こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)(再掲)大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年

2021-07-24 | Weblog
当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/210725.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/7/25(No.1132)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
(再掲)大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年
‥‥‥†‥‥‥‥

(本日、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」が設けられていて、教皇フランシスコのメッセージを抜粋して読み上げました。そのため、2015年浜串小教区での説教を再掲して、今週のメルマガ・ブログ記事と致します。ご了承ください。)

年間第17主日B年の福音朗読はヨハネ福音記者が描く「五千人に食べ物を与える」場面が選ばれました。出来事そのものは共観福音書と呼ばれる「マタイ・マルコ・ルカ福音書」にも記されています。ヨハネは共観福音書とは異なる捉え方を持っています。出来事を「しるし」として捉え、イエスへの信仰を増し加えるように招くのです。

さて子供たちのドッヂボール大会は本当に残念でした。対戦相手が青砂ヶ浦と桐だったのでわたし自身は最初から戦意喪失だったのですが、子供たちはむしろやる気満々だったようです。練習の成果を発揮させてあげたかったのですが、台風ではどうにもなりません。

中止になったので話しますがわたしの心の中では、福音朗読に登場する弟子と似たような言葉が響いていたのです。「ここに大会に参加できる子供が8人います。けれども、8人ではどうにもならないでしょう。」10人いて本来のチーム、8人では歯が立たないと思っていたのです。

福音朗読の場面は、もっと深刻な場面だったと思います。男の人が五千人いて全体ではそれ以上ですから、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を弟子たちが見つけたとしても、それは焼け石に水、何の足しにもならないと考えるのは無理もありません。

ところがイエスは、「足りない状況」「何の役にも立たない状況」を確認してから動き出します。イエスが望めば、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6・5)と尋ねなくとも動くことはできたはずです。弟子たちから希望の持てる返事が返ってくるはずがないからです。

それでも、イエスは弟子たちの返事を確認してから動き出しました。なぜそうなさったのだろうかと考えます。わたしはこう考えました。「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」とは、イエスのことだったのではないでしょうか。

物語としては少年という形になっていますが、イエスが少年に「そのパンと魚を貸してくれ」と言った様子もありませんし、弟子たちに「その少年をこちらに来させなさい」と指示した形跡もありません。いつの間にか少年のことは物語から消えていますから、少年がいたかどうかはさほど重要ではないのでしょう。

大事なのは、少年という姿が何を意味しているかということかもしれません。大人に対しての少年ですから、力の足りない存在、未成熟・未完成の存在、無力な存在を意味していると思います。そして、わたしが考えたように、イエスは無力な存在であるかのように地上での最期を遂げられましたから、物語に登場する少年の可能性もあるわけです。

イエスが動き出し、弟子たちがイエスの働きに協力して、五千人の群衆は食べ物を得ることができました。そしてこのことを、ヨハネ福音記者は「しるし」と見ています。どんなしるしでしょうか。それは、イエスが天からのまことのパンであるというしるしです。

しかし、イエスが天からのまことのパンであるということを示すだけでしたら、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」を物語に登場させる必要はなかったように思います。フィリポの「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(6・7)という判断だけで、切迫した状況は十分理解できるからです。

あえて少年を登場させているのは、パンの奇跡に留まらない、神の救いのわざの「しるし」という意味があるからではないでしょうか。イエスは五千人に食べ物を与える天からのまことのパンという存在にとどまらず、全人類のまことのパンとなられるお方である。しかも少年という無力な存在となって、救いを成し遂げようとしておられるのです。

実際、イエスの救いのわざは、全人類に対しての「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」という意味合いがあると思います。神の独り子が、全人類を救うために十字架にはりつけにされます。何千年何万年という歴史の、約三十数年の働きで全人類を救います。

ユダヤの国のごく限られた場所での三十数年の働きで、全人類に天からのいのちのパンを与えてくださるのです。この壮大な救いの計画の「しるし」として、「大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年」さらにその少年で暗示されている無力な姿で死んでいく神の独り子イエスが物語に登場しているのではないかと思いました。

弟子たちは、この少年を無力な存在と考えました。しかしイエスは、その無力な存在を使って、神の驚くべきわざを行います。「人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった」(6・13)のです。イエスご自身、無力な存在として地上の最期を迎えましたが、全人類に天国の門を開いてくださったのです。

注意すべき点があります。群衆は「自分を王にするために連れて行こう」としました。イエスを利用しようとしたのです。無力な存在を使って五千人に食べ物を与えたイエスを、手放したくなかったのです。

わたしたちもこの点は十分注意しなければなりません。と言うのは、教会を人々にパンを食べさせる道具として利用しようとする見えない力は今でも働いているからです。わたしたちが人々の心を満たしたわけでもないのに、教会は観光の目玉になるとか教会でいやしをいただきましょうと言ってすり寄って来る大勢の人々がいるのです。

教会に来ていやされるのは、その人がイエスと出会ったからです。教会に引きつけられるのは、隠れておられるイエスに気付いたからです。「イエスは、(中略)ひとりでまた山に退かれた。」(6・15)だれかを教会で案内するとき、隠れておられるイエスに導いてあげて、隠れておられるイエスの声に耳を傾けさせる必要があります。

そこにいやしと慰めがあるからです。そのためには、わたしたちも常に、この聖堂の中に隠れておられるイエスの声に耳を傾ける努力が必要です。蝉の鳴き声の中でも心を沈め、心に語りかけるイエスの言葉に耳を澄ます。そのための心の静けさを、このミサの中で願い求めましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第18主日(ヨハネ6:24-35)
‥‥‥†‥‥‥‥


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼今回の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」の通達は、記憶では19日(月)に指示されたものであり、いくら何でも遅すぎる。評議会での検討も叶わなかった。なぜそういうことになったのか、本部や司教団、中央協議会の事情を知りたい。
▼教皇様のメッセージはとても温かみがあり、説得力がある。ただしかし、あの分量を真夏のミサ説教に代えて朗読してほしいと言われても素直に「はいそうですか」とは言えない。私なりに抜粋して読み上げた。それでも14分以上あっただろう。
▼継続する取り組みであるなら、慌てて指示するようなことにならない準備が必要だろう。しかしそれでも、できるだけ要請に応える努力はするつもりである。

‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第739回目。夏。栄養は野菜から摂取。野菜はどこから?天から来る(笑)

http://ss104313.stars.ne.jp/210725.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/

【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年間第16主日(マルコ6:30-34)... | トップ | 年間第18主日(ヨハネ6:24-35)... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事