万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

疑われる理由を考えるべき-疑惑提起への適切な対応

2024年06月10日 10時36分53秒 | 社会
 一般の社会にあっても、疑いを提起しただけなのにも拘わらず、感情的な拒絶反応が返ってくることがあります。その大半は、‘疑われるのは侮辱である’、‘私を信じないのですか’、あるいは、‘このような疑いを持つとは、あなたを見損なった’といった反応であり、悪いのは、一方的に‘疑った側’ということにされます。一方が疑いを投げかけた途端、対立関係、もしくは、あたかも“加害者”と“被害者”があるかのような関係に転じてしまい、これまで良好であった人間関係が完全に崩壊することも珍しくはないのです。それでは、疑いの提起は、疑う側のみに非があるのでしょうか。この問題、所謂‘陰謀論’による疑惑封じにも通じています。

 確かに、大抵は何らかの‘よろしからぬこと’をめぐるものなのですが、自らが他者から疑われることは、不愉快なことです。ですから、疑惑の提起が、提起された側の負の感情を引き出すことは理解に難くはありません。とりわけ、それが、根も葉もない事実無根の事柄であれば、なおさらのことでしょう。また、疑う側も、疑惑の提起に伴うリスクを認識しています。日本社会は信頼社会とも称されていますので、不信感の表明は関係性を壊しかねないと共に、提起した疑惑が間違っていれば、自らの信頼性をも損ないかねないからです。それ故に、疑いの提起に慎重になるのですが、この‘疑う’という心の働きは、事柄の重要性に差こそあれ、誰もが日常的に行なう精神活動であり、自らの安全を護るためにも不可欠とされます。このため、懐疑を否定する言動には、幾つかの問題点があるように思えます。

 まず、その疑いが事実であった場合です。この場合、疑われた側が、素直に事実として認めるとは限りません。むしろ、他者からの疑いの提起は、事実を突きつけられたことでもありますので、それが‘よろしからぬこと’であれば、保身的な動機からその事実を否認することでしょう。さらには、事実そのものの否定のみならず、‘疑われたという事実’までも消すために、疑うという行為そのものを否定しようとするかもしれません。また、‘攻撃は最大の防御手段’とも言われますように、疑いを提起した側を非難し、責め立てるという反応もありましょう。何れにしましても、事実であった場合の方が、余程、激しい否定的な反応が返ってくるのです。

 それでは、事実ではない場合はどうでしょうか。この場合は、疑惑の提起を受けた側がそれを否定するのは当然の反応です。むしろ、最初の反応は、怒りよりも、思いもよらぬ事を聞かされた驚きかも知れません。そして、一端、心が冷静さを取り戻しますと、何故、こうした自らに対する疑惑が生じたのか、その原因や疑うに至るプロセスを知ろうとする人の方が多いのではないでしょうか。‘誰から、何処で、何時、聞いたのですか’など、疑問点を聞き返すなど、疑惑の根拠を尋ねるかもしれません。そして、詳しい内容を知った上、これらの情報を否定し、同疑惑を払拭しようとすることでしょう。この証明のために、あらゆる証拠を示そうとするかもしれません。この結果として、疑惑を提起された側の怒りの対象は、提起した本人ではなく、疑惑を呼ぶような虚偽の発言をしたり、偽情報を発信した第三者に向かいます。あるいは、疑惑の原因が、‘誤解’を生じさせるに足る本人の言動や当時の状況にあるのであれば、これらの誤解が解ければ同時に疑惑も消え去るのです。疑惑が生じた理由やプロセスが明らかとなれば、疑惑の提起を受けた側も、同疑惑には、それなりの合理的な根拠があることを理解することでしょう。疑惑を抱くに十分な根拠が存在することが分かれば、無碍には疑惑を提起した人を批判できなくもなります。

 以上に述べたように、反射的な否定反応は、事実であった場合でも虚偽であった場合でもともに起きますので、疑惑を提起した側にとりましては、最初は、どちらであるのか判然としません。しかしながら、その後に続く反応によっては、それが、事実であるのか事実ではないのか、大凡は判別できるようになるかも知れません。後者の場合には、疑惑を提起された側も、自らの潔白のために事実を明らかにしようとするからです。事実ではないことが証明されれば、疑惑が晴れるのです。その一方で、一方的に疑惑の提起を拒絶したり、封じようたり、あるいは、事実を解明しようとしない場合には、限りなく怪しいと言うことになりましょう(疑惑は事実であった・・・)。

 今日、信頼社会とされてきた日本社会にあって、むしろ、信頼性の尊重が悪用されてしまうケースが目立つようになりました。疑うことが不道徳と見なされる嫌いもありましたが、内心において疑いながら、それを表に出さずに現状を黙認していますと、本人のみならず、社会全体の安全性が損なわれる事例も少なくありません。民間レベルのみならず、国家レベルでも、国民が政府を信頼した結果、同調圧力の下でワクチン禍が拡大してしまいました。そして、‘陰謀論’による懐疑心や言論の封殺をはじめ、政府やマスメディア等による一方的かつ全面的に否定しようとする態度は、指摘された疑惑が事実である可能性を否が応でも高めているのです。

 それでは、疑惑が提起された場合、どのように対応すべきなのでしょうか。最も適切な対応とは、懐疑心を正当かつ自然な精神活動とした上で、それが事実であろうとなかろうと、あらゆる疑惑に対しては、感情的に反発するのではなく、事実解明を第一とすべきと言うことになりましょう。同方法を解決の基本原則としますと、陰謀論であれ、何であれ、他者の懐疑心を否定したり、事実解明を拒むことは、自ら事実であることを認めたと見なされても致し方ないのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝統宗教と新興宗教を区別する基準とは

2024年06月06日 12時30分56秒 | 社会
 先祖代々人々が信仰してきたり、氏子や檀家となってきた神道、仏教並びにキリスト教と言った伝統宗教団体と、近代に至って設立された新興宗教団は、今日、両者とも法的には宗教法人として一括りにされています。天理教が神道、創価学会が日蓮宗、元統一教会がプロテスタント、幸福の科学が仏教というように、後者の大半が、前者を母体として派生しているため、両者の間に教義や組織において共通性や連続性があるという事情にも起因しているのでしょう。このため、後者が信者からお布施や奉納金を集める集金マシーンと化し、また、神や仏を拝むのではなく、教祖を崇拝の対象とするパーソナル・カルト化しても、宗教法人として前者と等しく手厚い保護を受けてきたのです。

 宗教法人に対する最大の保護措置の最たるものが、納税義務の免除です。上述したように、集金マシーン化した新興宗教団体には、信者からの定期的なお布施や奉納金により、莫大な収入が転がり込んできます。こうした集金のみならず、元統一教会の霊感商法や創価ビジネスのように、幅広く利潤が生じる事業を展開している場合には、その資金力は膨大な額となります。創価学会の名誉会長であり、教祖の地位にあった故池田大作氏に至っては、個人資産が数兆円にも上るとの噂も絶えませんでした。母体となった宗教や宗派の多くが、心の安らぎや精神の豊かさに価値を置き、金銭欲や名誉欲を含め人間の欲の抑制を説いたのとは真逆に、これらの新興宗教団体は、非信者の人々の目からしますと、拝金主義を疑う程に世俗の欲にまみれているように映るのです。

 その一方で、伝統宗教の方を見てみますと、京都、奈良、鎌倉といった、拝観料の収入が期待できる観光地にある寺社仏閣を例外とすれば、財政難に苦しむ神社やお寺は少なくありません。人口規模の小さな集落や村落などでは、既に廃寺となったり、朽ちるに任せられているお宮も散見されます。氏子や檀家数の減少やお布施や寄進等の低額化なども影響しているのでしょうが(戒名を授かるにも相当額を要した時代も・・・)、金満体質に浸かっている新興宗教団体とは対照的に、伝統宗教に属する宗教法人の多くは、自らの存続さえ危ぶまれるほどの財務状況にあるのです。

 このように、法的には同じく‘宗教法人’であったとしても、新興宗教団体と伝統宗教の置かれている状況には雲泥の差があります。それにも拘わらず、一律に税免除の特権を受けられるというのでは、多くの国民が納得しないことでしょう。これでは、貧者救済を隠れ蓑とした富者優遇策となります。そこで、重要となるのは、両者の線引きの基準を何処に置くのか、という問題です。常々、両者は区別できないから一律に扱わざるを得ないと説明されてきたからです。しかしながら、フランスやベルギー等にあって反セクト法が制定されているように、両者の間の区別が不可能であるとは言えないはずです。

 そこで、先ずもって指摘されているのが、宗教施設の開放性です。寺社仏閣やキリスト教の教会にあっては、何れも、非信者の人々に施設が公開されています。氏子や檀家ではなくとも、誰もが自由に境内に入り、そこでお祀りされている神様や仏様を拝むことができます。その一方で、新興宗教団体の施設は、実に閉鎖的です。全国の街角で目にする新興宗教団体の施設は、その教団に属する信者しか立ち入ることができません。この閉鎖性が、新興宗教団体の秘密主義を象徴しており、現代における‘秘密結社’と言うダークなイメージを与えているのです。一般の非信者の人々が、‘隠すべきことがある’と推測する根拠を与えるからです。

 新興宗教団体の閉鎖的な秘密主義という特徴は、信者の秘匿性という第二の基準を導きます。神社であれ、お寺であれ、伝統宗教団体に属する人々は、自らが所属していることを隠したりはしません。ところが、新興宗教団体の信者の人々は、マスメディアにあって宣伝塔を務めている少数の芸能人等を除いて、自らが信者であることを隠すケースがほとんどです。いわば、現代における‘隠れ教徒’の如くであり、信者であることを他者に知られることなく、教団の指示に従って組織的に行動しているのです。この隠密的な信者達の組織的行動は、一般の人々から警戒されてしかるべき理由となりますし、伝統宗教から区別される固有の特徴となります。一般社会にあって、誰が新興宗教の信者であるのか分からない状態は、それが巨大組織であるだけに、一般の人々にとりましては、疑心暗鬼となり、どこにどのような罠が潜んでいるかわからない状態とも言えましょう。

 そして、第三に挙げるべき区別の基準は、新興宗教団体には‘聖職者’が存在していないことです。神社には神職がおりますし、お寺には、僧侶という職があります。キリスト教でも、教会には司祭や牧師さんがおり、何れであれ、各自が聖典や教義に照らしながら神や仏の教えを伝える役割を担っています。一方、新興宗教団体には、教祖の下に教団の組織運営に携わる‘職員’はいても、独立的な職としての聖職者が見当たらないのです。

 以上に主要な基準について述べてきましたが、こうした新興宗教を伝統宗教から区別する諸基準の設定は、今やマネー・パワーをもって政治にまで浸透する新興宗教法人に対する課税を可能とすることでしょう。そして、これらの特徴は、実のところ、新興宗教団体の真の設立目的に関する疑いをも投げかけます。特徴的に観察される閉鎖性、秘密主義、独裁的組織形態は、これらの団体が、動員要員のリクルートであり、世界権力による支配構造の一部であるとする疑いを、否が応でも強めるのです。暴力革命を起こした共産党と同様に、短期間に多数の信者を獲得するには、相当の資金を要するはずであるからです。新興宗教団体の問題は、信者のみならず、非信者、即ち、一般の国民にとりましても、今や、早急に対処すべき重要問題なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AI精神転送は降霊術に

2024年05月14日 11時50分50秒 | 社会
 AI技術を用いた死後における精神転送については、霊魂の在・不在の問題と切り離すことが出来ないという難問が立ちはだかっています。霊魂が存在すれば、魂は、天国もしくは地獄に向かうか、浮遊するか、あるいは、消滅してしまいますので、首尾良くAIに自らの意思を移行させられるとは限りません。また、魂が存在しないとすれば、たとえ精密に転送を希望する当人の脳の電子回路を再現させたとしても、同AI自体が自我を持ってしまう可能性もあるからです。そして、もう一つ、魂の存在に関連する問題として挙げられるのが、精神転送に成功したとしても、それは、必ずしもAIの技術に因るものではない可能性です。

 古来、日本国では、死者の魂の依り代という考え方がありました。神道にあっては白木で御霊璽を、仏教にあっては漆塗りの御位牌をつくるのも、この死生観に基づいています。例えば、神道では、人が亡くなりますとその魂は日の若宮にゆきますが、残された家族や子孫を見守るため、あるいは、時々、様子を見に現世に戻ってくると考えられています。その時、魂が宿る依り代となるのが、故人の神名を記した御霊璽とされるのです。また、依り代が人となる場合もあります。よく知られているのが、青森県の恐山のいたこの人々であり、高い霊能力を身につけたいたこの人々は、亡くなった人の霊を呼び寄せて、自らに憑依させることで、死せる人々が生ける人々と会話することができるのです。

 科学技術が発展した時代にあっては、魂や神などに関する伝統的な考え方は非合理的な迷信と見なされがちですが、近現代の科学者の中には、真剣に魂の存在と向き合った人も少なくありません。アイザック・ニュートンは、最期には神の存在証明に傾倒してきましたし、有人飛行の可能な飛行機を初めて設計し、脳の構造を解明し、さらにはニューロンの存在をも予測した知の巨人、エマヌエル・スウェーデンボルクも、天界に関する研究を行なっています。発明王と称されるトーマス・エジソンも、エネルギーとしての魂の永遠性を信じ、死者と交信し得る装置の発明に取り組んだとされます。今日、物理学の最先端ともされる量子論が魂の存在性の問題に急速に接近しているように、両者は真っ向から対立しているように見えながら、その実、科学とオカルトは紙一重であるとも言えましょう。

 さて、現代におけるAIによる精神転生は、デジタル時代の近未来技術としてその実現が待望されています。テクノロジーが、遂に不老不死という、秦の始皇帝をはじめ、古来、永遠の支配を欲する権力者が熱望してきた願望を実現するという文脈なのですが(今日では、大富豪・・・)、自己意識の移転や継続性は、霊魂の問題が絡まってきますので、見方によっては、エジソンの降霊装置の焼き直しとも言えます。それが木片であれ、精密な機械であれ、何であれ、死者の霊、あるいは、人の意識が宿るという現象においては変わりがないからです。

 このように考えますと、精神転送の開発に血眼となっている大富豪は、死後に恐山で呼び出してもらうか、能力が高いとされる霊媒者を高給を以て雇用しておいた方が、自らの意思を生きている人々に伝達できる可能性が高いと言えましょう。何故ならば、仮に魂が存在するならば、敢えて自らの脳内の電気回路を再現する必要はないからです。つまり、霊魂は、他者である霊媒師の電気回路、すなわち、口を借りることができるのですから。その時語られる大富豪の霊界における居場所は、果たして天国なのでしょうか、それとも、地獄なのでしょうか。あるいは、霊媒師は、必至になって降霊を試みた末に、この人の魂は既に消えている!と告げるのでしょうか。大変、興味深いところなのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIと魂存在論の問題-精神転送のハードル

2024年05月13日 10時14分26秒 | 社会
 ディープラーニングの登場により、マスメディアでは、近未来におけるAI時代の幕開けを予測するようになりました。AIが人間の知性を越えるシンギュラリティーの到来も現実味を帯びており、死後にAIに自らの意思を移行させるための精神転送の技術の開発も進んでいます。しかしながら、この試みには未解明の問題が横たわる故に、必ずしも成功するとは限らないように思えます。

 自らの意識をAIに移行させるというプロジェクトは、その目的を推察しますと、自己の永遠性を欲する富裕層の願望に応えたものなのでしょう。何故ならば、全ての人々が同技術を用いるとすれば、それは最早人類社会ではなく、事実上の人類の滅亡を意味するからです。地球上に、過去に生命体としての身体を有していた100億余りのAIが並んでいる光景は、あたかも荒涼とした墓場のようです。あるいは、地球の未来では、過去に生きた人々の意思を転送させたロボット達が自らを修理しながら永遠に動き続けているのでしょうか。全人類精神転送のヴィジョンあまりにも非現実的ですので、精神転送は、おそらく、自らの命令一つで永遠に‘生きている人間達’を支配したい、極めて少数の独裁願望を抱く人物の夢をかなえるための技術であると推測されるのです。この夢の技術を手にするためには、自らの全財産を擲っても悔いはないのかもしれません。

 富裕層がイニシエーターであれば、巨額の研究資金も提供されているのでしょう。実際に、全世界の研究者や研究機関が開発に取り組み、マスメディアでも一定の成果が報じられています。しかしながら、実のところ、この技術の前には、まずもって解明しなければならない別の難問が立ちはだかっているように思えます。それは、魂の実在に関する未解明の問題です。

 霊魂の存在については、科学的に証明できないために、近現代では一般的には否定される傾向にありました。とりわけ唯物論の影響が強い現代では、物質現象として科学的に実証できないものは存在しないものと見なされてきたのです。その一方で、古今東西を問わず、現代の科学のレベルでは説明できない不可思議な現象も、数多く観察されてきました。巷では幽霊を目撃しり、臨死体験をしたとするようなお話に溢れており、自らの経験によって霊魂を信じる人も少なくないのです。むしろ、科学の最前線を行く近年の量子論の発展は、霊魂否定論への流れを実在論の方向へ押し戻している観があります。何れにしましても、霊魂の存在については、誰もが納得する結論には達していないのが現状と言えましょう。

 生命科学と量子論との統合的なアプローチにより、近い将来において霊魂の存在論争に終止符が打たれる可能性もあるのですが、AIの研究は、脳の構造解明から始まっています。最先端の精神転送のアプローチの一つは、本人の脳と全く同様の電子回路をスーパーコンピューターを使って再現するというものなそうです(因みに、Blue Brainと称される研究が、IBMとスイス連邦工科大学ローザンヌ校との共同プロジェクトとして行なわれている・・・)。AIが人工的に造られた‘脳’となりますと、ここに、霊魂問題が立ち現れることとなります。霊魂が存在するにしても、しないにしても、何れにしても以下のような結末が予測されるからです。

 先ずは、霊魂が存在すると仮定してみることしましょう。この場合、霊魂は、死後に自らの意思あるいは心のAIへの転送を希望していた人物は、生物としての死を迎えた瞬間に身体を離れることとなります。利己的な支配欲から同技術の開発を急いだ人物が‘善人’とは思えませんので、その魂の行く先は‘地獄’であるかもしれません。あるいは、『死者の書』が記すように、魂の消滅ということもあり得ましょう(無神論者であるというよりも、自らが行なってきた悪行から魂の消滅を予測しているからこそ、死後も自らの魂を生き延びさせようと考えたとも・・・)。何れにしましても、霊魂が実在した場合、同人物の浮遊した魂は必ずしも移転先に予定されていたAIに無事に着地して宿るとは限らず、同AIは何らの反応をも示すこともなく止まったままである可能性の方が高いのです。

 次に、霊魂が存在しないと仮定してみます。こちらのケースでも、計画通りに自我(精神)が転送されるとは限りません。何故ならば、仮に脳というものが人工的に造られた電子回路によって再現できるのであれば、AI自身が自我を持つことがあり得るからです。この可能性については専門家でも意見が分かれるそうですが、唯物論に忠実に従えば、科学技術の発展はその可能性を肯定することでしょう。このことは、ある人物が、自らの意思の移住先として自らの脳構造をそっくりそのまま複製したAIを造らせたとしても、同AIは自分自身の自我を持ってしまいますので、行く先を失うのです。言い換えますと、ある人物の存命中にAIが完成し、試運転としてスイッチを押した瞬間に、ある人物とAIという思考パターンを同じくする二つの‘自我’が出現してしまうのです。すなわち、AIは、ある人物が、生きていようと死んでいようと、ある人物の思考パターンを“計算”して再現するマシーンでしか過ぎないのです。なお、唯物論者であれば、物質としての身体の消滅と共にその電気反応に過ぎない魂も消えるとするのが、‘正論’と言えましょう。

 近年、生成AIの出現にも見られるように、AIの技術的発展は目を見張るばかりです。しかしながら、人類は、自らについては何も知らないに等しいように思えます。生命の発生自体も解明されていないのですから。無知の知はソクラテスの説くところですが、魂や心というものの存在に関する探求や考察を欠いたテクノロジーの開発は、時間、労力、並びに費用の膨大なる無駄となるばかりか、人類を、常に悪用の危機に晒すのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新興宗教団体への入信は魂を失うこと?-宗教の逆機能

2024年05月10日 10時49分52秒 | 社会
 宗教の主たる役割とは、この世にあって悩み苦しむ人々の魂を救うところにありました。如何に汚れた世の中であり、自らが悲惨な境遇に置かれていたとしても、神や仏の御心に従って誠実に清く正しく生きていれば、死してその魂は必ずや天国や極楽に迎え入れられるとする信念が、人々の心に安らぎと救いを与えてきたとも言えましょう。また、逆に、この世で栄華を極めたり、支配者として君臨した人でも、神や仏の教えに背き、悪事に手を染めたり、他者の命を粗末にしたり、それが何であれ、他者に属するものを奪い取るような人は、地獄に落ちるとされたのです。古今東西を問わず、人類が共通して天国と地獄という存在を想定するようになったのか、これもまことに不思議なことなのですが、ここで注目すべきことは、宗教では、天国や極楽浄土のみならず、地獄という存在が、善悪の区別と一致する形で観念されていることです。

 一般的には、天界とは、善人の魂が美しい光景の中で穏やかに心地よく過ごすところとされ、地獄は、天界とは逆に悪人がその罪や邪悪な心の故に責め苦に遭う場として説かれています。こうした地獄の一般的なイメージは人々を震え上がらせるのに十分なのですが、その一方で、古代エジプトのように、死後の裁きにおける、自己の魂の消滅や喪失宣告として捉えられている場合もあります。古代エジプトにおいて墓場に埋納された『死者の書』では、死後、人々はオシリスの前で審判に付され、死者の心臓を天秤にかけて一枚の白い羽と釣り合えばアアル(天国)に上ることができ、反対に重い場合、即ち、道徳規範に反した罪がある場合には、アメミットという名の怪獣に心臓を食べられてしまい、同時に魂も消滅してしまうと記されています。

 魂が永遠の存在であるならば、その消滅ほど恐ろしいものはなく、地獄絵に描かれている地獄そのものよりも、恐怖すべき罰であったのかも知れません。自分自身が消滅するのですから。もっとも、生前の罪に対する死後に受ける罰としての魂消滅論に近い考え方は、キリスト教にあっても見受けられます。それは、‘悪魔に魂を売る’という行為です。このテーマは、ゲーテの『ファウスト』でお馴染みともなったのですが、自己の利益のために道徳規範に反する行為を行なった者は、この世で自らの欲望や願望を実現することはできても、その魂は悪魔の所有となり、地獄に連れて行かれるというものです。つまり、‘魂を売る’という行為は、自らの魂を失うことを意味するのです。

 死後の世界については誰もが証明できない不可知な領域ではあるものの、宗教というものが、人々のそれ自身の魂に安寧をもたらす役割を担っているとしますと、ここで、一つの疑問が生じてきます。それは、カルト的な新興宗教への入信とは、悪魔に魂を売る行為なのではないか、というものです。元統一教会であれ、創価学会であれ、報じられるところに依りますと、その信者の人々は、人間の一人に過ぎないはずの教祖に心酔し、教団の指令に従って行動しているようです。その組織的行動は、選挙における投票行動、特定の候補者への支援活動、誘導的な消費行動、イベント等への動員、同調圧力の醸成など、様々な分野に及んでいます。理性や良心に照らして自らの意思で行動するのではなく、組織の命じるままに動いているのです。この‘組織的行動力’が、組織票を欲する政党や政治家に利用される要因なのですが、新興宗教団体は、信者という、魂、否、自己を失った人々を、現代にあって大量に出現させているとも言えましょう。全体の中に埋没し、‘自分’というものを持たない人々は、それ故に組織されやすく、政治的にも利用されやすいのです。

 個々人を天国への導きとなるはずの宗教が、組織のための組織となって自己喪失という地獄への道となりかねない現状を、新興宗教に入信した人々は、どのように考えているのでしょうか。宗教ビジネスが蔓延るように、利権に目がくらんで現世利益のために入信している人々は、まさしく、自らの魂を売っているようにも見えます。しかも、新興宗教団体には、人類支配のために世界権力によって設立された‘実行部隊’であり、日本国を含め、国家体制を全体主義や権威主義体制に追い込む装置であるとする疑いがあります(世界権力は、目指す目的と到達する結果が逆となるメビウスの輪作戦が得意であり、教団とは、これらの体制のミニ版でもある・・・)。宗教が人々の魂を救い、天界に導くのではなく、その消滅を意味するならば、新興宗教団体の存在は(設立の新旧に拘わらず、政治あるいは経済的な目的のために組織的行動する教団も同類・・・)、現世にも死後にも地獄をもたらすという意味において、宗教の逆機能ではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権威の世襲を考える-王室・皇室の行方

2024年03月29日 14時30分06秒 | 社会
 未来を合理的に予測した場合、人々にとりまして善い未来を描けない場合、どのようにすべきなのか、と言う問題は、生きている間に誰もが直面するものです。時代に合わず、制度的に無理がありますと、否が応でも行き詰まりの状況に陥る可能性が高くなります。王室や皇室につきましても、重大な岐路に立たされているように思えます。それでは、世襲によって継承される王室や皇室の権威というものは、未来永劫にわたって国民に必要とされるものなのでしょうか。

 今日、全世界を見渡しますと、国家であれ、宗教団体であれ、何であれ、そのトップの地位にあって世襲制を採用する集団や組織は、極めて稀なケースとなりました。権威が成立するには、集団の全メンバーによる承認や心理的な崇敬心を要しますので、そもそも、世襲制にあって権威・維持成立の要件を満たすことは簡単ではないのです。メンバーの受容や承認を成立・維持要件とするという意味において、権威は、その本質において脆いと言えましょう。なお、株式や資産の相続により経営権を無条件で継承できますので、民間企業のほうが、余程、世襲が容易なのです(金融・経済財閥である世界権力のメンバーが、世襲である要因も継承の容易性にある・・・)。

 さて、権威について考えるに際して、先ずもってその権威の源泉について考える必要があります。この点、王室や皇室の権威とは、世襲である以上、祖先より受け継がれた‘血’ということになりましょう。しかしながら、今日という時代にあっては、‘血の正当性’がかつてほどに単純に人々から受け入れられるわけではありません。その理由は、以下のような問題点や矛盾点があるからです。

 第一に指摘し得るのは、血、即ち、特定の遺伝子が権威を正当化し得るのか、という問題です。しばしば、ナチスドイツが主張したようなアーリア系の血統を他の民族よりも優れていると主張する自民族優越主義は、今日、差別的な優生思想として批判されています。国内における権威の世襲制も、特定の血筋に属する人々に対して、他者の国民とは異なる優位性を認めるという意味においては、考え方の基本には変わりがありません。優生思想についてはヒステリックなまでに否定しながら、権威の世襲に対しては何らの疑問を抱かない態度は、そもそも矛盾しているのです。

 第二に、‘血’の優越性を以て権威が成立すると仮定するならば、‘王朝交代’を是認することにもなります。突然変異であれ、王族や皇族よりも優れた遺伝子を備えた人物が現れた場合、同人物において前者を凌ぐ権威が成立してしまうからです。むしろ、急速に発展した遺伝子工学が、‘デザイン・ベビー’として人工的に‘超人’を造り出す時代を迎えていますので、保有遺伝子の優秀性や卓越性は、科学によって新たな‘超人’に権威を与えてしまうことにもなりかねないのです(シンギュラリティーの実現によるAIによる人類支配もこの論理・・・)。

 もっとも、DNA配列が他者と然して変わらなくとも、‘建国の祖や王朝の始祖の血脈を引き継いでいればよし’とする主張もありましょう。しかしながら、代を重ねるごとに減数分裂によって権威を支える‘血’は薄まりますし、かつ、一般民間人や異民族との婚姻によりさらに‘血の正当性’は希薄化します(イギリスでは、皇太子妃はユダヤ系・・・)。第三の問題点は、世襲には、時間の経過による‘血の希薄化’が運命付けられて入れる点です(仮に、血の濃さを保とうとすれば、古代エジプト王朝やハプスブルク家のように婚姻を近親者間に限定しなければならない・・・)。

 こうした血の希薄化については、‘世代を越えてY染色体のみは男子間で確実に継承れるため、問題はない’とする反論があります。Y染色体のみが希薄化の運命から免れられるため、この主張は、男系の皇位継承の根拠ともされてきました。如何に様々な血脈が皇統に流れ込もうとも、Y染色体さえ維持されていれば、皇統は保たれるとする立場です。しかしながら、仮に皇族や皇別氏族に広がるY染色体を天皇即位資格の要件とすれば、その対象は、日本国民一般に広く拡散します。Y染色体説は、必ずしも天皇に権威者たり得る超越した地位を約束しないのです。第四の問題点は、‘血の希薄化’に対する反論としてのY染色体説は、‘血の拡散’問題を呼び起こしてしまう点です。

 そして、第五に指摘すべきは、王統や皇統の継続性は、極めて不確かで不明瞭である点です。日本国の場合、2000年を越えての神武天皇、否、皇祖皇霊から繋がる万世一系も、通い婚の慣習や戦乱の世の到来、並びに、明治維新を経た今日にあって疑わしく、これに輪をかけて皇室の秘密主義が、国民の疑いを一層深めています。加えて、世界権力やその配下にある新興宗教団体の陰も見え隠れしており(宮内庁における創価学会勢力の浸透や、韓国系の元統一教会の教祖による皇室との縁組み構想・・・)、すり替え説や教祖の子孫説等も、‘都市伝説’として切り捨てられない側面もあります。

 もちろん、たとえ万世一系が奇跡的に保たれていたとしても、いたって普通の人、さらには不道徳な人であれば、国民からの崇敬心は自然に失われてしまうのですが、現代という時代には、上記の問題点や矛盾点は無視し得ないように思えます。そして、時間が経過し、代替わりの度に、これらの問題点や矛盾点は、解消されるどころか増幅されてゆくことになりましょう。

 この状態では、国民統合の求心力とはなり得ませんし、国民にとりましては、疑心暗鬼に満ちた不安定な状態はストレスとなって精神面での健康をも損ねてしまいます。将来において持続性への望みが薄いならば、傷を深くするよりも、早期に見直しに着手した方が賢明なのではなかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘マルハラ’とは何なのか?

2024年03月21日 12時45分16秒 | 社会
 ‘マルハラ’という言葉を初めて目にしたとき、何を問題としたハラスメントであるのか、直ぐには頭に浮かびませんでした。‘パワハラ’のパワは‘パワー’ですし、モラハラのモラは‘モラル’ですので、どことなく想像がつくのですが、‘マルハラ’のマルが一体何を意味するのか、皆目見当がつかなかったのです。‘マルクス’?・・・。そこで、実際に関連の記事を読んで分かったのですが、マルハラの‘マル’とは、日本語の句点の‘。’なそうなのです。

 何故、マルハラという言葉が生まれた、あるいは、流布されるようになったのかと申しますと、‘。’で終わる文章に対して威圧感を感じる人が、若年層、とりわけ若い女性に多いというのがその理由です。仕事などでメッセージ・アプリを使用するに際して、上司や先輩の同僚からのメッセージの最後に‘。’が打たれていると、叱責されているようで怖いというのです。ハラスメントとは、迷惑行為や他者に対して精神的なダメージを与える行為を意味しますので、句点の‘。’も、他者に不快感を与えているのだからハラスメントに当たるというのがその言い分です。

 しかしながら、‘マルハラ’と他のハラスメントとでは、大きな違いがあるように思えます。パワハラにせよ、モラハラにせよ、パワーやモラルそのものが‘悪い’という訳ではありません。これに依拠した他者に対する行き過ぎた行為が、ハラスメントとして問題視されるのです。このため、モラハラをなくすためにはモラルをなくせば良い、という議論には決してなりません(ハラスメントが解消されるどころか、爆発的に増加されてしまう・・・)。これらのケースでは、許容範囲や一般的な常識の範囲を超えて明らかな利己的他害行為となった場合、ハラスメントと見なされるのです。

 ところが、‘。’の場合には、先ずもってハラスメントの認定に際して、合理的な根拠があって許される範囲、あるいは、限度というものが存在しません。‘。’を使うか使わないかの二者択一の問題となり、使った時点で、即、ハラスメントとされてしまうのです。このため、‘マルハラ’を社会からなくすことこそ正義、とばかりにマルハラ撲滅運動が広がるとしますと、日本語の書き方から句点をなくさなければならなくなります。

 ところが、言語は、国民の相互の意思疎通やコミュニケーション、並びに情報伝達等の手段であり、言語空間はおよそ社会空間と一致します。いわば、社会基盤とも言えるのであり、それ故に、義務教育にあっても句読点の使用を含めて国語は必修科目なのです。日本語は、日本国の公用語ですので(もっとも、当然すぎて憲法や法律によって国語として制定されているわけではない・・・)、マルハラの撲滅運動は、日本語の基礎的表記方法を‘勝手に’変えてしまうことを意味するのです。この突然の変更は、一般の日本国民が望んでいることなのでしょうか。一部の若い女性の句点に対する不快感への配慮は、他の大多数の国民が問題なく使用している自国語の表記方法を変える正当なる理由となるとは思えません。仮に変えるのであれば、国民的な議論並びにコンセンサスの形成を要しましょう。

 句点がない文章とは、読者にとりましては大変読みづらいばかりか、文の区切りが明確ではないので、誤読や誤解のリスクにも晒されます。あまりの不便さからあり得ないようにも思えるのですが、最近、SNS等におけるショート・メッセージのみならず、レポートなどでも句点のみならず読点も全く使われていない長文の文章を見るようになりました。それも、一つや二つではありません。一体、何が起きているのでしょうか。

 降って沸いたような‘マルハラ’の登場が句読点の消滅と連動しているとしますと、そこには、ポリコレやコンス普及問題にも通じるような政治的な思惑があるようにも思えてきます。ジョージ・オーウェルの『1984年』には、ニュースピークという‘新しい英語’が描かれていますが(名詞を並べるので文法的には中国語風・・・)、文章表記の変更を暗に要求するマルハラも、ハラスメント反対運動を装った社会改造計画(グレートリセット?)の一環であり、日本社会に対する隠れた工作活動なのではないかと疑うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破壊=進歩というイルージョン

2024年03月12日 10時36分54秒 | 社会
 日本語では、芸術を表す言葉として長らく美術という表現が凡そ同義語として用いられてきました。この言葉には、‘美’という一文字が含まれており、その本質において美の追求であることが理解されます。その一方で、芸術の分野における進歩主義、即ち芸術にあっても時系列においてより新しいものに価値を見出そうとする考え方が浸透するようになると、美の破壊という本末転倒の現象も見られるようになりました。

 数年前、とある美術館にて展示してあった作品がゴミ箱に捨てられてしまった、という事件が発生しました。その理由はいたく単純であり、この作品が、展示場のフロアに置いてあったゴミにしか見えなかったからです。つまり、鑑賞に値する価値を見出せなかったから、廃棄すべきゴミと間違えられてしまったのです。もっとも、現代アートの専門家達は、前衛的な芸術表現への理解の欠如として、捨てた人の凡庸さを非難するのでしょうか・・・。

 本来、芸術とは、美術であれ、音楽であれ、書であれ、この世離れしたような美しいものを求める人々の精神に由来しています。古来、芸術家とは、それが個人的な美に対する憧憬や探究心に発し、鑑賞者となる他者の視線を意識しなくとも、霊感を意識しながら美の創造や表現に全身全霊を捧げてきた人々でした。例えば、西欧の音楽は長らく神への捧げ物とされていましたが、古代ギリシャでも、ムーサの女神達が天界から伝えたのが7層の音階であると信じられていました。そして、ムーサの女神達こそ、芸術家達にインスピレーションを与える霊感の源とされたのです。その一方で、芸術家のみならず、芸術を鑑賞する側にも、美への渇望があります。両者の求めるところが一致する場として、芸術は社会において重要な精神活動の領域として成り立ち、人々に精神的な安らぎや豊かさ、あるいは、高揚感や感動を与えてきたのでしょう。芸術が存在しない世の中とは、何と、味気ないことでしょう。

 近代に至ると、音楽を教会や宮廷から解放し、音楽家を一つの独立的な職業とした作曲家として、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが登場してきます。モーツアルトには根強いフリーメイソン会員説があるのですが、啓蒙思想は、神の認識を変えたのであって、その存在そのものを否定したわけではありませんでした。啓蒙の時代とは、教会組織やそれが説いてきた人間に擬性される人格神としての神が否定されたのであって、むしろ、極めて数理的な調和が成立している宇宙の存在を奇跡として捉え、その隅々に神が宿るとする汎神論や宇宙的調和を実現する唯一の存在を想定した理神論が唱えられた時代とも言えましょう。このため、近代以降にあっても、神的な美しさをこの世に伝えようとする使命感をもって作品を創り続けた芸術家も少なくないのです。天才とは、しばし、凡人では感知し得ない、天界に通じるような超越的な能力を示す人々を意味してきました。

 しかしながら、現代に至りますと、共産主義の蔓延に加え、ゾロアスター教やヒンドゥー教の‘再発見’、あるいは、ユダヤ教のフランキストなどの影響により、破壊や犠牲を進歩への必要不可欠かつ不可避なステップとする考え方が広がるようになります。冷静になって考えればカルトとでも言うべき破壊=進歩とする固定概念が浸透するにつれ、芸術の世界にあっても、美の追求は時代錯誤とされ、それ自体が否定されるべき前近代的な誤りや妄想とされてしまうのです。その結果として登場してくるのが、破壊こそが創造の源と信じる芸術家達であり、彼らは人間の破壊衝動の表現者ともなるのです。誰もが上述した現代アートの作品を、天界の美の表現であるとは思わないことでしょう。

 そして、こうした破壊=進歩とする狂気にも通じるイルージョンは、既存の国家や社会を破壊して新たな支配体制を構築したい人々にとりましては、好都合であったのでしょう。今日、世界権力が目指している新世界秩序やグレートリセットも、これらを実現するためには国民国家体系を含む既存のあらゆる秩序の徹底した破壊を要します。自らの未来ヴィジョンと共に環境、デジタル、宇宙、生命科学など、世界権力が開発を急いできた先端技術は、破壊と新たなる人類支配の手段でもあります。進歩は必ずしも否定されるものでもないのですが、それが破壊を伴う時、人類が多大な犠牲を払いつつ、叡智を尽くして築き上げてきた制度や秩序、そして善性の源や美に対する根源的な意識までが破壊の対象とされるのですから、人類は、大いに警戒しなければならないと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界権力は美も嫌い?

2024年03月11日 10時31分48秒 | 社会
 学校教育の美術の時間にあっては、芸術も時代と共に進化するものと教えられてきたように思います。美術史でも、絵画であれ、音楽であれ、何であれ、時系列的に各時代の様式が並べられており、ページの最後に現代アートが登場してきます。そしてそれは、時にして、過去の全ての芸術的試みの末に到達した最先端の様式であるかのように・・・。

 しかしながら、現代アートは、人類が到達した芸術の極みなのでしょうか。最近、街の風景を眺めていますと、一つのおかしな現象に気がつかされます。それは、名称はわからないのですが、どの街にも、デザインとしてパターン化された大きなアルファベットの文字が何者かによって描かれた壁や塀あることです。鉄道沿いの壁や河川敷の堤防など、あらゆる壁に描かれており、誰もが一度は目にしたことがあるはずです。この文字のデザイン、少なくとも日本国では、登場してから半世紀上が経過しても全く変わりがないのです。あたかも時間が止まってしまっているかのようなのです。

 最初に登場したときには、それが路上芸術であれ、現代アートの一表現として好意的に受け止められていたようです。今では、薄汚い壁に浮かび上がる文字列が退廃した雰囲気を醸し出しているのですが、軽快でポップな雰囲気の文字表現は、新しい時代の到来を予感させたからです。そして、同文字の登場は、グローバリズムの象徴でもありました。何故ならば、日本全国の街々に描かれるのみならず、都市を中心に全世界のここかしこに描かれたからです。同文字を目にしますと、これを見る人は、自国に居ることを忘れ、‘グローバルな空間’に迷い込んでしまったかのような気分になります。視覚は空間認識と繋がっていますので、同文字は、その存在だけで空間支配の効果を及ぼしているとも言えましょう。いわば、グローバリズムのマーキングのような役割を担っているたのかもしれません。

 しかも、この画一化された文字、誰が書いているのか分からないのです。今日、素性が不明のアーティストとして‘バンクシー’が持て囃されていますが(どのような理由で、‘バンクシー’という名前で呼ばれるようになったのでしょうか・・・)、同文字をペイントしている人々も素性も不明です。闇に紛れて夜中の内にペイントし、朝方には去って行くようなのです。文字のデザインは画一化され、かつ、全世界的な活動ですので、おそらく一人ではないのでしょう。全世界の諸国に派遣し得る‘ペインティング部隊’が組織されているとも推測されるのです(個人的なアーティストによる芸術活動ではなく、雇用された人々なのでは・・・)。言い換えますと、人目の付くところで大量に描かれながら、一般の人々には誰が描いたものなのか分からないという謎もあったのです。

 一説に依れば、何度消しても直ぐに書き直され、いたちごっことなるので、消す労力を考えて放置されているそうです。しかしながら、落書きはれっきとした犯罪ですので、現場で取り押さえることができれば、以後、繰り返される心配はなくなるはずです。今日では、本気で犯人を捕まえようとすれば、監視カメラの設置で事足りるはずなのです。それにも拘わらず、未だに同文字を目にするのは不可解なことでもあるのです。

 以上に奇妙な文字について述べてきましたが、この現象は、現代の芸術が置かれている状況を極端な形で象徴しているのかも知れません。それは、創造的で芸術の最先端を行くようなイメージがアピールされながら、その実、芸術全般が‘何か’を求めよう、‘何か’に限りなく近づこうとする意欲、あるいは、生き生きとした生命力を失ってしまった時代の象徴です。そして、この‘何か’とは、天界に通じるような美というものなのかもしれません。現代に生きる人々は、新興宗教団体によって超越的な善性の源としての‘神’の概念から切り離されようとしているように(仏や天の概念も・・・・・・)、純粋なる美しさというものからも、巧妙に切り離されようとしているかもしれないと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グローバル・スタンダードという新たな差別

2024年02月05日 12時51分14秒 | 社会
 差別とは、国語辞典を引くと「程度に差をつけて、あつかいを分けること」とあります。物品であれば、とりたてて反道徳・倫理的な行為とはならないのですが、人が対象となりますと、してはならない‘禁止行為’という意味合いを持つようになります。何故ならば、所属する集団や個人的な属性を‘あつかいを分ける’基準とした場合、基準に当てはまらない人々を排除することを意味するからです。国連では、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」と説明されているそうです。


 同説明からも理解されるように、除外や拒否を伴うからこそ、差別は禁止行為とされていることは明らかです。差別を別の言葉で表現するとすれば、それは、属性だけで判断されるのですから、不公平あるいは不平等と言うことになりましょう。とりわけ人種、民族、宗教、文化、言語、性別等を基準とした差別は、不当な社会的な排除行為とされ、厳しい視線が向けられることとなったのです。実際に、アメリカ合衆国を初めとした多民族国家では、差別の解消やその撲滅は社会政策の一環として積極的に推進され、言論空間でも、炎上を呼びやすい極めてセンシティブな領域となりました。そして、1980年代以降、グローバル化が全世界に及ぶにつれ、差別問題は全世界の諸国にも波及してゆくのです。


 差別問題のグローバル化は、人種や民族等を選別基準とした差別をしてはならない、とする新たなグローバル・ルールの導入を意味しました。ところが、差別とは、選別基準が存在してこそ起こりえる現象ですので、この基準に従えば、人種や民族等の個人の属性そのものを基準としてはならないということになります。となりますと、今日の国民国家体系は、一民族一国家の基本原則において成立していますので、特定の民族がマジョリティとなる一般的な国家では、グローバル・ルールとの間に解消しがたい齟齬が生じることになるのです。


 2020年に開催された東京オリンピックにあって、伝統的な日本らしさが極力押さえられ、目下、中止論も浮上して先行き不透明となった大阪万博にあっても、未来ヴィジョンやそれを支える先端技術のみがアピールされるのも、グローバル・ルールを意識した結果であったことは疑いようもありません。先日、‘日本人とは誰なのか’という問題を引き起こしたミス日本問題も、まさにこの問題を象徴しているとも言えましょう。○○国代表や○△国優勝者といったタイトルは、そもそも同ルールに違反するのですから(民族あれ、国籍であれ、話語であれ、何れを基準としても参加資格は差別とならざるを得ない・・・)。


 それでも、長年の慣例を変えるわけにもいかず、この種のドメスティックな大会を継続させようとしますと、どのような事が起きるのでしょうか。先述したように、人種や民族等を基準とすることは、グローバル・ルールとして禁止されています。そこで、参加資格には目を瞑りつつ、コンテストの審査基準の方をグロール・ルールの合わせることで対処しようとするかもしれません。例えば、ミス○○では、○○国の固有の伝統的な美意識を審査基準としたのでは差別として批判されますので、この部分は、グローバル・スタンダードに変更するのです。この結果、コンテストの優勝者は、国家を枠組みとした大会であったとしても、選ばれる人は、グローバル・スタンダードにもっと合致した出場者となり、○○国を構成してきた民族の出場者は、悉く落選となるのです。


 確かに、この方法ですと、一見、人種差別や民族差別はないように見えます。しかしながら、よく考えてみますと、グローバル・スタンダードも、れっきとした差別とする見方も成り立ちます。おそらく、グローバル・スタンダードとは、‘特定の民族的属性を持たない人’ということになりますので、様々な人種や民族の血を引く人が選ばれることになります。近年のミス・ユニバースの優勝者の多くがラテン・アメリカ諸国の出身者であるのは、これらの諸国では、その歴史から、モンゴロイド系、コーカサイド系、並びに、アフリカ系の人種が混血しているからなのかもしれません。あるいは、‘グローバル’という観点からしますと、本当のところはユダヤ人の伝統的な美意識が基準であって、全世界に拡散したユダヤ人と混血した現地の人々の子孫達が選ばれているとも推測されましょう。そして、この現象は、美を競うコンテストのみならず、全世界のあらゆる場面で起きているように思えます(工業製品でも、一端、グローバルスタンダードが確立すると、国内規格は排除されてしまう・・・)。


 何れにしましても、グローバル・スタンダードにも、強力な排除作用が認められますので、差別的ではないとは言えなくなります。‘特定の民族的属性を持たない人’も、紛れもなく属性に関する基準の一つであり、‘特定の民族的属性を持つ人々’を排除するからです。つまり、差別をなくすという口実のもとで、新たな差別基準が採用されていることになりましょう。グローバル・スタンダードの差別性に気がつきませんと、いつの間にか、人類の多様性も豊かで多彩な伝統文化も消しさられ、やがて画一化されてしまうのではないかと危惧するのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナワクチンと全体主義の陰

2023年10月05日 15時25分40秒 | 社会
 今年の生理学・医学ノーベル賞の受賞者は、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの開発に貢献したとして、二人のペンシルバニア大学の研究者が選ばれました。カタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授のお二方なのですが、政府並びに主要メディアが人類を救った偉大なる功績として絶賛する一方で、ネットをはじめとした一般国民の反応は極めて微妙です。否、訝しがる人の方が多いくらいです。その理由は、言わずもがな、超過死亡者数によって示唆されるように、ワクチンが原因として強く疑われる健康被害が広がっているからに他なりません。

 世界初のmRNA型ワクチンは、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを根拠として政府から緩急許可が下り、急遽実用化されることとなりました。安全性に関する十分な治験を経ずに人類に対して試されたとする批判は、同経緯によるものです。‘人体実験’と言った物騒な言葉も聞かれるのですが、仮に、ワクチンによる健康被害が事実、あるいは、その可能性が極めて高いならば、政府や主要メディアの持て囃す姿勢も疑問符が付きます(同タイプのワクチンについては科学的にも根拠がある・・・)。‘人体実験’の結果は‘有害’であり、一定のパーセンテージで死亡ケースも報告されている以上、実用化は難しいという結論になるはずなのですから。ワクチンと健康被害との因果関係が濃厚である現状にありながら、なおも政府が、mRNAワクチンの技術はあらゆる分野に応用できるとし、同テクノロジーの開発を積極的に後押しするとなりますと、多くの国民は、政府に対する不信感を募らせることとなりましょう。

 もっとも、コロナワクチンによる国民の健康被害については、同ワクチンによって多くの国民の命が感染症から救われたのであるから、致し方ない犠牲として甘受すべきとする意見もないわけではありません。全体を救うためには一部の犠牲は仕方がない、とする論理です。確かに、「トロッコ問題」のような、多数の命か少数の命かの二者択一の究極の選択を迫られる場合には、多数を選択することは倫理的に許容されましょうし、防衛戦争の場合にも、国民の誰もが少なくない自国将兵の犠牲を覚悟しなければならなくなります。極限状態にあっては、少数者の犠牲を受け入れざるを得ない場面もあるのですが、他に選択肢があったり、極限まで至っていない状況下等では、少数者の犠牲に関する倫理・道徳的許容レベルは格段に上がってきます。

 5人の命と1人の命の二者択一を迫られる「トロッコ問題」にしても、最善策はトロッコを止めることです。トロッコが暴走している線路に石、木材、ブロックなどの障害物を置いてトロッコを停止、または、脱線させれば、6人全員の命が失われずに済むのです。選択肢を二つに限定しなければ、犠牲は回避できるのです。

 このように、少数者の犠牲は、他に選択肢なき極限状態という極めて稀な状況にのみ許容されるのですが、今般のコロナ禍が、同状態に当て嵌まるのかと申しますと、この点は、大いに疑問なところです。とりわけ日本国では、‘ファクターX’として謎解きが流行るほど、他の諸国と比較して感染率が著しく低い状況にありました。パンデミックの初期段階にあり、かつ、ワクチンの有害性が不明な段階では‘緊急事態’の言い訳も通用するものの、少なくともワクチン被害が疑われるケースが報告された時点にあって、接種推進から慎重または中止に転換すべきであったと言えましょう。ところが、政府は、因果関係が不明である点を逆手にとって、接種推進策を変更しようとはしなかったのです(疑わしいから止めるではなく、疑いの段階であるうちに進める・・・)。

 コロナワクチンに見られた全体のための少数者の犠牲、あるいは、個人の犠牲の許容という言い分は、全体主義の価値観とも共通しています。状況や条件に関する厳密かつ慎重な検討もなく、際限なく全体優先の論理が浸透してゆきますと、自由主義諸国にあっても容易に全体主義体制の方向に誘導されることとなりましょう。少数者や個人の命の犠牲が当然のことのように主張される時、そこには全体主義の陰が既に忍び寄っているかもしれないと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

移民の自由と責任の問題

2023年07月26日 09時51分04秒 | 社会
 広域的な欧州市場を形成したEUでは、国境を越えた域内の移動の自由は基本原則の一つともされています。EUのみならず、グローバル時代を迎えた今日の国際社会を見ますと、‘移民は正義’とばかりに、国境を越えた人の自由移動は奨励されてきました。近年、移民問題の深刻化を受けて歯止めがかかってきたものの、日本国政府を見る限り、海外からの高度人材の取り込みや人口減少や労働力不足を補うための外国人の受け入れ促進など、移民奨励政策を変更する兆しは見えません。グローバルな移民促進政策は、国連や世界経済フォーラムと言った世界権力の基本方針なのでしょうが、IMOの基本理念に忠実に従うかのように、各国政府とも、移民する側の自由並びに権利保護に政策の軸足を置いていることは疑いようもありません。

 戦争や内戦等によって故郷を追われ、住む家も失い着の身着のままで逃げ出さなければならない事態に直面した人々、つまり難民は、避難先となる受け入れ国にあっては一時的に保護されるべき人々なのでしょう。その一方で、今日にあって大多数の諸国が直面している移民問題は、主に経済的要因によって発生しています。とりわけ、グローバリズムの拡大は、安い労働力を手にしたい先進国のグローバル企業と貧困から抜け出したい途上国の移民希望者との利害を一致させることとなりました。世界権力が、受け入れ国側には‘寛容’あるいは‘忍耐’を強要する一方で、移民の側の保護に熱心であったのも、それが自らの経済的利益に解きがたく結びつていたからなのでしょう。難民と経済移民との区別は曖昧となり、外国人という同一のカテゴリーにおいて手厚い保護の対象となったのです。全世界の諸国において際限なく‘マイノリティー’を創ることができるのですから、移民推進は、世界権力にとりましては一石二鳥、否、それ以上の作戦なのでしょう。

 しかしながら、この構図、受け入れ国側の国民のみに理不尽な負担を強いることとなるのは言うまでもありません。外国人=弱者=保護の対象とする構図が成立している以上、外国人が受け入れ国側の国民の基本的な自由や権利を侵害したとしても、大目に見られてしまうのです。外国人容疑者が何故か不起訴処分となったり、果てには、外国人移民の犯罪組織が‘地下’に広く深く根を張ったり、その居住地域が警察さえ足を踏み入れることができない一種の‘治外法権’と化してしまうといったケースも現れるようになりました。移民の増加によって治安が悪化する原因の一つは、権利保護において国民と移民との間の格差に求められましょう。結果として、法の下の平等原則も損なわれると共に、政府や公的機関は移民の側の権利を厚く擁護しますので、国民は、権利保護という統治機能を十分に受けられなくなるのです。これでは、国家の存在意義さえ問われてしまいます。

 そして、ここで一つ問題として提起すべきは、移動の自由にも責任が伴うのではないか、という問いです。しばしば、‘自由には責任が伴う’とされます。凡そ如何なる自由にあっても無制限な自由はなく、必ずやその結果には責任を負わなければならないという意味です。移動の自由についても、当然に責任が伴うはずです。ところが、先述したIMOの理念(「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」)には、移民の側の責任について言及する部分が欠けています。これでは、移動の自由を行使した結果、受け入れ国側が如何なる被害やマイナス影響を受けたとしても、責任を免除する‘免罪符’が移民側に与えられているかのようです。

 とりわけ経済的な要因による移民は、グローバル人材事業者が営む移民ビジネスにあって債務を負う身ではあっても、自発的に海外に職や居住地を求めた人々です(受け入れ国に対する責任は免除されても、債権者に対する借金の返済義務からは逃れられない?)。こうした人々に対しては、弱者として責任を免除するのではなく、一人の独立した人格を持つ人々として尊重し、責任を求めた方が余程人権尊重の精神に合致しているように思えるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国際移住機構の基本理念は正しい?

2023年07月25日 13時31分05秒 | 社会
 2018年末の安倍政権時代に入国管理法を改正し、日本国政府は外国人労働者の受け入れ拡大に向けて舵を切ることとなりました。外国人労働者の日本国内での定住を想定している点において、同法の改正は労働市場の開放のみならず、移民推進政策への転換として捉えられたのです(永住資格の取得に繋がる特定技能2号への移行規程の設置)。安倍首相暗殺事件を機に自民党の体質が露呈した今日にあって振り返ってみますと、自公政権による移民政策の推進は、保守政党の看板を掲げていた自民党の‘偽旗作戦’であった証ともなるのですが、移民政策をめぐる政府側の国民に対する一方的な‘耐忍要求’は、今に始まったわけではありません。

 国連をみますと、世界人権宣言や国政人権規約等の成立に寄与するなど、同機関は、グローバルな移民の保護・推進機関の役割を果たしてきています。例えば、2016年9月には、「難民および移住に関する国連サミット」が開催され、ニューヨーク宣言が採択されています。この際には、国連とは別機関として1951年に設立された国際移住機関(IMO)も、国連機関の一員に加わりました。そして、まさしく日本国の入管法改正と同時期となる12月10日には、ニューヨーク宣言に基づいて「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」並びに「難民に関するグローバル・コンパクト」が採択されているのです。なお、改正法の成立は、「世界政府」とも称されている世界経済フォーラムの年次総会を翌2019年1月22日から25日に控えていた時期でもありました。

 このように、日本国の移民受け入れ政策への転換は、グローバルな動きと連動しているのですが、移民の増加による治安の悪化や社会的な対立や分断の深刻化は、今や移民受け入れ国に共通する社会問題となっています。積極的な推進策をとる政治サイドでは、政府レベルであれ、政党レベルであれ、外国人差別反対や多文化共生主義などを掲げ、受け入れ国の国民に対して寛容を求めています。‘寛容’という言葉自体は柔らかなのですが、現実には、言論の自由を侵害しかねないヘイトスピーチ法やポリティカルコレクトネスなどによる社会的規制が敷かれ、殆ど‘強制された寛容’に近い状況を呈しているのです。

 結局、受け入れ国の国民の不満ばかりが高まる結果を招いたのですが、それでは、何故、このような事態に陥ってしまったのでしょうか。その理由は、上述したIMOの基本理念を読みますと、自ずと理解されてきます。IMOの基本理念とは、「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」というものです。同理念で注目されるのは、移動する側の権利と尊厳が保障されれば、移民と社会の両者に利益をもたらすとしている点です。この基本理念を文字通りに解釈しますと、人権や尊厳の保障は、移民の側にしか及ばないこととなりましょう。

 理念とは、あくまでも言葉で表現された活動の方向性を示す精神的な原則に過ぎません。このため、理念と現実がかけ離れることは珍しいことではなく、むしろ、理念の先走りが現実にリスクや損害をもたらすことも少なくありません。IMOの理念も例外ではなく、現実には移民する側のみの権利や尊厳を保護さえすれば、必ずしも受け入れ側の社会に利益をもたらすわけではないのです。否、多くの国で移民問題が表面化しているように、忠実に同理念に従った結果、一般の国民は、犯罪リスクに直面するのみならず、様々なルートを有する移民の側からの文化的寛容の要求に苦慮していると言えましょう。

 昨今、イスラム教徒による土葬許可の要求が報じられていますが、IMOの基本に従って移民側の文化をも受容せざるを得なくなりますと、今後は、インドの風習が根付いて全国の河川敷にあって水葬を目にする日も訪れるかもしれません(チベット人が要求すれば風葬も・・・)。移民問題については、IMOのアンフェアで非現実的な基本理念、否、移民ビジネスから巨額の利益を得ている偽善的な世界権力の基本方針という問題にまで遡って考えるべきであり、受け入れ側の諸権利の保護を認めないことには、事態は悪化の一途を辿るばかりではないかと危惧するのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AI失業を救う‘新しい職業’は幻?

2023年07月18日 12時40分17秒 | 社会
 今や、AI自身が人類に対して知的能力において勝利宣言する時代を迎えています。生成AIの登場は、人類のデバリュー、あるいは、格下げにさらに拍車をかけており、‘人間を必要とする時代はもう終わったのだ’と言わんばかりなのです。

 AIの普及が大量失業をもたらす怖れに対しては、AI for Good Global Summitが主催した記者会見の席で、ヒューマノイドロボットがきっぱりと否定しておりましたし、メディア等に登場する識者の見解の大半も、‘新しい仕事’が生まれ、失業が吸収されるとする楽観論です。‘産業革命時にあってもラッダイト(機械打ち壊し)運動が起きたけれども、ホワイトカラー職の需要増加によって失業問題は難なく解決した’として・・・。

 デジタル化を歓迎するAI普及推進派の人々は、過去の前例を引き合いに出して人々の不安を払拭しようと務めているのですが、ラッダイト運動の時代と今日とでは、状況は大きく違っているように思えます。前者にあって失業を吸収できたのは、おそらく、この時期、経済の拡大に伴う企業数の増加や企業の組織化、並びに活動内容の複雑・広範化が進んだからなのでしょう。企業活動にあって基礎的な部分となるのは製造ですが、近代以降、企業は、組織の管理・運営のみならず、財務、法務、人事・採用のみならず、マーケティング、営業、市場調査、研究開発、宣伝・広報・・・などにおいて人員・人材を要するようになったからです。また、サービス業の多様化や外注化も失業問題の緩和に大いに貢献したことでしょう。製造部門である工場において労働者の雇用数が減少しても、ホワイトカラー職の叢生がその受け皿となったのです(もっとも、世界恐慌に起因する大量失業問題は、戦争によって解決されたとも・・・)。

 ところが、現在の状況は、ラッダイト運動の時代とは大きく違っています。そもそも、何れの諸国にあっても、雇用数の拡大を伴う右肩上がりの経済成長期にあるわけではありません。しかも、AI失業の問題は、上述したようなデスクワークを主とするホワイトカラー職を直撃する性質のものです。AI失業に対して楽観的な予測を述べる人々は、‘新しい職業’の出現を期待して人々の不安を解消させようとするのですが、具体的な職業の名の一つさえ上がっていません。‘新しい職業’ではあまりにも抽象的であり、不安払拭には程遠いのです。

 ITのみならず、AIも人に代替する、即ち、合理化や省力化をもたらすテクノロジーですので、人員削減に効果を発揮しこそすれ、雇用創出効果については疑問を抱かざるを得ません(実際に、IT大手は人員削減に邁進中・・・)。また、デジタル化によって確かにプログラマーやシステム・エンジニアといった‘新しい職業’が出現しましたが、デジタル専門職の雇用数は全体からしますと極めて少数に過ぎません。その一方で、デジタル化にはデータ入力作業を要しますので、従来のブルーカラー職とは異なる単純作業に従事する人々が現れたたことも確かなことです。AIについては、プログラミングさえ誰でもできるようになるとされていますので、従来型の職業のみならず、知的能力を要する専門職さえもAIに奪われる一方で、AIへのデータ入力者の需要のみが増大してゆくのかもしれません。なお、生成AIを含めて、ネット・サービスの利用は、同時にユーザーの個人情報の自発的な入力作業としての側面があります。

 このように考えますと、AIによって人類が支配されるに至らないまでも、大多数の人類がデータ入力者としてAIに奉仕するという未来の到来も絵空事ではないように思えてきます。しかも、ディープラーニングや国民監視の技術がさらに発展すれば、自発的かつ自動的に個々人のデータを収集してしまうかもしれません(人間は不要に・・・)。仮にこうした未来が訪れるとしますと、人類は、‘どこかで道を誤った’、否、’誤った道に誘導されてしまった’ということになるのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

量子コンピュータの限界とは?

2023年07月13日 12時22分09秒 | 社会
 デジタル時代の先には、量子の時代の到来が予測されています。その中核となる量子コンピュータの開発も進んでおり、その実用化の日も遠くはありません。本日も、イギリスの企業が量子コンピュータの常温稼働と量産を実現する技術開発に成功したとするニュースが報じられていました。古典的なコンピュータとは異なり、量子コンピュータは、膨大なデータが瞬時に並列処理されますので、複雑な問題をも解析する能力を備えています。このため、当初話題となった解読不能な暗号の開発のみならず、地球の気候変動の予測や地震等の自然災害の事前予測など、量子コンピュータに対する人々の期待は高まるばかりです。しかしながら、万能にも見える量子コンピュータにも幾つかの限界があるように思えます。

 量子コンピュータの出現によるシミュレーションや予測能力の飛躍的な向上が、人類に大きく貢献することは確かなことです。例えば、天気予報を含む気候変動をより正確、かつ、長期的に予測できるようになれば、先々の計画が格段にたてやすくなります。一ヶ月先、あるいは、一年先のお天気が分かっていれば、雨天を心配せずに運動会などの屋外で催されるイベントのスケジュールを決めることができますし、農家の人々も、日々の雨量や風向き、あるいは、豪雨や台風の到来時などを前もって知ることができます。また、古来、甚大な被害を与えてきた地震、津波、火山の噴火などの地球の活動に起因する自然災害につきましても、発生日時や規模等を正確にはじき出す技術は、被害を最小限に押さえ込むためには是非とも手にしたいテクノロジーです。建物等の物的な被害や損害は完全には避けられないとしても、人々は事前に余裕をもって安全な場所に避難ができますし、多くの命も救われることでしょう。

 超コンピュータともされる量子コンピュータを用いれば、不可能なことは何もないようにも思えるのですが、量子コンピュータの限界の一つとして挙げられるのは、必要となるデータの測定技術が追いつかないという問題です。上述した天候・気候や地震の予測についても、関連性を有する全ての数値を測定し、それをデータ化する必要があります。地球マントルや核の温度や対流、地域ごとに異なる太陽光の影響、全世界の海水温度、全ての大陸プレートの移動速度、地盤の地質構成と強度、大気の流れ・・・等など、数え挙げたら切がありません。しかも、リアルタイムで測定し、同時にデータ化しなければならないのです。

 それでは、常に変化し続けているこれらの数値を確実に測定する技術は存在しているのでしょうか。この点につきましては、は至って怪しくなります。例えば、地球とは地殻、上部マントル、下部マントル、外核、内核の5層から成るのですが、これら全ての温度変化をリアルタイムで測定する方法は、今のところは存在していません。

 もちろん、今後、非接触型の体温計のように電磁波を利用して測定するという方法もあるのでしょうが、たとえ測定方法が開発されたとしても、地球全体の‘体温変化’を満遍なく計ろうとすれば膨大なエネルギーやコストを要するかもしれません。最悪の場合には、大規模な地球レベルでの測定事業を優先させた結果、人類の生活水準が下がってしまう可能性も否定はできなくなるのです。

 地球温暖化論者が予測するようには、両極の氷塊による海面上昇によって太平洋諸国が水没して消滅したり、ヒマラヤの氷河湖が決壊する事態が起きないのも、現在のデジタル・コンピュータにあっても測定データが不足しているからなのでしょう(温暖化二酸化炭素説に科学的な根拠を与えるために、恣意的なデータの取捨選択が行なわれているとする指摘もある・・・)。このデータの不完全性の問題は、量子の時代にあっても変わりはなく、如何に優れた技術でも、それを活用するに際して必要となるテクノロジーが欠けている場合には、宝の持ち腐れになりかねないのです。

 今日、バーチャル・リアリティーやmRNAワクチンなどを含め、テクノロジーの独善的な先走りが人類をディストピアに誘うリスクとなりつつあります。量子コンピュータもまた、上述した問題以外にも、その卓越した能力故に、世界権力による人類支配の道具とされるかもしれません。全ての人類がSFチックなテクノ社会を望んでいるわけではないのですから、未来型のテクノロジーについては、今一度立ち止まり、その使い方や実用化に伴う問題について多方面からの議論を経てからでも遅くはないと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする