同氏の去就が注目されてきたのですが、日本国政府の中国接近を警戒する国民にとりましては、失望を禁じざるを得ない‘悪いニュース’であったのです。

 

 ‘人事は政権のメッセージ’が菅新首相の口癖であったそうですので、これでは、アメリカに対しては二階氏排除の要請を暗に拒絶したことになりますし、中国に対しては、中国重視の姿勢を鮮明にしたこととなります。好意的、否、忠誠を誓ったかのようなメッセージを受け取った中国は、新政権の発足に日本取り込みの(属国化の)チャンス到来と見るでしょうし、否定的なメッセージを読み取ったアメリカは、日本国に対する警戒感を強めることでしょう(もっとも、アメリカ民主党は歓迎しているかもしれませんが…)。そして、二階幹事留任という新首相からのメッセージに対して最も危機感を募らせているのが、他ならぬ日本国民なのです。

 

 新政権が親中派によって凡そ固められたとしますと、その掲げる政策につきましても、懐疑的にならざるを得ません。例えば、デジタル庁の新設につきましても、中国式の全国民監視システムの導入が目的なのでないかと疑ってしまいます。マイナンバーとの‘紐付け’も目的の一つとされておりますので、デジタル化による行政サービスの向上は表向きの説明に過ぎないのかもしれません。そして、一旦、全国レベルで国民監視システムを敷いてしまえば、中国は、外部からであれ、内部からであれ、直接的であれ、間接的であれ、そして、合法的であれ、非合法的であれ、易々と全日本国民を監視することができるようになりましょう。

 

 また、全省庁のデータをデジタル庁が一元的に管理する体制の構築を目指しているとするならば、日本国の国家機密を含めた全ての行政上のデータは、中国に筒抜けということにもなりかねません。今年の2月には、日本国政府が、各省庁に共通する基盤システムにおいて、アマゾン・ウェブ・サービスのクラウドを使用する方針を示しましたが、新政権にあっては、デジタル庁の新設に際して中国IT大手への発注をも視野に入れているかもしれません(仮にこうした事態が発生すれば、日米離反は決定的に…)。政府による行政データの一元管理は、むしろ、盗取しようとする側にとりましては好都合でもあります。

 

古来、他国への戸籍簿の提出はその国への服属を意味しましたが、現代にあっては、個人情報を含む全国民のデータ、あるいは、データシステムそのものの提供こそ、降伏、あるいは、属国化を意味するのかもしれません。政府に対する国民の信頼が欠如しており、かつ、技術面でも安全性が確保されていない現段階にあっては、デジタル化の推進は、むしろ、日本国の防衛や安全保障を脅かしかねないリスクの拡大を意味することとなりましょう。

 

こうした諸点を考慮しますと、行政文書や各種データについては分散管理体制の方が望ましく、とりわけ国家の最高機密については敢えてデジタル化せずに文書で保管した方が安全であるのかもしれません。デジタル化に邁進する新政権の姿勢に不安を覚える国民も少なくなく、日本国政府は、自国の独立を維持し、かつ、国民の情報を護るためにも、‘デジタル’と‘アナログ’との適切な使い分けこそ目指すべきではないかと思うのです。