万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

参議院選挙の最大の争点は’日本国の参戦問題’では?

2022年06月30日 13時19分52秒 | 国際政治
岸田文雄首相は、今般、日米同盟の枠を越えて日本国の首相として初めてNATOの首脳会議に出席いたしました。日本国は、いわばNATOの準加盟国となった感があり、多国間軍事同盟、即ち、陣営への参加は、ロ・中陣営との近い将来における第三次世界大戦を想定しているとしか考えようがありません(もっとも、三次元戦争としての第三次世界大戦は既に始まっているかもしれない…)。となりますと、今般の首相の決断?は、日本国民にとりましては極めて重大な意味を持つこととなりましょう。現状のままでは、日本国も参戦し、自国が戦場となる可能性が一気に高まるからです。

 それでは、参戦を想定した岸田政権の軍事同盟政策に対して、日本国内において国民的なコンセンサスは成立しているのでしょうか。今般の首脳会議では、NATO加盟を予定している北欧2カ国に加え、「アジア・太平洋パートナー国」として、日本国のみならず、オーストラリア、ニュージーランド、並びに、韓国の首相も出席しています。今後は、NATO理事会への定期的出席も検討されており、’陣営固め’はさらに強化される方向にあります。

報道によりますと、NATOの拡大は、ウクライナ危機を背景としたロシアの脅威への対抗策であり、抑止力の強化を期待していると説明されていますが、抑止力を主たる目的として締結された軍事同盟が世界大戦を招いてしまう事態は、第一次世界大戦で既に経験しています。ビスマルク外交にあってドイツ帝国の安全保障網として締結された多重的な軍事同盟は、ヴィルヘルム2世の登場により、戦火拡大への導火線となってしましました。’サラエボの一発の銃声’は、導火線に火をつけた発火点でしかないのです。

今般のNATO拡大政策を見ましても、必ずしも抑止力で済まされないリスクを認めざるを得ません。プーチン大統領、あるいは、習近平国家主席の鶴の一声で、NATO陣営の一国が攻撃を受ける可能性を否定できないからです。NATO側が抑止力の側面を強調しても、相手陣営が意に介さずに攻撃の挙に出れば、それが防衛戦争であっても、戦わざるを得ない状況に追い込まれます。NATOは、今般の首脳会議でロシアを事実上の敵国と認定し、中国に対しても、軍事や経済面における脅威を明記しておりますので、陣営対立が激化すれば、日本国を狙って、ロシア並びに中国がミサイルを発射するかもしれないのです(中ロ陣営に与した北朝鮮からの攻撃もあり得る…)。こうしたケースでは、改憲を経ずとも、日本国は、戦争当事国となりましょう。

しかも、ウクライナ危機の背景に、自らの支配を確立するために第三次世界大戦を起こしたい超国家権力体が潜んでいるとすれば、このリスクは、格段に上昇します。プーチン大統領を含め、各国の首脳が同勢力のパペットであれば、人類は、計画、あるいは、シナリオ通りに第三次世界大戦への道を歩まされていることになります。ドイツのヒトラー政権誕生の前例があるように、経済的苦境や社会不安は、国民をして独裁体制の容認や戦争に誘導する要因ともなり得ます。今日、各国とも不足物価の急激な上昇に見舞われており(エネルギー不足や穀物不足の懸念も…)、戦前のドイツのハイパーインフレーションとまではいかないまでも、今後、同勢力によって、巧妙に金融危機や財政危機が仕掛けられるかもしれません。あるいは、第三次世界大戦にまで至らなくとも、オーウェルが警告した『1984年』の世界のように、人々に対して世界大戦の恐怖を煽りつつ、国民の自由や権利を奪うディストピアが出現するかもしれないのです。

第三次世界大戦のリスクが高まりつつも、現状を見ますと、日本国のみならず、どの国も、真剣に戦争回避に知恵を絞ろうとはしていません。あたかも、NATO陣営形勢が唯一の選択肢のようです。しかしながら、本ブログにおいて再三述べているように、世界大戦を招きかねない軍事同盟強化の形態ではなく、武力行使を警察的な活動や人道的治安維持に限定してゆく方向性もあり得ます。各国とも、あたかも既定路線を進んでいるようであり、なおさらに怪しさが増すのです。

仮に、こうしたシナリオが’幻想’に過ぎないのであれば、各国において、第三次世界体制を阻止するための活発な議論が行われて然るべきです。今夏の参議院選挙においても、各政党とも、日本国の同盟政策については、岸田政権の路線とは異なる代案を提示するべきですし、第三次世界大戦への参戦リスクについても主要な論点とすべきなのです。国民の命が失われ、国土が破壊されてからでは遅いのですから。


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法的権利意識としてのナショナリズム

2022年06月29日 15時07分57秒 | 国際政治
 本日のダイアモンド・オンラインにおいて評論家の佐藤優氏が、「ナショナリズムは危険な宗教である」理由を解説しておられました。ウクライナ危機をきっかけとして各国で高まっているナショナリズムに対する警戒論なのですが、ナショナリズムとは、否定されるべき’危険な宗教’なのでしょうか?

 佐藤氏は、ナショナリズムが危険である理由を説明するに当たり、ユダヤ系哲学者であったアーネスト・ゲルナーの説を紹介しております。ゲルトナーによれば、ナショナリズムとは、「産業社会の勃興のなかで、必然的に生まれてくる現象」であり、自国の産業振興のために国家が教育によって国民に刷り込んだ、否、布教した一種の‘宗教’ということになります。同氏の説に従えば、国民のほとんどが行ったことも見たこともない尖閣諸島をめぐって、‘縄張り’を荒らされたとして中国に対して日本国民が憤りを覚えるのは、宗教的な意識に基づく幻想に過ぎないということになりましょう。

 こうしたナショナリズム宗教説、幻想説、あるいは、人工説は、アンソニー・D.・スミス等によって反論を受けており、学問の世界にあっても、ナショナリズムに対する評価や定義が定まっているわけではありません。スミスによれば、ナショナリズムとは、歴史的な連続性を有する共同体意識であり、国家の教育に先立って自然に培われ、受け継がれてきたものとなります。民族の枠組みを形成する共通要素として、共通の祖先、歴史、伝統、言語、習慣などが存在することは否定のしようもありませんので、ナショナリズム宗教説は、放浪の民族としてのユダヤ人の歴史を背景としたユダヤ系知識人、あるいは、コスモポリタン的なネットワークに身を置いていた人々において共有されている独特の考え方なのかもしれません(因みに、幻想説で知られるベネディクト・アンダーソンは中国雲南省崑崙生まれのアイルランド系米国人であり、エリック・ジョン・アーネスト、ボブズボームもユダヤ系…)。「あなたが自分が日本人である、とするそのナショナルな意識は、単なる教育が生み出した幻想に過ぎない。否、危険な宗教ですらある!」と真顔で説かれても、多くの日本人は困惑するのみでしょう(こちらの説教の方が、よほど怪しい布教活動のように思えてしまう…)。

 特定の国家への帰属意識、すなわち、アイデンティティーというものは、人為的に作り出すものができるとする考え方は、帝国主義、共産主義、そして、グローバリズムにとりまして好都合であったのかもしれません。民族といった如何なる属性にも拘わらず、後天的に支配下にある人々の帰属意識を変え、自らに忠誠を誓わせることができるからです。

幻想説に潜む問題点はさておくとしても、人類の分散定住の歴史に照らしますと、スミスの反論には説得力があります。そして、もう一つ、ナショナリズム宗教説に対する反論としては、今日の国民国家体系、並びに、国際法秩序からしますと、ナショナリズムは、法的な権利意識なのではないか、というものです。国際社会にあって、国家承認の要件とされるのは、国民、領域、主権の凡そ三つです(主権に関しては、政府の存在と対外的な関係を結ぶ権能に分けることも…)。そして、国家こそ、国際法の適用対象となる法人格を有する団体であり、国際法秩序とは、国家の権利と自由を擁護するために存在していると言っても過言ではありません。例えば、他国の領域を武力を以って侵害すれば、合法的な根拠がない限り、即、国際法違反の侵略行為となりますし、他国の統治権を奪おうとすれば、主権侵害という違法行為となります。そして領域とは、国民にとりましては公的な共有物であり、所有者意識が及ぶ対象なのです(同意識は、主権者としての国民意識に根差している…)。

それが共有であれ、自らの所有物に対する所有意識を‘宗教’と呼ぶ人はいないことでしょう。たとえ自らが行ったことも見たこともない場所でも、国民は、自国の領域に対しては所有権意識を有しているのです。佐藤氏も、尖閣諸島に関して国際法上の先占の法理について言及しておりましたが、中国が批判されるのは、先占が成立する国際法上の要件を満たしていないにもかかわらず、中国が同諸島の領有権を主張しているからに他なりません(尖閣諸島の場合は、先占の法理が問題となりますが、領域の大半に関する領有権は、特定の民族による継続的な定住の歴史に基づく既得権として理解される…)。

ナショナリズムとは、スミスが述べたように文化共同体としての国民意識に加え、領域や主権に関する法的な権利に根差した所有意識としての側面を持つとすれば、ナショナリズムを宗教として危険視することは、強欲で横暴な国家や勢力による権利侵害を是認するリスクがあります。ナショナリズムのリアルな多面的を理解しませんと、国際社会の平和はむしろ遠のくのではないかと危惧するのです。

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岸田政権の海外大盤振る舞いを推理する

2022年06月28日 13時24分01秒 | 国際政治
 不合理な出来事や誰もが納得できない事柄には、必ずや表にされていない何らかの目的があるものです。今般の岸田政権による途上国に対するインフラ支援もその一つに数えることができましょう。何故ならば、5年間で凡そ8.8兆円という額は極めて高額ですし、中国が推進してきた「一帯一路構想」への対応(対抗)としか述べておらず、その財源を含め、政府は、国民に対して説明らしい説明を怠っているからです。そこで、ウクライナ情勢を踏まえて、本日は、同問題について推理を試みてみたいと思います。迷探偵かもしれませんが…。

 あくまでも推理に過ぎないですが、本ブログでの見立ては、日本国による同支援策は、迂回ルートを経由したものであれ、ウクライナ、あるいは、ロ・ウ両国の背後に控える超国家勢力への資金提供となるのではないか、というものです(昨日述べた海外金融機関救済も含めて…)。先日、コロナ対策費にあって多額の使途不明金が存在していることが明るみとなりましたが、近年、日本国政府の’財政秘密主義’には拍車がかかっています。コロナ対策費の一部が秘密裏に軍事支援となる、あるいは、ワクチン購入を名目としながら、アメリカの製薬会社を経由して同勢力へと流れた可能性も否定はできません。因みに、本日も、岸田首相は、食糧危機対策として凡そ200億円の支援を表明しましたが、その対象国には、もちろん、大穀物生産国であったウクライナも含まれています。

 ウクライナ危機にはユダヤ系ネットワークの利権が深くかかわっていますので、超国家権力体でもある同勢力にとりまして、日本国政府には、’ATM’の役割が期待されていることは想像に難くありません。それでは、首相が示した8.8兆円は、一体、どのようにして調達されるのでしょうか。ここで注目すべきは、外国為替特別会計かもしれません。

 外国為替特別会計とは、日本国の外貨準備等の運用に関する会計です。日本国の外貨建て資産は今年の4月末で172兆円ほどあり、運用収入は令和2年度の統計によれば2兆4381億にも上ります。問題の8.8兆円が低利子融資の形態である場合には、外国為替特別会計における外貨貸付金ということになりましょう(なお、途上国の財政管理は杜撰なケースが多い…)。また、法律によれば、運用収益の余剰金の一部は一般会計に繰り入れることができます(平成30年度では余剰金凡そ3兆円のうち、1兆7千万円余りが一般会計に…)。令和以降については情報不足で不明なのですが、無償供与であるならば、一般会計から支出されるものと予測されるのです(政府の予備費としての支出となる可能性も…)。何れにしましても、政府は、自国の積み上げてきた外貨準備を当てにしているのでしょう。

 ところが、日本国は、目下、急激な円安に襲われています。しかも、戦後、一貫して黒字を計上してきた貿易収支も赤字に転じており、外貨準備のさらなる減少も予測されます。外国為替市場における政府の市場介入による円高誘導を求める声も聴かれるのですが、現時点では、日本国政府は為替介入を実施していません。そして、外国為替市場における政府介入こそ、ジョージ・ソロス氏が一夜にして10億ドルともされる巨万の富を築くチャンスであった点を思い起こしますと、幾つかの疑いが生じてきます。同氏は、ERM(欧州為替相場メカニズム)においてイギリス政府によるポンド買い介入を見越して売り圧力をかけ、政府の介入資金の底をつかせることでポンドの大暴落を起こすという事件を起こしています(1992年9月16日のブラックウェンズデー)。この一件によって「イングランド銀行を潰した男」とも称されるに至ったのですが、同氏は、ユダヤ系ということもあってウクライナ支援に極めて熱心です。

 それでは、ソロス氏が、ドル買い円売り攻勢を仕掛けるとしますと、どうなるのでしょうか。日本国の場合、172兆円もの外貨準備がありますが、既に貸し付けている資金もありますので、全ての外貨準備を外国為替市場への介入資金として投入することはできません。そして、8.8兆円のインフラ支援のみならず首相による他の海外への支援の約束は、外貨の日本からの流出を意味しますので、円安傾向にさらに拍車がかかることでしょう(リスクの高いインフラ投資であればなおさらに…)。

ソロス氏は、ブラックウェンズデーの時と同様に、水面下では、円売りを仕掛けるための準備を進めているかもしれず(各国の銀行に信用枠を設けるなど…)、日本国政府による海外支援の増額も、同氏の投資戦略の一環であるのかもしれません。そして、近い将来、日本国政府が円の買い支えのために市場介入に踏み切った時には同氏の思惑通り、もはや円を買い支えることはできず、暴落を起こすかもしれないのです(なお、当時のERM参加国のイギリスのように、日本国政府には、自国通貨買い支える介入義務はないので、ソロス氏による円売り攻勢があっても無視しても構わない…)。

もっとも、日本国の場合、外貨準備は比較的潤沢ですので、ブラックウェンズデー方式では売り負けると予測し、日本国から支援金を引き出すために、8.8兆円のインフラ支援という新たな手法を編み出したのかもしれません(ウクライナの戦後復興にも巨額の資金提供を要求されるのでは…)。日本国政府の海外への大盤振る舞いについては、国際会議にあって注目を集めるための岸田首相のスタンドプレーとの見方もありますが、金融が絡んでいるだけに巧妙なトリックが仕掛けられているようにも思えます。推理というよりも、’日本を潰した男’の登場への警戒論となってしまいましたが、何れにしましても、意図的に暴落させて安く買いたたくのは常套手段ですので、ソロス氏をはじめとした投資家の動向には最大限の注意を払うべきではないかと思うのです(国債売りにも警戒を…)。

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岸田政権の途上国支援の本当の目的は?-8.8兆円の途上国インフラ支援の国際公約の謎

2022年06月27日 15時26分06秒 | 国際政治
 本日、ドイツで解されていたG7の席で、岸田文雄首相が、途上国におけるインフラ建設のために、5年間で8.8兆円もの資金を拠出する旨を表明したとするニュースが飛び込んできました。同方針に対してネット上では批判の声が湧き上がっており、参議院選挙の行方にも影響しかねない様相を呈しています。

 そもそも、岸田首相の’鶴の一声’で8.8兆円もの額の支出が決定されるとなりますと、もはや日本国の民主主義は瀕死の状態にあると言わざるを得ません。これでは、財政民主主義の原則は風前の灯火であり、日本国の財政は、首相の’ポケットマネー’と化しているかのようです。国会の関与を回避し得る政府の予備費を念頭に置いているのかもしれませんが、海外にあって、軽々しく巨額の拠出を約束してしまう姿勢に、国民の多くが唖然とさせられたことでしょう。

 今般のインフラ支援の対象は、海外の途上国とされていますが、まずもって日本国内にあっても、高度成長期に建設されたインフラの多くが老朽化しており、メインテナンスを含めてインフラ需要がないわけではありません。例えば、水道供給設備の老朽化が民営化、並びに、海外企業の参入を促す根拠とされていますので、8.8兆円の予算があれば、本問題も凡そ解決します。コロナ・ワクチンをめぐっても、その輸入に莫大な予算が投じられていることを踏まえますと、最近の日本国政府による海外への利益誘導は目に余るのです。

 海外を拠出対象とする表向きの根拠は、「一帯一路構想」を推進してきた中国に対する自由主義国の巻き返し、ということなのですが、このような地政学的な説明は、真の目的を糊塗しているのかもしれません。今般のインフラ支援は、中国からの支援を断ち切るための途上国支援を名目としつつも、本当のところは、AIIBを含む海外の金融機関を救済するためである疑いもあるからです。

 途上国の大半は、既に海外金融機関等からの借入等により債務超過の状態にありますし、インフラ事業ともなれば、たとえ完成したとしても必ずしも収益性が期待できるわけでもありません。特に、「一帯一路構想」にあっては、中国を起点としてヨーロッパへ繋がる大陸鉄道構想ですので、通過地点に当たる諸国内の交通網がたとえ整備されても、通過点となる諸国は素通りされる可能性もあります。また、国家が策定するインフラ事業の建設地や交通のルートは、一先ずは経済合理性に基づいて計画されますので、’誰が資金を提供するのか’の違いしかないのかもしれません(日本国は、金融機関を救済すると共に中国経済を潤すインフラ事業に資金を提供するのみで、ノーリターンである可能性も…)。

無法国家である中国に対して厳しく接すべきことには異論はないのですが、’中国憎し’のあまりに途上国へのインフラ支援を増額した結果、中国が抱えているインフラ投資リスクを肩代わりする、あるいは、貸し倒れの危機にある海外の金融機関を救済するために日本国が利用されたのでは本末転倒です。既に途上国のインフラ整備には巨額な貸し付けが行われており、焦げ付きを怖れた米欧系や中国系の金融機関が、赤字事業からの撤退や債務回収のために、背後から日本国政府に圧力をかけているとも推測されるのです。陰でほくそ笑んでいるのは、中国、並びに、中国利権を有する海外の経済勢力であるかもしれません。

 
 これまで信じがたい程の高支持率を記録してきた岸田政権ですが、途上国支援を目的とした8.8兆円の拠出を表明するに至っては、国民の大半が同政権の背後を怪しむことでしょう。ネット上の世論調査やアンケートでは、岸田政権に対する支持は極めて低い状態にありますので、本当のところは、超国家勢力によって操られている日本国政府の現状がいよいよ表に現れてきたと言うべきかもしれません。今日、日本国の独立性の回復が日本国民にとりまして重大な政治課題となろうとは、誰が想像したことでしょうか。

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政党の存在は必然ではない?

2022年06月24日 09時45分10秒 | 統治制度論
政党政治とは、近現代におきましては、民主主義を具現化するためには不可欠のシステムであると信じられてきました。政党に対するいわば信仰とでも表現すべき信頼感は、おそらく、その誕生の歴史にあるのでしょう。イギリスにあって、政党は、近代議会制民主主義の発展過程にあってなくてはならない存在であったからです。

とりわけ、議会優位の国家体制を成立させた名誉革命は、政党政治の出発点に当たります。そもそも、政党とは、王位継承をめぐる対立でもあった同革命にあって、議会が国王派と議会はとの二分化したことに始まるからです。その後、イギリスでは、時代によって二大政党を構成する二つの政党は変遷するものの(トーリー党対ホイッグ党⇒保守党対自由党⇒保守党対労働党…)、議院内閣制の成立とともに二大政党制が定着し、今日に至るのです(もっとも、現在では、自由党などが党勢を拡大させるにつれて二大政党制は崩れつつある…)。この間、当初は議会内の会派であったものが、やがて議会の枠を越えて国民の間にも党員やサポーターが広がり、選挙に際して固定支持層、あるいは、組織票獲得の役割をも果たすようになります。

考えてもみますと、政党とは、政治を舞台とした一種の有権者の囲い込みという側面がありますし、国民をグルーピングし、恒常的に分断するリスクもあります(イギリスの’階級社会’は、選挙制度にも由来?)。とりわけ二大政党制では、議会選挙は同時に政権の選択ともなりますので、国民はどちらかの’陣営’に与せざるを得なくなります。また、対極にある二つの政党の間で短期的に政権交代が繰り返されることにでもなれば、政治は常に安定を得ることができません。

そして、政党自身も、自らの掲げるイデオロギーや政治信条に拘束され、政策の幅や手法を制約してしまいます。自由な発想からの政策提言や問題解決の手段の提示は、基本的には許されないからです(もっとも、各政党を上部から操る勢力による国民誘導作戦としては、’偽旗作戦’は頻繁に用いられていますが…)。たとえそれが、国益に叶う、あるいは、民意が切望するものであっても…。政党の存在は、しばしば国益を損ねたり、民主主義を歪めてしまうのです。

その一方で、国民にとりましても、政党の存在は政治的自由に対する障害として強く作用します。何故ならば、たとえ複数政党制を採用する国であっても、全ての政策や政治的問題の解決策は、政党が提示した中から選ぶしかなくなるからです。二大政党制であれば、必然的に二者択一となりますし、多党制にあっても、政策や解決策に関する国民の選択肢は政党の数に留まります(外部コントロールや政党間談合がある場合、何れの政党の政策も代り映えがしないケースも…)。国民は、政党の政策に不満であっても、他の政策や手段を選ぶことはできないのです。しかも、各政党とも、選挙公約はワンセットの一括選択リストとして国民に提示されますので、国民は、アラカルトに政策を選ぶことができないのです。

このように、政党とは、政府、政党、並びに、国民にとりまして、あらゆるレベルにおいて自由を制約し、発展を阻害する要因ともなります。加えて、政党は、国民と政治との間に介在する中間者的な立場にありますので、海外勢力の代理人(売国組織…)と化すリスクもあります。政党政治とは、イギリスを舞台として当時の政治状況の中から誕生したものですので、必ずしも人類の歴史において必然的に出現した普遍的形態ではなく、様々な問題点や欠陥を抱えているのです。つまり、思考を政党の枠組みから解き放せば、政党政治に代わるより善き統治システムもあり得るということになりましょう。

それでは、自由や民主主義といった諸価値を実現すると共に、国家や国民にも資する政治制度は、どのように設計すべきなのでしょうか。この問題は、統治の役割、あるいは、基本機能という原点に返って考える必要がありましょう。統治機能とは、決して一つではなく、幾つかに分類することができます。そして、統治機能の提供には、本来、イデオロギーや思想などは関係ないのです。

例えば、政策分野ごとに望ましい政策決定の手続きを変えれば、より民意を政治、あるいは、各分野の政策に反映させることができるかもしれません。国民に直接関係する問題については国民投票や国民が法案を提出し得るイニシャチブ等の制度を組み合わせる一方で、具体的には、政策分野ごとに中心となる政策決定機関を設け、民主的選挙方法も政策選択を重視する方向に変えるという方法もありましょう(選出単位も、単純な地理的な区割りである選挙区とは限らない…)。こうした方法ですと、政党による国民の囲い込みや政策リストの一括選択は起きず、国民は、個々の政策について個別に判断することができると共に、発案の権利をも行使し得るようになります。つまり、必ずしも政党を必要としなくなるのです(少なくとも全国規模で党員を有する組織としての政党は…)。詳しい説明は後日に譲りたいと思いますが、新たな発想こそ、人類を悪政から救うのではないかと思うのです。

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’政党’は独裁リスクでもある-’政党のマジック’

2022年06月23日 14時59分45秒 | 日本政治
 複数政党制は普通選挙と一体化した議会制民主主義のシステムであるために、民主主義国家のメルクマールともされています。1989年にポーランドから始まった東欧革命に際しても、一党独裁体制から複数政党制への移行が体制移行の証ともされました(経済においては統制経済から市場経済へ…)。政治の世界では、政党政治はあまりにも当然視されていたがゆえに、政党という存在に内在しているリスクについては十分に検証されてこなかったように思えます。

例えば、政党という用語には近代民主主義的な響きがあるために、’政党のマジック’というものが存在しているようです。ここで言う’政党のマジック’とは、古今東西を問わず、人類史において繰り返されてきた国家権力をめぐる武装集団、派閥、あるいは勢力間の闘争が、’政党’という名称が冠されることで、あたかも近代的な政治運動のように見なされてしまう現象を意味します。実態と本質は従来の集団間の権力争いと変わらないのに、政党と名称で呼ばれた途端、近代性や合理性を装うことができるのです。’政党’とは、まさに、魔法の杖の一振りなのです。

共産党とは、‘政党マジック’が最も魔力を発揮した事例であるかもしれません。何故ならば、政党と称されつつも、その実態はと申しますと、革命という名の国家権力の奪取を目的として結成された武装集団に過ぎないからです。近代中国にあっては、共産党であれ、国民党であれ、古来の王朝交代に際してその主体となった軍閥や軍団、あるいは宗教集団等と変わりはなく、違いがあるとすれば、共産主義という外来の思想を求心力としている、あるいは、海外勢力との結びつきが認められるといった点にありましょう。否、両党ともイデオロギーや政治信条において海外勢力が介在している側面において、古来の異民族による征服とも変わらないのかもしれないのです。そして、歴代中華帝国、否、全ての王朝というものは、君主や一部の勢力が権力を独占し、以後、他の対抗勢力の出現を一切許さないという意味においてその殆どが独裁体制なのです。

ドイツのナチスやイタリアのファシスト党にあっては、より巧妙に‘政党マジック’が用いられています。議会制民主主義と軌を一にする歩みがあるからこそ、権力の独占を狙う団体であっても、政党を自称することで独裁志向をカモフラージュできるからです。普通選挙が実施されている限り、国民の多くは、独裁志向の政党を見抜くことは困難です。仮に、国家社会主義労働者党という看板を掲げたナチスが、他の政党の違法化や自らの政権による独裁体制の樹立を公約に掲げて選挙に臨む、あるいは、親衛隊やヒトラー・ユーゲント等を放って国民社会に同調圧力をかけなければ、当時にあって最も民主的体制との評を受けていたヴァイマール共和国を独裁体制に転換させることはできなかったことでしょう。政党は、時にして独裁体制への道を堂々と走り得る‘乗り物’となるのです。‘政党マジック’の呪文を唱えれば…。

空気のような存在については、得てして人は関心を払わないものです。政党という存在についても、それ自体がリスクを抱えているとは、国民の多くも気が付かなかいことでしょう。複数政党制であれ、一党独裁制であれ、政党政治が民主主義と不調和音をきたしている現実を直視すれば、政党という存在、並びに、政党政治を根本的に問い直してみる必要があるように思えます。民主主義を名実ともに実現する、即ち、政治を国民の手に取り戻すには、‘魔法(呪い?)’を解かなければならないのですから。

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政党政治が民主主義を損ねる?

2022年06月22日 17時08分48秒 | その他
 7月10日に予定されている参議院選挙は、本日、6月22日に公示されます。530人が立候補すると報じられておりますが、近年、’政党政治が、むしろ民主主義を損ねているのではないか?’とする疑いが濃くなってきているように思えます。

 これまで、政党政治、あるいは、複数政党制は、議会制民主主義を具現化する基礎的な制度として理解されてきました。複数の政党が議席、さらには、政権を競う複数政党制では、有権者である国民による自由かつ民主的な選挙の実施を前提としているため、一党独裁体制や独裁体制に対する’反対語’としても解されてきたのです。’複数の政党が存在しているのだから、自分の国は民主的国家である’とする安心感を国民に与えていたかもしれません。しかしながら、今日、この固定概念を覆すような現象が頻発しているのです。

 先ずもって、前回のアメリカ大統領選挙にあって、政権の正当性まで問われる選挙不正疑惑が起きました。たとえ複数政党制の下で民主的選挙が実施されたとしても、裏にあって巧妙な選挙不正が行われていたのでは、民主主義は一瞬にして消えてしまいます。デジタル投票制度の導入が進むほど、外部からのサイバー攻撃のみならず、内部者による数値改竄といった新手の手口も登場しますので、不正が行われやすい状況となるのです。

 第二に、政党という存在自体がマイノリティー化している点です。与党の支持団体として統一教会や創価学会などの新興宗教団体が指摘される一方で、野党側には、共産主義者やリベラル活動家が集っています。これでは、政治は民意や国民の一般的常識から遠のくばかりであり、政治は、人口比において数パーセントにも満たない少数派の人々によって凡そ独占されてしまうのです。しかも、グローバル化に伴って与野党ともに海外勢力のコントロール下に置かれるともなれば、民主主義国家にあっても、政治は、ますます国民の手から離れてゆきます。

第三に、与野党間における二頭作戦の疑われる現象もみられます。政党政治とは、国民の各自が、政治信条に基づくものであれ、何であれ、自らが支持する政策を掲げた政党を自由に選ぶことを前提としています。ところが、近年、与野党間の政策的違いが希薄化する一方で、どの政党を選んでも、国民が何らかの形で不利益を受ける結果を招きかねない事態が生じています。例えば、現政権に対して国民が不満であったとしても、野党側の公約にあってより望ましくない、あるいは、同様の政策が含まれている場合には、国民は、何れにしても’悪い選択’しかできないのです。このため、棄権も増えてしまうのですが、無党派層の拡大は、民意に沿った政党が存在しない現状の表れであると言えましょう。

第四に懸念すべきは、一党優位体制による歪です。報道によりますと、今般の選挙にあっては、32の一人区全てにおいて、野党側は候補の一本化を見送ったそうです。政党支持率からしますと、自民党が40%弱で他の政党を大きく引き離しています。この状態であれば、32区はすべて自民党が獲得するものと予測されます。参議院の一人区、並びに、衆議院の小選挙区では大政党が有利となりますので、日本国のような一党優位体制では過半数以上の票が死票となり、民主主義を歪めてしまうのです。

第五に問題とすべきは、政党間の談合です。上述した一人区における与野党の選挙方針にも談合が疑われるのですが、与党間の’談合’も深刻です。例えば、衆議院の小選挙区では、自民党が公明党に議席を譲るために、自らは候補者を擁立するのを控えている選挙区もあります。自民党と公明党との間には、政策的な相違点のみならず、宗教的な立場の違いもありますので、政党間談合は国民の選択肢並びに自由を奪っているに等しくなります。

そして、第六に指摘すべきは、政党政治、並びに、それを支える政党中心の選挙制度では、候補者の個人的な資質や能力が問われていない点です。議会において法案を可決させる要件は、過半数の賛成を得ることです。このため、’政治は数’となる傾向が強く、知名度の高さが候補者の選定基準となりがちなのです。タレント候補が乱立するのも、各政党とも、個々の議員に対して政治家としての仕事を期待していないからなのでしょう。

以上に、主要な忌々しき現象について述べてきましたが、果たして、今般の選挙において、政治制度そのものの改革を訴える候補者は登場するのでしょうか。船底の板が壊されそうな船にあって、甲板では乗客に沈没の危機に気が付かれぬように、船長をはじめ船員たちが政治劇を演じているようでは、乗客となる国民は心配でいたたまれないのではないかと思うのです。

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政策が’詐欺’となりかねない問題-政府によるリスク説明の欠如

2022年06月21日 14時48分40秒 | 国際政治
 先日、岸田内閣が発足に際して打ち出した’新しい資本主義’を実現する具体策として、’一億総株主’の方針が示されました。この方針、すこぶる国民には評判が悪く、岸田内閣の支持率が下落に転じた要因の一つもここにあるのかもしれません。政府の説明によれば、全国民が株主になれば、国民所得も増加し、経済も成長し、凡そ全ての経済問題が解決することになるのですが、何故、国民から支持を得ることができないのでしょうか。

 国民の政策、あるいは、政府説明に対する不信感の問題は、今般の’一億総株主’政策に限ったことではありません。また、国政レベルのみならず、地方自治体レベルでもしばしば見受けられます。考えてもみますと、あらゆる分野において以前から長期にわたって燻っていた政治問題の一つとも言えましょう。

 例えば、今般の’一億総株主’政策について、政府は、国民に対して’最も成功したケース’を描いて説明しています。それは、’国民が預金から投資へと金融行動を変えれば、企業は資金調達が容易となり(資本も増強…)、新たな成長分野(DX化や脱炭素?…)における事業展開が可能となる。その結果、株主である国民は配当所得を得ると共に、企業業績の回復により給与所得もアップする’というものです。まさに、このシナリオが実現すれば、「成長と分配の好循環」が生まれ、国も国民も喜ぶことでしょう。

 しかしながら、ここで一歩、立ち止まってみる必要があるかもしれません。何故ならば、投資詐欺事件にありましても、詐欺を試みようとする側が、同様の説明をするケースがしばしばあるからです。もちろん、全く架空の投資話を持ち掛ける悪質なタイプもありますが、そうではなく、’最も成功したケース’についてのみ紹介説明するタイプもあります。たとえ、現実にはその成功率が0.001%であったとしても、あたかも、100%の確率で期待どおりの収益を手にできるかのように話すのです。結局、失敗するリスクの方が遥かに高いのですがから、言葉巧みに誘導されてしまった顧客は、損失を被ってしまうのです。

 近年では、こうした民間における投資詐欺事件を防止するために、金融事業者には、勧誘時に際し、顧客に対してベネフィットのみならず、リスク面についても十分な説明を行うよう法律で義務付けられるようになりました。例えば、日本国では、消費者保護の観点から2001年に金融商品販売法が制定されています。現在では、投資は顧客がリスクを知った上で行うべきものとされているのですが(リスク説明なしは違法行為に…)、政府が提唱している今般の’一億総株主’政策には、リスク説明が全く欠けているのです。

同政策によって、「成長と分配の好循環」が生まれる可能性は100%のはずもなく、投資である以上、国民が損失を被ったり、金融バブル等が発生するリスクは当然あるはずです。’笛吹けど踊らず’の状態になったのも、国民の多くが、リスクに対しては何らの説明もしようとしない政府に対して不信感を抱くからなのでしょう。もしかしますと、’最も成功したケース’となる確率は、1%以下かもしれないのですから。

政府が’、リスク説明をせずに最も成功したケース’のみを語って、利益誘導型の政策を実施する事例は、枚挙に遑がありません。かつて、公共事業における’箱もの’が問題となったのも、政府の計画段階では収益が見込める黒字事業として説明されていたものの、実際に運営を開始してみると大幅な赤字となり、国民の財政負担が増すケースが後を絶たなかったからです。今日にあっても、カジノを含むIR計画には同様の側面が見受けられますし、コロナワクチン接種促進政策も、リスク面の説明がほとんどありません(インフォームドコンセントの原則も無視…)。政策が事実上の’詐欺’とならないためには、金融販売商品法と同様の目的と趣旨において、政府に対し、全ての政策についてリスク面の説明を国民に行うよう、法律によって義務付けるべきではないかと思うのです。

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ロシア正義論が影響力を有する理由とは?

2022年06月20日 16時44分49秒 | 国際政治
 ウクライナ危機の発生当初、自由主義国の政府も大手メディアも、’ロシアが悪い’の一色でした。正義は、ロシアから侵略を受けたウクライナにある、と。ウクライナと共にロシアと戦おうとする勇ましい声も聞かれたのですが、その一方で、ネットなどにアップされたブログ記事などを読んでみますと、必ずしもウクライナ支持一色に染まっているわけではないようです。むしろ、積極的にロシアに正義があると訴えている記事やコメントも少なくないのです。それでは、何故、ロシア正義論が一定の支持を得ているのでしょうか。

 もちろん、ウクライナ危機の背後では両陣営による凄まじいばかりの情報戦が戦われていますので、ロシア正義論は、ロシアの情報部隊による日本国内の世論操作である可能性があります。しかしながら、人とは、基本的には自らが信じ得るものを信じる存在ですので、何らの根拠もない、根も葉もない情報については怪しむものです。たとえロシア側の情報操作ではあっても、流布されている情報の内容に、日本国民の多くが自ずと信じてしまうような何らかの要素が含まれていなければ、一顧だにされないことでしょう。

 それでは、ウクライナ正義論の立場にある政府やメディアの見解とは逆に、民間にあってロシア正義論が一定の信憑性を得ているのは、どのような背景があるからなのでしょうか。実のところ、ロシア正義論の大多数は、近年、とみに関心を集めているディープ・ステート論と結びついています。ディープ・ステートという用語は、トランプ前大統領が用いたことで知名度が上がり、一般的には胡散臭いとされてきた陰謀論の世界から、現実の政治の世界に飛び出してきた言葉です。

日本国内では、十分に市民権を得ているとは言えない状況にありますが、歴史を探究していますと、ディープ・ステートという用語は、ディアスポラ以来のユダヤ系金融・商業ネットワーク、改宗ユダヤ人、イエズス会、東インド会社、ユダヤ金融財閥、フリーメーソン、イルミナティ、共産党、ビルダーバーグ会議、ダボス会議といった実在の組織の総称という観があります。むしろ、’ディープ・ステート’という呼称が、これらの実在性の煙幕なっている観さえあるのです。本ブログでは、出来得る限り陰謀論的なニュアンスを薄めるために超国家権力体、あるいは、超国家勢力といった表現を用いているのですが(それでも、どこか怪しげな響きとなってしまう…)、何れの国家にも属さず、地球規模で自らの利益の最大化を追求している団体(秘密結社?)、あるいは、それらが結合した勢力は、人類の歴史にあって実在しているのです。

そして、このディープ・ステートと呼ばれている超国家権力体にあって最大の問題は、’参政権がない’にもかかわらず、全世界の諸国をコントロールしようとするところにありましょう。超国家的な組織とは、何れの国にも属していませんので、政治に参加する権利を持ち得ません。それにも拘わらず、全世界の諸国に対して自らの利益や目的の実現に資するような政策を行わせようとすれば、マネー・パワーや秘密裏のネットワークを介して各国の政府や政治家を動かすしかなくなります。言い換えますと、超国家権力体の権力とは、国家や国民の立場からしますと不当なる簒奪、民主主義の形骸化、国家乗っ取り、あるいは、’静かなる侵略’であり、それは、秘密裏での賄賂やハニートラップ、さらには脅迫といった政治腐敗や違法行為を前提としなければ成り立たないのです。言い換えますと、超国家権力体に纏わる陰謀論とは、超国家性に由来する極めて本質的なものなのです。

特に、80年代以降のグローバリズムに伴う各国の開放政策は、まさに超国家権力体の要望に沿うものでした。しかも、リベラリズムとの一体化は各国に社会変革をも迫るものとなり、保守政党の様変わりは‘偽旗作戦’の域に達しています。加えて、コロナ禍にあってのWHOを利用した集権化への動きやコロナワクチン圧力は、人口削減説やインフレ人為論等と相まって人々の超国家権力体に対する警戒心を強めたと言えましょう。

ウクライナ危機とは、まさにディープ・ステートに対する人々の疑いが現実のものとして認識されつつあった矢先に起きた出来事です。ウクライナは、かつてのハザール国の末裔が多く居住する国であり、全世界のユダヤネットワークとも繋がってもいます。ロシアは、ウクライナとディープ・ステートとを同一視し、世界のディストピア化を目論む同組織からの開放を以って自らの正義を主張することとなったのです。そして、ディープ・ステートの存在を信じる人々がロシアの言い分に耳を傾けるに至ったのは、理解に難くはありません。

三つ目の戦争は、二次元戦争と三次元戦争との組み合わせであるとは、先日申しました。今日のウクライナ危機は、ウクライナという一国家が、本来、グローバルな存在であるはずの超国家権力と一体化しているため、従来の世界大戦とは異なり、世界大戦に至る前に、地域紛争として三次元戦争が表面化してしまったのかもしれません。本推論からすれば、当初の計画は、国際的なウクライナ支援を導火線として第三次世界大戦までつなげる予定であったのでしょう。しかしながら、各国における戦争回避の世論、並びに、ウクライナ正義論に対する人々の懐疑心が、同計画の実現を阻んでいるのかもしれません。プーチン大統領も、第三次世界大戦を引き起こすための駒に過ぎないのかもしれませんが、ロシア正義論が、むしろ超国家権力体の姿を明るみにし、それ故に、人々が情報操作に安易に流されなくなったのは、超国家権力体にとりまして計画を狂わす誤算であったのではないかと思うのです。

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NPT再検討会議が人類の未来を変える?

2022年06月17日 09時06分50秒 | 国際政治
 コロナ禍の影響を受けて延期となっていたNPT(核兵器不拡散条約)の再検討会議は、今年8月にアメリカで開催される予定なそうです。ウクライナ危機により核戦争のリスクが高まっている中での開催となりますと、否が応でも関心が高まります。

NPT体制が地政学的思考を強化すると共に大国による寡頭支配体制を固定化し、さらには核戦争に直結しかねない第三次世界体制へのレールを敷いているとするならば、早急に同体制の見直しに着手する必要がありましょう。もとより不平等条約とされたNPTを敢えて成立させた根拠とは、”危険極まりない核兵器が全世界に拡散すれば、人類滅亡をも招きかねない大惨事になる”という説明であったはずです。ところが、考えてみますと、その危険極まりない兵器を、’横暴な大国’、並びに、’抜け駆け国家’のみが保有し、かつ、一旦、核保有国となれば、凡そ無制限に増強し得る現状こそ、誠実に国際法を順守している中小の非核保有国にとりましては’危険極まりない’と言わざるを得ません。悪名高き軍事独裁国家である北朝鮮でさえ核を保有しているのですから。それでは、NPT体制を変えることはできるのでしょうか。おそらく、NPT体制を変えるには凡そ三つの合法的な選択肢があるようです。

 第1の選択肢は、締約国が同時に同条約から脱退するというものです。NPTの第10条は、締約国が脱退できる条件を記しており、「各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する」とあります。この条項からしますと、何れの締約国も、他国から核攻撃を受けるリスクを理由として同条約から脱退することは可能です。とくに、核保有国が保有する長距離弾道弾ミサイルの射程距離の範囲、並びに、SLBMによる攻撃範囲に含まれていれば、何れの国も同条約から抜けることができることとなります。

 第2の選択肢は、NPTを改正するというものです。同条約の第8条には、条約の改正及び再検討について「いずれの締約国も、この条約の改正を提案することができる。改正案は、寄託国政府(アメリカ、ロシア、イギリス)に提出するものとし、寄託国政府は、これを全ての締約国に配布する。その後、締約国の三分の一以上の要請があったときは、寄託国政府は、その改正を審議するために、すべての締約国を招請して会議を開催する。」とあります。同改正が効力を生じるには、その後、同会議において全ての締約国の過半数の賛成票を得、かつ、改正の批准書の寄託を要するのですが、過半数の賛成票には、核保有国等の票が含まれなければならず(安保理常任理事国の拒否権と同様…)、同改正が成立する見込みは薄いと言わざるを得ません。しかも、条約の具体的改正案は、非核保有国に核保有を認めるものという、いわば自己否定の内容となりますので、この方法は非現実的であるかもしれません。

 そして、NPTそのものを終了、あるいは、運用を停止させるのが、第3の選択肢です(錯誤を根拠とした無効もあり得るかもしれない…)。同選択肢については、条約に関する国際法とでも称すべき「条約法に関するウィーン条約」では、条約の終了・運用停止に関する正当な根拠について記しています。この正当な根拠とは、条約違反の結果、後発的履行不能、事情の根本的変化などです。これらの基準に照らせば、ウクライナ危機のみならず、核保有国である中国による核の威嚇と核戦力の急速な増強、並びに、北朝鮮やイランによる核保有・開発という事態の発生も、条約の終了・運用停止を可能とする国際法上の正当な根拠となりましょう(この他にも、非締約国であるイスラエル、インド、パキスタンによる核保有も問題視し得る…)。

 最も簡易な手段は第一に述べた締約諸国による集団脱退なのでしょうが、何れにしても、NPT体制を見直さないことには、不条理な現状、並びに、人類に迫りくる危機から脱することはできないように思えます。ローマ法王が述べるように既に三次元戦争としての’三つ目の世界戦争’が始まっているならば、NPTの再検討会議こそ戦場です。この場でディストピアへの流れを変えないことには、主権国家並列体制を維持したい国家・国民の側が世界支配を狙う超国家勢力に対する三次元戦争に勝利することは極めて難しくなりましょう。何もしない、何も言わないでは、既に敗北を認めているに等しいのです。

このように考えますと、何れの締約国の政府であれ、NPTの再検討会議においては、最低限、非核保有国が強いられている理不尽な現状の改善を最重要議題として提起すべきなのではないでしょうか。国際社会において名誉の名に相応しい国家とは、核のリスクに晒され続けてきた不遇な中小国のために、核保有国からの有形無形の脅迫、あるいは、嫌がらせにも屈せず、世界を変える提案を行う勇気ある国家なのではないかと思うのです(願わくは、その国が、日本国であればよいのですが…)。

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’三つ目の世界大戦’の勝利条件は’第三次世界大戦の回避’では?

2022年06月16日 13時11分49秒 | 国際政治
先日、フランシスコ法王が過去に述べた’三つ目の世界大戦’に関する発言に言及したことから、ウクライナ危機の行方が改めて懸念されることとなりました。2015年頃、即ち今から7年ほど前から、同法王は、既に世界は戦争状態にあると語り始めています。当時、イスラム過激派によるテロやISの勢力拡大からイスラム問題が深刻化していましたし、NATOのフィリップ・ブリードラブ欧州連合軍最高司令官をはじめとして、「アメリカとロシアの核戦争が世界大戦引き起こす」とする不吉な予測もありました。世界大に張り巡らしてきたカトリック教会情報網を擁するバチカンからしますと、法王の発言は、精緻な情報分析に基づく人類に対する‘警告’であったのかもしれません。

 2016年の法王発言において特に興味深いのは、具体的な国名や発端となる地域紛争を挙げるわけでもなく、「利害・富・天然資源・人々の支配を巡る“本物の戦争”」と表現していることです。この抽象的で曖昧な表現は、宗教的権威による扇動効果を危惧して焦点をぼかしているのではなく、近代以降の世界大戦の構図が、超国家勢力との間の三次元戦争である実態を表しているのかもしれません。’利害’も’富’も’天然資源’も’人々の支配’も、何れも地球規模で争われており、法王の視点は、イエズス会出身らしくまさに地政学的であるからです。そして、この視点からしますと、’三つ目の世界大戦’は、’既に’起きているということになるのです。

 今日、’三つ目の世界大戦’の只中にあり、それが三次元戦争であるとしますと、何れの諸国も水平方向と垂直方向との両面戦争を戦うこととなるのですが、少なくとも、紛争当事国がロシアとウクライナの二国間に留まっている限り、教科書的な表現としての世界大戦、すなわち、第三次世界大戦には至ってはいません。’三つ目の戦争’が、超国家勢力と国家群との三次元戦争、並びに、従来の二次元戦争としての第三次世界大戦との二つによって構成されているならば、先ずもってこの複雑かつ多元的な戦争の勝利条件を考えてみる必要がありましょう。

 三次元戦争と二次元戦争は別個の戦争ではなく、両者を一連のプロセスとして捉える超国家勢力にとりましての勝利条件とは、第三次世界大戦を引き起こし、その結果として自らによる世界支配を可能とする体制を樹立することにあると推測されます。二次元戦争においてどちらが勝利しても自らの目的が達成できるように両陣営に’賭け’てありますので(二頭作戦…)、第三次世界大戦の勝者はどちらでも構わないのです。先の第二次世界大戦にあっても、戦勝国となった連合諸国が必ずしも繁栄したわけではなく(英仏は没落、ソ中は抑圧体制に…)、二頭作戦に好都合となる軍事的には米ソの超大国による二極対立構図が成立したに過ぎません(なお、国際法によって戦争による略奪は禁じられており、かつ、武力の行使が従来の戦争から国際法の執行へと移行するほど、’戦利’なるものは消滅へ…)。予測される第三次世界大戦にあってどちらかが勝利し、一極支配、すなわち、超国家勢力による世界支配、もしくは分割体制が成立してしまうと、戦中にあっては何れの勢力に属しようとも、人類(諸国民)の前には等しくディストピアが待っているのでしょう。

 それでは、諸国家、あるいは、諸国民の側の勝利条件はどうでしょうか。二次元戦争にあっては実戦における勝利が勝利条件となるのですが、三次元戦争にあっては、上述したように二次元戦争での勝敗は無意味です。言い換えますと、国家・国民にとりましては、二次元戦争を起こさないことこそ、超国家勢力に対する勝利条件となるのです。人類支配へのステップを事前に阻止することになるのですから。

 ローマ法王が指摘するように三つ目の世界大戦が既に始まっているならば、その勝敗の行方は、国家・国民の側による対応の如何にかかってきます。そして、本ブログで再三にわたって述べてきたように、地政学的な勢力圏抗争の思考回路から脱し、主権平等、民族自決(国民自治、主権在民、民主主義…)、内政不干渉等の原則に基づく平和の実現を望むならば、各国政府は、先ずもってNPT体制の抜本的な見直しを求めるべきなのではないでしょうか。グテレス国連事務総長は、日本国政府に対して唯一の被爆国として核廃絶の旗振り役を期待しているようですが、大国による核の同時放棄という殆ど不可能な要求は、’何もしない宣言’に等しく、人類を敗北に向けて言葉巧みに誘導しているように思えてならないのです。

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地政学的思考からの脱皮はNPT体制の見直しから

2022年06月15日 11時00分47秒 | 国際政治
 地球を舞台とした勢力間抗争の是認を前提とする地政学上の諸理論には、第三次世界大戦、並びに、世界政府樹立への布石ともなりかねないリスクがあります。このため、同思考回路から離れ、国民国家体系を基盤とした国際法秩序の下において全諸国の安全が保たれる体制への転換が求められるのですが、ロシア、中国、並びに、アメリカの3大国に勢力圏拡大、あるいは、囲い込み政策を放棄させることは至難の業です。たとえ三国のうちの一国が放棄したとしても、それは戦争や世界支配のリスクをさらに高めるのみであり、3つの大国全てが同時に方針を転換しなければ意味がないのです。

 それでは、大国に染みついている勢力圏志向、あるいは、支配欲というものを放棄させる方法は存在しているのでしょうか。夢物語のようにも思えるのですが、完全ではないにせよ、効果が期待できる方法はないわけではありません。それは、NPT体制の廃止、即ち、全ての諸国に対する核の抑止力の解禁です。

 核の保有を大国、並びに、’抜け駆け国家’にのみ許しているNPT体制は、一般の中小諸国を、事実上、属国の地位に固定化してしまう作用があります(’抜け駆け国家’が地政学的思考において‘大国’のポジションを得る可能性も…)。軍事同盟を締結した大国から核の傘の提供を受けなければ、自国の安全が危うくなるからです。そして、核兵器に関する技術を大国が独占する現状では、大国と一般の中小国との間の軍事力や軍事技術の格差は開く一方であり、中小諸国は、’敵の大国’のみならず、’味方大国’からの脅威に晒される一方となるのです。

 例えば、日本国は、核保有国である中国からの軍事的脅威に晒される一方で、同盟国であるはずのアメリカからの圧力や内政干渉にも苦しめられています。米民主党政権下にあっては特にこの傾向は顕著であり、コロナワクチンの押し売りのみならず、バイデン政権によるCDCの日本版設置要求を受ける形で創設が予定されている健康危機管理庁などは、日本国民に対するデジタル管理の手段なのでしょう(近年、あまりにも露骨…)。あるいは、米中両国をさらに上部から操る超国家勢力によるお得意の’二頭作戦’なのかもしれません。

 このように、NPT体制こそ国際社会における主権平等の原則が損なわれる元凶であり、民族自決(国民自治、主権在民、民主主義…)や内政不干渉の原則をも踏みにじっているとしますと、先ずもってこの封建的な体制を変えないことには一般の中小国は、’従属国’、あるいは、’臣下国’の地位に甘んじるしかなくなります。全ての諸国が核並びに反撃力を保持することができれば、核を背景とした大国による一方的な脅迫や支配を防ぐことができますので、核の解禁、あるいは、核の抑止力の開放は、中小諸国にとりましては自らの自立性(独立性)の回復を意味することとなりましょう。

 もちろん、主権平等の原則を実現するには、NPT体制を廃止しなくとも、三大国、並びに、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮などの核保有国が同時に自国の核を放棄するという方法もありましょう。しかしながら、核保有はいわば’特権’ですので、自発的に特権を手放す、しかも、同時に放棄するとは考えられません(結局、核廃絶運動は不平等な体制を固定化している…)。その一方で、軍事的に圧倒的に劣位する中小諸国には、核放棄を大国に強制する物理的な手段もないのです。こうした点を考慮しますと、数において圧倒的に優る中小諸国が大国による核の脅威を根拠としてNPTからの脱退を表明するほうが、遥かに容易に目的に到達することができましょう。

 このように考えますと、日本国政府は、一般の中小諸国の一員として、国際社会に対して核保有の解禁を訴えるべきなのではないでしょうか。今年8月にアメリカにて開催が予定されるNPTの再検討会議については、岸田文雄首相は、核保有国と非核保有国との間の橋渡し役を務める旨の発言をしております。次回のG7の会場が広島ということもあり、同首相は、再検討会議でも核廃絶の理想を述べるに留まるかもしれません。しかしながら、NPT体制の問題点が明らかとなった以上、日本国政府の役割は、主権平等の原則を名実ともに実現するよう、核解禁により、国家間の軍事バランスの対等性を確保する方向へと導くことなのではないかと思うのです。諸国家の独立性の確保、並びに、諸国家間の対等性の保障は、国際法秩序の基盤でもあるのですから。
 

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大国の勢力拡大願望が‘幻想’である理由

2022年06月14日 14時10分09秒 | 国際政治
 現代における戦争をつぶさに観察してみると、その多くが、大国間の勢力圏をめぐる角逐に起因しております。表面的には二国間や多国間の地域的紛争に見えても、その背後には大国間の勢力圏争い、そしてそのさらに奥では、超国家的な経済利権が潜んでいるケースが少なくないのです。ウクライナ危機も、エネルギーや穀物等の問題が絡みつつ、地政学的にはまさしくランド・パワー対シー・パワーの激突として理解されましょう。それ故に、世界大戦への導火線となるリスクが極めて高いのですが、本記事では、勢力範囲の拡大追求というものが、幻想である可能性について述べてみたいと思います。

 大国による勢力囲い込み政策、即ち、ブロック政策が平和をもたらすとすれば、それは、複数の大国、あるいは、ブロック間において勢力均衡が成立する場合のみに限定されます。ヨーロッパにあってスペイン戦争後に成立したユトレヒト体制は、まさに列強間の勢力均衡を意図したものでした。國際聯盟における常任理事国の設置は、ドイツ等を排除する形での5大国による世界分割構想、あるいは、均衡維持構想であったのかもしれません(第二次世界大戦後に設立された国際連盟は、現実には米ソの超大国間の勢力均衡となったため、機能不全に…)。

しかしながら、勢力均衡とは、良くて列強間の’世界の山分け’となりますし、最悪の場合には、ヘーゲルの弁証法的なプロセスとして解され、世界大戦を経て’世界統一’に向かうステップに過ぎなくなります。何れにしましても、大国ではないその他大多数の中小国は勢力圏争いの’蚊帳の外’どころか、常に大国間の戦争に巻き込まれたり、盟主国の事実上の属国や植民地となるのみならず、主戦場ともなりかねないリスクを背負わされ続けるのです。

 世界大戦に至りかねない国際社会の忌々しき現状の少なくとも直接的な原因が、大国による勢力拡大、並びに、勢力維持政策にあるならば、この思考傾向を変えないことには、戦争を地球上からなくしてゆくことは難しいということになりましょう。そして、その際に問われるべきは、大国による勢力争いは必要なのか、という基本的な問題となりましょう。

 古代や前近代において出現した帝国の多くは、アレキサンダー大王の帝国であれ、ローマ帝国であれ、モンゴル帝国であれ、どちらかと申しますと一つの軍事的な強国が周辺諸国を併呑してゆく形で版図を拡大させており、近現代に見られる勢力間の抗争とは様相が異なっています。近現代の特徴となる勢力間の対立は、大航海時代から続く経済勢力と結びついたグローバル化の結果でもあり、地政学上のシー・パワーの概念も世界大での貿易網と不可分の関係にあります。そして、国境を越えた経済活動を介した政治と経済との結びつきこそ、近現代の戦争が’見えない経済勢力’との三次元戦争となる要因とも言えましょう。

 その一方で、ランド・パワーについても、勢力圏の範囲は国家の領域とは一致しません。例えば、ハウスホーファーが述べるように、勢力圏とは自由自足が可能となる範囲とするならば(経済上の自給自足を以って政治的枠組みを形成する基準とする考え方は、既にプラントン哲学にも見られる…)、今日では、一民族一国家の基本原則を以って国境線を引くことは殆ど不可能となります。今日、グローバリズムを支える理論として国家間の相互依存関係の成立による平和の実現が唱えられていますが、自給自足が勢力圏を確定するならば、むしろ’世界は一つ’という結論に至ってしまうのです。また、防衛という意味での安全の確保を以って勢力圏を確定しようとしますと、これも際限がなくなります。自らの勢力範囲に取り込んだ地域は自勢力の最前線となり、この地域を護るためにはさらにその隣接地域に自らの勢力を広げる必要性が生じてしまうからです(そのうち地球を一周して世界支配に…)。

 かくしてシー・パワーにせよ、ランド・パワーにせよ、複数の大国による勢力圏争いは、唯一の世界の覇者を決定する最終戦争へと向かってしまうのですが、何れの理論にあってもその根拠は、必ずしも絶対的なものではありません。否、今日の国民国家体系、あるいは、それを基盤とする国際法秩序に照らしてみれば、’幻想’であることに気が付かされるかもしれないのです。

 何故ならば、シー・パワーがその根拠としている通商上の自由航行は、国連海洋法条約をはじめとした国際法によって航行の自由の原則として確立していますし、ランド・パワーが主張する自給自足の要件も、国家の枠組みを維持した形で満たすことができます。自国で産しない、あるいは、不足する資源等は海外から輸入すればよく、また、今日の科学技術のレベルからすれば、代替技術やイノベーティブな技術等の開発により、国産化や内製化を以って不足問題を解決することもできます。現代という時代にあっては、大国を中心とした勢力圏の形成は、百害あって一利なしかもしれないのです。特に、一般の中小諸国にとりましては。

 国内における法秩序が社会全体の安定を支えているように、国際社会にありましても、たとえ、それが将来のあるべき姿であれ、国際法秩序における各国の安全の保障こそ望ましい国際安全保障体制と言えましょう。刷り込まれた固定概念に囚われず、地政学的な思考回路から抜け出すことこそ、大国間の勢力圏争いに終止符を打つと共に、世界大戦への道からの離脱を意味するのではないかと思うのです。

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国際法秩序と地政学的思考は両立しない

2022年06月13日 12時15分34秒 | 国際政治
地政学とは、地球上の全ての地形や気候といった所与の自然条件を考慮しつつ、パワー、あるいは、勢力圏相互の角逐について理論的な根拠を与える研究といっても過言ではありません。このため、同理論を現実の政策として採用した大国の覇権主義的な行動も理論において正当化されてしまうため、大国にとりましては好都合です。○○国は、地政学的な理由によって××地域の諸国を勢力範囲に収めている、△△地域は、大国間の狭間なので緩衝地帯の役割を果たしている、あるいは、世界大戦は○○パワーと◇◇パワーとの激突である…などなど。不思議なことに、たとえその政策や行動が国際法に反するものであっても、人々は、それを当然、あるいは、極めて合理的な行動のように認識してしまうのです。

 もっとも、ハウスホーファー流の地政学とナチス・ドイツの拡張主義との繋がりから、戦後は、日本国のみならず米欧にあってもゲオポリティークというドイツ語の表現は避けられてきた嫌いがあります。しかしながら、地政学という言葉が一般的に使用されている今日、改めてその功罪を問うてみる必要があるのかもしれません。そして、本ブログで述べてきましたように、地政学とは、過去並びに現在の大国の行動を理解し、理論の延長線上にある未来を予測するには役立つものの、現実の、もしくは、人類にとっての理想的な未来を方向づける理論として相応しいのか、と申しますと、これは違うように思えるのです。

 その最大の理由は、地政学的思考と国民国家体系との間の不整合性なのですが、このことは同時に、国際法秩序との間の深刻な背反性をも意味しています。法と申しますと、どこか自由に対する制約というイメージが強いのですが、ジョン・ロックの言葉を借りれば、’法は自由の証’となります。おそらく、その意味するところは、法秩序とは、全ての個々人の法人格(ここでは法律行為を自らの自由意思で行うことができる独立的な人格という意味…)の保障を前提として成立するものであり、法秩序にあって人々の基本的な権利が擁護されると共にその自由の範囲も相互に保障されるということなのでしょう。

 国際法秩序も法秩序一般と同様であり、国際法上における各国の法人格が保障されないことには、’法秩序’とは言えなくなります。国際法上の法人格とは、対外的な条約や協定等を自らの統治権に基づいて締結できると共に、内政に関しても自由(自治)を享受し得る独立国家として地位を意味します。この観点からしますと、今日の国民国家体系こそ、まさしく国際法秩序が成立し得る唯一の国際体系と言えましょう。民族自決(国民自治・国民主権・民主主義…)、主権平等、並びに、内政不干渉の原則は、独立国家が対等の立場で並立する国民国家体系あってこそ名実ともに原則として成立し得るのです。

 このように考えますと、人類にあって最も多くの人々が合意し得る未来ヴィジョンとは、世界政府や世界連邦政府の建設や、共産主義者の主張するような国家の廃絶による国民国家体系の消滅ではなく、規模の大小や地理的条件の相違に拘わらず、対等な立場にある独立国家群の並列体制としての国民国家体系の維持なのではないでしょうか。今日の大国に見られる地政学的な思考が、この未来を妨げているとしますと、変わるべきは大国が追求している自国の勢力範囲の確保という’幻想’であり、その背後に隠れている何者かの人類、あるいは、世界支配の野望なのではないかと思うのです。

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地政学と国民国家体系との不整合性-中小諸国の悲惨な境遇

2022年06月10日 10時42分18秒 | 国際政治
 地政学的思考には、国境という概念が希薄ですし、むしろ、越境性にこそその特徴があります。国際社会を大国間のパワー・ゲームが展開されるフィールド(戦場)と見立てているのですから、国境線など関係がないのです。そして、こうした大国による勢力圏闘争の思考・行動様式は、中小諸国にとりましては殆ど’悪いこと尽くし’なのです。

 第一に、中小諸国は、大国の勢力圏拡大政策の客体でしかありません。国民国家体系の下で、今日の国際社会は、民族自決(国民自治)、内政不干渉、並びに、主権平等を原則としています。ところが、全世界が大国のみがプレーヤーの資格を独占するゲーム・ボードもなりますと、中小諸国は、プレーヤーによって動かされる’コマ’でしかなくなります。当然に、これらの諸国の独立性や自立性は無視されるのであり、国際社会の原則も画餅に過ぎなくなるのです。

 この結果として、中小諸国は、自らの判断で対外政策を決定することはできなくなり、自らが属する勢力圏の中心国の指示に従うだけの存在となります。NATOをはじめ、今日の軍事同盟の多くは、純粋に防衛を目的としているというよりも、大国による勢力圏形成の手段としても理解されましょう。外政に関する政策権限の移譲は、国家としての独立性を失うことをも意味しますので、大国の勢力圏に組み込まれた中小諸国は、事実上、属国、あるいは、被保護国の立場に置かれることとなります。そしてそれは、外政のみならず、内政干渉への導火線ともなるのです。

 第一に関連して第二に問題となるのは、中小諸国における民主主義の形骸化です。たとえ国民の参政権が保障され、普通選挙制度が整えられていたとしても、政府が政策決定の自立性(主権)を失い、大国の出先機関と化している状態では、国民は政策決定から除外された状態となります。与野党を問わず、何れの政治家も大国の代理人、あるいは、代弁者であるならば、選挙にあって有権者がどの候補者に投票しようとも、民主的制度としての多党制も選挙制度も無意味となりましょう。パワー・ゲームを背景とする選挙は、代理人選びに過ぎないか、あるいは、形を変えた大国間の勢力圏争いの場となるのです。しかも、パワー・ゲームのさらに背後に超国家権力組織が隠れているとすれば、民主的選挙は、その実は自由主義向けの世界支配の手段に過ぎないのかもしれません。

 第三に指摘し得る点は、第一の問題も第二の問題も、大国間の勢力争いを当然のものと見なす思考的な刷り込みによって正当化されてしまうことです。中小諸国は、自国が属する勢力圏の中心国が’敵対勢力’のメンバーと見なす国からの軍事的な脅威を前にしては、勢力圏に留まるしかなくなります。この結果、大国から主権を侵害されようが、内政干渉されようが、自国の防衛や安全保障のためならば、これらを受け入れざるを得なくなるのです。

 第四として指摘し得るのは、大国間のパワー・ゲームは、大国とその勢力圏に属する中小諸国のみならず、中小諸国間の関係をも左右してしまう点です。ローマ帝国以来の’分割して統治せよ’の方針からすれば、中小国諸間の団結は常に大国によって意図的に妨げられ、分離政策が遂行されることとなります。その一方で、’敵対勢力’の脅威をアピールしたいときには、国民感情としては友好的ではない国同士であっても、’仲良しのふり’を強要されてしまうのです。このため、メディア等の誘導により、奇妙で不自然な○○ブームが起きることもあります(日本国内の韓流ブームなど…)。

 そして、第5の問題点は、中小諸国の能力もコントロールされてしまう点です。中小諸国は、テクノロジーや知識、あるいは、知力においても大国に優ることは許されなくなります。中小諸国は、軍事面のみならず、経済面を含むあらゆる側面において大国の脅威であってはならないのです。唯一、能力を伸ばすことが許されるとすれば、それは、大国、あるいは、超国家権力体に貢献する場合に限られます。優秀な人材は中小諸国から流出する一方で、国民一般の能力は低レベルに留まることが求められるのです。

 地政学の理論からしますと、パワー・ゲームの行く先には、世界支配に到達するための第3次世界大戦が待っていることは、昨日の記事で述べたところです。その一方で、第3次世界大戦というステップの有無に拘わらず、勢力間の分割統治を演出するというシナリオも考えられましょう。これは、オーウェルの描いた『1984年』のモデルともなるのですが、何れにしましても、大国間のパワー・ゲーム、並びに、それを背景とした世界支配は、中小諸国にとりましては、被支配的な地位の固定化を意味してしまうのです(大国には盟主の地位が保障されているので、相応のメリットはある…)。

 以上に述べたことから、地政学が描くパワー・ゲームとその背景にある世界支配の思想と、国民国家体系、即ち、民族自決(民主主義)、主権平等、内政不干渉等の原則を基礎とする国際体系との間に深刻な不整合性、否、二律背反性があることが分かります。そして、この二律背反性は、’どちらかを選ぶべきか’という未来の方向性に関する選択を人類に迫ることとなりましょう。同選択については、法というものがその本質において各自の権利や自由を保護する役割を果たす以上、国際法秩序の観点からしても、後者しかありえないのではないかと思うのです。

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