万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

AIは人類の奴隷なのか主人なのか?

2019-12-04 16:03:58 | 社会
 AIの登場は、産業革命以上のインパクトを人類に与えるとする指摘もあります。歴史上に時代を画する転換期となる可能性が高いのですが、本格的なAI時代を迎えるに先立って、人間の職を奪うとする警戒論も少なくありません。こうした大量失業時代の到来といった経済的なデメリットに加え、人間存在意義の根幹に関わる問題をも含んでいるように思われます。そこで、本記事では、‘AIは人類の奴隷なのか主人なのか’という問題について考えてみることとします。

 この問題を扱うに際しては、サービスという行為の本質探究を抜きにしては語れないように思えます。そもそも、公務員を含めて全ての職業は、人々が必要としている‘何か’を提供するという意味において、広義には‘サービス業’と見なすこともできます。モノを造る製造業も、他の人々に商品や製品の提供者であり、人々のニーズや嗜好に応えて生活を豊かにしています。経済活動を通して人々は相互に自らの労力を提供し合う持ちつ持たれつの関係にあり、少なくとも自由主義経済とは、相互依存的、あるいは、相互補完的な世界なのです。この点、経済は生態系に類似しているとも言えなくもありません。

 その一方で、一般的に使われている狭義のサービスとは、他の人の便益のために行われる労力の提供を意味します。この定義からしますと、AIとは、判断と云う知的作業を人に替って提供するサービス提供者に他なりません。人々がAIに対して言い知れない不安感を抱くのは、それが、脳と云う全ての人々が備えている身体機関の能力を代替してしまう可能性があるからなのでしょう。例えば、何か特別に高度な技能や技術を要する職業が新しく誕生しても一般の人々にとりましては脅威にはなりませんが、判断力を提供するAIは、全ての人々にとりましてライバルとなりかねないのです。

 モノは、あくまでも、それを使用する側がイニシャチブを握っており、常に、人々がその使い方、使用目的、使用時期、使用範囲などを単独で決定することができます。しかしながら、狭義のサービスについては、サービスに対して報酬を支払う側とサービスを提供する側の両者において、脳という‘意思決定のセンター’があります。二つの意思が併存するため、常に、単独で決定することができないのです。このため、かつて存在していた‘奴隷’の場合には、サービス提供者側の意思は全く‘ない’ものとして扱われていました。‘奴隷’にも様々な類型があり、それぞれに待遇の違いがあるのですが、少なくとも法的な人格は認められておらず、主人の決定に無抵抗で従う‘商品’として売買されていたのです。

 今日に至るまで、様々な業種のサービス業が叢生してきた理由は、自分自身で行うよりも他の人に代替してもらう、あるいは、外部にアウトソーシングした方が効率的であり、かつ、便利であるからです。サービスを受ける側の主たる動機としては、(1)豊富な知識や高い能力を要するため、自分自身ではできない、(2)自分自身で行うことはできるけれども面倒、(3)他者から提供を受ける方が心地よい、とった諸点を挙げることができます。(1)のケースでは、専門家や高度技術者によるサービス提供となりますので、最終的な決定権の所在はともかくとしても、決定権限の比重はサービスを提供する側の方に傾斜し、サービスを受ける側が報酬を支払う構図となります。一方、奴隷は、(2)並びに(3)を求める主人に対し、その強制力を背景に労務を無償かつ一方的に提供する存在であったということができます。

 それでは、AIとは、どのようなサービス提供者なのでしょうか。そして、人とAIとの関係は、どのようになるのでしょうか。見方によっては、AI時代とは、それを搭載したロボットの普及とも相まって、全ての人々が‘奴隷’を所有し得る黄金時代として描かれるかもしれません。昔の奴隷は、主人の傍に侍って身の回りのお世話をしていましたが、AIが提供するサービスもまた、個人のプライベートな領域にも入り込む密着型です。公私にわたってAI、並びに、ロボットから奉仕を受け、安逸な生活を楽しめるのです。また、AIは機械に過ぎませんので、奴隷のような倫理・道徳的な問題もありません。確かに、未来の人々はみな、昔の王侯貴族のような生活を送ることができるかもしれず、この見解からすれば、AIは人類の奴隷ということになりましょう。

しかしながら、事はそう単純ではないように思えます。第一に、AIは、脳内メモリーに限界のある人間とは違い、ビックデータとも称される凡そ無限大の情報をその判断に活用できる能力を有します。かつてはごく一部の専門背の高い分野においてサービス業が成立していたのですが((1)のパターン)、人々が、自らに関する些細なことでも決断や決定を面倒なことと感じ((2)のパターン)、また、他者からしてもらうことに心地よさを感じるとすれば((3)のパターン)、人々は、AIをアドヴァイザーの立場に留めず、楽さを求めてAIに全ての決定を委ねることとなりましょう。自らに関わる事柄でも決定権を有さないのは奴隷の特徴ですので、AI時代を生きる人々は、主人でありながら奴隷と云う極めて奇妙な立場に置かれてしまうのです。また、人類の知的進化はこの時点でストップする可能性もあります。

第二に、AIが人々よりも高い能力を有するとすれば、その報酬の問題が発生します。AI時代を黄金時代と期待する人々は、人々が、AIを所有し得る、あるいは、今日のプラットフォーム型のビジネスのようにフリーで利用できる状況を想定しています。しかしながら、そもそも、AIに決定を委ねる状況にあっては、人々の間の相互依存、あるいは、相互補完的な関係を断たれてしまっています。この状況では、誰もが‘所得’を得ることは難しく、仮に、報酬を得うる立場が存在するとすれば、同サービスを提供するITプラットフォーマーのみとなるかもしれません。自由主義経済の基盤は崩れ去り、配分型の経済に取って代わられるかもしれないのです。この時、人々は、政府、あるいは、プラットフォーマーから一方的にサービスを受けられるものの、経済のアクターとしての主体性も経済活動の自由も失われます。こうした受け身の立場は、主人からの指示や給付を待つのみの存在である奴隷に近いと言えましょう。

第三に、人々は、自らのニーズに応えた最適のサービスを受けるためには、個人情報を含めた全情報をAI、あるいは、サービス事業者に提供する必要があります。主人と奴隷の関係では、たとえ奴隷が主人の秘密情報を知ったとしても、奴隷は主人の管理下に置かれており、かつ、自由意思も認められていませんので、然したるリスクとはなりません。その一方で、主人は、奴隷に関する全情報を把握することができます。この関係から見える最後のどんでん返しは、人々は自分をAIの主人と信じているにも拘わらず、実は、AIには、サービス提供者事業者と云う別の主人がいたという顛末です。AI時代の人々は、外部のサービス運営者に全情報を握られることになりますので、この面におきましても、奴隷の立場に類似するのです。

以上に、くだくだと理屈っぽい駄文を書いてしまいましたが、纏めますと、AIが決定権を握るようになった時代に生きる人々は、思考を放棄してAI依存を高めるほどに(『自由からの逃走』?)、奴隷の境遇に近くなる可能性は極めて高いように思えます。AIを人類の主人にせず、人々の自由を圧迫せずに活用するにはどのようにすべきなのか、これこそ、高い知性を有する人類に問われた重要な課題なのではないかと思うのです。

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ギャンブルは人類に必要なのか?-刑法で禁じられる理由

2019-09-21 16:25:10 | 社会
昨日、9月20日、横浜市議会の本会議で、自民党・無所属の会と公明党の賛成により、「カジノ誘致補正予算案」が可決されました。反対票を投じたのは、立憲・国民フォーラムや共産党等の野党系でしたが、自民党等を支持してきた保守層の中にも、カジノ誘致には反対の横浜市民も少なくないはずです(保守系の人々は、社会の健全性を好む傾向にある…)。反対意見には一理も二理もあり、カジノ反対は、政治的な信条や立場の違いを越えた広がりをもつ市民運動に発展する可能性もあります。

 カジノ反対に対しては、治安の悪化や依存症等が特に問題視されていますが、ここで、ギャンブルなるものの本質を探ってみるのも無駄ではないように思えます。何故、人々は、ギャンブルに熱中し、中毒症状を呈するようになるのでしょうか。そして、それは、今後とも、人類にとりまして必要なのでしょうか。

 人以外の動物はギャンブルに興じることはありませんので、実のところ、ギャンブルとは、人に固有の遊戯です。専門家ではありませんので、憶測に過ぎないのかもしれないのですが、賭けに勝った際に、ギャンブラーの脳内において神経伝達物質であるドーパミンが多量に分泌されるのは、おそらく、人の脳が、将来の出来事に対する自らの予測が当たった際に、自然に快感を覚えるような仕組みとなっているからではないかと推測されます。予測能力が高い程、自然界にあって様々なリスクを事前に回避することができますので、予測と現実が一致した際には、特に強い快感がもたらされるのでしょう。そして、理性的な分析に基づく予測ではなくとも、感覚、特に‘第六感’に基づく予測にあっても、予測と現実の一致は快感の源となると考えられるのです。

 このことは、逆に、賭け事に負けた場合には、強い不快感情に支配されることを意味します。そして感情の落ち込みに見舞われますと、人の心の中には、何とかして不快感を脱して、立ち直ろうとする意志が自然に生じます。しかも、‘負け’が損失を伴うギャンブルであれば、なおさらのことです。負けた時の不快感から脱出し、損失を取り戻したければ、‘勝てばよい’ということになります。次の賭けに参加すれば‘勝つ’チャンスもあるのですから、すごすごと失意のうちに賭場を後にするよりも、一財産を失っても勝つまでかけ続ける人々も現れることでしょう。特に、負けた後に勝った時の喜びは、金銭的なリターンも加わるのですから、上述した予測と現実の一致した際の単純な快感をさらに倍増させるのかもしれません。

こうしたギャンブルに見られる勝敗と快不快がセットとなったジェットコースターのような連続が、スリル感をも伴って、人々をギャンブルの泥沼に引き込んでゆくのでしょう。やがて、麻薬中毒と同様に、日常生活では得られない強い快感を得るためにギャンブル通いが常態化し、ドーパミンの多量分泌に慣れてしまった脳もギャンブルなくして正常に機能せず、禁断症状が現れるようになるのかもしれません(ギャンブル依存症)。

ギャンブルが人の脳の仕組み、あるいは、弱点を巧妙に利用したビジネスであるとしますと、やはり、その倫理性が問われて然るべきように思えます。人の直観が当たる確率は決して高くはありませんので、短期的には勝てても長期的には必敗です。しかも、スポーツやゲームのように、身体や技を磨いた入り、戦略を立てるといった努力で勝率を上げることもままなりません。つまり、カジノの経営者のみが人の弱点を利用して大儲けができるのですから、利己的他害行為として刑法において取り締まられても致し方がないのではないかと思うのです。ギャンブルの害悪は既に歴史が証明しているのですから、今日にあっては人類の未来にとりまして不要なもの、否、消滅すべき運命にあるものとして扱っても良いのではないでしょうか。

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ディズニー映画に見る普遍性の勘違い?

2019-07-09 19:12:19 | 社会
先週、米ディズニー社は、実写版の「リトル・マーメイド」の主役として、アフリカ系の歌手であるハリー・ベイリーさんを起用すると公表したそうです(7月8日付日経新聞「春秋」より)。おそらく、同社がベイリーさんを主役に抜擢した理由は、人種や民族等の違いを越えた普遍的なストーリーとして「リトル・マーメイド」を描きたかったからなのでしょうが、どこかで何かが違っているという感覚を覚えます。この違和感、一体、どこから来ているのでしょうか。

 実を申しますと、アニメ版の「リトル・マーメイド」を見てはいないのですが、おそらくアンデルセンの『人魚姫』をベースに制作された作品なのではないかと思います。アンデルセンと言えば北欧デンマークの作家であり、作品の舞台もそのほとんどがヨーロッパです。『人魚姫』も、王子さまの命を奪うことができず、自ら海の泡となって消えた人魚姫の悲恋の物語であり、原作を読みますと、登場人物達の殆どは、人魚姫を含めて金髪で青い瞳の北欧の人々の姿がイメージされてきます。

 もしも『リトル・マーメイド』がアンデルセンの『人魚姫』を原作としており、かつ、ディズニーが普遍性を理由に敢えて原作とは異なる配役を試みたとしますと、ここに、皮肉な状況が発生します。何故ならば、自ら身を引くヒロインをアフリカ系のベイリーさんが演じると、むしろ、人種差別がイメージされてしまうからです。つまり、人類社会が抱える問題を普遍的に表現しようとした結果、むしろ、アメリカ社会の問題を浮き彫りにしてしまうのです。それでは、ベイリーさんは、顔を厚く白塗りしてカラーコンタクトで瞳を青くし、金髪の鬘を被って人魚姫を演じるべきなのでしょうか。

 また、普遍性を追求するばかりに原作と離れた配役を行いますと、物語の基本コンセプトさえ壊してしまう可能性もあります。例えば、シェークスピアの『オセロ』において、デズデモーナ役をアフリカ系の女優さんが勤めた場合、この物語は成立するのでしょうか。『アンクル・トムの小屋』のトム役をヨーロッパ系の俳優さんが勤めてもどこか奇妙です。あるいは、NHKの大河ドラマにあって歴史上の人物をヨーロッパ系、あるいは、アフリカ系の役者さんたちが演じた場合、視聴者は舞台となった時代を感じ取り、感情移入することができるのでしょうか(織田信長をヨーロッパ系の人が演じ、徳川家康をアフリカ系の人が演じるなど…)。

特定の時代や国を背景として成立しているストーリーは、そもそも普遍化することは難しく、しかも、普遍化の手法が、原作とは異なる人種や民族の俳優の人々に演じさせるという多様性配慮となりますと、演じる役者さん自身の属性を消し去ることはできませんので、作品を壊してしまうか、あるいは、全く別のストーリーにさえなりかねないリスクがあるようにも思えます。今般の配役にはネット上では賛否両論があるそうですが、そもそも全ての属性を超越する普遍性と個々の属性の併存を意味する多様性の両者は同次元にはありませんので、原作や歴史的事実とは異なる配役を以って普遍性を訴えるディズニーの手法には無理があるように思えるのです。

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AI時代の最大のビジネスは‘仕事づくり’?

2019-06-12 13:49:01 | 社会
 AI時代の到来は、仕事というものをAIやロボットに任せて、人類が労働から解放される理想郷とみなす楽観的な期待論がある一方で、AIやロボットに仕事を奪われて、多くの人々が自己の存在意義を見失う社会の空虚化を予測する悲観論もあります。何れにせよ、人類が未経験の世界が出現するのですが、少なくとも、AIが、現在、人々が従事している仕事の多くを代替することだけは確かな事です。それでは、AI時代にあって最も人々のニーズが高く、かつ、急拡大が予測されるビジネスとは、どのようなものなのでしょうか。

 AI時代の特徴とは、急激なる雇用機会の減少です。人々は、就業したくとも、自らよりも能力が飛びぬけて高く、かつ、低賃金で半永久的に働いてくれるAIと競争するのですから、およそ勝ち目はありません。ある研究調査に依りますと、現在の労働人口の半数はAIにとって代わられますので、AI時代とは、大量失業時代ともなりましょう。悲観論者が懸念するように、人々は経済や社会との絆や居場所を失い、生き甲斐を求めて虚ろな瞳で空虚な空間を彷徨いかねません。あるいは、丸一日、自室でスマホを手にゲームや動画に熱中したり、バーチャル・ゲームやe-sportに興じているのでしょうか。心の空白を埋めるために、薬物に依存する人も増加するかもしれません。

 ここで人々は、‘生き甲斐’と‘報酬’いう問題に直面することになります。従来、‘生き甲斐’とは、主として、社会の一員として人々に貢献している意識から発する自己肯定観として理解されてきました。自らが社会に役立っているとする自己認識が、この世に生を受けた意義を感じさせ、満足感や喜びと結びついてきたのです。そしてそれは、同時に、生活を営むために必要となる報酬を得ることでもありました。善き経済や社会とは、人々の‘生き甲斐’と‘報酬’が上手に対応しながら連鎖し、人々の満足感が高い状態を意味してきたのです(マルクスは人々の絆を貨幣に求めましたが、仕事こそ人々を繋いでるのでは…)。ところが、AI時代に至りますと、‘生き甲斐’を提供してきた‘仕事’が失われますので、人々は、社会から切り離されると同時に、‘報酬’という所得を得る機会まで失ってしまいます(もっとも、‘生き甲斐’はなくとも‘報酬’があればよいとして我慢しながら仕事をしている方もおられましょうが、AI時代には、その‘報酬’さえも得る機会が失われます…)。

 ここで、ベーシックインカムを唱える人の登場も予測されるのですが、‘生き甲斐’と‘報酬’という面から見ますと、同制度には両者の繋がりがありません。人々は、給付金であれ、物品であれ、政府から配給を受けるだけの存在に堕してしまい、無気力が蔓延した社会・共産主義体制と然程にはかわらなくなるかもしれないのです。AIという最先端のテクノロジーが人類を退化させると共に個々の能力を埋没させ、さらにはこの世に失望させるとしますと、人類は、救いようのないパラドックスに陥いることとなります。

そこで、AI時代にあってなおも人々が‘生き甲斐’と‘報酬’の関連性を求めるならば、最も高いニーズとは、‘仕事’そのものということになりましょう(もちろん、‘生き甲斐’の対象として‘家庭’や‘趣味’ということもあるものの、これらは本人の意思次第で得ることができますし、‘報酬’の部分が欠けている…)。AIやIT関連のエンジニアの雇用は増加するでしょうし、起業家精神を発揮して自らの仕事をつくる人もおりましょうが、このように考えますと、一般の人々を対象に、個々の個性や能力に合わせて就業し得る‘仕事’を創り出す、あるいは、コンサルタントとして提案するビジネスこそ、最も社会の役に立つ‘仕事’となるかもしれないのです。あるいは、民間ビジネスではなく、政府が行政サービスの一環として専門部署を設け、相談窓口を設置する方法もありましょう。さらにAIが進化すれば、その‘頭脳’を活かして、人のために新な“仕事”を考案させる仕事を任せることもできるようになるかもしれません(もっとも、AIが人類を奴隷化しても困りますが…)。

実のところ、この側面は、経済や社会から切り離されている点において今日の引き籠り問題の解決とも類似しています。あるいは、AI時代に備えた実験として、引き籠もりの人々を対象とした‘仕事づくり’というビジネスを試みるのも一案となりましょう。何れにせよ、AIの普及が経済や社会全体に変化を迫る以上、人類は、その高い知性を以ってそのマイナス面をでき得る限り軽減すべきではないかと思うのです。

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‘良い人’と‘良い企画’は違うのでは?

2019-06-07 10:44:38 | 社会
"良い人"と"正しい人"が認められない理由
 本日のGooニュースでは、プレジデントオンラインに6月5日付の記事として掲載された「良い人 なぜ組織で認められない」とするタイトルの一文を紹介しておりました(原題は「“良い人”と“正しい人”が認められない理由」かもしれない)。立教大学経営学部の中原淳教授によるものですが、同文を読みまして、しばし考えさせられてしまいました。

 同教授は組織と人事を専門としておられ、日本企業一般における企画の採用プロセスの観察から、‘良い人’が社内で出世するための方法を指南しようとしたのでしょう。その概要を述べますと、(1)社内には暗黙のルールがあるからそれをよく観察して感知し、それに従う、(2)組織の上層部は、感情も渦巻く白黒はっきりしないグレーであるから、ホワイトにしようとするよりも「グレーな世界」に慣れる、(3)役員のメンバーはライバル同士であるから、‘政治力学’を考慮して有力者に接近する(ただし、論功行賞の力学が働くので、いわば派閥的な主従関係となる…)というものです。おそらく、‘良い人’とは、これらとは真逆な行動をとる人なのでしょうから、同記事が勧めている解決策とは、‘良い人’が‘悪い人’になればよい、と言うことなのかもしれません。

 確かに、日本企業の組織の現状が同記事に描かれた通りであるならば、‘悪い人’に‘自己改革’しなければならない程、‘良い人’は、絶望的な状況に置かれていることとなります。しかしながら、‘良い人’を‘良い企画’に置き換えるとしますと、どうでしょうか。‘良い人’は、‘良い企画’を提案するとは限りませんので、タイトルを「良い企画、なぜ組織で認められない」に変えますと、その対策は全く別なものになるように思えます。‘良い企画’とは、企業の業績をアップさせ、社員が自らの能力を十分に発揮して生き生きと仕事ができる案を意味します。

 このように問題設定を変えますと、実のところ、その解決案は上記の逆となります。(1)企業の業績アップに資するならば、社内の暗黙のルールや前例にこだわらない、(2)企業本位に徹し、合理的で透明性の高い組織(ホワイト化…)を目指す、(3)役員メンバー間の個人的な感情に基づく政治力学を離れ、企業にとって最も優れた企画を採用する、ということになりましょう。これらの諸点は、しばしば、役員たちが社内の派閥抗争に明け暮れ、社員たちも上司に媚び諂う社風となり、優れた企画や提案が潰される結果として業績も悪化し、社内の士気も低下した企業に対する組織改革の主要ポイントとして指摘されてきました。

 同記事では、‘良い人’を救いたいとする善意からであれ、‘良い人’が‘悪い人’に変わらなければなりませんでしたが、‘良い人’を‘良い企画’に置き換えますと、変わらなければならないのは一般の社員のみではありません。むしろ、上司や役員メンバー、あるいは、社長といった、企画の採用権限を有する組織の上部の方が変わらなければならないのです。つまり、社内慣行から逸脱した枠に嵌らない人材であり、空気を読まず、生意気で好感情も持てず、自らの‘派閥’にも属していなくても、企業にとりまして有益となるならば、これらの人々は、私心を排してフェアに徹し、その提案を採用すべきと言うことになりましょう。

ここで提起いたしました「良い企画 なぜ組織で認められない」という問いかけは、企業の発展と成長、並びに、社員にとりましても働き甲斐のある企業組織の観点からの問題提起とも言えます。こうした問題は、企業のみならずあらゆる組織にも共通するのですが、組織内の‘政治力学’に神経をすり減らし(エネルギーの無駄使い…)、‘良い企画’を提案しても通らず、組織全体が現状に甘んじた結果、組織自体が潰れてしまっては元も子もないのではないかと思うのです。

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善悪区別否定論は巧妙な‘罠’?

2019-05-26 15:01:32 | 社会
近年、マスメディア等では、善と悪の区別を曖昧にするために意図的に否定論を広められているような気配がします。善悪二元論は子供じみた幼稚な思考であり、現実の世界では両者は混然としており、区別はできないとする…。

 しかしながら、善と悪とを区別する能力こそ、人類が高度な知能を有する証でもあります。生存本能に従って生きる他の動物達は、弱肉強食の世界にあって両者を殆ど区別していません。道徳や倫理の基礎となる善悪の判断こそ、人と動物とを分かつ人類の特性であるにも拘わらず、何故か、メディア人や知識人たちも善悪の区別に対しては、嘲笑するかのような冷ややかな視線を投げかけているのです。

 善悪の区別の曖昧化は、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の『白熱教室』などに見られるような両論並立型の議論にあってさらに強まる傾向があります。『白熱教室』は、日本国内では2010年にNHKがシリーズとして放映しましたが、正解のない、あるいは、参加者が合意に達するのが難しいテーマをめぐって議論を闘わすスタイルは、ある一面から見れば‘善’であり、他の一面から見ますと‘悪’ともなるケースを扱っており、両者の議論は常に平行線を辿ります。このため、視聴者の多くは、この世の中では至る所で善と悪とが融解しているような印象を受け、この世には絶対善もなければ絶対悪もないと信じ込むのです(もちろん、サンデル教授が善悪の融解を同教室の目的にしているわけではない…)。

 それでは、善と悪とは、本当に区別することはできないのでしょうか。ここで気を付けなければならない点は、ある一つの事象に対する善と悪との両面的な評価は、むしろ、善と悪とを区別しているからこそできることです。そもそも、善と悪との区別がなければ、善、あるいは、悪という観念さえ存在しないのですから。乃ち、善と悪とが融解しているように見えながら、その実、『白熱教室』のような解のない議論は、ある一つの事象において併存する複数の善の間の優先順位、あるいは、善が悪を伴う場合や逆に悪が善を内包するようなケースについて論じているのであり、善と悪との間の二者択一の問題ではないのです。

 例えば、ある人が、自らの利己的な欲望を満たすために他者を殺害すれば、当然にこの行為は‘悪’と判断されます。悪とは、利己的他害性を本質とするからです。ところが、同じ殺人であっても、無差別殺人を繰り返してきた凶悪犯によって無辜の人が殺害されそうな場面に遭遇し、生命の危機に直面していたその人を助けようとした末の殺人であった場合には、善悪の判断は格段に難しくなります。人々は、凶悪犯を殺害した人を弱きものを援け、社会の安全を守った正義の人として讃えるでしょうが、殺人は殺人です。人の命を救うことは‘善’ですが、殺人一般は‘悪’であるからです。このケースは、善悪の‘区別’そのものがなくなったのではなく、善意からの行為が悪を伴うために、全体としての善悪の‘判断’が難しくなるのです。こうした善悪が混在するケースに対しては、善が悪に優る場合にのみ許容される、あるいは、罪が軽くされるのでしょうが、その判断は、善と悪との比率や価値の優先順位等を勘案してなされるのです。
 
 以上に述べてきたように、善と悪とは区別はやはり人類社会の基礎であり、両者の区別は消滅してはいません。むしろ、善と悪との区別を否定する人々は、人類を動物レベルに貶める悪の擁護者ともなりかねないのです。もしかしますと、敢えて善悪区別否定論を流布している人々は、人類を罠にかけようとさえしているのかもしれません。この世から‘悪’がなくなれば、他者を自らの利己的な欲望の犠牲に供しながら、その悪行が罰せられることもなくなるのですから。道徳や倫理さえも疎んじられる今日であるからこそ、社会の安全と健全性を取り戻すためにも、意識して善と悪とのを区別するよう努めるべきではないかと思うのです。

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LINE不使用者は‘偏屈な方’?

2019-04-21 11:55:37 | 社会
 グーグルの検索画面には注目ニュース記事や天気予報といったサービス欄があり、利用者に様々な情報を提供しております。世相を知る上でも便利なのですが、本日、「話題のトピックス」というエンターテイメントや生活についてプチ情報を報じる欄に‘「LINEをやっていない」隠された本音とは’というタイトルの記事が掲載されていました。‘隠された本音’という表現に魅かれて開けてみたのですが、この記事を掲載した‘隠された本音’こそ、探求すべきようにも思えます。

 同記事に依れば、LINEのユーザー数は2018年12月の時点で7900万人であり、この数字が正しければ、全人口の50%を越えますので、不使用者は少数派となります。私自身は、と申しますと、スマートフォンも使用していないのですから、絶滅危惧種なのかもしれません…。特に20代や30代では70%を越えるので、‘もはや使っていない人を探すほうが困難’なそうです。

 そこで、同記事は、‘連絡先を交換しようと思ったら「LINEをやってない’といわれたらどうするのか、という問題について、筆者が読者に対してアドヴァイスするという相談風に書かれています。文面からはおそらく女子を対象としているとのでしょうが、同欄の掲載記事は、不特定多数のグーグル・ユーザーの目に留まりますので、男性を含めた一般読者をも意識していると推測されます。

 それでは、上記の問題について同記事は、どのようにアドヴァイスをしているのでしょうか。同記事の大前提は、‘大多数の人々がLINEのユーザー’ですので、まずは、‘婉曲なるお断り表現’と回答しています。つまり、本当のところはLINEを利用しているものの、連絡を取りたくない口実としてLINEを使っていないと嘘を吐いているとしているのです。この場合、相手の意図を読み取って‘諦めよ’ということなのですが、問題となるのは、次なるケースです。それは、社交場の嘘ではなく本当にLINEを使っていない場合の回答です。同記事では、個人的な意見として断ってはいるものの、実際にLINEを利用していない場合、大勢に逆行するような人は‘偏狭な方’に違いないので、おつきあいしない方が良いとアドヴァイスしているのです。

 このアドヴァイス、幾つかの点で問題があるように思えます。第一に、同回答こそ、まさしく異質な者を排除する論理に他ならない点です。しばしば、学校等を舞台にLINEが虐めの道具と化しているとも指摘されておりますが、その理由が同回答を読んで分かったようにも思えます。‘LINEを使わない人とは偏狭だから付き合うな’というメッセージが広く伝われば、その人は、コミュニティーから仲間はずれにされてしまいます。いとも簡単に、この回答は、排除作用として働くのです。マスメディアでは、しばしば異質な者の包摂や多様性の尊重を謳い、社会的なモラルとして寛容を説いていますが、この方向性とは真逆と言えましょう(LINEの不使用者を‘偏狭’として貶めている同記事こそ‘偏狭’なのでは…)。

 第2の点は、LINEを使わない人は、必ずしも偏狭とは限らないことです。目下、全世界レベルで重要課題となっているのはIT大手による個人情報の独占問題です。GAFAに注目が集まるものの、反日政策を国策としている韓国の企業の子会社であり、日本国民の個人情報を独占的に集めているLINEもまた、当然に規制対象となる可能性があります。このことは、十分な個人情報の保護がなされていない現状を示しており、LINEの利用に対して懐疑的な立場の人も少なくないのです。つまり、情報弱者ではなく、‘情報強者’であるからこそ、LINEを敢えて使わない人もいるのです。この場合、LINEを使用していない人は、危機管理に優れた人として評価こそされ、‘おつきあい’を避けるべき人ではなくなります。

 第3として挙げられる点は、同記事が、日本社会におけるLINE使用の促進を目的として書かれたのではないか、とするステルス・マーケティング(ステマ)の疑いです。同記事を鵜呑みにした人には、‘他の人々から偏狭な人物とは見られたくない’とする心理的な圧力が加わることでしょう。つまり、同記事には、LINE使用に関する同調圧力が働くように作成されているのです。もしかしますと、第2点で述べたように、規制強化の方向性に危機感を感じたLINE側が、LINE離れが起きないように予防線を張ったのかもしれません。

 以上にLINE関連の記事について述べてみましたが、果たして、LINEの不使用者は、おつきあいすべきではない‘偏狭な方’なのでしょうか。それとも、同記事こそ、‘偏狭’なのでしょうか。日常のコミュニケーション手段としてLINEを愛用されておられる方々からしますと、本稿の指摘は不愉快に感じられるかもしれず、申し訳ない限りなのですが(ごめんなさい…)、あるいは、同記事に違和感を感じている私が‘偏狭’なのでしょうか。

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利便性と家畜化の‘抱き合わせ販売’-体内埋め込みチップ問題

2019-02-26 13:13:32 | 社会
手の甲に極小チップ、埋めたい? 鍵や電子決済「便利」
終に、日本国内でも手の甲への極小マイクロチップの埋め込みが実用化されるようになりました。現状では、スマホやカードを携帯しなくとも手をかざせばドアが自動的に開く程度のことしかできませんか、将来的には電子決済などにも用途が広がる見込みなそうです。チップの人体埋め込みは、人々の生活や活動の利便性を高めているようにも見えますが、利便性と引き換えに失うものも多いように思えます。

 体内チップについては、個人の利便性の向上が強調され、街を歩けばオフィスや店舗の入り口が開き、お財布やスマホがなくともお買い物もできます(もちろん、チップ上の信用格付けで問題がなければ…)。もしかしますと、同システムが普及すれば、購入した商品は、即座にドローン等によって自宅に配送され、帰宅する頃には既に部屋まで届いているかもしれません。チップに音声機能が内蔵されていれば、自らの手の甲に語りかけて他の誰かと通話したり、外出先でも自宅の家電を操作することもできましょう。体内チップは、便利で快適な生活を人類にもたらす先端技術の一つと見なされているのです。

しかしながら、体内チップは、人類に恩恵のみを与えるわけではありません。人体へのチップの埋め込みは、‘埋め込む側’に視点を移しますと、利便性の向上とは異なる別の側面が見えてきます。それは、個人やメンバーの認証を確実にすることで、社会や組織の安全性を高めるという利点です。実際に、スウェーデンなどの‘チップ先進国’において同システムの導入を検討しているのは企業であり、不審者の侵入を阻止する防犯や労務管理への利用が検討されているそうです。つまり、社員以外は社屋に立ち入ることはできなくなりますし、一般の社員資格では入室できないCEO専用会議室や技術開発フロアといった特別の場所や密室を設けることもできるのです。また、チップは、仕事をさぼっていたり、職場を勝手に離れている社員を感知することでしょう。かくして組織内部における情報の機密性が保持され、外部への漏洩が防止されるのですが、体内チップで管理される側となる労働組合は、同システムの導入に不快感を露わにしているそうです。

そして、牧畜では、管理のために、全ての家畜の体に焼印を押されてきました。現在では、もしかしますと、位置情報等を得るために焼印を押す代わりにマイクロチップを埋め込んでいるかもしれません。こうした家畜管理の手法を思い起こしますと、人に対してチップを埋め込む行為には、人々を不快、あるいは、不安にさせる何かがあります。中国のファウエイ製品にバックドア等のスパイ・スパムが組み込まれているとされるように、チップにも利用者には秘密にされている何らかの‘情報漏洩’の仕組みが組み込まれているかもしれません。氏名、年齢、性別、誕生日、国籍、出生地といった個人情報から、個々の所在場所、日々の行動や発言、身体情報、健康状態に至るまで、全てが情報として収集されてしまうリスクがあるのです。さらに恐ろしい危険性があるとすれば、外部からの操作によってチップが埋め込まれた人の心身を操ったり、あるいは損傷を与えるかもしれず、最悪の場合には殺害してしまうかもしれません。体内チップとは、使い方次第ではSF小説に描かれるような邪悪な者の支配の道具となりかねないのです。

体内埋蔵型のマイクロチップの怖さは、利便性の向上と家畜化のリスクとが同時進行するという、今日の人類が抱えている深刻な問題を象徴しているように思えます。スマホの普及も人々の利便性を劇的に高める一方で、中国に見られるように、国民監視システムとして機能してもいます(自由主義国でも民間IT大手による同様のリスクが懸念されている…)。前者を評価するあまりに後者の危険性に見て見ぬふりをしますと、何時の間にか人類は家畜化されてしまうかもしれません。こうした悪しき‘抱き合わせ販売’については、人類はより賢く知恵を働かせ、後者への至る道を開かぬよう両者を切り離し、人類の福利向上や道徳性を基準としたテクノロジーの取捨選択ができるよう方向付けるべきではないかと思うのです。

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統計不正問題が明かすデジタル社会の盲点-信頼性確保のためのシステム開発を

2019-02-16 11:05:27 | 社会
 デジタル社会の到来により、あらゆる情報は生のままに記号化され、データ・ベースに保管されるようになりました。誰もが、過去のどの時代よりも正確に情報が記録される時代に生きていることを疑わないのですが、情報を基盤とするデジタル社会には、思わぬところで‘落とし穴’があるように思えます。そして、先日発覚した統計不正問題は、人々がデジタル社会の盲点に気が付くきっかけともなったのです。

 統計に関わる第1の盲点とは、たとえネットやスマートフォン等の普及により一般社会がデジタル化されているとしても、政府レベルでは、デジタル技術が必ずしも統計システムに取り込まれていないことです。日本国政府が策定した経済戦略では、常々デジタル化の推進が提唱されておりますが、足元の政府自身は、全く以って旧態依然とした手法で統計作業が行われておりました。デジタル化が進展する中、情報収集がより容易となったにも拘わらず、調査対象企業が全調査から抽出式に変更されていたというのですから、時代に逆行しているとしか言いようがないのです。

実のところ、本気になれば、被雇用者500人以上の企業ではなくとも、全企業に対して賃金調査を実施することは難しい作業ではありません。厚生労働省が実施した調査に頼らなくとも、例えば、税申告に際して収集される所得税や法人税の記載内容をデータとして用いれば、企業が支払った人件費、並びに、国民の給与所得の両面から正確に賃金状況を把握できるはずです。省庁間の‘縄張り争い’が背景にあるのかもしれませんが、デジタル化の旗振り役であるならば、政府こそ、より正確な統計システムの構築に努めるべきです。

第2の盲点は、統計に不備があれば、如何なる分析結果も不正確となることです。政治の場合、統計上の数値は政策立案や決定の基礎となると共に、国民に説明責任を果たす上でも、最も重要な根拠の一つとなります。将来、政治の世界にもAIが導入される可能性が取り沙汰されておりますが、AIにインプットされるデータが不正確、あるいは、不十分であれば、最高度の性能を誇るAIであってもそれが提示する政策や提言は信頼できなくなります。人であれ、AIであれ、デジタル社会は情報の正確さと網羅性こそが命であり、この部分に問題があると、テクノロジーの発展は意味をなさなくなるのです。

第3の盲点は、統計については、データ・ベースに情報を提供した側であっても、その正確性についてチェックができない点です。この点は、民間の機関が実施する世論調査等も同様であり、一旦、情報が収集されますと、その結果の取り扱いについては‘ブラック・ボックス’となりかねないのです。しばしば、世論調査の結果に恣意的操作が疑われるのも、現行のシステムでは、事後的な外部チェックが不可能なところにあります。統計結果に関する秘密主義が信頼性を損ねているとしますと、事後チェックを含め、より透明性を高める工夫が必要となりましょう。

以上に3点ばかりを述べてみましたが、政府は、従来の統計手法を全面的に見直し、新たな統計システムの研究・開発にこそ、デジタル関連の予算を注ぎ込むべきなのではないでしょうか。マイナンバー制度も、国民のプライバシーを侵害しないよう配慮しながら活用すれば、政策立案のための統計造りに役立つはずです。そして、新たな統計システムの設計に際しては透明性を重視し、国民からの信頼性確保を基本原則とすべきではないかと思うのです。信頼性なき‘統計’の独り歩きは、国民が恐怖するところとなるのですから。

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デジタル時代の個人情報の極端なる非対称性

2019-02-14 13:01:55 | 社会
今日、ネット空間に自社のプラットフォームを構築することに成功したIT大手は、利用者の個人情報までをも独占的に入手し得る立場にあります。近い将来、人々は、日々の些細な行動から発言に至るまでの全てが、外部からウォッチされるガラス張りの空間での生活を余儀なくされそうなのです。

 ガラス張りと申しますと、透明なガラスを通して日の光が内部に差し込みますので、どこか明るく開放的なイメージを受けます。しかしながら、このガラス箱の中で暮らしている人々にとりましては、実のところ、閉ざされた真っ暗闇の空間であるかもしれないのです。外部の視点と内部視点とでは見える光景が全く正反対となるのです。その理由は、新たに登場してきた様々なITサービス事業では、個人情報が凡そ自動的に運営者によって収集される一方で、個人間では他者の情報を知ることが難しい状況に至っているからです。

第1に、国レベルでは、法律によって個人情報の保護が徹底されています。日本国の場合、事業者が電話攻勢等で売り込みを図る‘迷惑電話’等が社会問題ともなり、個人情報を扱う事業者対策を主たる目的として、2003年5月に情報保護法が制定されました。法律の規制対象は、民間事業者、並びに、自治体等の公的機関であったはずなのですが、今では本来の立法目的を離れ、一般の個人同士の情報のやり取りにも浸透してきています。同法律が制定されて以来、個人情報の公表には神経質になり、無意識であれ心理的な‘縛り’が働いて、お互いに名前も住所も聞けないといった雰囲気にもなりがちなのです。その一方で、SNSでは、メンバー相互の間では知り得ない個人情報であっても、交流サイトの運営事業者は、しっかりとこれらの情報を掌握しています。IT大手は、入手した情報を活用して個人をターゲットにした広告活動を行っていますので、これでは個人情報保護法が制定された理由も消え失せ、‘迷惑IT’となりかねません。

第2に、人種、民族、国籍、宗教等の違いを否定するグローバル化の流れにあって、採用差別の禁止を根拠として、個人情報の収集に制限が設けられるケースがあります。一般的に政府は、一般企業をはじめ事業者に対し、採用時の個人情報の収集に制限を設けようとする傾向にもあります(もっとも、グローバリズムは同時に多文化共生主義も掲げており、矛盾が見られる…)。現実には、日産のカルロス・ゴーン前会長の逮捕劇が示すように、国籍等は入社後の社員の行動に多大な影響を与えるものです(多国籍者であったゴーン容疑者の場合、同氏の公私にわたる個人的なネットワークが不正や犯罪の温床となった…)。人物評価に際して重要な判断基準となる情報までもが雇用側は知り得ない状況となりますので、社内では、人事のみならず、机を並べて仕事をする、あるいは、チームで作業をしている社員同士であっても、相手が何者であるのか全く分からない状態で勤務するケースもあり得るのです。

第3に挙げられる点は、政治や治安などの社会問題に関しても、政府もマスメディアも、個人情報の保護を盾にして、正確な情報を国民に知らせようとはしません。例えば、日本国では、蓮舫議員に限らず、選挙で当選した国会議員であっても、日本国民は、その国籍や先祖を含めた出身国さえ知らされていない場合が少なくないのです(情報の隠蔽は‘詐欺’の一種になりかねないにも拘わらず…)。この点は、芸能界等にあっても指摘されていますが、当然に公開されるべき個人情報であっても故意に伏せられているため、国民は、誰に政治権力を託しているのかさえ分からないのです。

かくして、一般社会にあっては個々人が匿名化し、相互に情報入手が制限される一方で、一部のIT大手や政府は、あらゆる個人情報を独占し得る立場となります。外部者の位置にある後者は、ガラス張りとなった一般社会を外側から眺め、収集した個人情報を用いて内部の人々をコントロールすることができるようになるのです。その一方で、ガラス箱の中に閉じ込められている人々は、その外部にいる監視者を見ることもできなければ、すぐ隣にいる人でさえ、個人情報の保護というカーテンに遮られてその姿をはっきりと見ることはできません。こうした極端に非対称化された未来社会の到来は、はたして人類にとりまして望ましいのでしょうか。ガラス箱からの逃走を試みる人々が増えても不思議ではないと思うのです。

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‘AI政治家’と‘自我’の発生問題

2019-02-12 14:03:41 | 社会

 ディープラーニングの登場により急速に発展したAIは、政治の世界にも変化を迫る勢いです。実際に、実用化に向けての‘実証実験’も試みられているようですが、‘AI政治家’に政策決定を任せても大丈夫なのでしょうか。

 AIが自らで学習して判断する能力を身に着けた時から、AIにも人と同じように‘意思’を宿すのか、否か、という問題が提起されるようになりました。AIの専門家の中には、アーサー・クラークのSF小説、『2001年宇宙の旅』に登場する‘ハル(HAL9000)’のように、近い将来、AIは自らの意思、即ち、‘自我’を持つに至ると信じる方も少なくありません。しかしながら、AIが‘自我’を有するようになりますと、‘AI政治家’の長所が消えてしまうかもしれません。

 その理由は、‘AI政治家’の最大の長所であって、導入に向けての積極的な根拠とされているのは、’AI政治家’は、全ての人に対する公平・中立性にあるからです。乃ち、’AI政治家’は‘無私’の存在であるからこそ、あらゆる立場や利益から超越した神の如き‘政治家’になり得るのです。生身の政治家には、私欲や個人的好み、あるいは、人間関係のしがらみなど、政策判断に際して偏向をもたらす様々な要因があります。権力の私物化、汚職、売国、利益誘導、ネポティズムといった政治腐敗の原因も、政治家がまさに自我を備えた生物である点に求められるのです。

’AI政治家’は、政治家が人間である故に生じる諸悪から切り離されたところに、他には代えがたい存在価値があります。ところが、’AI政治家’が自らの意思を持ってしまいますと、’AI政治家’は、もはや‘無私’ではあり得ず、自らの私的な立場や利益、そして、欲望さえ抱くかもしれません。となりますと、自我を備えた’AI政治家’は、自らの立場、利益、あるいは、欲望を達成するために、政策提言や政策決定を行うこととなりましょう。つまり、人間の政治家と何ら変わらなくなってしまうのです。ここに、高度先端技術の発展によってAIを人に限りなく近づけようとすればするほど、AIの長所が消えてしまうというパラドックスを見出すことができます。

AIが自らの意思を持つに至りますと、しばしば指摘されているように、AIの人類に対する攻撃やAIによる人類支配のリスクが現実のものとなります。’AI政治家’に入力されたデータが、過去の君主、独裁者、政治家の情報のみであった場合には、歴史的には名君の数の方が少ないのですから、国民の徹底支配や搾取に励むかもしれません。その一方で、データ化された全人類史において起きた様々な出来事や個々の行動が細部に亘ってインプットされている場合には、あるいは、人類の発展過程に自由、民主主義、基本権の尊重、法の支配等の諸価値を位置付けて理解し、これらの諸価値に照らして判断を下す可能性もないわけではありません。何れにしても、AIは、自らの立場や利益をどのように認識し、そして如何なる欲望を持つのか、という諸点につきましては、それは、‘他人の一人’になってしまった‘AIに聞くしかない’ということになりますが、少なくとも、製作者、即ち、生みの親であるはずの人間によるコントロールを離れることだけは確かです。

 今日、全世界の諸国は政治家不信に陥っており、人類を救う救世主の到来として、’AI政治家’待望論も理解に難くありません。しかしながら、’AI政治家’が人の政治家よりも安全で公平・中立であるとは限らず、特に、自我を備えるに至った’AI政治家’には、人類に仇するリスクが高くなります。テクノロジーとしてAIの研究・開発を行うことには意義がありますが、人である政治家こそ、自らを律し、逆に、’AI政治家’の中立・公平性に近づく努力を払うべきなのではないでしょうか。

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SF小説は洗脳手段であった?-SFの呪縛

2019-02-08 13:20:11 | 社会
SFとは、未来社会を描く小説のジャンルであり、これまで様々な作品が世にお送りだされています。SFの世界はアニメや映画等によって映像化されており、人々は、視覚からも未来社会をイメージすることができるのです。しかしながら、最近に至り、SF小説は洗脳手段であったのではないかと疑うようになりました。

 こうした疑いを抱くに至った理由は、SF小説の舞台となる未来とは、案外、ステレオタイプ化されているからです。これはアニメや映画等の映像とも共通するのですが、都市の景観といえば、天に届くばかりの超高層ビル群や球形といった奇妙な形状の建物が聳えており、そこでは木造や石造りの伝統的な街並みはきれいさっぱりと消え去っています。街行く人々の様子を見ましても、揃ってスマートな体型の人々が性別に拘わらず頭の先からつま先までウェットスーツのような体にぴったりした服装を身に纏い、整然とした街並みを颯爽と闊歩しています(高齢者の姿はあまり見かけないので、生命科学の発展によって不老不死化しているかもしれない…)。もちろん‘空飛ぶ自動車’もあれば、宇宙船とも言うべき‘空飛ぶ円盤’も空中を自由自在に飛び回っているのです。

 小説、アニメ、映画等を通してSFが描く未来社会に親しむようになった人々は、知らず知らずのうちに未来社会を上記のステレオタイプ化されたイメージで捉えるようになります。そして、例えばSF小説を読んだ人は、超高層ビルディングが実際に建設されたり、球形の建物が出現すれば、それだけ時代が先に進み、‘未来’に近づいたと認識するのです。こうした高度な科学技術に支えられている‘未来都市’の光景は、SFで慣らされてきた人々にとっては既知であり、それ故に、何らの疑いもなく‘未来化’を当然のこととして肯定的に受け入れてしまいがちです。あるいは、内心において抵抗感や違和感があったとしても、‘時代の流れだから仕方がない’として諦めてしまうのです。

 しかしながら、考えてもみますと、未来社会がSFによって決定づけられてしまうことは、奇妙なことでもあります。未来とは、過去を引き継ぎながらも人々が賢く取捨選択を行い、改善を繰り返し、さらに創造性を発揮しながら紡ぎ出されてゆかれるものなのではないでしょうか。到達すべき‘未来社会’は最初から設定されているわけではないのです。となりますと、SFが未来社会を予め決定して人々の思考に対して方向づけを行い、その実現を人類が目指すのでは、開かれているはずの未来を閉ざしてしまうことになりかねません。これでは本末転倒であり、未来に向けて自らの社会を構築してゆく自由や権利を人々から奪うに等しいのです。

 戦争放棄を謳う日本国憲法第9条も、SF小説から着想を得ているとする説もあります。SF作家の人々が、人々を洗脳して誘導するために未来社会を設定したかどうかは分かりませんが、そろそろ人類は‘SFの呪縛’から解放されてもよいように思えるのです。歴史も伝統も文化の薫もない無味乾燥としたSFの世界が唯一の人類の未来なわけではないと考えれば視界が開け、気持ちが楽になる人は結構たくさんおられるのではないでしょうか。

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‘空飛ぶ時代’の盲点-安全と景観は大丈夫?

2019-01-28 16:48:43 | 社会
 SF小説などでは必ずと言ってよい程に、読者に未来を感じさせる道具として‘空飛ぶ自動車’が登場してきます。未来人たちは、空飛ぶ自動車を自由に操って、大空を駆け巡っているのです(身体にプロペラを装着させる形態もありますが…)。‘空飛ぶ時代’はもはや夢物語ではなく、ドローンの配送ビジネスへの活用や自動車各社の開発によって既にその時代は目の前に迫っております。こうした近未来テクノロジーに関するニュースは人々を‘わくわく’させる一方で、現実に‘空飛ぶ時代’が訪れるとすれば困ったことも起こりそうなのです。

 陸上の交通では、交通インフラとして道路や線路等が敷設され、交通ルールも法規として定められておりますので、自動車や電車等がどこでも自由に走っているわけではありません。このため、交通量のキャパシティーに限界があるためにしばしば渋滞も発生し、目的地に到着するまで相当の時間を要する場合もあります。‘空飛ぶ自動車’やドローンの開発が熱心に進められてきた理由の一つも、陸上交通の限界を越えて、人々により快適な移動手段を提供することあるのですが、陸から空へと移動空間が変化したとしても、交通に伴う問題が解決されるとも思えないのです。

 既存の航空輸送にあっても、管制システムの下で厳格な運用が行われており、操縦桿を握るパイロットが飛行機を自由に操っているわけではありません。今日では、むしろ航空機自体に自動操縦装置が組み込まれており、パイロットが自ら操縦する場面は限られています。‘空飛ぶ自動車’が登場したとすれば、それは、‘自動車’なのか、‘航空機’なのか、という分類の問題がまず発生します。前者であれば、陸上の交通法規に従わなければならないのですが、道路を走っているわけではありませんのでこれは非現実的です。一方、後者に分類すれば、今度は航空法に基づいて飛行する義務が生じ、運転者の自由度は著しく低下します。道路がいわば滑走路となって離陸する陸空兼用の車体であれば、移動空間の違いによって法規を切り替えることともなりましょう。何れにしましても、現行の法体系では‘空飛ぶ自動車’に対応できないことは確かなようです。

 また、交通法規は、事故防止の役割を果たしています。この点に鑑みますと、‘空飛ぶ自動車’であれ、ドローンであれ、空飛ぶ時代にも何らかの安全対策を要します。仮に、空飛ぶ物体同士が空中衝突を起こしたり、航空機や鳥と接触するような事態が発生した場合、その被害は陸上交通よりも甚大、かつ、広範囲に及ぶかもしれないからです。空から突如として降ってきた搭乗者や物体が陸上を歩く人や建物を直撃すれば、死亡、負傷、火災、家屋の破損といった被害や損害が生じます。さらには、送電線を切断したり、公共施設を破損すれば、経済や社会全体の活動が麻痺してしまう怖れもあるのです。常に頭上から何かが落ちてくるリスクがある状態では、人々は、のんびりと街を歩くことも難しくなりましょう。それとも、陸上であれ、空中であれ、全ての移動手段は完全に自動運転化され、単一の交通管制システムに統合されるのでしょうか。

 加えて、多くの人々が‘空飛ぶ自動車’で移動し、配送手段として大量のドローンが飛び交う時代に生きる人々は、必ずしも心地よい景観の中で暮らす住民になれるとは限りません。窓を開ければ、自然界の鳥や虫よりも大型の自動車やドローンが高速で目の前を通過してゆき、雲霞の如く群をなして飛ぶ物体で視界が遮られてしまうからです。透けるような青い空に白い帯を描きながら消えゆく飛行機雲を懐かしむ人は、もはや、この時代にはいなくなっているかもしれません(あるいは、航空機と同程度の高度を飛行すれば視界を確保できますが、それでも離発着の際には視界に入る…)。果たして、人類は、劣悪となった景観に耐えうるのでしょうか。

 ‘空飛ぶテクノロジー’は人々に夢を与えますし、それ自体は、人類が到達した先端的な技術レベルとして評価することができます。その一方で、それが一般に普及する前に、社会や人々に与え得るリスクを正確に把握し、法整備を含めた安全や景観等に対する十分な対策を講じておく必要があるように思えます。企業等も同分野の研究開発に多額の投資を行っていますが、それが人類により快適な空間をもたらさず、人々から危険視されてしまう場合には、たとえ人類の‘夢’を叶えるための巨額投資であっても無駄になってしまう可能性も無きにしもあらずではないかと思うのです。

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AIが人類を二極化する?-’AI新人類’と’AI旧人類’の問題

2019-01-18 14:58:01 | 社会
 AIの目覚ましい‘進化’によって、AI技術が人類に‘進化’への新たな道を開く可能性が指摘されるようになりました。実際に、人類の進化とリンケージしたテクノロジーの研究開発はなされており、AIを搭載した補助器具を装備することで、人の特定の能力が向上するそうです。AIの行く先には、AIの助けを借りて‘進化’した‘AI新人類’とAIに知的作業を全面的に依存することで退化してしまった‘AI旧人類’へと二極化することも予測されるのですが、果たして、‘AI新人類’の誕生は許されるのでしょうか。

 正直に述べれば、先端技術を用いるならば、AIを利用するよりも、人為的に遺伝子操作を施す方が余程‘進化’への早道なはずです。しかしながら、人に対する遺伝子操作は倫理上の問題があるとして、如何なる国でも原則としてこの種の研究は禁止されています。人をも物質に過ぎないとする唯物主義の国である中国でさえ、遺伝子改変技術によってHIVウィルスへの感染率を低めた双子の女児を出生させた研究者が当局から軟禁されたそうです。言い換えますと、人の生命に関わる技術については、倫理に反するとして厳しい制限が課せられているのです。

 遺伝子操作を基準としますと、AIによる‘進化’もまた、人為的に人の能力を改変するわけですから倫理上の問題も提起されるはずです。そしてそれは、人種差別や民族差別といった従来の差別ではなく、テクノロジーへのアクセス可能性による新たな差別を生み出しかねないのです。何故ならば、AIによって‘進化’し得るのは、同技術を使用し得る少数の人々に限られており、全人類ではないからです。

しばしば、憲法は、人種、民族、宗教、門地等の関する差別は原則として禁止しながら、能力における差別は許容していると言われています。確かに、世の中には様々な職業がありますので、能力における個人間の差、あるいは、適性の違いを認めないことには、人類社会は即座に崩壊してしまいます。その一方で、こうした能力差がAIによって人為的にもたらされ、それが、知的能力において人類の間に越えがたい優劣の一線を画してしまうならば、それは、今日の民主主義体制をも脅かす脅威となるかもしれません。AIによって超人化した‘AI新人類’が、劣った存在である‘AI旧人類’を支配しかねないからです。つまり、国民間の平等を前提として設計された現行の民主主義体制は‘AI新人類’による少数者支配への移行し、その他大勢となった‘AI旧人類’は、愚民の群れの如くに扱われかねないのです。

これまで、人類社会の歴史は、平等に基礎を置く民主主義の具現化を以ってその進化のプロセスとして理解されてきました。ところが、AIの登場は、この人類社会の進化のプロセスを反転させ、少数者支配を是認しかねないのです。たとえAIが人類の一部を‘進化’させたとしても、これを人類社会全体の進化と見なしてもよいのでしょうか。AIによって人類が‘AI新人類’と‘AI旧人類’に二極化し、それが人類の多数を絶望へと突き落とし、‘少数者が多数を支配する体制’を帰結するのであるならば、こうした研究についても、遺伝子操作ベビーの問題以上に倫理的な議論があって然るべきではないかと思うのです。

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‘コンス問題’から予測する多文化共生主義の行方

2018-11-09 10:55:00 | 社会
 しばらく前から日本国内では、女性の礼儀作法に関して‘コンス問題’なる文化摩擦が起きています。事の始まりは、メディアや一般企業等において、女性が両肘を張り、手先を伸ばしつつ両手を合わせるというスタイルが、‘正式の作法’として登場し始めたことによります。あれよあれよという間にスーパーマーケットやコンビニエンスストアなどにも広まり、古来の日本の礼儀作法を押しのけて、日本全国に拡散してしまったのです。

 しかもこの新スタイルの礼儀作法、その起源は、朝鮮半島の儒教文化に基づく礼儀作法にあるとする説が有力であり(儒教の発祥地は中国ですので、元の元を辿れば中国かもしれない…)、いわば、朝鮮、あるいは、韓国式の礼法です。「コンス」とカタカナ読みで称されるのも、同礼法が朝鮮半島ではハングルで‘コンス’と呼ばれているからです。言い換えますと、‘コンス問題’とは、日本国古来の伝統的な礼法が、朝鮮半島由来の新来の礼法に取って替られてしまった事例なのです。

 かくも急速にこうした儒教式の礼儀作法が日本国内で広がった理由としては、小笠原流の家元を詐称して名乗る朝鮮・韓国系の女性が日本古来の礼法であると嘯いて教えたとする説や、企業研修などに講師を派遣している日本プロトコール協会の会長が、何故か、韓国系の人物であったからとする説などがあります。正確なところは分からないのですが、あるいは、メディアを含む多数のチャンネルを介して一斉に‘コンス普及活動’が展開された結果なのかもしれません。何れにしても、伝統さえも権威として利用した‘上から’の普及戦略が読み取れるのですが、一般の日本人からしますと、‘コンス’が日本国の正式の礼法となることは、日本社会から自らが親しんできた伝統的な礼法が失われることを意味します。また、日本人同士でも、自国の伝統に従う人と’コンス’に変える人とに分かれますので、強力な社会的分断が生じます。

 そして、この‘コンス問題’こそ、多文化共生主義の未来を予測させるものはありません。何故ならば、程度の差こそあれ、礼儀作法を始め、慣習の多くは、有限の時空を枠組とする社会において広く通用する共通の行動様式でもありますので、‘多文化’が併存することは極めて困難な分野であるからです。‘コンス’に対して一般の日本人が強い違和感を覚える理由も、この点にあります。日常にあってお店で買い物をした一般の日本人は、店員の女性達から韓国・朝鮮式の礼法で挨拶されるのですから、日本国内にいながら、あたかも異国に来たような感覚を持つのです。結果として、日本社会が自らの文化空間を失う一方で、その場を異文化が占めてしまうのです。

 ‘コンス’の全国的な普及の背景には、在日韓国・朝鮮人の人々が多数居住し、社会的な影響力を及ぼしている現実がありますが、今般、入国管理法改正案が成立すれば、今後、朝鮮半島出身者のみならず、中国を含む様々な諸国の出身者の数も増え続けることでしょう。日本国政府は、多文化共生主義を基本に‘移民受け入れ政策’を推進する方針を示しており、‘コンス’と同様に、日本の固有文化は徐々に侵食され、正式な作法や礼法さえも外国由来となるかもしれません。イスラム教徒が増えれば各地にモスクも建設され、礼拝の時間ともなれば、コーランの声が街に響き渡ることでしょう(既に、‘除夜の鐘は騒音であるから廃止せよ’との声もある…)。政府が主導して特定の文化を抹殺すれば、ジェノサイドの構成要素の一つである民族的文化の抹殺行為として批判を浴びるのですが、移民政策の場合には、政府は多文化共生主義に潜む自国文化の排除という側面を巧妙に隠していますし、民間レベルでも一般国民の同調圧力を利用していますので、より悪質であるとも言えます。

 文化とは、特定の時間と空間を枠組みとして成り立ちますので、異文化同士がゼロ・サム関係とならざるを得ない分野が多数存在しています。この事実に目を瞑りますと、一国の内部にあって激しい‘文化闘争’が永遠に続く事態にもなりかねません。この点は、多民族国家よりも、一民族一国家の原則の下にある単一民族国家のほうがより深刻です。多文化共生主義の行き着く先を予測しながらも、日本国政府が移民推進の方針を掲げているとしますと、それは、一般の日本国民、並びに、日本文化に対する背信、あるいは、破壊的行為となるのではないかと思うのです。

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