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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

NPTとトランプ関税の共通点-梯子外し

2025年08月08日 11時23分26秒 | 日本政治
 軍事の分野におけるNPTと今般のトランプ関税との間には、重要なる共通点があるように思えます。もちろん、両者は、後者については文書化されてはいものの、‘不平等条約’という側面において共通していることは一目瞭然です。合意した当事者の間に、義務と権利において不平等が存在するからです。

 NPTもトランプ関税も、自らのルールや合意を不平等とは見なさないはずです。あくまでも、主権平等の原則に則った国際社会の取り決め、あるいは、二国間の合意と見なしているはずです。実際に、不利な立場に置かれたはずの日本国政府さえ、国民に対しては、対等の立場で結ばれた日米双方のウィン・ウィンの合意であったように説明しています。しかしながら、その実態が不平等かつ不公平であり、両国が約した凡そ81兆円の対米投資の解釈次第では、奴隷契約的、すなわち、‘搾取や略奪の合意’になりかねないのです(仮に、アメリカ側の解釈を明記した合意文書に署名していれば、日本国政府は、奴隷契約書にサインをした‘売国奴’の誹りを免れることはできなかったことでしょう)。

 結局、日米間の解釈の違いが表面化するのは時間の問題であり、日米再交渉となるのか、あるいは、決裂も覚悟しなければならない事態も予測されましょう。本ブログは、後者を日本国の立て直しのチャンスとすべき、とする立場なのですが、この方向性は、NPTとトランプ関税とのもう一つの共通点とも関わってきます。このもう一つの共通点は、両者とも、‘梯子を外される’という顛末となる点です。後々‘梯子を外される’ことが分かっているのであれば、最初から登らない、あるいは、先が見えた時点で、安全な場所に降りた方が得策となりましょう。

 ‘梯子が外される’という表現は、高見を目指して自らを預けて登っていたものが、突如として他者によって取り去られ、行き場を失ってしまう状態を示しています。否、梯子が消えるのですから、これを登る人の意思に関係なく、地面に落下する運命が待ち構えていると言うことにもなります。NPTとトランプ関税を当てはめますと、前者については、‘核なき世界の実現’がこの梯子となりましょう。ウクライナの事例のように、「ブタベスト覚書」並びにNPTを信頼しきって核を放棄しますと、独自の核戦略を有する核保有国に軍事侵攻されるという悲劇があり得るからです。核廃絶という頂点を目指して一生懸命に階段を一段一段と登ったところ、急に‘梯子’が消えて、目の前の地面には、無法者と化した核保有国が跋扈している世界が広がっていたのです。ウクライナの運命は、他のNPT加盟国にして非核保有国全てにとりまして他人事ではありません。

 一方、トランプ関税における‘梯子’とは、グローバリズムです。戦後、アメリカも旗振り役となってグローバリズムが強力に推進されてきたのですが、グローバリズムもまた核廃絶と同様に、全ての諸国が登るべき‘梯子’とされてきました。中世の絵画が描く天国へと空に伸びる梯子のように・・・。この梯子を上に登れば登るほど、地上(現実)が遠ざかると共に、‘梯子’への依存度が高まります。そして、もはや‘梯子’なくして生きられない状態に至る寸前のところで(自国経済がグローバル体制に組み込まれ、外部経済に依存する状態・・・)、梯子は消えてしまったのです。

 かくして、‘梯子’なき後で人々が目にする地上の光景とは、世界第一位の経済大国にして巨大な消費市場を擁する国家としてのアメリカの一人勝ちであり、その背後にあって、規模の経済が支配するグローバリズムの勝者であるマネー・パワーの横暴です。今後は、アメリカへの総計200兆円を超える巨大投資と高い関税障壁による保護等によって、先端技術面でも優位となった米系グローバル企業が世界市場を席巻することでしょう。その一方で、巨額の資本流出によって資金調達もままならなくなるのですから、日本企業を含め、他の中小諸国の企業は、競争において極めて不利な状況に置かれてしまうことでしょう。この‘梯子外し’は、グローバル経済への依存度が高いほど、関税交渉における見返りの要求のつり上げなどにおいて効果が発揮されます。また、アメリカの手法に倣って、スケールメリットに優る中国も、同様の理不尽な要求を自国市場に依存する諸国に対して迫ってくるかも知れません。

 以上に、NPTとトランプ関税の共通点について述べてきましたが、このような未来が予測される以上、日本国は、‘梯子’から離れて新たなる国造りにチャレンジすべきなのではないでしょうか。狭くて不安的な一本道の‘梯子’という、既に失われた幻想にしがみつくよりも、余程、建設的で可能性の開かれた未来構想なのではないかと思うのです。

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広島県知事の精神論は現代の‘竹槍’か

2025年08月07日 11時43分38秒 | 日本政治
 第二次世界大戦末期にあって日本国の広島並びに長崎に投下された原子爆弾がもたらした惨状は、今なお多くの日本人に深い心の傷を残しています。戦後生まれの世代であっても、8月を迎える頃になると、自ずと慰霊の気持ちが湧いてくるのです。今年8月6日も、被爆地の広島では、日本国の石破茂首相をはじめ内外の要人が参列する中で平和記念式典が執り行われています。

 さて、今年の式典では、湯崎英彦広島県知事が読み上げたあいさつ文が注目されたようです。‘感動的である’としてSNSでも話題となったとも報じられているのですが、今日の世界情勢からしますと、核の抑止力を否定して核廃絶を訴える同知事に、戦前にも通じる危うさを感じずにはいられないのです。

 湯崎知事は、核の抑止力については、これをロジカルに否定したつもりのようです。核保有国であるロシアによる非核保有国であるウクライナに対する軍事攻撃を目の当たりにした今日、日本国を含む国際社会では、核保有に関する議論が起きてきています。この流れを牽制するのが同知事の目的であったことは、言うまでもありません。そこで、力の均衡が破られてきた歴史を示して、核の抑止力も無意味であるとする結論を導きたかったのでしょう。力の均衡は、万有引力の法則のように普遍的ではなく、人の意識においてしか働かないフィクションであるとして。

 しかしながら、この否定の仕方は、ロジカルとは思えません。同知事は、歴史によって抑止力が無意味であることが証明されているとしていますが、米ソ冷戦時代には、相互確証破壊論が説明したように、両国間による核戦争は抑止されてきました。核兵器保有国相互間では、今日でも抑止力は働いています。アメリカは、核兵器の開発段階にあるイランは攻撃しても、既に保有国となった北朝鮮に対しては黙認状態なのですから(最貧国でも軍事大国に対して抑止力を持てる実例・・・)。歴史が証明しているのは、むしろ、核の抑止力なのではないでしょうか。逆に、歴史は、ウクライナの事例をもって、核兵器を保有しない国は、これを保有する国によって攻撃を受けるという、厳しい現実を示しています。非核保有国の安全が保証されていない現実を歴史が証明していながら、なおも核廃絶を訴えるのは、銃を手にした無法者が街を闊歩し、犠牲者も現れているにも拘わらず、銃の保有は無駄であるから無防備であるように、と主張するようなものです。

 また、物理の法則を持ち出して、抑止効果を完全否定するのも非論理的です。心理的作用であれ、それが抑止力として働くのであれば、核兵器には持つだけの価値はあるからです。キューバ危機でも、第三次世界大戦及び核戦争への瀬戸際に追い込まれたとする両国トップの認識が、米ソ超大国間の事態のエスカレーションを抑止したとされます。軍事力の心理的効果を無視せよ、というほうが、余程、非合理的な暴論のように思えます。核兵器の抑止力は、自らが同兵器を行使すれば、相手から核の反撃を受けて自滅行為となるとする、冷静かつ合理的な予測に基づくのですから。

 そして、何よりも危惧するのは、客観的に物事を分析しようとせず、現実を直視しないという、政治家の姿勢です。戦前にあって、日本国の指導部は、戦況が悪化し、著しい物資不足が生じていても、国民に対して竹槍をもってでも闘えと訓示しています。軍事力において圧倒的に劣っていても、強い精神力があれば、必ずや勝利を手にするとする精神論です。湯崎知事も、諦めずに核兵器の廃絶を訴え続け、平和を勝ち取ろうと訴えています。この主張、一体、竹槍の精神論とどこが違うのでしょうか。

 国民の多くが竹槍では闘えないことが分かるのは、戦いに敗れた戦後のこととなのですが、全く逆のシチューエーションであれ、今日の政治家の多くも、戦前と同様の過ちを犯しているように思えます。現状を正確に把握し、現実に即して幅広い選択肢を模索するよりも、耳に心地よい言葉を国民に語り、時流に流されながら自らを正義の立場に置きつつ、その実、国民を危機に陥れてしまうという意味において。同知事は、「我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。」と述べています。しかしながら、この言葉は、知事自身を含めて核廃絶に凝り固まった人々にも言えるのではないでしょうか(合理的に判断すれば、現状にあって、核保有国が核を手放すわけもない・・・)。この意味において、現代の日本国にあっても、精神論の過ちが繰り返されているのではないかと思うのです。

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グローバリズムの本質は‘海外ファースト’

2025年08月06日 12時14分33秒 | 日本政治
 1980年代以降、グローバリズムは、新自由主義と足並みを揃える如くに全世界に広がります。地球環境問題や国連のSDGs推進、さらには、世界経済フォーラムの活動も加わる形で世界的な潮流となったグローバリズムは、全ての諸国の上部に君臨する‘絶対者’の地位に上り詰めたかのように見えた時期もあったのです。マスメディアによるプロパガンダもさる事ながら、国の政府も地方自治体も、左右を問わずにグローバリズムに邁進し、民間企業もグローバル企業への転身をめざしました。学校教育の現場でも、グローバリズムは、あたかも人々に行動規範を教える‘道徳’の授業のようなものでもあり、誰もが、グローバリズム=理想の未来=正義と信じて疑わなかったのです。行動規範としてのポジションの獲得は、グローバリズムの最大の強みであったとも言えましょう。

 こうした世界レベルでのグローバリズムの浸透を考慮しますと、今日、マスメディアが‘日本人ファースト’という言葉に対して異様なまでに拒絶反応を示し、外国人優遇説に対して‘ファクト・チェック’をもって否定するのは、極めて不可思議なことです。何故ならば、グローバリズムの片棒を担いで海外ファーストを推し進めてきたのは、他ならぬ、マスメディアであったからです。あらゆるグローバリズムへの迎合は、‘新しい時代’に即した望ましい変化として報じられ、それが、一般の日本国民や日本経済にマイナス影響を及ぼす、あるいは、差別的に扱うものであっても、歓迎一色であったのです。

 冷静になって考えてみれば、理解に苦しむ‘グローバル化’も少なくありません。例えば、社内公用語等を英語にするといった対応は、日本語を母語とする日本人一般に対しては、不便を強いると共に権利侵害ともなりかねません。征服や植民地化に伴って被征服側の母語が失われる事例は歴史に散見されますが、外国語の強制は、母語剥奪あるいは言語差別という文脈においてより敏感であった良かったはずです。また、2027年に東大に新設される予定の「カレッジ・オブ・デザイン」も全講義が英語で行なわれ、学生数の半数は外国人となるそうです。既に、同新設学科の学部長人事も英国人のマイルス・ペニントン教授に決定されており、これでは、グローバリストのために優先的に日本国が教育機関を提供しているようなものです(後々は、中国系学生用になるのでは・・・)。誰か一人ぐらいは意義を唱えそうなものなのですが・・・。ハーバード大学の留学生の受入優遇措置に至っては、法律上の根拠のない不法行為、あるいは、権力濫用の域に達しています。

 国民の生活面を見ても、米価高騰という国民生活を直撃する大問題を引き起こしながら、今後も、農産物の輸出拡大に努めるとする政府の方針にも唖然とさせられます。食糧自給率が低く、かつ、流通過程も不透明な現状にあって輸出を拡大すれば、農産物や食料品の価格はさらに上昇することは当然に予測されます。こうした政府の輸出志向も、グローバリズムによる海外優先の最たるものです。国民が農産物の供給不足とそれに伴う物価高に苦しみながら、どこに、海外の富裕層のために優先的に農産物を提供する必要性があるというのでしょうか。中国向けの海産物の輸出再開も、海に囲まれながら海産物が高級品化している今日の国民一般にとりましては、‘グッド・ニューズ’ではなく‘バッド・ニュース’なのです。

 そして、今般、日立製作所が、家電部門の売却を検討しているとも伝わります。高品質・高性能、かつ、手頃な価格の家電製品は、日本企業のお家芸であったのですが、日本の家電メーカーの大半が既に海外資本に買収されているのが現状です。日本国政府も、マスメディアも、海外企業による日本企業の買収についても問題なしの基本姿勢にありますので、買収側の企業が、中国系であれ、韓国系であれ、台湾系であれ、外資への売却を黙認することでしょう。この点、日本製鉄によるUSスチールの買収に待ったをかけ、交渉に持ち込んだアメリカの方が、まだ政府の保護的な役割を自覚しています。

 これらの海外ファーストの事例は氷山の一角でしかなく、日本国は、政府やマスメディア等がグローバリズムに取り込まれることによって、上からの崩壊の危機に直面していると言えましょう。洗脳が解けつつある今日、グローバリズムが、国民経済のグローバル体制への組み込み(従属)という意味で海外ファーストを本質とする以上、日本国民の間にそれに対する反発や抵抗が生じるのは自然な反応なのではないでしょうか。日米関税合意の雲行きも怪しくなってきた今日、グローバリズムの傲慢なる強欲さや野蛮性こそ直視すべきであり、目指すべきは、内向きと評されようとも日本国の独自性の発揮であり、国民本位の政治ではないかと思うのです。

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日本国民の怒りの矛先は政府では?

2025年08月05日 11時46分32秒 | 日本政治
 先日、7月20日に実施された参議院議員選挙では、国政選挙にあってはじめて外国人問題が選挙の争点として浮上することとなりました。「日本人ファースト」をキャッチコピーとして掲げた参政党のみならず、何れの政党も、ようやく外国人問題への取り組みを公約に記すようになったのです。もっとも、立憲民主党のように、多文化共生主義の更なる推進を訴える政党もありましたが・・・。何れにしましても、外国人問題を重要な政治課題として捉え、その解決を期待して一票を投じた国民も少なくないはずなのです。

 その一方で、大手メディアは、外国人問題の争点化を排外主義的な極右ポピュリズムと見なし、批判的な論調が大半を占めることとなります。ナチス・ドイツ時代のユダヤ人迫害なども歴史的事例として挙げられ、日本社会に外国人や異民族を差別し、排斥しようとする危険な兆候として批判的な論戦を張ったのです。中には、日本在住の外国人を登場させ、言い知れぬ恐怖心を語らせるという手法をとるメディアもありました。これは、迫害者側の日本人は‘悪’、被害者側の外国人は‘善’という、お決まりのステレオタイプの構図です。おそらく、マスメディアは、時代の変化、否、実態を無視して、‘弱者である外国人やマイノリティーを守る正義の味方’という、自らに課せられてきた従来の役回りをそのまま演じてしまったのでしょう。強者の外国人が出現し、時には犯罪者となっている現実を見ようとはしなかったのです。

 かくして、メディアでは、外国人に対して攻撃的になった一般日本人大衆というイメージの下で外国人の擁護を主張しているのですが、街を歩いていて外国人が日本人から酷い言葉を投げかけられたり、突然に日本人グループに取り囲まれて暴力を受けると入ったシーンに遭遇することは殆どありません。外国人の住居が放火されたり、投石されたというお話しも聞きません。日本国内の日常の風景は平穏なのであり、外国人が常に身の危険を感じるほどに排外主義の嵐が吹き荒れているわけではないのです(逆に、外国人人口の急増により、一般の日本人の方が身構えることはある・・・)。それでは、今般の選挙における外国人問題への関心の高さは、センセーショナルな主張に誘導された一過性の現象に過ぎなかったのでしょうか。

 外国人問題については、実のところ、今般の選挙に始まったわけではありません。在日韓国・朝鮮人問題を含めれば、戦後、相当の期間に亘って日本国内で燻ってきた問題でもあります。前者の場合には、GHQの占領方針の影響もあったその優遇措置の存在や実態については不明な点が多く、それ故に、政治問題化することが難しい側面もありました(‘陰謀’や‘妄想’として片付けられがち・・・)。ところが、グローバリズムの到来により、自公政権の下で外国人技能実習制度が開始されると共に、在留資格や公的社会保険制度への加入要件等も大幅に緩和され、かつ、日本企業の買収や不動産の取得を含めて中国資本も日本国内に大量に流入するようになります。外国人問題は、誰もが自ら体験、あるいは、容易に確認し得る現実として認識されるようになるのです。政府による相次ぐ政策によって、外国人問題は、ようやく身近な問題として否定し得ない実体を獲得したとも言えましょう。

 こうした開放政策の殆どは、水面下で検討され、実行されてきました(司令塔は、世界経済フォーラムあたりかもしれない・・・)。保守政権によるまさかの移民政策への急転換とも称されたように、外国人技能実習制度も、政府による、奇襲的な手法をもって創設されています。外国人事業者を激増させた在留資格要件の緩和についても、国民の与り知らぬところで密かに行なわれています。健康保険制度の悪用、外国事業者の再生エネ事業への参入、国立大学にあって急増する留学生数、国籍条項なき各種助成金・補助制度等の適用も、報道やネット情報がなければ誰も分からなかったことでしょう。国民に十分な情報を与えることも、合意を形成することも、丁寧な説明を試みることもなく、外国人問題は今日の惨状にまで至ってしまったのです。

 こうした経緯からしますと、日本国民の多くは、外国人に対して怒ってると言うよりも、グローバリストの走狗となって勝手に外国人を大量に招き入れ、社会・経済不安を引き起こした日本国政府に対して憤りを抱いているのではないでしょうか。政府の迂回的で密室的な手法は、民主主義を否定しているに等しく、国民無視も甚だしいからです。果たして、日本国政府には、国民を‘騙し討ち’にした自覚はあるのでしょうか。

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多文化共生主義と‘詐欺’との共通点とは

2025年08月04日 11時53分21秒 | 日本政治
 多文化共生主義につきましては、とりわけリベラル派の人々は、あたかも全人類が守るべき絶対的な道徳・倫理的原則の如くに奉っています。‘人種差別反対’のポジティブな社会版として捉えており、この位置付けからしますと、如何なる場面であれ、自国民と外国人並びに外国人集団との間に差を設けることは、絶対原則に違反する‘悪’と決めつけられてしまいます。しかしながら、多文化共生主義の理想とは裏腹に、現実に起きたのは、外国人の急増による社会や経済の不安定化であり、国家の独立性まで危ぶまれる程の危機感の高まりです。この段階に至って、ようやく多くの国民も、多文化共生主義に疑いの目を向けるようになったのかも知れません。実のところ、多文化共生主義には、詐欺との間に幾つかの共通点や類似点を見出すことができます。

 第1に、詐欺との共通点として挙げられるのは、相手に期待を持たせるために、理想的な将来像を語ることころにあります。例えば、典型的な投資詐欺の場合には、投資物件の将来的な予測完成図を描いたパンフレットを見せ、相手に投資効果を信じ込ませます。多文化共生主義の‘パンフレット’にも、整然と整ったスマートな街並みが描かれており、全世界から集まった多様な人種・民族の人々が仲良く笑顔で‘共生’している姿が描かれていることでしょう。同未来図を見せられた人々は、外国人を受入れても大丈夫に違いない、と信じてしまうのです。たとえ、同未来図が実現する確率が0.1%以下であったとしても・・・。

 第1に関連して第2に指摘すべき共通点は、リスク面を決して語らないという態度です。詐欺師は、騙そうとする相手に対してリスク情報を与えようとはしません。未来図までのプロセスが既に決定済みであるかのように語り、相手がリスク面には気がつかないようにするのです。多文化共生主義者の人々も、外国人受入に伴う多方面に亘る広範囲なリスクについては、それらがあたかも存在していないように振る舞っています。

 第3に、ネーミングそのものが、実態とかけ離れている点も、詐欺との共通点となりましょう。詐欺の真の目的は、他者から財産等をだまし取ることにあります。このため、自らの行為が詐欺であるとは決して言いません。これはあなたに利益をもたらす‘投資’です、とか、立派な‘ブランド品’です、というように、別の名称で実態を偽るのです。多文化共生主義も、‘多文化’とネーミングすることで、抵抗感が生じにくいように自らを装っています(もっとも、現実には、文化間の違いが摩擦や対立を引き起こすことも・・・)。

 ところが、人とは、多面的な存在ですので、外国人の増加による影響は文化面に留まるわけではありません。「多文化共生」を「異文化共生」と代えただけで随分と印象が違ってくるのですが、異民族共生、あるいは、より今日の日本国の実態を正確に反映させて、中国人共生、韓国・朝鮮人共生、ベトナム人共生など、具体的な民族名で表現しますと、同問題はより切実な問題として、一般の日本人に迫ってきます。あるいは、‘中国共産党共生’とでも表現しようものなら、日本人の多くは恐れおののくことでしょう。軍事大国、人口大国、共産主義国家、そして反日教育を実施してきた国家の名称が付いた途端、俄に、異民族支配や間接侵略という言葉が現実味を帯び、そして、その先には日本国滅亡のシナリオまで絵空事ではなくなってくるからです。多文化共生主義は、侵略反対という、日本国民の正当なる声を封じるための‘呪文’にも聞えてきます。

 そして極めつけの第4の共通点とは、リスクが顕在化してきたり、詐欺が発覚しそうになったときの対応です。何れも、騙されている側の方に問題があるとして、逆に責められてしまうのです。投資詐欺であれば、投資額が足りないとして追加投資を求められるかも知れませんし、多文化共生主義の場合には、‘多文化共生主義が足りない’として糾弾されてしまいます。同主義に基づいて外国人人口を増やしつつ、様々な分野で問題が表面渇してきても、その原因を同主義の不足に求めるのですから、このままでは悪循環となり、さらなる深みに嵌まってしまうことでしょう。そして、‘騙された方が悪い’という感覚で‘後の祭り’にしてしまうことが、詐欺師の常套手段でもあるのです。

 実のところ、耳障りの良い言葉で人々を惑わすのは、多文化共生主義のみではありません。共産主義然り、グローバリズム然りです。純粋に善意から多文化共生主義を信じているリベラル派の人々もいないわけではないのでしょうが、そろそろ、多文化共生主義が、真の目的を偽るための詐欺的手法である可能性に気がつくべきではないかと思うのです。

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対米巨額投資はアメリカでバブルを引き起こす?

2025年08月01日 11時57分08秒 | 国際経済
 今般のトランプ関税をめぐる各国との合意において顕著となる特徴とは、15%の関税率の適用を得るために、各国とも、アメリカに対して巨額の投資を約束したところにあります。日本国が凡そ80兆円、EUが88兆円、加えて韓国が52兆円とされます。合計で200兆円を越えてしまうのですが、一国にこれだけの巨額の投資が集中した場合、一体、何が起きるのでしょうか。

 これらの資金の投資先の決定権はアメリカにあるとされる一方で、日本国政府やEUは、民間企業に主導権があると説明しています。現時点では、何れが正しいのか判然とはしないのですが、アメリカとしては、老朽化したインフラ施設の更新、あるいは、新規建設の資金として活用したり、米企業の国際競争力を強化するために、半導体、AI、EV、製薬、ロボット、量子コンピュータ等の先端技術分野に重点的に振り向けたいところなのでしょう。

 一方、日本国政府の理解のように民間主導型であるとしますと、日本企業をはじめとした海外企業のアメリカ市場への参入となります(この場合、民間企業の投資収益から90%を納めさせるのは殆ど不可能では・・・)。後者の場合、製品輸入ではなく、海外企業に対して国内生産を促すことになりますし、アメリカ国内の雇用状況は改善されます。必ずしもアメリカにとりましてデメリットになるわけではないのですが、日本製鉄によるUSスチール買収の一件でも明らかとなったように、日本企業による米企業の買収といった形での投資には難色を示すかも知れません。あるいは、競争力に優る海外企業のアメリカ市場への上陸ともなりますと、米企業のシェアが浸食されたり、淘汰されかねませんので、このケースでも、アメリカは対米投資を歓迎はしないことでしょう。

 何れにしましても、アメリカにおいては、既に巨額投資を前提とした動きが始まっているはずです。そして、ここで思い出すべきは、1985年のプラザ合意なのではないかと思うのです。このときは、円安を背景として日本製品の輸出が好調に推移し、日本国が巨額の経常黒字を記録したことから、円高誘導に向けた国際的な合意が成立しました。その一環として、日本国政府が約束したのが、国内投資を伴う内需拡大政策への転換です。そして、公共事業分野への多額の資金の流入予測が引き起こしたのが、かの‘昭和のバブル’と言うことになりましょう。

 今般の日米合意については、‘令和版プラザ合意’とする見方もあるように、表面的な違いはあるものの、その本質において共通点を見出すことができます。両者とも、アメリカの経常収支の改善が主たる目的であるからです。もっとも、今般の場合には、先進諸国による国際的な多国間合意ではなく、アメリカが主導権を握る形での二国間合意の形態となりましたし、用いられた政策手段も、外国為替政策+金融政策と関税政策という違いがあります。そして、ここで注目されるのが、内需拡大策です。プラザ合意の場合には、日本国内の内需拡大、すなわち、投資先は日本国であったのですが、今般の関税合意では、投資先はアメリカです。このことは、アメリカにあっても、海外からの巨額の投資資金の流入を当て込んだ投機的なバブルが発生する可能性を示しているように思えます。

 対米投資資金が200兆円超えともなりますと、プラザ合意において日本国が約したとされる公共投資額とは桁違いです(日本国の場合、1兆円以下であった・・・)。インフラ建設等の公共投資の拡大期待は不動産バブルを起こしますし、証券市場にあっても投機マネーが流入することでしょう。米国民を悩ませている物価高にも拍車がかかるものと予測されます。そして、トランプ大統領の任期が切れた3年半を過ぎた当たりに、アメリカの狂乱のバブル経済は儚くも崩壊するかも知れないのです。

 バブルの発生を抑制するために、アメリカが何らかの投資コントロールを行なう可能性もありますが、何れにしましても、トランプ関税合意は、様々な面でリスクに満ちています。歪で不平等な関税合意の先も地獄であり、グローバリズムへの回帰も地獄であるならば、むしろ、関税率25%を前提とした上で、これを機に内需重視の経済システムへの切り替えを図った方が、長期的に見ますと得策のように思えるのです。

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多文化共生主義という前提が問われている

2025年07月31日 11時39分01秒 | 日本政治
 先日、全国知事会の代表が、‘外国人の受け入れと多文化共生社会の実現に向けた提言’を鈴木馨祐法相に手渡したそうです。全国知事会の役割とは、「主に地方行財政に関し、国への要望や政策提言を行う」ことにあり、今般の提言書も、同会の活動の一環なのでしょう。しかしながら、基本法の制定や司令塔組織の設置等を求める同提言書の作成には、危うさが漂っているように思えます。

 そもそも、全国知事会において反対意見や賛否両論の議論が全くなかったこと事自体が、日本国の政治状況の異常さを示しています。先の参議院議員選挙では、外国人問題が争点となり、選挙結果をもって外国人問題に関する規制強化を求める民意が示されています。この流れにあって、全ての都道府県の知事達が、誰一人として疑問を呈したり、民意の動向に触れなかったとすれば、国民無視も甚だしいことになりましょう。知事会の言い分ですと、‘外国人も日本人と同じく地域住民’とのことなのですが、その日本人が、地域住民として外国人の急増に不安を抱いていることに対しては、全く無理解なのです。知事達は、いつから住民無視の‘独裁者’になったのでしょうか。

 しかも、同提言書では、外国人に対する‘日本語教育や生活支援は受け入れ自治体任せ’になっている現状の見直しをも求めているそうです。このことは、外国人人口の急増が、地方自治体の財政を圧迫していることを意味しています。財政負担が問題であるならば、当然に、外国人の人口を抑制する、という逆の選択肢もあるはずです。外国人人口が増えなければ、サポートに予算を割く必要がなくなるからです。ところが、全国知事会は、暴走車の如くに多文化共生社会に向かう一本道を激走しているかのようなのです。

 国民を唖然とさせる全国知事会の猪突猛進は、おそらく、多文化共生主義に対する一種の信仰にあるのでしょう。言い換えますと、知事達並びに政治家の多くは、多文化共生主義の狂信者であるか、もしくは、多文化共生主義推進団体から何らかの便宜を受けているのかもしれません。そうでなければ、かくも多文化共生のスタンスで一致するわけはありません。政策名も、「多文化共生施策」と命名しており、‘はじめに多文化共生ありき’なのです。

 しかしながら、多文化共生主義とは、文化というものが共有集団を前提としている限り、日本国の社会的な分裂を意味します。つまり、外国人の出身地別にコミュニティーが各地に形成され、独自の民族社会が並立する未来像となります。実際に、既に日本国内では、中国人コミュニティーやベトナム人コミュニティーが存在し、独自のネットワークを構築しています。本国政府との繋がりも維持されているともなれば、安全保障上の脅威にもなり得るのですから、知事会は、現実を見ずにひたすらに“理想論(暴論)”を唱えていると言えましょう。日本社会の細分化を意味するのですから(一つ間違えれば、異民族支配となってしまう・・・)、一般の日本国民の心が穏やかでいられるはずもありません。そして、多文化共生主義には、日本人一般に対しては‘外国人に開かれた社会’を謳い文句としつつ、その実、外国人による閉鎖的なコミュニティーの形成を認めているのですから、同主義には、根本的な矛盾があるのです。

 この狂信的な態度は、提言書を受け取った側の鈴木法相とも共通しています。同法相は、予定を30年前倒して早ければ2040年には外国人人口が全人口の10%に達するとした上で、「国民の支持や理解を丁寧に得ていくことが必要だ」と述べているのですから。多文化共生主義が共産主義等と同様に矛盾に満ちた一種の思想である以上、たとえ懇切丁寧に説明したとしても、国民一般の理解を得ることができるとは思えません。新興宗教への勧誘と同じく、理性に照らして教義に疑問を覚える場合、人は入信しようとはしないからです。全ての物事が‘丁寧に説明すれば理解される’わけではなく、事柄の内容によっては、‘丁寧に説明しても理解を得られない’、あるいは、’十分に理解した上での不同意’というケースもあり得るのです。

 このように考えますと、政治家やマスメディアの多くが既定路線として決めつけ、絶対不動の原則として国民に刷り込もうとしている多文化共生主義の見直しこそ、急がれていると言えましょう。外国人については、古来の知恵としての‘郷に入っては郷に従え’が説くように同化政策もあり得るのですから(外国人の受入人数は同化可能な低レベルに抑える・・・)、先ずもって多文化共生主義の是非が問われるべきなのではないでしょうか。ロジカル、かつ、現実的な視点から同思想に綿密な検討が加えられますと、政治家やマスメディアの期待とは裏腹に、国民の多くは、ますます同主義から離れるのではないかと思うのです。

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対米巨額投資が財政危機を招く?

2025年07月30日 12時11分49秒 | 日本政治
 日米関税合意につきましては、関税率15%のみが日本国の成果として強調されがちなものの、凡そ80兆円とされる対米巨額投資については、両国の間で天と地ほどの解釈に差があります。言い換えますと、アメリカ側の解釈に従えば、日本国はやがて地獄を見ることにもなるのですが、とりわけ、日本国の政府系金融機関を介した融資、債務保証、出資と説明されているところが注目されます。何故ならば、この説明が正しければ、日本国の政府系金融機関は、今後、対米投資資金を調達するために、巨額の債権を発効すると推測されるからです。

 おそらく、日本政策投資銀行、あるいは、国際協力銀行あたりではないかとおもうのですが、起債に関しては、警戒が必要なように思えます。円建であれ、ドル建であれ、日本経済や財政に深刻なマイナス影響を与えるリスクがあるからです。

 円建での起債の場合には、実際に、政府系金融機関がアメリカに投資するに際して、外国為替市場にて円を米ドルに換える必要があります。トランプ大統領の任期期間にあって80兆円を全てのドルに換えるとしますと、円相場は、大きく円安に動くことでしょう。さらなる円安は、相場次第では、自動車等の対米輸出産業にとりましては、15%の関税率を吸収するほどの輸出促進効果を持つかも知れません。しかしながら、一般の企業の株式や不動産は‘お買い得状態’となりますし(海外の投資ファンドが、‘これはチャンス’とばかりに手ぐすねを引いているかもしれず、外国人による不動産取得が増加するかも知れない・・・)、何よりも、一般消費者は、輸入インフレによる物価高に苦しめられることになりましょう。

 それでは、ドル建の場合はどうでしょうか。実のところ、これは、また別のリスクがあるように思えます。日本国が世界第一位とされる公債既存率を記録し、累積債務も1000兆円を超えているにも拘わらず、デフォルトを起こさないのは、発行している国債が、円建であるからとされています。仮に、償還や利払いが滞るような事態を迎えても、日銀による救済という‘最後の手段’があるからです。自国通貨建ての発行である場合には、デフォルトを懸念する必要は殆どないに等しいのです。その一方で、外貨建てで国債や公債を発行する場合には、中央銀行による救済を期待することはできません。このことは、今般の‘不文合意’により、日本国の政府系金融機関が80兆円規模の債権を発行した場合、米ドルで償還並びに利払いをしなければならないことを意味します。しかも、政府保証付きですので、同金融機関に支払い能力がない場合には、日本国の国庫から拠出されることとなりましょう(あるいは、外貨準備から拠出?)。

 実際に、それほど額が大きいわけではないものの(10億ドル)、日本政策投資銀行は、政府保証付きでドル建の債権を発行しています。ドル建ての場合、円建よりも利率が高く、アメリカの国債並みのおよそ4%です(円建の場合は、凡そ0.1%)。今般の80兆円は、トランプ大統領の任期中とされているのですが、3年半の期間において4%を越える投資効果を上げるとは思えません。しかも、同投資から生じる利益の90%は、アメリカの取り分なのですから。

 以上に巨額起債に伴うリスクについて述べてきましたが、少なくとも政府系金融機関の起債による対米投資よりも、はじめから外貨準備を活用した方がまだ‘まし’であるのかもしれません。そして、一部の対米輸出産業のみに偏重し、かつ、リスクに満ちた日米関税合意を維持するべきなのか、今一度、考えてみる必要があるように思えるのです。

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巨額の対米投資こそグローバリストの狙いでは

2025年07月29日 09時09分39秒 | 日本政治
 FNNが7月26日と27日の両日に実施した世論調査では、日米関税合意に対して58%が‘評価する’と回答したそうです。アンケートの質問内容の説明を読みますと、当初予定されていた25%の関税の15%への引き下げのみが記されており、誘導的な調査であったことが分かります。凡そ80兆円とされ、しかも、収益が日米1対9の配分率となる巨額対米投資については伏せられ、プラス面ばかりがアピールされているのですから。回答者の多くがその他農産物、民間航空機、防衛装置品等に関する日本国側の譲歩を知れば、別の数字となったことでしょう。

 もっとも、同数字は、対外交渉の結果が藪の中であることの怖さをも示してもいます。今般の日米関税合意については、国民どころか、与野党を問わず政治家の大半も詳しい内容を把握していないのかもしれなません。合意文書も作成されていないため、石破茂首相や直接に交渉に当たった赤沢亮正経済再生担当相が、あたかも日本国に有利であるような主観的で楽観的な解釈を示すばかりなのです(アメリカ側の説明と著しく異なる・・・)。悪しき秘密主義並びに独断主義の結果でもあるのですが、国民が当然に知るべき情報であるにも拘わらず、政府やマスメディアがそれを公開しようとしない場合、そこには、常々、国民に知られては不都合、知らせない方が得をする人々が潜んでいるものです。

 かくして本件については国民の情報不足の状態が続いているのですが、それ故に、後日、著しい不利益を被ったり、犠牲に供されないためには、事の真相を探る推理は重要な作業となりましょう。そこで、本ブログでも、日米合意に含まれる対米投資80兆円について推理をめぐらしてみることとします。しばしば、事件の捜査では、最も得をする人を探るのが常道のようです。それでは、本ブログの推理はどうなのかと、ということなのですが、最も疑わしいのは、金融を牛耳るグローバリストなのです。

 関税率の引き下げの条件として、巨額投資を要求されたのは、日本国のみではありません。EUもまた、凡そ88兆円の対米投資を約束させられています。このことは、アメリカの関税戦略にあって、関税率と対米投資がセットになっていることを示しています。それでは、どのような経路をもって、これらの対米投資は、ウォール街、あるいは、グローバリストを潤すのでしょうか。本ブログの仮説は、以下の通りです。

 この絡繰りの理解の鍵は、政府系金融機関が対米投資のスキームに組み込まれているところにあります。日米合意を見る限り、日本国側の政府系金融機関が融資や出資を担当するとされています。具体的な政府系金融機関の名称は不明ではあるものの(日本政策投資銀行、国際協力銀行、日本政策金融公庫・・・)、少なくとも、現状の資産総額や運用資金では、80兆円に上る巨額の対米投資資金を賄うことは殆ど不可能です(トランプ大統領の任期中とすれば、年間20兆円を超える・・・)。となりますと、同政府系金融機関は、資金調達のための起債をする必要性に迫られます。しかも、政府保証付きで。政府保証につきましては、奇異なことに日米両国政府とも解釈が一致しているのです。

 政府保証付きの機関債であれば、リスクゼロで償還時には利払いまで受け取ることができます。日本国内のみで全ての発効債権を消化できるとは思えませんので(日本国債の新規発行額は年間で凡そ30兆円程度・・・)、海外の投資家も引き受け手となることでしょう。たとえ低金利であったとしても(因みに、日本政策投資銀行の債権は、3年ものの円建で0.125%、5年ものドル建で4.125%・・・)、これほど安全で確実な投資先はありません。対米投資用に運用資金を調達した政府系金融機関が、その後、アメリカ市場への投資を計画している日本国の民間企業に貸し出そうとも、米国債を購入しようとも、あるいは、アメリカ側が主張するように、大統領権限によって大規模なインフラ・プロジェクトやその他半導体やAIなどの先端産業分野に振り向けられようとも、自らは安泰です。そして、これらの事業が赤字を計上しても、融資が焦げ付いても、不良債権化しても一向に構わないのです。

 このことは、リスクを専ら引き受けるのが日本国の政府系金融機関であり(利益の90%をアメリカに上納するので、償還さえ危ういかも知れない・・・)、間接的には、日本国の国内投資が細り、最終的には日本国民の負担が増しかねないことを意味します。そして、このスキームは、EUとの関税合意でも採用されていますので、アメリカとの関税合意で最も得をするのは、金融界を拠点とするグローバリストとする本推理には、それなりの根拠があるるように思うのです(つづく)。

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日米関税不合意では?―違いすぎる両国の解釈

2025年07月28日 10時19分43秒 | 国際経済
 予定されていた25%の関税を15%まで引き下げたとされる日米合意は、少なくとも日本国政府とマスメディアはプラス方向に評価しているようです。しかしながら、この合意、前代未聞と言えるほど、日米間で解釈が異なっています。当事国の双方が‘勝利’を宣言している奇妙な戦争のような様相を呈しているのですが、これでは、‘日米合意’ではなく、‘日米不合意’という表現の方が適切に思えます。合意内容の双方の解釈に、天と地ほども隔たりがあるのですから。


 この一件は、如何にマスメディアが‘いい加減’であるのか、ということも示しています。そもそも、先日、マスメディアは、交渉妥結の一報に際して、両国政府の代表が何らかの文書に‘署名’をしたと報道していたはずです。ところが、日本国政府は、突然に合意文書は作成していないと言い始め、日本国内では、後者が‘正しい’とされています。それでは、一体、マスメディアは、どこから‘署名’の情報を得ていたのでしょうか。日本国政府か、あるいはマスメディアのいずれかが、虚偽の情報を国民に提供したことになります。


 こうした政府とマスメディアと間の情報の齟齬も国民の不信を招くに十分なのですが、アメリカ発の情報と日本国内での情報の違いも、情報化社会と称される時代にありながら、人々が当惑するほどの凄まじさです。双方の言語の違いを言い訳には出来ないほどに、解釈が全く違っているのです。この食い違いは、凡そ80兆円とされる対米投資の約束において顕著に表れています。


 アメリカ側の説明によれば、同80兆円は、日本国の政府系金融機関を介してアメリカに投資される資金の総額であり、同投資によって生じる利益も、その9割がアメリカの取り分とされます(日本の資金でアメリカが運用し、利益の大半はアメリカへ・・・)。しかも、投資先も分配された利益も、アメリカ大統領の裁量権に服するのであり、同プロジェクトの主導権はアメリカ側に完全に握られるのです。しかも、ベセント米財務長官は、「四半期ごとに合意が順守されているか精査する」と述べており、厳格なる監視付きでもあります(この点、石破首相も、実施に関する自らの関与を表明している・・・)。


 その一方で、日本国側の赤沢亮正経済再生担当相は、同80兆円の額を‘上限’の数字と解した上で、日本側からの‘出資’はこの内の1から2%に過ぎず、9対1の割合での利益の分配は同‘出資’に限るとする旨の説明を行なっています。日本側のマイナス面についても、日本側からの提案としての当初の利益配分率は五分五分であったので、「(9対1に)譲ったことで失ったのはせいぜい数百億円の下の方だ」とも釈明しています。加えて、対米投資のルートも、政府系金融機関が日本国の民間企業に対して融資を行なうとしており、対米投資の主導権は、日本国の民間企業にあるとしているのです。


 合意文書も存在しない状況にあって、仮に、報じられているように、アメリカ側が自らの解釈に基づいて8月15日から15%の関税率を適用した場合、日本国は、一体、どのような事態に直面するのでしょうか。アメリカ側は、当然に、日本国に対して約束通りに80兆円規模の対米投資を要求することでしょう。なお、昨日7月27日にあって15%で妥結したEUとの合意では、対米投資は6000億ドル越え(凡そ88兆円)であり、日本国一国とほぼ同レベルです。EUとの合意でも文書が作成されたのか、並びに、対米投資のスキームに関する詳細は分からないのですが(利益分配率も・・・)、今後のEU側の反応が注目されるところです。


 そして、アメリカが、対米投資の実施を迫った場合、日本国は、重大な選択を迫られることとなりましょう。つまり、アメリカ側の解釈通りに、トランプ大統領の就任期間の間に、アメリカ側の解釈に従って凡そ80兆円を差し出すのか、あるいは、関税率25%を受け入れるのか、のいずれかです。日本側の解釈が通るとすれば、それは、可能性は極めて低いながらも、対米投資が、トランプ大統領のアメリカ国民向けのパフォーマンスに過ぎなかった場合に限られましょう。そして、この展開には、金融勢力であるグローバリストが一枚絡んでいる気配も感じられるのです(つづく)。


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石破首相の‘私とトランプ大統領発言’の問題

2025年07月25日 10時27分55秒 | 日本政治
 関税率は15%まで引き下げられたものの、日米関税合意については、日本国内では必ずしも歓迎一色ではありません。凡そ80兆円の対米投資に加え、農産物や自動車等の市場開放並びに航空機の大量購入なども約しており、日本国側の大幅な譲歩が、日本経済にダメージを与えかねないからです。

 通商政策では、防衛や安全保障政策とは異なり、国内にあって必ずやマイナスとプラスの両面の効果が及びます。アメリカ国内でも、自動車産業を中心に懸念の声が上がっており、日米共にマイナス影響が及ぶ産業分野が、日米関税合意の内容に反対するのは当然の反応です。このことは、関税をはじめ、交易条件について他国の合意するに先だち、国内にあって、複雑に絡む利害調整を済ませなければならないことを示しています。

 さて、日米関税合意で揺れる中、対米交渉に当たった赤沢経済再生相からの説明を受けた後、石破茂首相は、記者団を前にして「私とトランプ大統領でこの合意を確実に実施していくことが重要だ」と述べたと報じられています。同首相の発言は、今日の通商政策の問題を浮き彫りにしているように思えます。

 第一に、上述したように、他国との間に通商協定等を結ぶに際しては、国内の利害関係の調整、即ち、国内的なコンセンサスを形成する必要があります。言い換えますと、対外交渉である以上、交渉の窓口は一つにしなければなりませんので、政府の役割とは、国を代表して外国政府との話し合いの席に臨む交渉役ということになります。あくまでも、交渉役は、国内にあって成立した合意事項に縛られますので、交渉が途中で行き詰まったり、同合意事項を修正する必要が生じた際には、一端交渉を中断し、‘国に持ち帰る’のが筋となります。

 ところが、TPPやRCEPをはじめ、近年の事例を見る限り、通商交渉の場では、政府に一任してしまう一種の‘独裁’と秘密主義が蔓延しています。今般の日米関税交渉にあっても、石破首相、あるいは、赤沢経済再生相への全権委任の如くです。秘密主義については、防衛や安全保障の分野では、国家の命運に関わる国家機密もありまので、それなりの理由があるのですが、通商政策とは、生産者であれ、消費者であれ、全ての国民が当事者となるのですから、交渉内容を非公開とする正当な理由がありません。これらの傾向は、日本国のみならず、‘グローバルレベル’で見られる現象であり、グローバリストの独裁志向の方向性とも一致しているのです(国家のトップのみをコントロールすれば目的を容易に達成できる・・・)。

 第二に、首相の発言は、通商協定とは、それを締結した政府のトップのみによって効力が保証されるのか、という問題を提起しています。ここから、今般の日米関税協定の適用期間は、何時から何時までを予定しているのか、という疑問も沸いてきます(報道によりますと、15%の関税率の適用は8月1日からとも・・・)。通常の通商条約や協定では、有効期間や見直しに関する条項を置くものなのですが、今般の日米関税合意については、何らかの合意文書に署名したとしか報じられていないのです。同合意文書は、日米両国とも、条約や協定締結に際して定められた公式の手続きを踏んでいませんので、法的効力の継続性が不透明なのです。

 仮に、両国ともに‘政権の存続期間’のみと想定されているならば、日本国の場合、石破首相の退陣によって短期間で終了するとも考えられますし(あるいは、自公政権存続期間・・・)、アメリカの場合には、トランプ大統領の任期が終わるまでの3年半ということになりましょう。この場合、80兆円の対米投資や100機ともされる航空機の購入も、極めて短期間で実施されなければならず、日本経済への負担は甚大となります。

 その一方で、無期限ともなりますと、極端な場合には、対米投資は年間で0でも1ドルでも構わなくなりますし、航空機等の購入等も先送りすることができます。もっとも、ベッセント米財務長官は、「四半期ごとに評価し、大統領が不満を持つようなら、自動車を含む製品すべてに、25%の関税率をブーメランのように適用する」と脅しをかけていますので、アメリカ側が、短期間での‘成果’を期待していることだけは確かなことです(あるいは、同合意の背景にはグローバリストの意向が働いており、両国のトップに対して合意内容の確実な実行を求めているのかもしれない・・・)。

 そして、日本国の政府系金融機関が提供する凡そ80兆円の対米投資による収益の9割がアメリカの取り分となり、しかも、アメリカ大統領が自らの裁量で自由に使うことができる‘大統領予算’になるとしますと、15%の関税率が維持される限り、日本国がアメリカに対して永続的に同予算の財源を拠出する体制が固定化します。対米貿易黒字は年間凡そ9兆円ですが、今後は15%関税と米製品の輸入拡大によってさらに黒字幅は縮小することでしょう。長期的には、日本国のアメリカに対する奇妙で不平等な‘上納制度’のみが残ってしまうリスクも否定はできないのです(本来は、日本国の国庫に入るべき歳入のはず・・・)。

 以上に二点ほど主要な問題点を述べましたが、今般の石破首相の発言は、通商政策にあって燻ってきた様々な問題を浮かび上がらせています。そして、これらの問題は、グローバリズムに邁進するばかりに追い込まれてしまった隘路からの脱出なくして解決しないのではないかと思うのです。

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日米関税合意-対米80兆円投資は危ういのでは

2025年07月24日 11時43分47秒 | 日本政治
 去る7月22日、アメリカのトランプ大統領は、いわゆる‘トランプ関税’について日米合意が成立したことを、SNSを介して公表しました。同大統領は、「史上最大の取引」とも称しており、日米間の合意が巨額取引であったことを物語っています。アメリカ国民向けの投稿ですので、まず先にアメリカ側の利益について述べられており、それは、「日本は私の意向に沿って5500億ドルを米国に投資し、米国は利益の90%を得る。」から始まります。5500億ドルとは、日本円に換算しておよそ80兆円ともなります。情報不足もあって正しい判断には予断を要するものの、この巨額投資、リスク含みではないかと思うのです。

 この文章の後で、トランプ大統領は、「最も重要なのは、日本が乗用車やトラック、コメ、特定の農産物、その他の品目で市場を開放することだ。」とも語っており、日米合意の主要な合意項目は、むしろ、農産物を含む日本国の市場開放であるとも解されます。しかしながら、合意内容のトップに挙げたぐらいですから、同大統領が対米巨額投資をもって日米合意の成果としてアピールしていることは確かなことです。

 80兆円規模の対米投資の詳細については、日本国内のメディアによる続報として「日本の政府系金融機関がアメリカに対し、5500億ドル、約80兆円規模の投資などを行なう確約」と説明されており、ソフトバンクや新日鉄等の民間企業が既に表明している対米投資とは別枠となる、政府経由の投資のようです。政府系金融機関の具体的な名称については現状では不明なのですが、日本国の国家予算が凡そ100兆円超える程度ですので、極めて多額の資金がアメリカに投資されることとなります。

 トランプ大統領の「この取引は数十万の雇用を生み出す前例がないものだ。」との発言からしますと、アメリカ側の狙いは、日本国の資金を用いた一種の‘ニューディール政策’のようにも聞えます。景気対策として大規模な公共事業を実施し、同事業によって失業者を吸収するのは、政府主導のケインズ主義の政策でもあります。しかしながら、アメリカの目的については、幾つかの疑問があります。先ずもって、アメリカの失業率は、大規模な公共事業の実施を必要とするほどには上昇しているわけではありません。また、同国の経済規模からしますと、5500億ドルの資金調達に苦慮するほどの‘資本難’に陥っているとも思えません。むしろ、アメリカ国民を苦しめている物価高を抑制するためにも、国内の余剰資金を実体経済の事業に振り向けた方が得策であるかも知れませんし、今日では、建設現場では移民系の労働者が増加しており、反移民政策と矛盾する事態も想定されます。

 アメリカの国内事情からしますと、必要性に乏しいように思われるのですが、それでも、トランプ大統領が、日米合意を自画自賛しているとしますと、真の目的は、やはり‘金融’にあるのかも知れません。仮に報道されたように、融資元が日本国の政府系金融機関であるとしますと、最も可能性が高いのは、日本政策投資銀行となります。しかしながら、同行の総資産は凡そ21兆円であり、融資総額も16兆円程度に過ぎません(2023年3月末)。運用資金の規模からしますと、アメリカに確約した凡そ80兆円の投資額を同行が担うには無理があります。

 日本政策投資銀行一行では力不足であるとしますと、日本政策投資銀行とおよそ同規模の株式会社国際協力銀行(総資産約20兆円、保証残高約17兆円)、あるいは、国民や中小企業向けに設立されている日本政策金融公庫(総資産約35兆円)も‘候補機関’となりましょう。もっとも、後者については、業務内容からしますとその可能性はそれほど高くはないように思えます。むしろ、GPIFであれば、凡そ260兆円の資金を運用していますので、米国政府や政府系機関が発行する国債や公債を購入すると言った形で投資することはできないわけではありません。

なお、政府系金融機関が、無理を押して巨額資金を調達しようとすれば、社債を発行する必要がありましょう。因みに、日本政策投資銀行はドル建ての債権を既に発行しており、日本国政府もこれらの債権に対して政府保証を与えています。

 以上の諸点からしますと、最もあり得るシナリオは、これらの金融機関が、手持ち資金もしくはいずれかの経路で資金を調達し、米国内の事業に直接に融資する(ドル建社債の発行で調達・・・)、あるいは、米国債等のアメリカの公債を新規に大量に購入するというものです。そして、ここで考えるべきは、日本国の政府系金融機関のアメリカ向け融資や同米国債の運営から生じた利益の9割は、アメリカの取り分となるという点です(現在の米国債の場合、現在、金利は何れも4%程度ですので、日本引き受け分については、事実上、0.4%の金利で国債を発行できる・・・)。加えて、直接融資の場合には、トランプ大統領の「日本は私の意向に沿って」という言葉が示唆するように、投資先の決定権はアメリカ、あるいは、トランプ大統領が握ることにもなりましょう(報道に因れば、投資先の決定は、トランプ大統領の裁量とされている・・・)。

 今般の米価高騰の背景として、小泉進次郎氏の農林相抜擢もあって農林中央金庫の資金を狙う金融筋の暗躍が噂されていましたが、この路線が困難となったが故に、新たな日本国からのマネーを吸い取る戦略の一環として、アメリカの関税政策が利用された、あるいは、アメリカも国家として同様の戦略を遂行している疑いもないわけではありません。相互関税率の15%への引き下げに注目が集まりがちですが、今後の展開次第では、日本国の経済にダメージを与え、深刻なマイナス影響が国民に及ぶことも予測されます。このように考えますと、今般の合意には、今一度、慎重なる検討を要するのではないかと思うのです。

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国民民主党と参政党は公約に沿った法案の提出を

2025年07月23日 11時33分39秒 | 日本政治
 去る7月20日に実施された第27回参議院選挙は、新興政党の躍進という結果をもって幕を閉じることとなりました。とりわけ、選挙区と比例区を合わせて国民民主党が17議席、参政党が14議席を獲得し、何れも二桁台の議席数を確保しています。これら両党が10を越える議席を得たことは、今後の日本政治の‘民主化’、すなわち、民意に沿った政治の実現において重要な一歩となるかも知れません。

 その理由は、何れの政党も、参議院選挙における法案提出要件を満たすからです。衆議院では20人を要するものの、参議院においては、法案提出に必要となる議員数は衆議院の半数となる10人です。この要件に照らせば、今般の選挙で10以上の議席を得た国民民主党も参政党も、自らの政党単独で国会に法案を提出することができるのです。

 民主主義という価値は制度化されなければ実現せず、とりわけ立法過程の入り口となる提案権(発議権)は重要です。入り口での規制が強ければ強いほど、大政党による権力の独占が起きたり、民意が遮断されたり、あるいは、歪曲されてしまうリスクが高まります。日本国の立法過程を見ますと、国政レベルでは国民発案の制度は導入されていませんし、上述したように、議員提出法案には一定の制限が付されています。現状にあって国会に提出される法案の大多数が政府提出法案が占めていますので、法案提出権は、事実上、大政党にして与党である自民党によって凡そ独占された状態が続いてきたのです。そしてこの状態は、要件を満たす状況下にあっても積極的に議員提出法案を作ろうとしない野党側の‘怠慢’によって助長されてきたとも言えましょう。

 由々しき現状からしますと、今般の国政選挙にあって、国民民主党と参政党が、参議院において法案提出要件を満たしたことは、一つの可能性を開いています。両党の勝因は、タブーや‘常識’を破って外国人問題等を提起すると共に、政治に対して目に見える形での問題解決を求める国民の声に応えたからとされています。選挙区では前回の参議院選挙の投票率を6.46ポイント上回り、58.51%まで上がったのも、両党に対する国民の期待を示しているとも言えましょう。つまり、法案提出権を行使し得る立場となった以上、両党の義務、否、国民から委任された仕事とは、一票を投じた国民のために、問題解決のための具体策を明記した法案や改正案を国会に提出することにあるのです。

 仮に、今後、両党が、矢継ぎ早に多くの国民の期待に応える法案を提出するとすれば、国民の多くは、政治の役割を実感すると共に、ようやく日本国でも、システムとしての民主主義のメカニズムが働き始めることにもなります。民意⇒政策⇒問題解決という最も基本的な民主主義の流れが動き出すからです。国民の声が政治に届く実例を目の当たりにすれば、無関心ともされてきた若者層も政治への関心を高めることでしょう。その一方で、国民向けのアピールは選挙期間限定であり、何れの政党であれ、国民の声に耳を塞いで怠慢を決め込んだり、二桁の議席数は政治的ディーリングの材料に利用するともなれば、国民の失望は計り知れません。いわんや、選挙の争点となった外国人問題、物価高、税や社会保険料負担の増加などの諸問題を無視し、‘手のひら返し’などしようものなら、国民の期待は失望を越えて怒りに変わることでしょう(外国人問題への対応の一点のみに重きを置いて、参政党に投票した有権者も多いはずでは・・・)。

 従来の選挙では、選挙の結果によって候補者の当落や議席数が決定した時点で、国民の関心は薄れてゆきましたが、今般の選挙にあっては、国民が政治に対して目が離せない状況が続いています。日本国の未来はどちらの方向に進むのか、今や、分水嶺にあるように思えるのです。

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国民の方が早い脱イデオロギー

2025年07月22日 11時42分09秒 | 日本政治
 7月20日に実施された第27回参議院議員選挙の結果については、とりわけ海外メディアは、外国人問題を選挙の争点に引き出して勝利をおさめた参政党について大きく報じているようです。日本国でも、移民の増加を背景にヨーロッパ諸国の後を追うように極右政党が躍進した、とする見方の記事も少なくないのですが、日本国内では、海外発信の記事が描くイメージとはいささか違う空気が流れているように思えます。

 参政党が大幅に議席を増やした主たる要因は、同党が掲げた「日本人ファースト」の看板にあります。「日本人ファースト」のフレーズは、現政権による積極的な外国人受入政策、すなわち、なし崩しとも言える移民政策に対して不満や不安を抱く日本国民の存在を前提としていますので、移民問題を背景とした日本国の右傾化という海外メディアの解説も、強ち間違いというわけではありません。また、復古主義的あるいは権威主義的な憲法草案が物議を醸したように、参政党の政党としての性質は、特定の思想を信奉する人々の集まり、すなわち右派のイデオロギー政党という側面もないわけではありません。思想傾向から見れば、‘極右’という表現も誤りとは言い切れないようにも思えます。

 政界レベルでの勢力図の変化を見れば、海外メディアの反応も選挙結果の説明としては正しいのでしょうが、国民レベルに注目すれば、全く逆の変化が起きているとする見方もできないわけではありません。参政党に投票した有権者の大多数は、必ずしも同党が奉じる思想を支持する、あるいは、心から‘共感’したからではないからです。「日本人ファースト」を掲げる同党に対して、外国人犯罪の取締強化による治安の回復のみならず、外国人の土地取得の規制強化、在留資格の厳格化、外国人技能実習制度の見直し、受入外国人総数の制限、留学生に対する優遇措置の是正など、公約への明記の有無に拘わらず、さまざまな政策の実施を期待があったからこそ、自らの一票を同党に投じたと言えましょう。言い換えますと、外国人問題が切実な問題として国民に認識されていたからこそ、現政権の政策を止めるべく、参政党に対して国民多数の批判票が集まったと推測されるのです。

 この推測は、参政党が「日本人ファースト」のキャッチコピーを掲げず、外国人問題にも一切触れずに選挙戦を闘った場合を想定しますと、より容易に理解されましょう。おそらく、今般の選挙結果ほどには多数の議席を獲得することはできなかったはずです。そして、この参政党の躍進は、国民の側にあってリアリズムへの目覚めを表しているように思えます。つまり、イデオロギーよりも、現実問題を解決する手段としての政策をもって政治的選択を行なう必要性の自覚です。国民の方が早くに脱イデオロギーを果たしているのであり、ここに、国民サイドと政治サイドとの間に政治に対する認識と意識に‘ずれ’が生じているのです。この‘ずれ’は、今後の政局にも少なくない影響を及ぼすことでしょう。

 たとえば、仮に、政治サイドの意識が変わらず、参政党を含む各政党が、国民の政治に対する要望に優先して、自らのイデオロギーに基づく国家像や独自の政策を追求するならば、政治と国民との距離は離れるばかりとなります。参政党への国民の期待も、程なく失望に変わることでしょう。その一方で、政党自身がリアリズムの方向へと変化する可能性もないわけではありません(自民党も、グローバリスト政党としてはイデオロギー政党・・・)。果たしてどちらの方向に向かってゆくのか、今後の各政党の動向が注目されるところなのです。

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参議院議員選挙は日本政治の転換点?

2025年07月21日 09時41分19秒 | 日本政治
 昨日7月20日に投開票された第27回参議院選挙は、与党側の自民・公明両党が敗北を喫すると共に、野党側では、国民民主党並びに参政党が躍進する結果となりました。参議院における与党の過半数割れが確実となったため、今後は、衆参両院ともに与党側が少数政党となります。この結果は、選挙前の大方の予測通りであり、戦後の日本政治にあって重要なる転換点となりそうなのです。

 第一の変化は、国民の政策選択の選挙としての側面が強まったことです。マスメディアが実施した世論調査では、有権者の関心が高い政策分野として経済や財政が挙げられていますが、これは、自公政権が進めてきた従来の政策に対する反対の意思表示として理解されます。増税に次ぐ増税に加え、社会保険料も上昇の一途を辿っていますし、止まらない物価の上昇も国民の家計を直撃しています。とくに米価高騰を前にした無責任な態度や対応は、国民が愛想を尽かすに十分でした。自民党も公明党も組織票においては優位でありながら議席を減らしていますので、無党派層を中心に野党側に与党に対する批判票が流れたのでしょう。何れにしましても、今般の選挙結果は、選挙という機会が、国民の政策的選択を表す方向に向かっていることを示しています(与党側の給付政策に対して野党側の減税策を選択したとも解される・・・)。

 第二に、外国人政策が、はじめて本格的な国政上の争点となった点です。この変化は、「日本ファースト」を掲げた参政党が二桁台の議席を獲得したことによって如実に表れています。仮に、経済や財政のみが争点であれば、参政党が、かくも多くの議席を獲得することはなかったことでしょう。差別主義者や排外主義者のレッテルを貼られるリスクから、サイレント・マジョリティーが言うに言えない問題を争点として提示したところに、参政党の勝因を見出すことができるのです。そしてこの選挙結果は、多くの国民が、現行の与党による外国人政策・移民政策に対してNOと言っていることを意味します。今般の選挙は、政策選択と同時に、争点化した政策の内容にも変化が見られるのです。

 第三の変化は、‘シルバー民主主義’とも揶揄されてきた高齢者に軸足を置く政治から、若者層へのシフトが見られる点です。自民党も公明党も、年齢に比例するかのように支持率が上がっています。自公政権が岩盤支持層の上であぐらをかくことができたのも、シニア層という安定した支持基盤があったからです。ところが、選挙期間中に実施された世論調査に因れば、あたかも自公両党の曲線と反比例するかのように、年齢が下がるほどに、国民民主党と参政党が上がっています。若年層に至っては、自公両党の支持率を上回っているのです。今般、躍進劇を演じたのは国民民主党ならびに参政党なのですが、この選挙結果は、若年層、並びに、中年層の政治的志向が結果として表れたという意味において、従来型の政治からの転換点と言えるかも知れません。

 以上に三つの主要な変化を見てきましたが、これらの変化は、今後の日本政治にどのような影響を与えるのでしょうか。実のところ、これらの変化を考え合わせますと、興味深い側面が浮かび上がります。それは、自公政権が強力に上から推進してきた外国人受入政策を含むグローバル政策は、シニア層の‘丸投げ’ともいうべき政治的惰性があっての政策ではなかったのか、ということです。何故ならば、参政党のみならず、国民民主党も、公約の文面は修正したものの、「外国人の優遇見直し」を公約に掲げており、必ずしもグローバリズム一辺倒ではないからです。グローバリズムもイデオロギーの一種としますと、冷戦を背景として定着してきた政治=イデオロギーという時代は終焉を迎えつつあるのであり、この変化は、共産党や社民党と言った‘お花畑’とも揶揄されてきたイデオロギー志向の強い革新政党の著しい退潮にも見られるのです。

 これらの変化は、政治が国民にとりまして身近な問題、否、自ら当事者となる現実的な問題として認識されてきていることを意味します。この流れからすれば、各政党共に、自らが掲げる政策方針や公約の実現を、国民から強く求められることにもなりましょう。そして、現実の世界において政治が果たすべき役割というものが、国民の共通認識となったとすれば、それは、民主主義の強固なる基盤となると思うのです。

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