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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

第三次世界大戦計画は存在するのか

2024年04月30日 14時38分47秒 | 国際政治
 ‘陰謀論’という陰謀説封じの作戦は、一般の人々の合理的な思考に基づく疑問を口にさせないところにその目的があります。即ち、理性をもってすれば誰もが疑問を抱かざるを得ない出来事であっても、それを‘理性のある人であればそのような疑問を抱くはずはない’とする方向に、世論を強引に引っ張って行こうとするのです。いわば、‘理性’を逆手に取った高等戦術とも言えましょう。周囲から‘愚か者’と見なされるぐらいならば、疑問を心の中に無理矢理にでも閉じ込めて沈黙してしまうのです。

 もっとも、陰謀論作戦の目的は事実隠しにありますので、同作戦の網に絡め取られますと、何時まで経っても事実には行き着かないことになります。それでも実害がなければ、人々は事実を知らないことに対して然して不都合を感じることはないのでしょうが、得てして人とは、他者に害を与えることを知りつつも、自らにとっては利益となるからこそ、隠蔽を欲する傾向にあります。ホワイトライにも通じる利他的な動機による場合もないわけではないものの(‘知らない方が本人のためになる’として、一方的に情報を与えないような場合・・・)、陰謀論作戦の目的は、自らの謀略、すなわち利己的他害性を本質とする自己の‘隠れた悪事‘の存在否定にありますので、陰謀論作戦を仕掛けた側に非があることは疑いようもありません。

 前置きが長くなってしまった理由は、第三次世界大戦計画に警鐘を鳴らし、そのリスクへの対応を主張する場合、常々、その行く先には‘陰謀論’が待ち構えているからです。もっとも、陰謀や謀略は、人々の目に触れないところで計画が練られ、かつ、実行されますので、その存在を証明することは極めて困難です。この秘密性こそ、陰謀の実在証明に伴う困難性の主因であると同時に、陰謀論が効果を発揮する要因ともなります。言い換えますと、秘密性故に、陰謀論は絶対的な有利性を確保することができるのです(完全犯罪の心理・・・)確かなる存在証明を求めればよいのですから。

 しかしながら、逆は必ずしも真ならず、とも申しますように、‘証明できないことは全て事実ではない’とも言えないはずです。むしろ、論理的には、‘証明できないことの中にも事実がある’が正しい命題となりましょう。犯罪事件でも、しばしば証拠不十分で検察が不起訴にしたり、裁判所で無罪判決が下されるケースは少なくありません(限りなく黒に近いグレー・・・)。こうした場合、起訴の有無や無罪判決と真偽との関係性は絶対ではないのです。

 また、陰謀の実在証明が困難なのと同様に、陰謀の不在の証明も簡単ではありません。とりわけ、極めて不自然であったり、陰謀の実在を前提としなければあり得ない行動や現象が見られた場合、これらの不審点について、合理的に説明することができないケースが多々あるからです。陰謀論を主張する人々が現れた場合、逆に、不在証明を求めるのも一つの有効な対処方法であるのかも知れません。

 それでは、第三次世界大戦計画についてはどうでしょうか。仮に、陰謀論作戦が成功し、その存在が完全に否定され、可能性を指摘することさえできないとしますと、そのリスクは甚大です(暴走するバスに同乗させられ、降りられないようなもの・・・)。過去における二度の世界大戦を遥かに上回る人的、物的被害も予測されますので、犯罪一般の比ではありません。戦争ビジネスが繁栄するのみならず、戦争の勝敗に拘わらず、世界権力による地球規模の人類支配体制が確立するかも知れませんし、また、それに失敗したときには、人類は核戦争によって滅亡の道連れにされる可能性もありましょう。

 そして、ここに、陰謀論作戦に取り込まれて陰謀説を無視するリスクと、陰謀の実在を想定して対応した場合のリスクとを、冷静に比較考慮する必要性が生じます。前者の場合には、陰謀がシナリオの通りにスムーズに進み、疑問も投げかけられませんので、第三次世界大戦は現実のものとなり、被害や損害は天文学的なものとなることが予測されます。各国の政府とも謀略の協力者ですので、国民など眼中になく、命じられた指令通りに第三次世界大戦へと突き進んでゆくことでしょう。

 その一方で、前者と比較しますと、後者の方が遥かに被害は小さくて済みます。第三次世界大戦において想定される惨事を予測すれば、ゼロではないにせよ、陰謀阻止に際して生じるリスクや損害は限定的であるからです。もっとも、政府は共謀者の立場にありますので、政府にこの役割を求めるのは困難です。そこで、第三次世界大戦を回避しようとすれば、戦争への流れをどこかで誰かが止めなければならなくなるのです。

 この役割は、それが一部であれ、国民を置いて他にないように思えます。陰謀論作戦を見抜き、戦争に反対する国民が多くなるほどに、政府は、計画通りの行動はとれなくなるからです。もっとも、陰謀論作戦を遂行する側、即ち、陰謀を企む側が、脅迫や暗殺などをもって言論を封じようとする可能性もあります。悪事は悪人によってなされるのですから、血も涙もないものと想定した方がむしろ後悔せずに済みます。こうした危険性がある場合、特に世界権力や政府の内部者や、協力を強要されている人々は、表面的には陰謀はないものとして振る舞いつつも、第三次世界大戦への誘導路線に乗らない、もしくは、騙された振りをしながら、同計画を陰ながら阻止するという方法もありましょう。なお、こうした暴力的な手段によるリスクも、国民の多くが陰謀の実在に気がつき、政府に対する視線に厳しさが増すほどに自ずと低下してゆくことでしょう。

 最近の国際情勢を観察しますと、第三次世界大戦への導火線と推測されるような事柄が相次いでいます。過去にあって、人類は二度も世界大戦に巻き込まれたのですから、今度こそ三度目の世界大戦の道から逃れるべく、知恵を絞る必要があると言えましょう。

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日本国の政策は誰が決めているのか?-公的年金改革問題

2024年04月29日 12時22分42秒 | 日本政治
 昨今、日本国内では、公的年金制度の改革案をめぐって国民から不安の声が上がっています。国民年金であれ、厚生年金であれ、公的年金制度は、国民全員の生涯設計の基礎となりますので、否が応でも関心が高まるのですが、同改革案は、今日の日本政治の問題点を明らかにする機会ともなったようです。

 マスコミから漏れ伝わるところに依りますと、今般の改革案では、(1)国民年金の納付期間を5年延長する、(2)遺族年金を廃止する、(3)在職老齢年金の支給停止額の緩和といった方向での検討が進んでいるそうです。ところが、(1)の5年延長案にしても、納付期間を40年(480ヶ月)から45年(540ヶ月)に伸ばすのか、それとも、納付終了の年齢を60歳から65歳に変更するのか、これらの何れであるのか判然としていません。前者の納付期間であれば、既に60歳以上の年齢で保険料を納め終えた人々にも、延長分の60ヶ月分の納付義務が生じ、65歳を超えても払い続けなければならなくなるかもしれません。例えば、64歳11ヶ月で改革が施行された人の場合には、さらに5年(60ヶ月)払い終えてからの支給となりますので、69歳11ヶ月においてようやく受給開始年齢に達するケースも想定されてきます。また、既に65才以下の年齢で繰り上げ受給している人々の扱いも不明ですし、逆に、65歳以降の繰り下げ受給を予定している人々も65歳を超えての納付義務が生じるならば(540ヶ月納付しなければならないため)、同制度の利用期間が縮小されてしまいます。一方、後者であれば、65歳を越えての納付期間の延長はないとしても、60歳から65歳までの人々は、不足分の一括納付を求められる可能性もありましょう。(2)につきましても、遺族年金を廃止すれば生活が成り立たなくなる高齢女性の激増が予測されます。すなわち、国民の生涯設計に深刻な影響を与えるにも拘わらず、具体的な改革については詳らかではありません。納付延長は、義務なのか任意なのか、移行措置や猶予期間が設けられるのか、否かも、一切、不明なのです。

 公的年金の改革案については、目的も明確ではありません。少子高齢化に伴う公的年金制度の破綻を防ぐため(納付期間を延長しなければ、将来の給付額は3割減となるとする脅迫的な説も・・・)、若年層の負担を軽減するため、国民年金のみの加入者の老後を安定させるため、あるいは、高齢者の就業を促進するためなどの所説が唱えられています(同改革案の如何によっては、政府負担の分増加による財政の圧迫、納付額の増額と受給期間の縮小による老後の経済状態の悪化、生活保護の増加などの‘逆効果’や深刻な’副作用’もあり得る・・・)。

 その一方で、世界最大の‘機関投資家’でもある年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の収支報告では、毎年、数兆円の収益を上げており(GPIFの収支は黒字・・・)、年金破綻説への強力な反論となっていますし(GPIFは賦課方式による積立金の不足分を補う目的で設立されている・・・)、消費税増税に際しても公約を守れば、政府負担分を増やすという方法もありましょう。財源不足という前提が崩れれば、早急な改革の必要性も自ずと低下します。若年層の負担軽減説も、高齢世代による長年の積立金が公的年金制度を支えているとする見方もできましょう。

 以上に述べてきたように、公的年金の改革案は疑問に満ちているのですが、これらの不透明性に加えて驚かされるのが、国民はおろか、同案の詳細を国会議員でさえ知らされていないという事実です。報道に依りますと、遺族年金の廃止案がSNSで拡散したことから、片山さつき議員が独自に調査を行ない、厚生労働省に問い合わせを行なったそうです。同議員は、Xにて廃止案の存在を否定したのですが、この報道は、国会議員といえども、重要法案の内容については自ら動いて調べなければ分からない、という日本政治の深刻なる現状を示しています。国民のみならず、立法府である国会の構成員である議員が法案の内容を知らないのですから、この問題は深刻です。因みに、岸田首相も、何も決まっていないと述べています。

 これでは、一体、国会が何のためにあるのか、その存在意義が問われることとなりましょう。厚生労働省が決めているのでしょうか。それとも、有識者会議なる審議会なのでしょうか(第32回社会保障審議会は今年の1月26日に開催されている・・・)。今年2024年の8月に予定されている5年ごとの財政検証結果の公表に合わせて社会保障審議会の部会での検討が行なわれているとされますので、おそらく、同部会においての提案であったのかも知れません(法改正は2025年に予定とのこと・・・)。何れにしましても、現行のシステムでは、国民も国会議員も関与しないところで、国民が直接に影響を受ける公的年金制度の変更が決定されてしまうかもしれないのです。

 民意を反映すべき民主主義の観点からしますと、政策がどこからか降って降りてくるような現状は、由々しき事態と言わざるを得ません。同改革の真の決定者が、世界経済フォーラムと行った海外の外部者である可能性も否定はできないのです。公的年金制度にもまして改革すべきは、発案者、あるいは、‘工程表’の作成者が‘藪の中’となってしまう現行の不透明で無責任な政治制度なのではないかと思うのです。

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コロナワクチン集団訴訟に見る政府の無責任

2024年04月26日 11時04分18秒 | 日本政治
 新型コロナウイルス感染症の出現は、人類史上初めてmRNAワクチンが実用化される機会となりました。パンデミックへの対応を理由とした緊急承認によるものですが、同ワクチンをめぐる政府の対応は、国民に拭いがたい政府不信を残すことにもなったのです。何故ならば、同ワクチンを接種する人が増えるにつれ、健康被害を疑う声が広がりつつも、政府は、アナフィラキシー等の一般的なワクチンの副反応については認めたとしても、頑としてmRNAワクチンと健康被害との因果関係を認めようとはしなかったからです。今なおこの頑迷な姿勢は続いており、岸田政権の支持率低下の一因とも言えましょう。
 
 国民の政府に対する不信感が募る中、今月の4月17日に至り、ようやくコロナワクチンによる健康被害を訴える集団訴訟が起こされることとなりました。政府は同ワクチンの危険性に対して十分な情報を提供せず、同情報隠蔽は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利の尊重を定めた憲法第13条に違反するとして損害賠償を訴えたのです。

 もっとも、同条は、‘公共の福祉に反しない限り’とする制限付きではあります。このため、政府は、おそらく国民多数の命を守るため、すなわち、集団免疫の成立を目的とした政策であって、公共の福祉により正当化し得ると主張するのかも知れません。しかしながら、百歩譲って集団免疫を実現させるための政策であったとしても、リスク情報の隠蔽が正当化される事由となるとは思えません。人体に対してmRNAワクチンには不可逆的な影響を与えるリスクが既に指摘されていたのですから、実際にワクチンに死亡リスクや健康被害リスクがあれば、政府が掲げた目的とは逆に、国民多数の命を危険に晒す可能性もあったからです。すなわち、リスク情報の隠蔽は、国民の判断を接種の方向に誘導しますので、殺人の罪や傷害の罪となりかねないのです(故意、あるいは、未必の故意・・・)。否、そもそも、如何なる場合であれ、政府による情報隠蔽や情報操作が許されるはずもなく、政治責任に留まらず、刑事責任を問われても致し方ないと言えましょう。

 なお、集団訴訟を受けて林官房長官は、「不可避的に生じるリスクがあること、健康被害については、予防接種法に基づく健康被害救済制度があることなどについて周知を行っていると承知している」と述べています。如何なるワクチンであっても、多少のリスクは付きものであるから、救済制度を利用すればよし、ということなのでしょう。実際に、損害賠償を訴えている13人は、政府から因果関係を認められた方々です。賠償請求額の総額は凡そ9100万円であり、同額には、慰謝料や未払いとなった死亡給付金が含まれているそうです。救済制度の対象と認められる場合には、裁判所が賠償金の支払いを政府に対して命じ、かつ、政府もこれを認める可能性もあるのですが、問題は、政府に誘導されてワクチンを接種してしまったその他の国民の被害です。

 同訴訟は、政府の情報隠蔽行為を憲法第13条違反とするものですので、実のところ、国民全員が原告となり得る性質のものです。とりわけ、今日、超過死亡者数の急激な増加、並びに、万単位の健康被害が報告されており、漠然とした体調不良を訴える人々を含めますと、表に出ないまでも水面下では相当数の被害が発生しているものと推測されます。しかも、世代を超えてマイナス影響を与える可能性もありますので、実際の被害がどの程度であるか、皆目見当も付かない状況なのです。今後、医科学的にmRNAワクチン、あるいは、同ワクチンの‘内容物’の有害性が証明されれば、政府も因果関係を認めて被害を認定せざるを得なくなりましょう。仮に、全ての被害者が国に対して賠償するとしますと、その額はかなりに上るものと推測されるのです。ワクチン救済制度は、極めて少数の健康被害を想定していますが、それが多数となるのですから、政府の義務的支出は膨れ上がることになります。

 国の責任は重いものの、賠償金は国庫より支払われますので、政治家や厚生労働省といった政府の構成メンバーの懐が痛むわけではありません(もっとも、刑事責任が問われる可能性はある・・・)。河野太郎氏をはじめ、政治家は、しばしば‘私が責任をとります’といった言葉を軽々しく口にしますが、実質的に失政の責任を負わされるのは、国民自身なのです。救済予算確保を口実として、岸田政権は、今度は‘ワクチン救済増税’を言い出すかも知れず、国民は、踏んだり蹴ったりなのです。

 今日の状況を見る限り、政府が強力に推進したワクチン事業は、真に国民のためのものであったのか、疑問になります。無料接種とはいえ、その費用は全て国民の負担ですし、被害が生じれば、その賠償も国民の負担となります。肝心のワクチン効果につきましても(政府の説明も二転三転している・・・)、接種しなかった場合との比較は悪魔の証明ともなりますので確証はなく、自身、あるいは、身近な人々にも健康被害が疑われる症状が散見されるとなりますと、武漢に始まる一連のコロナ禍とは、一体何であったのか、否が応でも疑いは深くなるばかりなのです。何れにしましても、政府や政治家が自らが責任をとりきれないような政策を国民に押しつける現状のシステムは、制御機能を強化する方向において、改革を要するのではないかと思うのです。

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河野太郎氏の罪はワクチンリスクを否定したデマ発言では

2024年04月25日 13時00分16秒 | 日本政治
 今般、コロナワクチンについては重大なる健康被害があったとして、国に対して損害補償を求める集団訴訟が起こされることとなりました。コロナワクチンは、mRNAワクチンという人類史上初めて登場した新種ワクチンであり、当初より、医科学的な見地からもそのリスクが指摘されておりました。しかしながら、新型コロナウイルス感染症の脅威のみが強調されると共に、政府側による国民に対する強力な接種圧力があり、感染率も重症化率も死亡率も極端に低かった日本国が、事もあろうことか、新型ワクチン接種率にあって世界トップレベルに躍り出てしまったのです。

 日本人のみがCovid19に対して強い免疫あるいは抵抗力を示す現象については、ファクターXの存在が取り沙汰され、同ファクター探しの方がむしろ人々の興味をかき立てていた観さえありました。アメリカやヨーロッパ諸国ではパニック状態にありましたので、日本国は、比較的安定した状況にあったと言えましょう。こうした中でのワクチン接種率の飛躍的な上昇は、日本国政府のワクチン接種促進政策を抜きにしては説明できません(同調圧力の利用とも・・・)。このため、今般の集団訴訟でも、同政策に責任を負う政府に対して損害賠償が求められることとなったのです。

 ワクチン被害における政府に対する責任追求において、とりわけ批判が集中することとなったのは、河野太郎現デジタル大臣です。同氏は、当時にあってワクチン接種推進担当相を務めていたからです。今般の集団訴訟が報じられますと、SNS等において同氏に対して‘新型コロナワクチン後遺症の責任はとらないのか’とする声が殺到し、河野氏自身も、Xにて回答せざるを得ない状況に追い込まれたのです。

 責任を問う声に対する同氏のXでの回答を読みますと、その基本姿勢は、担当大臣としての‘職務上の責任’の如何に限定されているようです。担当大臣として、ワクチンを無駄にしないための指示を行なったことや(無駄にしないために接種すべしとする発想自体が恐ろしい...)、地方自治体に対して裁量権を承認したことなどに対する責任に限られているのです。その狙いは、自らの責任を一部の職務内容に矮小化する、あるいは、自らを政策の実行者に位置づけることで政策の決定責任を回避することなのでしょうが、もう一つ、意図があるとしますと、それは、‘デマ発言隠し’なのではないかと思うのです。

 回答で述べている職務上の責任については、国民の多くが知り得ない事柄ばかりです。このため、当時の職務上の細かな判断を尤もらしくつらつらと述べられると、デマ発言を忘れてしまう人も少なくないかも知れません。しかしながら、当時にあって最も国民に強いインパクトを与えたのは、医科学的な根拠のある指摘を含めてワクチンリスクをデマと断定した‘デマ発言’なのではないでしょうか。同発言によって一種のワクチン安全神話が誕生し、同氏の発言を信じた国民の多くがワクチン接種を決断したことでしょう。その一方で、ワクチンリスクを指摘する情報は、悉く封じられてしまうのです。

 ワクチン接種とは、正当行為となる治療行為ではなく、感染の予防を目的に健康な人々に打ちますので、ワクチンが有毒である場合には、他者の生命や身体を害する他害行為となりかねません。コロナワクチンの場合、ワクチンと健康被害との間に因果関係が存在しながら、それを政府側が全面的に否定し、接種を一方的に推奨したとなりますと、政府が国民を‘騙し討ち’にしたと見なされても致し方がないのです。とくに日本国の場合には、リスクとメリットとの比較考量では、前者の方が高い可能性が極めて高いのですから。

 ここに、政府による危険なワクチン接種の推進事業が刑法上の違法行為となる可能性が生じることとなります(日本国憲法第21条並びに第25条違反の可能性も・・・)。そして、同時に、WHOや政府によるパンデミックや緊急事態の認定は、違法性阻却の事由となるのか、という問題も提起されることとなりましょう(因みに、昨日4月24日に日本国政府が有識者会議に提出した新型インフルエンザ等対策政府行動計画の改定案では、より強い措置がとれるとしている・・・)。そして、医科学的な見地からのワクチンリスクを政府は知っていたのか、という点も、故意であるのか、過失であるのかを判別する論点ともなりましょう。

 刑事責任や違憲性等については今後の議論を要するものとなりますが、少なくとも、当時にあって河野氏は、ワクチン接種が建前として任意である以上、判断材料としてリスク情報も徹底的に収集し、ワクチン接種推進担当相として国民に提供する義務があったはずです。職務上の責任とは、事務的な作業指示のみではありません。政治家として当然に果たすべき国民に対する説明責任を怠ったのであり、しかも、調べもせずに安全宣言を行なったのですから、その罪は重いと言えましょう。政治家は結果責任を問われますので、コロナワクチンと健康被害との因果関係が証明された時点で、河野氏は国民に対して潔く責任をとり、閣僚職のみならず、国会議員の職も辞するべきではないかと思うのです。

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マネー・パワー時代のマスメディアに見る主客逆転

2024年04月24日 12時08分50秒 | 統治制度論
 ネットニュースを見ますと、大手新聞各社や通信社、あるいは、出版社等が発信している記事と、商業的な広告は基本的には区別されています。後者には、‘広告!’や‘PR’といった表示が付されていますので、ユーザーは、瞬時にそれがニュースであるのか、コマーシャルであるのか判断できるのです。時々、うっかり見落としてしまいますが、ネットのニュース欄については、宣伝マークの表示のある記事が加えられていることによって、ネット広告が運営する事業者の収益源となっていることが分かります。もっとも、広告が収益源となるのは、テレビ局や新聞社などメディア事業者に共通していますので、とりたてて目新しいことでもないのかもしれません。しかしながら、今日、世界経済フォーラムに象徴される世界権力のマネー・パワーが猛威を振るい、人類の未来をも牛耳ろうとしている現状を考慮しますと、企業と消費者との間に見られる主客逆転が、マスメディアの世界にも起きているように思えるのです。

 マスメディアについては、三権分立を構成する立法、行政、司法の三つの権力と並ぶ‘第四の権力’とも称され、あたかも独立した権力としてのイメージがあります。中立・公平な立場から他の三つの権力をチェックすると共に、国民が政治、経済、社会等の問題を考えるたり、判断するに際して必要となる重要な情報を、独立的な立場から提供する機関として理解されていると言えましょう。民間企業が大半を占めながら、‘社会の木鐸’という表現も、こうした公的な役割に由来しています。また、憲法や法律が報道の自由を保障するのも、マスメディアの独立性、並びに、中立・公平性を保ち、国民が必要とする情報の提供者としての立場を護る必要があるからに他なりません。

 しかしながら、その一方で、 ‘革命を成功させるには、先ずは放送局を占拠せよ’と言われるように、権力を掌握した‘支配者’が直接に‘被支配者’に対して自らの意思を伝えようとすれば、その手段として通信システムを使わざるを得ません。メディアは、支配の道具でもあります。この点、現代におけるラジオやテレビの発明は、直接且つ瞬時に伝達を可能とする好都合な手段を権力者に与えたのであり、インターネットやスマートフォンが普及した今日にあっては、さらに利便性が‘アップ’しているのです。

 マスメディアの二面性は、情報を発信する側と受け取る側との主客逆転をも意味しています。多くの国民は、マスメディアを自らの情報ニーズに応える存在、即ち、人々が‘主’であってマスメディアが‘客’であるとする構図において信頼を寄せ、その報道内容を客観的な事実と見なしがちです。ところが、現実には、マスメディアとは、権力を握る者の支配の道具であって、情報の発信者が‘主’となって受け取る側は‘客’に過ぎなくなるのです。

 世界権力も、人類に対する支配権を握ろうとすれば、上述した政権奪取の‘マニュアル’の通りに行動することでしょう。つまり、全世界のマスメディアや通信システムを自らのコントロール下に置こうとするものと推測されるのです。否、既にそれは現実の物となっており、マスメディアにおける主客逆転は、今日、その‘主’がマネー・パワーを握る者であるために、様々な不可解な現象を引き起こしているとも言えます。世界経済フォーラム礼賛一辺倒の報道、地球温暖化懐疑論やコロナワクチンリスクに対する言論封鎖、視聴者から好感を持たれていない人物の頻繁なる起用、○○ハラスメントとも称される特定の人物に関する記事の過剰発信、世論を反映しない世論調査の結果、第三次世界大戦への誘導が疑われるウクライナ支持傾斜の報道姿勢等など、数え上げたら切がありません。

 こうした目に余る主客逆転は、テレビ離れや大手メディアに対する国民の不信感が募る要因でもあります。逆に、SNSといった民間におけるコミュニケーション手段が一定の信頼性を得ているのも、一方向性を特徴とする既存のメディアとは違い、前者にはある程度の相互方向性が成立する余地があるのみならず、個々の自由意志に基づく情報発信が可能であるからなのでしょう。後者には、主も客も基本的には存在しないのです。

 上述してきたマスメディアの現状を考慮しますと、情報通信インフラについては、民間の事業者の所有物ではなく、自由な言論空間を護るための国民の公共インフラとしての位置づけをより明確にする必要がありましょう。そして、マスメディアそのものを、マネー・パワーによる支配から解放する、すなわち、その独立性が保障されるべく、制度的な工夫を凝らすべきではないかと思うのです。

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富裕層の道楽となったグローバル企業

2024年04月23日 14時12分25秒 | 国際経済
 今日の世界情勢を観察しておりますと、人類は、あらゆる面においてグローバリストに翻弄されているように見えます。全世界を裏からコントロールし得るパワーを握るグローバリストの出現については、株式取得を勢力拡大の手段とする‘資本主義’の問題を抜きにしては語れないのですが、グローバリストによる経済支配は、企業の役割を大きく変えつつあります。

 企業の規模が拡大するのには、凡そ二つのタイプの手段があるように思えます。第一の手段は、当該企業が提供する製品やサービスが優れているために、多くの消費者が購入・利用するようになった結果、市場のシェアが拡大し、生産量の増加に伴い企業規模も大きくなるタイプです。自由主義経済において教科書的に説明されているのは、主として同タイプです。この拡大経路にあっては、企業は、できうる限り消費者に選んでもらえるような製品やサービス、すなわち、低価格・高品質を目指して企業努力を惜しまないこととなります。もっとも、発展性を伴う経済成長や多様性を維持するためには、常に競争状態が保たれる必要があるために、一社や数社による独占や寡占は競争法によって禁じられています(無制限な拡大は×)。

 第二の規模の拡大手段は、競争関係にある同業企業が発効している株式の取得です。企業合併やM&Aと称される手段であり、友好的買収であれ、敵対的買収であれ、他者を取り込むことで規模を拡大させることができます。同タイプでは、消費者の志好やニーズ、あるいは、価格や品質等にも関係なく、事業規模が拡大します。つまり、企業の経営戦略が拡大の決定要因なのです。

 もちろん、上記の二つのタイプが結びつくハイブリット型もあります。むしろ、規模の拡大はコスト逓減効果がありますし、製品の品質向上にも有利となりますので、市場における価格競争に勝つために他社を合併しようとするケースも少なくありません。否、産業革命以降、ハイブリット型で事業を拡大した企業が大量消費社会を牽引し、消費者に対して安価で高性能な製品を大量に提供した結果、大企業が出現したとも言えます。しかも、グローバル化のかけ声と共に各国政府ともに自由化の旗印の下で資本市場を含めて自国市場を開放したため、企業規模の拡大は国境を越えて全世界に広がるようにもなったのです。今日、グローバル企業と称される世界市場において事業を展開している企業の大半は、こうしたプロセスを経て今日の地位を築いたとも言えましょう。

 M&Aといった目に見える形での企業統合の他にも、資本提携などの他社をコントロールする手段はあるのですが、何れにしましても、マネー・パワーが、巨大なグローバル企業を生み出す原動力であったことは確かなようです。加えて、巨額の開発資金を要する先端テクノロジーとプラットフォーム構築における‘早い者勝ち’や‘勝者総取り’的な性質が競争法をもかいくぐりかねないデジタル分野では、一部のIT大手による独占や寡占が経済のみならず、ユーザーとなる、あるいは、利用せざるを得なくされた個々人にまでコントロ-ルを及ぼしているのが現状と言えましょう。

 かくして、グローバル化の時代における経済とは、1%の富裕層ともされる極一部の‘株式を握る者’、すなわち、グローバリストとその恩恵に浴する配下の人々にコントロールされる世界となったのですが(現実には、1%ではなく一億分の1以下かもしれない・・・)、ここに、企業経営において一つの大きな変化が生じることとなります。それは、グローバリストのコントロール下に置かれた企業は、もはや消費者のニーズや志好に対して関心を持たない、もしくは、意に介さなくなる、という現象です。

 戦争ビジネスや環境ビジネス等には余念がない一方で(これらの分野では計画化・・・)、実際に、今日のグローバル企業が自らの持てる資源をつぎ込んで熱心に開発を急がされているのは、SFの世界を追い求めるような宇宙旅行や有人宇宙ステーション、あるいは、空飛ぶ車などです。多くの一般消費者が購入・利用できるとは考え難い分野ばかりであり、一部の富裕層向けの製品やサービスに関連する近未来技術開発に集中しているのです。また、より身近な事例に目を向けましても、衰退が懸念される日本国内にあって豪華なホテルが新設あるいは改装されるという報道があったとしても、それは、富裕層向けなのです。あたかも、消費者は、富裕層しか存在しないかのように。その一方で、グローバリストは、自らの‘夢’の実現や道楽に対する投資に加えて、人類支配の手段となる技術開発には投資を惜しみません。監視装置ともなりかねないIoT家電を開発するぐらいならば、むしろ、より利便性が高く、かつ、プライバシーが保護される遮断型の製品を売り出したほうが、よほど一般消費者は安心して購入・利用するのではないでしょうか。

 一般消費者向けに手頃な価格で高品質な製品を提供することで企業規模を拡大させてきた大企業は、今や、上位者となった富裕層に奉仕するための存在と化しているかのようです。この状態では、消費と生産の好循環となる回路は断たれ、成長の原動力が失われることとなりましょう。人々の経済活動はいつの間にか富裕層への奉仕となり、自らを含めた人々の生活を豊かにする方向には向かわないのです。人類史において経済の果たしてきた役割に照らしますと、現状は決して望ましいとは言えず、消費者牽引・主導型への経済への回帰、転換こそ、同問題解決の鍵となるのではないかと思うのです。

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計画経済化するグローバリズム-EV普及政策の問題

2024年04月22日 13時46分44秒 | 国際経済
 近年、ガソリン車から電気自動車、即ち、EVへの流れは加速化されています。EVへの転換の背景には、脱炭素を目指す世界的潮流が指摘される一方で、ハイブリット車や軽自動車を含めてガソリン車に強みを持つ日本車潰しの隠れた狙いがあったとする説もあります。もっとも、世界経済フォーラムや国連が脱炭素の旗振り役を務めているところからしますと前者である可能性が高く、全世界は、EVに向かって一斉に走り出した観がありました。

 イギリスでは、早くも2030年をガソリン車廃止の目標年に定める一方で、EUも、2035年を目処にガソリン車を全廃する方針を示しています。EV転換を自国自動車産業のチャンスとみた中国政府も、2035年には、新車販売の全数をEV並びにハイブリット車とする目標を掲げています。日本国にありましても、2021年の施政方針演説においてカーボンニュートラルを宣言した当時の管首相が、2035年を目標年としたガソリン車の事実上の禁止を公表したのです。

 各国ともにEVの普及促進政策を重要な‘国策’として位置づけたのであり、2035年が凡その‘キー・イヤー’となっている点を見ましても、そのグローバルな同調ぶりには目を見張らされます。そして、これらの目標を達成するために、各国政府ともに、相次いでEV普及促進政策を導入したです。その主たる手段となったのが補助金制度であり、EVの購入時やEV充電器の設置等に際して補助金が支給されることとなりました。ドイツでは、EV購入時にあって9000ユーロの補助金が支給され、ヨーロッパでは群を抜いていました(フランスは7000ユーロ、オランダは4000ユーロ・・・)。アメリカ政府も、EV購入者に対して最大7500ドルの税額控除を設け、税制上の優遇策を以てその普及に努めています。日本国政府も、EVの購入に際して補助金を支給すると共に、充電設備にも予算を付けたのです。

 グローバルレベルで未来の自動車がEVに決定されたことで、民間レベルでも日本やドイツなどの既存の自動車大手が対応を迫られると共に、イーロン・マスク氏が率いるステラ社や自動車産業にあっては後発組となる中国勢といった新興企業も、新市場でのトップを目指して開発競争に鎬を削ることとなりました。同開発競争は、政府主導で開発を急いだ中国が頭一つ抜きん出た観があるのですが、ここに来て、EV市場は、変調を来しています。テスラ株も2023年夏のピーク時から半値ほどに下落しており、EVの販売数も伸び悩むに至るのです。

 EV失速の原因としては、各国政府の補助金制度の打ち切りなどが指摘されており、上述したドイツでも、昨年末をもって補助金制度は終了しています。また、ガソリン車と比較した場合のEVの燃費の良さも、近年の電力料金の高騰の影響を受けてメリット面が低下しています。加えて、バッテリーの生産に際しての電力の大量消費や廃棄に伴う環境汚染問題(マンガンの毒性・・・)など、解決すべき問題も山積しています。EV志向の‘意識高い系’の購入が一巡したとの見方もあり、EVの失速から、メディアが喧伝するほどには消費者が積極的に購入を急いではないという実情が浮かび上がってきたのです。

 ところが、日本国政府は、他の諸国とは違い、補助金制度の見直しを行なうつもりはなく、充電設備に対する補助金も、今年度予算では昨年度の2倍に当たる380億円に増額すると報じられています。国土交通省が率先して新築住宅への設置などを促すとのことですが、果たして、EVの販売数が停滞している中、政府の思惑通り、充電施設の拡充はEVの普及を促進するのか疑問なところです。

 全世界で一斉に始まったEVの普及促進は、世界権力主導で進められてきましたので、いわば上からの‘計画’に基づいています。一般消費者のニーズに応えて出現したものではありません。この上意下達の側面は、グローバルレベルにおける自由主義経済から計画経済への移行をもたらしているとも言え、中国が、EV市場において成功した理由も、一党独裁体制が集中投資的な技術開発に適していたからなのでしょう。そして、全世界を包摂するグローバルな計画経済化によって、各国とも共産主義国家の失敗を繰り返すリスクを抱えることになったように思えます。

 EV市場で先端をゆく中国も、都市部の高層住宅街がゴーストタウンと化したように、供給過剰がEVの在庫の山を築き、マンガン汚染問題をより深刻化するかも知れません。あるいは、中国の生産過剰による中国EVの廉価輸出がライバル企業を市場から追い出してしまう可能性もありましょう(太陽光パネルで既に同様の問題が発生・・・)。日本国も、消費者の志好やニーズを無視した政府主導型のEV普及促進は、税金の無駄遣いとなりかねないのです(しかも、日本国は電力不足に悩まされている・・・)。不思議なことに、常々政府の補助金を市場の成長メカニズムを阻害するとして批判している新自由主義者の人々も、EVについては、黙り込んでいるのです。そして、グローバルレベルでの計画経済化の問題は、EVに限ったことではないように思えるのです(つづく)。

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マイクロソフトのAIデータセンター対日投資の先にあるもの

2024年04月19日 10時56分59秒 | 日本政治
 先日、日本経済新聞においてアメリカのマイクロソフト社が、AIデータセンターを拡充するために凡そ4400億円の対日投資を行なうとの記事が掲載されていました。生成AIの利用拡大を見越した大型投資であり、日本国内に置かれることで個人情報や機密が護られるとして概ね好意的に紹介されています。しかしながら、同記事も指摘しているように、データセンターが稼働すると大量の電力を消費するという大問題があります。

 生成AIの電力消費量は、検索等の利用の数倍ともされますので、同サービスの普及は、電力問題と直結します。‘AIが奪うのは仕事ではなく電力ではないか’とする指摘が既に見られますが、2024年1月にIEA(国際エネルギー機関)が公表した試算によれば、2022年に約460TWh(テラワット時)であったデータセンターの消費電力量は、4年後の2026年には凡そ倍となる約1,000TWhに跳ね上がるそうです(同電力量は、日本国の総消費電力に匹敵・・・)。つまり、生成AIの利用拡大と比例して、電力使用量も増大してゆくことが予測されるのです。

 この問題に対しては、新たなテクノロジーの開発による省力化によって克服できるとする見解もあります。実際に、NTTが開発中のtsuzumihaはChatGPTと比較して学習時で300分の1、推論時で70分の1にコストダウンできるとされます。しかしながら、一端、データセンターが建設されますと、省力テクノロジーの発展に合わせて頻繁に設備を更新するのも難しくなりますので、日本国内におけるAIデーターセンターの設置は、電力問題と切り離すのは困難です。目下、日本国政府は、マイクロソフト社のみならず、国内で事業を行なう海外IT企業に対して安全保障や国民の情報保護の観点からデータセンターの国内設置を求めていますが、電力の問題に注目しますと、必ずしも‘問題なし’とは言えなくなるのです(もちろん、国内データセンターが設けられていたとしても、必ずしも情報が海外に漏洩・流出しないとは限らない・・・)。

 生成AIの利用増加に伴うデータセンター数の増加とそれに伴う電力消費量の急速な伸張が予測される一方で、日本国内では、原発再稼働の遅れ、再生エネルギーの普及、急激な円安、ウクライナ紛争などの要因が重なって電力料金の高騰に見舞われると共に、電力需要の増加する夏期や冬期では電力不足も懸念されています。この状態にあって、データセンターが続々と日本国内に建設されるとしますと、一体、何が起きるのでしょうか。

 今日、電力市場の自由化が進み、電力市場が開設されていますので、電力料金もおよそ市場の需要と供給のバランスで決まるようになっています(再生エネの買取制度も、FIP制度の導入により一先ず市場価格を織り込むように改革・・・)。供給不足が予測されている以上、生成AIの利用拡大は、さらに電力事情を逼迫化させ、価格の上昇を招く要因ともなりましょう。

 電力逼迫に伴い、電力供給量が一定であるとすれば、水利と同様に、電力の配分に関する議論が生じる可能性もあります。仮に、政府が国民生活を重視し、家庭向けの電力供給を優先するとしますと、データーセンターの設置数を制限する、同センターの電力使用量に上限を設ける、省力型への転換を義務付ける、生成AIのサービス提供を制限する、あるいは、国民や企業に対しても生成AIの使用の自粛を呼びかける・・・といった対策を講じるかもしれません。その一方で、政府は自ら積極的にデジタル化やAI導入を推進してきましたので、IT大手の事業拡大や利益を優先し、国民向けの電力供給を制限しようとすることでしょう(家庭用電力料金のみの値上げなど・・・)。近年の国民軽視グローバリスト重視の姿勢からしますと、後者の可能性の方が高いようにも思えます。

 そして、電力料金の高騰と電力不足は、中国国営企業のロゴ発覚問題で取り沙汰されることとなった「アジアスーパーグリッド構想」の推進に口実を与えるかもしれません。同構想は、今では中国の一帯一路構想に組み込まれていますが、おそらく、世界経済フォーラムに象徴される世界権力が狙っている全世界を対象としたエネルギー戦略の一環なのでしょう。同構想の存在を想定しますと、日本国内の電力問題は、あるいは、同構想への参加を迫る‘追い込み作戦’であるとも考えられます(あるいは、ワクチンビジネスから推測すれば、次世代型の原子炉開発に乗り出しているビル・ゲイツ氏の先行投資?)。

 このように考えますと、マイクロソフト社による対日巨額投資は、岸田首相が語るほど歓迎すべきことではなく、むしろ、警戒すべき予兆のようにも思えてきます。もっとも、生成AIは期待されているほどには使い勝手も利便性も高くはなく(所謂‘コスパ’が悪い・・・)、EVと同様に失速してしまう、という展開もあるかもしれません。その一方で、最も恐れるべき未来は、マイクロソフト社の生成AIサービスにおける最大の顧客が、国民監視を目的とした日本政府、否、その背後に控えている世界権力であるというものです。このケースでは、対日巨額投資は、エネルギー分野を超えて世界支配の問題へと広がってゆくことになりましょう。

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陰謀説とは合理的な作業仮説では

2024年04月18日 13時01分36秒 | 日本経済
 自然科学であれ、社会科学であれ、人文科学であれ、いかなる学問分野にあっても、研究とは、事実(真実)の探求に他なりません。もっとも、事実の探求やそれの証明の仕方や手法には違いがあり、自然科学の場合には、観察結果や実験によって証明するという方法が採られます。自らの唱える説は、事後的に他者によって再現性が確認できれば、事実であることが客観的に証明されます。演繹法であれ、帰納法であれ、自然科学の証明方法は極めて合理的、かつ、明晰ですので、近代以降、学問に‘科学’を付すときには、仮説の提起、観察や実験によるデータの収集(今日の実験は、コンピューターによるシミュレーションの場合も・・・)、データの分析・解析、仮説の真偽の検証というプロセスを伴う研究手法を意味することとなったのです(帰納法の場合には、最初に現象の観察が置かれる・・・)。

 観察機器や実験装置の長足の進歩もあって、近代とは、まさに科学の時代とも称されるのですが、社会科学の分野にあっても、自然科学の分析的な手法を取り入れる動きが強まります。早くも19世紀にあって、カール・マルクスの盟友であったフリードリッヒ・エンゲルスは、その著書『空想から科学へ』において、ロバート・オーウェンやサン=シモン、シャルル・フーリエなどの社会主義の理論家達を理想論者として批判しています。そして、とりわけ第二次世界大戦前後にあっては、アメリカを中心に、よりシステマティックで分析的な研究方法が広がったのです。かくして社会科学における科学的手法の導入は、一見、政治学を合理化し、発展させたようにも見えるのですが、現実の政治の世界は、未だに非合理性に満ちているように思えます。

 それは、‘過去や現在において人間が行なった、あるいは、行なっている事実の解明’という、政治学や歴史学において特有となる研究課題において顕著となります。人や集団は自らの意思や目的をもって行動しますので、事実を突き止め、何が起きた、あるいは、起きているかを正確に理解するためには、これらの行動主体やそれらが抱く目的を明らかにしなければならないのです。こうした意思や目的の解明と言った作業は社会科学に固有のものであり、それらが人々に与える影響が大きいほどに、その解明は、人類にとりまして重大な課題となりましょう。

 同課題の重要性に照らしますと、今日の状況は、退行的ですらあります。例えば、昨今、政治の世界において起きた不可解な事件や出来事については、その不審点や辻褄の合わない点を指摘しただけで、‘陰謀論’として嘲笑される風潮があります。自然科学にあっては、何らかの既存の知識では説明できない現象や事象が観察されますと、詳細に調査した上で、先ずもって、その現象が起きる原因を合理的に解明するための仮説が提起されます。自然科学においては、当然のアプローチであり、これを愚かで非合理的な態度と見なす人はいません。ところが、政治の世界では、不可解な現象を素直に不可解と見なし、その原因や因果関係などを仮説として提起しても、‘陰謀論’として頭ごなしに否定されてしまうのです。

 合理的な根拠(矛盾や物理的な不可能性・・・)に基づいて推論として陰謀や謀略の実在性を主張することは、科学的な論証のプロセスにおいては、作業仮説に当たります。不可解な諸点は現実に観察されているのですから、それを合理的に説明することのできる仮説を提起することは、科学的なアプローチなはずです。たとえ情報の隠蔽や捏造等によって現時点では証拠を示すことができなくとも、やがて明らかとなる日が来るかも知れません。その間は仮説のままであったとしても、事実である可能性の高い仮説が存在し、人々がそれを意識していることがリスク対策の上でも重要なのです。

 科学の時代を称しながら、その実、今日の政治を取り巻く状況は、合理的で科学的なアプローチを許さず、政府やマスコミの見解や公表内容を疑うことなく‘信じる’ように強要されているかのようです。人々が‘事実を知る’ことよりも、‘事実と信じさせること’に力点が置かれているのですから。そして、‘信じない者’に対する迫害は、中世の異端審問にも通じるのです。

 なお、この点、上述した『空想から科学へ』におけるエンゲルスの科学に対する認識に、既にこの問題の萌芽が見られます。エンゲルスは、マルクス主義を擁護するために、ヘーゲルの弁証法が分析的であることを理由に科学的手法として評価したに過ぎないからです。しかしながら、ヘーゲルの弁証法そのものが観念的な運動法則の図式である以上、今日的な視点からは科学的とは言えず、‘空想から空想へ’、あるいは、‘空想から信仰へ’という表現の方が相応しいとも言えましょう。過去の歴史から普遍的な運動法則を見出し、未来にまでそれを適用しようとすれば、絶対法則に反する事象は全て否定されるか、無視されてしまいます。国家イデオロギーにまで昇格した主観的法則の絶対化は、今なお、共産党一党独裁体制をもって多くの人々を苦しめていますが、自由主義国における‘陰謀論’に垣間見える‘支配者’の精神性も、似たり寄ったりなのです。

 現代という時代は、先端的なテクノロジーとしての科学は飛躍的に進歩しながら、物事の探求において基本となる‘科学的な論証方法’については冬の時代と言えましょう。そしてそれは、人類の精神性や知性の発展を著しく阻害し、国家レベルであれ、国際レベルであれ、未来に向けた善き社会の構築を妨げているのではないかと思うのです。

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反戦より反核に熱心な奇妙な平和主義者たち

2024年04月17日 12時08分28秒 | 国際政治
 近年、ノーベル平和賞の受賞者には、バラク・オバマ元米大統領やICANなど、核兵器廃絶に尽力した人たちが目立つようになりました。日本国では、唯一の被爆国ですので、戦後、一貫して反核運動が盛んであったのですが、国際社会を見ましても、核兵器に対する反対運動は強い影響力を発揮してきました。核廃絶を求める同運動は、平和を求める人類の良心の声のようにも聞えます。しかしながら、その一方で、核兵器を特定国にのみ保有を許す現行のNPT体制が、その実、全世界を対象とした核の配分による支配体制の構築のための戦略であったとする視点からしますと、同運動は、平和に資するものとして無条件に賞賛されるべきものでもないように思えてきます。

 もちろん、核廃絶運動に取り組む人々の大多数は、平和を願う気持ちから同運動に参加しているのでしょう。組織にあっては、真の目的を知る者は、極一部の中枢に居る人々に限られるケースは珍しいことではありません。しかも、核兵器は残酷且つ非人道的な兵器ですので、同兵器をこの世から消し去ることこそ正義であると信じる人々の心情も理解に難くはないのです。しかしながら、その一方で、組織の内部にいるからこそ、疑問を感じる場面もあるのではないでしょうか。

 例えば、運動資金に注目しますと、同運動は、自発的に参加しているメンバーの寄付やカンパだけで賄われているのか、という疑問が沸くはずです。反核デモへの参加に際して日当や交通費やお弁当代などの実費が支払われているとしますと、何らかの支援金が提供されている可能性が高くなります。また、反核団体の組織が、何れかの政党や政治団体の系列に属しているとしますと、純粋な平和の訴えと言うよりも、政治的な活動としての側面が強くなります。しばしば、日本国の反核運動は、‘アメリカの核はダメで中国の核はよい’とする矛盾した態度が揶揄され、‘中国の回し者’扱いも受けてきましたが、核兵器配分論の視点からしますと、政治団体としての反核組織とは、世界権力が、核の‘抑止力の拡散’の抑え込みを目的として育成した下部組織となりましょう。最大の攻撃力は、最大の抑止力でもあるのですから(少なくとも、防御型指向性エネルギー兵器などの完璧なる防御手段が開発されるまでは・・・)。

 そして、何よりも核兵器廃絶運動において不自然な点は、戦争反対よりも核兵器反対に傾いているところにあります。核兵器とは、戦争という存在があってこそ人類の脅威となるものです(戦争が起きなければ、使われることもない・・・)。その破壊力としての側面のみを取り上げる、即ち、核兵器=非人道的大量破壊兵器=絶対悪の等式から廃絶を訴えている平和主義者であればこそ、戦争が発生してしまう国際社会の構造に反対するはずなのです。しかしながら、反核運動の人々は、ベトナム戦争と言った個別の戦争に反対することはあっても、根本的な脅威の原点となる戦争自体については、国際社会の構造的な問題に触れようともせず、積極的にその‘構造改革’を訴えようともしないのです。

 現職にあってノーベル平和賞を受賞したオバマ元大統領に至っては、戦後の国際社会にあって国連体制を曲がりなりにも支える暗黙の了解事項であった、‘世界の警察官’の職を‘辞任’する意向を示しています。この辞職宣言には、国際社会における治安維持機能の低下、即ち、戦争や紛争に対する抑止力が低下するリスクが全く考慮されていません。ウクライナ戦争も、イスラエル・ハマス戦争も、それが起きたのは、平和主義を党是としていたはずの民主党のバイデン政権でした。このことは、リベラルといえども、アメリカの民主党政権が‘本気’で平和を願っているわけではないことを、その行動によって示しています。

 おそらく、真剣に戦争を廃絶しようとすれば、力によるのであれば、全ての諸国による核の抑止力の保持を認める必要がありますし、交渉による合意解決を目指すのであれば、協議機関を設け、当事国双方に着席義務を課す必要があります。そして、国際法違反の行為に対しては、中立・公平な裁判による平和的な解決が実現するよう、国際司法制度の具体的な改革を要します。そして、大統領自らが反核をパフォーマンスとして叫ぶよりも、アメリカ自らが、具体案をもって提唱してゆくべきであったと言えましょう。

こうした平和的解決の実現に向けた制度改革の努力が見られないからこそ、反核運動も、核の独占体制の維持が真の目的ではないかと怪しまれることとなります。このままでは、アメリカは、自国の軍需産業のために、そして、さらにその深奥では、世界権力が自らの私益となる戦争ビジネスのみならず世界支配のために核兵器の配分をコントロールとする説は、ますます信憑性、否、真実性を帯びてくるのではないかと思うのです。

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核兵器という世界支配の道具-核の配分権の問題

2024年04月16日 15時29分04秒 | 国際政治
 核兵器については、これまで、攻撃兵器にして大量破壊兵器という一面からしか議論されない状況が続いてきました。この延長線上にNPT体制の成立や核兵器廃絶運動があり、何れも、その前提として核兵器=非人道的兵器=絶対悪というイメージがすり込まれてきました。いわば疑うことの許されない‘絶対真理’の如くと化し、核の存在に拒絶反応を示す人も少なくありません。しかしながら、核兵器に限らず、軍事力には、攻撃力と抑止力という二面性がありますので、核兵器に対する視点の攻撃面への偏りは、核兵器の効果や作用の全体像を見失わせ、むしろ、悪用されるリスクを高めていると言えましょう。実際に、核兵器国による非核兵器国に対する傲慢な態度には、目に余るものがあります。

 そこで、先ずもって核兵器の抑止力についてもその効果を認めるべきであり(実際には、冷戦期における核の均衡は、抑止力がもたらしている・・・)、それを認める以上、全ての諸国が等しく同兵器を保有する状態の方が、余程、核兵器国の暴走や横暴を抑えることが出来ます。抑止力として核兵器を用いることは、それがたとえ力に頼るものであったとしても、イスラエルや北朝鮮等を含む核兵器国を無制御のままに野放しにしているよりは‘まし’であり、核の脅威に対する現実的な対処方法でもあると言えましょう。かくして、核が備える抑止力を平和の実現のために活かすという道が見えてくるのですが、もう一つ、考えておくべき問題があるように思えます。

 攻撃力と抑止力の他に、核兵器には、三つ目の重要な作用があるとしますと、それは、核兵器の配分決定権の掌握に基づく支配力です。この視点は、二項対立を想定した二次元的なものではなく、全体を見渡す三次元的な視点でもあります。今日に至るまで、核の抑止力から人々の目が逸らされてきたという不可解な現象も、同視点からは説明が付くかも知れません。特定の国に核を持たせる作戦においては、全ての諸国が核を持てる状態は不都合であるからです。このためには、原子爆弾の残虐性が強調され、抑止力に人々の関心が向かないように誘導する必要があったのでしょう。唯一の被爆国となった日本国内の反核運動も、オバマ元大統領のノーベル平和賞の受賞も、そして核禁止条約の成立に奔走したICANの活動なども、何れも核兵器の非人道性のアピールに重点が置かれていたのです。

 同作戦では、核を持つ国と持たざる国との間では越えがたい軍事力の格差が生じますので、核保有が許されている諸国は、核を持たざる諸国に対して‘管理者’の役割を与えられています。これは、同盟関係であっても、対立関係にあっても変わりはありません。例えば、冷戦期におけるソ連邦による威嚇に加え、中国も、日本国に照準を合わせた核ミサイルを配備することで、日本国の安全を常時脅かしています。また、‘鉄砲玉’の役割を担う故に、北朝鮮は、その特異な独裁体制を維持するために核保有が認められているとする見方もできます。世界権力の中枢を占めるユダヤ人の国家であるイスラエルも、核保有によって中東における同国の安全を確保しており、パレスチナ領の侵害やガザ地区の住民に対する虐殺も、核保有国としての立場からの傲慢と暴走の結果とも言えましょう(なお、今般のイランによる対イスラエル攻撃からしますと、同国も、既に核兵器を保有している可能性は高い・・・)。

 核兵器を保有する軍事大国のみが核の均衡と自国の安全を享受しつつ、同盟国をも核の傘という不安定な状況に置き(属国化・・・)、ウクライナ紛争に見られるように核保有国が非核保有国に戦争を仕掛け、イスラエルや北朝鮮といった暴力主義国家が国際法を遵守する一般の国家に脅威を与える国際社会の現行の構造は、果たして、偶然の産物なのでしょうか。仮に、ここで核の配分権なるものを想定しますと、これを握る者によって、極めて巧妙に全世界がコントロールされている姿が見えてくるのです。

 アメリカが先に核兵器の開発に成功したのも、ソ連邦や中国が核兵器の開発に成功したのも、イスラエルのみが核兵器の保有を黙認され、そして、最貧国であるはずの北朝鮮が核技術を持つに至ったのも、核という絶大な破壊力を有する兵器を、世界権力が自らの世界支配体制の構築にもっとも適した国に配置しているからかも知れないのです。計画通りに第三次世界大戦を起こすことができれば、双方の無辜の若者達を死地に追いやり、相互に殺戮させることもできますし、思い通りに事が運ばなければ、全人類を破滅への道連れにすることもできるのです(つづく)。

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原爆投下人類救済論を主張するならば全ての諸国に核保有を認めるべき

2024年04月15日 18時03分02秒 | 国際政治
 日本国に対する非人道的な大量虐殺である原爆の投下は、国際法上の違法行為でありながらも、米ソ超大国が角を突き合わせた冷戦期にあって、核戦争の恐怖が人類を救ったとする‘見せしめ論’によって、違法性の阻却が主張されてきました。結果論としては、同主張にも一理があるようにも聞えるのですが、今日の世界情勢を考慮しますと、今一度、同論について考えてみる必要ありましょう。ここ数日の間、原爆投下の違法阻却事由について記事を書いてきたのも、この問題が極めて今日的であるからです。

 ‘見せしめ’による人類救済論とは、端的に申しますと、刑法の分野で言えば、犯罪抑止効果による正当化、ということになりましょう。リベラル派の人々は、刑罰については常々抑止効果に対して否定的なのですが、何故か、原爆投下となりますと、それが如何に非道であったとしても‘見せしめ論’に傾斜しがちです。これを認めるとしますと、それには、最低限、目的、手段、結果の何れにあっても、正当性が確保される必要あります。すなわち、(1)違法行為や不正行為に対する懲罰であること、(2)できる限り人道的な手段であること、つまり、他に代替手段がないこと、(3)結果として国際社会に平和が訪れたこと、といった要件の充足です。

(1)の要件については、アメリカは、日本国を中国を侵略し(もっとも、開戦当時は米中間に軍事同盟関係があったわけではない・・・)、真珠湾に対して奇襲攻撃を仕掛けた侵略国家と見なし、自らに正義あると主張していました。もっとも、この正義は、主観的な自己主張であって、歴史を詳細に検証してみれば、日米、否、連合国側も枢軸国側も共に背後から戦争へと誘導されていた節があります。欧米各国によるアジア・アフリカ諸国に対する植民地支配もあり、第二次世界大戦をもって善悪の対立軸でみるのは難しく、二度の世界大戦に関する封印されてきた情報が明らかとなった今日にあっては、(1)の要件を満たしているとは言いがたい状況にあります。

 また、(2)についても、‘見せしめ’の手段が過激な場合には、倫理的な問題が生じます。例えば、かつてはどの国も残虐刑が存在していましたが、近代以降は、できる限り人道的な刑罰の方法へと変わってきています。ところが、戦争に際しては、できる限り残虐な兵器を開発しようと試みているのです。この点からしますと、例えば、当時にあって新型兵器であった核兵器の威力を示すのが目的であれば、他に手段がないわけでもありませんでした。デモンストレーションを行なうならば、民間人が居住している都市部ではなく、山林地帯や海上に投下したとしても、十分にその爆発力は示せたはずです。日本国も開発を急いでいたわけですから、核兵器の開発成功をアピールするだけでも、少なくとも日本国に対して降伏を迫る効果はあったことでしょう。もっとも、核分裂による爆発力のみならず、核兵器の使用による放射能による人体への甚大な被害をも‘見せしめ’とするために、敢えて都市部を狙ったとすれば、原爆という兵器の悪魔性がより鮮明となってきます。

 そして、最後の要件となるのが、結果としての平和の実現です。仮に、同要件を満たさない場合には、 ‘見せしめ’としての原爆投下は、人類を救ったとは言えなくなりましょう。敗戦国となった日本国の場合には、戦後教育にあって、連合国=正義という見方が染みついています。しかしながら、戦時中にあって、既にソ連邦は同戦争を共産圏の拡大に利用し(1939年9月のポーランド侵攻もソ連による侵略公有為・・・)、周辺諸国を侵略しており、連合国にあってもアメリカの潜在的が‘敵国’が出現していました。もちろん、アメリカでも日本国でもなく、ソ連邦が先に原子爆弾を手にする展開もあったはずなのです。となりますと、アメリカが開発に先んじたのは一種の幸運であって、暴力主義にして覇権主義国家が原爆を先に手に入れる可能性もあったわけであり(この場合、自国が核兵器を独占するために対米核攻撃をしかけたかもしれない・・・)、実際に、後手となったとはいえ、抑止力として、ソ連邦は、1949年には核兵器を保有するのです。

 このことは、百歩譲ってアメリカの主観的正義を認めたとしても、人類を救うためと純粋に言えるのは、わずか4年の間に過ぎないこととを意味します。冷戦期にあっては、恐怖による核の均衡が米ソ両超大国間に保たれたのであり、しかも、ソ連並びに同陣営に組み込まれた諸国の共産主義体制は、核によって温存されてしまうのです。言い換えますと、‘見せしめ’は、犯罪や違法行為に対する刑罰的な意味ではなく、むしろ、暴力主義国家による核兵器を保有していない他国に対する服従要求や威嚇のための‘見せしめ’ともなり、この状態は、今日まで続いているのです。それは、‘自らの体制を認めない者、抵抗する者、刃向かう者には目にものをみせてやる!’という態度です。

 暴力主義国家による核保有の現実は、結局、核保有国のみが抑止力を独占すると共に相互抑止の効果が働く一方で、核を保有しない国は、抑止力を持てない状況をもたらしています。しかも、この体制は、NPTによって固定化されてしまうのです。アメリカは、自らは核保有国ですので、‘見せしめ効果’の恩恵を受けているのですが、他の核を保有していない諸国は、むしろ、核保有国に対する無防備という致命的な運命を背負わされているのです。この非対称性を考慮しますと、三つの要件の充足を欠くため、原爆投下は正当化できないまでも、せめて抑止力による平和を実現するためには、全諸国に核の抑止力を備える権利を回復させるべきと言えましょう。日本国も巻き添えになるリスクが極めて高い台湾有事を未然に防ぐためにも。

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日米による核兵器同時開発のケースを考える

2024年04月12日 10時09分15秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期、連合国側のみならず、枢軸国側でも核兵器の開発が急がれていました。現実には核兵器開発競争はアメリカが先んじることとなったのですが、可能性としては、日本国のみの開発成功、並びに、日米両国による同時開発のケースもあり得ないわけではありませんでした。昨日の記事では、前者について考えてみたのですが、本日は、後者の日米同時開発のケースについて論じたいと思います。

 原爆投下に関する違法阻却事由としては、アメリカにおきましては、核の抑止力による人類救済論が一般的です。悪しき行為でありながらも、そこに神の采配とも称されるべき正義を見出そうとする見解です。‘神は、悪からも善を引き出す’と申しますので、人類救済論は、原爆を投下した側となるアメリカ国民を強く惹きつけるのも理解に難くはありません。結果論からすれば、冷戦期にあって米ソ両超大国を盟主とする東西陣営間の世界戦争、すなわち、第三次世界大戦が起きなかったのは、相互確証破壊論が述べる相互抑止力が働いたからともされています。

 もっとも、第二次世界大戦後にあって超大国間の相互抑止力が働くようになるのは、ライバル関係となったソ連邦が原子爆弾の開発に成功した時点となります。それはアメリカから遅れること4年後、ソ連邦が核実験に初めて成功した1949年の夏のことです。このことは、米ソ間の核の相互抑止力による‘冷たい平和’は、戦後4年を経て実現したのであり、アメリカが原子爆弾を使用した時点では、対ソ牽制の意図はあったとしても、相互性に基づく世界大戦抑止の構想は存在していなかったことを意味します。核の均衡論による違法性阻却の主張は、この点において説得力に乏しいのです。

 しかしながら、この核による相互抑止の議論は、核の抑止力の問題を考えるに際して極めて重要なポイントとなります。先日は、日本国のみが核兵器保有国となるケースについて取り上げたのですが、実のところ、核の開発競争における開発の時間差は、最初に核開発に成功した国が出現した途端に、目的が変わってしまうことを示しています。それは、核を持つ国と持たざる国との間の非対称性、あるいは、核の不均衡が、軍事力において国家間の間に解消され得ない格差をもたらすからです。核兵器国に対して非核兵器国は決して戦争に勝つことはできず、核保有国のみが‘無敵’となるのですから。つまり、核兵器国に対して自らを護り、対等な関係となるには、核の均衡を要するのです。

 アメリカによる広島・長崎への原爆投下を受けてソ連邦が核兵器の開発を急いだのも、おそらく、攻撃兵器としてアメリカへの実戦使用を目的としたのではなかったはずです。アメリカ一国のみが核兵器を保有する状態が続けば、圧倒的に有利となった同国による核による威嚇や攻撃等により、戦時中に版図を広げた‘赤い帝国’が瓦解し、共産主義体制が崩壊することを恐れたからなのでしょう。あるいは、最終戦争としての第三次世界大戦を想定していた世界権力が、世界大での二頭体制の構築を欲したからかも知れません。何れにしましても、ソ連邦は、自ら核兵器を手にすることで、‘生き残り’、すなわち体制温存に成功したと言えましょう。因みに、当時のアメリカは、ソ連邦による原子爆弾開発を未然に阻止するために、対ソ原爆使用に踏み切ることはありませんでした。

 冷戦期に見られるように、たとえ敵対関係にある、あるいは、異質な体制の国家であったとしても、核の均衡が共存をもたらすならば、第二次世界大戦末期にあっても、同様の展開となった可能性があります。日米両国がともに核兵器を保有する状態に至った時点で戦争は‘凍り付き’、ほどなく終結に向かったものと推測されるのです。

 そして、核開発における後発組の目的が、核攻撃からの防衛である点に注目しますと、今日のNPT体制には、大いに疑問があります。核兵器の攻撃兵器としての非人道性ばかりを強調し、核兵器の廃絶を‘絶対善’と見なすことで、核保有国からの最大の防御手段を各国に自発的に放棄させているからです。しかも、核によって絶対的な優位性が保障されている核保有国は、必ずしも他国の独立性や主権を尊重し、国際法を誠実に遵守する国であるとは限らず、中国やロシアのみならず、イスラエルや北朝鮮までもが核を保有しているのが現実なのです。このように考えますと、核の抑止力をもって違法阻却事由を主張するならば、核保有国による横暴から身を守るための防衛、あるいは、抑止目的を条件として、世界の全諸国に対して核保有を認めるべきなのではないかと思うのです。

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核兵器開発競争から考える違法阻却事由

2024年04月11日 12時13分12秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期にあって、核分裂から生じる膨大なエネルギーを破壊力として用いる核兵器の開発は、連合国側であれ、枢軸国側であれ、戦争当事国の至上命題でもありました。同兵器を手にした側が、圧倒的に有利になることが予測されたからです。戦局の悪化で追い詰められていた日本国もまた、同兵器の開発に一縷の望みを抱いていたのです。戦争末期の核兵器開発競争は、結局、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに渡ってきた科学者達の貢献もあって、アメリカの勝利に終わります。そしてそれは、第二次世界大戦における連合国の勝利をも意味したのです。

 かくして第二次世界大戦は、アメリカによる核兵器の開発成功に終わるのですが、核兵器の存在は、その後、国際社会に多大なる影響を与えることになります。しかしながら、核兵器とは、そもそも国際法違反となる都市空爆を前提として開発されたとしか考えざるを得ません。実際に、アメリカは、広島並びに長崎のみならず、日本国内の複数の都市を攻撃対象リストに挙げていました。核兵器は、少なくともアメリカでは、最初から違法行為となる民間人の大量殺戮用の兵器として開発されているのです。この点を考慮しますと、核兵器の使用を正当化しようとすれば、誰もが納得するような違法阻却事由を示さなければならない、ということになりましょう。

 そして、今日、違法阻却事由の一つとして提起されているのが、日本国側による核兵器開発の事実です。核兵器の使用の違法性を糾弾されているアメリカからすれば、‘日本国も同じことをしようとしたではないか’ということになります。この主張は、正当防衛や緊急避難の根拠ともなり得ますし、被爆国である日本側としましても、正直に申しますと‘痛いところ’ではあります。しかしながら、この指摘を正面から受け止め、考察・検証を加えますと、核が第三次世界大戦から人類を救ったとする核の抑止力の評価による原爆投下正当化論の問題も、核廃絶運動やNPT体制をめぐる今日的な問題も見えてくるように思えます。

 そこで、先ず考えるべきは、戦争末期にあって核兵器開発競争をめぐっては、およそ3つの可能性があった点です。その三つの可能性とは、(1)アメリカ一国が先に開発し、核兵器を保有するケース、(2)日本国側が先に開発に成功し、日本国のみが保有するケース、そして、(3)日米が共に同時期に開発に成功し、両国が共に核兵器を保有するケースです。現実の歴史は、第一のケースとなったのですが、それでは、仮に第二と第三のケースでは、核をめぐる議論はどのような展開となったのでしょうか。

 古来、兵器の性能は戦争の行方を左右しますので、仮に、第二のケースとして、日本国側が核兵器を先に開発した場合、日本国は、アメリカに対して軍事的に優位な立場を得ることとなります。もっとも、実際にそれを使用できたかどうかについては怪しく、核兵器の使用を想定した潜水艦の開発を急いだとしても、同兵器の運搬手段については疑問が残ります。しかしながら、核兵器を保有しながら大陸間弾道ミサイルの開発には至っていない今日の北朝鮮の立場と同じく、アメリカに対して武力攻撃を控えさせる効果は得られたかも知れません。つまり、日本国の場合、核兵器を開発したとしても、実際にアメリカの都市に対して使用するよりも、抑止力として用いた可能性の方が高いように思えます。おそらく、アメリカが実行した無慈悲な対日空爆作戦も回避されたことでしょうし、終戦交渉を開始するに際しても、連合国側をテーブルの席につかせ、講和交渉を優位に進めることができたことでしょう。

 それでもなおも、日本国による対米原爆投下の正当化論として、保有のみならず、日本国による核兵器の使用という緊急の危機があったと主張するならば、むしろ同論者は、日本国による原爆投下をも正当化せざるを得なくなります。核兵器による甚大なる人的物的・被害が‘見せしめ’となって、その後の人類を救ったとする論理構成からすれば、‘見せしめ’は、ニューヨークであれ、ワシントンD.C.であれ、あるいは、ロンドンであれ、新型兵器の犠牲となる都市はどこでも構わないことになるからです。

 なお、原爆の投下を、‘強欲な侵略国家日本国の当然の報い’と見なしたり、‘自由と民主主義を護るためには必要であった’とする違法阻却事由の主張も、人類史上最初の使用による‘見せしめ’効果だけを取り上げれば、説得力を失います。(なお、植民地支配が横行していた当時の世界情勢からすれば、日本国が‘邪悪な国’であったとは言えないのでは・・・)。邪悪な国家による核の独占とその使用も、あり得ないわけではないのです。仮にこうした状況に至った場合には、非核保有国は、核独占国によって常に脅迫されるか、あるいは、実際に戦争を仕掛けられるかもしれません(核保有国の必勝状態・・・)。科学技術のレベルは倫理観とは無関係ですので、新型兵器の開発競争は、‘邪悪な国’が唯一の保有国となる場合もあり得るという問題をも提起しているのです。そしてこの問題は、今日における問いかけともなるのです(つづく)。

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原爆投下の違法阻却事由の問題

2024年04月10日 13時17分08秒 | 統治制度論
 20世紀初頭に成立した「陸戦法規慣例条約」等の条文を読めば、連合国側による国際法違反行為があったことは明白です。今日、イスラエルによるガザ地区に対する攻撃が国際法違反であるのと同様に、民間人を大量に殺害する行為は、当時にあっても国際法、即ち、戦争法に反していたと言えましょう。とりわけ、一夜にして都市を焼け野原にし、住民の命を奪った都市空爆は、弁明の余地がないように思えます(違法阻却事由がない・・・)。

 違法阻却の事由とは、主として(1)正当な行為、(2)正当防衛、(3)緊急避難の三点ですが、都市空爆は、何れにも当たりません。戦争法とは、戦時下にあっても人類が野獣の如き野蛮な状況に墜ちないように、人道的な配慮から制定されていますので、‘皆殺し戦法’が、正当な行為に当たるはずもありません。また、当時にあって、アメリカは既に日本国から制海権も制空権も奪っていましたので、開戦時の真珠湾攻撃とは違い、正当防衛と言える時期も過ぎています(そもそも、アメリカ側が‘防衛’を主張できる状況にもない・・・)。ましてや、緊急避難であるはずもありません。また、仮に戦争の終結を早め、日米両国民の被害を最小限に留めることが目的であったならば、日本国側からの終戦交渉の動きを察知した時点で、連合国側も、即座にこの動きに対応すべきであったと言えましょう(もっとも、この点においては、日本国側にも、‘国体の護持’への強固なまでの拘りがあり、全く責任がないわけではない・・・)。さらには、対ソ威嚇手段としての使用であれば、なおさらに違法阻却の事由とはならないはずです。

 アメリカが戦後国際軍事法廷の場で裁かれなかったのは、法そのものは存在していても、公平・中立的な立場から事実を確認した上で、裁判を行なう国際司法制度が、1945年の時点では整っていなかったからなのでしょう。このため、‘勝者が敗者を裁く’形となり、対日都市空爆は不問に付されたままに今日に至っているのです。なお、日本国に対する違法な攻撃については、日中戦争時における日本軍による違法行為の主張をもって正当化されることがありますが、今日のイスラエル・ハマス戦争にあってハマスによるテロ行為がイスラエルのガザ地区住民に対するジェノサイドを正当化できないように、違法阻却事由とならないことは確かなことです。なお、仮に、中国が‘南京大虐殺20万人説’を主張するならば、第二次世界大戦時に行なわれた‘裁かれざる罪’の全てに対する裁判の実施を主張すべきであり(もちろん、厳正なる証拠集め等も必要・・・)、それには、勝者となった連合国も含めなければ、近代司法制度の要件を著しく欠くこととなりましょう。

 かくして、都市空爆は‘裁かれざる罪’となるのですが、ここで一つ、考えなければならない点は、新型兵器の開発競争という核兵器のみが有する側面です。実のところ、同問題を複雑にしている要因は、まさにこの側面にあります。アメリカによる原爆投下を正当化するに際して、しばしば日本国も原子爆弾の開発に着手していた、とする指摘があるからです。自らも原子爆弾を投下する可能性があったにも拘わらず、先に開発に成功したアメリカばかりを糾弾するのはフェアではない、という主張です。この主張の先には、上述した違法阻却事由の否定を覆す根拠が持ち出されることも推測されます。即ち、日本国がアメリカよりも先に原子爆弾を製造し、それを使用するのを未然に防ぐための正当防衛行為である、あるいは、日本国による開発が目前であったために、緊急避難的な措置として開発に先んじて成功したアメリカが使用した、というものです。核兵器には、通常兵器とは桁違いの、戦局を逆転させるだけの破壊力が理論上予測されていましたので、こうした正当化論もあり得ないわけではないのです。

 原爆投下正当論の一角としての日本国による原子爆弾開発の主張については、戦争末期にあって、その‘脅威’がどの程度であったのか、すなわち、違法阻却事由の有無を判断するためには、日本国側の研究開発の進捗状況を事実として確認する必要がありましょう(一説に依れば、核兵器の運搬手段として、日本国は、潜水艦発射型すなわちSLBMの先駆けともなる技術も開発していたとも・・・)。何れにしましても、この問題は、核兵器の保有における非対称性という今日的な問いをも含んでおり、人類を核戦争から救ったとする、結果論としての見解とも繋がってくるのです(つづく)。

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