1980年代以降、全世界の諸国にグローバリズムの波が押し寄せ、国境に対する意識が低下の一途を辿ってきました。グローバリズムの中枢には、国境を越えて広がるマネー・パワーが座しているのですが、同パワーは、軍事強国がアジア・アフリカの諸国を植民地化した時代にあっても、これらの‘列強’の影に隠れた主役でもありました。しかしながら、二度の世界大戦は、これらの諸国に独立のチャンスを与え、三十年戦争を機に17世紀にヨーロッパ限定で成立した国民国家体系は、全世界へと拡大してゆくのです。
アジア・アフリカにおける植民地独立の寄る辺となったのが、国際社会の大原則として民族自決の権利であったことは言うまでもありません。民族自決の起源とは、分散集住を経て今日に至る人類の多様化とそれがもたらす自然な集団意識(同胞意識)にあるのでしょうが、近現代の国際社会における原則としては、ナポレオン戦争にあってフランス帝国の支配を受けた諸国におけるナショナリズム(民族意識)に求めることができます。その後、悲願であった国家統一を成し遂げたドイツやイタリアのみならず、ギリシャやバルカン諸国もトルコ帝国から独立を果たしています。列強間の熾烈な勢力圏争いを背景としながらも、第一次世界大戦の講和条約にあって民族自決がウイルソン大統領の提案した14の講和原則の一つとして掲げられたことから、各々の民族に対して自らの国家を有する権利を認めるのです。
民族自決の原則なくして今日の世界地図はあり得ず、現代の国民国家体系は、たとえ、民族の括りが曖昧なものであったとしても、民族的な多様性を特徴とする人類史に根ざしているとも言えましょう。そして、それは、国際社会が民族に対して国家を有する集団レベルの権利も認めていることを意味しており、第二次世界大戦後のイスラエルの建国も、東西ドイツの再統合も、チベット、ウイグル、スコットランド、カタロニア等の独立運動も、そして、将来の朝鮮半島の南北統一運動もあり得ないことでしょう。所謂‘新大陸’に建国された諸国、並びに、中国やロシアと言った過去の‘帝国’を引き継ぐ諸国は除くとしても、民族が国家の枠組みの決定要因であることは、揺るぎない歴史上の事実なのです。
ところが、グローバリズム、並びに、リベラリズムは、旧来の帝国や国家の解体や戦争への誘導に関してはナショナリズムを利用するものの、‘民族’というものを敵視するようになります。‘民族’とは、時の為政者が造り出した人工物である、あるいは、空想の産物であるとする説も唱えられるのです。もちろん、今日に至るまでの‘民族’の形成には長期に亘る歳月を要しましたし、その間、征服等を機とした同化があったことも否めません。しかしながら、言語、伝統文化、生活習慣、道徳・倫理観等を共有する社会の存在自体が、民族の存在を証明しているとも言えます。それにも拘わらず、グローバリズムやリベラリズムが民族の消滅を願うのは、グローバリストの世界戦略にあって国家の枠組みは重大なる阻害要因と認識されているからなのでしょう。全世界を一つの市場に統合し、全人類を一括支配するには、国境はあってはならないからです。
しかしながら、こうしたグローバリストの密かなる方針が、国際社会における民族自決の原則と真っ向から衝突することは目に見えています。そこで、前者は、人種や民族等に基づく差別反対を絶対的で無条件に遵守すべき‘社会規範’として掲げると共に(ナチスによるユダヤ人迫害も民族差別を糾弾する根拠に・・・)、多文化共生主義等を広げて国家の内側から民族の枠組みを崩壊に導こうとしたのでしょう。この状態で移民によって外国人人口を増加させれば、やがて国民国家を成り立たせてきた民族は消える運命を辿るからです。それは同時に、統治の枠組みとしての独立国家を有する集団的な権利の消滅をも意味しますので、自ずと世界は一体化されるのです。もちろん、グローバリストによる一元的な支配下において・・・(その一方で、ユダヤ系のグローバリストは、選民意識という強力な民族意識に囚われているという自己矛盾がある・・・)。このとき、国家の行政機構のみは、グローバル・ガバナンスの末端として残されるかも知れません。この未来像は、単なる妄想や空想ではなく、極めてロジカルな推測なのです。
参議院議員選挙にあって外国人問題が争点となったのも、国民国家体系の廃絶を意図したグローバリストによる一方的な民族自決の原則の廃絶方針に対して、少なくない日本国民が、漠然とした不安感であれ、直感的な危機感であれ、静かなる抵抗を示している証なのかもしれません。国際社会における原則の変更や消滅は、それが支えてきた秩序や体制の変化や崩壊を必ずや伴いますので、外国人問題は、人類の行方をも左右する重大問題なのです。
このように考えますと、外国人問題は、個人レベルにとどまらず、より広い国際社会全体に拘わる集団レベルでの権利の問題でもあります。そうであるからこそ、これを機に、人類は、国際社会における権利主体としての民族というものに正面から向き合い、その存在意義を再確認する必要があるのではないでしょうか。民族自決の原則の再確認を出発点として外国人問題に対応しませんと、日本国をはじめとした各国の社会も国際社会も、グローバリリストのシナリオ通りに国家喪失と国民国家体系崩壊の危機を迎えるのではないかと危惧するのです。