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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

寛容は不寛容に負けるという現実

2025年05月08日 12時27分02秒 | 社会
 今日ではいささか沈静化したとはいえ、ヨーロッパ諸国では、今でもイスラム過激派によるテロ事の脅威に晒されています。2015年1月にフランスのパリで発生したシャルリー・エブド事件は、それが予言者マホメットの風刺に端を発していたため、‘これは表現の自由なのか、あるいは、他者が神聖視するものを侮辱してもよいのか’といった論争を巻き起こすこととなりました。‘善にも制限が必要’という立場からは、基本的に表現の自由は認めたとしても、イスラム教が内包する問題点を指摘したいならば、挑発的で過激な表現ではなく、より抑制的で理知的な方法を採るべきであったのかも知れません(全てではないにせよ、批判には‘一理ある’と思う人が出現するため・・・)。この点、表現者の側にも非がないとは言えないものの、狂信的なテロリストが‘イスラムの正義’をもって表現者の殺害に及ぶとなりますと、前者以上に悪が際立ちます。自らの蛮行をもって、神の名の下で善が悪に転化されてしまうイスラム教、否、宗教の問題性を衆人の前に晒してしまったとも言えましょう。

 さて、テロ事件がヨーロッパ諸国で頻繁に起きてしまう原因の一つには、寛容と不寛容との間の非対称性があるように思えます。今日、ヨーロッパ諸国において移民が激増してしまった理由は、あらゆる側面における寛容性の高さにもあるからです。宗教的な寛容は、ウエストファリア条約(1648年)にも見られるように、凄惨を極めた宗教・宗派戦争への反省から17世紀から広がっています。また、異教徒にして隠然たるマネー・パワーを握るユダヤ人、並びに、社会・共産主義者をはじめとしたリベラリストも、旧来の社会や体制に対する反感や否定の文脈において寛容を主張してきました(EUの成立も寛容性の高さと無縁ではない・・・)。今では、グローバリズムの名の下で、人種、民族、宗教、世代、性別などなど、あらゆる多様性に対して寛容であることが‘絶対善’とみなされています。

 寛容の精神が相互的であり、かつ、お互いの違いを認め合い排除しないというのであれば、無制限な寛容が悪に転じるリスクは然程には大きくはないのかもしれません。とは申しましても、現実には、言語や慣習等の共通性を基盤として社会は成り立っていますので、国民統合の側面からは、移民による固有性の維持は、社会的な分裂や対立、すなわち、‘悪’を引き出す要因とはなります。何れにしましても、寛容が‘絶対善’の地位を獲得した結果、ヨーロッパには、多数のイスラム教徒をはじめとした異人種、異民族、異教徒等などが住む地域となったと言えましょう。

 しかしながら、同寛容政策は、寛容と非寛容との非対称性を見落としていたように思えます。この点、18世紀を生きたモンテスキューの洞察には驚かされます。何故ならば、以下のように述べているからです。

「他の宗教に寛容でありうる宗教はその普及をあまり考えないものであるから、他の場所で自己を確立することに大きな熱意をもつのは不寛容な宗教だけであると言ってよいため、国家が既成の宗教に満足しているときは、他の宗教の設立を容認しないのが極めて良い公民の法律であろう。」(『法の精神』第5部第25編第10章、岩波文庫版より引用)

 モンテスキューの時代から凡そ300年が経過した今日では、この発言は国教の是非に関する議論を呼びそうではあるのですが、寛容な思考を持つ側が不寛容な思考を持つ側を受け入れた場合の‘結末’を人々に予測させている点において、現在と共通する寛容をめぐる非対称性の問題を鋭く見抜いています。その‘結末’とは、不寛容な側の拡大であり、それは、時にして寛容な側に対する排除や攻撃を伴うこともあり得るということなのでしょう。

 現代のヨーロッパにあってモンテスキューの警告が活かされていれば、あるいは、イスラム過激派によるテロ事件は未然に防ぐことができたかも知れません。そして、この問題は、イスラム過激派に限定されているわけではなく、不寛容な思想を持つ移民の増加がもたらす脅威についても説明しています。日本国も例外ではなく、中国からの移民の激増は、共産主義、否、独裁容認という不寛容な思想を持つ人々の増加を意味します。‘隠れ共産主義者’も紛れているでしょうし、教育等を介して同国の体制が染みついているかもしれません。この結果、中国人及び中国系日本人の増加は、寛容を是とする日本国が掲げる自由や民主主義を内部から蝕んでゆく可能性も否定はできないのです。そして、この不寛容性は、情けも容赦もないグローバリズムにも見られるのです。
 
 寛容というものがたとえ‘善’であったとしても、その無制限な追求が殺人、暴力、混乱、対立、分裂、破壊、冷酷といった悪を引き出すようでは元も子もありません。今や、寛容の徹底、すなわち、無制限な寛容を説くよりも、人々の安全と社会の安定のために、寛容というものを適切に制限する方法を考えるべき時なのではないかと思うのです。

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‘善の制限’を要する移民問題

2025年05月07日 12時06分58秒 | 社会
 善には、全てではないにせよ、それが行き過ぎると悪に転じてしまうという問題があります。善の悪への転化は、その境界線を見極めるのも、転化の瞬間を把握することも、善悪が複雑に入り組んだ状況を理解することも容易ではなく、殺人、窃盗、偽証と言った明確でストレートな悪、即ち犯罪よりも対応が難しいのです。制限や規制を設けようとしますと、得てして善を掲げる人々から道徳・倫理的な批判を受け、抵抗されてしまうからです。今日の世界を見ましても、善の実現とされているものが、他者の権利を侵害したり、他者が大切にしているものを問答無用で破壊してしまう事例は枚挙に暇がありません。

 例えば、今日、全世界の諸国を悩ませている移民問題はどうでしょうか。この問題も、‘無制限な善’がもたらしているように思えます。これは、グローバリズムの無誤謬性を信じ込む‘グローバリズム信仰’の問題とも言えるのですが(懐疑主義から始まる近代合理主義に逆行もしている・・・)、グローバリズムは、‘国境なき世界’を人類が到達すべき理想郷として掲げ、国境を越えた移動を‘絶対善’と見なしているからです。

 ‘移動の自由’とは、人の移動が厳しく制限されてきた過去の時代に対する反省の上に成り立っています。近代以前の時代には、一般的には人々の移動は制限されており、自らが生まれた村落から自由に他所に移ることも、旅に出ることさえ自由ではありませんでした。日本国をありましても、江戸時代には、東海道、中山道、奥州街道といった主要な街道の要所には関所が設けられており、通行手形を所持しなければ通過することはできなかったのです。こうした人々の移動に対する規制は、近代国家への転換に際して国家統合の過程で廃止され、日本国でも、明治政府の発足後間もない1869年に関所は撤去されました。

 歴史の流れからしますと、人の移動の自由化は、個人の自由の拡大であり、‘束縛から自由’を意味するのですが、それでは、この個人の自由は無制限に許されるのか、と申しますと、移民問題が深刻化する現状が、移動の自由に伴う侵害性の問題を示しています。以下に述べる幾つかの側面において、この侵害性を論理的に説明することができるのです。

 第1に、過去において関所が設置された目的の一つは、治安の維持にあります。江戸時代にあって江戸の町にスラムが形成されず、比較的良好な治安が維持されたのは、生まれた土地を離れる浮浪民の都市への移入を防いでいたからとも説明されています。自由移動を妨げる‘障害物’と見なされた関所にも、治安を維持する上の根拠があり、人々の安全な生活に寄与していたこととなりましょう。翻って現状を見ますと、移民の増加によって都市の一部がスラム化し、一般人はおろか、警察さえ踏み入ることができない暗黒街のような地域が形成される事例は稀ではありません。移民の集住地区が、海外とも繋がるマフィアや犯罪組織の拠点となったり、犯罪者に潜伏先を与えかねない現実があるのです。

 また、かつての関所は、封建体制にあっては各藩の独立性が比較的高いこともあり、防衛上の役割をも担っていました。国内の‘藩境’が撤廃された近代以降は、国家が防衛政策の主体となったため、国境が防衛の対象となります。つまり、防衛を目的として、国境を越えて人の自由移動に規制を課す必要性は昔も今も変わりはなく、‘藩境’から国境に変わっただけなのです。すなわち、無制限な国境を越えた人の自由移動は、自国の安全を脅かしてしまうのが、第2の侵害的側面です。

 第3に、財政や社会保障制度の側面からしますと、移民は、所謂‘フリー・ライダー’となり易い点という問題があります。様々な行政サービスの仕組みやインフラなどの施設等は、主として長年にわたって世代をも越えて国民が納めた税によって整備されてきたものですし、各種の社会権制度も、定住あるいは長期間の居住を前提として設計されています。このため、過去と現在との両面において、他国からの移住者の場合には、受益と負担のバランスが前者に大きく傾く一方で、一般国民のバランスは比例的に後者の方向に傾斜してしまうのです。目下、日本国においては、健康保険制度等の公的制度の利用やこれを目的とした中国人の日本国への移住が問題となっておりますが、一般の日本国民にとりましては、制度の悪用としか言い様がないのです(日本国民の保険料負担を増やすので、事実上、財産権の侵害を意味してしまう・・・)。

 第4点として挙げるべきは、今日の国民国家体系は、一民族一国家を基本原則として成立していることです(所謂‘新大陸’に建国された諸国は別として・・・)。民族の定義は曖昧なものの、遺伝子、言語、慣習、文化、宗教、価値観等を凡そ同じくし、共通のアイデンティティーの下で一つの社会を形成してきた人々の集団として凡そ理解することができます。国際社会は、同集団に対して独立国家を有する政治的権利を認めているのですが、このため、誰もが自由に出入りできる単なる‘地域’と見なすには無理があります。移動が自由化された近代以降にあっても、誰もが自由に他者が住んでいる家や敷地に入れるわけではありません。近現代の国民国家とは、その国に代々住んできた人々に既得権を認める形で成立しているのです。このため、移民の増加は、独立国家を有する国民にとりましては、乗っ取りの恐怖に怯えると共に、実質的な権利喪失を招く脅威ともなり得ます。しかも大量の移民により人口構成が変化しますと、社会における共通認識や連帯性が崩れると共に、分離独立運動が起きたり、移民の出身国の支配下に入りかねないのです。

 以上に述べてきましたように、無制限な人の移動の自由には、個人レベルであれ、集団レベルであれ、重大かつ深刻な権利侵害が伴います。人の自由移動は‘絶対善’であるはずもなく、実害がある以上、‘善の制限’という視点から現実的な対応を急ぐべきではないかと思うのです。

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善にも制限が必要な理由とは

2025年05月06日 11時27分20秒 | 社会
 三権分立論で知られるモンテスキューの言葉に、‘徳にも制限が必要’というものがあります。この‘徳’を‘善’に置き換えてみますと、今日、人類が抱えている問題がより明瞭に見えてくるように思えます。それは、過激で破壊的なポリティカル・コレクトネスに象徴される、リベラリズム、あるいは、グローバリズムによる全人類に対する‘善’や‘価値観’の押しつけの問題です。

 それでは、何故、‘善’にも規制が必要なのでしょうか。善が最大限に発揮されれば、より善い世界が出現するとイメージされがちです。善が足りないから、今日、多くの人々が苦しんでいると。確かに、犯罪や不正が蔓延る社会は人々にとりまして生きづらく、より地獄に近い状況となります。このため、明確に悪と断定できる利己的他害行為については、これらをできる限り減らし、社会を健全化すれば、人々が安全かつ安心して暮らしてゆくことができると考えるのは当然です。悪の撲滅が社会を善くすることは確かなことです。

 しかしながら、‘悪の消滅、即、善き社会の実現’とは言い切れないように思えます。何故ならば、利他的他害性もあり、利他的他害性の方が、利己的他害性よりも‘厄介’であるからです。もちろん、利己的他害行為とされる行為にも、正当防衛やホワイトライなどは、正当なる根拠や動機があれば罪として問われない例外が認められています。利己的他害性の場合には、基本原則の適用から外すに際して、誰もが納得する理由があるものです。ところが、利他的他害性については、善悪を判別するに際してそれ特有の難しさがあります。

 第1に、利他性を装った利己的他害行為が存在しています。所謂‘詐欺’というものであり、相手を害そうとする悪意がありながら、あたかも相手に利益や恩恵を与えるかのように偽るのです。もっとも、この場合、見抜くのが難しいものの、刑法にあって詐欺罪が設けられているように、状況や結果から判断して利己的他害行為として対処することができます。なお、慈善事業やボランティアなどにおける‘偽善’は、自らの本心を偽りはしますが、他者を害することはありませんので、遥かに‘まし’ではあります。

 第2のケースでは、積極的に他者を害する意図がなく、全くの純真な心から発する利他的な行為ではあるのですが、間接的であれ、結果として他者を害してしまう場合です。自らは善と為していると信じ込んでいますので、他者の被害については無自覚です。第1のケースでは刑法での対応は比較的容易ですが、第2のケースでは、被害が放置されてしまうことも稀ではありません。例えば、自由の名の下での他者の権利や自由の侵害は、自由貿易主義やグローバリズム、あるいは、新自由主義にあって顕著ですし、平等を‘絶対善’と位置づけた結果、無関係な人が不利益や不当な扱いを受けてしまう逆差別が生じてしまいます。こうした場合、被害者には救済の手は差し伸べられないのです。善も行き過ぎると悪に転じるという事例は少なくありません。

 第3に、‘善’や‘正義’という‘大義名分’が、破壊行為や他者に対する攻撃に口実を与えてしまう場合もあります。宗教・宗派間の争いやイデオロギー闘争などがその典型例なのですが、自らが信じるものに‘絶対善’の座を与えることで、それとは異なるものを‘絶対悪’と決めつけ、徹底した排除や攻撃で臨んでくるのです。この結果として、‘悪側’の一員と認定された罪もない人々が犠牲となったり、被害を受けてしまいます。第3のケースでも、‘絶対善’を称する側が公的な立場を獲得したり、同調圧力が伴ったり、あるいは密かに目立たないように排除や攻撃が遂行される場合には、救済の道は閉ざされてしまいます。

 以上に三つの主たるケースを挙げてきましたが、‘自由、平等、博愛’を三つの’絶対善’としてスローガンに掲げたフランス革命が、アンシャン・レジーム側の人々のみならず、反革命派と見なした人々をも容赦なくギロチン台に送るという自国民の大量虐殺を招き、恐怖政治に至ってしまった理由も、自ずと理解されてきます。善を悪の盾にする、あるいは、善から悪を引き出すことは、悪魔の所作でもあるのですから、人類は、善悪については、他害性のリスクの存在を十分に理解しつつ、賢明かつバランスのとれた判断に努めるべきと言えましょう。そして今日、デジタル全体主義やAI失業等の懸念が広がる中、デジタル化=善、否、テクノロジーの発展=善という固定化された構図につきましても、‘善にも制限が必要’とする観点からの見直しを要するのではないかと思うのです。

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本当は怖いコスモポリタニズム

2025年04月17日 12時15分28秒 | 社会
 コスモポリタニズム、あるいは、‘世界市民主義’という言葉は、純真な人々を理想郷に誘うような誘引力があります。人種、民族、宗教等の違いがなくなり、地理的にも人々を隔てる国境も消えた彼方に現れる、‘人類が一つに融合された世界’とも言えましょう。

 しかしながら、コスモポリタニズムは、本当に、全ての人類が共に到達すべき理想郷なのでしょうか。古典的な書物を読みますと、時にして現代人との認識の違いに‘はっとさせられること’があります。本ブログでしばしば紹介してきたモンテスキューの『法の精神』もその一つです。同書は、世界各地の気候条件や地理的条件などによって生じる社会や政治文化等の違いを論じる比較政治学の先駆的な書でもあるのですが、この中に、コスモポリタニズムに関する記述があります。そしてそれは、今日の認識とは些か違いがあるのです。

 上述したように、現代の人々は、コスモポリタニズムを平和主義の思想と見なしています。‘世界が一つ’であれば、戦争と言った国家間の争いも起きませんし、‘人類が一つ’であれば、人種差別や民族差別なども起きるはずもありません。人類を悩ませてきた問題の幾つかが消え去るのですから、これを理想郷とみなす根拠がないわけではありません。しかしながら、コスモポリタニズムの起源がヘレニズム時代におけるアレキサンダー大王の征服事業の一環であった点に思い至りますと、その評価も自ずと変わってきます。

 古今東西を問わず、征服者とは、被征服民を虐殺したり、自らの属する支配民族の言語、慣習、宗教などを押しつけ、その固有性を抹消しようとするものです。女真族が支配者となった清朝が漢人に弁髪を強要し、植民地主義の時代にあって本国の言語が植民地の公用語とされたように(この間、多くの言語が死語に・・・)、こうした政策は、20世紀まで続いてきました。征服者による被征服民の抹殺や強制同化が一般的であったからこそ、被征服民の固有性を認め、両者の融和を図ろうとしたアレキサンダー大王の政策が、後世まで語り伝えられるほどに画期的であったことになりましょう。

 勝者の敗者に対する寛容の精神が、コスモポリタニズムが賞賛されてきた理由であるとしますと、今日、無批判に同思想を礼賛することには重大なリスクが伴います。何故ならば、この思想は、軍事強国による異民族の‘征服’を前提としているからです。今日、コスモポリタニズムを信奉している人々は、どこかの国、あるいは、何れかのパワーによって征服されたいと思っているのでしょうか。何らかの力が働かなければ、政治・行政・法制度も含めて組織的に‘世界を一つ’にしたり、文化、価値観、慣習等において‘人類を一つ’にすることはできないはずです。たとえ、敗者に対して寛容であったとしても、今日の国際社会では、征服、即ち、侵略は、国際法上の犯罪行為です。犯罪行為を前提としたのでは、いかなる美徳も美徳ではなくなります。

 18世紀に生きたモンテスキューは、コスモポリタニズムが、征服事業における被征服者側に対する融和政策の一環であることを的確に認識していました。ところが、今日の人々は、この大前提を忘却、あるいは、見落としているように思えます(あるいは、意図的に無視・・・)。この結果、マネー・パワーをもって世界や人類を一つにして支配しようとするグローバリズムの侵略性も、コスモポリタニズムという美名によって糊塗され、見えにくくなっているとも言えましょう(しかも画一化された近未来の‘グローバル・カルチャー’とは、昆虫食の普及促進や近年のオリンピックや万博の開会式にも見られるように、倒錯的でサタニックなのでは・・・)。そして、グローバリズムをもって不可逆的な時代の流れと見なす人々も、既にグローバリストの術策に嵌まっているのかも知れません。共産革命のようにユートピアを目指したつもりがディストピアにたどり着いてしまうこともあり得るのですから、‘理想郷’というものには、常に警戒すべきではないかと思うのです。

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風刺になってしまう実写映画『白雪姫』

2025年04月02日 13時48分02秒 | 社会
 『白雪姫』と言えば、19世紀にグリム兄弟がドイツに伝わる昔話やおとぎ話を収集したグリム童話の中でも、特によく知られている代表的な作品です。今日に至るまで、かわいらしい挿絵が描かれている絵本のみならず、映画化やアニメ化されて全世界の人々に親しまれてきました。ところが、今般、ディズニー社が実写版のミュージカル映画を作成したところ、思わぬ物議を醸すこととなりました。

 グリム童話は、1812年、即ち、ドイツ諸国がナポレオン体制の頸木を脱し、ドイツ・ロマン主義運動が高まりを見せていた時期に出版されています。同運動は、後年のドイツ統一へと繋がってゆくのですが、ドイツという極めて政治性を帯びた民族性が強く意識されながらも全世界に広く読まれるようになったのは、同作品の中に、人類共通の普遍的な要素が含まれていたからなのでしょう。否、‘遠い昔’のみならず、‘遠い国’のメルヘンであるからこそ、他の諸国の人々に‘夢’を与えたのかも知れません。時空における現実との遊離感や距離感が、人々のロマンティズムを掻き立て、おとぎの世界に誘ってきたのでしょう。そして、悲劇的な境遇や苦難を乗り越えてハッピーエンドで終わる、あるいは、悪者が懲らしめられる勧善懲悪を基本とするストーリー展開が、ドイツ人ではなくとも多くの人々の共感を呼び、安心感を与えたことも、グリム童話が、世界的な‘ベストセラー’となった理由とも考えられます。

 本来であれば、グリム童話は、‘実際にはこの世には存在しない’という前提があってこそ、誰もが楽しめる作品であったとも言えましょう。ところが、今般の映画化された『白雪姫』は、実写化に伴って、非現実的な物語の世界に‘現実感’を与えてしまったようなのです(なお、本記事は、実写版を視聴したわけではなく、同映画に対する批評記事から推測して書いています。悪しからず、お許しを)。

 実写映画『白雪姫』については、その批判点は一つではありません。白雪姫を演じたレイチェル・ゼグラーの個人的な政治的なスタンスをはじめ、様々な方面から批判や意見が寄せられています。その中の一つが、現代リベラリズムの問題としてしばしば指摘されているポリティカル・コレクトネスを中世のおとぎ話に持ち込んでいるというものです。確かに、今般の作品は、原作とは著しく違っています。白雪姫の命名の理由を変えてまで‘雪のように白く’はない白雪姫を登場させ、その人物像も、人々が描く穏やかで優美なプリンセスではありません。自我の強い積極的な活動家であり、将来、即位した際には、リーダシップの発揮が予測されるタイプなのです。そして極めつきは、‘白馬の王子様’が、実写版では、何と、山賊の青年というのです。

 最後は、同青年が白雪姫に感化されて‘改心’するという、現代風のハッピーエンドで幕となるようなのですが、同ストーリーの展開、否、原作の改竄に‘違和感’を抱く人は少なくないことでしょう。そして、この違和感は、同作品が、現代の価値観をおとぎ話に持つ込むことで、逆におとぎ話にリアリティーを与え、現実に引き入れてしまったところに起因しているのかも知れません。何故ならば、自ずと今日の王族や皇族の現状と重なってしまうからです。

 もちろん、今日の王族や皇族には、君主の座にあって国家を治める政治的な権力はありません。しかしながら、イギリスや日本国をはじめ幾つかの諸国では、立憲主義の下で‘世襲君主’の形だけは維持しており、現代にあっていわば過去の世界を残していると言えましょう。そして、今日の王室・皇室報道に見られるように、王族や皇族のパーソナルな側面や活動に関心が向けられており、実写版白雪姫と共通するのです。婚姻関係を見ましても、‘山賊’とまでは行かないまでも、マフィアなどの犯罪組織との繋がりや品位に欠ける人物でも王族や皇族の一員になることができるのです。

 過去に舞台設定された空想の世界がリアリティーをもって今日にその姿を現わすとき、それは、違和感をも越えて現実的な脅威となり得ることを意味します(現代の価値を過去に持ち込んだつもりが、逆に、過去の問題が現代に持ち込まれてしまう・・・)。それが善意であったとしても、個人的な意思をもってリーダーシップを発揮する王族や皇族は、民主主義を損ないかねませんし(グローバリストが望む独裁やパーソナル・カルトの容認に・・・)、プリンセスやプリンスが気に入りさえすれば、配偶者は犯罪者であれ何であれ誰でもよい、とする価値観を押しつけられているようにも感じられるからです。実のところ、多くの人々が皇室や皇室に対して抱いている疑問を、同映画がそれとなく描き込んでいるとしますと、これは、まさに現状に対する風刺となりましょう。果たして、ディズニー社の意図はどこにあったのか、興味深いところなのです。

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皇族の東大推薦入学の是非

2024年08月28日 09時41分42秒 | 社会
 学習院の開設は、江戸末期の弘化4年(1847年)に遡り、以後、皇族の学び舎とされてきました。明治17年には宮内省所轄の官立学校となりますが、戦後は、皇族や華族の子弟に限らず、一般国民にも開放されると共に、私立大学として再出発することとなります。創立の経緯からしても学習院は皇族のために設けられた特別の学校であり、当然に皇族が入学試験を受けることはなかったことでしょう。

 学習院=皇族の学校という構図は戦後も暫くの間は維持されてきたのですが、秋篠宮家の長女眞子さんから学習院離れが始まり、今般、新たな問題が持ち上がっています。それは、長男である悠仁氏の進学問題です。皇嗣の嫡男となりますので、現行の皇室典範によれば、将来、天皇の位に就くものとされています。悠仁氏も、幼稚園から中学校までの期間はお茶の水大学の付属学校で学び、高等学校は、筑波大付属高校に進学し既に学習院から離れています。しかしながら、これらの学校の選択に際して特徴となるのは、何れも、国立の学校を選んでいるという点です。

 それでは、何故、悠仁氏の進学問題が国民の関心、否、批判を浴びているのかと申しますと、入学希望の大学が、国立の東京大学であるとされているからです。しかも、高校入学時と同様に、他の志願者と一緒に一般入試を受けるスタイルではありません。学校推薦での入学を目指しており、そのための‘実績’を積んでいるというのです。悠仁氏は、第一線の研究者と共同でトンボに関する論文を執筆し、8月25日に京都市で開催された「国際昆虫学会議」にあってはポスター発表を行なっています。これらの研究活動は、東大の推薦入学を勝ち取るための‘戦略’と見なされているのです。

 同戦略が、不公平であることは言うまでもありません。他の一般の高校生達が、推薦入学の条件を満たすために、その道の専門家と共同研究できる可能性はほぼゼロであるからです。入学試験とは競争試験である以上、推薦入学も含めて全ての参加者に対して競争条件を同一にしませんと、結果の信頼性をも失われてしまいます。とりわけ、国立大学の入試にあっては、平等原則は徹底されるべきです。推薦入学であっても、他者の手を借りた‘実績’は、自らの実力とは言いがたく、決して平等も公平でもないのです。

 秋篠宮家が皇族という特別の地位を自らのために利用したことは明白です。否、かつての学習院のように無試験で入学できるのではなく、競争試験を経なければならない現代であるからこそ、その裏口的な手法の姑息さが目立ってしまうとも言えましょう。皇族が、率先してアンフェアな行為を行なうのでは、‘国民に対して示しが付かない’と考えるのが、一般国民の常識的な反応なのではないでしょうか。

ところが、この件に関して脳科学者の茂木健一郎氏は、全く逆の意見を述べています。国民からの批判を人権侵害とした上で、「そんなご不便をかけてるんで、それを特権とかいうのは本当に心が貧しいな。全体を見れない方たちだなと思う」として。同氏の見解では、<皇族は特別な存在である>⇒<自由が束縛されている>⇒<束縛がある分、国民は、皇族の些細な私的要求は受け入れるべき>ということになります。つまり、‘特別な存在である皇族の要求を批判する国民の方が悪い’という論理なのです。しかしながら、この論理は、茂木氏の個人的な皇族観に基づく主張ですし、必ずしも正しいわけでもありません。社会の公平性を損ねる私的要求の抑制こそ、皇族に課された最も重要なる‘束縛’であるとも言えるからです。

 古今東西を問わず、君徳や帝王学が存在してきましたので、後者の方が国民一般が権力者や権威者に求めてきた倫理的な規範なのでしょう。むしろ、公的権威の私的利用が許されると考え(伝統的な倫理観に反する・・・)、上から目線で国民の批判を封じようとする茂木氏の論理は、どこか倫理観が倒錯しているようにも思えます。同氏は、批判する人々に対して「全体を見れない方たち」と表現して軽蔑していますか、同氏が全体を見ることができるのであれば、‘特別な存在とは何か’、‘権威の源泉とは何か’、そして、‘統合の役割とは何か’といった、天皇や皇族の根本的な存在意義や今後の在り方まで掘り下げた議論を提起すべきではないかと思うのです(つづく)。

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フワちゃん大炎上事件の‘ネット民’批判を考える

2024年08月19日 09時14分55秒 | 社会
 フワちゃん大炎上事件は、人々にとりまして、善悪の判断を含む様々な問題について考える貴重な機会となっているように思えます。本日も、千原せいじ氏によるSNSユーザーに対する苦言が報じられておりました。「結局今フワちゃんを叩いてるヤツら、お前はフワちゃんと同じことをしてるからな」として。

 それでは、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’は、‘同じこと’をしている、つまり、両者の行動は同質のものなのでしょうか。どこか理屈っぽく聞えるかも知れませんが、善悪を基準としますと、両者は、むしろ正反対と言っても過言ではないように思えます。フワちゃん氏の発言は、他者に自死を薦めたのですから、弁明の余地がありません(やす子氏が告訴すれば刑事事件となる可能性も・・・)。しかも、やす子氏のX上の発言は博愛精神から発せられていますので、フワちゃん氏のリプライは、情状の余地がないほどに悪が際立ってしまっているのです。つまり、同事件では、善悪の立場が明確に区別されるのです。

 こうした善悪の構図を前提としますと、‘ネット民’による批判は、人々の一般的な倫理観に発する悪に対する批判となります。罪に対する批判なので懲罰的な意見も当然に含まれることでしょう。こうした意見は、当事者であるフワちゃん氏にとりましては主観的には‘害’であり、自らに対する‘攻撃’なのでしょうが(刑罰は常に受ける側にとりましては‘害’である・・・)、基本的には悪意から発せられるものではないのです。とりわけ、フワちゃん氏の言葉が‘苛めっ子’の常套句であり、精神的な虐めの手段であったからこそ、より激しい懲罰意識と反発を招いたことは想像に難くありません。ここには、‘罪に対してはそれ相応の罰を与えるべきとする’常識的なバランスが働いているのです。この側面に注目しますと、メディアでは、フワちゃん氏の発言を‘不適切発言’や‘失言’とする表現で報じているものの、‘虐め発言’や‘反倫理発言’と言った方が、問題の本質を言い表しているかも知れません。

 もちろん、匿名によるバッシングに快感を覚え、便乗しているSNSのユーザーも存在しているのでしょうが、大多数の人々は、正義感から投稿しているはずです。しばしば、ネットバッシングが起きる度に、‘自分だけが正しいと信じている’とする批判を耳にするのですが、そもそも、大勢の人々の正義感を呼び覚ますような‘悪’がなければ、炎上するはずもありません。ネット上の炎上こそ、人々の道徳心や良心の現れであり、それを批判したり、封じるような発言には、疑問を抱かざるを得ないのです。仮に、フワちゃん氏の発言に対してネット空間が沈黙する、あるいは、同発言に同調した笑いが一斉に起きたとしましたら、その社会は、恐ろしく陰湿で冷酷な歪んだ世界となりましょう。他害的で悪意のある発言に対する社会的な反発は、同社会に生きる人々の道徳や倫理のレベルを示す、一種のバロメーターでもあるのです。

 以上に述べましたように、善悪の区別を基準としますと、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’の批判は、同質とは言えないように思えます。そして、この基準からしますと、よりフワちゃん氏に近いのは、‘ネット民’ではなくむしろ千原氏自身なのではないかと思うのです。何故ならば、善悪両サイドの関係からしますと、フワちゃん氏サイドから‘ネット民’を批判する発言は、自ずと悪が善を叩く構図となってしまうからです。同氏は、SNSのユーザーに対して「ヤツ」、あるいは、「お前」とも呼んでおり、こうした他者に対するぞんざい、かつ、自らを‘上位者’と自己認識した上での言い方も、フワちゃん氏の社会観と態度と似通っているのです。

 しかも、活動休止が宣言されながら、ウェブ上では、マイナス情報であれ、プラス情報であれ、フワちゃん氏に関する記事が散見されます。こうした現状では、‘ネット民’を同氏と同列に貶めて批判したとしても、鎮火するどころか火に油ともなりかねません。フワちゃん氏に限らず、近年のマスメディアでは、一般の視聴者やユーザーから忌避されているタレント等を起用し続ける傾向があるのですが、背後に圧力団体や何者かの意向があるとしますと、この問題は、メディアとは、一体、誰のためにあるのか、という、メディアと‘ネット民’、否、一般の人々との間の根本的な関係性をも問いかけているように思えるのです。

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フワちゃん発言の論理的怖さ

2024年08月16日 11時56分21秒 | 社会
 「フワちゃん大炎上事件」は、なかなか鎮火には至らないようです。様々な分野の人々が新たな視点で賛否両論の議論を起こしており、予想を超えた延焼が続いているようにも見えます。その一つに、フワちゃん氏の発言に見られる論理性を評価する哲学者からの擁護論もあります。矛盾に満ちたやす子氏の発言よりもフワちゃん氏のリポストの方が余程論理性が高いというのです。

 論理性をもって新たなるフワちゃん氏擁護論を展開しているのは、フランス哲学者の福田肇氏です。それでは、同氏は、哲学的な考察からどのような論拠をもってフワちゃん氏の発言を評価しているのでしょうか。

 先ずもって、同氏は、自身のフワちゃん氏擁護論の出発点は、「やす子の無神経で情緒的でお気楽な発想」にあるとしています。現実には、高齢者や障害者の介護に疲弊する人々、安楽死を望む人々、LGBTQ問題を抱えている人々などが存在しながら、「生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」という言葉は‘好きになれない’というのです。つまり、同氏の不快感という感情から始まっているのですが、その後は、やす子氏の発言の論理的な矛盾点を指摘しています。‘生きているだけで皆偉い’と言う以上、優勝という順位付けは矛盾するというのです。

 やす子氏が、‘優勝’という言葉を順位付けの意味合いで使ったとは思えないものの、この論理で矛盾を批判するならば、フワちゃん氏の発言にも同様の指摘をすることはできます。‘死んでくださーい’と言う以上、その後の‘予選敗退’もあり得ないからです(本人は「生きておらず」、既にこの世にはいない・・・)。

 そして、次なる指摘こそが、福田氏が最も強調したかった論理性なのでしょう。同論理性は、両氏の発言の文章構成を個別に検討するものではありません。フワちゃん氏は、やす子氏の発言を逆手に取る形で自らの発言を組み立てており、そこに高い論理性を認めて評価してるのです

 確かに、やす子氏の発言を分析しますと、1.生きる(S)は、偉い(P)、2.偉い(P)は優勝(X)、3.生きる(S)は優勝(X)というきれいな三段論法を構成しています(S⇒P、P⇒X、S⇒X)。その一方で、この論法に対して、一切の条件なしで単純に否定で構成すると、(1)S(ー)⇒P(ー)、(2)P(-)⇒X(-)、(3)S(-)⇒X(-)となります。‘死者は偉くなく、偉くない人は優勝しない、死者は優勝しない’となります(ここでは大文字右の(-)は補集合を意味し、少なくとも数学的には正しい)。

 ところが、福田氏のフワちゃん発言論理優位説の根拠は、こうした単純な否定の論理ではありません。福田氏は、やす子氏の三段論法の最初の一段目において、フワちゃん氏の発言は、SとPを否定形となるS(-)とP(-)に変えたことに加えて、両者の位置を逆転させている、即ち、‘逆手’にとっているから「面白い」と言っているのです。つまり、S(ー)⇒P(ー)ではなくP(-)⇒S(-)あるいはS(ー)⇐P(ー)に・・・。ところが、この否定逆転の意味を文章表現しますと、’偉くない人は死ぬべき‘という恐ろしい言葉に転換されてしまいます。すなわち、第一段以下を三段論法で記述しますと、(1)P(-)⇒S(-)、(2)S(-)⇒X(-)、(3)P(-)⇒X(-)となり、’偉くない人は死ぬべきであり、優勝もしない(予選敗退)‘となり、まさにフワちゃん氏の問題発言となるのです。

 ‘逆は必ずしも真ならず’と申しますように、S(ー)⇒P(ー)からP(-)⇒S(-)へと逆順とした論理式が正しいわけではありません。むしろ詭弁的な論法でもあり、この‘逆手’が倫理や道徳に著しく反したが故に、気の利いた‘ウイット’として笑えず、大炎上する結果を招いたとも言えましょう。おそらく、福田氏もこの逆手が含意する‘偉くない人に対する死の肯定’には気がついていたのかもしれません。福田氏は、「フワちゃんは、そこから「偉くない」のであれば、その人は「生きていない」はずだ、よって「予選敗退だ」という結論を導き出した」と述べており、‘「生きていない」はずだ’と表現することにより、積極的な死の肯定に対して和らげた表現を用いているからです。

 結局、フワちゃん氏の発言に論理性をもって擁護する試みは、その意図とは反対に、同発言に潜む反倫理性を暴き出してしまったようにも思えます。「偉い」、「偉くない」のフワちゃん氏の基準が何であるのかが曖昧であるだけに(P(-)は主観的に設定可能・・・)、多くの読者が、自らをやす子氏の立場と重ねることとになり、フワちゃん氏への批判が強まったとも言えるかもしれません(フワちゃん氏の基準によって「偉くない」とされた人は、すべて「死んでください」ということになるのでは?)。

 介護を要するほどの高齢になっても、障害を持っていても、LGBTQ等であっても、生きていて欲しい、生きていてくれるだけで幸せと思う人々も少なくありません(とりわけ家族は・・・)。同擁護論も感情から始まっていますように、生死の関わる問題は、論理では割り切れない部分があります。ましてや道徳や倫理を真っ向から否定するような詭弁であるならば、多くの人々からの反発や批判を受けるのは当然のことなのではないかと思うのです。

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スクールカーストは猿山か

2024年08月14日 11時28分59秒 | 社会
 今日の学校は、虐め問題に限らず、子供達にとりまして生き辛い場所のようです。何故ならば、教室では、しばしば‘スクールカースト’と呼ばれる階層化が見られるというのです。同カースト制度はおよそ3階層に分かれており、上位から1軍、2軍、3軍と序列が下がってゆきます。カーストと言いますと、インドの過酷な身分制度が思い出され、この言葉が使われているだけでも引いてしまうのですが、今日の学校での序列化を説明する日常語として使われていること自体が驚きでもあります。

 それでは、スクールカーストの序列がどのようにして決まるのかと申しますと、その基準となるのは、コミュニケーション能力、容姿、運動神経、学業成績、所属する部活動などなそうです。上位者は、これらの何れにあっても優れており、このため、教室全体においてリーダーシップを発揮し得るのです。リーダーシップといえば聞こえは良いのですが、その実態は、横暴な支配階級のようなもののようです。他の2軍や3軍に自らの意見を押しつけ、あらゆる物事を自分たちで勝手に決めてしまうのですから。

 その一方で、2軍とされる生徒達は1軍の取り巻き、あるいは、フォロワーとなり、1軍の意に添うように行動します。同調圧力を醸し出すのもこの階層であり、同階層の協力なくして教室全体の同調圧力も生じないこととなります。そして、最下層に位置づけられる3軍に至っては、1軍による虐めの対象となりやすく、精神を病んだり、不登校となる生徒も少なくないそうです。スクールカーストは、虐めの原因でもあるのです。

 実のところ、このスクールカーストの世界、前近代における階級社会が、現代においてそのミニ版として再現されているといっても過言ではありません。階級社会では、国や社会全体の決定権は一部の特権階級が独占しており、他の人々は、一方的に支配される立場にありました。しかも、その決定も、社会全体のルールや法に照らしたものでもなく、大方、権力を握る少数の人々の恣意や私的な好悪によって決められます。言い換えますと、今日、普遍的な価値とされる自由、民主主義、法の支配、平等・公正といった諸価値とはほど遠い、真逆の世界なのです。

 こうした世界が、子供達の間で自然に形成されているとしますと、この現象をどのように理解すべきなのでしょうか。前近代における階級社会は、過去から引き継がれてきた伝統でもあり、かつ、半ば公権力によって強制されてもいました。しかしながら、今日の教室で出現したスクールカーストは、クラス替えの度に起きるというのですから、自然発生的なものとも言えましょう。否、スクールカーストという名称が存在しないだけで、過去の時代の教室にあっても位階的なグルーピングは存在しており、今日の一般社会にあっても散見されるのかもしれません。

 序列化の現象をもってこれを人間集団の本質的な傾向とする説明は簡単なのですが、人類史的な視点からしますと、人類の精神的な発展を無視しているようにも思えます。自然界を観察しますと、生物学的に人類に最も近い霊長類では、ボス猿を頂点として‘猿山’とも称されるピラミッド型の位階秩序を形成する種属がいます。このことは、類人猿より高い知能を有する人類にあっても、十分に知性や理性が十分に備わっていない段階では、社会が‘猿山モデル’となり得ることを示唆しているとも考えられます。学童期にあってスクールカーストが自然に形成されてしまうのも、あるいは、人の精神的な発展段階と無縁ではなく、理性や理性が未成熟な故の過渡的な現象かも知れないのです。

 古代ギリシャ哲学の流れを引き継いだ西欧においては、近代にあって理性と社会や国家との関係について深い思考を加えています。これらの哲学は、現実の世界にあっても近代国家の制度的発展に理論的な基盤をも提供しており、上述した自由、民主主義、法の支配、平等・公正と言った諸価値が統治機構にあって制度化されたのも、客観的且つ公平な視点の源としての理性という概念に負うところが大きいのです。そして、現代国家の大半が、普遍的諸価値と共に近代的な制度を取り入れたことは、人類における理性の普遍性の証とも言えるのです。

 このように考えますと、生徒や学生の知性や理性を育て、‘猿山モデル’であるスクールカーストの世界を卒業させることこそ、教育の果たす役割とも言えましょう。恣意的で固定的な物差で個々人を評価し、位階秩序に振り分けてしまうのは、理性に照らして見ればまことに馬鹿馬鹿しいことなのです(ボス猿には、外敵からメンバーを護る役割があるので、猿山以上に馬鹿馬鹿しいかも知れない・・・)。この馬鹿馬鹿しさは、2軍の人も3軍の人こそ気がつくべきかもしれません。自己呪縛という愚かな行為なのですから。そして、このことは、子供達の理性や知性を育むことに失敗しますと、社会も‘猿山モデル’に退行してしまうリスクをも示しています。今日、世界各国にあって独裁化の兆候が見られますが、横暴な独裁者の出現を防ぐためにも、人々の精神的な成長を促す教育の役割は重要なのではないかと思うのです。

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「フワちゃん大炎上事件」の教育効果

2024年08月13日 10時09分50秒 | 社会
 今日、誰にとっても学校の教室が楽しい場であるわけではありません。とりわけ、虐めが起きている学校では、休み時間や課外活動、学校行事でさえ精神的な苦痛を伴うことも少なくないのです。しかも、スマホやタブレットが普及した今日、子供達は、新たな虐めの手段を手にするようにもなりました。SNSの使用は、虐めの場を教室から子供達の私的空間へとさらに広げているのです。言葉の暴力は古今東西を問わずに昔からあるのですが、SNSは、現代にあって言葉による虐めリスクを一層高めているのです。

 今般のフワちゃん氏による暴言も、言葉による虐めの問題と直結しています。何故ならば、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」という発言には、言葉による虐めの核心的な要素が凝縮されているからです。「おまえは偉くない」では、自らの優越感に基づく主観のみで他者の人格に対して低評価を与えています。この言葉を受けた側は、自らの価値を一方的に貶められるわけですから、自ずと自己評価も下がってしまい、落ち込んでしまうのです。続く「死んでくださーい」は、これは言うまでもない、刑法に抵触するような暴言です。最初の節の‘偉くない’は理由付けですので、‘おまえには価値がないから死ぬべき’という意味となり、この言葉を投げかけられた側が繊細な傷つきやすい心の持つ主であれば、死という選択が頭を過るかも知れません。そして、最期の「予選敗退でーす」には、それが架空の競争であるからこそ、‘敗退’という表現には、相手に惨めな思いをさせたいという意地の悪い願望が滲み出ています(事実ではないだけ、悪意が明白・・・)この言葉を聞いた側は、実際に敗北したわけでもないにも拘わらず、自らに向けられた悪意に打ちのめされてしまうのです。

 以上に述べましたように、同発言には、虐める側の心理的な特徴がよく現れています。(1)他者を下げることによる自己優越感、(2)排除願望、(3)嗜虐性、(4)悪意などです。これらの悪意のある言葉を他者に向けて発することが、言論の自由によって保障されるべきか、と申しますと、そうではないように思えます。あらゆる自由には、‘他者を害しない範囲’という限界があるからです。つまり、利己的他害性は悪ですので、直接に他者の身体を傷つけるものではなくとも、言葉による暴力には他害性が認められるのです。今般の「フワちゃん大炎上事件」にあっても、フワちゃん氏による一方的な暴言は加害行為であって、やす子氏は虐めの被害者とも言えましょう。

 そして、虐めの場が、生徒達が偶然に‘同級生’になってしまう教室と、芸能界という同業者集団という、比較的狭い世界である点も共通しています。全く接点のない他人同士であるよりも、何らかの共通性をもつ人々の間での方が、自他の境界線が曖昧となり、度を超した侵害行為が起きやすいのです。外側から見れば‘仲良しグループ’であっても、同グループ内部で深刻な虐め問題が発生しているケースも少なくありません。

 学校での虐め問題がなかなか解決を見ない現状からしますと、今般の「フワちゃん大炎上事件」では、加害者となるフワちゃん氏が批判を浴び、番組やCM等が降板となると共に、芸能活動を休止するに至っています。言い換えますと加害者側に制裁、あるいは、ペナルティーが科せられたのです。この成り行きは、学校での虐め問題に少なくない影響を与えるかもしれません。何故ならば、今日における虐め問題に対する学校側の対応は、被害者のサポートに務めても、加害者側には極めて甘いからです。何らのお咎めを受けることもなく、どこ吹く風で卒業してゆく加害者側の生徒や学生も珍しくはありません。

 こうした中、今般の一件は、他者に対して死を勧めるような言葉の暴力が、社会的な制裁の対象となる事例を子供達の目の前に示すこととなりました。虐めの現場では、‘死ね’とか、‘死んでくれ’といった酷い言葉が日常的に飛び交うのですが、こうした言葉を口にしている加害側の生徒や学生は、他者に対して心理的にダメージを与える発言が罰の対象であることに気がつくことでしょう。罪の自覚は重要です。そして、同調圧力に屈して‘苛めっ子’の言いなりになってきた他の生徒や学生達も、虐めへの加担を悪として理解し、今後は自制するかもしれません。加害者から周囲の人々が離れてゆくのです。このように考えますと、虐めをなくすという意味において、今般の「フワちゃん大炎上事件」には一定の教育効果があったのではないかと思うのです。

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『羅生門』からフワちゃん炎上問題を語るとしたら

2024年08月12日 10時00分12秒 | 社会
 目下、タレントとして活躍してきたフワちゃん氏が、お笑い芸人であるやす子氏のXへのポストを引用する形でリポストしたコメントが、大炎上を起こしているそうです。批判を浴びることとなった言葉とは、やす子氏の「オリンピック 生きているだけで偉いので皆 優勝でーす」に対して投稿された、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」というものです。

 この言葉、小中高等学校で起きている生徒や学生による自殺が虐めによるものが少なくない現状からしますと、あまりにも冷酷で悪意を含む言葉でもあります。自ら死を選んだ子供達の多くは、同級生達から‘死んでください’とか‘死ねばよい’といった心ない言葉を浴びせられてきたからです。軽い気持ちの発言であったとしても、言われた本人の精神的なダメージは相当です。しかも、自ら手を下すことなく相手に対して死を求めたり、相手の不幸を喜ぶような表現なのですから、どこか陰湿な底意地の悪さが感じられるのです。

 刑法上の自殺教唆や侮辱の罪にも当たりかねませんので、フワちゃん氏に批判が集中するのも当然なのですが、中には、フワちゃん氏に対して擁護的な発言も見受けられます。“やす子氏を自らに見立てた虐められた側の復讐心の現れ”とする、これもまた意地の悪いフワちゃん氏を暗にサポートする意見もありますが、ネット上には、芥川龍之介の名作『羅生門』を引き合いに出しつつ、フワちゃん氏を批判する人々を「義務教育の敗北」として嘆くネット記事もあります(SPA!Web記事)。教科書にも掲載されている同作品から、フワちゃん氏を「叩く」人々は学んでいないというのです。

 同記事は、[貧困東大生・布施川天馬]氏のよって執筆されています(ペンネームではないかと推測・・・)。それでは、『羅生門』から何を学んでいないのか、と申しますと、筆者の言葉を借りますと「人間は、たった一つの安易なきっかけで悪にも善にも染まる移ろいやすい生き物だ」ということなそうです。しかしながら、『羅生門』には、別の解釈も成り立つように思えます。少なくとも、今般の大炎上とは、いささか状況の設定に違いあります。

 第一の相違点は、羅生門にて老婆から髪の毛を抜かれている遺骸は、皆、悪人のものとして設定されています。それ故に、老婆の‘言い分’は、‘悪人に対して悪さをしても当の悪人も許すに違いない‘というものとなるのです。ところが、フワちゃん氏の炎上事件では、やす子氏は、’悪人‘ではありません。むしろ、Xに投稿された博愛主義的な投稿内容からしますと、’善人ポジション‘にあります。この構図ですと、『羅生門』とは違い、善人に対して悪を為していることとなるのです。
 
 第二の相違点は、老婆の言い訳を聞いた下人も、善人はおろか、一般の人々から物を盗ったわけではない点です。あくまでも、老婆も自らの弱い心に負けた‘悪人’であったとする認識の元で、‘悪人’の着物を奪っているのです。言い換えますと、悪人が悪人に対して悪事を働いても許される、と言う論理の範囲内での行動であり、その後、‘行方知れず’となった下人が、善人を含む一般の人々に危害を加える‘本物の強盗’になったかどうかは、分からないのです(被害者はあくまでも‘悪人’・・・)。フワちゃんの大炎上事件についても、批判した人々が、今後、自らも正真正銘の悪人となって、他者に対して‘死んでくださーい’と言い放つようになるとは思えません。健全なる正義感からの批判であれば、悪人に転落するはずもないのです。

 以上に述べた違いを踏まえますと、『羅生門』が語っているのは、人間の善性と悪性との境界の曖昧さ、あるいは、容易に悪に陥りやすい本性と言うよりも、‘悪’に直面したときに内面に生じる懲罰的な感情としての‘善’と、それを自らの悪行の言い訳としたい私的欲望としての‘悪’との葛藤なのかも知れません。自らの生命をも危ぶまれる極限状態にあっては、時にして後者が優ってしまうこともあり言えるという・・・。つまり、『羅生門』における‘悪’への転落は極めて限定的なのです。そして、もう一つ、教訓めいたものが『羅生門』に秘められているとしますと、それは、‘自らが主張する論理が自らを滅ぼすこともある‘ということではないかと思うのです。

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LGBTQに隠れた目的とは?―パリオリンピック開会式の先にあるもの

2024年08月01日 09時59分40秒 | 社会
 日本国政府を始め、各国とも、ここ数年来、LGBTQ運動に踊らされてきました。同運動が掲げる‘大義’は、‘差別をなくそう’という誰もが否定しがたい標語なのですが、その背後に、マネー・パワーを牛耳る世界権力の意図が隠されていることは、これも誰もが薄々と気がついてきていることです。そもそも、世界権力によるグローバルな誘導がなければ、全世界で同一の用語を用いた社会改革運動が起きるはずもないのですから。それでは、LGBTQ運動の先には、どのような世界が待ち構えているのでしょうか。

 非合法的な権力とも言える世界権力が目指している究極的な目的が自らによる‘人類支配’であるとしますと、LGBTQ運動も、この文脈にあって理解されるべきこととなります。そこで推測されるのは、ターゲットは、婚姻制度、とりわけ一夫一婦制ではないか、というものです。このように推測する理由は、そもそも奴隷は、奴隷主の所有物であり、その管理の下にある奴隷には、婚姻の自由がない、あるいは、著しく制限されてきた歴史があります。そして、何よりも、一夫一婦制は、夫婦間の相互愛が培われ、子供達が無償の愛を受けて育ち、家族が愛情を絆として助け合う幸せな家庭の基盤でもあるからです(このため、両親、あるいは、父母の一方しかいない子どもたちの場合には、愛情不足を補うために他の周囲の人々が配慮する・・・)。

 確かに、キリスト教諸国をはじめとしてLGBTQの人々を罪人とする社会的慣習が根付いてきた諸国にありましては、同運動は、あらゆる理不尽な差別の撲滅という意味において‘正しい主張’のようにも見えます。個人の自己認識に基づくLGBTQが、刑法の適用を受けるような犯罪とは言いがたいからです。その一方で、おそらくLGBTQが社会的に忌避される傾向にあった理由は、一夫一婦制という家族制を健全な家族の基準としますと、この存在は、同規範的なモデルに対する脅威あるいは破壊要因となったからなのでしょう。今日にあっても、‘同性同士の婚姻を認めるべきか否か’という問題が常に議論を呼ぶのは、同家族モデルから逸脱してしまうからなのでしょう。もっとも、同性婚肯定派の人々にあっても、養子であれ、代理母であれ、何であれ、一家族として子を養育する場合には、カップルに両親役を想定しているのは、興味深いところです。それが生物学上の両性ではなくともLGBTQが一夫一婦制の家族像の枠内にあれば、家族制度に対する破壊的な作用としての働きは微弱であるのかも知れません(ただし、LGBTQ夫妻と“親子関係”にある子への影響については、精神医学や心理学におけるデータが不十分である以上、現状では判断できない・・・)。

 世界権力のマネー・パワーの後押しでLGBTQに対す差別が解消されるとしますと、次なる差別解消の要求は、一夫一婦制に向かうかも知れません。何故ならば、そもそも、性差が一切考慮されない、あるいは、性差そのものが差別となるのであれば、婚姻という制度も存続できなくなるからです。戸籍等の出生時の登録にあって性別の記載が差別ともなれば、男女の両性の存在を前提とした婚姻という制度そのものも成り立たなくなります。つまり、一夫一婦制という制度そのものが差別的な制度となり、その廃止が主張されるかも知れないのです。馬鹿馬鹿しく聞えるかも知れませんが、パリオリンピック開会式の様子からしますと、世界権力は、そこまで考えているようにも思えてきます。

 婚姻制度が消滅した人類社会を想像するのに参考となるのは、動物たちの世界であるのかも知れません。人類に最も近い動物は類人猿なのですが、類人猿では、‘一夫多妻制’が多々見られます。否、一夫多妻制と言うよりは、群れにあって‘主’となるボス猿による雌猿達の独占なのかもしれません。そして、仮に人類にあって同状態を受け入れる、あるいは、歓迎する人々か存在するとすれば、それは、今日の法律では禁じられながら、古来の伝統的な慣習を継承してきたユダヤ人かイスラム教徒といった一夫多妻制を認める人々となりましょう。しかも、飛び抜けて富裕な。何故ならば、経済力があれば、一人だけでも何人でも扶養することが出来るからです。この点からしますと、一夫多妻制の主張は、それが少子化対策の文脈であったとしても、複数の女性や家族を養うことが出来るほどの財力を有する人々、即ち、世界権力のための発言であったとも推測されるのです。

 家庭というものが社会にあって私的な空間にして自立的な構成単位であり、かつ、無償の愛が人としての慈しみや思いやり心を育てるとしますと、一夫一婦制の婚姻制度の存在は、世界権力の目指す人類支配の目的にとりましては破壊すべき障害となりましょう。それ故に、LGBTQ運動とは、同目的を達成するための前段階なのではないかと、強く疑うのです(つづく)。

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疑われる理由を考えるべき-疑惑提起への適切な対応

2024年06月10日 10時36分53秒 | 社会
 一般の社会にあっても、疑いを提起しただけなのにも拘わらず、感情的な拒絶反応が返ってくることがあります。その大半は、‘疑われるのは侮辱である’、‘私を信じないのですか’、あるいは、‘このような疑いを持つとは、あなたを見損なった’といった反応であり、悪いのは、一方的に‘疑った側’ということにされます。一方が疑いを投げかけた途端、対立関係、もしくは、あたかも“加害者”と“被害者”があるかのような関係に転じてしまい、これまで良好であった人間関係が完全に崩壊することも珍しくはないのです。それでは、疑いの提起は、疑う側のみに非があるのでしょうか。この問題、所謂‘陰謀論’による疑惑封じにも通じています。

 確かに、大抵は何らかの‘よろしからぬこと’をめぐるものなのですが、自らが他者から疑われることは、不愉快なことです。ですから、疑惑の提起が、提起された側の負の感情を引き出すことは理解に難くはありません。とりわけ、それが、根も葉もない事実無根の事柄であれば、なおさらのことでしょう。また、疑う側も、疑惑の提起に伴うリスクを認識しています。日本社会は信頼社会とも称されていますので、不信感の表明は関係性を壊しかねないと共に、提起した疑惑が間違っていれば、自らの信頼性をも損ないかねないからです。それ故に、疑いの提起に慎重になるのですが、この‘疑う’という心の働きは、事柄の重要性に差こそあれ、誰もが日常的に行なう精神活動であり、自らの安全を護るためにも不可欠とされます。このため、懐疑を否定する言動には、幾つかの問題点があるように思えます。

 まず、その疑いが事実であった場合です。この場合、疑われた側が、素直に事実として認めるとは限りません。むしろ、他者からの疑いの提起は、事実を突きつけられたことでもありますので、それが‘よろしからぬこと’であれば、保身的な動機からその事実を否認することでしょう。さらには、事実そのものの否定のみならず、‘疑われたという事実’までも消すために、疑うという行為そのものを否定しようとするかもしれません。また、‘攻撃は最大の防御手段’とも言われますように、疑いを提起した側を非難し、責め立てるという反応もありましょう。何れにしましても、事実であった場合の方が、余程、激しい否定的な反応が返ってくるのです。

 それでは、事実ではない場合はどうでしょうか。この場合は、疑惑の提起を受けた側がそれを否定するのは当然の反応です。むしろ、最初の反応は、怒りよりも、思いもよらぬ事を聞かされた驚きかも知れません。そして、一端、心が冷静さを取り戻しますと、何故、こうした自らに対する疑惑が生じたのか、その原因や疑うに至るプロセスを知ろうとする人の方が多いのではないでしょうか。‘誰から、何処で、何時、聞いたのですか’など、疑問点を聞き返すなど、疑惑の根拠を尋ねるかもしれません。そして、詳しい内容を知った上、これらの情報を否定し、同疑惑を払拭しようとすることでしょう。この証明のために、あらゆる証拠を示そうとするかもしれません。この結果として、疑惑を提起された側の怒りの対象は、提起した本人ではなく、疑惑を呼ぶような虚偽の発言をしたり、偽情報を発信した第三者に向かいます。あるいは、疑惑の原因が、‘誤解’を生じさせるに足る本人の言動や当時の状況にあるのであれば、これらの誤解が解ければ同時に疑惑も消え去るのです。疑惑が生じた理由やプロセスが明らかとなれば、疑惑の提起を受けた側も、同疑惑には、それなりの合理的な根拠があることを理解することでしょう。疑惑を抱くに十分な根拠が存在することが分かれば、無碍には疑惑を提起した人を批判できなくもなります。

 以上に述べたように、反射的な否定反応は、事実であった場合でも虚偽であった場合でもともに起きますので、疑惑を提起した側にとりましては、最初は、どちらであるのか判然としません。しかしながら、その後に続く反応によっては、それが、事実であるのか事実ではないのか、大凡は判別できるようになるかも知れません。後者の場合には、疑惑を提起された側も、自らの潔白のために事実を明らかにしようとするからです。事実ではないことが証明されれば、疑惑が晴れるのです。その一方で、一方的に疑惑の提起を拒絶したり、封じようたり、あるいは、事実を解明しようとしない場合には、限りなく怪しいと言うことになりましょう(疑惑は事実であった・・・)。

 今日、信頼社会とされてきた日本社会にあって、むしろ、信頼性の尊重が悪用されてしまうケースが目立つようになりました。疑うことが不道徳と見なされる嫌いもありましたが、内心において疑いながら、それを表に出さずに現状を黙認していますと、本人のみならず、社会全体の安全性が損なわれる事例も少なくありません。民間レベルのみならず、国家レベルでも、国民が政府を信頼した結果、同調圧力の下でワクチン禍が拡大してしまいました。そして、‘陰謀論’による懐疑心や言論の封殺をはじめ、政府やマスメディア等による一方的かつ全面的に否定しようとする態度は、指摘された疑惑が事実である可能性を否が応でも高めているのです。

 それでは、疑惑が提起された場合、どのように対応すべきなのでしょうか。最も適切な対応とは、懐疑心を正当かつ自然な精神活動とした上で、それが事実であろうとなかろうと、あらゆる疑惑に対しては、感情的に反発するのではなく、事実解明を第一とすべきと言うことになりましょう。同方法を解決の基本原則としますと、陰謀論であれ、何であれ、他者の懐疑心を否定したり、事実解明を拒むことは、自ら事実であることを認めたと見なされても致し方ないのではないかと思うのです。

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伝統宗教と新興宗教を区別する基準とは

2024年06月06日 12時30分56秒 | 社会
 先祖代々人々が信仰してきたり、氏子や檀家となってきた神道、仏教並びにキリスト教と言った伝統宗教団体と、近代に至って設立された新興宗教団は、今日、両者とも法的には宗教法人として一括りにされています。天理教が神道、創価学会が日蓮宗、元統一教会がプロテスタント、幸福の科学が仏教というように、後者の大半が、前者を母体として派生しているため、両者の間に教義や組織において共通性や連続性があるという事情にも起因しているのでしょう。このため、後者が信者からお布施や奉納金を集める集金マシーンと化し、また、神や仏を拝むのではなく、教祖を崇拝の対象とするパーソナル・カルト化しても、宗教法人として前者と等しく手厚い保護を受けてきたのです。

 宗教法人に対する最大の保護措置の最たるものが、納税義務の免除です。上述したように、集金マシーン化した新興宗教団体には、信者からの定期的なお布施や奉納金により、莫大な収入が転がり込んできます。こうした集金のみならず、元統一教会の霊感商法や創価ビジネスのように、幅広く利潤が生じる事業を展開している場合には、その資金力は膨大な額となります。創価学会の名誉会長であり、教祖の地位にあった故池田大作氏に至っては、個人資産が数兆円にも上るとの噂も絶えませんでした。母体となった宗教や宗派の多くが、心の安らぎや精神の豊かさに価値を置き、金銭欲や名誉欲を含め人間の欲の抑制を説いたのとは真逆に、これらの新興宗教団体は、非信者の人々の目からしますと、拝金主義を疑う程に世俗の欲にまみれているように映るのです。

 その一方で、伝統宗教の方を見てみますと、京都、奈良、鎌倉といった、拝観料の収入が期待できる観光地にある寺社仏閣を例外とすれば、財政難に苦しむ神社やお寺は少なくありません。人口規模の小さな集落や村落などでは、既に廃寺となったり、朽ちるに任せられているお宮も散見されます。氏子や檀家数の減少やお布施や寄進等の低額化なども影響しているのでしょうが(戒名を授かるにも相当額を要した時代も・・・)、金満体質に浸かっている新興宗教団体とは対照的に、伝統宗教に属する宗教法人の多くは、自らの存続さえ危ぶまれるほどの財務状況にあるのです。

 このように、法的には同じく‘宗教法人’であったとしても、新興宗教団体と伝統宗教の置かれている状況には雲泥の差があります。それにも拘わらず、一律に税免除の特権を受けられるというのでは、多くの国民が納得しないことでしょう。これでは、貧者救済を隠れ蓑とした富者優遇策となります。そこで、重要となるのは、両者の線引きの基準を何処に置くのか、という問題です。常々、両者は区別できないから一律に扱わざるを得ないと説明されてきたからです。しかしながら、フランスやベルギー等にあって反セクト法が制定されているように、両者の間の区別が不可能であるとは言えないはずです。

 そこで、先ずもって指摘されているのが、宗教施設の開放性です。寺社仏閣やキリスト教の教会にあっては、何れも、非信者の人々に施設が公開されています。氏子や檀家ではなくとも、誰もが自由に境内に入り、そこでお祀りされている神様や仏様を拝むことができます。その一方で、新興宗教団体の施設は、実に閉鎖的です。全国の街角で目にする新興宗教団体の施設は、その教団に属する信者しか立ち入ることができません。この閉鎖性が、新興宗教団体の秘密主義を象徴しており、現代における‘秘密結社’と言うダークなイメージを与えているのです。一般の非信者の人々が、‘隠すべきことがある’と推測する根拠を与えるからです。

 新興宗教団体の閉鎖的な秘密主義という特徴は、信者の秘匿性という第二の基準を導きます。神社であれ、お寺であれ、伝統宗教団体に属する人々は、自らが所属していることを隠したりはしません。ところが、新興宗教団体の信者の人々は、マスメディアにあって宣伝塔を務めている少数の芸能人等を除いて、自らが信者であることを隠すケースがほとんどです。いわば、現代における‘隠れ教徒’の如くであり、信者であることを他者に知られることなく、教団の指示に従って組織的に行動しているのです。この隠密的な信者達の組織的行動は、一般の人々から警戒されてしかるべき理由となりますし、伝統宗教から区別される固有の特徴となります。一般社会にあって、誰が新興宗教の信者であるのか分からない状態は、それが巨大組織であるだけに、一般の人々にとりましては、疑心暗鬼となり、どこにどのような罠が潜んでいるかわからない状態とも言えましょう。

 そして、第三に挙げるべき区別の基準は、新興宗教団体には‘聖職者’が存在していないことです。神社には神職がおりますし、お寺には、僧侶という職があります。キリスト教でも、教会には司祭や牧師さんがおり、何れであれ、各自が聖典や教義に照らしながら神や仏の教えを伝える役割を担っています。一方、新興宗教団体には、教祖の下に教団の組織運営に携わる‘職員’はいても、独立的な職としての聖職者が見当たらないのです。

 以上に主要な基準について述べてきましたが、こうした新興宗教を伝統宗教から区別する諸基準の設定は、今やマネー・パワーをもって政治にまで浸透する新興宗教法人に対する課税を可能とすることでしょう。そして、これらの特徴は、実のところ、新興宗教団体の真の設立目的に関する疑いをも投げかけます。特徴的に観察される閉鎖性、秘密主義、独裁的組織形態は、これらの団体が、動員要員のリクルートであり、世界権力による支配構造の一部であるとする疑いを、否が応でも強めるのです。暴力革命を起こした共産党と同様に、短期間に多数の信者を獲得するには、相当の資金を要するはずであるからです。新興宗教団体の問題は、信者のみならず、非信者、即ち、一般の国民にとりましても、今や、早急に対処すべき重要問題なのではないかと思うのです。

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AI精神転送は降霊術に

2024年05月14日 11時50分50秒 | 社会
 AI技術を用いた死後における精神転送については、霊魂の在・不在の問題と切り離すことが出来ないという難問が立ちはだかっています。霊魂が存在すれば、魂は、天国もしくは地獄に向かうか、浮遊するか、あるいは、消滅してしまいますので、首尾良くAIに自らの意思を移行させられるとは限りません。また、魂が存在しないとすれば、たとえ精密に転送を希望する当人の脳の電子回路を再現させたとしても、同AI自体が自我を持ってしまう可能性もあるからです。そして、もう一つ、魂の存在に関連する問題として挙げられるのが、精神転送に成功したとしても、それは、必ずしもAIの技術に因るものではない可能性です。

 古来、日本国では、死者の魂の依り代という考え方がありました。神道にあっては白木で御霊璽を、仏教にあっては漆塗りの御位牌をつくるのも、この死生観に基づいています。例えば、神道では、人が亡くなりますとその魂は日の若宮にゆきますが、残された家族や子孫を見守るため、あるいは、時々、様子を見に現世に戻ってくると考えられています。その時、魂が宿る依り代となるのが、故人の神名を記した御霊璽とされるのです。また、依り代が人となる場合もあります。よく知られているのが、青森県の恐山のいたこの人々であり、高い霊能力を身につけたいたこの人々は、亡くなった人の霊を呼び寄せて、自らに憑依させることで、死せる人々が生ける人々と会話することができるのです。

 科学技術が発展した時代にあっては、魂や神などに関する伝統的な考え方は非合理的な迷信と見なされがちですが、近現代の科学者の中には、真剣に魂の存在と向き合った人も少なくありません。アイザック・ニュートンは、最期には神の存在証明に傾倒してきましたし、有人飛行の可能な飛行機を初めて設計し、脳の構造を解明し、さらにはニューロンの存在をも予測した知の巨人、エマヌエル・スウェーデンボルクも、天界に関する研究を行なっています。発明王と称されるトーマス・エジソンも、エネルギーとしての魂の永遠性を信じ、死者と交信し得る装置の発明に取り組んだとされます。今日、物理学の最先端ともされる量子論が魂の存在性の問題に急速に接近しているように、両者は真っ向から対立しているように見えながら、その実、科学とオカルトは紙一重であるとも言えましょう。

 さて、現代におけるAIによる精神転生は、デジタル時代の近未来技術としてその実現が待望されています。テクノロジーが、遂に不老不死という、秦の始皇帝をはじめ、古来、永遠の支配を欲する権力者が熱望してきた願望を実現するという文脈なのですが(今日では、大富豪・・・)、自己意識の移転や継続性は、霊魂の問題が絡まってきますので、見方によっては、エジソンの降霊装置の焼き直しとも言えます。それが木片であれ、精密な機械であれ、何であれ、死者の霊、あるいは、人の意識が宿るという現象においては変わりがないからです。

 このように考えますと、精神転送の開発に血眼となっている大富豪は、死後に恐山で呼び出してもらうか、能力が高いとされる霊媒者を高給を以て雇用しておいた方が、自らの意思を生きている人々に伝達できる可能性が高いと言えましょう。何故ならば、仮に魂が存在するならば、敢えて自らの脳内の電気回路を再現する必要はないからです。つまり、霊魂は、他者である霊媒師の電気回路、すなわち、口を借りることができるのですから。その時語られる大富豪の霊界における居場所は、果たして天国なのでしょうか、それとも、地獄なのでしょうか。あるいは、霊媒師は、必至になって降霊を試みた末に、この人の魂は既に消えている!と告げるのでしょうか。大変、興味深いところなのです。


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