万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

時制を持たない言語は原理主義を生む?-ヘブライ語の問題

2022年01月18日 11時29分29秒 | 国際政治

ユダヤ人の言語であるヘブライ語には時制がないという特徴は、現在と未来との区別を曖昧化し、現在の言葉が未来を拘束してしまうという問題を抱えてしまいます。そして、この関係は、過去と現在、否、過去、現在、未来の関係にも及びます。すなわち、過去が現在や未来を拘束してしまうことがあり得るのでしょう。いわば、時間は永遠であってそこには、過去も、現在も、未来の間に境界線が一切存在しない世界が広がっているのかもしれません。

 

こうした時制の欠如による時間に関する独特の感覚、あるいは、世界観は、今日にあって、少なくない影響を人類に与えているように思えます。その一つは、原理主義を生み出す精神的な土壌となってしまう問題です。原理主義とは、過去の権威ある言葉を一文一句たがわずに現代に再現し、それを未来にも継承させてゆこうとする考え方を意味しています。現代にあっても、原理主義は、個人の信条に留まらず、宗教集団化することで、自らの理想を実現する手段としてテロをも容認する思想的な基盤ともなっています。

 

9.11事件もあって一般的にはイスラム原理主義がよく知られていますが、原理主義集団は、イスラム教に留まるわけではありません。キリスト教にも、キリスト教原理主義に基づく新興宗教団体が数多く存在しておりますし、パレスチナ問題の解決を遠ざけている要因の一つには、ユダヤ教原理主義があります。ユダヤ教原理主義の主張に従えば、ユダヤ人は『旧約聖書』に記された約束の地を全て支配する権利があることとなり、それは、イスラエルの建国に際してパレスチナとの間に引かれた国境線を越えるからです。かくしてパレスチナ側へのユダヤ人の入植が強行されつつも、その根拠が唯一絶対神の言葉なのですから、ユダヤ教原理主義者を説得するのは極めて困難となるのです。一方、この思考回路は、ISといったイスラム原理主義にも共通しており、イスラム原理主義者は、自らの理想郷であるマホメットの時代の再現を求めると共に、かつてのイスラム帝国の版図を復活すべく’聖戦’を闘っているのです。現代にあっても、条約と法よって確定された国境線、並びに、国際法の存在を無視する原理主義集団の存在は、国際社会の法秩序を破壊しかねないのです。

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も、セム語系の言語で記述された聖書から派生した宗教ですので、それが内包する世界観を受け継いでいてもおかしくはありません(但し、新約聖書は、最初から古典ギリシャ語Koine-Greekで書かれている)。原理主義の問題は、時制の欠如というセム語系の言語の特徴が見られるのですが、時間間隔の曖昧性は、原理主義に加え、歴史認識問題をも説明するかもしれません。中国語もまた時制が欠如している言語なのですが、この時間間隔からしますと、現代の言葉が過去を拘束してしまうという逆方向の固定化もあり得るからです。つまり、日中間にあってしばしば歴史認識をめぐる対立が激しさを増すのも、中国における歴史とは、過去の事実そのものではなく、現在の’権威による認識’が定めたものに過ぎないからなのでしょう。因みに、太平天国の乱における南京攻略に際して起きた蛮行は、日本軍によるものとされる、いわゆる’南京大虐殺’の描写と瓜二つです。中国におきましては、’権威’の一声があれば、時間軸においてある時点で起きた事件を他の時点に移してしまうことは比較的容易なのかもしれません。これでは、両国の主張は平行線を辿るばかりとなります。

 

 もちろん、‘卵が先か、鶏が先か’の議論のように、言語が先であるのか、それを使う人々の時間感覚が先であるのかは判然とはしません。しかしながら、時間軸の捉え方は、世界観、並びに、未来に向けての方向性にも多大な影響を与えますので、人類が置かれている状況をより的確に理解するためにも、宗教や民族等における時間感覚の多様性を考慮する必要がありましょう。そして、今日、問題をさらに複雑にしているのは、科学技術は時間の経過とともに発展しつつも、ユダヤ人や中国人がグローバルなパワーを発揮することで、人類が目指すべき理想の方向性が過去に向かってしまうという‘ちぐはぐ’な状況が起きてしまうことかもしれません。時間は不可逆的であって、もはや聖書の時代に戻ることはできませんので、人類は、高度な科学技術と非現実的な世界が一体化した奇妙な惑星に住まされてしまわないためにも、今一度、時間の経過の意味を問うてみるべきように思えるのです。


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ヘブライ語と中国との共通点の問題-何故、かくも両者は未来を決めつけるのか?

2022年01月17日 19時06分12秒 | 国際政治

ヘブライ語(ユダヤ人の言語)と中国語との間に共通点がある、と申しますと、多くの方は驚かれるかもしれません。世界地図を広げましても、カナンの地と中国大陸との間には相当の距離がありますし、シルクロードを介して両者が行き来していたとしても、言語空間を共有しているとは思えません。中国語の表現手段である文字は表意文字である漢字ですが(もっとも、現代の漢字は表音化している面もある…)、ヘブライ文字はセム語系のアラム語から派生した表音文字ですので、この点にも大きな違いがあります。ヨーロッパ言語のように筆記の方向が’左から右へ’ではなく’右から左へ’である点は共通していますが、それでも前者は横書きであり、後者は縦書きです。ところが、両者との間には、人々の世界観に関わる部分で重要な共通点あるらしいのです。

 

ヘブライ語と中国語との間の共通点に気が付くきっかけとなったのは、アンドレ・シュラキ氏の『ユダヤ思想』でした。同書の冒頭に設けられている緒言には、「イスラエル思想の性格」が記されているのですが、そこには、以下のような文章を見出すことができます。

 

「時制に対して根本的に無頓着なセム語系のおかげで、ヘブライ語は比類ない喚起力を得ている。例えば、定過去はいつも不定過去の予示に過ぎず、未来形は現在を知らせてやまない。こうしてセム語系の言語で表された思想はあたかも命令形のように上から与えられる。その思想は観念によってではなく事実を以ってわれわれに迫り、それらの事実がわれわれの意識の中に動詞の焔を燃え上がらせる。…」

 

この文章から読み取れることは、セム語系であるヘブライ語には、’時制がない’という重要な特徴です。時制とは、動作や存在の時間軸における位置を明確にするためにありますので、時制がないということは、ユダヤ人の意識にあって過去、現在、未来の区別、あるいは、時間感覚が曖昧になることを意味します。このため、ユダヤ人の世界観にあっては、時というものは行き来が可能であると共に、過去や現在が未来を定めてしまうこともあり得るのでしょう。預言者とは、まさに未来を語る人でありながら、ヘブライ語にあってはその予言が未来を決めてしまうのです。そして、上記の文章が示すように、「命令形のように上から与えられる」のであれば、それは、あたかも神の言葉の如くに響くこととなりましょう。ここにヘブライ語における未来拘束性という問題が見受けられるのです。

 

この’時制がない’という特徴は、中国語とも共通しています。中国語もまた、ヘブライ語と同様に、明確に時を表す文法が備わっていませんので、時間軸における認識が曖昧です。そして、この特徴に照らしますと、共産党一党独裁体制にあって、習近平国家主席は、国民に向けて自信満々に中国の未来を語る理由も理解されてくるのです。あたかも、既に未来は決まっているかのように。中国人にとりましては、現代は過去であると共に未来なのでしょう。

 

その一方で、文法に自制を有する言語を有する人々にとりましては、こうしたヘブライ語や中国語をベースとした世界観には困惑させられてしまいます。本来、未来は様々な可能性に満ちており、誰もが正確に予測したり、決めることはできないものなのですから。ユダヤ人が渇望する神の国も中国共産党が絶対視する共産主義社会も、その他の人類にとりましては、数ある可能性の一つに過ぎないのです。

 

このように考えますと、今日、人類は、言語に時制を持たないユダヤ人や中国人が独善的に決めつけた世界像に拘束されているのかもしれません。固定化された未来から脱し、人類が真の自由を取り戻すためには、先ずもって、ユダヤ人や中国人が、自らの思考をも縛る未来拘束性から解放されるべきではないかと思うのです。


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ユダヤ教徒=ユダヤ人ではないもう一つの理由

2022年01月14日 12時32分20秒 | 国際政治

これまで、ユダヤ人とは、母系をも認めるものの極めて閉鎖的な血縁集団とするイメージがある一方で、祖を共にする民族的な枠組みではなく、ユダヤ教を信仰する者であれば誰でもなれる、とも説明がなされてきました。前者と後者では、どちらが事実に即しているのかは外部者には良くわからないのですが、ユダヤ教徒とユダヤ人が一致しないもう一つの理由があるように思えます。

 

それは、『旧約聖書』にあって最も重要とされる「モーセの十戒」の存在自体に求めることができます。何故ならば、十戒を破るようなユダヤ人が存在しなければ、神は、敢えてモーセに対して人類が護るべき戒律を授ける必要などなかったからです。例えば、十戒は、「私以外の神を信じてはならない」から始まりますが、この言葉は、モロク(モロコ)の神のような、偶像を崇拝する異教の神が数多存在していたことを示唆しております。また、殺人の禁止なども、ユダヤ人の中には、利己的な動機から人の命を殺めたユダヤ人があったことを示していると言えましょう。

 

神から授かった十戒こそ、実のところ、ユダヤ人の中には必ずしも十戒を遵守しない人々が存在していた証拠でもあります。否、十戒を必要とするほどに社会も治安も乱れており、人々は、日々、他者からの侵害を恐れて不安な日々を過ごしていたのかもしれません。全ての人々が善き社会を実現するために護るべき共通の倫理・道徳的行動規範が与えられたというそのことこそ、神からの賜物、即ち、神の救いであって、この文脈におけるユダヤ教とは、共通ルールの根源としての唯一神に対する信仰であったと言えましょう(神から道徳・倫理規範として法を授かる形態は古代メソポタミア文明に広く見られるので、おそらく、ユダヤ教がオリジナルなのではないかもしれない…)。

 

実際に、アンドレ・シュラキ氏の『ユダヤの思想』によりますと、ユダヤ教の布教とは、異民族に対して十戒を説くものであったとれています(この側面は、洪秀全による上帝教の布教にも見られる…)。即ち、ユダヤ教が異民族に開かれた宗教であるとする後者の説明は、十戒の順守という条件付きなのです(もっとも、メシアの問題も論じる必要がありますが…)。

 

そしてここに、4つのタイプの’ユダヤ人’が生じることとなります。第1のタイプは、ユダヤ人の血脈を引き、かつ、ユダヤ教を信じる人々です。このタイプのユダヤ人が、一般の人々が思い描く最も典型的なユダヤ人ということになりましょう。第2のタイプは、血脈としては’ユダヤ人’の枠組みに属していても、モロク(モロコ)教といった異教を信じる人々です。これらの人々は、ユダヤ人ではあってもユダヤ教徒ではありません。第3のタイプは、血脈としてはユダヤ人ではないけれども、ユダヤ教を信仰する人々です。第3のタイプは第1のタイプとは逆であり、ユダヤ人ではないけれども、ユダヤ教徒であるパターンです。そして、第4のタイプは、第2と第3との’合成の誤謬’によって発生します。つまり、ユダヤ人でもなくユダヤ教徒でもない人々です。これは、第1のタイプから’異教徒でもユダヤ人’という論法を借り、第2のタイプから’異民族でもユダヤ人’という論法を借りているのです。

 

今日、これらの4つのタイプのユダヤ人が、所謂ユダヤ人、あるいは、ユダヤ系の人々として総称されています。そして、この4つのタイプの混在こそが、今日に至るまで、人類史に混乱と禍を齎しているように思えるのです。

 

十戒の本質が、超越的な視点から全ての人々に共通の道徳規範を齎すことであるならば(法の支配)、既に人類の大多数は狭義における’ユダヤ教徒’であり、神の救いに与っていることとなりましょう。むしろ、第2と第4のタイプのように、人類共通の道徳律に反する行為をユダヤ教やユダヤ人の名の下で実行している邪悪な人々こそ、神にも人類にも反しているのではないかと思うのです。


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太平天国はユダヤ教の国家モデル?-ユダヤ人による救いの限界

2022年01月13日 16時36分01秒 | 国際政治

19世紀中葉において中国大陸で起きた太平天国の乱は、異民族王朝であった清の支配に対する洪秀全率いる新興キリスト教集団の反乱として凡そ理解されています。キリスト教を信仰する善良な信徒たちが、理想の国の建設を目ざして清国の圧政に立ち向かった抵抗の歴史として語られがちなのですが、どうやらその実態は、悪に対する善の戦いというこの単純な対立構造のイメージを覆してしまうようなのです。

 

太平天国に対するイメージが大きく転換する切っ掛けとなったのは、『太平天国-皇帝なき中国の挫折』という一冊の本です(菊池秀明、岩波新書、2020年)。同書には、プロテスタントの宣教師であったセオドア・ハンバーグの著作からの引用として、洪秀全は「天国の約束された領土とは中国をさし、神に選ばれた民族の後裔とは中国人と洪秀全をさすものだ」と考え、『旧約聖書』のモーセ五書を重視したとあります。信者のために作成された『天条書』も、モーセの十戒を基にして作成されていますので、‘上帝教(上帝とはYHWHのこと)’とは、キリスト教というよりも、ユダヤ教に極めて近い宗教であったと言えましょう。因みに、上帝教では、魂の救いよりも現世利益が強調されていたともされます。

 

上帝教がユダヤ教の亜流であるとしますと、太平天国とは、ユダヤ教が説く神の国の建設であり、また、この世における具現化であったとする見方もできます。いわば、ユダヤ教を国教とする神聖政治を実現したユダヤ教の国家モデルということにもなりましょう。先ずもって、洪秀全は、自らがメシアであることを信者に認めさせるために、トランス状態に陥った会員の楊秀清に天父のYHWHが、蕭朝貴に天兄のイエス・キリストが、それぞれ降臨(下凡)したとする演出を行います。1848年4月に、洪秀全は、’天父’のお告げにより「天下万国の真主」、つまり、メシアに任じられるのです(なお、洪秀全は1837年に「金髪で黒服姿の「至尊の老人」からこの世を救えと命じられる夢を見た」とされる)。太平軍が南京を占領した際も、これを、モーセの出エジプトに喩えたとされます。

 

太平天国は、神の許で皆が平等に平和に暮らす理想郷とされたのですが、実際には、洪秀全を初め、楊秀清や蕭朝貴といった有力幹部(最初は5人の王)を特別の地位に置くヒエラルヒーが形成されていました。平等思想の下で財産も共有とされ(「飯があれば共に喰い、衣服があれば共に着る」が上帝会のモットー…)、聖庫と呼ばれる共同の国庫を設けたものの、上層部が富や権力を独占したのは他の歴代王朝と殆ど変わりはありませんでした。そして、理想と現実との矛盾を抱えた太平天国の国家体制は、凡そ1世紀の後に中国で誕生した共産主義国家、中華人民共和国とも著しく類似しているのです。

 

太平天国が、’汝の敵を愛せ’、あるいは、’右の頬を打たれたら左の頬を向けよ’、と説いた愛と寛容の宗教であったキリスト教を信仰しながら、信者を獲得するに際して甘言や脅迫を用い、曽国藩の湘軍を中心とした清軍と戦うに際しても容赦がなかった理由も、そのベースがユダヤ教にあったからなのでしょう。同書の帯には「人類史上最悪の内戦」とあり、同内乱にあっては、民間人を含め、江蘇だけでも死者は2000万人を超えたと記されています。「人類史上最悪の内戦」は、本当のところは共産党と国民党との間の20世紀の内戦のようにも思えますが、デスマッチの如き殲滅戦となった要因の一つは、ユダヤ教に内在する問題にあったのかもしれません。

 

同書では、太平天国を中国における分権体制への移行(民主化?)の可能性を示す事例として問題提起されています。その一方で、太平天国をユダヤ教の国家モデルであるとする視点からしますと、その滅亡は、別の意味を持ってくるように思えます。’選ばれしマイノリティー’が’全人類’を救済し得るのか、という問題が、今日的な意味を含みながらリフレインされるからです。

 

洪秀全自身は、上帝会の幹部の多くと共に客家の出身であり、清国にあっても、漢民族にあってもマイノリティーの立場にありました(もっとも、異民族王朝であった清に対しては、漢民族に自らのアイデンティティーを置いて滅満興漢を主張…)。上述したように、洪秀全が『新約聖書』よりも『旧約聖書』を重視したのも、自らの境遇をユダヤ人に重ねたからとされています。そして、太平天国の滅亡とは、救世主としての普遍性を唱えながら、選ばれし者としての特権意識、並びに、自らの排他性から脱却することができなかった‘ユダヤ人’の限界を示しているようにも思えるのです。

 

太平天国は、1864年6月1日の洪秀全の死から凡そ一月半を経た7月19日に、首都南京の湘軍による陥落によって滅亡の日を迎えます。しかしながら、太平天国は、本当にこの世から消え去ったのでしょうか。今日にありましても、‘太平天国’の樹立を目指す組織が、全世界において蠢いているようにも思えるのです。皆様方は、どのようにお考えでしょうか。


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ユダヤ人による人類救済は無理では?

2022年01月12日 15時37分26秒 | 国際政治

ユダヤ思想における’救い’の問題は、’迫害されてきたマイノリティー’が’迫害してきたマジョリティー’を救うことができるのか、あるいは、’選ばれしマイノリティー’が’全人類’を救済し得るのか、という難しい問題を提起しています。果たして、ユダヤ人は、ユダヤ教が説くように全人類に救いをもたらすのでしょうか。

 

現実の世界に目を向けますと、強者のマイノリティーが弱者のマジョリティーを支配したり、搾取するのが歴史の常です。とりわけ、他の民族を屈服させて樹立された異民族王朝の場合には、この傾向はさらに強まります。支配層と非支配層は異なる民族によって構成されますので、同族的な一体感もなく、連帯感も希薄となるからです(国家を家族に模した家族型国家とはならない…)。前者にとりまして後者は、自らが権力を振るう対象であり、所有物、あるいは、利益を得るための客体的な存在に過ぎなくなります。このため、多くの場合には、被支配者にさせられ、圧迫を受けてきたマジョリティーは、支配者であるマイノリティーからの解放を願うこととなります。

 

一方、’流浪の民’となったユダヤ人の歴史を見ますと、当然とも言えますが、異国の地にあって常にマイノリティーの立場にありました。また、ユダヤ教の厳しい戒律にも起因して、移住地のあっては閉鎖的なコミュニティーを形成しており、ヨーロッパ諸国では、都市の一角にあって高い壁に囲まれたゲットーに集住することも少なくなかったのです(マックス・ヴェーバーによれば、ユダヤ人の隔離は自発的な側面もあった…)。その一方で、大航海時代以前の時代に遡って、ユダヤ人は、商人としてアジアやアフリカにも赴き、各地の都市にビジネスの拠点を設け、世界大のネットワークを形成しています。やがてユダヤ・ネットワークは、キリスト教の布教(特にイエズス会…)やヨーロッパ列強の植民地獲得政策、並びに、東インド会社の活動と融合、あるいは、伴走しながらさらに強化され、そして、今日のグローバリズムは、ユダヤ勢力を全世界の支配者に押し上げつつあると言えましょう。そしてここに、排他的なマイノリティーのユダヤ人は、全人類を救うのか、という問題が提起されることとなるのです。

 

仮に、ユダヤ人が弱者のマイノリティーの立場にありながら、神からの使命を受けて全人類に愛と正義と平和をもたらすのであれば、それは、神の御業とも言える偉業なのかもしれません。しかしながら、現実を見ますと、ユダヤ人は、古代のモロク教の信仰を捨て切れず、バビロニア・タルムードの詐術的な思考傾向と相まって、ユダヤ人の主要勢力の信仰心を神とは逆の悪魔崇拝の方向へと導いてしまったようです。神に背を向けてしまった今日のユダヤ勢力の姿からしますと、神が契約を以ってユダヤ人に託した使命が、この世にあって成就されるとは思えません。結局、超国家権力体として君臨するユダヤ勢力は、強者のマイノリティーが弱者のマジョリティーを支配するという歴史を繰り返すのではないかと思うのです。

 

そして、ユダヤ人ではない他の人々にとりましては、ユダヤ人を救うために出現したメシアが自らをも救うとする説は、悪い冗談にしか思えないことでしょう。選民意識が染み付いているユダヤ人が、その排他性や特権意識を自ら放棄するとは思えませんし、何にもまして、ユダヤ人の理想郷の押し付けは独善にしか映らないからです。しかも、その理想郷は、サタニックなディストピアなのですから。人類の救いとは何か、という問題を考える時、少なくともそれをユダヤ人に期待するには無理があるのではないかと思うのです。


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今日のユダヤ・コミュニティーにモロクの神は伝わっているのか?

2022年01月11日 18時56分54秒 | 国際政治

ユダヤ人が何故、神から与えられた使命を放棄した、あるいは、曲解したのか、という問題については、トーラーに関する解釈が必ずしも一つではない点にも起因しています。神は単一なのですが、人々の間で神の言葉の解釈が分かれますと、唯一絶対であるはずの神が、事実上、複数存在してしまうという深刻な問題を、神との契約のその日からユダヤ人は抱えてきたことになりましょう。このため、ユダヤ教には、サドガイ派、ファリザイ派、エッセネ派などの様々な宗派が生まれ、しかも、今日至るまで、イスラム教や新プラトン主義といった外部の宗教の影響をも受けてきました。所謂ユダヤ教と称される宗教は、タルムードやカバラを含めるとしますと、案外、それ程歴史を古く遡るわけではないようなのです。ヤコブ・フランクに至っては、「現世の生活を重視し、もろもろの信仰、習慣、掟の廃止(メシアが来ないのならば、ユダヤ人はせめて勝手気ままに楽しむように…)」を主張したとされます。この問題につきましては、後日扱うといたしまして、本日は、昨日の記事の文末で言及したユダヤ教とは別系譜のユダヤ人の宗教について認めたいと思います。

 

ユダヤ人につきましては、今日にありましても、ネット上などでも陰謀論が後を絶たないのが現状です。中には、幼児の人身供養を指摘する向きもあるのですが、同陰謀論、単純に反ユダヤ主義による‘作り話’とは思えない節があります。昨日ご紹介いたしましたアンドレ・シュラキ氏が著した『ユダヤ思想』(白水社、クセジュ文庫)のむすびには、以下のような一文があります。

 

「近代社会の偶像崇拝、すなわち近代社会が正当と認めているさまざまな形の隷従―それは程度の差こそあれ、いずれも抜け目なくものである―は、モロクの神(訳注:子供を生贄に捧げて祭ったセム族の神)への崇拝よりもいっそう残忍で、おぞましく、恐ろしく、非人道的なものではないだろうか。」

 

というものです。おそらく、ここで言う近代社会の偶像崇拝とは、共産主義体制等に見られるパーソナルカルト(個人崇拝)、あるいは、隠れた悪魔崇拝を意味するものと推察されるのですが、ここに、モロクの神という言葉を見出すことができます(マックス・ヴェーバーの『古代ユダヤ教』にも記述がある…)。モロクの神とは、モロコやマルクートとも称されますが、ユダヤ教の成立以前にあってユダヤ人(特に北アフリカから中近東)の間で崇拝されてきた半人半獣の神です(頭部は牛…)。ソロモン王が密かに崇拝していたとされつつも、新旧の両聖書にあっては拝んではならない異教の神とされています。いわば、正統のユダヤ教にとりましては、排除すべき神といえましょう。

 

ところが、このモロクの神への信仰、今日まで維持されていた可能性がないわけではありません。アメリカでは、2019年8月に、ユダヤ人の大富豪でありながら、刑事事件の被告人となったジェフリー・エプスタインという人物が謎の死を遂げています。同氏の交友関係は広く、アメリカのクリントン元大統領夫妻やイギリスの元ブレア首相、さらには、イスラエルのバラック元首相の名前も挙がっています。また、ロスチャイルド家やロックフェラー家といった金融財閥一族とも親交があり、英王室のアンドリュー王子との関係も取沙汰されています。いわば、超国家権力体の中枢部に身を置いていた人物であることは疑い得ないのです。そして、同氏が問われた罪とは、未成年の少女たちの虐待を伴う人身売買なのです(カニバリズムの噂も…)。

 

今日にあって、ディープ・ステートとも呼ばれるユダヤ系の超国家権力体にまつわる陰謀論にあっては、児童の人身供養の噂が絶えません。そして、エプスタインのような人物が実在していた事実を目の当たりにしますと、多くの人々は、モロクの神が密かに崇拝されつづけてきた可能性を頭から否定はできなくなりましょう。そして、同組織が全世界の諸国に及ぼす絶大なるパワーを考慮すれば、その存在は、全人類にとりまして深刻な脅威となりかねないのです(あるいは、バビロニアン・タルムードとも結びつき、シュラキ氏が指摘するように、モロコ教よりもより一層冷酷非道思想へとパワーアップしているかも・・・)。日本国内ではこうした情報は報じられることは殆どありませんが、自国、並びに、自国民の安全を護るためには、モロク教、あるいは、それ以上に恐ろしい存在を想定した上での対策を講じる必要があるのではないかと思うのです。


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人類はユダヤ人から救われたい?-ユダヤ・コミュニティーのパラドックス

2022年01月10日 14時30分35秒 | 国際政治

 近年、グローバリズムの源流という文脈から、’流浪の民’の運命を背負いつつ超国家的なネットワークを築いたユダヤ人やユダヤ教に対する関心が高まっています。そこで、ユダヤへの理解を深めるために、『ユダヤ思想』という本を読み直してみることとしました(アンドレ・シュラキ著、文庫クセジュ、白水社、1966年)。

 

 同書は、『文庫クセジュ』に収録されている一般向けに書かれた概説書です。著者のシュラキ氏は、16世紀にスペインからアルジェリアに移住したユダヤ人を祖先に持つ知識人であり、内部者としての視点から同書を執筆しています(フランス・アルジェリア・イスラエルの三重国籍?)。同書がフランスで初版されたのは、邦訳が出版される1年前の1965年のことですので、既に半世紀が経過しています。このため、本書は、グローバリズムが全世界を覆う前のユダヤ人の認識や考え方を知ることができる、貴重な書物の一つとも言えましょう。

 

 学生時代に読んだ時には差して気に留めることもなかったようなのですが(読んだことも忘れている…)、今日という時代背景に照らして注意深く読んでゆきますと、ユダヤ・コミュニティーに潜む重要なパラドックスが見えてくるようにも思えます。本来であれば丁寧に説明すべきなのですが、いささか大胆な要約をお許しいただけるならば、’ユダヤ教の救い’とは、以下のような論法となります(理解が間違っている、とする批判もあるかもしれません…)。

 

 ’神(YHWH)は単一にして至高であり(単一性、超越性、実在性)、人と同様に意思を持つ(神人同形同性論)。その神は、モーゼなどの預言者と契約を結ぶことで、ユダヤ人を全人類に愛と正義と平和をもたらす役割を担う特別の民族として選んでいる。しかしながら、神の意志を成就するためには、ユダヤ人は幾多の試練に耐え忍ばなければならない。そして、あらゆる迫害や苦難に打ち勝ってダビデの子孫の中から救世主メシアが現れた時、地上に人類の理想郷たる神の国が出現する。’

 

 この論法に従えば、ユダヤ人が神から選ばれた理由は、’全人類を救うため’ということになります。ところが、今日のユダヤ・コミュニティーの動きを見ますと、神から託された’使命’とは逆の方向に向かっているようにしか見えません。本書を読み進める中で、真っ先に頭に浮かんだのは、’何を言っているの。人類は、傲慢なユダヤ人から解放されたいのではないの?’というものでした。正直に申しますと、あまりの現実との違い、あるいは、独善に唖然とさせられてしまったのです。

 

シュラキ氏は、ユダヤ人の救い⇒人類の救いという普遍的、かつ、博愛主義的な構図で説明しており、ユダヤ人を、あくまでも、メシアの到来を待ちつつ迫害を甘受する被害者の立場に置いています。ところが、グローバリズムが全世界を覆う今日、ユダヤ系金融勢力は、デジタル、脱炭素、ワクチン(イスラエルが全世界に先駆けてワクチン接種を実施した理由もここにある…)を軸として全人類のコントロールを試みているかのようです。言い換えますと、ユダヤ人による世界支配(ユダヤ人にとっての救い)は、決して全人類の救いではなく、ユダヤ人以外の人類には、拝金主義的なユダヤ人の冷酷で独善的な支配、あるいは、迫害からの解放を必要とする状況を齎しているとも言えましょう。

 

神とユダヤ人との契約の内容が「モーゼの十戒」であるならば、ユダヤ人の多くは、その契約を既に破っており、名目的には’ユダヤ人’を称していたとしても、’神から選ばれし民’としての資格を失っています。今日のユダヤ・コミュニティーの主要勢力は、上述したユダヤ教の救いの論理からしますと、むしろ背信者であり、異端者と言わざるを得ないのです。それでは、何故、このような現象が起きてしまったのかと申しますと、トーラ(ユダヤ教の経典で、内容は旧約聖書とほぼ同じ)の注釈書としてのタルムード(反対解釈や曲解…、あるいは、二重思考の起源?)、並びに、他の宗教や思想の影響もあるのでしょう。そして、もう一つ、考えるべきは、ユダヤ人には聖書由来ではない別の宗教が存在していた、あるいは、している可能性です。この疑いについては、同書の最後の部分で、シュラキ氏は重要な情報を提供しているように思えます。(つづく)


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マクロン大統領は’現代のロベスピエール’?-未接種者への迫害

2022年01月07日 14時02分44秒 | ヨーロッパ

 つい数年前までは、現代という時代にあってフランス大統領が「国民の社会活動を可能な限り制限する」といった言葉を口にするとは、誰もが想像すらしなかったことでしょう。フランスは、’自由、平等、博愛’をスローガンとして世界に先駆けて大革命を起こし、人権宣言を発した国として知られています。そのフランスにあって、大統領その人が、国民の自由や権利への制限を公言しているのですから驚きです。

 

 もっとも、フランス革命の’その後’を思い出しますと、’さもありなん’とも思えてきます。ロベスピエールの恐怖政治にあって、’反革命’の烙印を押された国民は、公権力によって徹底的な迫害を受けた挙句に、最悪の場合にはギロチン台の露と消えたのですから。フランス革命の致命的な矛盾とは、国家が全ての国民の基本的な自由や権利の擁護者とはならず、フランス革命の理念に共鳴した国民のみに市民権を与え、その理念に反する国民を排除し、社会から抹殺しようとしたところにありましょう。つまり、人権宣言を高らかに掲げたフランス革命の行きつく先は、恐怖が支配する全体主義体制であったのです。

 

 この忌まわしき過去は、今日にあっても、何らかの出来事を切っ掛けとして顔を覗かせるようです。今般、マクロン大統領が国民の枠外に置き、迫害の対象に定めたのは、ワクチン接種を拒絶している国民です。’革命の理念’ならぬ’ワクチンの理念’に反する者は、もはや国家による保護対象に含まれず、社会において生きる権利が剥奪されるのです。そこには、全ての国民個々人の自由な判断や意志決定を尊重し、その幸せを願う慈しみ深い大統領の姿はありません(恐ろしく底意地の悪い政治家にしか見えない…)。

 

しかも、ワクチン接種を義務化する法案が昨年暮れには閣議決定され、議会下院でも可決されたと報じられております。上院での可決などの手続きを残してはいますが、同法案が成立すれば、大統領の言う’嫌がらせ’や’圧力’のレベルでは済まされず、より強い強制力が働くことでしょう。このままでは、ワクチンの接種場が、’現代のギロチン台’となりそうなのです。

 

 二度のワクチン接種でも、自ら感染もすれば他者を感染もさせますので、ワクチンパスポートの制度は非合理的であり、かつ、非科学的でもあります。理性が’理性信仰’というカルトに転じた側面も(’理性’と’信仰’との二重思考…)、フランス革命時と瓜二つなのですが、マクロン大統領、あるいは、その支持母体を強硬策に駆り立てているのも、革命思想と同様にワクチン接種が国家体制に関わるイデオロギー的な側面を持つからなのでしょう。言い換えますと、ワクチン接種が、同勢力が目指す’新しい国家体制’の樹立の基盤となるからこそ、何としても、全国民にワクチンを接種させたい動機と考えられるのです。

 

 実のところ、恐怖を利用した宗教集団への入信を含めた特定の集団や新しい体制への参加圧というものは、古今東西を問わず、人類の歴史に見られる古典的な手法でもあります。フランス革命も、その手法においては必ずしも’革命的’なものではなく、むしろ、古典的な手法を近代において蘇らせてしまった観さえあります(この観点からも’復古’と’革新’が並ぶ二重思考かもしれない…)。コロナ感染の恐怖では不十分とみて、マクロン大統領は、社会的排除という恐怖をも利用しようと考えたのでしょう。

 

日に日に’現代のロベスピエール’化してゆくマクロン大統領を、フランス国民は、どのような思いで眺めているのでしょうか。人権宣言がフランス革命の’光’であるのならば(真の光であるかどうかも怪しい…)、フランスの現状は、その’影’の部分とオーバーラップしているように思えるのです。


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北朝鮮の新型極超音速ミサイル実験は代理実験?

2022年01月06日 12時18分23秒 | 国際政治

 昨日1月5日、北朝鮮がミサイルの発射実験を日本海に向けて実施し、日本国内のメディア各社も速報として報じました。当初は’弾道ミサイル’とのみ報じられていましたが、本日の報道では、同ミサイルは、目下開発中の最新鋭の新型極超音速ミサイル、「火星8号」であったようです。

 

 極超音速ミサイルは、飛行中に弾頭が分離し、低空を変則的な軌道を描きながら音速5倍以上の速さで飛んでくるため、既存のミサイル迎撃システムを無力化するとされています。同技術が確立しますと’ゲーム・チェンジになる’とさえ言われていますので、いち早く同技術を手に入れるべく、今日、アメリカ、ロシア、中国、そしてインドがその開発に鎬を削っております。いわば、軍事大国が開発競争を繰り広げる先端技術なのですが、ここに、何故か、小国であるはずの北朝鮮が顔を見せているのです。そして、ここに、大手メディアが報じない事実が隠されているように思えます。

 

 北朝鮮による核開発が明るみとなった90年代にあって、同国の核保有の主たる動機として挙げられていたのは、核の抑止力論です。朝鮮戦争は未だ停戦状態にあり、終結しているわけではありませんので、北朝鮮が、超大国のアメリカと対等に渡り合うためには、NPT体制を悪用した核保有の’抜け駆け’を要した、というものです(実際に、両国のトップがテーブルに着いたトランプ・金米朝会談が実現している…)。核兵器の製造にはそれ程高い技術力を要するわけでもなく、かつ、北朝鮮はウラン産出国でもありますので、小国であっても核兵器さえ保有すれば、アメリカからの核攻撃を抑止し得ると共に、他の周辺非核保有国に対して軍事的に有利に立てるという見込みがあったからです。

 

 この時は、この説明に多くの人々が納得してしまったのですが、今般の極超音速ミサイルについては、抑止力論での説明には無理があります。そもそも、極超音速ミサイルは、防衛システムを破る対抗兵器として開発中の攻撃兵器であり、防衛を目的とした兵器ではありません。即ち、正当防衛論が通用しないのですから、同技術の開発そのものが、国連憲章、並びに、NPTに違反していると考えざるを得ないのです(もっとも、侵略の意図が明らかな敵地のミサイル基地を事前に破壊するために用いる場合には、正当防衛論は成り立つかもしれない…)。

 

 そして、何よりも、北朝鮮という国の謎を深めているのが、極超音速ミサイルがハイテク兵器である点です。核兵器は、今日ではテロリストでも製造できるとされるほどのローテク兵器となりました。一方、極超音速ミサイルの開発に取り組んでいる国の顔ぶれは、米ロ中印といった軍事大国であり、しかもハイテク技術を有している国ばかりです。一方、北朝鮮の人口、資源、技術、教育等のレベルからしますと、同国が、単独で同ミサイルを開発し得るとは考えられないのです(700キロメートル先の標的を正確に命中したとも…)。

 

 マスメディアの多くは、ミサイル実験は、主として北朝鮮の国内事情、あるいは、米朝関係において解説しています。しかしながら、単独開発が困難な高レベルの技術であるとしますと、北朝鮮の背後に潜む存在を推測せざるをえなくなります。つまり、北朝鮮は、新型極超音速ミサイルを代理実験したに過ぎない、とする疑惑があるのです。北朝鮮がサイバー攻撃によって米ロ中印から技術を盗取した可能性もないわけではありませんが、仮に、それが事実であれば、北朝鮮は、軍事大国が有する最高度のセキュリティー技術を掻い潜る技術を有していることになりましょう。そして、このサイバー技術も、北朝鮮が単独で開発したとも思えないのです。

 

 それでは、北朝鮮を背後から操っているのは、一体、どのような勢力なのでしょうか。最もあり得る推測は、中国、あるいは、ロシアであるというものです。特に中国につきましては、米中関係が悪化する中、極超高速ミサイルの実験をあからさまに実施すれば、アメリカを刺激し、かつ、国際社会からの批判も浴びるとして、北朝鮮に代理実験をさせた可能性があります(ロシアも、ウクライナ問題で緊張を高めたくない?)。あるいは、北朝鮮という’別動隊’の存在を暗に示すことで、アメリカに対して軍事的優位を誇示しているのかもしれません。そして、もう一つ、可能性があるとすれば、それは、全世界の諸国に対して隠然たる支配力を及ぼす超国家権力体です。この場合、北朝鮮の極超音速ミサイルの技術は、アメリカ内の超国家権力体由来である可能性さえありましょう。

                                                                                

  何れにしましても、北朝鮮による極超音速ミサイルの実験は、これまでのカバーストーリでは説明し切れない‘何か’を示しているように思えます。平和を望むならば、表に見える世界の背後に隠れている事実こそ丹念に調べ、真の姿を見極めた上での対応に努めるべきなのでしょう。そしてそれは、政府に期待できない以上、各国の国民に委ねられているように思えてならないのです。


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日本国はビル・ゲイツ氏の植民地?-高速炉共同開発問題

2022年01月05日 12時56分21秒 | 国際政治

 新年早々、アメリカが計画している高速炉の開発プロジェクトに、日本国も参加するとするニュースが飛び込んできました。同計画、アメリカのエネルギー省と民間のスタートアップとの共同プロジェクトとされていますが、このスタートアップとは、かのビル・ゲイツ氏が出資するテラパワーであるというのです。

 

 ビル・ゲイツ氏といえば、コロナ禍発生以前にあって、何故か既に日本国よる旭日大綬章の授与が決定されていたという謎があり、実際に、日本国内のワクチン接種プロジェクトにも関与しているとも囁かれています(一民間人でありながら、岸田首相とも会談している…)。山梨県の軽井沢には、凡そ6600坪とされる広大な敷地に’要塞’とも称されている別荘を建てているところをみますと、同氏は、日本国に対して格別の思い入れがあるようです。

 

さて、同氏がワクチンと並んで次なるビジネス・チャンスとして狙っているのは、エネルギー分野であるとされています。脱炭素によって化石燃料に対する風当たりが強くなっている今日、原子力発電は有力な電源として再浮上してきていますので、今般の高速増殖炉開発プロジェクトも、その一環として理解することができます。そして、エネルギー分野においても、日本国は同氏の踏み台にされそうな気配があるのです。

 

同氏の次世代原子炉の開発は今に始まったわけではありません。テラパワーの設立は2006年のことですし、2011年に東日本大震災に伴う福島第一原発の事故により原子力発電に対する安全神話が崩壊した直後にあっても、より安全な新型原子炉の開発を目指す旨の方針を表明しておりました。当初は、中国と組んでトリウム系燃料炉の開発を試みたようなのですが、2015年においては、既に高速炉の計画を打ち上げています。2015年時点での情報では、ゲイツ氏は、日本における高速増殖炉「もんじゅ」の開発過程で東芝が獲得した液体ナトリウム冷却技術を自らの開発に生かすために、同社と協力関係にあったとされています(今般のプロジェクトにおける日本国側の参加企業は三菱重工…)。

 

 ゲイツ氏が高速炉の開発を積極的に進める一方で、この時期の日本国内の動きを見ますと、脱・反原発運動もあって、政府もメディアも同技術を’失敗’と見なす傾向が強まり、「もんじゅ」に対する見方にも厳しさを増してゆきます。そして2016年には、正式に「もんじゅ」の廃炉が決定されるのです。いわば、日本国内での高速炉に対する評価は、ゲイツ氏とは正反対なのです。もっとも、日本国政府は、東芝との関係からも、テラパワーが高速炉の開発を急いでいるとする情報は当然に得ていたはずです。つまり、高速炉の技術が近い将来確立する可能性を知りながら、早々に同技術の開発を放棄してしまったことなるのです。

 

以上の経緯を振り返りますと、資源に乏しく、エネルギー自給率の低い日本国が、高速炉の開発を早々に断念した判断が正しかったのか、疑問なところです。フランスとの協力を探ったものの、同国が計画を中止したために宙に浮いてしまったとの指摘もありますが、他国との共同開発の形態ではなく、「4S炉」を開発中の東芝のような日本企業を支援し、日本単独で研究・開発を続ける道もあったはずです。テラパワーの思惑は、自らは莫大な投資と年月をかけて実験をせずして、日本国から設計技術や「もんじゅ」で得たデータを入手することにあるのでしょうから、これらを入手し、技術が完成すれば、その知的財産権やそれが生み出す莫大な利益は、同社がおよそ独占してしまうことでしょう(日本側への利益還元は、おすそ分け程度に過ぎないのでは…)。

 

ビル・ゲイツ氏とは、’デジタル、脱炭素、ワクチン’の三位一体を象徴するような人物なのですが、その何れにおいても、日本国が大きく関わっているように思えます。否、日本国の政策は、同氏の都合の良い方向に仕向けられているようにも見えてくるのです。アメリカの植民地時代には領主植民地という、富裕な貴族などが国王から勅許状を得て(買って)植民地を保有する形態がありましたが、現代にあっても、未だに’私有植民地’の感覚が残されているのではないかと危惧するのです。


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’日本が最下位論’から読む’資本主義’の行き詰まり

2022年01月04日 14時39分14秒 | 国際政治

 新たな年を迎えつつも、今日の世界情勢は、来し方を振り返る一瞬をも許さないような速さで既に走り始めているかのようです。ここ数年来、各国の政府もメディアも、何かに憑かれたかのように、コロナ、脱炭素、デジタルを軸として’前進’してきたのですが、今年も、この方向性は継続されそうな様子です。慌ただしく始まる2022年となりましたが、本年も、本音の記事を認めたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 

 さて、年明け早々、ネット上にありまして、新年らしからぬオンライン記事のタイトルを発見いたしました。それは、「「中国が急上昇し、日本が最下位に」年末に公表された"残念な世界ランキング"の中身」というものです(1月4日付PRESIDENNT Online)。例年ですと、年の初めに当たっては、どちらかと申しますと明るい未来を予感させるタイトルが大半を占めるのですが、今年は‘日本が最下位’という悲観論も登場する異例の年となったようです。

 

 それでは、日本国は、どのような事柄において’最下位’という不名誉な地位を得てしまったのでしょうか。それは、イギリスの慈善団体「Charities Aid Foundation」が毎年発表する「世界寄付指数(World Giving Index)」におけるランキングでのことです。同指数は、アメリカの市場調査会社ギャラップ社が114カ国、凡そ12万1000人の人々を対象として実施した電話インタビューの結果をベースとして作成されており、’見知らぬ人への支援’、’寄付’、’ボランティア’の3つの質問に対する回答を基準として算出されています。

 

 全114カ国中最下位という数字だけを見ますと、日本という国は他者に冷たく、人情に薄い酷薄国家という印象を受けるのですが、中国のランキング上昇は、習近平国家主席が唱える共同富裕の一環として実施されている国家主導型の寄付推進政策の結果ですので(2016年には「中国慈善法」が成立…)、同指数が、心の温かさを正確に反映しているとは言い難く、それ程に嘆く必要はないのかもしれません。そして、もう一つ、同記事において疑問を感じる点は、今日の’資本主義’が抱える最大の問題点は、現状にあっては富裕層による寄付が少ない、あるいは、格差是正の最良の方法は、富裕層による寄付の積極化である、とする結論に導いているように思えるところにあります。

 

 同記事は、「世界寄付指数」の紹介を以って全文が記されているわけではなく、前半部分にあっては、ステラのイーロン・マスク氏やGAFAMのCEOといった世界の大富豪に、年々富が集中してゆく現状を説明しています(おそらく、隠し財産などを合わせると習近平国家主席やプーチン大統領の方が上回るのでは…)。そして、こうした格差拡大の原因を、1980年代以降に全世界を席巻することとなった新自由主義の登場に求めているのです。

 

仮に、今後とも、規制緩和、インフラを含む民営化や公的資産の売却、市場の対外開放、非正規社員化、ジョブ型雇用の拡大、累進課税の緩和、独禁法の緩い適用といった同主義の政策を続けてゆくとなりますと、さらに格差は拡大してゆくことでしょう。しかも、ステラであれGAFAMであれ、ビリオネアとなれるのは、そのトップのみなのです。‘資本主義’の未来とは、1%どころか、極々少数の人々が、デジタル化をも手段としながら巨万の富、並びに、それを資金源として権力を掌握する世界なのです。そして、同記事は、その是正のために推奨されるべき解決方法こそ、これらの人々による自発的寄付ということなのでしょう。しかしながら、果たして、こうした経済システムは、人類にとりまして望ましいスタイルなのでしょうか。

 

 寄付とは、専ら’持てる者’の一方の意思に依拠するものですので、人と人との関係にあっては対等な合意を要しません。寄付を前提としたシステムは、経済システムの類型からしますと、もはや対等な関係における’交換’に基づく自由主義経済のシステムではなく、配分型のシステムに限りなく近づくことでしょう。ソ連邦といった社会・共産主義国では、経済を計画・統制する立場にある政府が配分者となりましたが、’資本主義国’では、寄付者となる民間の大富豪が配分者となるのです。そして、配分(寄付)の目的、対象、金額といった様々な条件や詳細は、寄付者の一存に任されますので、寄付者の個人的な好悪や気まぐれによって、人々の生活は不安定化することでしょう(あるいは、寄付者が破産した場合には路頭に迷うことに…)。

 

 ’資本主義’というシステムが経済システムの一類型に過ぎないとしますと(大富豪牽引型の経済?)、人類には、民主主義や個々人の自由とも調和する別の道もあるように思えます(もちろん、共産主義も失敗モデル・・・)。経済における人と人との関係が一方的となるシステムは搾取を生みますし、容易に支配・被支配の関係に転落してしまいましょう。今年は、多くの人々が、新たな道を探求し始める年となることを願っております。


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