映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

サーミの血(2016年)

2017-10-03 | 【さ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 北欧の少数民族サーミ人の少女が、差別や困難に立ち向かいながら生きる姿を描いたドラマ。

 1930年代、スウェーデン北部の山間部に居住する少数民族サーミ族は、支配勢力のスウェーデン人によって劣等民族として差別を受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通うエレ・マリャは、成績も良く進学を望んだが、教師からは「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げられてしまう。

 ある時、スウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで、エレは都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。スウェーデン人から奇異の目で見られ、トナカイを飼育しテントで暮らす生活から抜け出したいと思っていたエレは、ニクラスを頼って街に出る。
 
=====ここまで。

 果たして街に出たエレはどうなったのか、、、。

   
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 昔、NHKで「ニルスのふしぎな旅」のアニメを放映していたんだけれども(原作未読)、その中で、主人公の少年ニルスが、がちょうのモルテンと旅をして向かう先が“ラップランド”だった。当時の私には、ラップランドは北欧のどこか、くらいの認識しかなく、それがどの辺りなのかとか、引いてはラップランドという言葉自体に差別的な意味合いがあるんだとか、全くもって知らなかったし、実は、本作を見るまで恥ずかしながら“サーミ人”という存在さえ知らなかった。

 正直なところ、ラップランドという言葉にはもっとメルヘン的なものを感じていたくらいで、それというのも、もちろん「ニルスのふしぎな旅」が大好きで毎回欠かさずTVにかじり付いて見ていた影響も大きいし、何より、サンタクロースの住む地、という刷り込みがあったことも大きい。「ニルスのふしぎな旅」のオープニング曲は、今も諳んじて歌えるほど染みついているものの、ストーリーはかなり忘れている。ただ、あのアニメの中で、ラップランドに住むサーミ人は出てこなかったと思うし、そのような先住民族差別がはびこっていることは微塵も感じさせないものだった。

 今回、本作を見て、改めて先住民族に対する差別・偏見が世界的なものであることを認識し、本作の中では、サーミ人という呼称とともに、蔑称的に「ラップ人」という呼び方もされており、改めて、自分の無知ぶりを思い知った次第。


◆「あなたたちの脳は文明に適応できない」

 これ、面と向かってエレが教師に言われるセリフなんだけれども、正直、このシーン、卒倒しそうなくらい驚いたというか、頭がクラクラした。まぁ、その前にも、スウェーデン人の研究者を名乗る男性が、エレたちサーミ人の体格や骨格を測定し、統計を取るシーンがあって、その測定の方法が、今から見れば明らかな人権蹂躙なもんだから、そこでも少々クラッと来たんだけど、、、。

 それにしても、このセリフの破壊力は凄まじい。
 
 エレにこう言い放った教師のいる学校とは、「移牧学校」と呼ばれる、トナカイ遊牧の子どものための学校。パンフの解説によれば、これは、1913年に発布された学校法によって設立され、トナカイ飼育業の児童を公立の基礎学校から排除するためのものだったという。それ故、教育内容も公立の基礎学校に比べてはるかに質の低いもので、言葉はスウェーデン語を強要する一方で、あくまでサーミ社会に閉じ込めるためのものだった。

 他の北欧諸国同様、サーミに対する同化政策が行われたけれども、定住しないトナカイ遊牧サーミに対し、スウェーデンでは社会から排除する政策がとられた。1900年に入ると、人種生物学の影響を受けて、同化から分離へと転換していった(その一片が、あの屈辱的な身体測定のシーンにつながるのだと思われる)。この分離政策によって、サーミは、他の人種より劣った「特異な人種的特徴」を持って生まれてくるものとされた、っていうんだから、教師のあのセリフが飛び出すのも当然な環境だったというわけだ。

 まあ、どこにでも偏見・差別ははびこっているものだが、「文明に適応できない脳」という差別の言葉は、生まれて初めて聞いた。しつこいようだけれども、本当に凄まじい破壊力のある言葉だと思う。


◆「こんな見世物みたいな暮らしはイヤだ!」

 教師にそんな暴言を浴びせられても、エレは泣き喚いたりせずに、現状打破のためにとにかく行動に出るのだから、その胆力たるや、こちらも凄まじい。

 この2つの“凄まじい”がぶつかり合う本作は、正直言って、見ているのがツラい。もちろん、偏見・差別の不条理ゆえのツラさもあるけれども、エレの現状から脱出するための突破力が、あまりにも直線的に過ぎるのだ。それほど、エレの信念は何ものにも破壊などされることのない、強固なものなのだ。

 まず、サーミのシンボルでもある衣裳を脱ぎ捨て、列車内で盗んだ黒いワンピースに着替える。そして、お祭りでほんの少し踊っただけのスウェーデン人男性ニクラスを頼って、ニクラスの自宅を訪ねるのだ。生憎ニクラスは不在で、一旦、ニクラスの母親に門前払いを喰らうがエレは食い下がる。「ニクラスが訪ねて来いって言ってくれた。泊めてくれると言った」と言って、半ば強引に家の中に入り込み、泊まり込んでしまうのだ。

 夜中に帰宅したニクラスは、部屋で寝ているエレを見て、「え? 誰?」などとヒソヒソ声で母親に言っている。母親は「勝手に人を招待しないで!」と怒っている。エレはそれを寝たふりをして聞いている。

 しかも、その後、ニクラスの部屋に行って、セックスまでしてしまう。この一直線な行動が、もう恐ろしいほど。

 翌朝、ニクラスの両親は、「彼女はラップ人だ」と言って、家から追い出すようにニクラスに仕向けるが、このニクラスも、イイ奴なんだかイイ加減な奴なんだか、ここではエレを追い出しておいて、その後、パーティーで再会したときはエレに優しくするなど、イマイチ分からん奴だった。まあ、若い男の子だから、その辺、あんまり考えなしで行動していても不思議ではないが。

 エレは、その後も、ある学校に潜り込んで、そこの生徒になるんだけれど、その成り行きが今一つよく分からなかった。まさしく、“潜り込む”って感じだったんだけど、あんな風に学校って生徒を受入れるものなのか? 

 結局、学校から学費を請求されたエレは、ニクラスに借金を願い出るものの、さすがにここでニクラスは手を引いた。そこで、仕方なく、エレはトナカイ放牧をしている親元に戻って、学費を親に出してくれとお願いするが、当然、拒否される。ここでもエレはめげず、「こんな見世物みたいな暮らしはイヤだ!」と叫んで、自分のトナカイを売るために殺してしまう。それを見ていたエレの母親は、父親の銀のベルトを差し出して「出て行け」と言う、、、。

 トナカイは、遊牧民にとっては財産そのものだというから、エレの信念の強さを表わす象徴的なシーンということだろう。


◆その他もろもろ

 エレを演じたレーネ=セシリア・スパルロクは、彼女自身もサーミ人のトナカイ遊牧民だそう。彼女のインタビューを読むと、サーミ人であることに誇りを持っていることが窺える。

 インタビュアーに「何頭のトナカイを飼っているんですか?」と聞かれ、彼女は「その質問は、“あなたはいくら貯蓄を持っていますか?”と聞かれているのと同じなので、答えられません」と答えている。

 彼女は本作が初の演技ということだが、正直言って、日本のつまらないドラマに出ているタレントだかモデルだか分からない“自称俳優”より、何万倍も素晴らしい演技だったと思う。おまけに、彼女は謙虚だし。

 トナカイ遊牧の光景は、何とも言えない情緒があり美しい。ただ、エレの目を通して描かれた光景だけに、どうしても暗く、重苦しさがつきまとうけれど。

 エレには妹がいる設定で、この妹は、実際にレーネの実の妹とのこと。本作では、妹は生涯サーミ人の遊牧民として生きたことになっている。この妹が亡くなり、その葬式に、エレが息子につれられて参列するシーンに始まり、過去を回想し、エンディングで葬儀のシーンに戻るという構成。

 冒頭とラストで出てくる老いたエレは、正直、あまり幸せそうには見えない。けれども、息子たちにも恵まれ、彼女は彼女の信念を貫いた人生だったはず。何かを得るためには、何かを失うことは覚悟しなければならない、、、というと陳腐すぎるけれど、エレにとっては、それが陳腐などと言っていられない、切迫した人生の選択だったのだ。

 










サーミを捨てたエレの人生は、果たして幸せだったのか、、、。




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コメント (2)
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