万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

防衛には合理性の徹底が必要では-勝てない戦争の問題

2022年11月30日 11時27分05秒 | 国際政治
 日本国政府は、NATO諸国の基準に合わせて防衛費をGDPの2%に当たる額まで増額する方針を示しています。財源は増税と言うことなのですが、防衛の分野では、予算の配分に際して合理性に徹しませんと、全くの無駄になってしまうことも稀ではありません。

 昨日、11月29日に米国防総省が発表した中国の軍事活動に関する年次報告書によりますと、中国は、1935年を目処に核兵器の保有数を現在の4倍強となる1500発まで増強する方針なそうです。‘持てる国’と‘持たざる国’との格差は広がるばかりなのですが、NPT体制の致命的な欠陥を考慮しますと、日本国政府の軍備増強は、無駄などころか日本国を滅亡させかねないリスクがあります。

 それでは、何故、軍備を増強すると日本国が消滅するのでしょうか。力には攻撃力と抑止力の両面がありますので、今般の防衛力増強の方針については、反撃能力を備えることも目的の一つとされていますので、攻撃・抑止の両面を強化する一石二鳥の策と言えましょう。自公政権の説明は、抑止力の側面を強調しているものの、同時に攻撃力が強まることも確かなことです。しかしながら、今日、国際社会には、NPT体制が成立している点を考慮しますと、必ずしも反撃力への傾斜的予算の配分が、自国の安全と繋がるとは限らないことに気がつかされます。

 何故ならば、NPTを遵守している限り、日本国は、通常兵器のみで戦わざるを得ないからです。その一方で、中国は、上述したように核兵力の増強に踏み切っています。NPTでは、核保有国に対して核軍縮の協議を行なうように義務づけているのですが、中国には、同義務に従う意思はさらさらないのです。言い換えますと、仮に中国が核兵器の使用に踏み切った場合、現時点でさえ400発程の核ミサイルを保有しているのですから、非核保有国は、核ミサイルの一斉攻撃を受け、国家滅亡を運命付けられてしまうのです。この運命は、たとえ日本国が反撃能力を備えたとしても、免れることはできません。先制攻撃となる第一撃において中国が日本国の反撃力を予め完全に排除するために核兵器を使用するケースも想定されるのですが、通常兵器による戦いから始まったとしても、日本国並びに日本国民の置かれる状況はあまりにも悲劇的です。

 ウクライナ紛争にあっては、ロシアは、現段階では核兵器を使用しておらず、双方共に通常兵器の戦いに終始しています。また、国際社会では、核保有国に対して核の不使用が強く訴えられています。このため、核の使用は考慮から外しても構わないとする楽観的な見解もないわけではありませんが、通常兵器による戦いは、日本国にとりまして悲惨な結果しか予測できないのです。

 第一に、使用兵器を通常兵器戦に限定した場合、戦争の長期化が予測されます。日本国政府の計画が実現すれば、今後、防衛費は5年間の総額で凡そ40兆円に増額されますし、GDP2%の予算原則を継続してゆけば、防衛力が強まることは確かです。また、日米同盟に基づく米軍の援軍も期待できますので、通常兵器戦での戦いは必ずしも不利とは言えません。しかしながら、GDP規模で日本国を上回る中国の軍事予算は日本国を遥かに上回ります。しかも、同年次報告書が指摘するように、中国の兵器開発は、宇宙空間をも視野に入れており、「インテリジェント化」も積極的に推進しています。近い将来、中国の軍事力は量と質の両面においてアメリカを上回るとする予測もありますので、時間の経過と共に、通常兵器戦でも日米側が不利に傾くと同時に、戦争は、泥沼化してゆくものと予測されるのです。

 通常兵器のみによる戦いは、戦争の長期化に伴う延々と続く双方の人命の犠牲と国土の破壊を意味します。勝敗を決するような決定的な出来事が起きない限り、戦争状態がだらだらと続く一方で、国民は、たとえ休戦協定が成立したとしても、長期に亘り凡そ全体主義と同義となる戦時体制下に置かれます(オーウェルが描いた『1984年』の世界・・・)。人的、物的被害が日本国を蝕み、資源も軍備に優先的に配分されますので、経済が衰退すると同時に国民生活も困窮することでしょう。

 第二に、通常兵器戦で日本国側が優位な戦況となっても、核保有国が相手国となる戦争では、戦争の勝敗はいとも簡単に覆されてしまいます。日本国の勝利が目前となれば、最終兵器として中国は核を使用することでしょう。現在、ウクライナに対して核兵器が使用されていないのは、劣勢が報じられつつも、ロシアは核兵器使用を決断するほどには追い詰められていないからとされます。日本国内でも、集団的自衛権の発動や反撃能力については、「存立危機事態」に際しては許されるとする見解が示されていますが、ロシアであれ、中国であれ、核保有国は、同様の論理によって核兵器の使用を躊躇わないものと推測されます(中国の1500発の核兵器は日本国を壊滅させることはできても、日本国は、その逆はできない・・・)。

 中国の核使用については、日本国に同盟国であるアメリカがさしかけている‘核の傘’を以て抑止されるとする期待があるものの、対日核攻撃を目の当たりにしたアメリカが、自国への報復核攻撃を覚悟してまで核兵器による対中反撃を試みるかどうかは未知数です。否、自国の安全を優先し、核による対中報復を思いとどまる可能性の方が高いと言えましょう。この観点からニュークリアシェアリングを見ますと、日本国への米軍の核配備は、双方の報復による核戦争の舞台が日中両国になるか、あるいは、核のボタンを握るアメリカの判断により日本国配備の核ミサイルは発射されることなく放置されるかもしれません。

 以上に述べましたように、通常兵器による戦いは、決定的に日本国側に不利となります(ただし、‘通常兵器’が、中国から発射された核ミサイルをすべて打ち落とす能力がある場合のみ、購入配備する価値はある)。となりますと、この否定しがたい事実を前提とした防衛政策を策定しないことには、日本国政府による軍備増強は気休めにしか過ぎなくなります。そこで、より現実的な対応を試みるとすれば、反撃能力を備えるならば日本国は独自に核を保有すべきですし、「武力攻撃事態」並びに「存立危機事態」に直面しても、あくまでもNPTを遵守するならば、防衛予算は、ミサイルによる大規模攻撃に備えた反撃能力よりも地対空ミサイルやミサイル防衛システムの導入といった防衛面に重点的に配分すべきと言えましょう(原子力発電所の周辺にも配備が必要かもしれない・・・)。防衛政策には徹底した合理性並びにリアリズムが必要であり、これらをなくしては、国家や国民を守ることはできないと思うのです(つづく)。

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中国国民による反体制デモの吉凶

2022年11月29日 10時39分44秒 | 国際政治
 厳格な情報統制が敷かれ、徹底した国民監視体制を整備してきた中国において、遂に習近平国家主席並びに共産党一党独裁体制の退陣を求めるデモが起きたそうです。現体制の幕引きを求める声とは、即ち、自由化並びに民主化を求める声に他ならず、天安門事件以来の反体制運動とする指摘もあります。その背景には、新型コロナウイルスの感染者数をゼロに封じ込めようとする習政権強硬政策があるのですが、同運動、吉と出るのか、凶と出るのか、現段階では判断が難しい状況にあります。

習政権が推進してきた‘ゼロ・コロナ’とは国民向けの表向きの理由に過ぎず、その真の目的は、国民管理体制の一層の強化であったかのもしれません。感染者や陽性者に対する隔離政策は、あたたかも自宅軟禁や強制収容所への収監の如くであり、‘ゼロ・コロナ’は、国民を監獄に閉じ込めるための絶好の口実です。‘国民の命を感染症から守るため’と称しつつ、その実態は、‘習近平独裁体制を国民から守るため’であったのかもしれないのですから。しかも、目下、中国では不動産バブルの崩壊も懸念されており、経済成長も著しく鈍化しています。若年層の失業率も20%台ともされ、自らの将来に絶望した人々が、権力も富も一部の特権階級が独占する現体制の打破を目指してもおかしくはありません。今後、同運動がさらなる拡大を見せ、多くの国民が参加、あるいは、賛同する中で国民を独裁者や共産党による圧政から解放し、民主主義体制へと転換する契機ともなれば、同運動は、民主国家中国の出発点ともなりましょう。

中国が民主化されれば、国際社会もまたチャイナ・リスクの低下に安堵するのですが、こうした‘吉’となる展開が期待される一方で、中国は、権謀術数に長けた国であり、かつ、外部からの狡猾な‘入れ知恵’も推測されますので、それなりの警戒も必要なように思えます。最大の懸念材料は、同運動が、習政権あるいは世界権力の‘罠’もしくは‘カバー・ストーリー’である点です。

第1の可能性は、習主席をはじめとした体制派が、敢えて反体制派の国民や不満分子を炙り出し、一網打尽に排除するために、その‘おとり’としてデモを仕組んでいる、あるいは、内部からコントロールしているというものです。この場合、弾圧の手はずは既に整えられており、天安門事件や香港での経緯と同様に、抗議運動が一定の段階まで進行した段階で、人民解放軍の投入も辞さずの構えでデモ参加者の人々を一掃してしまうことでしょう。天安門事件でも、学生側の組織内部に工作員が送り込まれており、事態がエスカレートする方向に煽ったとされます。

第2に、同運動もまた、‘カラー革命’の様相を呈しています。今回は、自由を象徴するとして白色が選ばれていますが、‘オレンジ革命’や‘パープル革命’といった特定の色に反体制や共闘の意味を持たせる‘カラー革命’の背後には、しばしばソロス財団といった世界権力が潜んでいると指摘されてきました。今般の反体制デモが‘白色革命’であれば、その狙いは、民主的で安定した新生中国の誕生ではなく、利権を漁るに好都合な長期的な混沌・混乱状態であるかもしれません(もっとも、敢えて’無カラー’の白を選んだ可能性、あるいは、共産主義の’赤’への対抗という可能性も・・・)。たとえ‘白色革命’が成功し、共産党一党独裁体制が崩壊したとしても、いつまで経っても民主的制度が整わず、国民が自由も安定した生活も享受できないという事態も想定されるのです。

第3に、反体制デモの首謀者が、独裁体制を強化したい習国家主席であれ、体制崩壊に導きたい世界権力であれ、そして、両者の共謀であれ、その目的は、戦争への導火線を引くことである可能性もあります。これは、カバー・ストーリーのための‘アリバイ造り’とでも表現すべき策略であり、‘国民の不満を外部の敵に向けるため’と称して戦争を始めるというリスクです。奇妙なお話なのですが、国情が不安定な国家が、死活的な国益の衝突がないにもかかわらずに戦争に訴える場合、‘国民の不満が高まったから’とする説明に納得してしまう人は少なくないのです。

これらの3つのケースの場合、反体制デモは‘凶’となるのですが、もう一つ、吉凶のどちらとも付かないケースがあるとすれば、それは、先の共産党全国大会にあって、習主席によって失脚を余儀なくされた胡錦濤派(共青団)、あるいは、江沢民派(上海幇)による巻き返しである可能性です。天安門事件の激化も、民主派とされた胡耀邦氏の死去を機としており、胡錦濤前主席はかつて胡耀邦氏を後押ししていただけに、この線もあり得るように思えます。指導層内部の権力闘争が絡んでいるとすれば、国民の支持、あるいは、アメリカをはじめとした諸外国の対応次第では、天安門事件とは異なる展開となるかもしれません。

以上に、中国で発生した反体制デモについて述べてきましたが、‘凶’とならないためには、事態の慎重な見極めを要しましょう。現体制を変えたいとする中国国民による自発的な参加やサポートが増え、かつ、罠や外部からの工作に対する警戒を怠らずに賢明な行動を心がけるほど、‘吉’と出る可能性は高まります。中国の国民には、自らの手で自由と民主主義を勝ち取っていただきたいと願うのです。

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ロシアによる日本攻撃計画を読む

2022年11月28日 12時35分41秒 | 国際政治
今月11月25日付でニューズウィーク誌が報じたある記事が、日本国内で、注目を集めることとなりました。その記事とは、ウクライナへの軍事介入に先立つ2021年8月頃に、ロシアが、かなり真剣に対日攻撃を準備していたというものです。にわかには信じがたい記事の内容なのですが、同記事は、一体、何を意味しているのでしょうか。

同記事が正しければ、プーチン大統領の第一義的な目的は、ウクライナ国内のロシア系住民を保護することでも、東南部も分離独立を支援することでもなく、‘戦争を起こすこと’であった、ということになりましょう。ウクライナは選択肢の一つに過ぎず、戦争さえ引き起こすことができれば、どこでも構わなかったのです。もっとも、日本国が相手では、国際社会に対して正当性や合法性を主張し得る戦争の口実を‘創る’のが難しく、準備はしたけれども、結局は断念したと言うことなのでしょう。昨年の8月8日に、ロシアは、第二次世界大戦時の日本軍に関する機密文書が解除しましたが、同月中旬頃になると報道の論調が過激となり、「日本は残忍な生物化学の実験を行い、残酷で、ナチズムへと向かう性向がある」とする方向に世論を誘導しています。対日糾弾の激化は、開戦を前にした敵愾心を煽り、自らを‘被害側’と位置づけるための戦争プロパガンダの一環と見られますので、同情報は、ある一面、事実を述べているのでしょう。しかしながら、同記事には、不審な点もいくつか見られます。

第一に、記事の出所は、ロシアのロシア連邦保安庁(FSB)に潜んでいる‘内部告発者’としています。「変革の風」を名乗る同内部告発者は、フランスに亡命した元実業家にして人権擁護活動かであり、かつ、ロシア内部の腐敗を告発する「グラグ・ネット」の運営者であるウラジミール・オセチキン氏に情報を提供しており、今般の対日攻撃準備の件も、同氏からのメールによるそうです。記事の信憑性については、専門家がお墨付きを与えていますが、厳格な情報統制が敷かれているロシアにあって、かくも容易に内部告発のメールが送信できるのも、不審な点の一つです。むしろ、‘内部告発者’が二重スパイ、あるいは、偽情報を掴ませるための工作である可能性もありましょう。

第二に、同情報を公開した目的についても、不審点があります。何故ならば、ロシアによる対日攻撃準備が事実であれば、同情報によって最も‘得’をするのは、ウクライナであるからです。ウクライナは、‘自国は日本国の身代わりとなった犠牲者である’とする立場を国際社会に対してアピールできます。ポーランドへのミサイル着弾事件を機に、ゼレンスキー大統領に対する風当たりも強くなり、アメリカでも、ウクライナへ支援の見直しを求める声も上がっています。窮地にあるウクライナが、他の諸国、特に日本国の支援を引き留めるために、‘身代わり説’を流布しようとした可能性も否定はできません。

第三の不審点は、ロシアの計画があまりにも無謀である点です。同記事では、北方領土問題が発火点となるかのように説明していますが、現在、北方領土は、既にロシアの占領下にあり、同国の国内法によって併合されています。仮に、北方領土が発端となるとすれば、ロシアではなく、日本国が、領土奪還を口実にロシアに対して武力攻撃しなければ、戦争は始まらないのです。このシナリオは、日本国内の世論や政治状況にあっては不可能に近いと言えましょう。また、日米同盟が存在していますので、ロシア側が日本国を攻撃すれば、米軍と戦うことをも覚悟しなければならなくなります。同記事では、局地戦になるとしていますが、プーチン大統領の真の目的は、対日戦争を越えた第三次世界大戦の誘発であったと考えざるを得ないのです。もっとも、日本国側からの先制であれば、日米同盟は発動されませんので、何らかの方法で日本国を挑発しようとしたとも考えられます。

そして、第4の不審点は、記事が述べている「反日情報キャンペーン」の内容が、中国の主張と重なる点です。731部隊については、同部隊が人体実験の対象としたとされる人々が、主として捕虜やスパイ容疑で拘束されていた中国人であったことから(もっとも、真偽については議論がある・・・)、中国側が積極的に対日プロパガンダに用いてきました。少数ながらもロシア人も実験の犠牲者となったとする指摘もありますが、対日攻撃の根拠としてはあまりも薄すぎます。むしろ、ロシアではなく、中国の計画なのではないかとする疑いも生じます。

 以上に主たる不審点として4点ほどを挙げてみましたが、今般の対日攻撃計画は、どこか、‘ちぐはぐ感’が拭いきれません。その一方で、ある一つのシナリオを想定しますと、ロシアや同情報を発信する側の不審行動に説明が付くように思えます。それは、同計画は、ロシアというよりも、ロシアをも背後からコントロールする‘世界権力’によるものではなかったのか、というものです。第三次世界大戦を渇望しているのは‘世界権力’であり、今なおも、傘下のメディアを駆使して同シナリオを実現すべくグローバルな情報操作を実行しているのかもしれないのです。どの国のどの地域であれ、第三次世界大戦さえ起こせば、彼らの野望は達成されるのでしょう(それ故に、中国が同計画を実行に移す可能性も・・・)。

 同記事を書いたのは、イザベル・ファン・ブリューゲンという名の記者であり、オランダ系である点も気にかかるところです。本記事への日本国内での反応として対ロ戦争を想定した軍備増強論も聞かれますが、煽られた末に戦争への道に引きずり込まれないよう、情報作戦や世論誘導のリスクには十分に気をつけるべきではないかと思うのです。

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現代の政治制度に欠けている理系思考-強度設計への無関心

2022年11月25日 11時10分31秒 | 統治制度論
 今日の政治の世界は、不条理かつ筋の通らない出来事が多々見受けられ、しかも政治家による利己的欲望が目に余る腐敗をもたらしています。国際社会にあっては紛争や戦争が後を絶たず、外部から迫り来る安全保障上の脅威は、自由や権利の制限並びに増税といった形で国民をも圧迫しています。加えて、世界権力によるデジタル全体主義の影も忍び寄っており、状況は悪化する一途を辿っているかのようなのです。こうした状況を目の当たりにしますと、現代の政治には、決定的に欠けているものがあるのではないかと、ふと、思うようになりました。欠けているもの、それは、理系思考です。

 例えば、民主主義という価値を具体化する制度について考えてみましょう。前回のアメリカ大統領選挙のみならず、今般のアメリカの中間選挙でも、不正選挙疑惑が持ち上がることとなりました。政権の正当性を揺るがす大問題に発展したのですが、デジタル技術の有無に拘わらず、民主的選挙制度が極めて脆弱であり、十分に民主主義を具現化していないことは疑いようもありません。従来型の買収や組織票の問題もありますし、地割りとなる選挙区自体がそもそも適切であるのか、といった根本的な疑問もあります。この結果、政治と民意との間には真逆ほどの相違が生じる事態を招いています。つまり、制度設計上に重大な欠陥があるにも拘わらず、政治家の誰もが、自らの損得勘定ばかりに関心を向けてそれを是正しようとしないのです。

 例えば、構造力学的な視点から見ますと、重大な欠陥を放置したままに設計図どおりに建設し、それを運営することはあり得ないことです。デザイン画が如何にすばらしく描かれた橋や建物でも、強度計算を怠ったり、それを無視しますと、橋はあえなく落下してしまい、建物も崩れてしまうからです。崩壊しない建造物を造るためには、極めて緻密に強度の計算をし、安全基準を満たさなければならないのです。

 構造物に作用する荷重は一つではなく、主荷重、従荷重、特殊荷重などを合わせると20以上にも及びます。加えて、力学、地質学、土質工学、水理学、振動学、地震学などの幅広い知識をも要します。建造物はこれらの全てに耐えなければならず、強度設計は、それを用いる人々の命を守るために必要不可欠となる極めて基礎的な作業なのです。普段は意識されないのですが、あらゆるインフラストラクチャーも、強度計算があってこそ初めて人々が安心して使うことができるのです。

 こうした観点からしますと、今日の民主的選挙制度とは、デザイン画の段階に過ぎないようにも思えてきます(イデオロギーに至っては、その最たるもの・・・)。選挙に際して内部、並びに、外部から加わるあらゆる‘荷重’について、それらに耐えるための工夫が十分になされているとは言い難いからです。力学的発想を加えれば、民主的選挙制度は、金融・財閥からのマネー・パワー、各種利益団体のロビイング、メディアの世論操作、外国からの政治・軍事的圧力といった外部荷重に耐えるよう設計されなければなりませんし、近年のデジタル技術の発展については、それが選挙に与える負の作用についても強度計算に加える必要がありましょう。また、新興宗教団体の動員パワーなども、国民と政治との繋がりを絶ちかねない危険な荷重となります。政治では、様々な要因が、民主的制度を脆弱化する荷重として働きますので、これら全てのマイナス影響をゼロ、あるいは、最小化し得る制度設計が望ましいと言うことになるのです。選挙の結果に対して疑いが生じている現行の選挙制度は、既に民主的制度としては崩壊しているとも言えましょう。

 こうした理系思考の欠如は、政治のみではなく、経済や社会においても見られます。度々バブル崩壊を起こす金融の世界も、‘水流’や‘水圧’が調整されておらず、‘治水システム’が未整備であるからなのでしょう。バブルを未然に防ぐためには、金融システムの設計に際しては、様々な荷重に関する複雑な計算を行なう必要があるのかもしれません。

 もっとも、理系の世界は基本的には物理的法則に従いますので、普遍的な計算式を導き出すことができますが、文系の世界では、人々の意思が決定要因となりますので、感情による制御不能や予測不可能性、並びに、情報の正確性や充足性の確保など、それ固有の問題があります。言い換えますと、民主的制度には、どのような人物が公職に就いたとしても(そもそも、不適格者が就任できないシステム設計が望ましい・・・)、また、様々な方面から破壊的な作用を及ぼす多様な荷重が加えられたとしても、決して制度崩壊が起こらず、国民と政治とを結ぶ機能を果たし続けられ得る強度計算が要とされるとも言えましょう(スーパーコンピューターなども活用できるのでは・・・)。民主的制度の強度強化には、従来の制度に拘らない新たなアイディアも必要かもしれず、理系思考に基づく発想の転換こそ、現代という時代にあって、民主主義を崩壊の危機から救い出すのではないかと思うのです。

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ウクライナ紛争の平和的解決には国際社会の中立化が必要では?

2022年11月24日 12時41分42秒 | 国際政治
 アメリカを筆頭とする自由主義国は、ロシアによるウクライナに対する軍事介入を‘侵略’と見なすことで凡そ一致しています。日本国政府も例外ではなく、NATO諸国に同調する形で対ロ政策に踏み切り、旗色を鮮明にしています。しかしながら、ウクライナ東・南部の歴史的経緯からしますと、同地域には、当事国双方のみならず国際社会が認めるいわゆる‘政治問題’があります。ここで言う政治問題とは、純粋に国際法上の違法性が問われる法律問題ではなく、双方の権利主張や利害が対立する問題領域を意味します(国内法の区別からすれば、犯罪に関する刑法ではなく、権利の所在に関する民法上の問題・・・)。

 ところで、政治問題と関連して、日中間に横たわる尖閣諸島問題については、しばしば‘領土問題’という言葉が使われています。同問題に対して、日本国政府は、‘同島の領有権を主張する中国には、一切の歴史的根拠も法的根拠もない’と主張する際に、‘領土問題はない’と表現するのです。日本国政府が、同問題を国際司法解決に託そうとしない理由も、‘提訴すると問題自体の存在を認めることになるから’と説明されてきました。用法からしますと、日本国内で用いられている領土問題という表現は、領土に関する政治問題として理解されましょう。余談となりますが、中国が同島を自国領と見なし、軍事力を用いて編入しようとしている現状があるのですから、日本国政府が国際司法機関に対して領有権確認訴訟を起こしたり、あるいは、国連安保理に‘侵略の兆候’として訴えたとしても、中国の主張を認めたことにはならないと考えられます(中国による侵略未遂行為、即ち、法律問題とするスタンスに徹するならば、司法解決を求める方が一貫性がある・・・)。

 それでは、仮に、日本国政府が領土問題であると認めますと、一体、何が起きるのでしょうか。尖閣諸島は、日米安保条約の適用対象から外されると共に、国連安保理において侵略認定の決議を求めることも難しくなります。例えば、北大西洋条約もリオ条約(米州相互援助条約)も、イギリスとアルゼンチンの両国が政治問題として認めていたため、フォークランド諸島については集団的自衛権を発動させませんでした。両条約の重複締約国であるアメリカのみならず、リオ条約の非締約国であるフランス、ドイツ、イタリアと言った他のNATO加盟国も動かなかったのです。

 もっとも、国連安保理決議については、イギリスが同理事会の常任理事国であり、同政府による提案であったことから、「国際連合安全保障理事会決議502」は、イギリス側に国連憲章第51条、即ち、自衛権の行使という選択肢を与えるものとなりました。しかしながら、同決議は、両国の即時停戦、アルゼンチン軍の完全撤退、並びに、外交的解決を促す内容となり、イギリスも個別的自衛権の行使に留まったのです。かくして、フォークランド紛争は、イギリス側の軍事的勝利によって幕を閉じます。

 以上に述べたように、政治問題と法律問題の区別は、集団的自衛権の発動にも拘わりますので、国際社会にあって極めて重要な判断基準となります。この点、政治問題化は、尖閣諸島問題については日本国に不利に作用するのですが、ウクライナ紛争に照らしてみますと全く利点がないわけではありません。

 第一の利点は、連鎖的な戦争の拡大が起き難いという点です。フォークランド紛争の場合には、NATOもリオ条約加盟国も、同紛争を二国間の領土問題として認識したために、集団的自衛権の発動を控えています。ウクライナ紛争も、その根本的な原因は、自国内の民族紛争から発展した内戦にあります。2014年9月5日にウクライナ、ロシア、ドネツク、ルガンスクの代表が調印した停戦協定であるミンスク議定書の存在も、同問題が、‘政治問題’であることを示しています。ましてや、ウクライナは、NATO加盟国でもありませんので、国際社会は、むしろ、領土拡張を目的としたロシアによる一方的な侵略とする見方を和らげるほうが、第三次世界大戦を回避することができましょう。

 第二の利点は、政治問題の場合、武力では完全解決には至らないという点です。フォークランド紛争はイギリス側の勝利で終わりましたが、戦争による勝利は、法的な領有権の確立を意味していません。現に、フォークランド諸島の領有権については未だ決着が付いておらず、真の解決は、両国間による将来の交渉に持ち越されているのです。尖閣諸島についても、仮に、中国が同島を軍事占領したとしても、日本国側は、同島に対する領有権を主張し続けることでしょう。このことは、ウクライナにおける戦闘もまた、結局は同問題を解決しないことを意味します。戦争が長引くほどに徒に人命が失われ、国土が破壊されるのですから、双方とも終戦の方向に転じた方が、これ以上の被害・損害の拡大を留めることができます。

 第三の利点としては、紛争地域が地理的に限定された政治問題であれば、当事国双方ともに‘国家滅亡の危機’まで追い詰められるリスクが低くなる点を挙げることができます。この点、ロシアがミサイル攻撃の範囲を広げており、楽観視は許されないのですが、少なくとも敗北を目前としたロシア側が、窮鼠猫をかむ形で核兵器を使用する口実は失われます。

 政治問題にも以上に述べたような利点があるとすれば、国際社会は、ウクライナ紛争の仕切り直しに努めるべきかもしれません。つまり、当事国以外の諸国は、自由主義国を含めて自国の対場を中立の方向に軌道修正すると共に、当事国間に敵味方の対立関係を徹底的に封じ込めつつ、全面包囲網的な圧力をもって平和的解決を目指すのです。先ずもって、当事国双方の代表が席に着くべく、和平交渉の場を設けることが重要となりましょう。国際機関、あるいは、双方が認めうる中立的な国が両国を交渉のテーブルに招く形が望ましいのかもしれません。もっとも、国連安保理におけるウクライナ寄りの姿勢が和平にとりましては障害となる可能性があり、国連の完全なる中立化も課題となりましょう。何れにしましても、当事国以外の諸国、並びに、国際機関の中立化こそ、戦争拡大を望む勢力をも押さえ込み、同紛争を平和的解決へと導くのではないかと期待するのです。

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民主主義には国家の枠が必要では?-独立性と自治の行方

2022年11月23日 13時34分50秒 | 統治制度論
 民主主義の価値を端的に表す言葉として、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズがしばしば引用されてきました。この誰もが知る有名な言葉は、民主主義国家とは、‘人民’自身による自治を実現する国家体制を意味することの表明であることは言うまでもありません。しかしながら、‘人民(the people)’とはどのような集団なのか、という点については、これまで深く議論されてはきませんでした。このため、今日では、‘人民’を‘人類’全体とみなすグローバル民主主義も提唱されることとなったのですが、果たして、国境も国民も消え去ったグローバルなレベルでの民主主義は成り立つのでしょうか。

 国境を越えた広域的な民主主義については、しばしばヨーロッパにおいて誕生したEUが引き合いに出されてきました。EUは、それ独自の統治機構を備えており、欧州議会選挙やイニシャチヴの導入等は、同機構が民主主義を基本原則として設計され、かつ、改良されてきたことを示しています。その一方で、加盟国からEUに政策権限が移るほどに民主主義のレベルが低下する、‘民主主義の赤字’問題に悩まされてきており、今日なおも、同問題は完全には解決されていません。否、むしろEUは、民主主義の広域化の限界を示しているとも言えましょう。

 EUが示す限界点とは、主に、加盟国間における文化や国民性の多様性のみならず、人口規模や経済規模における著しい格差に起因しています。とりわけ人口規模は、一票の価値の平等を求める民主主義にあって、政策決定や立法における主たる決定要因となるからです。‘政治は数’と揶揄されるのも数の力がものを言うからに他ならず、単純多数決という決定方法は、人口規模の大きな国に絶対的な優位性を与えます。その一方で、国家連合であるEUは国家の枠組みを維持していますので、一国家一票同価値では、今度は、人口規模の大きい国に不満が生じてしまうのです。

このため、EUでは、各国の理事会での票数や欧州議会の議席数に関しては、大国に対しては人口比よりも少なめに配分しつつ、小国には多めにすることで‘数の力’のバランスを取ろうとしています。大国の‘支配’と小国の‘反乱’の両者を封じると共に、国家間の平等と欧州市民間の平等の両者を満足させなければならないのです。こうした制度的な工夫にも拘わらず、今日、経済力においても優るドイツの一人勝ちが指摘され、また、トルコ加盟が人口問題から頓挫しているように(民主主義の‘数の論理’を徹底させてしまった場合、人口規模の大きいトルコが、ヨーロッパの命運を決めることになる・・・)、数の力は、EUの方向性をも決定する重要な作用を持つのです。さらに、欧州委員会が主導権を握りますと、’欧州益’なるものが優先され、構成国の国益は二の次とされるのです。

 以上に述べたEUのジレンマは、グローバル民主主義の実現が如何に困難であるのかを物語っています。国家の枠組みが維持されているEUでさえ、無制限にEUに政策権限を移譲しますと、自国の民主主義体制が融解してしまい、人口大国に決定権を握られかねないからです。政策決定権を手放すことは、国家としての独立性を喪失することと凡そ同義となります。仮に、国境をなくし、国民の枠組みをも融解させるとしますと、そこに待っているのは、人口大国による支配かもしれません。

国民の枠組みが維持されている限り、政治的独立の権利を有する各民族は、国家という枠組みにおいてマジョリティーであり、固有の文化や伝統、慣習などを維持し、自らの社会を築くことができます。しかしながら、一端、その枠組みが崩壊しますと、全体に対する人口比が劇的に変化しますので、もはや自治を実現することはできなくなるのです。しばしば、EUの形成期にあって、肯定的な意味において‘卵の殻を割らなければ、オムレツはできない’と言われたのですが、国境という殻を割った結果、不味くて食べられないようなオムレツができあがるかもしれません。否、不味いならまだしも、このオムレツは、人口大国、あるいは、言葉巧みに国家を消滅させることに成功した世界権力によって食べられてしまうかもしれないのです(後者のケースでは、最終的には、全ての人種や民族がメルティングされ、’人類益’あるいは’地球益’の名の下でITやAIによる官僚支配となるかもしれない・・・)。

日本国を事例として想像してみますと、その問題性がより理解されます。今日、日本国内での中国系やインド系の人口数は全人口の数%に過ぎませんが、国家の枠組みが消えた途端、人口大国出身者がマイノリティーからマジョリティーへと一気に躍り出るからです。全体的な枠組みでは日本人住民がマイノリティーに転落すると共に、グローバルレベルでの統治にあっては、常に同レベルで決定された事項に従う存在に過ぎなくなりましょう(もっとも、政治家が世界権力の支配網に組み込まれていれば、水面下では既に同状態に至っている可能性も・・・)。結局、古来人々を苦しめてきた‘異民族支配’を現代に蘇らせてしまうかもしれないのです。

たとえ普遍的な価値であっても、一定の限界や枠を設けませんと無意味となることも稀ではありません。ゼノンの「アキレスと亀」の詭弁のように、時間も空間もない無限世界での価値の追求は徒労となり、いつまでたっても追いつけないこともあるのです。民主主義もグローバルレベルでこれを追い求めても、それは虚しい努力となりましょう。「the people」を「国民」ではなく「人類」とみなし、「人類の、人類による、人類のための政治」を目指してひた走っても、結局、民主主義には到達せず、後ろを振り返りますと、民主主義の別表現である国民自治、即ち、国民主権が置いていかれているのですから。多くの人々がこのパラドックスに気がつくとき、民主主義の真の価値がより明瞭に理解されるのではないかと思うのです。

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ウクライナが問うIT兵器の問題-新たな対立とグローバルな戦争利権の誕生?

2022年11月22日 13時10分11秒 | 国際政治
日本国をはじめとした自由主義国におけるITに対するイメージは、中国というディストピアが隣にありながら、これまでのところ至って良好です。IT化された近未来はユートピアの如くに描かれていますし、その未来図には、戦争の影は一切見えません。誰もが先端的なITによって平和で快適な生活を享受している世界こそ、ITが約束する人類の未来なのです。ところが、ロシアが軍事介入したウクライナ紛争は、この未来像を打ち壊してしまいそうなのです。

その理由は、軍事大国ロシアに対する小国ウクライナの善戦は、ITによってもたらされていると説明されているからです。イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙が2022年11月18日に掲載した記事に依りますと、「ウクライナの大義に共感する才能豊かな技術者のグローバルネットワークが誕生した」そうです。「戦場で花開く草の根イノベーション」とする見出しも付されており、民間レベルにおけるITの軍用化を礼賛しているのです。そこには懐疑心は微塵も見られないのですが、民間企業におけるITの軍用化は、果たして手放しで褒められるべきことなのでしょうか。

ゼレンスキー大統領をはじめユダヤ系の人口が多いウクライナという国の国柄を考慮しますと、‘技術者のグローバルなネットワーク’とは、取りも直さずアメリカのIT産業を支えると共に全世界に張り巡らされたユダヤ系ネットワークと言うことなのでしょう。同記事では、‘草の根’と称し、軍用技術を開発するスタートアップスに注目する一方で、グーグル社やマイクロソフト社といった大手ITが公然とウクライナを支援し、協力している事実を明かしています。表だった支援だけでも、前者はGoogleマップの一部を適宜に無効とし、後者はサイバーセキュリティー面で協力しているそうです。それでは、どのような点において、民間企業の戦争当事国支援は問題となるのでしょうか。

第一に、これらの民間企業のユーザーは、知らず知らずのうちに間接的に軍資金を提供していることになります。今日、脱炭素やSDGsに関しては、企業倫理が厳しく問われていますが、民間企業による軍用技術の開発やその開発部門への投資については、‘ウクライナの正義’の名の下であたかも‘良い行い’のようにプラスに評価されています。日本国内を見ても、日頃は技術の軍事利用に目くじらを立ててきた左派の人々も、この件については口をつぐんでいます。このため、自らが利用している企業の利益が戦争に‘投資’されたとしても、ユーザーは無自覚なのです。全てのユーザーがウクライナを応援しているわけではありませんので(ユーザーの大半が中立的あるいは無関心なのでは・・・)、企業とユーザーとの間に‘ねじれ現象’が生じることもあり得ます。

第二に、特定の戦争当事国への支援が、企業のトップの判断であるとしますと、国家の政府と企業との間にも‘ねじれ現象’が起きる可能性があります。今般の中間選挙により、議会下院で共和党が優勢となったことから、ウクライナ支援に対して懐疑的な意見も聞かれるようになりました。このことは、政府と民間企業との間で戦争当事国に対する方針が食い違ってしまう可能性を示しています。最悪の場合には、両者の支援先が敵味方に分かれてしまうリスクもありましょう。

第三に、民間企業同士の間で支援先国が分かれるかもしれません。今般、グーグル社とマイクロソフト社はウクライナを支援していますが、今般、ツイッター社を買収したイーロン・マスク氏はロシアよりとの見方があります。企業のCEOといったトップの私的な人脈や個人的な判断によって支援対象が決定されるともなれば、民間企業間は、各自ばらばらな‘対外政策’を遂行することとなりましょう。また、IT関連企業以外にもロシア利権を有する米企業が存在していますので、民間企業間の対立が経済活動にもマイナス影響を与えるかもしれません(双方とも相手陣営の企業に対して制裁や取引自粛を行なうかもしれない・・・)。

かくして、民間企業による戦争当事国支援は、外部で起きているはずの戦争を内部に持ち込むリスクを高めてしまうのですが、その他にも、以下のような問題点があります。

第4として指摘されるのは、民間企業である限り、軍用に開発された技術は、全世界に拡散される点です。現在、ロシアはイラン製のドローンを大量に投入しており、同記事も、「イスラム教シーア派の武装組織「フーシ派」はイエメンで3Dプリンターを使ってドローンを製造」している実態を紹介しています。ドローン技術は自由主義国のIT企業の独占ではありませんので、双方による技術開発競争はエスカレートの一途を辿ることでしょう。そして、いち早く優位性の高い技術を開発した企業は、それを、敵味方に拘わらず、全ての諸国に販売しようとするものと推測されるのです。同記事では、軍用に開発された技術が戦後の経済復興の牽引役となることを期待していますが、その一方で、戦争が起これば起こるほどに利益を得ることができる、グローバルIT軍需産業が新たに生まれるリスクも否定はできません(戦争を渇望する戦争利権団体となる・・・)。

そして、第5の問題となるのは、もはや何れの国も、ユダヤ系ネットワークの協力なくして戦争を闘うことが困難となる点です。ウクライナの善戦は、同国がユダヤ系ネットワークの重要拠点の一つであったことによります。ユダヤ系の支援を受けることができない‘普通の国家’であれば、軍事大国であるロシアと互角に闘えるはずもありません。非ユダヤ系の国同士の戦争にあっては、何れの戦争当事国も、ユダヤ勢力に対して三顧の礼で協力を求めることでしょう(悪名高きイエズス会や武器商人が行なってきたような両者への武器供与・・・)。むしろ、今般のIT企業のウクライナ支援は、ユダヤ勢力のパワーを全世界にアピールしているようにも見えるのです(三次元戦争・・・)。

以上に主要な問題点を挙げてきましたが、大手並びに新興企業の両者含めて民間のIT企業による戦争当事国支援については、批判的な見方あって然るべきように思えます。戦争というものをなくそうとするならば、あらゆる危険な兆候を見逃してはならず、今般の民間IT企業による軍事技術の開発も、その一つではないかと思うのです。

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危ういゼレンスキー大統領と日本国内の世論

2022年11月21日 13時13分17秒 | 国際政治
 先日、ポーランドに着弾したミサイルは、ロシアではなくウクライナ軍による迎撃ミサイルの流れ弾である可能性が濃厚となってきたようです。事の真相はポーランドによる調査の結果を待つしかないのですが、ウクライナのゼレンスキー大統領は、当初よりロシアによる攻撃であると強く主張していました。同発言を信じ込んでNATO諸国が反応すれば戦火は瞬く間に広がり、今頃、全世界は第三次世界大戦に巻き込まれていたことでしょう。日本国内でも、ロシアによるミサイル攻撃を警戒してJアラートが発動される事態へと発展したかもしれないのですが、同事件は、一先ず事なきを得ています。

ミサイル着弾が大事に至らなかった理由は、ひとえに多くの諸国がゼレンスキー大統領の主張を鵜呑みにせず、慎重姿勢に徹したところにあります。第二次世界大戦時における日本軍による真珠湾攻撃のように、奇襲作戦が、本格的な戦争の戦端を開く事例は歴史にあっては珍しくはありません。攻撃を受けた側は、応戦せざるを得なくなるからです(それ故に、奇襲作戦にはしばしば陰謀説が付きまとう・・・)。ところが、今般の事件に限っては、アメリカのバイデン大統領は、即座にロシア攻撃説に疑問を投げかけ、逸るゼレンスキー大統領との間に一定の距離を置きました。NATOもまた一息置いて事態を見守る冷静さを見せる共に、着弾地であるポーランドも、NATO加盟国に対して集団的自衛権の発動を求めることは控えたのです。当のロシアも自国による意図的な発射ではないと明言したため、今般の事件が連鎖的に第三次世界大戦を引き起こす可能性は殆どなくなりました。

着弾したミサイルがウクライナ軍によるものであったとしても、同国は、ロシアによる激しいミサイル攻撃に晒されているために、誤爆も致し方ないとする擁護論もあります。また、獰猛で狡猾なロシアならば奇襲攻撃もあり得るとして、ゼレンスキー大統領の誤認を容認する見方もありましょう。しかしながら、第三次世界大戦に発展しかねない極めて危険な発言であったのですから、不問に付してよいとも思えません。上述したように、最悪の事態を回避できたのは、周囲の関係諸国が賢明に振る舞ったからに他ならないからです。

戦争においてはプロパガンダも戦略の一環であり、双方とも、真偽が入り交じる情報戦を繰り広げるものです。戦時下における政府は、他国に諜報部員や協力者を忍ばせて情報収集に努めると共に、入手した情報を正確に分析して真偽を確かめると共に、可能な限り情報を自らに有利に用いようとするのです。そして、しばしば、内外拘わらず虚偽の情報を流すという詐術的な行為も行なうのです。

この点に鑑みますと、先ずもって疑問となるのは、ゼレンスキー大統領は、どのような根拠からロシア製のミサイルであると判断したのか、という点です。仮に根拠があるとすれば、その情報源は、ポーランド国内にウクライナが張り巡らした情報網からということになりましょう。あるいは、スパイ衛星による軌道の画像解析といった可能性もありますが、アメリカがいち早くロシア攻撃説に疑問を呈していますので、この説は、信憑性に薄いと言わざるを得ません(むしろ、アメリカは、着弾点の付近のウクライナ側国境地帯にあってウクライナ軍がミサイル迎撃体制を整えていた様子を確認している・・・)。となりますと、ゼレンスキー大統領は、確たる証拠もないままにロシア攻撃説を主張し、故意に第三次世界大戦への道を開こうとしたこととなりましょう(ポーランドに着弾したミサイルがどちらの側のミサイルなのかは調査中ですが、迎撃ミサイルに敢えて‘ロシア製’のミサイルを使用し、偽装作戦を行なった可能性も・・・)。

同大統領が、意図的に戦争拡大のためにロシア攻撃説を主張したとしますと、その罪は重いと言わざるを得ません。ウクライナにとりましてはNATOの援軍を得て有利とはなっても、全世界において多数の尊い命が失われ、人々の生活も無残なまでに破壊されるからです。しかも、戦時体制への転換は、自由で民主的な諸国をも、全国民を統制し得る全体主義体制へと変えることでしょう。第三次世界大戦という未曾有のリスクを考慮すれば、それが意図的ではなかったにせよ、ゼレンスキー大統領の発言はあまりにも人類に対して無責任なのです。
 
 そして、もう一つ、懸念されるべきは、日本国内の世論のように思えます。アメリカでは、民主党のバイデン大統領に加え、議会下院で多数派となった共和党内でもゼレンスキー大統領の言動に対する批判が強まっています。また、ここに来て、ゼレンスキー大統領自身も発言を修正してきています。ところが、日本国内では、僅かでも同大統領を批判しようものなら、激しいバッシングが起きかねない状況があります。積極的にウクライナを支援しているアメリカ以上に熱狂的に‘ネット世論’がゼレンスキー大統領を応援しているのです。

森元首相のように発言者の信頼性に問題がある場合もあるのですが、仮に、同大統領の主張を信じたばかりに第三次世界大戦が発生する事態を招き、日本国にもミサイルが飛来する状況に至ったとしても、擁護論者の人々は全く構わないのでしょうか。日本国内にもアゾフ連隊のような極右、新興宗教団体、あるいは、海外の組織が暗躍しており、ネットへの大量書き込み作戦に動員されている可能性もあるものの、冷静さや公平性を欠いた‘ゼレンスキー大統領無誤謬’のスタンスにはカルトに通じる危うさを感じます。戦争は人災の最たるものですので、如何なる国の為政者も国民も、最優先事項としてその阻止や拡大防止にこそ努力を傾けるべきではないかと思うのです。

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無意味な日中首脳の‘一致’

2022年11月18日 10時47分30秒 | 国際政治
日本国の岸田文雄首相は、昨日11月17日にタイの首都バンコクにおいて中国の習近平国家主席と初の首脳会談を行ないました。今朝方、両首脳が‘核兵器の不使用で一致’とするニュースが速報として伝えられると共に、‘基本的考え方においても習主席と一致した’と報じられています。‘一致’という文字が並び、どこか、情報統制されている気配があるのですが(一致を使うように‘上部’から指令?)、この一致、無意味なのではないかと思うのです。

例えば、‘核兵器の不使用で一致’という見出しを目にした多くの人々は、中国が、自らの核兵器不使用を決断したものと錯覚したかもしれません。しかしながら、同記事を読みますと、日中両首脳は、ロシアはウクライナに対して核兵器を使用すべきではない、とする見解において一致したのであって、中国が核の不使用を約束したわけではありません。もちろん、日本国に対して核を使用しないとする確約を与えたわけでもないのです。習主席は、台湾併合という目的を達成するためには武力行使も辞さないとする方針を明言していますので、必要とあれば、通常兵器のみならず、核兵器も躊躇なく使用することでしょう。しかも、ロシアは当会談において部外者、すなわち、第三国であるため、両首脳の合意に拘束されるはずもなく、ロシア限定の核兵器不使用の‘一致’は、全くもって無意味なのです。

また、基本的な考え方の一致についても、一体、具体的な内容が明らかにされていません。首相の言葉をつなぎ合わせ、かつ言葉を補えば、おそらく、‘地域と国際社会の平和と繁栄のために、アジアの責任ある大国である両国は、建設的かつ安定的な日中関係を構築してゆくという方向性を共有し、これを双方の努力で実現してゆく‘ことで一致したということなのでしょう。しかしながら、そもそも中国にとりましての’平和と繁栄‘とは、台湾併合によって大中華帝国を建設し、かつ、一帯一路構想を実現して大中華圏をユーラシア大陸一体に広げることであるのかもしれません。否、この認識以外にはあり得ないことでしょう。

このため、この先、中国側が、首相の言質を取ったとばかりに日本国に対して広域中華圏への参加を求める事態も想定されます。あるいは、平和と繁栄の名の下で、内外からの対日攻略作戦を強化するかもしれません。中国も二重思考の国ですので、中国の言う平和とは戦争であり、繁栄とは搾取であると疑って然るべきです。平和と繁栄の実現という誰もが否定し得ない理想において両首脳が一致したとしても、両者が描く未来像が全く違っていれば、これもまた無意味となりましょう。

なお、日本メディアの報道とは異なり、中国外務省は、習主席は、尖閣諸島問題について「互いの「食い違い」に適切に対処するべきだとも訴え」、台湾問題や人権問題についても、「いかなる者のいかなる口実による内政干渉も受け入れない」と述べたとしています。同方針は以前のものと何らの変わりもありませんので、結局、今般の日中首脳会談の‘成果’はなかったと言うことになります。

さらに、より本質的な意味において両首脳の‘一致’が無意味と言える理由は、中国が、習主席独裁体制を敷く人治の国であるところにあります。上述したように、メディアの表現の多くは、中国政府ではなく「習主席と一致した」というものです。同国の独裁体制からすれば当然のことなのですが、人の支配には、決定者が代われば政策も変わるという不安定性が付きまといます。また、たとえ同一の人物であっても、決定者の気が変わっても、政策は変化します。言い換えますと、人治の国との間に安定的な関係を構築することは不可能に近いのです。この意味においても、今般の日中首脳による一致が無意味であることが理解されるのです。

以上に述べてきましたように、岸田首相と習主席による日中首脳会は、メディアが騒ぐほどの両国間における合意が形成されたわけではなく、むしろ、中国側から自国の立場に日本国側が‘一致’させるように求められたというのが真相なのかももしれません。中国は、‘不一致は一致なり’という二重思考を日本国側に強要しているとなりますと、日本国は、全体主義体制に飲み込まれないよう、いち早く中国から離れるべきではないかと思うのです。

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マッチポンプな自公政権―中国に対日攻撃の口実を与えた罪

2022年11月17日 11時19分43秒 | 日本政治
 先日、11月13日、岸田首相は、カンボジアの首都プノンペンで開催された東アジアサミットにおいて、「中国は日本の主権を侵害している」として名指しで批判したと報じられています。尖閣諸島並びに東シナ海のガス田問題を念頭に置いた発言であり、同首相は、頓に対中強攻策への転換姿勢を鮮明化しています。その背景として、近年の米中対立の先鋭化も指摘されるのですが、そもそも今日の脅威を造り出した責任は自公政権にあるのではないかと思うのです。

 故安部元首相の功績としてしばしば語られるのは、「自由で開かれたインド・太平洋構想」を提唱し、中国封じ込め政策の基本的な枠組みを構築したことです。このため、安倍政権については、国葬に際してもアピールされたように対中強硬派としてのイメージが強調されています。

しかしながら、その反面、連立政権を組む公明党が親中派であり、かつ、自民党内にも親中派の二階元幹事長や中国利権を有する政治家の影響力が伸張したこともあり、自公政権は、中国を利する政策を遂行してきたことも事実です。その最たる政策が中国に対する日本市場の開放であり、とりわけ、中国観光客の積極的な誘致のみならず、開放の対象は、製造業分野、情報通信分野、サービス分野に留まらず、農業分野にまで及んだのです。もちろん、金融市場並びに不動産市場も開放されており、中国資本による買収や買い取りにより、北海道の水源地買収問題など、遂に‘乗っ取り’問題まで発生する事態に至りました。中国では日本メディア閉め出されている一方で、本日も、当然のことのように新華社通信発のニュースがウェブに流されています。

しかも、中国からの移民増加問題は、安全保障にも直結します。第二次安倍政権にあって、日本国政府は、国民に是非を問うこともなく、移民政策への歴史的転換とも称された事実上の労働市場の開放政策を決断しましたが、それ以前から、中国系住民の数は増加傾向にありました。おそらく、中国残留孤児の帰還事業が転機となったのでしょう。この頃から、日本国内では在日中国人が増加の一途を辿り、今では80万人迫っています。日本国籍取得者も加えますと、さらに中国系人口の数は多いことでしょう。

かくして中国人コミュニティーが日本国内で形成されると共に、社会各層にも浸透しているのですが、移民増加が重大な問題であることは、第一に、今般のウクライナ紛争が住民の人口構成問題に起因しており、外国からの軍事介入を招いたことに明示されています。ロシアは、ロシア系住民の保護を口実として、内戦状態にあったウクライナに軍事介入しているからです。日本国内にありましても、ある一部の地域において中国人の人口比率が上昇したり、あるいは、中国人が日本人から‘迫害’を受けたと訴えて、本国に支援を求めるケースもあり得ることです。自民党の中には、対中強硬派も見られますが、中国に対して軍事介入の口実を与えるための扇動である可能性もあり、この点は、注意を要しましょう。

第二に、これも、しばしば指摘されることですが、中国は「国防動員法」を制定していますので、尖閣諸島問題等を発端として対日攻撃が行なわれた場合、日本国内において大量の中国人民兵が出現して蜂起する、あるいは、工作員が動き出す事態も想定されます。中国は、超限戦を公言しておりますので、日本国内の経済や社会を麻痺させることを目的に、テロを含む様々な攻撃や破壊活動を躊躇なく実行することでしょう。この側面は、台湾有事に際してもあり得るリスクであり、同法の発動によって米軍基地の無力化を狙うかもしれません。

 以上に述べたように、中国によって内外から脅かされるという日本国の現状は、自公政権が招いたといっても過言ではありません。中国の軍事並びに経済的覇権の確立を暗に助け、かつ、対日攻撃の口実を与える一方で、その脅威が国民の目に見える段階に至ると、勇ましく反中政策をアピールするのですから。これでは、はマッチポンプなのではないかと疑われても仕方がありません。世界権力の計画に基づく意図的なものであったのかどうかは分かりませんが、故安部元首相並びに自民党と世界平和統一家庭連合(元統一教会)との密接な関係も、同疑惑を深めています。

これまで自公政権を支持してきた保守派の人々は、この事態をどのように捉えているのでしょうか。また、保守政党を自認してきた自民党、並びに、連立相手である公明党は、国民に対して何と申し開きをするのでしょうか(少なくない国民が、‘偽旗作戦’に騙されたと感じている・・・)。少なくとも、保守政党といえども全幅の信頼を置くことはできないのですから、日本国は、煽られないように気をつけながら、民間を含めたより冷静な中国依存からの脱却、並びに、中国離れを試みるべきではないかと思うのです。

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誰がポーランドを攻撃したのか?―戦火の拡大を望んでいるのは

2022年11月16日 10時23分50秒 | 国際政治
 本日、ポーランドにミサイルが着弾し、二人が犠牲となったとするニュースが飛び込んできました。報道に依りますと、同国に対してミサイルを発射したのはロシアらしいのですが、ウクライナ情勢の現状に鑑みますと、ロシア軍攻撃説には疑問もあります。

 仮にロシアによる攻撃であるとすれば、ポーランドはNATOの加盟国ですので、一国への攻撃を全加盟国への攻撃と見して集団的自衛権が発動されることとなります。当然に、第三次世界大戦へと一気に戦火が拡大する事態に直面しますので、この問題は深刻です。このため、NATOの盟主とも言えるアメリカも、一先ずは慎重な態度を示しています。米国防総省のライダー報道官は、記者会見の席で「現時点では、これらの報道を裏付けるような情報はなく、調査中だ」とのみ述べるに留めているのです。ポーランドのドゥダ大統領はツイッターでバイデン米大統領との間では、既に協議の場が設けられたそうですが、両国とも、ここは、拙速な判断は避けたいところなのでしょう。

 かくして、ポーランドに対するミサイル攻撃は、調査の対象となったのですが、このことは、アメリカを含めた何れの国も、ロシア軍攻撃説を疑っていることを示しています。日中戦争の発端となった盧溝橋事件のように、誰の仕業であるのか、不明確なケースも少なくありません。着弾は、ウクライナとの国境から約12キロメートル(6キロとする報道も・・・)の東部プシェボドゥフの‘穀物を乾燥させている地域’とされ、ポーランドのラジオ局Zetによれば、流れ弾である可能性は高いようです。攻撃ではなく流れ弾の着弾であれば、意図的ではなくミスによる誤爆になりますので、たとえロシア軍によるものであったとしても、NATOにおける集団的自衛権の発動要件を欠くことになりましょう。流れ弾説が事実であれば、多くの人々が、ほっと胸をなで下ろすことでしょう。

 ロシア側の反応を見ても、ロシア軍攻撃説の旗色は悪くなります。多くの識者も指摘しているように、同地の戦況に関する報道が正しければ、ウクライナ側の巻き返しによりロシア軍が一部撤退に追い込まれている現状にあって、ロシアには、戦火を拡大する動機が薄いからです。ウクライナ一国との戦闘に疲弊している状況にあって、強大な軍事力を誇るNATOを自ら引き込もうとするはずもありません。実際に、ロシア国防省は、「状況を悪化させることを意図した挑発」として同説を否定しています。ロシアが戦略の一環としてNATOとの戦いを望んでいるならば、敢えて関与を否定する必要はなく、NATOによる軍事支援などを口実にして、宣戦を布告してもおかしくはないのです。

常識的に考えれば、ロシアがミサイルを発射するはずはないのですが、やはりロシアである可能性が捨てきれないとすれば、幾つかの動機が推測されます。その一つは、ロシア軍内部に潜んでいる‘外部組織’による謀略であったというものです。ロシア軍の指揮命令系統の乱れは、同国の劣勢を説明する理由としてしばしば指摘されていますが、同軍において工作員、あるいは、工作部隊が密かに活動している可能性はありましょう。そして、もう一つの恐ろしいシナリオは、ロシアが、核戦争を計画しているというものです。NATOが参戦すれば、ロシアの敗退が色濃くなるのですが、それは、窮地に陥ったロシアは、核兵器を使用する口実を得ることにもなります。敗戦が決定的となる状況は、ロシアが自己決定した核兵器の使用要件を満たしてしまうからです。これは、いわば、自らを背水の陣に置く捨て身の作戦、あるいは、核戦争での生き残りを確信した上での作戦となりましょう。

 ロシアの線が薄いとすれば、ロシア以外で、ポーランドに対して攻撃を仕掛ける動機を持つ者はいるののでしょうか。犯人の推理においては、その犯行で最も得をした人を探せ、という有名な原則がありますが、この原則に照らせば、ウクライナということになります。同国のゼレンスキー大統領は、ロシア軍による攻撃と決めつけ、「著しいエスカレーション」だと述べたと伝わっています。この発言から、同大統領は、同事件がNATO参戦を意味することを深く認識していることが窺えます。NATOの参戦は、ウクライナにとりましは、鬼に金棒なのです。

もちろん、ウクライナ側の自作自演の場合でも、ウクライナ政府のみならず、内部の対ロ強硬派の一部部隊による可能性もありましょう。もっとも、ゼレンスキー大統領の発言からしますと、軍が政府の方針を無視して独自に行動したとは考えがたく、仮に、軍の暴走であったとしても、政府は事後承認しているのかもしれません。

以上に述べてきましたように、必ずしもロシアの攻撃と断定することはできないように思えます。また、上記の可能性の他にも、ポーランド、あるいは、NATO内部の何らかの組織による犯行である可能性もありますし、何れのケースにあっても、大元を辿れば、巨大な戦争利権を有すると共に世界大に広がるネットワークをも擁する世界権力に行き着くかもしれません。最悪の場合、ロシア攻撃説が一方的に認定され、第三次世界大戦へと発展してしまうのですから、ここは、公平・中立な立場からの厳正なる調査を実施し、たとえロシアによる‘犯行’であることが判明したとしても、日本国を含む国際社会は、戦火の拡大の阻止に知恵を絞るべきではないかと思うのです。

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創価学会も二重思考?―平和は戦争なり

2022年11月15日 15時03分23秒 | 社会
 ジョージ・オーウェルの作品、『1984年』を以て世に知られるようになった二重思考の起源は、おそらく前近代にまで遡るのでしょう。もしかしますと、人類が、コミュニケーションの手段として言葉を使うようになったその時から、他者を欺く偽りの言葉のみならず、他者に対する言葉による思考の強制は始まっていたのかもしれません。そして、こうした利己的、あるいは、傲慢な行為が多くの人々に不利益や損害をもたらしたり、精神的な苦痛を与えたからこそ、他者を騙す嘘や思考の強要は、道徳律や法律によって禁止されるに至ったのでしょう。『1984年』がディストピアと評されるのも、人類にとりまして、その世界が実現して欲しくないものであったからに他なりません。

そして、半世紀以上も前に執筆されながら、オーウェルの作品が今日まで読み継がれてきた理由は、あるいは、『1984年』に余すところなく描かれた社会の恐怖が人々にとりまして必ずしも小説の中でのお話ではないからなのでしょう。近年、『マトリックス』という映画も注目を集めておりますが、同作品のテーマも、造られた偽りの世界を‘事実’として信じ込ませる思想統制という意味において、『1984年』の現代版バージョン、リメークとも言えます。そして今日、ネットの普及によるフェークニュースの氾濫や仮想現実を造り出せる映像技術の急速な進歩により、小説や映画の世界と現実との境界線は、いよいよ曖昧となっているのです。政治家や政府が嘘をつく時代にあって、『1984年』は絵空事ではないのです。

前置きが長くなってしまったのですが、今日、忌まわしき二重思考は、創価学会といった新興宗教団体にも顕著に観察されるように思えます。全国にネットワーク上に配置されている創価学会の会館の名称には’平和’と付くものも多く、同教団が、如何に平和をアピールしているかが窺えます。信者の多くも、自らが信じる教団は世界平和に貢献していると信じ切っているかもしれません。しかしながら、その一方で、同教団は、総体革命の存在で知られるように、国家権力を手中にしようとする‘戦闘集団’でもあります。闘う宗教組織という側面はイエズス会とも共通するのですが、平和を志向する一方で、学会の非メンバーである他者に対して戦いを挑むことを肯定しているのです。

平和志向と戦闘性との間の矛盾については、後者については物理的な力、即ち、戦争といった武力行使とは次元が違うという反論もあることでしょう。しかしながら、戦いとは、必ずしも武力を用いたものに限られるわけではありません。民主的な選挙でありましても、それを‘戦場’と見なしますと、ライバルを倒して自らが勝利すべき戦いです。しかも、創価学会の戦場は、政治的な選挙のみではありません。同教団は、皇室、官界、財界、教育界、マスメディア、スポーツ界、芸能界など様々な分野にあって、信者を要となる重要ポストに就けるべく、日々、組織的に闘っているのです。

また、防衛や安全保障分野に注目しますと、同教団の二重思考的本質がさらにはっきりとします。創価学会と中国との間の‘友情の絆’は国民の多くが知るところですが、当の中国が、今日、日本国のみならず国際の平和を脅かす脅威であることは疑いようもありません。否、中国は、二重思考の親玉のような存在ですので、両者は、価値観において固く結びついているのかもしれません。創価とは、新しい価値を創造するという意味らしいのですが、その‘新しい価値’とは、これまでの価値(倫理・道徳を含む一般常識)を否定して、巧妙に他者を騙す二重思考に‘価値’を付与することなのかもしれないのです。

『1984年』に登場する党のスローガンの一つは、「戦争は平和なり」なのですが、創価学会の場合は、「平和は戦争なり」となるかもしれません。前者は、‘党’が戦時体制を平和と見なすように国民に強要するスローガンですが、後者は、平時にあって、平和を唱えつつその実態は戦いの肯定であり、他国の好戦的な政策に協力しているのですから。

二重思考の罠にかかってしまった信者の人々は、平和の実現のために活動しているつもりが、いつの間にか、国内にあっては不公平で不条理な社会をもたらし(学会員でなければポストを得られない?)、対外的には、自国の安全を脅かしています。そして、活動に熱心になればなるほど、一般の国民から警戒されると共に(誰がメンバーであるのか外部の人々には分からないという意味において一種の秘密結社であり、正真正銘の陰謀組織でもある・・・)、溝が深まってゆくことでしょう。この側面は、世界平和統一家庭連合(元統一教会)にも言えるのですが、信者の方々は、この自己矛盾、即ち、教団によって誘導されている二重思考にそろそろ気付くべきではないでしょうか。

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新興宗教団体の教祖は現代の‘戦争恍師’?

2022年11月14日 13時24分01秒 | 社会
古代にあって、‘戦争恍惚師’なる職業があったことを知る人は殆どいないかもしれません。戦争恍惚師(Kriegsekstatiker, warrior ecstatics)とは、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』において記述が見られ、戦場にあって兵士達を恍惚状態に導く役割を担っています。今や死語となり、既にこの世から消えた職業と見なされがちですが、もしかしますと、現代にあっても、姿は変えてもこの種の役割を担う人々が存在しているのかもしれません。

ウェーバーに依れば、同職業は、古代ユダヤ人に限ったものではなかったそうです。古代ギリシャ神話のテューデウスやアルスター物語群の英雄クー・フリーンなどにも、戦争恍惚師、つまり、カリスマ的軍事指導者として描かれています。古代イスラエルでは、職業集団としての凡そ「ネビイーム(職業的予言者ナービー団)」がこれに当たるそうですが、古代エジプトやメソポタミアにも類似した集団があり、古今東西において、普遍的な存在であったようなのです。

それでは、何故、戦争には恍惚師を要したのでしょうか。この問いの答えは、すこぶる単純であるかもしれません。それは、自他の命、並びに、身体に関する感覚の忘却あるいは麻痺です。

 まずもって‘正気の状態では他者の命を奪うことは難しい’とは言うまでもありません。理性や慈悲の心があれば、たとえ憎き敵であっても、人を殺める行為には躊躇するものです。1%から3%とされるサイコパスの人口比を考慮しますと、大多数の人々は、できる限り戦場での命での奪い合いを避けたいはずです。殺人を忌避する心が人の本性として備わっているとすれば、戦場にあっては、この禁忌を解除、あるいは、意識させない必要があるのです。

 また、兵士には、敵兵ではなく自らが戦死したり、負傷するリスクもあります。生きて帰ることができないかもしれないのですから、その恐怖は計り知れません。戦場を前にして足がすくむ兵士も少なくないはずであり、たとえ平常心を保つためのセルフコントロールの訓練を受けたとしても、命の危険に晒されるのですから、恐怖心に打ち勝つことは容易ではありません(第一次・第二次世界大戦の際にも、精神を病んだ兵士が多数あった・・・)。

このため兵士達に恐怖心を捨てさせ、我を忘れて戦いに没頭させることも、戦場では必要とされたと考えられるのです。今日に至るまで、内戦を含め、人類は戦争を繰り返してきましたので、戦場での兵士達の心理状態を戦いに適したものに変える必要があったことは想像に難くありません。戦争恍惚師のお仕事とは、まさに、この兵士達を恍惚状態へと導くメンタル操作であったのでしょう。ウェーバーは、スカンジナヴィアの‘猪武者’について、「このエクスタシスによってかれらは、狂犬病的血の渇望に酔いつつ、敵の真只中に躍り込み、なかば意識を失った状態で、手当たり次第のものを虐殺する」と描写しています。すなわち、敵兵の殺戮も自らの死をも恐れず、無我夢中で闘う心理状態こそ、戦争に勝利をおさめるためには必要とされたのです。戦場では、一瞬の良心の揺らぎも許されなかったのでしょう。ジハードをもって破竹の勢いで周辺諸国を侵略し、イスラム帝国を構築したイスラム教が、飲酒を禁じる一方で麻薬を容認するのも、麻薬には人々の精神を麻痺させると共に、痛みを感じなくする作用があるからなのかもしれません(負傷しても無感覚・・・)。

古代に散見される戦争恍惚師という心理操作を担当する特別な職務、あるいは、「ネビイーム」のような職業集団は、現代という時代において一先ずは姿を消しています。戦争法や人道法の整備が進んだことに加え、正確さを要するハイテク兵器類を扱う兵士達には、むしろ冷静さや平常心の維持が求められています。しかしながら、今日の内外の様子を観察しますと、形を変えた戦争恍惚師の姿が見え隠れしているように思えます。

もちろん、第二次世界大戦期にあって国民を巧みな演説を以て狂気の世界に陥れたアドルフ・ヒトラーは、現代の戦争恍惚師の一人であったかもしれません。しかしながら、戦闘的メンタリティーへの鼓舞という戦争恍惚師の原型ではなくとも、人々の理性や良心を狂わせ、道徳や倫理を解除してしまう人や集団が存在しています。例えば、カリスマを装う政治家のみならず、新興宗教団体の教祖などは、その変形型であるのかもしれません。

世界平和統一家庭連合(元統一教会)や創価学会といった新興宗教団体は、その動員力が問題視されているように、信者のメンタリティーを巧みに操作することで、反社会的な行為に対する倫理観や道徳心を失わせています。教祖や教団のためならば、自らの命、あるいは、財産を捨てても惜しくはないという信者も少なくないのでしょう。これらの教団には常々集団ストーカーの噂も絶えませんが、‘恍惚状態’にある信者の多くが堂々と犯罪まがいの行為を集団で行ないかねない危うさがあるのです(所謂“さくら”としての動員への参加自体が他の国民を騙す行為に・・・)。

今日の宗教に対する一般的な理解は、神は絶対善であるとするものです。しかしながら、宗教によっては、とりわけ戦争において、‘神’とは勝利を祈願する対象であり、軍神である場合も少なくありません(キリスト教徒でさえ神のご加護や自軍の勝利を祈る・・・)。また、非道徳的な行為に誘う邪教や悪を崇める悪魔崇拝も実際に存在しています。しかも、今日では、戦場ではなく平時の一般の社会に、そして、敵ではないはずの一般国民を‘敵’と見なして、姿を変えた‘戦争恍惚師’達が、信者の心を惑わしているように見えるのです。このような現状に鑑みますと、人類は、今日、改めて戦争恍惚師の問題と向き合うべきではないかと思うのです。

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政党が‘独立’しなければ独立国家とはなり得ない

2022年11月11日 11時18分17秒 | 統治制度論
 政党という存在が、民主主義の進化とは逆方向に機能している現状が露わとなりながら、それに代わるシステムを探しあぐね、人類は、目下、路頭に迷っています。一党独裁体制より二大政党制、あるいは、複数政党制は遥かに‘まし’ではあっても、より民意を政治に反映し得るシステムはなかなか見つからないのです。少なくとも、二大政党制が‘だめ’ならば一党独裁制に変えれば良い、‘政党は’だめ‘だから、個人独裁は良い’、あるいは、‘それならば世界政府に任せれば良い’という提案は、人類を退行させ、全体主義へと誘う悪魔の囁きであるのかもしれません。

 もっとも、たとえ欠陥に満ちていても、現行の制度に改良を加えることで、劇的に状況が改善されることもあり得ます。継続的に改良を積み重ねる過程で、新たなシステムに向けた発想が生まれたり、その骨格が見えてくることもありましょう。言い換えますと、革命といった暴力で瞬時に体制をひっくり返すような手法よりも、誰もが認識している欠点や欠陥をまずは是正しつつ、同時進行的に慎重に案を練り、国民を含む多くの人々が協力関係を形成しつつ段階的に移行した方が、安全かつスムースに民主主義の制度的発展がもたらされるかもしれません。そこで、現状の改善として最初に提案すべきは、政党や政治家の外部勢力からの‘独立性’の確保ではないかと思うのです。

 安部元首相の暗殺事件を機に、日本国内では、自民党と世界平和統一家庭連合との癒着関係が政界全体を揺るがす大問題に発展しています。同党に対する国民の信頼が一気に崩れた観もあるのですが、それは、国民が‘偽旗作戦’の存在を疑っているからに他なりません。否、その存在が証明されてしまったと言っても過言ではないでしょう。ここで、多くの国民は、気付かされたはずです。自分達は、政治家についても政党についても、あまりにも知らない、あるいは知らされていないという事実を。

 元首相暗殺事件が起きて初めて政党や政治家の実像の一端が見えてきたのですから、これは、民主主義に照らしますと、国民にとりまして極めて危険な状態です。何処の誰であるのか分からない人に投票し、政治を任せていることになるからです。国政選挙であれ、地方選挙であれ、選挙公報に記載されている政治家のプロフィールは、わずか数行に過ぎません。近年、政策の選択に重点が移動してきているものの(政策選択であれば、人を選ぶシステムは不要に・・・)、現状を見れば、政治家の信条、価値観、個人的なコネクションや利害関係などが政策に多大なる影響を与えていることは否定し得ません。選挙が公人を選ぶ制度である限り、候補者に関する情報は、国民の選択に際して必要不可欠であると言えましょう。

 例えば、仮に、与野党を問わず、世界平和統一家庭連合(元統一教会)、中国共産党、あるいは、ダボス会議を主催するグローバリスト集団(世界権力)と密接な繋がりがあるとする情報が広く知れ渡っていたとすれば、これらの政党あるいは政治家を支持して積極的に投票しようとする国民は、殆どいないことでしょう。実際に、創価学会を支持母体とする公明党が、それ自体、国会にあって最大与党となはなり得ない理由も、新興宗教団体の‘出先機関’あるいは‘政治部’であるからに他なりません。国内にありましても、反社会組織との繋がりは致命的なダメージを与えますが、政党や政治家の海外勢力との関係は、それが国家の独立性とも不可分に結びつく故に、国民が絶対に知らなければならない情報の一つではないかと思うのです。

 今日の日本国の選挙制度を見ますと、上述したように、有権者である国民は、立候補者について、信じられないほど僅かな情報しか提供されていません。しかも、国会議員であれば、戸籍上の本名を名乗らなくても良い、といった、あまりにも反知主義的で国民を愚弄するような慣行もまかり通っています。国民が候補者や政治家の本名さえ知り得ない現状は、民主主義の原則に照らせば、本来、あり得ないことです。今日の政界にタレント議員が多いのも、知名度の利用のみならず、現状維持を望む勢力が、政治家というものを‘偶像(アイドル)’とみなし、自らの意向に沿って演じるだけの存在と見なしているからなのでしょう(‘名無し’ということなのでは・・・)。マスメディアが持ち上げる政治家とは、常にパフォーマンスが上手な人物ばかりです。

 以上に述べたことから、政治制度改革の第一歩として、政党並びに政治家の情報公開の強化を挙げることができましょう。政党と新興宗教団体等の癒着が国民の批判を浴びる中、次期国政選挙において、政治家に関する情報公開の強化を公約に掲げる政党や政治家が出現すれば、得票数を大幅に伸ばすかもしれません。もっとも、自己申告の場合、虚偽や隠蔽も大いにあり得ますので、中立・公平な第三者機関による情報公開という方法もあり得ましょう(権力分立の観点からは、司法部に設けるのが相応しいかもしれない・・・)。そして、現状にあって国民が実践できる対応は、できる限り立候補者や政治家に関する情報を収集することかもしれません。政党や政治家が張り巡らしてきた秘密主義の煙幕を晴らさないことには、日本国の独立も民主主義の進化も遠のくばかりではないかと思うのです。

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アメリカ政治は二党対決から二大政党制との対峙へ?

2022年11月10日 12時58分10秒 | 統治制度論
 11月8日に実施されたアメリカの中間選挙では、事前の予想よりも共和党が伸び悩み、同党の大勝とまでは至らなかったようです。バイデン大統領は、早々に「巨大な赤い波の現象は起きなかった」として安堵感を示しています。「民主主義を維持し、この国の選択の権利を守りたいというメッセージを送った結果だ」とも述べていますが、バイデン政権、リベラルに内在する反民主主義、反自由的傾向を考慮しますと、この言葉も虚しく響きます。否、過激なポリティカルコレクトネス、グローバリズムの推進による中間層の破壊、有無も言わさぬワクチン押し、狂信的とも言える脱炭素への傾斜、IT大手と結託したデジタル全体主義の推進、あるいは、メディアによる世論誘導や偏向報道など、反民主主義、反自由な政策や行いを挙げれば切がありません。このため、民主党が民主主義の真の擁護者であると信じる人は、減少の一途を辿っているのです。

共和党の伸び悩みの原因としては、期日前投票や郵便投票数が増えたことから、今回も不正選挙を疑う声がある一方で、中絶禁止問題が共和党離れの主因であるとする指摘もあり、今般の選挙結果をもたらした要因は、今後の詳細な分析に待たれることでしょう。今般の中間選挙もまた、アメリカ政治の混迷を内外に示すこととなったのですが、アメリカの二大政党制が曲がり角に至っていることだけは、確かなように思えます。共和党の議席が伸びなかったのは、民主党への積極的支持の結果ではなく、国民が選択し得る政党が二つしかなかったからに他ならないからです。

現代の政治とは、極めて広範な問題領域を含みますので、二つの政党を以て国民の多様な政治的信条、要求、政策選択などを表出できるはずもありません。○○分野ではA党の政策を支持するけれども、△□の問題では、B党を支持するというケースは無数にあります。たとえは、今般の米中間選挙でも、インフレ問題では現バイデン政権に対する批判から共和党を支持するけれども、中絶禁止問題では民主党に賛同するという有権者は少なくないはずです。こうした場合、政党そのものの選択ではなく、どちらの問題を有権者が優先するのかによって投票先の政党が決定されるのです。

何れにせよ、選挙の結果とは、国民が特定の政党を積極的に支持した結果ではなくなります。今日、社会が複雑化するにつれて政治的争点の数も増加していることに加え、グローバリズムがもたらす負の煽りを受けて、固定的な支持層であった労働者や農民層が民主党離れを起こしています。幾つかの要因が重なって、支持政党なしの有権者、即ち、浮動票のパーセンテージも上がっており、この傾向は、年々強まっているとも言えましょう。

 そして、二大政党制のもう一つの問題点は、二頭作戦を遂行する側に取りましては、これほど好都合な制度はない、ということです。二大政党制の場合、両政党をコントロール下に置くことができれば、その国の政治権力を凡そ掌握することができるからです。とりわけ、世界権力の力の源泉はマネーにありますので、この絶大なるパワーを用いれば、二つの政党を手中にすることも夢ではありません。米ソ冷戦が終焉を迎え、グローバリズムが本格化した80年代以降、左右のイデオロギー対立が和らぎ、共和、民主両党の政策的違いも薄らいだとする指摘がありますが、この現象も、本当のところは二頭作戦の結果であったのかもしれません。

 今日、中間選挙であれ、大統領選挙であれ、メディアは、‘共和党が勝った’あるいは‘民主党が負けた’というように、どちらの政党がより多くの議席もしくは選挙人を獲得したのか、という平面的な勝敗に焦点を当てて報じています。しかしながら、二頭作戦の存在を仮定しますと、両党間の勝敗に一喜一憂するのではなく、国民が真に対峙しなければならない相手とは、現代という複雑な時代に適応しておらず、かつ、国民の分断を招くと共に二頭作戦に悪用される余地のある二大政党制という政治の仕組みそのものであるのかもしれません。現状のままでは、アメリカは、国是とされてきた民主主義や自由という価値から離れてゆく一方となるのですから。

 本記事は、建国以来、アメリカに根付いてきた二大政党制という政治制度の問題点、並びに、その改善を問うていますので、いささか‘気が早い’と思われるかもしれません。しかしながら、より現代という時代あった政治制度とはどのようなものなのか、国民から民主主義を遠ざけている要因は何処にあるのか、自国の政治を動かしているのは誰なのか、思考停止から抜け出して真剣に考えてみる必要がありましょう。そして、この問題は、日本国をはじめ多党制の国でも形を変えてあり得るのですから、アメリカに限られたことではないように思えるのです。

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