万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

民主主義の実現は未来の課題

2021年12月31日 13時27分27秒 | 国際政治

 2021年も残すところ僅かとなり、早、大晦日を迎えることとなりました。今年を締めくくる本ブログの記事といたしまして、本日は、民主主義について認めたいと思います。

 

 昨日の30日、中国の新華社通信は、今年の「十大国際ニュース」としてアメリカ大統領選挙における議会襲撃事件を揚げ、アメリカの民主主義をこき下ろしたと報じられております。「米民主主義の幻想崩れる」として…。中国共産党のコントロール下にある同社が同報道にあって主張したかったことは、それは、アメリカの民主主義とは名ばかりの幻想に過ぎず、曲がりなりにも保たれてきたその幻想も、大統領選挙の過程で発生した暴動によって崩れ去ってしまった、ということなのでしょう。

 

 昨今、中国は、民主主義をめぐって対米批判を強めていますが、その背景には、先月、アメリカのバイデン政権が全世界の民主主義国を招待する形で開催した「民主主義サミット」があったことは疑い得ません。中国の目には、同サミットは、あたかも一党独裁体制、あるいは、全体主義体制に対抗する民主主義陣営形成のステップに映ったのかもしれません。「民主主義サミット」とは、イデオロギー対立の再燃ともなりかねない新冷戦の時代にあって、ソ連邦に取って代わった中国にとって安全保障上の重大な脅威なのでしょう。

 

もっとも、同サミットにおいて諸国を束ねる要となるのは民主主義という普遍的な価値ですので、それを頭から否定することは困難です。一先ずは、自らも人民民主主義を称しているのですから。そこで中国は、民主主義そのものを批判するのではなく、主催国である’アメリカの民主主義’を’幻想’であると主張することで、「民主主義サミット」の’扇の要’を消滅させてしまう作戦に出たとも推測されます。

 

しかしながら、この作戦、いかにも’こすい’ように思えます。何故ならば、真にアメリカの民主主義を批判するならば、議会襲撃事件ではなく、それを引き起こした不正選挙問題を指摘すべきであったからです。言い換えますと、中国の対米批判は、不正選挙によって当選したとする疑惑が払拭し切れないバイデン政権をむしろ庇っており、批判の焦点を巧妙にずらしているのです。こうした中途半端で妥協的な態度が、米中茶番、あるいは、両国を背後で操るシナリオライターの存在を示唆するのですが、今般の中国によるアメリカの民主主義批判は的を射ているとは言い難く、その効果も殆ど期待できないように思えます。

 

米中両国は、民主主義という価値をめぐって表面的には火花を散らしているものの、どこか緊張感を欠くのは、その不徹底さが見透かされているからなのかもしれません。そして、民主主義国家の旗手を任じてきたアメリカが、現代という時代にあって、中国がぼかした点において民主主義の危機にあることも確かなように思えます。仮に選挙制度において欠陥や盲点があり、電子投票・開票機器といったITをも駆使した不正が行われることがあれば、民主主義という価値はまさしく幻と化して消えてしまうからです。アメリカは、世界に先駆けて憲法典を以って民主的統治制度を導入したものの、18世紀末という時代を考慮すれば、それが現代という時代に必ずしも適合しているわけではありません。最先端であったシステムも、およそ200年以上の時が経過すれば、旧式となってしまう部分も少なくないのです。

 

 中国の共産党一党独裁体制が民主主義体制の対極にあることは異論を待たないのですが、アメリカもまた、今日にあっては、他の諸国が目指すべき民主主義国家のモデルとは言い難いように思えます。民主主義の価値の具現化という観点から見ますと、中国は論外としても、アメリカもまた、民主主義が名ばかりとなる形骸化が進行しているのですから。後世にあって、2021年とは、民主主義国家において民主主義の危機が表面化した年として記憶されているかもしれません。

 

そして、模範となるべき統治モデルが存在しない以上、多くの人々の知恵を集めながらより優れた民主主義国家を構築することこそ、全ての諸国が未来に向けて取り組むべき最も重要な課題のように思えます。実のところ、何故か、SDGsが掲げる17の目標には、民主主義の実現は含まれていないのです…。来る2022年が、より善き民主主義国家を実現するための出発の年となることを願って、今年の最後の記事といたしたく存じます。皆様方が良いお年をお迎えなされますよう、心よりお祈り申し上げます。

 

*本年は、拙いブログながら『万国時事周覧』にご訪問くださいましてありがとうございました。心より御礼申し上げます。本ブログ記事が、折に触れ、皆様方のお役に立ちましたならば、大変、うれしく存じます。また、考えるところをストレートに記事にしてまいりましたので、ご不快な思いをされた方もおられるかと思います。この場を借りてお詫び申し上げます。また、私事ながら、今年は、6月22日に伯父倉西正武が身まかり、喪に服しております。つきましては、新年のご挨拶をご遠慮申し上げます。

 

伯父正武は、長らくアメリカのコロンビア大学数学科にて教授を務めておりました。晩年は、いつもにこにこされており、好々爺の風情がございましたが、古いアルバムをめくりますと、その気迫に圧倒される若い頃の写真も残されております。本を前にして机に向かい、思索している横顔は、まるでこの世離れした半跏思惟像のような面持ちなのです。数学のみならず、物理学、哲学、文学、音楽、絵画など、様々な分野にあっても造詣が深く、好奇心旺盛にして知識の宝庫のような方でした。専門の数学についてはちんぷんかんぷんでさっぱり分かりませんでしたけれども(2013年に岩波書店より『倉西数学への誘い』という書籍が出版されております)、純粋に数学の世界に生きた伯父は、真実を探求する真摯な姿勢、並びに、自由な精神を教えてくれたように思えます。

 

 伯父危篤の報を受けて急ぎ伊豆高原に向かいました日は、梅雨にありながら、一年の内で最も爽やかで美しいと思われるほど、透き通るような青空が広がる日でした。亡き伯父を偲び、その際に姉裕子が詠みました句を最後に添えたいと思います。

 

 伯父見舞ふ 汽車の窓より 夏の空

 

*本ブログは、年が明けまして1月4日より始めたいと思います。来年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


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スパイク蛋白質合胞体生成説が示唆するワクチンへの疑問

2021年12月30日 13時19分55秒 | その他

 遺伝子ワクチンにつきましては、安全性の証明が不十分な点が、同ワクチンの接種を拒む最大の要因となっております。実際に、厚労省が公表した件数だけでも接種後の死亡報告が1400人を越えており、この数も氷山の一角とされています。軽度の体調不良も含めれば、相当数の健康被害が発生しているものと推測されましょう。このため、ネット上では、専門家から一般の人々に至るまで、様々な立場から同ワクチンのリスクに関する議論が続くこととなったのですが、ニュースサイトのコメント欄にて気になる投稿を発見いたしました。

 

 同コメントの内容を要約しますと、’ワクチンとして体内に投与された人工mRNAは、合胞体でしかスパイク蛋白質を生成しない。人体の細胞における合胞体は、骨格筋繊維、並びに、心筋の細胞である。故に、他の臓器の細胞ではスパイク蛋白質は生成されず、安全である。’というものです。スパイク蛋白質の形成には合胞体を要するとする説は初耳でしたので、読み捨てることができなかったのです。合胞体という聞き慣れない用語が登場するところからしますと、ワクチン安全説を唱える専門家による投稿のようなのですが、何か重要な意味があるように思え、合胞体について調べてみることにしました。

 

 合胞体とは、複数の核を含んだ細胞を意味します。同細胞には、昆虫の初期胚のように細胞分裂で形成される形態と、正常な細胞が融合して巨大細胞となる形態の二種類があり、人体の場合は後者なそうです。通常の細胞には核は一つしかありませんので、例外的で特殊な細胞ということになりましょう。このため、同細胞を有する臓器は限られています。上述したように、同コメントでは、骨格筋繊維と心筋の二つとしています。脳を含む全身の細胞においてスパイク蛋白質が生成されるわけではないと主張することで、ワクチン接種の安心材料にしたかったのでしょう(もっとも、心筋が含まれている時点でむしろ不安が増すのでは…)。

 

 骨格筋繊維と心筋に限定したことで、同説は、コロナワクチンが筋肉注射であること、並びに、政府も認めざるを得なかった健康被害が心筋炎である理由を説明します。しかしながら、ネット上には、心筋については、かつては合胞体と考えられていたものの、今日では、この説は否定されているとの記事がありました。Wikipediaにあっても、合胞体の説明には心筋に関する記述はありません(wikipediaの英語版では、合胞体として胎盤、骨格筋、平滑筋、破骨細胞と並んで心筋が列挙されていますが、複数の核を含む純粋な合胞体ではなく、機能的なものとして区別している…)。心筋が合胞体から外れますと、心筋炎の説明は付かなくなるのですが、その一方で、ワクチンの安全性は高まりますので(少なくとも、再生不能な細胞が免疫細胞や抗体からの直接的な攻撃は受けない…)、この間違いは朗報にも聞えます。ところが、wikipediaの記事をよく読みますと、合胞体として心臓ではない別の臓器が記載されているのです。そして、その臓器こそ、哺乳類の胎盤であるというのです。

 

 哺乳類の胎盤というキーワードで、同ワクチンが登場した時期に注目されたファイザー社の元副社長の方の警告を思い出された方もおられるかもしれません。この時は、同ワクチンによって生成された抗体やキラーT細胞などがスパイク蛋白質の同族体である胎盤のシンシチン細胞を攻撃するというお話しでした。ファイザー社は、一早くこの説の火消しに回ったのですが、胎盤に合胞体が含まれるとしますと、最初の説とは別の機序によって人類の胎盤が危機に晒されていることとなります。因みに、合胞体の英語表記はsyncytium(シンシチウム)です。

 

また、合胞体は、ウイルス感染に際しても形成されます。合胞体を造る代表的なウイルスは、ヒトヘルペスウイルスや、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)、パラミクソウイルス等なそうです。新型コロナウイルスについては不明なのですが、この情報も、ワクチン出現初期にあって指摘されていたAIDS患者のリスクを思い起こさせますし(大量にスパイク蛋白質が作られてしまう?)、同患者の体内において変異株が出現しやすいとする説とも符合しているように思えます。

 

そもそも、合胞体でしか人工mRNAがスパイク蛋白質を生成しないとする説が正しいのかどうか(怪しいかもしれない…)、この点も、医科学的な検証を要するものの、コロナワクチンと合胞体との間には、何らかの関連性があるように思えます。謎が謎を呼んでいるのですが、皆様方は、どのようにお考えでしょうか。


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脳内は聖域では?-ブレインテックの重大なリスク

2021年12月29日 13時07分54秒 | その他

 ’思考盗聴’といった言葉から思い浮かぶのは、未来において出現が予測されるSFチックな犯罪形態です。まだまだ先のお話のようにも感じられるのですが、実のところ、その出現は、既に目の前に迫っています。ブレインテックという名において。

 

 ブレインテックとは、「脳内の思考を自由に読み取ったり操作したりする技術」と説明されています。ここで注目すべきは、この技術を用いれば、誰もが、他者が考えていることを’自由に’知ることができ(’脳の見える化’)、また、自らの思うとおりに他者の思考をコントロールすることができる、ということです(もっとも、この技術によって読み取れるのは、思考内容を脳内において文章化された言葉であるのか、それ以前の観念段階であるのかは、不明…)。

 

 この技術さえ入手すれば、莫大な利益がもたらされる可能性があることは言うまでもありません。とりわけ犯罪者に。例えば、銀行口座の暗証番号などは、脅したし、賺したりしなくとも一瞬で手に入りますし、外部から脳内を操作すれば、盗まなくとも自ら進んで財産を差し出すかもしれません。詐欺罪も有名無実となりましょう。そして、一般の財産権のみならず、知的財産権も重大な脅威に晒される権利の一つとなりましょう。如何なる発見や発明をしようとも、それが頭に浮かんだ時点で外部に筒抜けとなり、他者のものとなり得てしまうのですから。

 

 また、同技術が社会一般に普及するとなりますと、人類の社会は’これまでに経験したことのない’破滅的なダメージを受けることでしょう。虚言や虚証等がなくなるとして歓迎する向きもありましょうが、脳内で考えていることと口から発生られる言葉とが異なることは日常茶飯事です。むしろ、嘘も方便という諺もあるように、人間関係を円滑に保つためには、思っていることをストレートに口にすることが憚られるケースは多いのです。例えば、心の中では’NG’でも、言葉では、’それは良いですね’と答えてしまった経験は誰にでもあるはずです。’この人は苦手…’と心の中で感じても、それを言葉や顔に出さなければ相手を不快にすることはありませんが、ブレインテックが使用されますと、この苦手意識が相手にも分かってしまうのです。双方に、何とも気まずい空気が流れるかもしれません…(’大っ嫌い’であればより深刻な結果が…)。

 

 その一方で、ブレインテックの研究を進めている人々は、同技術は、身体に障害のある人の生活を援ける、あるいは、テレパシーにように頭で考えただけでコンピュータを動かしたり、他者とコミュニケーションがとれるとしてその有用性を強調しています。しかしながら、これらの理由は、同技術の開発や実用化を正当化できるのでしょうか。

 

脳とは、その人の人格そのものといっても過言ではありません。そして、人格とは、唯一無二の固有の意思を有する人としての存在そのものであり、不可侵なものとされています。かつ、脳はおよそ魂の宿るところともされますので、如何なる理由があろうとも、脳内に生じる思考空間に他者が立ち入ることは許されないはずなのです(本来、聖域であり、禁足地のようなもの…)。ところが、ブレインテックを使えば、他人によって自己の内面が完全に掌握されてしまいます。誰かがこの技術を悪用すれば、外部者の脳内操作により他者のロボット化、否、事実上の奴隷化も不可能ではありません。言い換えますと、ブレインテックは非人道的な邪悪な技術の側面が強く、その有益性、有用性を上回っているように思えるのです。そして、ブレインテックの開発には莫大なコストを要し、脳内読み取り・操作機器が極めて高価であるとしますと、それを自由に使えるのは、一部のIT大手や富裕者ということにもなりかねないのです。他の人類は、なすすべもなく、無防備なままに同技術の攻撃的な侵害性に晒されるかもしれません。

 

身体に障害のある方々を救うためには、むしろ神経細胞の再生や修復といった先端医療の研究開発に期待すべきですし(脳に対する医科学的な介入は、機能に関連するハード面、あるいは、医薬品による治療に留めるべきでは…)、テレパシーの必要性を感じている人もごく少数なのではないでしょうか(軍事面でも傍聴される可能性があるので、必ずしも望ましいとは限らない…)。指を使ってキーボードで入力する手間が省けるとして喜ぶ人は、相当の面倒くさがり屋さんなのかもしれません…。何れにしましても、ブレインテックの研究については倫理的な議論を要するように思えます。同技術に関する報道を見聞きする度に、暗い未来しか思い描くことができないのです。


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西欧への憧れが疑問に変わる日-ワクチン義務化の狂気

2021年12月28日 19時41分11秒 | 国際政治

 報道によりますと、マクロン政権下のフランスでは、ワクチン接種を義務化する法案が閣議決定されたそうです。これまでの制度では、PCR検査等での陰性証明も併用されてきたのですが、今般の閣議決定ではワクチン接種に一本化されております。言い換えますと、フランス国民は、唯一の’逃げ道’さえ塞がれてしまった状況と言えましょう。

 

 フランスのみならず、ドイツにあってもワクチン接種圧力が日に日に強まる一方であり、未接種者は生存権さえ政府に奪われかねない事態に直面しております。この動きはイギリス、オーストラリア、そして、ニュージーランドといったアングロ・サクソン系の諸国も同様であり、アメリカにあっても、バイデン民主党政権、並びに、民主党勢力の強い州では、ワクチン接種義務化に向けて歩を進めています。欧米諸国を見ますと、一方向に向かって足並みを揃え、一斉に歩き出しているかのようなのです。二度の世界大戦を経験し、全体主義や共産主義と共にヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、そして、毛沢東といった独裁者が相次いで出現した20世紀は、しばしば狂気の時代と称されています。しかしながら、狂気にかけては21世紀も負けてはいないようです。しかも、今日の狂気は、最も自由で理性的な国と見なされてきた西欧の自由主義国にあっても嵐の如く吹き荒れているのです

 

明治以来、日本国にありましては、西欧諸国と言えば、近代合理主義の誕生の地であり、かつ、先端的な科学技術をも生み出してきた先進的な文明国として憧れの的でもありました。人類普遍の価値とされる自由、民主主義、法の支配、個人の基本権の尊重といった諸価値も、イギリスやフランスといった諸国の統治システムにおいて具現化され、精緻化されなければ、今日、全世界の諸国に広まることはなかったことでしょう。今日の国民国家体系、そして、それを支える国際法もまた、西欧を生誕の地としています。崇高な精神性を含めて、西欧諸国は、常に他の諸国のモデルであり、追いつくべき対象であったのです。

 

 ところが、今日の欧米諸国に見られるワクチン狂騒曲を目の当たりにしますと、合理的で洗練され、かつ、人道的な国であるとする従来の西欧のイメージが大きく揺らいできます。否、ワクチン接種に国民を追い込んでゆく様は、魔女狩りが横行した中世、否、ドルイドが実権を握っていた古代ケルトの時代に逆戻りしてしまい、何かに憑りつかれているかのようにも見えるのです。そして、その’何か’を探ろうとしますと、表にあっては姿を見ることができなかった西欧の裏側の存在について考察を深めざるを得なくなるのです。

 

 西欧の裏側、それは、西欧世界に入り込み、今日’ディープ・ステート’とも称されている超国家権力体が操る世界であるのかもしれません。こうした見解は、荒唐無稽な陰謀論として揶揄されてきましたが、むしろ、各国政府を陰から操ることができる巨大な権力の存在を想定しないことには、かくも非合理的なワクチン狂騒曲を説明することは困難です。そして、今日、ワクチン接種の義務化に走っている諸国の多くは、今日、ディープ・ステートとも称されているイルミナティ―(イエズス会フランシスコ派がロスチャイルド家といった金融財閥の支援のもとに18世紀後半に設立した秘密結社。その起源は悪魔崇拝のマルクート教にあるとも…)が、ネットワーク状に拠点を設けた諸国であることを考慮しますと、今般の現象も自ずと理解されてくるのです。フランシスコ法王は、イエズス会フランシスコ派出身の初のローマ教皇ですし、フランスのマクロン大統領に至っては、ロスチャイルド銀行に勤務していたその経歴からロスチャイルド家の代理人との噂が絶えません。

 

 それでは、西欧から見て地理的に地球の裏側にある日本国は、安泰なのでしょうか。日本国政府はと申しますと、ワクチン接種義務化については目立った動きは見せてはいません。しかしながら、明治維新にあっては、イギリスを介して同超国家権力体が背後で暗躍していましたので、日本国も同権力体の影響下にあることは十分に想定されます。日本国にあっても、外部から強い圧力がかかり、ワクチン接種が義務化されてしまう可能性は否定はできないのです。

 

この危機を回避するには、先ずは、欧米諸国が実施した政策を模範とし、その後追いを良しとする、’前例踏襲的’な日本政治の風潮を改める必要がありましょう。’西欧諸国では既に実施済み’と政府が説明しただけで、何らの疑いを抱くこともなく納得してしまう国民も少なくないからです。今日、西欧諸国にあっては、表面と裏面が入れ替わっており、裏面が大手を振って国民に強権を発動している現状を見ますと、西欧諸国の後追いは命取りとなるリスクがあります。

 

このように考えますと、日本国は、自ら情報やデータを集め、新型コロナウイルスに関する調査や分析を進めた上で、より合理的で効果的、かつ、人体に安全な独自の対策を追求すべきではないでしょうか。そしてそれは、決してワクチンの義務化ではないと思うのです。


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オミクロン対策のワクチン追加接種は危険では?

2021年12月27日 14時31分30秒 | その他

 新たに南アフリカで誕生したとされるオミクロン株は、瞬く間に全世界に広がり、日本国内でも市中感染が起きているとの指摘があります。メディアも連日のように’オミクロン恐怖’を報じているのですが、オミクロン株の性質を考慮しますと、政府が推進している追加接種は、むしろワクチン・リスクを高める可能性が高いように思えます。

 

 オミクロン株が恐れられている最大の要因は、その高い感染力のみならず、免疫回避性にあります。海外のメディアが報じるところによりますと、オミクロン株の感染者の8割程度が二度のワクチン接種済みの人々であったそうです。つまり、同データは、オミクロン株には接種者の方が感染し易い傾向にある、あるいは、接種率が全国民の8割程度とすれば、接種者も未接種者も感染リスクには全く変わりはないことを示しているのです。この事態に対して、何れの政府も、第3回目の追加接種を急いでいますが、この判断、正しいのでしょうか。

 

第1に考えるべきは、オミクロン株が弱毒化株であるケースです。南アフリカでは、国民の凡そ7割が感染力の強い同株に自然感染したため、ワクチンを接種することなく抗体を獲得したとの指摘があります。未接種者であれ、接種者であれ、オミクロン株は怖れるに足りず、同株を理由とした政府による追加接種キャンペーンも不要ということになりましょう。

 

第2の可能性は、オミクロン株の免疫回避性は、ADE(抗体依存性感染増強)を意味しているというものです。ADEは、既存株用に開発されたワクチンの中和抗体の多少にかかわらず、不適切な悪玉抗体、即ち、ADE抗体に起因するものです。この場合、ADE抗体がマクロファージやB細胞などの免疫細胞への感染を招いてしまいますので、事態は深刻です。現行のワクチンでは中和抗体のみならず、同時にADE抗体をも産生しますので、追加接種によって接種者がさらに感染し易くなるリスクが認められましょう(ワクチン接種は免疫力を低下させるとする説もあり、新型コロナウイルス感染症のみならず、他の感染症や癌等にもかかりやすくなるのでは…)。

 

ADEに関連して第3に指摘し得るのは、変異株であるオミクロン株に対して免疫原罪、あるいは、抗原刷り込み(インプリント)が発生している可能性です。免疫原罪とは、メモリーB細胞が優先的に従来株に対して再活性化するため、変異株への免疫反応が著し低下する現象を意味します。このケースでも、追加接種は、全く以って無意味となりましょう。むしろ、従来株に対する反応が強化されるのですから、免疫原罪を強めてしまうかもしれません。

 

仮に、追加接種にワクチン効果の増強を期待できるとしますと、それは、時間の経過とともに減少する中和抗体を補うために’ブースト’する、というものです。第4の可能性にあっては、抗体量が評価の絶対的な基準であるならば、確かに追加接種の必要性は認められましょう。しかしながら、ワクチンが短期間に効果が消滅するならば、再三指摘されているように、摂取者は、血栓や心筋炎等のリスクの医ならず、ワクチンの多重接種のリスクに直面せざるを得なくなります。同一抗原の遺伝子ワクチンを接種すると、動物実験とはいえ、5回目頃から死亡率が急上昇し、7、8回で凡そ半数が死亡するとする重大な指摘もあります。また、中和抗体量が減少しても、ワクチン接種によって獲得免疫が得られていれば、追加接種を急ぐ必要はないとする専門家の見解も示されております。

 

以上に、オミクロン株について幾つかの可能性を見てきましたが、何れの可能性にあっても、’追加接種は危険である’とする判断に至ってしまいます。それにも拘わらず、何故か、政府は、追加接種を急いでいるのです。追加接種が唯一の対策であるかのようにワクチン接種を急ぐ政府の態度には、不信感ばかりを募らせる国民も少なくないのではないかと思うのです。


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ワクチンパスポートの問題-生存許可証の発行は許されるのか?

2021年12月24日 16時16分32秒 | 国際政治

 日本国内でも、ワクチン証明書アプリのダウンロードの開始など、「ワクチン・検査パッケージ」の運用に向けた動きが始まっており、ワクチンパスポートは海の向こうのお話ではなくなりました。同制度については、未接種のみならず接種者の権利をも侵害するとする反対意見がある一方で、未接種者を除外する行為は差別ではないとする擁護論も聞かれます。

 

 ワクチンパスポートを正当化する意見の一つに、ワクチンパスポートとは、運転免許証と同類の免許証の一つであるとする擁護論があります。免許証を有している人が、他の人たちには禁じられている行為が許されるのは当然のことであり、差別行為には当たらないというものです。ワクチン接種者を対象としたプレゼント・キャンペーンや優遇措置も、免許取得者に対するものであるから問題はないとしているのです。しかしながら、ワクチンパスポートと免許証を同列に扱うことには、相当の無理があるように思えます。

 

免許証とは、何らかの専門的な知識や技能を獲得したことを証明する証書であり、その取得には、本人の積極的な努力や訓練を要します。つまり、一般の人々が有していない特別な知識や技能を身に着け、それが、公的機関による公平な試験の合格という関門を経て証明されているからこそ、プラス方向の特別の行為が許されると言えましょう。運転免許証もまた、運転能力とその能力の公的認定を基盤としています。

 

それでは、ワクチン接種は、こうした免許証と同じなのでしょうか。ワクチン接種については、免許証とは違い、取り立てて接種者本人に特別な知識や技能が要求されるわけではありません。否、接種率80%という数字を信じるならば、ワクチン未接種者の方が稀な存在となりましょう。つまり、免許証とは真逆であり、専門的な知識や技能を努力して獲得する必要も、試験に合格する必要もなく、誰もがワクチンさえ摂取すれば’資格’を得ることができるのです。そして、ワクチンパスポートは、ワクチン免許を持たないワクチン未接種者の人々の行動や生活のレベルが落とされるという意味においても、免許証と真逆であると言えましょう。未接種者は、政府によって基本権の擁護対象から外され、マイナス方向に自由や権利が制限される、即ち、完全なる人権を有しない’劣位の市民’にされるのですから。

 

そして、この基本的な自由や権利の制限とは、実のところ、通常、犯罪者に対して課される刑罰を意味します。言い換えますと、少なくとも自由主義国では、他者の自由や権利を侵害した者のみに対してしか、人権の制約を合法的に課すことはできなかったのです。それでは、ワクチンの未接種、あるいは、非接種は、社会的に罰するべき犯罪行為なのでしょうか。ワクチンを接種しない人々が、他の人々に対して殺傷や窃盗といった刑法上の犯罪行為を働いたわけではないのは明白です。もっとも、この点については、ワクチンパスポートやワクチン義務化に賛意を示している人々は、ワクチン未接種者は集団免疫の成立を妨げ、人々を感染リスクに晒していると主張しています。しかしながら、ワクチンに関するデータは、ワクチンを接種しても感染力を有することを示しており、変異株も登場しますので、新型コロナウイルスの場合には集団免疫は成立しません。また、他者に対する感染を根拠とした人権制約につきましても、接種者は、自身の重症化リスクは低下しているはずなのですから、ワクチン未接種者の有無に拘わらず、その恩恵を受けています。ワクチン未接種者が、ワクチン接種者の生命や身体を害しているわけではないのです。しかも、実際には、ワクチン接種者がワクチン未接種者に感染させるケースの方が多くなるのですから、他者に対する感染リスク=犯罪という構図に当て嵌めるならば、ワクチン接種者もまた人権制約という罰を与えられるべき存在となりましょう。

 

公衆衛生の観点から見ましても、ワクチン未接種者は、感染者ではありませんので、かつての結核やハンセン病のように隔離されるべき人々でもありません。今日では、人権尊重の観点から、HIVの保菌者でさえ、人権は厚く擁護され、健康な人々と共に生活を送っています。ましてや、保菌者でもない未接種者が、基本的な自由や権利に制限を受ける正当な理由があるとは思えないのです。

 

このように考えますと、免許制度とワクチンパスポートは似て非なるものであり、前者を以って後者を正当化はできないのではないでしょうか。無理にでも同一視するとなりますと、政府には、国民に対して’生存の許可’、即ち、ワクチン接種の有無に基づいて’生存免許’を与える権限があるということになるのですが、何れの国の憲法にあっても、国民に対する生殺与奪の権とも言うべき同権限を政府に与えてはいないはずです。政府の重要な役割の一つは、全ての国民の基本的な自由や権利を護ることにありますのですから。ワクチンパスポートの問題は、図らずも日本国を含む自由主義国における政府による権力濫用、あるいは、統治責任の放棄の危機を国民に知らせているように思えるのです。


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感染症対策のイノベーションは人工無毒化・自滅化ウイルスの開発では?その2

2021年12月23日 10時02分27秒 | 国際政治

 感染症対策としての人工無毒化・自滅化ウイルスの散布は、ワクチン接種と比較しますと、(1)安全性のみならず、(2)迅速性、(3)低コスト、(4)経済活動の維持、(5)人権尊重の凡そ4点において優れているように思えます。言い換えますと、同技術が開発・実用化されれば、少なくとも一本鎖のRNAウイルスによる感染症の恐怖から人類は解放されるかもしれません。しかしながら、良いこと尽くめの利点がある一方で、幾つかの問題点があることも認めざるを得ない事実です。

 

 第1の問題点は、これらのウイルスの安全性です。遺伝子ワクチンにつきましても、当初にあっては安全性が強調されたものの、実際には、接種後の健康被害が多発しました(もっとも、健康被害は、一部の研究者によって予測されてもいた…)。この結果、ワクチンの接種拒否を招いたのですが、同ウイルスにつきましても、人体に対する安全性が確保されている必要があります(もっとも、今般の遺伝子ワクチンのように緊急性に鑑みて特例で使用が認められる可能性も…)。安全性を確かにするためには、ウイルス自体の毒性に関する十分な研究や分析を要するのですが、おそらく、遺伝子操作としては、感染力をマックスまで高めると同時に、毒性が確認された部分の塩基配列を切除する、あるいは、より無害な配列に置き換えるという方法が考えられます(新型コロナウイルスの場合は、むしろ遺伝子ワクチンで人工mRNAとして用いられながらも、その有害性が報告されているスパイク部分が対象となるのでは?)。この遺伝子操作は、安全性の証明を求める国民に対して全面的に公開されるべき情報とも言えましょう。

 

 第2に指摘すべきは、強制感染に関する国民の合意の問題です。ワクチンについては、今日、接種の義務化が取沙汰されていますが、人工無毒化・自滅化ウイルスの場合にも、自然感染とはいえ、ウイルスという名の異物が人体に入ります。自らの意思に反して人工ウイルスに感染してしまうのですから、ここに、本人の同意の問題が生じることとなりましょう。もちろん、多くの場合、人工ウイルスは人体の自然な免疫反応によって排除されてしまうものと推測されます。しかしながら、一部の人々にあっては、無症状、かつ、無害とはいえ、人工ウイルスの塩基配列が体内に残存してしまう可能性があります。有毒ウイルスの潜伏よりは遥かに’まし’なものの、遺伝子配列の残存リスクを含めて、同方法による感染症対策の実施に際しては、国民的なコンセンサスを形成しておく必要がありましょう。

 

 そして、第2の問題に関連して第3に挙げられるのが、同対策の実施に際して、誰がどのような手続きを経て決定するのか、という政治的な問題です。今般のコロナ禍にあっては、各国とも緊急事態宣言が発せられ、大統領や首相といった政府のトップが率先して指揮をとる方式が多々見受けられましたが、感染症対策の場合、政治家の決断に任せるトップダウン方式が必ずしも適しているとは限りません。人工無毒化・自滅化ウイルス(カウンターウイルス)の手法が、感染症対策のテクノロジーとして確立すれば、敢えて有事型の体制に切り替える必要もなくなることでしょう。そして、同方法の実用化に際しては、速やかなる対応を実現するべく、国民的な議論を経た上で、民主的な立法措置による法整備を行っておけば国民も安心することとなりましょう。例えば、実施の要件や手順などを予め法律として定め、公表しておくのです(人の支配ではなく法の支配…)。

 

 以上に人工無毒化・自滅化ウイルスの問題点について述べてきましたが、私は感染症対策の専門家ではありませんので、もしかしますと、まだまだ見落としている重大な問題点があるようにも思えます。医科学的な見地からは、一笑に付されてしまうかもしれません(お恥ずかしい限りです…)。とは申しますものの、ワクチンや治療薬の開発において出遅れているとの指摘がある日本国であるからこそ、これまでにない全く新しいアプローチを試みることで感染症対策の新境地を開く可能性もありましょう。ワクチンのみを唯一の救済手段として見なすよりも、人工無害化・自滅化ウイルスの他にも、先端技術を様々な形で活かすアイディアがあれば、より安全で低コストな対策方法が見つかるはずです(研究の現場からの政府への政策提言の道もあってもよいのでは…)。先端的な感染症対策の方法を打ち出してこそ、日本国は、人類に貢献したと言えるのではないでしょうか。


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感染症対策のイノベーションは人工無毒化・自滅化ウイルスの開発では?その1

2021年12月22日 11時18分53秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスの起源については、武漢に設置されていたレベル4のウイルス研究所からの流出説が信憑性の高い説として、今日に至るまで囁かれています。しかも、遺伝子操作により人為的に造られた人工ウイルスであった可能性も高く、コロナ化とは、今日の遺伝子工学の先端性をも明らかにすることとなったのです。その一方で、現代の高度な遺伝子工学は、遺伝子(核酸)ワクチンという新たなタイプのワクチンを登場させています。いわば、ウイルスとワクチンとの間のテクノロジーの応酬の観を呈しているのですが、今般のデルタ株の消滅とオミクロン株の出現は、感染症対策におけるイノベーションの可能性を示唆しているように思えます。新たな感染症対策とは、高い感染力、寄宿性、一本鎖いう新型コロナウイルスの特性を逆手にとった無毒化、並びに、自滅化ウイルスの開発です。

 

今般、全世界の関心を集めているオミクロン株については、感染性は極めて高いものの、その有毒性については従来株やデルタ株といった他の変異株より弱まっているとされています。このため、オミクロン株による他の株の’駆逐’は、むしろコロナ禍収束をもたらすのではないかと期待されているのです。このことは、感染性が最も高い変異株が、弱毒株よりさらに安全な無毒株、あるいは、増殖不能な自滅株であれば、人々を苦しめてきた疫病も終息する可能性を示しています。

 

 病気を引き起こす有毒なウイルスであっても、宿主を死に至らしめると自らも滅ぶため、自然に弱毒化するとされています。ウイルスが他者に寄生せざるを得ない存在である以上、宿主との共生がウイルスの当然な生存戦略なのでしょう。そして、現代の遺伝子工学のレベルからすれば、感染性の高い無毒化株を人工的に作成するのは可能なはずです(人の介入により無毒化のプロセスを早める…)。そして、宿主との共生が実現するのであれば、ウイルスも、もはや変異する必要性もなくなるのです(強毒化への逆もどりもない…)。自然であれ、人工であれ、無毒化ウイルスの登場は、疫病禍に終止符を打つ可能性を秘めています。

 

もう一つ、終息力が期待される人工ウイルスがあるとすれば、それは、「エラー・カタストロフの限界」に基づく自滅化ウイルスです。一本鎖のRNAウイルスには変異しやすいという特性がありますが、この特性は、同ウイルス最大の弱点ともなり得ます。何故ならば、修復機能を担うnsp14が欠損すると、変異のし過ぎで最早ウイルスは増殖することができなくなるからです。人工自滅化ウイルスのケースでは、有害ウイルスそのものの消滅によって疫病禍に幕が下ろされることとなります。

 

 ウイルスの人工無毒化・自滅化技術が確立すれば、それは、ワクチンよりも遥かに人体に対して安全であり、様々な点で優れています。全く以って無害である点が最大の優位点ですが、その他にも、ワクチンと比較しますと、以下のような利点があります。

 

 第1に、人工無毒化・自滅化ウイルスは、ワクチンよりも遥かに短期間で感染症の拡大を終息させることができます。ワクチンには、全人口に供給可能な数の生産、並びに、全国規模での接種体制を整えるために相当の時間と手間を要します。また、体内に投与された成分によって体内で抗体が生成されるまで、およそ2週間の期間を待たなければなりません。一方、感染力の強い人工無毒化・消滅化ウイルスの場合には、遺伝子ワクチンと同様に、遺伝子配列さえ判明していれば、即応可能ですし、その高い感染力によって、既存の有毒株を排除しながら瞬く間に全世界に広がることでしょう。

 

 第2のワクチンに対する優位点は、低コストであることです。全国民を対象としてワクチン接種を実施し、かつ、その体制を長期的に維持しようとすれば、莫大な予算を要します。とりわけ、遺伝子ワクチンであれ、不活化ワクチンであれ、ワクチンを製造し得る大手製薬メーカーを国内に持たない諸国は、常にワクチンを海外から輸入しなければならず、財政の圧迫のみならず、貿易収支の悪化原因ともなりましょう。人工無毒化・消滅化ウイルスであれば、最初の開発費、並びに、散布費のみを要するに過ぎず、後は、放っておいてもウイルス達が勝手に目的を達成してくれます。

 

 第3に挙げられる利点は、感染症の蔓延防止を目的とした規制措置を要さず、経済にマイナス影響を与えないところにあります。人と人との接触機会が多い方が人工無毒化・消滅化ウイルスは広がりやすくなりますので、今日規制を受けている観光や飲食店の利用、あるいは、イベントへの参加などは、逆に奨励されるかもしれません。ロックダウンも、当然に不要です。そのまま経済活動を維持できるのですから、‘命か、経済か’という究極の二者択一から逃れることもできます。

 

 そして、第4の利点とは、国民の基本的な自由や権利が害されない点です。先ずもって国民はワクチン接種義務化の恐怖から逃れられますし、ワクチンパスポートによって未接種者が社会から排除されたり、接種者が政府からデジタル監視される心配もなくなります。言い換えますと、政府が非常事態宣言を発して’準全体主義体制’を敷く必要性も消えるのです。

 

 以上に述べてきましたように、人工無害化ウイルス・消滅化ウイルスによる対応は、ワクチン接種よりも優っているように思えます(つづく)。


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緊急事態条項は感染症対策に拡大すべきなのか?

2021年12月21日 16時41分10秒 | 国際政治

 今般のコロナ禍により、憲法改正に際しての論点として緊急事態条項の感染症対策への適用拡大が急浮上することとなりました。同条項があれば、ロックダウンやワクチン接種の義務化といった諸外国が実施してきた強硬措置をより容易に取りやすくなることが期待されたからです。しかしながら、感染症の蔓延防止を目的とする緊急事態条項の活用は、望ましい対応なのでしょうか。

 

 今般のコロナ禍にあって、日本国政府は、憲法において非常事態条項は設けられていないものの、現行の法体制において合法的に非常事態宣言を行っております。マスクの着用やソーシャル・ディスタンスの維持といった行動規範、並びに、移動等の行動規制については義務化はされず、国民に対するお願いの形式を以って対処したのですが、今日、日本国のコロナ禍は、第6波の到来が懸念されつつも収束の兆しを見せております(オミクロン株が弱毒化株であれば怖れるに足りない…)。少なくとも日本国においては、憲法に緊急事態条項を欠く現状にあっても事足りたことを意味しております。現状から判断すれば、緊急事態条項を感染症対策に拡大する必要性は極めて低いのですが、その他にも、同条項の感染症への拡大には幾つかの問題点があるように思えます。

 

 第1に、非常事態条項が発動されますと、首相や大統領といった政治的トップに権力が集中することとなります。しかしながら、政治家が、感染症の最も有効な対策を考案できるわけではありません。その道の専門家ではないからです(この側面は、防衛戦争においても集権型にシフトするリスクを示している…)。

 

 第2に、未知の感染症の場合、そのウイルス等の病原体の有毒性や感染力等の特性については、それらが完全に解明されるまでには相当の時間を有します。あらゆる情報を入手し得る立場にあったとして、有効な対策を立案するための基礎となる情報やデータは直ぐに揃えることはできず、決定に誤りが生じる可能性は否定できません。菅前首相は、ワクチン接種の推進をはじめ、自らの決断を自画自賛しておりますが、日本国における感染率や重症化率の低さを考慮しますと、適切な判断であったのか疑問が残るところです。

 

 そして第2に関連して第3に問題となるのは、緊急事態を根拠として推進されるワクチンや治療薬についても未知の部分が多い点です。今般の遺伝子ワクチンも、当初にあって高い感染や重症化予防の効果が宣伝されていましたが、今では、長期的効果は疑問視されており、追加接種が必要とされています。また、接種後の健康被害も多数報告されており、日本国内でも、死亡者数が1300を越えています。中短期的な血栓の形成や心筋炎等の発症のみならず、将来的な健康被害についてもリスクが指摘されていますので、仮に、ワクチンに致命的な欠陥がある場合には、政府の即断は、自国民に対して取り返しのつかない被害を与えることとなりましょう。義務化ともなれば、国民は、危険なワクチンを強制接種させられる事態に直面しますので、これは、国民から自らの生命・身体に対する自由や権利を奪う、著しい人権侵害となりましょう。

 

 そして、第4として指摘される点は、感染症の蔓延防止を理由とした全体主義への移行リスクです。緊急事態宣言や非常事態宣言の発令は、程度の差こそあれ、国家体制の有事型への転換を意味しますが、これは、平時にあっても同体制が常態化してしまう危険性を伴います。仮に、感染症にまで適用対象を拡大するとしますと、全体主義への体制転換の機会、あるいは、口実が増えますので、国民にとりましては必ずしも歓迎すべきことではなくなります。今般も、ワクチンパスポートの導入にあってデジタル全体主義への移行が懸念されており(日本国内でも、既にワクチン接種アプリの運用が始まっている…)、このリスクは絵空事ではありません。ロックダウンも、戒厳令に近い意味合いを持ちかねないのです。

 

 以上に、緊急事態条項の発動を感染症に対しても認める場合に予測される主要な問題点を指摘してきましたが、感染症の蔓延防止には、国民の基本的な自由や権利を擁護しつつ、それにより相応しく、かつ、医科学的にも効果的な方法があるはずです。緊急事態条項の発令によって事態が悪化する可能性を考慮すれば、感染症対策ついては別の道を探るべきではないかと思うのです。


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緊急事態条項のもう一つの問題-’政府の方が悪い’場合

2021年12月20日 13時33分51秒 | 国際政治

 防衛戦争といった国家存亡の危機にあっては、緊急事態の発生を根拠とした有事型の体制への転換が必要とされるケースはないわけではありません。この観点からすれば、憲法に緊急事態条項を設けるべし、とする主張にも合理的な根拠があります。しかしながら、緊急事態条項については、もう一つ、考えてみるべき問題があります。それは、同条項の適用対象は、必ずしも防衛戦争とは限らない、という問題です。

 

 今般、憲法改正に際して緊急事態条項の導入が論点として急浮上してきた背景には、コロナ対策としてのロックダウン等の強制措置がありました。感染症を終息させるためには、行動や移動の自由を含め、個々人の基本的な自由や権利を制限する必要性が主張されたからです。感染症のみならず、大規模な地震や水害といった自然災害、並びに、人災においても私権制限を要するケースも想定され、緊急事態条項は、こうした’準有事’のケースに直面した際にも、政府が事態収拾のために速やかに行動し、組織的に対応する切り札とも目されているのです。

 

 かくして、緊急事態条項は、防衛戦争のみならず、他の国家的危機に対しても拡大適用される可能性が論じられるに至ったのですが、ここで一つ盲点となるのが、’体制の維持’を目的として緊急事態宣言、あるいは、非常事態宣言が発せられる可能性です。歴史を振り返りますと、国内にあって内乱や反乱、あるいは、革命といった事態が発生した場合、体制側となる政府が、これらの宣言を行うことがあるからです。

 

有事型が常態となっている全体主義国家にあっては、日常にあって私権は常に制限されていますので、とりたてて緊急事態や非常事態を宣言する必要はないのでしょうが、特に問題となるのは、民主主義体制の国家です。民主主義国家では、憲法において国民に参政権、並びに、政治的自由が保障されているため、暴力、並びに、選挙等の公の制度外の手段による国家転覆や政権奪取は、本来、想定されはいません。しかしながら、幾つかの場合には、民主主義国家にあっても、国内秩序が乱れる’緊急事態’や’非常事態’が発生する可能性はあります。こうした事態は、およそ二つのケースに分かれます。

 

 第1のケースは、国内にあって、民主的政体を暴力を以って別の体制に転換させようとする集団が現れ、実際に、その計画を実行に移した場合です。このケースでは、政府は、民主的国家体制を維持するために、武装した反体制組織を鎮圧する必要に迫られます。幸いにして、第二次世界大戦後の日本国においては、暴力で国家体制を転換させるような大規模な反乱は起きていませんが(もっとも、オウム真理教による地下鉄サリン事件は、小規模ながらも国権奪取を目的とした反乱としても理解される…)、破防法が制定され、今日にありましても、政府が、暴力革命を是としてきた共産主義勢力や過激派に対する警戒を緩めていないのも、この可能性が否定できないからです(この観点からすれば、今日の日本国政府による中国への接近は自己矛盾でもある…)。民主的選挙という平和的な手段がありながら、暴力を以って国権を奪うことは、政府が力を以ってしても防がなければならない国家、並びに、国民に対する大罪なのです。つまり、このケースは、民主的国家の正当防衛権として理解されましょう。

 

 その一方で、第1のケースとは逆のパターンもあります。それは、民主的体制を維持すべき政府が、自ら同体制を損なおうとしたり、破壊しようとしている場合です。民主的体制の国では、政治的自由が認められていますので、当然に、国民は、政府を自由に批判できますし、デモ行進もできれば、抗議集会を開くこともできます。そして、仮に、政府や議会が民主主義体制を否定する、あるいは、全体主義体制に移行を含意するような法案を制定したり、制度を導入したり、政策を実施するような事態が発生した場合、それは、国民にとりましては自由、並びに、民主主義の危機となりますので、当然に、反対の声や動きが全国に広がることとなりましょう(なお、国民の政府に対する不満に乗じて軍隊が体制の転換を図ろうとする場合、これはクーデタとなり、やはり、民主主義体制は危機を迎える…)。抗議活動も組織化されるとなりますと、危機感を覚えた政府は、緊急事態宣言、あるいは、非常事態宣言を発して国民の私権を制限し、同運動を暴力で弾圧、あるいは、鎮圧しないとも限らないのです。

 

 第2のケースでは、’政府の方が悪い’、つまり、政府自身が国家体制の破壊者ということになりましょう。憲法改正時における緊急事態条項の導入問題を論じるに際しては、国民が民主的国家体制を護ろうとして政府に対して抗議活動を行うケースがあり得ることを、十分に考慮すべきであるように思えます。そして、この問題は、今日の感染症対策を根拠とした緊急事態宣言の問題とも繋がってくるように思えるのです。


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現代にあって緊急事態条項は必要なのか?-国家体制の平時型から有事型へのシフト

2021年12月17日 13時11分50秒 | 日本政治

 今年6月11日における改正国民投票法の成立もあって、憲法改正を身近な問題として感じる国民が増えてきているように思えます。とりわけ、新型コロナウイルス感染症のパンデミック化に際し、憲法において非常事態宣言条項を有する諸国にあって、ロックダウンといった強硬策をとった国が少なくなくなかったことから、日本国内でも、憲法改正の論点として緊急事態条項の新設が取沙汰されるようにもなりました。そこで、本日の記事では、緊急事態条項について考えてみることとします。

 

 緊急事態宣言や非常事態宣言に法的な根拠を与える緊急事態条項、あるいは、非常事条項とは、主として戦時を想定して憲法において設けられてきたものです。戦争という非常時にあっては、国家の持てる資源を優先的に戦争に投じなくてはならず、特に防衛戦争では、全国国民の協力なくしては敗戦の憂き目を見ます。今日にあっても、武力や威嚇、あるいは、詐術で屈服させた国の独立性を奪い、異民族に対して残酷な民族浄化を行う中国のような国も存在していますので、古今東西を問わず、何れの国にあっても、防衛戦争での敗北は何としても避けなければならない事態です。

 

こうした国家の存亡、並びに、国民全員の死活問題となる局面では、しばしば国家体制を変える必要に迫られるケースが少なくありません。国民を含む国家全体を組織化し、迅速な上意下達が可能となる軍隊組織に近い指揮命令系統を敷く方が、戦争に勝利する、あるいは、防衛に成功する確率が上がるからです。このため、戦時にあっては、平時における国家体制を有事に適した体制へとシフトさせ、それに伴い、国民の基本的な自由や権利に対して一定の制約を課すことも珍しくはなかったのです。有事の体制とは、いわば‘全体主義体制’と言っても過言ではないのです。

 

例えば、共和制ローマの時代では、平時にあっては相互チェック(慎重な決定…)や幅広い意見集約などの観点から二人体制としてきたコンスル職(執政官)を、有事あっては一人の独裁官(ディクタトール)に委ねる制度がありました。先の大戦でも、枢軸国陣営、連合国陣営の違いを問わず、何れの国でも挙国一致体制が敷かれ、徴兵に加え、国家総動員法の制定により全国民は戦争への協力が義務化されています。そして、国家目的に沿った資源の戦略的な配分を実現するために、経済も厳しく統制化されたのです。文字として記録に残らずとも、平時と有事とでは異なる国家体制を採る知恵、あるいは、必要悪の是認は、人類普遍と言えるのかもしれません(因みに、帝政ローマとは、共和政時代の独裁官制度を平時にも永続化したスタイルとも言える…)。この側面からしますと、2010年に「国防動員法」を制定した中国の習近平体制は、戦時体制として理解されましょう。

 

 このように、人類史を振り返りますと、有事に際して、国民の自由や権利の制限、並びに、報国の義務化を伴う全体主義型の国家体制にシフトさせる事例は存在するのですが、憲法改正に同条項を加えるべきかの議論にあたっては、様々な観点からの慎重な考察と検討を要するように思えます。

 

 そもそも、現行の日本国憲法において緊急事態条項を設けていない主たる理由の一つは、憲法第9条にあるのかもしれません。日本国が戦争状態に至る事態を想定していないため、敢えて同条項を設ける根拠や理由がなかったのでしょう。しかしながら、今日、憲法第9条は、政府解釈を含め、正当防衛権としての自衛権までは放棄はしていないとする解釈が凡そ成立していますので、将来において防衛戦争がないとは言い切れません。可能性がある以上、同条項を設けるべきとする意見には一理はありましょう。

 

 その一方で、(1)現代という時代、あるいは、人類の経験知に照らして有事における体制転換は必要なのか、必要であるとすれば、(2)有事型の体制は一人の指導者に権力が集中する独裁型であるべきなのか(別のアイディアや仕組みがあっても良いのでは…)、(3)有事にあって国民の基本的な自由や権利の制限はどの程度まで許されるのか、(4)戦争以外の災害や感染症などにも対象を拡大してもよいのか、(5)発令に際してどのような要件や手続きを定めるべきか、(6)緊急事態宣言や非常事態宣言を民主的に制御する安全装置をどのように設けるのか(有事体制の平時化の防止と国民による解除の保障…)(7)有事体制に一定の期限を定めるべきか(共和制ローマでは1年間に限定…)…といった疑問が湧いてきます。

 

 憲法改正の議論にあって、緊急事態条項導入について論じることはやぶさかではないのですが、同条項が、事実上の全体主義体制への転換リスクをも含意するだけに、その今日における存在意義や現代的な危機管理の在り方、そして、国民の自由や権利を擁護するための細かな制度設計等を詰めることなく、曖昧のままに導入の方向に流されることだけは避けるべきように思えます。気が付いた時には、『1984年』の世界の住人にされていた、ということにもなりかねないのですから。


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’ガラパゴス’でも悪くないのでは?

2021年12月16日 13時59分19秒 | 国際経済

 グローバル化の時代にあって、日本経済が衰退した主たる原因の一つとしてしばしば指摘されているのが、’ガラパゴス化’です。このガラパゴス化という言葉、否定的なニュアンスを含むのですが、行き過ぎたグローバリズムを前にしますと、必ずしも悪いとは言い切れないように思えます。

 

ガラパゴス現象とは、『種の起源』の著者として知られるチャールズ・ダーウィンが、調査のためにガラパゴス諸島を訪れた際の観察に因んで命名されています。大陸から900㎞離れた東太平洋上にある同諸島は、他の種と隔絶されてきたため、独自の生態系を発展させていたからです。独自性は強いのですが、その分、外部からより凶暴で繁殖力のある生物が上陸すると、あっと言う間に淘汰されてしまう運命が待ち受けているのです。

 

もっとも、ガラパゴス化は、ガラパゴス諸島といった小さな孤島に限った現象ではなく、比較的大きな島嶼においても観察することができます。例えば、日本列島の生態系にあっても、アメリカ大陸からブラックバスやブルーギル等が上陸したことにより、日本古来の淡水魚が危機に瀕する事態となりました。琵琶湖では、アユ、ビワマス、ホンモロコ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナ、ビワヒガイ等の淡水魚がブラックバスの餌食となり、その生息数は激減してしまったそうです。外来種による従来種の駆逐の事例は枚挙に遑はなく、‘強者生存’も、生物界の宿命のようにも思えてきます(‘適者生存’では、環境に変化がない場合における、外来種が従来種を淘汰するケースについては説明できない…)。かくしてガラパゴス諸島での観察と未来予測はテクノロジー等にも応用され、孤立状態において進化してき技術や製品の生存危機を表す用語として広く使われるようになったのです。

 

しかしながら、生存競争に優る’強者’が、必ずしも’良いもの’とは限りません。巨大魚のブラックバスは、フィッシングを趣味とする人々にとりましてはエキサイティングな釣りを味わえる’良いもの’ではあっても、他の多くの人々は、鮎や本諸子、鱒に鮒といった従来種や固有種を愛でるのではないでしょうか。食材としておいしさのみならず、絵に描かれたり、詩歌に詠われたり、季語として使われるなど、日本の文化や日本の食生活に溶け込んできたのですから。海外から日本を訪れる人々も、外来種しか生息していない日本の湖水など、面白くも何ともないことでしょう。文化や生活の豊かさや奥行きの深さ、そして、人々の繊細な感覚を呼び起こし、感受性を育む環境は、強者が弱者を無慈悲に駆逐してしまう状況下においては成立し得ないのです。

 

外来種が生態系に与えるマイナス影響は、やがて人々に危機感を齎すこととなり、政府もまた、従来種や固有種の保護に取り組むと共に、外来種の規制に乗り出すに至ります。今日では、外来生物法が制定され、生態系に悪影響を与える外来種の飼育、運搬、売買、放流、そして輸入が禁じられたのです。このことは、野生生物であれ、完全に国境を越えた移動を自由化すれば、人為的な介入によってしか、生態系は保護され得ないことを示しています。否、生物の多様性の保護のためには、ガラパゴス状態を保つ方が望ましいと言えましょう。

 

以上に生態系におけるガラパゴス問題を見てきましたが、生物の世界と経済の世界とを同列に論じることはできませんが、今日の経済のグローバル化、あるいは、デジタル化の行く先には、どこを見回しても凶暴性と繁殖力のあるブラックバスやブルーギルしか生息しない世界が待っているような予感がします。そして、強者による独占や寡占化の末、もはや進化の余地のない行き詰まり、あるいは、人類文明が退化しまうようにも感じられるのです。こうした停滞した未来が予測し得るからこそ、敢えてガラパゴス化を目指すという方向性もあって然るべきように思えます。それは、真の意味での多様性の尊重であり、独自に発展した別系統のテクノロジーや知の系譜があればこそ、人類は、隘路から脱出、あるいは、これを事前に回避することができるかもしれないのですから。


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逆の’イマジン’が必要な時代?-誕生から50年後の逆転

2021年12月15日 14時41分13秒 | 国際政治

 報道によりますと、日本国の林芳正外相は、G7の外相会談の夕食会においてピアノの腕前を披露したそうです。同夕食会の会場が「ビートルズ・ストーリー博物館」であったためか、即興で弾いた曲はジョン・レノン作の「イマジン」であったと言います。外相の「イマジン」演奏に同席した各国外相たちは温かい拍手を送ったのですが、「イマジン」という選曲に、どこか漠然とした不安が過るのです。

 

同曲は、今夏の東京オリンピックの閉会式においても起用されており、世界的にもよく知られている曲です。平和を願い、戦争や憎悪が消えた世界を想像しようと訴える歌詞が、国際舞台やイベントにおいて相応しい曲として選ばれる理由なのでしょう。そして、人々を隔てる国境もまた、ユートピアが実現するために’消えるべきもの’の一つとされています。

 

「イマジン」は、人類の未来を見据え、ユートピアを目指して世界を一つにしようと呼びかけているのですが、同曲がリリースされたのは1971年のことです(1971年9月9日に録音…)。驚くべきことに、同曲が登場してから、既に50年の歳月が流れているのです。70年代とは、ヒッピー文化が世界を覆い、ベトナム戦争への批判から反戦運動も花盛りの時代でした。既存の権威や秩序、伝統文化、そして価値観を根本的に覆そうとする世界的な潮流にあって、ビートルズは時代の寵児であると共に、若者を’理想郷’へと誘う先導者の役割をも果たしていたのかもしれません。そして、グローバリズムが本格化しますのは、米ソ間の冷戦が終焉を迎えた1980年代末以降ですので、「イマジン」は、時代を先取りした曲であったとも言えましょう。

 

そして今日、「イマジン」誕生から50年が経ち、イマジンが描いていた’理想郷’は、ある意味において、半ば現実のものとなっています。世界は急速に’一つ’へと向かい、共産党一党独裁を維持した中国までも国際社会に加わり、グローバリズムの旗手を自認しています。そして、グローバリズムは、モノ、サービス、マネー、人、情報、テクノロジーの国境を越えた移動を自由にし、国境の壁を融解させ続けているのです。「イマジン」が広げた’国境は平和を実現するためには取り除くべき障害’とするイメージが、グローバリズムを心理面において強力に後押ししてきたことは言うまでもありません。

 

その反面、「イマジン」誕生から半世紀を経たからこそ、人類は、同曲が描いた世界が人類の理想郷ではないことを、実体験を通して気づき始めているように思えます。理想の状態が凡そ実現したはずなのに、人類は、決して対立や憎悪から解放されたわけでもなく、戦争の脅威にも晒され続けているのですから。そして、全ての個々の属性が消し去られた世界を理想郷と見なす政府やメディアの宣伝や圧力は、ポリティカル・コレクトネスや’多様性の尊重’という名の画一化の押し付けなど、ますます人々が生きる社会を息苦しくし、個人の自由やプライバシーの範囲を狭め、全体主義へと向かう危険性をもたらしているように見えます。国境がなくなれば、米中のIT大手が各国の市場で自由に事業を展開もすれば、中国といった人口大国や途上国からの移民も際限なく流入もするのです。加えて、国境を越えたシステマティックなデジタル化が進み、また、近未来型のハイブリッドな戦争形態(超限戦など…)が想定されている現状にあっては、一般の人々までが日常にあって外部からの監視やコントロールを受け、基本的な自由や権利が侵害されるリスクに直面する状況に置かれかねないのです。

 

「イマジン」から50年を経た今日、真に理想の世界として想像してみるべきは、イマジンの描く’理想郷’とは逆の「国境のある世界」なのかもしれません。50年前とは、視点が逆転しているのです。そして、50年前をイメージしてそれを理想郷と見なし、この時代への回帰を目指すわけではないにせよ、民主主義の成立要件にも深く関わるがゆえにこそ、今日、内外の調整を担う国境機能を肯定的に再評価すべき時期に至っているように思えるのです。


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日本国も‘双子の赤字国’になるのか―戦略の練り直しを

2021年12月14日 20時06分45秒 | 国際政治

 アメリカは、財政赤字と貿易赤字の二つの赤字を抱える‘双子の赤字国’と称されてきました。歴代政権は、何としてもこの状態を解消しようとして、歳出削減や貿易不均衡の是正に取り組んできたのですが、これまでのところ、両者とも解消に成功したとは言い難い状況にあります。そして、今日、高度成長期以来、貿易黒字国としての地位を築いてきた日本国もまた、‘双子の赤字国’に転落する危機に直面しております。

 

 貿易統計によりますと、日本国の貿易収支は、年々赤字傾向が強まっているそうです。特に今年はコロナ禍ということもあり、ワクチンの輸入に起因する赤字も積み増しており、赤字幅が広がっています。日本企業は、製造業をはじめ製薬分野などにおいても輸出の減少が見られ、頼みの自動車産業もEV化によってシェアを失えば、輸出産業が総崩れとなる恐れもあります。規模の経済、並びに、デジタル化が優勝劣敗を決するグローバル化は、日本企業の輸出競争力を大幅に削ぐ形で進行してきたと言えましょう。

 

 このため、巨額の外貨準備を積み上げてきたとはいえ、貿易赤字の長期化は、徐々に日本国の‘体力’を蝕むことが予測されます。未だに世界有数の債権国でもありますので、即、デフォルト危機というわけではないのでしょうが、日本国政府の‘未来志向’の政策方針からしますと、脱炭素に伴う太陽光パネルや風力発電施設の大量輸入、デジタル化に伴う米中両国のIT大手への使用料や特許料等の支払い、先述したワクチンを含む先端医薬品の輸入などなど、何れも国際収支のさらなる悪化が予測されるものばかりです。

 

一方、‘双子の赤い字’が常態化してきたものの、アメリカは、何と申しましても米ドルが国際基軸通貨の地位にありますので、貿易決済に窮してデフォルト危機に陥る可能性はまずあり得ません(現状では、人民元が米ドルにとって代わる可能性はそれほど高くはない…)。加えて、トランプ政権以来、アメリカ政府は、財政赤字を減らすべく米軍の駐留費の削減などにも取り組みつつ、貿易赤字の解消策として‘バイ・アメリカン政策’や対中貿易の見直しをも遂行しています。また、デジタル化を促進し、世界規模でプラットフォームを構築し得るグローバル企業としてのIT大手を育てることで、‘稼ぎ頭’をも得ています。

 

アメリカでさえ、‘双子の赤字’解消に手を尽くしているのですから、日本国も、為すに任せる、というわけにはいかないはずです。もっとも、日本国が、アメリカよりも遥かに苦しい立場にあることは言うまでもありません。日本円は、米ドルほどの実力はありませんので、将来的には通貨危機に見舞われないとも限りませんし、米中のグローバルIT企業に匹敵する企業は見当たりません。政府もメディアも、グローバル化とデジタル化を、スピード感を以ってより強力に推進すれば、日本国は再び成長軌道に乗れると主張しています。しかしながら、先述したように、両者を実現しようとすればするほどに、貿易赤字が拡大してしまう可能性の方が高いのではないでしょうか。

 

このように考えますと、日本国は、グローバリズムとデジタル化の波に飲み込まれる前にここで一旦立ち止まり、戦略を練り直す必要があるように思えます。貿易赤字を永久に続けることはできないのですから。


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ワクチン義務化への抵抗は国民の正当防衛では?

2021年12月13日 15時07分19秒 | 国際政治

 コロナ禍の猛威に晒された諸外国では、重症化、並びに、死亡率が日本国よりも格段に高いこともあって、ワクチン接種を義務化する政府も出現するようになりました。その一方で、接種義務化に対する国民の抵抗も強く、各地で義務化反対の大規模なデモが起きているそうです。それでは、この反対デモ、政府が暴徒として’鎮圧’すべき類のものなのでしょうか。

 

 ワクチンと治療薬との違いは、前者は健康な人に対する予防行為である一方で、後者は、特定の病気の人を対象とした治療行為というところにあります。新たに開発されたワクチンがなかなか保健当局から承認されない理由も、投与対象が健康な人である故に、一つ間違えますと’殺人’になりかねないからとされています(不特定多数を対象としますので、被害も広範に…)。治療薬の場合には、出発点がそもそもマイナス状態にありますので、新薬投与によってマイナス方向に作用するリスクがあっても許容されますが、ワクチンの場合には、初期状態がプラスの範囲にありますので、僅かでもマイナス効果が出ますと’他害’となってしまうのです。ワクチンと治療薬では、対象の相違により、承認までのハードルの高さに違いがあるのです。

 

 今般の新型コロナウイルス感染症のワクチンについては、アメリカの保健当局が緊急使用を認める形で接種が始まり、WHOの後押しもあって、この動きはあれよあれよという間に全世界の諸国に広がることとなりました。比較的’軽症’であった日本国でさえ、政府が接種プロジェクトを推進し、統計上では全人口の80%以上が既に二回接種を終えています。しかしながら、追加接種が始まる一方で、ワクチン接種後の死亡者数は日本国内でも1300人を既に越えており、ワクチンの安全性が確認されているわけではありません。死亡に至らなくとも、心筋炎や心膜炎の発症率の上昇のみならず、様々な深刻なワクチン接種後の症状が報告されており、ワクチン接種による健康被害は無視できない状況にあると言えましょう。

 

 こうしたワクチン接種により人々の命や身体が害されるリスクが認められるケースでは、接種の義務化については慎重であるべきは当然のことのように思われます。そして、ここに、政府が国民を命の危険に晒すのは許されるのか、仮にそれを正当化する要件があるとすればそれは何か、そして、政府によるワクチン義務化に対する抗議や拒絶は正当防衛に当たるのか、といった様々な問題が提起されることとなるのです。

 

 政府の基本的な役割の一つは、国民の生命や身体を護ることにありますので、有害性が認められるワクチン接種の義務化は、本末転倒となりかねません。しかも、これまでの関連情報や報告によりますと、新型コロナウイルスの場合には、ワクチンを接種しても感染もすれば、他者を感染させもします。半年ほどの間は重症化防止の効果は認められるものの、「ブレークスルー感染」もあり得ますので、生涯に亘って定期的に有害性のあるワクチン接種しなければならなくなります。こうしたワクチン効果の限界、並びに、問題点を考慮しますと、政府が、国民の命や健康を危険に晒す、あるいは、犠牲にしてまでワクチン接種を義務化する正当な根拠があるとは思えません。況してや、日本国における感染率は1.37%程度であり、重症化率は感染者を100とすればその1.6%、死亡率は1.0%に過ぎないのです。オミクロン株が弱体化されたものであれば、日本国のみならず、全ての諸国においてワクチン義務化は無意味となりましょう(しかも、治療薬や治療法の改善により、感染者の重症化率も死亡率も低下している…)。

 

あらゆる角度から見ましても、死亡リスクを有するワクチン接種の政府による義務化が正当化できないとなりますと、それは同時に、ワクチン接種を拒否する行為は、国民による正当防衛権の行使を意味しましょう。そして、正当性や必要性に関する然したる国民的な議論もなく、自由主義国の政府までもが接種の義務化を急いでいる現状は、しばしば自国民をも犠牲に供する全体主義に染まりつつあるようにも見えてきます。何れの政府も、国民の基本的な権利としての正当防衛権を尊重すべきであり(接種拒否も反対デモも認める…)、ワクチン接種の義務化路線は放棄すべきではないかと思うのです。


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