つい数年前までは、現代という時代にあってフランス大統領が「国民の社会活動を可能な限り制限する」といった言葉を口にするとは、誰もが想像すらしなかったことでしょう。フランスは、’自由、平等、博愛’をスローガンとして世界に先駆けて大革命を起こし、人権宣言を発した国として知られています。そのフランスにあって、大統領その人が、国民の自由や権利への制限を公言しているのですから驚きです。
もっとも、フランス革命の’その後’を思い出しますと、’さもありなん’とも思えてきます。ロベスピエールの恐怖政治にあって、’反革命’の烙印を押された国民は、公権力によって徹底的な迫害を受けた挙句に、最悪の場合にはギロチン台の露と消えたのですから。フランス革命の致命的な矛盾とは、国家が全ての国民の基本的な自由や権利の擁護者とはならず、フランス革命の理念に共鳴した国民のみに市民権を与え、その理念に反する国民を排除し、社会から抹殺しようとしたところにありましょう。つまり、人権宣言を高らかに掲げたフランス革命の行きつく先は、恐怖が支配する全体主義体制であったのです。
この忌まわしき過去は、今日にあっても、何らかの出来事を切っ掛けとして顔を覗かせるようです。今般、マクロン大統領が国民の枠外に置き、迫害の対象に定めたのは、ワクチン接種を拒絶している国民です。’革命の理念’ならぬ’ワクチンの理念’に反する者は、もはや国家による保護対象に含まれず、社会において生きる権利が剥奪されるのです。そこには、全ての国民個々人の自由な判断や意志決定を尊重し、その幸せを願う慈しみ深い大統領の姿はありません(恐ろしく底意地の悪い政治家にしか見えない…)。
しかも、ワクチン接種を義務化する法案が昨年暮れには閣議決定され、議会下院でも可決されたと報じられております。上院での可決などの手続きを残してはいますが、同法案が成立すれば、大統領の言う’嫌がらせ’や’圧力’のレベルでは済まされず、より強い強制力が働くことでしょう。このままでは、ワクチンの接種場が、’現代のギロチン台’となりそうなのです。
二度のワクチン接種でも、自ら感染もすれば他者を感染もさせますので、ワクチンパスポートの制度は非合理的であり、かつ、非科学的でもあります。理性が’理性信仰’というカルトに転じた側面も(’理性’と’信仰’との二重思考…)、フランス革命時と瓜二つなのですが、マクロン大統領、あるいは、その支持母体を強硬策に駆り立てているのも、革命思想と同様にワクチン接種が国家体制に関わるイデオロギー的な側面を持つからなのでしょう。言い換えますと、ワクチン接種が、同勢力が目指す’新しい国家体制’の樹立の基盤となるからこそ、何としても、全国民にワクチンを接種させたい動機と考えられるのです。
実のところ、恐怖を利用した宗教集団への入信を含めた特定の集団や新しい体制への参加圧というものは、古今東西を問わず、人類の歴史に見られる古典的な手法でもあります。フランス革命も、その手法においては必ずしも’革命的’なものではなく、むしろ、古典的な手法を近代において蘇らせてしまった観さえあります(この観点からも’復古’と’革新’が並ぶ二重思考かもしれない…)。コロナ感染の恐怖では不十分とみて、マクロン大統領は、社会的排除という恐怖をも利用しようと考えたのでしょう。
日に日に’現代のロベスピエール’化してゆくマクロン大統領を、フランス国民は、どのような思いで眺めているのでしょうか。人権宣言がフランス革命の’光’であるのならば(真の光であるかどうかも怪しい…)、フランスの現状は、その’影’の部分とオーバーラップしているように思えるのです。