こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第23主日(ルカ14:25-33)どのような執着も捨てて敬老者になる

2013-09-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/08(No.668)
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年間第23主日
(ルカ14:25-33)
どのような執着も捨てて敬老者になる(2012年説教案参考)
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今週、敬老者のためにミサをささげています。歳を重ねることは、人生に重みを増すことだと考えています。最近わたしは3月12日の誕生日を迎えるたびに、生まれ年のワインを1本購入して祝っています。生まれ年、つまり1966年(昭和41年)に生産されたワインですが、年を追う毎に探し出すのが難しくなっています。値段も、年に1回しか買えないくらいの値段になってきています。

たとえばこのワインのように、敬老者の方々の積み重ねた年月は、徐々に重みを増してくるのです。重みを増してきたのですから、周りの人はふさわしい敬意を払う必要がありますし、敬老者本人は、毎日の生き方が、より福音の勧めに沿った生き方となるように期待されていると思います。

そこで、与えられた福音朗読から、敬老者だからこそたどり着ける境地、敬老者に期待されている姿を拾ってみたいと思います。鍵となるのは、「○○でなければ、わたしの弟子ではありえない」という表現です。3回繰り返されています。

「これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」「ついて来る者でなければ、わたしの弟子ではありえない。」「捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」繰り返すことで、どのような執着心も捨てて、イエスに従うよう求められています。

まず求められているのは、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」ということです。家族や身内が、いちばんわたしたちにとって執着のもととなる相手だと思います。

家族や自分の命に執着しないということで、わたしは今でも、ある一人のお父さんを神さまのもとに送る告別の説教を思い出すことがあります。そのお父さんは定年まで造船所で働きましたが、定年を機に故郷の家に戻りました。ところが半年もしないうちに夜釣りに出かけたボートで転落し、命を落としたのです。

わたしはとても親しくさせてもらっていたので、その人の葬儀ミサに出席して説教するのは簡単ではありませんでした。いろいろ考えた中で、このお父さんは、家族の元に戻るための綱と、神の国に入るための綱の二つの綱のうち一つしか選べない難しい場面で、神の国に入るための綱を両手で掴んで、神にいのちを引き上げてもらったのだと話したのです。とても信仰厚い方でした。家族への愛着もあったでしょうが、神にすべてを委ねることを最後は選んだのだと思います。最後の最後まで、イエスに従う人生をまっとうしたのでした。

次にイエスが求めているのは、自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」と言います。十字架は重荷です。初めから、避けて通りたい重荷ですから、その十字架を背負ってイエスについて来るのは簡単ではありません。それでも、十字架を背負ってついて来る者に、イエスは目を留めてくださいます。

敬老者にとっての十字架は何でしょうか。すぐに思い当たるのは、記憶の衰えやからだの衰えではないでしょうか。今日お祝いを受ける敬老者の方々は、思い通りに生きることを少し控え、思い通りにならない頭と体を日々担ってこられました。それは、敬老者の立場で、十字架を背負ってイエスに従う生き方だと思います。考えようによっては十年前二十年前よりも、もっとイエスの望みに従って生きることができるようになっているのです。

最後に、「自分の持ち物を一切捨てないならば」と招きます。しばしば自分の持ち物は、努力して手に入れたもの、苦労して手に入れたものです。それらを捨てるのは大変勇気の要ることです。

自分の持ち物によって安心できていた人は、イエスが自分を安心させてくれるから、わたしの持ち物を手放すことができると、自分に言い聞かせることになります。年齢を重ねていかなければ、イエスが安心させてくれると納得するのは難しいでしょう。

ときには、どうしてわたしの持ち物を手放さなければならないのかと悩むこともあるかも知れません。けれども年齢を重ねて、思い通りにならない道は、イエスが模範を示した十字架の道なのだと理解できるようになります。わたしたちも、思い通りにならない道を通って初めて、意味深い信仰告白ができるようになるのだと思います。

今日のこのミサには、敬老者を祝う人々も集まっています。子供たち、敬老者を家族に持っておられる方、教会家族で敬老者のお祝いのために集まっています。敬老者を祝うわたしたちも、敬老者の生きたお手本から自分の振る舞いを見つめ直したいと思います。

敬老者が生き方で示す信仰に謙虚に耳を傾けることで、年配の方々を敬う人でありたいと思います。敬老者の方々と共に、イエスに従って歩む道を見つめ直しましょう。思い通りにならないことを数多く通り抜けた先に、輝く信仰者の生き方があります。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(ルカ15:1-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼さまざまな健康補助食品がテレビのコマーシャルで紹介されている。ヒアルロン酸を宣伝する商品、ビルベリー(ブルーベリー)を宣伝する商品、ほかにもたくさんあるだろうが、以前はこれらのコマーシャルを「関係ない」と思っていた。
▼だが最近は、自分にもこのコマーシャルが訴えかけているのではないかと思うようになってきた。当然コマーシャル自体は不特定多数の人に向けて呼びかけているのだから、自分に思い当たることがある人だけが「自分に呼びかけているのではないだろうか」と思うわけである。
▼どうでもよいコマーシャルと思っていたのが、妙に気になるコマーシャルになっている。さまざまな否定しがたい症状が、コマーシャルに目を留めさせるのだ。前日に婦人会とのソフトバレーをして、翌朝起きてみたらとても体が重いとか、それでなくても朝スッキリしないとか、睡眠時間は足りているはずなのに目覚めが良くないとか。
▼それでもたぶん、健康補助食品の世話にはならないと思う。たとえ親にはそれらを買ってあげたとしても、自分は買おうとは思わない。「だまされたと思って・・・」という宣伝文句もあるが、わたしは買わない。
▼理由ははっきりしている。毎月数千円の出費をしたくないのである。毎月出費するなんて耐えられない。ほかに無駄な出費が毎月あったとしても、健康補助食品の出費はわたしには納得がいかない。
▼だからもしそれらの補助食品を同級生が使い始め、「これいいよ。使ってごらん」と言うのなら、わたしにも毎月プレゼントして欲しい。それだったら使っても構わない。まぁそれでも、あちこち無理の利かない部分が出てきていることは確かだ。いたわりながら毎日を過ごそう。

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今週の1枚
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第275回目。修学旅行写真。原爆ドーム、路面電車、広島カープ。
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