万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

戦争防止の正道-戦争原因の平和的除去

2022年04月29日 11時11分23秒 | 国際政治
力に対しては力を以ってしか対抗できない状況下にあっては、力の抑止力を備える、あるいは、力の均衡を保つことは、必ずしも否定されるべきことではなくなります。’力は正義’という言葉が支配する世界では、利己的他害性を抑制する普遍的な意味での倫理や道徳、そして、合法性は不問に付されてしまうからです。今日、平和主義者によって核廃絶が叫ばれる一方で、核の抑止力が期待されるのも、力による平和の観点からすれば、他に手段を見出すことが非常に困難であるからに他なりません。

しかしながら、人類の歴史を振り返りますと、力のみを以ってあらゆる物事を処理する手段としてきたわけではありませんでした。そうであるからこそ、時間の先端を生きる今日の人々は、未来の人類に対する責任を果たすべく、力が支配する世界から倫理に裏打ちされた法の支配へと向かう努力を惜しんではならないのでしょう。そこで、本日の記事では、戦争を回避するための最も有効な手段として、力に依らない問題の解決方法や解決の仕組みの重要性について考えてみたいと思います。

戦争とは、得てして何らかの個別具体的な対立要因によって発生するものです。世界征服の野望に駆られた戦争は稀であり、アレキサンダー大王の大遠征やチンギス・カーンのモンゴル帝国建設など歴史においても数えるぐらいしかありません。しかも、ナポレオンのフランス帝国であれ、ヒトラーのドイツ帝国であれ、一国家が全世界はおろか、ヨーロッパ全域を征服した例もなく、何れもあえなく失敗に終わっています(もっとも、超国家権力体は世界支配を目指しているようですが…)、その一方で、大多数の戦争は、たとえそれが軍事同盟の連鎖反応によって世界大戦に発展したとしても、その発火点を辿ると二国間の紛争に行き着きます。このことは、戦争をこの世から無くしたいと願うならば、優先的に取り組むべきは、対立要因を武力行使に至る前の段階で解消してしまうこととなりましょう。

戦後の国際社会を見ますと、国連憲章などでは加盟国に対して紛争の平和的な解決を義務付けながら、肝心の解決のための制度や手段の整備を怠ってきたように思えます。国際社会において平和的解決の手段が準備されていれば、武力行使に訴えなくとも、平和裏に対立やトラブルが解決されえるのです。

そこで、政治問題については、双方が対等な立場にあって交渉し得る’協議の場’を提供する必要がありましょう。従来の手続きですと、当事国政府の双方、あるいは、一方が外交ルートを介して相手国に協議の場の設置を打診し、両者が合意、あるいは、申し出を受けた側が了承した場合にのみ、交渉や話し合いが開始されます。このため、一方が拒絶した場合には、協議によって問題を解決する道は断たれてしましますし、当事国の一方が大国である場合には、力関係が影響して中小国が不利になりがちです。当事国間の交渉の対等性を確保するためには、国際機構の内部に加盟国間の協議の場を常設するといった方法もありましょう。この場合、全ての加盟国に同制度の利用を認め、当事国の一国からの申請があった場合(当事国双方の合意を条件としない…)、相手国は、’協議の場’への出席を拒絶できないものとします。ウクライナ危機も、こうしたオープンな制度が存在していれば、事前に回避できたかもしれません。

一方、法律問題については、先ずもって、常設仲裁裁判所のみならず、国際司法裁判所にあっても単独提訴を認める方向での改革を要しましょう。とりわけ、歴史的根拠、並びに、法的根拠に照らして司法判断を下すことができる領有権に関する争いについては、一方の当事国の訴えによって司法解決手段が利用可能となれば、多くの諸国において戦争要因を除去することができます。また、当事国の一方による領有権確認訴訟の形態を新たに設けますと、日本国のように、北方領土問題、竹島問題、尖閣諸島問題など、司法解決が適している問題を抱える国にとりましては、最も望ましい平和的解決の手段となります。さらに、台湾問題も、台湾側が、国際法における独立的な主権国家として自国の地位の確認を求める訴訟を起こすことができれば、中国は、台湾併合を断念せざるを得なくなりましょう。もちろん、国際レベルにあっても司法の独立は厳格に制度的に保障されるべきですし、国内の司法制度と同様に再審制度も設けるのが望ましいのは言うまでもありません。何れにしましても、国家間の対決の場を戦場から法廷へと移すことこそ重要なのです。

地域的な紛争が第三次世界大戦、並びに、核戦争にまで発展しかねない現状は、世界各国に、平和的解決を可能とする制度整備に向けた努力を促す契機なるかもしれません。戦争がもたらす惨状を予測すれば、何れの政府も、厳しい交渉、あるいは、苦い結果となりかねない判決を覚悟しても、対立要因を解消する方が望ましいとする判断に傾くかもしれません。真に戦争のなくそうとするならば、その発生要因を平和的に解決済とする手段や制度の構築こそ、急ぐべきあると思うのです。

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核の抑止力のモデルはイギリスにあり?

2022年04月28日 15時02分55秒 | 国際政治

 ウクライナ危機は、国連安保理の常任理事国であるロシアが紛争当事国となり、かつ、核兵器の使用をも辞さない構えを見せたことで、全人類が瀬戸際作戦の威嚇対象となったかのようです。NPT体制の欺瞞をこれほどまでに明るみにした出来事はなく、同条約への加盟を勧めた常任理事国に’騙された’と感じる諸国も少なくないはずです。他の中小諸国に対しては核兵器の開発や保有を禁じ、違法行為としてしまったからです。しかも、イスラエルが中東戦闘を、並びに、インドとパキスタンが印パ戦争を背景に核保有を既成事実化したのみならず、北朝鮮も秘密裏に核兵器を保有しているのですから、NPTを順守してきた諸国の落胆は計り知れません。しかも、不条理さに対する感情的な憤慨のみならず、ロシアが核による威嚇を繰り返す今日、一般の中小諸国は核の脅威という現実に向き合わざるを得なくなっているのです。

 

 こうした現状にあって国際法は無力となり、人類は、数千年をかけて築いてきた文明の時代から野蛮な時代へと転がり落ちるかもしれません。もっとも、これが現実というものであるならば、その現実を正面から受け止める勇気も必要であり、力には力を以って対処すべき局面に来ているようです。そこで、本ブログでも、力の抑止力について考えてきたのですが、少なくとも、国際社会全体において核の抑止力を利用するためには、二つの要件を揃える必要があるように思えます。

 

 ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のような核兵器禁止条約を推進してきた核兵器=絶対悪と見なす人々にとりましては、核の廃絶こそ進むべき道なのでしょうが、現実に照らしますと、この方向性は非現実的です。そこで、第一の要件となるのは、核の開発・保有を全ての諸国に認めるというものです。北朝鮮のような抜け駆け国も存在するのですから、一部の諸国、しかも、軍事大国にのみ核保有国を限定するNPTは、有益どころか有害としか言いようがありません。NPTの第10条には、「各締約国は、この条約の対象である事項に関する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する。」とあり、脱退の手続きが認められています。同条約に基づいて、全ての加盟国が脱退するという方法もありましょうし、また、第7条を根拠として、緊急に再検討会議を開くという方法もありましょう。

 

 第二の要件とは、核攻撃を受けた場合、反撃力を保持することです。昨日の記事において指摘しましたように、核ミサイル時代には、’先手必勝’となる、すなわち、核ミサイルによる先制攻撃によって、攻撃を受けた側の国の反撃力が失われてしまうリスクがあります。この状態ですと、核保有による相互抑止力が著しく低下するのみならず、大規模、かつ、致命的な先制攻撃が選択される可能性も高まります。そこで、核の抑止力を働かせるためには核保有のみでは不十分であり、核の反撃力を準備しておく必要性が認められるのです。

 

 以上に二つの要件について述べてきましたが、実のところ、実際に、同要件を満たす政策を行っている国があります。それは、安保理の常任理事国であり、かつ、核保有国でもあるイギリスです。同国は、国家規模においては中小国なのですが、それ故に、独自の核による抑止戦略を遂行してきました(もっとも、近年、アメリカのSLBMシステムとの整合性を強めている…)。それは、四隻のトライデント・ミサイルを搭載したバンガード級の潜水艦を保有し、その内の最低一艇は、常に海洋を航行させるというものです(自国が核攻撃によって甚大な被害を受けたとしても、海洋航行中の潜水艦から反撃できる)。仮に’超大国’から核の先制攻撃を受けた場合には反撃能力を失うほどの被害を受けるものと想定し、イギリスは、核による報復の可能性を残すために、SLBMを軸とした核戦略を考案したのでしょう。

 

 日本国もまた、今般のウクライナ危機を機として核保有国となった場合には、イギリスと同様に島国ですので、反撃能力については、先制攻撃を受けた後でもそれを維持しやすいSLBMを中心としたシステムを構築するのも一案です。軍拡路線をひた走る中国に対しても、強い抑止力として作用することでしょう。また、海に面していない内陸国であっても、国連海洋法条約等の海洋法により、原則として自国籍船舶の航行の自由は認められていますので、イギリス・モデルの採用が絶対に不可能というわけでもありません。何れにしましても、力の抑止力は、平和の基礎となる可能性もあるのですから、決して軽視してはならないと思うのです。

 


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反撃能力の問題-核ミサイル時代の危機

2022年04月27日 16時35分25秒 | 国際政治

 敵地攻撃能力という名称の反撃能力への変更は、図らずもミサイル時代、あるいは、核ミサイル時代における反撃能力という極めて重大な問題を提起しているように思えます。何故ならば、ミサイル並びに核兵器の登場は、人類の戦いの歴史における反撃能力の転機ともなっているからです。

 

 ミサイルが出現する以前の時代にあっては、戦争は、どちらが先制攻撃を仕掛けたとしても、凡そ攻撃を受けた側にも反撃の機会がありました。例外的な事例としては奇襲攻撃がありますが、体勢は極めて不利でありながらも、奇襲を受けた側にも応戦したり、避難する時間がなかったわけではありませんでした。ところが、第二次世界大戦を機にミサイルの開発と軌を一にするかのように、一都市を丸ごと破壊し尽くしてしまう核兵器も登場するようになります。すると、戦争における攻守のバランスは、大きく攻撃側に有利に傾くことになるのです。

 

 第二次世界大戦にあって、日本国がポツダム宣言の受託を決意するに至った要因として、しばしば広島、並びに、長崎への原子爆弾の投下が指摘されています。核兵器の凄まじい破壊力がもたらした被爆地の目を覆うような惨状が、日本国側に戦意(反撃の意思)の喪失をもたらしたという説明です。もっとも、第二次世界大戦にあっては、核兵器の運搬は爆撃機を用いざるを得ず、仮に、日本国側が自国領空の制空権を維持していたとしたら、原爆投下は防ぎ得たことでしょう。そして、連合国側が、日本国の首都である東京に原爆を投下していたとしたら、人類の歴史は大きく変わっていたかもしれません(もっとも、既に東京は激しい空襲を受けており、その大半が焼け野原となっていましたが…)。

 

 人類最初の原爆投下から既に75年以上が経過した今日では、大陸間弾道ミサイルといった長距離ミサイルも開発されており、撃墜される可能性がある爆撃機を用いずとも、敵国に核攻撃を行うこともできるようになりました。このことは、核ミサイルによる先制攻撃が、一瞬にして戦争の勝敗を決してしまう可能性を示しています。先日も述べましたように、核ミサイル時代にあっては、相手国の首都、国家中枢、あるいは、ミサイル基地に対して核攻撃が加えられれば、先手必勝となってしまうのです。反撃能力が消滅してしまうのですから。

 

 核ミサイル時代の移行は、あたかも中世の決闘と西部劇の決闘との違いのようです。中世にあっては、日本国でも先ずは名乗りを上げ、正々堂々と闘いに臨みましたし、ヨーロッパにあっても、決闘の流儀に従って勝負を付けました(必ずしも命まで奪うわけではない…)。双方は対等の立場にあり、双方の攻めと守りがせめぎあいつつ決着がつくまで時間を要します。その一方で、西部劇の世界では、素早くピストルの引き金を引いた側が、一瞬にして相手を倒してしまいます(打たれた側は、その場でこと切れてしまい、反撃は不可能…)。弾丸の速度が同じであり、射撃の命中精度が高ければ、拳銃による決闘では先手必勝となるのです(しかも、拳銃による決闘では、盾がないに等しい…)。

 

 こうした核ミサイル時代を迎えた今日の反撃能力の喪失問題を認識しますと、各国とも、他国に自国を攻撃させない状況の整備、即ち、抑止力を可能な限り高める必要性を痛感することでしょう。抑止力の強化という面からしますと、一部の国にのみ核兵器の保有を許すNPT体制は事態を一層悪化させますし、日本国の敵地攻撃能力を反撃能力に限定しようとする方針も、現実の脅威から目を逸らしているように見えます。昨日の記事で用いた先制防衛という言葉が過激であるならば、‘反撃’という条件付けをせずに、単純に長距離ミサイルの保有でも構わないのかもしれません。

 

そして、反撃能力の瞬時の消滅が核の抑止力そのものを弱めるリスクをも考慮しますと、たとえ全ての諸国による核保有が認められた後にあっても、万が一に備え、核ミサイルによる先制攻撃を受けた場合の反撃力の維持についても、真剣に検討すべきではないかと思うのです。

 


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’敵地攻撃能力’は先制防衛能力に変更すべきでは?-タブーを設けることがタブー

2022年04月26日 10時47分17秒 | 国際政治

 先日、自民党の安全保障調査会では、とりわけ野党勢力からの反発を恐れてか、‘敵地攻撃能力’という名称を反撃能力と変更した上で、政府に対して同能力の保有を促す提言案を了承したそうです。しかしながら、敵地攻撃能力の本質的な目的を考えますと、反撃能力という名称は相応しくないように思えます。

 

 敵地攻撃能力とは、狭義には「弾道ミサイルの発射基地など、敵の基地を直接的に攻撃できる能力」として理解されています。2020年7月に当時の河野太郎防衛相が「イージス・ショア」の計画を停止した際における議論では、敵地攻撃能力には先制攻撃は含まれないと説明されておりました。今般の名称変更にあって、敢えて反撃能力と表現したのも、同能力からの先制攻撃の排除を意識してのことなのでしょう。しかしながら、敵地攻撃能力を反撃に限定してしまいますと、当然に、敵国からの第一弾のミサイル攻撃を受けてからしか、日本国側は敵地を攻撃することができなくなります。

 

 仮に、第一弾を被弾した後でなければ反撃できないとなりますと、敵国は、日本国側のこのような’事情’をどのように利用するでしょうか。相手国の立場になって戦略的に考えますと、おそらく、’反撃’を受けないために、最初のミサイル攻撃によって、日本国の反撃能力を徹底的に破壊しようすることでしょう(もしくは、指揮命令系統上、反撃命令を出すことのできる国家中枢を攻撃…)。日本国側が反撃用のミサイル発射基地を建設していれば、先ずもって同施設が攻撃対象とされます。これでは、たとえ自衛隊がミサイル攻撃能力を備えたとしても、自ら敵国に標的を提供するようなものとなり、自国のミサイル基地(もしくは反撃体制・能力)が崩れ落ちるのを呆然と眺めていることになりかねないのです。仮に、敵地攻撃能力を反撃能力に限定するならば、SLBMを搭載した潜水艦を多数建造するなどして移動式の反撃基地を建造した方が、まだ日本国は反撃能力を温存することができましょう。

 

しかも、中国、ロシア、北朝鮮も核保有国ですので、対日攻撃の第一弾が核ミサイルによるものである可能性も否定はできなくなります。あるいは、核爆発や放射能汚染を引き起こすために、日本国内の原子力発電所を狙うかもしれません。これらの諸国には、戦争法や人道法等を誠実に順守する姿勢は見られませんので、多くの日本国民の命も失われることでしょう。自民党内の議論では、日本国が敵地攻撃能力を有すればむしろ周辺諸国(中国、ロシア、北朝鮮…)を刺激し、攻撃を受けるリスクが高まるとする結論に至ったとも報じられておりますが、想定される一方的第一撃の齎すリスクについては、全く無視されてしまったようなのです。敵地攻撃能力を反撃面に制限しますと、少なくとも対日攻撃の抑止力とはならないのです。

 

そもそも、敵地攻撃能力とは、広義においては敵国の領域内において同国を攻撃する能力を意味しており、古今東西を問わず、戦時にあっては凡そ全ての諸国が有していた能力です。戦後の日本国にあっては、憲法第9条の制約により専守防衛を旨としてきましたので、今日の敵地攻撃能力の有無の議論は、日本国が置かれている特別の事情によるものとも言えましょう。そして、反撃能力という名称変更も憲法上の制約によるものなのですが、戦争においてミサイルが重要な攻撃手段となるに至った今日にあっては、同能力の反撃面への限定は、致命的な意味を持ちかねません。ミサイル攻撃は、その破壊力が高く、かつ、同時に大量に使用される場合には、‘先手必勝’となる性質があるからです。言い換えますと、現代という時代がミサイル時代であるからこそ、先制攻撃、否、‘攻撃’という表現が国際法上の違法行為を連想させるならば先制防衛という名称を以って、敵地攻撃能力を認める必要性があるとも言えましょう。

 

 このように考えますと、日本国は、先制防衛としての敵地攻撃能力を保有すべきなのではないでしょうか。日本国側による先制防衛権の発動の可能性は、周辺諸国に対して対日攻撃を躊躇させる抑止的な効果として働くことが期待されます。もっとも、今般のウクライナ危機のように、武力の先制行使は、国際法において一先ずは侵略行為の証拠と見なされますので、先制防衛の行使については、攻撃準備に入った相手国のミサイル基地、並びに、自国の領域に接近してきたSLBM搭載可能な潜水艦等に限定すれば、国際法上の問題は乗り越えることができるかもしれません。核保有による抑止力のみならず、核の運搬手段、即ち、ミサイルに対する抑止力を働かせるためには、敵地攻撃能力の名称は、反撃能力ではなく、先制防衛能力に変更し、その使用に条件を付した方が、よほど、周辺諸国から忍び寄る脅威に対する現実的、かつ、隙のない対応となるのではないかと思うのです。防衛や安全保障に関する議論では、タブーを設けることこそ、タブーなのかもしれないのですから。


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核の抑止力の開放を

2022年04月25日 16時24分06秒 | 国際政治

 今般のウクライナ危機は、国連の機能不全を白日の下に晒したという意味において、戦後の国際体制の転換点ともなり得るのかもしれません。そして、’戦争は始めるよりも終わらせる方が難しい’とも称されますように、一旦、国家間の対立が軍事衝突へと向かいますと、それを止めることは容易ではなく、エスカレートしてしまうケースの方が多いのです。起きてしまってからでは遅いのです。そこで、本日からは、戦争の抑止、すなわち、事前抑止の仕組みについて考えてみたいと思います。

 

 人類史にあって、’力’が決定要因となってきた防衛や安全保障政策の分野にあっては、先ずもって’力の二面性’に注目する必要がありましょう。力とは、有事にあっては攻撃力、並びに、防衛力となる一方で、平時にあっては抑止力として働くからです。例えば、18世紀初頭にあってスペイン継承戦争を終結させたユトレヒト条約において明示的に原則とされた勢力均衡とは、まさに、列強間における力の均衡による平和を志向しております。この時代、同条約を含めて講和条約を締結するに際して細心の注意が払われたのは、特定の一国が飛びぬけた強国とならぬように、領土の割譲を含めて列強間のバランスをとることでした。言い換えますと、意図的に勢力均衡状態を作り出すことで平和を維持しようとしたのです(もっとも、その後の歴史が示しますように、必ずしも勢力均衡状態が維持されたわけではありませんが…)。

 

 それでは、今日の国際社会にあっては、力の均衡による抑止効果は見られるのでしょうか。普遍的な国際機構として創設されたとはいえ、國際聯盟並びに国際連合において安全保障理事会に常任理事国が設置されたのは、現実を考慮し、常任理事国の5大国による勢力均衡を制度として機構に取り込んだものとして理解できます。また、冷戦期にあっては、米ソの超大国における力の均衡が、少なくとも米ソ大国間の直接的な対決を防いできたとは言えましょう。核兵器をいち早く開発した両国にあっては、次なる戦争は、核戦争を意味しかねなかったからです。両国における熾烈な軍拡競争が、少なくとも両国間の平和をもたらしたのは、皮肉といえば皮肉なことと言えましょう。

 

しかしながら、その一方で、超大国とその他大多数の諸国との間の関係に目を向けますと、そこには、軍事力における絶望的な格差を見出すことができます。兵力の規模のみならず軍事技術においても、アメリカ、ロシア、そして、中国の軍事力は一頭地を抜いていており、これらの超大国に対しては、他の諸国は抑止力を有してはいません(ウクライナは、ロシアとの戦いに善戦はしていても、侵攻自体を防ぐことはできなかった…)。こうした米ロ中による凡そ三国鼎立が出現したのは、超国家権力体が上部から各国の軍事力をコントロールしている可能性も高いのですが、核拡散防止条約の成立により、核兵器の開発・保有が制限されたことも無視できない要因のように思えます。

 

 核兵器にも当然に力の二面性がありますが、核の抑止力は、核を保有する国、あるいは、同諸国の同盟国しか持ち得ません(もっとも、核の傘には不確実性がある…)。核兵器の大量破壊兵器としての攻撃力のみならず、絶対的とも言える抑止力をも軍事大国が独占しているのですから、国際社会の現状はあまりにも不条理です。そして、核保有国と非保有国との間に見られる著しい不均衡は、不平等条約とも称される核拡散防止条約によって人為的に作出されているのです。近代ヨーロッパの勢力均衡が条約によってもたらされたとすると(力+合意)、近代における抑止力の非対称性は、一般性を欠いた国際法がもたらしていると言えましょう(力+合意+法)。

 

核兵器は、保有という行為のみで自ずと力の抑止力を発揮します。このため、その保有を条約(合意)によって制限したり、禁止したりしますと、全世界の諸国を包摂する形での核の抑止力は成立しません。ロシアや中国、そして北朝鮮による核兵器の使用が現実味を増している今日、力の均衡、並びに、力の抑止力の観点からしますと、NPT体制も偽善に満ちた核兵器禁止条約も、中小国の安全を脅かしていると言っても過言ではないのです。全ての国際法が必ずしも平和に貢献するわけではなく、時にして、不平等で不条理な現状を固定化してしまう場合もあるのです。

 

このように考えますと、核の抑止力を全ての諸国に開放するという方向性は、国際社会における主権平等の観点からも望ましいように思えます。核兵器に対する発想の転換こそ、平和への最短の道かもしれないのですから。


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ウクライナ危機にもPKOを活用する案

2022年04月22日 11時28分18秒 | 国際政治

ウクライナ危機の発生以来、本ブログにおいては、国際法秩序の維持と第三次世界大戦の回避とのジレンマに関する問題について考えてきました。その過程にあって、国際機構における司法の独立性の確保、並びに、それに伴う中立・公平な執行組織の必要性について述べてきたのですが、同執行組織に最も近い存在として、国連の平和維持活動(United Nations Peacekeeping Operations: PKO)があります。それでは、ウクライナ危機に対しても、同活動を活用することはできるのでしょうか。

 

PKOとは、国連憲章に明記はされた活動ではないものの、国際司法裁判所からその存在と役割について’お墨付き’を得ていると共に、1962年の「総会決議1854」によって承認されています。国連憲章が目指す国際の平和を実現するために、PKOは、今日に至るまで、停戦の実現や軍の撤退等の監視といった任務を遂行しており、紛争終結後にあっても、武装解除や治安の改善、さらには、民主化プロセスの後押しなども行っております。

 

ウクライナ危機に照らしてみますと、同地でも、目下、ロシアとウクライナとの間の兵力の分離、ロシア軍の域外への撤退、並びに、民間人保護が求められていますので、PKOの役割の範疇に入ることとなりましょう。これまで、PKOは中小国間において発生した地域的な紛争や内戦等に対処するために派遣されてきましたが、その任務を見る限り、ウクライナも派遣対象国となり得ます。

 

また、PKOは、政治的闘争のアリーナと化している安保理とは異なり、中立的な組織として設立されており、独立性の観点からすれば、常任理事国よりも、よほど’世界の警察官’の名に相応しい組織です。もっとも、PKOの派遣決定に際しても安保理決議を要しますので、常任理事国によって拒否権が使われるケースも当然にあり得ます。常任理事国による拒否権の行使に対しては、キューバ危機を機に「平和のための結集決議」の手続きが設けられており、国連総会において3分の2以上の多数を以って派遣が決議されれば、安保理に対して軍事的措置を勧告できるとされています。しかしながら、あくまでも法的拘束力のない’勧告’に留まりますので、必ずしも派遣が実現されるわけではありません。しかも、安保理であれ、総会であれ、これらの機関はあくまでも政治的な機関ですので、公平・中立的な立場からの法に照らした判断とは言い難い側面もありましょう。

 

それでは、今般のウクライナ危機にあって、PKOが派遣される可能性はあるのでしょうか。PKOの派遣を現実のものとするためには、基本的な手続きとして安保理においてPKOの派遣が提起される必要があります。実のところ、紛争当事国であり、かつ、被害を訴えているウクライナこそ、提訴国として最も適していると言えましょう。

 

因みに、今般のウクライナ危機にあっては、アメリカとアルバニアが、安保理に対してロシア非難とロシア軍の即時撤回を求める決議案を提出しましたが、2月25日の安保理理事会においてロシアが拒否権を行使しために採択されませんでした。このため、アメリカは、再度、安保理に対して「平和のための結集手続き」に基づく総会の緊急特別会合の開催を求める提案を行い、同案は、賛成11票の多数を以って28日に採択されることとなりました(ロシアは反対、中国並びにインドは棄権)。かくして決議の舞台は国連総会へと移り、今日に至るまでの間に、「ウクライナに対する侵略」、「ウクライナに対する侵略がもたらした人道的結果」、並びに、「人権理事会におけるロシア連邦の理事国資格停止」の三つの決議案が成立しています。

 

今日、総会が国連決議成立の主要な場となっていますので、PKOの派遣についても議案として提出される可能性はありましょう(独立的な調査団の派遣も課題では…)。もっとも、総会から勧告がなされても、PKOには軍事行動を伴いますので、7章の手続きが適用され(PKOは「6章半活動」とも称されている…)、ロシアの拒否権によって派遣が阻止されるものと予測されます。しかしながら、それでも、現国連体制の欠陥、あるいは、戦争拡大阻止の必要性に関する認識を深めるためにも、試みないよりは試みた方がはるかに意義があるように思えます。国連憲章第35条では、全ての加盟国に対して安保理並びに総会に対して提起することを認めておりますので、日本国政府もまた、PKOの活用について提案してみてはどうかと思うのです。


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ウクライナ危機が複雑である理由とは―全体像は立体的?

2022年04月21日 15時49分26秒 | 国際政治

 ウクライナ危機は、歴史的にも法的にも様々な要因が絡まっており、その解決は容易ではありません。たとえ両国政府の交渉によって停戦が合意されたとしても、抜本的な解決に至るには、まだまだ時間を要するように思えます。それでは、何故、ウクライナ危機は、かくも複雑なのでしょうか。ここで一旦、絡まった糸を解してみる必要がありそうです。

 

 一国家が純粋に軍事力によって他国を侵略し、世界征服を目指すという形態は殆どなく(むしろ、世界の全体的支配は、超国家権力体の最終目的では…)、国際紛争の多くは、領有権や資源等をめぐる争いなど、それ固有な対立要因に起因しています。そして、これらの国際紛争は、凡そ、政治問題と法律問題とに分けることができます。政治問題とは、双方の国益が衝突したり、双方が言い分や根拠を有するケースです。どちらか一方に非がある、あるいは、違法性があるというわけではありませんので、同タイプの問題に対しては、交渉を経た当事国間による合意による解決が適していると言えましょう(司法解決に付された場合でも、和解勧告を受ける可能性が高い…)。長きにわたる歴史において複数の民族が混住してきた地域や複数の民族が入れ替わってきた地域における紛争などは、基本的には政治問題が多いのです。

 

 例えば、今般のウクライナ危機は、ウクライナ東部に居住するロシア系住民の問題が絡むため、政治問題という側面が色濃い事案です。歴史を遡りますと、中世にあってウクライナの首都キーウは、ロシア、ベラルーシ、ウクライナが故地として主張するキエフ大公国の中心地でした。また、近年では、同地域のロシア系住民はソ連邦時代にロシアから移住してきた新来者も多く、必ずしもその全てが同地における古来の住民というわけでもありません。’帝国’とは、それが崩壊した後にも深刻な民族問題を残すものです。

 

 一方、法律問題とは、国際法等に照らして司法的に解決し得るケースです。もっとも、法律問題として解決されるには、問題領域に国際法が適用されている必要があります。今日では、様々な領域や分野にわたって国際法が成立してきており、戦後は、司法解決し得る範囲も飛躍的に拡大してきています。もっとも、国際法がカバーする範囲は広がってはきていても、国際機構にあって十分に司法の独立性が制度的に保障されているわけではなく、判決等の強制執行を行う手続きや手段も確立していないのが現状です。

 

 今般のウクライナ危機に際しても、ロシアによる国際法違反が対ロ制裁の根拠とされており、同危機は、法律問題として扱われています。それではどのような点で同危機が法律問題とされるのかと申しますと、それは、主として紛争解決の手段として武力を用いたことによります。また、ブチャ虐殺事件がロシア軍の手によるものである疑いもあり、同事件については、戦争法やジェノサイド条約といった人道法上の違反行為も問われているのです。このように、ウクライナ危機には、政治問題と法律問題とが混在しております。後者の問題が解決したとしても、前者が解決を見るとは限らず、また、その逆もあり得るのです。

 

 加えて、ウクライナには、国家をあげてユダヤ教に改宗したハザール国の版図と重なる地域もあり、ゼレンスキー大統領をはじめ、ウクライナには、ユダヤ教徒も多数居住しています。アシュケナージとも称されるユダヤ教徒なのですが(ハザール起源説には否定的見解もある…)、これらの人々の人脈は、近隣のポーランドなどの中東欧諸国のみならず、アメリカといった米欧諸国にも広がっています。因みに、オバマ政権にあって第68代国務長官を務め、現バイデン政権でも気候問題担当大統領特使を務めているジョン・フォーブス・ケリー氏も、その祖先は、チェコから移民してきたアシュケナージ系です。今日、アメリカのバイデン政権が、積極的にウクライナに肩入れする理由の一つには、アメリカにおけるユダヤ系ネットワークとの繋がりを指摘することができましょう。超国家権力体の中枢でもあるユダヤ人脈に注目しますと、ウクライナ危機は、従来の国家間の二次元戦争に見えながら、その実、三次元戦争の側面が表面に浮かび上がってしまった極めて珍しいケースであるのかもしれません。

 

 以上に述べましたように、ウクライナ危機には、政治問題と法律問題の両者が含まれていることに加えて、ユダヤ系ネットワークとの繋がりというウクライナ特有の要因によって、問題の複雑性が増しています。この点を考慮しますと、同問題の解決には、平面的な二次元の視点のみならず、全体像を立体的にとらえる三次元的な視点が必要なのではないかと思うのです。


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ウクライナ危機は安保理常任理事国が第一義的に対応すべきでは?

2022年04月20日 15時41分22秒 | 国際政治

地域的な紛争を世界大戦へと拡大させないためには、紛争を当事国の間に閉じ込めておく工夫が必要です。その一方で、軍事力において劣位にある中小国が攻撃を受けた場合、国際社会がそれを放置しますと’見殺し’となり、国際法秩序も崩壊してしまします。それでは、攻撃を受けた側が、自力、即ち、個別的自衛権の行使によって攻撃行為を跳ね返すほどの軍事力を備えていない場合はどうするべきなのでしょうか。

 

国際法の執行部隊につきましては、4月8日の記事にて輪郭を描いてみましたが、独立的な国際執行機関を創設するには時間も労力も要します。そこで、執行機関の設立に至る前段階として、当面の間は、安保理常任理事国が対応すべきかもしれません。国際司法機関から犯罪性の認定を受ける以前にあっても(後に、人道的介入として認める司法判断が下される場合もある…)、国際社会における警察機能として暴力を停止させる役割が必要となるからです。

 

なお、何れの段階にあっても、国際法秩序を維持するための軍事力の行使は、戦争ではなく、あくまでも国際法の執行です。このため、宣戦布告といった戦争法の手続きを踏む必要はなく、紛争当事国双方と執行任務にあたる常任理事国との間に戦争状態が生じるわけでもありません。執行国は、あくまでも中立の立場から軍事力を行使するのです。このため、執行の地理的範囲も軍事侵攻が行われている地域に限定されましょう。また、兵力を引き離し、国境線を越えて侵入してきた軍隊を域外へと追い出し、最終的に当事国双方に停戦をもたらすのが主たる任務となりますので、執行行為が核戦争へと発展するリスクも著しく低下します。

 

今日の国際社会にあって、特権が認められると共に国際の平和を維持する責任を担っているのは安保理常任理事国です。国際法上の責任に鑑みますと、第一義的に対応すべきなのは、常任理事国となりましょう。たとえ常任理事国の内の一国が攻撃国となるケースであったとしても、国際法(国連憲章やNPT…)において、他の常任理事国は、引き続き平和への脅威を排除する第一義的な責任を負っています(警察官の一人が犯罪者となっても、他の警察官の任務が解除・停止されるわけではない…)。国際の平和に対する常任理事国の責任に照らしますと、今般のウクライナ危機に際しても、アメリカ、イギリス、フランス並びに中国の4か国が、共同、あるいは、単独で国際法を執行する義務を負います。常任理事国である限り、アメリカは、’世界の警察官’を辞すことはできませんし、中国も、たとえ自国の国益から親ロシアのスタンスにあっても、ロシアの兵力排除に加わらざるを得なくなるのです。

 

なお、常任理事国が対応している間は、他の諸国には、自国の政策、並びに、集団的自衛権に基づいて自国の軍隊を執行任務に参加させる必要はありません。権利と義務のバランスを考慮すれば、核を保有しておらず、かつ、紛争とは直接的な関わりのない中小国が、常任理事国との二国間、あるいは、多国間の同盟条約に従って、核攻撃を受けかねない軍事行動に参加せざるを得ない状況に陥るのは酷でもあるからです。また、力のバランスに照らしますと、常任理事国同士、あるいは、軍事大国同士による解決の方が理にかなっていると言えましょう。

 

常任理事国の抜きんでた軍事力をもってすれば、大半の武力衝突は停止状態-強制停戦に至ることでしょう。国際法秩序の維持と世界大戦化の回避を両立させる道があるとすれば、それは、諸国による軍事力の行使を、従来の国家間の戦争から、任務を限定した国際法の執行へと移行させることにあるのかもしれません(権力の分立化…)。それが、たとえ現状にあって常任理事国が担うものであったとしても…。

 

以上に、今日の人類が抱えるジレンマを解く方法について述べてきましたが、常任理事国であるロシアが攻撃国となった今般のウクライナ危機は、残念ながら、本記事の提案が机上の空論となりかねない現実を示しています。アメリカをはじめとした他の常任理事国は、ウクライナ側において軍事支援を実施しており、必ずしも’執行者’に相応しい中立的な立場にあるとは言い難い状況にあります。とは申しましても、日本国、並びに、NATO加盟国をはじめとした中小諸国が常任理事国に対してその責務を果たすように求めることには、第三次世界大戦への拡大を阻止する上で抑止的な効果は期待されましょう。そして、常任理事国がその責任を過重負担と見なし、その放棄を望む場合には、国際社会の在り方は、今一度、将来に向けて抜本的に検討しなおす必要がありましょう。


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国際法秩序と世界大戦化の回避のジレンマを解くには?

2022年04月19日 16時16分56秒 | 国際政治

地域的紛争が世界大戦化するリスクは、加害国側の軍事力に比例して上昇します。しかも、被害国側に軍事同盟が存在する場合、集団的自衛権が発動され、またたくまに全世界に戦火が広がります。現状では、一旦、戦端が開かれる、あるいは、宣戦布告がなされますと、当事国以外の同盟国も交戦国となり、国境を接していなくとも、自国にミサイルが飛来したり、サイバー攻撃を受ける危機に直面します。最悪の場合には、核戦争に巻き込まれる可能性もあるのですから、理不尽といえば理不尽なのです。

 

そこで、考えられる国際法秩序と世界大戦化の回避との間のジレンマを解く方法の一つは、第三国の軍事行動をめぐって、その要件や行動規範を定めるというものです。要件の設定に際しては、少なくとも(1)集団的自衛権の発動条項を含む軍事同盟条約の有無、(2)国際司法機関による犯罪認定の有無、並びに、(3)当事国の軍事力などによって異なる内容を定めるべきかもしれません。

 

例えば、(1)の集団的自衛権については、当事国の何れであっても、事後的な軍事同盟への加盟は禁止すべきです。その理由は、加盟と同時に、即、集団的自衛権が発動されて世界大戦へと発展しかねないからです。この条件に従いますと、ウクライナは、NATOにもEUにも加盟することはできなくなります。同国は、EUへの早期加盟を望んではいますが、EUはWEUを引き継いでいるため、集団的自衛権が発動し得るからです。その一方で、ロシアもまた、中国に対して軍事支援を求めたり、全体主義陣営を形成することも不可能となりましょう。同行動規範は、地域的紛争の連鎖的拡大を防止することを目的とします。

 

なお、先制攻撃は一先ず非防衛的行為と見なされます。このため、先手を打った側の国が軍事同盟を結んでいる場合には、たとえ反撃を受けたとしても、同国の同盟相手国は、集団的自衛権の発動を控えるものとします。

 

また、先制攻撃側の行動が、必ずしも正当性を欠くとは限りません。今般のロシアのように、ウクライナ側のジェノサイドを訴え、人道的介入が主張されるケースもあり得ます。こうした先制攻撃を行った側が正当防衛権を主張する場合には、事前であれ、事後であれ、あるいは、交戦中であれ、国際司法機関に合法性の判断を求めることを義務付けることとします。中立・公平な立場からの十分な調査の結果として国際司法機関による判断が示されれば、他の諸国も情報の真偽、並びに、どちら側に非があるのかを確認することができましょう。

 

(2)「国際司法機関による犯罪認定の有無」については、国際司法機関によって国際法上の’犯罪’として認定された場合のみ、原則として、第三国の軍事力の行使を認めるものとします。また、国際司法機関の判断が下された以上、全ての諸国には経済制裁といった他の非軍事的な手段によって制裁を行う義務も生じます。仮に、経済制裁によって攻撃国の戦費が枯渇し、戦争遂行能力が失われれば、事態は収拾に向かうことでしょう。

 

ただし、先制攻撃は一先ずは違法行為と見なされますので、攻撃を受けた側には、軍事同盟の有無に拘わらず、国際司法機関が判断を示すまでの間、少なくとも個別的自衛権の発動が認められます。仮に、攻撃を受けた側が単独で攻撃行為を排除できれば、同事件における犯罪性の判断や賠償等は、’戦後処理’の一環として国際司法機関に委ねられることとなりましょう。(つづく)


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’二つの正義’のジレンマとは―国際法秩序と第三次世界大戦のジレンマ

2022年04月18日 15時06分47秒 | 国際政治

 ウクライナ危機は、ロシアとウクライナとの二国間関係にとどまらず、今日の国際社会が抱える致命的な問題点をも浮かび上がらせています。このため、地理的に遠方に位置する日本国にあっても関心が高く、国際社会の在り方について国民が深く考える機会ともなっています。

 

 先日も、東京大学の入学式にて映画監督の河瀨直美氏が述べた祝辞の内容が、ネット上で議論を呼んでいました。批判的な論調が強かったのですが、その主たる理由は、同氏が、ロシアの’正義’とウクライナの’正義’を同列に並べつつ、ロシア側のみを悪として糾弾する姿勢に疑問を投げかけたからです(もっとも、後半では日本国も他国を侵略する可能性について言及しているため、ロシア側に’正義’があるとするならば、侵略国であるはずの日本国にも正義があることになり、どこか一貫性を欠いている…)。同氏の認識には、国際法に違反した加害国と被害国とを区別がない、即ち、善悪の判断が欠けているという倫理観の欠如に対する批判なのですが、ウクライナ危機に際して提起される二つの正義の問題は、ロシアとウクライナという二次元の国家間にあるというよりは、別次元にあるように思えます。

 

 ウクライナ危機が人類に突き付けている’二つの正義’のジレンマ、それは、国際法秩序の維持と第三次世界大戦の阻止との間に横たわっているように思えます。国連の枠内であれ、枠外であれ、国際法違反国に対し、違反行為を止めさせるために国際社会、あるいは、有志国家群が一致団結して軍事行動に出ると、第三次世界大戦を引き起こしてしまう可能性があるからです。正義を実現するための善なる行動が、人類滅亡への道を開いてしまうというジレンマなのですから、この問題は深刻です。

 

 このジレンマについては、これまでも本ブログにおいて再三にわたって指摘しており、先ずもって、中立・公平な国際機関による厳正なる調査が必要となる点を強調してきました。国際レベルでは、司法の独立は制度的に確立されていませんので、国際法の主観的な解釈並びに一方的な適用(執行)は、第三次世界大戦への最短の道となり得るからです。今般のウクライナ危機のケースでは、当事国間の歴史的経緯を検証しつつ、ロシア軍侵攻に先立つウクライナ側によるロシア系住民に対する虐殺行為(ジェノサイド)の有無やアゾフ大隊による挑発行為の有無等を調べる必要がありましょう。

 

仮に、独立性が保障されている国際レベルでの司法調査機関が’動かぬ証拠’を握り、ロシア側の犯罪性が明らかとなれば、ロシア、あるいは、プーチン大統領は、国際司法裁判所や国際刑事裁判所に起訴されることになります。被告側が素直に国際法廷に姿を現し、同機関の判決に従うとすれば、ウクライナ危機は平和的な手続きを経て無事に解決されましょう。この展開は、全ての諸国が歓迎する最も理想的な終わり方となります。

 

しかしながら、ロシア側が国際司法手続きに従うとは限らず、また、国際司法機関の判決の執行に責任を負う安保理も、ロシアが常任理事国である以上、迅速な対応を期待することはできません。従って、結局、有志連合が同判決を根拠として、ロシアに対して軍事力を発動するしかなくなくなるのです。ウクライナ危機に限らずとも、フォーマルな司法手続きを経たとしても、第三次世界大戦は起こり得るのです。言い換えますと、冒頭で述べたジレンマは、まさに、どちらを選んでも悲劇的な選択を人類に迫るのです(つづく)。


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フランス大統領選挙に見える人類の共通課題

2022年04月15日 11時04分42秒 | 国際政治

 先日フランスで実施された大統領選挙では、過半数を超える票を獲得した候補者はおらず、現職のマクロン大統領と国民連合のルペン氏による決選投票に持ち込まれることとなりました。両者の主張は見事なまでに正反対なのですが、特に関心を集めているのは、ウクライナ危機の最中にあっての安全保障政策の基本方針です。親NATO政策を推進してきたマクロン大統領に対して、ルペン候補は、NATOの軍事機構からの脱退を主張しているのですから、同大統領選挙の結果は、まさにフランスという国の運命を決することとなりましょう。

 

 NATOの軍事機構からの脱退はルペン氏が初めて言い出したわけではなく、1966年にシャルル・ド・ゴール大統領が脱退を宣言して以来、アメリカとの間に一線を画し、フリーハンドを確保しようとする独自路線は、暫くの間、フランスの安全保障面における伝統ともなってきました。フランスがNATOの軍事機構に復帰するのは、2009年、即ち、サルコジ大統領の時代のことです。この点からしますと、ルペン氏の主張は必ずしも過激でも突飛でもなく、むしろ、フランス保守の伝統的な路線への回帰とも言えましょう。

 

 しかしながら、今般のルペン氏の主張は、ウクライナ危機を背景としているだけに、これまでとは違った切実な意味を持つように思えます。何故ならば、NATOの軍事機構からの脱退とは、即ち、フランスの戦争回避を意味するからです。北大西洋条約の第5条には集団的自衛権の行使に関する規定がありますので、仮に、ウクライナ危機がNATOを巻き込む欧州大戦、あるいは、第三次世界大戦へと発展した場合、フランスには参戦義務が生じてしまうのです。ルペン氏の訴えは、フランス国民の耳には、フランス不参戦の公約に聞こえていることでしょう。

 

 支持率の動向を見ますと、ウクライナ危機は、マクロン大統領への追い風となってきたようです。同危機が発生した当初、マクロン大統領は、’国民を率いる力強いリーダー’を演出したため、黄色いベスト運動などで低迷していた支持率が俄かに上昇に転じています。決選投票まで残ったのも、あるいはウクライナ危機の’効用’であったかもしれません。ところが、同危機が混迷を深め、第三次世界大戦への懸念も指摘されるに及ぶと、さしもの’マクロン・フィーバー’も陰りを見せるようになるのです。

 

 フランスは、第一次世界大戦にあっては国土が荒廃し、第二次世界大戦にあってはナチス・ドイツの占領下に置かれています。歴史的には戦争嫌悪の傾向にありますが、この国民の戦争忌避の意識が表面化してきたことが、現下の支持率におけるマクロン大統領とルペン氏との拮抗状態をもたらしているのかもしれません。しかも、今般の戦争は、先の大戦とは違い、自国に外国の軍隊が進軍・進駐してきているわけでもありません。事態の一層の悪化により、ウクライナ支援のためにNATOの集団的自衛権が発動されますと、当然にフランスも無傷ではいられず、フランス軍における人的被害や莫大な戦費の負担も予測されます。最悪の場合には、双方による核攻撃の応酬となるかもしれません。

 

 こうしたフランスの現状は、全ての諸国が直面している問題の輪郭を浮かび上がらせています。例えば、ルペン氏によるNATO離脱政策は、一見、フランスの安全保障を損なうように見えます。しかしながら、フランスが国連安保理の常任理事国であり、かつ、核保有国である点を考慮しますと、同政策は、必ずしも非現実的でリスキーなものとは言えないのかもしれません。否、核武装という前提条件があってこそ、独自路線の追求が可能となっているとも言えましょう。核保有が焦点であることは、実際に、フィンランドやスウェーデンは、’核の傘’を求めてNATO加盟を目指している点からも窺えます。核保有、国家の自立性、そして、安全保障の密接な関係は、何れの国にとりましても考えるべき問題です。

 

 また、マクロン大統領は、この場に至り、ブチャ虐殺事件についてジェノサイドの認定を否定する発言を行っています。同発言に対しては非難の声が寄せられたのですが、マクロン大統領は、「ジェノサイドを行ったと非難すれば戦争が拡大する恐れがあるとして、この言葉の使用を避けている」と述べた上で、「ジェノサイドが起きたとみなす国には、国際法にのっとって介入する義務がある。それは人々が望んでいることなのだろうか? 私はそうは思わない」と釈明しています。一連の発言は、戦争忌避に傾くフランス世論の風向きを読もうとした結果なのかもしれませんが、ここにも、国際法秩序の維持と第三次世界大戦の回避という、全ての国が果たすべき二つの課題の間に横たわる深刻なジレンマを見出すことができます。

 

 何れの問題も、フランスのみが抱える問題ではありません。フランス大統領選挙の決選投票日は今月24日に迫っていますが、その行方には、否が応でも無関心ではいられなくなるのです。


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ウクライナ問題解決はジェノサイド条約に従うべきでは?

2022年04月14日 15時32分48秒 | 国際政治

 ウクライナの歴史を辿ってみますと、そこには頭を抱えたくなるような複雑な歴史を見出すことができます。絡まった糸を解きほぐし、当事者や関係者間において合意を形成するには今しばらく時間と努力を要するのでしょうが、本日の記事では、今般のウクライナ危機に限定して正攻法の解決策について述べてみることとします。

 

 ロシアがウクライナとの国境線を越えて軍を進軍させた際に、その根拠としたのは、東部地方に居住しているロシア系住民の保護です。同地域では、既にウクライナ政府軍とウクライナからの分離独立を主張する親ロ派武装勢力との間で戦闘が発生しており、いわば内乱状態にありました。当然に、双方ともに民族派が台頭しており、ウクライナ側でも過激な民族主義集団が活動するようになります。そして、民間の義勇団にあって国軍に昇格したのが、ネオナチ集団と称されてきた、かのアゾフ大隊です。ロシア側の主張とは、こうした過激派の部隊がロシア系住民を迫害し、命を奪っているというものなのです。

 

 ロシア側からしますと、今般の軍事侵攻は、ウクライナ軍によるロシア系住民に対するジェノサイドを止めるための人道的介入ということになります。武力を紛争の解決手段とした点において、ロシアの行為は国際法に違反するのですが、人道的介入については、それが事実であり、かつ、一分一秒を争うような状況下にあっては、国際法において絶対に許されないとは言い切れない側面はあります。命を救うために時間的な猶予がない場合には、正当防衛論も成り立つ余地はあるとは言えましょう。

 

 ロシア側がウクライナ側によるジェノサイドを訴える一方で、ウクライナ側も、目下、ロシア軍によるジェノサイドを主張しています。ロシア軍が撤退した後、キーウ周辺の地域では、ロシア軍の仕業とみられるウクライナ民間人の虐殺遺体が多数発見されたとされており、この事件を機に、国際世論もロシア批判に大きく傾くこととなりました。

 

 以上の経緯からしますと、双方の’ジェノサイド’が焦点となりそうなのですが、ここで、同問題を、両国がジェノサイド条約の規定に基づいて紛争を解決する場合を想定してみることとします。そもそも、ロシアもウクライナも同条約の締結国ですので、本来であれば、同条約に従う義務があります。それでは、ジェノサイド条約は、どのような解決を求めているのでしょうか。

 

 先ずもって注目されるのが、国連による防止行動を定めた第8条、並びに、紛争の解決を記した第9条です。第8条には、「締約国は、国際連合の権限ある機関に対して、集団的殺害又は…を防止し、抑止するために適当と認める国際連合憲章に基づく行動をとるように求めることができる」とあります。また、第9条の条文には、「この条約の解釈、適用又は履行に関する締約国間の紛争は、集団殺害又は…に対する国の責任に関するものを含め、いずれかの紛争当事国の要請により国際司法裁判所に付託される」と記されています。

 

 これらの条文が定める手続きに従えば、ロシアがウクライナにあって実際にロシア系住民がジェノサイドの危機に直面していると認識していたならば、国連の安保理、もしくは、総会において同問題を提起すべきでした。アゾフ大隊によるジェノサイドが即応を要する奇襲的、あるいは、継続的な性質のものであった場合を除いて(この場合のみ、ロシアの軍事行動は正当防衛となり得るのでは…)、ロシアには、軍事侵攻に先立って条約上の手続きに解決を求める義務があったと言えましょう。

 

 その一方で、ウクライナ側も、ロシアに対してジェノサイドの責任を問うならば、第8条の手続きに沿って、先ずは、国際司法裁判所に対して提訴すべきとなります。報道によりますと、ウクライナ検察と国際刑事裁判所が協力する形でブチャ虐殺事件の調査が行われているそうですが、本案件はジェノサイドですので、優先的にジェノサイド条約が適用されるべきです。しかも、ロシアもウクライナも、国際刑事裁判所ローマ規定の締約国ではありませんので、両国が締約国となっているジェノサイド条約に基づく解決法のほうが相応しいのは言うまでもありません。

 

 もっとも、たとえ両国ともジェノサイド条約の手続きに従ったとしても、国際司法裁判所の決定に対する最終的な執行責任は国連安保理にありますので、必ずしも平和的に解決するとは限らないかもしれません。しかしながら、少なくとも、今日のような混乱した事態は避けられたはずです。ジェノサイドの認定については米欧諸国のトーンも落ちてきているようですが、法による平和的な解決手段が既に存在するのですから、ロシアもウクライナも、ジェノサイド条約の手続きを活用すべきなのではないでしょうか。今からでも遅くはないと思うのです。


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対ロシアと対中国に見えるダブルスタンダード

2022年04月13日 14時48分38秒 | 国際政治

 今般のウクライナ危機は、ロシアによる国際法上の違法行為を以って対ロ制裁の合法的な根拠とされております。日本国政府の政策も同見解に基づいており、再三にわたって、ロシアの違法性を強調しております。その一方で、過去を振り返りますと、日本国政府並びに米欧諸国の政府にあって、国際法違反行為に対するダブルスタンダードが見受けられるのです。

 

 それでは、どのようなダブルスタンダードであるのかと申しますと、それは、中国に対する態度との違いです。何故ならば、中国は、南シナ海問題にあって2017年7月に下された常設仲裁裁判所の判決に従わず、今日なおも同海域に居座り、強引に軍事要塞化を進めているからです。

 

 ウクライナ危機のケースでは、国際司法裁判機関が、証拠に基づく事実認定を経てロシアの違法性を判断したわけではなく、また、裁判に先立って中立・公平な検察機関による厳正なる調査も行われていません。いわば、各国が、国際レベルでの司法手続きなしでロシアを‘有罪’と決めつけている状況にあります。一方、南シナ海問題にあっては、常設仲裁裁判所は法において定められた手続きを漏れなく踏んでいました。同裁判所の規定では、当事国の一方による単独提訴が認められておりますので、中国の欠席は判決の効力には影響しません。否、同裁判所は、独自に南シナ海に関する歴史的経緯を調べるとともに、中国側が主張する「九段線」の根拠についても厳正に審査しています。言い換えますと、同裁判所は、双方の主張に対して中立・公平な立場から中国には国際法上の権利がないとする判決を示しているのです。

 

 国際法秩序の重要性を考慮すれば、この判決が下されたと同時、各国とも、対中制裁の実施に踏み切ったはずです。ところが、この時、常設仲裁裁判所という国際司法機関による判決文を中国が紙屑のように破り捨てたにも拘わらず、日本国政府をはじめ、各国政府とも中国に対して具体的な制裁に動くことはありませんでした。言葉では厳しい口調で糾弾し、判決の順守を求めながら、それを行動に移すことはなかったのです。この態度は、今般のロシアに対するヒステリックなほどの対応からしますと、ダブルスタンダードと批判されても致し方ないように思えます。

 

 目下、メディア等では、今般のロシアによるウクライナ侵攻が、中国による台湾進攻を引き起こすとする懸念を報じております。ロシアがウクライナ東部に独立国家を建設することに成功すれば、中国もまた、武力による一方的な現状を試みるであろうと…。日本国もまた、尖閣諸島のみならず、日本国全土が中国から直接的に攻撃を受ける脅威に晒されていますので、他人事ではありません。

 

 極東にあっても中国の軍事侵攻が起きうるのですから、こうした事態を事前に防ぐためにも、先ずもって対中制裁を実施すべきなのではないでしょうか。今からでも遅くはないはずです。ロシアにだけ厳しく、中国に対しては甘いということでは一貫性を欠きますし、違法行為に対しては、いかなる国に対しても等しく制裁を科さないことには、国際法秩序が維持できるはずもありません。

 

 中国による国際司法機関による判決に対する不服従は、同国による武力による一方的変更を伴う南シナ海の不法占拠(侵略)という違法行為の継続を意味します。日本国を含む諸国には、対中制裁に際して国際法上の根拠があるのです。しかも、ウクライナ危機におけるロシアの立場と同じく、南シナ海問題では、当事国の中国は安保理常任理事国であり、国連に期待することはできません。そうであるからこそ、対中制裁は、国際法秩序の維持に責任を負う、中国を除くすべての諸国の義務でさえあるのではないかと思うのです。


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国連なき安全保障体制の構築は可能?

2022年04月12日 15時40分30秒 | 国際政治

 ウクライナ危機において判明した国連の制度的欠陥は、もはや国連に期待を寄せることはできないという、深刻な現実を知らしめています。国連に絶望したウクライナのゼレンスキー大統領は、安保理理事会において「国連を解体する覚悟はあるのか」と訴えたと伝わりますが、’国連なき国際社会において如何にして安全を確保するのか、という問題は、全ての諸国にとりまして現実的な課題となりつつあります。そこで、本日の記事では、国連なき安全保障体制について考えてみようと思います。国連なき国際社会を想定する場合、国際法の有無を軸に幾つかのケースに分けてみる必要がありそうです。

 

第1のケースは、国連と共に国際法も消滅し、国際社会が、力のみが手段となる野蛮な無法地帯に逆戻りするというものです。第1のケースは、さらに個別的な対応と集団的な対応に分かれます。

 

個別的対応とは、各々の国が自衛に努めるというものです。自国を護るのは、原則として自国の軍事力のみとなりますので、各国とも、軍備拡張競争に参加せざるを得なくなります。しかも、国際法が存在していませんので、軍事テクノロジーの開発に歯止めがきかず、非人道的な兵器の登場もあり得るかもしれません(もっとも、現状でも、秘密裏に生物・化学兵器が開発されている…)。この状態では、規模が大きい、資源が豊富、高度な技術力といった条件を備えた国が優位となり、弱小国が攻撃を受け、征服・支配されるリスクは高まります。無法地帯化にあっては、全ての諸国は侵略リスクに晒され続けることになりましょう(あるいは、世界征服を達成する強大な国が出現する?)。

 

もっとも、仮に、全世界の諸国の安全を保障する体制が存在するとすれば、それは、’核武装体制’であるかもしれません。現代という時代にあっては、原子力の利用により、核の抑止力という絶大なる手段があるからです。国際法の消滅により、各国は、核拡散防止条約や核兵器禁止条約等に拘束されることなく核兵器や運搬手段を開発・配備できますので(他国から調達するオプションも…)、核の抑止力によって自国の安全を護ることもできます。核による相互抑止体制では、国力の相違に拘わらず国家間関係は対等となり、国家という最小単位間において実現した力の均衡が平和を維持する構図となります。

 

その一方で、集団的対応は、さらに有事に際して一時的に他国と同盟を結ぶ形態と、長期的な安全保障体制として構築される形態との二つに分かれます。前者の戦時同盟は終戦後に終了しますが、後者の体制化する形態は、中世の封建体制やアジアの冊封体制に類似した構造となりましょう。現実にあって、国家間には軍事力に差がありますので、他国からの軍事的脅威を受けている中小国は、自国のみで安全を確保できないと判断した場合には、軍事大国と軍事同盟を結ぶぼうとすることでしょう。各国の同盟政策の結果、大国間、大国と同盟グループ、同盟グループ間の間で勢力均衡が実現すれば、同体制下においても平和が保たれます。もっとも、この体制では、軍事大国とその同盟国との関係は対等ではなく、義務と権利がそれぞれ異なる非対称な関係となります。軍事大国は、同盟国の安全を保障しますが、同国の軍事戦略への協力を含めて何らかの’見返り’を求められることとなりましょう。

 

 第1のケースにおいて安全保障を確保するためには、どのような形であれ、力の均衡を実現する必要があります。その一方で、第2のケースは、国連は消滅しても、国際法だけは生き残るというものです。

 

法の存在によって人類の野蛮化は回避できるのですが、法のみで平和を実現することには困難を伴います。仮に、純粋に法の存在そのものが平和をもたらす場合があるとすれば、それは、国際法が定めた行動規範を全ての諸国が順守するしかありません。即ち、侵略やジェノサイド等の禁止(利己的他害行為)、並びに、紛争の平和的解決や武力による現状の一方的変更の禁止(暴力的手段)といった行動規範が誠実に守られていれば、自ずと国際社会に平和が訪れることとなりましょう。この側面から見ますと、全ての諸国が自由で民主的国家体制であることは極めて重要です。国民の多くは戦争を望みませんし、残虐行為を厭う良識を備えているからです。

 

もっとも、法とは、それが執行されなければ画餅となりがちです。全ての諸国が国際法を自発的、かつ、誠実に順守するとは限りませんので、第2のケースでは、違法行為や犯罪が行われた場合、原則として各々の国家が執行機能を担います。個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、何であれ、国家の自然権あるいは正当防衛権の発動によって、これらの行為が排除されるのです(被害国以外の国が執行を行うこともあり得る…)。第1のケースと比較しますと、第2のケースでは国際社会において違法性が問われますので、侵略といった行為が起きるリスクは低下します。その一方で、当事国が国際法を主観的に解釈することになりますので、違法性の判断において中立・公平性に欠けるという問題があります。なお、国連が機能不全となったウクライナ危機は、同ケースに近いと言えましょう。

 

以上に述べてきましたように、国連なき国際社会において安全保障体制を構築することは必ずしも不可能というわけではないようです。一つの方法で完璧に安全を保障できないならば、幾つかの方法を組み合わせて極力リスクを低減させるという方法もありましょう。何れにしても、国連改革によって対処すべきか、あるいは、国連なき安全保障体制の構築を目指すのか、今後とも、あらゆる可能性を排除せず、国際社会において議論を尽くしてゆくべきではないかと思うのです。


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第三次世界大戦の阻止もウクライナ危機における人類的使命

2022年04月11日 14時19分34秒 | 国際政治

ウクライナ危機を前にして、日本国政府を含む米欧諸国の政府にあっては、ロシア批判において足並みを揃えています。主要メディアの論調も、’残虐国家ロシア’、あるいは、’ロシア憎し’の凡そ一色であり、国民に対して同国に対する敵愾心を煽っているようにも見えます。

 

人道的介入というロシア側の根拠の真偽については客観的な検証を要するものの、ロシア軍は国境線を越えてウクライナの領域内で軍事作戦を展開しておりますので、一先ずは、紛争の平和的解決を義務付けている国際法には違反しています。このため、多くの人々が、ウクライナ支援や対ロ制裁等を積極的に支持するのも理解に難くはありません。ブチャにおける虐殺事件の報に憤り、ロシアに対する懲罰を求める人々も少なくないことでしょう。日本国内でも、ロシア側による北方領土における軍事演習の実施や主権主張などもあって、ネット上では対ロ戦争をも辞さないような勇ましい意見も聞かれます。

 

対ロシア強硬論が勢いを増す中、アメリカのバイデン政権も、ウクライナに対する軍事支援を強化し、NATO諸国も対ソ戦を想定して防衛力強化に動いています。西側諸国は、ウクライナ危機の解決、即ち、ロシアに対する’勝利’を目指す方向に向かって’前進’しているのですが、その一方で、同危機には、第三次世界大戦を招きかねないというリスクがあります。

 

仮に、ウクライナ危機が第三次世界大戦へと拡大したとすれば、その被害は天文学的なものとなりましょう。例えば、日本国の場合、中ロの陣営化により南北二方面戦争を余儀なくされます。第二次世界大戦時の独ソによるポーランド侵攻と同様に、北方からは北海道へとロシア軍がなだれ込む一方で、南方からは中国の人民解放軍が侵攻してくることでしょう。人民解放軍の能力と規模からすれば、対日攻撃は台湾制圧後とは限りません(もっとも、ウクライナに大きな兵力を割いているロシアに北海道を攻略できるだけの軍事的優位があるか否かは疑問ですが…)。

 

通常兵器であれば、自衛隊の実力を以ってすれば両国軍と対等に戦うことはできましょうが、両国とも国際法を順守するつもりは毛頭ありませんので、戦争法や人道法は無力となり、都市攻撃等による民間人の被害は甚大な数に上ることが予測されます。ウクライナの現状が示唆するように、両国軍の非人道的な残虐行為やサイバー攻撃により(中国は超限戦を準備している…)、日本国内も目を覆うような惨状となりましょう(情報通信をはじめ産業インフラも生活インフラも破壊され、国内ではパニックが起きるかもしれない…)。ウクライナ民間人の多くは難民として他国に避難していますが、全世界の諸国が戦場となれば安全な受け入れ国もなくなり、家屋を失った日本国民の多くは、難民となることさえできなくなります。

 

また、ロシアも中国も核保有国、かつ、長年、先端兵器の開発にも取り組んできましたので、開発中の極超音速ミサイルの使用のみならず、自衛隊の強固な抵抗に対抗するために、戦術核や生物化学兵器等の非人道的兵器を使用するかもしれません。加えて、禁輸措置により、ロシアからエネルギー資源を輸入することはできませんので、戦争継続のための資源や資材確保にも苦慮することとなりましょう(同盟国のアメリカも、東西両戦線に対して石油等を十分に供給できる余力があるとも思えない…)。

 

結局、最終的に核戦争を帰結すれば、戦勝国であれ敗戦国であれ、何れもが‘敗者’となります。日本国のみならず、何れの国も文化や文明をも失うほどの破壊を前に立ち尽くすこととなりましょう。ロシアに対する憎しみの爆発とその連鎖が結果的に人類をも破滅させるとしますと、それは、自殺行為のようにさえ思えます。これ以上の戦争の拡大は、たとえそれが正義の実現を目的としていたとしても、果たして、望ましいことなのでしょうか。

 

このような懐疑的な姿勢をとる理由の一つは、ウクライナ危機そのものが、人類を第3次世界大戦への向かわせるための‘挑発’である可能性を考慮すべきと考えるからです。今般の危機の背後にあって、ナポレオン戦争を手始めとして戦争利益で莫大な富を手にしてきた超国家権力体の策謀が噂されるのも、世界戦争というものが、敵対する両陣営の一般国民を犠牲に供しつつ、全世界に対する支配力を強める手段となってきたからに他なりません。3次元戦争では、2次元戦争の当事国はすべて敗戦国となるのです(国家の敗北…)。

 

目下、西側諸国の政府も世論も対ロシア強硬論に傾いていますが、第3次世界大戦に至った場合、どのような状況に直面するのかを、冷静に想定してみる必要がありそうです。そして、それが破滅的であるならば、ウクライナ危機の早期終息に努める一方で、第三次世界大戦だけは何としても阻止すべきではないかと思うのです。人類を救うために。


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