こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第24主日(ルカ15:1-32)イエスの導きのもとにまことの命がある

2013-09-15 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
13/09/15(No.669)
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年間第24主日
(ルカ15:1-32)
イエスの導きのもとにまことの命がある
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木曜日と金曜日にかけて、九州全域から集まった視覚障害者に情報を提供する施設の大会に参加してきました。今年は九州全域から490人の参加がありました。この大会は正式には九州視覚障害者情報提供施設大会と言いますが、今年は長崎県が主催になっていましたので、長崎県内で視覚障害者に情報を提供している2つの施設、すなわち長崎県視覚障害者情報センターと、わたしが代表を務める声の奉仕会マリア文庫が今回の大会の主催者となって2日間の大会を切り盛りしてきました。

ただ、主催した2つの施設と言っても、声の奉仕会マリア文庫と長崎県の施設である視覚障害者情報センターとでは活動の規模も組織の大きさも比較になりませんので、わたしたちは長崎県視覚障害者情報センターにおんぶに抱っこの状態でお手伝いをさせていただいたという状況です。具体的には、閉会式の部分を引き受けさせていただいて、わたしも主管施設の代表として終わりの挨拶をさせていただきました。

大会期間中の講演会と研修会の内容はここでは省略しますが、毎年この大会のために苦心して先生を選んできて、参加者が実りある研修を受けられるように配慮してくださるのには本当に頭の下がる思いです。今回の研修を受けて、視覚障害者への声による情報提供と点字での情報提供に、さらに心を込めて務めることができるようになると思います。

さて今週の福音朗読はルカ福音書の第15章です。第15章と言っただけで「あー」と気づく方は相当聖書に親しんでおられる方です。3つのたとえがありまして、「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」、「『放蕩息子』のたとえ」の3つです。皆さんの手元にある「聖書と典礼」にはそのうちの「『見失った羊』のたとえ」と「『無くした銀貨』のたとえ」が掲載されていますから、いちおうこのうちの1つのたとえに絞って、話をまとめたいと思います。

「『見失った羊』のたとえ」の中で、百匹の羊のうち一匹を見失ったとあります。聞いた話では羊は方向音痴の動物のようで、羊飼いに導かれなければすぐに迷子になってしまうのだそうです。何らかの事情で一匹の羊が迷子になったのでしょう。羊が迷子になると、それはそのまま「死」に直結してしまいます。羊飼いの導きのもとにあることで、羊の命は守られています。羊が、安心して生き続けるためには、羊飼いの目の届く所にいる必要があるのです。

しかし、羊がいったん迷子になると、羊のほうから羊飼いのいる所に戻って来ることは不可能です。ですから、羊飼いは「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで」(15・4)捜し回ることになるのです。

羊飼いのそばに置いて、安心して生き続けられる状態にしてあげることは、羊飼いの務めです。イエスはこの羊飼いの使命を、ご自分の使命と重ね合わせて語っています。つまり、わたしたち人間と、救い主イエス・キリストとの関係です。

わたしたち人間は、つねに命の与え主イエス・キリストの導きのもとにあって生きることができる存在です。自分で自分の命を守り、生き続けることができないか弱い存在なのです。どんなに人間が強がっても、眠っている間に心臓がほんの僅か止まっただけで明日は無くなってしまいますし、脳の血管が1cm詰まっただけで、これまでと同じ生活ができなくなるのです。自分ではどうすることもできないさまざまな危険を、神が見守ってくださっているので、今を生きています。

イエスは、こんな弱い存在である人間を、いつもご自分の導きのもとに置きたいと願っているのです。それはわたしたちを支配するのではなく、わたしたちがのびのびと、本来の人間らしい活動ができる自由を守ってあげるために、導いてくださるのです。体のことだけではありません。罪によって、神の導きに背を向ける場合も、わたしたちは「死」に直面することになります。人間があらゆる意味で死なないために、イエスは「見失った一匹を見つけ出すまで」捜し回ってくださるのです。

イエスが見つけ出そうとして捜し回るのは、職務上の務めとして自衛隊や消防や警察が行方不明者を捜すのとは根本的な違いがあります。職務で捜索をしてくださる方々は、日没になれば捜索はいったん中断し、また明け方になってから再開します。イエスが見失った一匹を見つけ出そうと捜し回るのは、命を賭けて、最終的には十字架上で命を投げ出して捜してくださるのです。それは見失った命が、ご自分の導きのもとにいなければ命がないと知っておられるからです。

わたしたちの命は、イエスが命を賭けてご自分の導きのもとに置いていただいている命です。イエスが十字架上に命を投げ出して、捜し回ってくださったことで、イエスの導きのもとに置かれている命です。いったんイエスの導きからそれてしまうと、自力では戻って来ることのできない弱い命です。

それなのに、いつしか自分を見失い、イエスの声の届かない場所に迷って、死の危険に身をさらすことがあります。こんな時わたしたちにできることは、悔い改めることだけです。聖書と典礼に掲載されていない「『放蕩息子』のたとえ」の中で、弟は悔い改めましたが、兄は悔い改めた弟を喜ぶことができませんでした。

人間は、自力では命の与え主であるイエス・キリストの元に戻ることができず、悔い改めることしかできないのですから、わたしたちはだれも、悔い改める罪人を非難してはいけないのです。事の大小はあるかも知れませんが、悔い改める罪人を喜んで迎える羊飼いイエス・キリストの姿を、わたしたち教会家族も表していく必要があると思います。

わたしたちの毎日の生活の中に、神の導きのもとにいることを感謝するきっかけを持ちたいと思います。生活の中で感謝できる人は、悔い改める人を喜ぶ人にもなれると思います。イエスの導きにすべての命が置かれるよう願いながら、このミサを続けてまいりましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第25主日
(ルカ16:1-13)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏休みに切符の変更などで何枚かの切符は無駄になってしまった。31日の高速船の最終便に間に合うように、JRの切符と船の切符を前もって購入していた。しかし31日の長崎-五島間の船は30日に早々と全便欠航となり、切符を切り替える必要があった。
▼31日に長崎-五島間の船が動かないとなると、31日に上五島に帰り着くただ1つの方法は、「博多-五島」間を運航しているフェリーになる。
▼ただしこのフェリーは夜11時半に出港するため、運航するかしないかを決定する時間には、すでにJRの切符も長崎-五島間の船の切符も無駄になってしまう。運航決定を確認せずに見切り発車で切符の払い戻しに行くことも可能だが、そうした場合もしも運航しないという決断がくだれば、さらにひどい目に遭う。
▼そういうわけで、払戻にも行けず、いくつかの切符は無駄になってしまった。台風接近にもかかわらず自分の計画を優先させたのだから、その結果は甘んじて受けなければならない。高井旅教会の土曜日夜のミサだけ、どうしても行くことができず、上五島に1人助祭がいるので「みことばの祭儀と聖体拝領」をお願いした。
▼五島はとても住み良い土地だが、ときどき不便さを痛感する。それでも、五島に生まれ育ったことは感謝の気持ちでいっぱいである。九州視覚障害者情報提供施設大会でも、五島の出身であることを知った人から五島のことをあれこれと聞かれた。ついでの話だが、鹿児島のカトリック信徒の人から「毎週ブログを見ていますよ」と声をかけられた。

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今週の1枚
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第276回目。無駄になった切符。

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