万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

秀吉とイエズス会との関係とは?ーグローバルな視点が必要

2020年06月30日 12時49分36秒 | 国際政治

 9月28日にNHKスペシャルとして放映された戦国期におけるイエズス会の動きと戦国武将達との関係を探った番組は、近年公開された海外史料に基づくだけに、歴史の知られざる一面を浮かび上がらせておりました。全ての謎が解かれたわけではないのですが、興味深いのは、秀吉とイエズス会との関係です。

アジアに進出したイエズス会の最終目的は絹や陶磁器等の一大生産国であり、金や銀といった資源にも富んだ明国の攻略であり、日本国への積極的な布教も、明国攻略の足掛かりを得ると共に、日本の軍事力を同事業のために利用することにありました。織田信長による天下統一事業も、武器弾薬の供給源であったイエズス会の支援なくしてはあり得ず、本能寺の変の前夜までは、両者の表面的な相互依存の関係は一先ずは保たれていたのでしょう(因みに、本能寺はバテレン寺に隣接している…)。しかしながら、信長は、あくまでも自らの天下布武のためにイエズス会を利用したに過ぎませんので、信長が自らを神格化し始める頃には、両者の関係は冷却化の方向に転じています。イエズス会が、信長に見切りをつけていた可能性は高く、次なる天下人の候補者として白羽の矢を立てたのが秀吉であったことは想像に難くありません。

1592年に始まる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)については、秀吉自らが明国の征服を言い出したとしていますが、上述したように明国攻略はイエズス会の最終目的ですので、秀吉を同事業に向けて裏から言葉巧みに焚きつけたのはイエズス会であったのでしょう(信長も、同様の計画を懐に温めていたとも…)。この流れから見ますと、イエズス会が信長から秀吉へと‘天下人’を差し替えた様子が伺えるのですが、朝鮮出兵は、イエズス会の思惑通りには進まなかったようです。

同番組によれば、秀吉も、織田信長に仕えていた時代から既にイエズス会の真の狙いが日本征服にあると疑っており、主君である信長にも直言するなど、強い警戒心を示しております(このことは、今回公開されたイエズス会の資料に記されてありました。イエズス会は、このように早い段階から秀吉がイエズス会による日本国征服に気づき、警戒していることを知っていたはずなのですが、にもかかわらず、なぜ、イエズス会は、秀吉を支援して天下人となしたのか、この点は疑問)。あるいは、稀代の策略・策謀家でもあった秀吉は、イエズス会よりも一枚上手であり、イエズス会に取り入り、その計画を巧妙に利用しながら、キリシタン大名の軍を戦いの最前線に送り出し、これらの大名の軍事力を削いでしまったのかもしれません。

そもそも、天下が統一されますと、武器弾薬を積極的に入手するインセンティブも低下しますので、独占的供給源としてのイエズス会の立場は弱まります。また、同番組は、刀鍛冶によって鍛えられてきた高度な鍛錬技術の転用により、日本国内にあって銃器の品質改良が行われ、量産体制をも構築していたとも伝えています。日本製の銃がスペイン製の銃よりも性能において上回るとしますと、日本国は、16世紀末にあって世界第一の軍事大国に一気に躍り出ていたこととなります(ただし、徳川軍を有利に導いた大筒、即ち大砲に関しては、輸入に頼っていたのでは…)。

秀吉としては、イエズス会の指図通りに動く‘駒’の地位に甘んじるよりも、同会からの独立を志向してもおかしくはありません。秀吉は、スペインの植民地であったフィリピンや台湾まで征服する計画を抱いていたとされますが、誇大妄想ともされてきた秀吉の野望にも、当時にあって世界最高レベルに達した軍事技術の裏付けがあったのでしょう(もしかしますと、銃弾の原料である鉛の産地であったタイの征服をも構想していたかもしれない…)。秀吉は、朝鮮出兵にあってイエズス会の意向に従っているように装いながら、その実、禁教等も含めて同会を追い詰めつつ、独自路線を歩もうとしていたのです。

この事態は、国家に寄生して裏から操る手法を得意とするイエズス会には、飼い犬に手を噛まれるに等しく、全ての計画がご破算になりかねない危機と映ったことでしょう。そこで、イエズス会は、特定の国家を支援してその軍事力で自らの目的を達成させるという方針を見直し、別の路線に切り替えたように思えます。慶長の役の最中となる1598年には、イエズス会士であったマテオ・リッチが北京に赴いており、イエズス会の明国での布教活動は軌道に乗りつつありました(同年9月、フェリペ2世、並びに、秀吉が相次いで死去…)。即ち、‘平和的な手段’による明国攻略の可能性を見出したイエズス会もまた、日本国の軍事力を必要としなくなったとも言えましょう。1601年には、マテオ・リッチは、明国高官の紹介により、遂に明国第14第皇帝であった万歴帝の宮中への出入りを許されています。

1644年に明国は李自成の乱によって滅び、その後に清国が成立しますが、イエズス会は清国との関係も良好であったようです。アダム・シャール、フェルディナント・フェルビースト、ジョアシャン・ブーヴェ、ジャン・バティスト・レジス、ジュゼッペ・カスティリオーネなどは、何れも清国に仕えたイエズス会士達です。そして、中国国内には、教会組織を介したイエズス会の情報網も張り巡らされていたのかもしれません。現代に至り、中国は共産主義国家として中華人民共和国を建国し、‘宗教は麻薬’と決めつけてあらゆる宗教を弾圧するようになりますが、イエズス会と共産党には、その戦闘性や全体主義志向など、幾つかの共通点が見受けられます。今日、北京政府が「香港国家安全維持法」を制定し、「一国二制度」は危機に瀕していますが、こうした暴挙とも言うべき動きについても、国家の視点のみならず、水面下での国際組織の世界戦略をも視野に入れたグローバルな視点が必要なことは、昔も今も変わらないのではないかと思うのです。


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日本の戦国時代のキングメーカーはイエズス会?

2020年06月29日 12時50分33秒 | 国際政治

 昨晩、NHKスペシャルでは、日本国の戦国時代をイエズス会の書庫に眠ってきた史料から読み解く番組を放映しておりました。イエズス会内部でも長らく機密文書として扱われてきたらしく、同史料は、おそらく本邦初公開となるのでしょう。

 同番組を視聴しますと、イエズス会こそが、戦国時代、少なくとも同会の修道士であったフランシスコ・ザビエルの日本上陸から豊臣政権に至るまでの期間にあって、日本国のキングメーカーではなかったのか、という疑いを抱かざるを得なくなります。その理由は、当時にあって、唯一、戦国武将たちに十分な銃や弾薬の原料を供給し得たのが、イエズス会であったからです。興味深いことに、戦国時代に使用された弾薬の原料となる鉛はタイ産であり、キリスト教の布教を名目として日本での活動を許された同会は、タイ産鉛の日本国への輸出ルートを独占していたのでしょう(当時のタイは鉛の最大産出国であり、30億発分の鉛の生産能力があったとも…)。

1575年6月29日の長篠の合戦は(奇しくも本日と同じ日…)、鉄砲隊で待ち構える織田軍が勇猛果敢に突撃してくる武田の騎馬軍団を壊滅させ、日本古来の戦術を近代兵器を以って一変させた戦いとして語られてきましたが、実際には、武田軍も鉄砲隊を備えていたそうです。両軍の調達力の差が同合戦の勝敗を決したのであり、このことは、両軍に武器弾薬を独占的に供給する立場にあったイエズス会は、戦いの火蓋が切って落とされる前に、織田軍の勝利を確信していたこととなります。否、各々の武将に対する武器弾薬の配分量をコントロールすることで、日本国の戦国時代の行方を操っていたとも推測されるのです。
 
 アジアにおけるイエズス会の最終目的は、冊封体制の中心国でもあった明国を攻略することにあり、当初は世界帝国を構築したスペインに期待したのでしょう。ところが、極東に向けてヨーロッパからはるばる海を越えて大軍(特にスペイン無敵艦隊?)を派遣するには無理があり、そこで目を付けたのが、日本国であったのかもしれません。すなわち、当初は、スペインの軍事力をもって日本国を植民地化し、日本人部隊を結成して明国征服の事業に当たらせようとしたのかもしれませんが、直接に支配しなくとも、日本国において自らが利用可能な軍事力を育成すれば、明国を手に入れることも夢ではなかった、ということになります(実際に、イエズス会文書に記録されている…)。

 おそらく、イエズス会が描いたシナリオの第一段階とは、日本国の内戦を激化させ、その間に大量の武器弾薬を各武将に提供し、その支払い代金としてでき得る限りの金・銀を獲得するというものであったのでしょう。この時代、フィリピンからも大量の金・銀が本国スペインに送られていたそうですが、火山地帯を抱える日本国も、世界有数の金・銀産出国でもありました。

‘武器商人’の立場からすれば、戦国時代は長引けば長引くほどに、莫大な利益が転がり込んだはずです。加えて、イエズス会の最終目的は明国の攻略ですので、明を征服し得る大軍を日本国に出現させる必要もあったはずです。そこで、この二つの目的を達成するために、第一に、「デウス様の御名の下で異教の野蛮国、明国を滅ぼす」という、明国攻略の大義名分を得るべく、キリスト教を布教しようとしたのでしょう。イエズス会は、まずは、日本国に対して精神的な征服を目指したのです(同史料によれば、イエズス会士は、信長に対してキリスト教への改宗を‘魂を盗む’と語っている…)。そして、第二に、明国を倒すほどの強大な軍隊を育成・結成するために、日本国の統一を熱心に説いたものと考えられます。統一を目指せば目指すほど、大量の武器弾薬が必要となりますし、統一された時点で、各戦国大名が保有していた軍隊を天下人のもとに、‘明国制圧軍’として一つにまとめることもできます。そこで、最も背後から操りやすい武将を選抜し、その人物に対して武器弾薬を優先的に供給したと推測されるのです。

 しかしながら、イエズス会の野望の前に立ちはだかったのが、日本国の精神性や鋭利な政治センスです。日本人の多くはキリスト教には簡単には改宗しませんし(イエズス会士は日本国の仏教僧に宗論で負けている…)、謀略に満ちた戦国時代を生きた信長や秀吉も、早い段階でイエズス会の意図を見抜いていました。ここから、日本国の戦国武将とイエズス会との間のキリスト教布教と武器弾薬の供給を介した相互依存と両者の思惑の不一致から生じる軋轢が水面下で激化するのであり、歴史は、両者の間の微妙なバランスの上で推移してゆくこととなるのです(これに加えて、イエズス会内の深刻な内部対立もあり、この点も影響…)。そして、謎に満ちた本能寺の変を解く鍵も、やはり、信長とイエズス会との間の抜き差しならない関係―決定的な決裂?―にあるように思えます。

 その後、新興勢力であるオランダ、並びに、イギリスが台頭しますと、イエズス会の日本国への武器弾薬の供給ルートの独占状態にも綻びが生じたのでしょう。イエズス会は、日本国内の政情をもはや自由自在には操れなくなり、時代は東インド会社の時代への移ってゆくのです。イエズス会の主要メンバーの多くはユダヤ教からの改宗者も多く、営利を主要目的とする同組織内の一派は、1588年のアルマダの海戦以降、同会を離れて英蘭勢力に乗り換えたのかもしれません。徳川家康こそ、一早く、この世界大での新旧の勢力図の変化に敏感に反応した人物であったとも考えられるのです。徳川幕府が、鎖国政策にあってオランダ東インド会社に独占的な貿易権を与えたのも、自らの天下取りの影の功労者がオランダであったことをよく理解していたからなのかもしれません。

 機密史料の開示により、およそ以上に述べたようなスケッチが描かれるのですが、本能寺の変、秀吉の中国大返し、朝鮮出兵など、まだまだ戦国時代には多くの謎が残されています。そして、スペインのフェリペ二世の死から僅か5日後の秀吉死去を以って朝鮮出兵(明国制圧事業)が停止されたのは、単なる偶然であったのでしょうか。その後、北方の女真族によって明国は滅ぼされますが、あるいは、グローバルな視点からすれば、イエズス会、そして、東インド会社をも操った勢力は、従来のシナリオを放棄し、日本国から女真族へと明国征服事業の主体を変更したのかもしれません。

 戦国時代の歴史は、明治維新、そして、グローバル化が進展する今日の日本国にも多大な示唆を与えているように思えます。歴史とは、国家の視点のみでは全てを理解することはできず、グローバルな視点から歴史を見つめると、そこには別の光景が広がっていることもあるのです。そして、たとえ国民の多くが受け入れがたい歴史であったとしても、事実を直視し、それを教訓とすることによってのみ、この歴史の繰り返しを避けることができるのではないかと思うのです。

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共産国家中国が世界を無法化する―南シナ海問題

2020年06月28日 13時11分51秒 | 国際政治

 各国政府が新型コロナウイルス対策に忙殺される中、震源地であった中国は、南シナ海において着々と軍事拠点化を進めています。こうした中国の動きに対しては、各メディアとも‘実効支配を強めている’とする書き方が散見されるのですが、南シナ海問題につきましては、既に2016年7月に常設仲裁裁判所が国際法上の根拠がないとする判決を下しております。もはや‘実効支配’とは言い難く、国際法上の犯罪行為、あるいは、違法行為に等しいと言えましょう。法的根拠なくして一方的に武力で現状を変更しているのですから(国連憲章にも反する…)。

 とりわけ、中国の南シナ海における行為が懸念されるのは、同問題が南シナ海における領有権やEEZ等の権利を争う東南アジア諸国のみならず、国際法秩序に対する深刻な破壊行為であるからです。国家の領域に関する権利は、凡そその全てが国際法によって律せられています。二国間による国境画定条約によって国境線が確定しているケースもあるのですが、水域に関して今日基本的な法典となるのは、1994年11月に発効した国連海洋法条約です。現在、168か国が当事国に名を連ねており、アメリカは批准してはいないものの(尤も、アメリカは、その前身でもあり、かつ、今日なおも効力を有する「ジュネーブ海洋法4条約」は批准…)、中国をはじめ凡そ全世界の諸国が同条約の定める法秩序の下にあります。同条約は、領海、EEZ、大陸棚、島の制度から航海の自由の原則に至るまで、海洋に関するありとあらゆる規定を包括的に含んでいるからです。

 言い換えますと、国連海洋法条約が存在するからこそ、中国は、南シナ海において12カイリの領海やEEZの設定等を主張し得たとも言えます。しかしながら、中国は、常設仲裁裁判所が示した無根拠の判決を無視したのですから、全世界の海洋を律する国際法秩序そのものを否定したと言っても過言ではありません。そして、自らも依る国連海洋法条約に基づく法秩序を無視したことは、中国の暴力による南シナ海の占領という行為をも説明しているのです。

 こうした中国の暴力主義的な行動の根源を辿れば、所有権を否定する共産主義思想に行き着くのでしょう。権利とは、一般的に過去における正当な行為に基づいて生じるものであり、それ故に、法的な保護を要するのですが、共産主義者には、個々の私的な権利を承認し、それを保護しようとする意識は殆ど皆無です。この態度は、個人レベルのみならず国家レベルにおいても同様であり、他国の権利を尊重するどころか、‘あってはならないもの’と認識しているのかもしれません(この点、国境を敵視するグローバリズムとの親和性が極めて高い…)。暴力革命が是認されるように、中国にとりましては、‘共産主義の正義’、即ち、全世界の共産化のためには、他国の権利は暴力で奪っても構わないと見なしているのでしょう。

 文明と野蛮とを区別する基準の一つが法秩序の有無にあるとしますと、共産主義体制とは、人類の最終段階を自認しながら、その実、法なき野蛮な時代への回帰に他ならないように思えます。そして、現代の帝国とも称されるように、他国の権利を歯牙にもかけないその姿勢は、過去の歴代中華帝国とも共通しています。しかも、より悪質なことに、共産主義者は、全世界の共産主義化をも人類の歩むべき‘正しい未来’と決めつけているのです。

 このように考えますと、南シナ海問題は、東南アジア諸国との間の地域的な紛争に留まらず、全人類の未来に関わる重大な意味を持ちます。先日、中国民政省は、南シナ海に海南省三沙市の行政区 として「西沙区」と「南沙区」を新たに設け、近い将来あっては防空識別圏を設定するとも予測されています。中国の違法不法行為をこのまま放置しますと、中国に引き摺られ、全人類は、世界の無法化、即ち、暴力がものを言う世界に放り込まれてしまいましょう。時には、犠牲を覚悟しでも阻止しなければならないことも、この世にはあるのではないかと思うのです。


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全国民ワクチン強制接種の危機?

2020年06月27日 12時29分11秒 | 国際政治

 本日6月27日付日経新聞朝刊一面のトップ記事は、日本国政府が、英製薬会社アストラゼネカ社とワクチンの提供に関して交渉に入ったというものでした。新型コロナウイルスワクチン開発にいち早く成功した同社が目指すのは20億回分のワクチン製造であり、7億回分とされる‘欧米枠’を差し引いても、日本国をはじめ他国に提供する余力を有しています。日本国政府としては、逸早く‘日本枠’を確保したいということなのでしょう。

 ワクチンに関する日本国政府の基本的な立場は、‘できるだけ早くに日本国民にワクチンを届けたい’というものです。この言葉を素直に受け取れば、英製薬会社との交渉も、‘新型コロナウイルス禍から一刻も早く日本国民を救い出したい’という一念からの行動となり、政府は、日本国民の命と健康、そして、経済活動を正常化するために、はるばるイギリスにまで出向いて懸命にアストラゼネカ社と交渉していることとなります。本来であれば、政府によるワクチンの調達は、国民にとりましては‘ありがたいお話’となるはずです。しかしながら、少なくない国民が、政府の‘善意’に疑いを抱いているようなのです。

 その理由は、‘火の無い所に煙は立たぬ’とも申しますように、状況証拠からしますと、今般の政府の動きにも、全日本国民強制ワクチン接種の筋書きが潜んでいるように思えるからです。そもそも、ビル・ゲイツ氏の日本国からの叙勲が公表された際には、誰もが、その理由に首を傾げたはずです。しかしながら、今となって、アストラゼネカ社に同氏が資金を支援しているという事実を知りますと、点と点が繋がります。そして、安倍政権が、明治維新以来、裏から日本国の政治に影響を及ぼしてきたイギリス系の国際シンジゲートと繋がりがあるとしますと(英蘭東インド会社脈+イエズス会系の国際組織では…)、ワクチンを取り巻く国際的な動きも理解に難くはなくなります。

 同記事は「…早期に全国民向けのワクチン確保を急ぐ考えだ」の一文で締めくくられており、日本国政府は、医療従事者等の感染リスクの高い人々に留まらず、‘全国民’の接種を想定しているようです。それでは、政府は、どのようにして‘全国民’にワクチンを接種させることができるのでしょうか。現行の法律では、公費負担となる定期接種でさえ1994年の法改正により罰則規定なしの「努力義務」に留まっています。今般のコロナウイルス禍にあっても、政府が全国民に対してワクチンを摂取させようとしても、法律の壁が立ちはだかっているのです。日本国政府が法改正に動き出すとしますと、それは、危険なシグナルかもしれません。

 先日、日本国の厚労省は、新型コロナウイルス接触確認アプリの運用を開始しましたが、同システムが効果を発揮するには全国民の6割ほどの利用が必要とされながら、現状でのダウンロード数はこの目標には達していないようです。運用開始から日が浅いとは言いつつも、同アプリの普及の遅れの原因は、国民の根深い政府不信にあるのかもしれません。同事例に鑑みますと、国民が政府の‘善意’に対して疑いを抱いている状況下にあっては、政府が積極的にワクチン接種を呼び掛けたとしても、国民の多くはこの呼びかけには応じないのではないでしょうか。日本国民の多くは、新型コロナウイルスの感染のみならず、日本国政府に対しても警戒しているのですから。

 経済活動への復帰は、PCRや抗原検査を以って可能となりますので、ワクチン接種で産生された抗体の有効性や効果の持続期間等が不明なワクチンを全国民に接種させるよりも、前者を全国民に実施した方が、よほど感染防止効果が期待できます。そもそも、全国民を対象としたPCRや抗原検査は不可能と決めつける一方で、ワクチンの全国民接種は可能とする政府の説明自体が、どこか怪しいのです。本心から国民の生命と健康、そして、日本経済を護ろうとするならば、予算をかけてでもPCRや抗原検査を全国民を対象として早急に実施し、ウイルスを保持していない陰性の人々に対しては、経済・社会活動を全面的に許すべきなのではないでしょうか(医療崩壊のリスクへの対応としては、PCRや抗原検査で陽性となった無症状の人々に対して定期的に検査を実施し、同検査での陰性の判定、あるいは、抗体検査で陽性の判定となるまで引き続き自宅待機とする…)。日本国政府のワクチン接種への傾斜は、それが筋が通っていないだけに(より効果的な方法があるのに、それを採用しない…)、なおさらに国民の警戒心を高めているように思えるのです。

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‘敵国宣言’をしてしまった中国―敵地攻撃能力問題

2020年06月26日 12時49分44秒 | 国際政治

 イージス・アショアの配備断念を受けて、日本国内では、代替案の検討が急がれています。中でも議論を呼んでいるのが敵地攻撃能力を保有すべきか、否かの問題であり、この件に関しては、野党のみならず、与党内でも自公の間で意見の隔たりがあるそうです。

 憲法第九条の制約もあり、日本国は、戦後一貫して専守防衛を基本方針として軍事力を強化してきました。このため、敵国に対して破壊力を有する攻撃兵器の保有については努めて抑制的であり、自衛隊の能力も敵国からの軍事的脅威を排除するに足るレベルに留められてきたのです。しかしながら、今日、ミサイル技術の飛躍的な向上、並びに、核弾頭の小型化により、‘飛び道具’による攻撃力はますます強まるばかりです。イージス・アショアの配備を見送った最大の原因は中ロによる新型ミサイル―極超音速ミサイル…―の開発にあるともされており、マッハ5以上の高速、かつ、低空飛行のために軌道を正確に探知できないミサイルの出現を前にしては、もはや、同施設を設置したとしても日本国を護る‘盾’の役割を期待することはできないのです。防衛力に対する攻撃力の圧倒的な優位こそ、近代以降の軍事の世界における潮流とも言えましょう。

 攻撃力の優位性という現実は、専守防衛を旨としてきた日本国にとりましては極めて不利な状況であることは言うまでもありません。仮に、現状にあって‘敵国’から極超音速ミサイルが日本国に向けて発射された場合、日本国は、座して死を待つしかなくなります。そこで対抗策として登場するのが上記の敵地攻撃能力論であり、極超音速ミサイルが発射される前にミサイル発射基地を破壊し得る能力を備えようというものです。敵国のミサイル発射を阻止するという意味では防衛手段の一種なのですが、たとえそれが積極的攻撃力を相殺する消極的攻撃力であっても、相手国内での破壊行為を伴うために否が応でも攻撃兵器のイメージが付きまとってしまうのです。

 軍事力の二面性、すなわち、抑止力としての側面を考慮しますと、敵地攻撃能力の保持は選択肢として議論すべきなのですが、日本国内で俄かに沸き起こった同議論において興味深いのは、中国の反応です。何故ならば、敵地攻撃能力の保有に真っ先に批判したのが中国であったからです。‘専守防衛の約束を履行せよ’と…。

しかしながら、日本国は、自国の国内法、即ち、憲法において戦力に関する制約を課してはいますが、中国との間で専守防衛を約束した事実はありません。日中共同宣言や日中平和友好条約にあっても、平和五原則の尊重、武力の不行使、反覇権の原則の堅持等は両国の間での合意事項です。日中間で成立している国際的な‘約束’を破って覇権を求め、その実現のために極超音速ミサイルという‘無敵’の積極的攻撃兵器まで手に入れようとしているのは、他ならぬ中国側なのです。中国が軍拡に走らなければ、日本国は、かくも真剣に敵地攻撃能力保有の是非を論じる必要性さえなかったかもしれません。

 自らの条約違反、並びに、挑発的な行為を棚に上げて日本国の敵地攻撃能力の保有に反対しても、中国の言い分には全く以って説得力がありません。そして、中国の対日批判は、自ら自国こそが日本国の‘敵地’であると宣言したようなものです。中国は、日本国の首都をはじめ主要都市に照準を定めたミサイルを既に配置しており、これらのミサイル基地が破壊対象となることを恐れたが故に、早々に批判声明を発表したとしか考えられないのです。野党や公明党が反対姿勢にあるのも、中国の意向を受けてのことなのかもしれません。真に日本国に敵地攻撃能力を思いとどまらせようとするならば、自らが日本国に向けて配備したミサイルを完全に撤去し、かつ、軍縮の方向に基本方針を転換すべきなのではないでしょうか。

 もっとも、米戦略軍トップのジョン・ハイテン司令官によれば、極超音速ミサイルに対抗するためには高度なミサイル探知衛星やレーダーの開発が必要なそうです。自衛隊の敵地攻撃能力の保有につきましても、同ミサイルの発射の兆候を正確にキャッチするための新たなミサイル監視システムの開発・導入を急ぐ必要あるかもしれません(加えて、敵地攻撃ミサイルとしての極超音速ミサイルの保有も…)。残念ながら宇宙空間を利用するしかないそうですが、同盟国であるアメリカとも協力しつつ、これを機に、日本国政府は、積極的攻撃力を有する先端兵器を無力化するテクノロジー、あるいは、重層的な抑止システムの開発に努めるべきではないかと思うのです。

 


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暴露は‘後出しじゃんけん’にならないように―ボルトン氏の回顧録

2020年06月25日 12時30分34秒 | 国際政治

 『新約聖書』は「黙示録」を以って最後のページを閉じます。日本語では、‘黙示’という暗示的な表現で訳されていますが、英語では‘Revelation’ですので‘暴露’のニュアンスに近くなります。暴露とは、人類の運命を決するほどの重要な行為であるのかもしれません。

 今日も、トランプ政権下にあって国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたジョン・ロバート・ボルトン氏が政権の内幕を暴く回顧録を出版し、その暴露がアメリカのみならず、全世界に波紋を広げています。報道によりますと、‘中国の習近平主席に自身の再選の支援を依頼した’、‘北朝鮮の金正恩委員長をホワイトハウスの招こうとした’、そして日本国関連では、‘在日米軍の駐留費負担の増額要求した’といった内容なそうなのですが、何れも‘俗物’として描かれてきたトランプ大統領のイメージとはそれ程かけ離れてはおらず、想像をはるかに超える‘暴露’ではなかったようです(同大統領は、習主席や金委員長への個人的な好意を隠してはおらず、‘トランプ大統領ならばあり得る’と皆が思ってしまうレベルでは…)。トランプ大統領が、表向きは鼻持ちならない‘俗物’を演じながら、裏での真の姿が清廉潔白、かつ、無私の心で国民に奉仕する聖人のような人物であったとする暴露の方が、余程、衝撃的であったかもしれません。

 何れにしましても、ボルトン氏の暴露は、次期大統領選挙にも少なからぬ影響を与え、民主党のバイデン候補を有利に導くものと予測されています。そして、暴露が大統領選挙の行方を左右すればこそ、暴露にも一定のルールを要するようにも思えます。何故ならば、共和・民主両陣営ともに候補者が凡そ固まった段階での暴露であるからです。仮に、今般のボルトン氏の回顧録の出版により、トランプ大統領に対する支持率が急落するとなりますと、大統領選挙の実施を待たずして、自動的に民主党・バイデン候補の当選が確定してしまいます。

すなわち、二者択一を迫られることになった共和党支持者を含む多くのアメリカ国民は、トランプ大統領を選ぼうにも選べず、致し方なくバイデン候補に投票するか、あるいは、棄権するしかなくなるからです(もっとも、制度上は、両党以外からの立候補も可能…)。仮にこうした展開となれば、2020年の大統領選挙は、国民には不満の残る結果となりましょう。国民は、自らの選挙権を行使する機会を失ったに等しく、事実上、国民の政治的自由が損なわれてしまうのです。ボルトン氏の回顧録出版の背景には、トランプ大統領の再選を阻止したい民主党側の思惑が潜んでいることは容易に推測し得るのですが、国民の選択肢を失わせる形での暴露は、国民にとりましては、‘後出しじゃんけん’になりかねないのです。

暴露とは、事実に基づいた情報の公開なのですから、それ自体は、推奨されるべきものです。『新約聖書』の意図するところも、人類は真実を知るべき、ということなのかもしれません。むしろ、情報隠蔽の方が罪深く、特に政治にあっては、それは権力の私物化やあらゆる腐敗・汚職の温床ともなってきました。ですから、暴露自体は、それが国家機密に触れない限りは許されるべきなのですが、暴露の時期については、国民から政治的な選択の自由を奪わないよう配慮すべきではないかと思うのです。とりわけ、アメリカの大統領選挙のように共和・民主の一騎打ちとなるような二者択一の選挙形態では、選挙を実施する意味まで失わせてしまいます。この点に鑑みますと、暴露の時期は、各党の候補者が一人に絞られない前のできる限り早い段階とすべきですし、また、候補者に関する情報不足が政治の劣化原因であるならば、有権者が候補者に関する情報により広くアクセスできる環境こそ整えるべきかもしれません(情報化社会とされながら、日本国を含め、政治家に関する情報はあまりにも少ない…)。

 今後、ボルトン氏の回顧録がトランプ大統領の支持率にどれ程の影響を与えるのかは未知数ですが、‘棚から牡丹餅式’の‘バイデン大統領’の誕生にも、どこが危うさを感じます。ライバルの自滅を画策する民主党の戦術をアンフェアと見る国民がいれば、民主党も無傷ではいられなくなりますし、バイデン候補の真の姿を知ろうとする国民も現れることでしょう。もっとも、大統領選挙のスケジュールでは、共和党は正副大統領候補を8月24日から27日にかけて開かれる全国党大会において正式に指名する予定ですので、共和党が現職のトランプ大統領とは別の人物を候補者に指名することは不可能ではありません。しかしながら、同大会の開催までに残されている時間は、僅か2か月程しかないのです。果たしてアメリカ国民は、今般の事態をどのように捉えるのでしょうか。


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左右の思想対立が永遠に続く理由-統治と統合から読み解く

2020年06月24日 12時56分29秒 | 国際政治

 政治と申しますと、フランス革命以来、思想やイデオロギーにおける左右対立が基本的な構図として定着してきました。二項対立は、選択者がどちらを選んでお不利益をこうむるように誘導する‘二頭作戦’に容易に利用されますので、注意を要すべき構図なのですが、左右の思想対立は、それが意図的であれ、無意識的であれ、もとより永遠に続くように設定されているように思えます。

 永続性と言う限りは、二つの思想の間には、決して噛み合うことない次元の違いが存在しなければならないこととなります。立脚しているレベルが異なれば、双方は平行線を辿るしかないからです。それでは、左右対立に永続性を与えている次元の違いとは、一体、どのようなものなのでしょうか。この問いかけに対して答えるには、統治と統合との区別が役立つように思えます。

 左派の思想の特徴とは、普遍性を求める姿勢にあります。歴史や伝統といった過去から継承されてきたものは遺物に過ぎず、何らの価値をも認めようとはしません。全ての人間に備わっている理性に照らして首肯し得るもの、すなわち、合理的なものだけに価値を置くのであり、この観点からすれば、国家もその固有の歴史や伝統、あるいは、国民性も消え去るべき存在とならざるを得ないのです。左派による国家に対する攻撃性は、まさにその普遍的理性崇拝にその根源を見出すことができましょう。

 その一方で、比較的普遍性の高い統治システムにつきましては、その合理的な思考は、必ずしも破壊的な方向性のみを示すわけではありません。国民の益となり、民主主義を深化させるような制度改革は、しばしば左派から主張されます。既存のシステムが時代の変化や人々の精神的なレベルと合わなくなった際に、左派の合理的な精神が創造的な方向に発揮されるケースも稀ではないのです。普通選挙制度などもその典型と言えるでしょう。

もっとも、統治の分野にあっても、国家を否定する左派の立場からしますと、防衛、安全保障、外交といった国家の枠組みを前提とした政策分野については、その存在自体に対して否定的です。このため、時にして、左派の政治家の口からは、売国的、あるいは、亡国的な政策が平然と語られるのです。一方、経済の分野では、国境を越えた市場の拡大を意味するグローバリズムとは親和性が高く、自国の産業や雇用を護るよりも市場開放を優先します。左派とは、歴史的には労働運動として始まりましたが、グローバリズムにあって生産拠点や雇用の取り合いが生じている現状からしますと、思想としては、むしろ‘資本主義’と歩調が合っているのです(国家統合ではない普遍的な‘世界統合’は支持…)。

 それでは、右派はどうでしょうか。右派は、その思想的な軸足を統合に置いています。国家や国民の枠組みとは、如何なる国であれ、各々の固有の歴史を経て形成されてきたものですので普遍性はありません。そして、歴史や伝統、固有の言語等の尊重も、過去から未来へと受け継がれてゆくべき時間軸における統合とも言えましょう。左派が普遍性を以って政治にアプローチしているとしますと、右派は、固有性を以って政治を捉えており、時空における国家の枠組みの維持は国家存立と同義ともなり、その保持は至上命題となるのです。このため、統治の分野にあっては、国家の枠組みを維持するための防衛はとりわけ重要な政策領域となります。

もっとも、経済分野にあっても、本来であれば、右派は、国民保護の立場から自国の産業や雇用を護るべき立場にあるはずです。しかしながら、今日の右派は、左派とは異なる文脈からグローバリズムに同調的です。互恵性を説く素朴な自由貿易理論を信じている点も挙げられますが、自国企業のグローバル展開を期待する場合には、積極的な拡大政策として支持するケースも少なくありません(何れにしても、左右両社とも、グローバリズム推進派となってしまう…)。

その一方で、統治制度の改革につきましては、過去からの継承を重視しますので、消極的とならざるを得ません。合理的に考えれば変わるべきにも拘らず、統合を揺るがすリスクと捉えるのですから、基本的には制度改革を嫌う傾向にあるのです。このため、右派の保守性が国家の発展を阻害する要因ともなりかねません。栄えある国家を希求しながら国民が不条理や不合理な制度に耐えねばならず、かつ、時代にも取り残されるという本末転倒も生じてしまうのです。

以上に述べてきた左派と右派との統治と統合に対する基本的な態度を比較しますと、両者が全くかみ合っていないことに気が付かされます。そして、両者の狭間にあって、国民は、双方のデメリットのみで合成される‘キメラ政治’に翻弄される、あるいは、二頭作戦の下で左右からの挟撃にあう可能性も高くなるのです。左右の二項対立の構図から脱却するためにはまずは統治と統合を区別し、両者の立脚点の違いを明確にすることで(双方の欠落部分を認識する…)、政治を不毛の思想・イデオロギー対立の場から政策論争の場へと転換すべきではないかと思うのです。

 

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火星より地球では?

2020年06月23日 13時06分41秒 | 国際政治

 

 今日、宇宙空間は軍事利用が急速に進んでおり、中国はロシアと共同で月面基地を建設する計画があるそうです。大航海時代よろしく、宇宙を広大なるフロンティアとみなしているかのようなのですが、太陽系にあって地球のお隣の惑星となる火星に対しても、人類移住計画が進行中のようです。しかも、火星の環境を人類のテクノロジーで変えようというのですから、その構想は壮大です。

 火星が人類の生存条件を満たしていないのは明白であり、大気の厚さや構成、酸素濃度、水の存在、重力、気温(平均的な気温が氷点下-56度とも…)などなど、どれ一つをとりましても、人類が生きるに十分ではありません。そこで期待されているのが、環境改変技術です。地球から運び入れた様々な装置を用いて、火星を人類の生存に適した環境に改変してしまおうというのです。火星の重力は地球の40%程度ともされていますので、どのようにして重力まで変えることができるのか、想像もつかないのですが、SFの世界のお話ではなく、ある程度の勝算があるのでしょう。航空宇宙技術者であるロバート・ズブリン氏やスペースXの創設者で知られるイーロン・マスク氏などが提唱者とされていますが、因みに、NASAにも、2033年までに火星に宇宙飛行士を送り込む計画があるそうです。

 人類の科学の発展という見地からしますと、火星等の他の惑星の探索、並びに、調査は、必要不可欠のプロジェクトなのでしょう。とは申しますものの、調査や研究が目的であれば、生身の人間を送り込むよりも、不死身のロボットの方がよほど適しているように思えます(もっとも、最近、人工冬眠のマウス実験に成功との情報も…)。敢えて宇宙飛行士を火星に送り込み、何としても生存環境を整えようとする背景には、やはり、人類が火星に移住しなければならない相当の理由があるのでしょう。同計画は、しばしば地球の気候変動と結びつけて説明されており、異常気象や核戦争等の頻発により生存環境が破壊され、人類が最早地球に住めなくなる事態を想定しています。つまり、この説では、火星移住計画とは、人類のサバイバルをかけた地球脱出計画となるのです。

 しかしながら、ここで不思議に感じるのは、人類は地球の環境さえコントロールできないというのに、ましてや火星の環境を変えることができるのか?という素朴な疑問です。逆から申しますと、火星の環境を一変できるほどの高度なテクノロジーがあれば、地球もまた、人々にとりまして住みよい惑星に戻せるはずなのです。少なくとも、大気圏を人工的に造り出したり、気温を適温にまで上昇させたり、重力を変えるといった難題は、地球環境の修復事業にはない課題なはずです。

 モーリス・メーテルリンクの作品に『青い鳥』という物語がありますが、火星に新天地を求めるよりも、真っ暗な宇宙空間にあってひときわ美しく輝く地球を保つためのテクノロジーの開発により熱心に取り組む方が、人類に望ましい未来を約束するように思えます。ましてや、宇宙空間の軍事利用が地球の破壊リスクを高めるとしますと、火星移住の原因を自ら作ってしまうに等しく、宇宙空間の軍事利用には、国際社会が協力して歯止めをかけるべきではないかと思うのです。


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民主主義こそ‘初めであり終わりである’

2020年06月22日 11時14分55秒 | 国際政治

 香港安全維持法の制定は、国際公約であった「一国二制度」を形骸化すると共に、香港の民主化運動を消し去ろうとしています。国際社会からの批判が高まりつつも、同法の制定は、‘民主主義体制の諸国を含め他の国々と変わりはない’とする擁護論もあるようです。しかしながら、一党独裁体制を堅持する中国と他の諸国との間には、決定的な違いがあります。因みに、中国側が取り締まりの対象とした行為類型とは、(1)国家の分裂(2)中央政府の転覆(3)テロ活動(4)外国勢力などと結託して国家の安全を脅かす、という4つです。

そもそも、自由で民主的な国家にあっては、国民に対して国家の分裂を主張する行為を法律を以って禁じてはいません。イギリスやスペイン等の諸国を見れば一目瞭然であり、スコットランドやバスク地方の独立運動に対して、それを主張する人々を‘政治犯’として取り締まるということはしてはおりません。日本国でも、喩え沖縄において独立が主張されたとしても、警察や公安当局の手によって逮捕されたり、投獄されることはないのです。むしろ、イギリスのようにスコットランドの自己決定権を認め、運命を決する判断を住民自身に委ねる住民投票を実施する国もあります。仮に取り締まりの対象となるとすれば、それは暴力行為、破壊工作、あるいは、外患誘致行為などの海外勢力からの介入等を伴うケースです。平和的なデモや言論による訴えである限り、自由で民主的な国では、分離独立といった、結果として国家の分裂を帰結する主張であっても言論の自由の下で許されているのです。

 また、同法が取り締まりの対象の一つに挙げた中央政府の転覆、すなわち、政権政党から他の政党への政権交代も、民主主義国家では、‘罪’とはなりません。この場合でも、‘罪’となるのは、国家分裂と同様に暴力等を用いたケースに限られます。民主主義国家では、しばしば普通選挙制度を介して政権交代が行われており、民意を受けた‘政府の転覆’はむしろ至極当然のことなのです。国家権力を排他的に独占している中国共産党にとりましては、同党以外の政党が国家権力を掌握することはあってはならいことなのでしょうが、多党制の下で実施されている民主的な選挙は、国民に政府を選ぶ自由を与えているのです。

 ‘他の諸国と変わりはない’とする擁護論は、残りの(3)テロ行為、並びに、(4)外国勢力などと結託して国家の安全を脅かす、というこの二つの行為類型については当てはまるかもしれません。しかしながら、(1)の国家の分裂と(2)の中央政府の転覆については、明らかに中国と他の民主主義国家とでは違っているのです。それでは、百歩譲って、民主主義国家にあって、その国民が、民主的な選挙制度を通して自発的に一党独裁を選択することはあり得るのでしょうか。つまり、体制選択の自由が国民にあるとしますと、論理的には、民主主義体制そのものを否定する事態の発生もあり得るからです。

 このリスク、全くあり得ないわけではありません。実際に、戦前にあってナチス政権は、民主的な選挙制度を踏み台にして独裁政権を樹立しています。しかしながら、選挙に際してナチスが予め総統に国家権力をゆだねる授権法や他の政党の非合法化などを公約として掲げていたとしたら、当時のドイツ国民は、ナチスに一票を投じたでしょうか(ナチスは、政権与党となった後に、国会に占める同党の議席数にものをいわせて、突如、これらの法案を国会に提出・成立させてナチス一党独裁体制を確立…)。あるいは、ヒトラー・ユーゲントや親衛隊といった別動隊とも言える組織をナチスが設立し、いわば‘政党の軍隊・警察化’を図らずして、ナチスは政権の座に就くことはできたのでしょうか(本来、非武装である組織が不要であるはずの暴力手段を備えた点において、宗教組織の軍隊化を行ったイエズス会や商業組織が軍隊を保有した東インド会社に類似…)。

こうした諸点を踏まえますと、第一次世界大戦後にあって天文学的な賠償金を課せられたドイツの国民が窮地に追い詰められていたとはいえ、ナチス・ドイツの事例を以って、国民による自発的な民主主義体制の放棄の前例とするのは適切ではないように思えます。ナチスは、巧妙にドイツ国民を騙し、かつ、暴力手段を用いたのであって、国民の自由意思による自発的な選択であるとは言えないからです。

 そして、その最大の理由は、民主主義こそ統治権力の存在意義そのものを支えているからです。統治権力とは、そもそも人々が集団で生活するに当たって安全や安定等をもたらすために必要とされたものです。ところが、集団、そして、集団の内部で暮らす個々の人々にとって統治の諸機能が不可欠であったからこそ、長きにわたる人類史にあって、古今東西を問わず、その権力が私物化されたり、本来の目的から逸脱して他者を支配する道具とされたり、あるいは、他者を搾取するための暴力的手段して濫用されてきたのです。いわば、人類は、統治権力の不当な行使に苦しめられてきたのであり、その状態から脱する道として模索されたのが、選挙制度をはじめ、国民が統治に参加し得る制度を設けることであったと言えましょう。

 その一方で、共産主義思想では、人類の苦難の道を克服するプロセスを、階級闘争におけるプロレタリアートの最終的な勝利とそれに伴う同階級による権力の独占として描いています。この理論に基づいて、共産党は自らの権力独占を正当化しようとしたのですが、これでは、過去の‘天下取り’と何らの変りもない単なる権力争いに過ぎません。永遠に人類が統治権力の不当な行使から解放されるとすれば、それは、統治の根本的、否、普遍的な存在意義に立ち返り、統治のシステムに国民を内在化してゆくしかないのではないでしょうか。民主主義こそ、‘初めであり、終わり’なのではないかと思うのです。

 

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「香港安全維持法」が問う中国共産党の正当性

2020年06月21日 12時33分17秒 | 国際政治

 国際社会からの強い批判をものともせず、中国の北京政府は、香港に国家安全法を導入する方針を貫く構えを見せています。今般、全人代常務委員会によって「国家安全維持法」の骨子が公表され、その全容が明らかになりましたが、同法が実施されますと、香港に設置される国家安全維持公署の下で、中国当局が直接に香港市民を取り締まることができるようになります。同法は香港の法律に優位しますので、香港の民主化運動は、弾圧の危機に直面しているのは言うまでもありません。

 それでは、「国家安全維持法」は、どのような行為を取り締まりの対象としているのでしょうか。同法では、取り締まりの対象として(1)国家の分裂(2)中央政府の転覆(3)テロ活動(4)外国勢力などと結託して国家の安全を脅かす、という4つの項目を挙げているそうです。これらの4つの行為、実のところ、中国共産党が過去において行い、また、現在なおも行っている行為に他なりません。

 (1)の国家の分裂については、中国共産党は、中華民国時代の国共合作にあって、国民党に敢えて闘いを挑み、国土を引き裂く内戦を引き起こしています。国共内戦の当事者なのですから、同法に照らしますと、国家分裂罪に当たるということになりましょう。そして、実際に、共産革命と内乱での武力行使と暴力を以って中華民国政府を転覆させております。中国共産党は、(2)の中央政府の転覆の罪も犯しているのです。そして、共産暴力革命には(3)テロ行為は付き物です。中国共産党は、中華人民共和国の建国に至る過程にあっても、また、建国後にあっても、恐怖による支配という意味においても、テロ活動を行ってきているのであり、犠牲者となった無辜の国民の人数は計り知れません。そして、何よりも、中国共産党には、外国勢力と結託して中国を乗っ取ってしまった前歴があります。そもそも共産主義思想はカール・マルクスを祖とする外来思想ですし、中国共産党の設立そのものも、コミンテルンといった国際共産主義運動の一環に他なりません。コミンテルンの本拠地とされたのはソ連邦でしたので、今日の一党独裁体制とは、外国との結託によって誕生しているのです。

 過去における自らの行動を振り返りますと、中国共産党は、自らの罪の深さに顔色を失うことでしょう。さしもの中国も、同法案において自由や民主主義といった諸価値を正面から否定はできなかったのでしょうが、同法案において自らが‘罪’と定めた行為によって現行の国家体制を成立させた中国当局は、‘何故、これらの行為が罪となるのですか’と問われた場合、その回答に窮するのではないでしょうか。たとえ新たな体制への移行が物理的な力によるものであったとしても、その新体制が、国民に対して体制選択の自由を認め、平和裏での制度改革の手続きを定める民主的な体制であれば、過去の物理的な力の行使も、旧体制の非民主的な要素を以って一先ずは正当化し得るかもしれません(他に手段がなければ…)。しかしながら、中国のように、暴力革命によって成立した国家体制が、国民に体制選択の権利を与えない場合には、上記の‘罪’を正当化し、現政権の正当性を主張し得るような合理的な説明を見つけ出すことは不可能と言わざるを得ません。

 結局、現在の中華人民共和国とは、中国共産党という外来のイデオロギー、並びに、国際勢力に支えられた一派が暴力と徹底した国民監視体制によって国家権力を独占している国家であり、今般の香港安全維持法の制定も、古今東西を問わず各国で散見される、権力者による自己保身、あるいは、権力独占のための措置に過ぎないということになります(統治の正当性の欠如…)。暴力による権力の奪取や独占に終止符を打つことができるのは、民主的体制への移行をおいて他にはないのですから、中国国民こそ、共産主義イデオロギーとそれが支える暴力主義的な体制と決別し、その弾圧的な支配から解放されるべきではないかと思うのです。因みに、香港安全維持法は6章66節から成るとされています(‘666’という数字は、聖書にあって獣の刻印を意味する…)。

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自己否定になってしまうWHOの弁明

2020年06月20日 11時56分12秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスのパンデミック化については、一党独裁を敷く中国の隠蔽体質、並びに、同国に同調したWHOの責任が問われております。国際社会からの厳しい批判を浴び、さしものWHOも過去に遡って同機構の措置が適切であったのかを検証するそうですが、こうした中、当時、WHOの委員を務めていたジョン・マッケンジー氏が、インタヴューに応える形で当時の様子を語っております(産経新聞6月20日付朝刊一面)。

 マッケンジー氏いわく、最初に新型コロナウイルスに関する情報がWHOに寄せられたのは、昨年の大晦日、即ち、12月31日であったそうです。武漢市の保健機関が公式に原因不明の肺炎の発生を報告したのは12月8日であり、未公表の情報によれば、既に11月の時点で最初の感染者が現れていたともされます(湖北省出身の男性とされ、武漢市の住民であったかどうかは不明…)。即ち、およそ1か月間は、中国は、WHOに対して何らの情報をも提供していなかったことになります(12月30日に殉職された李医師がWeChat上で華南海鮮市場での7人の感染について発信していますので、中国当局は、最早隠し切れないと判断したのかもしれない…)。情報提供の遅れはWHOの規約違反となるはずなのですが、何故か、マッケンジー氏はこの報告を迅速であったと評価しているのです…。

 その後の17日間については、中国側からの何らの追加情報も寄せられなかったため、同氏も初期段階における中国の怠慢を認めています。また、早い段階で確認されていながら、‘人から人への感染’を1月20日に至って漸く認めた中国側の態度やウイルス情報の提供の遅れについても批判的な見解を示しています。部分的には中国の対応について非を認めているのですが、全体的な論調としては中国擁護に傾いているのです。

 そして、最も驚かされたのが、「WHOはどのような方法であれ、最も効果的な方法で調査しようとしたのだと思う」という言葉です。つまり、‘中国から情報を得るためには、中国の情報隠蔽を黙認しなければならなかった’という極めて奇妙、かつ、矛盾に満ちた弁明となるからです。仮に、中国から情報を得るための‘最も効果的な方法’が中国による情報隠蔽を認めることであるならば、WHOは、加盟国としての情報提供義務に違反した中国の行為を公然と認めることにもなりますし、感染阻止に必要となる完全なる情報を中国から得ることを早々と断念したことを意味します。

WHOの加盟国ではない台湾が最も迅速に対策を講じ、新型コロナウイルスの水際作戦に成功したのと比較しますと、WHOのこの自己否定とも言うべき方針こそ、やはり、パンデミック化の元凶であったのかもしれません。‘目的のためには手段を択ばず’という言葉がありますが、WHOの今般のケースでは、目的達成のために選んだ手段こそ、目的の否定=職務放棄ということになるのですから。国際機構としてのWHOの目的とは、加盟国、あるいは、特定の地域で発生した感染症にいち早く対応し、全世界への情報提供と感染を防ぐことにあるのですから。

 マッケンジー氏の弁明を読んでおりますと、WHOの問題点は、同機構のテドロス事務局長の個人的な親中姿勢のみに帰するべきものではないかもしれません。背後には何らかの組織的な問題が潜んでいる可能性も否定はできないように思えます。国連を含め、国際機構というものの‘正当性’が根底から揺らぐ中、WHOが投げかけている問題は、全人類にとりまして深刻なように思えるのです。


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テレワークが問いかける‘職住の境界線’―‘仕事部屋’の出現?

2020年06月19日 11時19分55秒 | 日本経済

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、企業をはじめ自宅での勤務、即ち、テレワークという勤務形態が急速に広がることとなりました。満員電車における感染を防止するのみならず、毎日の通勤に疲れる果てることもなくなりますので、一先ずは、テレワーク導入に好意的な意見が多いようです。その一方で、テレワークは、職住の境に関する重要な問題を問いかけているように思えます。

 ‘職住の境界線’とは、‘公私’、あるいは、‘内と外’の区別と言い換えることができるかもしれません。日本国では、古来、公私の区別を重んじる傾向が強く、私事を公事に持ち込むことは固く戒められてきました。とりわけ近代以降にあって、雇用契約による勤務形態が広がり、国民の多くが自宅から職場へと通うようになりますと、‘内と外’の峻別する感覚は広く国民に共有されるところとなったのです。つまり、日本国では、職場と家庭は、‘別空間’であったのです。例えば、以前、子供を職場に連れて行く‘子連れ出勤’が話題となり、政府もその導入を後押ししてきたのですが、アンケート調査の結果では、凡そ8割が否定的な回答を寄せたそうです。

ところが、今般の新型コロナウイルス禍は、一瞬のうちにこの職住の境を消し去ってしましました。寛ぎの場であるはずの家庭が、突然、ビジネス用語も飛び交う職場になってしまったのです。テレワークの形態は、コロナ禍が収束した後も継続する方針の企業も少なくないそうですが、職住の境界が融解してしまうとなりますと、今後、どのような変化が起きてくるのでしょうか。

職場化した家庭内では、リビングや居間にあって家族全員がパソコンを前にして座り、大人たちは画面越しに仕事をこなし、子供たちは遠隔授業で学習する、といった光景が広がるのかもしれません。しかしながら、テレ会議などでは音声を発する必要もありますし、高い集中力を維持しなければこなせない仕事もありましょう。子供たちは、子供部屋があれば自らの空間を確保することができますが、問題は、大人たちです。今日の標準的な家屋の間取りでは、子供部屋ならぬ‘大人部屋’は想定されていないのですから。

そこで、テレワークにあっても家庭内で仕事に集中できるように、‘屋内テント’なる製品も販売されているとも報じられています。仮に、今後、テレワークが勤務形態として一般化するとすれば、予測されるのは、‘大人部屋’を備えた間取りの出現です。この点、思い起こされますのは、‘書斎’という存在です。現在では、書斎を有する家屋は少ないのですが、家庭にあっても仕事をする、あるいは、家庭に仕事を持ち込む場合を想定しての書斎という部屋があります。家庭にあっても公私を区別するために工夫でもあるのですが、コロナ禍による家庭の職場化は、書斎のような大人用の仕事部屋の需要を高めるのではないかと思うのです。

書斎が比較的珍しくなかった時代は、一軒当たりの敷地面積も比較的広く、家屋の間取りにも余裕のあった時代です。また、テレワークの普及が進む欧米諸国のように、人々が客間まで備えているような広い住宅に住んでいるわけでもありません。しかも、かつての書斎は‘一家の大黒柱’のために設けられていましたが、共働き世帯が一般化した今日では、仕事部屋も二人分用意する必要もありましょう。今日の日本国の住宅事情に鑑みますと、‘仕事部屋’を設けようとしますと、日本国の家屋は、家族の一人一人に小部屋を割り当てた、細分化された空間となるかもしれないのです(もっとも、仮に、家族全員に個室を設けるならば、人口減少は必ずしもマイナス要因とはならない…)。

個人によって性格は異なりますので、内向的な性格であれば、むしろ、狭い閉鎖空間で仕事に集中した方がオフィスといった開放空間よりも能力を発揮するかもしれませんし、あるいは、逆に外交的な性格であれば、閉塞感に苛まされて鬱状態となるかもしれません。日本人は比較的内向性が強いとされていますので、こうした細分化傾向は歓迎されるかもしれないのですが、ポスト・コロナにあってテレワークへの全面的な移行を既定路線とするよりも、個々人の性格や志向、あるいは、家屋事情に合わせた、より柔軟な‘職場’の選択が可能な勤務形態を目指すべきではないかと思うのです。

 


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「ジョブ型」は企業の生命力を奪うのでは?

2020年06月18日 12時40分36秒 | 日本経済

 本日6月18日の日経新聞朝刊の一面に、新型コロナウイルスの感染対策として導入が広がったテレワークと関係づけながら、「ジョブ型」と呼ばれる社員評価制度に関する記事が掲載されておりました。「ジョブ型」とは、職務内容、並びに、それに必要となる能力を管理職の社員に事前に提示し、その達成度を基準として報酬を決定するというものです。近年、推奨されてきた年功序列主義から成果主義への転換の一環として理解されるのですが、この方式、どこか社会・共産主義を思い起こさせるのです。そしてこの問題は、‘人にとって働くこととは何か’という根本的な問題をも問いかけているように思えます。

「ジョブ型」とは、社員の能力や成果が報酬にストレートに反映されるのですから、勤労意欲を引き出しこそすれ、社会・共産主義批判は的外れのように聞こえることでしょう。労働と報酬との間の比例性のみに注目すれば、フェアな関係が成立しているようにも見受けられます。しかしながら、それ以前の問題、即ち、職務内容と要求能力の側面に視点を移しますと、社員は、経営戦略を立案し、それに沿って人員を配置する権限を有する企業中枢側の計画に従うだけの存在ということになります。社員は組織の歯車の一つに過ぎず、企業中枢の関心は、‘如何にして組織全体が円滑に動かし、自らの目的を社員を以って達成させるのか’ということにしかないのです。成果主義の導入も、歯車を円滑に動かすための誘導装置なのでしょうが、この仕組み、政府が排他的に経営計画を決定し、その命令の下で国民が労働を強いられる社会・共産主義の統制経済と似通っているのです。

唯物論よろしく、人を機械の一部と見なすのですから、そこには、かつての日本企業に見られた村落共同体的な温かみは見当たりません。職場とは、個々人がノルマをこなすだけの場となり、横の繋がりも断ち切られてゆくことでしょう。そして、AIやテレワークの普及は、この傾向にさらに拍車をかけるかもしれません。何故ならば、社員各自の評価はAIに任せれば一瞬のうちに済みますし、テレワークがグローバルレベルで導入されれば、空間の制約を受けることなく、全世界から自らの計画に最も適した人材を採用できるからです。かつて、ローマ帝国は、‘分割して統治せよ’という手法を編み出し、支配地が結託してローマに抵抗することを阻止しようとしましたが、今日の‘企業統治’は、社員を全世界に分散雇用することで、ますます企業の経営権を専有する中枢部による‘独裁体制’を強めるかもしれないのです。因みに、社会・共産主義国にあっても、‘労働者が団結する’ことは、あってはならないことでした(イデオロギーにおいて矛盾する…)。

近年、グローバリズムにも逆風が吹くようになり、17世紀以来の資本主義も修正を迫られております。多様なステークホルダーの利益を考慮する方向へと向かってはおりますが、日本企業における「ジョブ型」の導入拡大は、この方向性にも逆行しているように思えます。そして何よりも、「ジョブ型」という経営者と個々の社員が経て方向にのみ結びつくような雇用形態は、企業としての生命力を失わせてしまうことでしょう。行き着く先は、かつての社会・共産主義諸国のような冷淡な官僚主義の蔓延であり、組織自体が硬直化してしまうかもしれないのです。デジタル化社会は、多様な人々の意見がぶつかり合い、そこから新たなアイディア、さらには、イノヴェーションが次から次へと生まれ出るような自由、かつ、活気にあふれた社会としてその未来像が描かれています。しかしながら、「ジョブ型」の仕組みにあっては、個々の社員の豊かな発想が事業に生かされる余地は見当たらず(発想のユニークさを求めるならば、職務内容や能力の事前設定は、むしろ枠を嵌めてしまうこととなる…)、企業中枢部を中心に個々の社員が同心円状に直接的に繋がるか、あるいは、中間管理が‘官僚化’する企業形態となりかねないのです。

年功序列型への完全なる回帰が100%正しいとは言わないまでも、「ジョブ型」への移行は、人々の根源的な働く意欲や生き甲斐を喪失させるかもしれず、この意味においても、社会・共産主義体制と共通しています(もっとも、ソ連邦にあって軍事部門のみが突出したように、上意下達の徹底による目的達成には長けているかもしれない…)。そして、ソ連邦が崩壊したように、やがては救い難い停滞に沈み、同モデルは歴史から消え去ってゆくかもしれないのです。

見方によっては「ジョブ型」の‘ジョブ’とは、予め決められた仕事を上からの指令通りに実行すること、即ち、人のロボット化ともなりかねないのですから、ITやAIの普及が予測される今日であればこそ、企業は、人に相応しい組織造りに努めるべきではないかと思うのです。新たな企業モデルを世に問う起業が待たれるところですし、既存企業組織にあっても、社員の参加意識を高めるための‘自由化’や‘民主化’が必要なのかもしれません。

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攻守のバランス問題―イージス・アショア停止の代替案は?

2020年06月17日 12時06分09秒 | 日本政治

 世界各地において発見されている遺跡に残された痕跡から推測しますに、人類は、戦争というものを繰り返してきたようです。今日に至っても戦争は完全に消滅するには至っていないのですが、近代以前と以降とでは、戦争の様態も随分と変化してきているように思えます。最大の変化要因が大量破壊兵器をも生み出した科学技術の発達であったことは言うまでもありません。そして、それは、攻守のバランスの著しい崩壊を招いたようにも思えるのです。

 近代以前の戦いでは、攻める側と護る側とのバランスはある程度保たれていました。何故ならば、攻撃側の武器に対して、防御側にもそれを防ぐ同等の対抗力を備えていたからです。戦場にあっては、刀剣や弓矢等の攻撃用の武器に対して鎧や盾等を以って身を護ることができましたので、白兵戦ではむしろ兵士の数が勝敗を決する要因ともなりました。この時代の絵画では、剣や刀を手に鎧兜に身を包んだ双方の戦士は互角に戦う勇者として描かれています。

そして、攻城戦にあっても、護る側には強力な手段がありました。それは、‘壁’というものです。古代都市の遺跡を発掘すると、しばしば都市を囲い込むように築かれた城壁の跡が発見されますが、古代から近代にいたるまで、‘壁’こそ最大の防御手段であったのです(かのアレクサンダー大王でも、大軍をもってティルスというフェニキアの小さな城壁都市を陥落させるのに数年を要した)。

 都市や国家が城壁を以って固く防御されている場合、攻城戦はむしろ攻める側に不利であり、攻撃側は防御側の3倍の兵力を要したとされます。壁の外に住まう住民達もまた、城壁内に逃げ込めば敵兵による虐殺の難から逃れることができたのであり、城壁こそ最も有効な住民保護手段でもあったと言えましょう。ところが、飛躍的に破壊力を高めた近代兵器の登場は、こうしたバランスを一気に崩してしまいます。例えば、フランスの首都であるパリ最後の城壁であったティエールの城壁も、1871年の普仏戦争に際してドイツ軍の大砲の射程距離が伸びたことにより、無用の長物と化しました。同城壁が完全に取り壊されたのは1929年のことですが、その後、パリは、第二次世界大戦にあって無防備都市宣言を発し、ナチス・ドイツ軍を前にして無血開城されたのです。

 また、戦場でも、敵方の銃火器に対する劣勢を補うための作戦として、数で圧倒する‘人海戦術’も採用されるようになりました。戦場では、身を護るために纏っていた重い鎧や盾は足手まといとなり、兵士の軽装備化が進んでこともあり、銃弾の雨を浴びた兵士達の屍が重なるという凄惨な光景も広がったのです。

そこで、自軍兵士の犠牲の最小化を目指すならば、‘敵味方が近距離で直接に対峙して戦う攻城戦・白兵戦という形態は回避すべき’ということになります。そこで試みられたのが、‘飛び道具’の射程距離の伸長、並びに、攻撃兵器の破壊力の増強です。この開発に成功すれば、自らは離れた安全な場所にいながら、敵方を壊滅させることができます。自らは無傷のままで戦争に勝利することができるのですから、‘攻撃は最大の防御’の極みとも言えましょう。この結果、より射程距離の長いミサイルの開発、並びに、より強力な破壊力を有する爆弾の開発が急速に進み、遂に都市を丸ごと消滅させることができる核兵器も登場するに至るのです。今日では、核弾頭を保有し、かつ、それを搭載できる大陸間弾道ミサイルを手にしていれば、全世界の諸国の都市をボタン一つで破壊できます。かろうじて攻撃力に対して相応の攻撃力で抑止力を働かせることができるのは核保有国のみであり、‘持たざる国’に至っては、絶対的な劣位に置かれている現状が続いているのです。

以上に簡単に攻守のバランスの変化を見てきましたが、近代以降の歴史には、攻撃力への著しい比重の傾斜を見て取ることができます。しかも、今日、国境も含めた‘壁’なるものは、‘あってはならないもの’、あるいは、‘取り払うべきもの’とする観念が広がっております。今般の新型コロナウイルスのパンデミック化により、その防御的役割が再認識される風潮にはありますが、とりわけ憲法第9条を擁する日本国では、防衛力の増強でさえ、平和に反するとして否定される傾向にあるのです。

このような攻撃力の圧倒的な優位が続く中にあっても、高度な先端技術を以って対抗し、攻守のバランスを回復しようとした試みの一つが、ミサイル防衛技術の開発であったと言えましょう(この他にも防衛手段として、電磁波などを用いた敵国内のミサイル関連施設・システムの無力化もある…)。しかしながら、今般、日本国政府は、固定型のミサイル迎撃装置である「イージス・アショア」の配備を一時的であれ停止する方針を示しております。迎撃ミサイルからの落下物により住民が被害を受けるリスクがあるとする理由でしたならば、敵国からミサイルが発射された時点で周辺住民を避難させるなどの措置によって対応できるはずです。日本国民の多くが納得するほどの説明もなく、しかも、配備停止を決定するまでのプロセスも不透明なのです。

昨今の中国や北朝鮮の不穏な動きからしますと、日本国が「イージス・アショア」を配備を見送るとなれば、攻守のバランスはさらに攻撃側に傾き、むしろ、冒険的な軍事行動を誘発しないとも限りません。かつてのパリ市の城壁のように‘無用の長物’となるのでしたならば、国民に対するより丁寧な説明や情報公開が必要でしょうし、また、代替となる新たなる防衛システムの構想を打ち出せば、国民も安心することでしょう。それができないのであれば、本来は望ましくはないものの、対抗的な攻撃力による抑止策を模索するしかなくなるのではないかと懸念するのです(中国は米ロが呼び掛けている核軍縮交渉にも参加する意思がない…)。


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北京市集団感染ノルウェー産サーモン説の謎

2020年06月16日 12時19分05秒 | 国際政治

 中国では、習近平国家主席が早々と事実上の新型コロナウイルス禍の終息を宣言し、主要都市に敷かれていた厳格な封鎖措置が解除されたものの、北京市にあって集団感染が発生し、再度、感染が拡大する兆しを見せています。第二波の到来ともなりかねない様相なのですが、北京市の集団感染についてはノルウェー産サーモン起源説が唱えられています。

 ノルウェー産のサーモンを感染源とする説は、北京市最大の食品卸売市場である新発地において輸入海産物であるノルウェー産のサーモンを捌いた俎板からウィルスが検出されたことによります。同検査結果を公表したのは、同卸売市場の張玉璽会長であり、北京市当局、あるいは、中国政府の公式見解ではありません。しかしながら、サンプリングの検査を実施したのは北京市の関連当局とされていますので、同情報の公表には、少なくとも北京市の承認があったことだけは確かなようです。しかしながら、この情報、信じてもよいのでしょうか。

 同情報については、かのWHOさえ疑いの眼差しを投げかけています。その理由は、武漢での失敗が教訓となっているのかもしれません。テドロス事務総長に責任があるとはいえ、中国が提供する情報を鵜呑みにしたがために、新型コロナウイルスのパンデミック化を許し、全世界からバッシングを受ける失態を演じてしまったのですから。そして、今般のノルウェー産サーモン説についても、不審な点が幾つか見受けられるのです。

 第一に、仮にノルウェー産のサーモンが原因であったとすれば、同じサーモンを輸入した他の諸国でも同様の感染が発生しているはずです。中国が最大の輸入国ではありますが、同産品のノルウェーからの輸出総量に占める比率は10%ほどであり、残りの凡そ90%は日本国や北米を含め、世界各地に輸出されています。専門家によれば、サーモンといった魚類が同ウィルスに感染する可能性はゼロではないものの極めて低いとされており、梱包等の作業時に付着したとしても、中国のみに感染者が報告されるのは不自然です。

 第二に、何故、卸売市場であるのか、という点です。発生源であった武漢にあっても、公式に最初に感染者が確認されたのは海鮮市場でした。この時は、野生コウモリ起源説が最有力説でしたので、誰もが不自然には感じなかったのですが、その後、野生動物の取引は全面的に禁じられましたし、WHOも、食品による感染のリスクは低いとする見解をホームページにて公開しています。日本国の食糧安全委員会も、‘食品が感染経路となった科学的知見の報告はない’としていますので、仮に、ノルウェー産のサーモンが原因であればこれらの‘食品安全宣言’は覆されることとなるのですが、北京市当局が、敢えて卸売市場をターゲットとして検査を実施したのか、合理的な理由が見当たらないのです。

 そこで可能性として考えられるのが、中国側による印象操作です。北京における集団感染発生の原因が輸入食品にあるのであれば、武漢における第一波についても、その発生源は野生動物ではなく真犯人は‘輸入品’であったとするストーリーを、中国側は描きたいのではないか、という疑いが頭に浮かんでくるのです。アメリカをはじめ新型コロナウイルスの被害を受けた諸国では、中国に対して賠償請求を求める動きが活発化しています。責任追及から逃れるために、後付けであれ、中国には輸入食品起源説を唱える動機があるように思えるのです。

 もっとも、ノルウェー産のサーモンを扱った俎板に同ウィルスが付着していたとすれば、新発地のみならず、北京市一帯に既に感染が広がっている可能性も否定はできなくなります。この場合、新発地での集団感染の報告は氷山の一角に過ぎないこととなります。そして、中国政府が敢えて同地を発生地として選んだとすれば、そこには、上述した政治的意図が疑われるのです。

何れにいたしましても、今般の北京市の集団感染につきましては、中立的な機関による客観的な調査を要します。食品からの感染が確認されるとなりますとその影響は計り知れず、全ての食品の輸出入に際して非感染証明が要求される事態にもなりかねないからです。対応を誤りますと、全世界規模での食料不安、さらには、飢餓まで引き起こしかねないのですから、汚名挽回のチャンスともなるWHOのみならず、全世界の諸国は、中国に対して中立的な機関による調査の受け入れ、並びに、誠実なる情報の開示を強く求めるべきなのではないでしょうか。


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