万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

緊急事態では国会の'ブレーキ機能'も期待できない

2022年08月19日 13時37分29秒 | 統治制度論
 緊急事態条項に伴う首相への権限集中による独裁化、並びに、これとセットとなる国民の基本的な自由や権利の制限に関する懸念については、国会が制御機能を果たすとして問題視しない意見も聞かれます。同見解が主張するように、「自民党憲法改正案」の第98条並びに第99条には、国会の関与を定める幾つかの条文を確かに見出すことができます。しかしながら、国会に期待されている制御機能は、無力化してしまう可能性が高いのではないでしょうか。

 憲法改正案に記されている国会の関与とは、第一に、内閣総理大臣の緊急事態の宣言に際して、事前または事後において国会の承認を得なければならないというものです(第98条2項)。第二に、国会の事前または事後的承認を得られなかった場合、あるいは、国会が事態の推移によりもはや同宣言を必要としないとする決議した場合には、内閣総理大臣は同宣言を解除しなければなりません(第98条3項前段)。また、緊急事態宣言が100日を越えて継続される場合には、100日を越えるごとに国会の承認を得なければならないとしています(第98条3項後段)。加えて第三に、内閣総理大臣が制定する政令並びに処分についても、国家の事後承認を要します(第99条2項)。

 このように、幾重にも国会によるチェックがあり、かつ、緊急事態宣言を停止させる権限まで認められているのですから、多くの国民も、国会が担う首相の暴走に歯止めをかける安全装置が付けられているのを見て安心するかもしれません。首相独裁体制化は杞憂に過ぎないと・・・。ところが、この制御機能、第99条4項によって台無しになってしまうのです。同項には、以下の条文があります。

「緊急事態宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。」

この一文、よく読みますと、恐ろしいことが書いてあります。‘衆議院は解散されないものとし’までならばまだしも、その続きとして両議員の任期と選挙期日に関する特例の記述があるからです。つまり、特例を設ければ、衆議院議員4年、参議院議員6年の国会議員の任期を延長することができると解されるのです。緊急事態宣言下では首相に各種の重要権限が集中しますので、同特例も、内閣、否、首相の一存による政令、あるいは、指示として設けられるのでしょう。

この条文を根拠とすれば、緊急事態の宣言と同時に、首相は、国会議員を選出する民主的選挙を休止させることが可能となります。これは、事実上、一時的ではあれ、日本国から民主主義が姿を消すことを意味しましょう。そして、国会議員の側からすれば、緊急事態が続く限り国政選挙は実施されないのですから、自らの議員としての地位は安泰となります。言い換えますと、首相と議員は、緊急事態宣言の長期化において利害を共有することとなるのです。緊急事態宣言が両院の国会議員の地位、名誉、並びに、リッチな生活をも支えるとなりますと、国会に上述したブレーキ機能を期待することは難しくなります。首相と国会議員は、一蓮托生の関係にあるのですから、両者結託して緊急事態の長期化を図るかもしれないのです。

それでも、あくまでも危機的状況に対応するための臨時的な措置なのだから、緊急事態が長期化するはずはない、とする反論もありましょう。しかしながら、過去並びに現在の状況を観察していますと、長期化の懸念は深まるばかりです。かのディストピア小説、『1984年』では、世界を三分割する三つの国の独裁者が、各々戦争の危機を国民に訴えることで軍事独裁体制が維持されています。現実にあっても、かつてのソ連邦にあって全世界を震撼させたスターリンの独裁体制は、戦争終結後も武装解除せずに軍事体制を維持したことに起因していますし、北朝鮮の金王朝独裁体制の永続化の要因も、休戦状態にある朝鮮戦争を背景に常に臨戦態勢が敷かれている点に求めることができます。また、ウクライナ紛争を見ましても戦況は膠着化する兆しがあり、長期化を予測する専門家もおります。否、狡猾な政治家、あるいは、超国家権力体であれば、‘緊急事態’を意図的に長引かせることで、憲法上の緊急事態条項を悪用して、民主主義国家を合法的に独裁体制に移行させようとするかもしれません。

その一方で、震災や水害などの自然災害であれば、国民の多くは、同宣言の継続期間を体験的に予測できますので、長期化のリスクは著しく低下します。緊急事態条項新設の説明に際して、自民党が自党のウェブサイトで震災への備えを強調するのも、国民が独裁体制の永続化リスクに気がつかないための国民意識の誘導なのでしょう。もっとも、自然災害であっても、政府が被災地の混乱を放置したり、復興を意図的に遅らせるような場合には、非常事態宣言が長期化されます。加えて、今般のCOVID19のように変異性が高いウイルス、あるいは、現代の医学を以てしても有効な対策や治療法が存在しない病原体であれば、疫病を根拠とした緊急事態宣言の延長もあり得ましょう。今般の憲法改正に際して、緊急事態宣言条項が特に国民の関心を集めるようになったのも、政府によるロックダウンの強行やワクチン強制接種への不安があったからなのでしょう。

 以上に述べてきましたように、「自民党憲法改正案」には、国会のブレーキ機能への期待も虚しく、日本国が独裁体制へと体制移行してしまうリスクが潜んでいます。自民党は、こうしたリスクを認識した上で、すなわち、意図的に同改正案を作成したのでしょうか。あるいは、そこまで深く憲法案に内在する問題点を精査することなく同案を発表してしまったのでしょうか。この謎については、さらなる洞察と推理が必要なように思うのです(つづく)。

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緊急事態条項への尽きない懐疑

2022年08月18日 12時16分24秒 | 日本政治
 憲法改正と申しますと、先ずもって誰の頭にも浮かぶのは、日本国憲法第9条ではないかと思います。同条は、戦争放棄を定める故に日本国憲法の最大の特徴であり、この条文があってこそ、戦後長らく日本国の平和が守られてきたと信じる国民も少なくありません。その一方で、冷静崩壊後の中国の急速な軍事的台頭や北朝鮮の核・ミサイル開発問題は、日本国の安全を脅かしております。日本国を取り巻く国際情勢が著しく変化しているため、国民世論も、憲法改正賛成に大きく傾いてきています。このまま憲法改正の流れが加速し、政治レベルでも改正手続きに入る勢いであったのですが、ここに来て、雲行きが怪しくなってきています。何故ならば、コロナ禍を機に緊急事態条項の新設という、新たな問題が浮上してきたからです。

 ‘新たな問題’とは申しましても、平成24年に公表された「自民党憲法改正案」には、既に緊急事態条項は、第98条並びに第99条(第9章)として書き込まれています。新設されたこれらの条文を読みますと、いささか背筋が寒くなります。何故ならば、これらの緊急事態条項は、政府またはその‘雇い主’である超国家権力体によって濫用、あるいは、悪用されかねない‘隙’に満ちているからです(これらの‘隙’は、敢えて意図的に設けられているのでしょう・・・)。

 なお、自民党は、今般の憲法改正に際して強調している「4つの変えたいこと」の一つに「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」を挙げています。現在公開されている自民党のウェブサイトでは、同条項新設の必要性について将来における南海トラフ大地震や首都直下地震への備えとして説明しています。その一方で、「自民党憲法改正案」では、想定される事態として「我が国に対する外部からの攻撃」を一番目に挙げており、地震等の災害時については二番目の「内乱等の社会秩序の混乱」に続いて三番目となります。この順序からしますと、2012年にあって想定されていた緊急事態とは安全保障上の有事であったことが分かるのです。

このことは、10年前と今日では緊急事態に関する認識の比重に順位に変化が生じており、今日にあっては、災害時における同条項の活用が現実味を帯びてきていることを示唆しています。マスメディアも、頻繁に南海トラフ地震の発生が近づいているといった警戒報道を繰り返しています。あるいは、多くの国民が懸念しているように、大地震の想定は国民を納得させるための‘表看板’に過ぎず、真の狙いは、今般のコロナ禍といった疫病の蔓延をも緊急事態に含めることで、ロックダウンの強行やワクチンの強制摂取に憲法上の根拠を与えたいのかもしれません。

いささか回り道をしましたが、憲法改正後に緊急事態の宣言がなされる事態として、安全保障上の有事に加え、自然災害という想定されていることを踏まえ(内乱等については、中国や北朝鮮系の国内居住者による蜂起、あるいは、政府に対する国民の反乱への備え?)、以下に、同条項の危険性について検討してみることにしましょう。

先ずもって確認すべきは、緊急事態宣言が発令されますと、日本国の統治権力は、内閣総理大臣に集中するということです。第99条1項には、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効果を有する政令を制定できるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる」とあります。

この条文からしますと、緊急事態宣言が発せられた場合、国会による立法措置を経ることなく、内閣総理大臣は、内閣に諮りつつも自らの独断で法律を制定し、命令を発することができます。加えて、地方自治体の長は内閣の指示に従う義務が生じますので、地方自治も事実上停止されます。結果として、日本国の統治機構における権力分立が、垂直(中央・地方)・水平(立法・行政)の両レベルで消滅することでしょう(司法の独立性も人事等を介して風前の灯火に・・・)。いわば、首相独裁体制とでも言うべき体制が出現することとなります(有事にあっては、何れの国も戦時体制に移行する・・・)。

こうした集権体制は、国民の側の義務の強化によって完成されます。同条の3項には、「緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体、財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関が発する指示に従わなければならない」とあり、政府の指示に従う国民の義務が定められています。ここに国民の義務が明記されていますので、同体制下では、国家と国民との間に命令と服従という関係が成立するのです。

緊急事態における強制措置については、自国の存亡に関する危機的な状況、即ち、敵国からミサイル攻撃を受けたり、自国に敵軍が上陸するような場合には一定の根拠を認めることはできます。国民を避難誘導したり、攻撃を受けた場合、被弾に際して被害拡大の可能性のある施設などを撤去する必要があるからです。この点、局所的となる自然災害の方が必要性が高いとは言えないかもしれません。否、今般のコロナ禍のように、ロックダウンが経済活動を停止させたり、ワクチンの効果や安全性に疑いがある場合には、政府による強制的な措置は、むしろ国家が自国民の生命、身体、財産を損ねかねないという問題も生じます。

同宣言の発令条件の曖昧性からすれば、首相による恣意的な決定もあり得ますので、首相への権力集中に対する懸念の声が強まるのも当然です。もっとも、こうした批判や懸念に対しては、国会の関与を根拠とした反論もないわけではありません。確かに、緊急事態宣言の発令に際しても、国会による事前・事後の承認等が定められており、内閣に対して国会の制御機能が働くように設計されています。しかしながら、これらの安全装置も、実際に働くのかどうかは怪しい限りなのです(つづく)。

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政教分離を‘骨抜き’にする自民党の憲法第20条改正案-カルト国家化への道?

2022年08月17日 11時16分54秒 | 日本政治
 平成24(2012)年に公表された「自民党憲法改正案」を読みますと、天皇の神聖性が失われ、皇族の俗人化も急速に進む時代にありながら、天皇を中心とした‘神の国’の建設を目指しているように思えます。‘神の国’、あるいは、‘神聖国家’と申しますと、国民の多くは、日本国の伝統宗教である神道に基づき、現人神である天皇を国家祭祀の長とする戦前の国家体制を思い浮かべるのでしょう。しかしながら、世界平和統一家庭連合や創価学会等の新興宗教団体による活発な政治活動をからしますと、自民党が改正案で示している方向性は、必ずしも明治憲法下の国家体制への回帰ではないようです。

 それでは、自民党が理想とする国家像にあって、政治と宗教とは、どのような関係となるのでしょうか。「自民党憲法改正案」は、政教分離の原則を定めた現行憲法第20条についても、改正案を記しています。この改正、実のところ、政教分離原則の骨抜き案なのです。何故ならば、現行の憲法第20条に明記されていた「いかなる宗教団体も、・・・政治上の権力を行使してはならない」とする政教分離の核心となる箇所が削除されているからです。即ち、憲法が同草案通りに改正されるとなりますと、特定の宗教団体が政治権力を行使することが憲法上許されることとなり、近代国家の統治上の原則ともされてきた政教分離の原則が日本国から消滅してしまうのです。

 政治の領域を宗教的非合理性から守る防波堤の役割を担ってきた政教分離の原則が失われるのですから、この問題は重大です。国民も危機感をもってより強い関心を寄せるべきなのですが、マスメディアを始め、政治サイドにあっても同改正案については積極的に触れようとはしません。その背景には、‘寝た子を起こすな’と言わんばかりに、国民が睡眠状態にある間に改正案を通してしまいたい同党の思惑が推察されるのです。

宗教であれ、政治的イデオロギーであれ、権威の絶対化や洗脳は、国民を自らに服従させ、強力な支配の手段となるのは、中国や北朝鮮の国家体制を見れば一目瞭然です。神やイデオロギーを持ち出せば、如何なる人物でも権威を纏うことができますし、人々もその言葉に従わざるを得なくなるからです(凡庸な‘おじさん’でも、ひとたび教祖を名乗ると人々がひれ伏す権威となってしまう・・・)。それ故に、権威主義体制における儀式は、国民の心理操作のための舞台装置であり、大げさな演出が施されるのでしょう。

しかも、宗教的権威者の言葉が‘神の言葉’として発せられますと、人々は、世俗の政治問題や政策であっても、自由に議論することが難しくなります。今般、自民党の改正案が実現すれば、国民が民主的選挙によって選んでもいない人物が、宗教団体の長という立場から日本国の政治を左右する光景を目にすることとなりましょう。否、自民党と世界平和統一家庭連合、並びに、公明党と創価学会との関係を見れば、この懸念は、既に現実のものとなっています。公明党は、連立与党の一角として政治権力を行使していながら解散を命じられないのは、違憲訴訟が起こされ、違憲判決が下されていないからに過ぎないからです。図らずも、今般の自民党の改正案は、現憲法下にあって公明党や世界平和統一家庭連合等の活動が違憲であることを示すことにもなったのですが(改憲しなければ合憲性を得られない・・・)、この手法は、悪しき行為を犯罪と認定されないために犯罪リストから外し、同悪質行為を野放しにするようなものです。

人々を内面からも支配したい者の側からすれば、政教分離の原則は自らの目的達成には障害となるのであり、自由や民主主義と並んで取り除きたい原則の一つです。そして、この改正案は、保守政党の立場から自民党が伝統宗教である神道を重んじたいのではなく、公明党や世界平和統一家庭連合、あるいは、超国家権力体からの要請なのでしょう。公的団体による宗教活動の禁止については、社会的儀礼や習俗的行為の範囲を越えなければ許容されるとする一文が加筆されていますが、この基準はいかにも曖昧です。超国家権力体の‘工程表’には、第一段階において新興宗教系の宗教政党を既成事実化し、第二段階においてはこれらを合憲・合法化し(今般の改正案・・・)、最終段階では、これらの新興宗教団体が天皇家に浸透する、あるいは、乗っ取ることで‘神の国’としたいのかもしれません。実際に、‘天皇’という名称だけは継承されつつも、新興宗教団体等からカルト的要素が既に流入し、今日の皇室は、著しく変質した‘別物’となりつつあるようにも見えます。

憲法改正に際しては、自民党は、目下、「4つの変えたいこと」として「「自衛隊」の明記と「自衛の措置」の言及」、「国会や内閣の緊急事態への対応を強化」、「参議院の合区解消、各都道府県から必ず1人以上選出へ」、並びに、「教育環境の充実」の4項目を挙げています。国民の関心もこれらの項目に集まりがちですが、カルト国家への道となる政教分離の原則の骨抜きにつきましても、それが日本国の国家体制や独立性にも関わるだけに、日本国民は十分に警戒すべきではないかと思うのです。

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自民党憲法改正案にみるカルト的要素

2022年08月16日 14時34分05秒 | 日本政治
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、日本国の隷従化を公言して憚らない韓国系新興宗教団体である上に、教祖独裁とも言うべき神政政治を目指していただけに、同教団と密接な関係を築いてきた自民党は、目下、保守政党としてのイメージ崩壊という危機に直面しています。しかも、新興宗教団体による政治介入の問題は、連立を組む公明党にも波及しており、政界全体に対する国民の政治不信を決定的なものとしています。国民から湧き上がる真相究明を求める声に対して、自民党は、政治家個人の問題、あるいは、霊感商法や献金などの反社会的活動の問題に矮小化しようとしていますが、同党の弁明の通り、組織全体としての影響は全く受けていないのでしょうか。

 この問題を考えるに当たって、注目されるのは自民党の憲法改正案です。同案は平成24年4月27日に「日本国憲法改正草案」として公表されています。憲法改正に際して、同等は、現行の憲法を下敷きにしながらも全文を書き換えるという方式を採用しており、実際に、自民党の改正箇所は、前文から補足を定める第11章にまで及んでいます。憲法というものは、国家体制そのものを定める最高法規である以上、全文改正とは、それが如何に微少であれ、国家体制の変更という意味合いを持ちます。このことから、自民党案には日本国の国家体制を変えようとする強い‘意思’が窺えるのです。

例えば、改正案の前文にあって「天皇を戴く国家」という表現が見られることに加え、その第一条では、天皇を元首として位置づけています。さらに、第102条では、その第1項で国民の憲法尊重擁護義務を明記する一方、第2項では天皇をその義務の主体から外しています。第102条については、自民党は、「日本国憲法改正案Q&A(増補版)」において「政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すことはできない」と説明していますが、憲法は政治的権能のみについて記しているわけではありませんので、同党の説明で納得する国民は多くはないことでしょう。

そして、天皇が‘国民ではない’とすれば(同問題については見解が分かれている・・・)、天皇は、憲法によって憲法を遵守する義務から免除された特別の存在となります。近年、自公連立政権下にあっては、安部元首相の国葬をはじめとして、憲法や法律に根拠がないからこそ、超法規的な決定が行われる事例が目立つようになりましたが、悪しき反対解釈が蔓延れば、憲法を遵守する義務がないのですから、天皇が憲法において禁じられている政治的権能をその権威において行使する可能性も否定はできなくなります。

‘不可侵’な存在として君主を法の枠外に置く形態は、プロシア憲法などかつての立憲君主制の国の憲法にしばしば見られるのですが、自民党の目指す国家像とは、国民から超越した頂点において天皇が君臨する戦前の明治憲法下の体制に逆戻りしているようにも思えます。国体というものが、天皇と日本国とを一体化した国家体制を意味するならば、日本国は、‘天皇の国’ということになりましょう(森元首相も、「日本は天皇中心の神の国」と発言・・・)。

戦前であるならば、あるいは、自民党の国家間に対して賛意を示す国民も少なくなかったかもしれません。神武天皇を初代とする皇統の万世一系が固く信じられ、天皇は、現人神とされていたのですから。しかしながら、今日にあっては、皇統の継続性に関する懐疑論に加え、民間から皇妃を迎えるのが一般化するにつれ、血統における皇族と一般国民との違いは急速に薄らいでいます。天皇については、地位と血統との乖離が生じており、伝統に根ざした国民的な信仰の対象とは言い難くなっているのです。むしろ、メディアの報道ぶりからしますと、北朝鮮をも彷彿させるパーソナル・カルト化が懸念される状況にありましょう。

こうした天皇や皇族を取り巻く今日的な状況に鑑みますと、天皇並びに皇族のパーソナル・カルト化は、世界平和統一家庭連合との接点としても理解することもできます。何と申しましても、同教団の教祖である文鮮明氏は、「日本の天皇と韓国の王とが交差結婚をしなければならない。」「日本の皇室と(文教祖の)孫たちが結婚する時が来て、すべての国の王権の代表者たちと結婚する時代に入る。」とも述べているのですから。

憲法改正を改正することによって自民党が描く日本国の未来像は、世界平和統一家庭連合の文鮮明の子孫による日本国支配というカルト国家構想とそれほどには離れてはいないかもしれません。そして、この両者の近似性は、背後に姿を隠している超国家権力体の世界支配構想においてこそ説明されるように思えるのです。

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岸田政権の防衛費増額方針への懸念-通常兵器では勝てない

2022年08月15日 13時42分42秒 | 日本政治
 本日8月15日は、昭和天皇が玉音放送により連合国が発したポツダム宣言の受け入れを表明した日として人々の記憶に刻まれています。毎年、決まって青い空が広がる蒸し暑い日となるのですが、先の大戦において失われた尊い命への思いから、どこか厳粛な空気に覆われます。鎮魂と平和への祈りの日でもあるものの、今年は、例年といささか様子が違っているように思えます。ウクライナに続き台湾にあっても有事が絵空事ではなくなり、戦争というものが、再びリアルな情景として迫ってきているからです。

先日、岸田文雄首相も、今般の内閣改造にあたり、対中防衛力強化を目的とした防衛費増強の方針を重ねて強調していました。ペロシ米下院議長の訪台を機とした台湾海峡の緊張の高まりを受けた、国際情勢の変化への迅速なる対応として国民にアピールする狙いもあるのでしょう。あるいは、中国脅威論をもって故安部元首相の‘遺志’ともされる憲法改正への追い風としたい思惑もあるのかもしれません。同方針に異を唱えるマスメディアも殆どなく、あたかもシナリオ通りに既定路線を歩いているかのようです。

戦前であれば、政府やマスメディアによる煽りに乗せられて、国民の多くも‘時代の潮流’に抗うこともなく、突然に舞い込んできた‘開戦の報’に狂喜さえしたのでしょう。しかしながら、今日の日本国民の多くは、同大戦が残した歴史の教訓に学んでいますし、かつ、核時代を生きています。岸田政権が誘導する方向に国民が動くかどうかについては、すこぶる疑わしいのです。

そもそも、真珠湾攻撃という奇襲については、当時、イギリスがアメリカの参戦を渇望していた点を考慮しますと、‘嵌められた戦争’という見方も強ち否定はできません。また、国際社会全体が地政学的戦略思考という魔に取り憑かれていた時代でもあり、不要な戦争を、二項対立を経た世界支配の段階的プロセスにおける必然、あるいは、合理的な行為として遂行されていた側面もありました(ヘーゲル哲学の影響?)。戦後は、世界各地において植民地の独立もあり、民族自決(民主主義)、主権平等、内政不干渉等の原則に基づく現代国民国家体系が成立しましたが、戦後にあっても、しばしば世界支配の思惑がグローバルな経済利益と結びついて顔を見せるのです。そして、第三次世界大戦、並びに、核戦争のリスクが現実的な危機として認識される今日もまた、超国家権力体が描くシナリオが発動される危険な局面にあると言えましょう。

 それでは、日本国が得た歴史の教訓と核兵器の存在は、岸田政権の防衛力増強方針にどのような疑問を投げかけているのでしょうか。先ずもって、通常兵器の増強は、仮想敵国が軍事大国、かつ、核保有国である中国である以上、結局、財政上の無駄となるどころか自国に破滅的な被害を招きかねないのではないか、という重大な懸念があります。たとえ、中国が、核兵器の先制不使用の原則を堅持し、双方が通常兵器のみで戦う場合、戦場となるのは日本国となる公算は極めて高いと言わざるを得ません。台湾をめぐり米中開戦となった場合でも、中国は、米軍基地が置かれている日本国に対して攻撃を仕掛けるでしょうし、尖閣諸島に対する人民解放軍による直接的に軍事侵攻が発端となって日中戦争に至る場合にあっても、主たる攻撃の対象は日本国となりましょう。そして、先の戦争にあって、仮に原爆投下がなければ本土決戦となり、一億玉砕を覚悟しなければならなかったように、今日の対中戦争でも、通常兵器による攻撃は日本国を焼き尽くかもしれません。ロシアの軍事介入によって占領されているウクライナ東部は、主戦場となったために破壊し尽くされ、廃墟と化しているとも報じられています。

 また、本ブログで再三指摘しているように、一方が核保有国であり、かつ、もう一方が非核保有国である場合には、戦う前から戦争の結果は分かっています。核兵器の使用が勝敗の決定要因となる点も、第二次世界大戦の経験を得た教訓です。先の大戦では、日本国側が著しい劣勢にある状態での米軍による使用でしたが、日本国も、起死回生を期して原子爆弾の開発に取り組んでいました。核兵器を前にしては通常兵器における闘いは無に等しく、非核保有国にとりまして核の非対称性は越えることができない限界を意味するのです。

 もっとも、日本国は、日米同盟の下でアメリカから核の傘の提供を受けていますので、アメリカが日本国を見捨てない限り、上記の懸念は杞憂に過ぎないと言うことになります。しかしながら、自国が中国から核攻撃を受けるリスクを覚悟しつつ、日本国のために核のボタンを押すとは考えられず、上記の懸念は現実のものとなる可能性は決して低くはありません。アメリカが同盟国を信頼していれば、日本国が核を独自に保有することには抑止力を増強こそすれ何らの問題もなく、むしろ、肩の荷が降りるはずです(日米間にも核の相互抑止が働きますし、今日にあって、原爆投下の復讐のためにアメリカに対して核攻撃すべきと考える日本人は殆ど皆無では・・・)。

 合理性に徹して予測すれば、岸田政権による防衛力増強の具体的な内容には、核保有が含まれる必要がありましょう。通常兵器だけを増強しても、核という強力な後ろ盾がなければ、防衛力のみならず、抑止力としての効果も自ずと限られてしまいます。また、アメリカとの核シェアリングではなく、核の単独保有でなければ、核の非対称性に陥るリスクから逃れることができません。NPTにあっても合法的に脱退できますので、日本国は、独自に核武装をし得る状況下にあります。それにも拘わらず、岸田政権が、非核化の路線に固執し、核武装を政策オプションから外すのであれば、日本国民の多くが薄々気付いているように、岸田内閣が、超国家権力体の傀儡政権である可能性は俄然高まりましょう。先の戦争における悲劇を繰り返さないためには、国民こそ、“時代の潮流”なるものに迂闊に流されることなく、知恵を絞って罠から逃れる術を探るべきではないかと思うのです。そして、この問題は、‘世界大戦’並びに‘世界支配’と不可分に結びついているだけに、日本国のみの問題ではないのかもしれません。

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岸田内閣改造を三次元構造論から見ると-深まる世界支配?

2022年08月12日 12時05分46秒 | 国際政治
 安部元首相の暗殺事件は、山上容疑者が供述した動機が世界平和統一家庭連合(元統一教会)に対する恨みであったことから、同教団との癒着問題が、元首相に留まらず自民党全体に波及することとなりました。今般の岸田内閣改造も、国民からの批判をかわすための措置とされており、同首相も、組閣に際して‘統一教会外し’を行ったと説明しています。ところが、岸田改造内閣の顔ぶれをみますと、事態はむしろ悪化しているのではないかと疑わざるを得ないのです。

 当初より、今般の内閣改造が‘とかげのしっぽ切り’となることは予測されていたのですが、新たに任命された閣僚には、世界平和統一家庭連合との関係が指摘されていた政治家が多数含まれています。教団との関係が判明している7人の閣僚を交代したものの、改造内閣では、山際経済再生担当相、加藤勝信厚労相、寺田稔法相、西村明宏環境相、岡田直樹地方創生兼沖縄北方担当相など、既に7人の教団関係者が見出されているのですから。同教団との関係から職を解かれた萩生田光一経産相も自民党の政調会長に起用されています。新内閣ナンバー2とされる高市早苗経済安保相にも同教団系雑誌のインタビュー記事に登場した過去があり、濃厚な疑いがあるのですが、自民党の保守系議員を主要メンバーとする「日本会議」そのものも同教団と同系列との指摘もあります。

 それでは、何故、自民党、あるいは、自公政権は、世界平和統一家庭連合と絶縁することができないのでしょうか。仮に同教団が、数ある新興宗教団体の一つに過ぎないのであれば、あっさりと縁を切ることができたはずです。自民党に対する国民の信頼を根底から崩壊させるリスクをとってまで、同教団との関係を温存させるとは考えられないからです。このことは、それほどまでに同教団の‘パワー’が日本国の政治に浸透していることを示しているのですが、この常識では考えられない現象は、三次元構造から見ますと、案外、すんなりと説明できるように思えます。

 三次元構造論とは、国際社会を国家間関係から成る平面的な二次元世界としてのみ見るのではなく、国家を越える私的な超国家権力体の存在を仮定して三次元的に理解しようとするものです。超国家権力体の存在は作業仮説と言うことになるのですが、同権力体の最終目的は世界支配にありますので、まずもって、全世界において構築されている支配装置のからくりを推理し、現実と照らし合わせながら解明することが重要な作業となります。

 この視点からしますと、超国家権力体は、日本国を自らの支配体制に組み込むために、先ずもって、新興宗教団体や左翼活動団体を含む政治団体など、自らの息のかかった様々な組織を設立すると共に、皇室を含め、政党、官僚組織、企業、学校、伝統宗教法人などの既存の組織をその権力、並びに、権威もろとも乗っ取るという作戦を展開しているものと推測されます。これらの組織の末端のメンバーは、気がつかぬうちに超国家権力体の‘駒’や‘手下’として使われてしまうケースも少なくないことでしょう。

また、愛国心は、同権力体にとりましては世界支配の障害となりますので、できれば自らの縁者や海外に出自を遡る人物を上部に配置するか、あるいは、保守を装おり、国民の愛国心を煽りつつ、それを自らの目的のために利用する必要があります。戦争を遂行するためには、国民の自発的な愛国心の高揚も不可欠であるからです。自民党、世界平和統一家庭連合、日本会議、公明党との奇妙な連携はこの目的から理解されますし、その背後に、アメリカのCIAが韓国のKCIAが蠢いており、そのさらに深部には、同権力体がしっかりと手綱を握っているのでしょう。極右と称される政治団体が、必ずしも国民国家の枠組みに拘らず、超国家主義と称される理由も、その実態が超国家権力体の下部組織であるからなのかもしれません。こうした視点から見れば、岸田首相による防衛力増強の方針も、日本国民に対する戦争誘導策の一環であるとも推測されます。

そして、行政のデジタル化も国境を越えた世界の一元的な支配の強力な道具となりますので、早急に進める必要性を同権力体は感じているはずです。グローバルに接続したネットワークを用いれば国民の個人情報を含むあらゆる政府の情報を収集できますし、情報統制も思いのままとなります。ワクチンリスクの全否定から‘デマ太郎’という異名をとった河野太郎氏がデジタル相に起用されたのも、国民からの如何なる批判や反対をも押し切る‘突破力’が期待されているからなのでしょう。ITやAIといった現代的なテクノロジーが活用されつつも、超国家権力体の支配の手法は、皇帝に権力を集中させる一方で、広域的な官僚制(現代のグローバル・デジタル・ネットワーク・・・)を敷いた古来の帝国とさして変わりはないようです。

三次元構造論からしますと、岸田改造内閣は、超国家権力体による世界支配を強化するための布陣としての側面が浮かび上がってくるように思えます。経済を見ましても、円安の流れは、輸入インフレによる物価高のみならず、割安感から日本の資産が安値で外資に買い取られる事態を招いています。また、今日、中国の手先と揶揄され、かのビル&メリンダ財団が‘大株主’となっているWHOが日本国内に支部を設置することに、岸田首相が独断で同意したとする報道もありました。三次元構造論は単なる仮説なのでしょうか、それとも、現実を説明するのでしょうか。仮にそれが現実であるならば、今や、日本国の国家の命運、並びに、国民の命に関わる重大な危機が迫っているのではないかと思うのです。

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国葬が問う国家と政治家個人との関係

2022年08月11日 12時33分04秒 | 日本政治
 安部元総理の国葬問題は、法律上の議論に加え、国葬というものについて改めて考えてみる機会を与えているように思えます。国葬とは、その名の通り、国家が主催して葬儀を執り行う葬儀の形態を意味します。

国家とは異なり、人は生物である限り誰もが死を迎えますので、葬儀とは、本来、特定の人物の死に関わる私的な事柄です。ところが、国葬のみならず、しばしば、葬儀というものが公的に行われる場合があります。今日では減少傾向にありますが、例えば日本国では、社葬や学校葬といった、故人が所属していた組織が執り行う形態もありました。在任中ではなく退職後であっても、幹部職に就任した経歴を有する人が死去した場合には、組織が葬儀を挙げるのが慣例となっていたのです。‘組織葬’はごく一般的な出来事として身近に見られたことから、国葬という形態に対しても疑問に感じる人はそう多くはないのかもしれません。こうした葬儀の形態は、亡き人を悼むと言うよりは、これまでの仕事や業績に対する組織としての感謝の気持ちが込められているのでしょう。もっとも、‘組織葬’、特に、政治家の国葬については、今日、およそ3つの側面から曲がり角に来ているようにも思えます。

第一に、今日の民主的な統治制度にあっては、政治家とは、選挙による当選を経て就任し、法によって定められた任期の間のみ職務に当たる短期的な職業です。‘誰もが政治家になり得る’という民主主義の建前からすれば、落選や立候補の見送りなどによって議席を失えば、如何なる政治家も‘ただの人’となるのです。今日、政党という存在が、政治家という職を‘終身雇用化’しているのですが、制度としては選挙ごとのにポストの就任する人物が入れ替わることを想定しています。企業における社葬という形態の減少は、終身雇用制の揺らぎと無縁ではないのでしょう。

もっとも、民主主義国家であっても、大統領を務めた人物を国葬としてきたアメリカ等の事例を挙げて、日本国の首相の国葬を支持する反論もあるかもしれません。しかしながら、日本国は議院内閣制の国ですので、首相と国民との間にあって直接的な責任・信託関係が成り立っていません。国民は、普通選挙によって国会議員を選んではいても、実質的に首相を選んでいるのは政党です。この現実からすれば、元首相の葬儀は、国葬よりも党葬が望ましいと言えましょう。

それでは、議院内閣制における首相であっても、飛び抜けて国家に対する貢献度が高い人物であれば、国葬とすべきなのでしょうか。第二の側面として、政治家の国家に対する貢献度に関する評価が極めて難しい点を挙げることができます。政治的自由が保障されている民主主義国家では、政治家に対する国民の評価基準はまちまちであり、同一の人物であっても、国民の評価が分かれることも珍しくありません。

安倍元首相のケースでも、その経済政策であるアベノミクスに対しては、新自由主義に大きく傾斜したことから、左派のみならず保守層からも厳しい批判がありました。ましてや、安部元首相と元統一教会との関係が明るみに出たことにより、日本国を守る保守派の旗手としてのイメージも損なわれています。マスメディアの多くは、元統一教会の信者に対する多額寄付体質や霊感商法と言った反社会的な活動に焦点を当てて報じていますが、最大の問題点は、同新興宗教団体が、反国家、即ち、日本国の支配をもくろむ反日本国的な体質の組織であったことにありましょう。このため、元安倍首相が日本国という国家とその国民に貢献したのかと申しますと、大きな疑問符が付いてしまうのです。

また、貢献度という尺度ではなく、政権の時間的な長さを判断基準とするにしても、理由の後付けのような観は拭えません。安部元首相が銃弾に倒れなければ、国葬はあり得なかったことでしょう。また、長期政権化に価値があるならば、独裁化を肯定的に評価する前例ともなる懸念もありましょう(長ければよいというものでもない・・・)。また、岸田首相は‘世界’からの高い評価を国葬の理由として強調していますが、内外の評価が逆となる場合もあります。むしろ、海外からの賞賛される指導者の真の姿が、海外勢力の手先であるケースもあるのですから。なお、国民の誰もが納得する国葬とは、おそらく、戦争や公務の遂行に際して自らの命を捧げ、殉職された方々なのでしょう。しかしながら、元統一教会がらみの事件ですので、安部元首相は殉職でもないのです(海外勢力による暗殺であっても、その理由が判明しない限り、殉職とは判断できない・・・)。

第三の側面は、組織と個人との未分化です。かつて日本国の企業は、‘村社会’であると評されてきました。家族的なアットホームな関係であればプラス面となるのでしょうが、組織内における上司・部下の関係が私的な領域にまで及び、休日でも上司の私用のために駆り出されることもあったのです。終身雇用制が揺らぎつつある今日、組織内における関係性はよりドライとなり、職場と私的領域とを分ける傾向が強まっています。 ‘人生百年’とも言われるように寿命が伸びたこともあって、一端、組織から離れますと残りの人生は、個人として生きることとなるのです。

‘君主’などといった終身制の地位であれば、国葬は、当然のこととして国民に受け入れられるのかもしれません(もっとも今日では、君主であっても、国家との一体性が著しく希薄化している・・・)。しかしながら、安部元首相の場合、衆議院議員という公的な職にはありましたが、既に首相職からは離れています。首相を務めたという経歴が、どれほど日本国という国家と政治家個人の‘一体性’の根拠となるのか、疑問と言わざるを得ないのです(首相経験者を基準とすれば、反日政策を遂行した村山元首相や鳩山元首相も‘国家的な存在’に・・・)。

以上に主要な論点として三点ほど挙げてみましたが、国葬という葬儀の形態につきましては、今日的な視点から再考してみる必要があるように思えます。安部元首相の歴史的な評価が定まるのは、隠されてきたあらゆる事実が明らかにされた後となるのでしょうが、少なくとも、国葬を当然のこととして捉えてはならないように思えるのです。

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安部元首相の国葬を法律問題として考えてみる

2022年08月10日 10時51分09秒 | 日本政治
 安部元首相暗殺事件は、岸田文雄首相が国葬を即決したことから、思わぬ方向に波紋を広げることとなりました。国葬に対する各社の世論調査の結果は、メディアが世論誘導・同調圧力装置となっている今日にあってはまちまちなのですが、それでも元統一教会との関係が明らかになるにつれ、国葬に対する反対意見は増加傾向にあるようです。おそらく、声高には反対を叫ばないまでも、大多数の国民が訝しく感じているのでしょう。どこか納得がいかないと・・・。

 国葬に関する法令は戦後に廃止されたこともあり、国葬という儀式については法的根拠がない状態にあります。このため、市民団体の動きも活発化してきており、先月の7月21日には、国葬の差し止めを求める仮処分が申し立てられたのに続き、今月の8月9日には、これとは別の団体が提訴に踏み切っています。今後は、安部元首相の国葬に関する違憲性並びに違法性、あるいは、不法性が裁判所で争われることとなりましょう。‘市民団体’とは、退陣後も‘安部政治’を糾弾してきた左翼系の団体と推測され、イデオロギー的な偏向もあるのでしょうが、それでも、国葬の法的根拠の問題は、日本国の法秩序の問題でもありますので、国民の多くも懸念するところです。

それでは、現行の日本国憲法には、元首相の国葬に法的根拠を与える条文が存在しているのでしょうか。実のところ、憲法を端から端まで読みましても、国葬に関する記述を見いだすことはできません。今般の国葬は、7月22日の岸田内閣の閣議決定によって正式に決定されたものの、憲法第73条に定める内閣の職務には、国葬を含む儀式に関する事項が含まれていないのです。

その一方で、憲法において‘儀式’という文字が記されている条文は、天皇の国事行為を定めた第7条10項のみです。それでは、天皇であれば、‘儀式’の一つとして国葬を決定することができるのでしょうか。この点、同項には「儀式を行うこと」と表現されており、儀式の具体的な内容を‘決めること’とは記されてはいません。憲法上、天皇には政治に関する権能はありませんので、同条文も、形式的な主催者を意味するに過ぎないのでしょう。因みに、安部元首相の国葬が行われる場合、その主催者は、天皇なのか、政府なのか、という別の問題も生じるかもしれません。

 次に、法律はどうでしょうか。内閣法の第1条にも「内閣は、国民主権の理念にのつとり、日本国憲法第七十三条その他日本国憲法に定める職務を行う」とあります。むしろ、法律は、内閣の職務を憲法の枠内に限定しており、これを越えた権限を行使することはできないと解釈されるのです。なお、内閣設置法第3条33項には、「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること」とありますが、この法文は、あくまでも内閣を補佐する役割を担う内閣府の所掌事務について定めたものであり、内閣そのものに関するものではありません(6時30分に加筆しました)。 法律において国家による葬儀を定めているのは、天皇崩御に際して執り行われる大喪の礼のみです。皇室典範第25条には、「天皇が報じたときは、大喪の礼を行う。」とあります。言い換えますと、大喪の礼以外の国葬は、法文において具体的な根拠や内容を明記した法律がないのです。

以上の諸点に鑑みて、‘市民団体’は、法律問題として国葬の差し止めを求めているのですが、第一に問題とされるのは、国葬決定の法的手続きです。同団体は、閣議決定を以て国葬を決定した岸田内閣の行為は憲法に定めた権限を越える越権であり、仮に、安部元首相の葬儀を国葬として行うならば、民主的選挙で選ばれた国会議員が国会において審議を尽くし、国葬に関する法律を成立させた上で執り行うべきと主張しているのです(憲法上、国会が国権の最高機関・・・)。民主的統治制度における手続き上の違憲・違法性を問題とした反対論と言えましょう。

 こうした民主的手続き上の批判の他に、市民団体が訴えている第二の問題点は、国葬が、憲法第19条が保障する思想及び良心の自由を侵害する行為に当たるというものです。全ての国民が安部元首相に対して好意的ではないにも拘わらず、国民に対して弔意の表明が強制されるとなれば、自己の内面を歪めざるを得なくなります。地方自治体の中には、半旗の掲揚を求める教育委員会もあるそうですが、国葬の日となる9月27日、校庭に生徒が集められ、全員が頭をたれて黙祷を捧げる光景が全国的に広がれば、どこか全体主義の足音も聞こえてきそうでもあります。もっとも、この批判点は、法律上の根拠がある大喪の礼にも共通することにもなりますので、別に論じる必要がありましょう。

以上の市民団体の背景が何であれ、その主張については、真剣に考えるべき理があるように思えます。仮に、憲法や法律において明文の規定が欠けている場合、内閣がフリーハンドで如何なる事柄でも決定できるとなりますと、悪しき反対解釈となりかねないからです(違憲訴訟が起こされなかった吉田首相の国葬を前例として踏襲する必要はないのでは・・・)。ここは感情を排して法律問題に徹し、裁判所のみならず、国民も慎重に判断するべきと言えましょう。そして、国葬に関する問題は、現行の憲法や法律における合憲性並びに合法性に先立つ問題として、国葬とは何か、あるいは、国家と政治家個人との関係をどのように考えるべきか、という問題を問うているように思えるのです(続く)。

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ペロシ下院議長がすべきは台湾核提供法案の採択では-何よりも強力な抑止力

2022年08月09日 10時45分44秒 | 国際政治
今年の8月6日、日本国は、人類史上初めて大量破壊兵器として広島に原爆が投下されてから77年目の日を迎えることとなりました。過去の原爆投下への反省、並びに、ウクライナ危機で高まるロシアによる核の先制使用への懸念から、この日に広島で開催された「平和記念式典」に参列した国連のグテレス事務総長も、8日に設けられた日本記者クラブの記者会見の席で、核保有国に対し「核の先制使用は絶対しないということを約束し、核の脅しをしないよう求める」と述べています。

この日に先立ってニューヨークで開催されたNPT再検討会議でも、日本国の岸田文雄首相は、核の不使用を「ヒロシマ・アクション・プラン」の第一プランとして位置づけています(因みに、創価学会の名誉会長も核の先制不使用の誓約を核保有国に求める緊急提言を行っており、新興宗教団体と超国家権力との関係を示唆している・・・)。何れの提案も、核の先制不使用を核保有国の自己規律に求めているのですが、自己拘束の脆弱性については、誰もが経験から知るところです。特に、自己や身内の生命、身体、財産に拘わるような重大な危機に直面した場合には、日頃の言葉は当てにならない場合は少なくありません。しかも、詐欺師のように最初から相手を騙すつもりで、‘自分は絶対に○○しません’といったような心にもない口約束をするケースもあるのです。中国に至っては国際法さえ平然と破るのですから、自らの行動を縛るような口約束や誓約などは、わずかな水面の揺らぎでも一瞬にして消えてしまう泡のごときなのです。

となりますと、核の先制不使用をより確実にするためには、自律ではなく‘他律’を要するのは言うまでもありません。核兵器の先制使用のリスクを実質的に低減させるには、外部から抑止するしかないのです。この厳粛なる事実に鑑みますと、核兵器の抑止力の活用は理に叶っています(ミサイル防衛システムや他の核兵器無力化テクノロジーは未だ開発段階・・・)。核兵器は、最大の破壊力を有する故に、最大の抑止力をも備えているからです。破壊力と抑止力とは表裏一体であり、前者に対する後者の効果をより高めるためには、むしろ、抑止目的における核保有を増やす必要さえあるのです。

NPT第10条は、NPT体制が‘平時の体制’であることを示していますので、有事、あるいは、有事となるリスクが高い場合には、自ずと同体制は消滅せざるを得ません。核保有国と非核保有国との間で戦争に至った場合、非核保有国は、アンフェアな状況下にあって‘絶対に勝てない戦争’を戦わざるを得なくなるからです(非核保有国の通常兵器での優勢は核保有国の核兵器使用で逆転されてしまう・・・)。

核の抑止力の重要性に思い至れば、真に中国による台湾侵攻を止めようと考えているのならば、ペロシ米下院議長がすべきは、台湾を訪問することではなく、本国の議会にあって台湾に対して核の傘を確実に提供するための法案を成立させることであったように思います。米中国境正常化の後、米台間には「台湾関係法」が成立しており、両国は、事実上の軍事同盟関係にあります。同法により、アメリカは台湾に武器を提供でき、同武器に核兵器を含めることもできる状態にありますので、新たな法律は、これを確実にするための二重保障となりましょう。

その一方で、台湾の武力併合を公言している中国は、アメリカが台湾に対して核兵器を提供するはずはないと思い込んでいる節があります。おそらく、台湾への核兵器供与については、アメリカ国内にあっても十分には議論されておらず、敢えて曖昧のままにしておくという戦略を選択しているのでしょう。そしてそうであるからこそ、台湾危機に直面する今日、アメリカは、議会による立法であれ、大統領の声明であれ、中国に対して、仮に軍事侵攻計画を実行に移した場合には核による報復があることを明言しておく必要がありましょう。米ソ冷戦時代のように、超大国である核保有国相互の間では、相互確証破壊の論理が作用する可能性が極めて高いのです。

もっとも、同法案の成立をめぐっては、アメリカ国民の命にも関わる議論となるだけに、慎重論や反対論も予測されましょう。親中派議員等による妨害のみならず、アメリカの提供した核の傘は開かないと踏んだ中国が台湾に侵攻した場合、台湾のためにアメリカが中国から核による報復攻撃を受ける覚悟を問われるからです。仮にアメリカが従来通りの曖昧戦略をとるならば(核の傘が開かない可能性が高い・・・)、台湾は、自らの核武装を急ぐ必要があるかもしれません。台湾国内には原子力発電所が稼働していますので(プルトニウムの貯蔵・・・)、同国の科学技術力をもってすれば、台湾は、自前で核爆弾を製造することができましょう。

何れにしましても、台湾危機にあって急ぐべきは、中国を挑発することでも(意図的?)、道義心に訴えて中国に対して核の先制使用を求めることではなく、同等の物理的な力を以てそれを外部から止めることなのではないでしょうか。そしてそれは、間接的ではあれ、アメリカ、あるいは、米中両国を背後から操る超国家権力体の本心を人類の前に明かすことでもあると思うのです。

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元統一教会が‘だめ’で創価学会が‘よい’わけはない

2022年08月08日 10時19分09秒 | 国際政治
 ネット上に配信されているニュース記事を見ておりますと、元統一教会に対する批判にあふれる一方で、最近、おかしな論調の記事も見受けられるようになりました。それは、‘元統一教会と創価学会を同一視すべきではない’というものです。こうした記事は、安部元首相暗殺事件と関連し、かつ、自民党と癒着している元統一教会は批判されて当然であるけれども、自民党と一線を画する創価学会には問題はない、という創価学会擁護論として書かれたのでしょう。しかしながら、その教義や教団としての体質を見る限り、創価学会が不問に付されてよいはずもありません。

 これらの記事やそれに賛同するコメントが創価学会を擁護する主たる根拠の一つは、自民党と創価学会との間の政治信条の違いにあります。要約しますと、元統一教会は、対中脅威論や憲法第九条改正を含む軍備増強を訴えてきた自民党のタカ派を支えてきた教団である一方で、創価学会は、世界平和を志向するハト派的な教団であり、日本国を中国との戦争に導くような危ない組織ではないとしているのです。防衛や安全保障に対する基本姿勢が根本的な違うのですから、両者を同列に論じることはできず、平和の使徒である創価学会を批判するのは誤りであると言いたいのでしょう。

 しかしながら、創価学会が憲法20条に定める政教分離の原則に反する存在であり、かつ、非民主的な独裁体質を備えた教団であることは疑いようもありません。また、「総体革命」という名の日本国乗っ取り計画の下で、積極的な政界、官界、財界、教育界・・・への信者浸透戦略を実行してきたことも事実です。元統一教会であれ、創価学会であれ、近現代に設立された新興宗教団体とは、超国家権力体の実行部隊である可能性も高く、政治信条の違いは、同教団の存在を決して正当化しないのです。

 むしろ、元統一教会と創価学会との正反対とでも言うべき違いは、自公連立政権が、超国家勢力による二頭作戦の一環であった可能性を強く示唆しています。先ずもって、反日政策を国是とし、極東において軍事的な脅威となるのは、中国、北朝鮮、並びに、韓国の三国です。自公政権とは、これら三国を二つの党に振り分ける形態となります。つまり、自国連立政権とは、自民党=元統一教会=韓国(冷戦崩壊後は+北朝鮮・・・)から成る右派グループと、公明党=創価学会=中国・北朝鮮によって構成される左派グループとによる連立政権として理解されるのです。そして、どちらのグループを探しても、肝心の‘日本国’が存在していないのです。

 しかも、自民党も公明党も、極めて巧妙に国民に対して自己を欺いています。統一教会=韓国が裏から糸を引く自民党の軍備増強や愛国心の高揚は、日本国並びに日本国民を再び世界大戦へと駆り立てるためのポーズであり(偽旗作戦・・・)、創価学会=中国・北朝鮮がコントロールする公明党は、共産党や社民党といった革新系の政党を名乗らずして内部から日本国を弱体化する左派の役割を果たしているのかもしれません(偽装政党・・・)。公明党による国土交通相ポストの長期独占により、尖閣諸島周辺海域を含む日本国周辺海域の海上警備も手薄となることでしょう。外国人への地方参政権の付与や多文化共生主義など、公明党の主張は、左派政党のそれと殆ど差異がないのです。

陰謀の冷戦崩壊後、左派政党の存在意義が薄れたことと、安定を好む日本国民の国民性から政権交代が難しいことを察知した超国家権力体は、自民党と公明党の双方において内部化している新興宗教団体をもって、‘日本国’を挟み撃ちにする体制を整えたとする見方も、あり得ないことではありません。そして、いざ、戦争ともなりますと、これまでの日本国弱体化工作が致命的な弱点となって、甚大な被害と無慈悲な犠牲が日本国民に降りかかってくることでしょう。

 合理的、かつ、科学的な見地から山上容疑者による単独犯行があり得ない安倍首相暗殺事件は、日本国民の多くが陰謀の実在性をより強く意識せざるを得ない状況をもたらしています(コロナ・ワクチン接種推進もその目的が疑わしい・・・)。人々が危険性と隣り合わせにある今日、政治の世界、とりわけ‘世界政治’の世界にあって、詐術的な手法が乱用されてきた歴史は、ゆめゆめ軽視してはならないのでしょう。騙されないためには、新興宗教団体が醸し出す有形無形の同調圧力に屈することなく、自らの懐疑心に正直であるべきなのかもしれません。今日ほど、疑いという内面から発する知性や理性の正常な働きを尊重する、懐疑主義の復権を必要とする時代はないのではないかと思うのです。

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軍事的脅威に直面する国はNPTから脱退できる-中国の対日恫喝

2022年08月05日 12時24分18秒 | 国際政治
中国軍関係者の談として報じられたところによりますと、今般、ペロシ下院議長の訪台に対する‘報復’として中国が実施した軍事演習の対象には、日本国も含まれるそうです。実際に、日本国のEEZ内にある沖縄県周辺の海域にも、中国軍が発射した11発のミサイルのうち5発が落下しております。否が応でも米中間のみならず、日中間の緊張も高まっているのですが、戦争に発展する事態が想定されるからこそ、改めて考えてみるべき点があります。

8月1日より、ニューヨークにおいてNPT再検討会議が開催されていますが、西のウクライナ危機に続き、東の台湾危機が発生している今であるからこそ考えてみる点とは、NPTの条文です。同条約の第10条には、脱退に関する以下の条文が記されています。

「各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する・・・」

以下に、国連安保理に対する3ヶ月前の通知という脱退手続きが記されているのですが、この条文から理解されることは、NPTは平時における条約であって有事、あるいは、軍事的衝突が懸念される状況下における適用は想定されていないという点です。考えても見ますと、同脱退条項は、当たり前と言えば当たり前です。何故ならば、物理的な力によって勝敗を決する戦争にあっては、兵器の能力が最大の勝利要因となりますので、一方にのみ絶対的な優位性を約束する兵器の保有、並びに、使用を認めると言うことは、合理的に考えればあり得ません。たとえ通常兵器において勝利を目前にしていたとしても、核保有国が非核保有国に対して核兵器を使用すれば、戦局はいとも簡単に逆転してしまうからです。勝利まで至らなくとも、少なくとも‘相打ち’まで持ち込むことはできましょう。現代に登場した核兵器は、古代ヒッタイトの鉄製武器、アレキサンダーのプランクス戦法、モンゴル帝国の騎兵そして近世の鉄砲や大砲の登場に勝る威力があるのです。

NPTの条文を丁寧に読みますと、戦時あるいは戦争リスクが強く認識される状況下においては、何れの締約国も核兵器の保有が国際法において許されているとしか解釈のしようがありません。この点を考慮しますと、ロシアによる軍事介入に直面しながら核保有という選択を怠ったウクライナの行動の方が、余程、不可思議なのです。あたかも、戦時にあってもNPTは厳格に遵守しなければならず、核兵器は保有できない、という条約上の拘束があるかのようにウクライナは振る舞っているのです。

同国がNPTからの脱退する正当な権利がありながらこれを行使しなかった理由としては、三次元戦争の視点から推理しますと、あえてNPT体制を維持するために同オプションを無視したのかもしれません。超国家権力体にとりましては、世界支配のためには、安保理理事国にして軍事大国でもある五カ国のみならず、イスラエルや北朝鮮(脅迫要員?)のみに核を独占させる方が好都合なのでしょう。ウクライナの非合理的な対応は、ウクライナ危機もまた、裏から操られた、あるいは、演出された可能性を示唆しているのです。

そして、台湾危機が中国による攻撃の可能性を高めている今日、日本国もまた、現状を‘この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしている’として、NPT第10条に基づいて同条約から脱退することができるはずです(なお、NPTでは、3ヶ月前の通告を義務づけていますが、奇襲攻撃を受けるリスクが高い場合には、正当防衛権の行使として事後的であれICJ等に対して脱退の合法性を主張できるはず・・・)。中国の脅威に対抗するために、NPT再検討会議における議論の如何に拘わらず、日本国政府は、早急にNPTからの脱退に舵を切り替えるべきなのではないでしょうか。仮に、ウクライナと同様に、日本国もまた核保有に二の足を踏むならば、台湾危機にも超国家権力体が準備したシナリオがあるとする疑いがより一層濃くなるのではないかと思うのです。

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台湾有事が示唆する日本国の核武装の必要性

2022年08月04日 10時30分17秒 | 国際政治
アメリカのペロシ下院議長の訪台により、米中両国が双方とも台湾周辺海域に空母を派遣するという事態が発生しています。同議員の訪台については、米国内外を取り巻く政治事情を見据えた英断であるとする評価が見受けられる一方で、中国の過剰とも言える反応を考え合わせますと、いたずらに軍事的緊張を高めたとする批判もあります。仮に、両国間において軍事衝突が起きれば、第三次世界大戦への道も絵空事ではなくなります。しかも、今般の米中両国による一触即発の状況は、世界支配のためのシナリオの一環である可能性もあり、何としても、米中開戦は回避しなければならない重要課題となりましょう。

日本国にとりましても、米中戦争は他人事ではありません。先ずもって、開戦と同時に米軍の前線基地を叩くべく、人民解放軍が既に照準を合わせて準備してきたミサイルが在日米軍基地に向けて一斉に発射される可能性も否定できないからです。在日米軍基地は、「日本国の施政下にある領域」にありますので、日米安保条約の第5条が発動されることでしょう。言い換えますと、米中開戦は、日中開戦をも意味しかねないのです。

ここで注目すべきは、台湾有事に端を発する中国による日本列島への最初の攻撃は、米軍基地が対象となると想定される点です。仮に在日米軍基地を狙うならば、人民解放軍の攻撃手段は、上述したようにミサイルを用いざるを得ないこととなりましょう。米中戦争の段階では、中国には、日本国に対して攻撃を加える正当な口実はありません(もっとも、人民解放軍が、台湾と同時に尖閣諸島を侵略する可能性もありますが・・・)。日本国の領海や領空で自衛隊並びに米軍と闘い、日本国の制海権や制空権を奪うには相当の戦力の消耗を要しますし、否、返り討ちに遭うリスクもあります。中国にとりましては、人民解放軍を無傷なままで温存させ、在日米軍基地を含む日本国を壊滅させる最も効率的で効果的な手段はミサイルなのです。

中国による軍事行動にあって、最も恐れるべきはミサイル攻撃となりますと、日本国の防衛はあまりにも脆弱です。ミサイル防衛システムの開発は遅々として進まず、ミサイル攻撃に対してはいわば丸腰の状態にあります。日本国政府は、ウクライナ危機を目の当たりにして、防衛費の増額を伴う防衛力の増強を約束していますが、中国によるミサイル攻撃を防御できないのであればば意味はありません。現時点で米中戦争が起きれば、座して死を待つ状況となりかねないのです。

もっとも、最初の在日米軍基地に対する攻撃に際しては、中国は、核ミサイルの使用は控えることでしょう。即、アメリカによる核による報復を受けるからです(核大国間における相互確証破壊の作用・・・)。もっとも、米中戦争から日中戦争へと拡大した場合には、中国は、小型核兵器を含めて日本国に対してのみ核兵器を使用する可能性は相当に高いと言わざるを得ません。ウクライナ危機で明らかとなったように、アメリカが自国に対する核攻撃のリスクを負ってまで同盟国のために核の報復を決断するとは思えないからです(もっとも、対日核使用の報復として、米国が中国に対してミサイル発射基地、並びに、SLBM搭載の中国軍潜水艦の全てを壊滅するような一斉核攻撃を行う場合に限り、中国から米国本土への核による反撃は封じられる・・・)。

将来的には、ミサイル攻撃を完全に防御する、あるいは、無力化する軍事システムが確立するのでしょうが、それまでに間、ミサイル攻撃に対して無防備、あるいは、防御力不足の状態は続くこととなります。となりますと、完全ではないにせよ、唯一の防御手段は、核の抑止力に、核保有国に対する軍事行動のハードルを飛躍的に高める戦争抑止力をも期待する、核保有と言うことになりましょう。年初にあって、核の不使用は、安保理常任理事国でもある核保有5カ国が合意し、かつ、岸田首相も、今般のNPT再検討会議において公表した「ヒロシマ・アクション・プラン」の一つに挙げていましたが、戦時にあっては、如何なる局面にあっても核が使用され得る可能性があります。否、核の不使用は、むしろ、核の抑止力までも弱めてしまうのです(抑止力の源泉は、核使用の可能性に対する恐怖心にある・・・)。

このように考えますと、台湾海峡における米中間の緊張の高まりにより、日本国は、核武装の必要性に迫られているように思えます。この必要性は、中国による軍事侵攻の危機に直面している台湾にも認められましょう。そして、各国による核武装が第三次世界大戦への発展を防ぐ効果もあるとしますと、人類が、三次元戦争において勝利を収める未来も見えてくるのではないかと思うのです。

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ペロシ下院議長の訪台を三次元戦争の視点から見ると-米中合作?

2022年08月03日 13時42分15秒 | 国際政治
ウクライナ危機は、ウクライナを支援するアメリカの対ロ関係のみならず、覇権主義においてロシアと同質とみる中国との関係をも悪化させる要因となりました。今般のペロシ下院議長の台湾訪問も、自由主義並びに民主主義体制を擁護する姿勢を中国に見せつける対中牽制の狙いもあるのでしょう。ペロシ下院議長を乗せてマレーシアを飛び立った航空機は、米軍機であったそうです。

一日足らずとはいえ、ペロシ下院議長の訪台に対しては、勇気ある行動として評価する見方もあります。‘アメリカは、台湾を決して見捨てない’とする強いメッセージであり、台湾政府も国民も、さぞや心づく強く感じたことでしょう。本日、8月3日には、同議長は、台湾総統の蔡英文女史との会談のみならず、同国の議会である立法院の訪問も予定しており、権力分立を否定する共産党一党独裁国家、中国に対する‘当てつけ’なのかもしれません。

 その一方で、ペロシ下院議長の訪台に対する中国の反応は‘激烈’です。同議長は、過去にあって天安門事件を厳しく批判すると共に、チベット人やウイグル人への弾圧、並びに、香港問題についても人権問題として糾弾してきました。中国にとりましては、同議長はもとより‘好ましからざる人物’なのです。そのペロシ下院議長が、習近平国家主席が併合の方針を公言して憚らない台湾を訪問したのですから、中国は、「中国の主権と領土の侵害」とまで述べて猛反発しているのです。しかも、‘国家の主権と領土侵害’との認識にありますので、その反発は、外務省声明という名の共産主義国家ならではの口汚い‘口撃’に留まりません。

 報道によりますと、中国政府は、8月4日から7日にかけて「台湾を取り巻く海域6か所で実弾射撃訓練を実施する」と通告しているそうです。中国側では、既に中国軍用機「Su(スホイ)35」が「台湾海峡を通過している」とする中国国営新華社通信等による報道があります。その一方で、台湾のメディアも、‘中国軍のミサイル駆逐艦の航行が確認され’ると共に、‘空母「遼寧」と「山東」が出港した’とも報じています。‘台湾海峡波高し’の状況にあるのですが、米軍もまた、米海軍の関連団体「米海軍協会」によれば、米空母ロナルド・レーガンがフィリピン海に、強襲揚陸艦トリポリが沖縄周辺に展開しているそうです。

かくして、メディアは、偶発的な事件が米中間の軍事衝突を招きかねない危機的現状を報じることになるのですが、果たして、この米中間の対立激化は、両国間の応酬による偶然の成り行きなのでしょうか。このまま事態がエスカレートすれば、第三次世界大戦を招きかねないのですが、三次元戦争の視点から見ますと、以下のようなシナリオもあり得るようにお思えます。

 三次元戦争における第三の当事者は、国家ではなく超国家権力体です。そして、この勢力の目的は、第三次世界大戦を引き起こすことであり、二次元における当事国の一国は、ロシアであっても中国であっても構わないのです。ウクライナ情勢は、今日、膠着状態に陥っている上に、各国とも第三次世界大戦、あるいは、核戦争を警戒して、思い通りに戦線を拡大することができません。そこで、次なる‘発火点’として白羽の矢を立てたのが台湾であり、このためには、偶発的な事件を装って米中間の軍事的衝突を起こす必要があります。同シナリオにあっては、ペロシ下院議長の訪台は中国に対する‘挑発’であり、中国の過激とも言える軍事的対応も戦争への道を自然に見せるためのカバーストーリーの一幕なのです。

もっとも、超国家権力は、中国に対してはより手の込んだシナリオを準備しているかもしれません。体何故ならば、習主席の立場が危ういとする報道があるからです。同主席は、人事を掌握し切れていないとする報道もあります。同報道が事実であるならば、習主席は、自己を頂点とする独裁体制を維持するために、戦争に訴えるかもしれませんし、河北省の避暑地である北戴河にて毎年開かれている、歴代指導者や共産党幹部が結集する秘密会議において、アメリカに対する手ぬるい対応を責められ、開戦の決断を迫れるかもしれません。あるいは、上述した習体制の動揺が事実であるならば、同会議にあって、超国家権力体は習主席の首をすげ替えて、中国のトップにより戦争遂行にふさわしい人物をキャスティングするかもしれません。何れのシナリオであっても、誰もが納得してしまいそうなカバー・ストーリーです。

過去の二度の世界大戦に遭っても、背後から超国家勢力が各国を巧妙に操っていた節があります。ウクライナ危機にせよ、台湾危機にせよ、各国政府も国民も、三次元戦争の視点からシナリオの存在を疑ってみることも大事な作業なのではないかと思うのです。‘時代の潮流’なるものに流されて、多大なる犠牲を払わされないために。

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岸田政権もカルト政権?-「核なき世界」のお花畑

2022年08月02日 12時54分54秒 | 国際政治
 昨日、8月1日からニューヨークにて始まったNPT再検討会議は、核戦争へのエスカレートが危惧されるウクライナ危機の最中での開催だけに、国際社会からかつてない注目を集めています。唯一の被爆国である日本国を代表して岸田文雄首相も出席し、各国代表を前に演説を行ったのですが、同演説、どれほどの諸国の代表の心に響いたのでしょうか。これが怪しい限りなのです。

 岸田首相の演説の内容とは、大まかに言えば、‘核戦争の危機にある今だからこそ、非核化に向けて前進しよう’というものです。岸田首相が被爆地である広島出身ということもあり、同演説では、5つの行動計画からなる「ヒロシマ・アクション・プラン」も公表されています。5つの行動とは、(1)威嚇を含めた核兵器不使用の継続、(2)透明性の向上、(3)核兵器の減少傾向の維持、(4)核兵器不拡散と原子力の平和利用の促進、(5)各国首脳の被爆地訪問となります。この他にも「ユース非核リーダー基金」なるものを国連に設け、若者世代が被爆の悲惨な実態を知るためのネットワークを構築すると共に、各国の現・元首脳向けには、「国際賢人会議」の第一回会合を広島で開催するとも語っています。しかしながら、このプラン、‘お花畑’としか言いようがありません。

 第1に、核兵器の不使用を提起していますが、ウクライナ危機にあってロシアは既に核兵器の使用を示唆し、威嚇に用いている現実があります。今年の1月3日には、米英仏ロ中の国連安保理常任理事国の五カ国によって「核戦争の防止と軍拡競争の回避に関する共同声明」が発表されていますが、ロシアのみならず、中国が同声明の内容を誠実に遵守すると信じる人は殆どいないことでしょう。また、この行動規範は、核保有国を対象としていますが、首相のいう‘核保有国’にイスラエル、インド、パキスタン、そして、北朝鮮が含まれていなければ意味がありません。これらの諸国には何らの義務も課されませんので、非核保有国は、核による威嚇や攻撃の危機に晒され続けるのです。なお、核を保有していても使用さえしなければ‘問題なし’ならば、この核不使用の原則の下で、日本国を含む中小の非核保有国が抑止力として核を保有することも許されるはずです。つまり、核不使用の原則は、抑止的核保有の原則ともなり得のです(この点は、肯定的に評価できるかもしれない・・・)。

 第2、透明性の向上につきましても、あまりにも非現実的と言わざるを得ません。昨日、日経新聞の8月1日付の朝刊の一面には、「新疆核実験再開の兆候」とする見出しの記事が掲載されていました。この記事を読みますと、解析に用いた疑惑の衛星画像は、アメリカの民間企業であるPlanet Lab社よってもたらされたことが分かります。つまり、中国は、常に核開発や核戦略等の実態を隠しているのです。台湾有事を睨んで米中両国が小型核の開発競争にしのぎを削る中、今後とも、非核国の日本国の首相の呼びかけによって、中国が、自らの核戦略をオープンにするとは考えられません。なお、首相は、頓挫している核兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT)の交渉開始を求めていますが、この条約は、むしろ、原子力発電で生じるプルトニウム生産をも規制することとなるため、非核保有国の潜在的な核保有オプションを封じることが目的であるのかもしれません。

 第3に、岸田首相は、核兵器の減少傾向の維持と述べておりますが、核弾頭の削減が進展したのは米ロ間のみです。中国については今なおも野放しの状況にあり、同国が、対米バランスを目指して核弾頭数を増やしていることは疑い得ません。米中対話を後押しするともありますが、両国とも、それが結局は‘化かし合い’となることに内心気づいているはずです。

 第4につきましても、核保有国でさえ北朝鮮の核を放棄させない現状を全く無視しております。否、北朝鮮の事例は、経済的には最貧国であっても、核兵器さえ保有していれば、対等な立場から核保有国、すなわち、軍事大国を牽制し得る事例となっているのです。その一方で、ウクライナの事例は、「ブタペスト合意」を信じて核を放棄したものの、決して核保有国によって安全を保障されることがなかった悲劇を国際社会にまざまざと見せつけています(「ブタペスト合意」によってウクライナは、核保有を断念することの見返りとして、ロシア側から軍事侵略を受けないことが約束されていた)。

 そして、第5の各国首脳の被爆地訪問につきましても、その効果は期待薄です。何故ならば、原子爆弾の非人道性、並びに、その被害の凄まじさを知れば知るほどに、各国ともに、核攻撃を受けないがための抑止力としての核を保有しようとする意識も強まるからです。また、威喝として保有しようとする国も出てくるかもしれません。ミサイル防衛システムが未完成な今日において、核攻撃を防ぐ唯一の現実的な手段は、残念なことに核の抑止力しかないのが現状なのです。

 楽観的な見通しや油断が許されない国際社会の現状を知る各国の代表にとりましては、首相の演説は、いかにもこの世離れしたように聞こえたかもしれません。今般、安倍首相暗殺事件を機に自民党と新興宗教団体との関係が問題視されることとなりましたが、岸田首相の演説を聞く限り、同政権もまたカルトに染まっているのではないかと疑いも生じます。「核なき世界」を無責任に唱えていられるほど暢気な時代ではなく、目下、現実を見据えた合理的で冷静な思考を要する局面にあります。カルトというものが洗脳によって人の正常な認識力や合理的思考を歪めるならば、同提案は、まさしくカルト的なのです。

 もっとも、岸田首相の提案は、世界支配の観点からしますと、「核なき世界」という美名の下で中小の非核国を自発的にNPT体制に従わせるという意味においては理解の範疇に入りますし、詐術的ではあっても‘合理的’ではあります。新興宗教団体が超国家勢力によって組織された実行部隊である可能性を考慮しますと(NPT再検討会議については、政教分離の原則を無視して創価学会の池田大作氏も緊急提言を行っている・・・)、岸田政権は、やはりカルト政権にして傀儡政権なのかもしれないと思うのです。

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二つの平等の区別を-対等化と画一化は違う

2022年08月01日 12時41分08秒 | 社会
 フランス革命のスローガンにも含まれる自由と平等という価値については、極少数の権力欲に駆られた人々を除いて、大多数の人々はその尊重を是とすることでしょう。あるいは、少なくとも、他者から自由を束縛されたり、不当に差別されたりはしたくないはずです。今日の国際社会では国際人道法も整備され、人類共通の普遍的な価値として当然視されているのですが、平等には、二つの側面が含まれているように思えます。

 古今東西に見られたように、不条理な身分制などが公的に存在している場合には、ピラミッド型のヒエラルヒーでは上位身分は少数者となりますので、大多数の国民は平等化を歓迎します。平等という価値が最も輝きを放つのは、身分、性別、宗教といった属性の違いによって人としての扱いが違ってしまう(多民族国家では人種や民族性・・・)、理不尽で無情な上下関係をなくしたことにありましょう。平等という価値は、個々人の間での対等性を確保し、それを法の前の平等の原則の下で保障してこそ、極めて重要な価値なのです。平等の第一の側面は、個々人間の対等化です。

 その一方で、第二の平等の側面とは、画一化です。画一化としての平等にあっては、人々は、他者と違った属性を有したり、発言や行動をとることが許されなくなります。平等という価値は、上記の人と人との関係性を対等にするのではなく、個々人の個性はローラーで引くように押しつぶされる方向に働くのです。完全なる人類の画一化を達成するためには。DNAレベルでの均一性まで要求されますので、もはや全人類を同一の遺伝子で造られたクローン人間化するしかなくなります。つまり、はっきり言って不可能なのです。

それでは、今日における平等とは、どちらの側面が強いのでしょうか。上述したように、完全なる画一化は夢物語なのですが、グローバル化を背景に、‘多様性の尊重’という美名の下で(対等化としての平等)、急速な画一化が全世界レベルで進行しているように思えます。各地の街角の風景から個性が失われ、人々が着ている服装も、都会であれ田舎であれ、変わり映えがしません。Tシャツとジンズ姿の若者達だけを見れば、ニューヨークも上海も、そして、東京もさして変わりはないのです。この傾向は、全国民が一律に人民服を着せられていたかつての中国のような全体主義が、全世界レベルで静かに浸透していることの現れなのかもしれません。

そして、何よりも警戒すべきは、人々の発言や行動についても、画一化としての平等の価値が押しつけられることです。例えば、国籍、民族、年齢、DNA、性別、出身地、家系、学歴、能力、性格、・・・などのあらゆる属性に関する差異についての発言は、平等に反するとして一切禁じられ、法的な処罰の対象となりかねません(現実には、人々の間には違いは完全に消去できないので、言論を封じることに・・・)。その先には、血脈や家族を表す氏姓さえ廃止させられ(国籍や戸籍も廃止?)、各自がナンバーや記号で呼ばれる未来が待っているかもしれないのです。

また、画一化としての平等化は、同調性の要求として個々人の行動にも及ぶことでしょう。例えば、今般、コロナワクチンの接種については、強い同調圧力がかかりましたが、マスメディアや新興宗教団体といった各種動員団体などが社会全体に対する圧力装置となり、人々を同一の行動へと駆り立てていくかもしれません。もはや、‘人と違った行動’は許されないのです。

かくして、全体主義的抑圧体制は、平等という‘善意’の顔をして構築されてゆくこととなります。つまり、平等、否、画一化が人々から自由を奪うのです。となりますと、ここで、自由と平等という二つの価値が真正面から衝突するのですが、自由というものが、独立した主体としての個人の生命、意識、身体を前提として存在する限り、過激な平等主義(画一化)のために自由が犠牲になることを望む人は殆どいないことでしょう。しかも、この過激な平等化政策とは、得てして、自己の自由のみを極限までに拡大しようとしている権力者による支配の手段に過ぎないのですから。数に勝るマジョリティーを対象とした画一化とは、強制装置を備えた強大な権力がなければなし得ないことでもあるのです(何人であっても、他者に対して自分と‘同一’となるように要求はできないはず・・・)。

政策決定権を握る人物が‘平等’の価値を掲げる時ほど、国民にとりまして危険な状況はないのかもしれません。国家が定めた‘規格’から外れた国民は、存在してはならない者、即ち、排除の対象となるからです。フランス革命が国民の大量虐殺を帰結し、平等化を誘因として成立した共産主義体制が国民弾圧・抑圧体制となったのも、過激な平等主義が自らの支配体制成立に役だったからに他なりません。

このように考えますと、過激な平等主義による全体主義化の魔の手から逃れるためには、まずもって、平等という価値にあって渾然一体となってきた対等化と画一化の二つの側面を明確に区別する必要がありましょう。そして、平等の価値とは、本来、個々人の間の対等性にこそあるのですから、この側面にこそ立ち返るべきかもしれません。平等の名の下で画一化を要求されたときには、疑ってかかるべきなのです。生き方を含め、たとえ人それぞれに様々な違いがあったとしても、国民が相互に対等な存在として認め合える国家の方が、より善き国であり、自由で豊かな社会なのではないかと思うのです。

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