万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多様性もメビウスの輪戦略?-画一化へと向かう理由

2019-09-30 19:04:49 | 国際政治
今日、インターネットやメディアでは‘多様性’という言葉が氾濫しています。一般的には良い意味で使われており、色彩豊かな未来を人類に約束しているかのような印象を与えています。しかしながら、深く考えて見ますと、多様性もまた、何時の間にか目的地が逆となって全人類を画一化へと導くメビウスの輪戦略であるように思えます。それでは、何故、多様性が真逆の画一化を帰結してしまうのでしょうか。このからくりを解くに先立って、多様性なるもののタイプを区別して見ることとします。

 多様性のタイプの一つは、人種、民族、宗教…といった自然発生的な集団の枠組を残し、既存の集団の独自性を維持・保存することで実現する多様性です。例えば、今日の国民国家体系は、原則として自然発生的な集団を国民の構成枠組とし、各集団が国境線を隔てて地球上で棲み分けていますので、このタイプに分類されます。集団間の違いに多様性の基準を求める同タイプは、集団型多様性と名付けることができましょう。

もう一つのタイプは、個人型の多様性です。個人型の多様性とは、個人間には相違がありつつも、相互に承認し合うタイプです。この場合、社会空間の内部では、上述した人種、民族、宗教といった集団的枠組が、容姿、言語、習慣、信条といった個人の属性に還元されるのみならず、年齢、性別、性格等に至るまで、全ての‘個性’が排除されることなく共存します。個人レベルでの多様性が実現している状態が理想的な社会とされるのです。

それでは、集団型の多様性と個人型の多様性を同時に追求した場合、両者は両立するのでしょうか。実のところ、個人型の多様性を人類の理想として追求しますと、二つのステップを経て人類が画一化してしまうという問題があります。第一のステップでは、集団の枠組の融解が起きます。何故ならば、人類の流動化が激しくなり、各国ともその内部で個人レベルでの多様化が進めば、集団レベルでの固有性、即ち、伝統や民族性は‘多の中の一’に過ぎなくなり、やがて代を重ねるにつれて消滅する運命を辿るからです。この間、異人種や異民族間での婚姻が増加すれば、種としての人類のDNAも画一化して行くことでしょう―身体的画一化―。

そして、自然発生的な集団の消滅と平行して開始される第二のステップとは、政治権力や経済的影響力を用いた言語、習慣、信条を含めたあらゆる要素の画一化です。人が一つの社会を構成するためには、相互のコミュニケーションを可能とするための言語やルールなどの共通要素を要します。一人一人が別の言語を話していては意思疎通はできませんし、共通のルールがなければ争いばかりが頻発します(もっとも、共通ルール造りに中国が主導権を握れば、フェアなルールとは限らない…)。

しかしながら、全ての個人の違いを尊重すると言うことは、同時に、特定の一つに特別の地位を与えてはならないことを意味します。ここでこの路線は、極めて困難な問題に直面するのです。人口数は民族によって違いがありますので、仮に多数決で決めるとすれば、人口の少ない国は既存の国民の人口大国からの移民が持ち込んだ言語やルールに合わせることとなりましょう(その一方で、人口大国に移住する遺民は相対的に少ない…)。あるいは、エスペレラント語の普及には無理がありますので、全ての人々にとって中立的な言語を選ぶとすれば、グローバリズムの波に乗った英語ということになるかもしれません。かくして、社会の共通基盤となる言語やルール等もまた画一化されます。加えて、グローバルなプラットフォーマーとなったIT大手を介して、人々の生活様式や価値観も画一化されてゆくことでしょう。

今日のメディアの風潮を見ておりますと、個人レベルでの多様化を目指しているように思えます。そして、このタイプの多様化の行く先には全人類の画一化が待っているとしますと、人類は、既にメビウスの輪の中に入り込んでしまったのでしょうか。しかも、集団型の多様性を一切認めない、あるいは、消えるに任せるという非寛容な態度は、唯一のイデオロギーを絶対視する全体主義体制と見紛うばかりなのです。多様性を目指しながらその逆の画一性に、そして、自由を求めながら全体主義に辿りついたとき、人々は、はじめてメビウスの輪に気が付くのでしょうか。

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インパール作戦と元寇

2019-09-29 13:18:51 | 日本政治
 第二次世界大戦において日本軍にして最悪であり、かつ、最も愚かな作戦とされたインパール作戦。イギリス軍の蒋介石軍への補給路を強引に遮断しようとした同作戦が、時代を700年程も遡る元寇と関係があると申しますと、首を傾げる方も多いのではないかと思います。ところが、この作戦について少しばかり調べて見ますと、そこには、元寇の蔭が歴史を越えて重なってくるのです。

 ネット上で集めた情報ですし、現地調査を実施したわけでもなく、また、確認作業を済ませているわけでもないのですが、インパール作戦を指揮した牟田口廉也中将に注目しますと、両者を繋ぐうっすらとした線が見えてきます。インパール作戦が‘ジンギスカン作戦’と呼ばれ、同氏は自らを‘昭和のジンギスカン’と称していたというのですから。真偽のほどは分かりませんが、戦後、同氏が経営していた中華料理店の名称も、‘ジンギスカンハウス’であったとされます。

 牟田口中将は、戦争の発端となった盧溝橋事件やマレー作戦にも関わっており、先の戦争におけるキーパーソンの一人と言っても過言ではありません。それでは、何故、牟田口中将は、かくも‘ジンギスカン’に拘ったのでしょうか。その謎を解く鍵は、同氏の出身地である佐賀県に求めることができそうです。今日、佐賀県には‘モンゴル村’と云う名のテーマパークもありますが、佐賀の地に観光施設が設けられた理由は、同地が元寇の激戦地であったからです(ただし、‘モンゴル村’の開設は、日本国とモンゴルとの友好促進が目的とされている…)。元寇と申しますと、兎角に福岡県の方に関心が集まりますが、佐賀県もまた元軍の襲来を受けていたのです。牟田口中将の出生地については佐賀県とのみ記されており、詳細については不明なのですが、佐賀県において最も牟田口姓が多いのが佐賀市であり次いで神崎市なそうです。

 そこで、佐賀と元寇について調べて見ますと、神崎には、元寇において捕虜となった元軍の兵士達が拘留されたと言います。今日、一旦途絶えた尾崎焼が復活していますが、尾崎焼とは、捕虜となった元軍の兵士から伝わったとされています。元軍の捕虜たちが本国に送還されたのか、否かは分かりませんが、少なくとも、焼き物の技術を伝えるに十分な期間、日本国に居住していたことは確かなことです。モンゴル族には焼き物の技術はありませんので、この捕虜たちは、元の支配下に入った宋、並びに、高麗の人々ではなかったかと推測されています。あるいは、元軍の兵士達は、鍋釜持参で日本遠征に出発したとも伝わりますので、日本国を征服した後には定住を考えていたかもしれません(窯業の技術者が存在したことは民間人が徴兵された証でもあり、それは、植民計画であったかもしれない…)。

 牟田口中将は、元寇ゆかりの地で育ったが故に、自らの作戦に‘ジンギスカン’と命名したのでしょう。しかしながら、よく考えても見ますと、‘ジンギスカン’とは、日本国の敵国となった元の建国の父であり英雄です。破竹の勢いで世界帝国を築いた‘偉業’に因んだのかもしれませんが、日本国にとりましては必ずしも好感をもたれてきた人物ではありません。佐賀県でも、語り継がれているのは強大な元軍に立ち向かって壮絶な死を遂げた勇敢な武士たちのお話なはずです。それにも拘らず、何故か、同中将は自らを元軍の方に喩えているのです。

インパール作戦の結果だけを見れば、あたかも、日本国が内側から攻撃されたかのように、敵よりも味方に多大な犠牲者が生じています(NHKのドキュメンタリー番組によりますと、牟田口中将は、「5000人殺せばインパールを攻略できる」と発言していたそうですが、部下の日記によりますと、その5000人は敵兵ではなく、日本兵のことであったそうです)。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、日本国に関する記述として元軍による偽旗作戦の記述もあり、インパール作戦とは何であったのか、おもわず頭を抱え込んでしまいます。幕末にも、明治維新において暗躍した宣教師フルベッキは佐賀藩お抱えの英語教師でしたし、もしかしますと、薩長と一括りにされる長州藩や薩摩藩の両藩よりも、佐賀藩に注目した方が明治維新の真相に迫ることができるのかもしれません。日本国は、時代を越えてもつれにもつれた糸を解きほぐし、その関連性を明らかにしてこそ、はじめて内外両面から迫る危機、あるいは、秘かに仕掛けられる罠から脱する道を見出すことができるのではないかと思うのです。

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人種差別を考える-ヘイトクライム問題

2019-09-28 14:43:37 | 国際政治
先日、米ニューヨーク州警察は、11歳の白人系の少女が10歳のアフリカ系の少女を侮辱したとして、ヘイトクライムの罪で逮捕したそうです。刑法は州ごとに違いがありますので、アメリカ全土での現象ではないのでしょうが、この事件は、アメリカの人種差別問題について、深く考えてみる機会を与えているように思えます。

 人種差別をなくすことは、大航海時代にアフリカ大陸からアメリカに売られてきた祖先を持つアフリカ系の人々にとりまして悲願であったはずです。しかしながら、今般の逮捕を、60年代の公民権運動の指導者も揃って歓迎したかどうかは怪しいところです。‘人種差別の無い世界’の理想も一通りではなく、(1)人々が人種の違いを全く意識しない状態、(2)双方に人種の違いに関する意識があり、棲み分けが存在しながらも、法的には平等な状態、(3)一方の人種が、他の人種の差別行為を強制的に排除し得る状態…などがあります。

 (1)を追求しますと、全ての人々が祖先由来のアイデンティティーやコミュニティーへの帰属意識を消し去る必要がありますので、内面にまで踏み込んで全ての国民に同状態を強要することは極めて困難です。個人の選択として異人種・異民族間で婚姻するケースはあるものの、今日なおもアメリカ社会では人種間の分断は消えてはおらず、現実には文化やメンタリティーの違いがあることから、(1)を目指すことが如何に難しいかを示しています。自然に任せたのでは人種融合状態は実現しませんので、リベラル派が試みるように洗脳といった手段が使われる可能性もあり、この目標設定には、国民の内面の自由が侵害されるリスクを伴います。

 その一方で、人々の人種に対する意識が変わらないのであるならば、残る方法は(2)、もしくは、(3)ということになりましょう。(2)の状態は、アフリカ系のみならず、ヒスパニック系であれ、あるいは、アジア系であれ、アメリカ市民権さえ有していれば、全ての国民が法の前の平等の原則の下で白人系のアメリカ人と同等の自由と権利が保障される状態を意味します。(2)の状態は、まさしくアメリカの現状に近く、‘人種の坩堝’と称されながらも、アメリカでは世界各地に出自をもつ多様なコミュニティーが併存しています。

 (2)では、個人の平等と集団の固有性が調和しますので、最も中庸な秩序とも言えるのですが、それでも全ての人々を満足させるわけではありません。不満を抱く人々とは、法的には平等であっても、社会的には差別されていると感じている人々です。そしてこの意識こそが、最も厄介で、センシティヴで、かつ、誰もが明快な回答を出すことができない問題です。何故ならば、誰も、過去を変えることができないからです。

 人類は、地球上に分散定住したために遺伝子上の多様性が生じた上に、DNAの解析に基づく最近の人類学の研究成果によりますと、現生人類とネアンデルタール人やデニソヴァ人といった旧人類との混血の痕跡も見られるそうです。また、精神性や科学技術の発展レベルにも著しい違いがあり、こうした時間軸において生じた違いこそが、今日の人種・民族問題の根本的な原因なのです。そして、どのレベルの集団に属したかによっても評価に違いが生じ、文化や文明において低いレベルにあったとされた集団に属する人々は低い評価が下され、大航海時代には奴隷=単なる労働力として扱われてしまったのです。

 人類史からしますと、‘誰が悪いのでもない’とも言えますし、あるいは、人類の多様性を無視して奴隷貿易で利益を貪った奴隷商人達に一義的な責任があるとも言えましょう。移住の結果として、アフリカ系を含むマイノリティーの人々は、物心両面において高度な社会を構築した白人系の人々に対する強いコンプレックスを抱える一方で、歴史的な事実である故に、白人系の人々も祖先の実績に基づく優越感やプライドを消すことができないのです。この双方の意識は、そう簡単には消すことができませんので、しばしば両者の間で差別事件が発生します。つまり、(2)の状態で満足しないマイノリティーの人々は、(3)を追求する動機を持つのです。

今般の事件を見ますと、ニューヨーク州ではヘイトクライムという罪が法制化されており、アフリカ系少女の両親が白人系の少女を警察に通報していますので、(3)の状態を求めているように思えます。しかしながら、(3)を選択しますと、人種間の相互憎悪や反発が収まるどころか、エスカレートさせてしまう可能性もないわけではありません。アフリカ系の人々は、‘ヘイトクライム’の一言で白人系の人々を容赦なく警察に逮捕させる特別の権利を獲得したに等しく、この特権を行使しようとするでしょうし、白人系の人々は、法の前の平等の原則さえ崩しかねない逆差別に憤慨することでしょう。‘ヘイトクライム’と見なせば、わずか11歳の少女でも決して許さないのですから。

このように考えますと、ニューヨーク州警察の対応が賢明であったのかどうか、疑問なところです。もっとも、報道内容の詳細を読みますと、白人の少女たちは暴力をふるったそうですので、ヘイトクライムではなく、暴行罪での逮捕の方がまだ‘まし’であったかもしれません。少なくとも、人種差別の問題については、人々の言論の自由や内面の自由を侵害し、全体主義化を招くことがないよう、人種・民族の多様性を前提とする人類史的な視点からのアプローチも必要なのではないかと思うのです。

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‘感情誘導’は民主主義を歪める

2019-09-27 11:10:54 | 国際政治
 リベラルとも称される左派系の人々は、兎角に自らが理性的な存在であるとアピールし、その知的優位性を強調しています。国家や国民に拘る保守的な人々を‘愚かな大衆’、あるいは、‘ポピュリスト’として見下し、上から目線で蔑むでもいるのですが、彼らが好んで使う手法を見る限り、必ずしも理性的であるとは言えないように思えます。

 近年に至り、その戦略のからくりが‘ばれ’てしまったのが、感情誘導という手法です。感情誘導とは、自らが目指す政策を実現させるために、(1)人々に感動を与えるような場面を入念に準備する、(2)同シーンをマスメディアを介して大々的に報じる、(3)視聴者を感動させる、あるいは、実際には心を動かすことができなくとも、表向きは感動したことにする、(4)自らの目指す政策に対して世論一般が支持し、‘合意’したものと一方的に決めつける、(5)反対や抵抗があれば、同調圧力をかけて感情論で封じ込める(6)自らが誘導した‘合意’を根拠に自らが望む政策を推進する…というものです。この手法が首尾よく成功するには、効果的な演出、演技者の人選、広範な組織的な連携、マスコミの協力などを要します。そして、真の意図が他者に害を与えかねない利己的なものであったとしても、良識を備えた一般の人々に感動に訴えなければなりませんので、一先ずは、‘善’が装わされなければならないのです。この手法、いわば、‘騙しのテクニック’といっても過言ではないのです。そして、後々我に返って理性的に判断しますと、感情に任せた判断が誤りであった、あるいは、‘騙された’ことに気が付くことも少なくはないのです。

先日、ニューヨークで開催された世界気候行動会議での出来事は、まさに同手法の典型的な事例であったようにも思えます。EU全体をも巻き込む形で大問題となったメルケル首相のシリア難民受け入れの決断も、浜辺で悲しみに暮れる父の腕に抱かれた一人の息絶えた少年の痛ましい姿が全世界に発信されたことに依ります(メルケル首相はCDUの政治家ですが、ドイツでも保守党のリベラル化は顕著…)。戦争をはじめ、人々の同情を誘う一つの情報が歴史を変えた事例は枚挙に遑がなく、感情誘導は、あるいは、古典的な政治手法の一つであるのかもしれません。

そして、民主主義国家が大半を占めるに至った今日、感情誘導が人々にとりまして甚大なリスクとなるのは、それが、議論という民主主義的意思決定を避ける迂回ルートとして働く可能性があるからです。民主主義とは、良識や常識を備えた人々が知性や理性に基づいて意見を述べ合い、議論を深めてこそ健全に機能します。リベラルとされる人々は、保守系の人々を感情的で非理性的であると批判しますが、選挙にあって賛否を問うこともなく、感情を以って人々を一定の方向に誘導しようとする手法もまた、非理性的であると言わざるを得ないのです。しかも、全ての人々に同調圧力をかけ、言論をも封じる効果を狙っているとしますと、全体主義者の手法とも言えましょう。

感情誘導については、あまりにも頻繁に使用したために、終にその‘からくり’も人々の知るところとなってしまったように思われます。これを機に、自由主義国にあっても蔓延している全体主義的手法の危険性についても人々は十分に警戒し、この手法に対する認識を深めるべきではないかと思うのです。

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ノウルズ氏の環境少女批判は正当なのでは?

2019-09-26 14:55:08 | 国際政治
先日、アメリカのテレビ局FOXに出演していた政治評論家マイケル・ノウルズ氏は、「世界気候行動サミット」で演説したグレタ・トゥンベリさんを批判して降板させられる事件が発生しました。問題視された発言とは、「精神的に病んでいる。両親や国際的な左翼に利用されている」というものです。

 この発言に責任を感じたのか、ノウルズ氏に出演を依頼したFOXも謝罪したのですが、同局の対応は、言論の自由を侵害しているように思えます。同氏の発言には嘘がなく、少なくとも世論誘導を狙ったフェイクニュースではないからです。トゥンベリさんが自閉症であることは既に報道機関が報じていますし、トゥンベリさんの両親も環境活動家あるいはそのサポーターなのでしょう。資金や組織の面において、両親や親族、あるいは、環境保護団体等の強いバックアップがなければ、16歳の少女が莫大な費用を要する大西洋のヨット横断を実行できるはずもありません。トゥンベリさんが環境圧力団体の‘広告塔’である可能性については、ノウルズ氏のみならず、多くの人々がうすうす感じ取っているのではないでしょうか(トゥンベリさんが、16歳にしては10代始めくらいに見える幼さを宿すルックスであるのは、子供の宣伝効果を狙って抜擢されたからかもしれない…)。

 自閉症とは、その名の通り、精神面において自己の内側の世界に閉じこもる傾向が強く、思考の基本的なスタンスが自己中心となりやすいとされます。トゥンベリさんへの批判には、自閉症の人々に対する配慮が足りないというものもあるのでしょうが、実のところ、自閉症の人々もまた、自分以外の他者の立場や気持ちを慮ったり、場の空気を読むのが苦手です(その反面、並外れた自己集中によって、科学などの分野では天才的な能力を発揮することも…)。もしかしますと、当人は、当人を利用しようとする周囲の大人たちの思惑にも気が付いていないかもしれません。トゥンベリさんの主張に違和感があるのも、「炭素排出量ゼロ」を金科玉条とするその思い込みの強さに由来しており、この頑迷さは、それが自己の内に閉じられた世界における絶対善であるからなのでしょう(人類も、呼吸によって二酸化炭素を排出しておりますし、植物にとっては、二酸化炭素は酸素をつくるために必要であることにも、恐らく気づいていないのでは?)。‘精神的に病んでいる’とするノウルズ氏の指摘は、自閉症に見られる特有の思考バイアスの問題として理解されるのです。

 自閉症を原因とするのかどうかは分かりませんが、トゥンベリさんが抑えきれない怒りを以って迫る2050年までに炭素排出をゼロにする目標―「炭素排出ゼロ」―も、あまりにも自己中心的です。同目標よりも、古来、人々を苦しめてきた犯罪を撲滅する「犯罪ゼロ」の目標の方が遥かに利他的です。何故ならば、「犯罪ゼロ」の社会では、全ての人類の生存を可能とする食糧生産量が確保されており、かつ、産業の発展と共に様々な職業が叢生しているために、犯罪者達は他のまっとうな職業に就いていることを意味しているのですから。しかも、犯罪者がゼロとなれば、社会の安全性も高まり、人々の活動範囲も飛躍的に高まるのですから、この目標には誰もが反対をしないことでしょう。

その一方で、「炭素排出ゼロ」の目標については、今のところ、化石燃料に完全に代替し得るエネルギー源がありません。代替先が存在しないにも拘わらず、この目標を無理にでも強引に達成しようとすれば、犯罪者ではない一般の人々が負の影響を蒙り、犠牲者となるかもしれないのです。人々の安全を害する犯罪者に対して、純真な少女が涙を浮かべて加害行為を止めるように訴えるのは分かりますが、「炭素排出ゼロ」目標に懐疑的な人々を一方的に‘犯罪者’扱いして糾弾する態度については、批判の声があってもおかしくはありません。

地球温暖化説には異論や反論がある点を考慮しますと、ノウルズ氏の言い分に耳を傾けてこそ、バランスのとれた議論と言えまししょう。また、仮に十分な検証や議論なくして「炭素排出ゼロ」に邁進した結果、将来において地球の寒冷化に拍車をかけることになったならば、一体、誰が、責任をとるのでしょうか。排出権規制を伴う地球温暖化問題は、人類全体に多大なる影響を与え、一人一人がその当事者にもなるのですから、民主主義の観点からもオープンな議論を尽くすべきであり、むしろ、一人の少女の感情的な演説によって方向性が決められることはあってはならないのではないかと思うのです。

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環境少女の‘正義’は正義なのか?-自由な空気こそ大事

2019-09-25 13:16:07 | 国際政治
国連を枠組みとする「世界気候行動サミット」とは、科学的な調査や客観的なデータ分析に基づいて、地球の気候変動について議論する場ではありません。科学者が集う国際会議とは全く違い、各国政府の代表が参加する極めて政治的な枠組みなのです。しかも、国連サイドによって、各国が‘従うべき’既定路線は決められているように思えます。2050年までに二酸化炭素の排出量をゼロにするという…。

 国連の筋書きに沿うように、同サミットでは、環境少女と称されるグレタ・トゥンベリさんが特別に招待され、演説の機会を与えられています。時には怒りを露わにし、時には涙を浮かべながら訴える姿に、会場の参加者から拍手も起きていました。地球を救わんとする熱意に心を動かされた人も少なくないのでしょうが、ここで感情に流されることなく立ち止まり、環境少女の主張する‘正義’は本当の正義なのか考えてみても遅くはないように思えます。

 正義が正義であるためには、誰もが疑いようのない根拠を要します。他者による正義の主張と自らの内なる正義感と一致した時、多くの人々は賛意を表明することでしょう。しかしながら、殊に環境問題ともなりますと、‘地球温暖化詐欺’という酷な言い方もありますように、科学的な根拠に欠けているため懐疑論も強く(太陽活動連動説や小氷期突入説…などもある…)、全世界の人々の賛同を得ることは困難です。つまり、トゥンベリさんの正義は、その前提となる地球温暖化説の疑わしさにおいて脆くも躓いてしまうのです(最悪の場合には、詐欺の加担者とみなされてしまう…)。

 また、仮に、トゥンベリさん、否、国連が設定した2050年までに排出量をゼロとする目標を達成しようとすれば、その犠牲となったり、負担を強いられる国や人々も存在しないわけではありません。少なくとも、化石燃料等の天然資源を使うことはできなくなりますので、産業活動や国民生活に必要とされるエネルギー源を確保するためには、再生エネの普及を促進するか、あるいは、原子力発電に依存するしかなくなります。2050年までに全エネルギーを再生エネで代替することは極めて困難ですので、地球温暖化問題に対する関心も高い脱・反原発を訴えている人々は、両者の間の二律背反をどのように捉えているのでしょうか。

さらには、エネルギー資源に自国経済を依存している中東諸国をはじめとした石油産出国は外貨獲得の手段を失い、貧困問題に直面するかもしれません。また、石炭が産業のみならず一般家庭の暖房にも使われている中国なども、目標設定が30年後とはいえ、スムースに他のエネルギー源への転換が進むとも思えません(パリ協定にあっては、中国は2030年にようやく削減義務が課されるに過ぎない…)。2050年までの間に化石燃料にかわる新たなエネルギー源が発見される、あるいは、画期的なエネルギー技術が開発されればこの問題は解決しますが、少なくとも、非現実的な‘ゼロ目標’は、それに伴う負の側面を無視した過激な要求とも言えましょう。排出量削減というマイナス思考よりも、新たな研究・技術開発の促進、あるいは、温暖化のみならず、全世界的に発生している異常気象の原因究明と対策強化といったプラス思考の方がよほど説得力があります。

そして、何よりも警戒すべきは、地球は救われても、人類は救われない、という悲劇的結末です。この懸念を立証するかのように、アメリカでは、米テレビ局のFOXに出演した政治評論家マイケル・ノウルズ氏が、トゥンベリさんの演説について、「精神的に病んでいる。両親や国際的な左翼に利用されている」と述べたところ、同局が謝罪に追い込まれると共に、同氏も降板となったそうです。こうした対応こそ、あるいは、国連やその背後に潜む勢力の狙いであったのかもしれません。何故ならば、報道に依りますとトゥンベリさんが自閉症であることは事実なそうですので、事実であっても、’如何なる批判もしてはならない’とする言論封鎖の前例を造ってしまうからです(マッチポンプの可能性も…)。つまり、一切の批判は許されず、温暖化から地球を救うという名目で、全世界は、ジョージ・オーウェルの描いた『1984年』の世界へと導かれてしまうかもしれないのです。

アメリカのテレビ局の対応を見ますと、地球温暖化問題は、なおさら以って怪しさが増してゆきます。真に人類の未来を慮るならば、空気中の二酸化炭素濃度に関心を集中するよりも、全ての人々が自由な空気を吸えるよう、訴えるべきではないかと思うのです。

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トゥンベリさんは‘ジャンヌ・ダルク’?‘紅衛兵’?子役?

2019-09-24 14:48:08 | 国際政治
9月23日、アメリカのニューヨークの国連本部では、「世界気候行動サミット」が開催されました。今年の会議で注目されたのは、環境少女の名で知られるスェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさんです。

 僅か16歳の少女の突然の出現に、中世の百年戦争に際してフランスを救ったオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクの姿を重ねた方も少なくないかもしれません。敗北寸前の危機にあったフランスではなく、地球を救うために。トゥンベリさんが神のお告げを聴いたとは伝わりませんが、どこか、我を忘れているような‘神がかり’的な雰囲気があります。

とは申しますものの、トゥンベリさんの姿や言動を見ておりますと、ジャンヌ・ダルクというよりも、文化大革命において大人達を吊し上げた‘紅衛兵’のリーダーにも見えてきます(演台では、奇しくも赤系統の色の服に身を包んでいる…)。同会議での演説でも、出席していた各国首脳や参加者を前にして「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と脅したと言うのですから。上述した神がかり的な雰囲気は、あるいは、自らが理想とみなした目的に向かって猪突猛進するイデオロギー上の狂信によるものであるのかもしれません。紅衛兵のみならず、ヒトラー・ユーゲントも存在したように、十分な判断力が育っていない十代の少年少女には、特に集団ヒステリーに陥りやすい傾向があります。

 一方、トゥンベリさんを環境活動家として一躍有名にしたのは、その人並外れた行動力です。「炭素排出量ゼロ」と云う名のヨットで大西洋を横断し、9月20日には全世界規模で発生した‘学校ストライキ’の火付け役ともなりました。市井の一少女が誰にも知られずに行動したのではその拡散効果は限られていますので、国際ニュースとして大々的に報じたマスメディアも協力したのでしょう。否、マスメディア、あるいは、メディアをも支配する国際組織こそ、トゥンベリさんの登場をお膳立てした影の演出者であった可能性もあります。大西洋横断から晴れの舞台である「世界気候行動サミット」までの一連のスケジュールは既に出来上がっており、トゥンベリさんは、この台本に従って演技をした‘子役’ということになりしょう。

 果たして、トゥンベリさんは、現代のジャンヌ・ダルクなのでしょうか、それとも、‘紅衛兵’、あるいは、‘子役’なのでしょうか。トゥンベリさん出現の経緯を見ますと、不自然な点が多々ありますので、おそらく、‘紅衛兵’、あるいは、‘子役’である可能性は相当に高いように思えます。特に社会・共産主義者は‘行動’を重視する傾向にあり、同サミットの名称も、まさしく「世界気候‘行動’サミット」です。トゥンベリさんの言動はこの行動主義のコンセプトに見事なまでに一致します。つまり、トゥンベリさんの活動はすべて同会議に向けたプロモーションであり、念密に計画されていたと推測されるのです。主催者のグテレス国連事務総長も一枚からんでいるのかもしれません。

 そして、トゥンベリさんが‘紅衛兵’、または、‘子役’である疑いをさらに強めているのが、全ての諸国に対して炭素排出量のゼロを迫っている点です。ところが、現実において最も問題とすべきは、毎年、大量の石炭を消費し、かつ、今や‘世界の工場’とも称されるに至った中国です。しかも中国は、自らは大量に二酸化炭素を排出しながら、太陽光パネルや風力発電装置の最大の輸出国であり、最も狡賢い環境政策を国家戦略として遂行しています。環境政策の‘フリーライダー’とも言うべき中国の問題行動を直視すれば、トゥンベリさんは、その鋭い舌鋒で中国を名指しで批判すべきでした。

 香港では、若者が自由と民主主義のために闘っておりますが、トゥンベリさんの活動は、あるいは、‘世界の若者’が、香港問題、さらには、ITの普及に伴う自由主義国における全体主義化の危機から関心を逸らすことを目的にしているのかもしれません。子供や青少年の政治利用は全体主義者の常套手段ですが、今般の‘環境少女’の登場もまた、どこか怪しいように思えてくるのです。

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現代の‘階級闘争戦略’とは?-労働者から移民へ

2019-09-23 15:04:00 | 国際政治
平等を訴えて人々を暴力革命に駆り立てた共産主義が、如何に欺瞞に満ちていたかは、歴史上に誕生した共産主義国家の現実を見れば、誰もが容易に理解できます。平等が実現するどころか、国民には自由もなければ権利も疎かにされ、挙句の果てに権力も富も共産党に集中するのですから。‘権力のプロレタリアート独裁’は、共産党独裁体制に正統性を与える騙し文句に過ぎず、現実は、共産党による独裁・独占とその他国民大多数の平等なる家畜化の組み合わせに過ぎなかったのです。
 
 今日の中国を観察すれば一目瞭然であるように、共産主義の欺瞞性の実例を数え上げれば切がないのですが、ここでは、国際金融財閥によって生み出された共産主義そのものが当初から‘メビウスの輪戦略’に基づく騙しのテクニックであったと仮定してみることとします。すなわち、理想が現実に裏切られたのではなく、一部の人々が温めてきた邪悪な‘裏理想’が実現したと考えるのです。あくまでも仮定なのですが、現実の歴史を見ておりますと、以下の推論は、かなり蓋然性が高いようにも思えてくるのです。

 おそらく、世界支配、あるいは、人類支配を最終目標とする国際金融財閥は、共産主義に対して、先進国と後進国との間で別々の役割を託していたのでしょう。前者に対しては、国民が一致団結せず、常に労使の間で対立をもたらす分裂と不安定化の働きを、そして、後者に対しては、教義通りに人民を扇動して暴力革命を起こし、共産党一党独裁の下で天然資源や労働力を含めてその国の全経済を掌握する働きを…。しばしば、何故、共産主義理論に従えば、資本主義が発展した先進国において真っ先に暴力革命が起きなくてはならないはずなのに、後進国において起きたのか、という素朴な疑問が呈されますが、そもそも、先進国には国際金融財閥の本拠地が置かれていますし、利益の源泉でもありましたので、暴力革命など起す気は無かったのです。かくして、1980年代頃までは、先進国にあっては左右のイデオロギー対立が政治を支配し、民主主義国家であっても左右どちらを選択しても不利になる二頭作戦によって国民の利益が損なわれると共に(この間、固有の伝統や文化は破壊し、知性を劣化させ、堕落させる…)、後進国では、経済の停滞が続くと言うことになったのでしょう(なお、世界支配のために‘鉄砲玉’が必要な時だけ、ナチズムのようなナショナリズムを支援するのでは…)。

 しかしながら、本格的にグローバル化が始まると、この資本家対労働者の基本構図は成り立たなくなります。否、国際金融財閥が温めてきた計画の第二段階に入ったとも言えるかもしれません。この段階に入りますので、後進国に資金を大量に投下することで、先進国からコスト面で有利となる後進国へと産業の中心を移しつつ、先進国であれ、後進国であれ、ITやAIを国民監視の手段として用いようとしたのでしょう。

その一方で、全世界レベルでグローバル化が拡大しますと、権力も富も国際金融財閥に集中しますので、所得格差が拡大すると共に、一般の人々からの同国際金融財閥に対する批判も高まります。このままでは、‘真の革命’が起きかねませんので、既にその役割を終えた資本家対労働者の対立に替って社会の分裂や不安定化をもたらす何らかの新たな仕組みが必要となります。そこで、今日この役割が託さているのが、移民なのではないかと思うのです。

労使対立も、結局はマッチポンプと言えますが、移民問題も、国際金融財閥が無責任にも移民の増加を促進させながら、実際に社会的な亀裂が深まると、政治レベルにまで引き上げて対立を煽っています。移民が増加すれば、一民族一国家の基本原則は崩壊しますし、国際金融財閥による支配に抗し、一致団結して立ち向かう国や国民も現れないことでしょう。無自覚で移住先の国としての纏まりを壊してしまう移民ほど、国際金融財閥にとりまして利用価値のある人々はいないのです。

 以上に、世界支配を目論む国際金融財閥の存在を仮定してみましたが、労使対立であれ、移民問題であれ、先進国において破壊の標的としているのは、おそらく人口の大多数を占める中産階級や中流の人々=中間層なのでしょう。上流と下流は共に他者の権利に配慮せず、利己的な傾向が強く、案外、メンタリティーにおいて共通点が見られるとされていますが、上下が結びつくことによって、最も良識を備え、社会の健全性を支えてきた層を挟み撃ちにしているのかもしれません(それとも、計画性はなく、偶然にこのような結果がもたらされているのでしょうか…)。そして、中間層が潰されてしまった時、そこに残るのは、腐敗した富裕層と犯罪や暴力が日常茶飯事の貧民層が混在した、あたかもスラムやゲットーのような世界であるとしますと、これ以上のディストピアはないのではないでしょうか。現実がこの仮説に限りなく近づく今日、中間層の保護や育成について、かつて‘一億総中流’を実現した日本国をはじめ、全ての国の政府も国民も真剣に考えるべきではないかと思うのです。

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朝鮮半島は日本国の‘植民地’であったのか?

2019-09-22 14:58:37 | 日本政治
朝鮮半島の日本統治については、ネット上において‘植民地論争’が起きているようです。どのような論争なのかと申しますと、‘朝鮮半島統治は、併合であって植民地支配ではない’とする併合論と、‘朝鮮半島統治は植民地支配である’とする植民地論との対立です。この見解の対立、平行線を辿っているように見えるのですが、どこか、論点がズレているようにも思えるのです。

 ‘植民地’という言葉に双方ともが敏感に反応する理由は、この言葉に、宗主国による一方的な支配、搾取、暴力支配、現地住民の奴隷化、天然資源の強取…など、ありとあらゆる悪しき行為が含意されているからでしょう(植民地=悪)。おそらく、植民地論者が‘併合’という表現に拒絶反応を起こすのも、‘併合’という言葉を使った途端に、日本国の朝鮮半島統治=絶対悪とする構図が崩れることを怖れているのでしょう。対日断罪の根拠に関わる故に、植民地論者は、‘植民地’という言葉に強く拘っていると考えられるのです。

 確かに、植民地論者の言い分にも、その取り上げている根拠を見ますと一理はあるように思えます。例えば、一部ではあれ、戦前、並びに、戦後の政治家が共に朝鮮半島について植民地と表現していたこと、諸外国の百科事典の多くにも‘colony’と表現されていること、また、植民地におけるインフラ整備や大学の設置は当時の日本国に限られたわけではなかったこと…などは、歴史的な事実に基づいた反論です。

 それでは、日本国の朝鮮統治が‘植民地’と名目的に表現されれば、その実体までが変わるのでしょうか。上記の植民地論が示した論拠の大半は、イギリス、フランス、オランダ等の西欧列強による植民地支配にも‘良い点’があったというものです。乃ち、この場合、植民地=悪と云う固定概念を植民地=善の方向へと逆転換させることで、自らの植民地論に根拠を与えているのです(この見地に立ては、植民地支配を批判できなくなる…)。しかしながら、西欧列強がアジア・アフリカを植民地化した過程を具に観察しますと、植民地=悪の構図が定着する足りる要素を多々見出すことでできます。

 かくして、植民地とは、悪にも善にも解釈し得ることを植民地論者自身が示すこととなったのですが、となりますと、重要となるのは、個々のケースごとに良い面と悪い面を評価して見ることです。例えば、日本国の朝鮮統治の場合には、李朝が造った巨額の対外債務を肩代わりしたに留まらず、統治機構やインフラの敷設のための多額の財政移転、産業振興に資する官民の投資、法や司法制度の整備、教育制度の拡充など、朝鮮半島の近代化に努めています。朝鮮の人々の権利につきましても、日本在住の場合には、日本国民として選挙権・被選挙権共々参政権も付与されており、朝鮮半島出身の帝国議会議員もおりました。さらには、李朝の王族に対して準皇族としての地位を与えられており、イギリスやオランダなどの西欧列強の王室との違いを際立出せています。法的には、韓国併合条約に記された大韓帝国皇帝が統治権を日本国の天皇に移譲するという形態を見ますと、国家の合邦形態としては同君連合の色彩が濃いという特徴があります。併合説の論者は、こうした日本国の朝鮮統治の実態に注目し、他の西欧諸国の植民地化とは違うことを強調するために、‘併合’という言葉を使いたかったのでしょう。

 国際社会おいて民族自決の原則が成立したことは、異民族支配を終わらせると言う意味において人類の進歩の証です。今日の人類が到達した倫理・道徳的な視点からしますと、日本国の朝鮮半島統治も当然に批判の対象となりましょう。しかしながら、過去の日本国を断罪したいばかりに歴史の一部を恣意的に切り取って評価したり、況してや、植民地という用語の使用をめぐって言い争いをしても、未来に対して意味のあるものとは思えません。そのエネルギーがあれば、良い面も悪い面も含めた戦前の朝鮮半島統治の全体像を、反日政策に凝り固まっている朝鮮半島の両国に正確に伝えるべく、努力を払うべきではないかと思うのです。

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ギャンブルは人類に必要なのか?-刑法で禁じられる理由

2019-09-21 16:25:10 | 社会
昨日、9月20日、横浜市議会の本会議で、自民党・無所属の会と公明党の賛成により、「カジノ誘致補正予算案」が可決されました。反対票を投じたのは、立憲・国民フォーラムや共産党等の野党系でしたが、自民党等を支持してきた保守層の中にも、カジノ誘致には反対の横浜市民も少なくないはずです(保守系の人々は、社会の健全性を好む傾向にある…)。反対意見には一理も二理もあり、カジノ反対は、政治的な信条や立場の違いを越えた広がりをもつ市民運動に発展する可能性もあります。

 カジノ反対に対しては、治安の悪化や依存症等が特に問題視されていますが、ここで、ギャンブルなるものの本質を探ってみるのも無駄ではないように思えます。何故、人々は、ギャンブルに熱中し、中毒症状を呈するようになるのでしょうか。そして、それは、今後とも、人類にとりまして必要なのでしょうか。

 人以外の動物はギャンブルに興じることはありませんので、実のところ、ギャンブルとは、人に固有の遊戯です。専門家ではありませんので、憶測に過ぎないのかもしれないのですが、賭けに勝った際に、ギャンブラーの脳内において神経伝達物質であるドーパミンが多量に分泌されるのは、おそらく、人の脳が、将来の出来事に対する自らの予測が当たった際に、自然に快感を覚えるような仕組みとなっているからではないかと推測されます。予測能力が高い程、自然界にあって様々なリスクを事前に回避することができますので、予測と現実が一致した際には、特に強い快感がもたらされるのでしょう。そして、理性的な分析に基づく予測ではなくとも、感覚、特に‘第六感’に基づく予測にあっても、予測と現実の一致は快感の源となると考えられるのです。

 このことは、逆に、賭け事に負けた場合には、強い不快感情に支配されることを意味します。そして感情の落ち込みに見舞われますと、人の心の中には、何とかして不快感を脱して、立ち直ろうとする意志が自然に生じます。しかも、‘負け’が損失を伴うギャンブルであれば、なおさらのことです。負けた時の不快感から脱出し、損失を取り戻したければ、‘勝てばよい’ということになります。次の賭けに参加すれば‘勝つ’チャンスもあるのですから、すごすごと失意のうちに賭場を後にするよりも、一財産を失っても勝つまでかけ続ける人々も現れることでしょう。特に、負けた後に勝った時の喜びは、金銭的なリターンも加わるのですから、上述した予測と現実の一致した際の単純な快感をさらに倍増させるのかもしれません。

こうしたギャンブルに見られる勝敗と快不快がセットとなったジェットコースターのような連続が、スリル感をも伴って、人々をギャンブルの泥沼に引き込んでゆくのでしょう。やがて、麻薬中毒と同様に、日常生活では得られない強い快感を得るためにギャンブル通いが常態化し、ドーパミンの多量分泌に慣れてしまった脳もギャンブルなくして正常に機能せず、禁断症状が現れるようになるのかもしれません(ギャンブル依存症)。

ギャンブルが人の脳の仕組み、あるいは、弱点を巧妙に利用したビジネスであるとしますと、やはり、その倫理性が問われて然るべきように思えます。人の直観が当たる確率は決して高くはありませんので、短期的には勝てても長期的には必敗です。しかも、スポーツやゲームのように、身体や技を磨いた入り、戦略を立てるといった努力で勝率を上げることもままなりません。つまり、カジノの経営者のみが人の弱点を利用して大儲けができるのですから、利己的他害行為として刑法において取り締まられても致し方がないのではないかと思うのです。ギャンブルの害悪は既に歴史が証明しているのですから、今日にあっては人類の未来にとりまして不要なもの、否、消滅すべき運命にあるものとして扱っても良いのではないでしょうか。

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天皇をとりまく宗教事情の問題

2019-09-20 20:34:36 | 日本政治
天皇と神道との繋がりについては、しばしば批判的な意見が見受けられます。近代国家の政教分離の原則からしますと、天皇と云う公的な地位が特定の宗教と結びつき、国家祭祀を行う形態は前近代国家の‘残滓’と捉える向きも少なくありません。そこで、本記事では、天皇をとりまく宗教事情の問題について扱いたいと思います。

 仏教伝来以来、天皇は仏の道にも帰依しており、聖徳太子の『十七条憲法』に は「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」ともあります。京都の泉涌寺は皇室の菩提寺としても知られ、明治以前にあっては、皇族は仏教徒でもあったことは紛れもない歴史的な事実です。一神教ではなく多神教国家、否、多宗教国家であった日本国では、海外から伝わる宗教であっても、善き教えは積極的に受け入れて国造りに生かしてきたのであり、飛鳥時代に遡っては、ネストリウス派のキリスト教(景教)の影響も指摘されています。完璧な宗教は存在しておりませんので、仏教からは慈悲の心を、キリスト教からは博愛精神を学ぶなど、‘良いとこどり’をすれば、むしろより善き社会が実現するかもしれず、必ずしも多神教や多宗教を低く評価する必要はないようにも思えます。徹底的に仏教を排除しようとして廃仏毀釈を行った明治維新こそ、日本国の歴史からしますと‘異端’とも言えましょう(この他に、徹底的な他宗教の排斥を行ったのは戦国時代のキリシタン大名達…)。江戸時代までは、神社に社僧という神職が存在したように、神仏習合が当たり前であったのです。

こうした側面に注目すれば、確かに天皇との関係において神道を別格に扱う必要はないように思えます。その一方で、日本国における天皇と云う公的地位の正統化に注目しますと、神道以外の宗教には、この地位に正統性を与える教義上の根拠を持ち合わせていないように思えます。それがたとえ古代人が描いた想像であったとしても、日本国がイザナギノミコトとイザナミノミコトを父母として誕生し、そして、天皇が国生み神話に記された神々の子孫であるとする記紀神話こそが、天皇位を正統化していると言わざるを得ないのです。日本全国津々浦々の神社の多くには、『日本書紀』や『古事記』の神代に登場する神々が祀られており、神道は、天皇と共に日本国の過去と現代を結ぶ役割を果たしているのです。

日本国の宗教史を概観しますと、天皇と云う位そのものは、神道がその正統性を支えつつも、日本国の伝統的な多宗教性をも象徴してきたように思えます。しかしながら、明治期に成立した近代皇室をめぐっては、果たして、それ以前の皇室との間に継続性があるのかどうか、疑問を抱かざるを得ないのです。明治憲法下では、立憲君主に衣替えして軍服姿となりましたし、今日では、婚姻を介してカトリック、統一教会、並びに、日蓮宗から分かれた創価学会などの新興宗教の影響も強まることになると同時に、俗化が急速に進行しています。かくも皇族が、俗化した時代は日本史上において初めての出来事なのではないでしょうか。

そして、その理由は、今日、皇室に特に強い影響を与えている宗教団体が、純粋な意味での信仰集団ではなく、世俗の私利を追求する利益団体の性格を有していることに求めることができるように思えるのです。バチカン銀行を擁するカトリックの拝金主義は今に始まることではありませんし、創価学会もまた、宗教を麻薬と断じて否定する中国共産党と良好な関係を築いています(同学会の名誉会長の池田大作氏は、学会財産の金融投資で巨万の富を築き、私腹を肥やしたとも…)。社会の善性を高める方向に作用するならば、様々な宗教を取り入れてきた日本国の多宗教性は望ましいのですが、それが、天皇の俗化や拝金主義に堕し、さらには国際化も手伝って政治的な偏りをもたらす方向に向かうならば、伝統的な多宗教性は、今日、逆機能に転じていると言えるのではないでしょうか。

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IRを阻止する新たな方法はある?

2019-09-19 15:04:18 | 日本政治
 横浜市では、先日、林文子市長が突然のIR誘致を発表し、同計画に反対してきた横浜市民をいたく落胆させました。市議会でも、IR予算が審議されるそうですが、既成事実だけが独り歩きしかねない状況が続いています。それでは、IRに反対する有効な方法はあるのでしょうか。

 もちろん、公約違反を根拠とした市長のリコール、IR誘致を問うために市議会の解散、あるいは、直接に市民に判断を仰ぐ住民投票の実施を求めるといった方法もありましょう。その一方で、別の全く違った方面からの反対方法もあるように思えます。例えば、権力分立における司法の独立を活用する方法です。司法的な反対には、まずは以下の3つの方法が考えられます。

 第一の方法とは、「カジノ法」とも称される「特定複合観光施設区域整備法」の違法性を問うことです。刑法第185条及び186条では、常習的な賭博行為並びに賭博場の開帳が禁じられています。そもそも、内閣法制局が内閣に対して刑法との整合性から同法案の国会への上程を見送るべきと提言をすべきであったのですが、どうしたことか、不問に付されてしまいました。この刑法違反の件については、政府によるカジノ解禁方針公表の当初から、メディアのみならず、多くの国民からも疑問の声が寄せられてきました。残念ながら、立法手続きにあっては事前チェックが働かなかったのですが、権力分立の仕組みにあっては事後的な軌道修正が可能です。つまり、国民が同法の違法性、あるいは、刑法との不整合性を問う集団訴訟を起せばよいのです。

 第2の方法は、カジノの顧客による民間のIR事業者に対する集団訴訟です。アメリカでは、麻薬作用のある「オピオイド」を製造した大手医薬品メーカーに対して、一般市民が損害賠償を求める訴訟が起こされています。賭博にも麻薬と同様に脳内においてドーパミン等の神経伝達物質の分泌を促す作用があり、常連者は、自己管理能力を失い、中毒症状を来すようになります。麻薬も賭博もその作用が同じであれば、ギャンブル依存症に罹った顧客は、IR事業者に対して損害賠償を求めることができるはずです。

 第3の方法は、民間のIR事業者を相手取った費用返還訴訟です。地方自治体が麻薬対策として費やした予算分の金額を支払うように求める訴訟が起こされているそうです。この事例を参考とすれば、日本国のIRを誘致した地方自治体も、ギャンブル依存症等の対策をIR事業者に要求することができるかもしれません。横浜市では、専門的な調査分析やギャンブル依存症の実態調査費として2億6千万円ほどの補正予算案が定例市議会に提出されましたが、この費用、何故、一般の横浜市民が負担しなければならないのでしょうか。そもそも、上述したように日本国では、賭博場の開帳が刑法で禁じられていますので、カジノに関するノウハウや実績を有する日本企業が存在するはずもなく、IRの運営事業者は海外企業が予測されます。1兆円以上ともされる経済効果も、その大半は海外に流出することとなりましょう。特定の民間事業者のビジネス、しかも、反対者多数のプロジェクトに公費を支出するでは、受益と負担がバランスしません。アメリカでは地方自治体が原告となりますが、各都市が積極的にIR誘致に乗り出している日本国では、真の負担者である住民の側が、地方自治体を訴えるべきかもしれません。

 以上に3つほどの司法的手段について述べてきましたが、突然の横浜市によるIR誘致の公表の背景には、神奈川2区を地盤とする菅官房長官が暗躍していたとする情報もあり、悪しき政治的利益誘導も疑われます。政治家が率先して日本国の悪徳と退廃を招いているとすれば、世も末ではないかと思うのです。

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‘米中アヘン戦争’の行方-「オピオイド」問題

2019-09-18 13:17:39 | 国際政治
アメリカと中国との間の対立と言えば、誰もが真っ先に頭に浮かべるのが、米中貿易戦争です。あるいは、安全保障の最前線では、中国の軍事的台頭を背景とした新冷戦の構図も出現しています。しかしながら、こうした政治や経済の表舞台の裏側では、熾烈な米中‘アヘン戦争’が繰り広げられているようなのです。

 本日の日経新聞朝刊(9月18日付)に、興味深い記事が掲載されておりました。それは、「フェンタニル」という名の鎮痛剤をめぐる米中対立です。「フェンタニル」とは、1960年代からがん患者の痛みの緩和剤として使用されてきましたが、麻薬と同様の幻覚や高揚感を得られることから、アメリカ国内で同薬剤への依存症が蔓延しているそうです。2017年には、過剰摂取による死亡者数が2万9千人にも上っています。しかも、ここ4年間にその数が9倍にも増加したのですから、米政府としても看過できない問題なのです。

 それでは、「フェンタニル」問題が、何故、‘米中阿片戦争’へと発展したのでしょうか。「フェンタニル」とは医療用鎮痛剤の「オピオイド」の一種です。「オピオイド」とは、恐らく‘オピウム(opium)’、即ち、‘アヘン(阿片)’を語源として命名されているのでしょう。「オピオイド」問題とは、いわば、蔓延の舞台はアメリカに移ったものの、現代の阿片問題でもあります。そして、ここでどうして中国が関わるのかと申しますと、それは、近年、中国からの密輸品が激増したことに依ります。トランプ米大統領は、中国の習近平国家主席に「フェンタニル」の米国への流入を阻止するように要請したにもかかわらず、一向に密輸は減少しませんでした。そこで、業を煮やした同大統領が、中国制裁第4弾を発動した経緯があるのです。

中国からの密輸品が急激に増えた理由は、「オピオイド」が社会問題として深刻化したからです。規制強化によって医療を目的とした医師による処方が減少するのみならず、同薬剤を製造してきた米製薬会社も苦境に陥っています。「オピオイド」を製造してきた大手製薬会社であるパーデュー・ファーマは、2千件を越える集団訴訟によって一兆円を越える和解金の調達を迫られ、9月15日に連邦破産法11条の適用を申請しました。しかも、地方自治体も、オピオイドの中毒・過剰摂取対策のために投じてきた多額の予算の返還を求めて同社を訴えていたと言うのですから、「オピオイド」包囲網ともいうべき状況が出現していたのです。そして、この医薬品としての「オピオイド」の減少分を埋めるかのように侵食してきたのが、中国からの密輸品なのです。

 アメリカによる国を挙げての「オピオイド」に対する取り締まり強化を中国が台無しにしており、トランプ大統領が怒り心頭に発するのも理解されます。そして、ここで気が付くのは、中国と云う国の恐ろしさです。中国は、今日にあっても19世紀のアヘン戦争を自国の屈辱的な歴史として恨みを抱き続けているそうです。香港は1842年に締結された同戦争の講和条約である南京条約によってイギリスに割譲されていますし、この事件こそ、西欧列強による中国の‘植民地化’の始まりと認識しているからです。ここで、かつての英清アヘン戦争と今般の米中アヘン戦争を比較してみますと、奇妙な類似点が見られます。

先ず以って指摘されるのが、中国こそが、当時のイギリスの立場に成り代わっている点です。貿易上、自らに対して不利な政策を採る国に対して、倫理や道徳を無視して相手国の国民を腐敗・堕落させる商品を輸出する手法は、当時のイギリス、あるいは、東インド会社と変わりはありません。また、相手国の禁輸品ほど莫大な利益を生みますので、中国は、米中貿易戦争で減少が予測される貿易黒字を補うために、「フェンタニル」の密輸を影ながら支援しているのかもしれません。同記事に依れば、民間人でも比較的容易に「フェンタニル」を製造できるそうですが、ITを駆使して全国民を徹底的に監視している中国が本気になれば、密造者や密輸業者の摘発や密輸の撲滅は容易なはずです。それにも拘らず、対米密輸が減少していないとすれば、中国政府が黙認しているとしか考えられないのです。トランプ大統領は、当時の清朝の道光帝、あるいは、阿片の取締に当たった林則徐の役回りなのでしょうか。

香港において自由化、並びに、民主化を求める対中抗議運動が起きる中、中国は、西側諸国にアヘン戦争を思い起こさせるべく、意趣返しをしようとしているようにも見えます。たとえ過去に許されていたとしても、現代の価値観からすれば今日では許されない行為は多々ありますが、中国には時間経過による倫理・道徳の発展概念が欠如していますので、犯罪行為であっても‘やられたことはやりかえす’が基本的スタンスなのでしょう。あるいは、アヘン戦争に踏み切った当時のイギリス政府を動かしていたのが東インド会社であったように、今日の中国を裏から操っているのは、東インド会社の後継組織なのでしょうか。そうであれば、当時のイギリスと今日の中国の行動が類似するのも頷けます。米中対立の深層には、国際麻薬シンジケートを含む世界史に潜む巨大な闇を解き明かす鍵が隠れているようにも思えてくるのです。

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‘韓国併合合法論’への反論の反論

2019-09-17 15:17:23 | 国際政治
 今日、日韓関係の悪化は留まるところを知らず、争いの場もWTOといった国際機関にまで拡大し、両国間の批判合戦はエスカレートする一方です。その根本的な原因を探って行きますと、日本国に対する韓国側の‘歴史認識’に辿りつきます。それは、‘日本国は韓国を違法に植民地支配したのだから、謝罪と共に賠償もすべき’というものです。所謂‘元徴用工訴訟’における韓国最高裁判所の判断も、こうした韓国側の認識に基づいています。

 一方、日本国にとりましては、韓国側の‘歴史認識’は、法的な根拠のない不当な要求です。何故ならば、条約による併合は合法行為であり、しかも、朝鮮半島が日本国に併合された1910年の時点では、民族自決の権利も国際社会の原則として確立するに至っていませんでした。実のところ、20世紀初頭にあっては、アジア・アフリカ諸国の大半が植民地化されていたことが示すように、条約による併合はおろか、武力による併合でさえ黙認されていたのです。刑法における罪刑法定主義や遡及効の禁止を考慮しますと、謝罪のみならず、賠償までも求める韓国側の要求こそ法的根拠を欠くと言うことになります。

 ところが、最近に至り、こうした日本国側の韓国併合合法論に対して、ネット上にて道義的な側面からの反論を発見しました。同反論とは、‘たとえ法律で禁止されていなくとも、反倫理・道徳的行為である以上、その罪を認め、謝罪と賠償を行うべきである’とする主張です。そして、そのモデルとして挙げられているのが、第二次世界大戦時に当時のアメリカ政府が日系アメリカ人を「敵性市民」として強制収容所に収監した事例なのです。同措置は合法行為ではあったけれども、後にアメリカはこの行為を過ちであると認めて謝罪し、補償も実施していると…。

 罪刑法的主義や遡及効の禁止を貫きますと、確かに、過去に行われた犯罪行為を裁いたり、罰したりできないという忌々しき問題が発生します。例えば、2006年12月に国連総会において「強制失踪防止条約」が成立しましたが、この条約の法的効果は日本人拉致事件には遡及されず、北朝鮮の最高責任者を裁くことができない現状を苦々しく思う人は少なくないはずです。この点において、‘韓国併合合法論批判’論者の主張も一理があるように思えます。しかしながら、韓国併合と日系アメリカ人の強制収容所問題を同列に扱うことはできないのではないかと思うのです。何故ならば、両者の状況は、あまりにもかけ離れているからです。

 両者の相違点を論じれば長文となりますので、ここでとりわけ強調すべき点を挙げるとすれば、それは、実質的な損害の有無です。国家から公式に‘敵性市民’の認定を受けて強制収容所に送られた日系人は、身体を拘束された上に、財産等を失うなどの多大な損害を被っています。一方、当時、日本国籍を有する日本国民であった朝鮮半島の人々は、戦時中にあって着の身着のままで強制収容所に隔離されることはなく、かつ、日本国政府から財産を没収されるといった仕打ちを受けることはありませんでした。‘韓国併合合法論’を批判する人々は、日本国政府は植民地支配に対する賠償すべきと言いたいのでしょうが、そもそも、韓国側の損害自体が存在しないのです。戦時中の朝鮮半島出身の徴用工の問題も、もともとは給与の未払い分の問題であり、この問題であれば、1965年の日韓請求権協定で既に決着しています。さらには、戦時中のみならず、韓国併合の35年間の賠償と申しましても、日本国は、朝鮮半島に対して官民合わせて莫大な投資を行っており、年間、国家予算から相当額の財政移転をも行っております。むしろ、敗戦によって、日本人、並びに、日本企業の多くは、朝鮮半島の財産を失っており、日韓請求権協定は、サンフランシスコ講和条約では認められていなかった残置財産の処分権を事実上韓国に認めたようなものなのです。

 ここで、日韓両国の間に横たわってきた‘財産の相互清算’、‘戦争賠償’、並びに、‘植民地賠償’なるものを整理しますと、日韓請求権協定の本来の目的であった‘相互清算’については、両国政府が請求権の相互放棄で合意したため、日本国、並びに、日本国民が一方的に不利益を被る結果となりました。しかも、この相互放棄は、第二次世界大戦の戦勝国ではないにも拘らず、韓国が中国と同様に‘戦争賠償’の意味合いがある残置財産の処分権を事実上獲得したことを意味したのです。そして、‘植民地賠償’については、法的義務はないものの、同協定に基づいて日本国側が巨額の経済支援を行っています。つまり、‘韓国併合合法論批判’の論者は、‘全ての損害が償なわれ、かつ、実際の損害が殆ど存在しないにも拘わらず、なおも賠償を払へ’という理不尽な要求となります。日本国側にとりましては、これは、到底、受け入れがたい要求なのです。

 それでも、韓国併合合法論を批判する人々は、賠償はさて置いても植民地支配は‘悪’なのだから、謝罪だけはすべきと主張するかもしれません。しかしながら、一旦、罪刑法定主義や遡及効の禁止の原則を取り外しますと、あらゆる国が、際限なく歴史を遡って謝罪を求めることができるようになります。韓国は、歴代王朝の宗主国であった中国に対して謝罪を要求するのでしょうか。あるいは、13世紀の元寇に際しての高麗軍の対馬や九州北部への侵略行為に対して日本国が遡及的に請求すれば、韓国、並びに、北朝鮮は、謝罪と賠償に応じるのでしょうか。

 仮に、韓国併合合法論を批判する論者が、アメリカ政府による日系人強制収容所問題に対する対応を持ち出すならば、1965年に道義的な立場から日本国政府は既に韓国対して莫大な支援金を支払っていますので、法的責任を越えた対応を行った事例として、日本国政府とアメリカ政府との共通点こそ指摘すべきなのではないではないかと思うのです。

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複雑な心境になるローマ教皇の訪日

2019-09-16 13:44:06 | 国際政治
現フランシスコ教皇は、カトリック史上、はじめてのイエズス会出身の教皇です。‘偽善者’という異名をとるようにイエズス会と言えば悪名高く、近代にあって植民地支配の手先として活動した‘前科’もあります。日本国でも、本能寺の変の後、ある日本人がイエズス会士に対して‘あなたがたは本当は泥棒だったのですね’と語ったとも伝わりますが、イグナチウス・ロヨラによる同会設立当初から、イエズス会にはどこか異端、あるいは、犯罪の影が付きまとっております。

 日本国にキリスト教をもたらしたのは、イベリア半島のバスク地方を出身地とするイエズス会士フランシスコ・ザビエルです。それでは、どのようにしてザビエルは日本国に上陸したのかと申しますと、殺人を犯したために‘お尋ね者’となっていたアンジローと云う名の日本人青年が、ザビエルの下に保護を求めて飛び込んできたからです。アンジローの手引きによってザビエルは日本の地を踏むのですが、この経緯から、既にイエズス会、あるいは、キリスト教の海外布教組織が、犯罪者を匿うとともに、犯罪者さえも組織の活動メンバーに迎え入れていた様子が窺えます。

そして、イエズス会発祥の地が、かつてイスラム圏であったイベリア半島であったことは、同会に異端の風味を加えています。実際に、イエズス会士にはユダヤ教から改宗したマラーノが多く、ユダヤ教への改宗を経たものであれ、レコンキスタを機にイスラム教から改宗した会員も混じっていたのかもしれません。また、創始者のロヨラ自身にも黒マリア信仰の蔭が見え、正統派のカトリックとはどこか異質な要素を含んでいるのです。

 その一方で、歴代ローマ教皇の経歴を見ますと、神に仕える身として清廉潔白かつ品行方正であったとはお世辞にも言えず、世俗の慾に塗れたルネッサンス期の教皇たちの腐敗ぶりは目を覆うばかりです。それでは、近現代はと申しますと、ヨハネ・パウロ2世は不良少年でしたし、教皇に限らず、‘赤’と‘黒’は、貧困から身を興して世に名を成す立身出世のルートでもあったのです。聖職者とは、絶対善である神に奉仕する存在ですので、一般の俗人は、これらの人々もまた善性の純真なる具現者であるとみなしがちですが、そうとばかりは言えない点は、近年、相次いで表沙汰となったカトリック聖職者の犯罪によっても証明されています。

かくしてカトリックは、今日、その権威が大きく揺らいでいるのですが、今般のフランシスコ教皇の訪日にあっては、以前の法王訪日と同様に手放しでの歓迎一色とはならないかもしれません。とりわけ、注目されるのが、フランシスコ教皇は、訪日に際して袴田事件の袴田巌元被告人との面会を望んでいる点です。袴田事件とは、冤罪が主張されてきた事件ですが、2018年6月11日に高等裁判所において再審請求が棄却されています。冤罪説の真偽についてはここでは立ち入りませんが、教皇が面会を希望した理由は、同元被告が獄中にあってカトリックに改宗したからなそうです。しかしながら、この面会、以下の両面において微妙な問題を孕んでいるように思えます。

第一に、教皇が、袴田元被告を日本国の司法によって罪を着せられ、獄中に繋がれた‘殉教者’と見立てているとすれば、日本国の司法に対する厳しい批判を暗に含意していることとなります。この見立ては、いわば、同元被告に戦国時代において迫害を受けた宣教師やキリスト教信者の姿を投影させており、悪者=日本の構図と云うことになりましょう。もっとも、近年、イエズス会が、武器商人であったことに加えて、日本人を奴隷として海外に売却していた事実が国民の間で広まっておりますので、少なくない日本国民が、日本国のみを悪者に見立てる教皇のスタンスには疑問を感じるかもしれません。

もう一つの側面とは、教皇の袴田元被告に対する評価は、むしろ、袴田犯人説を印象付けてしまう点です。キリスト教では、悪人の改心こそ重要なテーマですが、同被告が獄中でカトリックに改宗したとすれば、上述したアンジローと同様に、罪の存在を前提としなければならないからです。つまり、冤罪説が成り立たなくなりますし、心の中では罪を認めながらなおも無罪を主張しているとすれば、それは真の改心とはなりませんので、同被告の‘改心’も怪しくなります。悔い改めて善人となったならば、素直に罪を認めて刑に服するはずなのですから。

宗教的な権威は、その善性が失われた途端、一挙に色あせてしまいます。しかも、善を装った悪ともなればなおさらのことです。サタンが神を称するのは偽旗作戦の最たるものですが、今日、一般の人々が、伝統宗教であれ、疑うことなく無心で信じてはならない時代を迎えているとすれば、人類は、宗教においても転換期にあるように思えるのです。

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