万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

選挙に際して選択に悩む国民の対処方法とは?-白紙委任を防ぐ方法

2021年10月29日 13時28分02秒 | その他

 衆議院選挙を間近に控え、各候補者とも街頭にあって有権者に向けて自らへの支持を訴えております。しかしながら、背後における外部勢力による二頭作戦もあって、年々、政党間の対立軸は薄れており、有権者の迷いは深まる一方のように思えます。どの政党に一票を投じたとしても、各政党の公約に同勢力が実現を望んでいる政策が散りばめられているため、結局は、特定の方向に誘導されてしまうからです。保守政党を選んでもいつの間にか左傾化し、与党への批判票としてリベラル政党に投票しても、かつての民主党政権の二の舞になりそうなのです。

 

 かくして、自らの自由な政治的意思表示の手段として選挙権を有してはいても、手に投票用紙を握りしめたまま立ち尽くす国民も少なくはないのですが、投票率の低さによっても示唆される国民が特定の政党を選択できない状況について、これまで真剣に議論されてきたことはなかったように思えます。そもそも、二大政党制を含む多党制こそ民主主義の証とされてきましたので、多党制そのものが国民の自由な政治的選択の制約要因となる事態は想定されていなかったからです。実際に、今般の選挙にありましても、メディアは、投票率が低いと若者層をターゲットとした’投票に行こう’キャンペーンを張っています。しかしながら、現状を見ますと、’選べない民主主義’の問題は、深刻なように思えます。

 

 国民の多くが積極的に特定の政党を選択できない状況下にあって、投票率のみが上昇するとしますと、如何なる政権が成立しようとも、同政権は、国民からの負託を強調することとなりましょう。つまり、政権への’白紙委任’となりかねないのです。’白紙委任’の状態とは、国民世論を無視した与党による独断専行政治、あるいは、外部勢力が策定したアジェンダの代理執行ということになりますので、国民の側としては、何としても反対論が提起されうる余地を残し、国民に不利益を与える計画の実現を阻止する道を確保したいところです。しかしながら、政党間に隠れた’談合’が成立している、あるいは、’影の振付師’が存在する中、国民の意見を汲んだ自由闊達な議論を実現するのは至難の業です。そこで、100%の効果は期待できないものの、以下のような方策が考えられましょう。

 

 第1の方策は、以前の記事にあって本ブログで提案したのですが、棄権や無記名投票に積極的な意味を持たせることです。つまり、投票率、並びに、白票の数を、国民による全ての政党を含めた政界全体、あるいは、現政治システムに対する反対票、あるいは、批判票と見なすのです。従来、これらの数字は、’白紙委任’として解釈されてきました。棄権や無記名投票は、選挙結果に対する無条件の承認であると…。しかしながら、投票制度の仕組みからしますと、棄権や無記名投票は、選択の不可能性、あるいは、投票そのものに対する抗議の意思表示の手段として設けられているケースも少なくありません。前者と後者には区別があり、前者にあっては、棄権者は投票結果に従う義務がありますが、後者については、棄権者は、他の投票者の行動を妨げないまでも、必ずしも多数決の結果に従う義務を負わないのです。棄権や白票を批判票として解釈しますと、議会選挙の場合には、たとえ議会の議席の過半数を制した政権、あるいは、連立政権であっても、もはや国民が’白紙委任’に合意したとは主張できず、常に、国民からの’消極的な反対’を考慮せざる得なくなりましょう。

 

 第2の方法は、与党勢力と野党勢力の議席数を凡そ拮抗させることです。野党側の議席数が与党側のそれに近い場合、与党側は、十分な議論を経ずして強行採決といった強引な方法を取り難くなります。与党側にあっても一部の議員に’寝返り’があれば、簡単に形成が逆転してしますのでリスク含みとなります。また、国民も活発な議論を期待するでしょうから、このケースでも、与党勢力による専横は抑止されましょう。もっとも、今日のような与野党結託の状況下にあっては、ポーズとしての議論はあっても、実質的な効果は限定されているかもしれません。また、投票行動とは個人の自由意思に基づきますので、個々人が、予め与野党の議席数を拮抗させるように投票することは極めて困難であるという問題もありましょう。

 

 そして、第3の方法は、現行の制度では憲法改正時に限定されている国民投票制度を、より一般的な法案等にも拡充させることです。全ての法案ではないにせよ、全国民に直接に関わるような事案については、国民が判断するのです。同制度では、国民自らが直接に決定権を行使しますので、たとえ政治サイドが望んでいたとしても、自らに不利益となる法案が成立する可能性は著しく低下します。そして、同制度が民主主義という価値を体現していても、国民投票制度の導入を公約に掲げている政党が殆ど皆無である現状は、多党制における隠れた’談合’を強く示唆しているのかもしれません。

 

 以上に3つほど主要な方法について述べてきましたが、何れも難はありましょう。しかしながら、必ずしも’政治を良くしてゆくこと=投票すること’ではない点については、十分に注意を払うべきように思えます。そして、最も実現性の高い第1の方法、すなわち、国民の政治批判の意思表示については、国民のコンセンサスとすべきですし、国民の投票という行為がより細やかに、かつ、正確に民意を表明する手段となるよう、制度的工夫を凝らすべきではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政治家のワクチン証明書利用賛成は何を意味するのか?

2021年10月28日 13時24分48秒 | 国際政治

 ワクチン証明書の利用に関して、衆議院選挙における立候補者を対象としたアンケート調査が、読売新聞社によって実施されたそうです(’ワクチン・パスポート’という表現は避けられているかもしれない…)。国民の中から無作為に回答者を抽出する世論調査ではなく、全立候補者1052人を対象に行われ、内982人から回答を得ておりますので、調査結果の信頼性は相当に高いものと推察されます。同調査の結果によりますと、全体の62%が賛成し、反対は36%に留まるそうなのですが、この調査結果は、何を意味しているのでしょうか。

 

 まず挙げられる点は、今後、ワクチン証明書の利用に関する法案が国会に提出された場合、同法案がすんなりと可決成立する可能性が極めて高いことです。何故ならば、野党勢力の中核を成す立憲民主党にあって47%が、国民民主党でも78%が賛成と回答しているからです。もっとも、仮に、ワクチン接種証明が法制化されずに済む可能性があるとすれば、それは、選挙の結果として政権交代が起き、立憲民主党と共産党による連理政権が成立する場合です。立憲民主党の52%が反対しており、共産党に至っては98%というほぼ全候補者が反対と回答しているからです。このことは、国民がワクチン証明書という全体主義的な制度の導入を回避し、自由を享受するためには(ワクチン証明書のシステムはワクチン接種者をも追跡して監視する…)、共産党を含む全体主義的傾向の強い政党を選択しなければならないという、前代未聞の矛盾に直面することを意味します(もっとも、日本国の政党は、’オール全体主義’かもしれません…)。

 

 そして、立候補者の62%がワクチン証明書の利用を支持しているとしますと、政治家としての資質に疑問も湧いてきます。そもそも、ワクチンを接種していても自らが感染すれば、他者をも感染させます。このため、今では、重症化防止の効果のみが主張されていますが、仮に、重症化防止効果が実際にあるならば、ワクチン証明書の導入によって得られる公衆衛生上のメリットとは、何なのでしょうか。

 

奇妙なことに、同制度のメリットとは、そのイメージとは逆に、感染ルートの遮断によるワクチン未接種者の人々の重症化リスクの強制排除ということになりましょう(有難迷惑…)。政府やメディアの説明が正しければ、現状あって、重症化リスクに晒されているのは、感染者ではないワクチン未接種者のみです。ワクチン接種者は、ワクチン効果によって重症化は免れますので、同制度の有無は自らの命や健康には関係ないのです。そして、ワクチン未接種者の人々が、自己責任として重症化リスクを受け入れるならば、ワクチン証明書制度の必要性は失われましょう(未接種者の大半は重症リスクを覚悟して決断している…)。

 

しかも、今日、全国民の凡そ7割がワクチンを接種したと報じられています。当初、説明されていたように集団免疫が成立するならば、3割ほどの未接種者が存在していてもコロナ禍は自然に終息したはずです。この側面からも、ワクチン証明書導入の根拠は薄いのですが、今日、同制度の導入を求めている政治家の人々は、過去の説明を忘れてしまっているようなのです。

 

また、ワクチンの効果は接種から時間が経過するについて低減してゆきますので(獲得免疫がどれほど働くのか分からない…)、ワクチン証明制度の導入は、証明書を保持し続けるためには、ワクチンを接種し続けなければならないことを意味します(それとも、ワクチン証明書は、発行から数か月で無効となる証明書なのでしょうか)。ワクチンリスクについては医科学的な根拠に基づく指摘が多々あることに加えて、同一の抗原を用いた遺伝子ワクチンは、接種回数を重ねる度に死亡率が高まるとされていますの(免疫老化の加速もあり得るのでは…)。このため、変異株の出現による可能性を含めて、三度目以降の追加接種については、既に摂取した国民の多くも不安や空恐ろしさを感じていることでしょう。このことから、ワクチン証明制度は、むしろ国民を命の危険にさらしかねないのです。

 

真偽不明の情報とはいえ、政治家のワクチン接種率は低いとの指摘もあるのですが、ワクチン証明の利用に賛成した立候補者の方々は、同制度に見られる非合理性やリスクに気が付かないのでしょうか(政治家であれば、見えないリスクや水面下の思惑や利権に敏感であるべきでは…)。あるいは、自らワクチンについて十分な調査を行い、あらゆる情報を収集するという作業を怠っているのでしょうか。政治家であれば、たとえ自らの政治信条や政策方針と相いれないものであっても、国民の命と健康を護るという政治家としての使命に鑑みれば、マイナス情報をも政策立案や政策判断に際しての基礎情報に含めるはずです。

 

ワクチン証明書制度の導入の真の目的は、全国民のワクチン接種の実現によるデジタル国民監視体制(全体主義体制)の構築とも囁かれていますが、今般のアンケート調査は、日本国の政治家が、自らで行動し、自らで考えて政策判断を行っているのではなく、組織の決定に従っているに過ぎない存在であることを示唆しているのかもしれません(支離滅裂で合理性の欠如した政策を熟慮なく支持しているように見える…)。ワクチン証明制度が全体主義体制に向けて社会を一変させてしまうリスクがあるだけに、主権者である国民こそ、政治に対して説明責任の根幹となる合理性を強く求めるべきではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あまりに意地悪な’ワクチン未接種証明’のアイディア

2021年10月27日 12時33分49秒 | 国際政治

 衆議院選挙を前にして、若者の投票率を上げるべく、メディアでも様々な戦略を試みているようです。その一つが、政治家のイメージアップのようなのですが、同趣旨で報じられたNHKのニュース番組の中で、若者の一人が、インタヴューへの返答として’これまで政治家には意地悪というイメージがあった’と述べているシーンが報じられていました。若者層は、政治に無関心なように見えて、その実、政治家、あるいは、政策立案者をよく観察していたのかもしれず、’意地悪さ’を感じ取っていたからこそ、本能的に忌避、あるいは、敬遠していたのかもしれません。

 

 そして、最近、’意地悪政治家’のイメージをさらに深める記事をネット上で発見することとなりました(もっとも、政治家自身のアイディアではないのかもしれない…)。それは、ワクチン・パスポートが未接種者の’差別’にならないよう、非接種者にも証明書を発行すべき、というものです。国民の中には、ワクチンを打ちたくても疾患やアレルギー等の理由により打てない人もいるのだから、証明書を発行してこれらの人々を差別から保護しようというものです。しかしながら、この案、あまりにも意地悪であると思うのです。

 

 第1の意地悪さは、未接種証明の発行対象が’打ちたくても打てない人’に限定されている点です。この結果、ワクチン・リスクを考慮して自発的にワクチンの非接種を選択している人々は、同制度から排除されます。言い換えますと、未接種証明制度が始まりますと、非自発的未接種者と自発的未接種者とが明確に区別され、前者に対する差別は解消されたとしても、後者に対してはより深刻な差別が生じることとなりましょう。同制度の立案者が目指しているのは、自らでマイナス情報をも収集し、同調圧力に流されることなく自由な意思を以ってワクチン接種をしないと決めた人々です。しかも、ワクチン接種は法律によって義務化されているわけではありませんので、違法行為を行っているわけでもありません。この非自発的未接種者と自発的接種者の’より分け’こそ、差別の解消という美名のもとで後者を炙り出すという意味において意地悪なのです。

 

 第2の意地悪さは、自らの手を下すことなく、国民に’汚れ役’をさせるところにあります。立法措置を経たワクチン接種の義務化といったポジティブな手法では、政治・行政サイドが、直接に自発的未接種者に対して強制力を行使することとなりますので、国民から強い反発を受ける可能性があります。その一方で、ワクチン接種者と非自発的未接種者のみに証明書を与えるというネガティブな手法ですと、事業者を含む国民の多くが、周囲の誰が自発的非接種者であるのかを自ずと知ると共に、これまで共に働き、共に学んでいた人々が社会から静かに姿を消してゆきます。そして、証明書を有する側の国民の多くは、これを’自業自得’のことと見なし、自発的非接種者に対して’消えるべき人々’として石を投げるかもしれません。普通の人々が、自由意思で選択を行った自発的非接種者を反社会的人物と見なし、率先して迫害している光景を、意地悪な発案者は嬉しそうに上から眺めているかもしれないのです。

 

 そして、第3の意地悪さは、「ワクチン・パスポート」のシステムにあっては、未接種証明書が公布されたとしても、非自発的未接種者にとっては無意味である点です。何故ならば、「ワクチン・パスポート」とは、経済活動や日常生活の正常化のために、感染リスクの低いワクチン接種者のみに限ってこれらを許すことを目的としています。つまり、未接種証明書を取得して提示しても、お店を利用したり、イベントに参加するといった行動は許されないのです。仮にこれらの制限が撤廃されるとしますと、「ワクチン・パスポート」の制度の根幹は崩壊せざるを得なくなります(誰もがその’意地悪さ’に気が付く…)。

 

 それでは、’意地悪’とは何か、という問題について考えてみますと、おそらく、そこには利己的他害性という悪の本質が存在しているのでしょう。若者のみならず、国民の多くが政治家から狡猾な意地悪さを敏感に感じ取っているとしますと、その背景には、国民のためと唱えながら、実際には自らの利益のために活動している政治家、あるいは、政策立案者の姿があるのかもしれません。そして、ワクチン接種を推進すべく、メディアと結託しながら繰り出されてくる政治サイドの意地悪なアイディアは、国民の政治に対する不信をさらに深めているように思えるのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇室・王室問題-’時代に合わせよ’の要求の行方

2021年10月26日 15時37分23秒 | 日本政治

 皇族や王族の婚姻は、現代の国家における世襲制度の難しさを余すところなく表しているように思えます。世襲制度にあっては、国民が望むような人物が必ずしも公的ポストに就くわけでもなく、また、国民の期待に応えて模範的に行動するわけでもないからです。そして、今日、皇族・王族と国民との関係は、極めて難しい局面に差し掛かっているように思えます。

 

 近代に到るまでの両者の関係史を振り返りますと、凡そ3つのパターンに分けられるのではないかと思います。第1のパターンは、両者ともに厳しい制限を受けるという形態です。このパターンでは、皇族や王族は、厳格な環境の下で帝王学やマナーの習得が義務付けられ、婚姻も含め個人的な自由については厳しい制約を受ける一方、国民の側も、皇族や王族との婚姻は望むべくもなく、皇族や王族を自らとは住む世界の違う雲の上の人として崇めるという関係となります。第二のパターンは、皇族や王族には個人的な自由が無制限に認められる一方で、国民の側は、これらの人々に対する批判さえ口にできず、言論の自由をはじめ、様々な自由や権利が制約を受けるというものです。暴君と称されるのは同パターンであり、国家というものは皇族や王族に凡そ私物化され、国民は、ひたすらに忍耐を強いられるのみとなります。

 

 そして、生殺与奪の権を握った暴君によって国民の基本的な自由や権利が侵害されるリスクから脱するために近代に至り登場してくるのが、第3のパターンです。それは、立憲主義としても理解されますが、君主、並びに、その家族が暴君化しないよう、憲法や法律を以ってこれらの人々に制約を課す一方で、国民の基本的な自由や権利もまた、憲法や法律の下で保障されるというものです(立憲君主制)。人類史の流れを見ますと、国民の自由の範囲が広がるのと反比例するかのように皇族や王族のそれには法という枠が設けられ、そしてそれは、民主主義の定着と軌を一にしているのです。

 

 以上に述べましたように、近代までの皇族・王族と国民との関係には3つのパターンがあるとしますと、今日の時代状況は、これらの何れの類型にも当てはまらないように思えます。そもそも、現代の国家にあっては、君主の大半は統治権を有してはおらず、国民を纏める象徴、あるいは、権威としてのみ存在しています。ましてや君主ではない皇族や王族ともなりますと、その存在意義はさらに見出し難くなります。その一方で、皇族や王族にも国民と等しく基本的な自由や人権を認めるべきとする立場の声は強まる一方であり、第3のパターンは、もはや時代遅れ、あるいは、時代錯誤と批判されるのです。

 

メディアをはじめ、皇族・王族にも自由を求める人々は、国民の側に変わるように求める、つまり、皇族や王族の自由を認めるように要求するようになります。しかしながら、この方向性は、一つ間違えますと暴君型の第2のパターンに逆戻りしてしまいます。国民からの批判は許されず、皇族・王族のみが自由気ままに振舞うという…。一方、既に皇族や王族が婚姻の自由を享受している以上、第1のパターンへの回帰も困難です。第1のパターンは、皇族や王族のみならず、国民の基本的な自由や権利に制約を課しますので、国民の側も同パターンの復活を歓迎するとは思えません。そこで、4番目のパターンがあるとすれば、皇族・王族、並びに、国民の両者に自由を認めるということになるのですが、このパターンは成立するのでしょうか。

 

実のところ、第4のパターンが成立し、皇族や王族に対して無制限な自由を認めれば(もちろん、自発的に皇族を止める自由もある…)、国民にも、公的な存在としての皇室や王室を支えることを止める自由を認めざるを得なくなります。メディア等が主張している’時代に合わせよ’という国民に対する要求は、皇室や王室にとりましては、自らの自己否定を帰結するということにもなりましょう。今般の秋篠宮家の婚姻問題は、未来に向けて皇族や王族の存在について基本に立ち返って考える機会となるのではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛知県の若者向け’ワクチン接種で食事券1万円イベント’の問題

2021年10月25日 10時54分03秒 | 日本政治

 愛知県では、11月30日を期限として、今月末までに2回のワクチン接種を終えた満20歳から39歳までの県民を対象として、1万円の食事券が当たるというイベントを実施しております。既に申し込んでいる若者の数は10万人を数え、当選者は2万人を予定しているそうです。しかしながら、このイベントには、以下の諸問題があるように思えます。

 

 第1の問題点は、言わずもがな、特に若者層におけるワクチン・リスクが表面化してきている点です。遺伝子ワクチンについては、早い段階から心筋炎や心膜炎の発症が指摘されてきましたが、政府もマスコミも’デマ’扱い、あるいは、無視を決め込んでいました。しかしながら、スウェーデンやデンマークといった北欧諸国の政府は同リスクを公式に認め、より発症率が高いとされるモデルナ社のワクチン接種を禁止する措置を採っています。日本国にありましても、今月の15日に至り、厚労省が「新型コロナワクチンを接種した後、心筋炎・心膜炎の発症事例が報告されている」とする注意喚起を行っています。国内にあって多くの若者層が接種しているのはモデルナ製ですので、同情報を知っていれば(当然に伝わっているはず…)、ワクチン・リスクを考慮して若者層を対象とした接種推進キャンペーンは、むしろ中止としてもよいはずなのです。同イベントには、県民の生命や健康軽視の姿勢が窺えるのです。

 

第1の問題点に関連して第2に挙げられるのは、ワクチン接種という命や健康に関わる重大な決断に際して、公的機関が、1万円の食事券という利益で釣っても良いのか、という問題です。仮に、現状にあって新型コロナウイルス感染症の重症化率や致死率が極めて高く、かつ、ワクチンに宣伝されているような効果があれば、然したる特典を設けなくとも、多くの人々が自発的にワクチンを接種するはずです。そもそも、感染や重症化の防止といった本来の目的とは何ら関係のない食事券という特典を以って、ワクチンを接種する動機を人為的に造り出そうとする地方自治体の不可解な態度こそ、怪しまれて然るべきです。

 

 第3の問題点は、同イベントが、公平性を欠いている点です。1万円の食事券は全ての飲食店で使用できるわけではなく、「あいスタ認証店」に限定されています。「あいスタ認証店」とは、愛知県が、徹底した感染対策を実施しているお店として公式に認証した飲食店です。言い換えますと、同イベントは、県の予算の下でワクチン接種者と「あいスタ認証店」の両者に対してのみ特別の便宜を図るイベントであると言えましょう。そしてそれは、ワクチン・リスクへの警戒や体質などでワクチンを受けることができない非接種者、並びに、基準を満たすための設備投資等の負担が重いといった理由で「あいスタ認証店」となれない飲食店を排除することを意味します。深刻なワクチン・リスクのみならず、その効果の継続性等についても疑問が持たれている今日、ワクチン接種の推進が、こうした利益誘導型の政策を正当化できるのかどうか、全く以って疑わしいのです。

 

 以上の諸点は主催者側に関する問題点ですが、第4番目に問題点を挙げるとすれば、それは、同イベントに応募した10万人の若者、あるいは、これから接種して応募しようとしている若者たちの認識です。政府やマスメディアは、’極めて稀な’を枕詞としていますが、それでも、ワクチン接種によって命を失ったり、一生涯に亘る後遺症が残るケースがあります。特に若者のワクチン接種については、デメリットがメリットを上回るとされており、本来であれば、同世代は、ワクチン接種には慎重なはずなのです(マイナス情報も入手しやすいスマホ世代の若者の方が情弱という不思議…)。にもかかわらず、仮に、10万人も応募していたとしましたならば、他府県の若者に対する同調圧力の演出なのかもしれません。

 

 ワクチン接種者と指定飲食店との対関係からしますと、愛知県が考案した同イベントは、「ワクチン・パスポート」の全面的な導入に向けた’実証実験’の一環であるのかもしれません。そして、それは、「ワクチン・パスポート」の導入の目的として、ワクチンメーカーなどとは別の次元における官製の’ワクチン・ビジネス’なるものが準備されている可能性をも示唆しています(もっとも、独占禁止法等の違反行為となる可能性も…)。国民にあっては同制度の導入に反対の声も強く、愛知県の試みを検証することは、同制度のリスクや問題点を明らかにする作業ともなるのではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヘン戦争と明治維新-世界戦略の問題

2021年10月22日 12時36分32秒 | 国際政治

 日本国の明治維新は、1840年6月に始まるアヘン戦争の凡そ30年後に起きています。凡そ30年の隔たりがあるため、両者の関係は、イギリスの’帝国主義’が幕末の動乱の契機をもたらしたとする見解はあっても、明治維新は、あくまでも維新の志士達が日本国の植民地化を防ぐために独自に成し遂げた偉業として語られてきました。しかしながら、明治維新とは、イギリス、あるいは、それを背後から動かした勢力による’世界戦略’の理解を抜きにしては真の姿を知ることはできないのではないかと思うのです。

 

 19世紀とは、イギリス、あるいは、世界勢力が積極的にアジアへの進出を図った時期に当たり、長崎港にオランダ船を装ってイギリス海軍のフリゲート艦が侵入したフェートン号事件が起きたのも1808年10月のことです。その後、幕府は、1825年に異国船打払令を発するものの、アヘン戦争と時を同じくする1842年には、「天保の薪水給与令」を発令して開国の方向に舵を切り替えています。アヘン戦争が、間接的に日本国の所謂‘鎖国政策’を転換させたとも解されるのですが、もう一つ、注意を払うべきは、アヘン戦争と明治維新とでは、‘影のマスター’が同じではなかったのか、という点です。

 

 1839年3月10日に広東に着任した清国の林則徐は、イギリス系商人、並びに、清国の公行商人に対して三日以内のアヘンの没収、並びに、アヘン取引永久放棄の誓約書の提出を求め(持ち込めば死刑…)、徹底したアヘンの取り締まりを行います。この間、同命令に応じて広東の虎門において清国側に引き渡されたアヘンの量は20283箱に上り、時価にして240万ポンドに当たるそうです。そして、驚くべきことに、そのうちの3分の1がジャーディン・マセソン協会のものであったというのです。言い換えますと、アヘン貿易の’ドン’とも言える存在こそが、ウィリアム・ジャーディンその人であったのです。同氏は、林則徐の到着を前にして本国イギリスに帰国し、本国政界、並びに、パーマーストン外相にアヘン戦争に向けた準備に奔走したことは、先日、本ブログで触れたとおりです。

 

 かくしてアヘン戦争は、アヘン商人の利益保護のために行われたとする側面を持つのですが、凡そ30年後の日本国の明治維新にあっても、ジャーディン・マセソン協会は重要な役割を果たしています。維新の志士とされた’長州ファイブ’( 井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉)は、同商会のサポートの下でイギリスに密留学しています。因みに、先に帰国した伊藤と井上は、下関戦争にあって長州藩とイギリスとの間の講和交渉役を務めています。この人脈からしますと、その後の明治維新にありましても、アヘン商人の利益、否、グローバル勢力のシンジケートが介在しないはずもありません。日本国の本格的な中央集権型の国家体制の転換と開国は、麻薬シンジケートをも含むイギリス系グローバル勢力の’世界戦略’の一環であったとみる方が自然な解釈であるように思えるのです。そして、その後の李氏朝鮮の開国を実現した日清戦争、並びに、帝政ロシアの南下政策を阻止した日露戦争も、同文脈にあって見直す必要があるのかもしれません。

 

 なお、ジャーディン・マセソン商会がアヘン事業で巨万の富を築いた麻薬事業者であったことは、グローバル勢力とは、必ずしも道徳や倫理を基準として行動するわけではないことを示しています。同商会は、1870年にはアヘン事業から足を洗っているものの(グローバル勢力は、日本国を絹糸の生産地に定めたらしい…)、満州国において麻薬疑惑が根強く囁かれるのも、あるいは、幕末から続く麻薬シンジケートが関連しているのかもしれません。また、今日、秋篠宮家の婚姻問題が皇室を揺さぶっておりますが、明治期に誕生した近代皇室と云うものの存在にも影を落としていると言えましょう。明治天皇以来の歴代天皇は、英王室を支えるガーター騎士団の団員でもあります。歴史の深層の探求は、今日の問題をも解決する上で避けて通ることはできないように思えるのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヘン戦争から考える貿易不均衡問題と戦争

2021年10月21日 13時02分33秒 | 国際政治

 アヘン戦争の主要因が、アヘン貿易がイギリス籍の東インド会社系商人にもたらした巨万の富にあったことは、否定のしようのない事実です。このため、この不名誉な戦争の責任は、イギリスという国家、あるいは、当時の国民に求められるとは言い切れない側面があります。その一方で、戦争というものを考えるに際しては、決定者の責任問題に加えて、これらの主体が身を置いている外部環境、すなわち、構造的な問題についても注意を払う必要があるように思えます。

 

 アヘン貿易並びにその製造は、1730年代にあって東インド会社が独占権を得ていたものの、その実、清国内の市場にあって密売品が蔓延っていたことは、先日の記事で既に述べました。一事業者による独占であれ、全面的な取引禁止であれ、法律によって厳しい規制が敷かれている場合、密売品は高値で売買されますので、アヘンの密貿易業者にも多大な利益をもたらしたことは想像に難くありません。そして、東インド会社の独占が撤廃され、かつ、アヘン戦争に勝利した後には、かつての密貿易事業者も堂々と合法的な事業としてアヘン・ビジネスを展開するようになるのです。因みに、アヘン戦争以後、ロンドンやサンフランシスコといった大都市に散見されるようになったアヘン窟は、南京条約を初め、清国との条約に基づいて中国人労働者が流入したことによります。このため、その経営者の大半は移民してきた中国人であり、対清国アヘン貿易は、間接的に西欧諸国をも薬物汚染してしまったと言えましょう。

 

 かくしてアヘンは富の源泉となったのですが、イギリス籍商人側が積極的にアヘンを清国に売り込む動機となったとされるのが、清国からの茶の輸入拡大です(茶の貿易独占権も東インド会社にあった…)。イギリス政府が、清国から正式に広東での茶取引の許可を得たのは1713年ですが、50年代には輸入量は凡そ4倍以上に跳ね上がっています。その後も茶の輸入拡大は留まるところを知らず、イギリスは、清国に対する深刻な貿易赤字を抱えることとなったのです(貿易決済に際して銀が流出…)。清国に対する巨額の貿易赤字を解消するには茶の輸入額に釣り合う対清輸出品を要したのであり、それこそが、アヘンに他なりませんでした。言い換えますと、アヘン戦争とは、貿易不均衡是正戦争という側面があるのです。

 

 もっとも、アヘン戦争の構図は、当時の英国が全世界に版図を広げた’帝国’であったことから、一般的な二国間貿易よりも複雑です。先ずもって、貿易収支を均衡させるために選ばれた輸出品は、イギリス本土の特産物ではなく、インド産のアヘンでした。また、インドの植民地化は東インド会社が主導しており、アヘン戦争にあっても、海戦では東インド会社の汽走砲艦が参加しており、陸戦でもその兵力の大半はインド兵であったのです。同戦争は、イギリス、あるいは、イギリスをも操る勢力による’世界戦略’の一環としての戦争であり、全世界に散らばる持てる資源を総動員している点において、今日におけるグローバル戦略の’はしり’を見出すことができるのです。

 

 そして、イギリスのみならず、中国にとりましても忌まわしい記憶となったアヘン戦争は、今日なおも、様々な問題を提起しています。新冷戦とも称される激しい米中対立の背景には、アメリカ側が中国に対して巨額の貿易赤字を抱える貿易収支の著しい不均衡があります。19世紀のイギリスと同様に、アメリカは、中国に対して砲艦外交を試みるのでしょうか。あるいは、共産主義革命から改革開放路線への転換を経て、今日、再び毛沢東主義への回帰が見られる中国は、当時の清国とは断絶しており、その根幹部分において、アメリカ諸共にアヘン戦争の仕掛け人でもあったグローバル金融勢力に支配され、米中対立もポーズに過ぎないのでしょうか。

 

加えて、麻薬は、先進国にあっても常に深刻な社会問題の一つであるのみならず、アフガニスタン問題において指摘されているように、麻薬利権には深い闇があります。今日にあっても、各種の麻薬は、隠れた貿易収支の均衡化、あるいは、非合法的な外貨取得の手段となっているのかもしれません。また、米中関係のみならず、日米関係にあっても、アメリカの対日赤字解消政策は、対日輸出品の如何に関する問題でもあります(コロナ・ワクチン、あるいは、先端兵器?)。今日にあっても貿易には決済を要するため、貿易収支の不均衡問題は、グローバリズムの’アキレス腱’です(通貨は各国が発行するため、国境を越えて自由には移動しない…)。それ故に、同問題を乗り越えるために、世界支配を目指す中国、あるいは、超国家金融勢力は、通貨のデジタル化を急いでいるのでしょう(他の諸国では二重通貨圏となりかねない…)。

 

しかしながら、そもそも、同問題が国際社会の安全と平和、並びに、国家の独立性を脅かすならば、無制限に更なる貿易の自由化、及び、グローバル化を推進するよりも、貿易品目の見直しや、国境における貿易量のコントロールの方が望ましいように思えます。アヘン戦争も、アヘンではなく他の健全な交易品であれば、少なくとも倫理的な汚点とはならなかったことでしょうし(もっとも、貿易港を広東のみに限定した清国の政策や公行制度の廃止は、清国にとってもベネフィットであったかもしれない…)、茶の輸入量を減らせば、武力を用いなくとも貿易不均衡問題も解決したのですから。アヘン戦争は、今日なおも、様々な未解決の問題を語り掛けているように思えるのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アヘン戦争を起こしたのは誰?-責任の所在問題

2021年10月20日 13時16分52秒 | 国際政治

 アヘン貿易を続けるために、同貿易の取り締まりに乗り出した清国に対して戦争に訴えたアヘン戦争は、栄えあるイギリスの歴史において汚点ともされています。倫理的な側面からの反対論を排して、閣議決定と英国議会における激しい議論を経て、結局、賛成多数を以って遠征軍派遣を決断したのですから。アヘン戦争は、大英帝国を以って7つの海を支配し、パックス・ブリタニカをもたらしたイギリスにとりまして、ジェントルマンの国の面目を失わせてしまう忌まわしい過去なのです。今日、アヘン戦争は、イギリスの植民地主義の象徴でもあります。しかしながら、1840年6月に始まるこの戦争の責任は、イギリスという’国家’にあるのでしょうか。

 

 世界史の教科書では、アヘン戦争は、イギリスという国家が起こした戦争として記述されています。教科書的な理解は、同戦争の責任は国家、あるいは、当時の政府にあるというものです。しかしながら、19世紀におけるイギリス政治をよく観察しますと、同国の世界戦略、あるいは、対外政策を策定していたのは、必ずしも政府ではなかったという側面が浮かび上がってきます。

 

そもそも、植民地支配の直接的な担い手は、勅許会社とは言え民間の株式会社であったイギリス東インド会社です(1730年の時点で同社の株の少なくとも3分の1を外国人投資家が保有…)。同社は、自社の軍隊を以って支配地を広げつつ(イギリス海軍とは別個の組織…)、同地域における貿易を独占していました。インド産のアヘンについても、1773年に専売特許権を得た後、1779年には、製造特選権をも獲得して積極的に清国に売り込んでいます。もっとも、同社の独占が厳格に守られていたわけではなく、これと並行して私商人もまたアヘンの密貿易に従事しています。同社による貿易独占に反対したのはこうした私商人達であり、中には、アジアに在住していたアヘン商人もいたそうです。東インド会社の貿易独占権が撤廃された後には、他のイギリスの貿易商人達もアヘン貿易に進出してゆきます。

 

そして、この過程で注目すべきは、イギリス国内では、貿易商人の利益団体としてマンチェスターやリヴァプールといったイギリス国内の都市のみならず、カルカッタ(コルカタ)、広東、ボンベイ(ムンバイ)、シンガポール、セイロンなどにも商工会議所が設置されたことです。そして、これらを統括する立場にあったのが、首都ロンドンに設立された東インド・中国協会です(アヘン戦を前にしてリヴァプールにも設立…)。同協会は、アジア一帯の情報センターとして機能しており、イギリス政府に優る情報収集力を以って’世界戦略’を策定し得る立場にあったのです。

 

実際に、アヘン戦争を前にして同協会が時の政府に提出された建言書を見ますと、攻撃に適した時期、兵力の規模、第一目標、沿岸封鎖後の作戦など事細かな提言がなされています。即ち、政府に先立って既にアヘン戦争の計画の概要は、同協会によって既に作成されていたとも言えましょう。

 

もっとも、外相パーマーストンの元には、同時期に別のルートから同様の提言が寄せられたそうです。東インド・中国協会のものと殆ど同じ内容ではあるものの、この人物こそ、ウィリアム・ジャーディンであるというのです(上述した現地在住の私商人の一人であったのでは、…)。ジャーディンという名に聞き覚えのある方も多いのではないかと思います。ジャーディン・マセソン商会こそ、明治維新に暗躍したイギリス貿易会社でした。ジャーディン・マセソン商会につきましては、後日、扱うこととしまして、同氏は、1839年9月から翌年の1月にかけて3回にわたり外相パーマーストンと会見すると共に、補足的な書簡を送っているそうです。このことから、二つのルートというよりも、W.ジャーディン⇒広東商工会議所⇒東インド・中国協会⇒イギリス外務省というルートの他に、W.ジャーディン⇒外相パーマーストンという’ホットライン’が存在していたものと推測されます。

 

何れにしましても、アヘン戦争がアヘン貿易商人の利益を護るために行われたとしますと、ここで、この戦争の責任は、一体、どこにあるのか、という問題が生じてきます。イギリスという国家なのでしょうか、それとも、背後で同政府を操った特定勢力なのでしょうか。あるいは、易々と政府が特定勢力に乗っ取られるのを許した国民なのでしょうか(議会制民主主義の発祥の地とはいえ、この時代の政治制度を考慮すれば、イギリス国民に責任を課すのは酷…)。そして、200年近く前のアジアで起きたこの事件の経緯は、いとも簡単に、国家の政府が一部の利益団体に動かされてしまう実態を示すと共に、今日なおも、日本国を含む全ての諸国が同様の問題を抱えているのではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二頭作戦が失敗しそうな理由-中間層の抵抗力

2021年10月19日 12時43分20秒 | 国際政治

 今日の政治の世界を見ますと、民主主義国家を舞台として二頭作戦が遂行されている可能性は極めて高いように思えます。同作戦の存在を仮定せずして説明できない現象が、頻繁に起きているからです。マスメディアのみならず、ネット上でも観察される不可解な出来事を陰謀論、あるいは、妄想として切り捨てようとする言論封殺作戦自体が陰謀の実在を証明しているようにも思えるのですが、必ずしも二頭作戦が成功するとは限りません。何故ならば、二頭作戦には、重大な見落としがあるからです。

 

 一般的には、上流階級と下層階級との間には越えがたい隔たりがあると見なされがちです。財力、並びに、それに裏打ちされた豊かで質の高い生活、教育、そして社会的地位等に注目しますと、両者の間に共通点を見出すことは困難です。ところが、その一方で、両者の間には親和性がある、とする指摘もあります。俄かには信じがたい説なのですが、上流・下流同類説の根拠を聴きますと、’なるほど’と思わせるところがあります。

 

 同説の根拠とは、上流階級も下層階級も、自己規律、並びに、順法精神において脆弱性があり、良識や常識を欠いてしまう傾向にあるというものです。上流階級については、たとえ犯罪や悪事に手を染めたとしても、それを揉み消すことができる特権があります。このため、悪い事とは知りながら、心の弱さからこの特権を利用しようとしてしまうのです。この悪しき傾向を自覚してか、かつての上流階級は、子弟や婦女子に対して殊更に厳格な躾や教育を施してきましたが、それでも、しばしば’上流は腐敗している’と囁かれるのも、その特権的な地位によるものなのでしょう。

 

一方、下層階級には、別の理由から自己規律、並びに、順法精神を欠く環境があります。スラム街がしばしば犯罪の温床となり、一般の人々が足を踏み入れるのに躊躇する危険な場所であるように、同階級では、野放図で退廃的な生活習慣が蔓延ると共に、非合法的な手段で日々の生きる糧を得ている人が多いのです。法律を誠実に順守し、良心に従って生きることができない環境こそが、無法地帯を形成してしまうのです。

 

このような共通性が上流階級と下層階級との間にあるとしますと、既存の社会を破壊して自らの望む方向に世界を変えたい勢力が、これを見逃すはずはありません。少数派ではありながら両者を左右の両極においてその双方を上手に操れば、多数派である一般の人々を挟み撃ちにすることができるからです。近現代国家にあっては、民主的な政党政治は、二頭作戦、あるいは、多頭作戦にとりまして好都合でもあります。国民は、自らの政治的権利の行使として、自発的に罠に嵌まってくれるからです。また、近代以降の植民地化の過程を見ましても、アジア・アフリカにあって王族や部族長といった支配者層が代官的役割を果たすと共に、下層階級にも働きかけを行い、伝統的な既存の社会を壊すための反体制勢力などの実行部隊の暴力装置として育てています。

 

上下間の共通性を利用した二頭作戦は、先進的な民主的国家から途上国に至るまで、世界各国で成功を収めてきたのですが、二頭作戦は、今日、最終段階に入っているようです。王族や皇族を見ましても、婚姻を介して上下が結び付いたことから、上流なのか下流なのか見分けがつかず、セレブと呼ばれる人々も、どこかスラム風の不健全な雰囲気を漂わせています。そして、上下の一体化が顕在化してしまったことで、同作戦は、思わぬ抵抗を受けているように思えます。そして、これこそが、二頭作戦を遂行してきた勢力の誤算とも言えましょう。それでは、同作戦に抵抗しているのは、一体、誰なのでしょうか。

 

それは、自らを律すると共に順法精神を尊び、かつ、良識や常識を備えた中間層の人々のように思えます。二頭作戦にあっては、両極からの挟み撃ちにより、中間層を含めた自らの勢力以外の全人類を最終的に’下流’に転落させる必要があります。しかしながら、元より中間層の人々は、マジョリティーである上に常識的な人々ですので、メディア等を介して社会全体の無秩序化、あるいは、スラム化を図ろうとしても自ずと反発や反感を買ってしまうのです。実のところ、今日における政治家と国民との間の意識の乖離や政治不信の原因も、二頭作戦の限界の現われであるのかもしれません。

 

二頭作戦に失敗要因があるとすれば、それは、上下間の共通性を上手に利用したつもりが、これら両者と中間層との間の相違に関心を払わなかった、あるいは、気が付いてはいても、その抵抗力を軽視したところにあるのではないでしょうか。真に中間層を取り込もうとすれば、自らが自己抑制的で順法精神に富み、かつ、良識的な一般の人々に変わらなければならないはずです。そしてそれは、組織そのものの自発的解散、即ち、自己消滅を意味するのかもしれません。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終局面に入った’二頭作戦’?

2021年10月18日 12時51分21秒 | 国際政治

 世界を分断してきた米ソ間の冷戦構造が崩壊した後、政治の世界にありましては、戦後政治の最大の特徴ともされた左右のイデオロギー対立が薄まったとされております。これと同時にグローバリズムが全世界に広がるのですが、果たして、この傾向は、何を意味するのでしょうか。

 

 二頭作戦については、先日、本ブログの記事において扱いましたが、冷戦崩壊後における保守政党のリベラル化を観察しますと、これは、二頭作戦のプロセスの一環として理解できるように思えます。この時期にあって、どのような二頭作戦が展開されたのかと申しますと、左派政党では、共産党でさえ過激な暴力革命を最早主張せず、’資本家’の基本権や財産権の’保護’を約する傍らで、より温和なリベラル政党は、差別反対や平等を訴えて、固有の伝統や歴史等を含むあらゆる属性や個性を消滅させ、人類の画一化と無味乾燥としたモノトーンな未来社会を目指します。この際に、人々を惹きつけるために用いられる詐術的なスローガンとは、グローバリズムを背景とした’多様性の尊重’や’国境なき自由な世界’といった’美しい言葉’です。もっとも、リベラルが目指す社会とは、’超人’あるいは’進化型人類’と位置付けた自分たちを除いて、全人類がデジタル・ナンバーで識別され、完全にコントロールされる世界なのかもしれません。

 

それでは、左派政党の対抗勢力であった右派政党はどうでしょうか。右派と左派を比較しますと、その変質ぶりは右派の方に際立っています。左派政党も、保守の取り込みや国民一般の支持を得るために保守的な政策を掲げることはありますが、その本質においてはリベラルという基幹が揺らぐことはめったにはありません。その一方で、右派政党は、その存在意義さえ失われる程に変質するケースが見られるのです。保守政党の多くは、左派の人気政策を自らの政党に取り入れるという名目の下で、リベラルな政策を打ち出すようになるからです。アメリカにあっても、とりわけ経済・社会面にあって左右の対立軸が薄れ、共和党が目に見えてリベラル化したのはジョージ・W・ブッシュ政権の頃であったとされています。移民政策をはじめメルケル長期政権下のドイツでもCDUの左旋回が顕著でしたし、今日の日本国を見ましても、保守政党とされる自民党の政策の多くは左派政党と殆ど変わりがありません(しかも、全体主義志向の強い公明党とも連立政権を組んでいる…)。何れの政党も、脱炭素、デジタル化、そして、ワクチン接種やワクチン・パスポートがこの世で唯一の政治課題であるかのように、同一の方向に向かって邁進しているのです。

 

右派のリベラル化による経済・社会面における人類の画一化、即ち、全体主義化が進行する一方で、軍事面においては、リベラル派は、表看板としての平和主義の陰で’隠れ暴力主義’の戦略を取っています。アメリカの場合、歴代民主党政権は、表向きでは平和主義を唱えつつ、共和党以上に戦争には積極であったことはその歴史が示すところですが、その他の諸国にありましても、左派の政党は、自国の軍事力や軍事テクノロジーの開発を阻害することで、間接的に暴力主義国家をサポートしているのです。今日、中国が先端的な軍事技術を備えるようになった理由も、各国のリベラル派からのサポートがあったからなのでしょう(アメリカからも相当の技術流出があったはず…)。リベラルも、本心から人類に平和をもたらすつもりはないようなのです。

 

 

そして、右派が唱える軍備増強や防衛力強化にも警戒を要しましょう。防衛目的は名目に過ぎず、国家レベルでの軍事テクノロジーの開発もまた、おそらく、’本体’が人類支配のための’暴力装置’を手にすることが目的であるかもしれないからです(’本体’からすれば、自らに役立つテクノロジーを開発さえさせればどの国家でも構わず、国家は利用の対象…)。オーウェルが人類への警告を込めて描いた『1984年』の世界では、3つの軍事大国が国民を完全なる監視下に置き、その内面までも支配する体制を維持するために、3国による見せかけの軍事的緊張が永続化されていますが、現実にありましても、米中対立、あるいは、米中ロ三国間における軍備拡張競争は、茶番である可能性も否定はできないのです。

 

左右双方の逆走の非対称性は、二頭作戦の本体の目的が、リベラルが描く社会と凡そ一致しているからなのでしょう。何れにしましても、今や、政治的な対立軸としての左右の違いが不明瞭となり、二頭作戦も最終段階を迎えつつあるかのようです。言い換えますと、これ以上、二頭作戦を継続できない程までに、隠されてきた胴体部分である’本体’が現れてきているのかもしれません。そして、これこそが、今日という時代にあって人類最大の脅威であり、かつ、真摯に対処すべき政治的な最重要課題なのかもしれないと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今般の衆議院選挙は’二頭作戦’?

2021年10月15日 13時00分21秒 | 日本政治

 ’二頭作戦’、’双頭作戦’、あるいは、’多頭作戦(ヒドラ作戦八岐大蛇作戦?)’とは、複数の勢力が対立しているように見せかけながら、その実、首から下の本体の部分は一つであり、どちらが勝っても、あるいは、どれを選んでも結果が同じとなるように仕組む作戦を意味しています。視界が巧妙に遮られている周りの人々には、首から下が見えませんので、複数の勢力が本気で対立していると思い込んでしまうのです。

 

 古代ガリアに住んでいたケルト系の部族では、自由を確保するために必ず二つの勢力に分かれるような工夫があったとする説があります。一人の個人、あるいは、一つの勢力によって決定権が完全に掌握されますと、他のメンバーには選択の余地がなくなり、個々の自由というものも失われるからです。こうしたケースでは、二項対立的な構図は自由という価値を擁護します。実際に、近代議会制民主主義の発祥の地とされるイギリスをはじめ、アメリカなどの民主主義国家にあって二大政党制が発展した理由も、同制度が、国民に政治的選択の自由を保障したからなのでしょう。自らの自由意思によって、A党が望ましくなければ、その反対政党であるB党に投票する権利を国民は有するのですから。多党制の採用が民主主義体制の証とされるのも、複数の政党の存在そのものが、国民の政治的自由を保障するからです(一党独裁体制下にあっては選択肢が存在しないので、国民の政治的自由は失われる…)。

 

 しかしながら、このシステム、政党の数が少なければ少ないほど、国民が逃げ場を失い’挟み撃ち’にされてしまうリスクが上昇します。例えば、A党とB党から成る二大政党制であれば政党の数は凡そ二つに過ぎませんので、莫大な資金力を有する非国家組織が両勢力をマネー・パワーで篭絡することは比較邸容易です。そして、表面的には対立させながら、両政党を自らの思いのままに背後から操ることができるからです。つまり、たとえ民主的な選挙を経て政権交代が実現し、国民の多くが自らの政治的選択によって新たな政府を選んだものと信じていたとしても、それは、表面的なものに過ぎずません。むしろ、A党であれ、B党であれ、何れの政党が政権与党となったとしても、両政党の公約の双方に非国家組織の政策アジェンダを幾つか組み込んでおけば、新政権は、それを忠実に代行してくれるからです(その他の些細な分野では、国民の人気取りとなる政策を行うかもしれない…)。

 

この手法は、より多くの政党が乱立する状態にあっても、難易度は上がりますが不可能なわけではありません。日本国は、自民党一強の一党優位の多党制と称されていますが、長期化による自公政権の傲慢運営に対する国民世論の忌避感も強く、政権交代のチャンスとも指摘されています。今般の衆議院選挙を見ますと、全ての政党が網羅されているわけではないのですが、自民党+公明党対立憲民主党+共産党の二大政党制に近い形での構図が浮かんできているように思えます。

 

今後、今般の衆議院選挙は、マスメディアの煽りもあって自公対立共の対立構図において選挙戦が闘われるとしますと、どちらの陣営を選びましても、日本国において社会・共産主義への傾斜が強い全体主義的な政権が誕生する可能性もありましょう。このように考えますと、民主主義国家であるからこそ、二頭作戦といった国民’追い込み’作戦には十分に警戒すべきと言えましょう。何時の間にか、国民の自由な選択の結果が全体主義国家に移行しないように…。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ・ワクチンの追加接種のリスク

2021年10月14日 15時17分27秒 | 日本政治

 報道によりますと、日本国政府は、今年の12月頃から第3回目のコロナ・ワクチンの接種を開始するそうです。その理由は、コロナ・ワクチンの効果は、抗体の減少によって凡そ8か月程度しか持続せず、ブースタショットを要するというものです。しかしながら、第3回目の接種に対しては疑問視する見解も少なくありません。

 

 マスメディアが報じている第3回接種に対する反対論の多くは、途上国等にあってコロナ・ワクチンが十分に行きわたっていない状況にあって、先進国ばかりが第3回接種を実施することは公平性に反しているというものです。WHOは、まさにこの立場にあります。一方、現実を見ますと、アフリカ諸国等で新型コロナウイルス感染症が爆発的に拡大しているという報告はありませんので、ワクチン需要そのものが存在しないのが実情なのかもしれません。ですから、WHOの見解は、いわば’ワクチンの押し付け’とも理解されるのですが、こうした途上国支援?の立場からの批判以上に第3回接種に関連して問題となるのは、やはり人体への有害性への懸念かもしれません。

 

 先ずもって心配されるのが、コロナ・ワクチンの複数回接種による健康被害です。先日、新たなコロナ治療の新薬の発表に際して、‘動物実験では、同一の抗原のワクチンを接種した場合、5回以上で死亡数が跳ね上がり、7回から8回では凡そ半数が死亡する’とする説明があったことから、ネット上では、一時、騒然となる一幕がありました。このリスク情報、今日ではあたかも‘なかった’かのように扱われているのですが、ワクチン接種の回数が重なるにつれ、死亡率が高まるとすれば、当然に、追加接種によって多くの命が失われるということになりましょう。

 

 もっとも、変異株用に開発された改良ワクチンであれば’同一の抗原’とはなりませんので、同リスクは低下するのでしょうが、政府が追加接種として予定しているのは従来株用のようです。従来株用であっても、今般、主流派となったデルタ株には効果が期待できると説明されているものの、大阪大学の研究で明らかとなったように、従来株の効果を無効にしてしまう変異株が出現する可能性はあります。このような事態に至れば、追加接種は、無駄となるのみならず、接種者はリスクのみを負うことになりましょう。ましてや、本ブログでも再三にわたって述べているように、脂質ナノ粒子、人工RNA、スパイク蛋白質、ADE抗体、未公開の添加物、逆転写の可能性などに関する遺伝子ワクチンそのもののリスクがあります(ワクチン非接種にも医科学的な根拠がある…)。ワクチン関連死を疑われる1233件の死亡ケースもこれらに起因している可能性が高いのですが、こうした強い副反応、あるいは、有害事象は、回数を重ねるごとに増加するとも予測されます。

 

 なお、ワクチンとは、本来、獲得免疫系を利用した感染病の予防手段ですので(抗体量が減少しても、記憶T細胞や記憶B細胞の働きにより、感染時に抗体を再度産生…)、追加接種を要さないはずです。しかしながら、高齢者に関しては、獲得免疫系の働きが低下するとされているものの、何故か、追加接種については抗体量の減少のみが理由とされているのです(重症化の抑制が目的ならば、感染後における抗体カクテルといった治療法でも構わないはず…)。

 

先行して追加接種を行っているイスラエルやアメリカでも、複数回接種のリスクについて十分な検証が行われた形跡はなく、上記のリスクは、全く無視されているようです。日本国政府も、独自の調査や検証を行うこともなく先行接種諸国の後追いをしているのですが、デルタ株の感染力が水疱瘡並みとする説も怪しい中、国民を洗脳するかのように追加接種を急ぐ必要があるのでしょうか。安全証明なきワクチン接種推進政策は、国民の命を護ると称しながら、その実、人命軽視なのではないかと危惧するのです(ワクチン接種で7200人程の命が救われたとされつつも、上記の厚労省の死亡ケースが氷山の一角であれば、ワクチン死の方が遥かに上回るのでは…)。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

’一億総中流’は復活するのか?

2021年10月13日 13時35分33秒 | 国際経済

 

 この結果、今日、所得格差の問題は、与野党を越えた共通認識に至っています。発足間もない岸田内閣も’新しい資本主義’の名の下で労働分配率の向上を訴えていますし、立憲民主党もまた、’一億総中流復活’を掲げて来る衆議院選挙を闘うと報じられています。いわば、新自由主義からの脱却と格差の是正は、左右何れの政党にあっても、国民に対する最大のアピール要因となっているのです。

 

 しかしながら、ここで注意を要するのは、70年代と今日とでは、時代状況が著しく違っている点です。高度成長期の日本国とは、旧通産省が主導した輸出牽引型の経済が日本国全体を潤す好循環が続いた時期に当たります。この時代、安価で高品質な日本製品は凡そ全世界の市場を席巻し、かのエズラ・フォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と称したように、’向かうところ敵なし’の状況にありました。官主導の輸出産業の育成⇒円安政策⇒輸出拡大⇒貿易黒字の積み上げ⇒国内マネー供給量の増加⇒民間企業の収益+国民所得の上昇⇒消費+投資の拡大⇒ハイテク分野等の開拓⇒技術力の向上⇒新製品の開発⇒輸出の拡大…というように、国民皆が富む理想的な好循環が実現した時代とも言えましょう。

 

しかしながら、日本経済が栄華を極めた時代は1985年のプラザ合意とその後に続くバブル崩壊によって終焉を迎え、先述したように’一億総中流’も、グローバリズムとマッチした新自由主義に道を譲り、格差容認へと転換してゆきます。そして、今日、再び一億総中流が叫ばれているのですが、上述したメカニズムが働く条件が揃っているとは思えません。何と申しましても、グローバリズムが押し寄せているからです。日本経済の敗因は、グローバリズムの波に乗り遅れたからなのではなく、グローバリズムは、日本国民を豊かにしたメカニズムを根底から揺さぶり、ゲーム・チェンジが起きたからなのでしょう。

 

少なくとも、今日の日本国には70年代のような輸出競争力は備わっていませんし(円相場も遥かに円高に振れている…)、’世界の工場’の椅子には中国が座ったままです。日本企業の多くも生産拠点を海外に移しておりますし、米中の巨大グローバル企業と比較すれば、日本の大企業でさえ中小企業となります。即ち、国内生産と輸出を原動力とする好循環は、働きがたく、国内消費が拡大したとしても、逆に輸入が増加するかもしれません。条件や状況が等しくないのですから、当然に、今日にあって’一億総中流’を唱えたとしても、それは、70年代の引き写しではないはずです。それでは、どのようにしたら’一億総中流’は実現するのでしょうか。

 

中国でも、習国家主席が示した「共同富裕」という新たな政策目標に対して”共同貧困”ではないかとする指摘もありますが、日本国もまた、政策次第では’一億総下流’となるかもしれません(あるいは、’一億総中華化’?もしくは徹底した平等化の果ての全体主義化?)。岸田政権下がアピールしている’成長と分配の好循環’も、成長なき単なる所得移転政策、あるいば、再分配政策に終わる可能性もありましょう(ばらまき政策…)。また、民間企業の労働分配率を上げたとしても、成長産業とされる分野においてIT大手が日本国内にプラットフォームを敷き、凡そ独占・寡占状態で有利にビジネスを展開している現状では、成長戦略の一環としてデジタル化やIT化を進めれば進める程、日本国からの富の流出は増加の一途を辿る未来も予測されます(日本企業の国内シェアが低下し、企業収益も減少すれば、労働分配率を上げても国民は豊かにはなれない…)。

 

内外を問わず、政治家は、兎角に’新しい〇〇主義’、あるいは、’〇〇ノミクス’という言葉を使う傾向にありますが、手を変え品を変えているだけで、本質的なメカニズムの部分は何も変わっていないように思えます。このように考えますと、’一億総中流、即ち、健全な良識を備えた厚い中間層の再形成’を目指すならば、あらゆる国境障壁を完全に取り除き、全世界を’総デジタル社会化’へと方向づける資本家牽引型のグローバリズムの見直しは不可避なのではないでしょうか。そしてそれは、70年代とも違い、国境の調整機能をも備えた国民還元型のメカニズムとなるのではないかと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争放棄論者は努力の方向性が間違っているのでは?

2021年10月12日 15時54分39秒 | 国際政治

 戦後直後の1946年11月3日に日本国憲法が公布されて以来、日本国内では’九条信者’なる人々が平和運動を行ってきました。これらの平和主義者の人々は、’戦争は要らない、軍隊も要らない’と叫び、憲法第9条の条文を無条件放棄論として解釈してそれを実現しようと訴えてきたのです。その熱意には驚かされるばかりなのですが、よく考えても見ますと、努力の方向性が間違っているように思えるのです。

 

 戦争そのもの、即ち、軍隊の放棄は一見しますと平和に貢献しているように見えます。戦争やそれを遂行する手段が消滅すれば、自ずと平和が訪れるようにも思えるからです。しかしながら、パワー・バランスというものに注目しますと、一国による戦争や戦力の放棄による力の空白の出現は、むしろ、均衡状態がもたらしていた平和を崩してしまうリスクがあります。拡張主義的な国が近隣に存在していますと、同空白を埋めるかのように軍事的な侵攻を受ける可能性が高まるのです。日本国の平和は、憲法第9条ではなく、自衛隊、並びに、日米同盟のよってもたらされたとする説は、まさにこのパワー・バランス論に基づいています。

 

 このように戦争放棄論とは、その実、戦争のリスクを内在させており、一つ間違えますと、戦争放棄論者は侵略者の手先になりかねない立場にあります。このため、’九条信者’の人々は、たとえ平和の実現という崇高な理想を掲げていても、一般の人々からは警戒される存在であったと言えましょう(平和主義者を装った敵国の’回し者’かもしれない…)。そして、こうした戦争放棄と平和との間の危うい関係に加えて、戦争放棄論者には、深刻な思考停止という問題を抱えているように思えます。

 

 真に平和を実現しようとするならば、実を申しますと、戦争の放棄よりも平和的な解決手段の整備の方が遥かに効果的です。今日にあっては、個々人の間で争いごとが起きたとしても、それを力で解決する国は殆ど存在していません。決闘や果し合いによる解決は、遠い過去のものとなり、現代の統治システムでは、争いごとは裁判所等を介した司法解決が制度化されています。国家レベルと同様に、国際社会にありましても、戦争を真になくそうとするならば、先ずもって平和主義者が努力を傾けるべきは国際レベルでの司法制度の整備であると言えましょう。つまり、紛争の平和的な解決手段が制度として備わっていれば、人類は、戦争に訴えなくとも国家間の争いを解決に導くことができるのです。

 

 例えば、国際司法裁判所の訴訟手続きを見ても、当事国の合意を要します。このため、明らかに国際法違反の行為であっても、被害国は、単独で訴訟を起こすことができません(竹島問題も解決できない…)。また、領有権確認訴訟の形態が実現すれば(もっとも、現行の制度でも、常設仲裁裁判所では可能かもしれない…)、尖閣諸島問題も平和裏に解決することできます。また、グローバル化した時代にあっては、テロ組織や国際犯罪組織などの非国家主体をも国際法廷において裁く仕組みが必要となりましょう。

 

 この観点からしますと、平和主義者が内外に対して積極的に訴えるべきは、国際レベルにおける平和的な紛争の解決手段を可能とする司法制度の拡充であるはずです。平和的な解決手段が整っていない状況下における戦争の放棄は、無責任、かつ、危険に満ちた主張であるのですから(この点、核兵器禁止条約などにも同様の欺瞞が見られる…)。九条信者を含め、平和主義者の方々には、早くに思考停止の状態から脱却し、努力の方向性を修正していただきたいと思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋篠宮家への国民の批判は氷山の一角では?-皇室の曲がり角

2021年10月11日 12時32分06秒 | 日本政治

 今般、秋篠宮家が小室家と姻戚関係を結ぶに当たりまして、激しい世論の批判が起きることとなりました。母親の借金問題のみならず、祖父並びに父親が自死していることに加え、最近では遺族年金不正受給問題まで加わり、小室家に渦巻く疑惑は深まる一方です。世論の批判もそもそも小室家の’闇’に起因するのですが、宮内庁が眞子さんの複雑性PTSDを公表したことから‘火に油’の状態となり、今日、政府?並びにメディア等による統制側と批判的世論とがせめぎ合う状況に至っています(もしかしますと、メディアについては擁護一色ではないかもしれない…)。

 

 この件に関しては、世論の反発は、一宮家から民間への降嫁であるから起きたとする指摘もあります。民間から皇室への入内とは逆の、皇族が民間人となるケースであるため、小室家に対するチェックが甘くなり、その結果として今般の事態に至ったとする…。しかしながら、皇族の婚姻をめぐるこれまでの経緯を振り返りますと、令和の時代となった今日であるからこそ、これまで鬱積してきた皇族に対する批判が噴出してしまったとする見方もあり得るように思えます。

 

 皇族の自由結婚の問題は上皇夫妻に始まるものであり、当時にあっても、民間から皇室への入内には賛否両論があったとされています。興味深いことに、今日とは逆に、国民世論が歓迎する一方で、旧皇族や旧華族といった人々は強く反対したと言います。戦後、昭和天皇による人間宣言があったとはいえ、天皇というものが’神聖なる神の子孫’と信じる国民が多い時代にあっては、民間からの入内は、伝統派からしますと天皇の権威の低下とみなす一方で、国民の多くは、雲の上ではなく、天皇が’自らと同じところまで降りてくることを望ましく感じたのでしょう。

 

 上皇夫妻の婚姻は、’親しみのある天皇’のイメージと引き換えに、天皇が超越性を失う転機となったのですが、現天皇夫妻の婚姻となりますと、いささか世論の空気が変わってきます。今日、メディアは、皇室に入内する家についてはチェックが厳しかったかのようにと報じていますが、ネットが普及するにつれ、当初から指摘されていた水俣病の責任問題のみならず、小和田家をめぐる様々な謎がネットを賑わすこととなったからです。四代前以降は遡れない家系、曽祖父とされる金吉氏や江頭家の謎、創価学会との闇のコネクション、中国との関係、外交機密費疑惑、スイスにあるとされた天皇家の隠し財産との関連等々…。小室家に負けず劣らず小和田家にも深い’闇’が窺えるのです。仮に、天皇夫妻の婚姻の時期にネットが普及していたならば、小和田家が天皇家と姻戚となることはあり得なかったともされています。

 

 そして、同婚姻は、国民の意識を大きく変えたことは否めません(信頼からリスクへ…)。ネットで情報を得られるようになった国民の多くが、皇室と民間人との婚姻に対して警戒するようになったからです。純粋な恋愛結婚は表向きのカバー・ストーリーであって、その裏では、外国、海外勢力、宗教団体など、天皇家の政治利用を狙う様様な組織の戦略が蠢いているのではないか、と…。そして、上皇夫妻の婚姻に関しても、正田家に関する上海を舞台とした中国系やイギリス系の血脈まで囁かれることとなったのです(さらにその先に、明治維新を背景とした孝明天皇と明治天皇との間の親子関係における疑惑にも発展…)。

 

 以上の経緯からしますと、今般の秋篠宮家と小室家との縁結びに関する国民世論の批判は、小室家か最初の’問題一家’であるからなのではなく、小室家にも問題があったのであり、これまで積み重なってきた国民の皇族の婚姻に対する不信感や警戒心の表出であるのかもしれません。むしろ、秋篠宮家という一宮家であったからこそ、国民も本音の声を上げやすかったとも言えましょう。

 

このように考えますと、10月26日の婚姻を以って同問題が一件落着するとも思えず、国民の多くが懐いている拭いきれない不信感や警戒心こそ、皇室、並びに、政府やメディアも真剣に受け止めるべきかもしれません。秋篠宮家の婚姻問題は、氷山の一角かもしれないのです。そして、皇室と云う存在を時代の変化に合わせるならば、国家祭祀の継承者としての天皇位は存続させるとしても、既に変質し、かつ、形骸化した皇族はその存在意義を失い、最早国民が必要としていないとする結論もあり得ると思うのです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする