来年の2026年に開催が予定されているNPT再検討会議に向けての準備委員会に、日本国の岩屋毅外相が、加盟国で唯一、閣僚の立場で出席したと報じられております。同委員会にあって岩屋外相は、過去二回の再検討会議が合意に至らずに決裂したことから、加盟国間の‘一致団結’を訴えたとされます。岩屋外相と言えば親中派で知られていますので、中国を含む核兵器国の核独占体制を維持するために一役買ったとする見方もできるのですが(台湾や日本国の核武装を阻止したい・・・)、NPT体制とは、そもそも非合理的な仕組みなのではないかと思うのです。
この非合理性を合理的に説明するためには、政治理論における社会契約説が役立つかもしれません。同説を唱えた近代の政治の思想家としてはホッブス、ロック、ルソーなどが知られていますが、この発想自体は古代や中世にまで遡るとされます。
それでは、何故、社会契約説がNPT体制の非合理性を説明するのに効果的なのかと申しますと、それは、その基本的な理論構成にあります。同説では、自己保存や自由・権利の擁護といった人々の必要性から政治共同体や統治権力等の存在意義がロジカルに導かれているからです。これを要約しますと、‘自然状態においては、各自は正当防衛権をはじめ自らの意思に従って何事もなすことができる自然権を持っている。しかしながら、個々人の自己救済には限界がある。そこで、理性を備えた人間は、他者による侵害から身を守り、自己の自由や権利が保障されるためには、契約を結んで個人を超えた強力な公権力を打ち立てることに合意した’という論理です。つまり、個々人が自らの自然権を委託する代わりに、統治者あるいは統治機関に権利・自由保護の役割を担ってもらう契約こそ、社会契約であったということとなります(もっとも、論者によって若干の違いはある・・・)。
この論理をNPT体制に当てはめてみますと、如何に、同体制が非合理的であるのかが分かります。何故ならば、核兵器とは、最大の攻撃力であると同時に最大の抑止力でもあり、その保有は、極めて効果的な正当防衛の手段であるからです。すなわち、加盟各国は、核保有の断念と引き換えに自国の安全を保障する確固たる仕組みが提供されることもなく、この権利を自発的に放棄してしまっているからです。因みに、国連憲章第51条の個別的自衛権並びに集団的自衛権は、全ての国家が有する普遍的な‘自然権’として説明されています。
NPTでは、核兵器の保有が合法的に認められている核兵器国には、核軍縮に関する義務はあっても、核兵器を保有していない国の安全を保障する義務は課されていません。しかも、国連の常任理事国=核兵器国でもありませんので、それが非合法あるいは不法な保有であれ、核兵器を保有する諸国に攻撃力と抑止力の両面において独占的な特権、あるいは、絶対的な優位性を与えているに過ぎないのです。このことは、同時に、非核保有国は、他者による侵害から身を守り、自己の自由や権利が保障されていないことを意味します(当然に、軍事的に優位する核保有国から一方的に攻撃を受ける可能性もある・・・)。NPTの取極は、明らかに理性に反しており、非合理的なのです。
それでは、上記の社会契約説のように、条約(契約)によって全ての国家の安全を保障するための国際機構を創設すれば良いのか、と申しますと、そのためには、全ての国家から超越し、グローバリストを含む如何なる勢力や個人をもブロックし得る、独立した警察・司法組織として発足させる必要がありましょう(国際法の執行機関・・・)。現行の国連は同条件を満たしていませんし、こうした機構の制度設計に際しては、あらゆるリスクを考慮する必要があります。NPTがその杜撰さのために悪用されているように、リスクは制度をもって事前に防止しておきませんと、権力の濫用や私物化が起きるからです。ホッブスの社会契約説でも、個人の権利擁護から出発しながら、なぜか統治機構としての絶対君主制の擁護論に行き着いてしまっています(主権者の契約違反に際しては、国民の抵抗権を認めない・・・)。
NPT体制が加盟国の正当防衛権(含抑止力)もしくは自然権を、‘核兵器’という名に代えて放棄させているとしますと、この状態の継続こそ、国際社会を極めて危険な状態に置いていることとなりましょう。実際に、ウクライナ戦争では、ウクライナ等をNPTに加盟させた「ブダベスト覚書」が仇となりました。このように考えますと、来年のNPTの再検討会議では、むしろ、同条約の終了について話し合われるべきなのではないかと思うのです。