万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

反戦より反核に熱心な奇妙な平和主義者たち

2024年04月17日 12時08分28秒 | 国際政治
 近年、ノーベル平和賞の受賞者には、バラク・オバマ元米大統領やICANなど、核兵器廃絶に尽力した人たちが目立つようになりました。日本国では、唯一の被爆国ですので、戦後、一貫して反核運動が盛んであったのですが、国際社会を見ましても、核兵器に対する反対運動は強い影響力を発揮してきました。核廃絶を求める同運動は、平和を求める人類の良心の声のようにも聞えます。しかしながら、その一方で、核兵器を特定国にのみ保有を許す現行のNPT体制が、その実、全世界を対象とした核の配分による支配体制の構築のための戦略であったとする視点からしますと、同運動は、平和に資するものとして無条件に賞賛されるべきものでもないように思えてきます。

 もちろん、核廃絶運動に取り組む人々の大多数は、平和を願う気持ちから同運動に参加しているのでしょう。組織にあっては、真の目的を知る者は、極一部の中枢に居る人々に限られるケースは珍しいことではありません。しかも、核兵器は残酷且つ非人道的な兵器ですので、同兵器をこの世から消し去ることこそ正義であると信じる人々の心情も理解に難くはないのです。しかしながら、その一方で、組織の内部にいるからこそ、疑問を感じる場面もあるのではないでしょうか。

 例えば、運動資金に注目しますと、同運動は、自発的に参加しているメンバーの寄付やカンパだけで賄われているのか、という疑問が沸くはずです。反核デモへの参加に際して日当や交通費やお弁当代などの実費が支払われているとしますと、何らかの支援金が提供されている可能性が高くなります。また、反核団体の組織が、何れかの政党や政治団体の系列に属しているとしますと、純粋な平和の訴えと言うよりも、政治的な活動としての側面が強くなります。しばしば、日本国の反核運動は、‘アメリカの核はダメで中国の核はよい’とする矛盾した態度が揶揄され、‘中国の回し者’扱いも受けてきましたが、核兵器配分論の視点からしますと、政治団体としての反核組織とは、世界権力が、核の‘抑止力の拡散’の抑え込みを目的として育成した下部組織となりましょう。最大の攻撃力は、最大の抑止力でもあるのですから(少なくとも、防御型指向性エネルギー兵器などの完璧なる防御手段が開発されるまでは・・・)。

 そして、何よりも核兵器廃絶運動において不自然な点は、戦争反対よりも核兵器反対に傾いているところにあります。核兵器とは、戦争という存在があってこそ人類の脅威となるものです(戦争が起きなければ、使われることもない・・・)。その破壊力としての側面のみを取り上げる、即ち、核兵器=非人道的大量破壊兵器=絶対悪の等式から廃絶を訴えている平和主義者であればこそ、戦争が発生してしまう国際社会の構造に反対するはずなのです。しかしながら、反核運動の人々は、ベトナム戦争と言った個別の戦争に反対することはあっても、根本的な脅威の原点となる戦争自体については、国際社会の構造的な問題に触れようともせず、積極的にその‘構造改革’を訴えようともしないのです。

 現職にあってノーベル平和賞を受賞したオバマ元大統領に至っては、戦後の国際社会にあって国連体制を曲がりなりにも支える暗黙の了解事項であった、‘世界の警察官’の職を‘辞任’する意向を示しています。この辞職宣言には、国際社会における治安維持機能の低下、即ち、戦争や紛争に対する抑止力が低下するリスクが全く考慮されていません。ウクライナ戦争も、イスラエル・ハマス戦争も、それが起きたのは、平和主義を党是としていたはずの民主党のバイデン政権でした。このことは、リベラルといえども、アメリカの民主党政権が‘本気’で平和を願っているわけではないことを、その行動によって示しています。

 おそらく、真剣に戦争を廃絶しようとすれば、力によるのであれば、全ての諸国による核の抑止力の保持を認める必要がありますし、交渉による合意解決を目指すのであれば、協議機関を設け、当事国双方に着席義務を課す必要があります。そして、国際法違反の行為に対しては、中立・公平な裁判による平和的な解決が実現するよう、国際司法制度の具体的な改革を要します。そして、大統領自らが反核をパフォーマンスとして叫ぶよりも、アメリカ自らが、具体案をもって提唱してゆくべきであったと言えましょう。

こうした平和的解決の実現に向けた制度改革の努力が見られないからこそ、反核運動も、核の独占体制の維持が真の目的ではないかと怪しまれることとなります。このままでは、アメリカは、自国の軍需産業のために、そして、さらにその深奥では、世界権力が自らの私益となる戦争ビジネスのみならず世界支配のために核兵器の配分をコントロールとする説は、ますます信憑性、否、真実性を帯びてくるのではないかと思うのです。

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核兵器という世界支配の道具-核の配分権の問題

2024年04月16日 15時29分04秒 | 国際政治
 核兵器については、これまで、攻撃兵器にして大量破壊兵器という一面からしか議論されない状況が続いてきました。この延長線上にNPT体制の成立や核兵器廃絶運動があり、何れも、その前提として核兵器=非人道的兵器=絶対悪というイメージがすり込まれてきました。いわば疑うことの許されない‘絶対真理’の如くと化し、核の存在に拒絶反応を示す人も少なくありません。しかしながら、核兵器に限らず、軍事力には、攻撃力と抑止力という二面性がありますので、核兵器に対する視点の攻撃面への偏りは、核兵器の効果や作用の全体像を見失わせ、むしろ、悪用されるリスクを高めていると言えましょう。実際に、核兵器国による非核兵器国に対する傲慢な態度には、目に余るものがあります。

 そこで、先ずもって核兵器の抑止力についてもその効果を認めるべきであり(実際には、冷戦期における核の均衡は、抑止力がもたらしている・・・)、それを認める以上、全ての諸国が等しく同兵器を保有する状態の方が、余程、核兵器国の暴走や横暴を抑えることが出来ます。抑止力として核兵器を用いることは、それがたとえ力に頼るものであったとしても、イスラエルや北朝鮮等を含む核兵器国を無制御のままに野放しにしているよりは‘まし’であり、核の脅威に対する現実的な対処方法でもあると言えましょう。かくして、核が備える抑止力を平和の実現のために活かすという道が見えてくるのですが、もう一つ、考えておくべき問題があるように思えます。

 攻撃力と抑止力の他に、核兵器には、三つ目の重要な作用があるとしますと、それは、核兵器の配分決定権の掌握に基づく支配力です。この視点は、二項対立を想定した二次元的なものではなく、全体を見渡す三次元的な視点でもあります。今日に至るまで、核の抑止力から人々の目が逸らされてきたという不可解な現象も、同視点からは説明が付くかも知れません。特定の国に核を持たせる作戦においては、全ての諸国が核を持てる状態は不都合であるからです。このためには、原子爆弾の残虐性が強調され、抑止力に人々の関心が向かないように誘導する必要があったのでしょう。唯一の被爆国となった日本国内の反核運動も、オバマ元大統領のノーベル平和賞の受賞も、そして核禁止条約の成立に奔走したICANの活動なども、何れも核兵器の非人道性のアピールに重点が置かれていたのです。

 同作戦では、核を持つ国と持たざる国との間では越えがたい軍事力の格差が生じますので、核保有が許されている諸国は、核を持たざる諸国に対して‘管理者’の役割を与えられています。これは、同盟関係であっても、対立関係にあっても変わりはありません。例えば、冷戦期におけるソ連邦による威嚇に加え、中国も、日本国に照準を合わせた核ミサイルを配備することで、日本国の安全を常時脅かしています。また、‘鉄砲玉’の役割を担う故に、北朝鮮は、その特異な独裁体制を維持するために核保有が認められているとする見方もできます。世界権力の中枢を占めるユダヤ人の国家であるイスラエルも、核保有によって中東における同国の安全を確保しており、パレスチナ領の侵害やガザ地区の住民に対する虐殺も、核保有国としての立場からの傲慢と暴走の結果とも言えましょう(なお、今般のイランによる対イスラエル攻撃からしますと、同国も、既に核兵器を保有している可能性は高い・・・)。

 核兵器を保有する軍事大国のみが核の均衡と自国の安全を享受しつつ、同盟国をも核の傘という不安定な状況に置き(属国化・・・)、ウクライナ紛争に見られるように核保有国が非核保有国に戦争を仕掛け、イスラエルや北朝鮮といった暴力主義国家が国際法を遵守する一般の国家に脅威を与える国際社会の現行の構造は、果たして、偶然の産物なのでしょうか。仮に、ここで核の配分権なるものを想定しますと、これを握る者によって、極めて巧妙に全世界がコントロールされている姿が見えてくるのです。

 アメリカが先に核兵器の開発に成功したのも、ソ連邦や中国が核兵器の開発に成功したのも、イスラエルのみが核兵器の保有を黙認され、そして、最貧国であるはずの北朝鮮が核技術を持つに至ったのも、核という絶大な破壊力を有する兵器を、世界権力が自らの世界支配体制の構築にもっとも適した国に配置しているからかも知れないのです。計画通りに第三次世界大戦を起こすことができれば、双方の無辜の若者達を死地に追いやり、相互に殺戮させることもできますし、思い通りに事が運ばなければ、全人類を破滅への道連れにすることもできるのです(つづく)。

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原爆投下人類救済論を主張するならば全ての諸国に核保有を認めるべき

2024年04月15日 18時03分02秒 | 国際政治
 日本国に対する非人道的な大量虐殺である原爆の投下は、国際法上の違法行為でありながらも、米ソ超大国が角を突き合わせた冷戦期にあって、核戦争の恐怖が人類を救ったとする‘見せしめ論’によって、違法性の阻却が主張されてきました。結果論としては、同主張にも一理があるようにも聞えるのですが、今日の世界情勢を考慮しますと、今一度、同論について考えてみる必要ありましょう。ここ数日の間、原爆投下の違法阻却事由について記事を書いてきたのも、この問題が極めて今日的であるからです。

 ‘見せしめ’による人類救済論とは、端的に申しますと、刑法の分野で言えば、犯罪抑止効果による正当化、ということになりましょう。リベラル派の人々は、刑罰については常々抑止効果に対して否定的なのですが、何故か、原爆投下となりますと、それが如何に非道であったとしても‘見せしめ論’に傾斜しがちです。これを認めるとしますと、それには、最低限、目的、手段、結果の何れにあっても、正当性が確保される必要あります。すなわち、(1)違法行為や不正行為に対する懲罰であること、(2)できる限り人道的な手段であること、つまり、他に代替手段がないこと、(3)結果として国際社会に平和が訪れたこと、といった要件の充足です。

(1)の要件については、アメリカは、日本国を中国を侵略し(もっとも、開戦当時は米中間に軍事同盟関係があったわけではない・・・)、真珠湾に対して奇襲攻撃を仕掛けた侵略国家と見なし、自らに正義あると主張していました。もっとも、この正義は、主観的な自己主張であって、歴史を詳細に検証してみれば、日米、否、連合国側も枢軸国側も共に背後から戦争へと誘導されていた節があります。欧米各国によるアジア・アフリカ諸国に対する植民地支配もあり、第二次世界大戦をもって善悪の対立軸でみるのは難しく、二度の世界大戦に関する封印されてきた情報が明らかとなった今日にあっては、(1)の要件を満たしているとは言いがたい状況にあります。

 また、(2)についても、‘見せしめ’の手段が過激な場合には、倫理的な問題が生じます。例えば、かつてはどの国も残虐刑が存在していましたが、近代以降は、できる限り人道的な刑罰の方法へと変わってきています。ところが、戦争に際しては、できる限り残虐な兵器を開発しようと試みているのです。この点からしますと、例えば、当時にあって新型兵器であった核兵器の威力を示すのが目的であれば、他に手段がないわけでもありませんでした。デモンストレーションを行なうならば、民間人が居住している都市部ではなく、山林地帯や海上に投下したとしても、十分にその爆発力は示せたはずです。日本国も開発を急いでいたわけですから、核兵器の開発成功をアピールするだけでも、少なくとも日本国に対して降伏を迫る効果はあったことでしょう。もっとも、核分裂による爆発力のみならず、核兵器の使用による放射能による人体への甚大な被害をも‘見せしめ’とするために、敢えて都市部を狙ったとすれば、原爆という兵器の悪魔性がより鮮明となってきます。

 そして、最後の要件となるのが、結果としての平和の実現です。仮に、同要件を満たさない場合には、 ‘見せしめ’としての原爆投下は、人類を救ったとは言えなくなりましょう。敗戦国となった日本国の場合には、戦後教育にあって、連合国=正義という見方が染みついています。しかしながら、戦時中にあって、既にソ連邦は同戦争を共産圏の拡大に利用し(1939年9月のポーランド侵攻もソ連による侵略公有為・・・)、周辺諸国を侵略しており、連合国にあってもアメリカの潜在的が‘敵国’が出現していました。もちろん、アメリカでも日本国でもなく、ソ連邦が先に原子爆弾を手にする展開もあったはずなのです。となりますと、アメリカが開発に先んじたのは一種の幸運であって、暴力主義にして覇権主義国家が原爆を先に手に入れる可能性もあったわけであり(この場合、自国が核兵器を独占するために対米核攻撃をしかけたかもしれない・・・)、実際に、後手となったとはいえ、抑止力として、ソ連邦は、1949年には核兵器を保有するのです。

 このことは、百歩譲ってアメリカの主観的正義を認めたとしても、人類を救うためと純粋に言えるのは、わずか4年の間に過ぎないこととを意味します。冷戦期にあっては、恐怖による核の均衡が米ソ両超大国間に保たれたのであり、しかも、ソ連並びに同陣営に組み込まれた諸国の共産主義体制は、核によって温存されてしまうのです。言い換えますと、‘見せしめ’は、犯罪や違法行為に対する刑罰的な意味ではなく、むしろ、暴力主義国家による核兵器を保有していない他国に対する服従要求や威嚇のための‘見せしめ’ともなり、この状態は、今日まで続いているのです。それは、‘自らの体制を認めない者、抵抗する者、刃向かう者には目にものをみせてやる!’という態度です。

 暴力主義国家による核保有の現実は、結局、核保有国のみが抑止力を独占すると共に相互抑止の効果が働く一方で、核を保有しない国は、抑止力を持てない状況をもたらしています。しかも、この体制は、NPTによって固定化されてしまうのです。アメリカは、自らは核保有国ですので、‘見せしめ効果’の恩恵を受けているのですが、他の核を保有していない諸国は、むしろ、核保有国に対する無防備という致命的な運命を背負わされているのです。この非対称性を考慮しますと、三つの要件の充足を欠くため、原爆投下は正当化できないまでも、せめて抑止力による平和を実現するためには、全諸国に核の抑止力を備える権利を回復させるべきと言えましょう。日本国も巻き添えになるリスクが極めて高い台湾有事を未然に防ぐためにも。

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日米による核兵器同時開発のケースを考える

2024年04月12日 10時09分15秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期、連合国側のみならず、枢軸国側でも核兵器の開発が急がれていました。現実には核兵器開発競争はアメリカが先んじることとなったのですが、可能性としては、日本国のみの開発成功、並びに、日米両国による同時開発のケースもあり得ないわけではありませんでした。昨日の記事では、前者について考えてみたのですが、本日は、後者の日米同時開発のケースについて論じたいと思います。

 原爆投下に関する違法阻却事由としては、アメリカにおきましては、核の抑止力による人類救済論が一般的です。悪しき行為でありながらも、そこに神の采配とも称されるべき正義を見出そうとする見解です。‘神は、悪からも善を引き出す’と申しますので、人類救済論は、原爆を投下した側となるアメリカ国民を強く惹きつけるのも理解に難くはありません。結果論からすれば、冷戦期にあって米ソ両超大国を盟主とする東西陣営間の世界戦争、すなわち、第三次世界大戦が起きなかったのは、相互確証破壊論が述べる相互抑止力が働いたからともされています。

 もっとも、第二次世界大戦後にあって超大国間の相互抑止力が働くようになるのは、ライバル関係となったソ連邦が原子爆弾の開発に成功した時点となります。それはアメリカから遅れること4年後、ソ連邦が核実験に初めて成功した1949年の夏のことです。このことは、米ソ間の核の相互抑止力による‘冷たい平和’は、戦後4年を経て実現したのであり、アメリカが原子爆弾を使用した時点では、対ソ牽制の意図はあったとしても、相互性に基づく世界大戦抑止の構想は存在していなかったことを意味します。核の均衡論による違法性阻却の主張は、この点において説得力に乏しいのです。

 しかしながら、この核による相互抑止の議論は、核の抑止力の問題を考えるに際して極めて重要なポイントとなります。先日は、日本国のみが核兵器保有国となるケースについて取り上げたのですが、実のところ、核の開発競争における開発の時間差は、最初に核開発に成功した国が出現した途端に、目的が変わってしまうことを示しています。それは、核を持つ国と持たざる国との間の非対称性、あるいは、核の不均衡が、軍事力において国家間の間に解消され得ない格差をもたらすからです。核兵器国に対して非核兵器国は決して戦争に勝つことはできず、核保有国のみが‘無敵’となるのですから。つまり、核兵器国に対して自らを護り、対等な関係となるには、核の均衡を要するのです。

 アメリカによる広島・長崎への原爆投下を受けてソ連邦が核兵器の開発を急いだのも、おそらく、攻撃兵器としてアメリカへの実戦使用を目的としたのではなかったはずです。アメリカ一国のみが核兵器を保有する状態が続けば、圧倒的に有利となった同国による核による威嚇や攻撃等により、戦時中に版図を広げた‘赤い帝国’が瓦解し、共産主義体制が崩壊することを恐れたからなのでしょう。あるいは、最終戦争としての第三次世界大戦を想定していた世界権力が、世界大での二頭体制の構築を欲したからかも知れません。何れにしましても、ソ連邦は、自ら核兵器を手にすることで、‘生き残り’、すなわち体制温存に成功したと言えましょう。因みに、当時のアメリカは、ソ連邦による原子爆弾開発を未然に阻止するために、対ソ原爆使用に踏み切ることはありませんでした。

 冷戦期に見られるように、たとえ敵対関係にある、あるいは、異質な体制の国家であったとしても、核の均衡が共存をもたらすならば、第二次世界大戦末期にあっても、同様の展開となった可能性があります。日米両国がともに核兵器を保有する状態に至った時点で戦争は‘凍り付き’、ほどなく終結に向かったものと推測されるのです。

 そして、核開発における後発組の目的が、核攻撃からの防衛である点に注目しますと、今日のNPT体制には、大いに疑問があります。核兵器の攻撃兵器としての非人道性ばかりを強調し、核兵器の廃絶を‘絶対善’と見なすことで、核保有国からの最大の防御手段を各国に自発的に放棄させているからです。しかも、核によって絶対的な優位性が保障されている核保有国は、必ずしも他国の独立性や主権を尊重し、国際法を誠実に遵守する国であるとは限らず、中国やロシアのみならず、イスラエルや北朝鮮までもが核を保有しているのが現実なのです。このように考えますと、核の抑止力をもって違法阻却事由を主張するならば、核保有国による横暴から身を守るための防衛、あるいは、抑止目的を条件として、世界の全諸国に対して核保有を認めるべきなのではないかと思うのです。

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核兵器開発競争から考える違法阻却事由

2024年04月11日 12時13分12秒 | 国際政治
 第二次世界大戦末期にあって、核分裂から生じる膨大なエネルギーを破壊力として用いる核兵器の開発は、連合国側であれ、枢軸国側であれ、戦争当事国の至上命題でもありました。同兵器を手にした側が、圧倒的に有利になることが予測されたからです。戦局の悪化で追い詰められていた日本国もまた、同兵器の開発に一縷の望みを抱いていたのです。戦争末期の核兵器開発競争は、結局、ナチスによる迫害を逃れてアメリカに渡ってきた科学者達の貢献もあって、アメリカの勝利に終わります。そしてそれは、第二次世界大戦における連合国の勝利をも意味したのです。

 かくして第二次世界大戦は、アメリカによる核兵器の開発成功に終わるのですが、核兵器の存在は、その後、国際社会に多大なる影響を与えることになります。しかしながら、核兵器とは、そもそも国際法違反となる都市空爆を前提として開発されたとしか考えざるを得ません。実際に、アメリカは、広島並びに長崎のみならず、日本国内の複数の都市を攻撃対象リストに挙げていました。核兵器は、少なくともアメリカでは、最初から違法行為となる民間人の大量殺戮用の兵器として開発されているのです。この点を考慮しますと、核兵器の使用を正当化しようとすれば、誰もが納得するような違法阻却事由を示さなければならない、ということになりましょう。

 そして、今日、違法阻却事由の一つとして提起されているのが、日本国側による核兵器開発の事実です。核兵器の使用の違法性を糾弾されているアメリカからすれば、‘日本国も同じことをしようとしたではないか’ということになります。この主張は、正当防衛や緊急避難の根拠ともなり得ますし、被爆国である日本側としましても、正直に申しますと‘痛いところ’ではあります。しかしながら、この指摘を正面から受け止め、考察・検証を加えますと、核が第三次世界大戦から人類を救ったとする核の抑止力の評価による原爆投下正当化論の問題も、核廃絶運動やNPT体制をめぐる今日的な問題も見えてくるように思えます。

 そこで、先ず考えるべきは、戦争末期にあって核兵器開発競争をめぐっては、およそ3つの可能性があった点です。その三つの可能性とは、(1)アメリカ一国が先に開発し、核兵器を保有するケース、(2)日本国側が先に開発に成功し、日本国のみが保有するケース、そして、(3)日米が共に同時期に開発に成功し、両国が共に核兵器を保有するケースです。現実の歴史は、第一のケースとなったのですが、それでは、仮に第二と第三のケースでは、核をめぐる議論はどのような展開となったのでしょうか。

 古来、兵器の性能は戦争の行方を左右しますので、仮に、第二のケースとして、日本国側が核兵器を先に開発した場合、日本国は、アメリカに対して軍事的に優位な立場を得ることとなります。もっとも、実際にそれを使用できたかどうかについては怪しく、核兵器の使用を想定した潜水艦の開発を急いだとしても、同兵器の運搬手段については疑問が残ります。しかしながら、核兵器を保有しながら大陸間弾道ミサイルの開発には至っていない今日の北朝鮮の立場と同じく、アメリカに対して武力攻撃を控えさせる効果は得られたかも知れません。つまり、日本国の場合、核兵器を開発したとしても、実際にアメリカの都市に対して使用するよりも、抑止力として用いた可能性の方が高いように思えます。おそらく、アメリカが実行した無慈悲な対日空爆作戦も回避されたことでしょうし、終戦交渉を開始するに際しても、連合国側をテーブルの席につかせ、講和交渉を優位に進めることができたことでしょう。

 それでもなおも、日本国による対米原爆投下の正当化論として、保有のみならず、日本国による核兵器の使用という緊急の危機があったと主張するならば、むしろ同論者は、日本国による原爆投下をも正当化せざるを得なくなります。核兵器による甚大なる人的物的・被害が‘見せしめ’となって、その後の人類を救ったとする論理構成からすれば、‘見せしめ’は、ニューヨークであれ、ワシントンD.C.であれ、あるいは、ロンドンであれ、新型兵器の犠牲となる都市はどこでも構わないことになるからです。

 なお、原爆の投下を、‘強欲な侵略国家日本国の当然の報い’と見なしたり、‘自由と民主主義を護るためには必要であった’とする違法阻却事由の主張も、人類史上最初の使用による‘見せしめ’効果だけを取り上げれば、説得力を失います。(なお、植民地支配が横行していた当時の世界情勢からすれば、日本国が‘邪悪な国’であったとは言えないのでは・・・)。邪悪な国家による核の独占とその使用も、あり得ないわけではないのです。仮にこうした状況に至った場合には、非核保有国は、核独占国によって常に脅迫されるか、あるいは、実際に戦争を仕掛けられるかもしれません(核保有国の必勝状態・・・)。科学技術のレベルは倫理観とは無関係ですので、新型兵器の開発競争は、‘邪悪な国’が唯一の保有国となる場合もあり得るという問題をも提起しているのです。そしてこの問題は、今日における問いかけともなるのです(つづく)。

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原爆投下は国際法違反であった-違法行為の阻却事由はあるのか?

2024年04月09日 10時11分04秒 | 国際政治
 第二次世界大戦下にあって原子爆弾の開発に携わり、「原爆の父」とも称されることとなった理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーの半生を描く映画『オッペンハイマー』が、昨年、アメリカで制作されました。アカデミー賞を受賞した注目作品となったのですが、同映画の公開を機に、原子爆弾の投下の是非をめぐる議論も起きています。世界最初にして唯一の被爆国となった日本国では、原爆の残虐性が描き切れておらず、不満が残る作品とする評が少なくない一方で、アメリカ国内では、若い世代には若干の変化が見られるものの、原爆投下を正当化する意見が今なお優勢です。

 アメリカ人が支持してきた原爆投下の正当化論とは、原子爆弾がアメリカの若き兵士達の命を救うと共に、来るべき本土決戦において一億玉砕を覚悟していた日本人の命をも救うのみならず、戦後にあっても、核兵器に対する恐怖心による核の抑止力が働き、第三次世界大戦を防いだというものです。言い換えますと、日本国への原爆投下は、全人類を救ったのであるから、結果論からすれば、日本人の被爆者は人類に供された尊い犠牲ではあるけれども、原爆投下は‘必要悪’であったということになります。

 同見解に対しては、日本人の多くは、原爆投下を先ずもって国際法違反と見なしています(東京裁判等の国際軍事法廷は、敗者の違法行為しか裁いていない・・・)。当時の戦争法にあっても非人道的な兵器の使用は禁止されていますし、都市や民間施設に対する攻撃にも制約が課せられていました。例えば、1910年1月26日に発効した「陸戦法規慣例条約」の条約付属書である「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第23条ホには、禁止事項として「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」とありますし、第25条には、「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又は砲撃スルコトヲ得ス」とあります。さらには、第23条イは「毒マタハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト」も禁止事項としていますので、爆発時のみならず、中長期的にも健康被害を与える放射能そのものを毒と見なせば、同条項にも抵触するかもしれません。これらの条文に照らしてみれば、原爆投下は明らかに違法行為であり、日本人の多くは、アメリカの言い分に素直に納得できないのです。

 しかも、原爆投下に先立って、日本国は首都東京をはじめ激しい都市空爆を受けております。空爆による民間人の被害者数は、原子爆弾による死傷者数をも上回ります。木造建築の延焼を計算に入れた焼夷弾の使用は、民間人をも苦しみの中で焼き殺してまいますので、大火災の発生を目的とした同空爆も(火あぶりの刑が与える耐えがたい苦痛を考えれば、その残虐性は容易に理解される・・・)、上述した陸戦法規に違反する行為に他なりません。このため、なおさらに原爆投下正当論は、‘後付けの言い訳’のようにも聞えてしまうのです。原子爆弾という新型兵器が使われたため、自ずと広島と長崎に関心が集まるものの、仮に、核兵器の使用がなければ、アメリカは、日本全国の都市に対する空爆をどのような論理で正当化したのでしょうか。南北アメリカ大陸では、ヨーロッパ諸国によって先住のインディオの人々が大量虐殺されていますが、こうしたジェノサイド行為は、‘人類を救うために必要であった’とは言えないはずです。

 加えて、当時のアメリカ政府は、独自の情報収集網、あるいは、連合国の一員であったソ連邦を介して、当時の日本国政府が、終戦交渉に動いていたことは知っていたはずです(フーバー元大統領も、アメリカによる休戦妨害を指摘・・・)。仮に、トルーマン大統領による原爆投下の判断が‘人類を救った’とする主張が正しければ、日本国に対する原爆投下は、それが戦後の対立を見越したソ連邦に対するものであれ、明らかに‘見せしめ’が目的であったことを認めることにもなります。戦争の一環であるならばいざ知らず、外部者に対する戦略上の‘見せしめ’効果を狙って原子爆弾が投下されたとなりますと、‘見せしめ’のデモンストレーションのチャンスとして使われた日本国としては、否が応でも釈然としない思いが残るのです。

 これらの他にも、日本国によるポツダム宣言の受託の主要な要因は、原爆投下ではなくソ連邦の参戦にあったので、アメリカの言い分は通用しないとする意見などもあります。もっとも、上述したように、結果としては、相互確証破壊論によって主張されたように核の抑止力が米ソ超大国間による直接的な‘熱戦’を防いだとする指摘は、それが事実であるが故に否めません。それでは、核の抑止力をもって第三次世界大戦を防いだとする論拠をもって、核使用の違法性は阻却され得るのでしょうか(違法性の阻却事由は、凡そ正当行為、正当防衛、緊急避難の三点・・・)。核をめぐる現在の状況を踏まえながら、この問題についてどのように対処すべきか、しばし考えてみたいと思います(つづく)。

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グレート・リセット構想は時代の逆行?

2024年04月08日 10時10分36秒 | 国際政治
 グローバルリズムが本格化した21世紀は、つい数年前までは、‘新しい時代’の到来と見なされてきました。ITやAIをはじめとしたデジタル技術の急速な進歩も手伝って、‘新しい時代’には、先端テクノロジーという実現手段もありました。こうした時代の雰囲気の中、世界権力のフロントとも言える世界経済フォーラムは、近未来におけるグローバル・ガバナンスのヴィジョンとして、グレート・リセット構想を打ち出すこととなったのです。

 同構想に添うように日本国政府も「ムーンショトット計画」といったSFチック、否、カルト風味のプロジェクトを開始したのですが、先進的であり、未来を先取りするような構想というイメージとは裏腹に、統治システムの視点からしますと、グレート・リセット構想は、むしろ知性面での退行が見られるように思えます。何故ならば、その統治機構の設計はあまりにも杜撰であるからです。

 先ずもって、グレートリットによって出現する近未来のグローバル・ガバナンスについては、漠然としたイメージしか示されていません。‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3者の協力によってマネージされる’と説明されているのですが、これらの三者のそれぞれが、統治機構においてどのような役割を果たし、如何なるメカニズムによってガバナンスが行なわれるのか、全く分からないのです。三者による合同決定機関、あるいは、三院制の議会が設けられるという意味かもしれませんし、多国籍企業が決定権を握り、他の二者はその実行機関として決定事項を忠実に執行する、ということなのかもしれません。何れにしましても、はっきりしている事は、近未来の人類は、多国籍企業、政府、市民団体の三者による統治体制に組み込まれるということであり、その具体的な姿は闇の中なのです。

 こうした目的地を明示せずに言葉巧みに人々を‘バス’に乗せようとする手法は、共産主義革命とも似通っているのですが、先日、本ブログでご紹介しました組織の基本モデルに照らしても、グレート・リセット構想が、制度設計として如何に欠陥に満ちているのかが分かります。上述した決定や実行に関する三者の役割の不透明性に加えて、提案、制御、人事、評価といった組織上の機能については空白であるからです。仮に、世界経済フォーラムに対して、‘グレート・リセット構想では、これらの諸機能はどのように制度に組み込まれているのですか?’と質問しましたら、彼らは答えに窮するのではないでしょうか。組織の健全性や発展に必要不可欠となる諸機能間の権力の分有も分立も欠けているのですから。このスタイルは、実行と決定から成る暴走リスクを抱えた独裁モデルであって、近現代の統治機構としての要件を欠いており、前近代的なプリミティブな制度設計に留まっていると言えましょう(モデル図を再掲)。

 また、現代にあって普遍的な価値とされる民主主義の観点から見ましても、同構想は、時代の逆行以外の何者でもありません。そもそも人類の誰も世界経済フォーラムに頼んだわけでも、委任したわけでもないのに、勝手に未来構想を自己提案し、勝手に決定し、それを各国の政府を手懐けて勝手に実行しようとしているからです(‘世界憲法’も制定されなければ、立憲主義も成り立たない・・・)。決定機関の人事も、全人類による普通選挙制度が実施されるわけでもなく、おそらく財閥親族世代間の世襲制ということになりましょう。国際機関を含む政府もグローバル・ガバナンスの構成要素の一つとはされていますが、何れの側面にありましても、民主的な要素は皆無に近いのです。

 そして、もう一つ、重要な問題点を挙げるとしますと、そもそもグローバル・ガバナンスとは何か、という問題です。全世界におけるSGDsの実現と言うことになるのかも知れませんが、これを実現するためには、財政権限をはじめとした内政の権限を含め、各国の主権を‘世界政府’に移譲させる必要がありましょう。また、国家間のトラブルや紛争を解決する仕組みを備えているのか、といった疑問もあります。国家間の対立や紛争を解決するためには、むしろ、国際レベルにあって国際法並びに中立・公平性が確保された司法制度の整備が必要ですので、グレート・リセット構想が想定している三者は、何れにあっても解決手段として不適切なのです。誰も、多国籍企業に司法機能を任せようとは思わないことでしょう。現状にあっても、世界経済フォーラムが、統治権を行使しようとすれば、それは、国際法にあて法的根拠のない不法行為、あるいは、国家に対する主権侵害ともなるのです。

 何れにしましても、グレート・リセット構想には、致命的な欠陥が散見されます(もっとも、人類支配を目指す世界権力にとっては望ましい確信犯的な欠陥の放置・・・)。このことは、その実現が、グローバル・ガバナンス、否、一方的な上からの支配のターゲットとされる人類に不幸と不自由をもたらすことは容易に予測されます。手段としてのテクノロジーの先進性の陰に、人類支配という目的を実現するための制度設計上の逆行性を忍ばせる手法こそ、グレート・リセット構想が人類に仕掛けている巧妙な‘トラップ’なのではないかと思うのです。

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自然エネルギー財団問題-既に‘グレートリセット’は実現している?

2024年04月01日 10時14分47秒 | 国際政治
 ここ数年来、政府は、国民に多大な影響を及ぼす重大な政策の決定に際して、有識者会議を設けるという方法で、政府による独断専行との批判を回避してきました。再生エネルギー推進政策についても「再生エネルギータスクフォース」が設置され、民間団体から‘有識者’が選任されたのですが、民間メンバーから提出された資料に中国国営企業のロゴの入っていたことから、中国の対日介入が懸念されることとなりました。

 同タスクフォースの構成員に選ばれ、問題の資料を持ち込んだのは、自然エネルギー財団事務局長を務める大林ミカ氏です。もっとも、同氏の人選には、現在デジタル大臣等の役職にある河野太郎氏が深く関わっていたとされます。報道に依れば、外務大臣の職にあった際にも、外務省に設けられた「気候変動に関する有識者会合」に同財団から大林氏を含む3名のメンバーが選ばれたそうです。また、今般の騒動の責任をとる形で大林氏が同メンバーを辞任するに際しても、「・・・河野太郎規制改革担当相から「了承した」という返信を事務局経由でもらった」と述べると共に、同氏からの推薦をあった旨も明らかにしていますので、河野氏の関与はほぼ確実と言えましょう。

 かくして、中国国営企業のロゴ発覚問題は、それがたとえ単なる‘ミス’であったとしても、政治家が関わる‘令和の疑獄事件’ともなりました。当の河野氏には中国スパイ説も持ち上がり、「有識者会議」を介して日本国の政策が中国の国策に利用され、同国の政策に沿うように誘導されている実態が明らかとなったからです。それでは、今般の事件にあって、国際法の原則に反する内政干渉を行なった‘犯人’は、中国なのでしょうか。

 確かに、‘実行犯’は、中国なのでしょう。しかしながら、その背後には、全世界のエネルギー政策のコントロールを目指すグローバリスト勢力の陰も見え隠れしています。そもそも、再生エネルギーとは、2011年3月11日に発生した東日本大震災における福島原子力発電所事故を機に、菅直人民主党政権の下で強力に推進されるようになった政策です。大林氏も、反原発の活動家としても知られており、反原発・脱原発運動が、その実、再生エネ利権と結びついていることを示しています。そして、当時にあって反原発運動が全国的な激しさを増す中、ソフトバンクグループを率いる孫正義も、将来予測される国内の電力不足の解消策として、中国、ロシア、モンゴル、北朝鮮等を電線網で繋げる「アジアスーパーグリッド構想」を打ち出したのです。

 ところが、この構想の焼き直しとも言える構想が、中国が進めている「一帯一路構想」にも登場してきます。時系列を見ますと、「一帯一路構想」が最初に提唱されたのは2013年ですので、孫氏の「アジアスーパーグリッド構想」を中国が模倣したようにも見えます。しかしながら、これらの二つの構想は、日中両国においてそれぞれ別々に推進されているわけではなく、事実上、一体化してゆきます。驚くべきことに、孫氏は、中国側の国際送電網構想の事業主体となる中国国営企業、すなわち、件のロゴ使用している国家電網公司を中心として設立された非営利団体「GEIDCO」の副会長に収まっているのですから。日中間の構想が何らの軋轢もなく円滑に一本化された様子からしますと、中国が日本発の構想を真似る、あるいは、‘横取り’したのではなく、既に別の次元で同構想が計画されていたとも推測されます。仮に、後者であれば、孫氏も中国も、同構想の実現に協力しているに過ぎず、‘実行部隊’の一員と言うことになりましょう。

 そして、ここで思い出されますのが、世界経済フォーラムが掲げている未来ヴィジョンです。‘グレートリセット’とも称されているのですが、同ヴィジョンでは、将来のグローバル・ガバナンスは、‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3者の協力によってマネージされる’とされています。このヴィジョンに照らして今般の国際送電網構想を見ますと、まさしくこれらの3者の協力によって推進されています。多国籍企業は、国家電網公司やソフトバンク等の国境を越えて事業を展開する企業であり、国際機関や政府とは、AIIBや日中両国政府、あるいは、配下の政治家となりましょう。そして、最後の‘選ばれた市民団体’こそ、自然エネルギー財団となるのです。もちろん、同財団を選んだのは、世界経済フォーラムに代表される世界権力なのです。

 河野太郎氏は、世界経済フォーラムの年次総会であるダボス会議に頻繁に出席するのみならず、2014年には、「グローバル・ヤングリーダーズ」にも選ばれています。また、同ヤングリーダーではないものの、大林氏は、国際太陽エネルギー学会の「グローバル・リーダーシップ賞」を受賞しています。

 今般の中国国営企業のロゴ発覚事件は、それが完成したわけではないにせよ、世界権力による人類支配の仕組みを図らずも公開してしまった観があります。そしてそこには、どこにも国民の声が政治に届く民主的な要素が見られないのです。

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陰謀論と陰謀説は区別すべき

2024年03月28日 10時40分25秒 | 国際政治
 近年、世界各地において不可解な事件や辻褄の合わない出来事が頻発するにつれ、‘陰謀’という言葉を耳にする機会も飛躍的に増えました。かつてはマニアックな人々の好奇心を引き寄せてき‘陰謀’なる言葉は、今では、メディアなどでも堂々と語られるようになりました。しかしながら、その一方で、‘陰謀’という言葉は、さらなる混乱を招くことにもなったのです。

 それでは、何故、‘陰謀’という言葉の一般化が、現実に対する正確な理解を妨げる要因となってしまったのでしょうか。その主たる原因は、‘陰謀という言葉には、以下に述べるように、その使われ方に違いがあるからなのでしょう。

 第一の陰謀の使われ方は、陰謀の存在を否定する側が、陰謀の実在を信じている人々を揶揄するために使われるケースです。この使われ方は、メディアやウェブ記事などで頻繁に目にするものであり、通常、‘真面目であった○○さんが、陰謀論に嵌まってしまって残念・・・’とか、‘何故、かくも人々は、馬鹿馬鹿しい陰謀を信じるのか’という、パターン化された論調で書かれています。こうした記事では、専門家によるもっともらしい心理分析まで付されており、読者に対して、陰謀を信じる人々は、理性を失った一種の‘狂信者’であるとするイメージを植え付けています。そして、‘陰謀論者’という呼び名は、簡単に嘘を信じて騙される愚かな人々、という嘲笑的な意味合いをも持つようにもなったのです。

 なお、この使われ方は、とりわけ、トランプ前大統領が、‘ディープ・ステート’を政治の表舞台に登場させたため、米民主党を中心とするリベラル派の人々がトランプ前大統領、あるいは、共和党支持者を批判する際に目にするようにもなりました。言い換えますと、政治的な対立軸が加わったことで、余計に踏み絵的な役割をも担ってしまったようにも思えます。このことは、理性派を任じていたリベラルの人々も、内心において陰謀の可能性を認めていたとしても、口に出せない状態に置かれることをも意味します。

 その一方で、第二の陰謀の使われ方とは、上記の陰謀の実在性を否定する人々こそ、陰謀を企む側の一員であると見なす場合です。つまり、‘陰謀論という名の陰謀’と言うことになり、ここに、どんでん返しがあるのです。考えても見ますと、陰謀を企む側はその存在を一般には知られたくないのですから、陰謀の存在を否定したいに決まっています。この観点からしますと、第一の使われ方もあり得るのであり、とりわけメディアを介した否定論が多く見られるのも、この主張の信憑性を高めています。今日のメディアは、陰謀実在論者が主張するように、世界経済フォーラムをフロントとする世界権力の強い影響下にあることは否めません。

 陰謀論とは、ケネディ大統領暗殺事件を受けて、オズワルド単独犯説に疑問を抱く国民の声を封じるために、CIAが開発した世論操作の手法であるとする指摘がありますが、近年、CIAによる工作活動の実態が漏れ伝わるにつれ、陰謀論も、同機関の活動の一環であった可能性は高まるばかりです。日本国内でも、安部元首相暗殺事件は、現場の状況や手製の銃器の性能からすれば物理的に不可能であり、山上被告単独犯説は成り立たないにも拘わらず、疑問の声は‘陰謀論’としてかき消されています。

 以上に述べたように、陰謀論という言葉が使われるに際して正反対の見方があり、こうした違いが混乱の一因であるとしますと、両者を明確に区別した方が望ましいこととなりましょう。どちらの意味で使っているのか、直ぐには判断できないからです。そこでまず、何らかの事件等が発生した場合、それが、何者かによる謀略や工作活動である可能性を指摘する、あるいは、合理的に推理する場合は陰謀説と表現し、それが何れの立場であれ、陰謀の打ち消しを目的とする世論操作や世論誘導が強く疑われる場合のみ、陰謀論という言葉を使うというのはいかがでしょうか。

 陰謀論という言葉が出てきますと、正当な根拠を備えた真っ当な疑いや不審点の指摘であっても、どこか‘うさん臭く’聞えてしまいます。陰謀論という言葉を聞いただけで、条件反射的に拒絶反応を示す人も少なくないことでしょう。しかしながら、陰謀説という表現であれば(謀略説でも工作説でも構わない・・・)、受け取り方が違ってきます。‘この事件については、陰謀論があります’と言うのと、‘陰謀説があります’と言うのとでは、聞き手が受ける印象が随分と違うのです。後者のほうが遥かに現実味がありますので、多くの人々が事実の徹底究明の必要性を認識すると共に、真剣にリスク対策を考えるようになるのではないかと思うのです。

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王室皇室の情報公開と陰謀説

2024年03月27日 12時57分11秒 | 国際政治
 英国皇太子妃の公表動画にあって陰謀説が渦巻くこととなったのは、フェイク動画を容易に作成し得る画像処理技術の向上のみではありません。王室や皇室については秘密主義で知られており、あまりにも隠し事が多すぎるのです。様々な情報が行き交う情報化時代にあっては、秘密主義は、諸刃の剣どころか、百害あって一利なしともなりかねないリスクがあります。

 先ずもって、秘密主義そのものが陰謀であるからです。陰謀とは、他者に知られることなく、密かに自らの目的を達成しようとする行為です。言い換えますと、情報を他者に隠しながら物事を進めてゆく手法こそ、陰謀と言うことになります。陰謀の特徴の一つが秘密主義なのですから、王室や皇室が秘密主義をもって自らの情報を隠しますと、自国民をはじめ他の人々から、‘どこか怪しい’と疑われ、信頼喪失に繋がることは仕方がないことなのです。逆から見ますと、秘密主義を貫こうとすれば、隠蔽を指摘されたり、陰謀説が流布されることは覚悟しなければならず、疑惑や勝手な憶測を払拭したいならば、全ての情報を公開しなければならないと言うことになりましょう。

 もっとも、この秘密主義と陰謀との関係については、国家の防衛や安全保障を理由として是認すべきである、とする主張もありましょう。確かに、外国や外国勢力から軍事力による攻撃や工作員による謀略を仕掛けられるケースを考慮すれば、この反論にも一理はあります。国家機密というものは、何れの国にも存在します。しかしながら、秘密主義は、たとえ安全保障上の分野であれ、必ずしも国家や国民を護るとは限らないことも、確かなことです。国家機密という‘隠れ蓑’を、陰謀を企む者達に与えかねないからです。そして、国家機密という隠れ蓑を利用する者達こそが、安全保障や国家の独立性を脅かす外国勢力との内通者あるいはそのメンバーであるかもしれないのです。

 例えば、今般の皇太子妃動画問題も、YAHOOニュースにおける不自然なコメント投稿は、一見、動画を配信した皇室、あるいは、皇太子妃を庇うために投稿されているように見えます。同投稿は、人々の同情心に訴え、陰謀説を唱える人々を暗に糾弾することで、議論を封じようとしたのですから。しかしながら、仮に、今般の病気の原因が、ワクチンのみならず、何らかの勢力による謀略にあったとすればどうでしょうか。暗殺の手段として人為的にがんを引き起こす装置は、既に開発されているとされます(幾つもの発がん物質が確認されていますので、技術的には可能なはず・・・)。

 イギリスでは、皇太子妃に先だって、国王もがんの罹患を公表しております。相次ぐがんの発病は単なる偶然なのでしょうか。国民の多くが、不審を抱いても不思議はない状況にあります。仮に、投稿者が主張するように、陰謀や謀略の可能性を指摘してはならないとしますと、実際に陰謀が存在していた場合には、陰謀を企む側の‘思う壺’となりましょう。この場合、投稿者の目的は、別のところにある可能性も否定できなくなります(あるいは、何れであっても、陰謀説だけは封じたい?)。

 さらにより穿った見方をすれば、王室側が敢えて陰謀の存在を国民に暗に知らせるために、誰もがフェイクであることに気がつく動画を配信したのかもしれません。この場合、‘お察しください’というメッセージ、暗殺やすり替えの危機を前にして、国民に助けを求めていることにもなりましょう。もしくは、何らかの目的のもとに、罹患自体がフェークであることを知らせているのかもしれません。

 何れにしましても、様々な可能性がありますので、王室や皇室の秘密主義は、国民にとりましては、重大なリスク要因です。情報が無ければ、国民は、正しい判断も評価もできないからです。それでは、全ての情報を包み隠さずに全面的に公開するとなりますと(特に世襲であるからこそDNA情報は重要・・・)、王族や皇族にはプライバシーが全くなくなることになります。血統問題、日常生活、発言内容の全面的な公開によって、一般の国民と然して変わらないともなれば、権威としての求心力は失われ、統合の役割をも果たせなくなりましょう。そこで、権威を維持しようとすれば、神聖性やカリスマ性を演出せねばならず、やはり情報統制や劇場化が必要とされてしまいます。つまり、ここに二律背反が生じるのであり、現代という時代にあって、王室や皇室の存続をなおさらに難しいものとしているのではないかと思うのです。

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陰謀論をめぐる理性vs.感情の問題

2024年03月26日 12時19分52秒 | 国際政治
 報道に依りますと、先日、英国皇太子妃が自らががんを患っていることを公表する動画ビデオを公開したところ、SNSなどで、生成AIによるフェイク動画説やワクチン・ターボがん説などの‘陰謀論’が沸き起こっているそうです。先だって公開された家族写真における修正の指摘に端を発したビデオ公開であったのですが、むしろ、疑惑が深まってしまったようなのです。

 公表されたビデオ画像には、確かに不自然さがあります。SNSのユーザーの人々が指摘している通り、野外の撮影ですので、当然、背景に写る木々や花々は風に揺れるはずなのですが、微動だにしていません。別の場所で撮影した動画の背景だけを入れ替えたのではないか、とする疑いも、あながち否定はできなくなります。とりわけ生成AIはこうしたフェイク動画の作成を技術的に可能としていますので、陰謀説、あるいは、フェイク説の主張にも合理的な根拠がないわけではないのです。

 ところが、同ニュース、YAHOOニュースでも配信され、多くのコメントが寄せられているのですが、その中に、驚くことに1.3万人もの圧倒的数の「共感した」を獲得したコメントありました。同コメントとは、「あの動画をAIだと言う人は絶対出てくると思っていた。確定的な自信や証拠があるなら別だけど、そうじゃないなら、カウンセリング受けた方が良いと思う。闘病中の女性を傷つけている可能性に思い至らないなんて人間としてとして虚しすぎるよ」というものです。

 このコメント、いささか問題含みのように思えます。何故、問題となるのかと申しますと、そもそも、日本国内にあってイギリスの王室の記事に1.3万もの数の「共感した」が押されたこと自体が不自然でもあるのですが(この数字、1.3万ジャストですので、千単位以下は切り捨てられているのでしょうか・・・)、以下の点で、自由な議論を阻害したい思惑が透けて見えるのです。

 第一に、同コメントの投稿者は、最初の一文において、AI作成説の出現を確信しています。‘絶対に出てくると思っていた’と述べているのですから。ということは、本人も、同動画の不自然さについては気がついており、この書き出しは、敢えて先手を打って‘陰謀論’への発展を抑えようとする強い意志が読み取れます。

 第二に、‘確定的な自信や証拠があるなら別’とも述べていますが、実際に、SNSのユーザー達は、フェイク説や陰謀説を主張するに際して、スロー再生の動画を提供するなど、具体的な根拠を示しています。しかも、上述したように、動画の背景のみが静止しているのは、誰もが確認できる事実です。提示されている明確な根拠を無視しているわけですから、投稿者は、鼻から議論をするつもりもなく、否、一方的に議論を遮断しているのです。

 第三に、「カウンセリング受けた方が良い」という表現は、相当に侮辱的、あるいは、挑発的な表現です。専門家による診断や治療を要するほどに、SNSのユーザー達は、精神に異常をきたしている(頭がおかしい)と言っているのですから。SNSのユーザー達は、動画に対する客観的な分析に基づいて疑問点を述べているのですから、理性的に対応しているのは、むしろSNSユーザーの人々です。

 そして、第四に指摘すべきは、最後の一文となる「闘病中の女性を傷つけている可能性」に思い至らないなんて人間としてとして虚しすぎる」という言葉の狡猾さです。病身の女性を慮っているようにも聞えるのですが、その実、この言葉は、第三点と同様にSNSのユーザーの人たちに対する人格攻撃を意味します。人格攻撃とは、しばしば、正当な議論から逃げるための手段でもあります。つまり、自らを道徳的な高みに置きつつ、周囲の人々の感情に訴え、したり顔で正当な意見や批判を排除しようとしているのです。このような感情に訴える態度は、巧妙な言論封じと言えましょう。それが、如何に自らにとって耳痛い、あるいは、不都合であっても、他者の意見に誠実に耳を傾け、理解しようとする方が、余程、人間的なのではないでしょうか。

 以上に述べてきた諸点からしますと、同投稿者は、感情論・同情論をもって陰謀説を封じる明確なる意図をもってコメントを投稿したものと推測されます(1.3万人数は、組織的同調圧力・・・)。そして、ここに、何故、コメント欄を利用しても陰謀説を封じなければならなかったのか、という別の問題も浮かび上がってくるのです(つづく)。

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『世界政府の造り方』について

2024年03月13日 11時32分30秒 | 国際政治
  落ち着いて考えてもみますと、世界経済フォーラムの存在自体が陰謀の実在を証明しているとも言えましょう。何故ならば、自らには全世界を全面的にリセットし、根底からチェンジし得る力があると自負しているからこそ、‘グレートリセット構想’を打ち出しているとしか考えられないからです。表舞台に姿を現わしたグローバルなマネー・パワー勢力は、今や全世界にその威力を見せつけています。それでは、どのようにして世界権力は、全世界に支配のネットワークを広げていったのでしょうか。

世界権力の基本戦略とは、あらゆる集団のトップの取り込みなのでしょう。否、‘乗っ取り’という表現の方が相応しいかも知れません。世界権力には全世界を直接的に支配するする物理的力はありませんので、独断で決定した事柄を実現するためには、自らの手足となって忠実に命令や指令を実行する部下、あるいは、実行部隊を要するからです。そして、仮に、全世界を遠隔操作で自らのコントロール下に置こうとすれば、国家をはじめとした既存の組織を取り込んでしまうことが最も‘手っ取り早い’方法なのです。この手法は、古代にあっては、世界帝国を建設したローマが編み出した手法でもありました。

そもそも古代ギリシャのポリス世界の流れを汲む都市国家であったローマには、他のポリスと同様に‘市民権’という資格が存在していました。共和制の時代より、ローマは内容の異なる様々な権利を征服地の住民に付与することで、自らの統治機構に被征服民を取り込むようになります。そして、征服した国や異民族の旧支配層には、元老院のメンバーとなる資格を含めてローマ市民と同等の市民権を与え、ローマの支配層の一員となしたのです。言い換えますと、軍事的な征服によって自らの属領とした地域については、上層部をローマを中枢とする支配体制に組み込むことで、さらにその下部に位置する現地の住民をも間接支配し得るようになったのです(もっとも、ローマ帝国の場合、市民権の解放はローマ人の消滅を帰結してしまう・・・)。軍事力によってユーラシア大陸の大半を手中にしたアレキサンダー大王の世界帝国が、大王の若すぎる死をもって瓦解したのは、ローマ帝国のような支配の継続化のための老練な知恵を欠いていたからなのかも知れません。

侵略が国際法で禁じられ、民主主義が当然のこととして受け止められるようになった今日、征服や支配の方法については、人々の意識から殆ど消え去っています。実学としても学問的な研究の対象からも凡そ外されています(知識の欠如はリスクの放置に・・・)。しかしながら、もし、『帝国の造り方』というマニュアル本が書かれるとすれば、その内容は案外簡単なのかもしれません。第一のお薦めは、‘力で征した後は、既存の権力や権威を徹底的に活用せよ’となることでしょう(もっとも、力で完全に征服地住民の抵抗を未来永劫にわたって排そうとすれば、全員の命を奪うジェノサイド、あるいは、追放ということになる・・・)。

征服地にあって世襲の君主や為政者が存在していれば、その人物を自らの配下に置けばその後の支配は円滑になりますし、既に官僚組織が整っていれば、それを自らの統治機構と結合させればよいこととなります。そして、事の成り行きで征服戦争に際して相手国のトップを討ち取ることになったならば、君主一族の中から最も自らに従順となる人物を選んで形ばかりの君主とする、あるいは、統治機構だけは維持しつつ、そのトップに自らの代官を送り込む、といった手法が採れたのでしょう(所謂“悪代官”)。この手法、古代のみならず現代に至るまでの人類史を振り返りますと、思い当たる事例が幾つも見つかるはずです。
征服が許され、かつ、自らが実行手段としての軍事力を有していますので、ローマ帝国、及び、同帝国の手法に倣った諸国は、白昼堂々と帝国の建設に邁進しました。しかしながら、今日の世界権力は、国民国家体系が成立しているため、独立主権国家に対して侵略を企てたり、内政に介入することは違法行為となる上に(特に民主主義国家に対しては選挙に介入しなければならない・・・)、上述したように軍事力という実行手段も備えていません。この点において、古代ローマ帝国とは著しく異なっているのですが、この両者の違いこそ、それしか手段がないという、陰謀の必要性を説明していると言えましょう。となりますと、『世界政府の造り方』という教本には、極めて手の込んだ詐術的な‘乗っ取りの手法’が並んでいると推測されるのです(つづく)。

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情報機関は国民の敵か味方か?

2024年03月06日 10時25分30秒 | 国際政治
 戦争であれ、テロ事件であれ、そして災害であれ、その背後に何者かによる謀略があったのでは亡いか、とする推測は、如何に辻褄が合わず、説明のつかない不審点に満ちていようとも、陰謀論として退けられてきました。ウェブなどでも、陰謀実在論をカルト信者のように見なす記事が定期的に掲載されています。そこには、何としても陰謀の存在を否定したい人々の強い意志が感じ取れるのですが、最早陰謀実在論を封じ込めることは難しい状況にあります。

 安部元首相暗殺事件についても、政府もメディアも元統一教会の信者の家族とされる山上徹也被告による単独犯として片付けています。しかしながら、暗殺現場や狙撃の状況を具に観察すれば、同単独犯説が成り立たないことに、誰もが気がつくはずです。物理的に不可能であるにも拘わらず、単独犯説をもって‘事実’とみなすのは、虚偽を信じるように迫るまさしく‘馬鹿の故事’そのものですし、悪しき‘ダブル・シンキング’を国民に強いていると言っても過言ではありません。

 かくして陰謀の実在性の信憑性が高まるにつれ、解明が急がれるのは、誰が何を目的に陰謀を企てて、それを誰がどのようにして実行しているのか、という具体性を帯びた問題です。そして、この問題を考えるに際して先ずもって疑わなければならないのは、政府を含む公的機関の関与です。とりわけ戦争であれば、公的機関の関与なくしてこれを起こすことはできませんし、上述した要人暗殺テロ事件にあっても、これにカバー・ストーリーをかぶせるならば、警察であれ、地方自治体であれ、公的機関の協力を必要とするからです。少なくとも、陰謀の実行者は、公権力を行使できる立場にいなければならないのです。

 同要件からしますと、陰謀の実行機関として最も疑わしいのは、情報機関と言うことになりましょう。アメリカであればCIA、イギリスではMI6、ロシアであれば対外情報庁、中国ならば中華人民共和国国家安全部といった、秘密裏に情報収集や工作活動を行なう機関です。

 そもそもこれらの機関の主たる任務の一つは防謀です。外部から仕掛けられる陰謀の存在を前提として設けられているのです。言い換えますと、陰謀が実在しなければ、これらの機関も存在しないのです(陰謀否定論者は、情報機関の廃止を主張するのでしょうか・・・)。謀略から国家や国民を護るという意味において、情報機関は‘愛国的な機関’のはずなのですが、情報機関には、その活動の場が裏方である故に、自らが属しているはずの自国から離れやすいという問題があります。加えて、他の国民には自らの‘正体’を隠す、あるいは、偽って行動しますので、自国民からも離れた存在でもあります。そして、時には、‘国家のため’に他国民のみならず、自国民を騙すことさえ職務上許されるのです。

 この側面は、情報機関は、公的機関にあって最も危険な機関であることをも意味します。同機関が、本来の所属国ではなく他国や外部勢力のために働く場合、鶴翼の陣が逆側を向くが如く、当該所属国を無防備にすると共に、他国や外部勢力の謀略の実行機関に転じてしまうからです。そして、こうした恐れられている事態は、実際に既に起きているようにも見えるのです。‘敵を騙すにはまず味方から’ではなく、正真正銘、国民が敵に騙されてしまうのです。実際に、二重スパイや‘ミイラ取りがミイラとなる’ケースも珍しくはありません。

 日本国には、現状にあって独立した機関として情報機関が設置されているわけではなく、公安警察が担っています。このままでは日本国はスパイ天国となり、情報は筒抜け、謀略は仕掛けられるままとなるのではないか、とする懸念から、近年、スパイ防止法の制定を求める声も上がってきています。同主張にも一理はあるのですが、スパイ防止法を声高に主張してきた保守系の政治家や団体が、何れも元統一教会との関係が深い点には注意を要するように思えます(元統一教会は、KCIA、北朝鮮、並びにCIAとの関係が指摘されている・・・)。

 同法案が成立すれば、スパイ防止法の執行機関として、日本国にも独立した専門機関として情報機関を設ける動きも強まることでしょう。しかしながら、仮に日本国に情報機関が新設されたとしても、それはその実態において日本国に属するのでしょうか(各国の海軍にもその節があり、また、岸田政権を見る限り、既に政府が丸ごと日本国から離れているような・・・)。全世界を舞台に世界権力を中枢として各国の情報機関を網羅するネットワークが形成されている、あるいは、他国の情報機関と繋がっているとすれば、同機関の存在は、日本国により危険な状況をもたらしこそすれ、決して安全性を高めるとは思えないのです。

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KGBとプーチン大統領-情報機関のグローバル・ネットワーク疑惑

2024年03月04日 10時36分38秒 | 国際政治
 1989年に始まる東欧革命がドミノ倒しの如くにソ連邦にも及び、永遠に続くとみられてきたソ連邦が崩壊した時、誰もが、今日のプーチン政権の誕生を予測はしなかったことでしょう。何と申しましても、ウラジミール・プーチン氏は、全世界の諸国から恐れられていたソ連邦の情報機関、KGBの出身であったのですから。新生ロシア連邦に民主化の希望を託したロシア国民が、かくも簡単にKGB出身の大統領を選ぶとは、誰もが予想だにしなかったはずです。ところが、現実には、‘あり得ないこと’が起きてしまったのです。

 それでは、何故、常識的には考えられないような事態が起きてしまったのでしょうか。プーチン大統領は、KGBにあって対外情報部員として16年間勤務しています。最後は中佐にまで昇進しており、順調に出世街道を歩んできたようです。1991年のソ連邦崩壊を機に同氏は政治家に転身し、2000年5月には、遂、大統領の座に上り詰めることになりました。この間、わずか9年でしかありません。

 しかも、政治家に転身したとは言え、ボリス・エリツィン大統領の下で、プーチン大統領が公職に就いたのは2006年のことです。ここで、注目すべきは、同氏が就任した公職とは、連邦保安庁長官及び連邦安全保障会議事務局長である点です。最初に長官の任に就いた連邦保安庁とは、かのKGBの後身なのですから。ソ連邦の崩壊過程にあった1991年12月4日にKGBは4つの機関に分割されます。対外情報局(第一総局)はロシア対外情報部となるのですが、防謀・犯罪捜査を担ったのが連邦保安庁なのです。

 プーチン大統領の経歴を見ますと、ソ連邦からロシア連邦への移行にあって、前者が後者を引き継いでいることが分かります。実態を見れば、ロシア連邦は、KGBの組織や人材を引き継いだのであり、KGBの中佐であったプーチン氏が、エリツィン大統領によって同組織のトップとして任命されたに等しいのです。あたかもレールが敷かれていたかのように。

 これまで、ソ連邦の崩壊とは、民主主義の勝利のように捉えられてきました。しかしながら、その実態は、共産党一党独裁体制の終焉ではあっても、‘国家体制’そのものには然したる変化はなかったのかも知れません。そしてここに、CIA問題と共通する情報機関の問題も垣間見えてくるのです。

 そもそも、情報機関とは、元より諜報や工作など、秘密裏の活動を行ないますので、最も国民から離れた機関としての性質を特徴とします。外国や外部勢力による謀略や攻撃を防ぐ上では‘必要悪’とは言えるとしても(情報局の存在は、国際社会にあって、陰謀や謀略が実在することの反対証明でもある・・・)、組織自体は、非民主的であり、国民との距離が遠いのです。この特徴は、何れの国であれ、情報機関は、議会や国民による民主的な監視の目が届かず、それ故に、自国ではなく他国や外部勢力と結びつきやすいことをも意味します。

 そして、ロシアを含め(もちろん、ウクライナのゼレンスキー大統領、イスラエルのネタニヤフ首相、そして、ハマスも・・・)、全ての諸国が作成されたシナリオに沿って行動しているように見える今日、同シナリオにあって工作を必要とする場合、主要な実行部隊となるのが、水面下ではグローバルにネットワークで繋がっている各国の情報機関ではないのか、という疑いが生じてくるのです。プーチン大統領は、世界経済フォーラムのヤング・グローバル・リーダーにも選ばれています。果たして、これは、何を意味するのでしょうか(つづく)。

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CIAは政党や新興宗教団体の統括機関?

2024年03月01日 12時11分20秒 | 国際政治
 元統一教会については、韓国がその発祥の地であるため、既にKCIA、即ち、大韓民国中央情報部との関係が指摘されてきました。しかも、教祖の出身地が北朝鮮であることによって、両国間の南北宥和政策にも影響を与えたとされています。元統一教会には、元より国家の機構内部に深く入り込み、自らの目的のために活動していた組織と言う、極めて政治的な側面があります。このことは、同教団の強い権力志向を表すと共に、政治権力と一体化まで疑われるのです。そして、この一体性は、日本国内にあっては自民党と間に顕著に観察されます。

 こうした政治志向の強さは、教祖の個人的なパーソナリティーの現れなのでしょうか、それとも、教祖によって歪曲された‘教義’に由来するのでしょうか。本当のところは、これら二つの何れでもなく、教団と政治との関係は逆であった可能性もあります。この推測は、教団サイドが、教祖が説く理想をこの世に実現するために信者を統治機構にお送り混み、組織的に浸透させたのではなく、逆に、‘政治サイド’が自らの目的のために新興宗教団体を設立したというものです。つまり、新興宗教団体⇒政治ではなく、政治⇒新興宗教団体の逆順になるのです。

 同推測では、‘政治サイド’が、カリスマ性や演技力、あるいは、並外れた野心など、‘教祖としての素質’を見込まれた人物を選び、教祖役を担わせることとなります。この人物は、話術にも長けていますので、信者は自ずと集まってくるのですが、おそらく、‘政治サイド’からは、信者獲得のための所謂“マニュアル”が手渡されているかもしれません。手引き書があればこそ、短期間で効率よく教団を拡大させることが出来たのでしょう。実際に、新興宗教団体とは、教祖の尊い教えや講和を聞くために人々が自然に集まり、信仰の輪が静かに広がってゆくという形ではなく、派遣された教団のメンバー達による画一化された勧誘活動によって信者を獲得しています。そして、その勧誘方法とは、教義を説くというよりも、人々の恐怖心や欲望を利用し、悪徳商法のような研究し尽くされた心理操作術であるケースが多いのです。

 それでは、ここで言う‘政治サイト’とは、一体、何を意味するのでしょうか。上述した元統一教会とKCIAとの関係からしますと、最初に韓国にあって同教団を設立したのは、同情報部を擁する韓国政府であったと考えられます。この説に従えば、元統一教会が組織内に浸透してしまった日本国の自民党も、韓国政府のコントロール下に置かれていることとなりましょう。確かに自民党は、口先では韓国に対して厳しい態度を見せていますが、実際の政策を見ますと、必ずと言ってよいほどに逃げ道を提供しており、韓国配慮に満ちています。

 自民党は長らく政権与党の座にありましたので、この説が正しければ、日本国は、韓国支配の国となるのですが、韓国政府が単独で異国である日本国内で元統一教会の組織網を広げたとは思えません。となりますと、日本国内に協力者がおり、その協力者をも配下に置き得る、より上部の‘政治サイド’が存在しているとも推測されます。しばしば、自民党はアメリカ、あるいは、CIAが造ったと指摘されていますが、サンフランシスコ講和条約による日本国の主権回復に際して、戦勝国であったアメリカが、日本国の占領統治を継続するために様々な間接支配装置を組み込んでおいたとする説も、強ち間違ってはいないのかも知れません。そして、その主たる装置こそ、自民党という政党であったのかも知れないのです。

 ここに、日本国並びに韓国の両国の戦後は、両国を占領していたアメリカによってコントロールされてきた、とする推測が浮上します。日米合同委員会の存在も、この可能性を強く示唆しています。しかしながら、国家の政府と新興宗教の両者を操る‘政治サイド’とは、アメリカという‘国家’なのでしょうか。アメリカにあっても、CIAはケネディ大統領暗殺事件において関与が疑われるように、必ずしもアメリカ=CIAとは言えない側面があります。次期アメリカ大統領選挙にあって無所属の候補者として衆目を集めているロバート・ケネディ・ジュニア氏も、CIAによる他国における工作活動を暴露しています。近年多発している合理的に説明できない不可解な出来事をも考え合わせますと、より上部にあって、各国の政府、政治家、政党、新興宗教団体、市民団体、そして、グローバル企業までをも配下に納め、そのそれぞれに配役を割り振りながら、‘政治劇’を演じさせている存在が想定されてくるのです(つづく)。

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