万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

表彰式ユニフォームは失礼では?

2021年07月27日 10時59分47秒 | 国際政治

 開会を前にして発表されたオリンピック表彰式のユニフォームのデザインの評判は、惨憺たるものであったようです。それもそのはず、トップスを見ますと、男女ともくすんだやや濃い目の青色の麻か綿の荒織の生地で仕立てた盾襟の上着を羽織り、ボトムは、男性は同色の緩めのパンツ、女性はやや明るめの青色の長めのスカートというものです。’居酒屋ユニフォーム’なる異名を取るほど、何とも冴えないデザインなのです。

 

 日本国が開催国となったのは今大会が初めてではなく、過去に開催された3度のオリンピックを振り返りますと、表彰式のユニフォームは、日本の伝統衣装である振袖が慣例となっていました。日本国のみならず他の諸国で開催される場合でも、表彰式でアシスタントを務める人々はその国の民族衣装に身を包んでいますので、表彰式とは、開催国のお国柄が現れるオリンピックらしい光景とも言えましょう。この点からしますと、何故、今回の大会に限って着物ではなく全く別のユニフォームを新しくデザインしたのか不思議なのです(過去最大の費用が投じられているならば見事な振袖を準備し、世界に向けて古式ゆかしい洗練された日本の服飾文化の伝統を披露できたはず…)。そして、国民が同デザインに眉をしかめる理由は、幾つかありそうです。

 

 第1に、先述したように、オリンピックにおける表彰式の衣装はその国を代表する民族衣装とされてきましたので、世界に誇ってきた着物という日本の民族衣装が’居酒屋ユニフォーム’に変えられてしまったような残念感があります。テレビや動画を介して表彰式を視た海外の人々は、日本の民族衣装が’居酒屋ユニフォーム’であると思い込むかもしれません。誰が選んだのかは分かりませんが、日本人にとりましては落胆させられる出来事なのです。

 

 第2に、同衣装は、見る人に’サーバント’のイメージを与えてしまう点を挙げることができましょう。’居酒屋ユニフォーム’というネーミングは、まさに同衣装が内包している本質を言い当てています。居酒屋では、全員同じユニフォームを着た店員さん達が、腰を低くしてお客様に尽くしています。このため、表彰式は、表彰台に上った選手たちにメダルを授与するIOCの幹部に開催国日本のアシスタントが付き従っている構図に見えてしまうのです。この光景は、日本人にとりましては、決して心地よいものではありません。つまり、開催国である日本国に対して失礼なのです。

 

 そして、失礼なのは、日本国や日本人に対してのみではありません。第3に、オリンピックに参加するために来日した選手団の人々に対しても失礼なように思えます。何故ならば、’おもてなし’を旨とするならば、諸外国からのお客様に対しては、先ずもって招く側は正装してお迎えするのが礼儀であるからです。もしかしますと、きれいで慎ましやかな着物姿を期待していたのは、諸外国の選手であったかもしれず、’居酒屋ユニフォーム’にはがっかりさせられたかもしれないのです。どこの国かわからないような、奇妙な衣装を着た’サーバント’のようなアシスタントが並んでいるのですから。招かれる側も、招く側が軽装では、軽んじられているように思えてしまうものです。

 

 本大会のテーマは’多様性と調和’なそうですが、表彰式のユニフォームのみならず、エンブレムも青系一色であり、色彩の豊かさに欠けています。そして、それは、多様性をはき違えた末の画一化、すなわち、全てがミックスされてモノトーンとなってしまった近未来を暗示しているのかもしれません。表彰式の’居酒屋ユニフォーム’も日本人の近未来のメタファーであるならば、それは、日本の危機をも示しているように思えるのです。

 


日本国選手団のアフリカ系旗手起用を考える-一つしかないポスト

2021年07月26日 12時46分37秒 | 国際政治

 7月22日、混乱に次ぐ混乱の中で、東京では32回目となるオリンピック・パラリンピックの開会式が開催されました。開会式の入場行進には、世界各国の選手団の後に開催国の選手団が最後に入場する慣行があり、今回の大会でも、入場行進の最後を飾ったのは日本の選手団でした。国名を記したプラカードを手にした先導係の後に、選手団長と国旗を手にした旗手が続くのですが、自国開催となる今大会で旗手の大役を務めたのは、アフリカ系のハーフである八村塁選手でした。

 

 八村選手の父親はベナン人であり、母親は日本人ということなので、八村という姓名は母方に由来しているようです。育ったのは日本国内のようですが、現在では、アメリカのNBAで活躍していますので、大阪なおみ選手と同じく国際性に富んだ選手であるとは言えましょう。同選手の起用については、本大会のテーマは、いつの間にか’多様性と調和’に代わっておりますので、マスメディアは日本の多様化の象徴として絶賛しています。しかしながら、何故、日本選手団の旗手がアフリカ系なのか、腑に落ちない国民も少なくないはずです。そこで、本日の記事では、この違和感がどこから来るのかを分析してみたいと思います。

 

 違和感をもたらす第1の原因は、先ずもって、八村選手はアフリカ系ですので、その姿は一般の平均的な日本人とは自ずと違っているというものです。オリンピックとは国別の競技大会ですので、これは、視覚から生じる最も素朴で直感的な違和感です。日本選手団でありながら、日本人一般を代表しているようには見えないからです。逆に、アフリカ大陸の一国の選手団の旗手が、如何にも日本人らしい日本系の選手が務めていたとすれば、多くの人々は、同様の違和感を覚えることでしょう。おそらく、八村選手の人選に疑問を感じたのは、開催国の日本人のみではないのではないでしょうか。

 

 そして、違和感をさらに深めている第2の原因は、ポストが一つ、それも、国家を代表するようなポストである場合、多様性の尊重を基準に据えますと、人選は極めて困難となる点です。全ての人種や民族の血を引く選手など、そもそも存在しないのですから、多様性を象徴するような旗手を見つけ出すことは、不可能です。今日、日本国を含め、何れの国でも複数の人種や民族が程度の差こそあれ混在していますし、ハーフやクオーターなどの国民も珍しくはありません。しかしながら、たった一つのその国を代表するポストに誰を据えるのか、という問題になりますと、多様性の尊重は、むしろ、マジョリティー排除の方向に強力に作用してしまうのです。今日の国民国家体系は、一先ずは一民族一国家を原則としていますが、多様性の尊重を基準に人選を行いますと、その国を構成する主要民族の出身者は決して代表にはなれないのです(帰化や外国人との混血が条件となり、逆差別が生じる…)。今後とも、オリンピックにおける人選の基準が多様性の尊重のまま据え置かれますと、将来的には、どの国の旗手も、特定の人種や民族性を感じさせない選手がベストということになりましょう(もっとも、入場行進を見る限り、同基準は、日本国のみで採用されているわけではないのかもしれない…)。

 

 さらに第3の原因として挙げられるのは、多様性の尊重とは、必ずしも’融合’を意味しない点です。人類史において生じた様々な人種や民族の違いを尊重するならば、むしろ、血統的に最も純粋な人を選ぶ方が理に適っています。全体を俯瞰すれば、多様な人種や民族によって構成された、豊かな彩どりが見られるからです。今般のオリンピックで謳われている’多様性の尊重’とは、その実、人類の画一化に過ぎないのです(そもそも、多様性が失われて画一化されてしまいますと、調和も意味をなさなくなる…)。

 

 第4の原因は、差別反対を暗にアピールしつつ、特定の人種を優遇しているようにも見えることです。日本人とのハーフは、アフリカ系のハーフのみではありません。旗手にアフリカ系の選手を起用したことは、実際には、アフリカ系を優遇していることにもなりましょう。こうしたオリンピックに見られる人選の問題は、大阪なおみ選手を選出した最終聖火ランナーの人選においても際立っておりました。八村選手に大阪選手と続いて登場するのですから、日本国は、アフリカ系の国の一つになったかのような錯覚さえ世界に与えます。もっとも、大阪選手は、アメリカのBLM運動の熱心な支持者でもありますので、あるいは、バイデン大統領夫人の開会式出席を前にした、アメリカ民主党政権の意向を汲んだ政治的な人選であったのかもしれません。

 

何れにしましても、今般の東京オリンピック・パラリンピックは、国際社会に渦巻く様々な偽善、欺瞞、腐敗、そして矛盾を日本国民、並びに、全世界に見せつける形で幕を開けたように思えるのです。


オリンピック関係者はサイコパスなのか?

2021年07月23日 12時58分19秒 | 国際政治

 本日、7月23日、いよいよコロナ禍にあって迷走し続けてきた東京オリンピック・パラリンピックの開会式を迎える日となりました。従来の大会であれば祝賀ムードに包まれているはずなのですが、’煽り役’のメディアでさえ控えめの報道に終始しています。その要因の一つには、開会式を直前にして過去の差別的な発言や非常識な行動が問題視され、職を解かれた小山田圭吾氏、並びに、小林賢太郎氏といったオリンピック関係者の存在があるのでしょう。そして、今般、両氏に輪をかけて国民の反感を買っているのが、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の参与を務める実業家の夏野剛氏の発言です。

 

 問題視されている夏の氏の発言とは、「そんなクソなピアノの発表会なんてどうでもいいでしょう、五輪と比べれば。それを一緒にするアホな国民感情に、今年選挙があるから乗らざるを得ないんですよ」というものです。同発言を言葉を補って解釈しますと、「国民が楽しみにしている行事やイベントなどは、世界的な大イベントであるオリンピックと比較すれば取るに足りないもの。そもそも、オリンピックと国民の行事を同列に論じることが間違い。両者の区別が分からずに批判する愚かな国民感情に配慮する必要など、本来はない。それでも日本国政府(自民党と公明党)は、今年の衆議院選挙を控えているので、表向きはこの愚かな国民感情に付き合わざるを得ない。ああ、馬鹿馬鹿しい…」ということになりましょう。

 

 この発言、TVのニュース番組「ABEMA Prime」に出演しての発言ですので、内輪での発言や独り言ではなく、国民一般に向けられていることは疑いようもありません。即ち、国民に面と向かって、上から目線で民間行事やイベントを貶し、国民を愚か者として侮辱しているのです。常識的に考えれば、現状にあってさえオリンピックに対する国民感情が悪化しているのですから、火に油となることは容易に予想できるはずです。あからさまな侮辱を受けて、素直にそれを受け入れて納得する人など殆どいないからです。

 

 案の定、同発言は多くの国民から激しい批判を浴びることとなったのですが、その主たる批判点は、一般の国民は、オリンピックよりも自らの一生の思い出ともなる身近な行事やイベントの方を大事にしているというものです。オリンピックとは、確かに莫大な国費が投じられる国際的な大イベントですが、国民からしますと、たとえささやかであっても、運動会や修学旅行、さらには学芸会や発表会などは一生に一度の出来事ですし、かつ、自らの体験として記憶に残るもののほうが重要です。

 

しかも、夏野氏は、’クソなピアノの発表会’という具体性のある一つの事例で表現することで、自らも両者を混同してしまっています。何故ならば、オリンピックは’一つ’ですが、民間の行事は全国津々浦々無数にあり、数においてはオリンピックを圧倒的に凌駕するからです。つまり、イベントの規模において両者を区別し、オリンピックの優位性を主張しながら、量においてはオリンピックが劣位することに気が付いていないのです。

 

 また、夏野氏はオリンピックに至上の価値を置いていますが、これも怪しくなってまいります。しばしば、オリンピックに出場するアスリートに対しては、常々、オリンピックの舞台に立つために涙ぐましい努力を重ね、厳しい訓練に耐えてきたとして賛辞を惜しみません。しかしながら、よく考えてみますと、目的の達成を目指して一生懸命に努力する姿は、アスリートに限らずあらゆる職業において見られます。否、今や娯楽産業の一部門となったスポーツよりも、国民生活や公共の福利において貢献度が高い産業や職種も少なくないのです。また、’クソなピアノの発表会’という言い様からしますと、夏野氏は、芸術の価値も低く見ているのでしょう。

 

国民からの反発が予測されるにも拘らず、同氏がこうした国民侮蔑的な発言をして憚らないとしますと、サイコパスを疑わざるを得なくなります。そして、こうした国民を見下すような傲慢な態度は、IOCのバッハ会長をはじめオリンピック関係者に多々見受けられます。それとも、敢えて利権に塗れ、堕落した’オリンピック・ソサイエティ’の本性を自ら暴露することで、将来に再生を期した自滅を試みているのでしょうか


’デザインベビー’の盲点-子の’他人化’では?

2021年07月22日 13時06分35秒 | 国際政治

 今日、遺伝子工学は長足の進歩を遂げています。DNAの塩基配列の操作も自由自在であり、商品作物や家畜を見ても、遺伝子組み換え技術によって劇的に品質が向上した品種も少なくありません。テクノロジーの発展には際限がなく、遺伝子組み換え技術の先には、’ヒトの遺伝子組み換え’も見えています。親が遺伝子を選び、完璧な容姿と超人的な能力を備えた赤ちゃん、即ち、’デザインベビー’の誕生も夢ではないのです。

 

 親とは、できることならば、自らの子が容姿も端麗で才能にも恵まれ生まれてくることを望むものなのかもしれません(もっとも、この問題は、センシティブです…)。’デザイン・ベビー技術’とは、まさしく親の願望を実現してくれるのですから、同技術の実用化を待ち望む人も少なくないことでしょう。最近のカズオ・イシグロの作品は、AIがテーマであるものの、遺伝子改変が日常化した近未来が舞台となっているそうです。何れにしましても、今日の技術力からすれば、遠くない未来にあって’デザインベビー’は一般的な存在となっているかもしれないのです。

 

 その一方で、自由主義国の多くでは、ヒトを対象とした遺伝子操作は法律によって禁じられています。遺伝子の領域は神の領域とする観念が強いことに加え、ヒトの遺伝子を人為的に操作することは、出生前とはいえ、他人が他者の生命や身体に手を加えることになりますので、重大な人権侵害にもなりかねないからです。ここに、親の子に対する権利の問題も持ち上がってくるのですが、もう一つ、デザインベビーには盲点があるように思えます。それは、親による遺伝子操作とは、自分の子の’他人化’ではないか、というものです。

 

 近代以降の遺伝学は、今日に至るまで技術的な側面のみならず、生命に対する様々な仕組みを解明してきました。その一つは、遺伝子は、生殖細胞の減数分裂によって凡そ半数となるものの、両親から子へと受け継がれるというものです。言い換えますと、親子とは、遺伝子の継承によって繋がっていることとなりましょう。そして、このことは、親が子の遺伝子を改変してしまった場合、少なくともその改変部分に関しては、両親の何れの遺伝子をも引き継がない’他人’になってしまうことを意味します。つまり、遺伝子に’デザイン’を施した部分が多いほど、親子関係が薄れていってしまうのです。

 

 DNAの塩基配列の組み換えによって遺伝子の継承部分が減少した場合、果たして、親は、自らで設計しながらも、’デザインベビー’を自分の子として愛情を抱き、慈しんで育てるのでしょうか。親から見れば確かに子ではあるのですが、姿形には親と似たところがなく、長じれば、性格や物事の考え方まで親とは正反対となるかもしれません。もちろん、血の繋がりがなくとも親子の情というものは生まれるものですし、自然な親子でも、真逆の容姿や人格である場合も少なくありません。このため、決めつけることはできないのですが、中には、継父母の継子苛めに類するような児童虐待が増加する原因となるケースも予測されます。それとも、親は、デザイナーの立場となり、’デザイナーベビー’は、その’作品’として見なされるのでしょうか。後者の場合には、親は、子を自らの’作品’として’披露’したり、’展示’することに喜びを感じるかもしれません。

 

 また、富裕層のみならず、デザイナーベビーの技術が広く普及しますと、人類の画一化問題も起きてくることでしょう。何故ならば、誰もが容姿端麗、頭脳明晰、性質温和、かつ、様々な分野の才能に恵まれた子を望むとしますと、デザイナーベビーとして生まれてくる子供たちは、およそ同一の’優れた遺伝子’が組み込まれて生まれてくるものと想定されるからです。この結果、人類は、幾つかの’優れた遺伝子’の組み合わせでしかなくなり、遺伝子が平準化した人類の未来も見えてきます(もっとも、全人類が一人残らず優秀者のみによって構成されれば、戦争や犯罪、そして、陰湿な苛めや搾取等もなくなり、思いやりに満ちた平和で理性的な世界が出現する?)。あるいは、ファッションのデザインと同様にデザインベビーにも流行り廃れがあり、その外見や思考パターンから〇〇年代生まれのヒトと判断されてしまうのでしょうか。

 

 想像は尽きないのですが、何れにしましても、今日、人類は、自らをも改変してしまう高度なテクノロジーを手にしてしまいました。そして、政府もまたムーンショット計画を堂々と掲げるなど、カルト的なテクノロジー信仰に毒されています。この方向性が、果たして人類にとりまして望ましいのかどうか、一旦、立ち止まって考えてみる必要があるようにも思えるのです。テクノロジーとは、不可逆的な破壊力ともなりかねないのですから。


遺伝子ワクチンリスク説と武漢ウイルス研究所流出説-コペルニクス的転換はあるのか

2021年07月21日 13時09分01秒 | 国際政治

新型コロナウイルス感染症の起源をめぐっては、今日、武漢ウイルス研究所から流出説が信憑性を増してきています。アメリカの情報機関による報告書を受けてアメリカ政府も、自然発生説から流出説へと態度を変えたとされていますが、影の立役者として名が挙がっているのは、有志の専門家によって構成されている「ドラスティック」という匿名のネット調査団なそうです。

 

 発生当初、同ウイルスの起源は、武漢市の海鮮卸売市場において売買されていた野生のコウモリとされてきました。中国政府も公式にこの立場を主張しており、同国に追随するかのようにマスメディアも自然発生説を’正統’とみなしてきました。親中派のテドロス事務局長をトップとするWHOも中国と立場を同じくする共に、権威ある英医学誌である『ランセット』にも、自然発生説を支持する記事が27名の科学者による連名で掲載されたのです。

 

 一方、新型コロナウイルス自然発生説に対しては、疑問の声も少なくありませんでした。発生直後から中国屈指のレベル4を誇る武漢ウイルス研究所からの流出説が唱えられており、ネット上にあっては、自然発生説を凌駕する勢いで全世界に拡散されることとなったのです。しかも、武漢ウイルス研究所からの流出説は、根も葉もない流言の類ではありません。ウイルス学や遺伝子工学等に基づく科学的な根拠もあり、流出説を支持するノーベル賞受賞者の科学者も存在したのです。

 

 かくして、政府やメディアレベルでは自然発生説が’正統’とされる一方で、ネット上では優勢であった流出説は’異端’とみなされ状態が続くこととなりました。しかも、ネット側にいるはずのSNSも前者に与し、流出説に対して事実上の検閲を実施するに至るのです。現代という時代にあって、異端者弾圧という中世さながらの状況が出現してしまったのです。しかも、正統説は政府公認ですので、いわば’国教’として位置づけられたのです。

 

 実のところ、同様の現象は、コロナ・ワクチンをめぐっても観察されます。ワクチン問題にあっては、’正統’側がワクチン安全説であり、’異端’側がワクチン危険説です。後者は、言論の表舞台にあっては政治的に迫害され(ワクチンパスポートの導入でやがて社会的にも迫害?)、悪魔崇拝者であるわけでもないのに’異端者’扱いです。否、医科学的なリスク認識に基づいてワクチンの危険性を指摘しているのですから、客観的な事実に誠実であり、かつ、危険を知らせようとする善意から発しているにも拘わらず、’社会悪’と見なされているのです。

 

 もっとも、中世にあって見られた非科学的な異端迫害は、事実を前にして終止符が打たれるケースも少なくありません。その象徴的な出来事は、天動説から地動説への転換です。正統な教義では前者が宗教的に正しいとされてきましたが、コペルニクスは、異端とされてきた地動説方が科学的に正しいことを証明したのです。かくして中世の人々の世界観は一転してしまうのですが、今日にあって、新型コロナウイルスの自然発生説から武漢ウイルス研究所流出説への転換は、まさに現代におけるコペルニクス的な転換と言えましょう(もっとも、完全に証明が済んだわけではありませんが…)。そして、治験中の遺伝子ワクチンの安全性についても、厳密な医科学的な検証の末に180度の転換が起きないとも限らないのです。遺伝子ワクチンについても、「ドラスティック」のような存在が必要なのかもしれません(もっとも、生物兵器説や機能拡張研究にまで踏み込んでいない点は気にかかる…)。

 

 なお、目下、日本国政府は漸次にワクチン接種対象年齢を広げ、12歳から15歳までの中高生もその対象に含まれるようになりました。低年齢層への拡大に伴い、できる限り接種率を上げるべく、教育現場に対してワクチンの安全性の説明に努めるよう要請することも予測されます。しかしながら、本問題を教育に生かすとすれば、それは、一方的に安全説を吹き込むのではなく、科学的な事実によって’定説’が覆されるケースが存在することを教えることではないでしょうか。’遺伝子ワクチンには未知の部分があり、将来的にリスクが証明される可能性もあり得る’、あるいは、’あらゆる疾病から人々を救う免疫システムの完全なる解明は、君たちの世代の使命である’とする説明のほうが、自由な知性の働きを重んじる自由主義国に相応しい教育の在り方のように思えるのです。


軍艦島問題の不思議-過酷な炭鉱労働は世界共通では?

2021年07月20日 16時19分11秒 | その他

 長崎県の軍艦島は、ユネスコの世界遺産の登録に名乗りを挙げて以来、日韓における歴史認識論争の一角を占めるようになりました。2015年に一先ずは世界遺産に登録されたものの、今般、ユネスコの世界遺産委員会にあって朝鮮人労働者に関する表示が不十分とする’移管決議案’が採択される見通しとなり、再度、政治問題化する兆しを見せています。

 

 軍艦島は、産業革命遺産として登録されています。明治以降、日本国の産業をエネルギー資源の供給面から支えたのは、石炭の採掘事業でした。今日では石油にその座を譲ったものの、戦前にあって石炭は重要な戦略物資でもあり、全国各地で炭鉱が開発されると共に石炭の採掘事業が行われています。天然資源に乏しいとされた日本国にあっても石炭は比較的豊富に埋蔵されており、最盛期には、日本国のエネルギー自給率をも押し上げていたのです。

 

もっとも、露天掘りの技術やロボットが存在しない時代にあっては、石炭の採掘は人手に頼るしかありませんでした。そして、その労働の過酷さは、今日にあっても様々な資料によって確認することができます。トロッコによって地下深い暗い坑道へと運ばれ、蒸し暑い狭い空間でつるはしを手に長時間石炭を掘り出し続けるのですから、想像するだけでも息が苦しくなりそうです。細い鉱脈は身体の小さな子供しか掘ることができないため、炭坑の様子を写した当時の映像には、煤で真っ黒になった子供達の姿も映し出されています。また、岩盤の崩落事故も日常茶飯事であり、若くして命を落とす炭鉱夫も少なくなかったのです。

 

炭鉱での過酷な労働は、イギリスをはじめ、全世界の鉱山において共通しています。日本国の軍艦島も例外ではなく、炭坑での労働は何れにおいても今日の標準的な労働条件からは想像もできない程の酷いものであったことは疑いようもありません。そして、それは、炭鉱夫であれば、国籍や民族的出自とは関係なく、誰もが経験したことなのでしょう。産業革命の発祥地であるイギリスに至っては、成人男性の6割が炭鉱夫であった時代もあったそうですが、アイルランド出身の炭鉱夫も少なくなかったようです。そして、近代という時代が植民地主義の時代であったことを考慮しますと、イギリス国内のみならず、西欧列強の植民地における炭鉱にあっても、採掘方法はどこも同じなのですから炭鉱夫の境遇には変わりはなかったはずです。

 

もっとも、劣悪な労働条件は、必ずしも低賃金を意味するわけではありません。イギリスでは、都市の一般的な工場労働者と比較しますと、炭鉱夫の所得の方が高い傾向にありました。日本国でも、軍艦島にはあらゆる娯楽施設が整えられていたように、生活水準は決して低いものではなかったのです。日本国側に残る当時の記録によりますと、朝鮮半島出身の炭鉱夫に対しても賃金は支払われており、韓国側が主張する’強制労働’は事実に基づくものではありません。

 

 以上の諸点からしますと、今般の軍艦島をめぐるユネスコの世界遺産委員会での決議は、日本国に対する’嫌がらせ’以外の何ものでもないように思えます。炭鉱夫の労働の過酷さは軍艦島に限ったことではありませんし、外国人炭鉱夫の存在も日本固有のものでもないからです。’強制労働’という側面からしますと、西欧列強(その背景には東インド会社)による植民地における現地住民の使役の方が、余程、’強制労働’の名に相応しかったのではないでしょうか。敢えて、日本国政府が、軍艦島の説明文において敢えて朝鮮人半島出身者について言及する必要性は見当たらないのです。ユネスコの世界遺産の登録が政治利用されている今日の状況を考えますと、世界遺産の登録は、オリンピックと同様に巧妙に仕掛けられた’罠’なのではないかと疑ってしまうのです。


コロナ・ワクチン接種同調圧力の無責任-ワクチン・ハラスメント

2021年07月19日 12時59分32秒 | 社会

 コロナ・ワクチン接種の対象が拡大して以来、職場などにおける同調圧力が問題視されています。厚労省は任意性を強調しつつも、接種を希望しない人に対して、接種を促すための有形無形の圧力や嫌がらせが報告されているからです。ワクチン・ハラスメント、即ち、’ワクハラ’という新たなハラスメントの類型が登場したことにもなるのですが、ワクチン接種に関する他者に対する同調圧力は、あまりにも無責任なのではないかと思うのです。

 

 表向きは、ワクチン接種は強制ではありませんので、希望者に限定されています。言い換えますと、ワクチンを接種するのもしないのも、個人の自由な選択に任されているのです。もっとも、あらゆる自由には責任が伴うものです。個人の自由な選択の結果であれば、その選択から生じるあらゆる事象は当人の責任となり、自由と責任との関係は、本来であれば個人の内に完結するのです。例えば、ワクチンを打つ自由を選択した人は、発症や重症化の回避といったワクチン効果を得る一方で、仮にワクチン接種によって何らかの健康被害が発生した場合、自己責任とされてしまいます(もっとも、仮に、将来的に政府が因果関係を認め、死亡者や重篤者に対して補償金を支払ったとしても、命や健康な身体は戻ってこない…)。反対に、ワクチンを打たない自由を選択した人は、発症や重症化リスクを負う反面、ワクチン・リスクを回避することができます。両者とも、一先ずは他者に影響を与えませんので、自由と責任との関係は一先ずはバランスしていると言うことができます。

 

 しかしながら、今般のコロナ禍にあっては、ワクチン接種は、上記の個人の問題の枠を越える側面があります。何故ならば、政府は、集団免疫理論を政策の基盤に置いており、それは、感染終息による早期の経済活動再開という目的とも一致しているからです。このため、政府は、表向きは個人の自由を謳いながら、裏ではあの手この手で接種率を上げるべく、様々な誘導策を試みています。時短要請に応じない飲食店に対して融資を見直すように金融機関に指示しようとするぐらいですから、政府は、職場接種に応じない企業に対しても何らかの不利益を与えようとしているのかもしれません。政府からの明示的な指示の如何に拘わらず、企業側が政府の意向を忖度し、職場にあって同調圧力を醸し出しているのかもしれないのです。企業にとりましても、経済活動の一日も早い正常化は望まれるところなのですから、職場とは同調圧力が生じやすい状況にあると言えましょう。

 

 ところが、ここで一つの重大な問題が発生します。同調圧力とは、他者に対して自らの意思を押し付ける行為なのですから、責任の範囲も他者にまで及んでしまうという点です。つまり、自由と責任の問題は、自己責任論では収まり切れなくなるのです。そして、ここで’スポット’が生じてしまうのは、ワクチン接種による健康被害に対する責任です。自らの自由意思でワクチンを接種した場合、ワクチン・リスクから生じる健康被害は基本的には自らの責任となります。その一方で、同調圧力に負けて接種に応じた人々については、これを自己責任と諭されても納得しないことでしょう。言い換えますと、同調圧力をかける側は、万が一にも接種に追い込んだ人々に健康被害が生じた場合、その責任を負う覚悟が必要と言えましょう。

 

 もっとも、同調圧力をかける側の人々は、ワクチン接種を受けない人々が存在することで集団免疫が成立せず、かつ、経済活動も再開できない、としてワクチン非接種者に対してその責任を求めるかもしれません。しかしながら、そもそも、効果の永続性が欠ける今般のコロナ・ワクチンでは集団免疫の成立は困難であることに加えて、ワクチン接種率の高いイギリスやイスラエルの事例は、打たない自由を選択した人々が、打つ自由を選択した人々に追加的なリスクを与えもしなければ、経済活動再開の妨げともなっていない現状を示しています。何故ならば、デルタ株等の変異株によって感染者数は増加に転じているものの、重症者数も死亡者数も低レベルで推移しており、新型コロナは、もはや怖い病気ではなくなっているからです。新規感染者の多くは若者であり、かつ、非接種者であるとされていますが(治療方法の進化も重症化率や死亡率の低下に寄与しているとも…)、感染しても重症化しないもとより免疫力の強い人々なのでしょう。そして、接種にも拘わらず新規に感染した人も、重症化しないのですからワクチンの恩恵を受けたことになります。つまり、集団免疫が成立しなくとも、接種者はワクチン接種のメリットを十分に享受しているのであり、非接種者に対して責任を問う立場にもないのです。

 

 また、今般のワクチンの主たる効果は重症化の防止ですので、ワクチン接種者であっても自らが感染することも、反対に他者に感染させることもあり得ます。この点からしますと、たとえ感染の機会が比較的多くなる接客業であったとしても、ワクチン接種者がお客様や取引相手の人々に感染させるリスクは残ります。言い換えますと、感染についてはお互いさまである一方で(ADEといった中長期的なリスクを考慮すれば、医療崩壊や経済崩壊のリスクについてもお互いさま…)、重症化や死亡のリスクだけは非接種者が負っているのです。そしてそれは、上述した打たない自由を選択した人の自己責任の範囲に収まっています。

 

 以上に’つべこべ’と述べてきてしまいましたが、要は、他者の自由意思を曲げる同調圧力には責任が伴うということです。そして、命や身体にかかわるケースには、とり切れない責任というものもあるのですから、ここは、慎重な判断が求められましょう。少なくとも、ワクチン・ハラスメントや無責任な同調圧力だけは、かけてはならないと思うのです。


ワクチンの安全性議論は政治化してはいけない

2021年07月16日 12時40分31秒 | 日本政治

 報道によりますと、立憲民主党から次期衆議院選挙に立候補を予定している北條智彦氏が、Twitterで新型コロナワクチンに関して誤情報を拡散したとして批判を受けているそうです(「立憲民主号外版」)。既に記事は削除されていますが、この誤情報とは「永久不妊」や「接種者の息や汗からスパイクタンパク質が放出される」というものです。同議員に対するネット上での批判コメントを読みますと、立憲民主党に対して同氏を公認した責任を問うたり、枝野代表に説明責任を求める声も聞かれます。また、立憲民主党を中国産ワクチンを広げたい中国の手先と見たり、与党への攻撃材料を手元に置いておくためにコロナ禍の終息を邪魔しているといった憶測も飛び交っています。いわば、‘政局’として捉えているのですが、ワクチンの安全性に関する問題は、政治化してはならないのではないかと思うのです。

 

 ワクチン不妊説や抗原暴露の問題については、これまでも政府やメディアは誤情報、あるいは、デマとして扱っており、同記事を報じたBuzzFeed Newsでも’ファクト・チェック’を行っています(ファクト・チェックという言葉には、既に一方的な’フェイク認定’というニュアンスが含まれており、ファクト・チェックにかけられて事実として認定された事例は殆どない…)。しかしながら、’ファクト・チェック’による判定とは、前者については’実験結果、データ、報告がない’といったものであり、今後の可能性については触れていません。しかも、因果関係を否定してしまえば、リスクは’ゼロ’と見なすことができます。また、後者についても、臨床試験の「実施計画書」に通常使われている『定型文』の誤訳としています。つまり、ワクチンの体内における作用機序を根拠としてリスクを否定しているのではなく、あくまでも文章上の解釈を問題としているのです。

 

 問題のTwitterの投稿を読みますと、これらのリスクについては’可能性が否定できません’、あるいは、’可能性が示されている’という表現が用いられており、事実として情報を発信しているわけではありません。つまり、リスクを指摘する側もそれを誤りとしてファクト・チェックする側も、双方とも医科学的に立証しているわけではありませんので、不確実性という意味において両者は同列にあると言えましょう。なお、北條氏が、何故、心筋炎や心膜炎の発症といったCDCなどによって既に因果関係が認められており、誤情報やデマと認定できない事象について記載しなかったのか、謎も残ります。

 

 そして、ワクチン不妊説については、ファイザー社からの流出文書によれば、そのリスクは明白です。ファクト・チェックでは、上述した’根拠’を以って否定していますが、永続的かどうかは別としても、「薬物動態試験」の結果、脂質ナノ粒子が卵巣において蓄積されるとすれば、当然に、同臓器において人工mRNAが放出されてスパイク蛋白質が生成されることは疑いようもありません。しかも、同mRNAは分解されにくいように塩基配列が修飾されておりますので、長期的な影響も懸念されます。有害性のレベルについては今後の研究を俟つ必要がありましょうが、リスク・ゼロとは言い切れない状況にあります。

 

 また、「接種者の息や汗からスパイクタンパク質が放出される」とする抗原暴露説についても、こうした説が主張する背景に、ファイザー社やモデルナ社の説明不足があります。何故ならば、体内において生成されたmRNAやスパイク蛋白質が、その後、どのような経緯を辿るのか詳細な代謝や排出に関する機序が説明されていないからです。一先ず、政府もメディアも、両者とも短期的に速やかに分解される、あるいは、体外に排出されると述べていますが、仮に体外に排出されるとすれば、人体の毒素排出の機能からすれば、汗や呼気として排出される可能性も否定はできなくなります。人口mRNAであれ、スパイク蛋白質であれ、それが何らかの有害性を有していれば、人類のみならず、生態系全体にも影響を与えるかもしれません。

 

 そして、こうしたワクチンに関連する議論は、少なくとも医科学的な安全性については全く以って政治とは関係がありません。与党支持者にあってもワクチンの安全性に疑問を持つ人は当然におりますし、与党支持者でも熱烈なワクチン支持者もおりましょう。ワクチン接種に対する態度が政治的対立軸と化してしまいますと、客観的な立場からの議論が歪められてしまい、医薬品としての医科学的安全性とは必ずしも一致しない’政治的安全性’というものが出現してしまいかねません。与野党とも、ワクチンの安全性については科学の領域として立ち入らず、ゆめゆめ政争の具にしてはならないのではないかと思うのです。


何故、’資本家’はヒーローになれないのか

2021年07月15日 13時17分06秒 | 国際政治

 ドイツはフランクフルトのマイヤー・アムシェル・バウアー・ロスチャイルドを祖とするロスチャイルド家の歴代当主達は、ソフトバンクグループの孫正義氏にとりましては目指すべき’ヒーロー’なのでしょう。マネーのパワーで産業革命を牽引し、全世界を一変させたのですから(少なくとも、孫氏はこのように信じている…)。しかしながら、孫氏といった金融やITの世界で蠢くセレブな人々を除いては、資本家がヒーローとなるのは至難の業です。孫氏もSNSがフォロワー数においてトップとなった時期もありましたが、現在ではどうなのでしょうか。

 

 それでは、何故、’資本家’は、ヒーローになれないのでしょうか。その理由を見つけるに際して参考となるのは、『市民ケーン』という米国映画です。もちろん実話ではないのですが、映画には、この世で実際に起きている出来事を誰もが分かりやすいストーリーに仕立て直して娯楽とするカリカチュア的なものがあります。フィクションであるにも拘わらず、観客の頭には実在のモデルが自ずと浮かび、思わず納得とさせられてしまったりするのです。おそらく『市民ケーン』もその一つなのでしょう。

 

主人公は、世界屈指の大金持ちであり、政界への進出をも目指すカーン(邦訳では「ケーン」)氏です。興味深いことに、同映画には、選挙に立候補するカーン氏について新聞が「フビライ・カーンの再来!」と書き立てるシーンがあります。ロスチャイルド家の旧名は’カーン’とされ、また、ユダヤ人とモンゴル帝国との歴史的な関係を思い起こしますと、このシーンは意味深長です(モンゴル帝国では、ユダヤ人とイスラム教徒は、色目人として重用されていた…)。

 

 カーン氏が大富豪となったのは、雪深い寂れた田舎町で宿屋を営んでいた父親が、見知らぬ客人が宿賃代わりとして置いていった債権の価格が、その後、証券市場にあって急騰したからです。一夜にして世界第6位の大金持ちとなったのですが、この財産に早速目を付けたのが銀行です。銀行は、’お世話人’を使わして、この宿屋の息子であり、粗暴な子供であったカーン氏を引き取り、上流階級に相応しい養育を施すのです(『二都物語』にも登場するように、欧米では、銀行が顧客の子弟を養育するシステムがあったらしい…)。銀行の後ろ盾の下でカーン氏は、大統領の姪を娶り、政界進出へのチャンスをも掴みます。腐敗した既存の政界に挑む若き正義派の看板で’市民’を味方につけ、当選まであと一歩と言うところまで行くのですが、結局、政界のドンであった対立候補者によって歌手とのスキャンダルがリークされることになり、選挙には落選するのです。

 

 その後、大統領の姪と離婚して歌手の女性と再婚したカーン氏は、自らが経営する新聞社も含めて、お金の力で背後からマスコミを動かし、礼賛記事を一斉に書かせることで、歌手としての才能の無い同夫人を一躍スターに押し上げます(一方、前妻並びに前妻との間に生まれた男の子は謎の交通事故で死亡している…)。もっとも、マスコミによって作られた自らの虚像の虚しさに耐え切れずにカーン夫人は歌手から引退してしまうのですが、カーン夫妻は、あたかも’おとぎの国’ででもあるかのような、動物園を備えた大邸宅でリッチな生活を送ることとなるのです。しかしながら、豪華な装飾品や高価な調度品がそこかしこに飾られ、贅を尽くした館の広々とした広間にあっても、そこには、どこか言い知れない寂寥感が漂っています。夫人は、来る日も来る日もジグソーパズルで暇な時間を潰し、カーン氏もまた無為な日々を送っています。退屈し切っている夫人を楽しませるために数十台にも及ぶ車列を組んで豪勢なピクニックに出かけても、その心を満たすことはできず、遂に夫人はカーン氏を残して館を出て行ってしまうのです。

 

 本作品の最後には、カーン氏亡き後、カーン氏の身近で仕えていた執事が、カーン氏の奇妙な性質や行動を回想するシーンがあります。それは、カーン氏には、破壊衝動があるというものでした。夫人に置き去りにされた際も、怒り狂ったカーン氏が、凄まじく暴れまわり、部屋中のものを悉く破壊し尽くしてしまうのです。そして、同作品は、カーン氏が死を前にして残したいまわの言葉が映し出されて幕となります。’ローズ・バット’、それはその昔、銀行の’お世話人’が、雪深い寒村からカーン氏を連れてゆこうとする際に抵抗した同氏が、この’お世話係’を激しく叩いた’そり’の名であったのです(このシーンも、『東方見聞録』の最後にモンゴル族の源流としてエスキモー系の部族が野蛮な人々として紹介されているところを思い起こすと興味深い…)。

 

 おそらく、見る人が見れば、より多くの隠されたメッセージを同作品から読み取ることができるのでしょう。もっとも、映画館で鑑賞する一般の人々であっても、同映画から資本家というものが持つそれ固有の悲哀を感じ取ることができます。それが偶然の賜物であっても、莫大なお金さえあれば立派な教育を受け、名家とも縁組ができ、実力がなくても’名声’を得られ、大邸宅で豪奢な生活を送ることができます。資金力を以って市民派を気取って政治家となり、マスメディアを買収して経済や社会を動かし、さらなる投資で財産を増やすこともできるかもしれません。自尊心が強く利己的なカーン氏の専らの関心事は、自らの財産を増やし、マスメディアを操って自らが都合がよい方向に人々をコントロールし、あわよくば大統領や市長など、人々から礼賛されるポジションを得る事であったのでしょう。

 

 しかしながら、たとえ人々から一目も二目も置かれる存在となったとしても、カーン氏は、王家などの高貴な家柄でもなく、騎士道精神を発揮して命がけで領民を護る中世の貴族でもなく、自らの才覚で事業を起こしたわけではなく、’市民ケーン’の看板とは裏腹に真に’市民’の味方でも労働者の味方でもありません。その粗暴さや品性の欠如からしますと、根の性格は、子供の頃と変わりはなかったのでしょう。たとえマスメディが同氏の虚像を振りまき、慈善事業(偽善事業?)に熱心であったとしても、現実の世界にあってカーン氏が人々のために自らを犠牲にして働いたり、人々の生活を豊かにしたり、社会に役立つ仕事をしているわけではないのです。しかも、一部の運に恵まれた人々を除いては大富豪にはなれませんので、人々が、自らの将来を投影させて憧れるモデルともなり得ません。実態が伴わないのですから、カーン氏は、現実の社会からは遊離してしまい、誰からも心からの尊敬を得ることができないのです。大邸宅での侘しく孤独な生活こそ、これを象徴していると言えましょう。

 

 『市民ケーン』をカリカチュアとして見ますと、今日にあっても、それが発するメッセージは色褪せていないように思えます。幸せを得ることができなかった一人の資本家の生涯を描くことで、資本家がヒーローになれない理由をそれとなく語っているのですから。


行き詰まりのワクチン戦略

2021年07月14日 13時08分54秒 | 国際政治

コロナ・ワクチンをめぐっては、アメリカにあってファイザー社が既に3回目の追加接種に向けて承認申請を行ったと報じられています。その一方で、CDCは、ファウチ所長が今月12日にブースターの必要性を否定する見解を示すと共に、翌13日にはバトラー副所長は、3回目の接種にはさらに激しい副反応が生じる可能性を認めています。この二つの情報を考え合わせますと、ワクチン戦略は、既に行き詰まり、あるいは、行き止まりとなってしまったようにも思えます。

 

 ファイザー社が3回目の接種を必要とした理由は、凡そ半年前から始まったワクチン接種の効果が薄れてきているというものです。デルタ株の拡大もあって接種率が比較的高いアメリカやイスラエルでは、減少傾向にあった感染者数が上昇に転じています。未接種者の間で感染が広まっているとの説もありますが(この説が正しければ、集団免疫説は説得力を失う…)、イスラエル保健省のデータによれば、5月に実施された調査にあっておよそ94%とされた予防効果が、6月から7月にかけて64%にまで低下しているそうです。新型コロナウイルスの感染、並びに、ワクチンによって生成された抗体量が時間の経過とともに減少することは以前より知られおり、およそ6か月から8か月程度で効果が消えるのではないかとする予測もありました。変異株への感染であったにせよ、今般のデータは、ワクチン効果の短期消滅説を裏付ける形となったのです。そして、ファイザー社は、3回目の接種を主張したことで、自らが製造した遺伝子ワクチンの効果の限界を認めたことにもなりましょう(仮に、メモリーB細胞がリンパ節に温存されていたとしても、少なくとも変異株には反応しないのでは…)。

 

 その一方で、CDC側は、現時点にあってワクチン効果の持続性は認められるとした上で、ファイザー製のワクチンにあって2回目の接種時に激しい副反応が生じることを重く見ています。抗原への暴露を重ねる程に免疫反応が激化する現象についてはADE(抗体依存性増強)が疑われているのですが、3回目の接種ともなれば、接種者がさらに深刻な副反応に襲われるリスクが高まると予測しているのです。同見解は、CDCがADE、あるいは、過剰摂取のリスクを公式に認めたに等しいと言えましょう。

 

 両者の見解から分かることは、2回のワクチンを接種済みの人々は、その効果を維持するために追加接種を要するにも拘わらず、同追加接種は、自らの命に関わるほどの深刻な健康被害をもたらす可能性が高いという、接種者が置かれている二律背反の状況です。3度目の接種を拒めばワクチン効果を失い、これに応じれば、副反応によって自らの命や健康を危険に晒すこととなるからです。いわば、今日、ワクチン非接種者が置かれている立場をより先鋭化された形で厳しい選択を迫られることになりましょう。そして、この’打つべきか、打たざるべきか’という命を懸けた選択は、接種の回を重ねるごとに、副反応被害を受けるリスクの方が上昇してゆくことが予測されるのです。

 

 早かれ遅かれ、接種者にも非接種者と同様の二者択一が待っているならば、最初から打たないという選択であっても構わないのかもしれません(ワクチン推進派の人々は’愚か者’と見なしていますが…)。あるいは、既に接種してしまった人も、1回あるいは2回の接種で止めておくという選択もありましょう。中長期的な免疫に対するマイナス影響は未知としても、度重なる人工mRNAの体内への投入は、同時に体内における有害なスパイク蛋白質の大量生成を意味しますし、何よりもCDC自身が追加接種によるリスク上昇を認めています(治療薬や治療法による対応という方法もある…)。国民は、ワクチン接種の是非をその行く先を見極めた上で判断すべきですし、政府も、既にワクチン戦略が隘路に陥っている現状を理解し、抜本的な方向転換も検討すべきではないかと思うのです。

 


皇統の国民拡散と民主主義

2021年07月13日 16時02分09秒 | 日本政治

 報道によりますと、日本国政府もメディアも、将来に向けた皇位、並びに、皇統の維持に腐心しているようです。女系天皇や女性天皇のみならず、旧皇族の復帰や女性宮家の創設なども取沙汰されてきましたが、この問題、世論の分裂も予測されるだけに簡単に解決を見るとは思えません。鳴り物入りで設置された安定的な皇位継承に関する政府の有識者会議も、結局は、結論を先送りすることとなったのです。

 

 皇室に関する政府、並びに、メディアの報道を見る限りでは、現皇室の血筋を以って天皇位を世襲する現行の国制は、未来永劫に亘り日本国にあって存続するものと仮定しています。否、’国体の維持’こそ議論の大前提であって、実のところ、現皇室による天皇位継承資格の独占の如何や天皇位の在り方については、予め議題から排除されているのです。旧皇族との養子縁組案も、女子にあって現皇室の血筋を引いている場合に凡そ限定されます(旧皇族の単独復帰案は殆ど聞かなくなっている…)。’現皇統’の存続のみが至上命題ですので、議題となるのは自ずと現皇室のメンバーの範囲の拡大や公的活動の皇族間での分散に限られているのです。

 

 皇統を長く後世に繋げてゆくことに目的を設定しますと(本文では、’皇統’を皇孫の血脈として広く用いている…)、確かに、上述した諸案には一定の効果は認められるのかもしれません。天皇の女子であっても、条件次第では皇位を継承する可能性が開かれるのですから。しかしながら、婚姻を同族間に限定しない限り、血統というものが代を重ねる度に半減されてゆき、姻族の血統が逆に増加するという事実を前にしますと、果たして、現皇室の血脈の継承が現代という時代に相応しいあり方なのか、という疑問も湧いてきます。同族間による婚姻には遺伝病を発症する高いリスクがありますので、上述したような旧皇族との養子縁組説があるとはいえ、将来に亘ってこれを皇位継承者に義務付けるのは現実的ではありません。となりますと、民間人が配偶者とならざるを得ず、皇統の希薄化は避けがたい日本国の未来ということになりましょう。

 

 そして、皇統の希薄化が天皇の権威というものの低下を招くことも避け難いことです。血脈において国民と殆ど変わらなくなるのですから、天照大御神の系譜に連なるとする皇統の神聖性も薄れてゆくからです。神に由来する血筋としての神聖性が天皇の超越性を担保してきたとしますと、その喪失は決定的な意味を持ちます。その一方で、権威の揺らぎを防ごうとして政府やマスメディアが天皇のパーソナルな神格化を図ろうとすればするほど、日本国は、北朝鮮のようなカルト化の脅威に晒されることともなりましょう。既に、メディアの皇族に対する礼賛ぶりはどこかカルト的ですし、一般の国民からしますと違和感を覚えざるを得ません。血脈において一般の国民と殆ど違いがないにも拘わらず、特別な存在として扱う状況を理性が受け付けない国民も少なくないことでしょう(地位のみを根拠に尊敬を強要することは、教育的文脈においてもよろしくない…)。

 

 かくして代を重ねる度に皇統が薄まる一方で、国民の間では、全く逆の現象が起きています。それは、皇統の一般国民への拡散です。古代にあって地方豪族の娘が出仕する采女制度は地方に皇統をもたらしましたが、日本国の歴史を通して皇統は常に国民の間に広がり続けてきました。仮に、『日本書紀』に記されている天壌無窮のご神勅があったとしたら、その資格は、広く国民に分有されていると考えることもできます。民主主義という価値を尊ぶ現代という時代にあっては、国民による自治こそご神勅に叶ったあり方であるとする解釈の方が余程相応しいのではないでしょうか。

 

天皇の宮中祭祀については伝統の継承という観点から旧宮家を含めた古い家系の方にその役割を務めていただく必要はあるのかもしれません(公職として天皇のみを存続させる…)。しかしながら、万世一系ともされてきた皇統の継続性につきましては、古代や中世のみならず戦国期や明治期における疑義もありますので、現皇室の存続については議論の俎上に挙げるべき議題のようにも思えます。’時代にあった天皇’を求めるならば、皇統の国民分有を前提とした、民主主義の時代と調和するあり方を模索すべきではないかと思うのです。


ワクチン情報統制の逆効果-安全神話のリスク

2021年07月12日 12時44分39秒 | 国際政治

今般のコロナ・ワクチン際して、政府もマスメディアも懸命に’安全神話’を国民に刷り込もうとして必至のようです。河野太郎ワクチン相に至っては、科学的に立証することなく因果関係を全否定する、あるいは、’自分は聞いていない’として、あらゆるリスク情報を’デマ’として葬り去ろうとしました。主観に基づくリスク否定ですので合理性も説得力もないのですが、’ワクチンの安全性を疑うことは、許されざるべき神への背信行為’とでも言わんばかりなのです。そして、今日、Youtubeではリスクを指摘する動画が削除され、ツイッター社も、’誤解を招く投稿は制限する’としてワクチンの安全神話への協力を表明しています。

 

ワクチンのリスク情報に対する政府やメディアの態度は、あたかも現代の’魔女狩り’のようです。ワクチン安全神話を疑う人は’魔女’であり、異端者なのです。しかしながら、理性が尊重される今日という時代にあって、非合理的な’ワクチン神話’の成立を目指す方が余程魔女的なように思えます。事実から目を逸らさせ、人々を誑かそうとしているのですから。今日の状況は、魔女が常識的な一般の人々を、逆に魔女として迫害している構図に見えてしまいます。

 

コロナ・ワクチンにリスクが伴うことは、製薬会社自身も認めています。ファイザー社やモデルナ社の説明書にも、「新しい種類のワクチンのため、これまでに明らかにされていない症状が出る可能性があります」と明記されています。安全性が保障されていない治験中のワクチンであることは、誰もが否定のしようもないのです。そもそも、仮にコロナ・ワクチンが100%安全であれば、製薬会社が各国政府に対して損害賠償の支払いの肩代わりを求めるはずもありません。また、最近に至り、アストラゼネカ社のワクチンと血栓症、次いで、ファイザー社のワクチンと青年層の心筋炎や心膜炎の発症との関係が公式に認められるようになりましたが、これらの事実は、ワクチン・メーカーが自社のワクチンが接種者の体内において作用するマイナス影響を完全に把握することなく販売に踏み切った実態を如実に示しているとも言えましょう。

 

一方、日本国の厚労省も、ワクチン接種後に因果関係が疑われて報告された死亡者数を556名として公表しています。この数字を前にしては、国民の大半はワクチンの安全神話が怪しいことに気が付くことでしょう。実際に、SNSでも、自らの身近な人がワクチン接種後に亡くなったとする記事が拡散されていますが、ツイッター社は、こうした実体験に基づく記事をも’誤解を招く’として制限するのでしょうか。’誤解’という意味が、’安全神話に対する懐疑心’を意味するならば、あらゆるマイナス情報がツイッター社の私的情報統制の対象となってしまいます。

 

そしてここに、今般のアメリカ大統領選挙にあって問題ともなった、民間の一企業であるツイッター社には、社会におけるリスク情報、あるいは、’政治的に不都合な情報’を事前検閲する正当な権利があるのか、という問題が再燃されることとなるのですが、アメリカであれ、日本国であれ、政府、あるいは、政権を担う特定の政治団体が、メディアやSNSの事業者と結託して自らの政策方針に障害となる情報を封鎖しようとする強権的な姿勢は、言論の自由を尊ぶ自由主義国が目下直面している深刻な危機とも言えましょう。

 

 新発見の無人島に人々を送り出す際に、‘危ないことなど一切ないのだから安心して行っておいで’と言いながら背中を押して船に乗せる場合と、‘何があるか分からない’として無人島にありがちなあらゆるリスクについて伝え、‘危険を察知したらすぐに引き返すように’と言って見送るのとでは、どちらが船出する人々を大事にしているのかは一目瞭然です。言葉だけを聴けば前者のほうが優しく響くのですが、明白にリスクが認められる事柄の場合には、それが必ず起きるとは限らないまでも、リスク情報こそが命綱となります。そして、リスク情報が多方面にわたり、その量が多ければ多いほどサバイバルの可能性も高まることとなりましょう。

 

 政府は、接種率を上げるべくワクチン安全神話の確立を急いでいるようですが、メディアを動員してのリスク情報の隠蔽は、リアルなリスク情報に接している国民の不信感を募らせるのみとなりましょう。あくまでもワクチンが安全と主張するならば、リスクの指摘に対して医科学的な根拠を示して正々堂々と反論すべきなのです。一般的には、議論から逃げている側を人々は’敗者’と見なすものです。政府やメディアによるワクチン安全神話の流布は、この意味においても逆効果となるのではないかと思うのです。


若者のワクチン接種問題

2021年07月09日 11時51分53秒 | 日本政治

 コロナ・ワクチンは64歳以下にも接種対象が広がったことから、職域接種や大学での接種が既に始まっています。遺伝子ワクチンについては治験が終了しておらず、安全性が確認されてはいないだけに賛否の分かれるところなのですが、年齢が下がるほどワクチン否定派は増加する傾向にあります。この状況に危機感を覚えたのか、日本国政府は、若者層への効果的な接種拡大策を模索しているようです。メディアもまた、’若年層が懐いているワクチン接種への不安感を取り除くのが接種拡大への鍵’とばかりに、ワクチン安全説を一方的に振りまいています。しかしながら、政府もメディアも、心から若者を大事に思っているのでしょうか。

 

 若年層にワクチン接種を拡大させたい政府の思惑とは、先ずもって集団免疫の実現があります。人口の6割から7割程度が接種すれば集団免疫は成立すると想定されており、政府にとりましては、この数値が達成すべき’ノルマ’なのでしょう。理論上においては集団免疫が成立すれば経済活動に対する規制も解除できるため、政府の基本的なスタンスは、’社会全体のために若者はワクチンを接種すべき’ということになりましょう。そして、’大人’の立場から教育的な意味を込めて、’ワクチン接種は自分だけのためではなく、皆さんの大切な人たちを護るためでもあります’とアピールし、若年層に対して利他的精神、あるいは、自己犠牲の精神の発揚をも求めているのです。

 

 結局、政府やメディアといったワクチン推進派の人々は、一先ずは教育者の視点から若者層に対して’理解’という名の’犠牲’を説いていることとなるのですが、その一方で、ワクチンの安全性を危惧する人々は、全く別の見方をしています。そもそも、ワクチン警戒派の人々は、マスメディアが喧伝するような’情弱者’や’騙され易い人’ではなく、むしろその逆です。その多くは、政府やメディアが流す一方的なプラス情報に納得せず、様々な角度からのマイナス情報を自発的に収集したからこそ、ワクチンに懐疑的にならざるを得なくなった人々なのです。実際に、政府が目標としている集団免疫については、少なくとも新型コロナウイルス感染症に関しては条件が揃う可能性が極めて低く、成立し得ないと見なしています。つまり、ワクチン推進派の目的そのものに対して否定的なのです。

 

加えて、ワクチン警戒派の人々は、医科学的な見地からも遺伝子ワクチンが100%安全ではないことを確信しています。アメリカのCDCやイスラエルの保健当局も認めるように、青年層に心筋炎や心膜炎が発症するリスクが高いことは統計において裏付けられています。また、ワクチン推進派は’デマ’として一蹴しているものの、将来的に身体に何らかの直接、あるいは、間接的なマイナスの影響を及ぼす可能性も否定はできません。本ブログでも再三述べているように、各種臓器の機能不全、自己免疫性疾患、免疫不全、癌や腫瘍の誘発、認知症などの脳疾患、不妊、視力低下や失明など、様々なリスクが指摘されています。ワクチン接種によって一生を台無しにしかねないのですから、将来的なリスクを考慮すれば、若年層にワクチンを接種されることは’酷’であると考えるのです。

 

このことは、ワクチン警戒派の多港は、たとえ集団免疫が成立しなくとも(もっとも集団免疫の成立は無理…)、即ち、自分たちがワクチン未接種の若者層から感染したとしても、それを甘受するつもりであることを意味します。言い換えますと、ワクチン警戒派の人々は、自らを感染リスクに晒してでも、若者の命や将来を護ろうとしているのです。この考え方では、自己犠牲の精神は、むしろワクチン警戒派である’大人’’の側にあることになるでしょう。

 

もちろん、自ら進んで積極的にワクチンを接種したい若者もおりますので、こうした人々に対しては、その自由意思に任せるしかありません。しかしながら、ワクチン接種に消極的な若年層を言葉巧みに接種に誘導しようとする政府やマスメディアの方針につきましては、やはり、見直すべきではないかと思うのです。別の角度から、若者たちの未来を、そして国の行く末を思う人々もいるのですから。


孫氏のロスチャイルド発言が暴露する私的世界支配の問題

2021年07月08日 11時46分26秒 | 国際政治

 先日、ソフトバンクグループを率いてきた孫正義氏が、19世紀にあって産業革命を牽引したのはユダヤ系金融財閥のロスチャイルド家であったとして称賛し、自らも’現代のロスチャイルド’となる決意を表明したと報じられておりました。何故、この時期にロスチャイルド礼賛発言があったのか、不思議なところなのですが、デジタル社会化の波が押し寄せている今日、同氏の発言は、本人の意図を越えた’何か’を暴露しているようにも思えます。

 

 近代という時代はヨーロッパにおいて啓蒙思想が広がり、人は生まれながらにして自由で平等な存在であるとする意識が根付いた時代でもありました。ギリシャ哲学に起源を遡る同思想が(古代ギリシャの民主主義が再生…)、近代人権思想、延いては民主主義の定着に貢献したことは疑いなく、自由、民主主義、法の支配、平等・公正といった諸価値は、今日、自由主義国家にあって制度化されています。人類史からしますと、人道が普遍性の下で全世界に広がった点において近代という時代にあって’光’の側面であったと言えましょう。

 

 しかしながら、近代は、’光’のみをもって語られる時代ではなかったことは、誰もが知るところです。そして、近代の’闇’の部分とは、まさしく産業革命から生まれているのです。もちろん、産業革命は、生産力の飛躍的な向上により人々の生活を豊かにし、様々な発明によって利便性を増したことは、’光’の側面として指摘することはできます。しかしながら、物質面における’光’は、必ずしも人道面におけるそれとは限りません。産業革命の時代にこそ、炭坑や工場での過酷な労働条件下での重労働のみならず、都市のスラム化、農村における伝統的なコミュニティーの崩壊、賃金労働や株式発行による人や企業の商品化、拝金主義など、人類の精神的な危機にも繋がる重大な問題を抱え込むことともなったのです。戦争が激化したのも、近代兵器や生物化学兵器の開発など、無制限なテクノジーの発展を許したからに他なりません。

 

 産業革命という時代は、一般の人々の意向などお構いなく、テクノロジーの発展に丸投げする形で遂行された時代でもありました。ようやく芽吹いた民主的な制度も、産業革命による社会全体の大変革には為す術もなかったのです(社会の社会主義・共産主義化や全体主義化もその一環では)。そして、孫氏いわく、こうした時代を画する大変革を実現した立役者こそ、産業革命の強力な推進力ともなったテクノロジーの開発に巨額の投資を行ったロスチャイルド家ということになるのでしょう。孫氏の歴史観によれば、近代という時代を動かしたのは資本家であり、デジタル化が人類に大変革をもたらしつつある現代にあっても、見習うべきモデルと見なしているのです。

 

 そして、ここで考えるべきは、ロスチャイルド家とは、一民間ユダヤ人、あるいは、民間のユダヤ系一族に過ぎないことです。つまり、孫氏が褒め讃えるように産業革命を成し遂げたのがロスチャイルド家であるならば、一人の個人、あるいは、一つの血縁集団の人間の私的な意志によって、全世界が大改造されてしまったこととなるのです。ロスチャイルド家は、政治の枠外にありますので、統治の正当性を有しているわけでもなく、国民、あるいは、人類から統治権を託されているわけでもありません。言い換えますと、最も金融力を有する一個人、あるいは、一族による私的支配が成立してしまったとも言えましょう。

 

この側面からしますと、資本主義と民主主義とは全くの別物です。人類に人道主義や民主主義を広げた近代啓蒙思想は、産業革命の波を受けて脇に追いやられ、結局、近代固有の対立構図を形成した資本主義も共産主義も、共に’闇の子’なのです。民主主義は、自由主義国にあって表面上は命脈を保ちつつも、政治の世界を含め、人類は、私的な金融支配の許に置かれることとなったのです。

 

ロスチャイルド家を以って資本家を世界の改革者、否、支配者であると公言した孫氏の発言は、図らずも、陰謀論として揶揄されてきたディープ・ステート論の信憑性を高めたことにもなりましょう。ディープ・ステートと言う表現が怪しげに響くのであれば、本ブログにあってしばしば登場する私的な超国家権力体と表現してもよいかもしれません。何れの表現であれ、グローバルレベルの金融ネットワークを以って全世界の経済のみならず政治にまで多大な影響を与える私的な勢力の問題は深刻です(ロスチャイルド家はその一角に過ぎず、イエズス会や東インド会社の系譜を引くより規模の大きな勢力、すなわち、イルミナティ―である可能性も…)。

 

日本政府が進めているムーンショット計画も半ばカルトである点は再三指摘がありますが、今日、パンデミック化によって全世界を覆うコロナ禍も、先端的バイオテクノロジーやナノテクノロジーがより徹底した人類支配の目的のために投入された結果であるのかもしれません。そして、今日にあっても、産業革命時と同様に、テクノロジーによる利便性の向上は、人道や民主主義といった諸価値に優先されるかもしれないのです。

 

孫氏を含めて同勢力が牽引する全面的なデジタル化やAIの導入、あるいは、量子コンピューターなどの次世代技術が全人類の完全管理を現実のものとする中、超国家権力体が推し進めるテクノロジーの発展の先に何があるのか、人類は、しっかりと見極めるべきと言えましょう。全人類が、私的勢力の支配に服さなければならない理由や根拠など、全くないのですから。


’ワクチン警戒派デュープス論’を三次元構造で見ると

2021年07月07日 13時20分28秒 | 国際政治

 本日、ネット上に興味深い記事が掲載されておりました。それは、「SNSの偽情報を信じて中国やロシアのデュープスになる人々(JBpress)」と題する記事です。ワクチンの危険性を訴えている人々を’デュープス’、即ち、愚か者扱いしているのですから、堂々と喧嘩を売っている、あるいは、’挑発’しているようなものです。しかしながら、冷静に考えてみますと、この記事こそ、’陰謀’、あるいは、ネット工作であるのかもしれません。

 

同本記事の論旨は至って単純です。現在の国際社会は情報戦に満ちている⇒中ロは前回の米大統領選でも影響工作を実行している⇒Qアノンやトランプ支持者も中ロの影響下にある⇒遺伝子ワクチンに関するリスク情報の流布も中ロによる情報操作である⇒ワクチン・リスク情報を信じる中ロに操られる’愚か者’である、という三段論法です。この論法は、先日、全てのワクチン・リスクを’デマ’と断言した河野太郎ワクチン担当相の主張とも通じています。何れにしましても、ワクチン・リスクを懸念する人々は思考力に劣り、偽情報に騙される’愚民’という烙印が押されているのです。そして、言外に述べられている真の結論とは、’故に、ワクチンのリスク情報を信じ込んでいる人々も早く目を覚まし、安心して遺伝子ワクチンを接種すべし’なのでしょう。

 

 しかしながら、当初、デマとして嘲笑された新型コロナウイルス武漢研究所流出説が今では信憑性を増してきているように、フェイクとされていた情報が後から事実と判明する事例は枚挙に遑がありません。否、工作を目的として政治的な意図のもとで流布された情報であっても’真っ赤な嘘’ではなく、事実が混ぜ込んであるからこそ、多くの人々が同情報を信じるとも言えましょう。バイデン氏の長男であるハンター氏に関するチャイナ疑惑も事実に基づくものでした。フェイク・ニュースというものは100%の作り話ではなく、人々を信じさせるに十分な事実が含まれている場合が多く、しばしば正真正銘のリークであるケースも少なくないのです。国民の知る権利に照らしてフェイク・ニュースの排除が問題となる理由は、それに内包する事実をも同時に葬り去るリスクと背中合わせであるからに他ならないのです(フェイクの名の下で、国民が知るべき事実も闇に葬られてしまう…)。

 

 そして、ここで、一つの疑問点が浮かび上がってきます。同記事の筆者は、中ロの工作活動に対する批判からワクチン接種を薦めています。その基本的なポジションは、’敵国’の工作から自国民を護ろうとする’愛国者’のものです。しかしながら、その一方で、ワクチン・リスクは、デマとして片付けられるレベルのものではありません。ワクチン接種後の死亡や重篤な有害現象は多数報告されておりますし、医科学的な根拠を伴うリスクの指摘も少なくないからです。即ち、ワクチンは安全とする主張は、医科学的に証明されているわけではなく、’因果関係は評価できない’あるいは’絶対にこれを認めない’とする頑ななまでの信念に過ぎないのです。SNS情報信じる人々を’デュープス’とするならば、確かな根拠もなく因果関係を頭から完全否定する人々も、’デュープス’ということになりましょう。そして、ワクチンのリスクは実在するのですから、同記事の筆者は、愛国者の立場を強調しながらも、逆に、自らの国民に対して命を危険に晒す、つまり、結果的には自国民の’自滅’となりかねないワクチン接種を薦めているということになるのです。こうしたあたかも’愛国者の仮面’を被ったアンチ愛国者であるかのような態度の謎を解くカギは、近代以降、国際社会を覆ってきた三次元構造にあるのかもしれません。

 

国際社会を平面的に捉える見方からすれば、同記事の筆者の見解は、自由主義国(アメリカ)対全体主義国(中ロ)という二項対立、二次元対立に基づいています。同構図において、アメリカの製薬会社であるファイザー社やモデルナ社が開発した遺伝子ワクチンは、自由主義国の救世主であり、多くの国民をコロナ禍から救っていることになります。つまり、ワクチン接種は、中ロという脅威を前にした国民間の結束の要に位置することとなりましょう。

 

その一方で、国際社会における構図を把握する視点を二次元から三次元に転換しますと、同記事こそ、’影響工作’である可能性も見えてきます。国際社会における三次元構造とは、表面的には平面的な国家間対立の様相を呈しながら、その実、敵対する両者をさらに上から操る’上部’が存在しているというものです。所謂’両頭作戦’双方を巧妙に欺く’偽旗作戦’というものなのですが、’上部’の目的が’人類にできる限り多くのワクチンを接種させる’というものであるならば、二次元における国家間の対立構図を巧みに利用して、自由主義国において一定数を占めるワクチン警戒派の人々を接種に追い込むという手法が選択されても不思議ではありません。

 

同記事がファイザー社の意向を受けて執筆された可能性もありますが、今日の国際社会は、もはや単純な平面図では理解できない状況にあります。三次元の立体構造として冷静に観察すればこそ、危機の本質が把握され、それからの脱出方法も見出されるかもしれません。あらゆる可能性を考慮しつつ、騙されないことこそ、肝心なのです。